2018-07

2017・10・30(月)作曲家の個展 一柳慧×湯浅譲二

    サントリーホール  7時

 ホール開館以来もう30年以上続けられている「作曲家の個展」のシリーズ。
 これまで「委嘱作品集」と銘打った何回かを除き、基本的には毎年1人の作曲家の個展が開催されて来たが、2人が一緒に組まれたのは、昨年の「西村朗と野平一郎」に続いて2度目ではないかと思う。だが、今回の一柳慧と湯浅譲二の組み合わせは、なかなか面白い。少なくとも今日演奏された作品に現われている2人の個性とその変貌が、すこぶる対称の妙を成しているように感じられるからである。

 前半に演奏された、一柳慧の「ピアノ協奏曲第3番《分水嶺》」は1991年の、湯浅譲二の「コンチェルティーノ」は1994年の、いずれもオーケストラ・アンサンブル金沢の委嘱作品だ。
 後半には2人の最新の「サントリー芸術財団委嘱作品」が予定されていたものの、一柳慧の「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」は完成されて予定通り演奏されたが、湯浅譲二の方は体調不良の時期があったため、「オーケストラのための軌跡」という作品が未完成で、今回はその最初(?)の2分ほどの長さの部分のみ演奏され、そのあとに、代わりとして1999年の「国際作曲委嘱シリーズ」での初演曲「クロノプラスティクⅡ~エドガー・ヴァレーズ讃」が再演された、というわけである。

 この「クロノプラスティクⅡ」は、湯浅がこの日のプログラム冊子に、「(初演の時の)演奏に満足していなくて、再演を望んでいた」と書いていたが、今回の杉山洋一指揮東京都交響楽団の演奏は、氏のお気に召したのであろうか(因みに初演の時の演奏は、岩城宏之指揮の東京交響楽団だった)。
 それにしても、湯浅の最新作の断片が非常に激しく鋭角的な曲想になっているのには驚かざるを得ず、彼の作風がもし大きく変貌しつつあるのなら、その完成版を期待して待ちたいところだ。

 なお今日は、「分水嶺」のピアノ・ソロは木村かをり、「ピアノ・コンチェルティーノ」のソロは児玉桃、「二重協奏曲」のソロは成田達輝と堤剛が受け持っていた。とりわけ児玉桃の清澄な音色の演奏は、「コンチェルティーノ」の曲想に見事に合致し、曲の美しさをいっそう鮮やかに再現させていた。

2017・10・29(日)河瀨直美演出 プッチーニ:「トスカ」

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 映画監督の河瀨直美が「トスカ」を演出するというのが、最大の興味だ。演出補として菅尾友の名が入っているものの、他分野の演出家がオペラの舞台を手がけるという試みは大いに歓迎したい。
 但し、オペラの慣習に妥協せず、自らの手法を徹底的に貫ければ━━だが。そこにちょっとでも遠慮があれば、それは途端に中途半端なイメージになって露呈するものなのである。

 今回の「トスカ」は、物語の場面を、古代日本に置き換えた。
 ステージには、社をかたどった大きな装置(柴田隆弘、重松象平)が置かれ、背景に富士山が浮かび上がり、堂守がそれに向かって、神道の儀式「二礼二拍一礼」を繰り返す。
 字幕にも「神官」とか「神々」といった訳語が現われる。複数の「神々」は、唯一絶対の神のキリスト教思想にはなく、ギリシャ神話か古代ゲルマン神話、日本の「八百万の神」思想などのものであることは周知のとおり。従って今回の舞台は、教会でなく「神殿」になる。
 悪役スカルピアは、警視総監ではなく、「新勢力の親衛隊長」と称され、圧迫される人々は「シャーマン」であり、トスカは「村娘」であるという。

 登場人物の名も、日本名を組み合わせたものになっている━━トス香(トスカ、ルイザ・アルブレヒトヴァ)、カバラ導師・万里生(マリオ・カヴァラドッシ、アレクサンドル・バディア)、須賀ルピオ(スカルピア、三戸大久)、アンジェロッ太(アンジェロッティ、森雅史)、堂森(堂守、三浦克次)、スポレッ太(スポレッタ、与儀巧)、シャル郎(シャルローネ、高橋洋介)・・・・といった具合。

 これは先頃の「フィガロの結婚」でも採られた命名法でもあるが、あのユーモア性の強いオペラと違い、何しろ「トスカ」は生々しいシリアスなヴェリズモのオペラである。緊迫したドラマが繰り広げられているさなかに、「カバラ導師を連れて来い」とか「行け、スポレッ太!」(正確な引用ではないかもしれないが)などという字幕が出ると、何だかずっこけてしまう。
 ローマを「牢魔」、アッタヴァンティを「熱田ヴァンティ」などとしながら、「ファルネーゼ宮殿」をそのままにしてあるのも中途半端だ。
 どうせ歌唱はオリジナル通りイタリア語でやるのだし、それなら名前もやはり全部オリジナルのままでやった方が、よほどすっきりするのではないか。二番煎じはうまく行かぬものだ。

 当然ながら、映像も使用される。第2幕で、スカルピアの残虐な想念が渦巻く瞬間には怒涛と水の動きが投映されるが、切り裂くように割って入るその映像は、ところによっては効果的だ。だが、悲劇の瞬間における華麗な花火は、どうみてもイメージ的に納得が行かぬ。
 最終場面では、音楽が暫時止まり、オリジナルに無い短い歌が挿入され、紗幕の向こう側にトスカが太陽に向かって飛び去って行く━━というより、のんびりと遊泳して行くような━━という映像に変わる。ここで物語は一気に幻想の世界に転じることになるのだが、その手法自体はともかく、ヴェリズモ・オペラをファンタジーで結ぶというのは、唐突過ぎて些か腑に落ちない。その前にさまざまな「幻想的な」伏線が置かれていたのなら、まだ説明がつくだろうが。

 演技は、第1幕ではオペラの様式的なパターンが見られ、映画監督らしい手法が発揮されていないのに不満が残ったが、それでも第2幕では、映画らしい「手荒な」演技も見られた。また、「須賀ルピオ」にパワハラされて反感を抱く「スポレッ太」が、「トス香」と「カバラ導師」に同情的な行動をとるとか、「歌に生き、愛に生き」に聞き入っていた「須賀ルピオ」が一瞬だが心を動かされるとかいった解釈は面白いだろう。だが総じて演技の面では、さほどの目新しい特色は見られない。

 結局、河瀨直美の演出は、このヴェリズモ・オペラを、シリアスなドラマとして捉えるのか、あるいは最終場面に象徴されるファンタジーの世界として捉えるのかが━━舞台装置などからすれば、どちらかといえば後者に近いような印象だが━━未だ何か手探り状態にあるように思われる。もうひとつ徹底したものが欲しい、といった印象なのである。
 場面状況の読み替えにしても、名前を変えたりするような小細工ではなく、もっと基本的な面での、画期的な発想が欲しかった。たとえば、「ノルマ」の舞台を、反乱軍のアジトの教会に置き換えたような大胆な発想(シュトゥットガルト上演)があれば、良かれ悪しかれ、もっと話題を呼ぶオペラ上演ができたであろうに、と思う。

 演奏は、広上淳一指揮東京フィルハーモニー交響楽団に東邦音楽大学合唱団、TOKYO FM少年合唱団。舞台手前の特設オケ・ピットにずらり並んだ大編成のオーケストラを、広上は極めて劇的にごうごうと響かせたが、2階席で聴いた範囲では、歌とのバランスは全く無理だ。オケの音が大きすぎるという意味ではない(そもそもオペラは、このくらいオケが鳴らなければダメだ)。
 問題はやはり、このホールで上演する作品の選定にあるのではないか。さまざまな作品を手がけたいという意欲は解るが、オケ・ピットの問題を含むホールの特質に合ったオペラを選ぶことも肝要ではないかと思う。もしくは、かつてパリ・オペラ座が「ボリス・ゴドゥノフ」の時に試みたように、オーケストラをステージ奥に持って行くといった手法を考えるか、だ。

 これは「東京芸術劇場コンサートオペラ」のシリーズではなく、「平成29年度全国共同制作プロジェクト」と題されたもの。既に新潟での上演を終り、このあと12月にかけて金沢、富山県魚津、沖縄でも上演される。東京と金沢公演は広上淳一が指揮し、その他の地では大勝秀也が指揮する。オーケストラと合唱団には、一部を除き、それぞれ地元の団体が起用される。

2017・10・28(土)ラドミル・エリシュカ、最後の日本公演

      札幌コンサートホールKitara  2時

 札幌交響楽団第604回定期公演、その2日目。この日がエリシュカの、正真正銘の告別公演である。
 ホワイエでは昨日からエリシュカのドキュメント写真集が展示され、またファンのエリシュカへの寄せ書きが行われている。さしものKitaraの広いホワイエも、昨日と今日は聴衆がひしめき合い、横切って行くのにも人をかき分けて歩かなくてはならないという大混雑ぶりである。

 プログラムは、もちろん前日と全く同じ。札響も、昨日よりは気分がほぐれたのかもしれない。「売られた花嫁」序曲では、昨日の硬さがなくなり、躍動感がぐっと増したように感じられた。とはいえ、このような軽い序曲においてもがっしりとした構築が為されているところが、エリシュカがただ温かさ、懐かしさだけで聴かせる指揮者ではないという一つの証明とも言えよう。

 その堂々たる構築の最たるものは、最後の曲目となった「シェエラザード」である。昨日の演奏にも増して重厚かつ壮大な演奏となり、アンサンブルのバランスも、完璧と言っていいほどのものとなった。
 遅いテンポで矯められた重厚なエネルギーを、最終楽章に至って全面的に解放するというのがエリシュカの「シェエラザード」の設計。クライマックスで全てのエネルギーを最強奏のシャリアール王の主題(Allegro non troppo e maestoso)に集結させた瞬間の演奏の豪壮さは、昨日のそれをはるかに上回る。

