2018-05

2017・12・26(火)痛恨! 大野和士指揮の「第9」を聴き逃すこと

 
 その大野和士と東京都響の「第9」を聴き逃したのは、痛恨の一事。

 インフルエンザなど、私はこの数十年来、罹った覚えがないのに、なぜか今年はやられてしまった。24日(日)夜に発熱、25日朝には39度に達したのだが、しかし、すぐに病院に行ったのがよかった。医者がくれた解熱剤だか抗ウィルス剤だかを服用したら、10分も経たぬうちに熱が下がってしまった。最近のクスリは実に凄いものである。
 というわけで、もうとっくに平熱なのだが、咳が未だ止まらないし、だいいちインフルとあっては、演奏会場に顔を出すなど、もってのほか。かくして今日聴きに行く予定だった大野=都響の「第9」は、電話で欠席連絡をして諦めた次第である。噂に聞くと、昨日も一昨日も、素晴らしい演奏だったそうだ。惜しいことをした。

 結局これで、今年はおしまい。新年は1月の多分第2週から。良いお年を。

2017・12・21(木)「オペラ夏の祭典2019-20」 発表記者会見

       ホテルオークラ東京  1時30分

 面白そうなプロジェクトが発表された。発案者は大野和士。

 2020年のオリンピックとパラリンピック開催に合わせ、新国立劇場(大野和士が次期オペラ部門芸術監督)と東京文化会館が共同制作し、大野自身の指揮で、2019年7月~8月にプッチーニの「トゥーランドット」を、2020年6月にワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を両ホールで上演するという企画である。
 そもそも「国」と「都」とが共同で文化事業を行なうというケースは今回が初めての由。これも興味深い。

 その上、「トゥーランドット」は、びわ湖ホールと札幌文化芸術劇場が上演に参加、新国立劇場合唱団と藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブル、バルセロナ交響楽団(大野和士が音楽監督)が出演。
 一方「マイスタージンガー」は、東京文化会館と新国立劇場の他に兵庫県立芸術文化センターも7月に上演に参加することが予定され、新国立劇場合唱団と二期会合唱団、東京都交響楽団(大野が音楽監督)が出演する、ということが発表されている。

 歌手陣は、国際的に音楽祭の盛んな夏の時期にもかかわらず、イレーネ・テオリン(トゥーランドット)、サイモン・オニール(カラフ)、トーマス・ヨハネス・マイヤー(ザックス)、アドリアン・エレート(ベックメッサー)らが来日するということだし、日本勢も中村恵理、砂川涼子、妻屋秀和、青山貴、林正子らが登場するとのことだから、いいプロダクションになりそうだ。

 ともあれ、中心は、「国」と「都」の双方の文化組織に重要なポストを持つに至った、大野和士である。彼がシェフを務める新国立劇場、東京都交響楽団、バルセロナ交響楽団をすべてプロジェクトに参加させるということからみても、いよいよ「あの大野和士」が新しいことをいろいろやり始めた、という雰囲気が伝わって来る。
 私は、20年以上も前のことだが、新しく出来る東京国立歌劇場(名称は新国立劇場となったが)を芸術面で担うべき中心的人物として、「まず海外の歌劇場で実践を積んだ若杉弘、そしておそらく20年ほど未来に大野和士」の名を挙げ、それを「グランドオペラ」だったか「音楽の友」だったかに書いた記憶がある。若杉氏は志半ばで世を去ってしまったが、今、大野氏が日本のオペラ界に果たすべき役割は限りないものがある。彼の活動を、期待を込めて見守りたいと思う。

 ただ、━━今日の記者会見で、壇上に並んだ東京都や新国立劇場など、上演関係団体の代表たちの表情と挨拶は、何だかおそろしく堅苦しくしかつめらしいもので(びわ湖ホールの山中隆館長だけは少し柔らかかったが)、フリートークで闊達に話す大野和士と極端な対照を見せていた。
 過去の例から私が気になるのは、意気に燃える音楽家と、こうした表情に象徴される団体の堅苦しい組織・姿勢とのギャップである。これからの現実の活動面において、これらがうまく調和して行くよう、心から願うのみである。

2017・12・19(火)小林沙羅ソプラノ・リサイタル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 人気のソプラノ、小林沙羅のリサイタル。協演が鈴木優人(ピアノ)と川久保賜紀(ヴァイオリン)。
 これは、「東京オペラシティ リサイタル シリーズ」の「B→C(バッハからコンテンポラリーへ)」の第197回にあたるものだ。

 さすがにこのシリーズに相応しく、プログラムには、バッハの「カンタータ第36番」からの1曲をはじめとして、モーツァルト、ベートーヴェン、マルクス、プフィッツナー、ライター、シェーンベルク、さらに山田耕筰、池辺晋一郎、藤倉大、中村裕美といった日本の作曲家たちまで、実に幅広い作曲家の作品が含まれている。
 彼女が委嘱した曲もあり、また自ら作詞した曲もある。特に藤倉大作曲の「きいて」と「夜明けのパッサカリア」は彼女の委嘱作品で、今回が初演という。
 また、アンコール曲の最後に歌った歌曲「えがおの花」も、彼女自身の作詞・作曲によるものの由。

