2018-09

2018・4・30(月)仲道郁代ピアノ・リサイタル

     サントリーホール  2時

 「Road to 2027 ベートーヴェンと極めるピアノ道 Vol.1」と題されたコンサート。
 彼女自身がプレトークで、これが向後10年、ベートーヴェンのソナタを軸にして展開する全10回のプロジェクトの開始であることを宣言している(2027年はベートーヴェン没後200年に当る)。
 自宅で愛用しているという「ニューヨーク・スタインウェイ」をわざわざこのサントリーホールまで運んで来て演奏するというのも、その並々ならぬ意気込みの表われかもしれない。

 シリーズ・タイトルは前出の如くだが、プログラムは必ずしもベートーヴェンの作品ばかりではない。今日は最初にモーツァルトの「ソナタ第8番イ短調K.310」があり、次にベートーヴェンの「ソナタ第23番へ短調《熱情》」が演奏され、休憩後にブラームスの「ソナタ第3番へ短調」、というプログラムだった。

 彼女のこの「ニューヨーク・スタインウェイ577958」は、その弾き方にもよるだろうが、明るい清澄な音色で、ぴんと張りつめた叙情美も備わっていて、どちらかというと私も好きなタイプのピアノの音だ。
 これで演奏された今日の彼女のモーツァルトの「イ短調」は、爽やかで美しく、切れ味よく、しかも激しくて厳しい。その音楽が天高く飛翔しているような軽やかさをもちながらも、どこか神経質な緊張をはらんでいて━━いわば「透明な凄味」とでもいったようなものを感じさせたのは、もちろん彼女の演奏の為せるわざだが、このピアノの音色も大きく影響していたのではないか。この日の演奏で私が一番気に入ったのは、このモーツァルトである。

 ベートーヴェンでは、この音色を引き継ぎながらも、演奏には剛直な力感が取って代わって生れていて、そこまではなるほどと思って聴いていた。
 しかし、最後のブラームスに至って、私にはちょっとついて行き難い解釈になった。このブラームスの「ソナタ第3番」は、彼女が1990年にリサイタルで弾いた演奏がいまだに印象に残っている(BMGから出たライヴLDが今も手許にある)のだが、それに比べると今回のそれは、まるで別人のような、また別の作品のような感を与えるほど、切れ味の鋭さを増した演奏に感じられた。

 そのこと自体は大いに結構なのだが、その一方、あまりの激しさに戸惑わないではいられなかった。リズムに不思議な特徴のあるソナタゆえに、アクセントの鋭さそれ自体は大いに共感するところだけれど、その打鍵の強烈さが、特に終楽章ではスタインウェイ・ニューヨークからまるで絶叫怒号のような狂乱を生み出していたのには、些か辟易させられる。
 今日のテーマは「パッションと理性」だが、ブラームスのパッションとは、果してこういうものなのだろうか? 

 ホール内の聴く位置によっては、あのピアノはもしかしたら違うように響いていたかもしれないし、その場合には演奏の性格も異なって聞こえたかもしれない━━だが1階16列ほぼ中央の私の席からは、そのように聴こえたのである。

2018・4・29(日)伊藤恵ピアノ・リサイタル

       紀尾井ホール  2時

 前半にベートーヴェンのピアノ・ソナタ2曲、それも「ワルトシュタイン」と「熱情」の2曲を、ステージで続けて弾く。凄い選曲だ。しかも後半には、シューマンの「アラベスク」と、ショパンの作品25の「練習曲集」を続けて演奏する。
 演奏時間の合計こそ2時間に納まるものだが、弾くご当人は大変だろう。いや、聴き手の方でもその重量感と密度に圧倒されて、些かの疲労感を━━といってもそれは「快い」類のものではあるが━━味わうことになる。

 ベートーヴェンのソナタ2曲は力演だったが、敢えて言えば、あのベートーヴェン特有の、頻繁な起伏を繰り返しながら前へ前へと押し進んで行く流れをがっしりとまとめる緊密な構築性がもっと欲しい、ということだろうか。
 シューマンやシューベルトのような豊かな叙情の流れをそのままベートーヴェンのソナタに応用するならそれはそれで一つの興味深いアプローチだが、しかしそうするには、今日の2つの作品は、少々強面過ぎるように思える。

 休憩後にシューマンの「アラベスク」が始まった時は、おなじみのひとが聴き慣れたいつもの口調で話を始めたような気がして、懐かしい時間に戻ったなという思いに胸を浸された。
 これは、必ずしも先入観によるものではない。だがこのあたり、彼女にとって未だ挑戦的な段階にあるベートーヴェンのソナタの演奏と、長年にわたり手の内に納めて来たシューマンの作品の演奏とでは、やはり聴き手に訴えかけるものが違うようである。
 この日のプログラムの中で最も感情豊かな演奏に感じられたのは、やはりこの「アラベスク」だった━━と言ったところで、彼女に失礼には当たるまい。

 「アラベスク」の最後の音が消えて行った直後にショパンの「練習曲集」がアタッカで開始されたのは全く当を得た手法であり、この二つの作品が彼女の意識の中で互いに密接に関連づけられて存在することを意味していたようにも思われた。
 ただしこちらは、殊更に叙情的な表情づけを行なわない━━と言って、乾いた無機的なところは全くない、直截でしっかりした構築性を備えた演奏だった。

 この演奏は、所謂「ショパンの香り」というものに、そこはかとない郷愁と憧れを抱いている私のような世代からすれば、些かとっつきにくいスタイルではあったことを白状するが、これはこれで立派な演奏であったことは確かであろう。最終の「木枯し」から「大洋」にかけての昂揚感など目覚ましく、見事なものだった。

2018・4・28(土)インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団

       サントリーホール  2時

 東京定期の2日目。快晴爽快の土曜日だが、客席は9割以上の入り。空いているのは「欠席客」の分で、実際はほぼ完売状態にあるとのこと。日本フィルの最近の好評ぶりを物語る客席の盛況といえるだろう。
 プログラムは、全ワーグナーものである。前半に「タンホイザー」序曲と、「ローエングリン」の第1幕と第3幕の前奏曲。後半に「ニーベルングの指環」をロリン・マゼールが編曲した「言葉のない《指環》」。コンサートマスターは木野雅之。

 首席指揮者ピエタリ・インキネンが日本フィルを振ったワーグナーは、これまでにも「ラインの黄金」や「ヴァルキューレ」第1幕などいくつか聴いて来たが、あの練習不足でガタガタだった「ジークフリート」と「神々の黄昏」の各抜粋の日の演奏を別とすれば、概して出来は良い。
 そして、今日の演奏は、これまでの中で最も優れたものだったのではないだろうか。「タンホイザー」序曲は整然たる構築で、きりりと引き締まった演奏であった。

 一方、「ニーベルングの指環」では、やはり「神々の黄昏」からの部分━━それもワーグナー自身が巧みな筆致で作曲している「ジークフリートのラインへの旅」と「ジークフリートの葬送行進曲」の部分での演奏が、シンフォニックな起伏感と、強靭な力感で、際立った印象を与えてくれた。

 とりわけ「葬送行進曲」は、トランペット(クリストーフォリ)を先頭とする激烈なクレッシェンド(剣の動機)に導かれ、すこぶる立派な快演となっていたが、ここではインキネンのリズムの明晰さもエネルギッシュな力を生む基となっていただろう。
 「ヴァルハルの動機」から「救済の動機」に至るまでのエンディングも同様である。均整に富んだ━━ハープの最初の音だけが妙に強く粗く響き過ぎてバランスを崩していたのを除けばだが━━管楽器群が美しい終結を形づくった。堂々たる演奏である。

 こういう演奏なら、インキネンと日本フィルのワーグナーはなかなか良いね、という評判も高まるだろう。自主運営の日本フィルにとっては負担も大きいかもしれないが、「指環」の続編なり、あるいは「さまよえるオランダ人」なりを、特別演奏会か何かで聴きたくなって来る。きっと、明晰な光に照らされた、切れ味のいいワーグナーの音楽が聴かれるだろうと思う。

 なお、マゼール編纂のこの版は、デ・フリーハー編纂版とは違い、途中でいくつか幕ごとの終止が入る。デ・フリーハーのよりは大掴みな編纂だ。

2018・4・27(金)カリニャーニ指揮紀尾井ホール室内管弦楽団

       紀尾井ホール  7時

 パオロ・カリニャーニが5年ぶり3度目の客演。
 プログラムがケルビーニの「アリババ」序曲、マルトゥッチの「夜想曲Op.70-2」(管弦楽編曲版)、レスピーギの組曲「鳥」、ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」(クロエ&カプレによる管弦楽編曲版)、ベルリオーズの「クレオパトラの死」という、普段のカリニャーニのイメージとは少々違う選曲なので、大いに興味が湧く。

