2019-05

2018・11・30(金)パスカル・ヴェロ指揮神奈川フィル

      横浜みなとみらいホール 大ホール  7時

 パスカル・ヴェロという指揮者は、日本ではどうも地味な存在だが、いい指揮者だ。つい先頃まで仙台フィルの常任指揮者を務め、この楽団の水準を飛躍的に高めたことは周知の事実である。一昨年の東京公演でのベルリオーズの「幻想交響曲」と「レリオ」を組み合わせた演奏会の見事さはそれを証明する一例で、記憶に残る名演だったではないか。東京でも、もう少し高く評価されてもいい存在のはずなのだが━━。

 そのパスカル・ヴェロが、神奈川フィルの定期演奏会に客演した。イベールの「寄港地」、ハイドンの「交響曲第44番《悲しみ》」、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」(ヴィオラ・ソロは大島亮)というプログラムである。コンサートマスターは石田泰尚。

 ヴェロの制御のもと、神奈川フィルは実に綺麗な音で鳴り響いた━━1階席で聴くよりも、2階のバルコニー席で聴いた時の方が、いっそうその感が強くなる━━特に弦の響きは、2階バルコニー席での方が、圧倒的にふくよかに聴こえるようである。
 「イタリアのハロルド」の第2楽章がこれほど憂愁感に満ちて流れ、第3楽章の和声の美しさが浮き彫りにされた演奏は、そうしばしば聴けるものではないだろう。ハイドンの交響曲での演奏も、透明清澄な趣があり、美しかった。

2018・11・28(木)デニス・ラッセル・デイヴィス指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 エマニュエル・パユとマリー=ピエール・ラングラメの協演するモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」を真中に置き、その前後をスクロヴァチェフスキの「ミュージック・アット・ナイト」およびジョン・アダムズの「シティ・ノワール」で固めたプログラム。

 普通の自主運営のオーケストラだったら、客足を慮り、とても実現に踏み切れぬような、豪胆で意欲的な選曲だ。近年、実績を重ねて聴衆動員に自信を増している読響だからこそ、通常の定期公演で思い切りよく実現できたのだろう。
 そして喜ばしいことに、このようなプログラムでも、お客さんは結構な入りを示していたのである。パユとラングラメの美しいモーツァルト、それに2人の洗練されたアンコール曲のイベールの「間奏曲」が終ったあとの休憩で、どうやらそのまま帰って行ったらしい客も散見されたが、それは全体から見ればほんの一部に過ぎない。

 「ミュージック・アット・ナイト」は、日本初演の際の演奏を私は聴いたか聴かなかったか、確たる記憶がない。
 いずれにせよ、スクロヴァ先生には失礼だが、後半のジョン・アダムズの作品が始まってみると、管弦楽の造りはやはりこちらの方が遥かに上手いな、と感じてしまう。この「シティ・ノワール」の「The City and its Double 都市とその分身」の部分など、たとえばアルト・サックスなどが吹くジャズ風のアドリブ的な音型が大管弦楽のアンサンブルとして完璧に構築されているのを聴くと、「ジャズとクラシックの融合」などとイージーに称されながら旗印だけに終っているそこらの作品に比べ、もっと踏み込んだ次元で展開されている手法の面白さを感じることが出来るのではないか。

 アダムズの作品としては、「中国のニクソン」とか「ドクター・アトミック」などにおけるようなミニマル・ミュージック系の手法とは異なり、オーケストラの更なる幅広い表現力や多様な色彩感を求めたものと思われ、その意味でも興味深かった。ただ、終結近く、延々と続く「あくなき咆哮」には、少々しつこさを覚えて、閉口させられたのは事実なのだが。

 デニス=ラッセル・デイヴィスは、荒々しい現代音楽にも、端整で洗練されたモーツァルトの作品にも、それぞれの良さを発揮させる巧みな指揮を聴かせてくれた。さすが、ベテランの持ち味というべきであろう。
 読響(コンサートマスターは長原幸太)も相変わらずいい。特にモーツァルトの協奏曲で響かせた気品ある音色は、称賛に値する。

2018・11・27(火)ズービン・メータ指揮バイエルン放送交響楽団

      サントリーホール  7時

 今日が今回の日本ツアー最終公演。エフゲニー・キーシンをソリストにしたリストの「ピアノ協奏曲第1番」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラムだった。

 曲目の演奏時間が短かく、公演の時間を埋めるという理由がたとえあったにしても、コンチェルトのゲスト・ソリストであるキーシンが、指揮者とオーケストラをステージに待たせたままソロ・アンコールを3曲も弾き続けたのには、いささか興醒めした。

 だがそのコンチェルトのオーケストラ・パートといい、「春の祭典」といい、最後のアンコールで演奏したチャイコフスキーの「白鳥の湖」からの「ワルツ」といい、バイエルン放送交響楽団の堂々たる風格に満ちた重厚な演奏は、見事というほかはない。
 そして、椅子に座ったまま最小限の身振りでこの大交響楽団を制御するメータの気魄もまた、壮烈を極めていた。ヤンソンスが来られなかったのは確かに残念ではあったが、一時は再起も危ぶまれるという情報まで流れたメータが、このように復活して力強い指揮を披露してくれたことは、嬉しいことである。
 バイエルン放送響の今回の日本公演、2つの演奏会を聴いたが、悉く感動的であった。

2018・11・26(月)大友直人指揮群馬交響楽団東京公演

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 来年3月で音楽監督の任期が終了するという大友直人指揮による東京公演。今日のが終ると、残すは来年3月17日の公演(トリフォニー)のみとなる。
 今日のプログラムは極めて個性的だ。前半に芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」、團伊玖磨の「管弦楽幻想曲《飛天繚乱》」、黛敏郎の「饗宴(バッカナール)」という、戦後の日本音楽界に新しい息吹をもたらした「3人の会」の巨匠たちの特集である。

 誰かも言っていたことだが、最近の日本のオケは上手いので、昔聴いた時よりも、作品の良さがよく解るようになる、と。私も近年、そういう思いを新たにしているところだ。
 たとえば今日の3曲にしても、如何に精緻で色彩的なオーケストレーションを備えていることか。それが、大友と群響のヴィヴィッドな演奏のおかげで、明確に認識できる。芥川の「交響管弦楽のための音楽」など、1950年代半ばにラジオで聴いた時には、取っ付き易いけれども何だか薄っぺらな音楽だな、という気もしたくらいだが、それは単に当時のオケの鳴りの悪さと、録音の不備などに原因があったからに過ぎず、作品の所為ではなかったのだ、ということを思い知らされるのである。

 後半はガラリと変わって、千住明のオペラ「滝の白糸」からの第3幕(裁判の場面が中心)が、演奏会形式で取り上げられた。この全曲は大友直人みずからが指揮して初演したもので、私も2014年2月16日に新国立劇場中劇場での彼の指揮による東京初演を観たことがある。群響との東京公演では序曲を演奏しただけ(2017年3月19日)だったので、任期満了直前の今、どうしてもせめてひとつの幕だけでも群響と東京で演奏したかったのだろう。

 今日も初演時と同じく、中嶋彰子がヒロインの白糸を、高柳圭が村越欣也を、清水那由太が南京出刃打ちを歌った。ただし、村越欣也の母親役には、今回は金子美香が起用されていた。その他にも、出番は短いものの声楽ソリスト7人、さらに大編成の群馬交響楽団合唱団をも参加させるという、非常に大がかりな東京公演であった。
 声楽陣は脇役に至るまで大いに健闘したが、それぞれの配置の位置の関係や、ホールの豊かな残響の所為もあって、必ずしも歌詞が明確に聴き取れたとは言い難い。むしろ、オーケストラの叙情的な色合いが浮き彫りにされていたことの方が印象に残る。
 群響(コンサートマスターは伊藤文乃)が充実した演奏を聴かせてくれたのは喜ばしい。

2018・11・25(日)東京二期会 モーツァルト:「後宮よりの逃走」

      日生劇場  2時

 22日からの連続4公演で、今日が千穐楽。
 今回はギー・ヨーステンを招いての新演出、ラモン・イヴァルスの舞台美術。

 ハーレムの浴場のシーンや、古代オリエント系のような黄金色の宮殿を見せたりするが、特に読み替えという種のものではなく、服装は現代風に設定。背広姿の太守はハーレムの美女(7人)を従えての闊歩だ。太守の宮殿の番人オスミンは、現代のガードマンの隊長であり、冷酷で無表情な警備隊が彼に従う。冒頭ではオスミン隊長とガードマンたちがベルモンテやペドリッロに殴る蹴るの暴行を繰り返すなど、暴力的な演技も散見される(これはヨーロッパの歌劇場では日常茶飯事のように行われる演出だが、私はこういうのだけは大嫌いである)。

