2017-08

2017・8・11(金)中村恵理ソプラノ・リサイタル

    よこすか芸術劇場  3時

 昨日昼の0時15分にLH716便で羽田に着いたが、荷物が出て来たのがやっと1時頃。それから自宅に戻ると、夕方に別の用事が入っていた場合には、例の秘密兵器「時差ボケ解消のための昼寝2時間」が、事実上難しくなる。以前よく使っていた早朝7時頃成田着の便だったら、「2時間」は充分取れたのに━━。
 ただし今回は、プレエコ席を往復買っていたのだが、帰りはLH側がビジネスクラスにアップグレードしてくれたので、睡眠時間が少し多く取れ、その分、体力温存には僅かながら役だったともいえるが・・・・。

 とにかく、かような具合で時差ボケ解消は不完全ながら、今日は横須賀まで行く。この「よこすか芸術劇場」のある京急線の汐入駅は、急行が停まらないので、横浜駅から乗った快特を金沢八景駅で降り、普通に乗り換えねばならないと来ている。自宅からはdoor to doorで1時間半もかかった。

 大ホールで行われた中村恵理さんのリサイタルは、「横須賀芸術劇場リサイタル・シリーズ50」としての開催だ。
 最初に「浜辺の歌」など日本歌曲3曲が歌われたあと、ベッリーニの「6つのアリエッタ」から3曲、モーツァルトの「フィガロの結婚」と「コジ・ファン・トゥッテ」から各1曲が歌われた。そして第2部はオペラのアリア集で、グノーの「ロメオとジュリエット」、ヴェルディの「椿姫」、ビゼーの「カルメン」、プッチーニの「マノン・レスコー」と「蝶々夫人」から各1曲が歌われた。ピアノは木下志津子。

 中村恵理の歌は、バイエルン国立歌劇場以来、最近のスザンナ役まで、もう何度も聴いているが、非常に魅力的なものである。私の主観で言えば、この日の歌唱の中では、やはりモーツァルトのそれが、声の雰囲気といい、心理描写の襞の細やかさといい、巧いものだという印象が強い。
 客席の反応も、最初の日本歌曲では何となくお座なりなものが感じられたが、オペラのアリアになると、途端に湧きはじめたのであった。

 ━━というのは、これが面白いところなのだが、日本の歌では彼女の歌唱そのものが何か物足りなさを感じさせていたのに、いったんオペラになると、彼女の声は、見事に小気味よく、この広大な大ホールを揺るがせんばかりに朗々と響きわたって行くのである。
 こういう歌を聴いていると、もちろん発声法にもよるのだろうが、なるほど優れたオペラ歌手は、やはりオペラを歌った時にこそ、歌劇場(大ホール)にその声を充分響かせることができるのだな━━と、そんな当たり前のことに改めて感心してしまうのだ。何を今さら、と言われそうだが。

 そうすると、声の出し方が異なる日本の歌曲は、歌劇場で歌われても、必ずしも最良の結果を得るとは限らない、ということになるのか? このあたりは、声楽の専門家のご意見を伺いたいところだ。だが、それも曲次第かもしれない。アンコールで歌った「椰子の実」(島崎藤村/大中寅二)では、彼女は発声をまた完全に変えていたが、これはホールいっぱいに、しっとりと浸みわたって行ったのだった・・・・。

2017・8・8(火)ザルツブルク音楽祭(終)ベルク「ヴォツェック」

    モーツァルト・ハウス  8時

 最終日に至って、やっと刺激的なオペラの舞台に出逢う。
 ウィリアム・ケントリッジの演出、マティアス・ゲルネの題名役。予想通りユニークなプロダクションであった。今日がプレミエで、このあと27日までの間に4回上演されることになっている。METとカナダ・オペラ協会、オーストラリア・オペラとの共同制作の由。

 ドローイング・アニメの大家ケントリッジのオペラ演出は、これまでにもMET制作によるショスタコーヴィチの「鼻」と、ベルクの「ルル」(前者は2010年と2013年に現地で、後者は2015年上演のライブビューイングで)を観たことがあるが、それに比べこの「ヴォツェック」でのアニメの投映は、更に複雑になっている。「ルル」以上に、どこまでがアニメの投映で、どこからが実際の大道具だか、その区別さえ判然としないほどに精緻で大がかりである。近年大流行のプロジェクション・マッピングと軌を一にするものだろう。

