2018-05

2018・2・28(水)藤村実穂子リーダーアーベントⅤ

     紀尾井ホール  7時

 紀尾井ホール恒例の、藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)のリサイタル。と言っても、これは4年ぶりのものだ。
 プログラムは、最初にシューベルトの歌曲「ガニュメート」「糸を紡ぐグレートヒェン」など5曲、続いてワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」。
 第2部ではブラームスの歌曲「セレナーデ」など5曲、最後がマーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」。アンコールはマーラーの「原光」と、R・シュトラウスの「明日の朝」。

 どちらかといえば沈潜した曲想のものが多く、聴いていて少々ヘヴィな気分になったのは事実だが、それよりもやはり、彼女の歌の毅然たる風格、厳しい緊張感、深々とした情感など、いつに変わらぬ素晴らしさには、感動させられる。

 とりわけ第1部のワーグナーの歌曲集が、深く神秘的な、しかも温かい情感にあふれた歌唱で終ったあとを受けて、第2部のブラームスの「セレナーデ」では雰囲気がぱっと軽快になり、さらに次の「日曜日」の「とってもきれいなお嬢さん、とっても可愛い娘さん」(藤村実穂子訳)がまさに可愛く無邪気に、少年らしい甘美な思いを表現するように歌われた時には━━その瞬時に変化する表情の見事さには、本当に舌を巻いた。
 決して崩れを見せない、堅固で安定した深みのある声の力はもちろんだが、何よりこの豊かな表現力こそが、彼女をしてドイツとオーストリアの歌劇場で主役を張る存在にのぼらせたのではなかったか、と━━。

 ピアノはヴォルフラム・リーガー。思い入れたっぷりの演奏だが、ふっくらとした温かさを感じさせて、なかなかいい。

2018・2・27(火)マルク・ミンコフスキのメンデルスゾーン

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルを率いての今回の日本公演は、東京と金沢での各1回のみ。ホールは文字通り満席となった。
 プログラムは、メンデルスゾーン特集で、「フィンガルの洞窟」、「交響曲第4番《イタリア》」、「交響曲第3番《スコットランド》」。

 メンデルスゾーンの作品は、作曲者自身による改訂が数多いところへ、特に最近は研究が進んで、ますますややこしくなっているようである。先年発売されたリッカルド・シャイー指揮ゲヴァントハウス管の「フィンガルの洞窟」や「スコットランド」の早期稿による演奏でも、今日一般に演奏される版とのあまりの違いに唖然とさせられたほどだ。この曲、最初はこんなふうになっていたのか!と。
 そんな旧いものを引っ張り出されて演奏されて、作曲者はあの世でどう思っているか分からないけれど、私たちにとっては非常に興味深いことなのだ。

 そして、今日の演奏会である。レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルという、世界に名の轟くピリオド楽器オーケストラが響かせるメンデルスゾーン━━という興味はあるにしても、まずは「稿」の問題が、好事家の話題になっていた。
 実際に聴いた感じで言えば、「フィンガルの洞窟」は、現行版とはかなりの相違があるけれど、シャイー盤のそれとも大きく異なる稿である。だが他の2曲は、残念なことに(!)基本的に現行版と同じだ、という印象であった。

 そこで、シャイー盤のブックレットにおける巻末の制作クレジット表示と星野宏美さんの解説、今回のプログラム冊子における相場ひろさんの解説、それにオペラシティを通じて教えてもらったオーケストラからの使用楽譜情報などを総合して対比させてみると、以下のようになる。

 「フィンガルの洞窟」は、シャイーが演奏しているのは、ベーレンライター版のホグウッド校訂譜「ローマ稿Ⅰ」だが、今回ミンコフスキが指揮したのは、同じホグウッド校訂のベーレンライター版の「ロンドン稿Ⅰ」。
 また「スコットランド」は、シャイーがトーマス・シュミット=ベステ校訂のブライトコップ&ヘルテル版による1842年ロンドン稿を使用していたのに対し、今回のミンコフスキは、ホグウッド校訂ベーレンライター新版による1843年「決定稿」を演奏。
 そして今回の「イタリア」は、ホグウッド校訂ベーレンライター新版による1833年版(基本的には現行版)が使用されていた。

 という次第で、「フィンガルの洞窟」(ヘブリディース)だけは━━シャイー盤の「別の曲かと紛うばかりの差異」ほどではないにせよ━━途中からみるみる別の楽想に変わって行き、おなじみの主題が見え隠れしつつ、何となくドタバタとした感じで進んで行く面白さが格別であった。こうなると、いっそ「スコットランド」も「ロンドン稿」を演奏してくれれば、どんなにか面白かったろうにと思うが・・・・。

 もちろん、ピリオド楽器のオケでこの3曲を聴くのも、特別な魅力がある。
 何しろこれは、モダン楽器で流麗に演奏される「お上品な」(?)メンデルスゾーンとは違い、各パートの音が荒々しくぶつかり合って、全体に激しく劇的な、時には凶暴なほどの凄味を感じさせる音楽になっているのだ。
 しかし、その荒々しく唸る弦の彼方に舞い続ける木管群は、はっとさせられるほど美しいのである。特に「スコットランド」ではその多彩な構築感が際立っている。
 メンデルスゾーンの木管の扱い方には、とりわけ夢幻的な美しさがあるけれども、モダン楽器オケではすべてが流麗な音になるので、木管のそうした特徴も程々に目立つだけだが、ピリオド楽器オケで演奏されると、その両者の個性が如実に際立って来るのである。
 こういう、新たな話題を投げかける演奏会は、実に素晴らしい。
    別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2018・2・25(日)東京二期会「ローエングリン」第4日(最終日)