 また、4人の若者が「愛」を知り、考える━━とかいう演出上の触れ込みになっているが、しかしこの舞台からは、それは必ずしも明確に伝わって来るとは言い難い。コンスタンツェとベルモンテはト書き通り愛し合っているようだが、ブロンデのみはこんな騒ぎに巻き込まれて迷惑極まりない(第3幕)という表情を続けていたので、この辺に捻りがあったのかと思われたものの、定かではない。
 いずれにせよこの演出は、このオペラで見慣れていた「異国風の喜劇」といった要素を一切排し、極めてシリアスなドラマとして再構築したものと言えよう。ただし太守が「復讐こそは無意味、大切なのは寛容と愛」と宣言するくだりで客席の照明を明るくし、賛同を誘うような演出が行なわれたが、このテは少々陳腐に感じられる。

 こういった演出に歩調を合わせるように、下野竜也は遅めのテンポを採り、聴き慣れたあの軽快な歌の数々においてさえ、弾むような快さを排除していた。これほど「後宮よりの逃走」の音楽が、所謂「楽しくない」演奏になっていたのを聴いたのは初めてだが、解釈としてはユニークで興味深い手法だと言えるかもしれぬ(マエストロみずからトライアングルを叩きながら走り回っていたネットの広告動画とはかなりイメージが違うようである)。
 とはいえ、音楽の瑞々しさや、モーツァルトが音楽を通じて巧みに表現しているはずの、あの生き生きした人間性表現までが失われた印象になっていたことは、残念である。もっともこれは、歌手たちの歌唱力の所為でもあったろう。

 その歌手陣はダブルキャストで、今日の出演は、安田麻佑子(コンスタンツェ)、宮地江奈(ブロンデ)、山本耕平(ベルモンテ)、北嶋信也(ペドリッロ)、斉木健詞(オスミン)という顔ぶれだった。
 この中では、経験豊かな斉木健詞のみが安定した味を出していたが、その他の若手の歌手たちは未だこれからだ。歯に衣着せで言えば、最近接した日本のオペラ公演の中では、最も歌唱面に不満を残した上演、と断じざるを得ないのである。

 歌わずに、セリフのみ喋るセリム(太守)役は、大和田伸也が全日出演していた。歌詞と台詞はドイツ語だが、セリムのみは日本語とドイツ語をチャンポンに喋る。その是非はともかくとしても、彼の台詞回しが極度にゆっくりで、しかも回りくどいため、第3幕での聞かせどころは著しく間延びしてしまっていたのは事実だろう。
 ただ、彼の台詞の発声がはっきり聞こえていたことには安心した━━実は遥かな昔、1966年にこの日生劇場で「ベルリン・ドイツオペラ」が「後宮よりの逃走」を上演した際、太守役に当時の世界的名優クルト・ユルゲンスが特別出演したのだが、発声の仕方が全く歌手と異なるため、声量が弱く聞こえ、セリムの凄みも何も皆無になって落胆したという経験があったので。

 オーケストラは、東京交響楽団である。考えてみると、このオペラの上演と同じ期間に浜松の国際ピアノコンクールでずっと演奏していたのも同じオケだった。大所帯の東京フィルならともなく、正団員数88名(2018年3月1日時点)の東京響までが2ヵ所に分かれて演奏することもあり得るのか。
 浜松と東京のどちらがどのくらいエキストラを多く入れていたのかは私の知る限りではないが、そういう状況を客観的に見て、両方とも高水準の演奏を保てるということは、俄かに信じ難い。浜松の方は、お世辞にもいい演奏だったとは言い難かった。こちら日生劇場のモーツァルトの方が、演奏もまとまっていたと思う。

2018・11・24(土)浜松国際ピアノコンクール 本選2日目

      アクトシティ浜松 大ホール  2時

 今朝の中日新聞はコンクールの記事を第1面に飾っているが、本選出場の日本人4人の紹介に曰く、愛知県東浦町出身の務川慧悟さん、静岡市葵区出身の安並貴史さん、福島県いわき市出身で名古屋市名東区在住の牛田智大さん、掛川市出身の今田篤さん━━といった具合。
 地元にゆかりの演奏者の活躍を慶ぶという心理は、私も35年前にFM静岡(現K-Mix)開局の際に4年間浜松に居住したことがあり、今でもこの街と人々とに愛着を感じているので、よく解るのだけれども・・・・。

 それにまた今回は、本選出場者6人のうち4人が日本人というのは、目出度いことには違いないが、実績ある国際コンクールとしては、果たして本当に歓迎されるべきことだったのか、どうか・・・・。
 かりにチャイコフスキー国際コンクールで本選に残った者の大半がロシア人だったとしたら? ショパン国際コンクールの本選出場者がほとんどポーランドのピアニストばかりという事態が起こったとしたら? いくら偶然そうなった、と言ったところで、外国の楽界からは、やはり色眼鏡で見られてしまうのではないか。 

 ともあれ今日、2日目には、今田篤、イ・ヒョク(韓国)、ジャン・チャクムル(トルコ)が登場して、やっと「国際コンクール」らしい状態になった。
 今田篤は、ヤマハのピアノを使用、チャイコフスキーの「1番」を弾く。力強い音でダイナミックに弾いたが、音楽としては生硬で、何かムキになって弾き過ぎるような感があり、しなやかさと緊迫感にも不足するきらいがある。しかし第1楽章では、テンポの調整などに工夫を凝らしていた。

 次に登場したのが、韓国のイ・ヒョク。ラフマニノフの「3番」を、ヤマハのピアノで弾いた。3次予選の結果から、牛田智大と並ぶ優勝候補として私が最も期待していた18歳だったのだが、不思議なことに今日の協奏曲での演奏は著しく素っ気なく、煌きのない、音色もくぐもったものになってしまっていた。3次での演奏で放射されたあの明るさが、何故かひとかけらも残っていないのだ。よほど体調でも悪かったのだろうか? 
 しかしそれでも音楽的な雄弁さは随所に現れていて、要所では演奏も密度の濃いものになってはいたが。

 最後に弾いたのが、トルコの長身痩躯の20歳、ジャン・チャクムルである。シゲル・カワイのピアノを使用して、リストの「1番」を演奏した。実に伸びやかで、豪快な演奏だ。叙情的な個所にさえも、ブリリアントな音色と表情を散りばめる。
 その演奏における、欧州の伝統的なスタイルとは些か異なる音楽のつくり方が非常に面白く、━━どこがどうという適当な言葉が見つからないのだが、たとえばフレーズの余韻をさっさと切り捨ててしまい、音の一つ一つを流麗に繋げることをせず、おのおのを際立たせながら、それらを目にもとまらぬ勢いで奔流の如く押し流して行く━━とでも言ったらいいのか、どうも訳の解らぬ表現で恐縮なのだが、とにかくそんな感じの演奏なのである。終曲での演奏は、華麗で鮮やかで、圧巻であった。
 私はこの豪快そのものの演奏を聴いて、ツワモノがトルコの刀を振りかざして大暴れしているような光景を連想してしまったのだが━━。

 とにかく、第3次予選では(帰京したため)聞き逃していたこのトルコの青年の大胆不敵な演奏に接して、牛田と優勝を争うのはイ・ヒョクではなく、むしろチャクムルの方ではなかろうか、と考えを変えたのはこの時である。3次での室内楽の演奏が終わった時にブラヴォーの声が飛んでいた、という話を聞いて、ますますその思いを強くした次第であった。

 で、6時から同じ大ホールで行われた結果発表。入賞者は以下の通り。
 第1位:ジャン・チャクムル、第2位:牛田智大、第3位:イ・ヒョク、第4位:今田篤、第5位:務川慧悟、第6位:安並貴史。
 他に各賞として、日本人作品最優秀演奏賞が梅田智也、奨励賞がアンドレイ・イリューシキン、室内楽賞がジャン・チャクムル、聴衆賞が牛田智大。
 小川典子・審査委員長の説明によれば、判定の根拠は、第3次予選(室内楽とソロの各演奏)及び本選(協奏曲の演奏)を併せてのもの、ということであった。とすれば、この順位は、まず妥当なところであろう。

 結果発表と表彰式の時にも、大ホールの客席は一般客で埋められた。それどころか、7時過ぎから行われた記者会見の場にも、少なからぬ数の一般客が詰めかけていたのである。浜松の人たちの、コンクールへの関心の高さを示す一例だろう。

2018・11・23(金)第10回浜松国際ピアノコンクール 本選初日

      アクトシティ浜松 大ホール  6時

 ついに本選。出場者は11月20日の項にある通りだが、初日の今日は、務川慧悟、安並貴史、牛田智大が弾いた。このコンクールの本選での演奏曲目は、すべてコンチェルトである。サポートのオーケストラは、高関健が指揮する東京交響楽団。

