2019-01

2018・12・30(日)尾高忠明指揮大阪フィル「第9」

     フェスティバルホール  5時

 昼の山陽新幹線で大阪に入る。
 ベートーヴェンの「第9」を、大阪フィルのナマ演奏で聴くのは、1990年の朝比奈隆指揮、2015年の井上道義指揮の演奏に次いで、これが3度目になる。

 今回の「第9」は、現・音楽監督の尾高忠明の指揮で、今年5月に開始されたベートーヴェン交響曲ツィクルスの最終回にあたるものだ。
 その5月の第1回(1番と2番他)と、7月の第3回(5番と6番)とは私も聴いているが、何よりも尾高忠明の━━大阪フィルに緻密なアンサンブルを復活させ、外連のない正面切ったベートーヴェンを最良の状態で蘇らせた彼の指揮に好印象を得ていたので、その締め括りとなる「第9」をも聴いてみよう、と思ったわけである。
 今回の協演は、安藤赴美子(S)、加納悦子(A)、福井敬(T)、与那城敬(Br)、大阪フィルハーモニー合唱団。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 期待にたがわずこの「第9」の最終公演では、隙なく構築されたアンサンブルと、柔軟でしっとりした息づきとを併せ備えた、堂々たる演奏を聴くことができた。大阪フィルがこれほど濃密でスケールの大きな、風格豊かな音楽を響かせるのを聴いたのは、私にとっては久しぶりのことである。
 こうした演奏によって、「第9」は、ここではまさに真摯な気品を備えた音楽となっていたのだった。第4楽章最後のプレスティッシモは一段と昂揚感にあふれた演奏で、聴衆を湧かせるには充分なものと言えただろう。尾高と大阪フィルの呼吸は、以前にも増していっそう一体化して来たようである。
 声楽陣もよく、ソリストたちはもちろん手堅いが、自然な共感を率直に歌い上げるかのような合唱団の姿勢もまた、好感を呼ぶ。

 こういう重量感のある、しかもストレートな「第9」は、この曲を初めて聴いた頃に浸った率直な感動を、私に思い起こさせてくれる。私にとって、年末の「第9」をナマで聴く機会はもうあまりないだろうが、そう言った意味でも、この尾高と大フィルの「第9」は、心温まる演奏に感じられたのである。

 「第9」が終ると、指揮者と声楽ソリストたち、および楽員たちは退場する。そして、暗くなったステージで、福島章恭(大阪フィルハーモニー合唱団指揮者)の指揮により、ペンライトをかざした合唱団が歌い始めるのは「蛍の光」だ。大フィル恒例の行事である。
 舞台は薄明に転じ、床からドライアイスのスモークが湧き出し、舞台の前面のオケ・ピットの部分が下がって行き、あたりには幻想的な雰囲気が満ちる。3年前と違い、合唱団員が歌いながら退場するという手法は、今回は採られない。やがて、歌が終りに近づくとともにペンライトも一つずつ消えて行き、いつしか場内は漆黒の闇となった━━。

2018・12・29(土)準・メルクル指揮広島交響楽団

      広島文化学園HBGホール  3時

 関が原界隈の大雪のため、東海道新幹線のダイヤも少々乱れていたが、それでも十数分の遅れにとどまったのは幸い。広島市内は快晴であった。

 今回の準・メルクル指揮の定期は、本来は7月定期として組まれていた演奏会だが、あの豪雨災害のため、とりあえず延期ということになっていたものだ。
 この年末に振替公演を行なったことについて準・メルクルは、プログラム冊子に「私の祖父が生まれたこの美しい街・・・・皆さんへの私のサポートを」と、コメントを寄せている。
 プログラムは、7月定期のものと同一で、細川俊夫の「瞑想━━3月11日の津波の犠牲者に捧げる」、メシアンの「輝ける墓」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」(1910年全曲版)。

 細川俊夫の「瞑想」は、東日本大震災に関連して書かれた数曲のうちの最初のもので、2012年に作曲され、韓国の音楽祭で初演された曲である。
 弔鐘のような響きに始まり、暗く悲劇的な、しかし鋭い衝撃的な音型が断続しながら進んで行くと、やがてフルートによる日本の笛を模した慟哭の歌が入って来る。哀悼と苦悩の音楽が大きな起伏を成しつつ続くうちに、いつか風の音のような美しく浄化された響き(これは細川の作品によく聴かれるものだ)となり、それは次第に夢幻の彼方に消えて行く━━。

 演奏時間は、プログラム冊子には14分と記載されていたが、今日の演奏では11~12分ほどだったであろう。彼の管弦楽作品の中ではかなり鋭角的な響きを持つ曲に感じられたが、それは準・メルクルの隈取りのはっきりした音楽づくりによるところも大きかったかもしれぬ。
 ともあれ、東日本大震災の犠牲者を追悼するために書かれたこの曲が、広島上演の際に、はからずも広島の豪雨災害にぶつかってしまったということから、広島出身の作曲家たる細川にとってのみならず、広島の多くの人々にとっても、この曲に別の意味合いを付加して感じないわけには行かなくなったのではないか。広響もこの曲をメリハリ豊かな演奏で再現してくれた。

 なお広響は、2019年5月からの「ディスカバリー・シリーズ」で、下野竜也(音楽総監督)の指揮により、ベートーヴェンと細川俊夫の作品を組み合わせたツィクルスを開始することになっている。外国では著名でありながら日本国内では妙に演奏・上演の機会の少ない細川俊夫の作品がこれだけ集中して演奏されるのは、喜ばしいことだろう。

 その他の曲━━メシアンの「輝ける墓」は、彼の初期の作品だけに、所謂メシアン節は未だ殆ど姿を現わしていない曲だが、準・メルクルと広響は極めて歯切れのいい演奏で、この曲を明晰に聴かせてくれた。音の潤いには少々乏しいきらいがあったけれども、これは私の聴いた位置が1階席中央だったせいもあろうか。上階席で聴けば、あるいはもっと豊潤に聞こえたかもしれない。

 第2部の「火の鳥」も同様、メルクルと広響の均整美と色彩感が1階席で聴いてもこれだけはっきりと伝わって来たのだから、2階席ではもっと量感豊かに味わえたのではないかという気がするのだが、どうだったろうか? 
 メルクルと広響は、充実した演奏で、特にフィナーレでは全管弦楽の見事な均衡の響きのうちに、感動的な昂揚を聴かせてくれた。コンサートマスターは佐久間聡一。

