2018-11

2018・5・30(水)イラン・ヴォルコフ指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 イスラエル出身の指揮者イラン・ヴォルコフは、ちょうど10年前、彼が未だ32歳の時に東京都響に客演し「トゥーランガリラ交響曲」を振ったのを聴き、その激しい表現に驚嘆したことがあるが━━「星の血の喜び」などは「星の血の狂乱」という感だった━━それ以降は、あまり聴く機会を得なかった。

 今回、久しぶりに聴いて、オーケストラを朗々と響かせる熱狂的なエネルギーの健在ぶりを確かめることができたが、それと同時に、オーケストラから引き出す響きにバランスの良さが増し、また音色の構築にも巧さが増したという印象をも受ける。

 今日のプログラムは、プロコフィエフの「アメリカ序曲」、バーンスタインの「第2交響曲《不安の時代》」、ショスタコーヴィチの「第5交響曲」というものだったが、それらの音色にはある種の透明感があふれていて、「不安の時代」でのクライマックスの個所など実に美しく、しかも白々とした不思議な虚無感を滲ませているように思えたのである。
 これは個性的な「若手指揮者」だ。近・現代音楽には極めて主張の濃い指揮を聴かせる指揮者だと思うが、この人がウィーン古典派のレパートリーを振ったらどんなイメージになるか、「ナマで」(録音では絶対判らないだろう)聴いてみたい気もして来る。

 読響(コンサートマスターは長原幸太)は、その「不安の時代」や、ショスタコーヴィチの第3楽章などで見事な透明感を打ち出し、かつ後者の終楽章では「天地も鳴動する」(?)大音響で盛り上げた━━本当に大きな音を出すオーケストラである。

 プロコフィエフの「アメリカ序曲」というのは、私はナマでは初めて聴いた。この作曲家にしては精一杯の明るさを狙った曲だが、1920年代の彼の作風においては、こういう御機嫌取り的なスタイルは、やはり似合わなかっただろう。ウケなかったのも無理はない、と思わせるような小品である。

 「不安の時代」は、昨夜のロイヤル・バレエの上演映像に続き、奇しくも2日続けて聴く巡り合わせになったが、河村尚子の清澄透明な爽やかさに富んだ魅力的なソロを含め、今日の演奏の方が圧倒的に感銘度も高い。だが、演奏を聴きながら、昨夜観たバレエの光景が盛んに頭の中をよぎったのは確かである。

 ショスタコーヴィチの「第5交響曲」は、正直に言うと、私には大変苦手な曲だ。

2018・5・29(火)ロイヤル・オペラ・ハウスのシネマシーズン
ロイヤル・バレエ「バーンスタイン・センテナリー」

    東宝東和試写室  6時

 レナード・バーンスタインの生誕100年を記念する公演の一つ、彼の演奏会用作品3曲をバレエに仕立てたトリプルビルで、去る3月27日の上演ライヴ映像。

 最初にウェイン・マクレガー振付、クン・ケセルス指揮で、「チチェスター詩篇」をもとにした「幽玄YUGEN」、
 次にリアム・スカーレット振付、バリー・ワーズワースの指揮とロバート・クラークのピアノで「交響曲第2番《不安の時代》」、
 最後にクリストファー・ウィールドン振付、ケン・ケセルス指揮、セルゲイ・レヴィティンのヴァイオリン・ソロで、「セレナード」の音楽による「コリュバンテスの遊戯」。

 特定のストーリーを新しく当て嵌めた「幽玄」、オーデンの原作からエピソードを抜粋構成して振り付けた「不安の時代」、ストーリーなしの抽象的なバレエによる「コリュバンテスの遊戯」━━いずれも見応え、聴き応えのあるバレエだ。
 上映時間約3時間、6月8日~14日一般上映の由。

2018・5・26(土)飯森範親指揮東京交響楽団 「白いバラ」日本初演

      サントリーホール  6時

 ハンス・ヴェルナー=ヘンツェ(1926~2012)の「交響的侵略~マラトンの墓の上で」と、ウド・ツィンマーマンの歌劇「白いバラ」(日本初演)とを組み合わせた意欲的なプログラム。
 正指揮者・飯森範親が入魂の指揮。後者での協演は角田祐子(S)とクリスティアン・ミードル(Br)。東京響は「フィデリオ」の間を縫っての定期での力演である。コンサートマスターは水谷晃。

 ヘンツェの「交響的侵略 Scorribanda Sinfonica」は、打楽器群が大活躍するダイナミックな、リズミカルな、15分ほどの作品である。
 プログラム冊子掲載の沼野雄司さんの解説によれば、原曲は1957年の演劇「ダンスのマラソン」のためのもので、これを2001年に改作したものである由(同冊子の曲目一覧表には「2004年改訂版」とある)。
 ヘンツェにしては随分賑やかで親しみやすい曲だが、次の「白いバラ Weisse Rose」の暗い衝撃的な内容に先立つプログラムとしても、これは適切な選曲だったと思う。

 「白いバラ」は、飯森さんのプレトークによれば「一部カット」を施しているとのことだったが、ほぼ1時間に及んだ今回の演奏会形式上演は、彼と東京響の鋭く切り裂くような演奏と、2人の声楽ソリストたちの好演とによって、充分すぎるほど強烈な印象を残してくれた。素材だけでなく、音楽そのものに雄弁な力が備わっているがゆえの印象だ。

 「白いバラ」とは、第2次大戦中のナチスの圧政下におけるドイツの学生たちの反戦運動の由で、このオペラはその運動の中で逮捕処刑されたハンスとゾフィーの兄妹を主人公とし、彼らの対話やモノローグにオーケストラが絡む形で進められる。
 内容からして、ドイツでは今なお現実味を帯びた身につまされるドラマとして衝撃的に受け取られるだろうが、日本での受容の仕方は、それとはちょっと異なるものがあるかもしれない。

 それはともかくとしても、例えば全曲の大詰の個所━━第16曲「もう黙っていてはだめだ」などは、聴いていても慄然とするほどで、ヘンデルの「私を泣かせて下さい」が暗く引用(これがまた不気味だ)されたのち、暴力的な行進曲が威圧的にクレッシェンドを重ねて行き、それがフッと途切れると、兄妹の短い言葉が重苦しい静寂の中に響き━━ゾフィーの「私たちは絞首刑にされるの? それともギロチンで?」の言葉とともに突然終結するという、物凄い形が採られる。その台詞の直後に舞台を一瞬にして暗転させるという今回の演出も効果的だったであろう。

 今月の東京のオーケストラ界には、大作の「日本初演」がいくつか連続した。意欲的な姿勢を讃えたい。

2018・5・26(土)新日本フィルの生オケ・シネマ「黄金狂時代」

      すみだトリフォニーホール  1時

 映画上映と、それに合わせたオーケストラの生演奏というのは最近人気を呼んでいるらしい。
 新日本フィルハーモニー交響楽団が毎年開催しているチャップリンの無声映画シリーズも、「モダン・タイムス」「街の灯」に続く今年は第3弾で、「チャップリンの黄金狂時代 THE GOLD RUSH」である。人気も定着したらしく、なかなかの客の入りだ。昼夜2回上映の、その昼の部を観る。