 務川慧悟がKAWAIのピアノで弾いたのは、プロコフィエフの「協奏曲第3番」。 
 緊張のためか、出だしは音量も弱く、何となく自信無げな雰囲気に感じられ、聴く方でも気を揉ませられたが、曲がアレグロに入ると次第に活気を取り戻し、第2楽章後半あたりからはエネルギー全開となって行った。
 第3次予選で不満を残していた音色や表情の変化に乏しい点については今日の演奏でも解決されていなかったものの、端整に過ぎて面白味に欠けていたという点については、第3楽章での勢い充分な演奏がそれを帳消しにしてくれたであろう。演奏後の客席では、熱烈なブラヴォ―の声があちこちで湧き上がり、スタンディング・オヴェーションも随所で起こっていた。

 安並貴史は、ブラームスの「協奏曲第2番」を弾き、同じKAWAIのピアノでもこうも音が変わるかと思われるほど、冒頭のソロでは音色が清澄で美しいものになり、期待を持たせたのであった。だがしかし、━━演奏が進むほどに、その音色の淡彩さと、表情の端整さと生真面目さとが、この長大なコンチェルトを著しく単調に感じさせ、曲の長さを意識させてしまうという結果を生んでしまったのである。
 彼が浸る沈潜は、ブラームスの沈潜とは残念ながら異質のもののようだ。この曲を選んだことは、今の彼の音楽性からすると、意欲的ではあったものの、あまり賢明ではなかったように思われる。演奏終了後の客席は拍手に包まれたが、ブラヴォーやスタンディング・オヴェーションはほとんど無かった。

 初日の最後は、牛田智大が弾くラフマニノフの「協奏曲第2番」だった。
 ピアノはヤマハに変わり、そこから弾き出される音楽は、突然、圧倒的に明るくて恰幅のいい、鋭い力に満ちたものになった。といって、決してコンクール的な名技主義に陥る類のものではない。テンポやエスプレッシーヴォの変化も自然で生き生きしており、すべてが輝いているように感じられたのである。オーケストラの轟音にも打ち消されずに彼のソロがはっきりと聞こえていたのは、音量の豊かさゆえだけではなく、その音色の明晰さと、音楽の表情の豊かさとのゆえではなかろうか。
 演奏後の客席は文字通り沸きに沸いた。ともあれ、これは高得点をマークしたことは確実であろう・・・・と思われるのだが。

 明日は、強敵のイ・ヒョクが出る。噂では、第3次予選で私が聴けなかったトルコのジャン・チャクムルも、なかなかの強豪なのだそうだ。

 一言付け加えざるを得ないが、オーケストラは荒っぽくて、猛然と吠え過ぎ、ソリストの音を潰してしまうことがあまりにも多い。特にティンパニは言いようのないほど乱暴で、叩きつけ過ぎる。オケのバランスを取る点では名手と謳われるマエストロ高関の指揮なのに、これはまた、どうしたことだろう?

2018・11・22(木)ズービン・メータ指揮バイエルン放送交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 こんな状況の中、よくぞ来てくれた、マエストロ・メータ━━と書いたのは7年前、あの東日本大震災と原発事故のために外国演奏家たちが次々に来日を中止したさなか、N響とのチャリティコンサート「第9」(4月10日)を指揮するために彼が敢然と東京へ飛んで来た時のことだった。
 そして今回、マリス・ヤンソンス来日中止という事態を受けての代役として、またメータが駆けつけてくれた、ということになる。

 だが、今日舞台袖から現われたズービン・メータは、7年前の颯爽とした姿、かつては「指揮台のマッチョマン」とも呼ばれたエネルギッシュな、堂々たる容姿の彼ではもはやなかった。
 大病をした(イスラエル・フィルとの来日公演も中止になった)のは僅か半年前かそこらのことだ。その病を克服して復活してくれたのは本当に喜ばしいが、私たちが見たのは、ステッキを突きながらゆっくりと歩を進め、付添い人に助けられながら指揮台を上り下りする、いかにも年取ったという感のある彼であった。元気な頃の彼を見慣れていた私たちは、その姿に心を痛めながら拍手を続けたのである。

 しかし、一旦指揮台の椅子に座れば、彼がオーケストラから引き出す音楽は、昔ながらの骨太な力を失っていない。テンポは以前より遅くなり、力強かった構築力もやや緩めになったかと思われるが、身振りよりも、強い精神力と目線とでオーケストラを制御する彼の指揮には、以前よりもあたたかさが増したようにさえ感じられたのだ。
 そして、アンコール曲のタイトルを聴衆に告げた時の彼の声は、昔ながらの低音の利いた、素晴らしく張りのある響きに溢れていたのであった。声が大きいということは、元気である証しである。

 今日演奏されたのは、モーツァルトの「ジュピター交響曲」と、マーラーの「巨人」、アンコールはJ・シュトラウスⅡの「爆発ポルカ」だった。
 「ジュピター」は反復個所をすべて守り、何の外連もなくストレートに構築した演奏である。
 「巨人」では、第1楽章提示部の反復は行なわなかったが、第2楽章には「花の章」を復活挿入、これも悠々たる大河の如く流れ行くストレートな演奏で、第4楽章の頂点はそれに相応しく壮大な歓呼となっていた。
 ━━欲を言えばその全曲の大詰、ティンパニと大太鼓の怒号の上に全管弦楽で終結和音が叩きつけられる個所で、それまでの全管弦楽の咆哮に充ち溢れていた壮絶な力感がふっと抜けてしまったような印象もないではなかったが、そのあたりは、前述のいろいろな状況からして致し方ないところであろう。

 バイエルン放送響も、今日は各楽器のソロ・パートにいつものような完璧さをやや欠いていたようだが、これもこのオケがドイツで一、二を争う名楽団だからこそ言いたくなるような程度のことに過ぎぬ。やはり、素晴らしいオーケストラである。

 ともあれ、この演奏を聴いたあとには、当初予定されていたマーラーの「第7交響曲《夜の歌》」が変更されてしまったことへの不満も、ほぼ綺麗に吹き飛んでしまった、というのが私としては正直なところだが、他のお客さんはどうだったろうか? 
 オケが引き上げてしまった後、足が悪いから呼び出すのはどうかな、という遠慮もあって少なめに続いていた聴衆の拍手は、しかし次第に大きくなり、ついにメータは車椅子に乗って再びステージに登場し、熱狂的な拍手に嬉しそうに応えていた。演奏への称賛、大病からの回復を喜ぶ気持、7年前のあの日のこと━━聴衆のさまざまな想いがそこには交錯していたことであろう。

2018・11・21(水)ミヒャエル・ザンデルリンク指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 「北とぴあ」のある王子駅から京浜東北線に乗り、上野までは15分程度か。こういうハシゴ取材の時には、いずれのホールも駅近接の位置というのが有難い。
 こちらは都響の定期演奏会Aシリーズ。ミヒャエル・ザンデルリンクの客演で、クルト・ワイルの「交響曲第2番」、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第1番」(ソロは河村尚子)、ショスタコーヴィチの「交響曲第6番」が演奏された。コンサートマスターは山本友重。

 渋いプログラムだが、それでも客席はあらかた埋まっている。都響は客をしっかりつかんでいるな、と、ロビーで誰かが言った。年間のプログラムのコンセプトが解り易く、演奏がしっかりしているオーケストラには、客はちゃんと来るものである。
 今日の演奏では、ワイルのシンフォニーが、引き締まった構築の裡に主題と和声の変化の過程が明確に浮き彫りにされていて、私は最も気に入った。この曲、このように演奏されると、あの「七つの大罪」にも盛り込まれているワイル独特の一種の頽廃的なニュアンスの音楽が、非常にシリアスに表情を変えた容で出て来るのが解って面白い。

 プロコフィエフの「1番」では、ザンデルリンクはかなり猛烈な勢いを持った演奏だったが、河村尚子も闊達に対抗し、時にオケとの呼吸が合わぬところが無くなかったものの、聴き応えは充分。
 ショスタコーヴィチの「6番」では前半のたっぷりしたテンポで逍遥する個所での低弦の響きが力強く美しく、都響の好調さの一端を窺わせていたと言えよう。

2018・11・21(水)北とぴあ国際音楽祭「ウリッセの帰還」G.P.