 私のすぐうしろに座っていた高齢の御仁は、今日は1曲目からあくびの連続。それも露骨に声を出してのものなので、不愉快なことこの上ない。休憩に入った際に睨みつけてやったが、全く効き目はなかったようだ。後半の「火の鳥」でも同様、せめて曲が盛り上がればあくびも止むだろう━━とは思ったが、何せこの曲、いつか池辺晉一郎さんが「なかなか話の本題に入らない人」にそっくりの好例として挙げた曲(巧いことを言う!)だから、どこまで行ってもだらだらと(?)、盛り上がるかと思えばまた退いてしまうという曲の進行なので・・・・。だがあくびもそのうち聞こえなくなったところからすると、有難いことに、魔王カッシェイ同様に眠ってくれたか。

 5時前に終演。タクシーが捉まえ難いので、広島駅までバスを利用したが、エトランジェの哀しさでこのバスの代金の払い方を知らず、降り口でアタフタしていたら、このブログを有難くも読んでくださっているという地元在住の某氏がうしろからサッと手を伸ばし、私の分をも併せて払って下さったとは、何とも恐縮の極みであった。せめてこの場で改めて御礼を申し上げたい。
 駅直結の「ホテルグランヴィア広島」に投宿。
   別稿 モーストリー・クラシック3月号  オーケストラ新聞

2018・12・27(木)ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン
キース・ウォーナー演出 ワーグナー「ヴァルキューレ」

       東宝東和試写室  1時

 これは10月28日、ロイヤル・オペラ・ハウスでのライヴ上演映像。キース・ウォーナーの演出、アントニオ・パッパーノ指揮ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団。
 主な配役と演奏は、スチュアート・スケルトン(ジークムント)、エミリー・マギー(ジークリンデ)、アイン・アンガー(フンディング)、ジョン・ランドグレン(ヴォータン)、サラ・コノリー(フリッカ)、ニーナ・ステンメ(ブリュンヒルデ)。

 キース・ウォーナー演出によるワーグナーの「指環」は、かつて新国立劇場で上演されたことがあり、日本のワグネリアンの間では今なお語り草になっている舞台だったが、現在ロイヤル・オペラで上演されている「指環」は、それと全く異なった演出によるものである。私はこのロンドンの舞台をナマで観ていないのだが、少なくともこの「ヴァルキューレ」を映像で観る限り、新国版よりもストレートな解釈に依っているような印象を受ける。

 もちろん、細かい点では通常の演出とはいささか異なった光景が見られる。
 たとえば第1幕では、意外やフンディングの方が客人に友好的な雰囲気で、握手を求めたりするのに対し、むしろジークムントの方が非友好的で、フンディングが気分を害してしまう、という演出が気に入った。アイン・アンガーが阿部寛ばりの風貌なので、あまり悪役に見えないから猶更である。
 そのあと、「剣の動機」が反復されるうちにジークリンデがジークムントにノートゥングが刺さっているトネリコの樹を目で示すという場面では、通常の演出と異なり、眠り薬のため意識朦朧とし始めたフンディングが蝋燭を灯して一種の儀式めいた仕草を行なうという光景に変えられていた。

 また第2幕最後では、ヴォータンみずから槍でジークムントを背後から突いてとどめを刺し、そのあとフンディングをも自ら槍で刺し殺し、最後には(ブリュンヒルデの後をすぐ追わずに)絶望してくずおれるという演技などが見られる。
 しかしまあ、これらの程度のものは、特に新機軸というほどでもあるまい。
 一方、第3幕のヴァルキューレたちは武装していない姿で、馬のしゃれこうべのようなものを掲げて暴れ回る。またこの幕では、ヴォータンの苦悩と「弱さ」が詳細に描かれていた。

 総じて演技は、カメラでアップされるに相応しい非常に微細なつくりで、演劇的な表情が楽しめる舞台である。
 「魔の炎の場面」では、ヴォータンが炎の玉を掌に載せて手品のようなことをやっているわりには炎がなかなか拡がらないという進行で、逆にやきもきさせられる状態だったが、オーケストラが「ジークフリートの動機」を壮大に奏し始めるくだりになって、突然舞台上手や上方に炎の線が炸裂するという演出になっていた。

 なお舞台美術は、ステファノス・ラザリディス。「新国リング」のデヴィッド・フィールディングのものに比べ、もう少しリアルながら、最初の2つの幕では何だか判らないものが舞台中にごたごた転がっているという造りである。

 パッパーノとオーケストラの演奏は、録音が少しドライながら、特に第3幕の演奏が驚異的に素晴らしく、前半の緊迫した激烈な劇的迫力、後半の、特に「ヴォータンの告別」のくだりでのカンタービレの見事さはさすがパッパーノというべきだろう。この幕では、音楽の美しさが余すところなく再現されていて、「ヴァルキューレ」の尽きせぬ魅力を改めて認識させてくれたのだった。

 上映時間は約5時間(生中継の際はもっと長かったのではないかと思われる)。休憩は2回だが、解説やゲストとの対談など、いろいろな趣向が入るので、それぞれ19分と10分になっている。この休憩時間の短さに加え、試写室は映画館と違って「飲食禁止」だからヘビーだ。が、第3幕の演奏の良さがワーグナーの音楽の圧倒的な量感を堪能させてくれたおかげで、それまでの疲れもすっかり吹き飛んでしまった次第である。いや、これは第2幕までの演奏がつまらなかったなどという意味ではない。
 字幕は率直な文章なので、要を得て解り易い。

 この「ヴァルキューレ」は、1月11日から17日まで日比谷、日本橋、横浜、流山、名古屋、大阪、西宮などのTOHOシネマズで上演される由。宣伝を頼まれたわけではないが、一聴一見の価値がある。
 中継案内役の女性が毎回ハイ・テンションで、しかもビンビン響く声で喋るのだけは、ちょっと好みが分かれるかもしれぬ(私はこれが毎回辟易気味なのである)。

2018・12・23(日)バッハ・コレギウム・ジャパン「メサイア」

      サントリーホール  3時

 鈴木雅明指揮のバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)が演奏するヘンデルの「メサイア」は、以前にもこのサントリーホールや軽井沢の大賀ホールで聴いたことがある。