 この中では、やはり最後のベルリオーズの「クレオパトラの死」が圧巻の演奏と言えたであろう。
 リリー・ヨルシュターというロシア出身のメゾ・ソプラノが、実に深みのある見事な歌唱を聴かせてくれた。そしてカリニャーニの指揮も劇的で、何段階かに分けてテンポを動かして行く呼吸が、次第に感情を昂らせて行くヒロインの絶望感を巧みに描き出していた。下手をすれば単調な曲になってしまう(そういう演奏に何度か出遭ったことがある)このカンタータを、かように起伏豊かに聴かせてくれたのは有難い。紀尾井ホール室内管も、この曲ではしっとりした叙情的な味を巧く出してくれた。

 だがこれに比べると、同じフランスものでも、「ベルガマスク組曲」は、「月の光」以外は何か粗っぽく、ガタガタした演奏で、洒落たセンスも芳香も感じられなかったのは、・・・・まあ危惧した通り、というか。ただしそれは、指揮者の所為だけではないように思われる。

 第1部での「アリババ」序曲は、ナマで聴く機会は滅多にない曲で、笑い出したくなるほど騒々しい曲である。昔、FM放送で「歌は終りぬ~終わり方いろいろ」という番組をつくったことがあるが、その中で「終わりそうでなかなか終わらない曲」の一例として取り上げたのがこの曲のエンディングの部分だった。
 レスピーギの「鳥」は、もう少し丁寧に演奏されればもっと美しくなる曲なのだが・・・・。
 今日は初日の演奏。コンサートマスターは千々岩英一。

2018・4・24(火)レ・ヴァン・フランセ~協奏交響曲の夕べ

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 フルートのエマニュエル・パユ、オーボエのフランソワ・ルルー、クラリネットのポール・メイエ、ホルンのラドヴァン・ヴラトコヴィチ、バソンのジルベール・オダン━━不動のメンバーによる「レ・ヴァン・フランセ」の来日演奏会。今日は小編成の東京フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスターは依田真宣)が協演、「サンフォニー・コンセルタンテの夕べ」となった。

 プログラムは、プレイエルの「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲第5番ヘ長調」、ダンツィの「フルートとクラリネットのための協奏交響曲変ロ長調Op.41」、ドゥヴィエンヌの「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲第2番ヘ長調」、モーツァルトの「オーボエ、クラリネット、ホルン、バソンのための協奏交響曲変ホ長調K.297b」━━という、かなり盛り沢山のメニューである。

 ソリストたちは、いつもながらの、洒落て、生き生きと、表情も華麗な演奏。文句なしの鮮やかさだ。音楽を自ら愉しみ、聴き手にも愉しませるという感性が、生まれながらにして身に沁みついている人たちなのだろう。

 ただし前半の2曲では、東京フィルの演奏に全く生気がなく、ちゃんと弾いてはいても、それ以上のものが何もない、という白けた演奏だったので、「レ・ヴァン・フランセ」の沸き立つような音楽とさっぱりかみ合わない。
 これはやはり指揮者がいないと駄目なのか、やはり他の日の、「レ・ヴァン・フランセ」だけのコンサートの方に行くべきだったか、などと、一時はほぞを噛んだのだが、━━しかし休憩後、ドゥヴィエンヌの作品で、4人のソリストがオーケストラとのトゥッティで演奏を開始すると、それに刺激されたか、オケの演奏の雰囲気がガラリと変わり、ノリを感じさせ始めた。
 こうなれば、オーケストラに指揮者を置かず、彼らソリスト「たち」が指揮者の代わりにオーケストラをインスパイアしながら演奏するという形が生きて来るだろう。

 このドゥヴィエンヌとモーツァルトの協奏交響曲での、軽快な躍動の鮮やかさ、甘美で洒落た歌の快さは、私にとって至福のひとときだった。
 そして「レ・ヴァン・フランセ」は、最後にはアンコールとして、彼らだけでイベールの木管五重奏曲「3つの小品」からの「アレグロ」を、まさに天馬空を行く感の演奏で披露してくれたのである。

2018・4・22(日)新国立劇場 ヴェルディ:「アイーダ」

     新国立劇場オペラパレス  2時

 フランコ・ゼッフィレッリの演出・美術・衣装による豪華絢爛のプロダクション。
 新国立劇場では、開場記念シリーズの一環として1998年に上演して以来、開場5周年(2003年)、10周年(2008年)、15周年(2013年)という節目の年に再演を重ねて来ており、今回が20周年記念の上演ということになる。

 何しろ写実主義的で大がかりな舞台装置で、第2幕「凱旋の場」では数百人が舞台上にひしめくという、最近では世界の歌劇場を探してみても滅多にないであろうスペクタクルなプロダクションである。大切に保存して再演して行くに如くはない。
 人気も衰えないようだ。今シーズンは4月5日から上演されていて、今日が7回目、最終上演で、満席の由。劇場の外には「アイーダ」鑑賞ツアー用にチャーターされたらしい観光バスまで停まっていた。

 今回の出演は、パオロ・カリニャーニ指揮の東京フィルハーモニー交響楽団、イム・セギョン(アイーダ)、ナジミディン・マヴリャーノフ(ラダメス)、エカテリーナ・セメンチュク(アムネリス)、上江隼人(アモナズロ)、妻屋秀和(ラムフィス)、久保田真澄(エジプト国王)、村上敏明(伝令)、小林由佳(巫女)、新国立劇場合唱団、東京シティ・バレエ団、ティアラこうとう・ジュニアバレエ団、という顔ぶれ。

 私も20年前のプレミエ時から毎回このプロダクションを観て来ているけれども、せっかくの豪華な舞台の割には、常に指揮者や歌手陣に凸凹があって、あちらが良ければこちらが少し・・・・という状態が続いているのが、何とも残念である。

 今回の題名役、韓国出身のイム・セギョンは、小柄な体躯だが声も綺麗で、大合唱をも圧するほど豊かな声量の持主━━それはそれで痛快ではある━━なのだが、重唱などの場面でもアンサンブルを無視して唯我独尊、吼えまくるのは感心しない。美しいソット・ヴォーチェを使えるように、そして一本調子にならずに感情の変化を表現できるように、早く修練を積んでもらいたいものである。
 その点、アムネリス役のセメンチュクは、アイーダを恫喝する場面(第2幕第1場)での凄みある歌唱と演技などは巧みなものだった。女奴隷の声があまりに大きいのでワリを食った感があったのは気の毒だったが・・・・。

 だが今回の歌手陣の中には、本当に音程も不安定で声も甚だ頼りなかった人もいて、この辺が前述のように凸凹と言わざるを得ぬ所以だ。残念である。
 なお、カリニャーニの指揮は、この人らしく勢いがあって、東京フィルを何とか引っ張っていた。

 ゼッフィレッリの演出(再演演出・粟国淳)には、微細な部分において巧みな演技が未だ保たれている。
 第2幕、ラダメスに勝者の冠を渡したアムネリスが優越感を丸出しにしてアイーダに一瞥をくれたり、アイーダが恨みの籠った眼差しでアムネリスを見上げたりするような細かい演技は、今回も見ることができた。
 また、ラダメスが「アモナズロ王はすでに斃れた」と一同に報告した時、アイーダが目の前にいる父アモナズロにチラリと視線を送り、アモナズロが「そういうことにしてあるのだ」と目配せをしたり、エチオピアの捕虜同士が「そうだ、(王が生きていることは)秘密にしておくのだ」とでも言うように目配せをし合ったりするような細かい演技も、ちゃんと保たれていた。
 それらが再演演出担当の粟国淳の指示によるものなのか、出演者たちの独自の判断で行なったものかどうかは判らないけれども、このゼッフィレッリの舞台が単なる大スペクタクルではないことを証明する例として、強い印象の残った場面であった。

2018・4・21(土)大阪4大オーケストラの饗演

    フェスティバルホール  4時

 大阪国際フェスティバルの一環として組まれているこの企画、今年が第4回。一応「完結編」と銘打たれていたものの、幸いに来年4月にも続編が開催される気配だ。

 今年は、
尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団がエルガーの序曲「南国にて」、
藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団がチャイコフスキーの「白鳥の湖」抜粋、
飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団がリムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」、
外山雄三指揮大阪交響楽団がブラームスの「交響曲第1番」、
というプログラムだった。2700の席は満員。