     東京文化会館大ホール  2時

 先日観たのは初日公演だが、こちらは別キャストの第2日。
 出演は小原啓楼(ローエングリン)、木下美穂子(エルザ)、小森輝彦(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、清水華澄(オルトルート)、加賀清孝(布告官)他。

 今日の組による上演は、初日のAキャストより、「ローエングリン=ルートヴィヒ2世」、「テルラムント=グッデン博士」という構図を非常に強く打ち出していた。
 それは、演技巧者の小森輝彦の存在によるところが大きいだろう。何しろ、第1幕でローエングリンから空手チョップ(?)を食らい、のされてしまう場面からして、派手な演技を見せる彼である。

 そしてそのテルラムントは、冒頭から「グッデン博士」として「ルートヴィヒ2世」を気にし、手を焼いている様子を微細に表現する。
 特に全曲大詰の場面での大きな違いは━━初日には「グッデン博士」があの「傘」を広げて「ルートヴィヒ2世」を静かに奥へ連れて行くだけだったのに対し、こちら小森&小原組は、慇懃無礼に傘を広げて誘う「グッデン博士」を、「ルートヴィヒ2世」が怨み骨髄とばかり、突然その首筋をつかむや、舞台奥の暗黒の彼方に向かって━━おそらくはあの「運命的な湖」に向かって引き立てて行く、という演技に変えられていたのだった。

 あとで事務局に訊くと、これは歌手同士で相談し合ってやったようだ、とのこと。今日の方が劇的で面白いが、やや説明過剰な感もなくはなく、むしろ悲劇的な不気味さから言えば初日の舞台の方に分があるとも思われるが・・・・しかし、どちらが適切なのかは判らない。

 なお、第3幕の結婚式のあとでのローエングリン━━いや「ルートヴィヒ2世」が、憧れのルイ14世のコスプレを施して悦に入る(そういう変な王様だ)個所では、「太陽王ルイ」をイメージするその衣装に、「70年大阪万博」の「太陽の塔」のマークが入っていたのには笑った。
 また第1幕で、ゴットフリートが「矢」で射られた白鳥をかかえているのは今日の演出でも同じ。矢で白鳥を射たのは、ほかならぬローエングリンの父親にあたるパルツィヴァル(パルジファル)なのだから、この物語は「親の因果が子に報い」というやつか。

 準・メルクルの指揮は、今日も速めのテンポで颯爽としていた。第2幕後半近く、エルザとオルトルートの激しい応酬の場面の演奏における強靭な推進性は、特に目覚ましい。
 そのオルトルートを歌ったのは清水華澄。馬力は物凄く、全曲最後の大見得は聴き応え充分であった。

 というわけで、東京二期会としては1979年以来という今回の「ローエングリン」は、深作健太と準・メルクルのコンビによる成功作と呼んでいいのではないか。そして日本人演出家がここまで大胆斬新な解釈を施したオペラの舞台は珍しいと言ってよく、将来に期待を持たせてくれる。
      →別稿 音楽の友4月号 演奏会評
※誤植ご指摘、御礼。修正済。

2018・2・24(土)東京芸術劇場コンサートオペラ 
ビゼー:「真珠とり」

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 東京芸術劇場コンサートオペラのシリーズの第5回。
 今回はオーケストラと合唱をスタンダードな形に配置し、歌手陣を舞台前面に並べた、完全な演奏会形式上演。

 簡単な照明演出も加えられていたものの、一昨年の「サムソンとデリラ」のように、オルガンに当てた照明を突然崩壊させて、ト書きにあるような大寺院壊滅を描き出す━━などというド派手な趣向は行なわれていなかった。
 また今回はオルガン近辺にも反響板が設置され、歌手も舞台後方を動き回りながら歌うという演出も行なわれなかったため、声がワンワン響き過ぎて歌詞の明晰さを欠くといったような、以前からの問題点は露呈しなかったようである。演奏面での音のバランスは極めて良かった━━少なくとも2階正面最前列で聴いた感じは、そういうものだった。

 まあ、もともと立派なコンサートホールなのだから、オケでも声楽でも、通常の並び方であれば、バランスよく響くのは当然のことだろうが。

 今回の出演は、鷲尾麻衣(レイラ)、ジョン・健・ヌッツォ(ナディール)、甲斐栄次郎(ズルガ)、妻屋秀和(ヌーラバット)のソロ歌手陣に、佐藤正浩指揮のザ・オペラ・バンド、国立音楽大学合唱団という顔ぶれ。
 鷲尾も中盤から尻上がりに調子を出して行ったが、何といっても圧倒的な存在感は、甲斐栄次郎の素晴らしいズルガだ。友情、嫉妬、怒り、自制の感情を明晰に表現し、最後の大決断を劇的な歌唱表現で鮮やかに決めた。一昨年の「サムソンとデリラ」の大司教といい、これといい、まさに胸のすくような大活躍である。

 指揮の佐藤正浩も、何のけれんもない指揮ながら、作品を実に「聴きやすく」まとめている。

2018・2・23(金)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 指揮者プレトニョフのテンポは、近年、ますます遅くなって来る。28年前、自ら創設したロシア・ナショナル管弦楽団を率いて、ブラームスの「第1交響曲」を颯爽としたテンポで演奏していたことを思うと、その変貌ぶりには驚かざるを得ない。この日の「シベリウス&グリーグ」のプログラムでも、その遅いテンポが、ユニークな音楽をつくり上げていた。コンサートマスターは三浦章宏。

