2018-06

2018・6・19(火)コルネリウス・マイスター指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 首席客演指揮者コルネリウス・マイスターの登場。

 去る16日に死去したゲンナジー・ロジェストヴェンスキーを追悼して、最初にチャイコフスキーの「くるみ割り人形」から「冬の松林」が彼の指揮で演奏された。
 半明かりの舞台で響いたこの曲も演奏もすこぶる感動的で、今にもあの巨匠が指揮台からにこやかな顔を客席に向けてくれるのではないかとさえ思えたほどである。最後に彼を聴いたのは昨年5月19日の読響との「シャルク版ブルックナー」だった。それは昨日のことのような気がする。
 私も読売新聞紙上に彼を追悼する小文を書いたが(6月20日朝刊文化欄)、たとえ千万言を尽しても、今日のこの曲の演奏が持っていた慟哭の力には、到底及ばない。

 さて、読響首席客演指揮者コルネリウス・マイスターは、今月は3種のプログラムを指揮するが、今日はR・シュトラウスの作品集だ。彼はドイツで最近この作曲家のオペラを盛んに指揮して評判を呼んでいるというし、私も何となく、彼とシュトラウスは相性が良いのではないかという気がしていたところである。
 今日のプログラムは前半に交響詩「ドン・キホーテ」で、協演のソロは、チェロが石坂団十郎、ヴィオラが柳瀬省太、ヴァイオリンがコンサートマスターの小森谷巧。休憩後に「カプリッチョ」からの「前奏曲と月光の音楽」、「影のない女」による「交響的幻想曲」。

 マイスターは、大編成のオーケストラをバランスよく壮大に構築する。音楽の「持って行き方」もなかなか巧く、「ドン・キホーテ」でのリズムも切れがいいし、「影のない女」のクライマックスでの昂揚感にも見事な壮大さが聴かれる。なるほど彼がR・シュトラウスを得意とする所以が那辺にあるかを証明する演奏であったことは確かである。

 しかし、どうにも一つ物足りなさを感じさせるのは、彼の指揮のコクのなさ、一種の素っ気なさだ。
 今日の演奏には、R・シュトラウスの音楽が持つはずの特殊な官能性は、その音楽に本来備わっているもの以上のものは全く顕れておらず、むしろ薄められている傾向さえ感じられる。「カプリッチョ」冒頭の六重奏(読響の弦の1番プルトたちの演奏自体は見事だった)の雰囲気もそうだし、「影のない女」のチェレスタの個所などでも、もっと甘美さがあったらと思う。弱音で曲が終結するような個所でも、ゆったりと余韻を籠めて終るなどということはやらず、至極あっさりと、ストンと終る。

 このマイスターという人、これまで聴いたマーラーなどの演奏なども含めて感じるところでは、手堅いのが身上らしい。もう少し、良い意味でのあざとさというか、何か新しい発見をさせてくれる指揮者であって欲しいのだが・・・・。いずれにせよ、もう少しいろいろ聴いて見ないことには。

2018・6・17(日)NISSAY OPERA 2018 モーツァルト;「魔笛」

     日生劇場  1時30分

 今や引っ張りだこの存在になった若手演出家、佐藤美晴によるニュー・プロダクション。沼尻竜典が新日本フィルを指揮。

 歌手陣はダブルキャストで、この日は、山本康寛(タミーノ)、砂川涼子(パミーナ)、青山貴(パパゲーノ)、角田祐子(夜の女王)、小堀勇介(モノスタトス)、伊藤貴之(ザラストロ)、今野沙知絵(パミーナ)、田崎尚美・澤村翔子・金子美香(3人の侍女)、盛田麻央・守谷由香・森季子(3人の童子)、山下浩司(弁者)および清水徹太郎(2人の僧侶)、二塚直紀・松森治(2人の武士)という顔ぶれ。合唱はC・ヴィレッジ・シンガーズ。
 ドラマトゥルクは長島確。舞台美術は池田ともゆき、照明伊藤雅一、衣装が武田久美子。

 これは、演奏の面でも舞台の面でも、すこぶる力のこもった上演であった。
 まず第一に、沼尻が新日本フィルから清楚で端整で切れの良い音楽を引き出し、音楽でドラマを引き締めるという重要な役割を完璧に果たしていたことが特筆されよう。歌手陣の歌唱もすべて手堅く、音楽的にも極めて聴き応えのある上演であったと言えるだろう。

 歌唱はドイツ語だが、台詞は日本語(「本当はドイツ語で喋っているのだが、この不思議な物語の空間では日本語に変換されて聞こえるのです」と称しているのがミソ)で、それもかなり原作とは変更され、佐藤美晴自身が書いた「現代的なニュアンスを織り込んだ」台本で進められている。
 一般の上演ではたいていカットされる原作の個所━━夜の女王が語る「太陽の国」支配をめぐる亡き夫との争い、およびその夫とザラストロとの過去の経緯など━━が今回は生かされているのは好ましい。
 ただ、そのセリフの進行は著しくテンポが遅く、時にドラマの進行を阻害するような傾向があったのは惜しい。もしそれが切れ味のいいテンポで進められていたら、客席からの笑いをもっと誘ったかもしれない。

 しかし、演出面では、さすがに今回は注目すべきところが多い。
 ザラストロの「高貴な国」は、今回は何と、灰色の服装と顔色と髪の色ばかりの者たちによる、暗く画一的な秘密組織の如き集団だ。彼らはタミーノたちが試練を受ける決意を表明するのを、タバコを吸い、酒を飲みながらせせら笑うといった具合で、とても「太陽の国」とは思えぬ、もはや崩壊寸前の「組織」である。
 その組織の中では、男尊女卑が著しく、女は雑用係といった役回りだ。これは当然、前述の夜の女王の「太陽の国の支配は女ごときものには任せられぬと夫から言われた」というセリフと呼応する解釈であろう。