 音響の大きさや重量感や華やかさなどという点に限って言えば、この札響のそれを凌ぐものは世界にゴマンとあるだろう。だが、情感の豊かさや、演奏の真摯さという点では、今日のエリシュカと札響に勝る演奏がそうあるとは思えない。
 あらゆる意味で、私はこれほど誠実な演奏の「シェエラザード」を聴いたことがない。これこそが過去11年間、エリシュカと札響が相互の強い信頼のもとに音楽を紡いできた、その完結の演奏だったのである。

 とかく海外の指揮者や批評家から「合わせることには秀でていても、情感的な意味での共感に乏しい」と評されることの多い日本のオーケストラ━━遠い国の作品を演奏するのだから、ある意味ではやむを得ないことなのだが━━にとり、このように滋味豊かな音楽をつくり出す指揮者エリシュカは、実にかけがえのない存在であった。

 カーテンコールは昨日より長く、20分以上も続いた。菅野猛とエリシュカの2人への花束贈呈も昨日と同様に行なわれる。
 エリシュカへの花束は、トップサイドに座っていたもう一人のコンサートマスター、大平まゆみが、涙に咽びつつ捧げる。エリシュカと彼女の温かい抱擁に、客席の拍手が大きく揺れる。女性楽員の何人かも涙を拭いている。
 客席は、今やほとんどが総立ち。今日が本当のお別れとあって━━われわれ聴衆にとっては、多分これがエリシュカとの「今生の別れ」になるのだ━━拍手と歓声はなお止まない。楽員たちが引き上げた後にも、エリシュカは独りステージに呼び戻される。ブラヴォーの歓声の中で、エリシュカも胸に両手を当て、時に顔を覆って涙をこらえるといった様子で、ステージを取り囲む客席のあちこちに向かい、答礼を長いあいだ繰り返す。

 やがてエリシュカは、手を振りながら次第に下手側袖に歩みを進めて行き、なおも名残惜し気に何度か立ち止まっては、繰り返し聴衆に手を振り続けた。そしてついにその姿は、ゆっくりと扉の彼方に消えて行った。
     →別稿 モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

2017・10・27(金)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団

     札幌コンサートホールKitara  7時

 チェコの名指揮者ラドミル・エリシュカの、これが日本お別れ公演。11年前に初めて客演し、それが日本での超人気のきっかけとなったという意味でゆかりの深い札幌交響楽団との最後の定期公演である。2回公演の、今日が初日だ。

 プログラムは、スメタナの「売られた花嫁」序曲、ドヴォルジャークの「チェコ組曲」、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。
 ちなみに後半のプログラムは、当初はベートーヴェンの「英雄交響曲」の予定だったが、これが告別公演となったため、エリシュカの希望で、最初の客演(2006年12月1日)で指揮したゆかりの曲「シェエラザード」に変更されたと聞く。

 「売られた花嫁」序曲は、緊張感のせいか、なにか異様に肩肘張った感のある演奏で、ユーモアの全くない「売られた花嫁」になってしまっていたが、「チェコ組曲」の第2曲(ポルカ)あたりから、温かさ、優しさ、懐かしさといった、エリシュカの指揮するドヴォルジャークならではのカラーが蘇って来る。第4曲(ロマンス)と第5曲(フリアント)では、その良き特徴は存分に発揮されていた。日本のオーケストラからこれだけの郷愁美を引き出せる指揮者は、エリシュカを措いて他にいないのではないか、とさえ思わせた情感豊かな演奏である。

 「シェエラザード」では、エリシュカは緩徐個所で非常にテンポを遅く取り、じっくりとオーケストラを歌わせた。
 冒頭の「シャリアール王の主題」でさえ、威嚇的で荒々しい王の姿というより、何か満たされぬ苦悩に打ちひしがれている王を描くかのように、重々しくゆっくりと演奏される。続くシェエラザードの主題も、ソロ・ヴァイオリンが極めて遅いテンポで歌う。これもまるで、艶めかしく王をなだめるというより、共に憂いに沈みつつ語りかけるシェエラザードといった雰囲気だ。あの華麗な交響組曲が、まるで抒情的な交響詩のような趣を呈していたところもある。
 だが、いったん劇的な場面━━たとえば第4楽章の嵐と難破のくだりなどになると、海の嵐の音楽が煽りに煽られ、ついにシャリアール王の主題による大頂点に達するまでの推進力が凄まじい。見事なものだ。

 札響も渾身の演奏を聴かせてくれた。コンサートマスターの田島高宏をはじめ、チェロ、ヴィオラ、木管、金管など、各パートのソリ陣が冴えた。トゥッティにおけるアンサンブルのバランスの良さも、特筆されて然るべきだろう。

 カーテンコールの中では、32年8カ月にわたりホルン奏者を務めて定年退職するというホルン奏者の菅野猛に花束が贈られるというセレモニーもあった。札響の定期会員はそのあたりのことをよく知っているわけだろう、彼に対してもエリシュカへのそれに劣らぬ大きな拍手を贈っていたのが印象的である。そのあとで今度はコンサートマスターの田島が劇的(?)な身振りでエリシュカに花束を捧げるというセレモニー。カーテンコールは実に15分近く続き、客席のあちこちでスタンディング・オヴェーションが起こっていた。
       →別稿 モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

2017・10・23(月)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 特別客演指揮者プレトニョフが指揮する東京フィルハーモニー交響楽団のサントリー定期。

 プログラムがユニークだ。前半に、グリンカの「カマリーンスカヤ」、「幻想的ワルツ」、「皇帝に捧げし命」より「クラコヴィアク」、ボロディンの「中央アジアの草原にて」、リャードフの「魔法にかけられた湖」「バーバ・ヤガー」「キキーモラ」。
 後半はリムスキー=コルサコフの作品で、「雪娘」組曲、「見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語」組曲、「皇帝サルタンの物語」組曲。
 ━━ロシア音楽を集めた演奏会は数々あるが、こういう選曲で行なわれたものは、少なくともわが国では例がないのではないか。その意味でも、これは非常に意欲的な企画である。

 そしてまた、プレトニョフの音づくりの巧さにも舌を巻かされた。
 たとえば後半だが、リムスキー=コルサコフの管弦楽法の鮮やかさは常々承知しているけれども、巧みな指揮者の手にかかると、それがいっそう浮き彫りになる。特に「キーテジ」では、華やかな色彩と、その上にヴェールがかけられたような翳りとが共に描き出された。こういう「魔術的な」演奏は滅多に聴けるものではない。
 眼を閉じて聴いていたら、かなり前にマリインスキー劇場で観た上演(ゲルギエフ指揮)での、紗幕の向こう側にキーテジの街が幻想的に現われたり消えて行ったりしたあの舞台の夢のような美しさが、まざまざと脳裏に蘇って来たのだった!

 東京フィルが、そういう色彩感を、また実に見事に再現していた。これまで数限りなく聴いて来たこのオケの演奏の中でも、これは卓越したものと言っていいだろう(これだけステージの上でオペラの音楽を素晴らしく演奏できるオケが、何故ピットの中でも同じように出来ないのか、いまだに解けぬ謎である)。
 アンコールには、「皇帝サルタンの物語」からの演奏会用組曲には含まれていない有名な「熊蜂の飛行」が演奏された。これまた軽やかで急速な、素適な演奏だった。
     ☞別稿 モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

20017・10・22(日)山田和樹指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

     仙台銀行ホール イズミティ21・大ホール  3時

 早朝に衆院選の投票を済ませ、仙台へ。当初の予定ではゆっくり1泊する計画だったが、台風が来るとあって、早々に逃げ帰る。
 聴きに行ったのは、山田和樹指揮、仙台フィルの特別演奏会だ。プログラムは、シベリウスの「カレリア」組曲と「交響曲第2番」、その間にグリーグの「ピアノ協奏曲」がキム・ヒョンジュンのソロで演奏された。コンサートマスターは神谷未穂。

 このホール、前回行った時にも書いたが、残響がほとんどないので、オーケストラの音色に潤いも余情も感じられなくなるという傾向がある。オーケストラだけではない、ピアノも同様だ。
 今日はピアノの位置が影響していたのかどうかは分からないけれども、音は非常に綺麗ではあるが、細くてふくらみがなく、しかも客席中央で聴いた範囲では、音がまっすぐこちらに来ず、オーケストラの中に埋もれてしまうという結果になっていて、首をひねった。

 このキム・ヒョンジュンという未だ20代半ばの女性は━━昨年の仙台国際コンクールで優勝した時には残念ながら聴いていないが、素晴らしい演奏だったという評判だし、CDで聴いてもすこぶる魅力的な演奏をする人なのに、今日は楽器の問題でもあったのか。アンコールに弾いたチャイコフスキーの「秋の歌」でも、音の透明な美しさと感性の瑞々しさは充分に伝わって来たけれども、いまいち何か「遠い」。いずれにせよ今日の演奏における印象は、彼女の本領を理解するには適さなかったようである。

 しかし、山田和樹と仙台フィルのほうは、そうしたこのホールの不備なアコースティックを解決するべきテクニックを心得ているらしく、巧みに音のバランスを取って演奏していた。「カレリア」の「間奏曲」の弦の刻みなど、かなり強調されてはいたが、面白い。
 また、アンコールでのシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」での弦の瑞々しく力強い響きは、聴き応えがあった(アンコールに、「悲しきワルツ」などでなくこの曲を、しかも「アンダンテ」のテンポで演奏してくれたことは有難い)。

 「第2交響曲」ではかなり激しい感情の吐露が聴かれたが、これもこのホールの音響的不備を補って余りある見事な演奏だったと思われる。
 ただ、こういう響かないホールでは、ピアニッシモは、少し大きく演奏してくれないと、聞こえなくなるものだ。第3楽章でのティンパニのパウゼを挟んでの一打、あるいは第2楽章初めの低弦のピッツィカートなどがその例である(このピッツィカート、チェロ・セクションには些か不満が残る)。

