2019-01

2007・3・31(土)ゲルト・アルブレヒト指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 いよいよこれが、アルブレヒトの常任指揮者としての読売日響との最後の演奏会。
 プログラムは一昨日と同じで、演奏の特徴も全く変わらない。
 一つの時代が終りを告げた感。この足掛け10年、東京在住のわれわれにとり、アルブレヒトと読売日響の存在がいかに大きかったかを今改めて想う。
 終演後に簡単なパーティが行なわれたので、その席上、アルブレヒトに感謝の言葉を述べておいた。

2007・3・29(木)ゲルト・アルブレヒト指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 ゲルト・アルブレヒトの常任指揮者としての最後の定期演奏会。マーラーの「交響曲第9番」。

 第1楽章冒頭がいささかも散漫にならず、引き締まって緊張感に溢れたまま進んで行ったのは見事だったし、また第4楽章での、あふれんばかりの厚みと壮麗で艶のある弦の響きと、驚異的なほどに豊かな表情も、息を呑むほどに素晴らしい。

 読売日響がつくり出しているこの音楽は、まさしくアルブレヒトが常任指揮者になってから植え付けられたものにほかならない。それ以前のこのオーケストラには、とてもこのような緻密で豊かな音は出せなかった。アルブレヒトの功績は限りなく大きい。この9年間は読売日響にとって最も輝かしい時代であった。彼の名は、日本のオーケストラ界の歴史において不滅のものとなるだろう。

2007・3・25(日)新国立劇場 プッチーニ「蝶々夫人」

     新国立劇場  2時

 栗山民也演出の再演。基本は同じだが、ある部分、改良されて解り易くなっているような気もする。

 アメリカ人と日本人の演技は詳細に対比されて描かれており、特に日本人合唱団はさすがにサマになっている。日本の人形のようなポーズをとって立つ女性もおり、すでに行なわれない風習でありながらも日本人的なものとしてわれわれに意識されているさまざまな立ち振舞いが見られて楽しい。

 奥の米国国旗は、ピンカートンが舞台にいるかぎりずっと翻っていると思っていたが、第1幕後半の愛の二重唱の際には消えていた。これは理に叶っているだろう。
 それにしても蝶々さんは、最後に彼方の米国国旗に正面から相対して自決するのだから、相当なこれはアメリカへの抗議というべきであろう。今回はシャープレスに人間味を持たせて重要な動きをさせていることが印象に強く残った。

 今回は、本格的な日本デビューとなった岡崎他加子に注目が集まった。いい声をしている。やや太めの声で、ドラマティックな役柄もこなせそうだ。ただしヴィブラートが大きく、それも少し旧式なタイプなのが気になる。
 ピンカートンはジュゼッペ・ジャコミーニ、シラノみたいな鼻をした情熱的なテノールだ。シャープレスはクリストファー・ロバートソン、前述のように細かい演技を見せていたが、一般の観客には解らないだろう。

 さて、指揮は次期芸術監督の若杉弘。えらく重い。しかも、音楽に色がないのだ。シノーポリやカラヤンの指揮でこのオペラを聴くと、オーケストラ・パートが実に色彩的で雄弁なものであることが感じられるけれど、今回は何故かいっこうに面白くない。彼が以前オーチャードホールで指揮した時は、もっと劇的なものが音楽にあったのだが、どうしたことか。日本のメロディが全く日本的に聞こえないという不思議さ。

2007・3・24(土)アルミンク指揮新日本フィル「ローエングリン」

     すみだトリフォニーホール  3時

 今月はワーグナーの前期のオペラ3つが、それも作曲年代順に上演━━という、日本オペラ上演史上稀なるケースと相成った。

 今日のはセミ・ステージ形式上演で、アルミンクと新日本フィルが「サロメ」「レオノーレ」「火刑台上のジャンヌ・ダルク」に次いで放つ力作である。すでに熱烈なファンも多くなっており、アルミンクも盛んに拍手を浴びていた。

 それでも一応の演出は有り、飯塚励生が担当している。中央に大規模な二手に分かれた階段を造り、主役たちはそれなりの衣装を着け、白鳥は客席通路から登場するダンサーたちにより描かれる。ローエングリンも客席からだ。

