2018-11

2018・10・31(水)ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン

      サントリーホール  7時

 強豪クリスティアン・ティーレマンがシュターツカペレ・ドレスデン(ザクセン・ドレスデン州立劇場管弦楽団)と繰り広げたのは、シューマンの交響曲全4曲連続演奏。今日は初日で、「第1番《春》」と「第2番」。

 所謂ロマン派の詩人━━繊細で多感な作曲家シューマンという一般的なイメージに対し、これほど距離を置く解釈を押し通した演奏は、滅多にないのではないか。
 豪放磊落、疾風怒濤、風神雷神・・・・とは少々オーバーだが、しかしそんな表現も合いそうな激烈な演奏だったことは確か。つまり仁王の如き力感と、強靭なエネルギーの爆発を持ったシューマン像が出現したようなものだ。

 それぞれの曲の両端楽章での荒々しい推進力は、躍動する時にも控えめで神経質な情感の動きが漂うというシューマンのイメージを、完全に超えたものだろう。ティンパニやコントラバスの唸りには、おどろおどろしい物凄さが聴かれることもしばしば。
 そして一方、「第1番」の第2楽章や「第2番」の第3楽章などの緩徐楽章に湛えられているシューマン特有の詩的なリリシズムさえ、この日のティーレマンの手にかかると、随分と濃厚で、色っぽいものに聞こえてしまう。

 ティーレマンのこの十数年来の指揮をいろいろ聴いていると、多かれ少なかれ、何かに憑かれたような「猛烈さ」が噴出していることが感じられるのは事実だ。だがそれにしても今回のシューマン解釈には、ある意味でそれが歯止めの利かない段階にまで来てしまったような・・・・。
 オーケストラの演奏の荒っぽさの方は、指揮者の注文によるものもあろうが、もしかして旅行疲れということもあるのか? それともツアーの中で、どこかの国で力任せの演奏でもやって、その影響がまだ残ってでもいたのだろうか?

 ただ、そういう騒々しい(と敢えて言わせていただこう)演奏ではあっても、ティーレマンの指揮は、音楽的な多彩さを常に備えている。内声部の動きがはっきりと浮かび上がり、シューマンのオーケストレーションもなかなか凝ったものだということを実感させてくれたのは確かであった。
   (別稿)モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

2018・10・30(火)IL DEVU リサイタル

     HAKUJU HALL  7時

 望月哲也(T)、大槻孝志(T)、青山貴(Br)、山下浩司(Bs)、河原忠之(pf)の5人からなる重量グループ、「IL DEVU」(イル・デーヴ)━━5人の総体重が500Kgだという(そんな風にも見えないけれど)ユーモアあふれる巨漢の集団で、このホールでももう何度かリサイタルをやっており、大変な人気である。私もここで2回ほど聴いた(2017年7月13日他)。

 今日は「哀愁のIL DEVU」という、例の如く捻ったタイトルが付けられているが、信時潔から山田耕筰からシューベルトから、あるいは新実徳英、高嶋みどり、上田真樹、大島ミチル、カッチーニ、木下牧子他といった多彩な歌曲が取り上げられ、それらが決して余興的な性格の歌唱ではなく、本格的な演奏として構成されていたのが素晴らしかった。河原のピアノも、作品に応じて表情を変えて行く巧みな演奏だし、男4人のダイナミックな歌も見事だった。

 ━━と、最初はそこまで書いて閉じるつもりでいたのだが、職業上、止むを得ず一言、疑問を出しておかねばと思う。
 特に最後のプログラム、「世界民族哀愁愛唱ソング」でなのだが、この客席数300のよく響くホールなのにもかかわらず、4人がまるで2000人の大ホールで歌うかのように最強音で咆哮を続け、ピアノも異様に怒号しまくるため、曲も編曲も(森田花央里の編曲は面白そうな感じだったのに)、旋律もハーモニーも、すべて音響的カオス状態になるという印象を呈してしまったのである。ロックのコンサートじゃあるまいし、大音響の快感に浸るだけでは能があるまい。御一考を請う。

2018・10・29(月)内田光子ピアノ・リサイタル~シューベルト

      サントリーホール  7時

 2回に分けてのシューベルトのソナタ・ツィクルスの第1夜。今日は「第7番変ホ長調D568」、「第14番イ短調D784」、「第20番イ長調D959」。

 かつては、彼女のシューベルトには、求道者のように自らを突き詰めた、緊張感の権化のような演奏が聴かれたものだった。それは素晴らしいけれども、正直なところ、聴いているとヘトヘトになってしまうこともあったくらいである。
 だが今、彼女の演奏は、それを超えた円熟の境地というのだろうか━━緊迫度の強い演奏には変わりないが、かつてのようなピリピリした雰囲気の代わりに、聴き手の感性を丸ごと、あたたかく包み込んでしまい、それを強い力で捉えたままどこまでも離さない、というようなものになって来たように思う。

 1曲目の「D568」が開始された瞬間の快い陶酔感は、筆舌に尽くし難い。芯の強い音で、毅然たる構築性を感じさせる演奏でありながら、音楽は深々とした情感を湛えて鳴り切っている。そして3曲がこのように明快な構成と生気溢れる躍動感を以って演奏されて行くのを聴くと、もともと好きなシューベルトのソナタの数々が、いっそう恍惚的な魅惑を覚えさせるものになって行く。

 もちろん、内田光子特有の極度に沈潜した演奏も随所に聴かれるのであって、緩徐楽章では言うに及ばず、「D784」冒頭のような、「アレグロ・ジュスト」でありながらアダージョにも等しい遅いテンポを採った個所にさえ、深い物思いに沈むような表情が現われる。
 そうした演奏には、私は必ずしも率直にはついて行けぬものを感じてしまうことがある。だがそれらもすべて強靭な集中性につらぬかれているため、凡庸な演奏で(と言っては失礼だが)シューベルトを聴く時のような「居眠り」などに陥る余裕(?)など全くなく、ただひたすら彼女の音楽に耳を澄ませてしまうことになるのである。

 それにしてもこの3曲を、それぞれ異なった色合いで性格づける彼女の演奏の見事さには、毎度のことながら、舌を巻くほかはない。
 古典的な佇まいをも感じさせる「D568」、激烈なデュナミークの対比に彩られた「D784」、滔々たる壮大な流れを持った「D959」。3曲目の終楽章が終った時には、何か不思議な、言いようもない大きな到達点に導かれたような想いになったのだった。

 アンコールには、モーツァルトの「K330」のソナタの、第2楽章が演奏された。

2018・10・27(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  2時

 ブルックナーの「交響曲第9番」と、「テ・デウム」。ブルックナーが、「私がこの交響曲の第4楽章を完成できないままだったら、代わりに《テ・デウム》を演奏してくれ」と「遺言」したという伝記に基づく形である。

 しかし、ブルックナーがこの件をどんな状況の中で、どういう話の流れの中で、どういう意図で行なったのか、それを明確に伝えている資料には、私はまだお目にかかったことはない。むしろたとえば、「どうしても第4楽章がなければ示しがつかぬというのなら、代わりにこの《テ・デウム》でもやればいいだろう」程度のニュアンスではなかったのか、という気もするのだが━━。

 その是非はともかくとして、今回は、この2曲が休憩なしに続けて演奏された。
 第2楽章のあとで合唱団(新国立劇場合唱団)がP席に入場した。ただし声楽ソリスト(山口清子、清水華澄、与儀巧、原田圭)は第3楽章が終ったところでオーケストラ後方に入場するという方法が採られたので、第3楽章が神秘的に終るとすぐにアタッカ同然で「テ・デウム」が爆発するといったような「衝撃的効果」は生まれなかった。ただ、この形の有機的な意味合いを知る聴衆は、第3楽章のあとでは、賢明にも拍手を控えていた。