 今回はソプラノに森谷真理、アルトに藤村実穂子が参加するということもあって、聴きに行ってみる。この2人、歌唱の様式がBCJのそれとはかなり違うような気もするけれども、まあ、それはそれ。
 しかし藤村実穂子の深々としたアルトの声が、たとえば第20番の「彼は蔑まれ、人々に見捨てられ・・・・」のアリアなどでは恐ろしいほど悲劇的な情感を生み出し、果てしない深淵に聴き手を引き込んで行くところなど、聴き慣れた「メサイア」とは全く趣が異なっていて、すこぶる興味深かった。これはもう、カウンターテナーの声では出せぬ凄味というものであろう。
 その他のソロ歌手陣は、テノールがザッカリー・ワイルダー、バスがベンジャミン・べヴァン。

 管弦楽と合唱は、若松夏美をコンサートマスターとするおなじみのメンバーが顔を揃えたオーケストラ、それに18人編成による合唱。チェンバロに鈴木優人も加わっている。
 その演奏は極めて緻密で、見事だ。流れるように柔らかく、温かい息づきと起伏感を備えており、快い。前出のアリアのあと、「彼」のもたらした平安の喜びが歌われる第21番から23番にかけての部分で、合唱とオーケストラが緊迫したテンポでたたみ込み、盛り上がって行くあたりは素晴らしい。鈴木雅明の指揮は、実に鮮やかであった。

 アンコールには「きよしこの夜」が、最近発売されたCD(BIS-KKC4148、「BCJのクリスマス」)にも入っている鈴木優人の編曲版で演奏されていた。
 20分の休憩を含み、終演は5時55分頃。会場は満席。

 これはサントリーホール主催の演奏会だが、ホテルオークラとのタイアップによるクリスマス特別ディナー(7時よりオークラのアスコットホール)付セットという企画もあった由。席数限定のディナー付S席は24,000円(一般のS席は9,000円)だそうで、どのくらいの申し込みがあったかまでは聞かなかったが、参加した人たちにとっては、きっと幸せなクリスマスだったろう。

2018・12・18(火)ダニエル・ハーディング指揮パリ管弦楽団

      サントリーホール  7時

 第1部にベートーヴェンの「田園交響曲」、第2部にマーラーの「交響曲第1番《巨人》」というプログラム。

 「田園」は、昨夜の演奏より格段に良かったのではないか。木管の繋がり具合もバランスも完璧で、輝きのある音色を満載した「田園」が聴けたと思う。
 第5楽章は昨日と同様、ゆったりとしたテンポで、細部の造りには凝りに凝ったところが聴かれ、解放的な牧歌というよりは緊迫感に満ちた巨大な抒情詩といったイメージで、通常の演奏よりも長さを感じさせるものではあったが、1曲目だったせいか、昨夜よりは疲れなかった。
 第1楽章提示部の反復を含め演奏時間は45分、やはりテンポ遅め、演奏時間も長めということになろう。

 「巨人」でも、第1楽章提示部の反復を遵守した演奏になっていた。全体にストレートなアプローチではあるものの、細部まで神経を行き届かせた精緻な構築だったことは「田園」と同様である。このオーケストラらしい、ブリリアントで壮麗な演奏が繰り広げられていたことはいうまでもない。

 思えばこの2カ月間、いや1カ月の間に、「巨人」を聴く機会が多かった━━メータとバイエルン放送響、ゲルギエフとミュンヘン・フィル、沼尻竜典と日本フィル、そしてこれ。独・日・仏のオケによる「巨人」の聴き比べだったが、どれもお国柄およびそのオケのカラーをはっきりと示した演奏であった。このパリ管の「巨人」も、まさにフランスのオケでなければ出せない華麗さ、艶っぽい音色、洒落たニュアンス、各楽器のソロの闊達さ、奏者たちのよい意味での自己顕示欲のようなものなどに溢れていて、すべて魅力的であった。

 ただ、ハーディングとパリ管の演奏は━━前回の来日の際のマーラーの「5番」でも言えたことだったが━━全曲最後のクライマックスでの一押しが、何となく物足りない。ゲルギエフのような、すでに全力を出し切ったと思われる盛り上がりの中に、更にもう一段階の強大な力感を加えるなどという大わざは滅多に出来ることではないけれども、今日の演奏では、最後の頂点がそれ以前の頂点のさらに上を行くという設計には少々乏しかった━━という印象を受けるのである。

 アンコールは、エルガーの「エニグマ変奏曲」の中の「ニムロッド」。これはまるで、あのテミルカーノフのお株を取ったような、いやそれ以上の見事な演奏で、特に弦楽器群の壮麗さと厚みのある響きと、それに情感たっぷりな昂揚感が見事を極めた。

 パリ管と、その音楽監督ハーディング、かように相性は上々と思われるのに、僅か1シーズンで来年6月には関係終了と聞く。理由は知らないが、惜しいことである。

2018・12・18(火)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 プログラムの第1部には、R・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」。第2部がビゼーの「カルメン」からのギルバート自身の編纂による組曲と、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」。━━つまり今日の隠しテーマはスペイン、ということなのであろう。

 「ドン・キホーテ」は、オーケストラは少々ごつい表情という感もなくはなかったが、聴きものはやはりターニャ・テツラフのチェロだ。
 ラ・マンチャの騎士を描くには少々表情が細かいかなと思われるものの、彼女の演奏する姿を眺め、その演奏を聴いていると、あまり標題音楽的要素を意識せず、ただチェロとオーケストラによる大規模な変奏曲というイメージで愉しむという気分になる。それは、彼女がしばしばトゥッティにも加わって弾くという光景が見られた所為もあったかもしれないのだが。
 なお、今日のこの曲の演奏では、ヴィオラの鈴木学がソロとしてフィーチャーされ、コンサートマスターの四方恭子もソロで加わった。

 後半の2曲では都響のソロ陣が賑やかに活躍。「闘牛士の歌」他では、トランペットがブルース風の音色で甘く吹いてみせたのが、何か愉快な感。定期ではあったが、マチネーの所為か、多少「名曲コンサート」的な雰囲気も。