 舞台後方一面にセットされた巨大なスクリーンの下前方で新日本フィルが演奏し、オリジナルの音楽からスコアを再構成したティモシー・ブロックが、前回同様にみずから指揮も執る。

 このサイレント映画が公開されたのは1925年で、当時はもちろんチャップリンの原案による簡単な音楽が上映に合わせて演奏されるだけだった。が、のち1942年に彼みずから音楽を大規模なものに作曲しなおし、MGM社のマックス・テールによるオーケストレーションなどの協力を得た新しいスコアをつくり、サイレント映画用の字幕の代わりに自らのナレーションを入れた映画として上映した。
 但し、今回上映されたのは、1925年版のサイレント映画スタイルの字幕を復活させ、それに1942年版の音楽を組み合わせたものだとのことである(この部分、映画のクレジットおよびプログラム冊子掲載の片桐卓也さんの解説による)。

 ストーリーはアラスカのゴールドラッシュの時代を背景としたコメディで、感銘度から言えば昨年上映の「街の灯」に遠く及ばないけれども、チャップリンの巧みな演技から生まれるユーモアとペーソスは、やはり並のものではない。
 そしてまた、映像と音楽とが実によく合っており、場面の細かい変化にも合わせた音楽の表情の動きの巧みさには、全く感嘆するほかはない。映像と音楽の切り替わりのタイミングがちょっとずれるというところもなくはなかったが、しかしティモシー・ブロックは実に巧く映像に合わせて指揮をする。

 約90分間、切れ目なく続く音楽を当然のことのように聴きつつ映像に魅惑されていたが、ふと気がつけば、舞台では新日本フィルがずっと続けて演奏していたわけで、━━本当にお疲れさまでした。
 昨年同様、指揮者とオケにも絶大な拍手が贈られたが、サイレント映画時代には「楽士たち」にもこのように大きな拍手が贈られたかしらん?

2018・5・24(木)新国立劇場 ベートーヴェン:「フィデリオ」(2日目)

      新国立劇場オペラパレス  2時

 バイロイト祝祭総監督のカタリーナ・ワーグナーによる新演出。
 今日は2日目のためご本人はいないので、ブラヴォーもブーイングもそこそこの量だったが、初日は演出家へのブーイングが大爆発したとのこと、その反応の大きさに、彼女も「してやったり」という表情でご満悦だったという。
 欧州のオペラ界では、ブーイングは演出家の勲章と言われる。観客が賛同とともに不賛同をも熱心かつ明確に(音として表わさなければ判らない)表明してくれることは、その演出が真剣に受容され、喧々諤々の議論の対象となった証明だからである。

 ともあれこの「フィデリオ」は、新国立劇場としては異例の、非常に刺激的なプロダクションであり、欧州オペラ界の動向を一つの具体例としてわが国に示すという意味でも、意欲的な上演だったと言い切って間違いはない。

 マルク・レーラーによる舞台装置は、およそ3層に分けられた構造で、最上層はマルツェリーネやヤキーノが仕事をしている普通の階(但しドン・ピツァロの居間のような中2階もある)で、その下にフロレスタンの幽閉されている地下牢があり、それは第1幕からずっと見えている。その他多くの囚人たちがいる最下層は必要に応じエレベーターで上下する仕組だ(「危険囚」フロレスタンよりも一般囚人たちが深い地下牢に入っているというのもおかしいが)。

 さて、この舞台で展開されるドラマだが━━開演前にプログラム冊子に掲載されているダニエル・ウェーバーの「ドラマトゥルグ」を読めば、世界のオペラ上演に詳しい愛好家であれば、どんな演出になるか大体見当がつくというものである。
 第1幕では、フロレスタンが地下牢で妻レオノーレ=救済の女性の絵を壁に書き続けていることや、ドン・ピツァロの部下の兵士たちが著しく暴力的であることなどを除けば、一般の演出とそれほど大きく異なるものではない。

 だが第2幕では、原作の台本と全く異なった様相を呈する。ロッコが、フィデリオが女性であり、フロレスタンが壁に書いていた女性に酷似していることにいち早く気づいてしまうのはともかくとして、悪役ドン・ピツァロがフロレスタンとレオノーレを刺殺し、彼らを地下に埋めてしまうだけでなく、大臣ドン・フェルナンド(多分本物の大臣ではない)と手を結び、自ら亡きフロレスタンに化け、素性の知れぬ女(ピツァロの情婦か?)を偽物のレオノーレに仕立て、一同の前で釈放されるふりをする━━というのだから、話は甚だややこしい。

 恋人フィデリオの奇怪な変貌に疑念の目を向けるのはマルツェリーネのみだが、そんなことには誰も頓着しない。
 そもそも、フィデリオの素顔(レオノーレ)など、誰も知らないのだ。また、フロレスタンの顔を知っているのは妻レオノーレと大臣だけである。その妻が既に殺されており、大臣が偽物だったら、あるいは大臣が本物だったとしても、長い幽閉生活のため変わってしまったであろうフロレスタンの顔が識別できなかったら・・・・?

 しかも幕切れ寸前、「偽フロレスタン」と「偽レオノーレ」が本性を顕わして一同を再び地下牢に閉じ込めてしまうとなると、これはもう「救済」など全て果敢ない幻影に過ぎず、「自由」も「解放」も「正義」すらも、現実にはすべて見せかけのものであることを痛烈に問題提起したドラマということになるだろう。解放者として出現したはずの人物が、実は仮面をかぶった新たな抑圧者だった━━という例は、歴史的にも数限りないからだ。
 レオノーレが男フィデリオに仮装して登場したからには、今度はドン・ピツァロがフロレスタンに仮装する。このオペラは畢竟、一つの仮面劇だ━━という発想が、前出の「ドラマトゥルク」からも、もちろんカタリーナの舞台からも伝わって来る。

 セリフも後半では一部変更されたり、新たに付加されたりしているけれども、音楽そのものは、あくまで不動だ。
 レオノーレと、重傷を負ったフロレスタンとの二重唱のあと、場面転換で演奏された「《レオノーレ》序曲第3番」は、音楽の起伏と絡めて有効に使われている。序奏の間にレオノーレはピツァロに束縛されて刺され(その瞬間のフォルテ3つの最強奏は衝撃的だ)、主部の前半では、喘ぐ2人の前にコンクリート・ブロックが積み上げられ、冷徹な死の壁が出現する。
 従ってフィナーレで聞こえる「本物の」フロレスタンとレオノーレの声は、人々から遠く離れた場所━━別の世界から響いて来ることになる。2人は死して救済された・・・・ということになるのだろう。
 何とも気の滅入る「フィデリオ」ではある。

 歌手陣は充実していた。フロレスタンがシュテファン・グールド、フィデリオ(レオノーレ)がリカルダ・メルベート、ロッコを妻屋秀和、マルツェリーネが石橋栄美、ドン・ピツァロがミヒャエル・クプファー=ラデツキー、ドン・フェルナンドが黒田博、ヤキーノが鈴木准、囚人1が片寄純也、囚人2が大沼徹という配役。新国立劇場合唱団も強力だった。