 だが結局、新世代のタミーノとパミーナの若々しく清純な愛によってその旧弊な世界は一掃される。幕切れ場面では女性たちが解放され、それまで威張っていた男たちの旗色が悪くなるという光景がみられるのだが、この組織が、タミーノとパミーナにより救われる━━つまり若き清純な愛がすべてを救う━━というのが、演出の骨子のようである。それは、「組織」の旧弊化を憂えたザラストロの作戦だったのかもしれぬ。
 ただし、そのあたりは、あまり明確に描かれていない。「組織」の者たちが自覚し覚醒し変貌する過程や、ザラストロの深謀遠慮ぶりなどが、もう少しはっきりと演出されていれば、もっと解りやすかっただろう。

 ザラストロと、敗北した夜の女王とが最後に和解するのかどうかは、あまりはっきりしないけれども、演技を見れば、少なくともザラストロが彼女に深い同情の念を注ぐというのは間違いないだろう。
 こうした演出の設定は特に目新しいものではないが、今回は、奥の高みに向かう新世代のリーダー(タミーノたち)と、前面に残されたまま労り合う老いた世代(ザラストロたち)とを視覚的に対比させたことは、幕切れで世代の交替を強調する演出として、効果的なものであった。

 タミーノとパミーナは、まさに「少年と少女」である。その衣装は、序曲のさなかに登場して「物語の設定を相談する」3人の童子のものと全く同一だ。
 冒頭には大蛇は登場せず、代わりに厳しい大人たちに囲まれ、少年タミーノが受験勉強を強いられて悲鳴を上げるという設定となっていて、これは面白い。やってくれたなという感。

 その「大人たち」が、のちにザラストロの国で登場する連中と同じ姿をしている━━というのも、何となくコンヴィチュニー的な手法で、面白い。
 が、もし同じ連中だとしたら、彼らが夜の女王の3人の侍女からスプレーを吹きかけられ、ゴキブリの如く退散させられるという力関係は、のちの物語の展開とはどうも整合性がないのではないか(それなら夜の女王たちがザラストロの国に攻め込む際に、武器として殺虫剤スプレーの数本もあれば勝てるはずではないか、と突っ込みたくなってしまう)。
 スプレー以降は全てタミーノの「夢」だったというなら、幕切れにそれを証明する光景がない以上、この「魔笛」はタミーノの「永遠に覚めぬ夢」だったということになるか。

 一方、「火と水の試練の場」を照明の変化のみで象徴したのは、賢明な方法であった。この場面で、火と水を実際に舞台に具現すると、たいてい恐ろしくチャチになってしまうからである。

 登場人物の個々のキャラクターは、良く出来ていた。
 就中、私が気に入ったのは、パパゲーノを歌い演じた青山貴。もともと童顔の人だが、今回はすこぶる愛嬌のある鳥刺し君になっていて、安定した歌唱とともに、シリアスな舞台に明るい雰囲気を導入していた。この舞台だけを観ると、この人がワーグナーの舞台では一転して威風堂々、槍をかざしてヴォータンを歌い演じるなどとは想像もつかないだろう。
 可愛さでは、パミーナの砂川涼子だ。クマのぬいぐるみを抱いた女のコという設定で、メッチャ可愛いというタイプ。もちろん歌唱は優れている。

 他に私が以前から注目していたのは、先頃の東響定期でのウド・ツィンマーマンのオペラ「白いバラ」で素晴らしい歌唱を聴かせてくれた角田裕子の夜の女王だった。杖をついた美老女という態のメイクは面白く、安定したコロラトゥーラを聴かせてくれた。
 タミーノの山本康寛はなかなか舞台映えするし、歌唱もいい。彼とともにびわ湖4大テナーの一角を為す二塚直弘は、今回「第1の武士」を演じており、サングラスをかけたやくざ風のいでたちが笑える。伊藤貴之も風格あるザラストロを歌っていた。

 この「魔笛」のニュー・プロダクションは、このあと秋にかけ、甲府、大分、大津、八幡、田辺で巡演されるそうである。もう一度、びわ湖ホールあたりでの上演(10月6日)を観てみようか。それまでには、演出の細部も更に完成度が高められているだろうから。

2018・6・16(土)キュッヒル・クァルテットのブラームス

     サントリーホール ブルーローズ  7時

 7時からは、同じサントリーホールの、今度は小ホール。「チェンバーミュージック・ガーデン」の一環、キュッヒル・クァルテットの登場だ。
 現在のメンバーは、第1ヴァイオリンがライナー・キュッヒル、第2ヴァイオリンがダニエル・フロシャウアー、ヴィオラがハインリヒ・コル、チェロがロベルト・ノーチ(この人、ハンガリー出身だからナジ、かと思っていた)である。

 今日はブラームス・プロで、最初に「弦楽四重奏曲第2番イ短調」が演奏され、休憩後にはヴィオラの豊嶋泰嗣とチェロの堤剛が加わり、「弦楽六重奏曲第1番変ロ長調」が演奏された。

 おなじみキュッヒル先生は、相変わらず「キュッヒルぶし」全開の演奏だが、今日はいつぞやのベートーヴェン・ツィクルスの時より演奏にコントロールを利かせていたし、また作品もブラームスなので、キュッヒルの「自由な感興にあふれて際立つ」ソロも、むしろロマン的な雰囲気を感じさせてくれるという、いい方に生きていただろう。