2018・12・17(月)ダニエル・ハーディング指揮パリ管弦楽団

     サントリーホール  7時

 音楽監督ハーディングが、札幌の中島公園で雪に滑り、右足(足首?)を骨折。車椅子で袖と指揮台とを往復、付添の助けを借りて指揮台に上り、椅子に座って指揮をする。それは痛々しい光景ではあるが、とにもかくにも、無事で指揮が出来ることだけでも祝着と言わねばならぬ。

 なんせ、この秋に来日した4つの大オーケストラのシェフ指揮者のうち、バイエルン放送響のマリス・ヤンソンスと、サンクトペテルブルク・フィルのユーリ・テミルカーノフが降板、前者の助っ人として駆けつけてくれたズービン・メータも車椅子での指揮、それに今回のハーディングが━━という具合なのだから、これはちょっとした珍事であったろう。唯一無傷だったのは、ミュンヘン・フィルと来日した、常にタフな超人(?)ゲルギエフだけであり━━。

 それはともかく、ハーディングとパリ管弦楽団が今日演奏したのは、ベルリオーズの「トロイ人たち」からの「王と狩の嵐」、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはイザベル・ファウスト)及び「交響曲第6番《田園》」。

 パリ管、いい音だ。前回の来日の際にも感じたことだが、かつてバレンボイム時代やビシュコフ時代には抑えつけられていた感のあるこのオーケストラ特有のブリリアントな音色と洒落た味は、このハーディングの時代になって漸く蘇ったような気がする。
 ハーディングはもちろんフランス人ではないけれども、パリ管の持つ個性を自由に発揮させ、自分の考えはただ作品解釈の上でのみ生かそうと試みていることで、いい結果を生んでいるように感じられる。

 冒頭のベルリオーズの作品では、その「パリ管の音」が随所に聴かれ、振るいつきたくなるような魅力を感じさせる。ただ、演奏としては、嵐の部分をもう少し派手に爆発させるかと思っていたのだが、予想外に抑制されたものに終始したか。

 ベートーヴェンの協奏曲では、ティンパニの歯切れのいいアタックのリズムを基本とした弾力に富む響きが、実にいい。
 そして、ここでのイザベル・ファウストのソロがまた何とも個性的だ。第1楽章で初めてソロが入って来るあたりは、オケの力感をはぐらかすような抑制した音量と、極めて神経質な表情とで、否応なしに聴衆の注意力を自分に向けてしまう。全体にこの調子である。旋律的な美しさよりも、それらの音の一つ一つに凄まじいほどの集中性をこめて連続させて行く、その緊張感がまた見事というほかはない。しかも、アンコールとして弾いたクルタークの「ジョン・ケージへのオマージュ」の一節が最弱音の連続で、まるでチューニングでもしているような曲と演奏だったのも、また彼女らしい。

 後半は「田園交響曲」。今まで鳴りを潜めていたハーディング節がここでやっと姿を現わした感である。これ見よがしの細工はしていない演奏ではあったが、細部には綿密なデュナミークの変化を満載、凝った造りを施していた。
 弦12型の演奏ながら、第1楽章展開部では第1主題のモティーフが無限に反復される個所での4本のコントラバスのアタックが実に強烈で、音楽全体が鋭い様相を帯びる。
 第2楽章ではささやくような弱音の演奏が美しかったが、特に【E】の個所━━エコーのように対話を交わすクラリネットとファゴットを極度の最弱音で響かせた手法は、昔、朝比奈隆が新日本フィル相手に試みた1989年の見事な演奏を思い出させたほどであった。

 ただし第5楽章では、普通の演奏に聴かれるような解放感の代わりに、非常に細かい表情に富んだ演奏で緊張感を生み出していた。先ほどイザベル・ファウストによる集中性の厳しい演奏に浸ったあとに、さらに長いシンフォニーの、それもフィナーレでこういう演奏を聴くと、何か疲労感を覚えてしまったのが正直なところである。

 オーケストラのアンコールは、意外にも(?)ベートーヴェンの「コリオラン」序曲。これはストレートな演奏だったが・・・・。

2018・12・15(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 前半にエドガー・ヴァレーズの作品2曲が置かれ、無伴奏フルートのソロによる「密度21.5」(ソロは同団首席奏者の甲藤さち)と、超大編成の「アメリカ」とが切れ目なしに演奏された。

 これは、オケの定期としてはすこぶる珍しいプログラミングだ。
 ノットと東京響は、3年前(2015年11月23日)にも、リゲティの「ポエム・サンフォニック」という題名の100台のメトロノームのみによる「演奏の」作品を冒頭に置き、その最後の一つが停止したあとの死の如き沈黙の中にバッハの「甘き死よ来たれ」の演奏を始めるというプログラムを聴かせ、われわれに大きな衝撃を与えてくれたことがあるが、この日のヴァレーズ・プロも、ある意味でそれに共通するアイディアといえるだろう。

 超大編成のオーケストラが並んでいるステージが暗くなり、スポット(ピンではない)を浴びたフルート奏者がモノローグ風な演奏を展開、不思議な一種の神秘的な雰囲気が生み出されたのち、明るくなったステージで「アメリカ」(1927年改訂版)の大音響が爆発するという、極めてドラマティックな流れが形成される。この企画者は、なかなかの芝居巧者である。

 「アメリカ」は、そうたびたびナマで聴ける曲ではないが、私はこの10年ほどの間に、2008年7月14日にゲルト・アルブレヒトが読響を指揮した演奏会と、2015年4月17日にメッツマッハーが新日本フィルを指揮した演奏会で聴いたことがある。
 今日のノットと東京響の演奏は、それらに勝るとも劣らぬ強大な音響を轟かせ、悪魔的なサイレンの怒号とともに私たちを圧倒するものだった。ただ、その大音響による快感的迫力を除けば、ほかに何があるか・・・・ということになると、ちょっと微妙な問題になるが。

 第2部は、R・シュトラウスの「英雄の生涯」。これがまた驚異的なほどユニークな演奏だった。
 オーケストラの音色全体にヴェールのかかったような翳りがあり━━変な言い方だが、特定の高い周波数帯域をカットして響きを丸くしたような趣の━━しかし美しい艶のある滑らかなトーンがあふれていた、とでも言うか。
 東京響はかつてスダーン指揮のシューベルト交響曲ツィクルスの際に、これに似た音を出したことがあるが、今回はいっそう徹底して見事なものだったのではないか。
 その上、例えば第1部の「英雄」の部分全体を、驚くほど息の長いフレーズ感で構築し、あたかも一息で全てを物語るような、異様なほど「粘着質的な英雄像」といったものを描くような音楽に仕立てるなど、意表を衝いた試みが随所に織り込まれていたのである。