 その上、プログラム冊子に掲載されている外国の歌曲の訳もすべて彼女自身による。多才なひとである。衣装も凝りに凝って、あれこれ変えてやってみた、とエンディングのトークで語っていたけれども、私は情けないことに女性の衣装に関しては全くのオンチなので、「はあ、そうでしたね」と思った程度で、申し訳ない。

 正味90分、沙羅さんは、美しく清純な、輝きのある声で歌い通した。
 とりわけ冒頭で、無伴奏で歌った前述の「きいて」という短い歌では、「聴いて/聴いて・・・・」とさまざまなタイプの声を駆使して繰り返す歌唱が、まるで複雑なディレイのエコーをかけたような効果を出していて、よくあんな面白い歌い方ができるものだと舌を巻かされたものである。
 かような明晰極まる日本語の発音が、山田耕筰の音程の跳躍の激しい旋律線を持った作品でも保たれていたなら、さらによかったろう、とは思ったが・・・・。しかし、とにかく気持のいいコンサートだった。

2017・12・16(土)いずみホール・オペラ ドニゼッティ:「愛の妙薬」

      いずみホール(大阪) 2時

 今日は、日帰りで大阪。

 いずみホール得意のセミ・ステージ形式上演オペラ。これまで多数の上演を重ねて来ているが、2011年から河原忠之のプロデュースと指揮で進められて来たシリーズは、この「愛の妙薬」を以って一つの区切りとするとのこと。
 今回は、その河原忠之が指揮するザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団と同合唱団、石橋栄美(アディーナ)、中井亮一(ネモリーノ)、黒田博(ベルコーレ)、久保田真澄(ドゥルカマーラ)、田邊織恵(ジャンネッタ)の出演。演出が粟國淳。

 オーケストラは最初のうちリズムが重く、活気にも少々乏しい傾向があったが、場を追うに従い、ノリもよくなり、第2幕では見違えるほどの明るさを出した。全体として、ドニゼッティの音楽の愉しさを堪能させたことは確かである。

 粟國の演出は、ストーリーを現代のオフィスに置き換えていたが、オルガン下のスペースを巧みに活用し、狭さを全く感じさせない演技空間としてつくり上げたのは、さすがというほかはない。
 大道具などもあまり無いにもかかわらず、オペラハウスで要領の悪い演出を見るよりも遥かにまとまりのいい、凝縮した、陽気で温かいステージが創られていた。これは、彼がこのホールの特性を完璧に手中に収めていたことの証しであろう(演出助手は唐谷裕子)。照明プラン(原中治美)もなかなかいい。

 そして、歌手陣はみんな、歌も演技も上手いこと。
 石橋はこのアディーナ役は初めてというのは意外だったが、いつもの伸びと力のある声で熱演していた。発声にいっそうの緻密さが加わればさらに素晴らしくなるだろう。第1幕でのパンツ・ルックは、実に生き生きして魅力的だった。

 また、中井はこの気の弱いネモリーノを歌い演じて完璧であり、黒田も押しの強い軍曹ベルコーレを「横柄でなく、少しお人好し気味に」歌い演じて見事。久保田もドゥルカマーラを「いかにも信用されそうな風格のインチキ薬売り」らしく堂々と歌い演じた。田邊のジャンネッタ役は大収穫で、ふつうの演出ではさっぱり目立たぬこの役が、今回ほど生き生きした「オフィスの女性」に見えたことはない。
 その他にも見事だったのはザ・カレッジ・オペラハウスの合唱団、特にその女性団員たち(6人)だ。少人数だけに、特に第1幕のオフィスの場面では、その闊達な演技と歌唱が鮮やかに印象づけられた。

 字幕の制作と操作は藤野明子。この文章は明るく、しかも読みやすく、秀逸。物語の内容と舞台の雰囲気にぴったり合った訳文とは、こういうものを謂うのである。

 「いずみホール・オペラ」のこのシリーズは、次の3年ほどはバロック・オペラに取り組むそうである。

2017・12・14(木)田中信昭指揮東京混声合唱団定期演奏会

      東京文化会館小ホール  7時

 朝8時半のANA052で帰京。今回はホテルを札幌駅北口のすぐ前に取っていたため、空港行きの「エアポート」に乗るのは楽だったが、それでも昨日のオペラでの9時間ほぼ立ち通し(現場が好きだからとイキがったのがいけない)と、2日続けての早起きとは、このトシでは意外に負担が大きかったことがやっと判明。
 昼間はあれこれの仕事で昼寝もできず、結局そのまま、文化庁・芸術文化振興基金助成事後調査の仕事として、東京混声合唱団の演奏会を聴きに行く。

 だが、疲れたなどと泣き言を言っているわけには行かない。「東混」の創立者にして元常任指揮者、元音楽監督、現桂冠指揮者の田中信昭さんは、確か来月1日で90歳になるはずなのに、びっくりするほど元気だ。エネルギッシュに新作を次々に指揮するだけでなく、カーテンコールでも壮者を凌ぐ素早い動作で飛び回る。その元気さには、ただもう、驚嘆するのみである。
 今日、彼が指揮したのは、プーランクの「クリスマスのための四つのモテット」、高橋悠治の「鳥籠」(2011年)と「林光に」(2012年)、篠田昌伸の「言語ジャック」(2017年)。