 合唱は、人数はそう多くなかったものの、力強いハーモニーを聴かせていた。女声は多少絶叫調になるところもないではなかったが、この曲の性格上、仕方がないかもしれない。声楽ソリスト陣もほぼ無難というところだが、何かその歌唱全体に安定したものが感じられず、落ち着きがなかったのはどうしてだろう。

 いや、今日は、主役のはずの新日本フィルが、異様に不安定で、荒っぽかったのだ。ヴァイオリンはいつになく硬くて鋭く(ブルックナーの音楽なのに!)、ワーグナー・テューバもアンサンブルから浮き上がって粗く、そのアンサンブル全体にも、あちこち綻びが聴かれた。
 上岡と新日本フィルの演奏はこれまでたくさん聴いて来たが、今日ほど散漫な演奏にはかつて出逢ったことがない。先日のR・シュトラウスの作品集では、このコンビの呼吸も合って来たなという喜びを味わったのに、今日はそれが無惨にも打ち砕かれた思いだ。

 第1楽章の第63小節からのフォルテ3つによる豪壮な爆発の個所にしても、金管群を陰翳ある音色で響かせようとするいつもの上岡の意図は窺われたのだが、それが完全に達成されていなかったため、むしろブルックナー特有の清澄なコラール的性格を失わせる結果にしかならなかったのである。濁った響きほど、ブルックナーの作品の本質を誤らせるものがあるだろうか? 

 上岡のブルックナーは、私にはどうも「いじり過ぎ」のような気がしてならない。彼がしばしば楽譜の指定以上に長く取るゲネラル・パウゼは、緊迫感を持って生きるどころか、ブルックナーの交響曲特有の壮大な滔々たる流れをその都度停止させてしまう結果を招いていたのだ。敢えて言えば、今回ほど流れの悪いブルックナーの交響曲の演奏は、かつて聞いたことがない。彼の交響曲は、やはり自然な構築によってのみ、真価を発揮するのではないか?(※) 

 R・シュトラウスの作品のように、最良の意味での手練手管を発揮した音楽の場合には、どんな演出も効果を発揮するだろうが、ブルックナーの音楽が持つ高貴な性格は、なによりも率直さによって生まれて来るものなのではないか━━ということを改めて考えてしまうような、今日の演奏であった。

※フルトヴェングラーが指揮した「9番」のように、テンポが激しく動きながらも、魔性的な性格が非凡な形で打ち出された演奏は、例外である。

2018・10・26(金)METライブビューイング「アイーダ」

     東劇  6時30分

 ソニヤ・フリゼル演出、ジャンニ・クアランタ舞台美術によるMET定番の豪華絢爛のプロダクション。
 出演は、アンナ・ネトレプコ(アイーダ)、アニータ・ラチヴェリシュヴィリ(アムネリス)、アレクサンドルス・アントネンコ(ラダメス)、クイン・ケルシー(アモナズロ)、ディミトリ・ベロセルスキー(ラムフィス)、ライアン・スピード・グリーン(エジプト国王)。指揮がニコラ・ルイゾッティ。

 今年のMETの開幕公演(9月24日)は新演出の「サムソンとダリラ(デリラ)」だったが、「ライブビューイング」の方は26日にシーズンプレミエされた「アイーダ」が先になった。これは、前者の映像収録が10月20日だったのに対し、後者は既に10月6日に収録されており、しかも題名役にアンナ・ネトレプコが出ていた、ということのためであろう。

 そのネトレプコ、さすがの存在感。もともとこの演出は豪壮華麗な舞台の景観を優先し、微細な演技はあまり要求していない傾向があるが、それでもその様式の中で、彼女の演技はひときわ目立っていた感がある。特に第2幕第1場の最後、アムネリスに突き放されて絶望のどん底に陥った瞬間での彼女の歌と演技の見事さには、心を揺り動かされるものがあった。
 一方、恋敵役のアムネリスを歌い演じたラチヴェリシュヴィリも、最大の見せ場たる第4幕前半では全力投球の熱演で、責任は果たしていただろう。ただ、悲劇的な緊張感には少々乏しいような。

 男声歌手陣の方は、今回は少々冴えない。とりわけ問題なのはアントネンコ。冒頭の「清きアイーダ」など、声がフラフラで、この人、もしかしたら━━と冷や冷やさせられた。ただし第2幕以降は盛り返し、特に第4幕など、アムネリス相手に冷然・昂然たる歌と演技で応酬し、何とか面目を保った感。それでも最後のカーテンコールでは、METでは珍しくブーイングが飛んでいたから、観客も気になっていたのだろう。

 歌手には好不調の波があるものだから、それゆえある程度は仕方ない。が、ルイゾッティの指揮の緊迫度の低さには落胆した。確かに昂揚点ではそれなりの盛り上がりもあるし、またオーケストラを綺麗に鳴らすという良さはあるけれども、叙情的な緩徐個所になると、途端に音楽の勢いが弛緩して来る。
 のんびり、ゆったりした演奏を聞きつつ、先日のバッティストーニの、少し粗削りではあるが歯切れのいい、燃え立つような意気にあふれた指揮を思い出したのも、一度や二度ではなかった。

 しかしともかく、この「アイーダ」で使われているMETの舞台機構には、何度見ても圧倒される━━特にエレベーターを使った舞台の上下。「凱旋の場」冒頭で、前舞台が兵士たちを乗せたまま下降して来て、それが大群衆の並ぶ大神殿前の場面と合体する━━などという大デモンストレーションは、他の歌劇場ではちょっと真似できない大技では? 
 そういえば、カメラワークにも毎回新たな趣向が凝らされていると見えて、今回はシーリングの位置から捉えた映像も多く使用され、特にバレエの場面では面白さを発揮していた。終映は10時25分頃。

2018・10・24(水)ジュリアード弦楽四重奏団

     ヤマハホール  7時

 ジュリアード弦楽四重奏団━━といえば、私のような世代の人間は、いまだにあのロバート・マンがリーダーの地位にいた頃の演奏イメージから離れられない。それゆえ現在のこの四重奏団は、演奏スタイルから言えばもはや別の名称で呼びたいくらいに思えてしまうのである。

 それはともかく、今回来日したメンバーはアレタ・ズラ(1vn)、ロナルド・コープス(2vn)、ロジャー・タッピング(va)、アストリッド・シュウィーン(vc)。
 第1ヴァイオリンは、2011年から務めていたジョセフ・リンが今年春に退団(このところ交替が早い)し、この9月からアレタ・ズラに替わった。
 他にも前回(2年前)の来日のあとでチェロがジョエル・クロスニックからシュウィーンに替わったのだから、結局、今回は2人が新しいメンバーになって来日したわけだ。弦楽四重奏団としては大変な変わりよう━━ではないか?

