2018-09

2018・3・31(土)飯守泰次郎指揮関西フィルのブルックナー8番

      ザ・シンフォニーホール  2時

 関西フィルと、その桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎とのブルックナー交響曲ツィクルス。
 「第1番」から毎年1曲ずつ手掛けて、今年が8年目ということになる。私はこのコンビの演奏を、ワーグナーの各幕上演は欠かさず聴きに出かけていたのだが、ブルックナーのほうは、どうも今回が初めてだったかもしれない。
 客席はほぼ85%~90%の入り、飯守にはブラヴォーの声も飛んでいた。もっとも、私の視るところ、飯守泰次郎の人気は、大阪よりもやはり東京の方が遥かに高いようだけれど。

 ノーヴァク版を使用しての今回のブルックナーの「交響曲第8番」。この上なく激烈な演奏の「8番」であった。
 楽章間を含めた演奏時間は77分、かなり速いテンポの、エネルギッシュな飯守の指揮である。彼は、オーケストラを全力で鳴らす。弦は14型だから、どうしても金管群が弦を圧してしまうが、飯守は一切妥協せず、全管弦楽を力の限り演奏させる。大きくないホールだし、金管の音色もあまり綺麗とは言えないので、それはしばしば耳を劈くような荒々しい、刺激的な、乱暴な音になってしまうのだが、まあこれは、渾身の熱演という良い面だけを評価することにしよう。

 全曲の頂点は第4楽章に置かれ、そこでは関西フィルも音量を更に上げ、怒涛の進撃を展開する。速いテンポで金管が咆哮怒号し、ティンパニも楽章半ばの行進曲調の個所(【N】)で、あの伝説的名手ペーター・ザードロに迫ろうという豪快な「打撃」を繰り広げてみせた。作品に備わっているエネルギーがすべて解放された感のある第4楽章の演奏といえようか。「情熱と気魄のブルックナー」がまさしくこれ。飯守の真骨頂ここにあり、であろう。
 コンサートマスターは岩谷祐之。

2018・3・30(金)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 シューベルトの「未完成交響曲」と、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」という2大名曲プログラム。コンサートマスターは矢部達哉。客席は、ほぼ満杯だ。

 インバルの創る演奏は、「未完成」のような作品では彼の持ち味たる剛毅で引き締まった構築を示すのに対し、「悲愴」のように感情の露出の激しい交響曲では、近年ますますその激烈さの度合いを増して行っているように見える。
 今日の「悲愴」の演奏など、その原題「パテティーク」という名称に━━その語の本来の意味たる「感情豊かな、激しい感情の動き」という題名に、これほど相応しい演奏は、そう多くはなかっただろう。

 都響もそれに応えて、時には狂気のような沸騰を示した。たとえば、第1楽章再現部における息の長い昂揚個所(第277小節以降)で弦楽器群が響かせた魔性的な音の坩堝、あるいは第3楽章の第2部の後半(第283小節以降)からコーダにかけての狂おしい興奮、そして第4楽章後半(第108小節以降)での自暴自棄的な嘆きの告白、といったように━━。

 しかもその昂揚も沈潜も、率直な力に満ちている。といって、ただ一気呵成に突き進むだけという演奏でないことはもちろんである。たとえば第1楽章再現部に入る直前(第244小節あたり)から大きくテンポを落し、フォルテ3つで再現する第1主題を極端に際立たせる、というような手法は、使われている。だが、基本的に所謂ストレートな演奏の範疇に入ることは、言うまでもない。

 世の中には、殊更に管弦楽のパートのバランスをユニークなものにしてみたり、テンポを作為的にいじったりする演奏もしばしば見受けられる。
 断わっておくが、そういう演奏は非難されるべきだなどと言っているわけではない。だが今の私には、このインバルと都響のような演奏の方が、よほどチャイコフスキーの管弦楽構築の巧みさを堪能させてくれるし、その音楽の並はずれた推進性の凄さをも味わわせてくれるように感じられるのである。
 というわけで、私は実に久しぶりに、この曲から強い感銘を受けることができたのだった。

2018・3・29(木)川瀬賢太郎指揮東京混声合唱団

     よみうり大手町ホール  7時

 川瀬賢太郎が東京混声合唱団定期に登場するのはこれが初の由。

 前半には、マーラーの歌曲等をゴットヴァルトが無伴奏合唱曲に編曲した「思い出」「美しいラッパの鳴るところ」「青い双の眼」「原光」「われはこの世に忘れられ」「3人の天使が歌う」、そして「アダージェット」を編曲した「夕映えの中で」が歌われた。
 そして後半には、無伴奏でバーバーの「アニュス・デイ」(「弦楽のためのアダージョ」の編曲版)、津田裕也のピアノが加わって村松崇継の「あなたへ」(委嘱曲、初演)と、三善晃の「五つの童画」というプログラムが歌われた。

 面白いプログラムだったが、しかし最初のマーラーの作品集の演奏には、大いに疑問がある。編曲がそうなっているのか、それともすべて演奏のせいなのか、とにかく平板で、メリハリが皆無なのだ。歌詞にも、旋律にも、リズムにも、生きた表情の変化というものが感じられない。歌詞の意味が全く伝わって来ないのである。

 たとえば「美しいラッパの鳴るところ」。原曲ではこの世ならざるところから遠く響いて来るラッパの神秘的な旋律に、この編曲では「ラタプラン」という歌詞が当てられ、原曲とは全く異なったイメージの合唱曲に換えられている━━ということらしい。・・・・とすれば、それ自体が怪しからぬ話だが、たとえそうにしても、その部分と、歌詞本体とのニュアンスの違いは、一本調子にではなく、もっと明確にコントラストを付けて歌われるべきではないのか。

 「青い双の眼」でも━━これは「さすらう若人の歌」第4曲の「愛しい彼女の青い眼が」のことだが━━主人公の心の裡が次第に変化して行くように歌われるべき歌詞が、殆ど表情に変化のない、単調な歌い方で最後まで行ってしまったのだ。つまり、歌詞が、歌詞として歌われていない、ということなのである。これは、指揮者に第一の責任があるだろうと思う。

 第2部の方は、息の長いハーモニーを持った「アニュス・デイ」と、それに日本語の歌だから、東混としてはお手のものだろうし、事実、まことに結構な演奏であった。曲の出だしのアインザッツが合わないというケースが一度ならずあったけれども、これは指揮者との呼吸の問題であろう。
 日本の歌曲で参加したピアノの津田裕也がなかなかいい。

2018・3・27(火)「二人三番叟」「雙生隅田川」

      KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ  2時

 これはKAATの「若手舞踊公演《SUGATA》」のシリーズで、2015年から始まったものの最終公演とのことである。

 第1部の15分が、中村鷹之資と中村玉太郎による舞踊の「二人三番雙(ににんさんばそう)」。
 第2部の120分が通し狂言「雙生隅田川(ふたごすみだがわ)」で、中村鷹之資(吉田少将行房、他)、中村玉太郎(小布施主税)、中村種之助(惣太女房唐糸、鯉魚の精)、尾上菊之丞(惣太、七郎、他)、藤間勘十郎(班女御前、演出・振付)他が出演。
 後者は、歌舞伎座の大舞台でやるような華やかな書割など無い簡素な舞台だが、大天狗もちゃんと登場するし、客席通路を使っての立ち廻りも、また単純なものだったが宙乗りも出て来て、愉しめるものではあった。

 鷹之資も玉太郎も未だ10代後半の由で、重みはないけれども、体当り的な熱演が好ましい。だが舞台としては、やはり菊之丞の声と演技の強烈さ、発音の明晰さが、特に七郎役において際立つ結果となったであろう。

 「大向う」の担当は、客席最後部の関係者席(?)にちゃんと居て、「天王寺屋!」(鷹之資)などと要領よく掛け声を飛ばしていたが、この種のものはオペラにおけるサクラのブラヴォー屋とは違い、芝居の見せ場や台詞と一心同体になっているから、関係者席から飛んだとて違和感はない。
 ただ、その同じ席から、掛け声の間に時々同じ質の声でゲホゲホと咳が聞こえて来るのはちょっとサマにならぬ。お大事に。

2018・3・26(月)東京・春・音楽祭 クラウス・フローリアン・フォークト

      東京文化会館小ホール  7時

 さすが人気のフローリアン・フォークト、今日は結構な客の入りで、ほぼ満席に近い。歌われたのは、ハイドンが「すこぶる平凡な話」など6曲、ブラームスが「甲斐なきセレナーデ」など5曲、マーラーは「さすらう若人の歌」(4曲)、R・シュトラウスは「献呈」など5曲━━というプログラムだ。

 フォークト、いつもながらの明るい、爽やかな声である。最高音を強声で延ばしたその声の耳当りの好い美しさ。フォルティッシモからソット・ヴォーチェに至る幅広い声が楽々と響いて来て、実に快い。
 前半のハイドンとブラームスでは、どちらかといえば楽観的な曲想のものが多かったのに対し、休憩後は一転して、マーラーでは打ち沈んだ、なにか自棄的な憂鬱さを感じさせる表現になる。そしてR・シュトラウスでの劇的な昂揚に続く。いずれも若者の純な喜びや哀しみの情感にあふれて、未来への希望を感じさせる歌唱表現だ。

 こうした素晴らしい歌唱ではあったのだが、どこかひとつ座りが悪いリート━━というもどかしさがついて回ったのは、フォークトのせいではなく、ピアノが、なんか歌としっくり合わなかったせいだろう。これが本当に惜しかった。

