2018-10

2018・8・31(金)セイジ・オザワ松本フェスティバル2018
秋山和慶指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

     キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 7時

 今年は、小澤征爾総監督は早い時期に不出場を発表している。

 看板たるサイトウ・キネン・オーケストラのコンサートは、いつものようにA・B・Cの3種類のプログラム。ただしいずれも各1回公演で、「C」はマーカス・ロバーツ・トリオの所謂「Gig」を含む演奏会となっている。
 一般公演のオペラは3年ぶりに復活したが、演目はプッチーニの短い「ジャンニ・スキッキ」1曲だけで、一般向けに1回、および「子どものためのオペラ」として2回上演されたのみ。しかもピットに入ったのは、看板のサイトウ・キネン・オーケストラでなく、小澤征爾音楽塾オーケストラだ。
 「ふれあいコンサート」と呼ばれる室内楽演奏会は3プログム各1回ずつで、これは例年通りだ。

 その他、吹奏楽パレードや、「子どものための音楽会」など、毎年恒例のイヴェントは組まれてはいるが、━━やはりフェスティバル全体としては、以前より小規模となっている印象は、否めまい。1992年の第1回から今年まで、毎年この音楽祭を訪れて来た者の目から見ると、かつてのあの沸き立つような祝祭の雰囲気がこの数年来、とみに薄らいで来て、今年はさらに地味になっているという印象が・・・・残念ながら、ぬぐえないのである。

 今年登場している指揮者陣は次の通り━━「オーケストラ コンサート」は、ディエゴ・マテウス(AとCの各一部)、秋山和慶(B)、ケンショウ・ワタナベ(Cの一部)、デリック・イノウエ(オペラ)、下野竜也(子どものための音楽界)という具合。

 で、今日は、秋山和慶が指揮する「オーケストラ コンサートB」である。プログラムは、イベールの「祝典序曲」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ボレロ」、サン=サーンスの「交響曲第3番」。オルガンは室住素子、コンサートマスター(1曲ずつ交代)は矢部達哉、豊嶋泰嗣ほか。
 秋山和慶がこの音楽祭に登場するのは14年ぶりで、2004年にモーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」を振って以来だそうである。1984年のサイトウ・キネン・オーケストラ創設の立役者だった彼が、このフェスティバルでメインのコンサートのプログラム全てを指揮するのは今回が初めてになる。不思議なことではある。

 演奏は、予想した通り、正確で、端整で、見通しのいい構築を備えたものになっていた。サイトウ・キネン・オーケストラがこれだけ整然としたバランスのいい演奏を聴かせたことはほとんどなかっただろう。
 そもそも、腕利きたちの集団たるこのオーケストラは、火のように燃え立つ演奏をした時にも、あるいはあまり気乗りのしないような演奏をした時にも、いい意味での「おれがおれが」という、名手ならではの微笑ましい意気を感じさせたものだ。だが今回は、オーケストラ・ビルダーとして並はずれた力量を持つ秋山和慶のもと、各奏者のソロが目立つ「牧神の午後」や「ボレロ」においても、常にアンサンブル優先という演奏をしていたように感じられたのだった。

 それ自体は、別に悪いことではない。バトン・テクニックの超名手たる秋山と、巧いオーケストラとが共演すると、こういう見事なアンサンブルになるのか、と、ただもう感心させられるコンサートだったのである。
 しかし、私の好みから言えば、こういう演奏は節度と上品さに満たされてはいるが、いわゆるスリル感には乏しい。それゆえ、立派だとは思うが、その半面、物足りなさを感じたことは告白しておかなければならない。
 ただし、「牧神の午後への前奏曲」の冒頭で、あたかも遠い世界から夢のように響いて来るような美しいソロを聴かせてくれたフルートのジャック・ズーンをはじめ、木管セクションの奏者たちには賛辞を捧げたいところである。

 カーテンコールでは、いつものように、オーケストラの全員に対して熱烈な拍手が贈られていた。サイトウ・キネン・オーケストラそのものへの人気は、ここ松本では幸いにも未だ不動のようだ。これはフェスティバルにとっては、好材料だろう。
   別稿 信濃毎日新聞
   別稿 モーストリー・クラシック11月号