 今日のプログラムは、ハイドンの「へ長調Hob.Ⅲ.82《雲が行くまで待とう》」、バルトークの「第3番」、ドヴォルジャークの「第11番ハ長調」。
 当然、興味の焦点は、この四重奏団がどのように変貌したか、ということになる。
 一口に言えば、しっとりして綺麗な演奏だ━━穏やかで、あたたかい。バルトークでさえ、切り込むような鋭さというスタイルからは既に遠く、落ち着いた古典的な佇まいを見せる。これが今の「ジュリアードのバルトーク」なのか。感慨を抑えきれぬ。ハイドンも、ドヴォルジャークも、実に美しい・・・・。

2018・10・21(日)ジョヴァンニ・アントニーニ指揮読売日本交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 読響の「マチネー・シリーズ」だが、プログラムが普通の大オーケストラの演奏会ではなかなか聴けないような趣に富んでいて、これはユニークな企画だった。読響の客演アーティスト選定とプログラミングの多彩さには、つくづく感服する。

 で、そのプログラムは、ヴィヴァルディの「ドレスデンの楽団のための協奏曲ト短調」、同「マンドリン協奏曲ハ長調」、J・S・バッハの「マンドリン協奏曲ニ短調」、ヴィヴァルディの「リコーダー協奏曲ハ長調」、最後にハイドンの「交響曲第100番《軍隊》」というもの。マンドリンがアヴィ・アヴィタル、リコーダーがアントニーニ自身、コンサートマスターが日下紗矢子という布陣。

 こうした大ホールで思いもかけず聴く機会を得たヴィヴァルディの作品が、何とまた新鮮で美しく爽やかに感じられることか。最近の東京芸術劇場のこのホールも、オルガン席の反響板の調整の故か、すこぶる響きが良くなって来ているだけに、バロックのコンチェルトを実に豊かに響かせる。

 マンドリンを演奏したアヴィ・アヴィタルは、イスラエル出身で、今年40歳とのこと。生命力にあふれる、胸のすくような闊達極まるソロで2曲のコンチェルトを演奏してくれた。バッハのコンチェルトの原曲は、あの「チェンバロ協奏曲第1番」だが、その編曲はアヴィタル自身によるものだそうである。彼はアンコールにも自作の「プレリュード」からの小品を弾いてくれたが、これもまた、なんとまあ華麗で鮮やかで、見事なこと。

 後半のプログラムで、アントニーニが「吹き振り」としてリコーダーを演奏し始めた時、彼が指揮する際の軽やかで表情豊かなジェスチュアは、明らかにこのリコーダーを吹く際の身振りと深い関連性を持っているのだということに気がついた。つまり大きな、しかも自然な息づきにあふれているのである。テンポ感に不自然さがなく、演奏の流れに快さが感じられるのは、そのためであろう。
 「軍隊交響曲」での彼の指揮は、相変わらず音の動きのすべてを自らの身体の動きで体現するかのような大きな身振りだ。時には指揮台の上でしゃがみ込むような姿になったかと思うと、それが不知火型の土俵入りのように両手を拡げた姿のまませり上がり、オーケストラの昂揚を引き出すといった具合で、賑やかだが、音楽の流れがいいので面白い。

 なおその「軍隊」では、読響の上に、アントニーニがピリオド楽器オケで創り出す独特の楽器のバランス感や音色が既にはっきりと刻印されていた。先日のベートーヴェンの協奏曲や交響曲では、未だ聴かれなかったタイプのものである。1週間のうちにここまで指揮者に合わせて音色を変えてしまう読響の柔軟な能力は、たいしたものと言わなければなるまい。

2018・10・20(土)ヴェルディ:「アイーダ」

     神奈川県民ホール 大ホール  2時

 10月8日に札幌芸術文化劇場で観たジュリオ・チャパッティ演出のプロダクションと同一の舞台。

 指揮も同じアンドレア・バッティストーニだが、配役が別キャストで、アイーダがモニカ・ザネッティン、ラダメスが福井敬、アムネリスが清水華澄、アモナズロが今井俊輔、ランフィスが妻屋秀和、エジプト国王がジョン・ハオ、巫女が針生美智子、伝令が菅野敦。
 またこちらではオーケストラが東京フィルハーモニー交響楽団に、合唱は二期会合唱団のみとなった。バレエは、札幌における顔ぶれと同一である。

 札幌公演の時には、演出について少なからぬ不満を述べたが、しかし今日、こちらの歌手の組による上演を観ると、演出指示を少し変えたのではないかと思うくらい、演技の微細な点について工夫が加えられていたので、少々驚いた。もっとも、関係スタッフに確認したところでは、それは演出家の指示ではなく、むしろ歌手たち個人の工夫に由るところが大きいだろうとのことだったが。

 特に目立った例では━━たとえばエチオピア王アモナズロが、娘アイーダが将軍ラダメスを恋していることを彼女の表情から見抜き、すべての状況を一瞬で把握する演技、あるいは自らもエジプトに人質として留め置かれることを聞かされた瞬間にアイーダへ秘かに送ってみせる合図の演技などにおいて、今日の今井俊輔は、極めて微細な巧妙さを見せていた。
 そして、それに対応するエチオピアの捕虜たちの表情も、札幌で観た時よりも今日はなんだかいっそう微細になっていたような気がしたのだが・・・・。

 そして誰よりも演技が細かかったのは、エジプト王女アムネリス役を歌い演じた清水華澄だ。第1幕におけるアイーダとの恋敵としての確執を示す表情といい、第2幕の幕切れでアイーダがエジプトに留め置かれることを聞かされた時の複雑な表情━━恋敵が引続き傍にいるというのは彼女にとって不愉快なことに違いないからだ━━といい、また第4幕での怒りと絶望の演技の表現といい、いずれも見事なものだった。これは、近年の彼女の成長ぶりを示すものであろう。

 この2人を含め、声楽的にも今日は強力だった。ラダメスを歌った福井敬の強靭な声は、まさに「武人」の気魄に相応しいものである。妻屋秀和も堂々たる体躯を生かして風格の祭司ランフィスを演じ、ジョン・ハオも安定したエジプト国王を歌った。
 ただ、アイーダのザネッティンは、可憐で美しい表情が悲劇的なエチオピア王女にぴったりだし、声も綺麗ではあるのだが、「勝ちて還れ」や「おお我が故郷」での切羽詰まった感情を表現するには、声の力の点でちょっと無理があるのかも━━と思われる。

 バッティストーニは、その昔のトスカニーニさながら、歌手たちを己が快速のテンポに巻き込みながら、猛烈にたたみかけて行く。それは胸のすくようなテンポであることは事実だが、しかし演奏全体にもう少し余裕といったようなものがあってもいいような気がする。打楽器を強調したり追加したり、あるいはラストシーンで恋人たちの慟哭と祈りの合唱とが同時に響く個所でのスフォルツァンドを劇的に強調したりするなど、普通以上に煽り立てるところも多いのは、気鋭の若手指揮者ならではの意気込みだろう。
 ただし第4幕の「裁判の場面」冒頭でのコントラバスを抑制するあまり、それよりも最弱音でと指定されている低音の金管に打ち消されてしまったのは疑問だが・・・・。

 彼と気心の合ったパートナーである東京フィルも、今日は凄まじい馬力を発揮した。いかにも荒っぽいところはあるものの、新国立劇場で出しているようなスカスカの音よりは、このくらい勢いのある鳴りっぷりの方が余程マシである。

 ━━それにしても、この「アイーダ」というオペラ、劇的な面での「持って行き方」といい、管弦楽や声楽パートにおける微細な心理描写といい、何と巧みに、見事に創られた作品であろう! 
 第2幕の最後、大合唱が終ったあとのオーケストラの結びにアイーダ・トランペットを再現させてその主題を印象づけるヴェルディの芝居上手の作曲法。
 あるいは第1幕の「征け!ナイルの岸辺に」で始まる大合唱の中、ただまっすぐに勝利を信じてグランディオーゾで歌うラダメスと、それに合わせて同じ主題を歌おうとするアイーダながら、祖国を敵とする矛盾に心が乱れ、旋律は大きく揺れ、リズムもシンコペーションでずれにずれるという巧みな心理描写の作曲技法。