 「言語ジャック」は、たとえば1曲目では、「新幹線の車内案内」の言葉/歌詞と、それをもじった同じ量の歌詞とを組み合わせ、同時に響かせるなどして、言葉による音のコラージュ(?)を展開した、7曲からなる合唱作品。ここではピアノ(中嶋香)も加わる。
 すこぶる凝った面白い曲想だが、ただしこの微細なサウンドが7曲続くと、耳と感覚に少々負担を生じさせなくもないが・・・・。
 会場はほぼ満員。

2017・12・13(水)オペラファクトリー北海道 旗揚げ公演

     円山カンタービレ(札幌)  3時、5時、7時

 羽田発9時のANA055便で札幌へ向かう。
 氷点下何度だとか、吹雪だとか、市内の道路はスケートリンク状態だとか、さんざん脅かされ、期待して(?)向かったのだが、いざ着いてみれば、新千歳も快晴、札幌市内も晴、道路もそれほど凍ってはおらず。昼頃の市内はマイナス2度とかで、凛冽たる寒さだが、空気は気持がいい。

 会場の「円山カンタービレ」は、札幌市内の南1条西19丁目にあるクラシック音楽のバー。20数名の客席だが、ミニ・リサイタルもしばしば開催しているという。
 今日はここで「カルメン」の抜粋が演奏された。出演は、大平まゆみ(札響コンサートマスター)、荒木均(同チェロ)、伊藤千尋(ピアノ)、岡崎正治(ドン・ホセ、北海道二期会)、中原聡章(エスカミッロ)、松田久美(カルメン、札幌室内歌劇場)、亀谷泰子(ミカエラ、LCアルモニカ)。

 岡崎さんと中原さんが、短い繋ぎのセリフを入れるなどして総計40分の長さのミニ・オペラに構成。オケ・パートの三重奏への編曲と日本語訳詞は岡崎さんが担当している。
 岡崎さんは、2015年1月に北海道二期会公演のセミステージ形式上演「アイーダ」で堂々たるラダメスを歌っていたのを聴いたことがあるが、こういうことまでやるとは、大変な多芸多才だ。もっとも、荒木さんにしても行政書士と居合道の人だというから、音楽家は凄いものである。

 とにかく全員が入魂の大熱演。歌手のフル・ヴォイスで、小さなバーも家鳴り震動、壁に懸けてあるグラスがチリチリと鳴る勢い(誇張ではなく、リハーサルの時には本当にそうだったと、店のマスターの浜谷洋さんが言っていた)で、3回公演とも満席のお客さんたちを喜ばせていた。

 たとえ室内楽編曲による抄演であっても、オペラに馴染みのない人にその楽しさを知ってもらうという意味でも、これは有意義な試みである。しかし、この「オペラファクトリー北海道」の立ち上げの目的は、それだけではない。来年秋に杮落しとなる札幌文化芸術劇場(愛称hitaru)が、北海道のオペラ団体やグループの活発な活動の場となることをアピールする目的も含まれているという。

 私のように外部から見ていても、たしかにこの新しく建てられる劇場が負うべき、北海道の音楽文化に於ける責任は、極めて大きなものがあると思える。道外から演奏者を招聘してオペラを上演するのも結構だが、それとは別に、地元のオペラを積極的に支援し、育成する使命を負う必要があるだろう。いっぽう地元のオペラ団体も━━「ひろしまオペラルネッサンス」のように━━各団体が結集して優れたオペラ上演を実現すべく、協力すべきではなかろうか。
 いずれにせよ、地元のオペラが育たなければ、北海道オペラ界は、単に植民地に留まってしまう。

 ━━そういう将来の目的を掲げ、既存のオペラ団体の枠を超えて歌手が協演した今回の「カルメン」。小さな一歩だが、応援したいものである。

2017・12・12(火)コルネリウス・マイスター指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 読響の首席客演指揮者に今秋就任したばかりのコルネリウス・マイスターの指揮で、マーラーの「交響曲第3番」。
 協演は藤村実穂子(Ms)、新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年合唱団、フレーベル少年合唱団。合唱指揮は三澤洋史、コンサートマスターは長原幸太。

 カンブルランが常任指揮者を務める読響に首席客演指揮者として登場したマイスターは、シュトゥットガルト州立歌劇場では、カンブルランのあとを襲って来年から音楽総監督に就任する。不思議な縁である。
 1980年ハノーファー生れというからまだ若い。読響とじっくり呼吸のあった演奏ができるまでには、未だもう少し時間が必要かもしれない。

 マイスターの指揮は、どちらかといえば軽量の、すっきりした音による健康的なマーラー、といったタイプか。特に第6楽章での弦楽合奏の歌など、マーラーの清澄な叙情という趣を出して、美しかった。