 とにかく、このウィーンの4人の演奏には、えもいわれぬ味があるのは周知の通り。昨夜のトリオ・ヴァンダラーの生真面目そのものの演奏に比べると、こちらキュッヒルたちのアンサンブルは、その解放感、明るい闊達さなどもあって、聴いていてずっと楽しい。演奏にあふれるあのウィーン的な情緒を備えた独特の味が、たまらない魅力を感じさせてくれるのだ。

 また、「六重奏曲」で加わった豊嶋も堤も、十全にそのアンサンブルに溶け込み、しっかりと中音域や低音を支え、見事なブラームスの世界をつくり出していた。
 この演奏におけるあたたかい情感は、何といっても良きウィーンの香りそのものであろう。私としては第1楽章を聴きながら、あたかも五感がとろけて行くような、言いようのない陶酔を久しぶりに味わったものである。

 アンコールでは、同曲の第3楽章がもう一度演奏された。私の個人的な好みとしては第2楽章をやってもらいたかったな、という気がするのだが、それでは長くなるだろう。あの映画「恋人たち」とこの第2楽章とを結びつけて感慨に浸るような人は、もうほとんどいなくなっているかもしれない。

2018・6・16(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      サントリーホール  2時

 前半にシューベルトの「《イタリア風序曲》第2番」と、メンデルスゾーンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはサリーム・アシュカール)、後半にメンデルスゾーンの「交響曲第4番《イタリア》」。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 インキネンと、シューベルトやメンデルスゾーンの作品とは━━もちろん作品の曲想にもよるが━━どうやら相性がいいようである。今日の3曲など、明るくてきらきらしていて、色彩的で、しかも軽やかだ。
 「《イタリア風序曲》第2番」の冒頭のふくよかで明るい和声の響き、「イタリア交響曲」の第1楽章冒頭での、木管の柔らかく軽快なリズム感と、開放的で明るい主題の表情━━。

 日本フィルがこれだけ洒落た品のいい演奏を聴かせてくれるとは、10年前のこのオーケストラからは想像もできない変わりようである。あの荒れに荒れていた音をラザレフによって叩き直されたこのオーケストラ、彼がそのシェフの座を退いてからはちょっと方向性が定まらないような傾向もあったが、インキネンがそのポストを引き継いでおよそ2シーズン、今やその成果もはっきりと顕れたように思われる。これなら、来春に予定されているフィンランドや独仏英への演奏旅行も、うまく行くことであろう。

 ピアノのアシュカールは、イスラエル出身とかいう話を聞いたが、ベヒシュタインのピアノを持ち込んでの演奏ということもあったのだろう、実に綺麗な音色と瑞々しい叙情美でメンデルスゾーンの協奏曲を再現した。また、アンコールの「トロイメライ」は、まさに玲瓏たる演奏だった。

 プログラムの演奏時間は短く、3時半には終演になったが、そのあとはホワイエで、それを聞くために残っていた大勢の客を相手に、インキネン氏と、日本フィルの後藤朋俊常務理事・事務長がトークを行なった(通訳は井上裕佳子さん)。インキネン氏の首席指揮者契約期間2年延長と、来春のツアーなどに関する話である。
 指揮者と聴衆のこのような形での交流は好ましいことで、いかにも日本フィルらしい。

2018・6・15(金)トリオ・ヴァンダラー演奏会

   サントリーホール ブルーローズ  7時

 「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」の一環。
 パリ音楽院出身の3人━━ジャン=マルク・フィリップ=ヴァルジャベディアン(ヴァイオリン)、ラファエル・ピドゥ(チェロ)、ヴァンサン・コック(ピアノ)の3人によるトリオで、結成以来31年になる由。

 プログラムは、ベートーヴェンの三重奏曲第4番「街の歌」、アレンスキーの「三重奏曲第1番ニ短調」、シューベルトの「三重奏曲第2番変ホ長調」。アンコールはドヴォルジャークの「三重奏曲第4番《ドゥムキ―》」の第6楽章と、ハイドンの「ハンガリー風ロンド」(三重奏曲ト長調Hob.ⅩⅤ-25の第3楽章)。

 このトリオ・ヴァンダラーというアンサンブル、フランスの演奏家でありながら、演奏にはまるでドイツ人のそれかと思わせるような生真面目さにあふれているのが興味深い。一人一人の演奏は実にしっかりしているし、アンサンブルにもさすがのキャリアを感じさせるので、その演奏は毅然、整然として、全く隙がない。

 だが、シューベルトの第2楽章でピアノが刻むリズムに、まるでユーモアも、軽快さも感じさせず、ただひたすらシリアスな表情で進んで行くのには、聴いていて苦笑させられる。「街の歌」でも、ベートーヴェンがこの曲に籠めた冗談とも本気ともつかぬニュアンスはこの曲の真髄ともいうべきものだが、こう真面目くさった表情で演奏されると、あの俗謡調の主題も、あまり「街の歌」的な雰囲気が無くなって来る。

 3人が演奏する表情もまたクソまじめで、アイ・コンタクト(それもあるかないか)にも微笑ひとつ見せず、聴衆の拍手に応えて答礼する時にさえ、ほとんど笑みを見せないという音楽家たちだ。とはいえ、彼らの演奏には、たとえばベルリン・フィルのメンバーが室内楽をやる時のような堅物的な生真面目さというのではなく、どこかにしなやかな明るさが垣間見えるのが、これまた面白い。