 今回の舞台美術(ザビーネ・テウニッセン)は、この劇場の舞台いっぱいに、雑多で薄汚い、ゴミ屋敷の如き光景を展開する。さながら荒廃した世界か、廃墟かといったところで、その雑然たるさまはカストルフ演出の「指環」の舞台装置のそれを上回る。
 雑多な光景の多くはアニメの投映だが、それは旧い家具の処理場という感もあり、特に手前には椅子のガラクタが無数に転がっている。そういえばアンドレスが椅子の残骸を背負っていた━━。

 軍楽隊はアニメで投映されるが、気がつくと鼓手長が独りで下手高所に立っている。かように、舞台の光景があまりに混然としているために、登場人物が何処から現れるか、見当がつかないのである。廃墟と人物との見分けがつかぬことも多く、人物は廃墟の中からうっすらと現れ、いつの間にかまたその中へじりじりと溶け込んで行く、といった具合。

 その最も象徴的な場面は、ヴォツェックが「池にはまって」死ぬところであろう。彼は舞台中央にい続けるのだが、その姿はそのまますっと背景の廃墟と一体化するように消えてしまい、彼が存在したという痕跡すら定かでなくなる。
 彼に殺されたマリーにしても同様だ。彼女は、大きなオペラグラスで観ると、そのままずっと舞台上に倒れたままであることが判るが、肉眼で見る限り、その姿は完全に廃墟と同化してしまっている。
 オペラの冒頭でヴォツェックが口走っていたように、それが底辺に生きる人間の宿命なのか。荒廃した世界の廃墟で生き、そこで死んで行く・・・・。 

 子供たちがガスマスクのようなものを顔につけているのも不気味だが、とりわけマリーの子供が身体を侵されており、それは病院の看護師に介抱されている不気味な異形の人形で表現される、というのがショッキングな光景だ。
 ラストシーンでの子供の声は、すべて陰歌になる。2人の看護師と、その腕に抱かれた「子供」だけが残って溶暗する終結は、何とも重苦しい。

 ケントリッジの演出は、この作品で、社会派的な方向へ、また大きな一歩を踏み出したようである。演出には、「共同」として、Luc De Witの名がクレジットされていたが、その分担の範囲については、私には判らない。ただ、「ルル」より手が混んでいた分、未整理の部分も多いのではないかという気もするのだが━━。
 いずれにせよ、この演出に比べると、ケントリッジがMETで初めて手掛けた「鼻」は、随分シンプルでプリミティヴなものだったな、という感慨を禁じ得ない。

 マティアス・ゲルネの題名役は、2004年のサイトウ・キネン・フェスティバルにおける上演で日本のファンにもおなじみだが、これはもう彼の定番というか、当たり役であろう。
 マリーを歌ったアスミック・グリゴリアンは、えらく少女っぽい見かけに仕立てられ、演技の上では地味だが、歌唱は手堅い。
 歌手陣にはその他、ジョン・ダスザック(鼓手長)、ゲルハルト・ジーゲル(大尉)、イェンス・ラルセン(医者)、マウロ・ペテル(アンドレス)らが顔を揃えていた。

 ピットにはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が入り、バンダはウィーン・フィル・アンゲリカ=プロコップ夏期アカデミーが担当、合唱はウィーン国立歌劇場合唱団のメンバー。
 指揮はウラディーミル・ユロフスキだったが、彼の指揮には、少々腑に落ちないところが多い。初日だったせいもあるのだろうが、冒頭は歌もろとも、どうしたのかと思われるような出だし。全曲にわたり、オーケストラの表情は生硬で活気に乏しく、モティーフの交錯にも躍動感と精密さが不足していたようである。この一筋縄では行かぬ「ヴォツェック」の音楽は、彼にはちょっと手が余るのではないか? 
 まあ、天下のウィーン・フィルのことだし、2日目以降には自分たちで何とかするだろう。
 全2幕休憩なしの上演で、終演は9時35分頃。