 特にシベリウス。1曲目の「フィンランディア」では、前半の「アンダンテ・ソステヌート」における重々しいテンポが悲劇的なイメージを生む。金管群の荒々しいリズムもいっそう凄味を出し、何か不穏な雰囲気が渦巻くといった演奏になっていた。
 「ペレアスとメリザンド」も沈潜の極みで、この曲がこれほど打ち沈んだ表情で演奏された例を、私はこれまでに聴いたことがない。少々鬱陶しかったけれども、この作品を濃厚な悲劇性で覆った演奏として、これは納得が行くものである。
 ただし最後の「第7交響曲」は、重くて濃厚で物々しかったことは事実だが、しかしこれは予想外なほど、ストレートな流れを以って演奏されて行った。

 という具合に、プレトニョフの指揮におけるこの一種の物々しさは、シベリウスでは非常に個性的な面白さを生み出していたのだが、しかしグリーグの「ピアノ協奏曲」では、それがどうやら裏目に出て、作品の抒情的な美しさを薄めたのみならず、曲全体を散漫なものにしてしまったようで、少々腑に落ちぬところがある。
 ソリストの牛田智大の演奏も━━従ってアンコールで弾いた同じシベリウスの「もみの木」の方が、ずっと清らかで透明な、心を打つものになっていたのだった(この若手ピアニストの本領は、今日は疑いなくこの小品で素晴らしく発揮されていた)。

 最後の「第7交響曲」の演奏が始まったのは、すでに9時だった。しかもその24分の交響曲が終ったあとに、プレトニョフと東京フィルは、更にアンコールとして、シベリウスの「ポルカ」(「かわいらしい組曲」という珍しい作品の中の1曲)を演奏したのである。

 時間が延びたのはもちろんプレトニョフのテンポ設定の所為だが、ついでに東京フィルの舞台転換作業にも些か苦言を呈したい。前半の「フィンランディア」から「ピアノ協奏曲」へのセット替えなど、もっとスタッフの人手をうまく配分して要領よくやるべきである。ピアノを真中に出す作業に7分もの時間を要するようでは、お客もダレてしまう。そのかみの伝説的な練達のステージマネージャー、マーちゃんこと宮崎隆男さんがもし見ていたら、雷を落としたに違いない。

2018・2・21(水)東京二期会
 ワーグナー:「ローエングリン」初日

       東京文化会館大ホール  6時

 日本の演出家による「読み込んで、捻った」舞台は、久しぶりである。

 演出は深作健太、舞台装置が松井るみ、照明が喜多村貴。準・メルクルが東京都響と二期会合唱団を指揮。
 Aキャストの今日は、福井敬(ローエングリン)、林正子(エルザ)、大沼徹(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、中村真紀(オルトルート)、小鉄和広(ハインリヒ国王)、友清崇(布告官)他。それに黙役で円山敦史(青年時代のローエングリン)、黒尾怜央(ゴットフリート)が出る。

 いわゆる読み替え演出というものは、何の予備知識もなしにオペラを観に行って、ただ舞台を眺めて演奏を聴いて、歌劇場から一歩出た途端にすべて忘れ去ってしまうような娯楽的嗜好の紳士淑女のためのものではない。今回の深作健太の演出も然りだ。

 つまりこれは、ワーグナーの活動を資金的に援助したバイエルン王ルートヴィヒ2世が、巨匠の作品を愛するあまり、贅を尽したノイシュヴァンシュタイン城に幻想的な洞窟を作り、自らタンホイザーやローエングリンなどに扮して空想に耽っていたことや、精神科医グッデン博士とともに近くの湖で謎の水死を遂げたことなどの歴史的事実を予め承知していないと、理解し難いかもしれない舞台なのだ。
 舞台には、ルートヴィヒ2世の小さい肖像画、あるいはノイシュヴァンシュタイン城のミニチュア模型などがあるが、それらと雖も、その歴史的事実を心得ていなければ、何だか意味の解らぬ存在になるだろう。だが、いったん承知してしまえば、なかなか面白い。

 今回の演出では、「ローエングリン」のスコアを見ながら(つまり音楽を聴きながら)感動し、登場人物の動きを観ながら感動し、ウロチョロとそこらを歩き回っていた冴えない胡麻塩頭の初老男が、いつの間にか自らローエングリンと同化してしまい、それを演じる側に回ってしまう。
 これにはしかし、微苦笑を抑えきれない。考えてみると、その老人を、かりにルートヴィヒ2世でなく、一般の音楽ファンに置き換えても話が成立するだろうと思われるし、「今日のこのローエングリンはあなた自身かもしれませんよ」というメッセージにもなり得るからである(但し私はまだ、そのような空想に耽ったことはない)。

 いずれにせよ、今日の似非(?)ローエングリンは、時に姿を現す本物の(?)凛々しい美形の騎士ローエングリンに温かく、あるいは皮肉気に見守られつつ、物語の主人公を演じて行く。
 その化けの皮(?)が剥がれるのは、第3幕でエルザから氏素性を問い詰められ、敗北した時だ。ここで、悪役のはずのフリードリヒ・フォン・テルラムントが、王の主治医グッデン博士の「正体」(?)を現し、ローエングリンを拘禁する。