 アレンスキーの三重奏曲の冒頭の主題は、テレビの「暴れん坊将軍」のテーマ曲そっくりなので、昔から何となく愉快な思いで聴いていたのだが、今日の演奏では、もちろんこれもシリアスに聞こえた。

2018・6・14(木)オロスコ=エストラーダ指揮フランクフルト放送響

      サントリーホール  7時

 フランクフルト放送(hr)所属のhr交響楽団「hr sinfonie ochester」ではさすがに解り難いというわけか、国外向けにはまた「Frankfurt Radio Symphony」という名称を使っているようである(オーケストラのサイトによる)。

 今日はラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはチョ・ソンジン)と、マーラーの「交響曲第5番」。
 ほぼ同じ時期に作曲された作品とはいえ、音楽的には極めて異質な2曲である。全く共通性も関連性もない作品だ。およそつりあいの取れないプログラムとは、こういうものを謂うのだろう。
 フランクフルト放送響が来日して演奏するなら、なにもラフマニノフでもあるまいに、と思う(断わっておくが、ラフマニノフの作品が悪いと言っているのではない)。どうせやるなら、このオケのスペシャルをもっとやってもらいたい、ということである。

 アンドレス・オロスコ=エストラーダは日本では未だ知名度が高くないから、チョ・ソンジンの人気で客を集めようという招聘元の目論見だろうし、それはそれでいいだろう。
 だが、マーラーの交響曲と組み合わせるなら、チョ・ソンジンもそろそろモーツァルトかベートーヴェンの協奏曲あたりで勝負に出るということもやってみてはいかがなものか、とも思うのである。まあ、これも勧進元の意向もあるから、簡単には行かないだろうけれども。

 それはそれとして、そのラフマニノフの「協奏曲第2番」は、サントリーホールの正面2階席最前列で聴くと、オーケストラ・パートの方が勝って聞こえて来てしまう、ということが、不思議にこのところ多い。今回も同様だった。
 したがってチョ・ソンジンの素晴らしさは、今日はむしろソロ・アンコールで弾いたドビュッシーの「金色の魚」に聴かれた。この色彩の変化に富んだ演奏は、実に見事なものだった。

 マーラーの「5番」の方は、良くも悪くも、今のオロスコ=エストラーダの指揮の特徴を顕わしたものだろう。
 元気いっぱい、体当たり的な熱演であり、直截なエネルギー感に満ちていて、好感が持てる。推進力も充分なものがある。ただそのいっぽう、各声部の交錯を巧く整理し、音楽に変化のある流れを形づくるという点では未だし、という感がないでもない。ありていに言えば、響きが雑然としてしまうところが多いのだ。

 彼はデュナミークの対比には綿密に気を配る人で、それは概して成功していた。が、第5楽章終結近く、金管群が全力で吹きながら漸弱と漸強を繰り返す聴かせどころ(練習番号【33】以降)━━ここでの「再クレッシェンド」は実に壮大な迫力を生み出すのだが━━では、勢い余ってか、そのあたりの細かいニュアンスが無造作に片づけられてしまっていたのが惜しまれる。

 なお、第3楽章での1番ホルンはステージ前方━━第1ヴァイオリンの第3プルトあたりの前方に出て吹いていたが、これがめっぽう上手い奏者で、しかも前述の席で聴く限り、奥のホルン・セクションとのバランスも非常に良いのにも感心した。

※アンコール記載は挿入ミスでした。「アダージェット」は、レ・シエクルのコンサートの方です。大変失礼。

2018・6・12(火)フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮レ・シエクル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 サントリーホールでのプレトニョフとロシア・ナショナル管の「イオランタ」も聴きたかったのだが、斬新な演奏で最近注目の指揮者とオーケストラということで、敢えてこちらを選ぶ。

 1971年パリ生れの指揮者フランソワ=グザヴィエ・ロトと、フランスのオーケストラ「レ・シエクル Les Siècles」が演奏する、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と「遊戯」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」━━これはもう、ふるいつきたくなるようなプログラムだ。

 今回の「春の祭典」のユニークな演奏については、プログラム冊子に掲載された池原舞さんと佐伯茂樹さんの解説が大いに参考になる。
 ロトが復元した初演時の(ものに限りなく近い)スコアに基づき、20世紀初頭のパリで使用されていた楽器を多く使用してのこの演奏は、ふだん私たちが聴いている現行の「改訂版」(複数)で聴くのとは随分異なった、時には仰天するような違いがある。

 一部のデュナミークの逆転や、声部のバランスの変更による意外な響きには、ロトの独自の解釈が全く入っていないとは言えないだろう。だが、「春のロンド」のさなかにおける大きな休止や、「神聖な踊り」の中で突然最弱音になる個所や、カットしたのかと仰天させられるような一、二の個所などが、すべて初演時のスコアに基づくものだったという解説を読むと、ただもう驚くばかりである。

 そしてこの、旧い管楽器による鋭角的な音色で再現されたスコアの響きの、何という強烈さ。
 この曲が、あまりの刺激的な音によってパリの観客の理性を失わせたという噂は、それが「当たり前のように演奏される」ことの多い現代から見れば、いかにも昔話のように感じられてしまうのだが、こういう楽器で、このように演奏されると、「春の祭典」の驚異的な前衛性は、初演から100年を過ぎた今でも、まだまだ衰えていないのだということが実感できるのである。