 しかし、より見事だったのは、やはり藤村実穂子の歌唱だ。今日は立ち位置が指揮者の真正面の至近距離(つまり指揮者の譜面台のすぐ奥)という、一風変わった場所だったが、いったん彼女が歌い始めるや、指揮者とオケの存在をすら忘れさせるほどの強烈な力を放射するのだから凄い。

 今日の読響は、アインザッツが━━というよりも、いわゆる「出」が合わないことが時々あったのは、珍しいことだ。最後のクライマックスへ盛り上がるその最初の聴かせどころであるトランペットとトロンボーンの「出」の4分音符がずれる、などというのは、どう見ても締まらないケース。
 他にもヒヤリとさせられたところがあったのだが、それは措くとして、もしこういうのが指揮者の棒の所為だったのなら、藤村さんが妙に指揮者の目の前に近づいた位置で歌っていたということも、それに関係があるのか、ないのか。
 まあ、とにかく、今後のマイスターと読響の共同作業を見守ることにしよう。

2017・12・10(日)ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団

      サントリーホール  6時 (後半のみ)

 川崎の「ドン・ジョヴァンニ」の演奏が終ったのが6時少し過ぎ。
 いつもなら最後まで拍手を続けるところだが、今日はカーテンコール1回分だけで失礼して、6時18分の東海道線に飛び乗って新橋まで行き、タクシーで赤坂溜池へ駆けつけ、6時50分にサントリーホールに着く。

 ワレリー・ゲルギエフ得意の超重量コンサート「ラフマニノフ特集」の「夜の部」は、「ピアノ協奏曲」の第3&第4番と「交響的舞曲」なので、どうせ7時に着いても「4番」のさなかだろうし、最後の「交響的舞曲」だけでも聴ければいいと思っていた。
 ところがホールの前まで行くと、どっと人が出て来る。たった今「3番」が終り、休憩時間になったところだという。最初にセレモニーがあったそうで、ゲルギエフのスピーチなどがあり、時間が押していたのだそうだ。

 おかげで、デニス・マツーエフがソロを弾く「4番」も、まるまる聴くことができた。
 「ピアノをぶっ壊しそうな」いつもの彼の勢いは、曲想の関係もあってあまり発揮されていなかったが、それでもゲルギエフの巧みな、色彩的なサポートのせいもあって、この曲をこんなに面白く聴いたのは初めてだと言ってもいいくらいの演奏が聴けた。

 アンコールにはラフマニノフの「音の絵」の「作品39の2」が演奏されたが、ゲルギエフがステージ下手の高い山台の傍に立ったままじっと耳を傾けていたのは、いつもの通り。ただ、この時のゲルギエフの姿が、何かやはり年とったな・・・・という感じに見えたのが、ちょっと気になったけれども。
 まあ今日は、午後にマチネーが一つあり、そこではラフマニノフの第1番と第2番のピアノ協奏曲および長大な「第2交響曲」を指揮していたはずだから、鉄人ゲルギエフと雖も疲れていたのかもしれない━━終演後に楽屋を訪ねた時には、いつになく消耗しているように見えたし。

 プログラムの最後は、「交響的舞曲」。決して威圧的にはならないけれど、豪壮で豪華な雰囲気をもった演奏である。パレフのデザインとも共通するような、ロシアの色彩感に満たされた演奏がゲルギエフらしい。第1楽章での、最強奏のあとに潮が引いて行くようなデクレッシェンドを聴かせる個所は私の好きなところだが、マリインスキー劇場管もこういうくだりを実に楽々と演奏しているのだった。
 アンコールは何と、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」からの「スケルツォ」。

 例の如く、ゲルギエフの演奏会の所要時間は長い。このあと、サイン会が行われるとかで、その行列はホールの袖の入口からメイン・ロビーまで、ぎっしりと続いていた。終りは何時になったやら。

2017・12・10(日)ノット指揮東京響 モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 これは東京交響楽団の定期ではなく、ミューザ川崎シンフォニーホールの主催公演。ジョナサン・ノット指揮で、「ドン・ジョヴァンニ」の演奏会形式上演だが、原純の演出もつく。

 出演は、マーク・ストーン(ドン・ジョヴァンニ)、シェンヤン(レポレッロ)、ローラ・エイキン(ドンナ・アンナ)、アンドリュー・ステープルズ(ドン・オッターヴィオ)、ミヒャエラ・ゼーリンガー(ドンナ・エルヴィーラ)、クレシミル・ストラジャナッツ(マゼット)、カロリーナ・ウルリヒ(ツェルリーナ)、リアン・リ(騎士長)、新国立劇場合唱団。

 昨年12月の「コジ・ファン・トゥッテ」と同様、ノットのテンポは、すこぶる速い。小気味よいというか、痛快無類というか、序曲をはじめ各ナンバーが、疾風の如く飛んで行く。モーツァルトの音楽が備える運動性をひたすら追求したともいえる「ドン・ジョヴァンニ」の演奏である。
 第2幕フィナーレの、ジョヴァンニと騎士長の丁々発止の応酬の個所のさなかでテンポを大きく調整するという手法はあったものの、概して一気呵成に飛ばし続けたノットの指揮だった。