 そういえばこの協演ピアニストは、当初はイェンドリック・シュプリンガーの予定だったのが、右手を負傷したとかでバート・バーレイというハンブルク州立歌劇場の声楽指導監督を務めるピアニストに代わったのだった。
 この人は、ちゃんと弾くことは弾くが、音楽が如何にも平板で、表情に乏しい。「さすらう若人の歌」第4曲の大詰、主人公の感情が一転する個所でのピアノが、殆ど機械的とも言えるような単調さで進んで行った時には、これではとても音楽にならないと思えたくらいである。シュトラウスの「献呈」の最後で感情が大きく昂揚する個所でも、さっぱり盛り上がらぬ。
 本当に惜しかった。もしピアノが名手だったら、このリサイタルはさらに感銘深いものになったであろうに。

2018・3・25(日)東京・春・音楽祭 ロッシーニ・マラソン

     東京文化会館小ホール  午前11時、午後1時、3時、5時

 生誕150年記念のロッシーニを中心に据えた、5部からなるマラソン・コンサート。その中から、第1部「悲喜こもごものロッシーニ劇場」、第2部「辣腕興行師バルバイヤとの出会い」、第3部「ロッシーニ・フィーバーの諸相」、第4部「英雄ウィリアム・テルの変容」を聴く。

 これはロッシーニの作品ばかりをやる演奏会ではなく、彼と同時代の作曲家の作品群をも併せて、ロッシーニの立ち位置、歴史的背景、革命と動乱の時代との関わりなどを、小宮正安氏の企画構成と解説により、生演奏で解明して行くという興味深いシリーズである。選曲もよく考え抜かれていて、企画としては非常に秀逸なものであったと思う。

 私は特に、同一の戯曲を素材にした、ロッシーニと他の作曲家のオペラとの比較に興味があったので、たとえば第1部での、「セビリャの理髪師」の「フィガロの登場のアリア」を、それぞれロッシーニとパイジェッロが作曲したもので比較するというのも面白かった。
 とりわけ第4部で特集された、「3人の作曲家によるそれぞれのウィリアム・テルの音楽」を聴き比べるという企画に至っては、私の最も関心を寄せるところである。ここでは、グレトリ(1741~1813)の「ギョーム・テル」、ベルンハルト・アンゼルム・ウェーバー(1764~1821)の「ヴィルヘルム・テル」、ロッシーニの「ギョーム・テル」から数曲ずつが演奏され、最後にそのロッシーニの序曲がリストのピアノ編曲版で全曲演奏されるという内容だった。

 その他のさまざまな選曲も楽しませていただいた。大いに有益な演奏会であった。
 が、惜しむらくは━━演奏の水準に問題がある。
 歌手の中には、この小ホールで、高音を咽喉も裂けよと絶叫してみせる人もいたり、また弦楽器奏者の中には、ヴィルトゥオーゾ的な小品を正確に弾けない人もいたり、あるいは合唱も素人のレベルを感じさせたり、という具合に、せっかくの好企画に水を差すケースも少なくなかったのである。
 だがさしあたりここでは、おおぜいの出演者の中から、ロッシーニやグレトリの序曲を弾いたピアノの岡田将、アリアのサポートで安定した演奏を聴かせてくれたピアノの朴令鈴、「タンクレディ」からのアリアを力強く聴かせてくれたメゾ・ソプラノの富岡明子の3人に賛辞を捧げておきたい。

 この第4部は、当初の予定では5~6時の公演ということになっていた。従って、終ってすぐ飛び出せば、池袋の「あうるすぽっと」で6時半から始まる日本ワーグナー協会例会の「ぺトラ・ラング講演会」に15分ほどの遅刻で間に合うだろうと踏んでいたのだが、第3部でルドルフ大公作曲の長大な「ロッシーニ変奏曲」を吹いたクラリネットのコハーン・イシュトヴァーンが、「抜粋演奏」という打合せにもかかわらず、何故か全曲を延々と演奏してしまったので━━多分打合せが徹底していなかったのだろうと推察するが━━終了が20分押してしまい、そのため第4部の開始が5時半頃、終演が6時半になってしまったのだ。
 私としてはこの第4部はどうしても全部聴きたかったので、━━結局ぺトラ・ラング女史の講演は諦めざるを得なかった、というわけである(無理して行った人もいたようだが)。

 それにしても、「ワーグナーを聴きに行こうとしたら、ロッシーニに妨げられた」というのは、何か時代を超えた因縁話というか、ワーグナーにさんざん悪口を言われたロッシーニが、今ここで逆襲したかのようで・・・・。

2018・3・24(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  2時

 レスピーギの「ローマの噴水」、ボッテシーニ(1821~89)の「コントラバス協奏曲第2番ロ短調」、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」。

 所謂「上岡ぶし」が最も成功していたのは、「ローマの噴水」ではなかったろうか。
 「ローマ3部作」の中では、いちばん清澄で、美しい幻想的な音色に満たされたこの「ローマの噴水」━━ここでは、上岡が新日本フィルから引き出す陰翳のある響きが生きる。
 「真昼のトレヴィの泉」以外の3つの部分では、あまり「噴水」というイメージのない、くぐもったような表情の演奏になっていたが、それはそれで興味深い。
 その「トレヴィの泉」でも、シンバルの響きが如何にも激しい水飛沫という感を出していたものの、トランペットなど金管群は極度に抑制され、弦楽器群を前面に出したバランスがつくられていた。こういう演奏は、「海神ネプチューンの壮大な行進」というイメージからはおよそ遠いものだろう。しかしまあ、それなりに面白いといえば面白い。

 だが期待していた「悲愴交響曲」では、その凝りに凝った音のバランスが、私にはあまりに神経質なものに感じられ、些か閉口させられた。まるで偏執狂的で冷酷な精神分析医によって、こちらの心の奥底までをバラバラにされるような━━などと言ってはイメージが過ぎようが、早い話が、チャイコフスキーが哀愁の中にも毅然として失わなかった威厳と風格をもすべて破壊するようなこの解釈を聴いていると、疲れ、苛々して来る。
 それにこの演奏では、新日本フィルも、上岡の細かい音づくりに追いついて行けなかったような印象を得たのだが。

 ボッテシーニのコントラバス協奏曲では、新日本フィルの首席コントラバス奏者、渡邉玲雄がソロを弾いた。まるでチェロのような流麗な音色が見事だ。珍しい曲を聴かせてもらった。コンサートマスターは崔文洙。

2018・3・23(金)東京・春・音楽祭 ぺトラ・ラング

       東京文化会館小ホール  7時

 ブラームスはアンコールの「子守歌」を含め6曲、マーラーは「リュッケルトの詩による5つの歌曲」、ヨーゼフ・マルクス(1882~1964)5曲、R・シュトラウスはアンコールの「献呈」など3曲を含め10曲が歌われた。ピアノはエイドリアン・バイアヌ。

 彼女の歌うワーグナーの舞台作品はこれまで何度も聴いて来たので、リートの場合は如何なりや、と興味津々で聴きに行ったのだが、━━残念ながら、屈指のドラマティック・ソプラノ歌手、必ずしも最良のリート歌手ならず、といった印象を抱かざるを得なかったのは━━リートを歌う時に彼女が聴かせるあの独特の、癖の強い歌い方が私の好みに合わないという点は別としてもだが━━どの歌も同じような表情で歌われていて、精緻なニュアンスの変化に乏しい、という理由からでもある。

 今夜の彼女の歌唱の中で最も彼女の個性に合っていたのは、R・シュトラウスの作品群ではなかったろうか。こうして聴いてみると、この作曲家の歌曲には、如何にオペラ的な精神があふれているかということを改めて認識させられる。
 といってもそれは、R・シュトラウスの歌曲には精緻なニュアンスなどなくてもよい、ということではない。他の3人の歌手に比較して、シュトラウスのドラマティックな作風は群を抜いており、その素晴らしさがラングの個性を呑み込んでいた、とでも言ったらいいのだろうか? また彼女も、このリサイタルでは、どちらかといえばそういう劇的な歌を多く選んでいた。

 音楽とは別の話だが、前半ではホール内にずっと連続して響いていた金属性の発振音に悩まされた。特別な照明とか、TVカメラとか、そんなものに関連する回転音のような音である。多くの人が気にしていて、幕間では事務局も動いたのか、休憩後は、高音域のノイズだけはとりあえず消えていた。

2018・3・22(木)大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

     ザ・シンフォニーホール  7時

 大阪フィルの創立70周年とザ・シンフォニーホールの開館35周年を記念する演奏会。
 同楽団桂冠指揮者・大植英次が登場、ベートーヴェンの「英雄交響曲」とR・シュトラウスの「アルプス交響曲」という重量級のシンフォニー・プログラムを演奏した。「英雄、アルプスに登る」というわけか。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 大植英次の指揮を大阪フィルとの演奏で聴くのは、昨年4月25日の「カルミナ・ブラーナ」以来、1年ぶりだ。
 彼の指揮のスタイルは、ある時期ごとに、あるいはレパートリーごとにさまざまに変わるので、些か把握し難いところがあるが、今日の「英雄交響曲」の演奏などを聴くと、その音楽のつくり方に、20年前のミネソタ管弦楽団音楽監督時代のような、すっきりした率直な推進性が少し戻って来たような感がある。
 もちろんこれは、ベートーヴェンの交響曲だからでもあろう。それに、あの頃よりも表情が濃くなっていることは、間違いない。

 「アルプス交響曲」も、エネルギッシュで、起伏に富んだ演奏だった。
 長い全曲の中に於ける「日の出」、「頂上」、「嵐」という3つのクライマックスの築き方、そこへの持って行き方も、大植英次は相変わらず巧い。これらの個所では大阪フィルのパワーも目覚ましく、ホールを揺るがせる全管弦楽の咆哮が、全く刺激的な音にならずに響くところも好ましい。「日の出」での輝かしい音色と威力的な演奏など、見事なものだと思った。