 ところで、昨日聴いたのは、夜の「ハーゲン・クァルテット」だけだったが、今日も夜の「ヴォツェック」だけと相成った。ザルツブルク音楽祭に初めて来て以来、もう40年になるが、こんなに効率の悪い聴き方しかできない年は、かつてなかった。
 そもそも他にめぼしい演奏会といえば、昨日はネルソンス指揮ウィーン・フィルの2日目の公演しかなかったのだし、今日もマリアンヌ・クレバッサのリサイタルのみなのだ。こんなに開催公演の少ない日が続くのは、かつての黄金時代━━特にカラヤン時代やモルティエ時代にはまずなかったのではないか。
 しかもこのそれぞれが、全く同じ時間帯に組まれているという不親切さだ。両方を順番に聴く、などということができないのである。今週の開催スケジュールには、そういうケースが多い。

 先週末の「モーツァルト・マチネー」の際に出会った知人に、私より少し年上の、今は独り身になっている元気な「お金持の」音楽愛好家の女性がいる。毎夏このザルツブルクに来て、カラヤン広場にある「ゴルデナーヒルシュ」とか「ブラウエガンス」などの有名な由緒ある小さなホテルに2、3週間ほど滞在し、コンサートには1日に1回だけ、時には2日に1回だけ聴きに行く、というペースで、悠々と過ごしているそうな。
 そういう方にとっては、ガツガツ聴きまくる私のような者が持つ不満など、縁がない存在だろう。とはいえ、貧乏性の人間にとっては、高いカネを払って外国まで聴きに行くのだから、そうでもしなければ割に合わないという裏事情もあるわけで━━。

2017・8・7(月)ザルツブルク音楽祭(6)ハーゲン・クァルテット

     モーツァルテウム大ホール  7時30分

 ハーゲン・クァルテットなんて、高い金をかけてザルツブルクまで行かなくても、東京でだっていつでも聴けるじゃないか━━という見方もあろうが、そこはそれ、空気の違いが大きい。つまり、楽器の「鳴り」が、湿度の高い日本とは全く違うのだ。

 日本で聴き慣れたハーゲン・クァルテットが、まるで別の団体のように聞こえると言ったら誇張が過ぎようが、とにかくルーカス、ヴェロニカ、クレメンスのハーゲン3人に、ライナー・シュミットを加えた4人のそれぞれの演奏が、驚異的なほど瑞々しい表情の語り口を以って、ステージから響いて来るのである。

 プログラムもいい。最初にバッハの「フーガの技法」からの「コントラプンクトゥスⅠ-Ⅳ」が置かれ、次にショスタコーヴィチの「弦楽四重奏曲第8番」がある、というプログラムを見た時に、オヤこれはもしや・・・・と思ったのだが、案の定、この2つの作品はアタッカで演奏された。つまり、バッハの曲が突然前衛的な動きをし始めたように感じた瞬間に、曲はいつの間にかショスタコーヴィチの作品に変わっていた、ということになるのだ。
 この接続は、あまりに見事な効果を生んでいて、なるほどと思わされたくらいである。200年を隔てた二つの作品がかくも違和感なく結合していたこと━━これには、深い感動を覚える。

 もちろん、演奏も凄まじい。世界の終りを物語るような、神秘的で緊迫感に満ちた演奏で開始された「フーガの技法」━━しかしその弦の動きのしなやかで陶酔的な美しさ、パウゼでの息を呑む緊張感。そして、まるでそれに触発されたように蠢きはじめるショスタコーヴィチのラルゴの曲想。
 後者は、しばしば聞かれるようなヒステリックな表情の音楽でも、刺々しい闘争的な音楽でもない。バッハをそのまま受け継いだかのような、厚い声部の交錯が、一種の柔らかいヒューマンな温かさを感じさせつつ続いて行く、といった感なのだ。

 前半のこの2曲の印象があまりに強烈なものだったために、お目当てだった後半のシューベルトの「弦楽五重奏曲ハ長調」が、多少影が薄くなってしまったきらいは、なくもない。極度に沈潜した演奏だった第1楽章のあと、まるで長い緊張に耐え切れなくなったような雰囲気が、客席にも拡がった。

