2017-06

11・30(金)オスモ・ヴァンスカ指揮読売日本交響楽団

  サントリーホール

 ヴァンスカのベートーヴェン・チクルスが始まっている。
 1週間前の「1番」と「2番」が、巷では好評嘖々だ。その余勢を駆って、今日は「英雄」。

 16型の弦でのノン・ヴィブラート奏法、歯切れのよい短い音価でたたみこむ快速テンポ、という演奏は、ふだんやっていないスタイルだから、読売日響も大変だったであろう。かなりギリギリしぼられたそうである。
 だが、その努力は流石に見事な結果を生んだ。第1楽章提示部では、速いテンポのスタッカートが合わなくてハラハラさせたこともあったが、反復の際には早くも立ち直った。そして、第2楽章以降では驚異的なほど完璧に近いアンサンブルを示し、音楽も激しい昂揚に達して行った。これは、まさに鮮やかな「英雄」である。
 このチクルスは期待できる。ただし、次は2008年11月だそうだが。

 前半には、シャロン・ベザリーが実に多彩な音色で、彼女のためにカレヴィ・アホが作曲した「フルート協奏曲」を演奏した。35分ほどかかる長い曲だが、この北欧の雰囲気はなんともいえぬ魅力である。

11・29(木)デプリースト指揮東京都交響楽団
 「アレクサンドル・ネフスキー」

  サントリーホール

 プロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」は、先月、ラザレフと日本フィルが色彩的な快演をやってのけたばかり。
 それとは全く色合いは違うが、今日もまた魅力的な「ネフスキー」を聴くことができた。

 実に切込みの鋭い表現である。響きも明快で、リズムも歯切れよい上に、何よりカンタービレが見事で、旋律の美しさが浮き彫りにされていたのがうれしい。色彩的な魅力ではラザレフに一歩を譲ったけれど、全曲をがっちりとまとめた構築力という点では、こちらの方に分があるだろう。
 「氷上の戦い」では、デプリーストは比較的速いテンポで戦闘場面の描写を開始したが、そのあとさらにテンポが速められていくあたりの呼吸もことのほか素晴らしく、後半に入って緊迫感が緩まなかったのも、彼の腕の冴えである。ただその一方、それを受けて始まる「死せる野原」での深沈たる悲哀感が比較的淡々と進められたのは、デプリーストの全曲構築上のバランス感覚ゆえとは思うが、物足りなく感じられるところもあった。
 
 総じてこの「ネフスキー」は、淡彩かつ剛健な演奏である。しかしこれは、先日の「イワン雷帝」に続くこのコンビの快演というべく、この路線をもっとたくさん聴きたかった、としみじみ思う。残念ながら、デプリーストは来春で都響のポストを退任することになっている。

 合唱は、二期会合唱団。ラザレフの時の東京音大に比べ、人数も3分の1程度(80人位?)であるにもかかわらず、さすがに量感も迫力も、前者をはるかにしのぐ。発音にメリハリがあり、したがってリズム感も明晰そのものだから、音楽に生き生きとした躍動が生まれる。最後のクライマックスも、今回は充分に決まった。
 メゾ・ソプラノのソロは竹本節子。なおプログラムの前半には、スクリャービンの「夢想」というめずらしい小品と、モーツァルトの「プラハ」が演奏された。

11・28(水) クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル 
「ミサ・ソレムニス」

  サントリーホール

 プレ・トークでアルミンクは、ベートーヴェンの「教会に対する疑問の念」を、実際に曲の一部を聴かせながら指摘していた。「クレド」の歌詞を、あるパートが教条主義的に単調に歌っていても、その他のパートは全くそれに同調していない、という具合に。
 指揮者が語るこのようなアナリーゼは、実際の音符の動きに即して分析しているため、非常に面白い。沼尻竜典にしても大野和士にしても、ゲルト・アルブレヒトにしても、すばらしい話が多かった。指揮者だけではない、ポリーニの話もそうだった。

 今日の「ミサ・ソレ」でのオーケストラは10型編成。引き締まって瑞々しく、内声部が織り成す精妙な交錯も明晰に聞き取れて、なかなかに新鮮な演奏であった。
「アニュス・デイ」の後半、アレグロ・アッサイの戦闘的な個所でアルミンクが採ったドラマティックな表現には驚かされたが、これは若い頃のカラヤンがレコードで行なっていた手法にも似ていて、すこぶる迫力にあふれていた。さすが、オペラの指揮でもいいものを聴かせるアルミンクらしいセンスである。
 その勢いは326小節以降のベートーヴェンらしい豪快な爆発の個所でも発揮されはじめたが、残念ながらこちらは340小節以降でなぜかトランペットが全然聞こえず、ティンパニの8分音符の轟きのみになってしまい、何だかわからずといった感。