 ローエングリン役のスティー・アナーセン、オルトート役のアレクサンドラ・ペーターザマーの2人は体調が悪いと断りのアナウンスがあった。アナーセンは何とか薄氷を踏む思いで逃げ切ったが、後者は大詰で持ち堪えられなかった。
 結局、エルザのメラニー・ディーナー(随分背が高い)とテルラムントのセルゲイ・レイフェルクスが全体を引き締めたようなものだが、演技の面ではレイフェルクスだけが几帳面に舞台をこなしていた感がある。

 国王のトマシュ・コニチュニーは馬鹿でかい声で、喚くと品のないこと夥しく、先日のシルヴェストレッリをふと連想してしまったほどだ。
 伝令官の石野繁生はハノーヴァー・オペラのアンサンブル歌手として活躍している人だというが、きわめて力のある引き締まった歌唱を聴かせた。儲け役ではあるけれど。

 アルミンクの指揮は例のごとく淡白で薄味のワーグナーだが、それはそれでよかろう。第3幕前半は妙に緊張力に不足したような感があったが、疲れたわけでもあるまいに。オーケストラのバランスもいい。
 ただ、第2幕前半における弦のトレモロの音量が、あまりに楽譜の指示に拘りすぎ、弱音を強調したために、夜や不安や魔性や陰謀といった暗黒面が浮き彫りにされずに終った。これが浮き彫りにされないと、そのあとの昼や婚礼の喜びとの対比が明確にならないのである。このオペラの音楽から、昼と夜の対比、グラールと魔性との対比を取り去ったら、その重要な意味の大半が失われてしまう。

2007・3・21(水)東京のオペラの森 ワーグナー;「タンホイザー」

     東京文化会館大ホール  3時

 小澤征爾の指揮、ロバート・カーセンの演出、ポール・スタインバーグの装置デザインとカーセン及びペーター・ヴァン・プラットの照明デザイン。
 すべてパリ版(序曲~バッカナールはウィーン版とでもいうべきもの)による演奏で、第2幕後半も基本的にノーカットで行なったのは立派(ただしコーラスのパートに一部慣習的なカットがあった)。

 小澤とオーケストラは、第1幕ではか細くて、余韻も余情もない軽量の演奏で、ドレスデンの壮大な音に浸った直後とあっては退屈この上もないものであったが、不思議なことに第2幕では音楽に柔らかさと量感を増し、劇的な緊迫感も充分に高まり、比較的テンポの遅い第3幕でもその緊迫感は失われなかった。
 全曲最後のテンポやオーケストラのバランス感、またパリ版特有の音の華麗さにおいても、これまで聴いた同種の演奏の中でもトップクラスといっていい程の音楽になっていた。
 小澤は明らかに成長している。彼が今まで聴かせたロマン派オペラのうちでも、最高の部類に属するといってもいいだろう。うれしい驚きである。

 合唱もなかなかの力量で、特に第2幕以降では迫力も充分であった。演技の点ではやはりバタ臭さは抜けないが。

 歌手では、タンホイザーのステファン(シュテファン、でなければスティーヴン)・グールドが、適度の野性味も交えて素晴らしい。容姿体躯のまともなワグネリアン・テノールとして貴重な存在になるだろう。彼はアメリカ人である。本拠のメットに間だ出たことがないというのは意外だ(2010年に予定されているという)。
 ヴォルフラムのルーカス・ミチェムはあまり個性がないが、手堅い。エリーザベトのムラーダ・フドレイは新しい発見。ヴェーヌスのミシェル・デ・ヤングは文句なし。
 少々ひどいのは、ヘルマンを歌ったアンドレア・シルヴェストレッリで、以前エスカミッロを歌ったときのことを思い出した。様式云々に拘るわけではないが、こんなガラガラしたワーグナーは信じられぬ。

 カーセンの演出は、吟遊詩人たちを画家に置き換えた(歌詞では「歌い手」と言っているのだから、読み替え演出特有の強引さである)。ヴェーヌスもエリーザベトも、タンホイザーにとっては単なる「対象物」になっているらしい。
 カンバスを持ったヴェヌスブルクの踊り手たちは、絵具を体中に塗ってのたうち回って陶酔する。歌合戦は絵を競う場所になる。
 タンホイザーの荒れ果てたアトリエに来たエリーザベトは、彼が書き散らかしたままの絵を見て、自分だってとばかり衣類を脱いでベッドで悶える。遅れて入って来たヴォルフラムは彼女を写生しかける。

