2018-12

2017・11・30(木)ロン・ユー指揮チャイナ・フィルハーモニー管弦楽団

      サントリーホール  7時

 2000年に創立、北京に本拠を置くチャイナ・フィルが、芸術監督・首席指揮者ロン・ユー(ユー・ロン 余隆)とともに来日。このオケは過去にも来日しているらしいが、聴いたかどうか、確たる記憶がない。

 今日は、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」からの「夕映えに」(Zouによる弦楽合奏編曲版)という意表を衝いた選曲でプログラムを開始した。
 弦の良さには定評がある、という記事を読んだことがある。多分その特徴を誇示するのが目的だったかもしれない。多少硬質な響きではあったが、強靭な力を秘めているようにも感じられる。とはいえ、音色に潤いや色彩感が薄いのは、やはりアジアのオーケストラの共通の個性か。 

 2曲目には若い少女ヴァイオリニスト、パロマ・ソーをソリストに、サン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番」が演奏された。すでにベルリン響やロンドン響との協演も経験している彼女、ちょっと線が細い傾向もあるけれども、こちらの方が音色も表情も瑞々しい。

 オケの本領は、第2部のショスタコーヴィチの「第5交響曲」でいっそう明らかになっただろうが、残念ながら所用のため、これは聴けずに失礼した。
 ロン・ユーという指揮者も最近注目されている人で、もっといろいろ聴いてみたい気がする。さしあたり今年12月下旬には東京フィルの「第9」を指揮するはずである。

2017・11・29(水)アンドレアス・オッテンザマー&
ヴィンタートゥール・ムジークコレギウム

       すみだトリフォニーホール  7時

 ヴィンタートゥール・ムジークコレギウムは、1629年創立の歴史を持つスイスのオーケストラ。昔からレコードでウィンタートゥール交響楽団とか呼ばれていた楽団の正式名称がこれだ(オリジナルはMusikkollegium Winterthur)。昨年秋からはトーマス・ツェートマイヤーが首席指揮者になっている。

 楽団のサイトを見ると、もともとそう大きな編成のオーケストラではないようで、今回も弦8型(のように見えた)での、室内管弦楽団規模での来日だ。ただしツェートマイヤーは来ていない。
 その代り、コンサートマスターのロベルト・ゴンザレス=モンハスがプログラムの最初と最後のベートーヴェンの「コリオラン」序曲と「交響曲第7番」を弾き振り、クラリネットの名手アンドレアス・オッテンザマーがシュターミッツの「クラリネット協奏曲変ロ長調」、ダンツィの「《ドン・ジョヴァンニ》の《お手をどうぞ》による変奏曲」、ウェーバーの「クラリネット小協奏曲」を吹き振りした。

 アンドレアス・オッテンザマー(ベルリン・フィル首席奏者)の名手ぶりについては改めて言うまでもなく、この3曲でも鮮やかな名技を披露してくれていた。その演奏は小気味よいほどだが、ただ、同じウィーン出身でありながら、ウィーン・フィルにいる兄のダニエル・オッテンザマーと比べると、やはりベルリン・フィルの体質に影響されてしまっているのだろうか、演奏に何か生真面目さのようなものが漂っているのが感じられるのが不思議である。
 彼が、これも鮮やかな日本語で挨拶しながら演奏したアンコールは「上を向いて歩こう」であった。「雨に唄えば」に似たタッチでスウィングしたこの演奏も編曲も、なかなか良かった。

 ベートーヴェンの作品2曲の方は、オケの編成は小さいが、すこぶる勢いがあって、緊張度も高い。管楽器には音がひっくり返ったりすることが時々あるなど、全体に大らかな感じのオーケストラで、良きローカルの味とでもいうか。もう少し小さいホールだったら、彼らの音楽の雰囲気はもっとよく味わえたかもしれない。

2017・11・26(日)カンブルラン指揮読響「アッシジの聖フランチェスコ」

      サントリーホール  2時

 メシアンの大作、歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」の、演奏会形式による日本初演。
 19日サントリーホール、23日びわ湖ホールでの公演に続き今日が3回目、最終回の上演。

 これはもう、今秋の国内音楽界最大のイヴェントと言ってもいいだろう。作品の価値、上演の意義はいうまでもなく、指揮者シルヴァン・カンブルランの意欲と全身全霊を籠めた情熱の指揮、読響の柔軟な対応力に富む演奏、合唱団(新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル)と9人の声楽ソリストたちの優れた歌唱などが結集した、まさに完璧な演奏だったのである。事務局の企画力をも讃えたい。

 声楽ソリスト陣は、ヴァンサン・ル・テクシエ(聖フランチェスコ)を中心に、エメーケ・バラート、ペーター・ブロンダー、フィリップ・アディス、エド・ライオン、ジャン=ノエル・ブリアン、妻屋秀和、ジョン・ハオ、畠山茂の9人。合唱は新国立劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブル。コンサートマスターは長原幸太。

 35分間ずつの休憩2回を含み、終演は8時近くになった。
 それでも長さをほとんど感じさせなかったのは、もちろん演奏の見事さゆえもあるが、やはり第一には、大編成のオーケストラが噴出させる、メシアン独特の多彩な音色に満たされた音楽の力の凄さゆえだろう。それは所謂メシアン・サウンドの粋ともいうべきもので、彼独特の音楽上の語法はもちろん、若い頃から彼の音楽の柱を成して来た「宗教性」と「鳥の声」なども此処で集大成されていると言っても過言ではない。

 オペラとしてのオーケストラのパートは、無限旋律的に続いて行くスタイルではなく、ナンバー形式によるスタイルでもなく、テンポも拍子もリズムも楽器編成も、音色も表情も対照的に異なる短い2つの主題━━というよりはフレーズと言った方がいいか━━が総休止を挟んで組み合わされ、交互に流れて行くといったユニークな形が多く聴かれる。
 総休止の活用といえば、残響の長い教会のオルガン奏者でもあったブルックナーのお家芸だったが、こちらメシアンの方は、それを更に、比較にならぬほど細かく多用している。そしてそれらが緊張感を失わせるどころか、むしろいっそう高めているのも特徴的であろう。

 第3幕の、特に大詰の「死と再生」で、全管弦楽と大合唱がとめどなく昂揚を重ねて行く個所では、その総休止群が「終りそうで終らぬ」長さを感じさせたことも、全くないわけではなかった。だが、作品と演奏が生み出す法悦感のようなものが、私たち熱心な聴き手を最後まで捉えて離さなかったのも確かなのである。このあたりはもう、カンブルランと読響と合唱団の、集中力に富む演奏のおかげであったことはいうまでもない。

 描写的な要素も、思ったよりは多い。ほんの一例だが、天使(エメーケ・バラート)がやって来て荒々しく猛烈にドアを叩くくだりや、彼女に揶揄された修道僧エリア(ジャン=ノエル・ブリアン)の胸の裡に怒りがムラムラと起こって来るあたりのオーケストラの描写性など、クスリと笑ってしまうような、ユーモアのある表現力を感じさせるだろう。

 歌詞は当然フランス語だが、前述の総休止の中に歌詞が挟まれることも多いので、言葉は実に明確に聴き取れることになる。オーケストラの官能的な大波の中で歌うことももちろん多いのだが、その場合でも歌詞がはっきり響いて来ているのは、カンブルランのオーケストラのバランス制御の巧みさによるところも多いだろう。

 歌手たちはステージ前面で譜面を見ながら歌うが、簡単な身振りや表情を付けているので、オペラのストーリーを理解させるには充分だ。
 題名役を長丁場で歌い続けたヴァンサン・ル・テクシエの風格ある存在感をはじめ、みんな見事な、劇的な歌唱力を示した。特に「重い皮膚病を患う人」を歌ったペーター・ブロンダーは、出番は少なかったけれども、ひときわ劇的な歌唱で第1幕の終曲を盛り上げた。全曲最後のカーテンコールで彼が聴衆の大ブラヴォーを浴びたのは、決して声の大きさだけのためではなかった。

 この作品では、オンド・マルトノが3台も使用され、それらは正面オルガンの下、客席RB最後方の高所、同LB最後方の高所にそれぞれ配置されていた。3台の音がホール内に交錯する個所はあまり多くはなかったが、「鳥の声」が響くくだりの前後では、さすがに妙なる効果を発揮していた。

 なお字幕は、今回はオルガンの左右の壁の高所に設置されていた(サントリーホールでは、時々このような方法が採られる)。だが、2階最前列中央あたりから見てもこれは遠すぎる。しかもそのスクリーンの照度が低いため、字がかなり読み難かったのも確かである。2階あるいは1階のうしろの方の席の人たちからは、もっと見難かったのではないかと思う。