 ソロはエリン・ウォール、池田香織、マティアス・サカリアセン、福島明也。合唱は栗友会。この合唱団、もう少しリズム(言葉)にメリハリがあれば・・・・。
 

11・26(月)ドレスデン・オペラ「サロメ」

  東京文化会館
 
 ファビオ・ルイジが指揮して、日本公演の「有終の美」を飾る。

 シュターツカペレ・ドレスデンの演奏もまず良かった。ルイジはこの「サロメ」の音楽を、他の指揮者のように絶叫怒号させることはしない。この曲がこれほど叙情的な要素の強いものだったのかと、改めて認識させられたほどである。
 配役にもカミッラ・ニールンド(サロメ)、アラン・タイトゥス(預言者ヨカナーン)、ヴォルフガンク・シュミット(ヘロデ王)、ガブリエレ・シュナウト(ヘロディアス)といった腕利きが揃い、音楽的にもバランスのいい舞台を創り上げていた。
 
 演出は、春のドレスデン上演の際とほぼ同じ(→3月17日)。
 とはいえ、サロメの踊りの全くない「7つのヴェールの踊り」の場面は、やや変更されていたような気もする。あの時には、上記4人のエロティックな関係がもう少し具体的に描かれていたという記憶もあるのだが、定かではない。
 だがあのラストシーンは、どんなものだろう。ドレスデン上演の際には、サロメが白布を少し持ち上げていて、斧を手に駆け寄ったヘロデがそこになにか異様なものを見て(観客席からは見えない)恐怖のあまりのけぞる、という演出になっていたと記憶する。その点、今日の舞台では、ヘロデがなぜ斧を取り落として立ちすくむのか、あまりよくわからなかったのではないか。

 今回の一連の日本公演では、ルイジが振った時と、他の指揮者たちが振った時との間に、かなり演奏上のギャップがあった。
 裏の事情もいろいろ聞くけれども、とにかく一番ワリを食ったのは準・メルクルだったようである。芸術の殿堂みたいなイメージのゼンパー・オーパーにも、複雑な内情があるということ。指揮する演目を強引に変更されたメルクルには気の毒なことになり、その分、音楽総監督ルイジは点を稼いだ。といって、ルイジを非難しているわけではないのだが。

11・25(日)こびと~王女様の誕生日

 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール (マチネー 2時)

 己の姿を一度も鏡で見たことのない「こびと」が、無邪気で惨酷な王女から鏡を見るように仕向けられ、自らの醜い姿に衝撃を受けるという、オスカー・ワイルド原作、ツェムリンスキー作曲の一幕ものオペラ。
 そのラストシーン、こびとが白いバラを握りしめ、「(私の醜さは)嘘だと言ってくれ」と王女に嘆願しながら死んで行く場面は、ツェムリンスキー自身をソデにしたアルマ・マーラーへの怨念が渦巻いているようで、何度観ても暗鬱な気分にさせられる。

 若杉弘の後任として今年4月、びわ湖ホールの芸術監督に就任した沼尻竜典が、新しく「沼尻竜典オペラセレクション」というシリーズを開始した。その第1作として選ばれたのが、この「こびと~王女様の誕生日」である。近代・現代音楽のレパートリーに最大の強みを発揮する沼尻としては、当然の選択だろう。
 ましてこのオペラは、彼が2001年3月に東京フィルの「オペラコンチェルタンテ」でも指揮し、見事な出来を示した作品でもあるからだ。
 
 今回の演奏もきわめて聴き応えのあるもので、福井敬(こびと)、高橋薫子(侍女ギータ)という、6年前にも同じ役を歌っていた2人が実に良い味を出した。福井は、以前ほどには声の艶を感じさせないが、それでも熱演歌唱賞ものである。高橋の安定した軽快な歌唱は、いつ聴いてもすばらしい。
 ただし吉原圭子(王女)は、はしゃぎ過ぎの性格表現が少し裏目に出たか。京都市交響楽団にも、もっと緻密な演奏を望みたい。
 
 演出は加藤直。
 王女にただ冷酷さと惨酷さを求めず、無邪気で冗談好きな性格がこびとを傷つける結果を生む、という設定にし、またギータには単に同情深さだけを求めず、どこかにこびとを突き放すような冷たさをも感じさせる、といったように、女の複雑な性格構造を描き出そうとした・・・・と推察できる個所もいくつかあったのだが、全体としてそれが明確に感じられなかったところからすると、どうやらそれは、こちらの勝手な思い込みかもしれない。