 だがもちろん、チェロのソル・ガベッタが加わったこの豪華な演奏は、聴きものであった。
 真髄は第2楽章か。弦の移り変わるハーモニーと、ガベッタがゆっくりと奏するピッツィカートとが絶妙に呼吸を合わせるさまは、今更感言うのは何だけれど、やはり巧いものだな、とつくづく感心させられる。1時間にわたる長い全曲の最後に突然出現する暗い和音の揺れは━━ここはもっと不気味であっていいといつも思うのだが、今日もさほど深刻にならぬ程度のまま、終った。

 9時30分終演。聴衆も最後には熱狂して、スタンディング・オヴェイションとなったが、このホールは終演後の客の出口への動線が最悪なので、なるべく早く廊下に近づこうという魂胆が感じられなくもない。
 今日は1日中、快晴の爽やかな気候で、まさにこれぞザルツブルク、といった空気である。まだ暑くならない午前中、ザルツァッハ河畔の木陰のベンチに腰を下ろし、澄んだ空気を味わいながら本を読む。最高の気分だ。

2017・8・6(日)ザルツブルク音楽祭(5)「室内楽コンサート」

     モーツァルテウム大ホール  7時30分

 ウィーン・フィルのコンサートマスターの1人、ライナー・ホーネックをリーダーとするウィーン・フィルのメンバーによる室内楽演奏会。
 プログラムは、R・シュトラウスの「カプリッチョ」からの「六重奏」、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの「弦楽六重奏のための幻想曲《テルレスの青春》(若きテルレス)」、最後にメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」。

 今夜は、この同じ時間帯に、川向こうの祝祭大劇場では、ムーティの指揮で、アンナ・ネトレプコを題名役とする「アイーダ」の初日公演(これもウィーン・フィルだが)が行われているはずであった。例のごとく手配の出足が遅かった私は、そのチケットを取り損なったというわけだが━━。

 しかし、このモーツァルテウムの美しいホールで、ウィーン・フィルの「別の」メンバーが演奏する、夢のように美しいR・シュトラウスの「六重奏曲」や、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」を聴いていると、ムーティもネトレプコも何にかはせむ、という心境になって来る。これは、負け惜しみではなく、本当である。

 1曲目のシュトラウスの「カプリッチョ」の六重奏が始まった瞬間など、こんな魔術のような音楽があろうか、と息を呑み、心も体もとろけるほどうっとりさせられてしまったほどだ。かように、ウィーン・フィルの弦は、この世のものならざる夢幻的な音色をつくり出していたのである。

 モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」を吹いたのは、首席奏者ダニエル・オッテンザマーだった。有名な父君エルンスト氏が先月急逝したばかり。プログラム冊子にも、その追悼文が掲載されており、聴衆もそれを知っていた。そうした思いも含め、子息の流麗で温かいソロに、ひときわ高い多くのブラヴォーが飛んだのも当然であろう。

 ヘンツェの「テルレスの青春」(若きテルレス)は、15分ほどの作品で、もともとは映画のための音楽のはず。ナマで聴いたのは今回が初めてなのだが、ホーネックらウィーン・フィルのメンバーの手にかかると、あのヘンツェの作品すらが、すこぶる温かい穏やかな音楽に聞こえてしまうから不思議なものだ。

 そして最後がメンデルスゾーンのオクテットだが、「1人のソリストと7人のメンバーのためのコンチェルト」(故ルイ・グレーラー)という見方さえあるこの曲で、ホーネックのリーダーとしての存在が明確にされつつも、あくまで完璧な均整を備えた8人のアンサンブル━━となっていたのが、この日の演奏なのであった。その音の柔らかい溶け合いは、他に例を見ないだろう。第1楽章での流れの良さと、限りなく昂揚して行く演奏は、ここでもう拍手を贈りたくなるくらい、圧巻であった。

 ただ、こんな勢いで第1楽章から飛ばしていては、フィナーレなど、さてどうかな、と思ったが・・・・案の定、第3楽章以降は━━もちろん第1楽章と比べればのことだが、少々精彩を欠いたような気がする。第4楽章の中ほど、8人が先を争って突進するかのような激しい曲想の個所など、今一つエネルギー感が薄れていたような。