      北とぴあ さくらホール  3時30分

 23日と25日に公演が行われる北とぴあ国際音楽祭のオペラ、モンテヴェルディの「ウリッセの帰還」のゲネプロを観る。
 この音楽祭は、1995年の「ダイドーとエネアス」以来、数々のバロック・オペラや古典オペラを制作して来た。近年はセミ・ステージ形式によるものが多いが、その実績は立派なものである。今回もステージにオーケストラを配置、シンプルながら演技のための空間をも設置して、ダンスも取り入れた上演としていた。

 演出は小野寺修二。オーケストラはおなじみ、寺神戸亮(指揮とヴァイオリン)の率いるレ・ボレアードだが、通奏低音を強化した演奏も毅然として美しく、モンテヴェルディの素晴らしい音楽を再現して聴き応え充分である。エミリアーノ・ボンザレス=トロ(ウリッセ)、湯川亜也子(ペネーロペ)、クリスティーナ・ファネッリ(運命/ミネルヴァ)、フルヴィオ・ベッティーニ(イーロ)らの歌唱も立派なものであり、その他の多数の内外歌手陣も充実していた。
 時間の都合で第2幕までしか観られなかったのが残念なほどだった。いい本番になるだろう。

2018・11・20(火)ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィル

     サントリーホール  7時

 モーツァルトの「魔笛」序曲、同「ピアノ協奏曲第24番」(ソリストはラン・ラン)、ブラームスの「交響曲第2番」というプログラム。

 先週の川崎での演奏会よりは復調して安定した演奏になっていたが、しかし、ブラームスの「2番」でのヴァイオリン群の音の響きの鋭さといい、その第1楽章終結近くのホルン・ソロの表情の硬さといい、今年来たウィーン・フィルは、何となくいつもと違う。かつての━━いや、今でも良い時のウィーン・フィルは、このオケならではの馥郁たる香りを演奏のどこかに漂わせているものだが・・・・。

 今回の響きは、当然ウェルザー=メストによって引き出されていたものだろう。それでもかつてのウィーン・フィルなら、指揮者が誰であろうと、それに合わせると見せながらも、常に己の良き個性を頑固に守り抜いていたものだった(ゲルギエフとの丁々発止の勝負はその一つの例だった)。今のこのオケは、もう、指揮者に忠実になってしまったのか。
 それでも、川崎でのブラームスの「二重協奏曲」と同様、ガリガリ弾かずに済むモーツァルトのピアノ協奏曲では、ウィーン・フィルのしっとりした味が少しは蘇る。そしてアンコールでの、J・シュトラウスⅡの「南国のばら」と、E・シュトラウスの「テープは切られた」では、これは誰が何と言おうとおれたちの音楽、と言わんばかりの姿勢に戻っていたのだった。

 ラン・ランのモーツァルトがナマで聴けたのは幸いであった。彼はこのところ、ピアニッシモによる表現に凝っていると見える。ソロ・アンコールで弾いたシューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」からの一節にも、その姿勢のようなものが聴かれていた。

2018・11・20(火)浜松国際ピアノコンクール第3次予選第2日

      アクトシティ浜松中ホール  10時

 2日目の出場者は、アンドレイ・イリューシキン(露)、今田篤(日)、イ・ヒョク(韓)、梅田智也(日)、ブライアン・ルー(米)、ジャン・チャクムル(土)の6人。

 最初のイリューシキンは、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲第1番」ではむしろ優美な表現を狙っており(特に第3楽章など)それは好ましかったが、ブラームスの「6つの小品」やスクリャービンの「幻想ソナタ」では沈潜しきって遅いテンポに浸りきり、曲想の性格もあって著しく沈潜した雰囲気。
 プログラムの演奏時間ももともと長く、このまま演奏が続けば15分近くの時間超過は確実と思われた切れ目のところで、審査委員長からベル(チリンチリンという鈴)を鳴らされてしまった。ただし聞くところによれば、かりにベルを鳴らされても、審査には影響しないとのこと。

 続く今田篤は、他の人よりは速いテンポで爽やかにモーツァルトの「1番」を開始、それまでのホール内の重苦しい(?)空気を解放したという良さはあったが、反面、演奏にコクのない感も。シューベルトの「楽興の時」にしてもプロコフィエフの「ソナタ第7番」にしても、きれいに仕上がっているものの淡白で控えめで、どことなく平板に感じられてしまうという、いかにも日本人的な特徴の演奏ではあった━━。このシューベルト、自己陶酔のままに終ったようである。

 昼休みの休憩を取った午後の一番手は、韓国のイ・ヒョク。こちらは対照的に、煌く音の持主だ。モーツァルトの「第2番」ではアンサンブルのつくりも優れ、弦への受け渡しも流れよく(特に第1楽章)、ふくよかな響きが聴き手を惹き付ける。「くるみ割り人形」(プレトニョフ編)とアルカンの作品でも輝かしい音色で躍動した。18歳の若さながら、これは有望株だろう。ただし持ち時間を6分オーバー、未だ曲は続くはずだったので、これもベルを鳴らされてしまった。

 4番手の梅田智也のモーツァルト(第1番)を聴いたところまでで、とりあえず「第3次予選」は失礼した。浜松4時11分発の「ひかり」で東京に引き返し、サントリーホールへ向かう。

※夜になって、3次予選通過者(本選出場者)6人の名がコンクールのサイトに公開されていた。本選出場は、務川慧悟、安並貴史、牛田智大、今田篤、イ・ヒョク、ジャン・チャクムルの由。日本人が4人も残るのは、このコンクールとしては初めてではないか? 本選は今週金曜と土曜に行なわれる。
 ジャン・チャクムルの演奏は聴いていないので何とも言えないけれど、私が聴いた範囲で言えば、牛田とイ・ヒョクのどちらかが優勝候補、続くのが安並━━ではないかと予想するのだが、さて当るや否や。

2018・11・19(月)浜松国際ピアノコンクール第3次予選第1日

      アクトシティ浜松中ホール  12時30分

 ガヴリリュク(第4回)、ブレハッチ(第5回)、チョ・ソンジン(第7回)など錚々たる優勝者を輩出してきた浜松国際ピアノコンクール、今年は第10回。
 地元での人気もすこぶる高く、本選など完売の日も多いとのこと。さすが、あの「蜜蜂と遠雷」(恩田陸著)の効果抜群、とも言われてはいるが、コンクール事務局の現場としてはそう言われるのは些かシャクなようで、「やはり10回の実績」の結果なのだと主張していた。

 今回は37か国1地域から382人が応募、うち男226人、女156人。日本国籍130人、外国籍252人(韓国70人、中国47人、ロシア35人、アメリカ13人━━以下略)。
 出場承認者は95人(男67人、女28人。国籍は日本25、韓国18、ロシア14、中国13、アメリカ4━━の順)で、このうちコンクール本番までに7人ほどが出場を辞退、実際の出場者は88人であった。

 そこで今日と明日が第3次予選というわけだが、残っていた12人の中に女性が1人もいないのには少々驚いた。国籍別では日本が5人(異例に多い)、韓国が2人、ロシアが2人、中国が1人、アメリカ・トルコ各1人、という具合に例年とは少々雰囲気が違うようである。

 コンペティターはそれぞれ70分の時間を与えられ、その中で、最初に室内楽としてモーツァルトの「ピアノ四重奏曲」の「第1番」もしくは「第2番」を演奏、それから得意のレパートリーを何曲か弾くことになる。
 室内楽での協演は例年のように錚々たる顔ぶれで、漆原啓子、川久保賜紀、鈴木康浩、松実健太、向山佳絵子、長谷川陽子。

 今日、初日の出場者は、演奏順にアンドレア・ゼーニン(露)、務川慧悟(日)、安並貴史(日)、牛田智大(日)、キム・ソンヒョン(韓)、ザン・シャオルー(中)。
 この中では、今春の「野島稔・よこすかピアノコンクール」で優勝した安並貴史(26歳)と、既に一般の演奏会で人気を得ている牛田智大(19歳)が出ているのが話題となっている。(因みに安並は静岡県出身者だそうで、翌日の静岡新聞は彼の演奏のことだけを大きく報道していた。やっぱりね、という感)。

 その安並は、第3次ではコンクールにありがちなテクニックを誇示するような作品ではなく、シューベルトの「即興曲作品90の1」やベートーヴェンの「ソナタ第31番」など、正面切った、落ち着いた曲を選んでいたのが注目された。これらの作品では端整で整然とした演奏を聴かせていたが、もう少し表情に多彩さがあればと思う。室内楽(第1番)では、細かいニュアンスの変化を示していた。