2018・8・26(日)愛知祝祭管弦楽団「ジークフリート」リハーサル

    パティオ池鯉鮒(知立市文化会館) 午前9時30分~午後4時30分

 愛知県の知立(ちりゅう)駅は、名鉄の特急で名古屋から約20分、豊橋から約30分。知立は、地元では「りゅう」にアクセントを置いて発音する。昔は知利布、知立、智立、江戸時代には池鯉鮒と表記された由。
 「パティオ池鯉鮒」は、その旧き佳き名を再現したものだという。知立駅からはタクシーで普通なら10分足らずの距離にあるが、名鉄の踏切が「開かずの踏切」同様で、これに5分以上の待ち時間がかかる。建物は、最大1000席ほどの「かきつばたホール」と、最大290席ほどの「花しょうぶホール」、その他教育施設などをも擁するというなかなかの規模だ。

 アマチュア・オーケストラの「愛知祝祭管弦楽団」が、三澤洋史指揮、佐藤美晴演出によりセミ・ステージ形式で繰り広げている「ニーベルングの指環」4部作ツィクルスについては、2016年9月11日の項と、2017年6月11日の項でも詳しく書いた。
 今年は来週━━9月2日に「ジークフリート」を上演することになっている。今日はそのリハーサルを覗く。

 一昨年の「ラインの黄金」の時には、1週間前のリハーサルを聴き、アマオケのことだから、本番になれば「火事場の何とか」でちゃんとなるだろう、と思ったものだ(事実、予想をはるかに上回る見事な出来を示した)が、今回の「ジークフリート」は、やはり団員たちが場数を踏んで来たせいか、同じ1週間前の段階なのに、驚くほどオーケストラの仕上がりが早い。正直言って、ここまで見事に出来上がっているとは予想していなかった。
 ━━こうしてアマチュア音楽家たちが、1年間、練習に練習を積んで大作の上演に取り組んでいる。全く、その努力と熱意には頭が下がる。

 今回は、何と「児童合唱団」が加わっていた。「ジークフリート」に児童合唱団? まさか、二―ベルハイムのシーンの回想でも?と驚いたが、リハが進むに従い、なるほどこういう形でやるのか、と納得。

 というわけで、9月2日の本番は期待充分だが、唯一心配なのは━━例年会場として使っている愛知県立芸術劇場コンサートホールが、今年は改修中で使えないので、代わりに御園座という歌舞伎・演劇・ミュージカルなどを上演する劇場(約1600席)を使用するということ。アコースティックの面でどうかなと思うのだが、しかし佐藤悦雄団長の話によれば、クラシック・ファンにとっては会場が物珍しいということもあるのか、既に完売なのだそうである。

 夜6時からは、知立駅により近いリリオ・コンサートホールの会議室で開かれた、愛知祝祭管弦楽団と日本ワーグナー協会名古屋支部の主催による、マエストロ三澤洋史の講演会を見学。8時24分の名鉄特急に乗り、9時には豊橋に着く。駅構内にある「ホテルアソシア豊橋」に一泊。

2018・8・25(土)マイケル・コリンズとその仲間たち

    ヤマハホール  2時

 マイケル・コリンズ━━同姓同名の有名人があまりに多くてややこしいが、このマイケル・コリンズは、アイルランドの政治家でも、ラグビー選手でも、宇宙飛行士でもない。英国の名クラリネット奏者である。

 今回はちょっと面白いプログラムで、ドナート・ロヴレーリョ(1841~1907)の「《椿姫》の主題による協奏的幻想曲」に始まり、モーツァルトの「ケーゲルシュタット・トリオ」が続き、次いで「夏の思い出」「からたちの花」「赤とんぼ」「たあんき、ぽーんき」をカルベルトがソプラノ・ソロ(日本語)と室内アンサンブルのために編曲したものが演奏された。 
 そして休憩後には、シューベルトの「家庭戦争」からシュピーゲル編の「ヘレンのロマンス」と、R・シュトラウスの「明日の朝」が歌われ、最後にブラームスの「クラリネット五重奏曲」が演奏された。

 演奏は、マイケル・コリンズのクラリネットを先頭に、村田千佳(pf)、岡本誠司(Vn)、直江智沙子(vn)、鈴木康浩(va)、富岡廉太郎(vc)、シャーロット・ロスチャイルド(S)という顔ぶれだ。
 ロスチャイルドというおばさんは、私は初めてナマで聴いたが、かなり個性的な発声と歌い方をする人だなと驚く。彼女の歌唱の日本語は、もちろんネイティヴ的ではないにしても、鮮やかなもの、と言えば言えるだろう。特殊な歌い方の中にも、極めてあたたかい情感がこもっていることは間違いない。

 ただ、━━と、ついでに余計なことを考えてしまう。かりに日本人歌手がドイツ語なりイタリア語なりで歌った場合、本国の人々はやはり、これに似た違和感と、併せて寛容さと、感嘆と、称賛とが綯い交ぜになった気持で聴くのだろうか? 

