2018-12

2007・6・30(土)パッパーノ指揮ローマ・サンタ・チェチーリア国立アカデミー管

     東京オペラシティ コンサートホール  6時

 アントニオ・パッパーノが、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団を指揮して、「イタリア系」の曲を指揮。実に豊麗艶麗、開放的な明るい音色で活気あふれる見事な演奏を披露した。これまで聴いた中で、今回が最も水を得た魚のような演奏になっていたのではなかろうか。

 ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」の冒頭から、艶のある弦がはじけて魅了する。吹き上げる金管の痛快なこと、なるほどこれはローマの雰囲気そのものの曲だと初めて認識した次第。

 続くはパガニーニの「ヴァイオリン協奏曲第1番」。これほど活気のあるオーケストラ・パートの演奏は滅多に聴けまい。
 このオーケストラのパワーに対し、庄司紗矢香が一歩も退かず応戦して大拍手を浴びた。このところ日本のオーケストラとの協演では妙にバリバリ弾きまくるような印象を与えていた彼女だったが、それがこのアクセントの強い華麗な音色のオーケストラとの演奏になってみると、実に自己主張の明確な、生々しい感情の迸り出る音楽となって聞こえるのには驚嘆した。
 これだけダイナミックに躍動しながらも、その演奏は決して粗く弾き飛ばしていない。どの音符もきちんと整理され、寸分の隙もない。彼女は本当にすばらしいヴァイオリニストになったものだと思う。第1楽章があまりに鮮やかだった反面、第3楽章では若干音量が下がって音楽にパワーが不足した感があったのが惜しいか。

 パッパーノはその第2楽章のあと譜面をめくり、フィナーレに入る直前に間を取るようなジェスチュアを示したために聴衆が一息入れてざわついてしまい、この結果第3楽章冒頭のピチカートの軽快なリズムと、庄司が弾き出した弾む弱音がはっきり印象づけられなかったのも残念である。

 後半は、レスピーギの「ローマの噴水」と「ローマの松」。
 前者の「真昼のトレヴィの噴水」での全合奏の豊麗な音色、後者の「カタコンブの松」での弦の厚みのある壮麗な音色、いずれもこのオーケストラが卓越した存在であることを印象づけた。3方のバルコン席に配置された金管群も含めて、「アッピア街道の松」がこれほどバランスよく演奏された例は日本では稀かもしれない。危惧されたこのホールの音響上の制約に対しても、彼らは実にうまく対応していた。
 アンコールには、プッチーニの「マノン・レスコー」間奏曲と、更にロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲からの「スイス軍隊の行進」。

2007・6・26(木)若杉弘指揮読売日本交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  7時

 若杉が読響を振るのは、実にほぼ30年ぶりのことだという。彼がかつて常任指揮者を務めた時代、いろいろ対立があったことはもう一般には記憶が薄れているが、オーケストラ内部には、「若杉には金輪際うちのオケの指揮はさせん」と言い張っていた楽員が、つい最近までいたという話も聞いた。
 
 まあ、そういう内情はともかく、今日のコンサートに関する限り、メシアンの「われらの主イエス・キリストの変容」の演奏は、きわめて立派なものだった。特に金管を中心とする豊麗なハーモニーが強い印象を残す。曲自体はちっとも面白いものでも感動的なものでもないが、この2時間近い大曲をスケール大きく描きだした指揮者とオケのコラボレーションは讃えられてよい。

 ただ問題は合唱(新国立劇場合唱団)のラテン語の発音の曖昧さで、子音の響きが全然聞こえず、台本を読みながら聴いていてもどこを歌っているのかさっぱり判らぬというお粗末な状態。
 今月のプログラムに、60~70年代の若杉=読響の輝かしかった活動について一文を寄せる。

2007・6・26(火)パレルモ・マッシモ劇場

   「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「道化師」
     Bunkamuraオーチャードホール  7時

 おなじみ二本立て。失礼ながらイタリアのローカル・オペラだからどうせ旧態依然の舞台だろうと勝手に思い込んでいたら、どうしてなかなかのモダンな雰囲気の舞台装置。
 前者はトラディショナルな地方色の衣装と演技だったが、後者はかなり現代的な衣装だった。ただし、ロレンツォ・マリアーニという人の演出にはさほどの新味はなく、どちらかといえば前者の方がまとまっている。後者は、現実と芝居とが混同されていく過程の描き方が全く平凡で、息詰まるスリルなど皆無、甚だ退屈な舞台だった。
 歌手陣は概してあまりぴったり来ないルックスの人ばかりで、歌唱はまず無難といった程度か。指揮のマウリツィオ・アレーナはじっくりと歌わせる。オーケストラが立派なのには感心した。