 一方、牛田は、シューベルトの「即興曲作品90の3」ではたっぷりした厚みのある和音を響かせ、転調の際のエスプレッシーヴォやテンポの調整でも表情の細やかさを聴かせた。おとなのシューベルト、という感である。一転してリストのソナタでは、ダイナミックだが威圧的でない、どちらかと言えば軽やかで淡彩な性格を持った演奏、といった印象を得る。
 しかし、弱冠19歳にしてこれだけの音楽を聴かせるというのは、やはり抜きんでた才能と言うべきである。ステージマナーも流石に物慣れていて、答礼の仕方も決まっているし、室内楽(第1番)の演奏後には奏者ひとりひとりと握手を交わすなど、既にプロとしての雰囲気を示していた。

 彼のあとに登場したキム・ソンヒョンも、シチェドリンの小品2曲のあとにショパンの「24の前奏曲」という、コンクールとしては「静謐な趣き」の作品を取り上げていたのが興味深い。多少地味な印象になったのは致し方なかろう。それでもやはり最強奏の個所では、多少「コンクール向き」の演奏になったようだが。

 今回の審査員は以下の通り━━小川典子(審査委員長)以下、迫昭嘉(副審査委員長)、ロナン・オホラ(同、英)、ポール・ヒューズ(英)、ヤン・イラーチェク・フォン・アルニン(独)、アレクサンダー・コプリン(米/露)、ムーン・イクチュー(韓)、エリソ・ヴィルサラーゼ(露)、ウタ・ヴェヤント(独)、ウー・イン(中)、ディーナ・ヨッフェ(イスラエル/独)。

2018・11・18(日)バッティストーニ指揮東京フィル「メフィストーフェレ」

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 アリゴ・ボーイトのオペラ「メフィストーフェレ」の演奏会形式上演。アンドレア・バッティストーニがこの秋に日本で指揮した、「アイーダ」「カヴァレリア・ルスティカーナ」に続く3つ目のオペラである。

 出演は、マルコ・スポッティ(メフィストーフェレ)、アントネッロ・パロンビ(ファウスト)、マリア・テレーザ・レーヴァ(マルゲリータ/エレーナ)、清水華澄(マルタ/パンターリス)、与儀巧(ヴァグネル/ネレーオ)、新国立劇場合唱団、世田谷ジュニア合唱団。東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターは依田真宣。

 もともとスペクタクル的な音楽が、バッティストーニの熱烈な指揮によって、まあ鳴ること、鳴ること。だがそれが、ただ大音響で鳴りわたるだけではなく、雄大な音楽ドラマとしての必然的な起伏性に裏打ちされた演奏なので、合唱とオーケストラの咆哮が一種の魔性的な力を以って襲いかかって来る。
 東京フィルも快演だったが、それにも増して合唱団の豊かな力感は見事だった━━「プロローグ」でのクライマックスから早くも聴衆に一発ぶちかます、といったボーイトのハッタリ(?)も鮮やかなのだが、それを轟々と構築したバッティストーニ、それに応えたオケと合唱をも讃えたいところだ。
 それにまた、ソロ歌手陣の充実も目覚ましい。特にマリア・テレーザ・レーヴァの力強い声とドラマティックな表現は素晴らしかった。

 その歌手たちは、今回はステージ前面で、動き回りつつ暗譜で歌う。
 助演の古賀豊はダンサーとしての動きで、マルゲリータに死刑執行人として刃を擬したり、魔王として背景の高所に出現したりする役割を負う。
 その他、若干の照明演出が加えられたり、後方反響板の上部にはスクリーンが設置されて、「悪魔除けの護符」などを含むイメージ的な映像が映し出されたりしたが、これらはさほど効果を上げていたというほどではない。

 それにしてもバッティストーニのオペラにおける指揮は、パワフルでスピーディで、すこぶる魅力的である。彼と東京フィルのオペラのシリーズは、立派な看板になるだろう。

2018・11・16(金)METライブビューイング 「サムソンとダリラ」

     東劇  6時30分

 「デリラ」(日本の標準表記)か「ダリラ」(歌詞の発音)か相変わらず迷うが、やはり後者を採っておく。サムソンが「ダリラ!」と歌っているところに字幕が「デリラ」と出ると、やはり違和感があるので━━。

 これは10月20日上演のライヴ映像。新プロダクションで、ダルコ・トレズニャックの演出、アレクサンダー・ドッジの舞台美術によるもの。色彩的で大がかりな舞台だが、特に時代背景を感じさせるものではない。METの前プロダクションだったモシンスキー演出、リチャード・ハドソン装置の舞台(2001年に日本公演も行われた)に比べれば、より細密で豪華で見映えのするものに思える。

 今回のサムソンはロベルト・アラーニャ。彼の個性からして、あまり古今無双の英雄といった存在には見えないが、わざわざ彼を起用したところからすると、サムソンを神経が細かく、性格にも弱さがある男として描くねらいがあったのかもしれない。この日は、声の調子も少々良くなかったように感じられた。

 一方のダリラを歌い演じたエリーナ・ガランチャは文句なく素晴らしい。気品と美しさと、演技の細やかさと歌唱の良さで、最高のダリラのひとりだと言っていいだろう。
 今回の演出のポイントの一つは━━彼女自身も語っていたが━━サムソンへの憎悪の一方で愛をも捨てきれぬダリラが描かれる点にあり、事実、第3幕では、嘲笑に晒されるサムソンを見るに忍びないといった彼女の演技をしばしば観ることが出来た。

 但しこの日の映像ディレクターは、どうやらそういう演出の主旨や重要な演技には全く関心が無いらしく、専らスペクタクルな舞台の景観を捉えるのに熱心であり、それがこの舞台を単なる派手物と思わせてしまいかねない結果を招いていたのが、なさけないことではあった。
 もっとも演出そのものからして、第3幕の「バッカナール」にも、そのあとの大アンサンブルの場面にも、異教徒の儀式といった演劇的な性格を与えず、単なるバレエ/ダンスとしてのみ扱うという、娯楽性にとどまるものだったのだが・・・・。

 他に大祭司をロラン・ナウリ、太守アビメレクをイルヒン・アズィゾフ、ヘブライの長老をディミトリ・ベロセルスキー。
 指揮はマーク・エルダー。この人、以前(2000年9月)にMETでこの旧プロダクションを観た時にも指揮しており、至極メリハリのない演奏だったのだが、今回は多少改善され、上手くなったようである。

2018・11・15(木)ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィル

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 恒例のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の秋の日本公演。1956年以来、これが第34回になるというから、大したものだ。24日まで行われる7回の公演(うち1回は室内楽演奏会)の、今日は初日である。今回の指揮者はフランツ・ウェルザ=メストで、彼が日本公演で振るのは2010年以来2度目。

 プログラムは、ドヴォルジャークの「序曲《謝肉祭》」、ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」(ソロはフォルクハルト・シュトイデ、ペーテル・ソモダリ)、ワーグナーの「神々の黄昏」抜粋(「夜明けとジークフリートのラインへの旅」、「ジークフリートの死と葬送行進曲」、「ブリュンヒルデの自己犠牲」の後半)。

 「神々の黄昏」での豪壮な大音量での力感はなかなか凄かったものの、ウィーン・フィルにしては些かラフな━━つまり「ウィーン国立歌劇場管弦楽団」としてのルーティン公演のような雰囲気がなくもない演奏であった。ホルンの不調や、金管群と木管群のアンサンブルの悪さは、単なる練習不足ともいえない、何か他の原因によるものではないか?

 「謝肉祭」に至っては、このくらいの演奏なら、他のオーケストラだって━━と思えるような出来だったのである。結局、ブラームスの「二重協奏曲」が最もまとまりのいい、瑞々しさと落ち着きとを蘇らせた演奏だったと言えるだろうか。アンコールではJ・シュトラウスⅡの「レモンの花咲くところ」と「浮気心」を演奏したが、この2曲で面目を保った。
 来週はサントリーホールで別のプログラムを聴く予定。それまでには、彼らもウィーン・フィルの本領を取り戻しているだろうと思いたい。

2018・11・14(水)エフゲニー・キーシン・ピアノ・リサイタル

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 マチネーの演劇を観たあと、そのまま東京芸術劇場に居座り━━といっても近くの店でコーヒーを飲みつつパソコンに向かい、仕事をしていたのだが━━頃合いを見て夜のキーシン・リサイタルに向かう。
 プログラムが変更になって、最初に発表された「ハンマークラヴィーア・ソナタ」などが消え去ったのが残念だ。彼はすでに欧米でこの曲を弾き、好評を得たはずだから、東京でも弾いて欲しかったところだ。
 結局今回の日本でのプログラムは、第1部がショパンの「夜想曲」の「作品55の1」と「62の2」、シューマンの「ソナタ第3番」、第2部がラフマニノフの「10の前奏曲 作品23」からの第1~7番、「13の前奏曲 作品32」からの第10、12、13番となった。

 前回の来日の際に弾いたシューベルトとスクリャービンでもそうだったが、今回の演奏でも、やはりお国もの━━ロシアものの方が、どうしても強いインパクトを残してしまう。ショパンとシューマンでの演奏が意外に淡白に感じられたこともあってか、ラフマニノフの「前奏曲集」での力感に溢れた演奏がいっそう目立つ結果になる。

 ショパンのリリシズムと、ベートーヴェンの豪快なスケルツォの精神とを併せ受け継いだようなこの作品群で、キーシンが聴かせたソロは━━これも以前に比べればやや淡白な印象ではあったのだが━━やはり魅力を感じさせた。豪快な音の奔流の裡に、一つ一つの音が翻り躍って煌めき、素晴らしいアクセントをつける。「作品23の5」の中ほど、哀愁の歌から豪壮な躍動に戻りはじめるあたりの呼吸の巧みなこと!