 ブラームスの五重奏曲は、さすがに聴きものではあった。しかし第1楽章では、クラリネットは他の4つの楽器に対し、リーダー的ソロという位置に立つのではなく、あくまで同等な位置にいる━━という解釈なのかもしれないが、それにしても他の4つの弦楽器が鳴り過ぎ、弾き過ぎたのではないか? 
 客席後方で聴いていたのだが、勢いよくバリバリ弾かれる弦にクラリネットが埋没してしまい、ほとんど聞こえない個所があまりに多すぎたのである。これでは、真の室内楽とは言い難いのでは。

2018・8・23(木)山田和樹指揮東京混声合唱団 伝統芸能と合唱

      横浜能楽堂  7時

 神奈川県立音楽堂主催の演奏会だが、本拠はいま改装工事中なので、それにほぼ隣接する横浜能楽堂が使用された由。
 だが今の「山田和樹〔音楽監督〕と東混」には、こういう場所を意図的に選んだのだろう、とまで思わせる企画の新鮮さがある。

 今日のプログラムは、アポリジニ(オーストラリアの原住民族)の伝承音楽を題材にしたリークの「コンダリラ」、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」第9番、柴田南雄の「秋田県横手萬歳によるシアターピース」と「追分節考」など。
 最後の曲では、尺八の関一郎と藤原道山が協演していた。

 この他に「合唱によるフリージャズ」というのがあったが、これは山田和樹みずから「今回は要するに即興的にという意味にとどまるもので、来年、本当のジャズをやるための実験的なもの」と断りを入れた上での「即興の」演奏。何だか団員同士がバラバラに騒いでいるみたいな(失礼)印象しか残らなかったが、来年に期待しよう。

 ともあれ、普通のコンサートホールと全く雰囲気の違うところなので、新鮮な感覚で聴ける。音響の上では━━残響はないけれども、今日のプログラムは「ブラジル風バッハ」を除いてはシアターピース、もしくはそれに類似した特徴を持つ作品であり、そのため本舞台や橋掛りだけでなく、客席の通路すべてを縦横に活用しての演奏が繰り広げられたので、むしろ能楽堂という場所の良さが生きた、と言えたであろう。

 「横手萬歳」は、2016年にも、神奈川県立音楽堂での演奏を聴いた(→9月6日の項で詳しく書いた)。こういうのをやると、伝統的に東混は巧い。みなさん芸達者である。

2018・8・22(水)野平一郎:オペラ「亡命」世界初演

      ブルーローズ(サントリーホール小ホール) 7時

 恒例の「サントリーホール サマーフェスティバル」の初日。野平一郎の新作オペラ「亡命」が、作曲者自身の指揮による演奏会形式で初演された。

 オペラの長さは、チラシには「90分」と書いてあったのに、実際はなんとほぼ125分。リハーサルをやってみたら判明したのだそうな。いまどきにしては随分と大らかな話である。とにかく、10分の休憩時間を挟み、終演は9時20分になった。おかげで食事の予定などは吹っ飛ぶ。

 オペラは.英語上演、字幕付き。原作と台本と字幕構成は野平多美、英語台本翻訳はロナルド・カヴァイエ。
 ストーリーは、1950年代の「鉄のカーテン」があった時代のハンガリーの作曲家ベルケシュ・ベーラが主人公。彼が一家とともに命を賭してオーストリアへ亡命、やがてウィーンやケルンを本拠に次第に世界的な名声を博して行くという過程が描かれる。その中に、彼に亡命時の恐怖の体験がトラウマとなって残り、精神科医たる妻の治療を受けるというモティーフが何度も現われるのがスパイスの役割を果たしているだろう。

 本来のテーマは「亡命とは?」ということにあるらしいが、それは実際にはさほど浮き彫りにされていない印象だ。しかしベルケシュのそのトラウマのひとつ━━西側で大きな成功を収めつつも、故国を離れているという「亡命」の孤独感を漂わせている彼の性格が、音楽のテンポと「間」と、歌のパートの心なしか打ち沈んだ表情などで表現されていたようにも感じられたのは確かである。