 本番の開演は4時だが、3時半からプレコンサートとして、大栗裕の「大阪国際フェスティバルのためのファンファーレ」の第1番と第2番、およびモーツァルトの「セレナード第12番K.388《ナハトムジーク》」からの第1楽章が、4オケの楽員たちで編成されたアンサンブルにより演奏され、次いで指揮者4人のプレトーク(毎年これがすこぶる面白い)があり、そして本番プロの演奏に入るという段取りである。

 大阪フィルの音楽監督・尾高忠明は今回がこのイヴェントへのデビュー。流石に彼らしく隙のない、しなやかなアンサンブルづくりで、大阪フィルを率いてすべてに均整の取れた「おとなの演奏」を繰り広げた。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 続いて登場した藤岡幸夫と関西フィルは、情熱的で勢い充分。荒々しいほどのエネルギー感で「白鳥の湖」を演奏した。
 計40分近くに及ぶ抜粋は藤岡が独自に選曲したものだが、ガンガン鳴って最強奏で終る曲を多く集めていたため、聴く方が疲れてしまい、肝心の大詰めの「泣かせる」はずのクライマックスが、思ったほど効果的なものにならない、という結果を生んだのが惜しかった。
 疲れたのはどうも私だけではなかったらしい。ロビーで会った知人たちとも「後半のうちの1曲か2曲は無くてもよかったかなあ」という意見で一致。終ったのが、プレ・イヴェントの開始から1時間45分も経った時だったのも、運が悪かっただろう。コンサートマスターは岩谷祐之。

 休憩後には、まず飯森範親と日本センチュリー響の「スペイン奇想曲」が、闊達に、華麗に演奏される。各パートのソロが妍を競うこの曲で、飯森はそれらのソロを愉しむかのように、オーケストラを湧き立たせて演奏させた。
 コンサートマスターは松浦奈々。久しぶりに彼女の独特の身振りによる演奏が楽しめた。あの華やかな身振りを何やかやという人もいたらしいが、個性的でいいではないか。気にせずに彼女の自然のままでやってもらいたいものである。

 大トリは、外山雄三指揮の大阪響の登場だ。前後をベテラン指揮者が落ち着いた作品と演奏で囲み、中の2曲を気鋭の指揮者が華やかに━━というプログラム構成は、なかなかよく出来ている。
 それにしても、このブラームスの「第1交響曲」の演奏が始まったとたんに、それまでの賑やかなお祭り的な雰囲気が消え、シリアスな演奏会という雰囲気がホール中にみなぎって行ったのは面白い。それはブラームスの音楽がつくり出す不思議な魔力の所為か、あるいは外山と大阪響の真摯でまじめな演奏の所為か、はたまたその両者のゆえか。

 外山の指揮はゆっくりしたテンポ(第1楽章提示部の反復なしでも演奏時間は計49分前後だったか)で、感覚的には全4楽章があたかも同じテンポ(?)で進められているかのような印象を与える演奏だったのだが、しかし、何か理屈なしに、いい感じなのである。
 森下幸路をコンサートマスターとするヴァイオリン群は強力だが、ホルンがおとなしく、しかも音色が粗いのが残念だ。オケの音にふくよかさが感じられなかったのはそのためか。ブラームスの作品の場合、ホルンがもっと気を吐いてくれなくては。

 演奏が終了したのは6時54分頃。そのあとには、例年通り、福引(演奏会招待)の抽選が行われた。4人の指揮者たちの陽気なキャラが面白い。87歳のマエストロ外山の、ユーモアあふれる元気さも聴衆を楽しませた。終演は7時10分頃か。総計3時間40分に及ぶ大イヴェントであった。

 なお、異なるオケが異なる編成で臨むステージの楽器配置の転換作業は、例年のように各楽団のスタッフが合同で手際よく動くので、今年もスムースに進められた。大フィルから関西フィルへの転換が約5分、センチュリー響から大響へは約6分━━というところで、ふつうの演奏会であれば特に早いというほどでもないが、オーケストラそのものが入れ替わるということを思えば、見事なワザだろう。もっとも後者の転換の際には、ステージ前方の変な場所に椅子を置き忘れていたようだが・・・・。

 それよりも大阪響の演奏の際、すでにほとんどの楽員が着席し終っているというのに、何人かが遅れて入って来て(もちろん、コンサートマスターのことを言っているわけではない)、1人はチューニングのさなかに駆け込んで来るなどという醜態を演じたのはみっともなかった。こんなプロらしからぬことは、いかなる事情があろうと許されるものではない(昔、ショルティとウィーン・フィルの日本公演で似たようなケースがあったが)。

2018・4・20(金)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 アイヴズの「ニューイングランドの3つの場所」とマーラーの「交響曲第9番」というプログラム。コンサートマスターは小森谷巧。
 両作品とも、非常に感情の起伏の大きい、デュナミークの対比の激しい演奏となった。  

 特に今日の主力プログラムであるマーラーの「9番」では、かなり遅いテンポが採られ、演奏時間も計88分前後に達していたが、弛緩したところはただの1小節もなく、その入魂の演奏は凄みをも感じさせる。
 読響の機能性の高さと、強大にして壮烈な、しかも豊麗な力感を漲らせる演奏は驚嘆すべきもので、これだけの演奏ができるオーケストラは、わが国では、N響を除けばこの読響あるのみであろう。
 そのような水準までオーケストラを制御するカンブルランの気魄も見事というほかはなく、彼の芸風もまた最近は大きな変貌を示して来ているように思われる。

 この日の演奏では、ホルン群を強奏させる個所が目立っていたが、特に第4楽章第16~17小節のホルンのソロを異様に大きな音で、勢いよく吹かせていたのには驚いた。確かにここは弦と同様にフォルティッシモと指示されているが、大抵は「大きいが、ふくよかな音」で演奏される個所であり、今回のように「決然たる強さで」吹かれたのを聴いたのは初めてである。
 それはそれで一つの解釈だろうが、そのため途中で大きなブレス(息継ぎ)が入ってしまい、このフレーズが「安息感」というより「気負い」のような感にされてしまったのには、この楽章の性格からして疑問がある。
 聞けば、カンブルランはこの楽章を未来への生の希望と解釈しているらしいが、しかしここだけは、この息継ぎはこのフレーズが備えている高貴な性格を損なったものと言わざるを得まい。

 ただしカンブルランは、その他にも同楽章の多くの個所にメリハリをつけて演奏させている。たとえば冒頭第4小節での第2チェロの16分音符や、第56小節と57小節での弦の個所。特に4分音符を(テヌートではあるものの)レガートでなく、明確に際立たせて演奏させていたため、ふつうの演奏ではステージいっぱいに滔々と、全てを呑み込むように拡がる弦の大河の如き響きが、どちらかといえばリアルな、ごついイメージになっていた。それらは、彼岸への憧れより、人生肯定的な感情を意味するものという解釈を可能にするかもしれない。

 最弱音のモティーフが次第に切れ切れになって行き、無限の沈黙へ向かって溶解して行くかのような全曲の終結部は、聴衆の息詰まるような静寂に包まれ、最後まで完璧に演奏されて行った。
 ここでは、良い演奏は、良い聴衆の存在と、その協力により成り立つものなのだ、という例が証明されていたのである。その意味では、聴衆の「聴く」という行為は、単に受け身であること以上に、自らも演奏に参加しているという役割を果たすことにもなるのだ。

2018・4・19(木)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 音楽監督・上岡敏之の指揮。
 前半にモーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491」を、ソリストにアンヌ・ケフェレックを迎えて演奏。後半にはブルックナーの「交響曲第6番イ長調」をヨーゼフ・ヴェナンティウス・フォン・ヴェスによる「編纂版」(1927年刊の由)で演奏するというプログラム。コンサートマスターは崔文洙。

 モーツァルトでは、上岡の指揮は、いまどき珍しいほど重くてレガートな、引きずるような音楽のつくりが印象的だ。新日本フィルの弦も管も、優麗に歌う。ケフェレックも今回はかなり沈潜した表情だったが、カデンツァではやや本性を顕わしたような感もなくはない。第2楽章のラルゲットでは、両者ともに美しい叙情性をあふれさせた。

 さてブルックナーの交響曲。最近はみんな手を変え品を変え、版も変えて、それぞれの目立つ特色を出そうという指揮者が多いようだが、特にこの「6番」は、やれハース版だ、やれノーヴァク版だ、いやエーザー版だコールス版だ、などという波風(?)の全く立っていなかった曲だけに、今回の上岡が「ヴェス版」を紹介してくれたことは非常に貴重である。

 とはいえ、このヴェス版は、ブルックナーの原典楽譜を校訂するような類のものではない。むしろ、いわば面白く聴かせるためにあれこれ手を加えた楽譜と言った方がいいかもしれない。「編纂版」といったのはそのためであろう。ロベルト・ハースが正規の校訂版を出す以前には、やはりこういった勝手な(?)楽譜も現われていたのだな、と思うわけで。