 それにしてもこの大曲が、小澤征爾の指揮によりパリで全曲初演されてから34年、同じく彼の指揮で抜粋が日本初演されて以来31年。やっと日本で全曲上演の形で聴けたというのは、大いなる喜びだ。
 そしてまた、当時この大曲の世界初演を成し遂げ、フランスで絶賛を浴びた小澤征爾の偉業が、今になって人々の心の中に甦った(読響プログラム冊子11月号28頁)のも嬉しい。何しろ当時は、この作品初演に関しては、日本ではほとんど目立った報道がされなかったからだ。84年2月号の「音楽の友」の海外楽信でさえ、長いレポートはあったものの、小澤の指揮については最後にほんの一言付け加えられていたに過ぎなかったのである━━。

2017・11・25(土)下野竜也指揮京都市交響楽団

      京都コンサートホール  2時30分

 下野竜也(京響常任首席客演指揮者)が指揮するジョン・アダムズの「ハルモニーレーレ」は、一昨年、読響との演奏を聴き、すこぶる気持のいい思いをした記憶がある。今回は文化庁・芸術文化振興基金の事後調査の仕事を兼ね、もう一度聴きに来た次第。

 プログラムの前半では、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」が、アンナ・フェドロヴァをソリストに迎えて演奏された。「ハルモニーレーレ」との組み合わせとしては意表を衝いたものだったが、これは曲の最後が変ホ長調で終ることと、「皇帝」が変ホ長調の曲であることを関連づけたためのようである。さすが下野竜也だ。
 今日のコンサートマスターは西江辰郎。

 フェドロヴァのピアノは細身の音だが、一つ一つの音に清澄な粒立ちがあり、音色が美しい。カデンツァなど、普通なら一気に均等に進んで行く音の流れの中で、時に強いアクセントを使って流れに変化を生じさせる弾き方が個性的だ。本来は豪壮な曲想の「皇帝」が、不思議に神経質な美しさを感じさせたのはそのためだろう。
 ただし下野と京響の演奏は、それをがっしりと支えるような、堂々たる風格のものであった。
 フェドロヴァはソロ・アンコールに、ベートーヴェンの「月光ソナタ」の終楽章を演奏したが、これも同じ特徴を持ったものだ。

 「ハルモニーレーレ」は、聴いた位置(1階15列中央)のためかもしれないが、以前サントリーホールで聴いた時と違い、オーケストラの内声部がリアルに聴き取れ、曲の面白さを倍加させてくれた。
 下野の指揮も相変わらず巧いものだと思うが、京響の張り切った力感と安定感、音色の多彩さにも舌を巻く。京響の優秀さは今に始まったことではなく、今やN響、読響とともに国内オケのベスト3に数えられる存在、と言っても過言ではないかもしれない。

 しかもカーテンコールの際に、客席に顔を向けた楽員たちの明るい表情と、笑顔の素晴らしさ。国内オケの中には、客席に一切顔を向けない団体とか、向けたとしても「そんなに拍手するほど良かったですかねェ」と言わんばかりの仏頂面をしている団体が多いのに比べ、これだけ聴衆との温かい交流を感じさせる京響の楽員は見上げたものと言わなければならない。

 終演後には、ホワイエで聴衆と楽員との交流パーティが行われたようだったが、こちらは早めに辞した。18時05分の「のぞみ」で帰京。

2017・11・24(金)東京二期会 J・シュトラウスⅡ:「こうもり」

      日生劇場  5時

 「二期会創立65周年」記念で、「NISSAY OPERA 2017」提携公演。
 阪哲郎の指揮、アンドレアス・ホモキの演出。
 出演は、小森輝彦(アイゼンシュタイン)、澤畑恵美(妻ロザリンデ)、清野友香莉(小間使アデーレ)、山下浩司(刑務所長フランク)、宮本益光(こうもり博士ファルケ)、糸賀修平(歌手アルフレード)、青木エマ(オルロフスキー)、大野光彦(弁護士ブリント)、秋津緑(イーダ)、イッセー尾形(看守フロッシュ)。

 ホモキ演出というから、普通の見慣れた「こうもり」ではなく、多かれ少なかれ捻った「こうもり」になると期待していたが、まあほぼ予想通りというか。
 アイゼンシュタイン家の居間を3幕全体共通の場面とし、また第2幕の「オルロフスキー家の宴会」で酔いつぶれた客たちは、其処が第3幕の「牢獄」の場に変わってもやはり同じ姿勢のまま寝ている・・・・といった具合だから、「ロシア公爵オルロフスキー」などという人物が本当にいたのか、いなかったのかということさえ曖昧にされてしまう。事実その「オルロフスキー」は、ファルケにより男装に仕立てられた女性であることがすでに明かされており、その「演技」の要領が悪いとファルケからどやされているといった人物なのである。

 つまりこの物語は、シャンパンの酔いによる「槿花一朝の夢」とでもいうのか━━「すべてはシャンパンのせい」という幕切れの合唱の歌詞をモティーフとし、それを拡大解釈した演出と言えるのだろう。全曲最後の数秒間に、場面が第1幕のアルフレード、ロザリンデ、アデーレの3人が集っている時間に戻るので、これでネタがばらされるという仕掛けだ。ただし、アイゼンシュタインが入牢するという話だけはどうやら「本物」のようである。

 演出補として、菅尾友の名がクレジットされている。日本語台本も、彼の「翻案」によるものとのこと。
 舞台美術はヴォルフガング・グスマンで、これもコーミッシェ・オーパーの舞台装置なる由。
 歌詞はドイツ語、セリフは日本語というバイリンガル・スタイル。これは時々使用される手法だが、あまり良いアイディアとも思えない。とはいえ、日本語から音楽に移るところの流れなどは、予想以上にスムースに行っていた。
 かなりドタバタ調の舞台だが、歌手陣が達者なので、さほど違和感なく楽しめる。ただ台詞場面では、時に間延びするところがあるのが惜しかった。

 歌手陣の中では、小森輝彦のアイゼンシュタインが、ドタバタ調で暴れ回り、大変面白い。
 澤畑恵美のロザリンデも、貴婦人然とした場面ではいっそう映える。
 アデーレの清野友香莉は、特に後半にかけて華やかさを増した。青木エマのオルロフスキー役は以前に絶賛した覚えがあるが、今回は「女性=偽物公爵」という設定なのでそれほど目立たず、ズボン役としての魅力を前回ほどに発揮できぬ立場だったのは少々残念。
 そういえば他のキャラクターも、この少々雑然たる動きの舞台では、存在感をあまり目立たせることができずに終っていたが、これには日本人歌手の個性と、この演出とのギャップも影響しているのだろうか。

 指揮は、「こうもり」を得意とする阪哲郎だったが、非常に切れのいい軽快なリズムと速いテンポで、いい演奏をつくり出していた。欧州歌劇場での長い経験が生きているのであろう。
 問題はオーケストラ(東京フィル)である。先頃プレトニョフの指揮であれほど幻想的な素晴らしい演奏をしたばかりなのに、今回はまた情けない演奏をしてくれた。今日のコンサートマスターはだれか知らないけれども、音がか細く、痩せていて、カサカサに乾いていて、アンサンブルも粗い。J・シュトラウスの馥郁たる香りなど、ひとカケラもなく、まるで昭和20年代の、貧弱な音のSPレコードで聞く歌謡曲の伴奏音楽のような音だ。日本のオーケストラとオペラを愛する者として今度こそ敢えてはっきり言わせてもらうが、これはあまりにひどすぎる。楽団の良心を問いたい。

2027・11・23(木)サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル

      ミューザ川崎シンフォニーホール  5時

 今回の日本公演は僅か3日。今日はその初日で、プログラムはストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」、陳銀淑の「Chorós Choródon」、ラフマニノフの「交響曲第3番」。

 ラトルは今シーズン末にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督・首席指揮者を退くので、日本でこのコンビが聴ける機会はこれが最後となる。但し来年春のバーデン・バーデン(イースター・フェス)でもラトルはベルリン・フィルを振るし、その後夏あたりまではしばしば共演するわけだから、ヨーロッパへ行けばまだ山ほど聴けるのはもちろんである。

 思えば私も、このコンビの演奏をこの十数年間、随分聴いたものだった━━シェフ正式就任直前に聴いたベートーヴェンの「第9」での新鮮な演奏をはじめ、その後のベートーヴェン・ツィクルス、ザルツブルクでの「指環」「ペレアスとメリザンド」「ピーター・グライムズ」などのオペラ公演、その他挙げきれぬほどの演奏会の数々。
 ただ、その中でどれがいちばん感動的だったか、と問われたら、さて何を挙げられるか・・・・。どれがいちばん印象に残っているか、と問われれば、ザルツブルク音楽祭での「ピーター・グライムズ」における演奏、と答えてもいいだろうが━━。

 だが、今日の1曲目「ペトルーシュカ」で、冒頭から飛び行くが如き痛快なテンポで展開した切れ味のいい華麗な音楽は、まさにラトルとベルリン・フィルの最上のものと言って間違いない。

 休憩後の1曲目に演奏された陳銀淑の「Chorós Choródon」は、作曲者の解説によれば「Dance of the Strings(弦の踊り)」を意味するものだそうで、ベルリン・フィルの委嘱作品として今月ベルリンで初演されたばかりという。
 音響的な沸騰が一時収まった中間部で不思議に和声的な響きが現われ、そのあと再び極限まで昂揚を重ねて行くといった起伏感の豊かさは印象に残ったが、全体としてはごく「解り易い」類の作品だろう。