 昨年の「コジ」と同様、登場人物の性格を微細に描くというニュアンスはやや犠牲にされていたけれども、音楽的にスリリングな迫力が生み出され、それがかなりの程度まで成功していたという点が、「コジ」と「ドン・ジョヴァンニ」の音楽がそれぞれ持つ特質の違いだろう。
 東京響(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)は、このノットの怒涛のテンポに容易く合わせて行き、第2幕後半では少し乱れが生じたものの、指揮者との良き関係を感じさせた。歌手陣の出来も手堅い。

 演出は原純。新国立劇場の「ばらの騎士」では、いつもは第1幕の髪結師として、テノール歌手の高音に顔を顰めたり、他の人物とやり合ったりして、派手な大芝居を楽しませてくれている人だが、昨日は姿が見えなかったのは、さすがに川崎での演出の仕事とのカケモチは無理だったのだろう。

 彼の本職の演出はこれまでにもいくつか観たが、さて今日の演出はというと、これはまことに残念ながら、彼の本領が発揮されたものとは、些か言い難い。ドン・ジョヴァンニが騎士長の強制により、金縛りに遭ったかのように拳銃を自ら頭に擬して死を選ぶとか、第1幕終結近くの「3つのスタイルの舞曲」が交錯する場面で楽器群を広い舞台に点在させるとかいった趣向はいいと思うが、何より舞台空間が「だだっ広すぎ」て、それを扱いかねていたようにも感じられてしまったのだが、如何なものだろうか。

2017・12・9(土)清水和音 ベートーヴェン4大ピアノソナタ

     東京オペラシティ コンサートホール  6時 (後半のみ)

 新国立劇場での「ばらの騎士」が終ったのは6時15分頃だったか。席が列の真中だったし、さっさと出るのは演奏者に対して非礼だから、いつも通りカーテンコール3回分ほど拍手を贈って、周囲の客の動きに合わせて外に出る。

 隣のオペラシティコンサートホールでは清水和音がベートーヴェンの4大ピアノ・ソナタ━━「悲愴」「ワルトシュタイン」「月光」「熱情」というリサイタルを開催している。その後半の2曲だけ、聴くことができた。

 清水さんの演奏を初めて聴いたのは、彼が1981年に20歳でロン=ティボー国際コンクールに優勝したその翌年だった。私がFM東京で、各国コンクールで優勝または上位入賞した若手奏者を集めた協奏曲演奏会(他に若き日の藤井一興さん、漆原啓子さん、工藤重典さん、三上明子さん、山畑るに絵さん、山下和仁さん、藤原真理さんら、錚々たる人たちが出演した)を、2日連続で東京厚生年金会館から公開生中継する番組を制作・演出した時である。

 あの時には、彼はチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を、冒頭から猛烈な迫力で弾きはじめ、そして猛烈なテンポで弾きまくり、聴衆を大いに沸かせたものだったが、━━特にゲネプロで彼が弾きはじめた時には、客席で準備をしていた営業や代理店などの関係スタッフ全員がびっくりしてステージの方を振り向き、そのまましばらく聴いていたのを、今でも記憶している。

 それから幾星霜を経た今も、清水和音のその「やんちゃ坊主」のような音楽的姿勢は、ほとんど変わっていないようだ。
 言い換えれば、妙に円熟したり、悟ったように落ち着いてしまったりするところのない演奏が、彼・清水和音の魅力のひとつだろう。この日の「月光」と「熱情」も、まっすぐで、剛直で、骨太で━━非常に気持よかった。
 「ばらの騎士」の毒気(?)を払うかのようなこの演奏、何か不思議に清々しい気分になって、ホールをあとにしたのだった。

2017・12・9(土)新国立劇場 R・シュトラウス:「ばらの騎士」

      新国立劇場  2時

 新国立劇場の定番、ジョナサン・ミラーの演出、イザベラ・バイウォーターの美術・衣装によるプロダクション。
 2007年のプレミエ以来、2011年、2015年の再演を経て、これが4度目の上演になる。私もその都度観て来たが、よくまとまった美しいプロダクションであることは確かである。但し、その年の歌手陣や指揮者、あるいは当日の雰囲気などの面で、出来栄えにムラがあるのは致し方ない。

 今回はウルフ・シルマー指揮の東京フィル、リカルダ・メルベート(元帥夫人)、ユルゲン・リン(オックス男爵)、ステファニー・アタナソフ(オクタヴィアン)、ゴルダ・シュルツ(ゾフィー)、クレメンス・ウンターライナー(ファーニナル)、内山信吾(ヴァルツァッキ)、加納悦子(アンニーナ)、増田のり子(マリアンネ)、長谷川顯(警部)、晴雅彦(公証人)、水口聡(テノール歌手)ほかの出演。すでに何度か出ている人も多い。
 アタナソフの声に少し伸びがなかった━━ズボン役としての容姿はなかなかのものだったが━━ことを除けば、手堅い歌手陣だったと言えるだろう。