 こういう新しい発見を常にもたらしてくれるジョナサン・ノットの指揮なのだから、東京響との演奏は聞き逃せない。トランペットが聴かせどころで一度ならず音を外したのだけが玉に瑕、という演奏であった。コンサートマスターは水谷晃。

2018・12・12(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 先週土曜日の横浜公演に続いて聴く。今日はモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ヒラリー・ハーンをソリストにしたバッハの「ヴァイオリン協奏曲」の「第1番」と「第2番」、後半はシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」。
 指揮者とオケのシャープな感性をいかんなく発揮した、見事な演奏であった。

 「ドン・ジョヴァンニ」序曲での冒頭は、切り込むような鋭い一撃で開始。もしオペラ上演のピットで、この曲がこういう劇的な演奏で開始されたとしたら、きっと興奮に引き込まれることだろう。遺憾ながら、歌劇場ではなかなかそういう演奏に巡り合えないのだ。
 なお、この曲で今日使用されたエンディングは、「ベーレンライターの演奏会用版」であるとのこと。いかにも付け足し、という感じのものだが、この終結版に関してはいろいろ複雑な問題があることは周知の通り。

 バッハの協奏曲2曲は、今日はこれを目当てに聴きに来た、という人も少なくなかったのではないか。さすがヒラリー・ハーン、一分の隙も無い集中性豊かな構築の裡に、瑞々しい表情で弾いてくれた。先日もムターによる対照的な、流麗この上ない「2番」を聴いたばかりで、あれも一家言ある演奏には違いないが、私の好みは圧倒的にこちらヒラリー・ハーンのようなスタイルにある。
 なお彼女はソロ・アンコールとしてバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」から「ブーレ」と「ルール」を弾いた。「2曲も弾いた」わけだが、こういう演奏であれば2曲でも3曲でもいいだろう、と勝手に決め込む。

 モーツァルトの序曲からバッハの協奏曲へと続く音楽の流れを、パーヴォとドイツ・カンマーが実に見事に形づくっていたのには感心した。これは、プログラミングの巧さの好例であろう。

 「ザ・グレイト」は、横浜での印象と同じ。ただ、アコースティックがみなとみらいホールとは全く異なるので、クレッシェンドなどにおける響きがいっそうリアルに聞こえ、演奏に鋭さと力感がさらに増した印象になった。第4楽章提示部を除いて反復指定個所は全て楽譜通りに守った演奏だったが、テンポが速いので演奏時間はさほど伸びていない。

 アンコールでは、パーヴォとオーケストラは、またまたシベリウスの「悲しきワルツ」を演奏した。これは先週の横浜でも演奏していた曲である。シベリウスが悪いというのではない(私は大のシベリウス愛好者だ)が、曲の性格からして、メイン・プログラムにはどう見ても合わない。こちらの方は、いわばプログラムの流れの悪さの好例であろう。
 ただし、演奏としてはかなり「尖った」ワルツになっていて、ユニークで興味深いものであったことは確かである。

2018・12・11(火)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  7時

 首席客演指揮者のアラン・ギルバートが、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、シューマンの「交響曲第1番《春》」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を指揮した。

 アラン・ギルバートと都響は、7年前(2011年7月17日)の初共演以来、相性がいいようである。彼は先日のNDRエルプ・フィル日本公演でも指揮しているが、今日の都響はそれよりもずっとドイツのオーケストラのイメージを連想させるような、重厚な雰囲気を醸し出していた。「フィンガルの洞窟」も「春の交響曲」も、陰翳の濃い音色で緻密に構築されていた。それは生真面目に過ぎる印象もなくはなかったが、極めて手応えのある演奏であった。

 「春の祭典」の方も、最初は何となく穏健で重々しい指揮に感じられ、ずっとこの調子で行くつもりなのか、と実はヒヤリとしたのだが、そのうちじわじわと力感が加わって行き、「重厚壮大な春の祭典」となって行った。第1部終結近くの「大地への讃仰」で、タムタムをあれだけ大きく叩かせた演奏に出逢ったのは初めてである。それでも全体としては、どちらかといえばやはりアンサンブルを重視して均衡を保たせた音構築の、正攻法による「春の祭典」だったように思う。
 都響も好調。コンサートマスターは矢部達哉。

2018・12・9(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団「フィガロの結婚」

       サントリーホール  1時

 昨年の「ドン・ジョヴァンニ」に続くノット&東京響のモーツァルトのオペラ。一昨日の川崎に続く、今日が2回目の公演。歌手たちがオーケストラの周囲を動き回って繰り広げる演技を含ませた、演奏会形式上演である。

 その歌手の顔ぶれは、マルクス・ヴェルバ(フィガロ)、リディア・トイシャー(スザンナ)、アシュリー・リッチズ(アルマヴィーヴァ伯爵)、ミア・パーション(伯爵夫人)、ジュルジータ・アダモナイト(ケルビーノ)、アラステア・ミルズ(バルトロ&アントニオ)、ジェニファー・ラーモア(マルチェリーナ)、アンジェロ・ポラック(ドン・バジリオ&ドン・クルツィオ)、ローラ・インコ(バルバリーナ)。
 それに新国立劇場合唱団、コンサートマスターは水谷晃、レチタティーヴォのハンマー・フリューゲル演奏はノット自身。演出の監修はアラステア・ミルズ(マイルズ)が担当した、とクレジットされている。

 歌手陣は、マルクス・ヴェルバを筆頭に粒のそろった素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。
 伯爵役のリッチズも、声不調との事前アナウンスがあったものの、声をセーヴしつつ破綻なく謳い上げていた。ジェニファー・ラーモアも、ふだんは省略されるマルチェリーナのアリアを実に鮮やかに歌い上げ、さすが練達の味、という感である。
 これらの優れた歌手たちが均衡豊かなアンサンブルをつくり出していたことも、演奏の成功の一つの大きな要素であったろう。また、必要最低限の演技においても、指揮者ノットをも巻き込んでの表現力豊かなステージを繰り広げてくれたのである。