 ラフマニノフの「第3交響曲」は、何度聴いても変なシンフォニーだ。出来栄えという点でも、あの傑作の「第2交響曲」には及びもつかない。
 ラトルとベルリン・フィルは、ここでも彼らならではの強靭なエネルギーを全開し、殊更に激しい怒号などを交えて、このオケらしい威圧感を生み出したが、所詮はその範囲に留まる演奏だったと言えようか。終楽章のエンディングでは、音量的には壮大ではあっても、推進性という点では何か不思議に物足りないものが感じられたのだった。

 アンコールでは、プッチーニの「マノン・レスコー」からの「間奏曲」が演奏された。剛直かつ轟然たるプッチーニで、これはこれで微笑ましい。力感豊かに最強奏の頂点を築いたあと、それがさあっと潮の引くように収まって行き、豊麗な音を保ちながら静かに結んで行く、というあたりの流れの鮮やかさは、この巨大戦艦ベルリン・フィルの身上だ。

2017・11・22(水)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団

      サントリーホール  7時

 先週に引き続き、ソフィエフがプロコフィエフの作品を振る。
 プログラムは、組曲「キージェ中尉」、「スキタイ組曲《アラとローリー》」、「交響曲第7番《青春》」。コンサートマスターは篠崎史紀。

 ソヒエフもN響とはやはり相性が良いのか、以前より呼吸も合って来たように感じられる。今月定期の2種のプロコフィエフ・プロは、いずれもニュアンスの豊かな、密度の高い演奏になっていた。
 「キージェ中尉」は何か重々しく物々しい演奏だったが、見方を変えれば、シンフォニックな組曲という要素が強くなっていたと言えるかもしれない。この抑制された表情での演奏が、次の「スキタイ組曲」での凶暴な楽想を漲らせた大音響との対比を為すのは当然。それがプログラミングの妙というものだろう。

 この「スキタイ組曲」の「邪神」など、ゲルギエフが指揮すると音楽に怪奇な魔性のようなものが漲って来るのだが、ソヒエフはそこまでの域には達していないとはいえ、最後の大頂点ではゲルギエフもかくやの壮烈なエンディングをつくり出した。ここでのN響の量感たっぷりの怒号の演奏は、なかなかのものであった。

 休憩後の「第7番」は、作品に備わるロマンティックな要素を先行させた、豊麗な演奏と言ったらいいか。もちろんそれは、曲の性格に忠実なスタイルの演奏で、悪くはない。だがそういうストレートな演奏で聴くと、やはりこの曲を書いた頃のプロコフィエフの創作力には、かつての野心的な姿勢や緊迫度がもう失われていたのかもしれないな、などと感じてしまうのである。
 なおプログラム冊子には、全曲の最後が静かに終る「初稿」が使われるようなニュアンスの解説が載っていたが、実際の演奏は、軽快な主題の再現で締め括られる「改訂稿」の方だった。

2017・11・21(火)ロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ 「ラ・ボエーム」

     東宝東和試写室  6時

 こちらはロンドンのコヴェントガーデン、ロイヤル・オペラの上映ライヴのシリーズ。10月3日に上演されたプッチーニの「ラ・ボエーム」の映像だ。
 一般公開は11月24日から1週間だが、それに先立ちマスコミ関係者相手の試写会が行われた。

 演出はリチャード・ジョーンズ。ロイヤル・オペラとしては、何と四十数年ぶりの新演出だそうな。
 これもストレートな手法のもので、2組の恋人たち━━ロドルフォとミミ、マルチェッロとムゼッタ━━の描き方も温かいが、それ以上に4人の男たちの深い友情が実に人間味豊かに描かれているのに感銘を受ける。
 ステュアート・レイングの舞台装置も、第3幕の雪の場面はあのゼッフィレッリのそれに劣らず美しく、第2幕でアーケードの光景がレストランの内部に替わって行く舞台装置の移動などで凝った手法を見せてくれる。

 アントニオ・パッパーノの指揮の鮮やかさについては、改めて触れるまでもない。私はこのオペラの音楽について、ある種の好からざる固定観を持っていたけれども、今日はそれを払拭してくれるような演奏だった。

 歌手陣は、ロドルフォをマイケル・ファビアーノ、ミミをニコール・カー、マルチェッロをマリウシュ・クヴィエチェン、ムゼッタをジョイス・エル=コーリー。━━試写室で配布された1枚の紙には、配役はこれだけしか載っていない。
 因みにロイヤル・オペラのサイトを覗いてみると、コリーネをルカ・ティントット、ショナールをフローリアン・セムペイが歌うと載っており、またムゼッタ役にはエル=コーリーでなく、シモーネ・ミハイの名が残っている。そういえば、シネマの案内役の女性が開演直前に「代役は2人、誰々と誰々です」と、それだけをいきなりアナウンスしていたが・・・・。
 結局、正確なところは、エンド・タイトルのクレジットを確認しなければ判らない。しかし、ロイヤル・オペラのサイトともあろうものが、上演済みの日のキャスト一覧表を訂正しないまま放ったらかしているなどということがあるのか? 

 とはいえ東宝東和の資料にしても、松竹のMETのそれと違い、データが極度に乏しい。上演収録日も記載されていない上に、第1幕と第2幕を「第1幕」、第3幕と第4幕を「第2幕」と表示しているところなど、如何なものかと思う。
 またシネマの方も、案内役は美人キャスターだが、そのハイテンションのビンビン響く声は耳につくし、話の脈絡や起承転結が時々曖昧になるのも困る。

 だが、いい面もある。休憩時間枠に挿入されるパッパーノのピアノを弾きながらの解説は、非常に貴重で面白い。これは「METライブビューイング」にはない強みだ。

2017・11・20(月)METライブビューイング 「ノルマ」

    東劇  6時30分

 メトロポリタン・オペラの10月7日上演ライヴ映像によるベルリーニの「ノルマ」。
 デイヴィッド・マクヴィカー演出、カルロ・リッツィ指揮、ソンドラ・ラドヴァノフスキー(ノルマ)、ジョイス・ディドナート(アダルジーザ)、ジョセフ・カレーヤ(ポリオーネ)、マシュー・ローズ(オロヴェーゾ)他の配役。上演時間は3時間27分。

 ストレートな演出だが、演技は非常に微細であり、劇的な迫力は申し分ない。
 METならではの豪華な5面舞台が活用されているという話だが、総じて場面が暗いために、はっきりとは判らない。ロバート・ジョーンズの舞台美術も「神聖な樹」である樫の大木をモティーフにしているという説明があったが、これも暗くて定かではない。
 要するに、そういう神秘性を含んだ重苦しい場面で繰り広げられる人間ドラマだということである。それに、主役歌手3人の演技が抜群に上手いので、緊迫感も充分だ。

 ただし今回は、第2幕の「戦いだ!」の激しい合唱のあとに叙情的な部分が続く版が使用されていたが、これは音楽的には素晴らしい流れとはいえ、カタストロフへの緊迫感の保持という点からみると、さすがのマクヴィカーもちょっと扱いかねていたようにも感じられる。

 ひときわ優れていたのが、ディドナートの演技だ。
 彼女の説明によると、アダルジーザを演じ歌うにあたり、マクヴィカーからフェデリコ・フェリーニ監督の映画「道」を見るように勧められたという。あの主人公ジェルソミーナの「純真さと献身的な心」というコンセプトを、そのままアダルジーザに当てはめて欲しい、と━━。その演出家の意図を鮮やかに具現したディドナートも見事だった。

 カレーヤも結構上手い。ポリオーネという身勝手で無責任な男をこれだけいやらしく、しかも堂々たる風格で演じるとは、たいしたものである。大詰での悔悟の演技も、体格が立派だけに、現実味を感じさせた。そしてもちろん、ラドヴァノフスキーの巧さは言うまでもない。
 この3人、幕間のインタヴュ―では、実に陽気だ。そして役柄の解釈について明るく語ってくれる。オペラの演劇的要素について如何に深く認識しているかの証拠である。

 カルロ・リッツィの指揮は、劇的な面では少々頼りなく、序曲などトロトロしていて、どうなることかと思わせたが、しかし歌手たちに「歌」を美しく歌わせるという点では、やはりうまいものである。主役3人が歌唱面で素晴らしかったこともあるが、特にノルマとアダルジーザの二重唱は、どれも圧巻と言えるほど見事だったのだ。
 (「和解の二重唱」の最後の部分で、ディドナートがスタッカートで歌っていたのに、ラドヴァノフスキーがレガートで歌っていたことだけは、その解釈について詳しい方の意見を伺いたいところだが)。

 総じてこれは、実に聞き応えのある、素晴らしい上演だ。ノルマという役柄には本当に度外れた歌唱力と演劇的感覚が要求されるのだということが、つくづく実感できた演奏であった。