 「ラ・ヴァルス」も、強烈かつ兇暴(?)な力を噴出させる演奏だった。これは版の問題というより、ロトの解釈とこのオーケストラの独自の音色によるものかもしれないが、この圧倒的な音楽は日頃聴き慣れている「ラ・ヴァルス」とは全く異なり、極めて挑戦的な作品に感じさせる。
 「牧神の午後への前奏曲」も、豊麗で官能的な夢幻の世界を描くような演奏ではなく、はるかに鋭い。「遊戯」に関しても同じようなことが言えよう。
 とはいえ、それらの鋭角的な演奏の中にも、この2人の作曲家がもつ、あの独特の雰囲気が保たれているのは、紛れもない事実なのだが。

 いずれにせよ、このロトとル・シエクルの演奏は、甚だしく刺激的であった。それはちょうど、あのジョン・エリオット・ガーディナーが30年近く前にオルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティークを率い、わが国初のピリオド楽器によるベートーヴェンの交響曲全曲ツィクルスを披露した演奏と同じような衝撃の━━。

アンコールには、ビゼーの「アルルの女」の「アダージェット」が演奏された。終演した時には、9時半になっていた。

※(コメント「なお」様へのお答え)
 1992年に来日し、サントリーホールでベートーヴェン・ツィクルスを演奏したのが、その「オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティーク(ORR)」です。これは、同じくガーディナーが指揮していた「イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(EBS、イギリス・バロック管弦楽団)」とは、「狙いも主張も異なる」別のオーケストラです。ただしORRのその初来日時(66人編成)には、それより3年前に来日した時のEBS(33人編成)のメンバーが12名含まれていました。
 当時は招聘マネージャーにもその2団体の違いが明確に把握できていなかった(あるいはPR戦略上、無視した)ようで、チラシや公演プログラム冊子に両方の名称が載っていたため、みんな混乱させられたものです。「音楽の友」1992年12月号をお持ちでしたら、グラビアの拙稿をお読み下さい。

2018・6・10(日)カザルス弦楽四重奏団

     サントリーホール ブルーローズ  7時

 「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン2018」の一環、カザルス弦楽四重奏団の「ベートーヴェン・サイクル」の第6回(最終回)。
 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲から「第6番Op.18-6」「第16番Op.135」「第15番Op.132」が演奏された。

 カザルス四重奏団という名は━━かつてカザルスホール・カルテットという団体があり、広く愛されながら日本大学に閉鎖されてしまったお茶の水の素晴らしい演奏会場カザルスホールと結びついて、私としては何となく複雑な思いになってしまう名称なのだが━━今回の団体はもちろんそれとは関係なく、1997年に設立されたスペインの弦楽四重奏団だ。
 ヴァイオリンがアベル・トマスとヴェラ・マルティナス・メーラー、ヴィオラがジョナサン・ブラウン、チェロがアルノー・トマス。このうちブラウンだけがシカゴ生れで、他の3人はバルセロナあるいはマドリード生れの由。
 第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが交替で受け持たれるが、こういった例は他にもある。

 スペインの四重奏団だからといって、別にスペイン的な演奏をするわけではないのは、当節なら当たり前のこと。だが、特に先入観念なしに聴いても、このカザルス弦楽四重奏団の美しい音色の、清々しくて明晰な演奏のベートーヴェンからは、ウィーンの団体とも、ドイツの団体とも、もちろん米国や日本の団体とも明らかに違う何か独特の濃厚な音色や表情が感じられる。
 とりわけ第1ヴァイオリンを女性のヴェラが受け持った時には、そういう印象を受ける。彼女は、今日は「135」と「132」でアタマを弾いたが、トマスがそれを受け持った「18-6」に比べると、良い意味での自由さと闊達さが現われていたようである。

 私はもともと、弦楽四重奏の場合には、第1ヴァイオリンはかっちりと「正確に」弾く人の方が好きで、自由奔放に勝手に弾く人は━━有名なヴァイオリニストにもそういう人がいるじゃありませんか、だれとは言いませんが━━苦手だ。
 いや、ヴェラ・マルティナス・メーナーがそうだと言うのでは決してない。しかし、「135」の第2楽章の、あの第1ヴァイオリンが激しく跳躍を繰り返すような個所では、トマスがきっちりと弾いてくれた方がよかったのではないか、と思ったのは確かなのである。
 だが一方、「135」の叙情的な第3楽章、あるいは「132」全般を聴いていると、これはやはりヴェラの時の方が、明らかに演奏が表情も濃く、生き生きしていて面白いな、とも感じるのだった。

 この「132」は、第3楽章をはじめ、深味があってしかも美しく、感動的な演奏だった。

2018・6・8(金) アルテミス・カルテット

     紀尾井ホール  7時

 30年近いキャリアをもつアルテミス・カルテットの現在のメンバーは、ヴィネタ・サレイカ(第1ヴァイオリン)、アンシア・クレストン(第2ヴァイオリン)、グレゴール・ジーゴル(ヴィオラ)、エッカート・ルンゲ(チェロ)。チェロを除き、メンバーが立ったまま演奏することでも知られる弦楽四重奏団である。
 プログラムは、ベートーヴェンの「第3番ニ長調」、ヤナーチェクの「第1番《クロイツェル・ソナタ》」、シューマンの「第3番イ長調」。

 1曲目のベートーヴェンが、もちろん美しく明晰な音だったものの、何か今一つ集中力に不足した感の演奏だったのに比べ、ヤナーチェクの「クロイツェル・ソナタ」はさすがに圧巻で、鋭く激しいモティーフが衝撃的に切り込んで来るところなど、このカルテットの実力を物語っていた。
 1曲目ではごく普通の拍手といった雰囲気にとどまっていたこの日の客席が、「クロイツェル・ソナタ」が終った瞬間には爆発的な拍手に変わったというのも、お客さんがこの演奏をどう受け止めたかということを如実に示しているだろう。