2007・6・25(月)MMCKオーケストラ

    かずさアカデミアホール・メインロビー  6時

 大友直人とアラン・ギルバートが「創設芸術監督」をつとめる Music Master Course in KAZUSA を初めて訪れる。アクアライン経由で行くと、東京からほぼ1時間で着く。
 今年が第7回。PRの薄さもあって、東京のジャーナリストにも聴衆にもほとんど知られていないアカデミーだ。講師と受講生(今年は27人)には外国人も多い。2週間と少しの開催期間中、東京での室内楽とオーケストラ各1回の演奏会を含む公開演奏会もいくつかやっているという。

 会場は千葉県上総の田園の中にある「かずさ・アカデミー・パーク」のアカデミアホールだ。千葉県も援助して維持されている恐ろしく立派な建物である。近くにはホテルオークラもある。だが、立派なメインホールは音響の悪さで音楽会には使えず、ロビーの仮設ステージを利用しなければならないという制限があり、わずか200人足らずの椅子しかない。
 演奏会の質やロケーションなども含めて考えると、PMFなどと違って街のイヴェントという要素に乏しい。少数の地元の客を吸収するのがせいぜいというのも致し方ないだろう。

 大友はしかし、涙ぐましいほど一所懸命やっている。彼は外国には行かない反面、日本にアカデミー生を招いて日本の音楽界を世界の重要な教育起点にしたいという理想を持っているようである。それにしても今年で7回目とは、よく続いているものだ。サマー・スクールという面では、もっと知られて然るべき存在だろう。

 今日のオーケストラコンサートは、大友の指揮でベートーヴェンの「交響曲第7番」、アラン・ギルバートの指揮でシューマンの「交響曲第1番《春》」。

2007・6・23(土)第3回仙台国際音楽コンクール本選2日目(最終日)

    仙台市青年文化センター・コンサートホール  4時

 協演はパスカル・ヴェロが指揮する仙台フィルハーモニー管弦楽団。
 チャイコフスキーを弾いたイリヤ・オフチニコフ(ロシア、1983年生)は、所々雑な部分もあるが、輝きのある音色の、自国の作品への共感を備えた活気のある演奏が好感を呼んだ。
 次いでベートーヴェンの「4番」を弾いたヴャーチェスラフ・グリャーズノフ(ロシア、1982年生)は、16分音符をすべてトレモロのようになだらかに演奏するという変わったアプローチ。

 同じ曲を最後に弾いた津田裕也(1982年生)は冒頭をきわめて風格のある演奏で開始、その後も安定した演奏を続けたが、全体としてはやはり日本人らしく、きちんとしてとりこぼしはないものの強い個性には不足するという印象に終始した。

 だが結果としてはその津田が優勝。2位は前日にショパンの「1番」を弾いたルー・イチュ(台湾、82生)、3位は前日ブラームス「1番」を弾いたオクサナ・シェフチェンコ(ロシア、87生)、4位がオフチニコフ、5位が前日ベートーヴェンの「4番」を弾いたリー・カリン・コリーン(中国、80生)6位がグリャーズノフ。

 講評は、記者会見席上で質問されても、審査委員長(野島稔)も副委員長(植田克巳)も答えられず、僅かにペーター・レーゼル(同)が「協奏曲に経験を積んだ者でないと不可能なコンクールという特徴」について語ったにとどまるというお粗末さ。前回と同様である。こんな調子で、一体どのような審議が行なわれたのであろうか。

 ヴェロと仙台フィルは、物凄い音量で、しばしばソリストの音を打ち消したのは疑問。特にチャイコフスキーは騒々しすぎた。たしかに仙台フィルの音色は明るくなり、演奏に活気が出るようになったのはいいことだが、定期公演ではないのだし、コンクールでコンチェルトを演奏する時の心得としては如何なものか。まあ、ソリストを煽り立てて勢いづかせるという利点はあったかもしれない。

2007・6・20(水)マルティン・シュタットフェルト・リサイタル

    すみだトリフォニーホール  7時

 このホールでは、いかに何でも大きすぎるという気がする。が、昨年の「ゴルトベルク」が大変な人気を呼んだ(小生は確か不在のためだったと思うが、聴いていない)人にしては、
半分程度という今日の客の入りは寂しい。