 このベルケシュは架空の人物だが、劇中にはバルトークやブーレーズなど実在の現代音楽作曲家の名がいくつか現われ、特にシュトックハウゼンとカーゲルは実名で登場、前者の「グルッペン」初演の話も出て来るといった具合である。このあたり、さながら20世紀音楽界の歴史の絵巻物を観るが如し。

 主人公ベルケシュを歌った松平敬をはじめ、幸田浩子、鈴木准、山下浩司、小野美咲という歌手陣が━━英語の発音に関しては何となくアレだが━━素晴らしい音楽的歌唱を繰り広げた。
 オーケストラは室内楽編成で、川田知子(vn)、向山佳絵子(vc)、高木綾子(fl)、山根孝司(cl)、福川伸陽(hn)、藤原亜美(pf)という、これまた錚々たる顔ぶれ。その演奏も巧いのなんの。演奏面では文句のつけようがない出来栄えであった。

 音楽そのものに関しては、本当はスコアを見た上で発言すべきところなのだが、とりあえず今日たった1回聴いた結果では、各楽器が極めて緻密で雄弁で、多彩に織り成されていたという印象であった。声楽パートの方は比較的坦々としたつくりで、例えばサスペンス感に溢れた亡命シーンにおいてもさほどオペラ的な、劇的な表情の歌唱は聴かれないけれども、オーケストラの方は非常に表情豊かでスリリングな力を表わしていた。
 ただこのオーケストラ・パートは、全曲にわたって終始細かく動き回り続けるので、どこかに━━複数個所でもいいのだが━━ドラマとしての「山場」が構築され、それが印象づけられるというところまでには行かなかったのではないかという気もする。 
 とはいえこれも、ただ1回聴いただけで判断すべきことではないだろう。

 いずれにせよ、これは舞台上演しても充分面白く視覚化され得るオペラだと思われる。
 もちろん、写実的な舞台としてではない。たとえば音楽の上で活用されているフラッシュバックのイメージ、あるいはモノローグ的な意味合いで挿入されているアリアの個所など、プロジェクション・マッピングなどを利用して、心理的な事象の動きを巧く描き出すことができるだろう。今日の、歌手が舞台上で位置を変えるだけの演出でも、フラッシュバックの効果を感じさせていたほどだから。

2018・8・16(木)ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン「白鳥の湖」

      東宝東和試写室  6時

 今年6月12日に英国のロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)で上演されたチャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」のライヴ映像を試写で観る。今月24日~30日にTOHO系映画館で公開の由。

 このロイヤル・バレエの「白鳥の湖」は、30年ぶりだかの新制作ということで、現地では話題を呼んでいたようだ。定番のマリウス・プティパ&レイ・イワノフの振付に、今回はリアム・スカーレットとフレデリック・アシュトンが追加振付した由。
 そのスカーレットによる新しい「演出」が導入されているということも、本編内のインタヴュ―で語られていた。ジークフリート王子の家庭教師ヴォルフガングと悪魔ロットバルトとを同一人物に仕立てたあたりもその一環かと思われるが、その「家庭教師」(配布資料には「側近」と表示)の「演技」が何とも曖昧で、アイディアだおれに終った感があるのは惜しい。
 なお、物語の最後は、プティパの振付に従い、やはり悲劇的な形で終る(私はどうもこれは好きではない。チャイコフスキーの音楽は、物語が明らかに愛の勝利で終ることを示しているからである)。

 白鳥オデットと黒鳥オディールの2役を踊るマリアネラ・ヌニェスと、ジークフリート王子を踊るワディム・ムンタギロフが素晴らしい。両者の個性は、第3幕で最高度に発揮されていた。
 悪魔と家庭教師の2役を踊ったベネット・ガートサイドは、カーテンコールの際にソロで出て来た時に何故か猛烈なブーイングを浴びせられていたが、そんなに悪いという印象はなかったのに・・・・悪役だったからブーイングされたというなら筋違い、気の毒な限り。
 指揮はクン・ケセルス。ロイヤル・オペラのオーケストラは少々粗かったが、これは録音の録り方にもよるだろう。しかしこの曲、やはりいい曲だ。

 上映時間は3時間24分だが、うち40分近くはインタヴューと案内だ。生中継の映像だから仕方ないとはいえ、このシリーズは冒頭に必ず長い(今回は16分)解説やインタヴュ―や練習風景などを入れるのが、少々もたれる。