 シューマンの「3番」では、中間2楽章の美しさが傑出していた。均整のとれたアンサンブルの中にも、各声部の動きが実にはっきりと浮かび上がるのが見事だ。とりわけ、ヴィオラとチェロは明晰そのものであった。
 問題はやはり第4楽章のクアジ・トリオの個所で、━━私はいつも首をひねるのだが、どのカルテットも、あそこをどうしてあんなに単調に雑然とした形のまま演奏してしまうのだろうと・・・・。

 私は今でも、ミュンヘン国際コンクール優勝後間もない東京クァルテットが、この曲を1973年5月7日に東京文化会館で演奏した時のことを思い出す。
 彼らはその部分全体を非常に強いアクセントをつけながら演奏し、途中で一度引き締めてから、たたみ込むようなリズムでクレッシェンドして行き、主旋律に戻るという手法を採った。このクアジ・トリオの部分がどれほど変化と緊迫感に富んだものになったかは、言うまでもない。

 45年前のその東京クァルテットの演奏は、私がFM東京時代に収録して「TDKオリジナルコンサート」で放送したが、幸いにも倉庫に眠っていたテープが2004年頃に発掘され、同番組名と同じレーベルでキング・インターナショナルからCDになって発売された。今、手に入るかどうか、甚だ心もとないが、━━好事家の方は是非一度お聴きになってみて下さい。70年代初めの東京クァルテットがいかに凄かったかが、分かる。

2018・6・7(木)シャルル・リシャール=アムラン ピアノ・リサイタル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 クリーヴランド管の「第9」をソデにして、若手のカナダ人ピアニスト、シャルル・リシャール=アムランのリサイタルを聴きに行く。3年前のショパン国際コンクールでチョ・ソンジンに次ぐ2位に入賞した彼がその後どんな成長を重ねているか、と。

 今日のプログラムは、前半がシューマンの「アラベスク ハ長調」と「幻想曲ハ長調」、後半にショパンの「4つのバラード」。

 リシャール=アムランは、ヤマハのピアノから洗練された清澄な音色を弾き出す。この透徹した、しかも不思議な色気も漂わせる感覚の世界は、コンクール入賞者を集めた演奏会で彼が私たちに披露した時から、すでにおなじみだ。ただし、彼がつくる音楽は、決して綺麗ごとに終るものではない。むしろ、唖然とさせられるほど激しく大きな起伏と振幅を備えた演奏なのである。

 精妙な音色の叙情に魅惑されたのは、最初の「アラベスク」のみ。
 「幻想曲」では、シューマンがいつもの翳りのある叙情美をかなぐり捨て、秘めた激情を狂気の如く噴出させたような演奏が、其処此処に感じられた。それは作曲者がこの曲に盛り込んだベートーヴェンへの畏敬を強調した演奏だった━━と言えぬこともないが、それはちょっとこじつけに過ぎるかもしれない。いずれにせよ、その透徹した音色と、激烈極まるフォルティッシモとが、異様な対照を生み出していたのは事実だろう。

 もっと凄まじかったのは、ショパンのバラード集である。「3番」と「4番」は、曲想も叙情味が濃いゆえにそれほど激しい演奏にはならなかったが、「1番」と「2番」は━━とりわけ「1番」では━━あのショパンが、絶叫怒号していた。陰翳、躊躇、沈思などという要素を真っ向から拒否した、こういう「叩きつける」ショパン演奏は、確かにある意味では既存のイメージを突き破る新鮮なものとして、喜ばれるのかもしれない。

 「1番」の演奏が終ると、客席からは熱狂的な拍手と歓声が湧き起こった。「2番」でも同様だった。私はといえば、些か辟易して、疲れ切った。10年前だったら、一緒にエキサイトして快哉を叫んだかもしれないが。

2018・6・5(火)ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団

     サントリーホール  7時

 ベートーヴェン・ツィクルスの今日は第3日、「《コリオラン》序曲」、「交響曲第8番」、「交響曲第5番《運命》」というプログラム。

 先日(初日)の印象を、今日の演奏に関しては全面的に修正しなければならない。
 今日は、ウェルザー=メストの指揮が壮烈な推進力にあふれて隙なく、「8番」の両端楽章での押しに押す気魄も、「5番」での速いテンポでたたみかける呼吸も傑出していた。
 クリーヴランド管弦楽団のサウンドも明晰かつ豊潤で、さすがの鮮やかさだ。3曲とも音に余裕と膨らみを持たせての、しかも均衡豊かに引き締まった音響構築が美しい。初日の演奏とは格段の違いである。

 そして、オーケストラの木管セクションが、今日はとりわけ美しい。
 「8番」第2楽章の、少し長めの音価を持ったスタッカートのリズム、あるいは「5番」第2楽章での第99小節からのフルート、オーボエ、ファゴットが歌い延ばすハーモニーと、続く第107~113小節でのクラリネットとファゴットが弦の彼方から夢の如く響かせる16分音符の音型などを聴くと、やはりこのオケは上手いなと思わせる。

 「5番」での、編成を18型(コントラバスは9)と倍管にしての演奏はすこぶる立派で、この曲が聴き手を鼓舞するエネルギーを満載した交響曲なのだということを改めて認識させてくれる。所謂「運命の動機」を、特別に際立たせることなく楽章全体の流れの中に組み込み、ひたすら精力的に推進させるのは当節の指揮者たちの流行とも言える手法だが、ウェルザー=メストの指揮は、そこでも均整が目だっている。