 欲を言えば、そのあとの登山以降、パノラマのように移り変わって行くさまざまなモティーフがもう少し明確に浮き彫りになってくれていたらと思う。嵐の中を下山する場面での音楽の流れが暴風雨の描写一辺倒になっては、主題再現部としての意味が曖昧になろう。トランペット群のアインザッツにはもっとデリカシーが欲しい一方、弦は随所で美しさを示した。

 大植は、カーテンコールでは相変わらずパフォーマンス的な仕種を見せた。だが、聴衆とオーケストラからは、懐かしさを持って迎えられていたように感じられた。
    →別稿 モーストリー・クラシック 6月号 公演Reviews

2018・3・21(水)ソヒエフ指揮トゥ―ルーズ・キャピトル国立管弦楽団

       サントリーホール  2時

 トゥガン・ソヒエフとそのオーケストラ━━そう言ってもいいほど、ぴったり呼吸の合ったトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団との今回の日本ツアーは、今日が最終公演。
 プログラムはグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは諏訪内晶子)、ドビュッシーの交響的素描「海」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」(1919年版)。

 諏訪内晶子のソロも、アンコール曲(バッハの「無伴奏ソナタ第3番」の「ラルゴ」)を含め、極めて清澄で、しかもしなやかさがあって聴きものだった。しかし、今日の圧巻はやはり第2部でのドビュッシーとストラヴィンスキーだったであろう。

 「海」は、オケにとって自国の作品だから、悪かろうはずがない。
 「波の戯れ」後半など、昔のハイティンクとコンセルトヘボウ管弦楽団(東京公演)での演奏にも引けを取らないほどの快いノリだったが、ソヒエフとトゥールーズのそれは、コンセルトヘボウのような彫琢された音の躍動美ではなく、むしろ自由な感興にあふれた、生々しい音による華麗な昂揚━━とでも言ったらいいか。
 「風と海との対話」の結尾にしても、如何にも気鋭の指揮者が若々しい気魄で劇的に盛り上げるといった感があって、微笑ましい。この「海」の演奏は、私がこれまで聴いたソヒエフとトゥールーズの演奏の中でも、特に優れた演奏のひとつに挙げられよう。

 「火の鳥」も、色彩感という点では卓越したものがあったし、その終曲の最後の数小節でも、怒涛の一押しが聴かれたことはもちろんである。
 このように、エンディングでいっそうの力感を導入して聴衆を巻き込むという、最良の意味での芝居気は、これまでのソヒエフにはあまりなかったような気がするのだが・・・・。

 アンコールは2曲で、またもや「カルメン」からの間奏曲と前奏曲。彼らは第1回の来日の時から、こればかりやっている。(以前にも書いたことながら)サービスは有難いけれども、たまには他に何かないでしょうか?
    →別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

2018・3・20(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 桂冠指揮者エリアフ・インバルが指揮。久しぶりに懐かしい人が帰って来たという感がする。プログラムはショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」のみだが、客席は文字通り埋め尽くされ、演奏が終った時には、これまた久しぶりに上階席から一斉にブラヴォーの声が湧き起こったのであった。

 とにかく、凄まじい演奏だった。全曲にわたり快速なテンポが維持され、嵐のように激しく音楽が展開し、嵐のように轟々と結ばれて行く。
 インバルが指揮すると、都響はやはり引き締まる。演奏の密度も目覚ましく上昇する。ピリリとした緊張感がステージに感じられ、それは当然演奏にも顕れ、私たち聴き手にも伝わって来る。

 第1楽章の「戦争の主題」など、あれだけ速いテンポを維持したまま、かつ全管弦楽のバランスを完璧に保ちつつ、ホールを揺るがせんばかりの大音量を極限まで推し進めて行くというのは驚異的だし、しかもこの間アンサンブルには少しの乱れも生じさせないという凄さだったのである。弦の奏者たちが、何かに取り憑かれたような表情で弾いていた光景が印象的であった。コンサートマスターは山本友重。

2018・3・20(火)狂言風オペラ「フィガロの結婚」 

      観世能楽堂  3時

 銀座にある「二十五世観世左近記念・観世能楽堂」で上演されたのは、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」を狂言風に仕立てた出しもの。

 オペラからは、管楽八重奏に編曲した12曲ほどを抜粋、これをルツェルン音大の教授陣のアンサンブルという「クラングアート・アンサンブル」(管楽八重奏&コントラバス)が橋掛りに並んで演奏した(失礼ながらこれは、お上手だったとは言い難い)。

 さて、本舞台で演じられたのは、藤田六郎兵衛の脚本演出により、能と狂言に仕立てられた「フィガロの結婚」の縮小ストーリー版である。
 登場人物は、好色な中将・在原業平ならぬ「在原平平(アリハラノヒラヒラ)」(アルマヴィーヴァ伯爵)は人形だが、「北の方・橋の上」(ロジーナ、奥方様)は赤松禎友、「随身家路」(フィガロ、太郎)は野村又三郎、「女房梅が枝」(スザンナ、お花)は茂山茂、「小舎人童光丸」(ケルビーノ、蘭丸)は山本善之、樋洗童春菜「バルバリーナ、おあき」を茂山あきらがそれぞれ演じていた。
 邦楽部分の演奏は、太夫を豊竹呂太夫および三味線を鶴澤友之助。芸術監督は大槻文藏、音楽監修は木村俊光。

 アイディアは秀逸である。大いに推進していただきたいとは思う。
 とはいえこの種の試みの場合、泰西の原作と日本風アレンジとの兼ね合いは、常に議論の対象になるだろう。今日の上演を見ても、かなり練り上げていることは解るけれども、それでも両者の融合までには、もう一つ未だ距離があるような気がするのだが・・・・。

 今回はこの観世能楽堂での2日間の昼夜2回公演のあと、京都(けいはんなホール)と大阪(いずみホール)で1回ずつ上演の由。
 4時50分頃終演。地下鉄銀座線で上野に向かう。

2018・3・19(月)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

      サントリーホール  7時

 2日前に金沢で音楽監督在任最後の定期公演を指揮した井上道義。そして、同じプログラムによる本日の東京公演が、音楽監督としてこのオケを指揮する最後のステージである。
 演奏されたのは、プーランクの協奏曲「オーバード(朝の歌)」(ピアノ・ソロは反田恭平)、ハイドンの交響曲第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「夜」。アンコールは武満徹の「他人の顔」の「ワルツ」だった。コンサートマスターはおなじみ、アビゲイル・ヤング。

 ハイドンの交響曲では、各パートのソロの部分が多いが、井上道義の指揮でこれを演奏するOEKの弦の各パートの首席奏者のソロが、また実に見事である。井上もまた、彼ら奏者たちを全面的に信頼し、楽しみつつ指揮しているかのように見えた。

 ステージにあふれたその雰囲気は、2007年1月以来11年におよんだ彼とOEKの共同作業の締め括りとして、実に相応しいものであったと言えよう。それは、昨年2月、僅か3年で首席指揮者のポストに終止符を打った大阪フィルとの最後のステージでの光景とは、まさに格段の違いがあった。今日の井上は、OEKとの温かい告別を東京の聴衆の前で存分にアピールしつつ、演奏会を終えて行ったのである。

 なお、反田恭平のソロ・アンコールはシューマン~リストの「献呈」だったが、この音色の澄んだ美しさは絶品であった。

2018・3・18(日)大友直人指揮群馬交響楽団東京公演

     すみだトリフォニーホール  3時

 同時間帯にサントリーホールでは、小泉和裕と名古屋フィルが東京公演をやっている。
 時間がずれていれば、両方聴けたものを。せっかくそれぞれのオーケストラが腕に縒りをかけて、年に一度の東京公演をやるという貴重な機会なのに、もったいない話ではある。
 私も最初は名古屋フィルを聴きに行くことにしていたのを、「音楽の友」から演奏会評を依頼されたため群響に転換したわけだが、出来れば両方聴きたかったところなのだ。
 もっともこれは、オーケストラを責めても始まらない。スケジュールを決めたのは1年も2年も前のことだろうし、その時点で他のオケの動向などを調査するのは、まず不可能な業だからである。

 ともあれ、こちら群響の方は、プログラムが珍しい。
 エルガーの序曲「コケイン」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロは小川典子)、ヴォーン・ウィリアムズの「ロンドン交響曲」、という選曲。
 英国作品は、音楽監督・大友直人の得意のレパートリーである。期待に違わず、見事な演奏だった。

 大友は、ロンドン市街の雑多な光景を描く序曲「コケイン」と「ロンドン交響曲」で、時に雑然と入り乱れるさまざまな主題や楽想や音型を鮮やかに整理し、「雑踏と混乱の都ロンドン」に陥らせることなく、むしろヒューマンで生き生きした都というイメージさえ感じさせる演奏につくり上げていた。このあたりの音構築の巧みさは、彼のお家芸であろう。
 「コケイン」での、ホルン群がいっせいに咆哮し始めるあたりにかけての演奏の流れの良さは、聴いていて快くなるほどだったし、「ロンドン交響曲」でも「ビッグ・ベン」の音型や、それに続いて「オペラ座の怪人」のテーマを先取りするような物々しいモティーフなどが流れて行くくだりのパノラマ風の音の流れなど、実にいい。
 そして群響も、演奏水準の髙さを引き続き保っているのが嬉しい。コンサートマスターは伊藤文乃。