2018・8・12(日)許忠指揮蘇州交響楽団

       サントリーホール  6時

 川崎での演奏会は5時少し過ぎに終る。5時24分の東海道線に乗り、新橋駅からタクシーを飛ばしたら、5時50分にはサントリーホールに着いてしまった。おかげで、開演時間には間に合わぬと思っていたこの珍しい演奏会を、最初から聴くことが出来た。

 この蘇州交響楽団は、2016年11月、蘇州に創設されたという若いオーケストラである。今回はアジア・ツアーの一環で、東京と神戸(国際会館)で1回ずつの公演の由。指揮は首席指揮者の許忠。
 プログラムは、陳其鋼の「五行」、サン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソリストは古沢巌)、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と「民謡の主題によるスコットランド行進曲」及び交響詩「海」。アンコールはドビュッシーの「夜想曲」からの「祭」と、最後に中国の「瑤族舞曲」(Wikiには、ヤオ族の舞曲を素材に劉鉄山と茅沅が1952年に作曲したものと載っている)が演奏された。終演は8時半。

 これらの演奏の中で、協奏曲を弾いた古沢巌の音が客席にまっすぐ飛んで来ず、しかもオーケストラの直截な力強い響きとは水と油の音色だったこともあり、この曲だけが今日のプログラムの中で最もアンバランスな印象を生んで聴き劣りがしたのは惜しい。
 だが、それ以外は、見事だった。冒頭の「五行」でのフランス印象派の流れを引く美しい音色(作曲者はメシアンの弟子の由)に始まり、サン=サーンスの協奏曲の管弦楽パートの洒落た表情━━特に第2楽章の後半は絶品だ━━を経てドビュッシーのブリリアントな音色に続く蘇州交響楽団の演奏は、非常に水準が━━技術的にも、音楽的にも━━高いものがあった。

 「牧神」では、1番オーボエが隣の1番フルートに比べ不自然に大きな音で吹いたり、「海」ではやや力任せの最強奏が聞かれたり、といった荒っぽい部分がないでもなかったが、これだけ色彩の変化に富んだ演奏は、アジアのオーケストラはなかなか得られないものである、と言ってもいい。
 聞くところによると、中国の豊富な資金力にもの言わせ、各国でオーディションを行ない、優秀な奏者を集めた楽団であるとのこと。メンバー・リストを見ると、80人強の楽員のうち半数近くが、特に金管の大多数が西洋人である。ただしクラリネット副首席には日本人女性の名も見える。

 そういう混成部隊という問題はあるにしても、20年ほど前に、「アジア・オーケストラウィーク」に来日していた頃の中国のオーケストラとは、もはや格段の違いがある団体が出現したことに間違いはない。
 この調子で行くと、中国のオーケストラは向後10年を出でずして、日本のオーケストラを脅かす勢いを示すことになるだろう。ただし、指揮者に人を得れば、ではあるが。

2018・8・12(日)フェスタサマーミューザKAWASAKI2018フィナーレ

     ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 ホスト・オーケストラの東京交響楽団による、フェスタサマーミューザのフィナーレコンサート。指揮は桂冠指揮者の秋山和慶、コンサートマスターは水谷晃。

 プログラムは、一応「祝バーンスタイン生誕100年」と題されてはいたが、第1部で演奏されたのはジョン・ウィリアムズの「オリンピック・ファンファーレ」(1984)とテューバ協奏曲(ソリストは田村優弥)であり、第2部の方でそのバーンスタインの「キャンディード」からの音楽と、「ディヴェルティメント」が演奏されるという仕組だった。

 「キャンディード」は、最初に「序曲」、次に幸田浩子と中川晃教の歌(PA付き)で各々のソロと2重唱の計3曲、次にチャーリー・ハーマンが編曲した組曲版━━という順序で演奏された。

 幸田浩子は、最近ヴィブラートが猛烈に強くなって来たのが気になる(先頃の「ばらの騎士」でもそれが目立っていた)が、しかしあの「着飾って浮かれましょ」の猛速テンポの高音をとにかくまっすぐに出してくれたのには感心。
 しかし中川晃教の方は━━マイクを使うのには慣れているはずだろうに、「キャンディードの哀歌」の「クネゴンデ」の「ク」をまるでノイズのようにマイクを「吹いて」発声したり、子音をすべて異常に強く発音したりと、聞き苦しいこと夥しい。それは2重唱でも、またアンコールで歌った「トゥナイト」でも同様だった。