 で、私はこのヴェス版のスコアは所持していないが、もしその辺の事前知識なしにこの演奏を聴いたとしたら、また(などと言っては失礼だが)上岡さんがやりたい放題やっているな、などと誤解したかもしれない。
 もちろん、彼独自の解釈も多少は入っているだろうけれど、スコアに加えられた「編纂」には、昔の人でなければやれないような強引な手法も聴かれる。特にデュナミークの違いは大きいし、例えば第4楽章の最後などにおけるティンパニのパートには呆気にとられた。クナッパーツブッシュやマタチッチなど、往年の巨匠たちが「改訂版」を使いつつ、よくそういう「独自の変更」を施して指揮していたことを思い出し、今回のヴェス版を聴きながら、時代の変遷に想いを馳せる。

 なお、現行版にも多いフォルテ3つの個所での全管弦楽の咆哮は、今日の演奏ではかなり狂気じみた怒号の形を採って再現されていた。その一方、第2楽章での弦の和声的な美しさは出色のもので、上岡と新日本フィルのブルックナーにおける、最良の面が発揮されていた。

 アンコールには、ケフェレックはヘンデルの「メヌエット ト短調」を、また上岡と新日本フィルはモーツァルトの「交響曲第29番イ長調」のフィナーレを演奏したが、これらがまた見事なものだった。前者は沈潜した美しさであり、いっぽう後者は颯爽として優麗軽快、さながら「毒消し」清涼剤の如し。

2018・4・19(木)大野和士指揮東京都交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 リムスキー=コルサコフの「ロシアの復活祭」、ボロディンの「イーゴリ公」からの「ポロヴェッツの娘たちの踊り&ポロヴェッツ人の踊り」、チャイコフスキーの「交響曲第3番《ポーランド》」。コンサートマスターは四方恭子。

 これは定期Cだが、前半の2曲は、都響の定期としては比較的珍しいレパートリーではなかったか。評論家の中には、特に音楽学者さんたちの中には、こういう所謂「通俗名曲」をバカにしてみせる方たちが結構多いようだが、私は懐かしくて好きなので、大いに楽しませてもらった次第である。

 何より、大野和士が都響から引き出した演奏が良かった。引き締まって、色彩感にも事欠かない。殊更な誇張は一切無く、正面切った真面目なアプローチなのだが、力にあふれて爽やかだ。
 特に「ロシアの復活祭」はすこぶる豪華で力感があり、同じモティーフの繰り返しも全く単調には聞こえない。全曲大詰めで、それまで昂揚させて来た音楽を更に一段階強めて盛り上げて行くあたり、出色の演奏であった。

 チャイコフスキーの「第3交響曲」も同様である。CDは別として、これまで私が聴いたナマの演奏の中では、これほど緊迫感のある見事な演奏には初めて出逢ったとさえ言っていいくらいだ。
 第5楽章のポラッカのリズムもいい。管楽器群が吹くあの主題(あればかりは何か野暮ったくて好きではないのだが)と、その下に躍動する弦とのバランスの見事さ、そしてひたすら先へ先へと進んで行く推進性の素晴らしさには舌を巻いた。

 大野和士のロシアものは意外に━━と言っては失礼だが、これまであまり聴いたことが無かったし、彼のイメージ(?)からしてもあまり想像できなかったので━━嵌っていて、聴き応えがある。

2018・4・17(火)マリア・ジョアン・ピリス・ピアノ・リサイタル

     サントリーホール  7時

 日本のファンからこよなく愛されているマリア・ジョアン・ピリス━━その彼女も、今シーズンをもって引退すると宣言したそうなので、残念ながらこれが最後の日本ツアーになる(だろう)という話だ。
 今回のツアーは長く、N響とのコンチェルトあり、リリット・グリゴリアンとのピアノ・デュオ演奏会ありというスケジュールだが、彼女のソロのリサイタルは、今日が日本での最後のものになる。
 アンコールで弾いた「3つのピアノ曲D946」の「第2曲」が終ったあとには、満員の聴衆は、スタンディング・オヴェーションで彼女に別れを告げたのであった。

 プログラムの方は、モーツァルトのピアノ・ソナタ「第12番ヘ長調K.332」と「第13番変ロ長調K.333」、シューベルトの「4つの即興曲D935(作品142)」という、実に魅力的なものだった。
ピリスは、ステージに出て来ると、丁寧に答礼して椅子に座るが早いか、さり気なく弾きはじめ、最後までさり気なく弾く。モーツァルトのソナタも比較的あっさりしたスタイルの演奏だったが、しかしそこから生まれる精妙な運動と変容は、あっさりどころではなく、聴き手の心にあたたかく染み入って来る。

 シューベルトの「即興曲」にしても、最近の多くのピアニストたちの「これが私のシューベルト」と主張しているかのような演奏とは違い、この作曲家の音楽を穏やかに微笑みながら見守りつつ、みずからのヒューマンな語り口で演奏して行っているように感じられるのである。これこそが、長いキャリアの末に、ついに到達したピリスの美しい境地なのかもしれない。
 使用ピアノはヤマハだったが、その音色は透明で明るかった。

2018・4・16(月)METライブビューイング 「セミラーミデ」

     東劇  午前11時

 先月10日のMET上演ライヴ映像。
 ロッシーニの「セミラーミデ」など、滅多に観られるオペラではない。METとしては再演もので、しかもMETのオリジナルものではないプロダクションだが、批判校訂版による楽譜が使用されている点でも、これは貴重であった。

 舞台は、いかにもグランドオペラ的なものだ。マイケル・ステネットの衣装、ジョン・コンクリンの舞台美術ともに、今ではMETくらいしか製作できないような、大掛かりなものである。ジョン・コプリーの演出も、いかにもトラディショナルなスタイルだ。
 ただし今回は、歌手陣が素晴らしさの極みである。

 とりわけ、バビロニア女王セミラーミデを歌うアンジェラ・ミードと、先王ニーノの遺児アルサーチェを歌うエリザベス・ドゥショングの声の輝かしさは圧巻だ。
 強靭でありながらまろやかな高音、巧みな歌唱と性格表現。これらを聴くだけでもこのビューイングの価値がある。

 一方、悪役アッスールを歌ったイルダール・アブドラザコフは━━奇しくも昨日東京でナマを聴いたばかり━━舞台姿は貫録充分だが、先の2人に比べるとロッシーニ特有の声の動きの細やかさを表現するには少々難があり、聴かせどころの墓場のシーンで意外に凄味を欠いたのが期待外れであったろう。他にイドレーノをハヴィエル・カマレナ、オローエをライアン・スピード・グリーン。

 指揮はマウリツィオ・ベニーニで、序曲があまりに低調なのでどうなることかと思ったが、劇的な要所では巧く盛り上げてくれる。まずは当たりはずれのない職人的手腕と言ったところか。上映時間は3時間48分と長い。

2018・4・15(日)東京・春・音楽祭 「スターバト・マーテル」

      東京文化会館大ホール  3時

 1カ月にわたった「東京・春・音楽祭」の、今日は目出度い千秋楽。
 祝典のような演奏会ゆえ、ホワイエに集う客層も、レオンスカヤのリサイタルのような、「好きでたまらず聴きに来た」といった雰囲気の聴衆の集まりとはちょっと違う。

 さて、その華やかな雰囲気の中で演奏されたモーツァルトの「交響曲第25番」と、ロッシーニの「スターバト・マーテル」だが、━━せっかくの良い音楽祭のフィナーレを飾る演奏会だったのに、残念ながら演奏は、著しく低調なものだった。
 第一に、スペランツァ・スカップッチという女性指揮者が力不足だ。彼女が東京都交響楽団から引き出す音楽に、何とも緊迫感がないのである。モーツァルトの交響曲の冒頭からして、都響の演奏には何か「お座敷的」な密度の薄い雰囲気が感じられ、音楽に生きた躍動がほとんど感じられなかったが、これは全く指揮者の責任であろう。

 次の「スターバト・マーテル」に至っては、演奏に緊迫感がさらに希薄なこと、驚くほどである。音楽たるもの、休止符の個所での静寂は、本来は息づまる緊張に満たされるべきなのに、彼女の指揮では、それが死んだような沈黙と化してしまう。つまり音楽の流れがそこで止まってしまい、次に続くべき生きた呼吸が感じられないのである。指揮者自身はパウゼを長く採って愉しみ、自らは頭の中で音楽しているつもりのかもしれないが、それが実際に聴き手に伝わって来なくてはなんにもならない━━。