 ラヴェルの協奏曲では、その群響の豊麗な響きの中を、小川典子の毅然とした意志に貫かれた明晰な生々しいソロが切り裂くように進んで行くさまが、これも実にスリリングだった。彼女の演奏は、ある意味では硬質な鋭さを持っているが、無機的なところは全くなく、透明な明るさにあふれて、しかもスケールが大きい。このピアノ・ソロとオーケストラとのせめぎ合いの面白さも、今日のラヴェルでの聴きものの一つだったであろう。
   別稿 音楽の友5月号 演奏会評

2018・3・17(土)ベッリーニ:「ノルマ」(セミ・ステージ形式上演)

      Bunkamuraオーチャードホール  5時

 東京二期会オペラコンチェルタンテ・シリーズと銘打たれた公演。こういうシリーズ、聴いたことがないな、と思ったら、今回の「ノルマ」が第1回なのだとか。
 指揮はリッカルド・フリッツァ、東京フィルハーモニー交響楽団と二期会合唱団。歌手は明日とのダブルキャストで、今日は大村博美(ノルマ)、城宏憲(ポリオーネ)、小泉詠子(アダルジーザ)、妻屋秀和(オロヴェーゾ)、成田伊美(クロティルデ)、前田健生(フラーヴィオ)という顔ぶれ。

 合唱は舞台後方に板付きだが、その合唱団とオーケストラの間の高所にソロ歌手たちの動くスペースがある。此処で菊池裕美子の演出により、小道具や持道具等は一切無いものの、象徴的なシンプルな演技が行われる。
 舞台背景には映像(栗山聡之が担当)が投映されるが、これは序曲の間は写実的な光景(この個所での映像の変化は、音楽の変化とよく合っていた)が、本編の中ではやや抽象的な映像が写され、気分的な変化を生み出していた━━大詰は「炎」という予想通りの映像。

 歌手陣が揃って見事な出来を示す。
 大村博美は、ドルイドの巫女ノルマとしてはどうも温かすぎるような感があるが、安定した歌唱と演技を示してくれた。ポリオーネの城宏憲を聴くのは、4年ほど前に「明日を担う歌手たち」を集めた演奏会で素晴らしく張りのある歌唱に接して感心して以来のことになるが、ローマの将軍役にしては少し線の細い感はあるものの、明るい伸びのある声に魅力を感じさせる。

 アダルジーザ役の小泉詠子は、昨年秋の日生劇場での「ルサルカ」における「料理人の少年」での闊達さが印象に残っているが、今回のシリアスな役柄もなかなかよく、ノルマに友情を捧げる場面でのひたむきな演技表現といい、ノルマとの二重唱での表情豊かな歌唱といい、これは楽しみな人だ。
 オロヴェーゾ役の妻屋秀和は、これはもう、舞台を引き締めるには欠かせない歌手であり、歌唱の面でも演技の面でも、彼がいるだけで安心するという存在感の持主である。脇役の成田伊美、前田健生も好演。

 指揮はリッカルド・フリッツァ。この人の指揮はこれまでにも何度か聴いたが、非常に緊迫度の強い引き締まった指揮をする時と、きちんとまとまってはいるが生気のない平板な指揮をする時とがある。新国立劇場の「オテロ」などでは、その両方の特徴が示されていたはずだ。2013年秋にMETで聴いた「ノルマ」も、これほどやる気のない「ノルマ」の演奏は聴いたことがないという出来だったくらいである。
 が、しかし今日の東京フィルハーモニー交響楽団を指揮した「ノルマ」は━━1階15列という、舞台への至近距離で聴いたせいもあってか、劇的にも引き締まり、オケのバランスもよく、また歌手の声とのバランスも安定していて、旋律の美しさを充分に堪能させてくれる演奏に感じられた。そのわりに、歌手たちに比べ、彼へのブラヴォーの声が少なかったのは残念だが・・・・。
 東京フィルも、ステージに乗ると往時の「オペラの東フィル」の名声を取り戻す。

2018・3・17(土)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 「バーンスタイン生誕100周年記念プログラム」と銘打った定期。
 「キャンディード」序曲、「セレナーデ(プラトンの饗宴による)」(ヴァイオリンのソロは渡辺玲子)、「ウェストサイド・ストーリー」の「シンフォニック・ダンス」、「ディヴェルティメント」というプログラムが組まれていた。

 今日は、お客さんの入りが非常にいい。このくらい入れば御の字、やはりバーンスタイン・プロの所為かと思ったが、聞けば高校生の団体鑑賞を入れたとのこと。まあ、だれが聴きに来ようと客席が埋まるのは大変結構。それにこの世代に楽しんでもらえれば、何らかの形で将来の聴衆の増加に結びつくだろうし。

 「ウェストサイド・ストーリー」の演奏の前に、マエストロ高関が面白い話をして客席を盛り上げた。
 「シンフォニック・ダンス」にはバーンスタイン自身による三つの版があり、少なくとも最初の二つの版では、「マンボ!」の掛け声はスコアに書いてないこと(バーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した初期の録音では「マンボ!」の声は入っていない)、だが1981年のタングルウッド音楽祭で演奏された際には、ここで聴衆から自然発生的に「マンボ!」の掛け声が起こったということ。

 「なので今日は皆さんにこの『マンボ!』をお願いします」と高関が客席に向かって言う。
  「まず練習しましょう。私が合図をします・・・・はい、ちょっと元気がないですね(客席から笑)。はいもう一度!(今度は客席の声も大きくなる)・・・・いいですけど、ちょっと(タイミングが)遅れてますよ」(客席から爆笑)などという一幕があって、さて本番では、オーケストラに負けない盛大な2回の掛け声が客席から勢いよく飛んだ。もしこれに高校生たちが大勢参加していたのなら、団体鑑賞を企画した事務局の作戦は図に当たったということになるだろう。

 「セレナーデ」では、渡辺玲子のソロも張りがあった。そして最後の「ディヴェルティメント」は華やかな盛り上がりなので、お客の反応も上々。高関とシティ・フィルはアンコールとして最後の陽気なマーチの部分だけをもう一度演奏し、幕切れでは「のだめカンタービレ」さながらにオーケストラ全員が立ち上がって、それぞれ派手な身振りをしながらフォルティッシモをとどろかせ、客を沸かせたのだった。

 今年はバーンスタイン記念プログラムが少なくないが、この選曲と演奏もいい。ノリを優先した、些か八方破れの演奏というところもあったが、シティ・フィルの定期でこれだけ客を巻き込んだのは素晴らしいことである。
 4時終演。山手通りでタクシーを拾い、渋谷のオーチャードホールへ向かう。

2018・3・16(金)TOKYO カンマー アカデミー コンサート

      TOKYO FM Hall  7時

 クラリネットの近藤良、チェロの茂木新緑、ピアノの白澤暁子のトリオを聴きに行く。これは近藤良が昨年立ち上げた「一般社団法人 東京カンマー アカデミー」のお披露目演奏会である由。

 近藤氏は、現在FM鹿嶋の社長さん(エフエムかしま市民放送株式会社代表取締役社長)を務めているが、「放送局の社長がクラリネットを吹く」のではなくて、「クラリネット奏者が放送局の社長になった」と謂う方が正しい。デトモルト音大のクラウス教授やアマデウス弦楽四重奏団に師事し、室内楽を中心に活動しているベテランだ。
 白澤さんも東京芸大からシュトゥットガルト音大に学んだ室内楽の名手だし、茂木新緑さんは元N響の奏者。

 とにかくこのトリオの演奏には、歴戦の名手の味とでもいうべきか、たとえ気鋭の若手であろうと新進の演奏家には出せない独特の温かさというものがあふれているのには感心させられた。
 今日のプログラムは、フェルディナント・リースの「変ロ長調作品28」、ツェムリンスキーの「ニ短調作品3」、ブラームスの「イ短調作品114」━━という3つの「三重奏曲」。
 随分渋くて、重厚で、長大な、気負った選曲だが、こういう生真面目な独墺系の作品集で勝負に出るところが、如何にもこういう経歴を持つ人たちの演奏会らしくて、これも面白かった。

2018・3・15(木)トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団

     サントリーホール  7時

 私の贔屓の指揮者ソヒエフが、彼にとって最も相性が良いと思われるトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団と一緒に、またやって来た。これが4度目の来日である。
 21日までの一連の来日演奏会の今日は初日で、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、ハチャトゥリアン~ランパル編の「フルート協奏曲」(ソリストはエマニュエル・パユ)、チャイコフスキーの「白鳥の湖」抜粋(12曲)。

 今回もまた、演奏が華麗だ。「ルスラン」の序曲における、トゥールーズのオケの管楽器群が実にきらきらと輝いているのがいい。色彩感のない音で真面目くさって演奏された時ほど、この曲がつまらなく聞こえることはないのだから。

 替わってエマニュエル・パユが登場。ハチャトゥリアンの協奏曲は、このようにフルート用に編曲されてしまうと原曲の「ヴァイオリン協奏曲」の野性味が薄められてしまうので私は好きではないのだが、パユの超絶技巧的な演奏なら、まあそれなりに楽しめるだろう。ただ今日は、彼がアンコールとして吹いたドビュッシーの「シランクス」の静謐な美しさがあまりに見事で、これが完全に毒消しのような役目を果たしてくれたような感。

 「白鳥の湖」を外来のオーケストラがこのような形で演奏するのは、招聘マネージャーのI氏も言っていたように、非常に珍しいと言えるだろう。世の中には、この種のプログラムを、何となくバカにする風潮がないではない。
 しかし、ソヒエフと彼のオーケストラによるこういう演奏を聴けば、この作品が如何に色彩的な管弦楽法に富んでいるか、チャイコフスキーの音楽の「持って行き方」が如何に巧いか、などということも理解されるのではないか。