 最終場面では、エリーザベトとヴェーヌスは同じような姿となり、タンホイザーを鼓舞して去る。彼は優れた画家として認められ、古今のヌードの名画が飾られた部屋で一同の祝福を受けるという寸法。
 客席も利用し、エリーザベトはホール全体を「歌の殿堂」として見、「画家」たちも客席の通路から登場するという方法だが、これは陳腐といえば陳腐な手法であろう。全体にある程度筋の通っている部分もあるものの、ヴェヌスブルクへ行ったと聞いて激怒した大衆が、何故突然タンホイザーの絵を受け入れるようになったのか、それが理屈に合わぬ。

 読み替えには常にいい加減な、不条理な解釈が伴うが、それを読み替えだからといって許すのはやはりおかしいのではないか。
 いずれにしても今回はカーセンがついに日本で本性を現わし、やりたい放題やったという感がある。

2007・3・18(日)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「影のない女」

         ザクセン・ドレスデン州立歌劇場  6時

 今回初めてパルケット席に入る。12-30という位置で、ここではオーケストラもあまりガンガン来ないでやわらかい音になるだろうと思いきや、マルク・アルブレヒトがオケを鳴らすこと鳴らすこと。怪獣のごとき咆哮で、しばしば声をかき消してしまう。新国立劇場の何ともかぼそいオーケストラの音に比べると、恐ろしくなるくらいに巨大なサウンドだ。アラン・タイトゥス(バラク)の声だけがそれを突き抜けて聞こえてくる。
 だが、昨夜のレンネルトの指揮みたいに金太郎飴的ではない。起伏があって、叙情的な箇所ではそれなりに美しく聴かせる。激しい箇所では、このオペラが20世紀の現代音楽としての鮮烈さを充分に備えているのだということを改めて思い起させた。

 舞台装置と衣装はロザリエ。例のごとく奇抜なデザインによる、キッチュでカラフルな舞台だ。彼女の舞台装置は、以前のバイロイトの「指環」でもそうだったが、常に演出まで左右してしまうらしい。これまで凡庸な演出家と組んだものばかり観せられたからかもしれないが。今回の演出を担当しているハンス・ホルマンもまた、型通りのことしかやっていない。

 ラストシーンで乳母が独り本を読んでいたのは、彼女を語り部として設定したのか。リーンドラ・オーヴァーマンというあまり冴えない乳母役のいかつい顔は、まるで「あなた方はこんな話を信じますか?」と言っているみたいに見えるが、そこまでの伏線が何もなかったので、真意は定かでない。
 第2幕大詰の、大洪水にバラクの家も人間たちも巻き込まれるという場面にも、所謂ケレンはなく、乳母と皇后が一緒に退場し、一方バラク夫妻は、蝿みたいな格好をした霊界の兵士たち(?)に連れ去られるという演出で、面白みも何もない。演技の上での心理描写もあまり詳細に行なわれていないので、バラクにとっては、なぜ自分まで罰を受けねばならないのか、おそらく納得できないのではなかろうか。
 敷居の護衛者はコップを捧げて皇后に飲めと勧めるのみ。生命の水を飲むか、影を諦めるかといった切羽詰まった状況を描くには迫力が皆無である。こういう舞台を観ると、つくづく、あの猿之助の演出した舞台がいかに凄まじく大がかりで、見せ場に富んでいたかと改めて懐かしくなる。
 
 アラン・タイトゥス(バラク)とルアナ・デヴォル(妻)は、19年前に日本でやったミュンヘン・オペラの時と同様、強力である。皇后は、2日前にダナエを歌ったスーザン・アンソニー。役柄の性格を見事に使い分けて、こちらは可憐さを見せ、いずれも魅力的であった。オーヴァーマンは声は有るが、演技はあまり冴えない。皇帝のヨン・ケティルソンはヤサ男で、調子も良くなかったらしく、存在感はほとんどゼロに近い。今回観に来た5本の内では一番のお目当てだったのだが、期待外れというところか。