 超満員だったこのホール、換気が悪くて、空気がこもって来る。まさか奏者たちも、それで疲れたわけでもあるまいが━━昨日のマチネーでもそうだったが、私はこういう空気には弱いので、先に疲れてしまう。
 9時40分頃終演。昼間降っていた強い雨もすでに上がり、かなり涼しくなっていたが、新鮮な大気に触れて安堵する。この会場は、ホテルに比較的近いので楽だ。

2017・8・6(日)ザルツブルク音楽祭(4)ネルソンス指揮ウィーン・フィル

       ザルツブルク祝祭大劇場  11時

 アンドリス・ネルソンスが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはダニール・トリフォノフ)と、ショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」を演奏した。

 この2年ばかり、昼のウィーン・フィル・シリーズを選ぶと、不思議にムーティの指揮ばかりに当たっていたが、今回はちょっと珍しい組み合わせとなった。ネルソンスが振るのは、別に珍しくはないけれども、ショスタコーヴィチの「7番」をこのザルツブルクで聴くというのが、そもそも稀有のことだろう。

 だが、1階中央の7列という席は、いかにもステージに近すぎて、この大編成で怒号する演奏の全貌を把握するには難がある。もっと離れた席から、バンダを含めた全管弦楽の溶け合った響きを聴き、ホール全体を鳴動させるスリリングな全音圧に浸りたいところではあったが、残念ながら各パートの生々しい動きが眼前に展開し、個々の楽器の音圧がこちらに飛んで来るだけのような状態にとどまった━━その代わり、叙情的な部分では、ウィーン・フィルの弦の瑞々しい歌が、直接の手触りのような雰囲気で、存分に楽しめたが。

 前夜の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の演奏でもそうだったけれど、ウィーン・フィルがショスタコーヴィチの交響曲を演奏すると、日本を含む何処の国のオーケストラとも異なる、一種の温かい豊麗さを感じさせる。
 ましてロシアのオーケストラが噴出させるような、あのピンと張り詰めた厳しさや攻撃的な鋭さ、威圧的な重量感などとは大違い。それが面白くもあり、時には物足りなさをも感じさせるところだろう。

 第1楽章での「戦争の主題」の頂点はさすがにウィーン・フィルの威力を感じさせたが、第4楽章最後の昂揚は意外にあっさりしたものだった。
 ネルソンスは入魂の指揮で、下手側奥に位置するバンダを含めた金管群の音量を、あくまで弦や木管とのバランスを重視しながら響かせ、刺激的な咆哮までには至らせることなく、調和のうちに、この壮大な交響曲の演奏を完成させたのである。

 プロコフィエフの協奏曲の方は、若いトリフォノフの元気のいい演奏にもかかわらず、何となく前座の雰囲気を免れなかったのは、客席の雰囲気の所為か。特に前方客席の。

2017・8・5(土)ザルツブルク音楽祭(3)「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

      ザルツブルク祝祭大劇場  7時30分

 今年のザルツブルク祝祭では、ショスタコーヴィチに一つのテーマが与えられている。公式プログラムで見るところ、少なくとも10種の公演で、彼の交響曲、協奏曲、室内楽曲、オペラが取り上げられている。

 このオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」もその一環.。マリス・ヤンソンス指揮ウィーン・フィル、ウィーン国立歌劇場合唱団のメンバー、演出がアンドレアス・クリーゲンブルク、舞台装置がヘラルド・B・トール、カテリーナ・イズマイロワを歌うのがニーナ・ステンメだから、これは注目公演と呼ばれるに相応しいだろう。。
 去る2日にプレミエされ、21日までに計5回上演されることになっている。共同制作のクレジットは、特に見当たらない。