 このあたりから幕切れまでの一連の場面を観ていると、あのジャン・デ・カールの著「狂王ルートヴィヒ」に描かれているいくつかの場面━━グッデン博士が看護人たちに命じて「慇懃に」ルートヴィヒ2世を捕縛する場面や、湖から引き揚げられた「ワイシャツ姿の」の王(今日のローエングリンも最後はワイシャツ姿だった)、湖畔で発見されたグッデン博士の「山高帽と傘」(テルラムントはまさにその二つを有していた)などのくだりを思い出してしまう。

 もうひとつ、今回の演出で、多分重要なのは、エルザの弟たるゴットフリート少年の存在なのではなかろうか。
 冒頭、前奏曲のさなかから、中央に彼が座して物思いに耽り、後方のデジタル時計が23時59分45秒から逆行を始めるので、瞬時に「これは回想?」というイメージが頭をよぎる。また「青年時代のローエングリン」という配役表の文字の意味もすぐに判る、という具合だ━━もっとも、実際の舞台の進行は、若干こちらの予想とは違っていたけれども。
 このゴットフリートは、ほぼ全篇にわたり、舞台のどこかに出ずっぱりで、場面を見守る。ラストシーンで彼が舞台中央に屹立し、一同が膝まづくところで、再び現れた時計は0時00分00秒から先へ動き出す━━。

 日曜日には改めてBキャストの上演を観る予定なので、もう一度よく観察してみよう。
 今日の歌手陣もよくやっていたが、最も大きな拍手と多くのブラヴォ―を浴びたのは、指揮の準・メルクルだった。驚異的に速いテンポで押す。第3幕第3場の、ハインリヒ王と兵士たちのくだりなど、声楽アンサンブルが追いつかない個所もあり、いくらなんでも速すぎるという感がなくもなかったが、どちらかといえば私は、遅いテンポより、速いテンポの方が好きである。
 東京都響が好演。合唱団は第1幕の祈りの歌の個所や第2幕の幕切れなど、ゆっくりしたテンポのところでは壮大だったが、第2幕中盤の群衆の速いテンポの個所では、いかにも音が薄かった。

 演奏には、慣習的なカットがある。25分の休憩2回を含み、終演は10時20分頃。
       →別稿 音楽の友4月号 演奏会評

2018・2・20(火)山田和樹指揮東京混声合唱団「音楽で描く世界地図」

      東京オペラシティ コンサートホール  1時30分

 これはなかなか愉しいコンサートだった。
 東京混声合唱団を山田和樹(音楽監督兼理事長!)が指揮、ピアノの萩原麻未が協演して、第1部ではいくつかの国の国歌(オーストラリア、インドネシア、ロシア、イタリア、アメリカ、アルゼンチン、コモロ連合国)とその国に関連した有名な曲1曲ずつを歌い、第2部では日本の歌中心のプログラムを歌う━━という演奏会である。

 これは、現在山田と東混が展開している「アンセム(愛唱歌)プロジェクト」の一環である由。
 ステージでシリアスに歌ったり、客席に降りて歌いながら踊ったり、いろいろ趣向を凝らしながら楽しく進行させるという合唱コンサートなのだが、とにかく合唱の上手いこと。これだけ見事に歌えれば、たとえどんなに羽目を外そうとも、かえってそれがいい余興になるというものである。

 原曲がアフリカン・ポップスだという「ライオン」━━これが私の世代などには懐かしいトーケンズの「ライオンは寝ている」になるのだった━━での編曲の巧さと、踊りながら歌う東混の巧さ。
 あるいは、三善晃が編曲した「虹の彼方に」のハーモニーの美しさと、それを残響の多いこのホールで豊かに響かせ効果を上げた山田和樹の巧みな指揮及び東混の演奏水準の髙さ。
 そして、そのヤマカズのMCの明るい親しみやすさ・・・・等々、どれをとってもぴったり決まった演奏会だった。

 但し、ほんの僅かながらちょっと「弱かった」ような印象を受けたのは、ヴェルディの「ナブッコ」からの「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」での合唱で、これに関する限りは、やはり歌劇場の大合唱団の豊麗さに一歩を譲らなくてはなるまい。

 ホワイエでは、マエストロ・ヤマカズと東混が山形に行った時に食べて気に入ったという、佐藤屋の「たまゆら」という菓子が売られており、開演前にはほとんど誰も注意を払わなかったのが、本番のステージで彼が「このお菓子は美味しい」とPRしたら、休憩時間には長蛇の列ができ、ついに完売になってしまった。まこと、有名人のPRの影響力は凄まじい。彼はまた第2部で、それをネタにして会場を笑わせ、盛り上げた。客席の雰囲気が更に明るくなったのは言うまでもない。

 ともあれこれは、シリアスなかたちの中にエンターテインメント性を織り込んだ演奏会として、第一級のものである。

2018・2・19(月)METライブビューイング プッチーニ「トスカ」

      東劇  6時30分

 去る1月27日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴ映像で、デイヴィッド・マクヴィカーによる新演出。
 四半世紀の間上演されていた、あの豪華なフランコ・ゼッフィレッリ演出版のあとを受け、確か2009年頃に制作されたリュック・ボンディの演出はあまりに地味で演劇的に活気のない舞台だったのに落胆したものだが、今回新制作されたマクヴィカーのは、さすがに見栄えがする。