 「4羽の白鳥の踊り」でのバス―ンの洒落たリズム感、「ハンガリーの踊り」や「スペインの踊り」でのオーケストラの多彩な音の変化などの見事さ。憂愁に満ちた個所では、ロシアの冬の澄み切った静けさを思い出させる。
 「終曲」の結尾部分の壮大な昂揚個所が意外にあっさりしていたことだけは少し物足りなかったが(ここはいつかのN響との演奏の方がダイナミックだったかもしれない)、「白鳥の湖」の音楽がこれだけ生き生きと表情豊かに演奏されてくれれば、チャイコフスキー愛好者を公言する私としては嬉しい限りではある。

 オーケストラのアンコール曲は、またビゼーの「カルメン」第1幕前奏曲の前半部分(毎回こればかりやっている)。
     →別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

2018・3・14(水)新国立劇場 ドニゼッティ:「愛の妙薬」

     新国立劇場オペラパレス  7時

 チェーザレ・リエヴィの演出、ルイジ・ペーレゴの舞台美術、マリーナ・ルクサルドの衣装により2010年4月にプレミエされたプロダクション(4月23日の項)。その後2013年にも再演されているが、その時は、私は観ていない。今日は再演の初日で、このあと16、18、21日にも上演される。

 舞台はもちろん、同じだ。冒頭でアディーナが読んでいる「トリスターノとイゾッタ(トリスタンとイゾルデ)」の書物の形および妙薬「ELISIR」の文字をモティーフにした装置と、登場人物たちの服や髪の色などを含め、極めてカラフルな光景の中で繰り広げられる。
 舞台としてのまとまりはいい━━はずなのだが、この新国立劇場特有の不思議な雰囲気の所為か、それとも初日公演の所為か、何か一つ熱気というか、活気というか、沸き立つものが感じられないのが問題である。小奇麗につくられてはいるし、何処と言って破綻はないのだが、何か「燃えない」のだ。
 新国立劇場のプロダクションには、何故いつもこういう雰囲気が付きまとうのか、謎である。今日はその上、フレデリック・シャスラン指揮する東京フィルの演奏からして、弾むような楽しさというものが希薄な、平板な演奏と来ている。

 歌手たちは、精一杯やっている。アディーナ役のルクレツィア・ドレイと、ネモリーノ役のサイミール・ピルグが明るく伸びのある声で聴かせていた。他にレナート・ジローラミ(ドゥルカマーラ)大沼徹(ベルコーレ)、吉原圭子(ジャンネッタ)、新国立劇場合唱団。
 9時35分頃終演。
       →別稿 音楽の友5月号 演奏会評

2018・3・13(火)ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮NYフィル

      サントリーホール  7時

 ニューヨーク・フィルハーモニックが演奏するストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴くのは、思えば57年ぶり(!)のこと。1961年5月、気鋭の「若手」指揮者レナード・バーンスタインとの初来日の時だった。
 あれは東京文化会館の杮落し演奏会の一環だったが、当時の日本では彼の名は未だ広く知られていなかった(映画「ウェストサイド・ストーリー」が日本で公開されたのはその年の暮になってからだ)ため、客はガラガラ。半分くらいしか入っていなかった、そんな時代だった。

 今回は、満席の聴衆の中で、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンが指揮した。今秋からこのオケの音楽監督に就任することになっているオランダ出身、58歳の指揮者である。
 演奏したのは、ブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストはユジャ・ワン)と、その「春の祭典」と、アンコールにワーグナーの「ワルキューレの騎行」━━というプログラム。

 ヴァン(ファン)・ズヴェーデンの個性はたしかにオケにも既に反映されていて、ニューヨークのオケというより、ヨーロッパのローカル・オケのような色合いを感じさせていたが━━演奏の呼吸が真に合うようになるのは、未だこれからだろう。
 特に「春の祭典」では、ヴァン・ズヴェーデンは、突然急激なアッチェルランドをかけたり、また妙に慌しく前のめり的に次の主題やフレーズへ突っ込んで行ったりすることがあり、そういう際にはオーケストラのアンサンブルが乱れることが多い。合わなくなるのを構わず、猛烈なテンポで突き進むことも多い。

 アンサンブルの「合う・合わない」などという問題は、音楽が昂揚さえしていれば、必ずしも重要なものではないというのが私の考えだが、それにしても今日の演奏は、ニューヨーク・フィルにしては随分ガタガタしていて、あまり練習していなかったんじゃないかとも思わせた。
 その一方で、演奏の密度という点においても、さほど濃さを感じさせなかったのである。ブラームスの協奏曲では、その緊張感の低さが特に目立ったのではないか。ソリストのユジャ・ワンとの交流もあまり密なるものを感じさせず、指揮者はソリストに構わずどんどん進んで行くという趣で、全曲最後の個所など、まさにそんな雰囲気であった。
 「ワルキューレの騎行」の方は、猛烈に威勢よく、威圧的に鳴り響いた。

 ニューヨーク・フィルは、ズービン・メータ以降、音楽監督の選定においては意外な方向を打ち出す傾向がある。このヴァン・ズヴェーデンも、今後どのような関係をこのオケと築いて行くのか、注視したいところである。

 そういうわけで、あのユジャ・ワンも、今日はいつもと全く雰囲気が違った。演奏が何か暗く、几帳面で共感に乏しいように聞こえたのは、彼女とブラームスとの相性のためか、それとも今日の指揮者とオケとの相性のためなのか? いずれにせよ、この曲が今日は不思議に無表情な曲に感じられたのである。
 それゆえ、彼女がアンコールで弾いたシューベルト~リスト編の「糸を紡ぐグレートヒェン」とメンデルスゾーンの「失われた幻影」の方がずっと彼女らしく、澄んだ表情で瑞々しく、気持のいい演奏だった━━但し2曲やるのは多すぎるだろう。
 彼女が2曲目を弾き終って、拍手のうちに「快速答礼」をした途端に、コンサートマスターや他の楽員たちが、もう充分、とばかりサッと立ち上がって引き上げはじめたのも、少々露骨で、あまり感じのいいものではなかった。どっちもどっち、というところか。

2018・3・11(日)宮本亜門演出 モーツァルト:「魔笛」

     よこすか芸術劇場  2時

 リンツ州立劇場と東京二期会の共同制作で、2013年にリンツでプレミエされ、2015年7月(19日の項)に東京でも上演されたプロダクションの再演。

 仕事の行き詰まりが原因で自棄的になり、一家の崩壊を招いた男が、「魔笛」という「誰でも英雄になれるドラマ」のゲームを体験することにより自信を取り戻し、健全な家庭を取り戻す━━という設定の、宮本亜門のあの演出である。プロジェクション・マッピングを活用した舞台として、当時話題になったものだ。
 今回の上演は、「神奈川県民ホール巡回事業」の一環で、「神奈川県民ホール・オペラ・シリーズ2018 出張公演」となっている。ホールが改修中なので、ここ横須賀の劇場が使われた由。今月18日には相模女子大グリーンホールでも上演されるとのこと。

 今回の出演は、鈴木准(タミーノ)、幸田浩子(パミーナ)、萩原潤(パパゲーノ)、大塚博章(ザラストロ)、鹿野由之(弁者)、安田麻佑子(夜の女王)、高橋淳(モノスタトス)、九嶋香奈枝(パパゲーナ)、その他の皆さん。二期会合唱団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、指揮が川瀬賢太郎。

 まず第一に、川瀬賢太郎の指揮がいい。神奈川フィルを引き締まった音で響かせ、歯切れよくたたみ込み、盛り上げる。全体にすっきりとした自然な端整さを湛えているが、テンポやデュナミークにも極めて細かい神経を行き届かせているといった指揮だ。
 ごく一例だが、序曲の途中と第2幕の最初で繰り返される有名な和音で、最初の16分音符に続く二つ目の2分音符と三つ目の2分音符を、巧く有機的な関連を持たせて響かせている━━喩えれば、三つ目の2分音符が、二つ目の2分音符に対するエコーのような色合いで響く━━ことにはなるほどと思い、不思議な快さを味わった次第なのである。この人の指揮するモーツァルトを、もっと聴いてみたい気がする。
 神奈川フィルも、透明な爽快さで鳴りわたっていたし、最近のこのコンビの快調さを示しているようであった。

 歌手陣。
 鈴木、幸田、高橋ら、前回に引き続いて出演している人たちは、演技も歌唱もさすがに慣れたもの。安田も夜の女王役を、やや力づくといった感ではあったものの、良く歌っていた。パパゲーノの萩原潤は、軽快な味を出していたが、他の主役たちとのコントラストという意味で、もう少し「濃い」表現があれば、と思う━━つまり鈴木と幸田が所謂すっきり型の個性なので、前回の黒田博のようにパパゲーノが狂言回し的な強い存在感を出さないと、この舞台全体が軽くなってしまうのである。萩原さんが悪いという意味では全くないが、個性のバランスの点で、他の共演の人たちも含め、今回のキャスティングには、もう一工夫あってもよかったような気がする。

 演出はもちろん前回の上演と同じはずだが、━━しかし、「魔笛」のドラマの本編と、序曲の中で繰り広げられる夫(本編ではタミーノ)の横暴、妻(本編ではパミーナ)の家出などの寸劇、及びラストシーンにおける一家の大団円の光景などとの関連性が、前回はもっと明確に感じられた記憶があるのだが、こちらの錯覚か? プロジェクション・マッピングの映像も、前回はもう少し絢爛としていたように思うのだが・・・・。
 5時少し過ぎ終演。
     別稿 音楽の友5月号 グラビア