 舞台装置は、すこぶる大がかりなものである。日本式に言えば、5~6階(までは見える)以上の高さのある巨大な古いマンション(社員宿舎という設定か?)の中庭のような場所がドラマの主たる舞台。そして、下手側からは、第1~2幕ではカテリーナの新居(これはすこぶる贅沢な部屋)が、第4幕では監獄が突き出して来たり、引っ込んだりする。上手側からはイズマイロフ家の事務所、あるいは第3幕では警察署のセットが移動し突き出して来る。
 かように、祝祭大劇場の幅広の舞台をいっぱいに使った、すこぶる重量感と威圧感のある,静的な中にもスペクタクル性を含んだ舞台装置だ。

 時代設定は、少なくとも原作よりは現代に近い時代だ。人物の動きは激しい。登場人物にはそれぞれ際立った性格が与えられている。
 ヒロインのカテリーナ・イズマイロワは、最初のうちは少し従順な、欲求不満を裡に押し隠した、おとなし目に見える「新嫁」だが、それが次第に、感情の動きの激しい、所謂「マクベス夫人的」な女性に変貌して行く。この過程を、ニーナ・ステンメが実に見事に演じ切っているのには、舌を巻いた。長いドラマの中で、ほとんど出ずっぱりの奮闘だが、終盤に向けてますますパワーを増して行くそのエネルギーは、立派なものである。

 その夫セルゲイは、父親の会社に勤める、全くの役立たずの事務員で、それをマキシム・パスターが気の毒に見えるくらいのダメ男ぶりで見事に演じ歌っていた。
 一方、その父親のボリス・イズマイロフは、いつもスーツに身を包んだ堂々たる恰幅の、厳しく横柄な社長で、しかも好色な舅ぶり。これを歌い演じたディミトリ・ユリアノフが貫録充分、ドラマの前半を引き締めた。

 ただ惜しむらくは、カテリーナの愛人━━のちに夫━━たるセルゲイを歌い演じたブランドン・ジョヴァノヴィッチが、何となく影が薄いことだろう。
 もしそれが苦労知らずのボンボンとして描かれ、カテリーナの愛に応えられる男ではなかったという、否定的な設定だったのなら、それはそれでいいのだろうが、ドラマとしては弱い。
 他に、ジノーヴィの死体を発見して大騒ぎする「ぼろを着た男」をアンドレイ・ポポフ〈彼はこういう役は巧い〉、牧師をスタニスラフ・トロフィモフら、大勢の出演者たち。みんな快調だ。演技は微細で、大型の舞台にもかかわらず、ドラマとしても見ごたえがある。

 第4幕のオリジナルにおける「河」のモティーフは、やはり今回も放棄されていた。下手側から突き出している「監獄」と、その他は最初から使われている装置がそのまま活用される。
 ラストシーンでカテリーナは、恋敵ソニェートカを川に突き落として自分も飛び込むというオリジナルのト書きとは異なり、相手の首に綱を巻きつけて階段の上へ引っ張って行き、手摺越しに彼女を突き落としつつ自らも一緒に首をくくって飛び降りる━━という設定になった。2人の女が、背中合わせの形で宙吊りになる。ただ、その2つの吊られた「人形」に、どう見ても、凄味も不気味さも感じられないのが問題だろう。

 さらにオリジナルの台本と異なるのは、カテリーナから耳打ちされて頼まれた獄吏の1人が、ソニェートカを助けに行こうとするセルゲイを刺殺してしまう、という設定である。
 このあたり、ひしめき合う「流刑囚」たちの中にあって、彼ら中心となる数人のキャラクターの存在があまり明確にならず、所謂「群衆の中の悲劇の一つ」としてしか描かれないのが、少々物足りない。クリーゲンブルクの演出には、時たまこういうのがみられる。

 ピットに入ったマリス・ヤンソンスとウィーン・フィルは、この桁外れのどろどろした「凄い話」のオペラを演奏するには、ちょっと品が良すぎるかもしれない。
 あの「ぼろを着た男」が、こけつまろびつ、警察へご注進にすっ飛んで行く場面の有名な間奏曲などは野性味に不足する感があったし、セルゲイの裏切りを目の前にしてカテリーナの絶望感が爆発する凄愴なクレッシェンドの個所も、おとなしすぎたきらいがある。
 ただ、演奏そのものには非常に風格があり、ウィーン・フィルの底力の凄さといったものは、充分に伝わって来たのだった。マリス・ヤンソンスの人気も、相変わらず盛んなものがある。