 この「ばらの騎士」、主人公は元帥夫人だ、いやオックス男爵だ、いやむしろオクタヴィアンだ、と論議が盛んだが、今回の舞台━━基本的に演出の問題だとは敢えて言わない、たまたまそういうバランスだったかもしれないので━━を観ていると、その3人とも、主役というには、あまり目立たなかったような気もするのである。
 確かにユルゲン・リンのように、愛すべきエロおやじ的オックスを演じて見事だった人もいたが、彼すらも第3幕中盤では、群衆の動きの中に埋没してしまう。

 言い換えれば、今回の舞台では、彼ら主役たちと、巧みな細かい生き生きした演技を見せる多数の脇役と助演者(黙役)たちとが同等に動き、それら全員による一種の人間模様のような体を為していたようにも感じられたのであった。
 これには、主役歌手たちの個性も影響しているかもしれない。あるいは再演演出担当の演出家の仕切りも影響していたかもしれない。
 俗な表現で言えば、人物整理の上で少々雑然たる舞台になっていたかな、という印象なのだが、そう言ってしまうと、ミもフタもなかろう。

 シルマーの指揮は、東京フィルをうまくまとめていた。オーケストラの音色に色気とか、洒落っ気がないのは、ピットにおける東京フィルの弱点だが、それでもたとえば第2幕最後のワルツ、第3幕最後の三重唱や二重唱などの個所では、いいR・シュトラウスぶしを聴かせてくれていたのである。

2017・12・6(水)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団

      サントリーホール  7時

 10日間に1日だけ休みを置いての、計10回の演奏会、つまり1日はダブルヘッダーという、いかにもゲルギエフらしい並外れたスケジュールの日本ツアー。
 今日はその6日目で、リムスキー=コルサコフの「金鶏」組曲、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは庄司紗矢香)、ベルリオーズの「幻想交響曲」。

 この中で、庄司紗矢香の弾いたショスタコーヴィチの協奏曲は、おそるべき集中力に満たされた圧倒的な緊迫の演奏であった。長いカデンツァからフィナーレにかけてはまさに彼女の独壇場であり、それは彼女の内なる声が生み出す凄絶な音楽の力の発露であったろう。私たち聴衆は、息を呑んで聴き入った。
 彼女はゲルギエフとの他の3回の演奏会ではチャイコフスキーの協奏曲を弾くが、それよりも、このショスタコーヴィチの協奏曲を聴けた人こそ、彼女の最高かつ最良の音楽を体験できたと言ってもいいのではないか。

 アンコールとして、彼女はバッハの「無伴奏パルティータ」第2番からの「サラバンド」を弾いた。その間ゲルギエフは、ステージ下手に立ったまま、じっと耳を傾けていた。
 コンチェルトを弾いたソリストがソロ・アンコールを弾いている時、その演奏を舞台にずっと残って聴き続けているのは、近年のゲルギエフの癖である。特に若いソリストの際には、必ずその演奏を聴いている。若手を支援するという彼の姿勢、偉いものである。

 ところで、ゲルギエフが指揮したこのショスタコーヴィチの協奏曲のオーケストラ・パートは、まさにロシア的な、濃厚な色彩感に満たされていた。ロシア音楽はロシア的に演奏するのだ、と言うのが、昔からのゲルギエフの信念だった。
 最初の「金鶏」など、これはもう彼の本領発揮だろう。また、アンコールで濃厚な色彩感たっぷりに演奏したストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲からの「子守歌~終曲」も同様である。「ストラヴィンスキーは、リムスキー=コルサコフ門下のロシアの作曲家だった。私は彼をロシアの作曲家の音で演奏したい」とかつてゲルギエフが語っていたことを思い出す。

 一方、「幻想交響曲」のような作品になると、ゲルギエフの指揮は、一転して端整になる。昔よりその端整さが増し、かつてのいわゆる「怪物的な物凄さ」が少し薄れたように感じられるのは、やはり彼の年齢的な影響による変化か? だがオーケストラの鳴らし方は、相変わらず豪壮で力感豊かで、風格充分だ。

 今回のマリインスキー劇場管弦楽団は、昔のこのオケに比べればずっとインターナショナルな色合いを備えるようになっている(それはちょっと残念だ)が、音色には、あの頃のような、ビロードを思わせる滑らかな響きが復活して来たのが注目される。
 もちろん技術的には、めっぽう巧い。「若手が多くなったので、上手くなった。このメンバーを集めるために80人もオーディションをやったので、耳がくたびれてしまった」とは、楽屋でのゲルギエフの話。何年か前にもそんなことを聞いたような気がするが・・・・メンバーの入れ替えは相変わらず盛んなのか。
     ⇒別稿 モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2017・12・5(火)伊藤翔指揮東京フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 昨年の第1回ニーノ・ロータ国際指揮者コンクールで優勝した伊藤翔が客演、カバレフスキーの「コラ・ブルニョン」序曲、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」と「交響曲第4番」を指揮した。
 ソリストは小山実稚恵、東京フィルの今日のコンサートマスターは依田真宣。

 伊藤翔は、この他にも2011年のルトスワフスキ国際指揮者コンクールで第2位になっている由。「振り方」がどうのこうのというような話は、その道の専門家たちが批評なさるだろうから、私は聴衆としての立場から、音楽がどのように聞こえたかについてだけ書く。