 いずれにせよ、主人公のこびとを含め、演技には細密精緻な心理描写があまり見られず、中途半端に様式的なものへの妥協にとどまった感がある。2年前に二期会が上演した「フィレンツェの悲劇」におけるカロリーネ・グルーバーのリアルで生々しい「演劇的」演出を思えば、ツェムリンスキーのオペラなら、もっと大胆で先鋭的な試みがあってもいいのではないか。
 日本では、演劇の演出家がオペラを演出する時、どうしてみんな旧来のオペラの手法に妥協してしまうのか、不思議だ。

11・24(土)東京二期会「天国と地獄」

  日生劇場(マチネー)

 日本語上演。
 
 ジュピターら神々が住む天国は超モダンな洋風リビングに、冥界の大王プルートの邸は中国風にしつらえられている。地上ではユーリディス(澤畑恵美)が和服姿で、プルート(高橋淳)が火消し袢纏に入れ墨で登場、地獄ではいずれも中国服姿といった趣向(演出&美術・佐藤信、衣装・横井利彦)。
 さりとて、特に新機軸が打ち出された演出というわけでもない。二期会は1980年代初期に萩本欽一&なかにし礼の演出で「天国と地獄」を制作しているが、あれよりは簡明で洗練された舞台になっていた。

 オペレッタの日本語上演というのは解りやすく、それなりの利点が大いにあるのは事実としても、より高い水準を求めるためには、難しい問題がいろいろ付きまとう。
 たとえばセリフ回しの問題、演技の問題、芝居としての構成の問題、歌詞が聞き取りやすいかどうかの問題など。
 残念ながら、現段階では、いずれも中途半端であるとしか言いようがない。演技について言えば、新国立劇場などにも助演役でよく出演している原純のような芝居巧者を脇役に起用すれば、少しは舞台が引き締まるだろうにと思う。それに今日の歌手の中で明快に言葉が聞き取れたのは、高橋淳と久保和範(ジュピター)、羽山晃生(スティックス)のみ。合唱は歌詞がほとんど判らなかった。

 指揮は阪哲朗、管弦楽は東京響。セリフから音楽への受け渡しはうまく行っていたと思うが、残響の極度に少ない劇場のピットで、しかも小編成のオケが洒落た味を出すのはつくづく難しいものだと考えさせられる。

11・23(金) マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

  サントリーホール 6時

 前半は、川崎の時と同じく、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番。サラ・チャンが例の独特のヴィブラートを駆使した音色で、体当たり的な激情を迸らせた。こちらがたじたじとしてしまうほどの強烈さだが、若さの特権のようなこの個性は実に素晴らしい。
 
 後半はブルックナーの第7交響曲。第1楽章では、マリスはやはりブルックナーには合わないのかなという気もしないではなかったけれど、第2楽章以降ではそんな危惧も払拭されてしまった。アダージョ楽章での弦の豊かな響きと、最後の3小節の和音の均整の取れた調和は絶品だったし、スケルツォ楽章での追い込みも凄まじい。
 フィナーレの最後、全管弦楽が嵐のようなクレッシェンドを開始するその発端となるのは、ほぼ6オクターヴ以上を包む弦のppのトレモロだが、それが今回ほど巨大な空間的拡がりを以って響いたのも滅多にないことであった。
 このオーケストラは、やはり巧い。

11・23(金)ジェイムズ・デプリースト指揮東京都交響楽団
ワーグナー・プロ

  東京芸術劇場(マチネー 2時)

 デプリーストのワーグナーものはこれまであまり聴いたことはなかったが、予想通り禁欲的に引き締まった、あえて言えば引き締まりすぎた(?)サウンド。「ジークフリートのラインへの旅」前半、都響の弦がこれほど大きなスケールでクレッシェンドしたのは久しぶりに聴いた。とはいえ、「冷静なワーグナー」は、やはりどこかに欲求不満を残してしまう。
 曲は、「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、「ヴェーゼンドンクの5つの歌」(ソロは佐々木典子、好演)、「神々の黄昏」からの3曲。

11・22(木)ズネニェク・マカル指揮チェコ・フィル「わが祖国」

  すみだトリフォニーホール

 テレビの「のだめカンタービレ」のヴィエラ先生役ではマカル、今回の招聘元の表記もマカル。オクタヴィア・レコードでは「チェコ語読みではこうだ」と言ってマーツァルを押し通す。ご本人は以前は英語読みで「マカルと呼んでくれ」と言い張っていたが、最近では「どっちもいいよ、もう」と諦めたような雰囲気も。しかし何年か前、パーティで挨拶したチェコ大使館の人は「マエストロ・マチャル」と発音していた。