 映像で見たところでは、まあ適度に豪華な舞台といった印象だが、特筆されるべきは、登場人物たちの細密な演技である。かつてのゼッフィレッリの演出にも劣らぬ表情の細かさで、伏線はすべて生かされ、必要な表現もすべて生かされている(といって、マリア・カラスの舞台映像と比較するのは意味がないだろう)。

 トスカはソニア・ヨンチェヴァ、第1幕では「やきもち焼きの女」をうんざりさせられるほど念入りに表現したが、第2幕と第3幕ではもう少し悲劇性が欲しいところ。カヴァラドッシはヴィットリオ・グリゴーロ、スカルピアは当初予定のブリン・ターフェルに替わりジェリコ・ルチッチ、堂守はパトリック・カルフィツィ、その他。
 指揮は当初予定のジェイムズ・レヴァインからエマニュエル・ヴィヨームに替わっていたが、演奏は何となく微温的だ。

 休憩を含めた上映時間は約3時間。

2018・2・18(日)新国立劇場 細川俊夫:「松風」

      新国立劇場オペラパレス  3時

 日本初演の3日目(最終日)。
 作品名のクレジットが「細川俊夫/サシャ・ヴァルツ 松風」となっているところがミソ。音楽こそ細川俊夫によるものだが、舞台芸術という面から見ると、サシャ・ヴァルツは単なる「演出と振付」担当という枠を超えた、共同作者という存在にまでなるのだろう。オペラと舞踊とが一体となった新しい作品形式を━━というのは細川が目指したところだし、ヴァルツのほうは「コレオグラフィック・オペラ」という形式を確立した人でもある。それゆえ、このような表現になるのだと思われる。

 舞台演技の大半を占める重要なダンスは、これも「サシャ・ヴァルツ&ゲスツ」が受け持ち、舞台美術はピア・マイヤー・シュリーヴァーと塩田千春、ドラマトゥルグはイルカ・ザイフェルト。
 歌手陣は、「松風」をイルゼ・エーレンス、「村雨」をシャルロッテ・ヘッレカント、「旅の僧」をグリゴリー・シュカルパ、「須磨の浦人」を萩原潤。ピットで歌うヴォーカル・アンサンブルを新国立劇場合唱団。デヴィド・ロバート・コールマンが東京交響楽団を指揮していた。

 それにしてもこれは、実に素晴らしい「音楽と舞台」だ。細川俊夫の音楽、音色、響きを、そのまま視覚化したような舞台である。
 ダンスは激しく、精巧複雑を極めるが、それも登場人物の心理を見事に具現化しているように思う。特に日本的な要素はないけれども、そのイメージは底流にあるように感じられる。姉妹役の2人の歌手は、歌唱と同等にダンスをこなさなくてはならないという至難の役柄だが、これがまた見事で、舌を巻いた。

 ストーリーの概要は━━須磨の浦を訪れた「旅の僧」が、「松風」「村雨」という女の名と詩が記された札のついた1本の松に目を留め、土地の浦人に謂れを訊く。やがてその名の潮汲み女の姉妹が現われ・・・・となり、最後は「僧が目を覚ますと、いつのまにか姉妹も姿を消しており、あとには松を渡る風の音が残るのみだった・・・・」という、いかにも日本的な余韻を残す幕切れになる。能の「隅田川」にも似た幕切れだが、私はこういう余韻にたまらなく惹かれる。

 細川俊夫の音楽も、私は以前から好きだった。「海」に関連した作品を集中的に聴いた時にも、その音楽全体のつくりとともに、「自然」の中に溶暗して行くような終結には特に惹かれたものである。
 この「松風」も、最後に「風鈴」の音だけが微かに残って消えて行くところなど、いかにも彼らしい余韻と余情にあふれたエンディングだ。ドラマには、海岸に砕ける大波の音や風の音、水の音など、効果音も使われているが、細川俊夫の音楽そのものにはそうした現実音は含まれていないものの、しかしそのイメージは常に音楽の中に織り込まれているように感じられる。

 「松風」は今回が日本初演ということになるが、実はもう7年も前、2011年5月にベルギーのモネ劇場で初演されていたものだった。細川俊夫のオペラは、すでに完成されているものは6作(「リアの物語」「斑女」「松風」「大鴉」「海、静かな海」「二人静」)、作曲中のものが1作ある(プログラム冊子による)が、そのいずれもが外国の音楽祭や歌劇場や団体から委嘱されたもので、日本からの委嘱作品は一つも無い、ということだ。このあたり、何かおかしい、という気はしないだろうか?

 だが実は私も、これらの中では、過去には「斑女」と「大鴉」しか聴いていない。今回が、三つ目だ。
 その他の作品、「リアの物語」は3年前の1月、広島で上演されたのを観に行く予定だったのを、風邪をこじらせて名古屋から引き返さざるを得なかった。そして「海、静かな海」に至っては、これも2年前の2月、ハンブルク州立歌劇場での初演を観に行こうとチケットまで買っておきながら、やはりある事情のため土壇場で行けなくなったという経緯がある。いずれも痛恨の極みというほかはない。

 今回、新国立劇場がこの「松風」を上演したというのは、実に意義深いものであり、歓迎されるべきものであった。これは、今シーズンの新国立劇場のラインナップの中でも最も意欲的な、しかも調和の取れた完全な作品といえるかもしれない。