 東京響は、秋山和慶がつくり出す「正確な」音楽に、ちょっと生真面目なものではあったけれども、活気に満ちた演奏を響かせてくれた。

2018・8・9(木)藤岡幸夫指揮日本フィル&反田恭平(ピアノ)
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第5番」

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 これも「フェスタ サマーミューザKAWASAKI2018」の一環で、プログラムはラフマニノフの「ピアノ協奏曲第5番」とシベリウスの「交響曲第1番」。客席は大入り満員。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲の「第5番」とは何だ? 
 すでにCDでも出ているから、御存じの方は御存じのはずだが、これは彼の「交響曲第2番」をピアノ協奏曲に編曲したものである。
 仕掛け人はブリリアント・クラシックスのプロデューサーであるピーテル・ファン・ヴィンケル、編曲はウクライナ出身のアレクサンドル・ヴァレンベルグという人。ステージ初演もマツーエフによって行われている。

 話題は確かに集まるだろうが、しかし、━━CDで聴き、また今回の日本初演を聴いた私個人の印象から言えば、これはやはり、一種のキワモノ的なものにしか思えぬ。
 一口に言えば、1時間の長さを持つ原曲の「第2交響曲」を抜粋して繋ぎ合わせて40分程度にまとめ、「それにピアノ・ソロを載せた」という域を出ていない作品なのである。しかもその編曲が、ピアノ・ソロが浮き出るようなバランスで行なわれていないので、ナマのステージで演奏された時には、ピアノがオーケストラに消されて聞こえない個所が多いのだ(この辺が、マイクでバランスがどうにでも変えられる録音とは違う)。敢えて言えば、ピアノ・コンチェルトとしては甚だ不完全なものと断じざるを得ないだろう。

 ただ、この編曲版の日本初演に情熱を傾けた反田恭平の意欲には、拍手を贈りたい。彼の演奏も━━といっても、カデンツァや、オケの咆哮の間を縫ってはっきり聞こえた個所の範囲でしか判断しようがないのだが━━体当り的な熱演だったのである。

 後半のシベリウスは、藤岡幸夫の十八番のレパートリーだ。クラリネットの最弱音には神経を行き届かせているように感じられたし、第4楽章大詰近くで弦楽器群がアンダンテでたっぷりと歌い上げるところも情感豊かな演奏だったことは疑いない。
 ただ概して、オーケストラを勢いに任せて煽り過ぎたのでは? 
 もっとも以前、彼がこの「1番」を関西フィルを指揮した演奏で聴いた時(2009年7月1日)にもやはりこういう演奏━━あの時には「ナニワの心意気というか、河内のオッサン的というか、そういうシベリウス」とか書いた覚えがある━━だったから、これは彼の一種の芸風なのである。エネルギッシュなのは大変結構だとは思うが、しかし、オーケストラがついて来られなければ何にもなるまい。

 日本フィル(今日のコンサートマスターは千葉清加)も、トランペットの粗い演奏をはじめ、定期の時の丁寧な演奏とはかなり異なり、まるでラザレフが首席指揮者に着任する以前の、十数年前の「荒々しい日本フィル」の亡霊が蘇ったような印象を受けた。勢いが良いことはいいけれども、乱暴な演奏は決して好ましいものではない。

2018・8・5(日)ミンコフスキ指揮東京都交響楽団「くるみ割り人形」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 恒例の「フェスタ サマーミューザKAWASAKI2018」━━在京プロオーケストラや大学オーケストラが軒並み顔を揃えるフェスティバルで、7月21日から始まっている。
 今日はマルク・ミンコフスキが東京都交響楽団を指揮して、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」全曲を演奏するというプログラム。コンサートマスターは矢部達哉。児童合唱はTOKYO FM少年合唱団。ほぼ満席の様相。

 久しぶりに聴くと、この「くるみ割り人形」、実にいい曲だ。チャイコフスキーという人は、何とまあ豊かなメロディを持っている作曲家なのだろうと、今さらのように感心してしまう。

 その「くるみ割り」が、予想通り、聴き慣れているものとはかなり異なる演奏になった。チャイコフスキーの管弦楽法の多彩さは充分に再現されていたものの、彼特有のあの豊麗なロシア的な色彩感はあまり感じられず、むしろ鋭角的で研ぎ澄まされた音たちが円舞するといったような演奏というか。