2017・11・19(日)ガッティ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

        ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 マリス・ヤンソンスの後任として、昨秋から首席指揮者に就任しているダニエレ・ガッティ━━ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)が彼とのコンビで来日するのは今回が初めてである。
 このガッティという人、ナマでは私もこれまで数え切れないほど聴いて来たが、オペラにしろコンサートにしろ、どうもピンと来なかった。だからRCOのシェフとしては、あまり期待していなかったのだが、━━今日のマーラーの「第4交響曲」には少々驚き、コンサート・レパートリーにおけるガッティの感性を、俄然見直した次第だ。

 第1部でのハイドンの「チェロ協奏曲第1番ハ長調」では、RCOの首席チェロ奏者になってしまったタチアナ・ワシリエヴァが、少し重かったが濃厚なソロを聴かせてくれた。ここでは、ガッティの指揮も、まず標準的といったところだろう。

 しかし、RCO、ガッティともに個性的だったのは、休憩後のマーラーの「第4交響曲」だ。これほど明晰な構築で演奏された「4番」は、滅多に聴いたことがない。
 チェロやコントラバスのパート各々がまるで一つのソロ楽器のように響く。管楽器の各々がメリハリよく明確に際立ち、粒立って聞こえる。ホルンもクラリネットも、くっきりと浮かび上がって響いて来る。つまり大オーケストラの中の楽器の一つ一つの存在がはっきりと感じ取れるのだが、しかもそれらがアンサンブルとして完璧にバランスよく響いているのである。

 もともとマーラーのこの時期の交響曲━━特に「3番」と「4番」━━のスコアはそのように室内アンサンブルのような精緻さで書かれているのだが、それをこれほど浮き彫りにした演奏は滅多にないだろう。こういう「4番」は、ふんわりした穏やかな円満な感じの演奏の「4番」より、はるかにスリリングで面白く、退屈させられることがない。

 ガッティの設計も、なかなか細かい。第3楽章では陶酔的な主題を美しく歌わせ、思い切り大きな「矯め」をつくりながら神秘的な雰囲気を醸し出し、その緊張をあのフォルテ3つの爆発で解放(ここでソリストが上手ドアからゆっくりと登場して来るのは予想通り)したあと、再び夢のような沈潜に戻って行き、━━そしてクラリネットが楽譜通りのピアノ3つで温かく主題を吹きはじめ、かくて別の世界に入って行くという、このあたりの流れはひときわ素晴らしかった。「鈴のモティーフ」を激情的に奏させ、歌による夢幻的な世界と鋭い対比をつくり出すのも印象的である。
 このマーラーだけを聴いて云々するのは早計だろうが、こういう芸当(?)を見せるガッティであれば、RCOとの共同作業、案外うまく行くかもしれない。

 なお、ソリストのマリン・ビストレムは、ユリア・クライターの代役としての出演だが、声質はソプラノというよりメゾ・ソプラノに近い。これが曲に翳りを生じさせ、不思議な面白さを感じさせた。立ち位置は最後段、ティンパニの上手側横だったが、声楽がオーケストラの奥から響いて来るという音響効果も、これが「声楽曲」でなく、それまでの管弦楽の流れの中に加わった一つの天使の声なのだ、というコンセプトを感じさせるものであった。

2017・11・18(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

       サントリーホール  2時

 メインのプログラムは、ブルックナーの「交響曲第5番」。インキネン=日本フィルのブルックナーとしては、今年1月の「第8交響曲」に続くものだ。

 「8番」の時と同様、テンポを遅く採った演奏である。
 ただしあの「8番」ではトランペットなどが抑制され、どちらかといえば柔らかい感じの演奏になっていたのに対し、今日の「5番」では金管群もティンパニも豪放に轟き、全管弦楽のリズムも非常に鋭角的になり、驚くほど厳めしく、かつ攻撃的な演奏になっていた。第3楽章など、あたかもハンマーで叩きつけるかのような、コンクリートの角材を打ち込むかのような、強靭なリズムで進められていたのには、本当に驚いた。

 第4楽章最後の豪壮なクライマックスでのティンパニは見事なトレモロだったが、最後の変ロ長調の和音を、その前のトレモロから一度切って「独立気味に」叩いたのは指揮者の指示かもしれないけれども、全体の流れからするとやや疑問がある。
 しかし、この終結部は素晴らしい盛り上がりを示していた。コラールの和声的な美しさや陶酔感などには不足するところがあったものの、これは今の段階では仕方のないところだろう。

 ともあれ、これほど咆哮し怒号しながら、全体に音が濁らなかったのが立派である。これは、日本フィルにとっての新境地だろう。

 「インキネンのブルックナー」に関しては、「8番」の時にも未だ全貌がつかみにくいと書いたが、今日の「5番」を聴いて、ますます彼のコンセプトが把握しにくくなった。
 彼の方針は、ある作曲家の作品群はこのようなスタイルであるべき、という考え方でなく、同じ作曲家のものであっても、作品によっていろいろなスタイルを出して行く、というもののようだが、その基準点、分岐点を何処に置いているのかが解りにくいという意味である。

 とはいうものの今回、日本フィルとしては、過去にほとんど聴いたことのないような整然とした剛直なスケール感を備えた演奏がつくられていたことには間違いない。インキネンが首席指揮者に就任して以来、このような新しい境地が開かれて来ているのは、本当に喜ばしいことである。
 なおこの「5番」に先立ち、「日本フィル共同委嘱作品」として2年前に作曲されたラウタヴァーラの「In the Beginning」という、短い、美しい作品が演奏された。作曲スタイルは全く異なっているにもかかわらず、これはそのあとの大交響曲と調和する。ただしこの2曲は続けて演奏されたわけではなく、ただ「休憩を挟まずに」演奏されただけである。
 コンサートマスターは扇谷泰朋。

2017・11・17(金)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団 「イワン雷帝」

      NHKホール  7時

 このところ3シーズン連続でN響に客演、何となく「首席客演指揮者」のような存在になってしまったトゥガン・ソヒエフ。回を重ねるごとにオーケストラとの呼吸が合い、演奏も鮮やかさを増して来るようである。

 特に今月のC定期、プロコフィエフのオラトリオ「イワン雷帝」(スタセヴィチ編)の演奏は、流石と言えるものだった。
 N響(コンサートマスター・篠崎史紀)が響かせる豊かな音の量感が生み出す壮大なスケール感は、言うまでもない。だがそれ以上に、ソヒエフがN響から引き出したこの日の演奏には、プロコフィエフの音楽が持つ、独特の雰囲気が━━それは旋律や和声の音色などを含んではいるが、それだけではなく、聴き手が一瞬のうちに「プロコフィエフ!」と感じてしまうあのえもいわれぬ独特の個性的な音楽のことなのだが、それが演奏の多くの個所にあふれていたのである。
 異国のオーケストラから、このような特徴を引き出すソヒエフの力量は、やはり卓越したものというべきだろう。

 そしてまた感嘆させられたのは、東京混声合唱団(合唱指揮・松井慶太)と東京少年少女合唱隊(合唱指揮・長谷川久恵)の見事さだ。
 とりわけ、両者がア・カペラで歌う「タタールの草原」━━プロコフィエフが「戦争と平和」でも使っている曲で、私は何故かこの曲がえらく好きなのだが━━での、弱音からクレッシェンドしつつ、低音から高音へと拡がって行くこの合唱の美しかったこと! それはロシアの合唱団が歌う時のような、大地から湧き上がって来るかの如き力強さとは違うけれども、その代り澄んだ透明な音色の響きが祈るように拡がって行くといった神秘性を感じさせたのである。敢えて言うなら、今日はこれを聴けただけで満足したと言ってもいいか。
 因みにこの「イワン雷帝」には、チャイコフスキーが「1812年」に使ったロシア聖歌「主よ汝の民を守り給え」なども出て来て、なかなか楽しいものがある。

 独唱のスヴェトラーナ・シーロヴァ(Ms)とアンドレイ・キマチ(Br)も好演。
 ナレーターとして片岡愛之助が出演、曲の間や曲に乗せる形で、これだけは日本語で非常に劇的な「語り」を展開した。ナレーションがちょっと伸びて、合唱の入りにかぶってしまったところが1カ所だけあったのを除けば、まずうまく行っていただろう。ナレーションが終って演奏に入る時の「間」は、もう少し詰めたい気がするが、外国人指揮者との協同作業となれば、その辺は難しいところだ。

 なおプログラム冊子には、演奏時間69分と記載されていたが、これはソヒエフのCD(語り無し)での数字だ。ナレーションが入った今日の演奏は82分ほどになっていたはず。

2017・11・16(木)オーギュスタン・デュメイ指揮関西フィル

      いずみホール(大阪) 7時

 関西フィルハーモニー管弦楽団の「いずみホール定期」を、音楽監督オーギュスタン・デュメイの指揮で聴く。
 シューマンの「マンフレッド」序曲、同「チェロ協奏曲」(ソリストはアントニオ・メネセス)、シューベルトの「交響曲《ザ・グレイト》」。コンサートマスターは近藤薫。