 後者では、そこを歌う際のアイーダの演技が注目されるのだが、今日のザネッティンは、微妙に苦悩の表情を浮かべるという手法を採っていた。

2018・10・18(木)マウリツィオ・ポリーニ・リサイタル

     サントリーホール  7時

 プログラムは二転三転し、結局今日は、第1部がショパンの「ノクターン」の「作品27」2曲、「マズルカ」の「作品56」3曲、「ノクターン」の「作品55」2曲、「子守歌」。第2部がドビュッシーの「前奏曲集第1巻」。アンコールがドビュッシーの「花火」。

 28日の北京公演はどうだったか知らないけれども、7日の東京初日はシューマンとショパンのプログラムを予定通り全部弾き切り、アンコールも2曲弾いた由。そのあとで「腕が痛い」という状態になり、11日の東京公演が21日に延期になったのは周知の通りだ。
 そして今日のプログラムも、当初はシェーンベルクとベートーヴェン(「悲愴」と「ハンマークラヴィーア」)だったのが、前記のように変更されたというわけである。

 「ハンマークラヴィーア」を聴くためにチケットを買ったのだから代金と交通費を返してもらいたい、と主催者にクレームをつけていた人を受付で見かけたが、まあ、気持は解らないでもない。
 どう話がついたのか、その人をあとで2階ロビーで見かけた。よく見たら、ふだんあまり話をしたことはないけれども知っている某氏だった。未だ口惜しがっているようなので、「70歳代も半ばになれば予定通り行かないもんですよ、かのバックハウスも、ベートーヴェンのソナタ全集をステレオで再録音した時、《ハンマークラヴィーア》だけはついに弾く体力が残っておらず、旧モノーラル録音を再利用したことがあったじゃないですか、ドビュッシーを聴けるだけ有難いと思わなくちゃ」と妙な慰めをして納得してもらったのだが・・・・。

 そのポリーニ、ステージ上の歩き方を見ると、随分年とったな、と思わせるが、演奏はやはり非凡である。
 ショパンの作品集では何となく打ち沈んだモノローグのような演奏で、若い頃のポリーニだったらこういう演奏はしなかったろうに、と思わせたが、ドビュッシーになるとそれが一転する。穏やかな語り口ながら、その表情の多彩さは、円熟期に入ってからのポリーニがついに到達した幽遠自在の世界を感じさせたのではないか。

 たとえば、「デルフィの舞姫たち」の第4小節目、pから膨らんだ音がppの高所から降りて来る音に変わる個所で、一瞬にして神秘的で透明な音色へ変化する鮮やかさ。
 そして、「花火」の3連音符のppでうごめく音群と、第3小節目以降の各1拍目でぱっと閃く高い16分音符(時には8分音符)の、遠い幻影のような澄んだ音色。
 ━━こういうドビュッシーが聴けただけで、私はこの上なく満足である。

 アンコールは1曲だけだったが、終了を知らせるために客席の灯が点いても拍手はいっこう鳴りやまず、スタンディングの聴衆は何度もポリーニを舞台に呼び出した。こういう光景は、めったに見られるものではない。

2018・10・16(火)ジョヴァンニ・アントニーニ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 イル・ジャルディーノ・アルモニコの指揮者として有名なジョヴァンニ・アントニーニが客演。ハイドンの歌劇「無人島」序曲、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはヴィクトリア・ムローヴァ)、同「交響曲第2番」を指揮。コンサートマスターは日下紗矢子。

 1小節ごとに、いや、音符という音符がすべて新鮮に響き、一つ一つのフレーズが面白い、というタイプの演奏だ。しかもそれらが、わざとらしさを全く感じさせない。殊更なテンポの小細工もなく、天馬空を行くといったような颯爽たる運びで構築されて行くのが、たまらない魅力である。

 「第2交響曲」には、もともとデュナミークの対比が激しく、頻繁に強弱が入れ替わるという性格があるが、アントニーニの手にかかると、それらの強奏すべてに鋭いアクセントが加わり、衝撃的な効果を生み出す。こういう演奏を聴くと、ベートーヴェンが同時代の作曲家の中で如何に奔放で「規格外」の作曲家だったかということが、いよいよ明確に印象づけられるだろう。

 「ヴァイオリン協奏曲」では、ソリストにムローヴァを迎えるという豪華な布陣で、この日最高のスペクタクルな、スリリングな演奏が繰り広げられた。アントニーニの指揮にも劣らない彼女の挑戦的な、攻撃的な表情のソロが際立ち、カデンツァを含めた一音一音に大胆で斬新な、変幻自在の音の躍動が籠められる。演奏時間も約38分というテンポの速さ。胸のすくような演奏だった。

 「無人島」序曲というのは、残念ながらどうも面白いとは思えなかったが・・・・。 
 アントニー二は、以前バルトリとの協演映像で観たのと全く同じように、賑やかな指揮ぶりである。

2018・10・13(土)大野和士指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 「ジャン・フルネ没後10年」、「ドビュッシー没後100年」の記念演奏会と題して、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」、ドビュッシーの「イベリア」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲が演奏された。コンサートマスターは四方恭子。
 名指揮者フルネが亡くなって、もうそんなに時が流れたのかと、改めて感慨に浸る。都響に寄贈された彼の愛用のスコアがいくつかロビーに展示され、人々の眼を惹いていた。

 大野和士は、リヨン歌劇場の指揮者として実績を上げ、フランス政府の芸術文化勲章、フランス批評家大賞、リヨン市特別メダルなど、さまざまな栄誉を受け、高く評価されたことは周知の通り。そのためだけということではないけれども、彼の指揮するフランス音楽は極めて優れたものだと私は思う。

 事実、今日のプログラムでは、彼の最良のものが発揮されていたように感じられた。「ローマの謝肉祭」は、あまりにきっちりとまとまり過ぎているような印象を受けるものの、バランスの良さと推進力の豊かさという点では見事なものだった。

 だが何より鮮やかだったのは、「イベリア」と、「ダフニスとクロエ」だったであろう。
 前者の、特に「夜の香り」でのミステリアスな世界における物憂げな雰囲気と、「祭の日の朝」での躍動的な明るさ━━それらを整然たる構築の裡に繰り広げて行く演奏。そして「ダフニス」に入ると、一転して木管群が官能的な色合いを湛えて渦巻きはじめるのだが、その解放的な雰囲気の見事さにはハッとさせられるほどだった。熱狂的な終結の頂点に至るまで、音楽の形が全く崩れないのもいかにも大野らしい。
 しかも今日は都響がまた実に鮮やかな演奏を聴かせてくれた。特に木管群は賞賛されていいだろう。

  協奏曲でのソロは、リーズ・ドゥ・ラ・サール。彼女の清澄なピアニズムは、私の好きなタイプの一つだ。ちょっと冷徹な部分がなくもないが、気品のある表現がいい。アンコールで弾いたドビュッシーの「パックの踊り」も澄みきっていた。

 余談だが、都響は終演時に全員で客席に答礼するシステムを取り入れたのかと、先頃の演奏会ではそう思ったが、久しぶりで聴いた今日の演奏会では、何人かがバラバラとお辞儀をして、あとの楽員たちは何となくお辞儀をするのやら、しないのやら、その瞬間に顔を見合わせたりしていて、中途半端な雰囲気に終った。するならする、しないならしない、とはっきりさせた方がいい。われわれ客だって、真剣にあなた方の演奏を讃えて拍手しているのだから。