 この翌日以降、「カプリッチョ」「ナクソス島のアリアドネ」「エレクトラ」「ばらの騎士」という魅力あふれる作品が並んでいたのだが、東京でのロバート・カーセン演出と小澤征爾指揮による「タンホイザー」をどうしても観たかったので、涙を呑んで帰国するスケジュールになった。

2007・3・17(土)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「サロメ」

      ザクセン・ドレスデン州立歌劇場  7時

 主役の変更も、時にはありがたい場合もある。サロメがエヴァ・ヨハンソンに変わっていた。馬力のある人だから、安心して聴ける。
 ヘロデのヴォルフガンク・シュミットも、ヨハナーンのアラン・タイトゥスも力強い。2 Rang 1-24 の席にさえ、オーケストラを強烈に突き抜けて声が響いて来た。

 ただヴォルフガンク・レンネルトという指揮者は、オケを鳴らしすぎる傾向があるだろう。鳴らすのはいいとしても、一本調子で変化がないのが問題だ。冷たい音色も耳を疲れさせる一因である(平土間で聴いていた知人たちも、バランスはよかったと言う人、やはり鳴りすぎだと言う人、さまざまだ。聴き手の感覚の問題もあるだろう)。

 演出・装置はペーター・ムスバッハ。アレクサンダー・コッペルマンの照明ともども、非常にモダンで冷徹である。前方下へ向けて極度に傾斜した舞台(歌手も大変だったろう)の中央に冷たい光(つまり蛍光灯色)に輝く建物のようなものが在る。舞台には枠のようなものがあり、上手の一角にプールサイドの手摺りのようなものがある。

 白いつなぎを着たヨハナーンが、最初からその手摺りに掴まったまま、足を手前に下げて腰掛けている。あたかもプールサイドに腰掛けたまま「救世主が来るであらうぞ」と、物々しく繰り返しているようなものだ。したがって彼は古井戸の中にいるのではなく、常に「地上」に居て、時にはあちこち歩き回る。
 サロメは、ややはすっぱなドレス姿。彼女とヨハナーンだけが白い服で、その他ヘロデ側の連中は黒の衣服だ。ナラポートは自殺するのではなく、サロメを殺そう(もしくは脅かそう)と手にしていたナイフが、ヨハナーンに偶然ぶつかられたはずみに胸に刺さってしまうという具合である。読み替えだが、この方がずっと筋が通るだろう。
 
 「7つのヴェールの踊り」は字義どおりではなく、ヘロデがサロメを犯す場面として扱われる。サロメとヘロデとヨハナーンとヘロディアス(ダグマール・ペッコーヴァ)の4人の相関関係が複雑に絡む。
 ヨハナーンは結局地上で殺され、その死体にかけた白い布の中へサロメも潜り込む。ヘロデは「その女を殺せ」と叫びつつ、自ら斧を手にして駆け寄るが、サロメの恐ろしい形相にたじろぎ、後退りするところで暗転。

2007・3・16(金)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「ダナエの愛」

      ザクセン・ドレスデン州立歌劇場   7時

 ザルツブルク音楽祭との共同制作と銘打たれているように、2002年夏にザルツブルク祝祭小劇場で上演されたプロダクションと同じ舞台のはずだったが、豈図らんや、似て非なるもの。舞台装置も、人物の動きも、大幅に異なる。
 舞台上方の回廊は殆ど使われず、メルキュールはロイヤルボックスに出現。

 ラストシーンでは、ザルツブルク版と共通しているのは、ユピテルが山荘の一室で寝てしまうことと、窓外に山の光景が拡がっていることのみ。その光景が大きく転回し、山荘もろとも地上に落下するようなシーンや、新生を決意したダナエが独り傘をさして雨の戸外に出て行くあの印象的な光景は一切なく、ダナエが紗幕越しにミダスと見つめあう場面が挿入されるに止まっていた。演出担当のギュンター・クレーマー自ら手直ししたのだろうか?