 都響も生気が感じられない演奏だったが、声楽陣も同様。これも明らかに指揮者の責任である。ソロ歌手陣は、エヴァ・メイ(S)、マリアンナ・ピッツォラート(A)、マルコ・チャポーニ(T)、イルダール・アブドラザコフ(Bs)という顔ぶれだったが、指揮の所為もあってか、歌唱にも燃えるような熱気が不足していた。
 特にテノール歌手には、それ以前の問題がある。歌唱はお世辞にも一流とは言い難い水準で、第2曲(アリア)の歌い方もひどく乱暴なものだった。

 合唱の東京オペラシンガーズ(合唱指揮はマティアス・ブラウアーと宮松重紀)は何とか頑張ったようだ。だがそれも、彼らが最後の第10曲(アーメン)でせっかく熱唱して盛り上げて行っても、終結直前の大きなパウゼで音楽の流れがまたせき止められてしまうのだから、感興が削がれてしまう。

 私はいつも演奏のあとでは、オケが引き上げるまで拍手を送ることを旨としているのだが、今回ばかりは、どうにもその気になれなかった。
 演奏とは関係のない話だが、右側後方ではプログラムを異常にバリバリと音をさせてめくるオヤジがいるし、また私の左隣の男は、1時間に及ぶ「スターバト・マーテル」の間、終始居眠りしていて、やたらこちらに寄りかかって来るし(4度押し返したが全く効果がなかった)、散々である。

2018・4・14(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 マーラーの「交響曲第10番」からの「アダージョ」と、ブルックナーの「交響曲第9番」を組み合わせたプログラム。
 ともに作曲者の最後の交響曲であり、未完成に終った交響曲でもあり、しかもマーラーのアダージョ主題がブルックナー後期の交響曲から影響を受けている、という特徴などを考えると、これはなかなか巧みな選曲であると言えよう。演奏も入魂の世界と謂うに相応しい。

 「アダージョ」は、鋭角的な厳しさを備えた演奏で、これは優れた表現に思えた。ノットのマーラーは概して素っ気ないが、このマーラー最後の「20世紀的」な楽想をもった音楽では、それがむしろ成功していたように感じられたのである。

 一方、ブルックナーの「9番」は、新しいコールスの校訂版に拠った演奏だった。ただし今回は、彼(ら)により補訂完成された第4楽章は演奏されず、ブルックナーのオリジナルである第3楽章までが取り上げられていたが、まあそれで充分であろう。
 コールスの最新版については、実は私も不勉強にして、いまだスコアを入手していないという段階にあり、たとえば第1楽章の【M】の直前、第300小節で、ハース版にもノーヴァク版にも無いティンパニがリズムを刻むという聴き慣れぬ響きにギクリとし、オケの事務局に確認の問い合わせをしたり、慌ててラトル&ベルリン・フィルのCDを聴き直して確認したりする程度なのが正直なところで。

 それはともかく、この日のノットと東響の演奏では、造型こそ厳格強固に保たせてはいるものの、その内部では、怒りのような激しい感情が沸騰していた。あたかもブルックナーが現実の生涯では顕わせなかった複雑な感情を音楽で爆発させていることを暗示するような、そういう激しさだったのである。

 ノットが指揮したこれまでのブルックナーは、壮麗な大伽藍を思わせる演奏よりも、凝縮した音の大建築という趣を示していたが、今回の「9番」も、基本的には同じ路線上にあるだろう。ただし今回は、著しく凶暴な音楽づくりだった。だがそれは、ブルックナーが最晩年にして初めて牙を剥いた、荒々しい不協和音を取り入れた悪魔的な楽想に富むこの「9番」には、極めて相応しいものだったのである。
 コンサートマスターは水谷晃。

2018・4・14(土)堤剛と仲道郁代のベートーヴェンⅡ

      ミューザ川崎シンフォニーホール  1時30分

 堤剛と仲道郁代が協演、ベートーヴェンの「チェロ・ソナタ」を中心とするプログラムで2回の演奏会を開いた。
 初日(12日、みなとみらいホール)には、仲道の弾くピアノ・ソナタなども加えられていたそうだが、第2日の今日は2人のデュオで4曲。モーツァルトの「《魔笛》の《恋人か女房か》による変奏曲」と、「チェロ・ソナタ」の第3番から第5番までが演奏されていた。

 仲道郁代はピアニストとして今や油の乗った時期だから、エネルギッシュな演奏活動も当然のことだが、堤剛のほうは、もうすぐ70歳代の後半に入る頃で、数え切れぬほど多くの公職を兼ねながらもなお演奏家としての活動を疎かにしていないのは見上げたものだ。そのエネルギーには驚嘆せざるを得ない。

 この巨大な空間を持つミューザ川崎シンフォニーホールで、室内楽の演奏を聴いたのは、もしかしてこれが初めてか? しかし、予想した以上に音はよく響き、客席を不足なく満たす。2階席前方で聴くとインティメートな雰囲気を味わえるが、上階席で聴いても演奏が「遠く」感じられないのには感心した。

 ただ、その上階席で聴くと、今日はチェロよりもピアノの方がよく響く。仲道郁代もこの大先輩を気遣い、そのソロに寄り添おうとしていることは伝わって来るが、彼女の闊達で勢いのいい発言は、堤剛の落ち着いた語り口を、単に音量的にだけでなく、音楽全体としてもマスクしてしまう傾向があったようである。それゆえ、これらのソナタでは、「ピアノとチェロのためのソナタ」という以上に、「チェロのオブリガート付きのピアノ・ソナタ」という印象が強くなるだろう。

 その端的な例は、特にピアノの発言が強い「第4番」においてである。
 特に第2楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェの第75~85小節では━━チェロが何かを言い始めようとして上昇すると、いち早く割り込んだピアノが同じく上行音型でピシャリとそれを抑えてしまい、チェロが口ごもってしまう、というやりとりが2回繰り返されるのだが、ここを聴いていて私は、年輩の物静かな夫が若く元気のいい妻に口で先を越され、穏やかに笑って引き下がる、とでもいったような光景を何となく連想してしまったのだ。その演奏に、堤のあたたかさと、仲道の明るさとが、相和しながら、時にはしっくりしないままに対話を交わすさまが、はっきりと感じられたのである。

 時間の関係で、アンコールは聴かずに失礼し、東海道線で新橋方向へ向かう。

2018・4・13(金)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 ロシアのバレエ音楽2つ(チャイコフスキーの「くるみ割り人形」とストラヴィンスキーの「春の祭典」)を最初と最後に置き、それらの間にポール・メイエをソリストに迎えてのモーツァルトの「クラリネット協奏曲」とドビュッシーの「クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲」を演奏するという、凝った素晴らしいプログラム。

 カンブルランのバレエ音楽に対するアプローチは━━少なくとも今日の演奏を聴く範囲では━━「踊りの音楽」というよりはむしろ、シンフォニックで色彩的な音響構築に重点を置いているように感じられる。
 「くるみ割り人形」(「行進曲」「花のワルツ」など4曲)は、チャーミングなバレエ音楽というより、壮大で、物々しい。
 一方の「春の祭典」でも、カンブルランはリズムの生き生きした躍動よりも、重厚でシンフォニックな進行と、音色のさまざまな変化を重視しながら曲を進めて行ったように思われる。とにかく、これほど「重々しくて揺るぎのない春の祭典」の演奏というのも、稀有のものではなかったろうか。もちろん、それはそれで面白いアプローチではあるが。

 この2つの巨像の間に挟まれた、クラリネットと管弦楽のための作品2曲は、ポール・メイエの美しいソロとともに、清澄だ。
 モーツァルトは整然として、管弦楽部分は柔らかく、ロマンティックな性格さえ醸し出す。そして、ドビュッシーの「狂詩曲」では、ソロとオーケストラが、「フランスの香り」を滲ませる。思えばこれが、今日の4曲の中で、最も馥郁たる香りを漂わせた演奏であった。

 読響は力演、豪演、好演。コンサートマスターは日下紗矢子。

2018・4・13(金)オッコ・カム指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      すみだトリフォニーホール  2時

 オッコ・カムの指揮を聴くのは久しぶりである。
 私は1975年に彼が新日本フィルを指揮したシベリウスの「カレリア組曲」をFM放送用に録音したことがあるが、そのテープをのちのちまで愛聴していた。首席奏者の峰岸壮一氏が「われわれを『乗せる』のが本当に巧い指揮者だ」と感心していたのが印象に残っている。たしかにあの時の「カレリア行進曲」といったら、他ではちょっと聴けないようなリズムの良さだった。