 デュメイと関西フィルを、シンフォニックなプログラムで聴くのは久しぶりだ。もともと彼の指揮は、ちょっと奔放で、時に荒々しい力ほどの力を噴出させるスタイルだという印象もあったのだが、しかし今日の前半のシューマンの2曲では、極めて翳りのある音色と表情を関西フィルから引き出していたのが、とりわけ印象的だった。
 「マンフレッド」では曲の標題に相応しく、特に後半では激情をこめた緊迫感を漲らせた。「チェロ協奏曲」でも、アントニオ・メネセスの深みのあるソロに対抗してオケから引き出した憂愁感とメリハリの強いリズムは、なかなか「聴かせる」ものであった。

 それにしても、メネセスのヒューマンな演奏は素晴らしい。特に後半にかけての雄弁な昂揚は、シューマンの陰翳に富んだ美しさを余すところなく描き出して、実に強い感銘を与えてくれた。メネセスは、この曲を最近レコーディングしたばかりということもあってなのか、あちこちで演奏しているようである。日本でも、このあと紀尾井ホール室内管とこの曲を協演することになっている。

 「ザ・グレイト」は、このところ妙に演奏会でよく聴く機会があるが、今日のそれは実にユニークなものだった。
 デュメイのテンポは、第1楽章序奏からして相当速い。特に第2楽章などは、スコア指定の「アンダンテ」ではなく、アレグレットか、あるいはそれ以上か。最初の主題では、軽快なリズムで、弾むように演奏していた。

 各楽章の演奏時間は、大雑把な計測だが、13分、13分、13分、10分。第1楽章と第4楽章の各提示部はリピートなし。それでも50分ほどにまで達していたのは、第3楽章のスケルツォ前半とトリオがリピートありだったのと、第4楽章が(速いながらも)比較的通常のテンポに近い速度だったからだろう。

 そういえば昔、ユーディ・メニューインが新日本フィルを指揮した時、リピートは一切なしで、しかも終楽章を前代未聞の速力で驀進させ、全曲を計43分という、あり得ないような演奏時間でやってのけたことがあった。
 今日の演奏の場合、かりにスケルツォとトリオの反復がなければ4分ほど縮まったはずだから、そうすれば45分・・・・。あり得ない数字でもない。考えてみると、メニューインもデュメイもヴァイオリニストだ。ヴァイオリニスト出身の指揮者が振るとそうなるわけでもあるまいに。

 こういう快速テンポで演奏すると、細部が粗っぽくなるのはある程度致し方ない。
 だが想像するに、デュメイとしては、この「ザ・グレイト」を、ロマン派音楽を確立したモニュメントだとか、あるいは古典派音楽の偉大な残照だとかいったイメージで捉えるのではなく、むしろこの曲の中に、「オーストリア人シューベルト」の自由奔放な、軽快な性格を見ていたのかもしれない。
 この演奏を詳細に聴けば、一気呵成に単調に押しまくるのではなく、フレーズごとに、あるいは主題の移行個所で細かくテンポを調整していたし、粗っぽいように見えても、主題に微細な漸弱・漸強を施していたのが判る。

 また第3楽章トリオでは、特に木管の声部のバランスに気を配っていたと思われる。関西フィルがそのデュメイの意図に全面的に応じられたとは言い難かったが、しかし第3楽章トリオでの演奏はことのほか美しく、特にオーボエをはじめ木管群が━━ハーモニーとして動くよりもメロディ・ラインとして交錯するというユニークな構築には、格別な面白さがあった。

 オーケストラのアンコールは、ビゼーの「アルルの女」からの静かな「アダージェット」。これは以前にも聴いた。デュメイはこの曲が好きと見える。

2017・11・15(水)チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ

      サントリーホール  7時

 旧称モスクワ放送交響楽団。芸術監督・首席指揮者はおなじみウラジーミル・フェドセーエフ。チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」とラフマニノフの「第2交響曲」をプログラムに組んだ。これは、今回の来日ツアー最終日の公演だった。

 フェドセーエフも、もう85歳。彼の演奏も、近年はやや淡白な味になって来たことを感じさせる。今日の2つのロシアの作品でも同様の印象だ。
 ラフマニノフの「第2交響曲」など、昔だったらもっと濃厚な色彩感と、轟くような重量感、怒涛の如き推進性、深い陰翳と哀愁、といったものを漲らせていたものだが、今日は━━彼と「モスクワ放送響」にしては━━ずいぶんあっさりした演奏になってしまったな、という感だったのである。
 ただ、今回は弦14型編成の規模での演奏であり、またメンバーもだいぶ若返っている様子なので、いっそうその印象が強くなっていたのかもしれない。

 アンコールでは、フェドセーエフ得意のスヴィリドフの「吹雪」からの「ワルツⅡ」と、チャイコフスキーの「白鳥の湖」からの「スペインの踊り」を演奏したが、打物陣が大活躍する後者で、あの「二刀流タンバリンおじさん」が健在で派手なところを見せていたのには、なんとなくうれしくなった。彼の持芸を知っている聴衆も多いので、拍手も歓声もひときわ大きくなる。

 なおプログラムの第1部におけるチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」では、人気沸騰の三浦文彰がソロを弾いたが━━彼のおかげで満席近くまで切符が売れたということもあるだろうが━━残念ながらオケとは水と油といった感。ただバリバリ弾けばいいというものではない。
 来日オケに日本人ソリストを組み合わせること自体が悪いことだなどと言っているのでは毛頭ないが、その場合はソリストの個性と、オケの伝統的個性と、レパートリーとにおけるそれぞれの相性を、もっと慎重に検討してからにすべきではないか。
 また、それとは別の問題だが、オーケストラが起立したまま、もう引き上げたいという姿勢を示している真中へ割って入り、構わずソロ・アンコールを演奏しはじめるというのもいかがなものだろうか。

2017・11・14(火)大平まゆみ ヴァイオリン・リサイタル

      Hakuju Hall  7時

 札幌交響楽団のコンサートミストレス、大平まゆみさんの「地」の演奏を聴くのは今回が最初━━コンサートマスターとしての演奏はしばしば聴いているけれども、指揮者の意向を汲み取って演奏する時あるいはアンサンブルのリーダーとして演奏する時と、自らのスタイルを自由に押し出せるリサイタルでの演奏とは、明らかに違うはず。そういう意味でも興味津々だったが、果せるかな、予想していたのとは随分イメージが違った。

 プログラムは、第1部がバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」とブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ第2番」。こちらでも随分情熱的な演奏をする人だと感心したが、第2部のサラサーテ特集━━「カルメン幻想曲」「アンダルシアのロマンス」「サパテアード」「ツィゴイネルワイゼン」では、さらに情熱的な演奏になり、豪快奔放なほどの表現になった。
 このホールは「よく響く」ので、音量も、演奏にみなぎる力も、強靭なものになる。深紅のドレスに身を包んで大きな身振りで弾く迫力も、なかなかものだ。にこやかな表情の方だが、パッショネートな音楽家なんだな、という印象。

 もっとも、そのわりにステージ上のトークの声は優しく低く、しかも早口だったので、後方客席からはあまりよく聞き取れなかったが・・・・ともあれ、オーケストラの一員として弾いている時の彼女とは違った面を見ることができて、すこぶる愉しい演奏会であった。

2017・11・12(日)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

        ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 1曲目の、マックス・レーガーの「ベックリンによる4つの音詩」は、つい2日前に上岡敏之指揮新日本フィルの定期でも聴いたばかり。滅多に演奏されない曲が何故か偶然接近して各楽団のプログラムに載るというケースは不思議によくあるものだ。

 しかしこちら、スダーンと東京響の演奏では、4枚の「絵」は、非常に隈取りのはっきりしたイメージで再現されている。第1曲の「ヴァイオリンを弾く隠者」でのソロは、コンサートマスターのグレブ・ニキティン。隠者というよりも、壮年の哲人と言った方がいいようなソロだったが、それはこの作品全体の演奏の性格を象徴していたとも言えよう。
 そのあとに、フランク・ブラレイをソリストに迎えての、ダンディの「フランスの山人による交響曲」が続き、気分は一気に開放的になる。

 休憩後はドヴォルジャークの「新世界交響曲」だったが、これもなかなか聴き応えのある演奏だった。郷愁とか民族音楽的叙情美が蔑ろにされていたわけでは決してないけれども、それよりもむしろ、毅然たる姿勢で屹立する、造型性の豊かな、がっしりと構築された「新世界交響曲」だったのである。これは、いかにもスダーンらしい個性を感じさせる演奏だった。聴き慣れた曲が、実に新鮮に聞こえたのである。東京響の管に、以前ほどの安定感がないのだけが気になるけれども。

2017・11・11(土)ブロムシュテット指揮ゲヴァントハウス管弦楽団

      サントリーホール  3時

 ヘルベルト・ブロムシュテットは90歳。だが相変わらず元気だ。歩行もしっかりしているし、指揮台では椅子など使わない。何より、オーケストラから引き出す音楽が、壮者を凌ぐエネルギーに満ちている。