2018・10・12(金)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      サントリーホール  7時

 首席指揮者インキネンが振ったのは、シューベルトの「交響曲第5番」と、ブルックナーの「交響曲第9番」。共通した要素と、対照的な性格とを併せ有した、佳い組み合わせのプログラミングだ。

 インキネンが日本フィルハーモニー交響楽団と組んだブルックナーの交響曲は、これまで「8番」と「5番」を聴く機会があったわけだが、今日の「9番」での演奏は、「8番」の延長線上にある性格を示したもの、と言っていいだろう。
 沈潜したテンポを採り、オーケストラの巨大かつ緻密な建築を豊かな響きの裡に活かし、ブルックナーの音楽における荘重さを重視した演奏だ。それが決して重苦しいとか、暗いとか、物々しいおどろおどろしさとかいったものに陥らず、清澄で洗練された色合いを失わないところが、インキネンならではの特徴である。
 先頃のブルックナーの「5番」では鋭角的な響きの構築を優先していたことを思い出すと、インキネンは中期と後期の交響曲へのそれぞれのアプローチの違いをこのような角度で考えているのか━━ということが理解出来るような気もする。

 ブルックナーでの演奏は、それはそれで立派だった(第1楽章の初めの方ではちょっとおかしな個所が二つほど聴かれたが)。だが演奏の完成度の点では、今日の演奏会では、やはりシューベルトの方が上だったのではないか。その軽やかで澄みきった美しい瑞々しさは、まさにインキネンが、ほぼ60年ぶりに日本フィルに蘇えらせたもの━━と敢えて言わせてもらおう。
 なお今日はこのシューベルトの演奏の際、1階客席に前シェフのラザレフ将軍が堂々と陣取って聴いていた。そのカリスマも何かの形で影響していたか? コンサートマスターは扇谷泰朋。

2018・10・10(水)「ゲゲゲの先生へ」

     東京芸術劇場プレイハウス  7時

 前川知大のオリジナル脚本と演出。
 題名を見れば一目瞭然、あの水木しげるへのオマージュとして、「自然」と「愛」への憧れが全体のモティーフとなっている戯曲である。強欲な人間どもと、悪戯者だが本来の性格は悪くない妖怪たちとの葛藤を通じ、生きることの幸福とは何かということなどが描かれるのも予想通り。
 主演の佐々木蔵之介が演じるのは「半妖怪」の、「ねずみ男」をモデルにした「根津」という男だ。共演は白石加代子、松雪泰子、手塚とおる他。2時間休憩なしの上演。

 私も子供の頃はかなりの幽霊信者で怖がり屋だったが、それは特に小学校低学年の時に、家にあったたくさんの怪談本を読み漁ったせいもあるだろう。そのせいで、床の間や部屋のどこか一角が、夜な夜な幽霊の出入口になっているのだと想像してみたり、誰もいない真っ暗な奥座敷の方から突然ピアノの激しいグリッサンドが聞こえるのではないか(それは下行音でなくてはならない)とか、いきなり物凄い顔をした女が現われるのではないかとか想像したり、ラジオの怪談ドラマを聞いては怖くて布団をかぶったりと、━━つまり想像力にかけては人後に落ちない子供だったので・・・・。
 「ゲゲゲの鬼太郎」も、テレビのアニメでなく、本で読んだ世代である。本の方が、周囲に静寂が立ち込めているので、余計に怖い。

 ただし今回のこの戯曲は、世相風刺的、喜劇的、かつ妖怪哲学的な内容で、全然「怖く」ない。それはそれでいいとしても、台詞運びとドラマの進行が少々くどいので、些か退屈してしまった。登場キャラに重ねたという「水木ワールド」の性格があまり明確に感じられなかったこともその一因ではなかろうか。
 今月21日まで上演。その後、11月23日までの間に、松本、大阪、豊橋、宮崎、北九州、新潟でも上演予定の由。

2018・10・8(月)札幌文化芸術劇場杮落し公演 ヴェルディ:「アイーダ」

    札幌文化芸術劇場hitaru  2時

 朝8時発のANAで広島から札幌に飛ぶ。

 札幌の新しい大劇場、「札幌文化芸術劇場」がついに完成した。ニックネームを「ヒタル」という由。
 それは市街の中心部、有名な「時計台」のすぐ近くに竣工(今年5月末)した巨大な複合文化施設「さっぽろ創世スクエア」の中にあり、「札幌文化芸術交流センター」および「札幌図書・情報館」とともに「札幌市民交流プラザ」の一角を成す(名称が複雑でややこしい)。地下鉄「大通」駅にも近く、その意味ではアクセスも実に便利である。ただし、劇場のエントランスに着くためには、エスカレーターで延々4階まで上がって行かなくてはならない。劇場の1階席入口は、更にそこから1階上だ(時間ぎりぎりに行くのは避けた方がよさそうだ)。

 劇場内はプロセニアムの幅が20m、高さが14m、舞台も奥行約40m。客席数は2302。4階席まであり、重厚で落ち着いた雰囲気を持つ広大な空間が印象的だ。
 この日は1階席15列下手側で聴いたが、音響が予想以上に良いのに感心。平土間席にもかかわらず音が「散る」ことなく、舞台上の声楽も、ピット内のオーケストラも、バランスよく豊かに響いて来るのが有難かった。これが年月を経て建材も馴染んでくれば、更に良くなるだろうと思う。

 この「アイーダ」は、「グランドオペラ共同制作」と号され、このあと神奈川県民大ホール(20・21日)、兵庫県立芸術文化センター(24日)、大分のiichiko総合文化センター(28日)でも上演されることになっている。
 札幌では、ダブルキャストによる昨日と今日の上演。今日の配役は、木下美穂子(アイーダ)、城宏憲(ラダメス)、サーニャ・アナスタシア(アムネリス)、上江隼人(アモナズロ)、斉木健詞(ランフィス)、清水那由太(エジプト国王)、松井敦子(巫女)、菅野敦(伝令)。

 合唱には二期会合唱団(60名)と札幌文化芸術劇場アイーダ合唱団(16名)、バレエは東京シティ・バレエ団員を含む総勢18名、兵士などの助演が計26名。それにアイーダ・トランペット6名(東京フィル協力)、バンダは陸上自衛隊北部方面音楽隊(上手い!)。
 オーケストラが札幌交響楽団、指揮がアンドレア・バッティストーニ、演出がジュリオ・チャバッティ(原演出マウリツィオ・ディ・マッティア)という顔ぶれ。

 ラダメス役としては、当初西村悟が発表されていて、彼がどんなラダメス将軍を歌うかと期待していたのだが、いつの間にか変更になっていた。だがこの代役、城宏憲が、特に後半では胸のすくような伸びのいい歌唱を聴かせて大成功。彼を聴くのは3月の「ノルマ」のポリオーネ以来だが、新世代の日本のテナーとして楽しみな存在である。
 木下美穂子のアイーダも意志強固な王女としての性格を巧く表現していたし、アナスタシア(王女アムネリス)も後半に調子を出して行った。
 上江のエチオピア王アモナズロと斉木の司祭ランフィスも凄味を発揮して好演だったが、清水那由太のエジプト国王には、もう少し丁寧な歌い方を望みたいところ。