 アンコールはまたたくさん弾くのではと警戒し、シューマンの「トロイメライ」と、彼の自作の何とかいう「タンゴ」を聴かせてもらったところでこちらは撤退してしまったのだが、そのあとはショパンのポロネーズが弾かれただけであっさり終ったらしい(6日のサントリーホール公演と同じだったのか?)。なんせ去ぬる年には、10時10分までアンコールを弾き続けたこともあった彼なので・・・・(最後まで聴いたが)。キーシンも、そういう面でも淡白になったのか?

2018・11・14(水)野田秀樹作・演出「贋作 桜の森の満開の下」

      東京芸術劇場プレイハウス  1時30分

 1989年に初演された「贋作 桜の森の満開の下」(昨年創られた歌舞伎仕様の「野田版 桜の森の満開の下」とは異なるものの由、私は観ていない)が17年ぶり、3回目(?)の再演。

 野田秀樹自身(ヒダの王)を含め、妻夫木聡(耳男)、深津絵里(夜長姫)、天海祐希(オオアマ)、古田新太(マナコ)、藤井隆(赤名人)ら人気俳優たちが出演する舞台とあって、客席は超満員である。
 今回は9月1日からの東京公演を皮切りに、9月末~10月初のパリ公演を挟み、大阪、北九州と公演して、11月30日から25日まで(休演日あり)、総計59回の公演というから凄いものだ。

 桜の花一色に彩られた舞台(堀尾幸男美術)で、野田秀樹特有の「言葉の遊び」を交えたセリフが猛烈なスピードと大音声で展開される。
 テレビでしか知らなかった深津絵里が、よくまああんなに絶叫と地声とを交互に聞かせる幅広い発声を続けられるものだとか、舞台俳優というものは、本当に咽喉を鍛えているんだなとか、私のような素人ファンは、ただもう感心するばかりである。

 桜吹雪の中に浮かび上がる鬼の顔(面)は、まさに日本独特の素晴らしい「絵」であった。そして、喜劇の裡に正義と権力と鬼性との軋轢が描かれて行くさまも、すこぶる見事だった。4時半頃終演。

2018・11・13(火)サンクトペテルブルク・フィルの「イワン雷帝」

      サントリーホール  7時

 芸術監督・首席指揮者のテミルカーノフが健康を害し、突然来日が中止になったのは痛恨の極みだったが、今回の注目プログラム━━プロコフィエフのオラトリオ「イワン雷帝」(スタセヴィチ編)は、同団の指揮者ニコライ・アレクセーエフにより、当初の予定通り演奏された。

 アレクセーエフは、10年前の新日本フィル客演の際(当時はエストニア国立響のシェフだった)に聴いた時には、かなり豪放な演奏を創る人だという印象を得ていたのだが、今回はまるで別人の如く控えめに、正確に、手堅く、生真面目にこの曲をまとめ上げていたのは意外である。
 曲の中ほど、主人公イワン4世が貴族たちに懇願する場面などではミステリアスな緊迫感を聴かせていたけれども、全体としてはやや平板な演奏になっていたという印象は否定できぬ。御大テミルカーノフだったら、もっとデモーニッシュな雰囲気を創っただろうと思うのだが・・・・。

 しかしとにかく、オーケストラはいい。平板な演奏と雖も、ロシアのオケならではの色彩感と、作品に寄せる共感とがあふれ出ていて、これだけは絶対の強みがある。
 それに今回はニコライ・ブロフによるロシア語のナレーションが付いていたことが、作品の迫力を倍加させていた。このロシア語の語りは、ゲルギエフのCDにもソフィエフのCDにも入っていない(先頃のソヒエフとN響の演奏会ではナレーションが入っていたが、日本語だった)ので、私も今回初めて聴く機会を得たのだが、これが入ると物語が解り易くなり、前述の「貴族への懇願」以降のくだりも含め、音楽だけではあまりピンと来ないところでも、劇的な面白さを味わうことができる。大変有難かった。

 合唱には、東京音楽大学合唱団が出演した。大編成にもかかわらず、クライマックス個所などでは、ロシアの大オーケストラの咆哮に対抗するには、いかにも華奢で繊細な感を免れまい。だが、有名なア・カペラの合唱「タタールの大草原」(「戦争と平和」でも使われた旋律。私の大好きな曲だ)や、終り近くに現われる聖歌「神よ汝の民を守り給え」(チャイコフスキーが「1812年」で使った)などでは、弱音の美しさをよく出していた。これはこれで大健闘だったと思うのだが。

 今回は「フョードルの歌」は浅井隆仁(Bs)により歌われたが、一方アルト・ソロで歌われる「大海原」などを含め、いくつかのカットがあった。また、同じスタセヴィチ版を使用しながらも、指揮者によって曲順も少し異なるようで、今日演奏された曲順は、ソヒエフの指揮したCDより、ゲルギエフが指揮したCDでのそれに近いようであった。

2018・11・12(月)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 サントリーホールでのサンクトペテルブルク・フィルも聴きたかったが、先日(11月3日)にバッティストーニが九州交響楽団を指揮したロッシーニの序曲集とマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」があまりに面白かったので、今日の東京フィルのロッシーニ序曲集とシューベルトの「ザ・グレイト」は如何にと思い、こちらを選ぶ。

 今日演奏されたロッシーニの序曲は、「アルジェのイタリア女」と、「チェネレントラ」と、「セビリャの理髪師」。
 こちらの期待が大きすぎたか、1曲目と2曲目は予想したほど熱狂度が高くなく、アンサンブルの点でも、このオケがオペラのピットで演奏する時のような例の癖が露呈していたのには、少々落胆。練習時間が少なかったか? 
 いつも演奏し慣れているであろう「セビリャの理髪師」序曲に至って、漸くこのコンビらしい熱気と追い込みの良い演奏で、盛り上がりを見せた。

 第2部での「交響曲第8番《ザ・グレイト》」は、この曲のリズミカルな躍動と、溢れるカンタービレとを、あたかもロッシーニの洒脱な活気に溢れた音楽の延長線上に位置づけたような解釈の演奏━━とでも喩えたらいいだろうか。
 もっともこれは、公開GPかどこかでバッティストーニがロッシーニと「ザ・グレイト」との関連性について語っていた、という話を聞いたことから私が解釈したことである。
 シューベルトの交響曲におけるロッシーニ的なものは、「第6番」に最もよく現われているように思うのだが、なるほどこの「ザ・グレイト」においても、特に第4楽章には「リズムに乗ったクレッシェンド」の手法が感じられなくもない。

 バッティストーニは躍動するような快速テンポで、この長大な交響曲をひたすら煽り立て、常にクレッシェンドする音楽━━絶え間ない上昇志向の音楽とでもいうべきものに構築して行った。演奏時間もなんと47分(両端楽章の提示部反復は無し)という短さで、テンポが如何に速かったかを証明しているだろう。
 表情の変化は、主としてデュナミークの頻繁な変化━━細かい漸強と漸弱によって付けられる。これはどうやらバッティストーニの得意技のようである。
 コンサートマスターは近藤薫。

2018・11・11(日)モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」

      日生劇場  1時30分

 「NISSAY OPERA 2018」と「ニッセイ名作シリーズ」の一環、「コジ・ファン・トゥッテ」の新プロダクション。
 演出は菅尾友、ドラマトゥルグは長島確、舞台美術は杉山至、広上淳一指揮読売日本交響楽団とC・ヴィレッジシンガーズ(合唱)。
 ダブルキャストによる4回公演の今日は2日目で、配役は高橋絵里(フィオルディリージ)、杉山由紀(ドラベッラ)、村上公太(フェルランド)、岡明宏(グリエルモ)、腰越満美(デスピーナ)、大沼徹(ドン・アルフォンゾ)。