 そのノットの指揮も、東京響の演奏も、今日はまさに卓越した演奏だった。
 弦が小編成(6-6-4-3-2)のため、2階席最前列正面で聴いた印象では、東京響の音は全体にヴェールのかかったような柔らかいものになり、響きの重心もやや低いところに置かれたように聞こえた。
 だが、ノットの軽快で飛び行くようなテンポは、沸き立つ生命力に富む音楽をつくり出していた。25分の休憩を一度入れての終演は4時25分だったから、テンポの速さもなかなかのものだ。

 音づくりは、予想外になだらかで柔らかいが、メリハリがないということでは決してない。第3幕での娘たちの合唱(第21番)の、グラツィオーゾと指定された序奏での特に第1ヴァイオリンは、スラーの指定に従い、微風が吹くような優しさで奏されたのが印象的だった。 
 総じて、これほど率直で爽快な演奏の「フィガロの結婚」も、そうは多く聴けないだろう。ノットと東京響、絶好調だ。

2018・12・8(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

      横浜みなとみらいホール  3時

 一昨日の教会でのトークを聴いた際に、教会特有の固いベンチに1時間近く座っていた所為か、あるいはそれに冷えが加わった所為か、昨日から腰痛が再発し、昨夜は寝返りも打てぬほどの激痛に悩まされた。そのため今日の昼には、ある素適な会食を棒に振る羽目になったが、午後には少し体調が回復して来たので、頑張って横浜までこの演奏会を聴きに行ってみる。

 パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団)は、最近シューベルトの交響曲の演奏に力を入れ出したそうだ。ただし今回のツアーでは、全曲ツィクルスではなく、「第5番変ロ長調」と、「第8番ハ長調《ザ・グレイト》」が取り上げられた。それが今日のプログラムである。

「従来のロマン派寄りの美化された演奏スタイルではなく、むしろベートーヴェンの側からシューベルトの音楽にアプローチしたいと思っています」というのが、公演チラシに印刷されているパーヴォ・ヤルヴィのコメントであった。
 これは、言葉通りの簡単な解釈で片づけられる類の問題ではないけれども、ともあれ彼のコメントに基づき、例えば古典派音楽の流れを汲む端整な、優れた形式性を重視する厳密な構築が当て嵌められたシューベルトの音楽━━という解釈に立てば、今日の演奏はそのコメントに相応しいものであったろう。
 「第5番」では清楚ですっきりした、まさに端整な美しい演奏が聴かれた。

 一方「ザ・グレイト」では、大きなスケールとエネルギーを備えた、闊達な音の運動といったイメージが感じられた。
 第1楽章冒頭のホルンの主題にせよ、提示部と再現部の終り近くで入って来る3本のトロンボーンによるモティーフにせよ、あるいは第2楽章中ほどでのあのホルンと弦との秘めやかな応答にせよ、夢幻的とか彼岸的とかいった世界とは対極的なイメージで演奏されている。快く流れて行く安定したテンポの中に、時には1小節ごとに、あるいはフレーズごとに、細かいデュナミークの変化が━━漸強と漸弱が繰り返されるなどの変化が付され、また時には内声部が浮き出させられながら多彩に構築される。

 その演奏は、まさにスウィングしているという表現がぴったり来るものだったであろう。私はこの曲に関する限り、あのフルトヴェングラーの夢幻性豊かな指揮に今なお憧れを感じるのだが、その一方で、このパーヴォ・ヤルヴィのようなスタイルにも魅力を感じてしまうのである。
    (別稿)モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews
 この演奏会のあと、本来はサントリーホールへポゴレリチのリサイタルを聴きに行く予定だったのだが、彼のあの演奏を、こんな腰痛の体調のさなかに聴いたらどんなことになることやら。諦めて主催元へ欠席の連絡を入れる━━。

2018・12・7(金)沼尻竜典指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 最初にベルクの「ヴォツェック」からの「3つの断章」が、エディット・ハラーのソプラノを交えて演奏され、次いでマーラーの「交響曲第1番《巨人》」が演奏された。コンサートマスターは客員の白井圭。

 この11月下旬から12月中旬にかけて、不思議にこの「巨人」がかち合う。もともとふだんから演奏される機会の多い曲だが、今回もメータとバイエルン放送響が取り上げ、ゲルギエフとミュンヘン・フィルも演奏、更にこのあとにもハーディングとパリ管のが控えているというわけである。

 そうした外国のオケの演奏と比べると、今日の「巨人」は、やはり日本のオケの特色がよく出ている演奏だなと、つくづく思う。すっきりした、アクの抜けた、あまり骨太ではないサウンド。そして少し淡白な表情。アンサンブル重視の演奏。
 だがもちろん、これは別に悪いことではない。比較すればそういう印象になるだけのことである。同じ劇的な昂揚、同じ熱狂の表現にしても、沼尻と日本フィルのそれは、やはり西洋の指揮者やオケとは異なるタイプのものなのであって、そこにお国柄の演奏というものの面白さが生れるのであろう。

 しかし今夜、沼尻と日本フィルの音の美しさが最も見事に発揮されたのは、むしろ「ヴォツェック」からの「3つの断章」においてだったであろう。この作品が、かくも美しく、繊細なオーケストレーションを持つものだったか、透明で清澄な音楽なのだったのかと、今さらのように驚かされた。アルバン・ベルクの音楽の思わぬ一面を引き出してくれたということで、これは実に貴重な体験だった。
 びわ湖ホールやリューベック歌劇場のシェフとしてキャリアを積んで来た沼尻竜典は、今やこういう新鮮なオペラの演奏を聴かせてくれているのである。

 またこの曲では、ソプラノのエディト・ハラーが、マリー役を極めて清純なキャラクターのイメージで再現してくれた(少なくともそう聞こえた)。歌っていない時にも、オーケストラの演奏に合わせて微細な顔の表情の演技を付加し、その音楽の劇的な意味を描き出そうとしていたのも素晴らしかった。
    (別稿)モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2018・12・6(木)松本零士のトーク・イヴェント

    トランクホテル(渋谷) 教会  6時

 そのユニバーサル・ミュージックから、ドイツ・グラモフォンのセレブレーション・イヴェントとして、松本零士の新刊「不滅のアレグレット」(集大成版)などの発売に絡めたトークショウがあるという案内を受け、出向いてみる。