 休憩後に指揮したシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」では、全ての反復指定を遵守した長丁場を、速めのテンポと、荒々しいほど強靭なデュナミークを駆使して、些かの緩みもなく指揮して行った(リピートをすべて守りながら、全曲の演奏時間が63分にとどまっていたというのは、相当速いテンポだった証拠だろう)。演奏に湛えられた滋味という点ひとつ取ってみても、この人はやはり、ドイツの老舗オーケストラを指揮した時の方が、最も良さを発揮するようである━━というのは、私の独断的な印象なのだが。

 しかし、この日の大きな驚きは、前半に演奏されたブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」である。あの異様に遅く沈潜した、粘ったテンポは、ソリストのレオニダス・カヴァコスの選択か、それともブロムシュテットの意図か。

 カヴァコスのソロは、いつものように骨太で強靭で、しかも陰翳の濃い表情で、この協奏曲をいっそう深みのある、思索的なものにしていたが、今にも停まってしまうかと思えるようなあの遅いテンポ(第1楽章だけで25分、第2楽章10分、第3楽章9分━━正確ではないかもしれないが、大体そんなところだろう。最初の2つの楽章は、CDに入っているケネディとテンシュテットの方がもっと遅いだろうが)は、それが一分の緩みもなかっただけに、凄まじい緊張感で聴き手をねじ伏せる。
 これまでは切れ味のいい、斬り込むような演奏が身上だと思っていたカヴァコスが、こんな沈潜した凄味のある音楽を聴かせてくれるとは、全く予想外であった。だがその演奏が、少しも奇を衒ったものでなく、あくまで真っ向勝負のものだけに、説得力がある。

 しかもブロムシュテットとゲヴァントハウス管弦楽団が、そのカヴァコスの演奏を揺るぎなく、どっしりと、これまた一分の弛みもなく支え、更なる深淵へ煽り立てて行くのだからますます凄い。第1楽章終りでの最強音の和音の反復など、これほど変化に富んで意味深く演奏されていた例を、私は初めて聴いた。

 とにかく、その演奏には完全に引き込まれたが、聴き終った瞬間にはヘトヘトになっていた、というのが正直なところである━━ただし快さのある疲労感ではあったが。
 しかもカヴァコスはそのあとに、バッハの「パルティータ第2番」の「サラバンド」をアンコールとして弾いた。これまた強い、いい意味での粘着力に満ちていた。これで、更にヘトヘトになった。
      別稿 音楽の友新年号 演奏会評

2017・11・10(金)映画「ホリデイ・イン」

     東劇  7時

 1942年のアメリカ映画「スイング・ホテル」(原題はHoliday Inn。ビング・クロスビー、フレッド・アステア他主演。音楽:アーヴィング・バーリン)が、ミュージカル映画になって現われて来た。「アーヴィング・バーリン最新作ミュージカル」という触れ込みだが、彼は1989年に101歳で世を去っているのだから・・・・さながら「フルトヴェングラーの最新録音」と言うが如しか?

 共同脚本と監督がゴードン・グリーンバーグ。ラウンドアバウト・シアター・カンパニーの公演のライヴ収録HDということらしいが、よく解らない。とにかく、あのオリジナルの映画から生まれた名曲「ホワイト・クリスマス」をはじめ、「イースター・パレード」や「ブルー・スカイズ」など、アーヴィング・バーリンの懐かしい音楽が飛び出して来るので、われわれの世代にとっては感無量の趣がある。

 今回の映画は、良き時代のアメリカ━━理想郷アメリカというイメージにあふれていたミュージカル映画の蘇りを感じさせる。こうした映画がまた製作されるようになったということは、非常に興味深い。現代のアメリカにまた何かが起こりつつあるということの表れなのだろうか。
 上演時間は約2時間。オペラと違って短いのは有難い(?)。

2017・11・10(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      すみだトリフォニーホール  2時

 ラフマニノフの「死の島」、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストはカティア・ブニアティシヴィリ)、レーガーの「ベックリンによる4つの音詩」。コンサートマスターは崔文洙。

 これは実に凝った選曲で、しかも意欲的である。
 ラフマニノフの「死の島」はベックリンの画を基にした交響詩であることは周知のとおりだが、レーガーの「音詩」の中にも、「死の島」という曲が含まれている。両者を組み合わせた発想は秀逸だし、われわれ聴き手にとっても、あの不気味な絵画から生まれた2つの曲を比較できるという意味で興味深い。
 間に置かれたチャイコフスキーのコンチェルトはちょっと異質な存在で、当然これは「客寄せ系」とも言えようが、前後の作品の重苦しい雰囲気の中に一篇の明るさを投じるという意味では、存在価値を発揮するだろう。

 上岡と新日本フィルも、ラフマニノフとレーガーの重厚な作品を、濃厚に、しかし滋味豊かに演奏してくれた。
 前者の「死の島」については、レコード評論の大先達あらえびす(別名・野村胡堂)が「凄まじく手の混んだ曲だが、少し鬱陶しい」(「楽聖物語」)と評した一文が今でも頭にこびりついているのだが、今日の演奏は、重々しいけれどもあまり不気味ではなく、むしろ色彩的なものが感じられ、この作曲家の管弦楽法の巧さが印象づけられる結果になっていた。
 レーガーの「4つの音詩」では、「ヴァイオリンを弾く隠者」で崔文洙が濃い表情を聴かせたのが印象に残るけれども、「死の島」に関する限りは、やはりラフマニノフの方が一枚ウワテだったな、という感も。大体、レーガーの音楽は、理屈っぽいのだ。

 チャイコフスキーでは、ブニアティシヴィリと上岡の対決的な演奏が何とも興味深かった。冒頭のホルンは恐ろしいほど濃厚に、粘った遅いテンポで始まったので、この調子でピアニストもやるのだろうか、とギョッとさせられたが、やはり彼女の方は独自の勢いで押し通して行く。とにかく、指揮者とソリストが「合って」いるような、いないような、このせめぎ合いがこれまたスリリングで、聴き手を退屈させない。

 彼女としてはやはり速いテンポで「軽快に」突き進む部分に良さを感じさせたのは、先日のリサイタルでの演奏と同じである。とはいえ、今日ソロ・アンコールで弾いたシューベルト~リスト編の「セレナード」の、翳りのある音色と極度に遅いテンポによる沈潜しきった演奏は、彼女の幅の広さを示すものになっていた。

 「死の島」で始まった今日の重苦しいプログラムは、最後のオーケストラ・アンコールでのワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」で、とどめを刺される。「死の動機」が速いテンポで演奏されたのは、私の好みではないけれども、上岡が今「指環」を指揮したらどんなものになるかを垣間見せてくれたという点で、これも貴重な機会であった。

2017・11・9(木)METライブビューイング モーツァルト:「魔笛」

      東劇  6時30分

 終演後すぐに日比谷の日生劇場を飛び出し、東銀座の東劇へ向かう。同じオペラでも、こちらは映画だ。モーツァルトの「魔笛」で、メトロポリタン・オペラの10月14日上演のライヴ映像。
 今シーズンの「METライブビューイング」の開幕に際し、第1弾となる「ノルマ」に先がけて行われた特別試写会である。

 これはジェイムズ・レヴァインの指揮、ジュリー・テイモアの演出、ゲオルギー・ツィーピンの舞台美術、ドナルド・ホールダーの照明他による実に美しい幻想的な舞台だ。小鳥や熊などの動物や、夜の女王の衣装などが、大勢の黒子によって華麗に舞う。このプロダクションは、以前プレミエされた時、私も現地で観て、その美しさに酔ったものである。

 ただ、その時に最も強く印象に残った夜の女王の衣装のデザインは、今回の上演ではかなり異なっている。あの時は、彼女のアリアの際に、その衣装が真っ暗な舞台の左右いっぱいまで大きな羽根のように拡がり、客席から感嘆の溜息が漏れるほど美しかったものだ。それに比べると今回の衣装はだいぶ小型になってしまっていた。
 また当時、ツィーピンが入れ込んでいたガラスを活用した舞台装置も、今回の舞台ではどうも雰囲気が違う。今回の国内上映用プログラム冊子の解説にそれを重点的に取り上げて書いてしまった手前、少々具合の悪い思いをしている。

 歌手陣は、王子タミーノをチャールズ・カストロノヴォ(台本指定通りの日本の(古代の)狩衣風な衣装とメイクが面白い)、王女パミーナをゴルダ・シュルツ、鳥刺しパパゲーノをマルクス・ヴェルバ(巧い。舞台をさらってしまっていた)、高僧ザラストロをルネ・パーペ(この収録日の公演のみ彼が歌ったそうだ。いつもの彼ほど冴えがないようだったが、貫録は流石のもの)、夜の女王をキャスリン・ルイック、その他。