 日生劇場という安定した組織が制作するオペラとあって、菅尾友の演出にも━━日本のオペラとしては━━かなり思い切った試みがなされている。
 今回のこれは、恋人たちに騙される2人の女性、フィオルディリージとドラベッラを、生身の人間ではなく、AI(人工知能)を持つアンドロイド(人造人間)に仕立てたところがポイントだ。

 こういう発想による演出は、少なくとも日本のメジャーな劇場におけるオペラ上演では例がなかったのではないか。なるほど、優秀なAIを備えた女性アンドロイドが、果たして不倫をすることが可能なのかどうか。それを実験してみよう、という発想は、すこぶる今日的な面白いアイディアである。

 このアンドロイドはまさにキャピキャピの可愛いメイクになっていて、賑やかに跳んだり跳ねたりする演技を、高橋絵里と杉山由紀が実に完璧にこなしていたのには心底感心した。歌唱に関しても、アンドロイドだからといって初音ミクのような歌い方をするわけではない。あくまでも正面切ったスタイルで見事に仕上げている。こういう舞台を演じられる歌手たちが最近増えて来ているのは、本当にうれしいことだ。

 ストーリーそのものは特に読み替えているわけではなく、概ねト書き通りに進められていて━━つまりAIを備えた人造人間でさえ、愛することが出来るのであれば、また心変わりも不倫も可能なのだということが証明されるわけである。
 生身だろうとアンドロイドだろうと、女は女、みんなこうしたものだ━━という男たちの嘆きの三重唱は、こうして見事に生きて来る。

 ただしラストシーンだけは2人の男が正体を現すくだりから少し凝った手法が使われていて、最後はあまり明確ではないものの、騙したつもりの2人の男が、AIを持った女性たちから逆に軽蔑されて終る、ということになるのかもしれない。

 歌手陣の中では、他に腰越満美が芝居巧者ぶりを存分に発揮。通常のスタイルのデスピーナには彼女は少々重いだろう(風格という意味でです)と思われるが、この演出のデスピーナは、第1幕では貫録のある家政婦風のおばさん、第2幕ではその衣装をかなぐり捨てた大姐御として幅を利かせるので、その存在感が存分に生きる。ただ、第1幕でのデスピーナとしての歌唱における発声は些か納得し難いものがあったが・・・・。

 近未来の世界というカラフルな舞台、光の乱舞、スマホにパソコン、宇宙服、ロボットなどの登場、それに登場人物たちの激しい動き━━すべてがフォルティッシモかつコン・ブリオで躍動するハイ・テンションの「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台とあって、第1幕では少々疲労した。だが、第2幕になると感覚が慣れて来て、最後には面白い演出だったという印象が残る。

 広上と読響の演奏は多少粗かったけれども、モーツァルトの音楽の魔術的な素晴らしさを充分に再現してくれていた。音楽さえ素晴らしければ、どんな舞台も輝いて見えるだろう。

2018・11・9(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      サントリーホール  7時

 桂冠指揮者兼芸術顧問アレクサンドル・ラザレフの指揮。彼のロシアン・レパートリーの一環で、今日はグラズノフの「交響曲第8番」とショスタコーヴィチの「交響曲第12番《1917年》」。

 全体の演奏時間は必ずしも長くはないが、音楽の重量感という点では相当なもので、オーケストラもさぞや大変だったろう。しかし演奏自体は、裂帛の気合がこもった誠実な熱演だった。猛将ラザレフならではの牽引力である。
 ショスタコーヴィチの方は火を吐くようなエネルギーに満ち、些か怒号し過ぎるようにさえ思える凄まじさだったのに対し、グラズノフの方は流麗で色彩的で、この曲から予想外(?)の面白さが引き出されていた。金管と木管のソリがいずれも快調だったことも、今日の演奏を輝かしいものにする一因となっていただろう。

 日本フィルは、2回の定期演奏会のうちの初日は概してまとまりの悪い演奏になる傾向があるのだが、さすがに鬼将軍ラザレフの仕込みは完璧。今日は見事な演奏を繰り広げてくれていた。

2018・11・4(日)メノッティ:「電話」「泥棒とオールドミス」

      ザ・カレッジ・オペラハウス  2時

 アメリカの作曲家ジャン・カルロ・メノッティ(1911~2007)のオペラは、かつて東京室内歌劇場が活動していた頃にはいくつか観られたものだが、最近ではなかなかその機会がない。
 今回は2作ダブル・ビルの上演だというので、福岡での九響取材と組み合わせて訪れた次第。大阪音楽大学の第54回オペラ公演、昨年から開始された「ディレクターズチョイス」シリーズの第2弾である。

 電話で長話に耽る恋人に結婚申し込みがなかなか出来ない男が、ついに奇策を思いつくというストーリーの「電話」(今回は「テレフォン」と表示)。
 もう1作は、突然流れ込んで来たイケメンの物乞いの男(大泥棒の脱獄者だという噂もある)に惚れ込み、自らも泥棒を働いてしまった挙句に裏切られるという気の毒な女性が主人公の「泥棒とオールドミス」。
 ━━この明るいコミカルな内容の作品2作を組み合わせ、粟国淳が要を得た演出で爽やかにまとめ上げ、森香織指揮のザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団が演奏した。英語上演の字幕付き。

 主要スタッフは、新垣弘志(舞台美術)、村上まさあき(衣装)、原中治美(照明)。歌手陣は、「電話」が石橋栄実(ルーシー)、晴雅彦(ベン)。「泥棒とオールドミス」が児玉祐子(ミス・トッド)、中嶋康子(レティーシャ)、西尾岳史(ボブ)、田邉織恵(ミス・ピンカートン)。

 粟国淳のこの演出は、極めてストレートなタイプで、シンプルで洒落た雰囲気を備えたものである。歌手たちには、アメリカ人のような身振りとメイクと衣装を設定しているが、それがあまり不自然なバタ臭さ(?)を感じさせなかったのは、演出の良さと歌手たちの力でもあろう(ただしドアのノックは、二つだけ叩くのはおかしいのでは?)。
 電話機はレトロなダイヤル式の固定電話を使っているが、ここでは昔ながらの電話のベルが重要なモティーフとなっているから、これは仕方がない(欧州の演出家なら遠慮なく現代のケータイの音にすり替えたろうが)。

 舞台美術と衣装は極めてカラフルなもの。「電話」で、ベンがルーシーにかける公衆電話は、背景の幕(遮断板)が上がった高所にある。また「泥棒とオールドミス」でのイケメンの「脱走犯」らしき男が泊めてもらっている「2階の部屋」も、上下する幕で仕切られた後方の高所に設定されている。いずれも要を得た適切な舞台づくりだ。

 歌手たちがみんないい。英語の発音は、日本のオペラ歌手たちは一般的に苦手といわれているが、今日の人たちはなかなかよかったと思われる。
 「電話」での石橋栄実と晴雅彦は、これはもうベストの顔ぶれ。堂に入った見事な歌唱と演技で、音楽と舞台とを一分の隙もなく陽気に盛り上げてくれた。

 「泥棒とオールドミス」における出演者も同様、児玉祐子と田邉織恵は中高年の独身女性を賑やかに歌い演じ、西尾岳史も正体不明の青年ボブを爽やかに表現していた。
 出色だったのはレティーシャ役の中嶋康子で、最初は調子のいい可愛いメイドと見えた女性が、最後には怪しげな色気を見せてボブを唆し、主人ミス・トッドの財産を盗んでクルマで逐電するに至る変化を、巧く歌い演じていた。
 かように今回の舞台は、演出と演技が見事に均衡を保っていたといえよう。

 指揮者の森香織は、この2作の音楽をよくまとめていたが、特に「電話」では、もう少し歯切れのいい、軽快で洒落たリズムがオーケストラから引き出されていればさらによかったろうと思われる。
 20分の休憩を含め、4時10分頃終演。ザ・カレッジ・オペラハウス、昨年の「偽の女庭師」(モーツァルト)に続く成功作だ。
   (別稿)モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

2018・11・3(土)バッティストーニ指揮九州交響楽団

     アクロス福岡シンフォニーホール  3時

 あの札幌と横浜での公演に続き、24日に西宮、28日に大分で「アイーダ」を指揮したばかりのアンドレア・バッティストーニが、今度は九州交響楽団の定期公演に登場、ロッシーニの序曲集と、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」(演奏会形式)を指揮。今日もまた熱血の指揮で客席を沸かせた。

 ロッシーニの序曲は「どろぼうかささぎ」と「セビリャの理髪師」と「セミラーミデ」の3曲。1曲目の冒頭の小太鼓のロールと、それに続く行進曲からして、その闊達で開放的な、沸き立つように躍動的な演奏が聴き手の心を捉えてしまう。3曲とも見事な演奏で、九響もまたバッティストーニの全身火の玉のようになって音楽に打ち込む指揮に応え、存分に燃えていたようであった。