 そのマカル、チェコ・フィルの首席指揮者は今年夏にすでに退いているとのことだが、今回のツァーはコンビでやってきた。「わが祖国」となれば、チェコの第2の国歌のような作品といえようが、本当に味のある、雰囲気豊かな演奏を聴かせてくれた。これはもう、理屈では解明できない「お国もの」の強みだろう。
 「モルダウ」のあの有名な主題など、まさに懐かしさを感じさせる「歌」そのもので、あたかも歌詞をつけて語っているようなリズムとアクセントで演奏されているのが興味深い。オーケストラのアンサンブルはそれほど緊密ではなく、かなり自由な感興にあふれたものだが、しかし見事に呼吸の合った表情も随所に備わっていて、その自由さが綿密なリハーサルの上に組み立てられたものであることがわかる。激しいデュナミークも、スコアの指定に忠実に沿ったものだ。
 「ヴィシェフラド」での壮絶な推進力、「シャールカ」や「ボヘミアの森と草原より」「ターボル」などでの劇的な迫力など、全体に激しい気魄にあふれた演奏であったが、それゆえに高揚した気分が続きすぎたあまり、「ブラニーク」の大詰めの個所に最終の頂点としての効果を発揮できなかったきらいがなくもない。その部分は、豪壮ではあったものの、少々大味な演奏になっていたのである。だが、よい作品だと聴き手に思わせる、聴き応えのある「わが祖国」であった。
音楽の友08年新年号演奏会評

11・21(水)ナタリー・デセイ

  東京オペラシティコンサートホール

 デセイの「オペラ・アリア・コンサート」3回のうちの最終日。満席。
 
 イタリア・オペラでまとめたメイン・プログラム。ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」の「シチリアーナ」と、「椿姫」の「ああそは彼の人か~花より花へ」、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」から2曲。ただしアンコールは、マスネの「マノン」の「ガヴォット」、プッチーニの「ラ・ボエーム」から「ムゼッタのワルツ」。

 テクニックもさることながら、その表現力の凄さには舌を巻かずにいられない。
 ほんの一例だが、「ルチア」の「あたりは沈黙に閉ざされ」の歌い出しの個所での、寂寥感と不安を一瞬にして感じさせる神秘的な雰囲気から、真の愛の訪れを意識しつつ次第に気持が晴れていくまでの表現の変化のすばらしさだけでも記憶にとどめておきたい。
 歌詞に応じて声の表情が、何段階かにわたって、虹の色のごとく変わっていく。感情の変化が、完璧に声で表現されているのだ。それはまた、シェーナ~カヴァティーナ~カバレッタという「形式」と、ヒロインの感情の変化とを寸分たがわず一致させる、という演奏上の大わざでもある。かりに歌詞を全く知らずに聴いたとしても、このアリアの内容は大方理解できてしまうだろう。名歌手の歌というのは、そういうものなのである。まさに、オペラの「音楽」の醍醐味ここにあり、だ。

 なお「狂乱の場」で、ドニゼッティの原案にあったグラス・ハーモニカ(今回はそれにそっくりな音色のヴェロフォン)が、フルートの代わりに使用されていた。そのまろやかな音色とソプラノの声とが交錯しあうさまは、聴き慣れぬという違和感はあったものの面白いことは事実で、貴重な機会でもあった。
 
 協演はエヴェリーノ・ピド指揮の東京フィル。ロッシーニやヴェルディのシンフォニアや序曲などを数曲演奏した。だがこのオーケストラ、オペラの時になるとどうしてこう、スカスカで痩せた音の演奏をするのやら。

11・20(火)ドレスデン・オペラ「タンホイザー」(準・メルクル指揮)

  東京文化会館

 準・メルクルの指揮に替わっての2日目。
 先週のガボール・エトヴェシュの時には惨憺たるものだったオーケストラも、流石に復調していた。粗っぽいクラリネットも今日はまずまずだったし、弦のpp での持続音のふくよかさなどでもこのオーケストラらしい味を出していた。
 ただ、演奏全体に、余情というか、情感というか、そういったものが全く感じられず、音楽が終始乾いていたのがなんとも不思議だ。シュターツカペレは本来こんな演奏をするオケではないし、メルクルもこんな音楽をやる指揮者じゃない。喧嘩でもしたのか? オーケストラ・ピットももっと上げてもいいと思うのだが、如何なものか。

 ちなみに今回のスコアは、今年5月ドレスデン上演の際と同様、パリ版を基本に、第2幕の一部にドレスデン版(ワルターの歌を復活)を挿入したものが使用されていた。第2幕での合唱のパートの一部を除き、基本的にノーカットで演奏していたことは、まず良心的な姿勢というべきだろう。