 ユピテルのヴォルフガング・ネヴェルラ、ダフネのスーザン・アンソニー、メルキュールのマルティン・ホムリッヒらが手堅い。ダナエの分身たるダンサーのアンナ・フランツィスカ・スルナという美女は、黄金色の薄ものを纏って水浴したり転げ回ったり、第3幕では30分近くも身動きせず舞台手前に座り続けていたりと、ご苦労なことである。

 指揮はヨハネス・フリッチという人。ザルツブルク上演におけるファビオ・ルイジの、あの瑞々しさと生気に満ちた指揮を知る者にとっては歯痒いかぎりだが、しかしこのシュターツカペレ・ドレスデンは、誰が振ろうと素晴らしい音を出す。R・シュトラウスの音楽を演奏したら自分たち以上の存在があろうかという誇りと自負がこのオーケストラにはあふれているように感じられる。たとえ演出の面では他の歌劇場に一歩を譲ることがあっても、音楽では揺るぎない王座を占めるという自負だ。これに拮抗できるのは、ただウィーン国立歌劇場だけだろう。

2007・3・15(木)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「アラベラ」

       ザクセン・ドレスデン州立歌劇場  7時

 昨年のバイロイトで感激したピエチョンカの歌うタイトルロールを楽しみにしていたのに、リイカ・ハコラというソプラノに替わっていた。容姿も好いし声も良いのだが、これからというタイプの人だろう。最初のうち声が伸びなかったが、それでも次第に改善されていった。彼女の声が出てきたためか、指揮者のペーター・シュナイダーがベテランの腕でオーケストラをうまく制御してくれたためか。最後のカーテンコールではブラヴォーももちろん出たが、ブーもいくつか飛んだ。
 だがウテ・ゼルビッヒのズデンカは悪くなかったし、特に最後に女性に戻ってからはの歌唱と演技は、主役のアラベラを食ってしまうほどの存在感を示していた。
 ヴォルフガンク・シェーネのマンドリーカは文句なしで、演技の面でもクマと格闘できるくらいの野性味をもほどほどに交え、大成功。

 ハンス・ホルマンの演出は、ごくまっとうで、可もなく不可もなしといったところか。この演出では、アラベラとマンドリーカはめでたく結ばれるが、ズデンカとマッテオは危ないらしいという解釈である。台本には確かにこの2人の行末についてはそれほど明確に語られているわけではないし、マッテオの言葉にもそれを具体的に示唆するものは無いのだから、彼が絶望とこだわりとをあからさまに示しつつ退場して行くこの演出も当を得ているだろう。
 ハンス・ホッファーの装置は、黒と赤を基調にして、暗い。第2幕のフィアカー舞踏会の場面では、階段を挟むようにして、恐ろしく大きな馬が3つ4つ。幕が上がった途端に客席もざわめいたが、1人早くもブーを飛ばした客もいた。1992年プレミエのプロダクションだから、そう新しいものでもない。

 最近好調のペーター・シュナイダーが指揮するこのオーケストラの音色は、昨日にも増して素晴らしい。私の聴いた席は、日本なら4階席にあたる場所で、音も少し硬く聞こえるはずなのだが、それでも並みのオケとは比較にならぬほどしっとりとして美しい。もし今、世界一良い音を出すオケを挙げろといわれたなら、ウィーン・フィルを凌ぐ存在として、私もこのドレスデン・シュターツカペレを挙げるだろう。

2007・3・14(水)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「平和の日」

     ザクセン・ドレスデン州立歌劇場  8時

 前日ドレスデンに入る。もともとエコノミー・チケットだったが、アップグレードでビジネス席に変えて貰えたのが何より有難い。今年からペットボトルの持ち込みがやたらうるさくなった。ヒルトン・ホテルに投宿。
 以前には瓦礫の山だったあのフラウエン教会が、ついに立派に再建されている。感動的な光景だ。外観は思いのほかくすんだ色になっているのと対照的に、内部が金ピカになっているのに驚く。 3階、4階の席まであるのも凄い。観光客がやたら多い。

 今回のドレスデン滞在は、ザクセン・ドレスデン州立歌劇場におけるR・シュトラウス・ターゲ、オペラ10連発のうち、2日目から6日目までを観るためのもの。
 今日は「平和の日」。短いオペラなので、8時開演。
 ペーター・コンヴィチュニーの演出としてはかなりストレートなものだ。1995年のプレミエというから、あのシノーポリも指揮した(CDにもなっている)プロダクションである。