 そして、これが新国立劇場オペラ部門芸術監督としての最後の指揮になる飯守泰次郎は、東京交響楽団を指揮して、引き締まった「フィデリオ」をつくり上げた。彼が東京響と組んでの演奏はこれまでにもいくつか聴いて来たが、その中では、今日はベストの出来と言っていいだろう。
 これは、彼の任期の締め括りを飾る指揮に相応しい出しものであった。彼は劇場芸術監督としての最初のシーズンを、クプファーの斬新な演出による「パルジファル」を指揮して開始していたが、この最後のシーズンの、その最後の指揮にあたり再びこのような先鋭的で斬新なプロダクションを選んだことは、彼がプロデューサーとして本来抱いていた意欲的な姿勢を如実に示すものであったと言えるだろう。

 上演時間は、休憩30分を挟み、計3時間弱。6月2日までの間にあと3回上演される。
      →別稿 モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

2018・5・23(水)ロイヤル・オペラのシネマシーズン 「マクベス」

     日本シネ・アーツ社試写室  1時

 東宝東和が配給している英国ロイヤル・オペラのライヴ映像上映シリーズのひとつ、ヴェルディの「マクベス」の試写会を観る。

 去る4月4日に上演されたもので、フィリダ・ロイドの演出、アントニオ・パッパーノの指揮。ジェリコ・ルチッチ(マクベス)、アンナ・ネトレプコ(マクベス夫人)、イルデブランド・ダルカンジェロ(バンクォー)という豪華主演陣に、ユシフ・エイヴァゾフ(マクダフ)、キム・コヌ(マルコム)らが協演している。

 映画監督ロイドによる演出は、伝統的なオペラ的手法によるスタイルで、演劇的な面白さはあまりないけれども、ドラマの展開のすべてを魔女たちが操っているという設定に最大の特徴がある━━という具合の、どこかで観たことのある舞台だと思ったら、これは3年前にロイヤル・オペラが来日した際に上演したのと同じプロダクションだった(2015年9月15日の項参照)。
 しかし、今回の現地上演映像で観られるものは、あの日本公演とは全く桁違いに豪華で緊密な上演内容である。

 まず歌手陣が、あの時とは比較にならない。ルチッチは堂々たるマクベスであり(ただし「芝居」はあまり細かくない)、ネトレプコは鬼気迫るマクベス夫人で、かつ低音域の声に迫力を増した見事な歌唱(上手くなった!)を聴かせる。
 そしてパッパーノが指揮するオーケストラと合唱の重厚でありながら鋭いアクセントを持った演奏は、当時のヴェルディの気魄を表現して余すところがない。宣伝を頼まれたわけではないが、これは、大いに見る価値のあるライヴだろうと思う。

 なおこの上演、案内役の女性は「改訂版による上演」と言っていたが、それは周知の如く、そう簡単に片付けられるものでもない。例えば全曲大詰の場面では、マクベスの最後のモノローグと、戦勝の讃歌とのいずれもが演奏されている(先年の日本上演では、たしか初演版による上演だったか?)。

 幕間の時間には、パッパーノがピアノ(ヤマハ!)を弾きながら、作品の特徴を解説するコーナーがあって、これが毎度のことながら非常に面白い。「人々の茫然たる驚きを表わすために休止符がどのように活用されているか」などという話など、彼が語ると実に説得性があるのだ。
 上映時間は約3時間半で、6月15日~21日にTOHOシネマズ系の映画館で上映の由。

 このロイヤル・オペラのシリーズは、松竹がやっている「METライブビューイング」と違い、PRもかなり控えめだし、各映画館での上映スケジュールもちょっと判り難いのが残念だが、上映ラインナップは年々少しずつ充実して行っているように感じられる。
 今秋からのシーズンにはヘアハイム演出による「チャイコフスキーの生涯とオーヴァーラップさせた」という「スペードの女王」や、あのキース・ウォーナーの演出による「ヴァルキューレ」などが予定されているというから、私は期待しているのだが。

2018・5・22(火)下野竜也指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 Bシリーズの定期で、前半にメンデルスゾーンの「交響曲第3番《スコットランド》」が演奏され、後半ではジョン・コリリアーノ(1938~)の「ミスター・タンブリンマン~ボブ・ディランの7つの詩」(ソプラノ・ソロはヒラ・プリットマン)という珍しい作品が日本初演された。コンサートマスターは矢部達哉。いかにも下野らしいプログラムである。

 「スコットランド」はかなり分厚い音で、ものものしいほど大がかりな演奏であり、終楽章のコーダなど、ここぞとばかりに盛り上げたスペクタクルなものであった。それはもちろん好演ではあったが━━しかし、今夜のハイライトはやはり次のコリリアーノの作品だったであろう。

 この作品で興味深かったものの一つは、ボブ・ディランの詩を題材にしていること。
 使用された詩は、「ミスター・タンブリンマン」「物干し」「風に吹かれて」「戦争の親玉」「見張塔からずっと」「自由の鐘」「いつまでも若く」(以上プログラム冊子掲載の曲目一覧による表記)の七つ。
 詩はほぼ原作通りと思われるが、音楽の方は、フォークの原曲からは想像もできないような「クラシックの現代音楽」的な手法のものに移されていて、歌のパートはシュプレヒ・ゲザングに近いスタイルで進められる。

 コリリアーノは「ディランの曲を全く聴いたことがなかった」そうで(同前の作曲者自身の解説による)、それがかえって良かったのであろう。また彼は「ポップスやロックを書くことに挑戦するつもりはない」とも述べている(同前)が、それもまた賢明なことだったと思う。
 ともあれここでは、コリリアーノの感性が独自に受け止めたボブ・ディランの詩が、コリリアーノなりの音楽で、激烈に、しかも美しく表出されているのである。

 全曲は、第4曲「戦争の親玉」でのオーケストラの激怒のような咆哮・絶叫が凄まじく、これを全曲のピークとして、終曲(第7曲、後奏曲)の「Forever Young」の安らかな終結に向かって行くという構成が採られる。
 特にこの終曲の美しさは、息を呑ませるほどのものであった。そこでのヴォーカルは大部分がア・カペラだが、時にオーケストラも夢幻的な響きで加わり、それはあのバーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」の終曲の「Somewhere」を連想させる安息の祈りのような音楽になる。

 全曲が終ったあと、下野と都響に向けられた拍手も盛大だったが、ヒラ・プリットマンに贈られた拍手と歓声は更に大きく、いつまでも続き、ついにソロ・カーテンコールまで行われるほどだった。彼女のヴォーカルは、作曲者の指定通り(同前)PAを使用してのもので、音質はあまり良いとは言えなかったものの、それにもかかわらず聴衆の歓呼を浴びたのは、ひとえに彼女の表現力の豊かさゆえだったであろう。