 今回の上演では、合唱団が力も美しさもある好演を聴かせた。テナーのパートは少々粗いところもあったけれども、女声合唱がいい。特に第2幕「凱旋の場」の前半で━━「グローリア」の大合唱が一段落した個所での、「コメ・プリマ」のカンタービレと指定されている個所で女声合唱が聴かせた、透明かつ清澄な音色には、ハッとさせられたほどである。

 そして札幌交響楽団が、瑞々しい弦楽器群を中心に、これまた見事な演奏を聴かせてくれた。
 指揮のバッティストーニは例の如く獅子奮迅の指揮ぶりで、エネルギー全開の演奏をつくり出し、打楽器群を通常以上に強調させて、昂揚個所ではそれこそ劇場全体を震撼させるような大音響を轟かせたが、札響もよくこれについて行ったものである。だがそのようにオーケストラを鳴らしながらも、歌手の声をマスクさせることなく、うまく響かせるように持って行ったところなども、この若い指揮者の力量を認識させるだろう。彼に寄せられた拍手と歓声の大きさからみると、彼の札幌での人気は、極めて高いようである。

 最後に、演出。ローマ歌劇場のプロダクションを持って来たというが、これはもう、絵に書いたような(?)伝統的な手法で固められた舞台だ。
 「グランドオペラ」だと最初から謳っているから文句も言えまいが、しかし━━いくら写実的な演出だとはいっても、もう少し演技の点で、ドラマトゥルギーを備えた心理描写を導入できないものか? ラダメスをめぐってのアイーダとアムネリスの微妙な鞘当て、ラダメスの苦悩の心理、アモナズロとアイーダの父と娘の葛藤などといったような、ドラマの重要な転回点においてさえ、棒立ちのまま苦渋の表情を浮かべる程度の演技しか行わないのでは、昔、1950年代に「イタリア・オペラ」がブルーノ・ノフリの演出で持って来た頃の「アイーダ」から、一歩も進化していないではないか。
 写実的な舞台が一概に悪いと言っているのではない。が、かりにその範囲内であっても、オペラをドラマとしてもっと掘り下げるための視点が、今どきの演出ならもっと欲しいのである。

 なお、第2幕の「凱旋の場」は、大軍団を行進させることはせず、あまり多くない数の兵士や僧侶たちと、美しい衣装を着た女性たちの合唱を登場させ、バレエに重点を置いた構築の舞台で進められた。新国立劇場のゼッフィレッリ版のような大規模な舞台など、世界的にも滅多に創れぬ今日この頃、これはまず妥当な手法であろう。
 舞台転換は幕を下ろさず、柱など大道具を移動するさまを観客に見せながら行う個所が多かった。疑問点と言えばひとつ、第4幕の幕切れ、墓に「閉じ込められた」アイーダ及びラダメスと、2人の平安を祈るアムネリスとを同一平面上に配置したのは、意図的なものとはいえ、やや安直な大道具という印象とともに、劇的な効果を欠いたのではないか。

 休憩は第1幕のあとと第2幕のあとに各25分間挿入され、終演は5時半少し過ぎ。カーテンコールは数回繰り返され、客席は沸いていた。
 終演後のロビーはすこぶる混雑。客の「動線」はよろしくなく、劇場から出るにも恐ろしく時間がかかるのは、改善の余地大である。

 ともあれこうして━━多目的劇場とはいえ━━札幌に本格的なオペラを上演することの可能な劇場が、初めて誕生したのだ。この劇場は、北海道にいっそう優れたオペラ文化を確立させる役目を担うべき責任を持っているはずである。果して、今後どのような展開が見られるだろうか?

 明朝8時発JALでの帰京に備え、千歳駅近くの某ホテルに泊まる。当初予約していた新千歳空港の中のホテルが、先日の地震直後に閉鎖され、「どこか別のところにお泊り下さい」と言われて慌ててネットで抑えたのがこの某ホテルだったのだが、安いのだけが取り柄。二度と泊まるところではない。

2018・10・7(日)下野竜也指揮広島交響楽団

      広島文化学園HBGホール  3時

 午前11時52分発の「みずほ」で広島に入る。「みずほ」の車両に乗ったのは今日が初めてだが、普通車の指定席は東海道・山陽新幹線の普通車とは格段の違いで、2-2の配列である上に、椅子の座り心地も良いのには感心した。

 広島駅周辺は赤一色━━というのもオーバーだが、広島カープの最終戦の日とあって、街には一段と熱気があふれているよう。
 広島駅から会場に向かうために乗ったタクシーの運転手氏は、広島の観光の現状についていろいろ面白い話をしてくれたのはいいが、話に夢中になるとスピードを大きくダウンしてしまうのと、信号で止まっている間じゅう猛烈な貧乏ゆすりをやるので、クルマが終始ぐらぐら揺れ続けるのには、些か閉口した。

 広島交響楽団の方は、音楽総監督・下野竜也の指揮による10月定期。
 プログラムは、スメタナの交響詩「ブラニーク」と、カレル・フサ(1921~2016)の「プラハ1968年のための音楽」をそれぞれ最初と最後に置き、中にブルックナー~スクロヴァチェフスキ編の「アダージョ」(弦楽五重奏曲より)と、ドヴォルジャーク~中原達彦編の「わが母の教え給いし歌」を挟むという、かなり渋い選曲。コンサートマスターは佐久間聡一。

 このうち、スメタナとフサの作品は、フス教徒の賛歌「汝、神の戦士たち」を引用した愛国の念にあふれた歌ともいうべき音楽であることは周知の通り。そこに「愛」を絡ませるというコンセプトで、いかにも下野竜也らしい、凝ったプログラミングである。下野は広島でも相変わらず凄い企画をやっている━━ということは、東京にも知られて然るべきである。

 こんな渋いプログラムで、お客さんの反応はいかがなものなりやと思ったが、いざ始まってみると、俗受けするはずの派手な「ブラニーク」よりも、地味なブルックナーの方が拍手も大きかった。広島のお客さんも、相当したたかだ。
 実際、1階席中央で聴いていると、「ブラニーク」では低音域が全然響いて来ないので、音楽の重心が高くなり、シンバルをはじめ高音域の音ばかりが突き刺さるように飛んで来る印象となってしまい、少々耳が疲れたということはある。管の一部にも不安定なところがあったし、それらが興を殺いだということも否めまい。

 しかし、それに対してブルックナーの弦楽合奏版では、弦が極めて瑞々しく響き、不思議なことにこの曲では低弦の音も明確に、バランスよくあふれ出て来たのだった。

 「プラハ1968年のための音楽」では、下野と広響は渾身の熱演。
 ワルシャワ条約軍のチェコスロヴァキア侵犯と、それによる「プラハの春」の民主化運動の壊滅という状況を憤るこの凄まじい音楽の迫力を、余すところなく描き出した演奏であった。ショスタコーヴィチの交響曲「1905年」に似た手法が感じられなくもない作品だが・・・・。
 ともあれ意欲的なプログラム、意欲的な演奏で、これは聴きに来た甲斐があったというものである。下野と広響も、快調の様子。

 下野はプレトークも行なった。今日は深刻な内容のプログラムであるためか、いつもと違ったボソボソとした喋りで少々聞き辛かったものの、選曲の主旨と作品の内容を解り易く説明したのはいいことだろう。
 フサの作品の演奏が終ったところで、「《怒り》で終った曲のまま皆さんにお帰り願うのは忍び難いので、ドヴォルジャークの愛に満ちた曲をもう一度」という趣旨のスピーチを行い、それをアンコール演奏とした。
 終演後にも彼は、事務局員、何人かの楽員たちとともにロビーの出口付近で客に挨拶しながら、その最後の1人が帰るまで見送り続けていた。
 4時50分頃終演。

 私の方は、明日の札幌行きに備え、広島空港に隣接する「エアポートホテル」に宿泊。広島市内からはおそろしく遠い。

2018・10・6(土)モーツァルト:「魔笛」沼尻竜典指揮、佐藤美晴演出

      びわ湖ホール  3時

 序曲のさなかに物語の誕生を演技で描く「3人の童子」が象徴する人物は、モーツァルトと、シカネーダーと、・・・・もう一人は誰か? 