 第4楽章で提示部のリピートに入った瞬間の第1主題冒頭(C-E-G)は、その前からの流れも影響して、それが楽章の最初に出た時よりも輝かしく力に充ちるものだが、そこも今日はひときわ映えていた。展開部のクライマックスの、特に第513小節以降の演奏では、単に音量的なものを超えて、強靭な意志力をさえ感じさせる。
 ただ、アレグロのテンポが速めに採られているので、コーダのプレストとの対比が明確でなくなることには少々疑問も感じるし、主部が圧倒的だったために、大詰の個所での「締めの力感」が今一つという気もしたのだが、━━まあ、贅沢は言うまい。

 ウェルザー=メストも、クリーヴランド管も、初日と違い、今日は素晴らしかった。

2018・6・4(月)ダニエーレ・ルスティオーニ指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  7時

 モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、ヴォルフ=フェラーリの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」(ソロはフランチェスカ・デゴ)、R・シュトラウスの「交響的幻想曲《イタリアより》」というプログラム。コンサートマスターは当初予定の矢部達哉が急病の由で、神奈川フィルの崎谷直人が代わった。

 ダニエーレ・ルスティオーニというミラノ生れの35歳の指揮者は、4年前に東京二期会の「蝶々夫人」で、同じ都響を振った時に聴いたことがあるが、あの時は歌手の声とのバランスの問題もあったのか、どうも本領発揮とは行かなかったようだ。だが、昨年2月の都響定期演奏会客演(私は聴いていない)などを経て、オケとも呼吸が合って来たのだろう、今日は存分にやったのではないかと思う。

 若々しく大暴れする指揮ぶりで、体当り的な熱演も好ましく、オーケストラをいっぱいに鳴らしながらも、細部にわたってアクセントやリズムに神経を行き届かせており、なかなかの手腕を持った若手と思われる。
 フォルティッシモの時に飛び上がるのは当節では珍しくないが、「イタリアより」の最後の追い込みの際に指揮台上を「摺り足」で第1ヴァイオリンの方へ突進(!)し、続く終結和音をたたきつけた勢いで客席を向くという暴れん坊ぶりは、何とも微笑ましい。若い時にはこのくらいの熱血漢であっていい。

 「フィガロの結婚」序曲は、次の協奏曲と同じニ長調であるがゆえの選曲か。元気な演奏で、都響の音色にも不思議な色気のようなものが漂っていた。この指揮者は何か持っているな、と楽しみを感じるのはこういう時である。
 次の「ヴァイオリン協奏曲」では、容姿端麗なフランチェスカ・デゴが華麗なソロを聴かせてくれたが、この曲、美しいけれども、さほど面白いとも言い難い。終楽章のロンドだけはイタリアの快活さのような雰囲気を感じさせたが━━。

 「イタリアより」は、今日の目玉であろう。これも本来あまり面白い曲ではないが、終曲で「フニクリ・フニクラ」の旋律が分解されて響いて行くあたりは私も好きなところで、今日のルスティオーニと都響はそこをなかなか巧く演奏してくれた。

 聴衆も、この若手指揮者には大拍手と大歓声。ふだんは客席を見ずに「知らん顔をして」(?)立っている不愛想なステージがトレードマークの都響の楽員が、今日はルスティオーニに煽られ、珍しくも全員一斉に客席に向かってお辞儀を━━所謂「日本フィル・スタイル」で━━したのには驚いた。

2018・6・3(日)METライブビューイング マスネ:「サンドリヨン」

     東劇  6時30分

 メトロポリタン・オペラの4月28日上演のライヴ映像、マスネのオペラ「サンドリヨン」。これは何とMETでは初めての上演の由。

 ロラン・ペリーの洒落た演出と衣装、ラウラ・スコッツィの洒落た振付、ベルトラン・ド・ビリーのふくよかな指揮。そしてジョイス・ディドナートのサンドリヨン、アリス・クートのシャルマン王子、キャスリーン・キムの妖精、ステファニー・プライズの母親ド・ラ・アルティーエル夫人、ロラン・ナウリの父親パンドルフ。━━すべてが美しく整った舞台と演奏で、これは成功したプロダクションと言えるだろう。

 歌手陣の中ではズボン役のアリス・クートのメークがあまりサマにならないのが惜しいが、当り役のディドナートとの二重唱は聴き応えがあった。
 キャスリーン・キムは、何年か前の「中国のニクソン」での物凄い迫力の江青夫人のあと、しばらく快調な声を聴く機会が無かったので、もしかしたらあの役で声を潰してしまったのではないかと心配していたのだが、幸いこちらの杞憂だったようで、祝着である。
 そしてロラン・ナウリが相変わらず巧い。私はこの人の大ファンだ。

 「サンドリヨン」というオペラは、各エピソードが短く、しつこくなく、過剰にならず、全体にバランスがよく、それはいかにもフランス的なのである━━と、ド・ビリーがインタヴュ―で語っていた。
 なるほど第1幕と第2幕は、その指摘は当たっているだろう。しかし第3幕と第4幕は必ずしもそうではないようで、やはり長く感じられるし、ストーリーが停滞するきらいがなくもない。
 こういう個所では、「マスネにとって音楽とは楽しい気晴らしであり、バッハやベートーヴェンを支配したあの厳しい神のものではなかった」というドビュッシーの指摘や、「マスネの特質は、砂糖をまぶしたようなある種のエロティシズムである」というハロルド・ショーンバーグの指摘も、なるほどと思わせる。