 しかし演奏は、予想通り素晴らしい。モーツァルトの「ソナタK.333」と「K.310」、その間にシェーンベルクの「6つの小品」を挟んだ前半のプログラム、そしてベルクの「ソナタ」と、シューベルトの「ソナタ第21番」による後半のプログラム、いずれも彼らしい明晰で端正で、しかも表情豊かな演奏である。
 特に印象的だったのは、シューベルトのソナタだ。恰もバッハを聴いているような画然とした造型と、和声的構造を些かも揺るがせにしない構築など、古典派から見たシューベルトといったアプローチで、かつ瑞々しい息吹を以て聴かせてくれた。

2007・6・19(火)ラファウ・ブレハッチ・ピアノ・リサイタル

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 バッハの「イタリア協奏曲」と、リストの「演奏会用練習曲」3曲、ドビュッシーの「版画」、と配列された前半のプログラムでは、ある程度端正な様式が保たれており、キラキラ光る音色が随所に散りばめられた演奏が実に瑞々しく、彼の成長を感じさせた。

 後半はショパンだが、「舟歌」は激しく叩きつけられるような演奏で、まるでコンクリートの護岸をガラガラと走るかのようなイメージを得てしまった。そのあとの作品62の2曲の夜想曲と「前奏曲集」13~24番も概ね元気一杯というか、既存のイメージに敢えて叛旗を翻して荒っぽい口調で話してみせるショパンといった印象。
 現代ポーランドの若い演奏家は、巨人ショパンの存在をこのように描きたくなるのだろうか。まあ、理解できるような気もするが。

2007・6・15(金)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル

    すみだトリフォニーホール  7時15分

 アルミンクが実に多彩な表情をオケから引き出した。ベートーヴェンの「皇帝」には、切れ味のいい、小気味よく引き締まった快さがあり、これがティル・フェルナーの細身でしなやかなソロと調和する。
 昔、エッシェンバッハと小澤がこのような演奏のレコードを出した時には、「皇帝というより皇太子」とか言われたものだが、今日ではむしろ、そういう演奏スタイルの方が主流になっている傾向がなくもないだろう。

 しかしアルミンクは、シューマンの「第1交響曲《春》」では一転、緻密なアンサンブルには拘泥せず、開放的な響きで豪壮に突き進む。こういう演奏は作品の構成上の弱さを露呈させかねないが、作曲者が意図した以上の生気と躍動を注入するのには成功しているだろう。全曲大詰での熱狂を聴くと、アルミンクは結局ここへ話を持って来たかったのかと、それまでの伏線も納得行くような気にさせられてしまう。第2楽章終結部での陰影の濃さも見事。

 1965年ルクセンブルク生れのレンツの《ミステリウム》第7曲《星(2000)》は、大編成ながら静謐な曲想で、叙情的な美しさに満ちている。とはいえ、作曲者が聴き手に希望しているという「満天の星空を思い浮べる感情」が呼び覚まされたとも言いがたい。

2007・6・14(木)マルティン・ジークハルト指揮日本フィル

     東京オペラシティコンサートホール  7時

 2階正面上手寄りの席からは舞台下手側に配置されたコントラバス群がよく響いて聞こえるため、低音を基盤に構築された音楽というイメージになる。
 問題は、日本フィルの演奏が粗いことだ。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」は冒頭のみ温かさが感じられたものの、その後は手探り的で生硬な演奏。小編成ゆえにそれがいっそう露呈してしまう。

 モーツァルトの「交響曲第39番」も、ベートーヴェンの「田園交響曲」も、音楽本来の柔軟さに追い付きそうで追い付かぬもどかしさを感じさせる。特に「田園」第2楽章など、木管群のバランスの悪さ、アンサンブルとしてのまとまりの悪さが、美しい曲想を害なってしまった。音楽が主調に解決する時や主題が回帰する時など、音楽形式の上で重要なその最初の音符を無造作に弾く弦楽器群にも落胆させられた。

 これらは本来、オーケストラが自主的に創るべき音楽ではないのか。しっかりした音楽監督を据えて、もう一度根本から解決を計って欲しいものだ。

2007・6・13(水)新国立劇場 ヴェルディ:「ファルスタッフ」

    新国立劇場  6時30分

 3年ぶりの再演だが、前回より舞台が引き締まっていて演技も細かく、見応えがあったという印象である。ジョナサン・ミラーが「ばらの騎士」演出のため来日していたため幸いした(それを狙った?)こともあったらしい。

 ファルスタッフは前回同様、さほど太った男でなく、野卑でもない。その点、終場面での大見得は生きてくるし、周囲の人間よりもよほど存在感のある男として浮かび上がる。その反面、全員が彼を苛める必然性がほとんど感じられないのは事実だ。しかし、全体にはいい舞台といえるだろう。