 ともあれ、冒頭のこの場面といい、あるいは幕開き直後の、受験勉強を強いられ発狂寸前になっている少年タミーノを救うべく、スプレーを噴射して周囲の大人たちをゴキブリか蚊の如く退治してしまう3人の侍女たちの場面といい、今年2018年6月17日に日生劇場で上演された時の舞台より、はるかに流れがよくなっているのに感心した。あれ以降、日生劇場で公演を重ね、甲府と大分でも公演してきた成果だと思われる。
 今回のびわ湖ホール公演は、この劇場のシリーズ「沼尻竜典オペラセレクション」の一環として行われたものだ。

 配役も合唱団も、前回(6月17日)に観た時と全く同じ。
 オーケストラだけが日本センチュリー交響楽団に変わっているが、この演奏は、なかなか活気があって、爽やかだ。ピットの中は見えないけれど、楽団事務局の話によれば、コンサートマスターに同団首席客演コンマスの荒井英治が、トップサイドには神奈川フィルの第1コンマス崎谷直人が座っていた由。

 オーケストラの響きの良さには、びわ湖ホールの音響の良さも好影響を及ぼしていただろう。沼尻芸術監督の指揮も冴えていて、今日はいつも以上に、モーツァルトの音楽の素晴らしさを堪能できた。そしてまた、モーツァルトがこの最後のオペラで、オペラのあらゆる様式を合体させた━━と謂われる所以が、その音楽の美しさとともに、より強く実感できたのである。

 歌手陣では、タミーノ役の山本康寛の成長が目立つ。パミーナ役の砂川涼子の伸びやかな歌いぶりも冴えていて、実に快い。
 パパゲーノ役の青山貴のコミカルな歌と演技もさらに見事で、前回にも書いたことだが、とてもこれがあの威厳たっぷりのヴォータンを歌う人と同じ歌手とは信じられないほどである。
 夜の女王役の角田裕子は前回同様に美しく劇的な声だが、今日はなぜかあの超高音の前後の音程がちょっと「決まらない」感。だが、娘を連れ去られた母の悲しさと怒りとの表情を使い分ける顔の演技の巧さは、すこぶる見事だ。

 前回気になったセリフの弛緩したテンポは、モノスタトスのモノローグの場面を除けば、少し早くなっているようで、全体としては聴きやすくなった。かなり「今ふう」のセリフが多いが、これはこの演出には合うだろう。
 その佐藤美晴の演出には活気があり、演技の細かい表現の点では、新国立劇場のケントリッジの演出などより、はるかに深く読み込まれていると言っていいほどだ。新解釈によるストーリーの上での整合性には、いくつか理解しにくいところや、納得できないところもあり、ザラストロの世界の変化の過程が唐突に過ぎるのではないかという疑問もあるが、全体としては面白い発想であると評価したい。

 終場面で、ザラストロと夜の女王が和解するくだりは、日生劇場での上演の時よりも、解り易くなっていた。頽廃したザラストロの世界で苦悩する者たちに憐みの感情を抱いて手を差しのべるタミーノの姿は、これはまさにパルジファルとも共通する解釈だ━━とは、今日舞台を観ている時に感じたことである。

 6時10分頃終演。明日の広島行きに備え、JRで新大阪に出て、駅前の「ホテル新大阪」なるところに投宿。

2018・10・5(金)ブルガリア(ソフィア)国立歌劇場「カルメン」

       東京文化会館大ホール  6時30分

 ギリシャ悲劇のスタイルを応用したビゼーのオペラ「カルメン」というのは、初めて観た。 
 演出のプラーメン・カルターロフが「カルメンは、古代ギリシャ悲劇の傑作に登場する女性キャラクターとよく似た運命を持っている」と語っている(プログラム冊子掲載)のを知って、なるほどそこから持って来たか、と思い当たった次第である。
 もちろん、厳密なギリシャ悲劇の形を採っているわけではなく、それをイメージに取り入れた舞台、というわけだが。

 白い仮面をかぶった黒衣の合唱団が舞台後方の階段に半円形に位置し、兵士や女工や群衆の合唱を受け持ち、かつ登場人物たちの動きに対し、身振りで深い関心や怒りや同情を示す。
 そして3人の運命の女神━━ここでは男性が演じる軍神のような姿━━は、「神々の黄昏」のノルンよろしく、運命を織り成す「綱」を携え、ホセとカルメンの感情の動きに応じて演技するほか、2人の主たる活動の場である手前の大きな回転舞台を、時には「運命の車輪」として回す役目をも担う。

 それ以外の登場人物に関しては━━衣装は、比較的リアルなものだ。
 だが演技の面では、写実主義的な部分と象徴的な部分とが交錯するので、劇的な緊迫感などは、さほど生じていない。隊長スニガの演技があまりに静止的なので、ここにドラマの集約点でも秘められているのかとも思ったが、そうでもなかった。

 ちょっと捻ったところと言えば、ふつうなら「ハバネラ」の場面でカルメンがホセに興味を示して誘惑するのだが、この演出ではむしろ最初からホセが一方的にカルメンを追いかけ始める、という点などだろう。たしかに彼はミカエラに対し、さほど深い愛情を示してはいなかったようだが━━。
 また回転舞台の一角には「ハバネラ」以降、一輪のバラが床に差されたままとなっていて、これがドラマの中心モティーフとなっているようである。カルメンはそのバラをホセに投げないし、ホセも「花の歌」を歌う際にバラを小道具に使ったりはしない。
 そのバラが初めて移動するのはラストシーンである。刺されたカルメンは倒れず、そのバラを高く掲げて見つめたまま、回転舞台中央に立ち尽くす。そして暗転、幕切れ。象徴的な光景で、これはすこぶる印象的だ。

 キャストは、カルメンがナディア・クラステヴァ、ドン・ホセがコスタディン・アンドレエフ、エスカミッロがヴェセリン・ミハイロフ、ミカエラがツヴェタナ・バンダロフスカ、その他の人々。
 歌唱はみんな、まず無難な出来を聴かせていたものの、人によっては少し大雑把なところがある━━特にドン・ホセ役のテナーは、「竜騎兵」や「花の歌」を、もう少し丁寧に歌ってもらいたいものである。他にも、第2幕の五重唱をはじめ、練習なしでやったのではないかと思うようなケースもしばしばあり、コロスとしての合唱団のアンサンブルも、よろしいとは言い難い。
 なお、この合唱とソリストを含め、概して声楽があまり客席に響いて来なかったのは、彼らのホームグラウンドの劇場と、この文化会館のキャパシティと舞台構造の違いに慣れなかったためか? 特に第1幕ではそれが気になった。

 指揮は、原田慶太楼が受け持った。最近、一部で注目を集め始めた指揮者だけに、ここで彼の指揮を聴けたのは幸いであった。ビゼーのオーケストラ・パートの多彩さを、これだけ随所で浮き彫りにしてくれた演奏は、私は滅多に聴いたことはない。その意味では、ちょっと面白い個性の指揮者であると言えよう。
 ただ、彼の持つ音楽のスタイルが、この「カルメン」の音楽に合っているのかどうかは、一概には判断し難い。概して、沸き立つ熱気に乏しいきらいがあるのだ。もっともそれが、この少し冷たい舞台の「カルメン」には合っていたかもしれないのだが。