 若いに似合わず、音楽を上手くまとめる人だという印象である。
 例えば「第4交響曲」では、なだらかなカーブを描くように演奏の起伏をつくる。デュナミークの対比は大きいが、それは穏やかな曲線を描くように、自然な流れの中に構築されるので、決して鋭角的で攻撃的なものにはならない。それは一つのやり方だろう。

 だがその一方、音楽に「矯め」が無く、概して坦々たるテンポと表情で進む結果、チャイコフスキーがこの曲に織り込んだはずの躊躇い、苦悩、憂鬱、夢想、とかいったような、情緒的な要素が感じられなくなってしまうのだ。
 若い指揮者だからそこまでの深みは━━という見方もあろうが、しかし第2楽章の終結などには、作曲者が言う「人生に疲れ切った」情感が、見事に湛えられていたのである(ここでは東京フィルの演奏も良かった)。
 
 いずれにせよ、バランスよく器用にまとめること自体は悪いことではないけれども、若いうちは、演奏の表現に、粗削りでもいいから、もう少し傍若無人な勢いの良さが欲しい気もする。いろいろなレパートリーで、彼が今後どのような進展を示して行くか、興味がある。

2017・12・3(日)フィリップ・ヨルダン指揮ウィーン交響楽団

      サントリーホール  2時

 Philippe Jordan━━わが国ではフィリップ・ジョルダンと表記されているが、どうやらヨルダンと発音するのが正しいのだそうで。しかし、父君のアルミン・ジョルダン以来、「ジョ」で通って来たからには、知名度を重視するマネージメントとしても、そうすぐ変更するわけにも行かないらしい。

 とにかく、売れっ子の指揮者だ。パリ・オペラ座とウィーン響のシェフを兼任、2020年からはウィーン国立歌劇場の音楽監督になることも決まっている。今年夏にバイロイトで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聴いた時には、少し軽量級には感じられたとはいえ、この曲でバイロイトのオケをこんなに美しく響かせた指揮者は初めて聴いたという気がしたほどである。
 ウィーン響の首席指揮者となったのは、2014年秋のシーズンのこと。

 今日はベートーヴェンの「第5交響曲ハ長調」と、ブラームスの「第1交響曲ハ短調」を組み合わせたプログラムだった。
 私の個人的な印象としては、ブラームスの「1番」の演奏の方が、ヨルダンの指揮の個性が出ていたように感じられて面白かった。たとえば第1楽章の序奏冒頭で、フォルテを更にクレッシェンドさせる個所(8小節目、8分の9拍子に変わるところ)で、ふつうの指揮者と違い、一度弱音に落してから漸強に入る、ということをやる指揮者なのである、彼は。

 それよりもこの第1楽章の中で、神秘的な楽想の個所を思い切り不気味に演奏させ、そこから次第に激しく明るい表情に高潮させて行くあたりのヨルダンの呼吸が実に巧いのには感心した。
 ブラームスの交響曲をオペラ的に演奏する、などという意味ではないけれども、彼が手練手管を尽くして念入りに書き上げたこの交響曲のスコアを、こんなに細かい劇的な表情の変化を以って読み解くとは、さすがにオペラで場数を踏んでいる指揮者だけのことがある、と大いに感心したのである。

 少なくとも今の段階では、古典派の交響曲よりも、ロマン派の劇的な性格を備えた交響曲の方が、彼ヨルダンの個性には合っているのではないか、という気もする。もちろん即断は避けるべきだが、それにしてもこれは興味深い指揮者だ。将来は、更に大物になるだろう。

 ウィーン響は、しっとりした響きではあったが、素朴で、生真面目で、色彩感にも乏しい。だが、1960年代にサヴァリッシュの指揮で初めて聴いて以来、プレートルや、フェドセーエフや、ルイージら歴代首席指揮者のうちの何人かの指揮で聴いた時も、たいてい同じ印象だったことを思い出す。

 アンコールは、ブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」と、J・シュトラウスⅡの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。いずれも弦16型編成のままで演奏したため、かなりシンフォニックな感になっていた。

2017・12・2(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 音楽監督ジョナサン・ノットが指揮、リゲティの「ハンブルク協奏曲」、シューマンの「4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック」、ベートーヴェンの「英雄交響曲」を指揮した。キーワードはホルン━━と言ってもいいくらいの個性的なプログラミングで、最近のノットと東京響の面目躍如たるものがある。

 最初のリゲティの「ハンブルク協奏曲」では、クリストフ・エス(バンベルク響首席)のソロ・ホルン(ナチュラル・ホルンとモダン・ホルンの持ち替え)および日本勢(大野雄太、勝俣泰、金子典樹、藤田麻理絵)の4本のナチュラル・ホルンとがオーケストラと協演。
 これは、何とも演奏の難しい曲だ。正直なところ、テイク2やテイク3をやって、いいテイクを繋ぎ合わせたいと思ってしまったことも、聴きながら何度か。誠実に吹いていたのは確かだろうが、たった一度の本番だけで成果を上げるのは、なかなか難しいだろう。