 長い戦争が終結した大詰近くの場面では、舞台後方にそびえたっていた「壁」が取り払われる。90年代前半の発想による演出で、「季節モノ」は時代が変わると旧く見えるというけれど、致し方ない。そうすると、司令官が錦の御旗のように振りかざしていた「皇帝の手紙」は、ウルブリヒトかモスクワの指令書ということになるわけか。
 壁が無くなると、そこに出現するのは一面の十字架の墓。そこに転がっていた「死体」が一斉に起き上がって合唱に参加するわけだが、死者が蘇るなどという野暮なことをコンヴィチュニーがやるわけはないから、これは死者の子供たちということになるのかもしれない。

 ハンス・ツィマーの指揮は、やはり凡庸の部類に属するだろう。最後の合唱とオーケストラの空前の大咆哮は、よほど巧い指揮者の手によらないと、カオスに陥ってしまう。しかしシュターツカペレ・ドレスデンは、常に全く硬くならず、惚れぼれするほどいい音を響かせる。すばらしいオーケストラである。

 司令官役のハルトムート・ヴェルカーが出られず、アルベルト・ドーメンが代役を勤めたまではよかったが、いくらDGGのCDでこの役を歌っていた彼でも、突然では無理らしく、舞台下手袖で譜面を見ながら歌う仕儀となる。司令官役は他の歌手だか役者だかが演技だけ行なったが、この人が冴えず目立たず、従って舞台はあまり引き締まらないものになった。
 マリア役のエヴァ・ヨハンソンと、市長役のランス・リアンが凄い馬力を出した。特に前者は、最後の大音響のカオスの中でも堂々と声を浮き上がらせていた。

2007・3・11(日)地方都市オーケストラ・フェスティバル
高関健指揮 群馬交響楽団 東京公演

    すみだトリフォニーホール  3時

 今年はマーラーの「交響曲第7番《夜の歌》」を持って来た。
 3階席で聴いたが、実に見事な重量感と、そして壮大さ。マーラーの陰影を余すところなく表出した。前日に高崎でも演奏したとのことだが、あの音の悪いホールでこれだけの音楽が創れたというのは驚異的、奇蹟的である。

 オーケストラは、トランペットに少々難がある(昨年の「復活」でも同様だった)とはいえ、立派なものである。高関も、中間3楽章における怪奇な音楽を実に巧く創っていたし、フィナーレでの頻々と変わるテンポの扱いも変幻自在、マーラーのヒステリックな感情の変化を見事に再現していた。

 今年の「地方都市オーケストラ・フェスティバル」はわずか4団体の出演ではあったが、きわめて充実していた。それも、あたかも各オーケストラが、前日に出たオーケストラの演奏を更に上回ろうと気負いあっていたかのように、演奏は尻上がりに熱を帯びて水準を向上させていたのである。

2007・3・7(水)ワーグナー「さまよえるオランダ人」

      新国立劇場  7時

 幽霊船の舳先に屹立したゼンタが、船とともに沈んでいく。陸に残されたのは、オランダ人の方である。彼が茫然と地に伏すとき、オーケストラには「救済の動機」(久しぶりに聴く版だ)が響く。彼は救済されたのか、長い妄想か悪夢から覚めただけなのか? 

 マティアス・フォン・シュテークマン演出によるこの幕切れ場面は印象的だったが、その大詰に向かうための伏線らしきものは、特に見当らない。全体的にストレートな演出だ。
 幕切れ場面に「救済の動機」が出現していたわりには、序曲では「救済の動機」のない初期版の終結が使用されているという、不思議なアンバランス。したがって、最初にドラマの結末が暗示されていたわけでもなかったのだ。

 主人公たちにエクセントリックな性格が付与されていたわけでもない。
 が、第2幕最後でオランダ人(ユハ・ウーシタロ)に人懐っこい笑顔を示し、第3幕ではエリック(エンドリック・ヴォトリッヒ)の口説きに屈伏しかけるほど「ふつうの女性」だったゼンタ(アニヤ・カンペ)が、最後に突然、超自然的な存在へ変貌し、それとは対照的にオランダ人の方は、日常的で平凡な男に戻る。
 この反転には、一種の読み替え的な要素もあって面白いが、オペラの重要なテーマである超自然性と日常性との対比を全篇にわたり描く手法が採られていれば、大詰場面はさらに衝撃的になったかもしれない。