 上映時間は3時間42分で、10時20分頃に終った。

2017・11・9(木)NISSAY OPERA ドヴォルジャーク:「ルサルカ」

      日生劇場  1時30分

 東京公演はダブルキャストによる計3回公演で、今日は初日。
 田崎尚美(ルサルカ)、樋口達哉(王子)、清水那由太(木の精ヴォドニク)、清水華澄(魔法使の老婆イェジババ)、腰越満美(外国の公女)、森番(デニス・ビシュニヤ)、料理人の少年(小泉詠子)、盛田麻央・郷家暁子・金子美香(森の精)、新海康仁(狩人)の歌手陣に、東京混声合唱団、読売日本交響楽団、山田和樹(指揮)。

 ピットを高めにし、更に木管とホルンを舞台上に配置して、さながらセミ・ステージ上演の趣さえある舞台だったが、これは演出家・宮城聰の意図だと聞いた。しかしこの、あまり大きくない演技空間を使っての演出は、部分的には不満もあったものの、全体としては予想した以上に要を得ていたと思う。

 たとえば第2幕では、赤色系の照明に照らされた華やかな人間界の中で、ルサルカにのみ白色の照明を当て、彼女が疎外されていることを表わしていたが、彼女をずっと上手側に佇立させたまま動かさず、照明のみで他の華やかな登場人物との対照を見せたアイディアは、この狭い舞台をむしろ生かす効果的な結果を生んでいたであろう(照明は沢田祐二、空間構成は木津潤平)。
 ただし欲を言うなら、第3幕で終始舞台上にいて、森の精霊たちの呪詛の対象になっている王子の表情にもっと苦悶のようなものがあれば、と思ったこと、また第3幕でのルサルカの衣装━━というより「着ている洋服」が、何とも世俗風に過ぎて幻想味を失わせていたこと、などだろうか。

 ともあれ今回の上演は、幻想的な物語展開の中に自然と人間の対立や男女の宿命的な悲劇を象徴的に織り込んだ「ルサルカ」という作品を、室内オペラのような形で再現しようとした試み━━と解釈せざるを得ないが、それはその範囲ではかなりの程度まで成功していたと見ていいのだろう。ただ、日生劇場という、それなりの規模を備えた劇場が制作するオペラ・プロダクションとして、このスタイルが適していたかどうかは、別の問題である。

 歌手陣は好演。題名役の田崎尚美は、安定した歌唱を聴かせてくれた。しかも特に第2幕の茫然と佇んでいる場面では、実に悲しそうな雰囲気を全身で表現し、哀れを誘う演技を見せていたところなど、立派なものである。その他、登場した瞬間に華麗な雰囲気を感じさせる腰越満美の見事な存在感、コミカルな味も湛えつつ不気味な雰囲気を出した清水華澄の巧さ、歌と演技を客席で繰り広げたデニス・ビシュニヤと小泉詠子の素朴で温かい味なども印象に残る。

 山田和樹と読響も、魅力的な演奏をしてくれた。大編成のオーケストラが目の前にいながら、その音量の調整がすこぶる巧いので、歌は全くマスクされず、客席によく響いて来たのは有難いことだった。ドヴォルジャークも管弦楽の使い方にもよるのだろうが、山田の「歌とオーケストラ」のバランスの扱いにも鮮やかなものがあるだろう。

2017・11・8(水)ハンヌ・リントゥ指揮東京都響「クレルヴォ交響曲」

       東京文化会館大ホール  7時

 このところ日本で人気急上昇中のフィンランドの指揮者、ハンヌ・リントゥがシベリウスの「クレルヴォ交響曲」を振るとあっては、聞き逃すわけには行かない。しかも合唱にはフィンランド・ポリイテク男声合唱団(指揮:サーラ・アイッタクンプ)、メゾ・ソプラノにニーナ・ケイテル、バリトンにトゥオマス・プルシオ━━と、いずれもフィンランドの演奏家たちを客演に迎えている。コンサートマスターは山本友重。

 満席の東京文化会館とあって音が吸われ、1階席中央で聴く範囲では都響や合唱団の音色に潤いが欠け、演奏も乾いたものに聞こえたのは残念だったが、しかしリントゥの切れの良いリズムでたたみかける強靭な力感、些かの曖昧さも残さぬ明快な表情によって、特に後半にかけては、息もつかせぬほどの迫力で聴き手を巻き込んで行く演奏となった。彼の指揮で聴くと、カレワラの物語に登場するクレルヴォは、森と霧の中から生れ出た悲劇の主人公ではなく、毅然として己が道を貫いた英雄ともいうべきイメージになる。

 アンコールとして、「フィンランディア」が、合唱入りの版で演奏された。あの叙情的でありながら満々たる意志の力を込めた主題が、「フィンランディア讃歌」の合唱で歌われるのは、すこぶる感動的なものである。欲を言えば、最後の個所にも壮大な合唱を入れてくれれば、いっそう感銘深いものになっただろうけれど。

2017・11・7(火)アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団

     サントリーホール  7時

 ボストン交響楽団が音楽監督とともに来日するのは、わが小澤征爾とともに1999年に来日して以来、実に18年ぶりである。
 ボストン側でもそれをかなり意識しているらしく、ボストンのFM放送局が一緒に取材に来ていて、日本ではオザワ=ボストンがどう受け取られていたか、今の日本でボストン響が注目されるとすればどんな点に対してか、などについて、開演前にホワイエの片隅でインタビューを受ける羽目になってしまった。

 今日は日本公演の4日目、ギル・シャハムをソリストに迎えてのチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」と、後半にショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》」。

 またアンコールにはショスタコーヴィチの「モスクワのチェリョムーシカ」からの「ギャロップ」と、バーンスタインの「ディヴェルティメント」からの第2楽章という、これはまた珍しい小品を演奏してくれたが、その演奏が実にヴィヴィッドである。来日オケがありふれた名曲ばかりでなく、もっとこのようにオーケストラの個性と、若い世代の指揮者の個性を生かしたこのようなレパートリーで一夜のプログラムを構成してくれれば、若い世代の聴衆ももっと聴きに来るのではないかと思うのだが━━。

 さて、ギル・シャハムの演奏が、とてつもなく面白い。昔から個性的な演奏をする人だったが、最近は音色にも濃厚な色気のようなものが加わって来て、それが僅かの乱れもないテクニックの裡に完璧に生かされるのだから、演奏は不思議な煌びやかさに満たされる。
 しかも第1楽章など、変な言い方だが、彼は全ての音符の間に全く切れ目を入れず、つまり句読点を意識的に排した文章のように演奏する。といってレガートな演奏というのではなく、どの音符もメリハリよく粒立っているという、この不思議な奏法━━。その結果、音楽が、良くも悪くも非常に饒舌になる印象を与えるのである。チャイコフスキーのこのコンチェルトのイメージを一新させてしまった演奏である。
 彼のソロ・アンコールは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」第3番からの「ガヴォット」だった。

 ショスタコーヴィチの「1905年」は、いかにも「戦争を知らない世代の指揮者の」演奏という感である。ボストン響が巧いし、パワーもあるから、スペクタクルな演奏にはなってはいたが、しかしこの演奏からは、1905年のペテルブルクの「血の日曜日」という歴史的イメージはあまり浮かんで来ないのではないか。ゲルギエフやインバルが指揮した時の、あの悪魔的な凄さが、ちょっと懐かしくなった。

2017・11・6(月)カティア・ブニアティシヴィリ・ピアノ・リサイタル

      サントリーホール  7時

 ジョージア(旧称グルジア)の、未だ30歳ぐらいの若い美女ピアニスト、カティア・ブニアティシヴィリのリサイタル。ホールの使用客席はほぼ埋まり、熱心な歓声が飛ぶ。大変な人気である。

 プログラムは、ベートーヴェンの「熱情ソナタ」に始まり、リストの「ドン・ジョヴァンニの回想」に続き、休憩を挟んでチャイコフスキー~プレトニョフ編の「くるみ割り人形」組曲、ショパンの「バラード第4番」、リストの「スペイン狂詩曲」、リスト~ホロヴィッツ編の「ハンガリー狂詩曲第2番」が演奏された。
 これは一部が変更されたあとのプログラムだが、なかなか良い流れで、それなりに筋が通っているとも言える。

 素晴らしく指のよく回る人だ。それゆえにリストの作品における鮮やかさは見事なもので、いや、「熱情ソナタ」の終楽章だってそういう意味では鮮やかだったが、半面、遅いテンポで叙情的に歌うべき個所では緊迫度が下がってしまい、不思議なほど音の流れにスムースさが失われてしまうあたりが、未だこれからということだろうか。
 アンコールにはドビュッシーの「月の光」など4曲を演奏したが(サントリーホールはアンコール曲の曲名を同ホールのサイトに掲載してくれているから有難い)、それらにおいてもやはり同じような特徴が聴かれた。

2017・11・5(日)ザ・カレッジ・オペラのモーツァルト:「偽の女庭師」

      ザ・カレッジ・オペラハウス(大阪音楽大学) 2時

 大阪音楽大学のオペラ公演もこれが第53回。見事な実績である。今回はモーツァルトの、日本では滅多に上演されないオペラ「偽の女庭師」が取り上げられた。今日は2回公演の2日目。