2018・5・21(月)METライブビューイング 「ルイザ・ミラー」

     東劇  6時30分

 ヴェルディの「ルイザ・ミラー」、去る4月14日、MET上演のライヴ映像。

 ベルトラン・ド・ビリーの指揮(ジェイムズ・レヴァインから変更)とエライジャ・モシンスキーの演出。
 歌手陣は、ソニア・ヨンチェヴァ(村娘ルイザ・ミラー)、プラシド・ドミンゴ(父親ミラー)、ピョートル・ベチャワ(ルイザの恋人ロドルフォ)、アレクサンダー・ヴィノグラドフ(ロドルフォの父・領主ヴァルテル伯爵)、ディミトリ・ベロセルスキー(ルイザに横恋慕する男ヴルム)、オレシャ・ペトロワ(公爵夫人フェデリカ)他。

 ストーリーはいかにもイタリア・オペラ的な・・・・すぐカッと来て裏切られたと思い込み、その言い分もよく聞かずに恋人を罵りまくる男、事情をはっきり説明せずに嘆きの言葉ばかり歌っている女━━という、観ていてやきもきさせられる台本だが、音楽は素晴らしくドラマティックで、第1幕は未だ先人の影響が残っているものの、第2・3幕ではヴェルディの感情表現力がいよいよ巧みさを増して来た感がある。

 演奏もいい。ベルトラン・ド・ビリーの指揮が今回は異様に力感を備えたもので、特に第2幕と第3幕ではMETのオーケストラから素晴らしい緊迫の演奏を引き出していた。
 歌手陣も充実して、これも聴きものであった。ヨンチェヴァは、ブレスが少し気になるものの、声も演技も見事だし、ベチャワの輝かしい声と舞台姿と情熱的な表現は、まさにスターに相応しい。

 何よりうれしいのは、ドミンゴの健在ぶりだ。声はもうバリトンそのものだが、第3幕の決め所での歌唱の劇的な気魄力の凄さはさすがの貫録であり、それは他の歌手を圧して舞台を独り占めにするほどの強烈な存在感である。METの観客が彼に贈る熱狂的な拍手と歓声も、観ているだけで感動的だ。

 上映時間は約3時間20分、10時前に終る。

2018・5・19(土)沼尻竜典指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

     横浜みなとみらいホール  2時

 マーラーの「交響曲第9番」。神奈川フィルも入魂の演奏を繰り広げた。

 第4楽章における弦楽器群の、あの大波のような起伏と巨大な拡がりを備えた分厚い響きは、各オーケストラの弦楽セクションの腕の見せどころだが、今日の演奏では━━少なくとも1階中央あたりの席で聴いた印象では━━弦5部のそれぞれのパートが、豊麗というよりもむしろくっきりと鋭く浮かび上がり、良くも悪くも室内楽的なイメージの響きになっていて、こういう神経過敏なマーラーの「第9」もあり得るのか、と考えさせられた。
 好き嫌いは別として、これは極めてユニークな第4楽章である。

 このぴりぴりとした神経質な、鋭角的な響きは他の3つの楽章にも顕れていたように感じられたが、ただ━━このホールは、聴く席の位置により、かなり印象が異なるようで、上階席で聴いていた知人は、前述のものとは違った、むしろ正反対なイメージを得たという。しかし、同じ上階席でも、違う位置で聴いていた別の知人は、やはり私と同じような印象を得たというから、これは何とも複雑な問題だ。

 そういえば、私も以前、別の国内オーケストラをこのホールで聴いた時に、上階のバルコニー席とも言える位置では、1階中央席とは全く違うバランスと音色で聞こえ、そのオケに対するイメージが一変してしまった経験がある━━。

2018・5・18(金)ラザレフ指揮 日本フィル第700回東京定期演奏会

      サントリーホール  7時

 桂冠指揮者兼芸術顧問のアレクサンドル・ラザレフが指揮した「日本フィルハーモニー交響楽団第700回特別記念東京定期演奏会」は、プロコフィエフの「交響的協奏曲ホ短調」と、ストラヴィンスキーの「ペルセフォーヌ」(日本初演)という意欲的なプログラム。
 前者でのチェロのソロが辻本玲、コンサートマスターが扇谷泰朋。
 後者での協演は、ポール・グローヴス(T)、ドルオニク綾乃(ペルセフォーヌ)、晋友会合唱団、東京少年少女合唱隊。こちらのコンサートマスターは木野雅之が務めた。

 協奏曲では、日本フィルのソロ・チェロである辻本玲が豊麗な演奏を聴かせてくれた。それは、ロストロポーヴィチやゲリンガスのような豪快なスタイルとは異なり、むしろ叙情的な曲想において魅力を発揮するというタイプの演奏といえたかもしれない。しかし、第2楽章あたりからは演奏がみるみる緊迫度を増して行き、確実な技術に支えられたソロは長大なカデンツァにおいて劇的な凄味さえ感じさせたのである。
 この曲のあと、ソロ・アンコールとしてカザルス編の「鳥の歌」が弾かれたが、圧倒的な交響的協奏曲の演奏の余韻を聴衆に印象づけたまま出番を終っていた方が効果的だったのではないか?

 「ペルセフォーヌ」は、ギリシャ神話のペルセポネー(父は大神ゼウス、母はデメテル)をヒロインとした物語。ストラヴィンスキーが、その新古典主義作風の時代━━1934年に初演した、演奏時間50分ほどに及ぶ大作だ。
 大規模な管弦楽編成でありながら響きは簡素で、清澄透明な音色がこの上なく美しい。魅力的な作品であり、ストラヴィンスキーのこの時期における練達の作曲技法が、存分に堪能できる。

 ラザレフの、端整な構築の裡にも官能的な雰囲気と、時には濃厚な色合いをも垣間見せる指揮は、ストラヴィンスキーがやはりロシアにルーツを置く作曲家であることを思い出させるかのようだ。また、日本フィルの爽やかな演奏、二つの合唱団の好演も特筆される。ポール・グローヴスも、こういう近代作品を歌わせると相変わらず巧い味を出してくれる人である。

 ただ一つ、どうしようもなく残念だったのは、ペルセフォーヌ役のドルニオク綾乃のナレーションであった━━と言っても、これは彼女の責任ではない。問題は、彼女の声に使われたPAである。舞台上のスピーカーでなく、場内PAでも使ったのか? 音はどこからともなくワーンと響いて来て、ぼやけて明晰さを欠き、聞き苦しいこと夥しい。あたら清澄な美しさで進んでいる演奏を、このPAはその都度ぶち壊した。彼女の愛らしいナレーションもこれでは台無しだったし、折角の見事な演奏に、大きな瑕疵を付ける結果ともなってしまった。

 それはともかく、この曲、今回が日本初演とは、少々意外であった。だが、経営が楽ではない自主運営オーケストラがよくこれだけの企画を実施したものである。その意欲的な姿勢は高く評価されよう。

2018・5・17(木)尾高忠明指揮大阪フィルのベートーヴェン

     フェスティバルホール  7時

 また大阪へ。
 第3代音楽監督・尾高忠明が就任早々開始したベートーヴェンの交響曲ツィクルスの第1回を聴きに行く。4月の就任披露定期(ブルックナーの「8番」)が好調だったこともあり、大阪フィルの今後を占う意味でもこのツィクルスは重要である、と認識しているゆえに。