 冒頭の序曲からして、弦の硬質な響きでリズムが刻まれて行く。第1部の終結の、雪の松林を進む場面の音楽など、夢幻的なお伽噺の世界を彷徨う甘美さといったイメージは薄く、むしろ直截で明快な叙情性のみが進んで行くといった感だ。
 第2部の「お菓子の国」の場面になると、おなじみの舞曲集が多少は柔らかい親しみやすさを以って響いていたが、それでも「花のワルツ」や、そのあとの「アダージョ」などでは、シンフォニックな力感を優先させた、音楽の骨組のほうが目立つ演奏になっていたように感じられた。

 こういう解釈の「くるみ割り人形」の演奏は、あまり私の好みではないけれども、しかし、そういう好みは別として、それはいかにも「古楽系出身」のミンコフスキらしいスタイルだと思うし、チャイコフスキーの音楽への彼なりの個性的なアプローチとして理解できるというものである。
 とはいえ、彼がレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルを指揮してこの「くるみ割り人形」を演奏したら、到底このようなものでは済まないはず。今日はモダン・オケの都響との演奏ゆえに、どうやらこのあたりで踏み止まってくれていた、とでも言えそうである。

 ミンコフスキも、今や日本でも大変な人気指揮者となった。今日も、ソロ・カーテンコールで熱烈な拍手と歓声を浴びていた。私も、もちろん好きな指揮者である。この数日の間に、ドビュッシーとチャイコフスキーという2人の作曲家に対するミンコフスキの姿勢を聴くことができて、幸いだった。

 なお今日は都響の楽員がカーテンコールの最後に全員で客席の方を向き、コンマスが代表して一礼するという終わり方をしたが、いつからそういうスタイルを採るようになったのか。あの愛想のない雰囲気だった都響が、何と今は笑顔で・・・・。先日もギルバートがマーラーを振った時に、最後に彼の合図で全員が正面とP席とに一礼するという行動を執り、私たちを驚かせたものだったが。
 私は以前からあの仏頂面(?)には不満で、このブログでも2回ばかりそれに触れたことがあったので、今日のようなやり方は大いに結構であると思う。

2018・8・4(土)「ウエスト・サイド物語~シネマティック・フルオーケストラ・コンサート」

    東京国際フォーラム ホールA  6時

 これは近年流行の、映画上映と生オケの演奏との組み合わせのひとつ━━つまりあの名画「ウェスト・サイド物語」を、映像・効果音・セリフ・歌はオリジナルのままで上映、その映画に合わせて佐渡裕の指揮する東京フィルハーモニー交響楽団が生オケで演奏する、という形である。

 歌のパートは映画のオリジナルのままで、オーケストラの部分だけを切り離して削除するなどというのは、私のような素人から見れば全く神業にも等しいが、サウンドトラックの仕組からすれば、それほど難しいことではないのだろう。ただこの映画が60年近くも前(アメリカでの公開は1961年秋)のものであることを思えば、たいしたものだなと思わざるを得ない。

 実際の演奏は、すべてが歌にぴたりと合っていたとは必ずしも言い難いが、それでも映像とのタイミングの上での違和感は、ほとんどない。よくあそこまで合わせたものである。休憩20分を含めておよそ3時間、佐渡裕と東京フィルの奮闘には本当にご苦労様でしたと言うほかはない。
 最初のうちは、映画のサントラのオーケストラで聴いたとて特に不満はないし、生オケに差し替えたところで何ほどのことやあらん━━と、多少斜に構えていたのだが、やはり「アメリカ」や「クール」などダイナミックな場面と音楽の部分になると、フル・オケの量感は替え難い魅力である。

 1961年暮にこの映画を観に行った時の感銘を久しぶりに思い出した。それまでのリチャード・ロジャースやコール・ポーターやアーヴィング・バーリンらの穏やかで甘美でラヴ・ロマンス的な音楽のミュージカル映画、そしてまた理想郷アメリカを描く美しいミュージカル映画といったイメージを根底から覆し、鋭く激しく躍動的な音楽と、人種問題や貧民街の問題を正面から取り上げたストーリーを持ったこのミュージカル映画が日本に現われた時、当時の私たちがどんなに衝撃を受けたかは、あの時代に生きていた者でなければ想像もつかないだろう。

2018・8・2(木)中嶋彰子&小菅優「女と男の愛の生涯」

    ヤマハホール  7時

 「中嶋彰子プロデュース 女と男の愛と生涯 ~小菅優と共に~」というのが演奏会の正式タイトル。「女と男の移ろいゆく恋、変わらない愛」(中嶋彰子のメッセージ)をテーマとしたプログラムである。