 それから43年、彼もさすがに齢を取ったようだ。しかし、それに応じて、つくり出す音楽も変貌したように思える。
 今日の後半の曲目だったシベリウスの「第2交響曲」など、昔に比べると随分落ち着いた演奏になったという印象を得たが、第4楽章大詰めのクライマックスでのハーモニーの厚さ(つまり音の均衡の良さということだろう)や、最後の3つの和音の緊密度などは、以前よりも見事なものに感じられた。
 新日本フィルとの定期は今日が初日、それゆえ第1楽章あたりは少しガサガサした演奏だったけれど、後半は尻上がりに調子を出した。多分、明日の演奏はもっと良くなるだろう。

 プログラムの前半は、サッリネンのオペラ「宮殿」序曲と、ニールセンの「フルート協奏曲FS119」。
 前者はシベリウスの「第7交響曲」を思わせる重厚な開始で、なるほどここにも国宝的大作曲家の影が・・・・と感心(?)させられたが、途中からいきなりバーンスタイン調の賑やかな曲想になって驚かされる。ちょっと可笑しな小品であった。一方、後者では白尾彰(新日本フィル首席奏者)がソロを吹き、貴重な佳演を聴かせてくれた。
 この2曲は滅多に聴けないレパートリーだけに、定期における楽団の意欲的な姿勢が窺えるだろう。コンサートマスターは豊嶋泰嗣。

2018・4・12(木)東京・春・音楽祭 レオンスカヤのシューベルトⅤ

      東京文化会館小ホール  7時

 エリーザベト・レオンスカヤのシューベルトのピアノ・ソナタ・ツィクルス、今日は「第7番変ホ長調D568」、「第14番イ短調D784」、「第20番イ長調D959」というプログラム。
 満席とは行かないけれど、熱心な聴衆が詰めかけている。ツィクルスすべてを聴く、という知人も何人かいるようだ。私自身は、結局計3回だけだったけれど。

 さて,━━今回使用されているピアノの音色がどうも私の好みに合わないのだが、それは別として。
 レオンスカヤの場合、その暗い、くぐもった音色の強奏が不思議な緊張感を生み出すことは事実である。「D784」にこれほど強い推進性を感じさせてくれた演奏は、滅多に接したことがない。
 そして、最後期3大ソナタの一つである「D959」は、さらに圧巻だ。第1楽章の展開部の終りのスタッカート音型の跳躍など、異様な緊迫感にあふれていたし、第2楽章中間部にしても、情熱的というよりは何か鬼気迫るような炸裂といった感がある。

 これらがもしスタインウェイあたりの明るく抜けのいい音で演奏されていたら、こうは聞こえなかったであろう。彼女がヤマハを使う狙いも、そこにあったのかもしれない。

2018・4・11(水)東京・春・音楽祭 クラウス・フローリアン・フォークト

      東京文化会館小ホール  7時

 クラウス・フローリアン・フォークトの、今年の音楽祭における2つ目の歌曲リサイタル。会場はほぼ満席である。
 今回は、ソプラノのシルヴィア・クルーガーがゲストのような形で加わり、ピアノは、前回には来られなかったイェンドリック・シュプリンガーが弾いた。

 プログラムは、もちろん前回よりも多彩だ。前半ではブラームスの「日曜日」「眠りの精」「甲斐なきセレナード」など7曲、シューベルトの「美しき水車屋の娘」より3曲、カールマンが1曲歌われ、後半ではモーツァルト、プッチーニ、レハール、それにミュージカル「オペラ座の怪人」や「ウェストサイド・ストーリー」などからも歌われた。

 だがやはり、ベストの演奏は、フォークトが歌った「美しき水車屋の娘」からの3曲だったろう。一昨年のリサイタルで歌った全曲はむろん最高だったが、たとえ3曲だけでも今日のコンサートは聴く甲斐があった、というもの。その他、オペレッタでもミュージカルでも、彼の歌はサマになる。

 協演したシルヴィア・クルーガーは、彼の奥さんということだから、あまりあれこれ言うのは控えておく。声も歌い方もキュートで可愛いけれども、ブラームスの歌曲やプッチーニのオペラ(ジャンニ・スキッキ)を歌うキャラクターではない。オペレッタやミュージカルなら、大変結構だろう。ただひとつ、ブラームスの「ああ、おかあさん、欲しいものがあるの」を、駄々っ子のような身振りを交えつつキュートな表現で歌う━━という解釈そのものは面白く、とかく謹厳に歌われるこの作曲家の歌曲が全く別の様相を呈して立ち現れていたのは興味深かったが・・・・。

 シュプリンガーのピアノが、表情豊かでいい。詮無い繰り言ながら、彼が先日のリサイタルでも弾いてくれていたら・・・・。

2018・4・10(火)大野和士指揮東京都交響楽団 マーラー第3交響曲

      サントリーホール  7時

 2回公演の2日目、今日は定期Bシリーズ。協演は新国立劇場合唱団と東京少年少女合唱隊、リリ・・パーシキヴィ(Ms)。コンサートマスターは矢部達哉。

 大野和士の指揮するマーラーの「第3交響曲」を聴くのは、たしか今回が3度目。最初は90年代の東京フィル。次が2011年夏の京都市響だった。いずれも見事な演奏だったのを記憶しているが、今回の都響との演奏も、白熱的な快演と言っていい内容である。それは豊麗雄大というよりむしろ、凝縮された鋭角的な音楽━━と言った方がいいかもしれない。それはテンポやデュナミークなどの面にも反映されている。

 全曲、熱気にあふれて強靭な推進力の漲った演奏で、その頂点はゆっくりしたテンポの第6楽章━━つまり「愛」に置かれるという構築だ。大詰での息の長い昂揚はすこぶる見事で、感動的なものだった。客席からの長い熱狂的な拍手も、それを証明しているだろう。

2018・4・8(日)尾高忠明指揮大阪フィル音楽監督就任記念定期

      フェスティバルホール  3時

 三善晃の「オーケストラのための《ノエシス》」と、ブルックナーの「交響曲第8番」を組み合わせたプログラムで、尾高忠明が大阪フィル第3代音楽監督就任の定期を飾った。昨年3月の井上道義の首席指揮者退任のあと、1年間のミュージック・アドヴァイザーという肩書を経て、この4月の就任、となったものである。因みに尾高は1947年生まれであり、それは奇しくも大阪フィル(当時は関響)の誕生と同年なのだ。

 大阪フィルにおいては、ブルックナーの「第8交響曲」は、シェフだけが指揮することを許される作品だという。━━というと些か物々しいが、これはもちろん、わが国のブルックナーの交響曲指揮で不滅の功績を残した故・朝比奈隆氏への敬意から自然に生まれたしきたりだろう。
 事実、氏のあとで大阪フィルとこの曲を演奏した指揮者は、第2代音楽監督の大植英次と、首席指揮者・井上道義だけであった。楽団にとっては、それは特別な、祝典的な大交響曲なのだ。その「8番」を、尾高忠明は就任最初の定期で取り上げたのである。

 演奏にはハース版が使用された。「8番」のハース版は朝比奈が愛した版だが、尾高もこの曲では常にハース版を演奏する。2010年12月に読響を指揮した時も同様だった。
 朝比奈以来久しぶりに聴くオーソドックスな、均衡を重視した堅固な構築を備えた、壮大志向のスタイルによる演奏である。作為的な手法も外連味もない、不動のテンポによる極めて率直な「8番」だ。こういう演奏で聴くと、やはりこの曲の並はずれた威容が再認識させられるだろう。
 前日の演奏は、初日とあってオーケストラも興奮の極みになってしまい、アンサンブルも・・・・だったというけれども、2日目の今日は予想通り落ち着いた演奏というか、整然とした構築感の裡に進み、全曲最後の3つの下行音も、スコア通りのリタルダンドをもって、揺るぎなく固められて終結した。とはいえやはり、非凡な、入魂の演奏だったことは確かである。

 第1楽章こそやや慎重に構えた印象だったが、演奏は楽章を追うごとに推進性を強めて行った。第2楽章でのスケルツォの終結部分は、ティンパニの豪壮な打ち込みもあって、威力的な昂揚となった━━ここでの「最後の一押し」の力感は、これまで聴いたことがなかったほどのものだった。第3楽章では、例のワーグナー・テューバの高貴な合奏個所(ハース版第67~70小節と第161~164小節)にもう少し緻密さが欲しかったものの、全体にたっぷりとしたテンポの入魂の演奏は見事で、私は昔、カラヤンの最初の全曲LPを聴いた時に連想した深い山の奥の静寂な湖の光景が久しぶりに蘇ったような思いになったくらいである。第4楽章でもそのエネルギーは衰えず、何度か訪れる豪壮な頂点が、それぞれ見事に築かれていた。 
 かように今回の「8番」は、私が最近聴いたこの曲の演奏の中でも、最も率直で雄大な、均整のとれた演奏ということができるだろうと思う。