 プログラムは、ちょっと珍しい構成で、「《プロメテウスの創造物》序曲」、「交響曲第1番」、「《エグモント》序曲」、「交響曲第2番」という配列。
 ベートーヴェンの交響曲ツィクルスの場合、序曲を含めるというスタイルはあまり多くない。今回のツィクルスでも、この第1回のみに見られるプログラミングである。しかし、「第1交響曲」の前に「《プロメテウスの創造物》序曲」を置いたのは実に卓抜な発想であった。

 交響曲を番号順に演奏して行く試みの初回として、「1番」と「2番」だけでは(いろいろな意味で)サマにならない、ということもあるだろう。
 だが、この序曲と「第1交響曲」には、主調が同じハ長調であり、しかも導入部に属七の和音などを繰り返しつつ、回り道しながらやっと主調に入って行く━━という特徴が共通していることは周知の通り。

 事実、「プロメテウス」のハ長調の和音が叩きつけられる終結を聴いたあとに、続けて「第1交響曲」を聴くと、その冒頭━━へ長調からイ短調、ト長調と、属七の和音を伴ったりしながら迂回し、やっとハ長調の主和音が登場するまでの「捻りに捻った」流れが、よりスリリングな表情を帯びて感じられるのだから面白い。
 「1番」を単独で聴けば「初めてハ長調に辿り着いた」という感覚になるところを、序曲のあとに続けて聴くと、「またハ長調に帰って行く」という、不思議な安心感が湧いて来る、という所為もあろうか。

 いずれにせよ今日は、「序曲」でも「第1交響曲」でも、演奏に籠められた気魄が物凄く、そのエネルギーは極めて強靱なものだった。
 前者では、冒頭の強烈なアタックと、それに続く強い推進力に富んだ展開が印象的で、とかく軽いというこの曲のイメージを払拭して力感充分、強調して吹かれるとえらく単調に聞こえる管のファンファーレ的モティーフも、今日は弦とのバランスの変化で多彩さを出していた。
 また後者では、鋭いティンパニのアタックをはじめ切れ味の良さが目立っていた。鋭いデュナミークの対比はベートーヴェンのお家芸だが、今日はとりわけそれが目覚ましかったのである。

 「第2交響曲」も同様、第1楽章の終結近く(第318小節以降)、あるいは第4楽章の終結近く(第372小節以降)で爆発する最強奏個所での演奏の強烈さと鋭さは、若きベートーヴェンの気魄を見事に再現するものであった。今日の演奏は、まさにベートーヴェンがスコアに指定した通りの「アレグロ・コン・ブリオ」だったのだ。

 近年、些か荒れ気味の様相を呈していた大阪フィルのアンサンブルも、今日は予想通り整備されていた。尾高の就任は好結果をもたらすだろう。彼の指揮は、派手さはないけれども、確実な結果を出すタイプである。
 このツィクルスも、期待充分だ。次回の「英雄」なども聴いてみたい気もするけれども、新幹線も宿泊も結構費用が掛かるので、そうたびたび大阪まで来るわけにも行かぬ。

 なお、今日使用されたスコアは、ブライトコップの新版だった。弦14型による演奏で、コンサートマスターは崔文洙。

2018・5・13(日)宮崎国際音楽祭最終日 プッチーニ:「蝶々夫人」

      宮崎県立芸術劇場アイザックスターンホール  3時

 「第23回宮崎国際音楽祭」のフィナーレを飾る、プッチーニの「蝶々夫人」の演奏会形式上演。
 出演は、中村恵理(蝶々夫人)、福井敬(ピンカートン)、甲斐栄次郎(シャープレス)、山下牧子(スズキ)、竹内直紀(ゴロー)、砂場拓也(ボンゾ)、晴雅彦(ヤマドリ、役人)、中原ちふみ(ケート)、他。
 宮崎国際音楽祭合唱団、宮崎国際音楽祭管弦楽団(コンサートマスター・三浦章宏)、広上淳一(指揮)。

 この上演で最も注目を集めていたのは、初めて題名役を歌う中村恵理である。
 期待に応え、こちらのプリマは絶好調。伸びのある強靭な声でオーケストラを圧し、悲劇のヒロインを見事に歌い上げ、聴衆を沸かせた。
 彼女が歌う蝶々夫人は、単なる「可愛い」蝶々さんでもなく、愛のみに生きるだけの女性でもない。もちろん、絶望と悲しみに打ちひしがれて死ぬような、可哀想な蝶々さんのイメージでもない。むしろ、自己の信ずる道をひたすら強い意志力で突き進み、私の愛は正しかったのだと全ての人に対し最後の瞬間まで主張しつづけた━━そういう日本女性のイメージが、彼女の芯の強い声と激しい感情表現に富む歌唱、それに必要最小限に付加された演技の表情などから伝わって来るのである。

 日本人歌手による蝶々さん役は、これまでにも多くの個性的な役柄表現があったが、この「中村恵理の蝶々夫人」も、間違いなく超一流のものだろう。新しいマダム・バタフライの登場を慶びたい。

 そしてまた、今回の共演者たちが実に素晴らしかった。
 福井敬も今日は絶好調で馬力全開、第1幕最後の二重唱は中村恵理の情熱的迫力と拮抗して圧巻の盛り上がりを聴かせた。先頃のトリスタン役が体調不良のため意に満たぬものだっただけに、今日の猛烈パワーの歌唱を聴いて、一安心というところである。

 そして相変わらず見事だったのが、スズキ役の山下牧子だ。この人の安定した歌唱と役柄表現の巧さは、全く群を抜いている。「トリスタンとイゾルデ」のブランゲーネといい、「死の都」のブリギッタといい、ヒーローとヒロインを支えるこのような脇役を演じたら、世界に誇れる存在なのではなかろうか。演奏会形式上演ではあったが、譜面台を前にしての簡単な演技には、蝶々さんへの同情の悲しみをこらえる表情が実に雄弁に表現されていた。

 またもう一人、シャープレスを歌った甲斐栄次郎。彼もこのところ引っ張りだこだが、この「蝶々夫人」のドラマに重みを添える役柄としての存在感は大きい。先頃の「真珠採り」でのズルガや、「サムソンとデリラ」の大司教などとは違い、今日は「おとな」の役なのでかなり抑制された表現が採られており、第3幕ではもう少しピンカートンを圧倒する家父長的な凄味があってもいいのではないかと思ったが、しかしこれは役柄解釈の領域の問題である。

 宮崎県合唱連盟有志で構成されている宮崎国際音楽祭合唱団(浅井隆仁指揮)もなかなかの出来。特に例の「ハミングコーラス」はすこぶる感動的だった。
 広上のプッチーニも、2015年の「トゥーランドット」と同様、素晴らしい。宮崎国際音楽祭管弦楽団は、国内のソリストやコンマスや首席奏者級の奏者を集めた腕利きのオーケストラであり、これも流石に上手い。全管弦楽による最強奏の際の音色はあまり美しいとは言い難いが、広上の劇的な力感にあふれた指揮に応えての、雄弁な表現力と強靭な推進力に富む演奏は、ブリリアントで聴き応えがある。