 山田和樹のプレ・トークは、相変わらず客への語りかけが巧く、見事だ。しかも終演後には自らホワイエに出て来て聴衆との交流を図るという、サービス精神満点の活躍。彼は今年春でミュージック・パートナーのポストを辞しており(2017年3月28日の項)、今後しばらくは客演の機会がないかもしれないということで、このようなお別れの挨拶になったのだろうと思われる。彼は、オーケストラとの間に温かい雰囲気をつくり出すことのできる数少ない指揮者のひとりであると聞く。

 9時4分の「はやぶさ」で帰京。仙台も雨足が強かったが、東京はすでに豪雨の台風状態。

2017・10・21(土)佐渡裕指揮ケルン放送交響楽団

     兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  2時

 東京公演はスケジュールが合わず聴けないので、当面の佐渡裕の本拠地ともいうべき、西宮のホールで聴くことにした。日本ツアー(8回)の初日である。
 プログラムは、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」、シューベルトの「未完成交響曲」、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」。今回の日本ツアー(休み1日を含め9日間)は、全てこの同じプログラムで行なわれる。

 演奏は、いかにも佐渡裕の指揮の特徴が出ていて、ある意味ではダイナミックなものと言えよう。「5番」ではそれが効果を発揮していたが、しかし必ずしも力任せというのではなく、第1楽章など、彼が演奏の構築を野放図なものにせず、造型性を重んじて指揮していることがはっきり解る。このあたりも、昔の彼とは変わって来ている点であろう。

 「未完成」も、ロマンティックな表現を排し、剛直に構築する。第1楽章最後の音をディミニュエンドにせず、最強音のまま決然と閉じるという、例の版を使用しての演奏だから、いっそうその印象が強くなる。
 ただ、彼はプログラム冊子掲載のコラムで、「できるだけ室内楽的に演奏したい」と述べているのだが、実際の演奏は、どう聴いても室内楽的には感じられないのである。第1楽章には、むしろ豪刀を振るって切りまくるような印象も無いではなかった。それでも、最弱音による叙情的効果には極めて神経を行き届かせていたことは理解できた。

 なお、全曲を支配する神秘性の象徴ともいうべき冒頭の低弦のニュアンスが、遅れて入場して来た女性客の靴音に妨げられ、明確に聴き取れなかったのは、返す返すも残念である。ただしこれは、演奏がすでに始まっているにもかかわらず、その客を1階最前列まで延々と誘導して行った女性レセプショニストに責任があるだろう。非常識の極みである。

 アンコールは、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲。いつぞやのオペラ上演の時と同じく、大波のような演奏。
 ケルン放送響の演奏は、今回は些か粗っぽい。メンバーリストは冊子に掲載されていない。
 6時前の新幹線で帰京。

2017:10・20(金)ラドミル・エリシュカ指揮大阪フィル

     フェスティバルホール(大阪)  7時

 チェコの名匠、ラドミル・エリシュカ最後の来日。大阪フィルへの最後の客演、2回公演のうちの最終日。
 ドヴォルジャーク・プログラムで、「伝説曲」から最初の4曲、「テ・デウム」、「交響曲第6番」。
 「テ・デウム」での合唱は大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指揮は福島章恭)、声楽ソリストは木下美穂子と青山貴。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 エリシュカが指揮棒を振り始めると、「伝説曲」の第1音からもう、ドヴォルジャーク独特の郷愁の音楽が、大阪フィルからあふれ出て来る。どこからこういう魔術が生まれて来るのだろう。大阪フィルの演奏会は最近しばしば聴いているが、これほど温かい演奏は滅多に聴いたことがない。音色には全体としてもう少し美しさを期待したいが、メンタルな音楽という意味では、今日は完璧ともいえるほどの演奏だった。
 「第6交響曲」の第3楽章のトリオなど、こんなに懐かしさを感じさせる曲想だったかと━━。「テ・デウム」の大合唱も、2人の独唱者も、みんなヒューマンな感情に満たされつつ歌っていたように感じられる。

 しかもその一方では、その第3楽章(スケルツォ)の終結でテンポを速めて追いあげて行く呼吸といい、フィナーレ後半でみるみる感情が激して行くかのように昂揚を重ねて行くエネルギーの凄まじさといい、並みのものではない。この「6番」、こんなに迫力のある曲だったかと━━。

 こういう温かさと気魄とを併せ持つ演奏を聴かせてくれる指揮者は、今日、ほかにいるかどうか。その意味でもラドミル・エリシュカは、当節では卓越した存在と言って過言ではない。
 終始立ったままで指揮、その身振りも壮者をしのぐ活発さだ。86歳とは思えぬようなパワーである。事務局から聞いた話では、「テ・デウム」の練習の時など、指示を出すその大声は、轟々と鳴るオケを突き抜けてコーラスにまで届いていたとか。今日のカーテンコールの際にも、ステージの袖から走って登場するといった、すばらしく元気な様子を誇示していた。とてもこれが、高齢の指揮者のお別れ公演には見えない。
 エリシュカが医者から禁じられたのは、演奏活動ではなく、飛行機の長旅だけだそうである。だが彼は、もう一度だけ日本でお別れ公演をしたいという自らの想い止みがたく、指揮回数をある程度制限した上で、今回の「最後の日本客演」を敢行したのだという。

 フェスティバルホールの聴衆は意外におとなしかったが、それでも最後には総立ちの拍手でエリシュカを見送った。どちらかといえば、会場ではオーケストラの楽員よりも客席のほうがエリシュカを惜しんでいたような印象だったが・・・・。
 今週末には札響との演奏会がある。エリシュカとは最も結びつきの強い札響だから、きっと感動的な光景になるのでは。

2017・10・19(木)飯森範親指揮東京シティ・フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 飯森範親が客演してのチャイコフスキー・プログラム。「イタリア奇想曲」、「ロココ風の主題による変奏曲」(チェロは岡本侑也)、「交響曲第4番」。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 「イタリア奇想曲」では、本来は非常に闊達なはずの曲が、特に前半は何か流れが悪くて重く、パウゼにも生きた緊張が感じられず、ノリが悪かったのは不思議。

 しかし交響曲になると、飯森は予想通り、東京シティ・フィルを思い切り解放的に、ダイナミックなパワーを弾き出して響かせた。シティ・フィルも、いつもとはやや趣を変え、元気いっぱいに鳴り渡った。
 それ自体はいいのだけれど、その一方、しばしば音が濁り気味になり、しかも金管の一部にミスが続出するとあっては、何だか力任せで乱暴な演奏という印象の方が強くなってしまうのである。折角の熱演も、あだ花になるだろう。

 それに、これは意図的なのかどうかわからないが、第1楽章では弦の主題よりも背景を彩る管楽器群の動きが妙に強く演奏されるところが2個所ばかり、目立った。私はもともと、そういう手法は大いに楽しむクチなのだが、ただ今回に限っては、そこの音楽が何とも混沌たる響きしか生まなかったことに、腑に落ちぬものを感じた次第である。

 そんなこともあって、残念ながら私には、今日の演奏は、飯森範親にとっても、シティ・フィルにとっても、必ずしも成功とは思えなかった。今の段階では、このオケには、やはり丁寧に手堅く演奏させる指揮者が合っているのではないかという気がする(その意味では、高関健を常任指揮者に迎えていることは、最良の方法だったと思われる)。

 なお、「ロココ風の主題による変奏曲」では、先頃エリザベート王妃国際コンクールチェロ部門で第2位になり、俄然注目を集め始めた新鋭、岡本侑也の演奏が見事。清澄で端整で気品のあるソロは、とても23歳の若者とは思えぬくらいだ。逆に言えば、その若さでありながら、あまりに整い過ぎた演奏を聴かせる「完成度の高さ」にはやや戸惑いを覚えてしまうし、先日の読響と協演したドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」における「真面目一方」の演奏とも共通する一種の物足りなさを感じてしまうのだが━━しかしいずれにせよ、前途に大きな期待を抱かせる若手であることには、疑う余地はない。
 それにアンコールでは、バッハなどを弾くありきたりのアンコールでなく(バッハの組曲が悪いというのでは毛頭ないが)、ジョヴァンニ・ソッリマの「ラメンタチオ」という、部分的に自らのヴォーカルを交えつつ演奏する傑作な作品を取り上げるあたり、若者らしくて頼もしい。

2017・10・18(水)「リチャード3世」

      東京芸術劇場 プレイハウス  6時30分

 「リチャード1世」を主人公にしたオペラはヘンデルが書いているが、稀代の悪王といわれる(ではないという説もある)リチャード3世を主人公にしたオペラなんてあるのかしら? 少なくとも「VIKING OPERA GUIDE」には載っていないようで。

 然り、これはシェイクスピアの有名な戯曲の方で、木下順二翻訳台本に基づく日本語上演である。今回はシルヴィウ・プルカレーテによる台本が使用され、彼自身の演出により上演されている。舞台美術と衣装はドラゴッシュ・ブハジャール、音楽がヴァシル・シリー。
 今月30日まで東京芸術劇場で、そのあと大阪、盛岡、名古屋でも上演されるとのこと。前日のプレビュー公演を経て、今日が初日だった。

 キャストはすべて日本人。リチャード3世を佐々木蔵之介が演じ、妻アンを手塚とおる、ヘンリー6世夫人マーガレットを今井朋彦、エドワード4世夫人エリザベスを植本純米、クラレンス公を長谷川朝晴、バッキンガム公を山中崇、ほか・・・・と、つまりオールメール━━男が女の役もやる、という例のスタイルだ。紅一点として、「代書人」という「陰の切り回し役」に渡辺美佐子が出演している。

 佐々木蔵之介はTVドラマでおなじみの人だから、彼がこういう物々しい悪役をどのように演じるか大いに興味があったが、この舞台では、ごく普通の青年がいつの間にか「王」になっているという感で、つまり抜きん出た存在にはなっていないところが、物足りないというか、何というか・・・・。
 それが演出の狙いだというなら、この「リチャード3世」は、かなり軽いものに感じられるのだが、このへん、演劇批評は私の及ぶところではないから、やめておく。