 最初に演奏された三善晃の作品も、日本的な静謐さと、激烈な爆発点を併せ持つ作品である。打楽器群の怒号が凄まじい頂点での興奮が、チェロの長い持続音のみを残して静まって行き、やがて永遠の静寂の中に消え去って行くかのような終結はこの上なく美しく、感動的である。尾高のこの曲に寄せる愛情と共感を示す快演であった。音楽監督就任定期の1曲目に日本人作曲家の作品を組んだ、という姿勢も、高く評価されるだろう。
 今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。

 近年、大阪フィルのアンサンブルは少々荒れ気味だったが、尾高は多分、それを改善してくれるのではないか。この新シーズンに彼が振る定期は、あとは来年1月しかない━━これはちょっと少なすぎる━━が、しかし5月から12月までの間に、5回に及ぶベートーヴェンの交響曲ツィクルスを指揮することになっている。原点に立ち返っての企画ということで、彼の手腕を信頼したい。
      →別稿 モーストリー・クラシック7月号 公演Reviews

2018・4・7(土)ベルリン・コーミッシェ・オーパーの「魔笛」

      Bunkamuraオーチャードホール  7時

 制作プロデューサーともいうべき鬼才バリー・コスキー(ベルリン・コーミッシェ・オーパー総監督・インテンダント)のもと、スザン・アンドレイドの演出とポール・バリットのアニメ&イラストにより2012年にプレミエされた、モーツァルトの「魔笛」の日本公演を観る。

 これは、全くユニークな舞台だ。精巧精緻を極めたアニメーションが終始舞台全体を支配し、登場人物はそれらの映像と一体化して動く。いや、アニメの中で登場人物が動く━━と言った方が正確かもしれない。オーケストラの演奏と歌はナマだから、指揮者によってはテンポも大幅に変わるだろうに、その演奏にアニメの一つ一つの細かい変化を完璧に同化させてしまうという技術には、私のような素人は、ただもう舌を巻くしかない。

 台詞は大幅に短縮され、要約されているが、それらはナマで語られることはなく、すべて無声映画のように画面に投映される。そのバックには、モーツァルトの「幻想曲」の一部などが流れるという仕組である。

 またこの「魔笛」の舞台には、一般の上演でよく議論されるような、フリー・メイソンとの関わり合いなどの政治的な意味合いとか、深遠な哲学とかを象徴する要素は何も感じられない。登場人物も、大抵は離れ離れに位置して歌い、応酬し、不思議な孤独感を滲ませている。そして最大の特徴は映像の手法にあり、それはプロジェクション・マッピングのような、単に背景を彩るといった役割を遥かに超えて、登場人物そのものとなってドラマを語っているのである。

 これらについてバリー・コスキーは、「我々のアプローチは・・・・演出に特定の方向・意味づけをするのではなく、登場人物の・・・・人間の心の奥底の深遠な感情をありのままに表現する」という意味のことを述べている(プログラム冊子から自由に引用)。
 またポール・バリットも、「夜の女王は夫を喪った上に娘をも奪われ、パパゲーノは愛を求める孤独な男であるといったように、《魔笛》の半分は、人はみな孤独という心情が描かれている」と述べ、そして「劇場で使われるマッピングがすぐ飽きられるのは、その映像と登場人物との間に相互作用交流が無いからだ」とも指摘している(同)。

 このテーマはまことに興味深く、論ずればキリがないが、このブログではそこまでの時間的余裕がないので、ここまでにする。だがいずれにせよこの舞台、すべてがアニメーションと一体化して動くそのさまは見事というほかはなく、同じアニメでも、ウィリアム・ケントリッジのドローイング・アニメのそれとはケタが違う複雑精巧さといっていいだろう。

 ただ、疑問がなくもない。エンディングが少々平凡かな、という感もあるが、それはまあともかくとしても、最後まで観ていると、あまりに細微なアニメーションの躍動ばかりが目について、人間ドラマという世界より、何かメカニックな図形の世界の中に巻き込まれた人間たちの宿命を眺めているような気持になってしまうのは、こちらの観方がずれているのか? 映像に現れるザラストロの叡智の頭脳が、まるでチャップリンの映画「モダン・タイムス」そっくり、発条や歯車で出来ているような感を与えていたのも、ちょっと可笑しかったが。
 まあともあれこれは、「魔笛」を知り尽くした国の人々ならではの発想による、新しい解釈をストーリーの中に見出そうとするよりも、舞台上の再現の手法の裡に新機軸を求めた演出、と割り切ればいいのだろう。

 オーケストラは、コーミッシェ・オーパーの管弦楽団だ。本拠の歌劇場のピットで聴くこのオケの音とは大違いだが、それでもなお、このオーチャードホールのピットにおける日本のオーケストラとは(残念ながら)格段の差を感じさせ、彼ら独特の色気のようなものが伝わって来る。指揮者はジョーダン・デ・スーザという人で、リズムやアクセントを含めた音楽の表情は歯切れがよくて、なかなかいい。昨秋この歌劇場のカペルマイスターに就任したという、30歳の新鋭である。
 歌手陣は、アーロン・ブレイク(タミーノ)、ヴェラ=ロッテ・ベッカー(パミーナ)、トム・エリク・リー(パパゲーノ)、アナ・ドゥルロフスキ(夜の女王)、リアン・リ(ザラストロ)他という顔ぶれ。歌唱はまず手堅いところとしておくが、この種のムジークテアタ―系の上演は歌手のスター性を求める場ではないから、これで充分であろう。

 休憩25分を含め、9時45分に終演。こんなに短いのは、前述のようにセリフ部分が大幅に短縮されているためである。

2018・4・7(土)川瀬賢太郎指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

     横浜みなとみらいホール  2時

 レナード・バーンスタイン生誕100年記念のプログラム。
 「ウェストサイド・ストーリー」の「シンフォニック・ダンス」は、まあ客寄せという意味合いもあるだろうが、それを挟んで最初に「スラヴァ!(政治的序曲)」を置き、後半に「交響曲第1番《エレミア》」を配した選曲は、なかなかに意欲的である。コンサートマスターは石田泰尚。

 「スラヴァ!」は、1977年、ロストロポーヴィチ(彼の愛称がスラヴァだった)のワシントン・ナショナル響音楽監督就任を記念して書かれた曲とのこと。私はこれをナマで聴くのは初めてである。何ともけたたましい、躁状態的な小品だが、最近とみに鳴りっぷりのよくなった神奈川フィルは、川瀬の獅子奮迅の指揮に応じ、賑やかに演奏していた。もっとも、正直なところ、何が何だか判然としないような騒々しさのうちに終ってしまったという感がなくもないのだが・・・・。

 そのあとで「シンフォニック・ダンス」を聴くと、こちらはやはり叙情的な部分と狂乱的な部分の対比が巧みに構築された作品であることを再認識させられるだろう。川瀬と神奈川フィルの演奏は、最初のうちは、枠からはみ出さぬように気をつける、といったような、ややおとなしい印象も受けたものの、やがて申し分なく盛り上がって行った。そして最終部分の弦の叙情的な美しさは絶品であった。

 「エレミア交響曲」をナマで聴ける機会を得たのは、本当に嬉しい。第1楽章にメシアンやヤナーチェクなどの影響が見え隠れすることに初めて気づかされたのは、川瀬と神奈川フィルの演奏が丁寧なものだったからかもしれない。それは音の構成を明確に照らし出した、しかもすっきりした響きの構築なのだが、同時に線の細い綺麗ごとに終らぬ堅固さも持ち合わせた演奏でもあったのである。
 また第3楽章の「哀歌」では、福原寿美枝が実に深々とした厳しい悲劇的な絶唱を聴かせてくれた。これまで、オペラの舞台における彼女の「怖い」役柄表現には何度も感服した経験があるが、今日の歌唱で、また彼女の新たなる凄味の魅力を知った次第であった。

 川瀬と神奈川フィルは、この沈鬱な音楽の感動に浸った状態のままで演奏会を終るという形は採らなかった。アンコールでは、「マンボ!」の部分を、聴衆をも巻き込んで演奏したが、ここではオーケストラは、先ほどの本番の時よりも一段と解放されたような雰囲気で、賑やかに鳴りわたった。おとなしく物静かな、拍手もほとんどしないで座っている高年齢層の聴衆━━特に1階席前方に多い━━をすら、一緒に盛り上げてしまう川瀬のエンターテインメント性は、見上げたものである。