 ギャンビル(タンホイザー)は、最近よくも悪くも、往年のヘルデン・テナー的な歌いぶりに近づいてきたような気がする。つまり、リズム感が甘くなり、野放図な歌唱になってきたということ。
 もっとも今日は、主役歌手のみなさんは何故かお疲れのようで、このギャンビルも、タイトゥス(ヴォルフラム)も、中一日で登板したシュヴァンネヴィルムス(エリーザベト)も、それからシュナウト(ヴェーヌス)も、なにか所々で歌唱が不安定になる。
 その中では、これも中一日登板のリドル(領主)が、オックス男爵の時とは別人のごとくビンビン響く声で気を吐いていた。とはいえ彼のパートのところはオーケストラが薄いので、ある程度割引して考えなくてはなるまいが。

 しかし歌手たちは、みんな演技の表情が細かい。歌合戦の場など、双眼鏡でアップで観ていると、その芝居の巧さはド迫力である。ヴォルフラムの歌にエリーザベトが退屈しきってうんざりする表情、女性たちがそれぞれ歌に反応して見せる表情など、見事なものだ。
 そういえば、エリーザベトが自らヴォルフラムの剣で手首を切り、死を選ぶくだりは、至近距離かオペラ・グラスで見ていないと判然としない個所だが、ここは先日のニールンドよりも、今日のシュヴァンネヴィルムスの方が明確に演じていたように思われた。
 一方、タイトゥスの泰然としたヴォルフラム表現は、私の考えでは、どうも変化に乏しくて面白みがない。というのは、今年5月のドレスデン上演で歌っていたマーカス・バッターの、甚だしく気弱で優柔不断で、エリーザベトの前に出ると常に取り乱してしまうヴォルフラムという表現が実に印象深かったからでもある。同じ演出でも、演じる歌手によってこうも異なるという見本。どっちがコンヴィチュニーの原案か知らないけれど、こういうことがあっていいものなのか? 

11・19(月)ギドン・クレーメル&クリスチャン・ツィメルマン

  東京オペラシティコンサートホール

 いずれ劣らぬ名手2人、というよりは、無双の超個性派同士の対決、というべきか。
 ブラームスのソナタ第2番と第3番、それにフランクのソナタ。

 一つ一つの音符やフレーズに、これまで聴いたこともないような表情が付与され、全く別の旋律に聞えてしまう時さえある。特にフランクでは、レガートのフレーズがスタッカートのアラ・マルチャに変化してしまうこともあったくらいだ。だが、今にもデフォルメされるのではないかというギリギリの瀬戸際を進み続けるような演奏の、そのスリルの快さ、面白さは、たとえようもない。ソロの個所になると、時にどんどんテンポが遅くして、いつものスタイルで音楽を分解し始めるのではないかとハラハラさせるツィメルマン。かたや変幻自在の音色とデュナミークと表情で聴き手をドキドキさせるクレーメル。およそデュオなど成り立つまいというイメージのこの2人が、しかし一緒に合わせる個所では、おのおのの個性を主張したままで、完璧に合わせてしまう。
 絶対に退屈させない演奏会とは、こうしたものを言うのだろう。

11・18(日)ドレスデン・オペラ「ばらの騎士」初日

  神奈川県民ホール

 うれしいことに、ファビオ・ルイジ指揮のオーケストラは、先日のエトヴェシュ指揮の「タンホイザー」の時とは別の団体のような素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
 別のオーケストラ? いや、これこそが本来のシュターツカペレ・ドレスデンだ。この間のは、一体何だったのか? 
 ともあれ、もしこれ以上の美しく瑞々しい響きを求めようとするなら、彼らの本拠地ドレスデンのゼンパー・オーパーへ出かけ、あの劇場の音響効果の中で聴くしかあるまい。第2幕でその実力は全開し、第3幕大詰の三重唱と二重唱でそれは最高潮に達した。唯一気になるとすれば、クラリネットがしばしば不思議に大きな音を出すものだ、ということ。

 先日のウェルザー=メストとチューリヒ歌劇場のそれと比較すると、オーケストラの表現力と音色に関しては、いずれもそれぞれの良さがあり、兄たり難く弟たり難し、というところか。
 歌手陣は今回やや小粒の印象を免れず、クルト・リドル(オックス男爵)、アンケ・ヴォンドゥンク(オクタヴィアン)、森麻季(ゾフィー)ら、いずれも声量が大きくないため、たっぷりと拡がるオーケストラに声が消されがちだったのは残念だが、それでもよくやっていたし、演技も充分だったと思う。
 アンネ・シュヴァンネヴィルムスも、元帥夫人として成功の域であろう。大詰の場面で、ファーニナルに「若い者はみなこうなのかね」と問われ、「ja, ja」と答える(というより、呟く)瞬間は元帥夫人の見せどころだが、そこでの彼女の目の動きには実に微妙で複雑な心理が表現されており、見事といってよかった。
 もっとも、そういうところはオペラグラスを活用しなければ判らない。私は双眼鏡を用意して、主役でも脇役でも、要所での微細な演技を観察する癖がある。だから、ただ突っ立って両手を拡げるだけの演技しかできない歌手を見ると、この上なく腹立たしい気持になる。その点、独墺系の歌手たちは、実に芝居が巧い。