 プログラム冊子掲載の原田慶太楼へのインタヴューによれば、彼はこの上演のためにギローのレシタティーフを削除し、自らセリフを書いたとのこと。
 音楽にも多少のカットや異同がある━━もっとも「カルメン」の楽譜の場合には、どれがオリジナルだとかいう議論は至難を極めるが━━たとえば第4幕前の間奏曲には「物売りの合唱」の音楽をオーケストラだけの演奏で使用し、「アラゴネーズ」の方は幕が開いてからのバレエとして使用していた。

 第2幕冒頭の「ジプシーの踊り」は、最弱音と極度に遅いテンポで始められたが、これは昔マゼールもやった手法で、「煙草と麻薬の巣窟の如き物憂げで頽廃的な雰囲気を感じさせる」と評されたものだ。ただしマゼールの場合には、クライマックスへの加速とクレッシェンドに、見事な仕掛けがあったのだが、今回の原田の構築では、それがなかなか盛り上げられず、最後のオーケストラの個所だけが突然爆発的になるという手法だったため、熱気が不足し、劇場的効果を発揮できなかった憾みがあるだろう。

 全曲最後のオーケストラの最強奏による後奏の上にホセの「カルメン!」という一言を乗せたのは、以前にも誰だったかがやった手法だが、今回は原田の指示だろうか? これは劇的効果を強調するよりもむしろ、ここの音楽が持つ崇高な悲劇性を失わせる結果となり、私は全く賛成できない。

 というわけで、いろいろ良し悪しはある。しかし、このユニークな「カルメン」、ちょっと面白かった。東欧の歌劇場も面白いプロダクションをつくるものだ、と認識を新たにした次第である。

2018・10・4(木)フォーレ四重奏団演奏会

      横浜みなとみらいホール 小ホール  7時

 メンバーはエリカ・ゲルトゼッツァー(vn)、サーシャ・フレンブリング(va)、コンスタンティン・ハイドリヒ(vc)、ディルク・モメルツ(pf)。
 一昨年の来日公演で「展覧会の絵」を演奏したのが評判になったはずだが、私は聴き洩らした。今日もアンコールで「卵の殻をつけた雛の踊り」と「キエフの大門」を演奏してくれたが、やはりナマで聴くと一種の破壊的な凄さが感じられて面白い。聴いておくべきだったと思う。

 ところで今日は、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲」の「第1番ト短調」と「第2番変ホ長調」を核に、UKやアメリカのPopsongsを編曲したのを組み合わせたプログラム。
 それも両者を第1部と第2部とに分けるのでなく、第1部をモーツァルト━━Pops、第2部をPops━━モーツァルト━━Popsという具合に構成しているのだから洒落ている。このPopsongsの数々━━つまり「Here Comes The Flood」とか「Charlie Freak」とかいった曲なのだが、編曲(編曲者は知らない)の出来には多少ムラがあるものの、さほど悪くはない。最後の「Wonderful Place」のように、聴衆に口笛で参加させる演奏もあったりして、原曲を知っている人には面白く聴けるだろう。

 ただし、原曲を知らない━━例えば私のような者からすると、それらを純粋にモーツァルトの音楽と同列に置いて聴くわけだから、そこに些かの感覚的なギャップが生じてしまうのは致し方あるまい。
 結論としては━━この団体の演奏するモーツァルトの並外れた素晴らしさだけが印象に残ったということ。

2018・10・3(水)新国立劇場 新シーズン開幕「魔笛」初日

     新国立劇場オペラパレス  6時30分

 大野和士芸術監督時代の幕開きの上演作品は、モーツァルトの「魔笛」。
 ウィリアム・ケントリッジの演出と美術が最大の売りものだった。既に欧州の他の歌劇場でも上演されたプロダクションの由だが、それは一向構わない。

 演奏は、ローランド・ベーア指揮東京フィルハーモニー交響楽団と新国立合唱団、スティーヴ・ダヴィスリム(タミーノ)、林正子(パミーナ)、アンドレ・シュエン(パパゲーノ)、安井陽子(夜の女王)、サヴァ・ヴェミッチ(ザラストロ)、升島唯博(モノスタトス)、九嶋香奈枝(パパゲーナ)、成田眞(弁者他)、増田のり子・小泉詠子・山下牧子(3人の侍女)他。

 今回はドラマトゥルグについてはクレジットがないところを見ると、演出もケントリッジ独自のものなのだろう。
 だがこの舞台、彼得意のドローイング・アニメを多用した「装置」を除けば、ドラマのコンセプト、読み込みと解釈、登場人物の演技などを含めた演出そのものには、さほど新味は感じられない。ごく常套的なスタイルに属するものにとどまっている。

 またその肝心のドローイングにしても、ステージにさまざまな図柄(?)が投映され、ズームが繰り返され、というだけでは・・・・まあ、ある程度の幻想味は出るだろうけれども、どうひいき目に見ても趣向に乏しく、敢えて言えば凡庸に属すると言わねばならぬ。
 私がこれまでに観たケントリッジの舞台━━METの「鼻」(2010年3月18日2013年10月8日)、ザルツブルク音楽祭での「ヴォツェック」(2017年8月8日)、METライブビューイングで観た「ルル」(2016年1月18日)に比べても、今回の「魔笛」の舞台は、何ともウィットや変化に欠けたものだった。

 指揮者ベーアは手堅く音楽をまとめ、東京フィルも序曲の途中から演奏が引き締まって行った。歌手陣も概ね手堅い歌唱を示し、特に安井陽子は夜の女王の至難のアリアを2曲とも見事に歌い上げた。

2018・10・1(月)ブラッドベリ原作 白井晃演出「華氏451度」

     KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉  2時

 いきなり焚書の光景に始まる「華氏451度」。
 恐怖的な思想管理体制が敷かれた近未来の時代、本の所持は一切禁止され、人々はテレビやラジオ(携帯電話やスマホも)から流れる情報にのみ頼らなければならない。ゆえに人々はわずかその数日間の出来事や情報のみに支配されて生き、書物によって知るべき過去の「知性」に接する機会を妨げられ、知的な判断力を失っている━━というドラマだ。
 「華氏451度」というのは、紙が発火する温度のことである由。上演台本は長塚圭史。

 米国の作家レイ・ブラッドベリ(1920~2012)がこの原作のSF小説を書いたのは、1953年のことだという。当時のアメリカはマッカーシズム(赤狩り)の嵐が吹き荒れ、共産主義への恐怖感が拡がっていた時代でもあった。

 もっとも今日、この寓話に秘められた予言は、原作者が予想しなかったかもしれない形で現実化しているだろう。
 物語に登場する大学教授が言う━━「実のところ、ファイアマン(ここでは焚書を任務とする特殊部隊を指す)なんてほとんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に(本を)読むのをやめてしまったのだ」(プログラム冊子掲載、白井晃のエッセイから)。

 自らその特殊部隊の一員だった主人公の青年が、その社会に疑問を抱き、僅かな数の人々ともに再生を目指すというラストシーンに、心ある観客は仄かな希望を感じるのみ、ということにでもなろうか。
 出演は、吉沢悠、吹越満、美波、草村礼子、堀部圭亮、粟野史浩、土井ケイト。上演時間は2時間弱で、休憩なし。10月14日まで上演。

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