 シェイクスピアによる台詞をほぼそのままに、シチュエーションを全く変えると、オペラの読み替えと同じように、舞台は16世紀のイングランドから離れて、現代風になる。
 歌とダンスも入る。冒頭のリチャードのモノローグ「漸く不愉快な冬が去り、ヨークの太陽に輝く夏が来た・・・・」の場面や、終り近く亡霊たちが彼を脅かす場面では、ミュージカルのような趣になる。それはそれで面白い。

 リチャードが王位に就いてから以降は次第に彼のモノローグが中心になるのは、彼の「孤独」を表わすためだろうか。ただ、そのあたりからは少し台詞が聴き取りにくくなるのは、PAの使い方の問題か。そしてまた、舞台に少し緊張感が希薄になって来る。
 有名な「馬を持って来た者には王国をやるぞ!」の場面は、戦闘シーンが全くないので、すべてリチャードのモノローグの中に含まれるのだが、彼がいきなり剣を片手に「馬を・・・・馬を・・・・」と言いはじめるあたりはあまりに唐突だし、言葉もはっきりしないので最初は何を言っているのか判らなかったが、「王国なんかくれてやる」という言葉が入って、初めて例の名セリフの場面に入っているのかと理解できた次第だ。映画のローレンス・オリヴィエのような大芝居ではなく、演出もあまりそこには重きを置いていないのかもしれない。
 リチャードがピストルを頭に擬したところで幕が下り、暗黒の中で銃声が聞こえて終りとなる。
 休憩15分程度を挟み、9時15分終演。

2017・10・15(日)小泉和裕指揮九州交響楽団

      アクロス福岡シンフォニーホール  3時

 第362回定期公演で、音楽監督・小泉和裕の九響(定期)デビュー40周年記念、という意味あいが含まれていた由。ついでに翌日にあたる彼の誕生日を祝おうということで、終演後には関係者一同によるパーティも開催されていた。
 プログラムは、メンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」と、オルフの「カルミナ・ブラーナ」。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 「宗教改革」はかなり遅めのテンポで、荘重さを前面に出した演奏だ。第1楽章序奏のアンダンテはもちろん、主部のアレグロ・コン・フォーコも、第2楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェも、抑制されたテンポでじっくりと丁寧に進められる。第3楽章は、まさしく祈りの歌である。そして第4楽章で、矯められたエネルギーは解放される・・・・。

 ━━それにしても、九響は本当に素晴らしいオーケストラになった。39年前、私がFM東京時代に九響からライヴ演奏会収録テープを借りて放送した頃の演奏とは比べものにならない高水準の演奏である。

 「カルミナ・ブラーナ」は、協演の声楽ソリストが青山貴、藤木大地、安井陽子。合唱には九響合唱団と久留米児童合唱団がクレジットされているが、メンバー表には「多目的混声合唱団Chor Solfa!」、「コールエテルノ」「福岡工業高校グリークラブ」「ちくしの混声合唱団」「九州大学男声合唱団コールアカデミー」の各団体も共に名を連ねている。総勢200名以上の大編成で、すこぶる分厚い、力強い響きを出した。

 全体の演奏は、まさに小泉和裕らしく、シリアスなものである。誇張を排し、正面切った生真面目なアプローチで作品を描き出すのは、小泉の指揮の昔からの特徴だ。酔興の歌の個所でさえ、基本的にはあくまで羽目を外さない。3人のソリスト(いずれも見事な好演だった)は、それぞれある程度の芝居気を出してはいたけれども、小泉は、音楽全体の容を決して崩さない。
 たしかに、この曲の歌詞が底抜けの歓びの歌でなく、実は運命の重圧を嘆く人間の自棄的な心を描くことに重点が置かれているという点に着目するなら、それは大いに説得力を持つ解釈であると思われる。

 それだけに、運命の車輪の無情さを歌い上げる最初と最後のくだりは、重々しく轟くような重圧感に満ちていて、すこぶる迫力があった。特に後者では、さすがに昂る感情を抑えがたくといった感で、みるみるテンポを速めて全曲の頂点をつくって行く。このため、合唱を含めたアンサンブルに少々乱れを生じたとはいえ、取るに足らぬ瑕疵に過ぎぬ。
 小泉和裕の近年の指揮には、いっそうの緻密さと重厚さが増しているようである。大受けを狙う華やかさないので、ともすれば地味な存在に受け取られる傾向なしとしないが、その実直な姿勢は高く評価されるべきだろう。

 なお、「青山ヴォータン」のファルセットは、私は初めて聴かせていただいたが、なかなかお見事なものだった。
     別稿 西日本新聞

2017・10・14(土)ウラディーミル・ユロフスキ指揮ロンドン・フィル

     ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 10月6日の福岡から始まった日本ツアーの、今日が最終日。ブラームスの「悲劇的序曲」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは辻井伸行)、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」というプログラム。

 ユロフスキの指揮は、ナマではこれまでいくつか聴いて来たけれども(どちらかと言えばオペラが多かったか)どうもあまりピンと来るものではなかった。だが、彼がこの10年来、首席指揮者を務めているロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏とあれば、大いに興味が湧く。
 果せるかな、面白い。CDで聴くとラフな感じもする個所が、ナマで聴くと、全て綿密な計算に基づいてやっているように聴き取れるのである。

 いわゆる優雅さとか、流麗さとか、感傷とかを排したような指揮である。ハーモニーの構築や、フレーズの微妙な受け渡しの個所などでも、音をわざと粗く積み重ねてみたり、時には音をぶっきらぼうに切ったりと、意図的にごつごつした動きをつくり出す。それゆえ音楽に音のぶつかり合いが生じ、オーケストラにも思いがけぬバランスが生み出される。

 特に「悲愴」のように、卓越した微細で精妙なオーケストレーションを持つ作品の場合には、これが実に新鮮で、面白い結果を生み出すのである。
 第4楽章ではさすがにじっくりと沈潜した重々しさを聴かせたが、それでもコーダ直前、トロンボーンとテューバが喘ぐように深淵に沈んで行く個所(第137~146小節)でも、音をことさら素っ気なく切りながら繋いで行くという、見方によれば「醒めた」手法を採る。
 あるいは第2楽章終結近く、通常は物思い気に柔らかく弾かれる第151小節からのチェロ━ヴィオラ━ヴァイオリンと引き継がれて行く上行音型を、リアルに強めに弾かせて鋭さを出す。
 ━━こういうところを、荒っぽく見えながらも、実に細かくつくっているのが判るだろう。要するに、その荒っぽさは、計算された意図的なものなのである。

 アンコールにはチャイコフスキーの「弦楽セレナード」の第3楽章をやってくれたが、これはまた「エレジー」に相応しく、思い切りテンポを落してじっくりと構えながら叙情的に流して行く。これほど思い入れたっぷりに演奏した「エレジー」は、かのバーンスタインでさえここまでは、と思えるほどだったが、それでいて甘い感傷などというものを感じさせない、どこかに冷徹さが残るような演奏なのだ。これがユロフスキの身上なのだろうか、とにかくユニークな指揮者だ。

2017・10・14(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

        サントリーホール  2時

 定期の「サントリーホール・シリーズ」は、先月に続き、音楽監督・上岡敏之の指揮。
 「日本・デンマーク外交関係樹立150周年」と題された演奏会で、デンマークの作曲家ニールセンの序曲「ヘリオス」、グリーグの「ピアノ協奏曲」(ソリストは清水和音)、ツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」(デンマークの文豪アンデルセンの作品に基づく)というプログラム。コペンハーゲン・フィルの首席指揮者を兼ねる上岡敏之に相応しい企画だろう。

 清水和音の豪壮なグリーグも聴きものだったが、上岡と新日本フィルの演奏としては、やはり「人魚姫」がハイライトだったろう。
 ドイツ・ロマン派と近代の作品を手がけた時の上岡の、水を得た魚のような指揮は、これまでにも数え切れぬほど聴いて来たが、この日の演奏でも、それが余すところなく示される。いつもの精妙な最弱音に加え、色彩感も充分に映し出され、幻想的な世界が描かれる。オーケストラにもう少し官能的なニュアンスが出ていれば更に良かったのだが・・・・。

 プログラム冊子における青澤隆明さんの解説によれば、改訂稿に拠る演奏とのこと。「2013年出版」の校訂版のスコアを私はまだ見る機会を得ていないので、確たることは言い難いが、第1楽章の終結で鐘の音の余韻を長く残すあたりなどは、改訂版の楽譜の指定か、上岡の解釈によるものか、話を聞いてみたかった。
 だがいずれにせよ、彼と新日本フィルのコンビによる演奏の中でも、これは最も優れたものの一つにあげられるだろう。こうなると、シェーンベルクの「グレの歌」など、彼の指揮で聴いてみたい気がする。さぞや見事な演奏になるのではないかと思うのだが。

 今回もアンコールがついた。ハンス・クリスチャン・ロンビの「シャンパン・ギャロップ」なるユーモアたっぷりの曲で、最後は楽しく終りましょう、というのが上岡の流儀か。定期のプログラムでアンコールを追加するのも善し悪し、時と場合によるが、ロンビは「デンマークのヨハン・シュトラウス」という異名を取った人だし、まあ、入れる意義はあっただろう。コンサートマスターは崔文洙。

2017・10・13(金)水戸室内管弦楽団第100回定期演奏会

     水戸芸術館コンサートホールATM  7時

 1990年4月8日に小澤征爾の指揮で第1回定期演奏会を開いた水戸室内管弦楽団━━ついに迎えた100回目の定期は、ベートーヴェンの「第9交響曲」。
 弦は7-6-4-4-3の編成で、コンサートマスターは豊嶋泰嗣。合唱に東京オペラ・シンガーズ、ソプラノに三宅理恵、メゾ・ソプラノに藤村実穂子、テノールに福井敬、バリトンにマルクス・アイヒェという顔ぶれである。