 ウヴェ=エリック・ラウフェンベルクの演出は、微に入り細にわたり理詰めにできていて、かのミヒャエル・ハンペのそれを思い起こさせる緻密な舞台である。いわゆる「芝居」としての性格を完備した演出であって、私はこういうタイプは非常に好きだ。

 クリストフ・シュビーガーの舞台装置は、かなり写実的なものである。今年3月にドレスデンでシュトラウス・シリーズに入り浸った時にはスケジュールの都合で観られなかったこのプロダクションを今回初めて目にし、第1幕の舞台装置が以前に写真か何かで見たような光景に似ているなと訝ったが、ブックレットの岩下真好氏の文を読み、これがドレスデン初演時のアルフレート・ロラーの舞台スケッチをもとにしたものだと判って納得。旧い邸宅の中で近代の物語が展開するという仕組みで、面白い。ただし第2幕以降は少し別の設定になる。

11・17 マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

  ミューザ川崎シンフォニーホール 6時

 マチネーが4時少し前に終ったあと、山手線で品川へ出て、東海道線に乗り換え、川崎へ。正味45分程度。早い。

 先日、ゲルギエフ指揮する東京交響楽団の演奏を聴いた時には、このホールの巨大な音響空間を完璧に満たすのは、やはりよほどのオーケストラでなければ至難の業なのではないかと改めて思ったのだが、今日のバイエルン放送響は、マーラーの第5交響曲でそれをいとも易々と達成してしまっていた。しかもそれは大音響の個所だけではなく、第4楽章(アダージェット)での最弱奏の時にさえ、そのたっぷりとした弦の響きがホールをいっぱいに満たしていたのである。単なる物理的なものとは異なるこの音楽の大きさは、一体何処から生まれてくるのだろう。

 私の好きなオーケストラの音、つまり厚みのある重量感と、内声の精妙で明晰な動きとを、ともに備えた音。それが画然と堪能できるホールは、日本にはそう多くはないが、このミューザ川崎では、卓越したオーケストラの場合には、それが可能になるようだ。もっとも、聴く席の位置による。私の好きなのは3階席正面。ここがいちばん手頃だろう。もっとも席の位置というのは、聴き手の好み次第だが。
 

11・17(土)ジュリア・ジョーンズ指揮読売日本交響楽団

  東京芸術劇場 2時

 英国出身の美女指揮者ジュリア・ジョーンズは、2年前にウィーン国立歌劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を指揮していたのを聴いたことがある。きびきびした指揮ぶりだったが、オーケストラの演奏の方はそれほどきびきびしていなかったような記憶もある。
 長身でスラリとして、カッコいい人だ。それにしても、いま広く活躍している女性指揮者は、何故みんなこう、同じような体型をしているのでしょうね。そういうスタイルでないと、人気が出ないのかしらん。
 皮肉屋で有名だった往年の名指揮者ビーチャム卿が、こう言ったそうだ。「女の指揮者は困る。彼女が美人だったら、楽員は気が散って演奏できまい。その逆だったら、ますます演奏できまい」。

 で、今日の読売日響は、少し気が散っていたんではなかろうか。どうもいつもより、演奏が少し散漫で、集中力に欠けているような感じもあった。マチネーだったせいか?
 プログラムは、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、ブロンフマンをソリストに迎えてのベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」、ワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」、R・シュトラウスの「死と変容」。
 このうち1曲目と、アンコールでのワーグナーの「ローエングリン」第3幕前奏曲が比較的引き締まった演奏だったのは、ふだん慣れている曲だったからか。
 「葬送行進曲」でのジョーンズの速めのテンポには、あまり共感できない。このテンポだと、ディミヌエンドの個所のリズムが極端に軽くなり、葬送のイメージどころか、まるで踊るような足取りに化けてしまうからだ。だが世の中には、こういうテンポを採る指揮者の方が多いのだ。なお、今日のこの曲のエンディングは、もちろん演奏会用ヴァージョンだが、金管群を除外した、風変わりな編曲だった。

11・14(水)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団

  サントリーホール

 NHKホールではルイジとシュターツカペレ・ドレスデンが「ワルキューレ」第1幕をやっているが、ゲルギエフの指揮するショスタコーヴィチの「交響曲第15番」を聴きたかったのでこちらを選んだ。12日にもルイジ=ドレスデンの「復活」を棒に振っている。体は一つ、致し方ない。