 松本零士といえば、かつて「FMレコパル」というFM週刊誌(隔週発行、小学館)にクラシック演奏家を主人公にしたコミックを連載して評判を取ったほどのクラシック・マニアである。その中のカラヤンを扱った物語(注)などは私も大いに気に入ったものだった。 
 トークのあとには、桐朋の「子どものための音楽教室」に通う小学5年生の伊藤素子の演奏もあった。

(注)カラヤン狂の美女妻と、プラモデル狂の野獣的ダンナが反目し合ううち、カラヤンが日本製の飛行機を買うとか買ったとかいう噂を聞いて仲直りする傑作コミック。「偉大なヘルベルト・フォン・カラヤンはこの小さな部屋にもまた安らぎをもたらした」と結ばれるラストシーンには、1975年の雑誌発売当時、私共大いに(良い意味で)笑ったものだった。今回の新刊にも再録されている。

2018・12・5(水)ドイツ・グラモフォン創立120年スペシャル・ガラ
小澤征爾、ムター、サイトウ・キネン・オーケストラ

     サントリーホール  7時

 小澤征爾が、アンネ=ゾフィー・ムターをソリストにサイトウ・キネン・オーケストラを指揮し、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」を演奏━━3者の協演は、演奏会の最後に置かれたこの1曲だけだったが、それでもこの演奏はこの日のハイライトであり、これだけでも今日の演奏会としては充分とさえ思えるような、豪華な雰囲気をつくり上げていた。

 何しろ、小澤征爾が指揮しはじめるだけで、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏が一瞬にして引き締まり、瑞々しい音色と緊迫感に富む表情に変わってしまう。いや、オケだけでなく、ムターまで顔つきも演奏の精密度も別人のように引き締まってしまうのである。
 ともあれ、小澤さんが元気で指揮してくれていれば、それだけで聴衆は安心する。指揮台に置かれた椅子を時々使い、舞台袖との往復も腰の痛みの後遺症を示す姿ではあったが、時に小走りになってみせる歩き方などは、昔に変わらぬ若々しい気魄を示すものであった。

 なお、ムターが登場したのは演奏会の第2部のみ。自らの弾き振りでバッハの「ヴァイオリン協奏曲第2番」を演奏、次にディエゴ・マテウスの指揮とともにベートーヴェンの「ロマンス第1番ト長調」を演奏した。
 そしてマテウスは、第1部でもチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」と、「交響曲第5番」とを指揮した。彼はこのオケを既に何度か振っている━━今年夏にも指揮しているが、私が聴いたのは2011年のチャイコフスキーの「第4交響曲」以来かも━━けれども、今日はすこぶる情熱的な指揮とはいえど、勢いに任せた演奏という印象がなくもない。

 今日は第2部のみ、天皇・皇后両陛下が臨席されていた。こちらも同じRB席をあてがわれていたので久しぶりで間近に拝見したが、このホールの2階席の階段の段差はかなり大きいので、座席との往復には苦労なさったのではないかと思う。

 この演奏会は、ドイツ・グラモフォン創立120年云々と謳われていた。ただし、主催のグラモフォン(共催はユニバーサル・ミュージックとサイトウ・キネン財団)は、それを一般客に向かってことさら強くアピールする雰囲気はなく、いわゆるお土産袋(?)を配るわけでもなかったようである。
 ただし、パーティに出席する特定の招待客に対しては、かなり手厚いもてなしがなされていたようで、場内アナウンスは何度も「VIPの皆様は・・・・をお受け取り下さい」と繰り返していた。「日頃のご愛顧」についての考え方にもいろいろあるらしく━━。

2018・12・3(月)ロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ「うたかたの恋」

     東宝東和試写室  6時

 英国ロイヤル・オペラ・ハウスで10月15日に上演されたバレエ「うたかたの恋」(原題は《Mayerling》)のライブ映像を観る。

 これは1889年に男爵令嬢マリー・ヴェッツェラと謎の情死を遂げたオーストリア皇太子ルドルフ(いわゆるマイヤーリンク事件)を主人公とした壮絶な物語で、ケネス・マクミランの振付がまた劇的この上ないステージをつくり出している。大怪我を克復して復活したスティーヴン・マックレ―が踊る皇太子の、孤独の苦悩と狂気の演技は、鬼気迫る物凄さだ。

 音楽には全篇でフランツ・リストの作品が使われており、「ファウスト交響曲」の第3楽章「メフィストフェレス」など、意外な効果を上げていて面白い。指揮はおなじみクン・ケセルス。
 都合で第2幕までしか観られなかったが、これは実に凄い舞台であり、私のような、ふだんバレエを観る機会のあまりない者をもエキサイトさせるバレエである。12月7日~13日にTOHOシネマズ系数館で上映とのこと。

 なお、この「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン2018/2019」には11作品が予定されており、そのうちオペラには、キース・ウォーナー演出「ヴァルキューレ」、ステファン・ヘアハイム演出「スペードの女王」、クリストフ・ロイ演出「運命の力」、リチャード・エア演出「椿姫」、デイヴィッド・マクヴィカー演出「ファウスト」(グノー)など、興味津々たるラインナップが見られる。松竹の「METライブビューイング」とはまた一味違うライヴ映像である━━と、別に東宝東和から宣伝を頼まれているわけではないのだが、私好みのものが多いので、ここで御推薦。

2018・12・2(日)ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィル

      サントリーホール  2時

 2日目の今日は、前半にユジャ・ワンとのプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」、後半にブルックナーの「交響曲第9番」。

 プロコフィエフは、今回のツアーのプログラムの中では唯一のロシアもの。ゲルギエフにとっても自家薬籠中のレパートリーだ。弦16型編成でコンチェルトを演奏するのだから音量は凄まじい。野性的な曲想に対するには、ドイツのオーケストラの表情が何とも生真面目すぎて、と微苦笑していた人がいたが、まあそれは当たっているかもしれない。
 だが、そのオケからゲルギエフが引き出す音色の多彩さはさすがに見事だ。第1楽章がアレグロに入った直後、弦楽器群が突風のように閃かせた音型がこれほど表情豊かに、しかも不思議な色気を以って響かせられた例は滅多にないだろう。

 この名技主義性豊かな協奏曲は、ユジャ・ワンにとっても聴かせどころの一つ。若々しい気魄を存分に発揮させていた。
 ソロ・アンコール曲は、今日も2曲。プロコフィエフの「トッカータ作品11」と、モーツァルトの「トルコ行進曲」(ヴォロドス、ファジル・サイ、ユジャ・ワン編曲)とを、これ以上はないほど鮮やかに弾きまくって行く。ゲルギエフは、今日も下手側に立ったまま、じっとその様子を見守っていた。