 休憩1回を挟み、10時50分頃演奏終了。

2017・8・5(土)ザルツブルク音楽祭(2)モーツァルト・マチネー

      モーツァルテウム大ホール  11時
 
 お馴染みモーツァルト・マチネーの一環で、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団が出演、指揮はジョヴァンニ・アントニーニ、ゲスト・ソリストはクリスティアン・ベズイデンホウトという面白い顔ぶれである。
 プログラムは、モーツァルトの「交響曲第29番イ長調」と「ピアノ協奏曲第24番ハ短調」、後半がシューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」というもの。アントニーニがモーツァルトやシューベルトを指揮するのはナマではなかなか聴ける機会が無いので、これは楽しみにしていた。

 アントニーニは、この系統のレパートリーにおいても、非常に強烈なデュナミークを多用する。そのフォルティシモは、1階席の、のんびり聞いていたらしい1人の高齢の女性を一瞬飛び上がらせたほど、激しい。叩きつける最強音と、歯切れのいい明晰な響きが際立つ。もちろん、弦はノン・ヴィブラート奏法だが、金管には特にピリオド楽器は使われていなかったようである。

 冒頭の「イ長調」の出だしでは、アンサンブルもアタックも何故か粗くてガタピシしていたのには冷や冷やさせられたが、どうやらこれは呼吸が合わなかった所為らしい。提示部がリピートに入ったところから、俄然、音楽が引き締まって来た。
 とにかく、これだけ鋭角的なサウンドで再現された「第29番」も、珍しいだろう。反復個所は忠実に守られているので、演奏時間も長くなる。

 これらは、後半でのシューベルトの「悲劇的」でも同様だ。全曲にわたり強弱の対比が激烈に強調されるため、この曲が、これまで聴いたことのないほど荒々しい劇的な様相を帯びる。特に第4楽章など、こんなに牙をむいたようなシューベルトは、恐怖感さえ覚えさせるではないか。
 ユニークなアプローチもあるものだ、と感心する。聴き慣れた作品からこういう新しい側面を出してくれる演奏にぶつかると、聴きに来てよかった、と心から思うものだ。

 協奏曲では、ベズイデンホウトが、珍しくモダン・ピアノで弾いた。これがまた面白い。何しろこの曲でも、アントニーニが、緩やかではあるがしばしば戦闘的に仕掛けるのに対し、その音楽をベズイデンホウトが、我が道を往く、とばかりに落ち着きはらって悠然と受ける、という対照を生むからである。彼のピアノでうっとりさせられるような美しさを感じたのは、やはり第2楽章であった。

 このモーツァルテウム大ホールの2階席は、換気が悪い。休憩や終演になってドアが開け放たれると、外の空気が流れ込んで来て、ほっとさせられる。とはいえ、街はまだ暑い。

2017・8・4(金)ザルツブルク音楽祭(1)モーツァルト「皇帝ティトの慈悲」

      フェルゼンライトシューレ 7時

 前夜遅くザルツブルクに入る。1年ぶり。

 夏のザルツブルク音楽祭も、以前とは随分様変わりした。かつてのように熱心な聴衆が集まって沸騰するという雰囲気も、だいぶ薄れてしまったようである。
 演目も昔よりだいぶ地味になっているし、出演者にも、所謂大物の数が少なくなった。レパートリー編成もやや散漫な感になって来ている。しかも近年は具合の悪いことに、複数のめぼしい上演が同時間帯に組まれていたり、公演の種類が少なくなっていたりするため、「うまく組み合わせて1日に2,3公演」という方法が採りにくくなっているという傾向がある。

 ある毒舌家の、マニア向けの旅行エージェントの言によれば、「今や夏のザルツに行くのは金持かバカ」なんだそうだ。私は金持ではないから、そうするとバカということになるか。
 ただ、それでも唯一捨てがたいのは、この山間の町の空気である。こればかりは独特の爽やかさがある━━といっても、今日のような蒸し暑さでは、その唯一の魅力も半減してしまうが。とにかく今日も、この劇場周辺、観光客が多いという雰囲気が横溢。音楽マニアで沸き立つという雰囲気はほとんど感じられなかった・・・・。