 そして肝心の指揮は、前半2楽章をラデク・バボラーク、後半2楽章を音楽総監督・小澤征爾が、という形が採られたのだが━━小澤さんの体調を考えれば、趣旨そのものはある程度仕方がないとしても、バボラークの指揮が大失敗だった。
 彼のホルン奏者としての実績と才能にはいかなる讃嘆をも惜しまないけれども、今日は、最初から最後までメトロノームのように同じテンポで振っているだけで、言っちゃ何だが、とても「指揮」になっていない。私はこれほど表情も息づきも皆無な、機械的で単調な演奏の「第9」をかつて聴いたことがない。かりにコンクールに初めて出た若い指揮者だって、もう少し演奏に起伏をつけた、まともな指揮ができただろう。

 第1楽章の提示部のさなかから早くも、小澤さんだったらここはこういうふうに指揮してくれるだろうになあ、とそればかり考え続けて、聴いているのが次第に苦痛になって行ったくらいである。
 オーケストラの方はというと、おそろしく力み返ったどっしりした音で、終始メトロノームに合わせたような味気ないテンポで、それでもデュナミークだけはあれこれ変化をつけて演奏していた。

 こういう場合、小澤さんが最初から指揮台に座っていて、指揮をしなくてもいいから、腕組みしていても構わないから、黙ってオケをジロリジロリと見渡すだけでもいいから、全曲をやってくれないかな、といつも思うのである。もともと気心知れた腕利きのオケなのだから、小澤さんの目線ひとつでちゃんとやるだろうに。そして第4楽章だけ、実際に、いつものようにがっちりと指揮してくれればいいのであり・・・・。

 などと苦し紛れの空想にふけっている間に、どうやら第2楽章までは終る。スケルツォ部分のリピートをやらなかったのがせめてもの救いだった。
 バボラークは、恐縮しきった雰囲気で、豊嶋に「ゴメン」という身振りをして、引き上げて行く。「第9」の指揮には慣れないのだろう、全曲演奏後のカーテンコールで小澤さんが彼に謝意を表した時にも、いかにも照れ臭そうに、「お役に立たず、ほんとに申し訳なくて」という態度を丸出しにしていた。何となく気の毒になった。

 そして、もちろん休憩なしで、合唱団と声楽ソリストが入り、指揮台に椅子が運び込まれ、椅子に腰を下ろした小澤征爾の指揮で、第3楽章が始まる。
 演奏は、先ほどの余波か、いつもよりやや硬質に感じられたが、それでもフレーズの息づきや微細なテンポの変化など、それまでとは全く異なった雰囲気が生まれて来たのだ。音楽が静かに胎動しはじめたという感である。
 小澤の指揮も初めはいつもより淡々としているようにも思えたが、第3楽章終り近く、安息の音楽が初めて不安げに翳る個所(【B】からの4小節間)での彼の指揮は、しかし明らかに昔とは違っていた。以前はあっさり片付けていたその個所を、彼は、今日はテンポを微妙に調整し、重厚にバスを響かせ、一種の悲劇的な音楽をつくり出していたのである。病を体験した後の小澤の音楽に深みと凄みが生まれて来ていることが、ここでも証明されていた、と言えるだろう。

 第4楽章での、歓喜の主題がソリストと合唱で繰り返されて行くあたりから、演奏は異様な熱気と、何か一種の魔性的な激しさを増しはじめる。楽章後半は凄まじい熱気にあふれ、ドッペルフーガの個所では、小澤さんも両足を踏み鳴らしつつ指揮、演奏者全員が何かに憑かれたようにひたすら突き進んで行くという趣を呈した。
 彼がもう立ち上がったままで指揮を続けて行ったコーダのプレスティシモにおける昂揚感は、私もこれまで聴いたことがないほどの物凄さだったと言っても過言ではない。彼が指揮した多くの「第9」の中でも、いや、私がかつてナマで聴いた「第9」の中でも、これほど情熱的な「第9」にめぐり会ったことは無かった、と言ってもいいくらいである。

 なおバボラークは、後半2楽章ではホルン・セクションに加わり、第3楽章の4番ホルンの有名なフレーズ(第96小節)を、水を得た魚の如く、見事に吹いてくれた。

 合唱は、人数は多くなかったが、極めて力強い。4人の声楽ソリストのうち、アイヒェだけは譜面を見ながら歌っていたのは、なるほどな、という感だったが、その確信に満ちた歌唱は立派である。福井も藤村も重みのある歌唱だったが、三宅理恵だけは声質が軽く、明るすぎて、声楽クァルテットとしてはバランスを失わせていた感も無くはなかった。

 8時20分演奏終了。オケと合唱を含めて全員が出たり入ったりするカーテンコールは10分以上も続き、なおも拍手は止まらなかったが、ステージマネージャーが袖のドアを「終りだ」とばかりにピシャリと閉めて、おしまい。同じピシャリでも、せめて「終りなんですけど」と一礼でもしていれば、盛り上がっていた聴衆の気持をさらに和ませたろうに。
 会場の外には、水戸駅まで行くバスが2台待っている。それに飛び乗り、21時27分の特急「ひたち」で帰京。
     別稿 モーストリー・クラシック新年号、産経新聞

2017・10・12(木)ノルウェー・アークティック・フィルハーモニー管弦楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 2009年にノルウェー政府の肝いりで創設されたというこのオーケストラ、本拠地は北の方で、ボード―とトロムソを中心とする「北方各都市を拠点」としている由。
 ボード―(ボーデ―)という町は私も1996年夏にひょんなことから訪れたことがあるが、北の海に面した地方色豊かな小さな街━━昔はさぞ鄙びた漁村だったろうと思わせる雰囲気の街の一角、海岸近くにコンサートホールがあり、そこで1日だか2日だかの「音楽祭」が行われていたのを偶然聴いたことがある。

 政府のバックアップということもあってか、この日はホワイエに「北ノルウェー美術館所蔵の絵画」が10点ほど展示され、ノルウェーの名産品も僅かだが展示販売され、多分ノルウェーの人たちと思われるお客さんも多数・・・・という賑やかさであった。

 この日のプログラムは、オーレ・オルセンの「アースガルズの騎行」と、ラッセ・トーレセンの「触れられざるものへの讃美歌」(後者に関してはプログラム冊子にも公式表示なし。事実上、予告なしに演奏された)、グリーグの「ピアノ協奏曲」(ソロはペーター・ヤブロンスキー)、チャイコフスキーの「第5交響曲」というものだったが、最初の2曲では場内を暗くし、反響版の白い部分いっぱいにノルウェーの山岳の光景やオーロラなどの映像を投映して雰囲気を出すという、凝った演出も加えられていた。

 このノルウェー・アークティック・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者は、あのトロンボーンの超絶名手、クリスチャン・リンドバーグ(クリスティアン・リンドベルイ)である。今回も彼は、ぴったりとしたカラフルな衣装を着け、黒いタイツに包んだ長い足でステージを慌ただしく走り回る。指揮姿も忙しい。体の動かし方の激しさはそのかみのゲオルク・ショルティにも似て、ぎくしゃくとした攻撃的な身振りで、腕を鋭角的に振り回す。

 こういう指揮だから、オーケストラがつくり出す音楽もやはりエネルギッシュな、切り立ったようなつくりになって来るのも当然だろう。アンサンブルの緻密さよりも、勢いで聴かせるような。
 同じノルウェーのオーケストラでも、私たちがかつてよく聴いた、マリス・ヤンソンスの指揮していた頃のオスロ・フィルのしっとりした陰翳のある音とは全く異質な響きを出す。さすがリンドベルイの個性だな、という感がする。

 チャイコフスキーでは、リンドベルイは、最初の3つの楽章を30分以内に収めてしまう驚異的な快速テンポで指揮した。ホルン群はしばしばベル・アップして咆哮し、クラリネットまでがまるでマーラーの「第6交響曲」でも演奏するような身振りで第3楽章後半の下行音を吹き鳴らす。
 ホルンの1番奏者はすこぶる力強い音を持ち、第2楽章の有名な主題をもがっちりと吹いたが、普通ならそのあとのオーボエが吹く個所で一歩下がるところを「ここもおれが主役」と言わんばかりにフォルテで吹き続け、オーボエのモティーフを霞ませてしまったのには微苦笑。これはリンドベルイの指示によるものかもしれないが。
 しかしこのオケ、「5番」を演奏するのはよもや初めてではないだろうに、第4楽章コーダの冒頭でトランペットが1小節早く出てしまったのは、ご愛敬というか、何というか・・・・。

 と言っても、全体としては決して雑な演奏ではない。アンサンブルこそおおらかではあるものの、誠実で情熱的で、美しい弱音の響きをも併せ持つオーケストラであることは間違いない。現代音楽のように割り切った明晰さを出すかと思えば、緩徐楽章ではたっぷりロマン的に歌い上げるという、不思議な雰囲気を出すオーケストラである。コンサートマスターはカワミ・ユウコという日本の女性であるのは頼もしい。

 アンコールは4曲、1曲目は私も初めて聴く曲で━━終演後のホワイエに小さな紙に曲名を細かい字でぎっしり書いたのが、しかも低い位置(!)に張られていただけで、スマホで撮影する人たちでごった返し、とても近寄って見られるどころではなく、不親切この上ない対応だったが━━次のグリーグの「山の魔王の宮殿にて」では、弦のピッツィカートの主題よりもファゴットなど管のリズムを強く吹かせ、曲の構造まで変えてしまうといったように、牙をむいたようなユニークな解釈も現れた。
 ステンハンメルのカンタータ「歌」からの「間奏曲」を美しく演奏したあと、リンドベルイはついにトロンボーンを振りかざしつつ飛び出して来て、モンティの「チャールダシュ」を超絶技巧で吹きまくるというワザを披露。やはりこれがなくちゃ、という感じで9時20分頃、コンサートは終った。