 後半はブルックナーの「第9交響曲」。ゲルギエフの指揮するこの曲を聴いたのは今回が初めてだ。これほどいろいろな意味で「濃い」ブルックナーは、聴いたことがない。ミュンヘン・フィルの重厚なパワーがものを言っていたのは事実だが、音響的にも並外れて強大である。
 頂点の築き上げには巧みに設計されたクレッシェンドが力を発揮し、その行き着くところでは、間違いなく更に巨大な音響がだめ押しの如く出現するのだ。第1楽章の展開部や終結部、第3楽章で何度も繰り返される起伏の頂点などでは、それらが凄まじい迫力を生み出している。

 といって、ただ大きな音で威嚇するのではない。第3楽章の【A】の前など、普通なら弦を際立たせたままクレッシェンドさせる個所で、部分的に金管を強調して音色に変化を持たせるといったこまやかな手法を用いている。また、【B】からの有名なコラールの中で、ヴィオラの小さなモティーフを明確に浮き上がらせてアクセントをつけていたのも印象的だ━━なるほどこの個所では、ヴィオラのみは他の弦楽器群よりも一段階強い音を指定されているのである。

 その他、第2楽章のスケルツォ部分などでは、重戦車が突進するような趣もあり、まるで悪魔が髪振り乱して狂乱するような趣もあった。ブルックナー特有の清澄な偉大さよりも、荒々しい激情を優先した演奏だったと言ってもいいだろう。
 楽屋を訪れての、超多忙なゲルギエフとのほんの十数秒の立ち話の中で、「実にデモーニッシュだった」と誉めたら、彼の方はそう言われたことにはちょっと驚いたらしく「ワオ」と言ったまま1,2秒間考え、頷いて「確かにブルックナーの交響曲の中でこの曲だけは異質だからね」と答えた。

 この2回の演奏会に先立ち、11月30日にPMFの主催でゲルギエフとのプレス懇談会が開かれ、そこで彼は、若いアーティストへの支援の意義について語ったが、その中で━━昔、駆け出しの自分は、カラヤンや多くの大先輩によって引き立てられ、世に出ることが出来た、その恩返しをするべきだと思っている、先輩たちの多くはもういないので、今の若い演奏家たちを全力で応援したい、それが先輩たちへの間接的な恩返しだと思っている、とも語っていた。
 なおPMFでは、2020年に札幌の新しい劇場でモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を舞台上演、自ら指揮する予定だ、とも予告している。
     →(別稿)モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2018・12・1(土)ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィル

     サントリーホール  6時

 バイエルン放送響が帰って行くと、入れ替わりに今度はミュンヘン・フィルがやって来た。いずれもアジア・ツアーの一環の由。

 こちらも負けず劣らず、素晴らしい演奏を披露してくれた。ゲルギエフも今やこのオーケストラを完全に手中に収めてしまったようである。3年前の、首席指揮者就任直後に聴いた時には、演奏にもまだ遠慮がちな雰囲気も残っていたので━━大概のオケならわけなくねじ伏せてしまうゲルギエフも、頑固なドイツのオケだけは、そう簡単に言うことを聞かせるわけには行かなかったらしいのである(ウィーン・フィルを相手の時にも、その微妙なせめぎ合いが面白かった)。

 今日は、前半にユジャ・ワンをソリストにブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」が、後半にはマーラーの「交響曲第1番《巨人》」が演奏された。
 ブラームスでは、たっぷりとした重厚な響きがつくられ、特に弦楽器群にはいかにもドイツのオケらしい、しっとりした音色が溢れていたが、その中にも僅かにゲルギエフらしい艶やかな表情が顔を覗かせている。第3楽章での陶酔的な瞑想を彩った美しいカンタービレなど、彼がオペラの指揮でいつも聴かせるゲルギエフ節ともいうべき歌に似ていたのが興味深い。

 ユジャ・ワンも、今回はブラームスとあって、抑制して几帳面に弾いていたようだが、随所に彼女らしい闊達な躍動、明るい解放感が現われるのが、これまた魅力を感じさせた。この相反する二つの要素が更にうまくバランスが取れるようになった時こそ、彼女のブラームスは独自の存在感を発揮するようになるのではないか。先年のNYフィルとの「1番」に続き、今回は「2番」に取り組んだわけだが、意欲的だ。

 なお彼女はそのあとソロ・アンコールとして、メンデルスゾーンの「無言歌作品67の2」と、ビゼーの「カルメン」の「ジプシーの踊り」(ホロヴィッツ編)を弾いた。ブラームスを50分間弾いたあとでこういう曲をやるというのも凄まじい。彼女にとってはこれも気分的な解放なのか。
 この間、ゲルギエフは袖に引っ込まず、いつものようにステージ下手の隅に立ったままじっと耳を傾けていた。オーケストラ・コンサートでソリストが2曲もソロ・アンコールを弾くのは過ぎたることと思えるが、多分これはゲルギエフが「けしかけた」ことなのだろう。以前、PMFオーケストラの東京公演で、カヴァコスがカーテンコールに出ていた時に、舞台袖でゲルギエフが「何か弾け、弾け」と身振りで煽っていたのを見たことがある。

 後半の「巨人」は、豪壮雄大で骨太な、滔々と流れるストレートな演奏構築。これがいかにもゲルギエフらしい。マーラーの神経症的な「悩める青年」的なイメージよりも、むしろ人生の確信に満ちたおとなの意気のようなものを感じさせる演奏だ。こういう演奏はCDで聴くと面白味に欠けるけれども、ナマで聴くとオーケストラの威力がものを言って、すこぶる迫力に満ちたものに感じられる。

 今回の「巨人」の演奏で印象深かったものの一つは、アッチェルランドの巧さだ。特に前半の二つの楽章では、徐々にテンポを速めつつクライマックスへ持って行くあたりの呼吸が実に見事であった。ゲルギエフのアッチェルランドの巧さには、以前のプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」の「氷上の戦い」で舌を巻いたことがある。そしてもう一つは、音色の多彩さだ。これはもう、彼のお家芸である。
      →(別稿)モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

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