 それはともかく、折角観に来たのだから、というわけで。
 モーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」。今回は7月27日から8月21日までの間に7回上演されている。今夜が3回目の上演。
 今をときめく注目の指揮者テオドール・クルレンツィスがムジカエテルナ(musicAeterna)の管弦楽団と合唱を率いて登場し、ピーター・セラーズが演出、ゲオルギー・ツィーピンが舞台装置を担当━━というから期待していたのだが、しかしどうもこれは、満足できかねる類のものであった。

 クルレンツィスは、CDでダ・ポンテ3部作などを聴くと、ニュアンスも細かく、颯爽としたテンポ運びの演奏で大いに魅力的に感じられるのだが、今回は、主人公が━━それは主にセストのアリアの部分でだが━━苦悩と迷いに陥る個所では極度にテンポを落し、フレーズごとに長い長い間をあける(こういうテを使う指揮者はアーノンクールの亜流に結構多い)ことが目立つ。特に第2幕前半ではそれが多用され、音楽の流れが停滞することも多くなり、些か苛々させられた。

 ただ、追い込みなどでのテンポと勢いの良さは、彼ならではのものがある。
 それに今回の上演では、原曲の中にモーツァルトの他の作品が挿入されることが多く、これが少なからぬ面白い効果を出していた。たとえば、第1幕終り近く、テロを決意したセストが仲間と爆弾を装備する場面(パントマイム)では「アダージョとフーガ」の抜粋が演奏される。また「皇帝ティトがセストに撃たれて重傷を負い、群衆がその快癒を祈る」という読み替え設定の第2幕冒頭では、「ハ短調ミサ」の「キリエ」が挿入されて歌われる。あるいは、最終場面で「ティトが死去」すると、原曲が完奏されたあと、「フリーメイソンのための葬送行進曲」の主題と合唱が付加されて演奏され、そして暗転して終る━━といった具合である。
 おかげで上演時間はかなり長くなったが、それ自体は、巧いアイディアだったと思う。

 ピーター・セラーズの演出は、何とも期待外れだ。セリで上がり降りする若干の物体だけのゲオルギー・ツィーピンの舞台装置も同様である。このフェルゼンライトシューレの広い舞台は、全く活用されていない。どこか小さな劇場でやれば、もっとまとまりもよく見えたろう、と思えるような構図なのであった。ちなみにこのプロダクションは、ベルリン・ドイツオペラ及びアムステルダム・ナショナル・オペラとの共同制作である由。

 また、セラーズであれば、原作の台本に見られる身勝手なヴィッテリアと、ただ彼女への恋のために皇帝暗殺まで図ろうとする愚かなセスト━━という構図の中に、もう少しいろいろな高貴なコンセプトを━━たとえばセストにブルータスの役割を与えるとかいったような━━注入させてくれるかと思ったのだが、これは、期待する方が悪かったようだ。

 かつての才人セラーズはどこへ行ったのか。演技的にはいつものように、非常に精緻微細な動きを見せてくれるが、それでも登場人物がやたらハグを繰り返すのみでごく月並みなものに留まっていた。カーテンコールには彼も現れたが、すこぶる御機嫌なようで、例の通りはしゃぎまくっていた・・・・。

 歌手陣は手堅い。最も映えたのは、セストを歌い演じたマリアンヌ・クレバッサで、完璧なズボン役を披露、歌唱と演技も充分なものがある。
 その他の人々は、ラッセル・トーマス(皇帝ティト)、ゴルダ・シュルツ(先帝の娘ヴィッテリア)、クリスティーナ・ガンシュ(セストの妹セルヴィリア)、ジャニーヌ・ビック(セストの友人アンニオ)、ウィラード・ホワイト(護衛隊長官)といった顔ぶれ。
 なお、第1幕終り近くのセストのアリアで、オブリガートのバセットホルンを舞台上で演奏しただけでなく、セストとともに演技し、時には倒れた格好のまま吹いてみせていた奏者の「快演」を讃えたい。

 10時15分演奏終了。ホール内も、戸外も、蒸し暑い。

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