2018・3・10(土)井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

     フェスティバルホール  3時

 バーバーの「ピアノ協奏曲」、ショスタコーヴィチの「交響曲第2番《十月革命に捧げる》」と「交響曲第3番《メーデー》」。
 ピアノはアレクサンデル・ガジェヴ、合唱は大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指揮・福島章恭)。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 大阪フィルの定期では、毎回必ず福山修・演奏事業部長兼事務局次長が開演前にホワイエで小規模なプレトークを行なうが、これは結構な人気のようだ。最近はスピーカーの音量もやや上がったので声が聴きやすくなったこともあり、数十人の客が演壇を囲むようにして耳を傾けている。
 質問コーナーでは熱心な質問も飛ぶが、これはいかにも関西ならではの雰囲気だろう。今日も「演奏会のプログラムはどういう手順で決めるのか」「井上さんは(今後)ショスタコーヴィチの交響曲を全部やるのか」などをはじめ、「大阪フィルの演奏が日によってガタッと違うのはどうしてか」というきわどい質問までぶつけられていた。
 東京の演奏会でこの種のトークをやっても、こういう開放的な質問はまず出ないだろうと思う。面白い。

 ところで私は、昨年4月から1年契約で、大阪フィルの定期公演のプログラム冊子の解説を担当させていただいていたが、最後の回に当たる今月の定期分で、ショスタコーヴィチの「第2交響曲」に関する一文の中にあり得ないようなミスを生じさせてしまい━━根拠の全くない余計な一語を混入させたままにして、しかもそれを著者校正の際にもうっかり見逃してしまったため、お客さんにご迷惑をかけたことを、せめてこの場でお詫びしておきたい。
 もっとも会場では、マエストロ井上みずからトークで、2千人のお客さんの前でご丁寧にも私の名を挙げ、間違いをわざわざ詳しく説明してみせて笑いのネタにし、「今日は東条さんもここにお見えになっているそうだけど」と、何ともまァ念の入った扱いをして下さったが。

 それは別として、公正に言えば、演奏の方は、見事な出来であった。
 井上道義は、昨年2月の首席指揮者在任最後の定期でも「第11番」と「第12番」を一夜に演奏するというプログラムを組んでいたが、今回の「2番」と「3番」を一緒にやるというプログラムも、演奏時間こそ短いとはいえ、やはり大変な重量感であることは間違いない。
 彼は2007年に日比谷公会堂でショスタコーヴィチの交響曲全15曲をツィクルスで演奏したことがあり、その初日(11月3日)に、「第1番」とともにこの「第2番」と「第3番」を取り上げたことがあるが、演奏の印象という点から言えば、今回は格段の充実が感じられた。大阪フィル、大阪フィル合唱団ともに、極めて熱気のこもった、昂揚感にあふれた演奏だったのである。彼がもっと長く大阪フィルの首席指揮者を続けられていたら、彼のショスタコーヴィチの集大成が実現できたかもしれないのに、惜しいことであった。

 なお今日は邦訳歌詞(一柳冨美子訳)が舞台正面の反響版上方に映されていた。これも、この演奏をより身近なものとするのに役立っていただろう。

 話が前後したが、第1部ではバーバーの「ピアノ協奏曲」が演奏され、ガジェヴが明晰かつスケールの大きな演奏を聴かせてくれた。滅多に聴ける機会のない曲だが、ナマでこういう優れた演奏で聴くと、更にいい曲に感じられる。彼のソロ・アンコールはショパンの「前奏曲 作品45」だったが、これまたすこぶる透徹した美しさに富んでいた。2015年暮の浜松国際コンクール(優勝)以降、素晴らしい進境を示しているようである。

2018・3・8(木)下野竜也指揮広島交響楽団

         すみだトリフォニーホール 7時

 「すみだトリフォニーホール開館30周年記念」および「すみだ平和祈念コンサート2018《すみだ×広島》」と題された演奏会。1945年3月10日の所謂「東京大空襲」の惨禍に因んだ平和を祈念する音楽の催事は既に1997年から━━毎年必ずというわけではなかったが━━行われて来ており、今年は規模を拡大し、関連イベントも交えて開催されている。

 さて、国際平和文化都市・広島から参加した広響とその音楽総監督・下野竜也によるプログラムは、先日の日本フィルとの演奏会におけるものと同様、いかにも下野らしい選曲配列で、心に訴える効果を生む。
 最初にゼレンカの「ミゼレーレ」(下野編曲)とベートーヴェンの「英雄交響曲」の第2楽章(葬送行進曲)がアタッカで演奏されたが、悲痛な慟哭にあふれた1曲目から切れ目なしに深々とした追悼の音楽へ続くこの流れは、非常に感動的だ。そのあと、藤村実穂子をソリストに迎えてマーラーの「亡き子をしのぶ歌」が演奏され、第1部が終る。

 この悲しみの世界を振り払い、未来への希望を歌うのが第2部の━━何だかPRチラシのコピーみたいな書き方で気が引けるが━━シューマンの「第1交響曲《春》」というわけで、ここではすべてが一転、第2楽章こそ絶妙な叙情美の世界とはなっていたが、他の3つの楽章は、すこぶる開放的で奔放なエネルギーにあふれた演奏になった。
 それは前任の音楽監督・秋山和慶時代の緻密な音づくりとはかなり異なる特徴を示すもので、活気は充分ながらおそろしく荒っぽいところはどうかな、と思わないでもなかった。ただし、第4楽章終り近くでホルンが一瞬不安定さを見せると、その直後からはオーケストラ全体が突然慎重になり、バランスを整えたおとなしい演奏になってしまった(少なくともそう聞こえた)のは予想外。

 しかし、こういうハプニングがあるからこそ、ナマの演奏会というのは人間味があって面白いのである。
 アンコールは、下野自身がまたマイクを執ってスピーチしながら、シューマンの「天使の主題による変奏曲(最後の楽想による幻覚の変奏曲)」からの「主題」(野本洋介編曲)を演奏。

2018・3・6(火)ロンドン交響楽団パーカッション・アンサンブル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 9月のラトルとの来日公演に先立ち、ロンドン響の打楽器奏者を中心とする6人のアンサンブルがやって来た。
 この6人のうち、ロンドン響の打楽器奏者はニール・パーシー、デイヴィッド・ジャクソン、サム・ウォルトンの3人。他に元ロンドン響奏者で現在はロンドン・フィルの首席奏者であるサイモン・キャリントン、それにゲスト(?)のフィリップ・ムーアとジョセフ・ハヴラットが加わっている。

 プログラムは、チック・コリアの「デュエット組曲」、ジョー・ロックの「Her Sanctuary」,ジョン・アダムズの「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」、小曽根真の「Kato’s Revenge」、スティーヴ・ライヒの「木片のための音楽」および「六重奏曲」。うちチック・コリアと小曽根の作品には、キャリントンの編曲の手が加えられている由。

 ヴィブラフォンやマリンバ、ドラム、タムタム他の打楽器にピアノまで入って来るサウンドの豊かさは、そのかみの有名なストラスブール・パーカッション・アンサンブルとはまた異なり、鋭角的で複雑なリズムの饗宴というよりも、甘美で陶酔的なモアレ・ミュージック(古いネ)のような効果を生み出す。ナマ音と小型スピーカーによる拡声音とがミックスされて舞台一杯に柔らかく拡がるハーモニーも、何とも言えぬ快感を呼び起こすのである。

 ピアノ2台によるジョン・アダムズの作品は意外につまらなかったが、ジョー・ロックの「Her Sanctuary」など実に豊麗であり、第2部でのライヒの作品2曲の音色の多彩さも魅力的だった。
 「木片のための音楽」は、6人の奏者がそれぞれ音程の異なるウッドブロックをたたいて演奏する曲なのだが、このリズムの中に日本の祭囃子のようなものが二つ三つ現われるのは笑えるし、演奏にはあのテリー・ライリーの「in C」に似た手法が応用されていたのも興味深い。

2018・3・6(火)N響の「ウェストサイド・ストーリー」演奏会形式上演

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 レナード・バーンスタイン生誕100年記念として、パーヴォ・ヤルヴィとNHK交響楽団が「ウェストサイド・ストーリー」を演奏会形式で上演した。「シンフォニー・コンサート版」とクレジットされている。

 主な出演者は、ジュリア・ブロック(マリア)、ライアン・シルヴァーマン(トニー)、アマンダ・リン・ボトムス(アニタ)、ティモシー・マクデヴィット(リフ)、ケリー・マークグラフ(ベルナルド)。脇役として竹下みず穂、菊地美奈、田村由貴絵らも華を添え、ジェッツ団とシャークス団には東京オペラシンガーズが、「ガールズ」には新国立劇場合唱団が出演した。

 「ウェストサイド・ストーリー」を演奏会形式で、しかもセリフを最小限として音楽中心で上演するというのは、かなり難しい業だろうと思う。今回の上演でも、音楽の演奏は充分に愉しめるのだが、ミュージカルの原作のストーリー(映画とは少し異なる)を詳しく知っていればともかく、プログラム冊子の解説を読んだだけでは、それがどのようなシチュエーションで歌われ演奏されているのか、しかと判りにくい個所がある。字幕のスクリーンでいいから、簡単に場面説明でも入れておいたら、更に多くのファンが愉しめたのではないか。

 パーヴォ・ヤルヴィが指揮するN響の演奏は、冒頭は何となくリズムが甘く重く、メリハリに欠ける向きもあったが、これはこのホールの残響の所為だったかもしれない。とにかくN響は、上手い。米国のオケのようなスウィングに不足するのはやむを得ないが、熱気は充分で、「アメリカ」や「ランブル」など見事に盛り上がっていた。