 主役陣も、アラン・タイタス(ファルスタッフ)とヴォルガング・ブレンデル(フォード)が好演し、前回のベルント・ヴァイクルとウラディーミル・チェルノフを遥かに凌ぐ。カラン・アームストロング(クイックリー夫人)もいい。
 ナンネッタを歌ったのは中村恵理で、大オーケストラに対しては少し声が細い気もするが、しかし森の場面での歌は好い声だ。表現力に関しては、まだかなり修業してもらわねばならぬ。

 ダン・エッティンガーの指揮は悪くないけれど、そう傑出していたという程でもなく、東京フィルをよく鳴らしたということが評価される。ただしアンサンブルは粗っぽく、緻密で引き締まったこのオペラの洒落っ気を出すには程遠かった。
 東京フィルは、それでも「ばらの騎士」の時よりは余程マシだ。東フィルは本当にムラが多い。今日はコンマスが荒井英治だが、さりとてコンマスに左右されるわけでもないのがこれまでの状況である。とにかく、オーケストラのレベルなどは、ノボラツスキーに責任を押付けるより、むしろオケ側で自ら改善するべきものである。

2007・6・9(土)ラモン・ガンバ指揮東京交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  6時

 ラモン・ガンバ━━長身の巨体が大暴れ。猛烈な熱演型の指揮者だ。賑やかでダイナミックだが、チト騒々しいし、オケは音が汚くなる。チャイコフスキーの「5番」など、華やかではあるけれども、叙情的要素はかなり犠牲にされている。盛り上げること自体はいいとしても、ノベツマクナシ吠えられては閉口だ。

 マルコム・アーノルドの序曲「ピータールー」はリリカルな主題の中に打楽器の行進曲のリズムが強引に割り込んでくるなどの発想が面白いが、このホールで、割れんばかりの大音響で演奏されると、何が何だか解らない曲になってしまう。

2007・6・9(土)下野竜也指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場コンサートホール  2時

 下野のがっちりした指揮。緻密で揺るぎのない音楽を創る。ドヴォルジャークの「6番」がこれほど構築性を備えた作品として再現されたことは稀ではないかとさえ思われる。作品のバランス構築も卓越したものだし、これは大変な才能ではなかろうか。第3楽章最後のストレッタなど、もしかしたらあのシノーポリのシューマンに拮抗できるかもしれない。

 ただ、そのような正面切ったアプローチに耐えられぬ曲もあるわけで、同じドヴォルジャークの「スケルツォ・カプリチオーソ」などでは、その生真面目さが裏目に出るだろう。
 といって、いい加減な演奏をすれば映えるという意味ではない。いっそ、どんなつまらない曲でもサマにしてみせるトスカニーニの芸風を目指してもらいたいものだ。

 この2曲の間には、今月で定年を迎えた菅原淳のソロでテーリヒェンの「ティンパニ協奏曲」が演奏された。しかし、菅原さんには悪いが、これは面白くない曲だが、珍しさと、菅原の熱演とで保った。

6・8(金)第3回 目白バ・ロック音楽祭 チェンバロ・デュオ

    自由学園明日館  7時

 西山まりえが、師の一人であるニコラウ・ド・フィゲイレドと組んでデュオ演奏会を行なった。ブランデンブルク協奏曲第6番、モーツァルトの4手のためのソナタK.381、ソレールの協奏曲第3番と第2番、ボッケリーニのファンダンゴ。

 フィゲイレイドの豊かな顔の表情を見ながら聴いていると、たとえばモーツァルトのソナタは本当に「会話」なのだという気がしてくる。機嫌を悪くしたり、相手を窺ったり、冗談に笑い合ったり、同意し合ったり。そういういう瞬間が、次から次へと入れ替わるのである。
 この曲に限らず、演奏はすべてその「音楽での会話」だ。チェンバロ2台で弾かれるブランデンブルク協奏曲は快い調和、ファンダンゴは疾走する喜び。至福の体験の夜であった。

2007・6・6(水)新国立劇場 R・シュトラウス:「ばらの騎士」

   新国立劇場  5時

 今年の「バラ戦争」初弾は新国立劇場、ノヴォラツスキー芸術監督最後の新プロダクションで放たれた。

 しかし、オーケストラが相も変らずお粗末。冒頭のホルンを中心とする主題の立ち上がりから唖然とさせられるほどのか細い音、第1幕は最後まで乾いた無表情な、全く色彩というもののない演奏が続いた。第3幕の最後の三重唱あたりはある程度改善されていたが、近年好調の練達の指揮者ペーター・シュナイダーを招いておきながら、なおこんな状態の東京フィルなのである。救い様が無い。