 音楽祭最終日とあって、ホールは華やいだ雰囲気に満たされる。グッズ売り場は2ヵ所あるが、中央の売り場に、先頃出版されたばかりの、萩谷由喜子著「『蝶々夫人』と日露戦争 大山久子の知られざる生涯」(中央公論新社刊)が並んでいるのが目についた。この本、私もいち早く読ませていただいたが、歴史上のさまざまな物事の不思議な関わりを、よくまあ細かく調べたものだと舌を巻く。日本海海戦のくだりのように、話が拡がり過ぎた感もなくはないが、外交官の妻だった大山久子がプッチーニに日本の音楽素材を提供して行ったとされるエピソードなど、明治の人々の国際的な活動が如何に盛んであったかを再認識させられた次第である。

 休憩2回を含み、6時過ぎ終演。ANA最終便(8時10分、遅れて8時57分フライト)で帰京。
     →モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

2018・5・12(土)ロッシーニ:「チェネレントラ」

   フェスティバルホール  2時

 大阪国際フェスティバル公演。主催は朝日新聞文化財団、朝日新聞、大阪国際フェスティバル協会、フェスティバルホール、日本オペラ振興会、日本センチュリー交響楽団。

 フランチェスコ・ベッロット演出と園田隆一郎指揮によるこのプロダクションは、既に4月末、藤原歌劇団の公演として昭和音大のテアトロ・ジーリオ・ショウワで上演されている。それを今回、わざわざ大阪での上演を観に行ったのは、最近イタリアで大活躍の話題のメゾ・ソプラノ脇園彩が、大阪公演のみ、この題名役を歌うからである。

 だが、お目当てのその脇園彩が、この数日間、体調を崩しているとかで、今日は絶好調ではなかったのが残念至極。
 歌手の場合には、こういうことは誰でも起こり得ることなので、仕方がない。また別の機会に、あの素晴らしい歌唱を聴かせてもらえればと思うしかない。
 今日は、彼女はかなり声をセーヴして、それゆえ輝かしさや力感などはなかったものの、一応は破綻なく歌っていた。しかしその本調子ではなかった歌唱の中にさえも、明るく温かい声、安定した歌い方、声のふくらみなどをはじめ、プリマとしての特徴や雰囲気をはっきりと感じさせていたのは、やはり彼女が卓越した歌手であることを充分にうかがわせるものといえるだろう。

 プリマが本調子でなかった分、共演の歌手たちが、好演した。
 クロリンダ役の光岡暁恵は、もともと主役の張れるソプラノだが、第2幕終り近くのアリアで気を吐き、灰かぶり娘チェネレントラ何するものぞと気負う意地悪姉妹の姉の「意地」を見事に歌い上げていた。
 また王子ドン・ラミーロ役の小堀勇介は、第2幕のアリアでブリリアントな最高音を颯爽と披露して大拍手を浴びた。意地悪オヤジの男爵ドン・マニフィコ役の谷友博もいつもながらの味のある歌唱を聴かせていた。
 その他、従者ダンディーニの押川浩士、意地悪姉妹の妹の方のティズベの米谷明子、王子の家庭教師アリドーロの伊藤貴之が、手堅い歌唱。

 園田隆一郎は、日本センチュリー響を指揮して、ロッシーニへの共感に満たされた演奏をつくり出していた。この人のイタリア・オペラは、実にいい。
 ただ今日は、脇園彩の声の調子をカバーするためか、音楽全体を抑制していたのだろうか? 特に第1幕では演奏に沸き立つような躍動が感じられず、ロッシーニのオペラとは思えないような静かな雰囲気になってしまっていた。
 もっともこれは、このフェスティバルホールの空間がこのオペラの規模にはあまりにも広大すぎ、演奏全体のつかみどころを失わせかねない状況だったことにも、一因があろう。

 フォルテピアノは園田自身が受け持っており、演出のイメージに関連させて、ディズニー映画{シンデレラ}からの「ビビディ・バビディ・ブ」の一節を引用したりする手法は気が利いていた。一瞬ながら「命短し恋せよ乙女」のようなフシも聞こえたのは、こちらの空耳だったか?

 演出は、「ペローの童話を読み終えた想像力豊かな若者が弟たちにその物語を紹介するような」というベッロットのイメージに基づき、舞台(アンジェロ・サーラの舞台美術)には「ピノキオ」や「ピーター・パン」など書物を模った大きなセットが多数置かれ、その中の「チェネレントラ」という背表紙のある本から主要人物が現れて来るという設定。
 ラストシーンでは王子やチェネレントラが本の中に愉しく戻って行くのとは対照的に、最後まで彼女への嫉妬を露骨に見せていた意地悪な父娘3人が外に取り残され、がっくりして立ちすくむという光景で終結するのは面白いシャレだ。和解の手を差しのべる相手に怨念で応えるような者にはバチがあたる、ということか。

 演技は━━顔の表情は比較的細かかったが━━身振りを含めた演技全体はごく類型的なもので、いわゆる演劇的な要素は期待できない類のもの。登場人物たちが時に所在無げに立ち尽くす(そう見えた)ところもあったりして、舞台に生き生きした表情が今一つ不足気味だった原因は、このあたりにもあったのではないかと思われる。

 5時過ぎ終演。伊丹空港から7時50分のANAで宮崎に飛ぶ。
     →(別稿)モーストリークラシック8月号 公演Reviews

2018・5・9(水)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 「新シーズン最初の定期の初めにヘンな曲を二つ置きました」と、常任指揮者・高関健みずからプレトークで語ったその2曲とは、ムソルグスキーの「禿山の一夜」の原典版と、ニールセンの「交響曲第6番《素朴な交響曲》」。

 「ヘンな曲」というのはもちろん言葉の綾だが、「禿山の一夜」のムソルグスキーのオリジナル版は確かにヘンな曲だ。こんなに雑然とした凶暴な音楽は、ムソルグスキーとしても珍しいものだろう。
 だが、現在一般に演奏されるリムスキー=コルサコフ編曲版の、あまりに整理された、それゆえ同じモティーフ群の繰り返しばかりが目に付く結果となってしまった版(最後の夜明けの個所だけは傑作だと思うが)に飽きた耳には、この原典版は面白い。但し、何度も聴こうと思えるような曲ではない。その意味では、やはり変な曲である。

 ニールセンの「第6交響曲」も、わが国ではナマで聴ける機会は滅多にない。私は彼の交響曲の中では「5番」が最も好きなのだが、この「6番」も、不思議な魅力の感じられる曲だ。
 しかしまあ、この曲の、ワルツの中に突如軍楽風マーチが割り込んで来るような突飛なコラージュ的手法の響きが、何と先ほどの「禿山の一夜」原典版の響きと、見事な対を為していることか。この2曲を組み合わせた高関のセンスは抜群と言わねばならない。