2018・2・17(土)日本オペラ協会 團伊玖磨:「夕鶴」

     新宿文化センター 大ホール  2時

 定番の出しもの。主催と制作は日本オペラ振興会。

 園田隆一郎が東京フィルを指揮して、実にまとまりのいい演奏を聴かせてくれた。オーケストラのバランスも響きも上々、全体に仄かな暗い音色で悲劇的なイメージを描き出し、各モティーフを明確に浮き彫りにする。殊更に劇的な激しい起伏を施さない控えめなつくりではあったが、この時代の團伊玖磨独特の抒情性は充分再現されていたと思う。こういう演奏で聴くと、このオペラは、やはりいい。

 歌手陣は、明日とのダブルキャストで、今日は佐藤美枝子(つう)、中井亮一(与ひょう)、柴山昌宣(運ず)、泉良平(惣ど)に、こどもの城児童合唱団、という顔ぶれ。

 演出は岩田達宗、舞台美術は島次郎。この書き割り的な舞台装置には、ちょっと寂しい感もあるが━━近年は鍋も釜も囲炉裏もないシンプルな抽象的な舞台(市川右近演出)や、「雪の幻想」的な舞台(新国立劇場の栗山民也演出)など、所謂「日本の農村風景」から離れた斬新な舞台も現われて来ている時代だし━━まあしかし、岩田達宗らしく温かい演出は随所に観られた。

 特に後半、運ずの与ひょうに対する同情と労わりを前面に強く押し出していたのが印象的だったし、惣どが織り上がった「布」を与ひょうから強奪するなどの手荒い演出がなかったのにもほっとした。幕切れ近く、つうと遊ぼうと集まって来た子供たちが、つうの代わりに奥から惣どがぬっと現われたのを見て、ぎょっとしてたじろぐという演出は、細かいことだが、なかなかよかった。

 所謂「涙もの」の人気定番だけあって、客の入りは上々だが、大半が女性客、そして圧倒的に高齢者という客席である。それはそれで結構ではあるものの、家族連れを除けば若い世代の客がほとんど見当たらないのには暗然とする。
       ☞別稿 音楽の友4月号 演奏会評

2018・2・16(金)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 これは定期。第1部にチャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」と、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソリストはニコライ・ルガンスキ―)、第2部にラヴェルの「クープランの墓」とレスピーギの「ローマの松」。
 かように、ロシアものとラテン系作品とを組み合わせたちょっと風変わりなプログラミング。コンサートマスターは長原幸太。

 しかし、このラテン系の2曲の演奏が結構面白かった。
 「クープランの墓」など、テミルカーノフも読響も思い切り優雅にやっているつもりなのだろうけれど、聴いた印象ではやはり何か骨太で、どっしりしていて、いかつい雰囲気が感じられるラヴェルだったのには微苦笑させられ、これはこれで愉しめたのだった。

 そして、「ローマの松」の方はすこぶるスペクタクルで、「アッピア街道の松」冒頭などのようなミステリアスな個所には重厚なものものしさがある。ラテン系の指揮者が振った時のような開放的な明るさの代わりに、全体に不思議な陰翳が漂うという、そのような「ローマの松」だったのである。なおバンダはP席最後方の両側に配置されていた。

 前半は、ロシアものだから、もちろん予想通りの世界。「パガニーニの主題による狂詩曲」では、ルガンスキーも楽々と弾いていた。
 その昔、NHKの「希望音楽会」というラジオ番組(まだFMも無かった時代)のテーマ曲にこの第18変奏が使われ、「あれ、なんて曲だ?」と大変なセンセーションを巻き起こしたことを記憶している人も、もうだんだん少なくなっているだろう。あまりいい曲なので、「全曲を聴いてみたい」という「希望」が殺到したため、ついに同番組で全曲が演奏されたのだが、「あそこ(第18変奏)はいい曲なんだけど、あそこへ行くまでが長くてつまんないんだよねえ」という人も少なくなかった。今聴けば、全然そんなことはなく、最初から面白い曲だと思えるのだが・・・・やはりそれは、その時代の「耳」というものだったのだろうか?

 「フランチェスカ・ダ・リミニ」は、最近のテミルカーノフの、あまり芝居気のない坦々とした表現がやや物足りないといえば物足りなく━━というより、これは畢竟、作品自体の性格による限界だろう。この曲はやはり、指揮者のある程度の演出の助力なしでは、その力を発揮できないという曲なのではないかと思う。

2018・2・14(水)こんにゃく座公演「天国と地獄」

    俳優座劇場(六本木)  2時

 オペラシアターこんにゃく座(代表&音楽監督・萩京子)の公演。
 こんにゃく座の公演を観に行ったのは随分久しぶりのことになるが、いかにも手作り公演といった温かい雰囲気を感じさせるところは、昔に変わらない。ホワイエに立ち並ぶスタッフからしてそうだ。これがこんにゃく座の良さ、というものだろう。

 「天国と地獄」とは、もちろんオッフェンバックの喜歌劇のこと。今月8日にフタをあけ、18日まで連日上演される。
 ストーリーと音楽は基本的にオリジナルに沿っているが、そこはこんにゃく座ならではの制作、台詞は日本語訳のかなり自由に再編されたものが使われ、音楽も小編成の「楽士」(ピアノ、ヴァイオリン・クラリネット・ファゴット各1、打楽器)たちによる演奏、となっている。
 編曲は萩京子と寺嶋陸也、台詞・訳詞・演出は加藤直、舞台美術は杉山至。歌手陣は大石哲史(ジュピター)、沢井栄次(オルフェ)、高野うるお(プルート)他。その他の人たちは、大半がダブルキャストだ。