 そこでマリインスキー管だが、先日の印象と同様。楽員が若返ったせいか、昔より音色が明るくなり、かつての濃い陰影が減少したような気がする。弦の音色には昔にはなかった独特の癖が出ていて(先日1階席で聴いてハテナと思ったのだが、今日2階席で聴いてもやはり同じ特徴が感じられた)これはどうも好みに合わぬ。以前はもう少し艶っぽい響きだったのだが。

 チャイコフスキーの第2交響曲「小ロシア」が、力感に富んだ構築的な演奏で轟然と終ったあと、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」が、きわめて野生的な気魄を以って演奏された。ゲルギエフは、以前からプロコフィエフをラディカルな作曲家ととらえているようである。さしずめこの日のプログラムでは、チャイコフスキーをロシアの古典作曲家として、一方プロコフィエフをモダンな存在として、両者を対比してみせる、という解釈なのかもしれない。
 ソロはイェフィム・ブロンフマン。ピアノが小さく見えるほどの巨躯(実際はそれほどの巨漢でもないのだが、舞台では不思議に大きく見える人だ)を、最強奏の時には躍り上がらせ、「決め」の瞬間には椅子から後方へ転げ落ちんばかりにして、猛然と豪快な演奏を繰り広げる。世間並みの演奏なら軽妙洒脱なイメージになることの多いこの曲が、これほど豪壮に語られたのもめずらしいのでは。
 
 最後は、お目当ての「交響曲第15番」。これまた凄まじくデュナミークの対比が大きい。重厚かつ壮絶な演奏だったが、フィナーレでは、あの白々とした虚無感のようなものが予想外に少ない。毅然として交響曲の世界に別れを告げたショスタコーヴィチ、といったイメージになった。

11・13(火)ドレスデン・オペラ「タンホイザー」

  東京文化会館大ホール

 ザクセン・ドレスデン州立歌劇場の来日公演、「タンホイザー」の2日目(東京初日)。

 ハンガリーのベテラン指揮者ガボール・エトヴェシュが指揮した。この人、CDでも出ているライヴの「パルジファル」を聴いた時には悪くないと思ったが、今日初めてナマで聴いて、わけが分らなくなった。これほどガタガタでバランスの悪いシュターツカペレ・ドレスデンの演奏は、かつて聴いたことがない。特に木管の粗さといったら、呆気に取られるほどだ。しかし第1幕が終ると同時に飛んだ大ブーイングが効いたのか、招聘マネージャーが劇場側に注意を促したのが効いたのか、とにかく第2幕からは何とか持ち直した。それでも、今年3月にドレスデンに入り浸ってオペラを聴いた時の演奏に比べると、その水準には天と地ほどの差が感じられる。今回のオーケストラは、一体どんなメンバーが来ているのだろうか。
 ともあれ、このドレスデンの「タンホイザー」には、おなじみ準・メルクルが指揮する2回の公演が、このあとにある。そしてこの歌劇場の総帥ファビオ・ルイジの指揮する「ばらの騎士」と「サロメ」も、これから始まる。それに望みをかけよう。

 演出は、ペーター・コンヴィチュニーだ。先日ドレスデンで観た舞台と基本的に変わりはない。ご興味があったら、アーカイヴの「5月20日」のところを覗いて見て下さい。ただ、第3幕大詰めの場面などは、あの時の方がもう少し美しかったような気がする。幸いに今回は、舞台袖から大きな花がポコンと飛び出すテは使われず、その代わり、葉が生えた杖(救済の奇蹟の象徴)を表わしているような、枝のようなものがヌッと突き出るだけだ。しかし、これとて随分奇異な光景ではある。

 タイトルロールはロバート・ギャンビル、エリーザベトはカミッラ・ニールンド。まず適役だろう。ヴォルフラムはアラン・タイトゥスだったが、この演出の中では少し骨太に過ぎるような気もする。ヴェーヌスはガブリエレ・シュナウトで、ちょっと粗いとことがなくもないが、手慣れた役どころだ。

11・12(月)ワレリー・ゲルギエフ指揮東京交響楽団

 ミューザ川崎シンフォニーホール

 ルイジとドレスデンの「復活」(サントリーホール)はまたいずれ聴く機会もあろうが、ゲルギエフと東響の顔合わせはもう聴けないだろうから、と勝手に決め込んで、こちらに来た。
 ゲルギエフの日本デビューは1984年10月6日、「日ソ音楽家協会設立記念演奏会」でフレンニコフのお供といった立場での指揮だったが、その時に振ったオーケストラが、この東響だった(私は聴いていない)。それ以来、実に23年ぶりの協演ということになるわけで、チェスキーナ女史の口利きで実現したものだそうな。リハーサルも、今回はかなり念入りに行なった由。もっとも、それ以前にスダーンが下振りして準備を整えておいたそうだ。別に悪いことではないだろう。