2017・10・12(木)ラ・プティット・バンド

     浜離宮朝日ホール  1時30分

 シギスヴァルト・クイケンがリーダーを務めるバロック・オーケストラ、ラ・プティット・バンドの、J・S・バッハの作品による演奏会を聴く。今回は、ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1、フラウト・トラヴェルソ1、オーボエ2、チェンバロという編成だ。

 プログラムは、前半が「管弦楽組曲第3番」(弦楽四重奏とチェンバロ)、「音楽の捧げもの」からの「トリオ・ソナタ ハ短調」(フラウト・トラヴェルソ、ヴァイオリン、チェロ、チェンバロ)、「チェンバロ協奏曲第5番」(チェンバロ、弦楽四重奏)。後半では前述のフル編成にソプラノ(アンナ・グシュヴェンド)が加わり、カンタータ第204番「私の心は満ち足りて」。

 室内アンサンブル規模の編成がホールのアコースティックに合致して、清澄な響きを生み出す。ナマのステージで聴くとその微細な声部の交錯がじっくりと堪能できて面白い。
 ほぼ30分間、レチタティーヴォとアリアとを歌い続けたグシュヴェンドのソプラノも実に澄んだ気品のある声だったが、2本のオーボエが舞台前面に並んでいたため、その楽器が演奏に加わる部分のみはマスクされてしまったのだけは惜しかったが、これは小さな問題に過ぎぬ。ヒューマンなバッハの世界に浸った午後の2時間。

2017・10・11(水)西村悟テノール・リサイタル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 活動の場を目覚ましく拡げているテノールの西村悟(にしむら・さとし)が、オーケストラとの協演によるリサイタルを開いた。
 コンサートは「五島記念文化賞 オペラ新人賞研修記念」と題されており、この名称だけではよく解らないけれども、要するに平成25年度の「五島記念文化賞オペラ新人賞」を受賞、イタリアで研鑽を積んだその「研修結果を披露するための」リサイタルである由。今回は山田和樹指揮の日本フィルがバックを務めるという、かなり贅沢なリサイタルとなった。

 西村悟が歌ったのは、ドニゼッティの「愛の妙薬」と「ランメルモールのルチア」、ヴェルディの「マクベス」、マスネの「ル・シッド」、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」、プッチーニの「ラ・ボエーム」と「トスカ」、アンコールでは同「トゥーランドット」とレハールの「ほほえみの国」といったオペラからのアリアだったが、どれも体当たり的な熱演で、若いテノールの満々たる意欲と気魄が伝わって来るような感であった。

 前半のドニゼッティのアリア3曲では、緊張のためだったのか、高音域が伸びず、聴いている方でもハラハラさせられたけれども、高音が不安定になった時にもそのまま強引に押し切って行ったあたりが、若手らしくていい。

 休憩後は持ち直し、尻上がりに調子を出して行ったが、特にマスネの「おお裁きの主、父なる神よ」やチャイコフスキーの「レンスキーのアリア」など、あまり「絶叫しない」曲では、非常にいい味を出していた。
 アンコールでは気も楽になったか、「君こそわが心のすべて」と「だれも寝てはならぬ」では、気持よさそうに大見得を切り、聴衆を湧き立たせていたのは祝着である。

 欲を言えば━━これはあくまで印象に過ぎないが━━イタリアオペラもフランスオペラもロシアオペラも、すべて同じように歌ってしまうこと、各国語の歌詞に区別がつかないこと、登場人物の性格や心理状態の描き分けが徹底していないこと、などを感じるのだが、こういうことはすべてこれから彼が解決して行くこと。今は若い勢いで、何でもやってみるのがいい。
 とにかく、楽しみなテノールである。終り近くには「感謝のスピーチ」を試みていたが、なかなかの感激性の人のようだ。

 山田和樹指揮の日本フィルは、「セビリャの理髪師」序曲や、「エフゲニー・オネーギン」の「ポロネーズ」、「マノン・レスコー」間奏曲などを演奏していたが、やはり定期公演でのあの緻密な演奏とは、かなり趣を異にしていた。
 それでも、ヤマカズの「持って行き方の巧さ」は、相変わらずである。「星も光りぬ」から前述のアンコール曲2曲などでは、テノール・ソロを煽り、包み込み、ドラマティックに追い込んで行く巧さを存分に発揮してくれた。この人は、音楽における劇的な演出展開といったものに、生来秀でているらしい。オペラ指揮者としても大成する人だろうと思う。

2017・10・9(月)東京二期会 プッチーニ:「蝶々夫人」

      東京文化会館大ホール  2時

 東京二期会の定番、栗山昌良演出による「蝶々夫人」。
 何度も再演されている名舞台で、私も3年前(2014年4月23日の項)に観たばかりだ。

 この栗山演出は、日本的な美を追求した舞台として、「蝶々夫人」の演出史における不滅の完成品であろう。もちろんこのスタイルがこのオペラの演出として唯一無二であるという意味ではないけれども、ここまで蝶々さんとスズキの演技に日本女性の美しさを織り込んだ演出は、昔はともかくとして、今日では他に例をみないのではないか、と思われる。石黒紀夫の舞台美術、沢田祐二の照明、荒田良の舞台設計、すべてが均衡を保っている。

 それゆえ、今回は演奏と、主役歌手にも注目。
 ガエタノ・デスピノーサの指揮する東京交響楽団が、今回は絶好調。直截で速めのテンポの裡に、プッチーニが散りばめた日本の旋律群も鮮やかに浮き彫りにされていた。もっともこれは、日本のオーケストラが演奏すれば自然にそうなるのかもしれないが。10列ほぼ中央で聴いていたが、ピットから響いて来る音が美しかった。

 歌手の中では、今回最も注目されていた一人が、題名役を歌う森谷真理であった。最近活躍が目覚ましいソプラノである。
 今日、彼女が演じたこの役は、楷書体の蝶々夫人とでも言ったらいいか。いかにも武士の娘らしく端然、毅然とした、知性的な蝶々さんという表現だ。
 たとえば怒りのあまり衝動的に米国国旗を引き抜いて叩きつけるような女性(笈田ヨシ演出、今年2月東京芸術劇場)とは全くの対極に位置して、あらゆる面に日本女性の美学とでもいったものが追求されている━━それが栗山演出の蝶々さんなのだが、それを森谷真理は、完璧に演じていた。
 歌唱にもそれと同じ特徴が表れている。高音は実に張りのある美しく澄んだ声だ。これで中低音と、弱音がもう少しよく響くようになってくれれば、いっそう素晴らしくなるだろう(以前の別のオペラではそんなことは気にならなかったのだが・・・・)。
 いずれにせよ、新しいタイプの蝶々さんが出現したことを慶びたい。

 もう一人は、ピンカートンを歌った宮里直樹である。昨年は藤原オペラの「愛の妙薬」でネモリーノ、今年も日生劇場で「ラ・ボエーム」のロドルフォなどを歌い、評判を上げている人だが、私は今回初めて聴いた。まだ30歳だそうである。見事に伸びのいい、力に満ちた声で、これは楽しみだ。
 そして、山下牧子の巧さは、ブランゲーネなどをはじめ、これまでさまざまな作品で証明されて来ているが、今回も完璧なスズキ役であった。このオペラの舞台が引き締まるかどうかは、実はスズキの出来次第で決まると言ってもいいのである。

 他に、シャープレスを今井俊輔、ゴローを升島唯博、ヤマドリを鹿野由之、ボンゾを勝村大城、神官を原田勇雅。二期会合唱団。

 4時45分終演。
 第1幕の最後で、静かに閉じて行く音楽に浸っていた観客を飛び上がらせるような大声でブラヴォーを喚く奴が下手側最前列近くにいたかと思えば、それを客席後方から大声で非難し、正当にたしなめた人がいる。しかしまた、その言葉の内容がはっきり聞こえなかったらしい下手側10列前後にいたオヤジが「何だ? 野次か? けしからん」と怒り出す、という騒ぎもあって、やれやれ・・・・。昨日も、今日も・・・・。
 ブラヴォーはあったほうがもちろんいいと思うが、えてして、目立ちたがり屋やサクラのけたたましい下品な喚き声が多いのが困る。センスが豊かで美しいブラヴォ―の声というのは、なかなか無いものだ。

2017・10・8(日)みつなかオペラ プッチーニ:「妖精ヴィッリ」「外套」

      川西市みつなかホール  4時

 阪急の川西能勢口駅から徒歩数分、みつなかホールで行われている「みつなかオペラ」。
 2年前の「ノルマ」の時(2015年9月20日)に初めて訪れたのだが、その上演水準の高さに驚き、また聴きに来たいと思っていた。

 2005年以降はイタリアオペラのシリーズを集中的に組んでおり、特に2010年以降はドニゼッティ、ベルリーニの作品を各3年連続で上演、今年からはプッチーニに入っている。有名作のみにとどまらず、滅多に上演されないレパートリーをも積極的に取り上げているのは、客席数500以下という「小規模劇場」だからこそできる小回りの良さゆえではなかろうか。大変立派なことだ。四半世紀にわたり継続して来ている点でも、見上げた活動と言うべきである。

 今年は第26回公演。プッチーニの最初期のオペラ「妖精ヴィッリ」と、後期のオペラ「外套」を組み合わせての、2本立て上演だ。
 演奏は、牧村邦彦指揮のザ・カレッジ・オペラ管弦楽団。オケ・ピットは小型で、30人ほどしか入らぬそうだが、それを豊かな音にするよう巧く解決しているのが、スコア・リダクションという手法の由。倉橋日出夫が毎回担当しており、これは全く見事な手法である。オーケストラのつくり出す劇的な盛り上げも目覚ましかった。
 牧村邦彦の指揮も、ザ・カレッジ・オペラ管弦楽団も、すこぶる聴き応えのある出来だった。欲を言えば「外套」の幕切れ、ミケーレが妻ジョルジェッタに不倫相手の死体を見せつけるシーンに持って行く直前のオーケストラに、もう少し不気味な盛り上げが聴きたかったところではあったが。