 歌唱は、音程の定まらぬ人や、声量の不足する人、歌よりも絶叫になってしまう人━━なども若干いたけれども、所謂ミュージカルの専門と称する某有名団体の上演などとは格の違う水準にある人が多い。
 一方、演技という面ではちょっと野暮ったいところがなくもないが、まあそれは良くも悪くも、今の日本のオペラ歌手さんたちの平均的傾向かもしれない。

 いずれにせよ、自然な笑いを呼ぶためには、舞台にもう少しスムースな流れが欲しいところである。前半、第1幕第2場の天国の場面などは比較的しっくり行っていたものの、後半の、特に第2幕の「地獄の場」後半などでは、クライマックスへの流れに中だるみが生じるところもあった。最後の一押しという場面でも、どちらかといえばドタバタ騒ぎが優先されて、ドラマとしての盛り上げに不足していたのは惜しかった。

2018・2・11(日)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 土曜マチネーシリーズ。
 チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」とラフマニノフの「交響曲第2番」。テミルカーノフは、4年前の1月にサンクトペテルブルク・フィルを率いて来日した際にも、この2曲を併せたプログラムを組んでいた。

 協奏曲での今日のソリストは、ニコライ・ルガンスキ―。余裕をもった演奏ぶりだ。瑞々しい音色も相変わらず。ことさらなヴィルトゥオーゾぶりを誇示することなく、しかし闊達に、少し自由な感興をも交えて弾く。このソロが、どっしりと力感豊かに音を響かせる剛毅なオーケストラと微妙に拮抗しつつ進んで行く・・・・という具合だったのだが、豪華さや華麗さは充分だったため、結構愉しめた演奏になった。

 一方のラフマニノフの「第2交響曲」は、骨太で豪壮で、色彩感にも不足はなかったものの、響きに強弱の幅があまり無い━━つまりフォルティッシモとピアニッシモとの対比があまり際立っていなかったことが、一種平板な演奏という印象を生んでいたような気もするのだが如何? 2階席正面最前列で聴いた限りでは、オーケストラのテクスチュアも、必ずしも明晰に響いていなかったように思う。
 もっとも、日記を繰ってみると、4年前のサンクトペテルブルク・フィルとの演奏の時にも同じような印象を得ていたようである。とすれば、これらはテミルカーノフの意図的なアプローチなのかもしれない。また、今回も4年前と同様、「短縮版」が使われていたので、演奏時間も46分程度になっていた。

 テミルカーノフ、今回はあまり体調がよろしくないとかいう話(咳が出るとか?)。終演後に楽屋を訪ねてご本人に具合を訊いたら、「そうなんだよ、参っちゃったよ」と胸を押さえて顔を顰めていた。「お前は大丈夫なのか」と訊くので、こちらもそうはっきり言えるほどの状態ではないけれど、一応「元気、元気」と答えておく。今回の読響との、22日までの演奏会が無事に済むよう祈る。

2018・2・10(土)準・メルクル指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  2時

 今シーズンのインフルエンザは、「すでにA型をやった者でも、また改めてB型をやることができる」とかいう変なシステムなんだそうだが、私は暮の「A」が治って以降もずっと風邪気味だったとはいえ、幸い未だ「B」には至っていない。それでも、酷い咳が随分長引いた。そのため自粛して、かなり多くの演奏会を諦めざるを得なかったが、どうやら九分通り回復したと思われたので、久しぶりに準・メルクルが都響を振る名曲マチネーを聴きに行った次第。

 今日はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」(ソリストはエドガー・モロー)、シューマンの「第3交響曲《ライン》」というプログラムである。コンサートマスターは四方恭子。

 準・メルクルの指揮、相変わらず率直で颯爽として、この人らしく爽やかだ。見方によっては、あっさりした演奏━━という印象もなくはない。だが、テンポ運びが良く、例えば「フィンガルの洞窟」の嵐の場面や終結の個所、あるいは「ライン」の終楽章コーダなどでのたたみこみや追い上げの呼吸など実に鮮やかなので、それなりの愉しい充足感は得られるというものである。

 一方、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲を弾いたエドガー・モローはパリ生まれの24歳、これまた爽やかで、いわゆる民族主義音楽的な色合いの代わりに、洒落た味を漂わせるといったソロだ。それゆえ、美感だけが目立つ演奏になったきらいもあるが。

 定期ではなく、「プロムナード・コンサート」だったせいか、オーケストラにも多少寛いだ甘いところがあったが、まあ人間の集団だから、致し方ない(以前インバルが振っていた頃には、たとえ定期でなくても隙のない、厳しい演奏を聴かせたものだが・・・・)。

2018・2・6(火)札幌交響楽団東京公演

     サントリーホール  7時

 恒例の東京公演は、今シーズンで首席指揮者としての契約を終えるマックス・ポンマーの指揮で行なわれた。コンサートマスターは大平まゆみ。

 今回はベートーヴェンの交響曲を二つ━━「田園」に「運命」という、いかにも古都ライプツィヒ生れの老練指揮者らしいプログラムが組まれたが、事実、今日の演奏にも、今世紀に入ってからはほとんど聴けなくなったような懐かしいスタイルが滲み出ていた。