 演出は、いかにもジョナサン・ミラーらしく、派手さはないもののかっちりまとまった舞台だ。演技の細かさは主役のみならず脇役・端役にいたるまで徹底しており、それだけでもドラマとしての面白さが出て、全体が引き締まる。
 おなじみ原純も髪結師の役で登場しており、テノール歌手の声をうるさがりながら髪を結うなど、例のごとくマメな動きを見せていた。そのあとにオックスもテノールに苛々して書類を床に叩きつけるという演技を見せるだけに、意味のある動きといえよう。

 そのオックス男爵(ペーター・ローゼ、さすがに役者だった)が過剰に野卑に描かれておらず、単に山から出てきたような素朴な農夫といった具合に演じられていたのは好ましい。 マルシャリン(カミッラ・ニールント、長身で容姿も好い。この秋のサロメが楽しみだ)はある面でかなり激しい気性をもった女として描かれ、第1幕ベッドシーンでの美しさとは対照的に、第3幕でオクタヴィアンを思い切る前後では、愛した男を断念する悲しみどころか、あとで復讐でもしかねないような目付きをしていた。恐ろしい。

 そのオクタヴィアン(エレナ・ツィトコーワ)は、水も滴る美少年というわけにも行かぬ風貌と容姿(なんか老人の男みたいだ)のメイクなので、洒落た雰囲気に乏しくなる。ゾフィー(オフェリア・サラ)のメイクにいたっては全くの老け顔で、可憐な少女というイメージには程遠い。だが歌唱の面では、みんなしっかりしている。第2幕最後でのローゼのバスは見事に響いていた。

 美術と衣装はイザベラ・バイウォーター。脇廊下も活用しての、ややくすんだ色を基調とした舞台装置。豪華な雰囲気ではなく、むしろ地味で、しかも不思議に白けた寒々しいものを感じさせるのだが、これがジョナサン・ミラーのいう時代の移ろい、暗雲立ち篭める時代の雰囲気なのだろうか。
 ただし第1幕最初など、オーケストラの惨さも手伝って、何とも乗らない白々しさが舞台を蔽っていたが、これはもちろん、演出のねらいとは別の次元の問題である。
 なお、第1幕最後で窓に打ち付ける雨は非常に効果的で、タバコを手に窓外を見やるマルシャリンの孤独な姿と相俟って、人生の変転を描くような印象的な場面を作り出していた。

 それにしても、ノヴォラツスキー芸術監督には、些かの同情を禁じ得ない。音楽的にも最後を飾るために、ベテランのペーター・シュナイダーを招いたのであろう。にもかかわらず、オーケストラの非力がそれをフイにしてしまった。新国立劇場最大の弱みはオーケストラにある。それは10年経っても、ついに全く改善されないのである。

2007・6・5(火)プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 オケの来日は6年ぶりだが、「指揮者」ミハイル・プレトニョフに率いられての来日は、9年ぶりになる。
 彼の指揮は、近年の東フィルへの客演がすこぶる個性的になって来ているため、「大胆なキャラクター復活への期待」などと提灯記事を書いたのだが、幸いな(?)ことに、一頃よりはアクの強さが戻ってきたようである。

 チャイコフスキーの「交響曲5番」第1楽章序奏は異様に遅いテンポだし、それに反して第4楽章では提示部後半のあのデクレッシェンドからいよいよテンポは速まり、アレグロ・ヴィヴァーチェよりむしろプレストで突進する勢いになる(以前のCDではこのような演奏ではなかった)。
 もともとプレトニョフは、ステージ演奏ではタテの線などに頓着するタイプではないが、今日の第4楽章主部は、細部が全く判然としないほど飛ばしに飛ばす演奏だった。管もやや粗いが、そういう部分を丁寧に磨き上げるようなタイプの指揮者ではないのだから、芸風と割り切って受け取るしかない。ただし第2楽章での弦は、実に艶やかで美しい。

 その一方、アンコールでの「眠りの森の美女」のワルツの方は、意外に整然としていて驚く。こういう、極端に対照的な表現を一つのコンサートで聴かせるところが、またプレトニョフらしいとも言えるだろう。
 なお、冒頭にはシベリウスの「フィンランディア」。これは恐ろしく重厚で、大地を踏み鳴らすような、おどろおどろしい演奏だった。2曲目は樫本大進のソロでシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」。

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