 公演は2日でダブルキャスト。今日は初日で、出演者は━━
 「妖精ヴィッリ」が内藤里美(アンナ)、小林峻(ロベルト)、森寿美(グリエルモ)、みつなかオペラ合唱団、法村友井バレエ団(4人)。
 「外套」が桝貴志(ミケーレ)、並河寿美(ジョルジェッタ)、松本薫平(ルイージ)、片桐直樹(タルバ)、福原寿美枝(フルーゴラ)、谷口耕平(ティンカ)、西上亜月子・矢野勇志(恋人カップル)、岩城拓也(流しの歌手。合唱指揮者でもある)。なお、合唱団も冒頭に黙役の「セーヌ河畔にたむろする群衆」として出ていた。

 今日の出来では、やはりまず並河寿美が、歌唱・演技ともに存在感充分で光っていた。また桝貴志も陰にこもった凄味を後半にかけてぐいぐいと盛り上げて行き、福原寿美枝と片桐直樹がベテランらしく力のある歌唱と演技で脇を固める。松本薫平も、声の荒れが少し気になったのを除けば、「まじめだがひたむきなルイージ」に相応しい出来を示した。
 小林峻は、道を踏み外したロベルトを大熱演。内藤里美は前半少し硬かったものの、素晴らしく綺麗な声が魅力的である。

 演出は井原広樹、装置がアントニオ・マストゥロマッテイ、照明が原中治美。トラディショナルな写実主義的な舞台だが、まとまりはいい。
 「妖精ヴィッリ」では、合唱をかなり派手に活躍させており、終場面でも大集団の精霊として踊り狂わせる、という手法を採っている。
 このラストシーン、裏切られて死んだ女の怨霊が・・・・という場面で、もう少しオカルト的な怪奇さが━━「源氏物語」の六條御息所のような不気味さが出ていれば、と思うのだが、今回はアンナの亡霊が下手側から歩いて登場したり、ロベルトと「二重唱的」な構図を繰り広げたりするなど、いかにも「オペラ的」な綺麗さにとどまっていたのは少々惜しい。合唱団が演じた精霊たちの不気味なはずのダンスにも、むしろコミカルな雰囲気を生じさせてしまったのではないか。

 一方、「外套」では、背景と舞台における美しい照明のもと、人物関係とその動きも含め、極めて凝縮したドラマが展開され、あらゆる面で成功を収めていた。昨年6月に関西二期会が上演した「外套」でのマルチェッロ・リッピ演出と比べると、ラストシーンのスリリングな緊迫感には格段の差があり、特にこの場面での、不倫相手の死体を夫から見せつけられ、恐怖に怯えるジョルジェッタ(並河寿美)の良い意味での大芝居も、抜群の衝撃的効果を生み出していた。

 この団体の優れた活動は、もっと日本中に知られていいだろう。休憩20分ほどを挟み、6時35分頃終演。

 なお、ブラヴォーの声(複数)は、何となく歌手の関係者たちのようで、景気づけにはなるものの、サクラじみてわざとらしく、煩わしい時がある。「外套」の凄味ある幕切れで最後の音にかぶせるようにブラヴォーを喚いた御仁は如何にも非常識極まりなく、ドラマの余韻をぶち壊した。

2017・10・7(土)リッカルド・シャイー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団

       サントリーホール  5時

 ホールには5時15分くらいに着く。
 東京公演の2日目はR・シュトラウス・プロで、「ツァラトゥストラはかく語りき」「死と変容」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の3曲。1曲目の「ツァラ」は諦めていたので、第2部の2曲のみ聴く。

 昨日と同様、ルツェルン祝祭管弦楽団は、ホールを揺るがせて鳴り渡る。
 「死と変容」のクライマックス個所など、オーケストラ全体が巨大な山脈と化した如く、留まるところなく盛り上がって来るさまが凄い。地鳴りのような轟きが伝わって来て、今日もLC前方席で聴いていたのだが、何と椅子の背中がビリビリと来るような━━そんな馬鹿な話があるかと言われそうだし、自分でもそう思ったのだが、本当にそんな感じがしたのである。

 「ティル」も、主人公の「いたずらと大暴れと処刑」のストーリーが、極度のダイナミズムで描き出された。アンコールは・・・・昨日も本編に劣らぬスペクタクルだったので、今日も多分、と予想していたら案の定、「サロメ」の「7つのヴェールの踊り」が出て来た。選曲も演奏も、ちょっとやり過ぎじゃないかと思うところもあったけれども、とにかく痛快ではあった。

 大きな音でやったからいいというわけではない。だが、オーケストラという大人数の楽器集団がその力を極めるための、あくまで一つの例として、このシャイーとルツェルン祝祭管は、その面白さを具現してくれたことは確かであろう。それに、これだけ巧くて、しかも表情豊かな大オーケストラが演奏すると、R・シュトラウスの作品が如何に並外れて精妙精緻で、色っぽくて、聴き手の官能をくすぐる力を持っているかということが、改めて如実に感じられるのである。

 シャイーは、昨日と同様、オーケストラが引き上げてからもソロ・カーテンコールに呼び出されていた。

2017・10・7(土)オーギュスタン・デュメイ指揮関西フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  4時

 「アジア オーケストラ ウィーク」の3日目。
 音楽監督オーギュスタン・デュメイの指揮で、前半にショーソンの「詩曲」、ラヴェルの「ツィガーヌ」、マスネの「タイースの瞑想曲」、後半にビゼーの「交響曲ハ長調」。
 前半の3曲はデュメイ自身の弾き振りで、このところ彼のソロを聴く機会がなかったため(先日のリサイタルも都合で聴けなかった)、貴重な演奏会となった。

 昔はピリスとの協演でよく聴いたデュメイだが、今日はいっそう強靱な表情になり、弦楽編成のオーケストラ(コンサートマスター岩谷祐之)を圧するばかりの音量と風格で、朗々と歌い上げる。自国の作品に対する彼の強い共感と、深い情感にあふれた演奏だったと言えるだろう。

 デュメイの指揮者としての本領を味わうには、後半のビゼーの交響曲を聴かなくてはいけないのだが、残念ながら今日は諦める。11月16日にいずみホールで、彼と関西フィルの演奏を聴く予定(しかも協演はメネセス)だから、楽しみはそれまで取っておこう。

 新宿から首都高で霞が関へ。サントリーホールに向かう。

2017・10・6(金)リッカルド・シャイー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団

      サントリーホール  7時

 昨年から音楽監督に就任しているシャイーの指揮で、プログラムはベートーヴェンの「エグモント」序曲と「第8交響曲」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。アンコールには同じく「火の鳥」から「魔王カスチェイ(カッシェイ)の凶悪な踊り」。

 「エグモント」は、正面切った堂々たる風格の演奏で展開された。この調子でずっと行くとなると、立派だけど面白くなくなるな、と感じたのは束の間。「8番」になった途端に、シャイーは思い切った趣向をやること、やること。

 第1楽章第1主題の3小節目をすっと軽やかにデクレッシェンドさせたり、提示部の反復の際に1番カッコの個所から第1主題冒頭のフォルテに戻したり。また第2楽章の主題で、木管群を見事に弾むように吹かせ、しかもその主題が復帰した個所以降の木管群をエコーのような美しさで弾ませる、といったようなワザを聴かせる。
 全体にメトロノーム指定に近い快速のテンポで演奏させていたが、第4楽章など、その快速ぶりたるや、少なくとも76か、80くらいにまで達していたのではないか。

 とにかく、オーケストラがすさまじく巧い。それもそのはず、ヴィオラ・セクションにはヴォルフラム・クリストやヴェロニカ・ハーゲン、チェロにはクレメンス・ハーゲン、フルートにはジャック・ズーン、オーボエにルーカス・マシアス・ナヴァロ、クラリネットにアレッサンドロ・カルボナーレなどという名手たちも加わっている、腕利きぞろいのフェスティバル・オーケストラなのだ。
 シャイーは、そういう名手たちの名技をひたすら愉しむかのように、オーケストラを煽って、煽って、煽りまくる。その巧さ、音色の豊麗さ、音量の豊かさは、まさに圧倒的だ。

 「春の祭典」が、これほど壮麗な音の洪水、大音量の威力、マッスの量感的な物凄さ、といった要素を前面に出して轟き渡った例は、そうは多くないだろう。ブーレーズのような分析的な「春の祭典」もそれはそれで面白いけれども、このシャイー&ルツェルンのような開放的な力感と量感を優先した「春の祭典」も、聴く者に快感を呼び起こさせる。

2017・10・5(木)リャン・ツァン指揮上海フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 文化庁芸術祭執行委員会主催による「アジア オーケストラ ウィーク2017」。今年は上海フィル、マレーシア・フィル、関西フィルの3団体が出演している。

 2002年から始まったこの「アジア オーケストラ ウィーク」、初期の頃は最大6団体が来日したこともあるほど大がかりなものだったが、この10年ほどは2団体、あるいは3団体の来日という規模になってしまった。参加国も、かつてはトルコやモンゴルといった国々の名が見られたほど、幅広かった。しかしとにかく、現在まで続けられていること自体、立派である。継続は力なり、である。

 で、今日は初日。上海フィルの登場である。指揮は首席指揮者のリャン・ツァン、ピアノはジェ・ヤン。プログラムは、芥川也寸志の「弦楽のための三楽章(トリプティーク)」、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」、ドヴォルジャークの「交響曲第8番」というものだった。
 オケは弦12型。音に「色」が無く、淡彩になってしまうのはアジアのオーケストラに多い特徴だが、この上海フィルも同様だ。精一杯演奏していることは分かるが、音楽がどうしても単調になってしまうのである。ただこれは、指揮者の資質にも由るだろう。何にしても、よくやっているとは思う。