 それは、古色蒼然などという言葉で片づけられるようなものでは決してない。かつての東独の佳き指揮者たち━━オトマール・スウィトナー、ハインツ・レークナーなどといった名指揮者たちの流れを今に受け継ぐ、落ち着きのある滋味にあふれた演奏なのである。
 誇張も、華やかさも、殊更な威勢の良さも全く無いのだが、その飾り気のない語り口の中に、ハッとさせられるような微細な、自然なニュアンスの変化が聴かれる。大きな起伏と強靭なアクセントが、揺るぎのない芯の強さを感じさせる。

 その最良の例が、「第5番《運命》」だったであろう。第2楽章にこめられた温かい情感もさることながら、特に第4楽章の展開部における頂点では、音楽が並外れて立派に、しかも温かく聳え立っていた。決して力任せでなく、しなやかでありながらも壮大な、かつ感情のこもったこのような《運命》の展開部の演奏は、絶えて久しく聴いたことがなかったほどである。

 これだけのヒューマンな演奏を実現させただけでも、マックス・ポンマーと札響の3シーズンの活動は意義あるものだったと言っても、敢えて誇張にはならないだろう。
 アンコールには、バッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」が演奏された。バッハゆかりの地、ライプツィヒ出身のポンマーが贈ってくれた別れの歌である。

2018・2・3(土)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      ティアラこうとう大ホール  2時

 「ティアラこうとう」は、1200席程度の中ホールである。シティ・フィルは、メインの東京オペラシティコンサートホールでの年9回の定期の他に、このティアラこうとうで年4回の定期を開催しているのだが、ホールの規模は小さいけれども、お客さんの雰囲気は、むしろこちらの方が温かいような気がする。

 今日はこのホールでの第52回定期。桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎の指揮で、モーツァトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」というプログラムだった。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 「ドン・ジョヴァンニ」序曲での演奏は、序奏からして重々しい悲劇的性格を感じさせ、主部に入ってもその陰影に富んだ色調が続いて行く。このあたりは飯守ならではの味だろう。シティ・フィルも完璧に応えている。

 「悲愴」は、最初は坦々と進んで行くように感じられたが、第1楽章の展開部の終りあたりからは、音楽が俄然、剛直で激烈な色合いを帯びて来た。
 再現部の第277小節(【Q】)以降になると、あのシティ・フィルが━━などという言い方は今やもう通用しない時代になっているほど、この楽団の演奏水準は上がって来ている━━魔性的な咆哮と慟哭を、怒涛のように繰り返す。ここは飯守が常に「狂気のようになる」くだりだそうだが、近年の演奏━━例えば今日の演奏などでは、その激情もバランスのいい構築になって来ているし、シティ・フィルの音色にも混濁がないので、感銘もいっそう深くなるだろう。
 この激しい慟哭のあとの抒情的な第2主題、あるいは第2楽章も深い情感にあふれており、特に第4楽章は極めて高い格調に満たされていた。

 ベートーヴェンの協奏曲では、未だ20代後半ながら赫々たるキャリアを積んでいる青木尚佳がソリストに招かれていた。
 私は不勉強にして彼女の演奏を聴いたのはこれが初めてなのだが、実はよく解らない━━というのは、このベートーヴェンでの演奏が、あまりにメリハリに乏しく平板で、しかも生き生きした表情が感じられぬものであり、主題が常に同じ表情で繰り返されるのにも唖然とさせられたのである。何かの理由で、無理して抑えて弾いていたのか? 
 だがその一方で、短いカデンツァの個所では、人が変わったように自発的な、勢いのいい音楽をつくり出していたのだ。短いソロの、ほんの2、3秒の間に彼女が聴かせたカデンツァには、ハッとして腰を浮かせたくなったほどの、素晴らしい輝きの高揚が感じられたのである。こちらの方が彼女の本領じゃないのか?

2018・2・22(木)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団 B定期

     サントリーホール  7時

 タケミツとワーグナーを組み合わせて指揮する指揮者など、そう多くいるとは思えない。この両極端ともいえるサウンドを、同じ平面の中で、一つの流れの中で捉えることのできる指揮者でなければ不可能なわざだろう。
 だが試みとして、タケミツの音楽を拡大したのがワーグナーの音楽であり、ワーグナーの音楽を鋭く集約したのがタケミツの音楽である━━と大胆に解釈してみるのは、たしかに面白いことかもしれない。

 第1部は諏訪内晶子をソリストに武満徹の作品2曲。「ノスタルジア~アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」と「遠い呼び声の彼方へ!」だった。このうち、ある「清澄な官能美」というものの陶酔感を味わわせてくれたのが、後者の「遠い呼び声の彼方へ!」である。

 第2部はワーグナーの「ニーベルングの指環」管弦楽曲集と題して、「ワルキューレ」の「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」に始まり、「ヴァルキューレの騎行」に続き、そして「ジークフリート」の「森のささやき」のあとに「神々の黄昏」からの「ジークフリートの葬送行進曲」と「ジークフリートのラインへの旅」と続いて、最後に「ラインの黄金」からの「神々のヴァルハル入城」で終るという、世にも不思議な配列のプログラム。

 これは最近流行りのメドレー編曲版ではなく、演奏会用編曲版を順に演奏して行く形が採られている。ただし「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」は、声のパートを金管に置き換えて編曲したものが使われており、これはジョージ・セルなども使っていた版だが、私はあまり好きではない。ヴェスコ・エシュケナージを客演コンマスに迎えた見事な腕前のN響を制御して引き出したパーヴォの指揮は予想通り、濃厚さとかデモーニッシュな力とかには全くこだわらないワ―グナーだった。

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