 小菅が弾くシューマンの「アラベスク」で始まり、次に中嶋と小菅によるシューマンの「女の愛と生涯」が続く。休憩後はベートーヴェンで、小菅の「ピアノ・ソナタ《テレーゼ》」、中嶋と小菅の「アデライーデ」、小菅の「エリーゼのために」、2人による「遥かなる恋人に」と続く。アンコールは何故か突然シューベルトの「野ばら」になった。

 ツワモノ同士の協演だから、演奏の濃密さは言うまでもない。
 中でも今夜、私が最も楽しんだのは、ベートーヴェンの歌曲集だった。特に「遥かなる恋人に」は、男声歌手が歌うと━━まあ人にもよるけれども━━いかにもベートーヴェンらしい生真面目さと武骨さが目立ってしまい、あまり面白くない曲に感じられるのだが、今夜の中嶋彰子の歌唱で再現されたこの曲は、思いがけず優しくあたたかく、情熱に満ちて、まさに「愛の歌」としての性格を備えていたのであった。

 もともとオペラでもニュアンスの細かい、性格的な表現に富む歌い方をする彼女なので、歌曲の分野でも、もっといろいろ聴いてみたい気がする。

2018・8・1(水)ミンコフスキ&OEK「ペレアスとメリザンド」東京公演

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ゲルギエフとPMFオーケストラの東京公演も聴きたかったのだが(同日同時間にかち合うのだから困る)、いろいろな事情から、今回はこちら、マルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢の渾身の企画「ペレアスとメリザンド」の、その東京公演を選ぶ。

 この東京公演は、2日前の石川県立音楽堂での上演の際と違って、このホールの舞台機構上の制約のため、全く形を変え、セミ・ステージ形式という形で上演された。
 舞台奥上方、オルガンの前に巨大なスクリーンがひとつ設置されただけで、紗幕はひとつも無い。登場人物(すべて金沢上演と同様)の演技は、今日は全てオーケストラの前、舞台前方スペースで行なわれ、ごく稀に奥のスクリーンの下手側のスペース(席)が利用されることもある。もちろん、上手側の張出舞台などは設置されていない。
 また映像の内容は、基本的には金沢上演と同一だが、こちらは紗幕がないので、奥の大スクリーンにすべてまとめた形で投映される。事務局の話では、「今回用に」作り直した由。

 かように舞台は、2日前のボルドー/金沢版とは極度に異なる形態となり、その結果、夢幻的な世界とか、底知れぬ闇とか、異次元的世界との交流とかいった要素はすべて失われることになってしまった。東京公演に際し、その理想を実現できるホールが取れなかったことは痛恨の一事というほかはあるまい。

 ただ、それはそれとして、今日の上演にもそれなりの良さはある。紗幕がないため、中央スクリーンに投映される映像が、金沢上演の時よりずっと明晰で、あれこれ目を凝らさなくても済んだこともそのひとつ。
 何より、舞台上の複雑細微な景観に気を取られずに、ドビュッシーの陶酔的な音楽、マルク・ミンコフスキとオーケストラ・アンサンブル金沢の入魂の演奏、歌手陣(金沢と同一)の劇的な表現に溢れた歌唱などに集中できたことは、これは有難い。

 また、今日は1階の最後方の席を希望して座ったのだが、少なくともその位置で聴く限り、オーケストラと声楽のバランスは理想的なものに聞こえた。━━このホールは席の位置によってバランスや音色がかなり異なる傾向があり、特に声楽の場合にはなかなか難しいものがあるから、前方や側方で聴いていた人々はどう感じたか判らないけれども。

 この最後方の席を希望したのは、例の「間奏曲」の問題で、こっそりスコアと照合して確認しようかと思っていたからなのだが、客席は非常灯も消されて真っ暗で、スコアどころではなかった。だが、確かに間奏曲は━━全部がとは言えぬまでも、短かった。これがドビュッシーの最初の案だったのか、と複雑な思いに駆られたが、あの「好きな個所」が出て来ないというのも、少々残念ではあった。
 10時15分頃終演。音楽的には素晴らしい、魅力的な「ペレアスとメリザンド」だった。

 ミンコフスキ、次は5日のミューザ川崎での都響との「くるみ割り人形」の演奏会形式による全曲だが、どんなものになるか。
 かんじんのOEKとの定期での指揮は来年7月まで無いそうだが、芸術監督就任とあらば、もう少し指揮の機会を増やしてもらいたいところだ。

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