 3人の主役たちはいずれも高い水準の歌唱を聴かせた。ダーラント役の松位浩も声が豊かで、演技に経験を積めばすばらしいオペラ歌手になるだろう。
 他に、高橋淳(舵手)、竹本節子(マリー)らが出演。新国立劇場合唱団は、特に男声に充実感があった。
 しかしその一方、堀尾幸男の舞台美術は、屋根に飾りをつけた牧場小屋のようにしか見えない幽霊船をも含め、いつものセンスに不足した。

 何より、ミヒャエル・ボーダーの指揮と東京交響楽団の、密度が低く粗い演奏は、上演の出来に対し最大の責任を負うべきだろう。管弦楽パートは、「総譜のすべての頁から吹きつける」と昔から評されている潮風をも、あるいは宿命の嵐に嘲弄される人間の苦悩をも感じさせなかったのである。

2007・3・4(日)地方都市オーケストラ・フェスティバル
小松長生指揮セントラル愛知交響楽団東京公演

     すみだトリフォニーホール  3時

 この常任指揮者でこのオーケストラを聴くのは初めてだが、弦はたっぷりした音で豊かに鳴り、しかも音量が大きく感じられるのが印象に残る。怒号しないで、しかも音を大きく聴かせるというのは、東京でも読売日響あたりだけができるワザである。
 ドヴォルジャークの「謝肉祭」序曲、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」という、カラフルな作品がすこぶる映えた。うれしいことだ。

 ただ、ゲスト・ソリストに出た小曽根真の自作のピアノ協奏曲「もがみ」なるものは徒に長く(40分近い)、閉口の極み。彼の類い稀な才能を発揮するテリトリーは、もっと他にあるだろう。しかもアンコールで15分近い「タンゴ」を弾くとは、リサイタルならともかく、オーケストラの演奏会としては言語道断。
 ところが驚いたことにこの日の客は、彼の演奏には熱烈な拍手を贈るが、本体のオケの演奏には通り一遍の拍手しかしないという状態なのである。オーケストラにとってみれば、庇を貸して母屋を取られる、のたぐいだ。

2007・3・3(土)地方都市オーケストラ・フェスティバル
パスカル・ヴェロ指揮仙台フィル

     すみだトリフォニーホール  6時

 常任指揮者パスカル・ヴェロのもと、仙台フィルには、明らかに色彩感が生まれている。昨年仙台でフランスものを聴いた時に早くもその感触を得ていたが、今回の演奏を聴いて、それがさらに強められているという印象を持つにいたった。

 昔、新星日響を指揮して演奏会形式上演「ペレアス」他、多くの端倪すべからざる演奏を残したヴェロも、合併後の東フィルを指揮しては不思議に生彩を欠き、オーケストラとの相性の悪さを感じさせていたのだが、幸いなことに仙台フィルとの相性はすこぶる良いようである。東フィルを相手にするよりも、彼の意図をよくオーケストラに浸透させることが可能になったようだ。
 地方のオケに行って成功した指揮者の例は少なくないが、オケの方も「すれて」いないために、指揮者の言うことをまっすぐに聞く、ということなのであろうか。いずれにせよ、祝着なことではある。

 最初のドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は、この日の白眉。豊麗でふくよかな音色、明確な輪郭を持った自然で伸びやかな叙情のまどろみ。
 次のモーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」では、冒頭の管弦楽からしてリズムが波打っており、モーツァルトの協奏曲でこれだけ多彩な表情を聴かせた日本のオーケストラは稀ではなかったかまでと思わせた。ソロは小菅優で、これもすばらしい。

 後半は、サン=サーンスの「交響曲第3番」。生気溌剌、鋭気颯爽という感のある熱演で、ヴェロの大きな身振りの指揮がそのまま音と化したような、火と燃える演奏である。これで、金管が加わった時の最強奏に濁りが生じなければ文句のないところなのだが。フィナーレなどは、ヴェロとしてはもっと光彩陸離たる響きと、柔軟なテンポの変化を求めていたのではないかと思われるが、それらが実現するには未だ少し時間が必要だろう。

 アンコールで、フィナーレをもう一度、途中の大部分を省略して演奏したが、この時の演奏の方がよほど解放的で生き生きしたものだった。
 ヴェロと仙台フィル━━このままスムースに協演を重ねて行けば、地方オーケストラとしては稀な「色のある」存在になるだろう。

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