 休憩後には、清水和音をソリストに迎えて、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」が演奏された。これはもう、清水の聴かせどころである。高関も第3楽章では煽ること、煽ること。猛烈なテンポで、先を争ってコーダへ突進するかのような清水と高関=シティ・フィルの対決は、すこぶるスリリングで、愉しいものだった。
 コンサートマスターは戸澤哲夫。

2018・5・8(火)チョン・ミョンフン指揮東京フィル 「フィデリオ」

      サントリーホール  7時

 チョン・ミョンフン(名誉音楽監督)の指揮する5月定期、3回公演の2日目。
 出演は、マヌエラ・ウール(レオノーレ)、ペーター・ザイフェルト(フロレスタン)、ルカ・ピサローニ(ドン・ピツァロ)、フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(ロッコ)、シルヴィア・シュヴァルツ(マルツェリーネ)、大槻孝志(ヤキーノ)、ドン・フェルナンド(小森輝彦)。東京オペラ・シンガーズ。コンサートマスターは近藤薫。

 序曲は、所謂「フィデリオ」序曲でなく、「レオノーレ」序曲第3番が演奏された。チョン・ミョンフンがコメント(プログラム冊子に掲載)しているように、4つの序曲の中でこの「第3番」こそがオペラの内容を最も適切にすべて物語っているゆえに━━という意図は充分納得が行く。
 彼はこの序曲の序奏を極度に遅いテンポで重々しく演奏したが、それは彼がその個所を第2幕冒頭(地下牢の場)導入の音楽と明確に関連づけていることを感じさせる。
 これと対照的に、終曲は極度に速いテンポで演奏されていた。苦悩と歓喜との対比が激しいコントラストで描かれているというわけだ。

 また、チョンがこれまで演奏会形式で指揮したオペラは、いずれもすべて速いテンポで一気呵成に演奏されていた(「トリスタン」などはその最たる例だった)が、この「フィデリオ」を聴くと、彼もさすがにその呼吸を巧みに使い分けていることが解る。
 ただ今日は、彼は東京フィルをかなりダイナミックに響かせており、歌手の声はしばしば打ち消されていた。今回は3回の上演がその都度異なるホールで行われていたため、もしかしたらそのバランス調整が万全でなかったのかもしれないが。

 歌手陣にはいい顔ぶれがそろっていたが、たった一人、スターのペーター・ザイフェルトだけがえらく自由な歌い方をして、チョンのリズムと合わず、また他の歌手とのバランスを欠いていたことだけが気になった。彼はもともと、あんな崩れた歌い方をする人ではなかったはずなのだが━━。
 なおセリフは、メロドラマの一部と素の部分の一部を除き、すべてカットされていた。

 演奏前に、現代演劇の女形で知られる俳優がストーリーを紹介する試みがあった。その試み自体は大変結構だが、彼のナヨナヨとした口調は、ベートーヴェンの音楽やドラマの性格とはおよそ不釣り合いなものだ。わざわざ「《レオノーレ》序曲第3番」を冒頭序曲に置くほど徹底したコンセプトを持った「フィデリオ」の上演なのに、ナレーションのスタイルには注意を払わなかったのか? 
 だれか苛々したらしい客が途中で「早く演奏しろ」とかなんとか怒鳴っていたが、その俳優を罵るのは酷だし、意味がない。責任は、そういうナレーターを起用したプロデューサー的な立場の人にあるだろう。

2018・5・7(月)METライブビューイング「コジ・ファン・トゥッテ」

      東劇  6時30分

 フェリム・マクダーモット新演出による、コニーアイランドを舞台に設定した「コジ・ファン・トゥッテ」だというので、期待していた。

 実にカラフルな舞台で、遊園地の景観満載、蛇使いから火呑み師まで登場する。
 それがこのオペラの本質とどんな関係があるのだ、とうるさい人たちは言うかもしれないが、それを言っちゃ、ミもフタもなかろう。見慣れたオペラを新しい趣向で観るのも悪くないではないか。
 設定がよく出来ていて、かつ面白ければ、初めてオペラを観に来た人を引き付けることができる。オペラに詳しいと自信のある人なら、その演技と演奏の中から、ドラマと音楽の真髄を自分で自由に読み取ることができるはずである。

 今回の出演は、デイヴィッド・ロバートソン(指揮)、アマンダ・マジェフスキ(フィオルディリージ)、セレーナ・マルフィ(ドラベッラ)、ベン・ブリス(フェランド)、アダム・プラヘトカ(グリエルモ)、ケリー・オハラ(デスピーナ)、クリストファー・マルトマン(ドン・アルフォンゾ)。
 この顔ぶれを見ると、かなり世代も入れ替わり始めたなという感がある。

 ミュージカルで活躍するケリー・オハラを軽快な役柄デスピーナに起用しているのが注目されるが、ブロードウェイの「良い」歌手たちが、演技はもちろん、歌もそこらのオペラ歌手よりは遥かに上手いというのは現地でミュージカルを観た人なら周知の通り。見事なものであった(但し、雰囲気が少し違うのは仕方がない)。

 コニ―アイランドの光景が、この複雑な心理の変化を描く恋愛劇にどのような影響を及ぼしているかという面では、しかし残念ながらこれは単なる発想に留まり、具体的には描き切れていないようである。
 その点では、先年制作された、ラスヴェガスを舞台に設定したマイケル・メイヤー演出「リゴレット」(2013年2月16日参照)の方がよく出来ていたのではないかと思う。こちら「コジ」の方はさしあたり、本来が荒唐無稽で現実にはあり得ないような恋愛劇ゆえに、遊園地の玩具のように論理的ならざる夢のようなイメージを背景にした設定もまた一法である、と解釈しておけばよかろう。

 しかし、ロバートソンの指揮をはじめ、METのオーケストラの演奏も実にしっかりしており、モーツァルトの音楽の素晴らしさを存分に再現してくれる。このオペラ、今では彼の「4大オペラ」の中では、私にとっては最も魅力的な存在である。

2018・5・4(金)ラ・フォル・ジュルネ(4) 林英哲と英哲風雲の会

      東京国際フォーラム ホールC  9時15分

 オケのなさけない演奏に接して疲労困憊していたものの、この林英哲の太鼓と、太鼓ユニットの英哲風雲の会による迫真力満点の公演を聴いて、完全に元気を回復した。ユニットは、上田秀一郎、はせみきた、田代誠、辻祐の4人。うち1人がマリンバを担当している。

 演奏されたのは組曲「レオナール われに羽賜べ」という曲。レオナールとはレオナール・ツグハル・フジタ━━あの藤田嗣治画伯(今年が没後50年に当る)のこと。
 作曲・演出・振付は林英哲。これは、全力でぶつかって来る真摯で完璧な演奏だ。

※5月6日のBS朝日でナントのラ・フォル・ジュルネの模様が放送されているのを偶然視たが、林英哲氏が66歳になられたということを改めて思い出した。活躍の長さからすればそのくらいには━━と思いつつも、その年齢で45分間とか1時間とかの長尺を休みなしに叩き続けることのできる体力と精神力の凄さには、今さらのように感じ入った次第である。