 ピアノのジェ・ヤンはジュリアード音楽院出身の由、切れのいい明解なニュアンスでショパンを弾く。ソロ・アンコールで弾いたのはピアノ協奏曲の「黄河」の第2楽章だというけれども、・・・・こんな曲だったっけ? ピアノ・ソロだけで聴いたのは初めてだったので、別の曲かと思った。

 なお、プログラムに日本の作品を入れてくれと言ったのは、日本の主宰者だったそうである(マレーシア・フィルは武満徹の「弦楽のためのレクイエム」を選んでいた)。
 年ごとに趣向を変えたいという意図は理解できるし、それはそれでいいが、こういう趣旨のシリーズの場合には、やはりそれぞれのオーケストラに、自国の作品を一つだけでも持って来てもらうべきではなかろうか。今日はアンコールで、上海フィルのほうは劉天華の「良宵」というロマンティックなポルタメント満載の小品を演奏していたが、自国の作品はまずメイン・プログラムに1曲は加えるべきだと私は思う。

2017・10・4(水)新国立劇場「神々の黄昏」

     新国立劇場オペラパレス  4時

 飯守泰次郎指揮、ゲッツ・フリードリヒ演出による、新国立劇場としてはキース・ウォーナー演出版に次ぐ2作目の「ニーベルングの指環」、その完結篇、全6回公演の、今日は2日目。

 配役と演奏は次の通り。
 ジークフリートをシュテファン・グールド、ブリュンヒルデをぺトラ・ラング、ハーゲンをアルベルト・ペーゼンドルファー、グンターをアントン・ケレミチェフ、グートルーネを安藤赴美子、アルベリヒを島村武男、ヴァルトラウテをヴァルトラウト・マイヤー。3人のノルンを竹本節子、池田香織、橋爪ゆか。ラインの乙女を増田のり子、加納悦子、田村由貴絵。読売日本交響楽団、新国立劇場合唱団。

 飯守は、今シーズンで新国立劇場オペラ部門芸術監督としての任期を満了することになるが、その開幕公演として選んだのが、この作品である。これは、日本のワーグナー指揮者として自他共に許す存在である飯守に相応しい演目と言えよう。
 この上演でも彼は精魂込めた指揮で、「指環」最終章を飾って行った。演奏全体としては、ダイナミズムを重視した、やや荒々しいものではあったが、決して無味乾燥なものには陥っていない。いろいろな意味で、彼の現在のワーグナー観を示すものだったと言えるだろう。

 オーケストラには今回、読響が起用された。これはあらゆる点で、成功である。音が分厚いし、ちょっと粗くて乾いてはいるものの、パワーが充分だ。第2幕の後半の壮大な場面や、第3幕での「葬送行進曲」、あるいは終曲など、まずこのくらい行けば上々と言ってもいいだろう。こういう個所でオケが弱々しかったら、すべてぶち壊しだからである。
 舞台外で吹かれたジークフリートの角笛のホルンが非常に上手く、これも読響ならではのものだろう。それに、今の日本のオーケストラで、「飯守のワーグナー」を巧く具現できるのは、読響以外には無いと思われる。

 故ゲッツ・フリードリヒの今回の演出(再演演出はアンナ・ケロ)は、ついに最後までもどかしさを感じさせたままであった。
 奇しくも今年は、彼のベルリン・ドイツオペラ時代の所謂「トンネル・リング」が日本に紹介され、日本のワーグナー愛好者に新鮮な衝撃を与えてからちょうど30年にあたるのだが、こういう形でその新旧演出が比較される結果となったことには、些か複雑な思いを抑えきれない。

 あの時の「神々の黄昏」第1幕で使用された、舞台上に設置された大きなレンズは、たとえばハーゲン、グンター、ジークフリートの内心に生れた邪な欲望を、その顔の表情を醜くクローズアップすることにより描き出すという役割を持っていた。その手法は、今回の演出でも引き継がれている。
 それはいいとしても、今回、細かい演技を含め、写実的な手法と伝統的・形式的な手法とが混在していたのは、あまり納得の行くものではない。しかも、以前の「トンネル・リング」に比べると、舞台上の人物のそれぞれの演技が、互いにしっくりかみ合っていないように感じられるのである。合唱(ギービヒ家の家臣たち)の動きにも、活気がない。これは「演出補」として再演の演出を担当したアンナ・ケロにも責任があるのでは? 

 ラストシーンで、主要登場人物の中ではただ一人「その消息が不明のままになる」アルベリヒが、事の成り行きに茫然としつつ彷徨う光景は、あのハリー・クプファーの手法と共通している。
 ただ、これで締めれば、それなりに明解だったろうが・・・・そのあとにブリュンヒルデをまた登場させる━━廃墟の中央に突然ガバと起き上がらせる━━のは、救済者としての役割を強調し、彼女に未来への希望を託するためか、はたまた、この闘争と悲劇が未来永劫繰り返され、そのたびに救済者が必要になるであろうことを予言するためか。
 いずれにせよ、舞台上の光景としては些か煩雑になって、やらずもがなの印象を与えたことは否めまい。

 総じて、今回の演出は、新国立劇場のプロダクションとしては前作ほど刺激的で話題性に富むものではない。また、舞台としての完成度も高いものだったとは、どう見ても言い難い。とはいえ、わが新国立劇場の現状を考えると、こと「指環」の舞台に関する限りは、これが精一杯なのかな、という気がしないでもないのだが・・・・。

 歌手陣は、一応手堅いところを示していただろう。
 グールドは相変わらずのパワーで野生児ジークフリートをダイナミックに表現、演技の点でもいろいろ工夫していたようだが、第2幕ではちょっと声に無理があったろうか。
 ラングも「自己犠牲」の場面に至る長丁場を巧く盛り上げていたが、ただ、グールドとともに、彼らの好調時の声とは言い難かったようである。

 ペーゼンドルファーのハーゲンは、その動きの少ない演技が、不気味さよりも、何かおっとりとした印象を与えてしまっていた。これも演出上の問題と思われる。
 そしてグートルーネの安藤赴美子の健闘は嬉しいが、第2幕でのブリュンヒルデ出現以降の演技は全く納得が行かない。妻としての立場が脅かされている渦中で、あんなに平然と我不関然としているように見える演技は、どういう演出意図によるものなのか?

 そこへ行くと、ヴァルトラウテを歌ったヴァルトラウト・マイヤーは、出番は短かったとはいえ、さすがの貫録である。焦慮するヴァルキューレとしての表現を、歌にも演技にも、見事に盛り込ませた。往時に比べ、声にはやはり耀きが薄れたかもしれないが、巧さは不変である。
 第1幕のあとのカーテンコールでは、彼女に対し、上階席からブラヴォーの声がいくつか飛んだ。それらは、1階席下手側後方からいつも聞こえる何となくサクラじみた声のブラヴォーよりも美しい。休憩時間に所用で駐車場に出たら、楽屋出口で行列を為したファンたちに彼女がサインをしていた。出番が終ったので、そのままホテルへ戻って行くのかもしれない。

 字幕は故・三宅幸夫さんのもの。さすがに解り易く、安心して音楽と合致させられる。
 休憩を含み、終演は10時05分。やはり、長い。

2017・10・3(火)ペトル・アルトリヒテル指揮チェコ・フィル

       サントリーホール  7時

 名門チェコ・フィル、来日公演(全7回)の今日は3日目。
 ドヴォルジャークの序曲「謝肉祭」と「チェロ協奏曲」(ソロはジャン=ギアン・ケラス)、ブラームスの「交響曲第4番」というプログラム。
 アンコール曲は、ケラスがデュティユーの「ザッハの名による3つのストローフェ」第1曲、オーケストラのほうは、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲」作品72の「第7番」と「第8番」だった。

 首席指揮者ビエロフラーヴェクが惜しくも亡くなってしまったので、モラヴィア出身の指揮者ペトル・アルトリヒテル(アルトリフテル、では?)が代わって帯同来日している。 
 ステージ上での、チェコ・フィルに対する彼の態度は如何にも謙虚そのもので、「私は代役。このオーケストラの素晴らしさにどうぞ拍手を」と言わんばかりに(これを口にしたら雰囲気はぶち壊しになってしまう)自分は中央から一歩退いて、聴衆の称賛を楽団に向けさせる、といった具合。その一方、今年3月にプラハ響と来日した時と同じように、彼の指揮台上での指揮姿は、すこぶる賑やかで、力感に富む。もう結構な年齢(66歳)なのに、足を踏み鳴らしたり、交錯させたり(これは一風変わった仕種である)。

 つくり出す音楽は、何か八方破れという雰囲気はあるものの、素朴で実直な情熱を感じさせる。確かに、ブラームスの「4番」の終楽章後半の追い上げなど、これほど煽り立てた演奏は、滅多に聴いたことがないほどである。
 ただ、もともと細かい仕上げにはこだわらないのか、あるいは今回は練習時間が充分でなかったのか、たとえばホルンとファゴットのバランスなど、少々腑に落ちぬところもあって、全体に何となく落ち着かないブラームスになっていたことは事実だ。ブラームスの晩年の滋味を、壮年の意気に置き換えた「4番」とでもいうか。

 そこへ行くと、ドヴォルジャークの作品の方が、演奏はやはりサマになっている。こういう曲はチェコ・フィルなら目をつぶっていても演奏できるはずだから、と言ってしまえばそれまでだが、それにしてもあのプラハ響との「わが祖国」と同様、アルトリフテルという人はやはり「チェコもの」で最大の強みを発揮する人のようである。
 「チェロ協奏曲」では、その素朴な表情の音楽と、ケラスの洗練された感性の音楽とが色合いを異にしていたが、これはこれで、別の面白さがあった。

 有名な「チェコ・フィルの弦」は今なお健在。チェコの指揮者が振ると、ここのオケの弦はいっそう瑞々しくなる

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