 指揮は牧村邦彦、演出は井原広樹。あの「みつなかオペラ」のコンビでもある。イキも完全に合っているとお見受けした。
 演技はかなり細かく組み立てられ、それが音楽の動きと完全に合致している。逆に言えば、指揮も演出にぴたりと合わせていると言ってもいいのかもしれない。モーツァルトのこの若い時代のオペラの中に、後年の「ドン・ジョヴァンニ」や「フィガロの結婚」の音楽を少し紛れ込ませるというシャレも二つ三つ見られたが、そういう際にも演奏と舞台上の表現とが完全にマッチしていたのである。
 なお今回の井原の演出は、登場人物の喜怒哀楽をかなり派手に表現させ、モーツァルトのオペラの中に甚だ賑やかな喜劇的性格を導入していたが、このあたりが関西のノリというべきか。大阪で観るとこれがぴったり来るのだから、面白いものである。

 毎回のことだが、ここの劇場の舞台の構築の仕方は、いつもながら巧みだ。今回も、小編成のオーケストラ(ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団)を舞台に乗せ、背景に二重の奥舞台を高く設置、その両側から手前へも囲むように演技空間を設置して、フルに舞台を使う(舞台美術は増田寿子)。ホールの響きが良いため、声は充分に客席へ届いて快い。
 牧村邦彦の指揮も率直で流れが良いので、オーケストラもモーツァルトの屈託ない音楽を伸び伸びと響かせていた。初めのうちは弦が少し粗く、ティンパニの音も重く、音楽が鈍い印象になっていたが、演奏自体は尻上がりに充実して行った。

 歌手陣もいい。サンドリーナ(ヴィオランテ)を尾崎比佐子、市長ドン・アンキーゼを清原邦仁、ベルフィオーレ伯爵を中川正崇、アルミンダを南さゆり、騎士ラミーロを橘知加子、セルベッタを石橋栄美、ロベルトを迎肇聡。みんな、勢いのいい熱演である。
 尾崎比佐子は、モーツァルトの若書きのオペラを歌うにしては少し物々しい歌唱にも思えたが、それでもいつものように尻上がりに迫力を出して、結局は題名役としての存在感を確立してしまう。それがベテランの魅力的な味というものだろう。

 闊達で明るい雰囲気をコミカルに切れ味よく発揮していたのは、石橋栄美と迎肇聡だ。石橋は聴く機会が極めて多い。迎(むかい)は3年前にびわ湖ホールの「死の都」でフリッツを歌ったのを聴いて感心し、「竹取物語」のロビーコンサートで聴いた時にも「これから注目される存在になるだろう」と書いた記憶がある。

 7人の主役たちの中には、例の細かい声の動きにあまり慣れていないような人もいて、時にもどかしい感を与えることもあったとはいえ、闊達な歌唱がモーツァルトの初期のオペラの世界を快く盛り上げていた。
 20分程度の休憩1回を含み、終演は5時半過ぎ。

 なお今年の上演は、ザ・カレッジ・オペラハウスの新しいシリーズである「ディレクターズチョイス」の第1弾である由。これは、大阪音大の客員教授でもある演出家の井原広樹、粟国淳、岩田達宗が、ザ・カレッジ・オペラハウス館長の中村孝義(大阪音大理事長)と打ち合わせつつ、毎年交替で「やりたいオペラ」を演出して行く、というシリーズだという。来年は粟国淳が演出を担当し、メノッティの「電話」と「泥棒とオールドミス」を上演する予定とか。面白そう。

2017・11・4(土)イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出「オセロー」

      東京芸術劇場プレイハウス  1時

 「オセロー」というからには、もちろんオペラでなく、オリジナルのシェイクスピアの芝居のこと。オランダの演出家イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出、劇団「トネールグループ・アムステルダム」メンバーの出演。オランダ語による上演で、日本語字幕がつく。

 上演台本はモロッコ系オランダ人のハフィッド・ブアッザという人によるものの由。シェイクスピアの長大な戯曲から、部分的に入れ替えるなどして要領よく抜粋し、登場人物もわずか9人に絞り(群衆はいない)、全体を各80分と60分の2幕構成にしている。このため物語は、良くも悪くも「家庭内悲劇」の様相を呈するが、それも演出の狙いなのであろう。

 原作の前半部分はかなり短縮されているけれども、しかし後半部分への伏線として最も重要な、デズデモーナの父ブラバンショーがオセローに叩きつける捨てゼリフ━━「父親を欺いたほどの娘だ、今に貴様をも裏切るかもしれんぞ」がちゃんと生かされているのはいい(この伏線場面はボーイト/ヴェルディのオペラにはないので、オテロが短絡的で単純な性格の人間というイメージが強くなってしまう)。

 ドラマはもちろん現代設定で、シェイクスピアの原作にある「人種差別意識」を浮き彫りにしているのが最大のポイントだ。といっても、オペラでのように、オテロの顔を黒人的にするなどということはやられていない。もっぱらセリフの中で描き出されているような、アラブ人に対するヨーロッパ人の差別意識と、それに対するオセローの焦燥感とのせめぎ合いにより、現代でもなお繰り返されている人種問題や、欧州とアラブとの確執がクローズアップされるという仕組みである。登場する男たちが、もちろんオセローを含めて欧州の軍服を着ていることも、現代の政治的状況を鋭く描くのに役立っているだろう。

 オセローを演じていたのはハンス・ケスティングという人。なかなかの風格である。イアーゴーはルーラント・フェルンハウツという人だったが、こちらはあまり個性的な存在を感じさせない。

 最初から最後まで緊迫感に満ちた、素晴らしい上演だった。私などはふだんのテリトリーの関係から、どうしてもオペラと比較しつつ観てしまうのだが、今回の舞台は、オペラの演出でも名の知られているヴァン・ホーヴェらしく、これをこのままオペラの舞台に持って行っても成り立つだろうと思えるくらい、演技の進行のリズムがいい。
 効果音の使い方にも同様のことが言える。台詞の背景に微かな音量で交じって来るシンセ的な音響の中に、オセローの心に嫉妬の疑いが兆す時、あるいは殺意が漲って来る時などに、それぞれ特定のリズムを含む響きが関連づけられ、まるでオペラにおけるライトモティーフのような作用をしているのが面白かった。

 これは2003年にアムステルダムで初演され、世界各地で上演されているプロダクションとのこと。今回は日本初演になり、この3、4、5日の3回のみの上演である。
 彼に日本で、思い切った演劇的演出によりオペラの舞台を手がけてもらえたら、さぞ素晴らしいだろう。

2017・11・3(金)ペルゴレージ:オペラ「オリンピーアデ」再演

      紀尾井ホール 3時

 2年前に好評を得た(2015年10月8日の項)、粟国淳演出の「オリンピーアデ」の再演を観る。
 オーケストラがこのホールのレジデント・オケ「紀尾井ホール室内管弦楽団」に替わったほかは、全て前回と同じキャスト。 河原忠之(指揮)、澤畑恵美(リーチダ)、向野由美子(メガークレ)、幸田浩子(アリステーア)、林美智子(アルジェーネ)、吉田浩之(クリステーネ)、望月哲也(アミンタ)、弥勒忠史(アルカンドロ)といった人たち。

 前回もそうだったが、今回も歌手陣が絶賛に値する。
 ズボン役の2人━━澤畑と向野は歌唱も舞台姿も演技も魅力満点で、申し分なく完璧である。
 女性役2人━━幸田と林も歌唱はいいが、ただ、あのオデコ丸出しの鳥の巣みたいな髪型は、中世のどこかの国のファッションのようで、何となく薄気味悪い。ホールのスタッフの説明によれば、「女性の焦燥を表わし、髪が逆立っているという演出の狙い」だというのだけれども・・・・。
 男性歌手3人も素晴らしく、弥勒は前回同様に卓越した完璧なカウンターテナーを聴かせ、望月も吉田も非常に迫力ある男声テナーを披露していた。

 粟国の演出については前回も書いたが、このややこしいストーリーをすこぶる解り易く視覚化していたと思う。たとえば台本の上では甚だ身勝手で横柄に見えるリチーダに、苦悩する青年としてとしての温かい表現を与えたのは成功であろう。これは更に、澤畑の微細な演技によって、同情すべき主人公として非常に印象深く描き出されていたのであった。
 一方、河原の指揮も安定、オペラにはあまり慣れていないであろう紀尾井ホール室内管弦楽団を巧みに制御していたという印象。

 今度の上演では、前回カットされていた「物語の伏線」の歌詞が、部分的ではあるけれども復元されていたため、ドラマの経緯が以前よりは解りやすくなっていたと思う。アリアもいくつか復活させられたと聞くが、これは前回の記憶がそこまでは定かでないので、何とも言い難い。ただ、前回の印象と比較して、舞台の流れが非常に良くなり、全てが明快・明解になっていたことはたしかだろう。「再演」ということの意義は充分である。
 ホールの規模にぴたりと合った作品の選定という意味をも含め、全てが理想的なバランスで構築されたオペラ制作と讃えてもいい。
 全3幕、休憩2回を含め、上演時間は3時間30分強。これは5日にも2回目の上演がある。

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