2018・5・4(金)ラ・フォル・ジュルネ(3) トランシルヴァニア・フィル

     東京国際フォーラム ホールC  7時15分

 ルーマニアのクルジュ=ナポカに本拠を置くトランシルヴァニア・フィルハーモニー管弦楽団(正式名称はトランシルヴァニア・ステート・フィルハーモニック・クルジュ=ナポカ)というオーケストラは、私は今回初めて聴いた。指揮は客演のカスパル・ゼンダーである。
 プログラムは、チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」と、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」。後者でのソリストはロシアのアレ―ナ・バーエワ。

 しかし、━━配布資料には「東欧屈指のオーケストラ」とあるけれども、実際の演奏を聴いてみると、とてもそうは思えない。むしろ、それには程遠いオケだ。もしこれが現地で高く評価されているというのであれば、今回の来日メンバーにはトラが多かったのか? 
 指揮者がまた締まりのないこと夥しい。「イタリア奇想曲」など、リハーサルをしたのかしていないのか、もう呆れるほど散漫で、しかも活気のない演奏だった。協奏曲では、その指揮者とオケにつられてバーエワまで調子を狂わせたか?

 「ラ・フォル・ジュルネ」に来る外国のオーケストラは━━昔からそうだったが━━どうも芳しくないものばかりだ。
 何年か前、このブログに同じようなことを書いたら、ある外国オケのメンバーとして日本で演奏した日本人奏者の方から、「ルネ・マルタン(音楽祭芸術監督)の仕切りは、ギャラは安いし、練習時間はないし、待遇もよくないし」とウラ事情を説明したメールを頂戴したことがある。ただ、私が2010年と2011年に、この音楽祭の総本山たるナントに取材に行った時には、どのオケももうちょっといい演奏をしていたのは事実だったのだ。

 だが一方、ソリストやグループ、あるいは室内楽のジャンルに関しては、来日演奏家・邦人演奏家ともに、粒が揃っていると言えるだろう。特にソリストは、もし手を抜いた演奏をしたら立ちどころに評価が下がるし、責任を独りで負わなくてはならないから、常に全力で弾くものだ。ラ・フォル・ジュルネでは、外来オケよりは、個人のリサイタルの方が聴き応えもある━━ということは、もう何年も前から心得てはいたのだが・・・・。

2018・5・3(木)ラ・フォル・ジュルネ(2) 「ILLUMINATIONS」

     東京芸術劇場 シアターウェスト  8時45分

 時間を置いて、ちょっと珍しいコンサートを聴きに行く。

 クラリネット奏者YOMと、弦楽四重奏団「Quatuor ⅠⅩⅠ」が協演して、YOMの「イリュミナシオン」という曲を演奏。これは45分にわたる長大な曲で、彼のプレトークによれば、東欧系ユダヤの音楽(クレズマー)の手法を基本とし、星の間を縫って進む煌めく光がイメージされているとのこと。おそらくそれには、故郷を失って彷徨うユダヤ人の誇りといったものも秘められているのだろう。
 今回の演奏は、弦楽四重奏団のメンバー(ヴィオラ)が編曲した版に由るという。すこぶる激しい音楽である。

 シアターウェストは演劇上演用だが、とにかく劇場であることには違いなく、国際フォーラムの会議室で聴くよりは遥かにコンサートらしい雰囲気がある━━ただし今日のような粗悪なPAさえ使用されていなければ、である。客席最後部に置かれた調整卓には外国人が座っていたが、もし彼がこのクラリネットと弦楽四重奏団のグループのスタッフであるなら、この音楽を随分酷く貶めていることになるだろう。

2018・5・3(木)ラ・フォル・ジュルネ(1) 「ROAD TO FREEDOM」

     東京芸術劇場コンサートホール  6時30分

 今年の「ラ・フォル・ジュルネ」は、開催会場としていつもの国際フォーラムなど有楽町・丸の内界隈の他、池袋のこの東京芸術劇場を新たに加えた。

 席数1999のコンサートホールと、ふだんは演劇上演に使用されている席数約270の「シアターイースト」と「シアターウェスト」がその会場である。
 初年度とあって未だ規模が小さいため、ホワイエには国際フォーラムのような熱気はないが、音楽祭としての知名度と、メインのコンサートホールの音響の良さということもあってか、公演へのお客さんの入りは結構良いようである。

 その中で、「バーバラ・ヘンドリックスがブルース、黒人霊歌などを、ラ・フォル・ジュルネ・スペシャルバンドで(と)披露」と公式プログラムに題された公演(T115)に出かけてみる。
 音楽の性格上PA付きだから、必ずしもこのホールのアコースティックとは関係はないが、それはそれとして、この音楽の持つ訴求力の凄さにはいつもながら心を打たれずにはいられない。

 バーバラがこの種の歌を歌うのは、20年前に録音されたCD(EMI盤)でしか私は聴いたことがなかったので、ナマで聴くのはこれが初めてになる。今回ステージで歌う彼女の声と姿に接して、あのCDの頃に比べて声も随分重く暗くなっていて、しかもかつてオペラの舞台で聴き、観た彼女とも全く別人のような雰囲気になっていたのには少々驚いたし、感慨深いものもあったのだが、しかしなおそのヒューマンな味を湛えた歌唱には感心した。
 協演はマティアス・アルゴットソン(pf、org)、マックス・シュルツ(g)、ウルフ・エングランド(g)。

 帰宅して、昔出た彼女の東芝EMI盤を何枚か棚から引っ張り出し、懐かしい想いでもう一度聴きなおしてみる。

2018・5・2(水)「酒と涙とジキルとハイド」

    東京芸術劇場プレイハウス  2時

 三谷幸喜の作と演出による、2014年初演の作品の再演。あの名高いR・L・スティーヴンソンの小説「ジキル博士とハイド氏」を超コミカルにもじったもので、部分的には少しくどい個所もあるが、役者さんたちも巧いし、なかなかに笑える。

 この芝居では、ジキル博士(片岡愛之助)がハイドに変身しようと秘薬を開発したものの、さっぱりその効き目が出ない・・・・というところから始まり、翌日の学会発表を控えて大弱りの博士は、助手のプール(追田孝也)と計らい、売れない役者ビクター(藤井隆)を強引に引き込み、替え玉ハイドを演じさせて学会の強行突破を計画、リハーサルを開始する。ところがそこにジキル博士の婚約者イヴ(優香)がやって来て・・・・という展開で、会場は爆笑の連続だ。

 この芝居に寓話的な意味があるとすれば、要するに自己を解放するためには本当に「薬」が必要なのか、むしろ「薬」を飲んだという自分の強い「思い込み」だけで充分なのではないか・・・・を問いかけることにあるだろう。これは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の解釈・演出にも応用できそうなコンセプトである。

 休憩なしで約1時間40分の上演。バンドは高良久美子と青木タイセイ。4月27日から始まっていて、一部休演期間を挟み、5月26日まで上演される。

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