 主役ソロ陣はPAを使用しているが、特にトニー役とマリア役の歌手は雰囲気がある。日本人男声の脇役も━━妙に「不良少年」っぽく見せるジェスチュアが何ともクサかったけれども━━英語の歌唱で頑張った。この合唱は、ほぼPAなしか?「アメリカ」では、ガールズのコーラスがほとんど聞こえなかったが・・・・。
 上演時間は、休憩30分を含み約2時間5分で、5時10分には終った。続いて新宿はオペラシティに移動。

2018・3・5(月)英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマ「リゴレット」

     東宝東和試写室  6時

 1月16日ロイヤル・オペラ上演のライヴ中継映像。
 演出がデイヴィッド・マクヴィカー、指揮がアレクサンダー・ジョエル。主演歌手は、ディミトリ・プラタニアス(リゴレット)、ルーシー・クロウ(ジルダ)、マイケル・ファビアーノ(マントヴァ公爵)、アンドレア・マストローニ(スパラフチレ)。

 米国のMETと違い、英国のロイヤル・オペラはやることが結構過激だから、ステージにはかなり露骨な光景も繰り広げられる。
 マクヴィカーのこの演出は、オーパス・アルテから出ている2001年のライヴ映像DVDにおけるものとほぼ同じ(但し映像はDVDの方が明るい)で、宮廷と廷臣たちの頽廃、狂態、無法ぶりが、非常に「いやらしく」浮き彫りにされている舞台だ。

 その上、ジルダを歌い演じているクロウが箱入り娘的な性格表現を巧く出しているので、その放埓な世界との対比が鮮やかに描かれているとも言えよう。ファビアーノもプラタニアスもそれなりに好演だし、まずは満足できる「リゴレット」であると言える。ほぼノーカットで演奏されているのも有難い。

 この「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン」のシリーズは、休憩時間に指揮者がピアノを弾きながら音楽解説をする映像を入れているのが売りものの一つだが、今回のジョエルの解説もなかなか参考になる。
 なお今回の上演は、昨年世を去った名歌手ディミトリ・フヴォロストフスキーに捧げられており、彼の映像も挿入されていた。本当に惜しい歌手を喪ったものだと、改めて胸がいっぱいになる。
 上映時間は約3時間。今月9日から15日まで、東宝東和の配給により一般上映の由。

2018・3・4(日)びわ湖ホールプロデュースオペラ「ワルキューレ」2日目

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  2時

 ダブルキャストの2日目は、望月哲也(ジークムント)、田崎尚美(ジークリンデ)、山下浩司(フンディング)、青山貴(ヴォータン)、池田香織(ブリュンヒルデ)、中島郁子(フリッカ)。ワルキューレたちは、基村昌代、小川里美、澤村翔子、小林昌代、岩川亮子、小野和歌子、森季子、平館直子。昨日の組もそうだったが、ワルキューレたちの中には主役を張る人たちも混じっている。

 予想通り、今日は第1幕からオーケストラが快調に飛ばし、鳴り響いた。昨日の演奏は何だったのかと思わせるような、良い出来であった。
 第1幕のあとの休憩時間、われわれワグネリアン・ロビー雀どもも、口をそろえて「昨日よりいいよね」「うん、今日はいい」と盛んに囀る。
 第3幕では、いい演奏でワーグナーを聴いた時に湧き起こる、あの独特の陶酔感も久しぶりに蘇ったのである。「ヴォータンの告別」のシーンでは、父と娘が強く抱きあうタイミングが音楽の動きに対して多少ずれ気味だったけれども━━昨日は見事に合っていた━━舞台構図と併せて、すこぶる感動的であった。知人から聞くところでは、涙を流していた人もいたとのこと。
 沼尻竜典と京都市響、これで昨年の「ラインの黄金」に続いて、今年も評価を確立したことになる。

 歌手陣。
 青山貴のヴォータンを聴くのは、もう何度目か。今や完璧な嵌り役の、立派なヴォータンである。一方、ジークリンデの田崎尚美が、上品で可憐な妹といった感で、いい味を出した。
 そして期待の池田香織は予想に違わず素晴らしく、所謂女傑的でないブリュンヒルデを見事に表現した。第2幕冒頭の「ホ・ヨー・トー・ホー」からして若々しく澄んだ声で魅力充分、フリッカの場面の終りに遠方から響いて来る彼女の声は、初々しい少女戦士の雰囲気に富んでいて、ハッとするほど美しかった。
 ただ、第3幕前半の大勢のワルキューレらとの場面のみ、何故か声が異様に鋭かったのは━━彼女だけではなく、ほぼ全員がだが━━PAでも使っていたのだろうか? PAがどの程度使われているのかなどについては、私は一切承知していないが、第3幕冒頭でのヘルムヴィーゲの最初の声だけが━━昨日も同じ個所でそうだったのだが、入力過剰気味に響いていたのが解せない。これはPAの失敗ではないのか。
 山下浩司、中島郁子らもそれぞれの持ち味を出した。望月哲也も、もちろん力はあるのだが、最近の彼はますますヴィブラートが強くなり、物々しい歌い方になって来ているような気がするのだが・・・・。

 演出と演技は、前日とほとんど変わらない。ダブルキャストとなれば、たいてい、歌手によって少し違いが出るものだが、今回はハンぺ先生の指示が徹底していたのだろうか。目立った大きな違いと言えば、ジークムントが最後にジークリンデに向かって手を差し伸べるという昨日の演技が、今日は見られなかったことくらいかもしれない。

 カーテンコールでは昨日と同様、大拍手とブラヴォ―に交じって、ハンぺ、ギールケらの演出チームに僅かながらブーが飛んだ。このような「保守的な」演出に対しては、異論のあるファンがいても不思議ではない。関西のファンか、それとも東京あたりから来た人によるものか、昨日と同じ観客によるものかどうかは、判らない。が、びわ湖ホールではまだブーイングをする元気のいいファンがいるのにはちょっと安心した。当節、東京では新国立劇場にせよ、東京二期会公演にせよ、ブーイングというものがほとんど聴けなくなっているからである。

 新国立劇場でも、開館初期の何年間かは随分賑やかな雰囲気だったが、オペラ部門のある芸術監督が客席を駆け回り、ブーを飛ばした客をつかまえ、「ブーブー言うのは止めなさい!」と怒鳴りつけたという噂が広まって以降、客席の雰囲気は変わってしまった。同芸術監督は、私が「グランドオペラ」誌でインタヴュ―した際にも、「ブーイングなんて、歌手に対して失礼ですよ」と、憤然たる面持で明言していたくらいだから、その噂も、さもありなんと思われる。もっとも、ブーイングする客がいなくなったのには、他にも理由があるだろうが。

 先日の深作健太演出の「ローエングリン」など━━ああいう演出の場合、もっと反対意見のブーイングが盛大に起こり、ブラヴォーの声と拮抗するくらいの熱気がないものだろうか? 
 私は、ブーイングをすること自体がいいなどと言っているわけではない。
 だが、特に演出の場合には、全員が賛成意見(ブラヴォー)ばかりでは、まるで独裁国家か、戦時中の大政翼賛会のようで、むしろ異常である。こういう調子では、オペラの将来はあまり明るくないだろう。もっと喧々諤々の議論が欲しいのである。

 以前、ラッヘンマンの問題作「マッチ売りの少女」がサントリーホールで初演された際、客席からはブラヴォーの声ばかりが飛んだが、それを聞いたラッヘンマンは「日本の聴衆は本当にこの曲を解ってくれたのだろうか」と不安げに語ったそうである。
 また、ある政治家だったか、誰だったが言ったという名文句がある。「おれは、お前の意見には絶対反対だ。だが、お前がその意見を言える権利と自由は、絶対に守ってやるぞ」。もちろんその「意見」は、口汚い感情的なものでなく、筋の通った理性的なものでなければならないが。
      →別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2018・3・3(土)びわ湖ホールプロデュースオペラ「ワルキューレ」初日

     滋賀県立劇場びわ湖ホール  2時

 びわ湖ホールが昨年から開始したワーグナーの「ニーベルングの指環」ツィクルスの第2年「ワルキューレ」。芸術監督の沼尻竜典が指揮する京都市交響楽団、ミヒャエル・ハンぺ(演出)、ヘニング・フォン・ギールケ(舞台美術・衣装)、齋藤茂男(照明)。

 歌手陣は、ワルキューレ全員を含めてダブルキャストである。今日は初日で、アンドリュー・リチャーズ(ジークムント)、森谷真理(ジークリンデ)、斉木健司(フンディング)、ユルゲン・リン(ヴォータン)、ステファニー・ミュター(ブリュンヒルデ)、小山由美(フリッカ)。他のワルキューレは、小林厚子、増田のり子、増田弥生、高橋華子、佐藤路子、小林紗季子、八木寿子、福原寿美枝。

 あふれんばかりの期待のうちに上演が始まったが、━━沼尻竜典と京都市交響楽団の演奏が、第1幕ではどういうわけか、例年のこのコンビの演奏からは想像できないくらい、熱気に乏しい。つまり、ノリが悪かったのである。
 沼尻の指揮の設計にも、疑問を呈したいところがなくはなかった。暗鬱な前半(フンディングとジークムント兄妹の場面)と、明るさが生まれる中盤(兄妹の愛の場面)との演奏において、テンポや音色などに対比が全く感じられず、最初の重く沈んだ雰囲気がずっと続いて行ったのである。この2人がいくら悲劇的な運命に支配されているからといっても、音楽の構成には、常に明暗・緩急の対比が盛り込まれているはずだと思うのだが・・・・。