 終演後、渋谷のオーチャードホールへ移動。

2018・4・6(金)東京・春・音楽祭 レオンスカヤのシューベルトⅡ

      東京文化会館小ホール  7時

 エリーザベト・レオンスカヤのシューベルト・ピアノ・ソナタ・ツィクルス、第2日。
 今日は「第9番ロ長調D575」、「第15番ハ長調D840《レリーク》」、「第18番ト長調D894《幻想》」の3曲。

 特に「D894」では、低音の力強さが印象的だ。それは音量のことではなく、厚い和音の響きの中で、演奏全体を支える低音の存在感が強いということである。
 彼女の演奏では、多くの場合、和音が均等に堂々と響く。腰の据わった揺るぎのない音の組み立てが見事である。このような響きをつくり出すピアニストはもちろん他にも多くいるが、彼女の場合、音が一種の翳りを帯びながら、それでいて決して重苦しくならず、力強く進んで行くのが特徴と言えるだろう。

 そういえば、彼女の師であった巨匠リヒテルがそういう感じの演奏をしていたなと思い出してしまうのだが、といってレオンスカヤがリヒテルの亜流だなどと言うつもりは全くない。リヒテルは圧倒的に屹立する巨人のように、時には近づき難いほどの厳しさを見せていたのに対し、レオンスカヤの音楽は、むしろ私たちを包み込むようなあたたかさを感じさせる。そしてその演奏は、ある意味では素朴で武骨なほど率直で、恣意的な小細工など一切排した自然さにあふれているところが、たまらない魅力なのである。

 アンコール曲の演奏がまた素晴らしい。第1日には「即興曲 作品90」第4曲が流麗に演奏されたが、今日は「3つの小品D946」の第1曲が嵐のように演奏された。

2018・4・5(木)東京・春・音楽祭 ワーグナー:「ローエングリン」

      東京文化会館大ホール  5時

 東京・春・音楽祭の目玉上演ともいうべき、演奏会形式によるワーグナー・シリーズの9回目。この「ローエングリン」は、7年前にいったん予定されながら、あの大震災のため上演が中止されていた企画である。

 指揮はウルフ・シルマー。以前の東京での「フィガロの結婚」や「ばらの騎士」、このシリーズの第1弾「パルジファル」などに於けると同様、速いテンポで、時には素っ気ないほどの勢いで押す指揮だ。だが「ローエングリン」というオペラの音楽の性格上、それは良い方に生きるだろう。少なくとも、しんねりむっつり、持って回ったテンポで長々と演奏されるより遥かにいい。

 おなじみライナー・キュッヒルをゲストコンサートマスターとするNHK交響楽団も、勢いのいい演奏を示した。もっとも、N響にしては、今日の演奏は少々荒っぽく、就中トランペット・セクションには、布告官がエルザに代わって戦う騎士を呼ぶ個所の最後で早く飛び出してしまった(スコアでは2番トランペット)のをはじめ、妙に粗いところが多い。
 一方、ホルンなどの音がまっすぐ客席に来ないのは、反響板の問題もあっただろうと思う。ついでながらバンダは3階客席の正面と左右両翼に配置されていたが、特に正面のバンダはステージへの「はね返り」音を生み出し、「王のファンファーレ」では一つの音符が二つに聞えてしまうなど、甚だ難しいものがあったようだ。

 そんなわけで、多少ガサガサしたローエングリンという感もあったのだが、ステージ前方に並ぶ歌手陣は、なかなか聴き応えがある。
 まず何と言っても、題名役を歌ったクラウス・フローリアン・フォークト。強靭な最強音から、よく声の通るソットヴォ―チェまでを効果的に駆使し、非常に表情の大きなローエングリンを歌う。指揮者との打ち合わせで、かなり自由な表現を行なうことも許されていたのかもしれないが、自らの名を明らかにする個所で、あれほど派手に大見得を切った歌い方をした歌手は聴いたことがない。ここは指揮者シルマーも物々しく大きな矯めをつくっていたので、ニヤリとさせられるような面白い「名乗り」の場面の演奏になった。

 次いでオルトルート役のぺトラ・ラング。フォークトと同様、暗譜で歌い、イメージ的な演技も加えて凄味のある悪役ぶりを披露。流石に先日の歌曲リサイタルとは比較にならぬ、別人のような劇的な歌唱である。
 その他、フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵を歌ったエギルス・シリンス、ハインリヒ王を歌ったアイン・アンガー、王の布告官を歌った甲斐栄次郎も見事。 

 唯一の問題は、エルザを歌ったレジーネ・ハングラーだろう。声はいいのだが、音程に不安定なところが多い。しかも第1幕では「夢を見ているようなエルザ」を異様にリアルに歌ってしまうし、その後のイメージ的な演技(軽い身振り)にも、何かこのドラマにおけるエルザの性格をまるきり理解していないような雰囲気がしばしば見られたのである。
 なお、出番は少ないが、ブラバントの4人の貴族に大槻孝志、高梨英次郎、青山貴、狩野賢一、4人の小姓たちに今野沙知恵、中須美喜、杉山由紀、中山茉莉が出演。合唱は東京オペラ・シンガーズが好演。付記すれば、第2幕での布告官の場面での合唱は珍しくカット無し。ただし第3幕では相変わらず慣習的なカットが行われていた。

 いつも通り映像付だが、担当は今回、田村吾郎に交替した。投映された映像は、やはり概してイメージ的なものにとどまっている。
 30分の休憩2回を含み、上演時間は4時間25分。

2018・4・4(水)東京・春・音楽祭 レオンスカヤのシューベルトⅠ

      東京文化会館小ホール  7時

 エリーザベト・レオンスカヤの、6回にわたるシューベルトのピアノ・ソナタ連続演奏。「さすらい人幻想曲」を含む、全曲完成されたソナタ等19曲がプログラムに組まれている。
 今日はその初日で「第1番ホ長調D157」「第4番イ短調D537」「第17番ニ長調D850」。

 初期のソナタにも、それなりの活気と親しみやすさはある。だがそれらの作品では、ヤマハのピアノを使った、やや重く翳りのある音色で覆われた演奏が何かひとつ、ヴェールを剥ぎ取りたくなるようなもどかしさを感じさせてしまうのだ。

 しかし後期のソナタ「D850」に至ると、作品自体の風格の大きさもあって、最初の音が響きはじめた瞬間から、もうその魅力のとりこにさせられてしまう。それに今日のレオンスカヤの演奏も、この「D850」が圧巻だった。
 お年のせいか、時にほんの僅か、舌がもつれるような感じで音がもつれる瞬間があるのは否定できないにしても、それをも情感の深さでカバーしてしまうのが、彼女の演奏なのである。

 その音楽は、何ともあたたかい。長い人生を送って来た女性のもつ温かさとでもいったような表情に充ち溢れている。その一方で、まるでベートーヴェンのソナタを聴くかのような、音楽をひたすら前へ推し進める嵐のような力と、芯の強い毅然たる意志力も、この「D850」の演奏には備わっていたのだった。

 このレオンスカヤのシューベルト・ツィクルスは、聴きものだ。全部は聴けないけれど、せめてあと二つくらいは聴きに行きたいものである。

2018・4・3(火)METライブビューイング 「ラ・ボエーム」

      東劇  6時30分

 METの定番、フランコ・ゼッフィレッリ演出の豪華な舞台、プッチーニの「ラ・ボエーム」。2月24日の上演ライヴ映像。
 第3幕での雪の光景の美しさもさることながら、第2幕(カフェ・モミュスの場)での人海戦術と、舞台前方を横切って行進して行く軍楽隊など、METならではの壮観な光景が見ものだ。
 同じゼッフィレッリ演出とはいっても、パリの屋根裏部屋での気のいい仲間たちの陽気な応酬場面では、80年代に映像で出たものとも、あるいは私が最近現地のMETで観たものとも少し違った演技が行われているが、こういうのも歌手同士で相談しながらいろいろ工夫してやっているというケースなのだろう。

 今回はマルコ・アルミリアートの、良い意味での手慣れた指揮と、ミミを歌い演じたソニア・ヨンチェヴァの表情豊かで可憐な表現が特に印象に残る。
 他にマイケル・ファビアーノ(ロドルフォ)、スザンナ・フィリップス(ムゼッタ)、ルーカス・ミーチャム(マルチェッロ)、アレクセイ・ラヴロフ(ショナール)、マシュー・ローズ(コッリーネ)らが出演。若い世代が多いせいか、ラストシーンでの悲しみの演技は、みんな今一つといったところ。
 なお、ベテランのポール・プリシュカが、家主ベノワとアルチンドロの2役で滋味豊かなところを見せていたのは懐かしかった。

 METでは1981年にプレミエされたこのフランコ・ゼッフィレッリ演出のプロダクション、今なお人気衰えず。上映時間は計3時間7分。

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