 変わってシューマン━━こちらでは前出のクリストフ・エスと、シュテファン・ショットシュテット(ハノーファー州立歌劇場管)、セバスティアン・ショル(ヴュルテンベルク・フィル・ソロ・ホルン)、ティモ・シュタイニンガー(ベルリン・コンツェルトハウス管)の4人からなる「ジャーマン・ホルンサウンド」という(なんか物凄い名称だ)グループが協演した。
 これはもう威力充分のホルン軍勢で、追い込み、追い上げの個所など、オーケストラを煽り立てるほどの音楽的パワーで咆哮する。久しぶりで面白い演奏を聴かせてもらった。

 「英雄交響曲」では、第3楽章のトリオ部分で、日本勢のホルン3人が朗々と存在感を誇示した。実は私共、「ジャーマン・ホルンサウンド」の演奏のあとだけに、頑張ってくれよ、と祈るような気持で聴いていたのだが、一安心。思わず同業者たちと顔を見合わせて「よかったね」と喜び合ったものであった。
 この曲では、東京響は弦12型編成で、ノットの繰り出す疾風のテンポに乗って気魄の熱演。特に第1楽章では、特に鋭角的にはならずに溶け合ったバランスでありながら明確な隈取りを保った音の構築が面白く、そのため縦横に交錯する内声部がかなりはっきりと浮き彫りにされ、ベートーヴェンがこの曲で如何に革命的なオーケストレーションを実現したか、それをまざまざと感じさせる見事な演奏となったのである。

2017・12・1(金)マックス・ポンマー指揮札響「クリスマス・オラトリオ」

      札幌コンサートホールKitara  7時 

 札幌交響楽団12月定期公演の初日。
 2015年4月から首席指揮者を務めて来たマックス・ポンマーも、間もなく3月でその任期を終る(後任はマティアス・バーメルト)。
 その仕上げの一環として、ポンマー十八番のバッハを、それも大作「クリスマス・オラトリオ」を取り上げた。今回は第1・2・5・6部のみの上演だったが、それでも演奏時間は正味2時間かかる。終演は、9時15分になった。

 合唱は札響合唱団、東京バロック・スコラーズ、ウィステリア・アンサンブル。声楽ソリストは針生美智子(S)、富岡明子(Ms)、櫻田亮(T)、久保和範(Br)。コンサートマスターは田島高宏。

 ポンマーは、オーケストラを柔らかく、温かく響かせる。それは、人間味豊かな、古き良き時代のバッハとでもいうべきか━━こういう言い方は実に曖昧なものだという気もするが、要するに現在ではあまり聴けなくなったような、しかし心温まる懐かしいタイプのバッハ演奏というような、世間一般の言葉の綾のイメージとして言っているのである━━それは時には温厚に過ぎて、もどかしい気分にさせられることもあるとはいえ、やはり美しい。

 たとえば第2部、幼子を見に行くよう羊飼いたちに呼びかけるテノールと、それに寄り添うフルートの好演(第15曲のアリア)、あるいは同じように呼びかけるバスのレチタティーヴォを支えて波打つ弦の優しい響き(第18曲)、そして眠る幼子イエスに呼びかけるアルトを囲むオーボエダモーレと弦の夢幻的な世界(第19曲)など、━━そういう個所で、ポンマーと札響と声楽ソロ陣は、本当に見事な演奏を聴かせてくれたのである。この第2部は、今夜の演奏の中では白眉と言えるものだった。

 なお、第1部では上手側手前に配置された3本のトランペットが活躍したが、その1番を吹いたのが新人の若い女性奏者で、小気味よいほど鮮やかなその演奏は、まさに「クリスマス・オラトリオ」の幕開きに相応しいものだった。ただしこのトランペット・セクションの勢いがあまりに良すぎて、その大音量にオーケストラが消されてしまう傾向があったことは確かである。
 この奇怪なバランスには首をひねらされたが、しかし第6部でトランペットの1番が練達の首席奏者(福田善亮)に交替するや否や、途端にトランペット群とオーケストラとのバランスが整い、絶妙のアンサンブルとなったのだから━━曲想の違いがあったのはもちろんだとしても━━オケというものはつくづく不思議な生きものである。

 この第1部の冒頭は、オケもそうだったが、合唱も少々危なっかしくて冷や冷やさせられるほどだったが、第4曲のアルトのアリア、あるいは第5曲のコラールあたりからは、どうやらペースを取り戻したようであった。おそらく2日目(土曜日)の演奏では、この辺は改善されたのではないかと想像する。
 ただし今回のコーラスは、ソット・ヴォーチェで歌うことに慣れていないのか、特にテノール群はもっとトレーニングを積む必要があろう。

 今日の札幌市内は雪もなく、晴れていたが、流石に空気の冷えは壮烈だ。東京の気持の悪い底冷えと異なり、実に爽快な雰囲気だが、5分も歩いていると、たちまち足元から冷えが昇って来る。このあたりの服装の調整が、東京からふらりと行った旅行者にはなかなか難しい。

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