 ただ、「どろぼうかささぎ」序曲の第2部が全面的にカットされていたのには納得が行かなかったが・・・・このような版でもあるのかしら? ロッシーニのオペラの版に詳しくない私には何とも言えない。イタリア人で、オペラの指揮にもすでに実績のあるバッティストーニがやることだから、何か根拠があるのかもしれないけれども。いずれにせよ、聴き慣れた音の流れがぱっと飛び、何か不自然な繋がり方を感じさせたのは確かで、今日の演奏の中ではここだけが疑問と不満とを残した。

 「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、文字通りの大爆演である。
 歌手陣は、中島郁子(サントゥッツァ)、福井敬(トゥリッドゥ)、与田朝子(ルチア)、成田博之(アルフィオ)、富岡明子(ローラ)、九響合唱団(合唱指揮・横田論)。
 九響のコンサートマスターは扇谷泰朋。

 バッティストーニは、まさに水を得た魚のようだ。彼の猛烈な指揮が、そして九響の爆発的な大熱演が、このヴェリズモ・オペラを、それに相応しく燃え上がらせる。
 この曲を演奏会形式で━━つまりステージの上にオーケストラが乗った形で聴くのは、私はこれが初めてなのだが、今日のような劇的かつ激烈な演奏で聴くと、オーケストラが如何に雄弁で、感情描写の激しい性格を備えているか、またそのオーケストラが如何に巧くあざとく聴き手を興奮に引きずって行くか、などということがいっそうよく解って来る。
 そして、かつて一部の批評家から「あまりに扇情的」と評されたヴェリズモ・オペラの毒々しいばかりの凶暴な性格が━━19世紀末イタリア・オペラ界を巻き込んだヴェリズモ・オペラの本質のようなものが、いっそうよく実感できるような気もする。
 こういう演奏を引き出すバッティストーニという指揮者、実に得難い才能の持主である。

 それに加え、今日の歌手陣の粒のそろった見事さ。特に福井敬の、大管弦楽の咆哮をも上回るエネルギー全開の歌唱は物凄く、サントゥッツァとの口論の場の締め括りなど、これぞヴェリズモ・オペラの真髄といった表現を噴出させた。先頃の「アイーダ」でのラダメス役に続き、彼は以前にも増して絶好調の状態にあるようだ。中島郁子の、柔らかいがよく透る声も素晴らしい。

 明日の大阪への移動に備え、博多駅前の「JR九州ホテル ブラッサム博多中央」に泊。

2018・11・2(金)ギルバート指揮NDRエルブ・フィル

     サントリーホール  7時

 旧称ハンブルク北ドイツ放送交響楽団、変じてNDRエルブ・フィルハーモニー管弦楽団。トーマス・ヘンゲルブロックの後任として来年秋から首席指揮者になるのがアラン・ギルバート。彼はすでに2004年から15年まで首席客演指揮者を務めていたことがある。

 以前(2009年11月16日)にハンブルクでこのコンビの演奏を聴いた時には、プログラムが極端に渋く硬派なものばかりだったこともあって、ステージも客席も寒々とした雰囲気だったし、この指揮者とオーケストラは果たして良き相性なるや否やとさえ疑ったほどだった。
 が、今日演奏されたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソリストはルドルフ・ブッフビンダー)とブルックナーの「交響曲第7番」を聴いてみると、彼がオーケストラとともに創り上げる音楽はすこぶる立派なものになっており、以前とは別人の如き風格を備えるに至っている。彼の成長を物語るものだろう。

 そしてまた彼は、この独墺の作曲家の名曲を、この楽団の伝統的な、重厚で強靭な意志に富んだ個性の中に、自らの瑞々しい感性を加えて生かそうとしている━━そんな意欲が感じられる演奏だったように思う。
 プログラム冊子掲載のインタビューによれば、今回のプログラムはヘンゲルブロックが考えたものとのこと、それを変更せずに持って来たところに、ギルバートの自信が窺える。

 ブルックナーの「7番」は、何の衒いもない自然体の構築による演奏だ。伸びやかさにあふれ、しかも落ち着きが感じられ、音色も美しい。ハーモニーも澄んでいて、ブルックナー特有の気品に相応しいところがある。最強奏の頂点に向けて進むクレッシェンドでの力感もなかなかのものであった。
 ただそれが、未だ楽譜上の正確さとか几帳面さとかいった演奏にとどまり、心に沁み込んで来る深み━━これは曖昧な表現で、結局は聴き手個人の受容の問題でしかないが━━のようなものには不足しているだろう。これは、両者の関係におけるキャリアからいって仕方のないところかもしれない。

 ベートーヴェンの協奏曲の方は、当初の予定ではエレーヌ・グリモーが来て演奏するはずだった。彼女の来日中止は全く痛恨の極みである。代役として駆けつけてくれたのはウィーンの大ベテラン、ルドル・ブッフビンダーだった。
 グリモーに比べれば、ある意味で常識的な、オーソドックスな路線にとどまってしまったわけだが、しかし彼にも独墺系ピアニストならではの味があり、地元産のベートーヴェンともいうべき重厚で真摯な演奏を聴かせてくれたのは確かである。

 またこの曲では、オーケストラも、実に厚みのある「ドイツ魂」のような演奏を打ち出していた。かりにソリストがグリモーだったら、オケはこういう音を響かせただろうか? NDRのオーケストラは、ここではギルバートにではなく、ブッフビンダーに合わせた演奏を行なったのではないかという気がしてならない。もちろん、ギルバートもそれを納得していたのだろうが。

 しかし、何となく久しぶり━━のような気がする━━に聴くこのドイツ魂の風格にあふれたベートーヴェンには、心の温まるような思いにさせられる。ブッフビンダーがアンコールで弾いたベートーヴェンの「テンペスト・ソナタ」のフィナーレと、バッハの「パルティータ第1番」の「ジーグ」も同様である。不思議に安堵させられる(?)演奏だった。

2018・11・1(木)ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン

     サントリーホール  7時

 「シューマン交響曲ツィクルス」第2日で、「交響曲第3番《ライン》」と「第4番」。
 過剰なほど濃厚な表情は昨日に変わらないけれども、作品の性格の違いの所以でもあろう、前日の演奏よりは少し落ち着いて来たような気もしたが━━しかしアンサンブルはやはり粗っぽい。到底これが昔、しっとりした味の「いぶし銀のような」と言われたあのシュターツカペレ・ドレスデンと同じオーケストラとは思えぬほどだ。かりにこれが指揮者の意図によるものだったら、随分と罪作りなものである。

 「ライン」は、特に快速楽章は、すこぶる力感的な演奏だ。オーケストラは昨日と同じ弦14型編成を採っているが、その音量と、噴出するエネルギー感は相変わらず強烈である。こういう演奏で聴くと、特に最終楽章でシューマンが意図的に仕組んだ微細なリズムの組合せも、一種のカオスのような響きに陥ってしまい、本来の洒落た味を失ってしまう。

 むしろ、陰翳を含んだ叙情的な第2楽章と第4楽章が出色の演奏だった。ものものしいところはあるが、勇猛果敢な勢いで煽り立てられることもないので、シューマン本来の姿にやや近づいたような気分になる。そこではティーレマン得意の「矯め」も時に効果的に使われており、アッチェルランドの呼吸の巧さなどでも、彼の良さが発揮されている。

 「第4番」の方は、演奏にも格段のまとまりが出て来て、しかも風格を感じさせるようになっていた。
 昨日よりは今日、1曲目よりは2曲目━━といった具合に、だんだんオーケストラの演奏がまとまって来るあたりは、やはりプレイヤーたちのメンタルのコンディションの所為なのか? 
 いずれにせよ、ティーレマンの激烈な解釈も、悲劇的な要素も含んでいるこの「第4番」での方が、より良く生きていたようだ。とりわけ内声部の動きの表情が豊かで、これは作品からいっそう魅力を引き出すもととなっていた。

 というわけで、このティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンのシューマン交響曲全集━━今回の演奏が彼らの本当のスタイルなのかどうかは、疑ってかかる必要もありそうである。本拠地ドレスデンあたりでもう一度改めて聴いて見ないと、判断しかねるような気がする。しかし、この名だたるコンビともあろう彼らが、そんな保留を必要とするような演奏を、こともあろうにこの東京でやるとは意外であった。
    (別稿)モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

※コメントでティーレマンのシューマンを絶賛されている「無記名」さん、「4番」にはフルトヴェングラーで入ったから、とのこと。なるほど、これは納得です。(実は私もフルトヴェングラーからだったのですが・・・・)。

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