 なお、この後半の二つの幕では、今回のペリーの演出では、ドラマはかなり幻想的なタッチが採られていた。大団円はなんだか不条理的な感を与えるが、これは誰が演出しても似たり寄ったりになるようである。

 休憩を含めて上映時間は3時間を少し超す。8日までの上映。今シーズンのMETライブビューイングはこれが最終作だ。

2018・6・2(土)ウェルザー=メストとクリーヴランド管弦楽団の
ベートーヴェン交響曲ツィクルス「プロメテウス・プロジェクト」

     サントリーホール  6時

 6月7日までの5回にわたるツィクルスの第1回。
 音楽監督フランツ・ウェルザー=メストも意欲満々、プログラム冊子の交響曲の曲目解説も自分で書き、「プロメテウス・プロジェクト」に関してのエッセイも載せるという力の入れようだ。

 今回は、交響曲全9曲にそれぞれ序曲1曲ずつを組み合わせる━━「第9」(7日)の日のみは序曲だけでなく「大フーガ」━━ほか、4日目(6日)には休憩後の「田園」のあとに「《レオノーレ》序曲第3番」を演奏するというユニークなプログラミングが行なわれている。第1回の今日は、最初に「プロメテウスの創造物」序曲、続いて「第1交響曲」が、休憩後に「英雄交響曲」が演奏された。

 この序曲と「1番」とを組み合わせるのは、先日の尾高忠明と大阪フィルも採った手法だが、今回は明確に「プロメテウス・プロジェクト」というプログラムへの序としての意味が持たせられていたのだろう。
 ただ、それにしては、始まった演奏は余裕たっぷり、力を抜いた柔らかい表情で、どうもこの演奏からは、あの大胆な神、人類に力をもたらした神に因む気魄のイメージは伝わって来ない。

 続く「第1交響曲」も、どちらかというとソフトな組み立てである。いずれも音色は極めて美しく、あたたかい。これがあのクリーヴランド管かと思われるような響きが印象的ではあったが━━しかしこういう演奏は、若きベートーヴェンが満々たる意欲を籠めたその最初の交響曲としての性格を考えると、いかがなものか?

 休憩後の「英雄」では、弦16型・倍管という大編成となり、オーケストラの響きもやや硬質で鋭くなって、演奏の表情も戦闘的に変貌する。作品の性格からしてそれは納得の行くものだ。この曲のみ天皇・皇后両陛下の御臨席があったから、演奏する方もリキが入っていたかもしれない。
 演奏は推進力充分ではあったし、均衡の豊かな響きのうちにも内声部の動きが明確に聴き取れるほど━━特にチェロの明晰な音色が素晴らしい━━見事な音の構築ではあったのだが、さて、すべてを聴き終ったあとに、心には何が残ったか?

 ウェルザー=メストといえば、一昨年のザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを振った、それはもう見事なほど毅然として感情も豊かな「フィデリオ」を聴いて、この人もついに凄い指揮者になったか━━と、聴いていた知人と一緒に喜び合った(?)ことがあるのだが、演奏会の指揮者としては、どうも以前とさほど変わっていないような気がする・・・・。

2018・6・1(金)河村尚子のベートーヴェン・ピアノ・ソナタ・プロジェクト

     紀尾井ホール  7時

 河村尚子がついにベートーヴェンのピアノ・ソナタの連続演奏会を開始した。
 来年秋までの全4回というから、全曲のツィクルスではないけれど、今の彼女の実力と感性を考えると、これは実に聴きものである。
 今日の第1回は、前半に「第4番」「第8番《悲愴》」、後半に「第7番」「第14番《月光》」という、やや意表を衝いたプログラミング。期待にそぐわぬ演奏が聴けた。

 低音域に確固とした重心を置き、和声感を豊かに、瑞々しいが骨太な響きを以って音楽全体を構築する。彼女がこういうベートーヴェンを組み立てるとはあまり予想していなかったが、先頃リリースされたショパン・アルバム(ソニー SICC-19009)でも、いくつかの個所で強い低音を基盤にして構築し、和声感を強調するという傾向が聴かれたから、これが最近の彼女の志向なのかもしれない。

 前半の2曲のそれぞれ第1楽章における「アレグロ・コン・ブリオ」は、その指定に相応しく強靭な力に充ち、しかも爽快だ。最後の「月光」の終楽章における「プレスト・アジタート」における力感性も、この曲をプログラムの最後に置くという珍しいアイディアの意味を聴き手に納得させるものだった。
 音色全体にはふくよかな香りがあふれている。これが、彼女の演奏が常にヒューマンなあたたかさを感じさせるゆえんだろう。

 その演奏には、不自然な恣意性も小細工もない。
 ただし「悲愴」の冒頭で、ふつうの演奏なら最初の4分音符をフォルテで弾き、それを自然に「減衰」させ、次の16分音符からpで弾くという形(必ずしも正確な言い方でないことはご了承願いたい)になるところを、今日の彼女は、4分音符の頭のみを楽譜通りのfpで極度に鋭く弾いたあと瞬時に弱音に変えてそのまま引き延ばし、デュナミークの対比を明確にするというユニークな手法を採っていた。

 この手法は、昔、だれだったかの演奏でも聴いたような気がするが、今日の彼女の弾き方は、それとは比較にならぬほど鮮やかだったと思う。この出だしのために、「悲愴」の序奏には、ぴりりと引き締まった、非常に濃い陰翳が生じていたのである。ここでの演奏一つとっても、河村尚子という人が並々ならぬ感性を備えたピアニストであることが証明されるだろう。

 次はどんな新しい発見をさせてくれるだろう、と楽しみになるツィクルスは、何ものにも換え難い。

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