 その上、歌手たちの歌唱も演技も、何となく密度が薄い。ジークムントのリチャーズが、聴かせどころの「ヴェルゼ! ヴェルゼ!」の1回目のフェルマータを全然利かせなかったのはどういうわけか? ジークリンデ役の森谷真理も歌詞と歌唱になぜかメリハリが不充分。フンディングの斉木健司は、もともと不愛想な役柄だから、それなりの暗さを聴かせていたけれども。

 休憩時間に話したワグネリアンの知人たちも、私と同様、みんな首をひねる。「おかしいですねえ」「全然盛り上がりませんねえ」という具合だ。
 だが幸いにも、第2幕での演奏は、中盤以降から次第に上向いて来た。
 次の休憩時間での「室内楽的な綺麗さはありましたねえ」という意見は、好意的な表現かもしれなかったが、私もさしあたりは同感である。「でも第3幕は、もう少し壮大になってほしいよねえ」「なんたって、ワーグナーなんですからねえ」

 そうして始まった第3幕の「ワルキューレの騎行」の最初の弦の閃きが、あまりに機械的で表情に乏しかったので、今日はやっぱり駄目か、と一瞬落胆させられたものの、それは幸いにも杞憂に終る。「騎行」の途中からは、演奏はみるみる熱気を帯びて行った。これこそが、例年の沼尻と京都市響の音楽である。

 「ジークフリートの動機」が初めて登場した後、それが繰り返される後半部分のヴィオラとチェロが、これだけ優しく、救いを感じさせるように演奏されたのを、私は聴いたことがない。
 怒りに燃えたヴォータンが登場するあたりの京都市響の怒号も凄まじく、一転してヴォータンの「もはやお前に口づけしてやることもない」の歌詞の背景に流れる音楽の中で、哀愁をこめてオーボエが上昇し、大神の内心にある悲しみの念を描くあたりの叙情的な演奏も、期待通りのものがあった。また「ヴォータンの告別」の音楽は、厳上に佇立する父娘の美しい姿と合致して深い情感を沸き上がらせ、絶品であった。
 
 こういう━━第3幕に、それも第3幕だけに頂点を持って来る演奏構築は、最初から指揮者の意図だったのかもしれないが、それにしても程度によるだろう。客の立場から言うと、あまり嬉しくはない。
 この各幕の演奏の出来に対し、今日の観客の反応は、ブラヴォーの声の量を含めて、まことに正直なものがあった。

 ミヒャエル・ハンぺの演出は、ヘニング・フォン・ギールケの舞台美術とともに、予想通り基本的に台本に忠実で、ただありのままに、というスタイルだ。これくらい、写実的で解り易い演出はない。
 しかしそれは、「何もしない」という、所謂アイディア不足の演出では決してないことは、明言していいだろう。登場人物の演技には、両手を広げて客席を向いて歌うだけ、などという陳腐な手法はもう見られない。すべての場面で、それなりの微細な表情が徹底されているのである。

 とりわけヴォータンの、ジークムントやブリュンヒルデへの愛と、それを貫く自由さを持てぬ悲哀の感情を、ハンぺの演出が、実に詳細に描き出していたのを見逃してはならないだろう。
 第3幕でのヴォータン(ユルゲン・リン)の演技は極めて微細で、ブリュンヒルデを威嚇し、怒号する場面でさえも、その表情には時に秘かな苦悩の表情が浮かんでいた。「ヴォータンの告別」のシーンはもちろん、「この槍を恐れる者は火を踏み越えてはならぬ」と宣言した後でもなお厳上に立ち尽くし、娘の上に愛し気に手をかざして見つめているといった深い情感に富んだ演技は、他の演出ではあまり見られないものだ。第2幕で、非業の死を遂げた息子ジークムントの眼を閉じてやるといった演技も同様である。

 ただし、その場では、よくあるような、ジークムントが死の間際に懐かしい父を認めるといった演技は、今日の舞台では見られなかった。ジークムントはむしろ、フンディングを憎々しげに睨みつけ、最後の力を振り絞ってジークリンデの方に手を差し伸べるという動作を行なっていた。これは珍しい演出だろう。
 そしてその幕切れでは、ヴォータンはブリュンヒルデを追って早めに舞台から去り、あとには2人の男の亡骸だけが残っている光景が通常より長く続く。これも感動的だった。

 歌手陣は、今日はよく言えば実に「さまざま」で、舞台としてのバランスには多少問題があったように感じられた。ユルゲン・リンは、やはりトシ取ったかなという雰囲気だったが、滋味はある。今回の演出では、横や斜めを向いて歌うシーンが多いので、声の点では多少損をしているところもあったかもしれない。リチャーズと森谷真理は尻上がりに調子を出して行き、特に後者は第3幕で力を全開したといった印象。ステファニー・ミュターと斉木健司と小山由美は、責任を果たしていた。

 ギールケの舞台装置は、流行のプロジェクション・マッピングを主体としたものだ。森の中だろうとフンディングの館だろうと、桜の園だろうと、瞬時に切り替えられるこの技術的システムは、実に便利である。ただ、今回は思ったよりは控えめな使用であった。
 「ワルキューレの岩山」は、岩が下手に向かって船の舳先のように突き出した形状で、それは1930年代のバイロイトで有名だった、エミール・プレトリウスの舞台装置に酷似している(そこまで似せていいのか?)。
 第3幕で、馬に乗ったワルキューレたちの映像が空を飛んで行くといった趣向は、甚だマンガチックではあるが、こういうのはむしろ、挿入されたユーモアととらえておいた方がよかろう。ラストシーンの「魔の炎」は、舞台手前の紗幕と背景とに映写される「火」の映像だが、これはすこぶる盛大だったものの、些か魔性的な雰囲気を欠くタイプのものであった。

 ともあれ、このように、今日では希少な存在となった演出スタイルをも大切にしておきたいというのがびわ湖ホールの━━というより、沼尻芸術監督の方針のようである。それはそれで一つの存在意義を持つだろう。

 字幕は故・三宅幸夫氏のもの。時に大時代がかった演歌的(?)な表現も見られるのは事実だが、実に明快で読み易く、解り易い。ドラマの緊迫感をかき立て、音楽と一体になって劇的興奮を盛り上げる力を持っている訳文である。
 30分の休憩2回を含み、7時終演。
      →別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2018・3・2(金)下野竜也指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 スッペの「詩人と農夫」序曲、尹伊桑(ユン・イサン)の「チェロ協奏曲」、マクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」、ブルックナーの「弦楽五重奏曲」からの「アダージョ」(スクロヴァチェフスキ編)というプログラム。

 いかにも下野竜也の指揮する演奏会らしいヘンなプロ━━ではない、ユニークで斬新的な選曲と配列だが、実はこれがよく考え抜かれた、一貫性のある、よく出来たプログラミングであることは、聴いてみればすぐ理解できる。

 スッペの序曲集は、下野が最近広響でシリーズとしてやっているもので、それだけに一家言あるのだろう。事実、今日の彼と日本フィルの「詩人と農夫」序曲の演奏を聴くと、序奏冒頭の金管のファンファーレからしてシリアスで堂々としていて立派だし、そのあとのチェロのソロ(辻本玲)が、これまた見事に、きりりと引き締まって美しい。スッペをなめたらいかんぞ━━と言わんばかりの演奏で、まあそのあとの賑やかな部分の方はともかく、少なくともこの序奏に関する限り、スッペの作品に対する偏見を払拭させる力を持った新鮮な演奏だったのである。

 そのチェロのソロが、次の尹伊桑の「チェロ協奏曲」と結びつき、そして曲想も「田園的明るさ」の序曲から「魂の苦悩の叫び」の協奏曲との強烈な対照をつくる、とマエストロ下野は言う。
 協奏曲でのソリストはイタリアの若手ルイジ・ピオヴァノ。尹伊桑の綿密なスコアを正確に弾き、作品との見事な一体化を示した。だがここでも、下野と日本フィルの雄弁かつ多彩な演奏がものを言い、長大な全曲を一瞬の弛みもなく聴かせたのだった

 休憩後の2曲は、さらに圧巻である。
 マクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」は、激しい起伏の繰り返しだ。何度も襲って来る、耳を聾せんばかりの大強奏は、「魔女裁判」を題材にしたこの作品を、恐怖感を以って響かせるが、その痙攣的な絶叫の終結のあと、アタッカでブルックナーの深々とした情感に富む「アダージョ」が開始された瞬間の安息感は、筆舌に尽くし難い。「・・・・告白」前半の、弦楽器を中心とした部分(後半で再現されるが)と、ブルックナーの弦楽合奏とが、大きく弧を描くような感をも与える。
 しかも「・・・・告白」の中間でチェロ群が特殊な動きをするという点でも、今日のプログラム全体に共通したある種のモティーフのようなものを連想させるだろう。

 マエストロ下野は、プログラム冊子掲載のインタヴュ―でも、マクミランの作品が好きだ、と語っている。そういえばつい最近も、兵庫芸術文化センター管でマクミランの「ブリタニア」という風変わりな作品を取り上げていた。彼の演奏構築の堅固さと明快さは、この作曲家のコラージュ的な性格の音楽を極めて解り易く聴かせてくれる。

 なお、ピオヴァノは、ソロ・アンコールとして、故国イタリアの「アブルッツォ地方の子守歌」という小品を、自ら静かに歌いながら弾いた。なかなかの温かい雰囲気があった。

 これは、傑出したプログラムであった。下野と、日本フィルの企画担当スタッフとを讃えたい。経済的に苦しい自主運営のオーケストラがこのような企画を試みるという姿勢もまた、称賛されてしかるべきである

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