 プログラムは「ジュピター」と「幻想」。いずれもロシアものでないところが面白い。ゲルギエフ自身の提案で組まれた曲目だそうで、彼としては自らの幅広いレパートリーを示したい意気だったのであろう。
 前者は実にきっちりと整然と、ていねいにまとめられた演奏である。非常に濃密な分厚い音づくりで、第4楽章後半にかけてますます激しく突き進むエネルギーを放出していくところなどが、ゲルギエフらしい特色といえるだろうか。その勢いに煽られてか、フガートの個所などでは若干音色の混濁が聞かれたが、第1楽章展開部でヴィオラ・チェロ・コントラバスがヴァイオリン群を1小節あるいは半小節遅れて追走する声部の動きなどは実に明晰で、東響の弦の好調さを物語るかのようであった。

 「幻想」は、流石に轟くような、豪壮な演奏で、満席に近い会場を沸き立たせた。しかしその一方、合奏の緻密さも見事なもので、特に第1楽章で、弦楽器群が細かいデュナミークの変化を加えながら何度も駆け上がり、駆け下りるくだりなど、演奏が正確に行われればそれだけでベルリオーズの音楽の並外れた魔性が充分に再現されるのだということを如実に証明して見せたと言えるだろう。第1楽章の序奏でも、これだけきっちりと精妙に、しかも緊迫感を保持した演奏は他にそう多く例を見ない。以下の4つの楽章にも共通したことだが、アクセントの強烈さもゲルギエフならではのものであった

 今回聞いたのは3階席正面2列目。音をバランスよく聴くにはいい位置だったが、とにかくこのホールの空間は広い。オルガン横の最上階席の人の姿など、雲煙万里の彼方といった雰囲気だが、音響も何か拡散した印象になってしまう。オケがいかに「悪魔の祝日の夜の夢」で咆哮しても、まだホールには隙間があるように思えて、少しもどかしい気持になってしまうのである。
音楽の友08年新年号公演レポート

11・10(土)尾高忠明指揮札幌交響楽団(マチネー)

  札幌コンサートホール kitara

 福岡からの直行便では3時からのマチネーにぎりぎり、という危険性無きにしも非ずというわけで、早朝小倉を発ち、北九州空港から8時15分のスターフライヤーに乗り、羽田で11時のANAに乗り継ぎ、1時過ぎに札幌に入る。ホテルでシャワーを浴びるくらいの時間は捻り出せる。

 今回の尾高=札響の定期は、ドビュッシーと武満徹を組み合わせたプログラム。
「牧神の午後への前奏曲」で始まり、「ファンタズマ/カントゥス」(ソロはポール・メイエ、相変わらずすばらしい)、「クラリネットと管弦楽のためのラプソディ」(同)、休憩後に「遠い呼び声の彼方へ!」(ソロは堀米ゆず子)、最後に「海」。
 極めていい流れの曲目編成だと思う。同質にして異質、共に精妙かつ瑞々しい感性が全く異なった形で立ち現われている二人の作品が、それぞれに水の流れの形態を変えつつ、しかも一つの清流として美しく流れて行く。それは不思議な快さであった。

 私は、この日の尾高と札響の演奏を聴いているうちに、ドビュッシーと武満とが並列に置かれているのでもなく、もちろん武満をドビュッシーの後継者として位置づけるものでもなく、むしろ武満の音楽が基本に置かれ、そのパースペクティヴを通して見たドビュッシーの音楽がそこに加わっている、というイメージを感じてしまっていた。
 これは、いうまでもなく尾高と札響が日本人音楽家であり、その演奏もいろいろな意味で日本人演奏家の特質を感じさせていたことからも生まれる印象かもしれない。両者は武満の作品を手がけてすでに充分な実績があり、しかも広く定評がある存在だし、特に尾高はこの日の武満の作品2曲を初演した指揮者でもある。

 「遠い呼び声の彼方へ!」での堀米ゆず子のソロも、この曲を初演した時のアイダ・カヴァフィアンのそれとはかなり趣を異にして、オーケストラに同化した、落ち着いた表情と音色を備えた演奏であった。その日本的ともいうべき淡彩な色合いが、ドビュッシーの「海」にも影を落す。何か曇り空の下の光景を思わせるような、憂いを持った響きだった。
 といってこれは、決してつまらない演奏だったという意味ではない。それどころか、日本の演奏家なら、そのような解釈を採ってもいいはずなのである。「波の戯れ」でのオーケストラ全体の響きの溶け合い、リズムの乗りの良さと推進力、「風と海との対話」でのクライマックスにおける響きの美しさなどは、わが国のオーケストラでは滅多に聴いたことがないほどの水準の高さを示していたのだった。
  北海道新聞11月19日 (掲載は上記の一部)

11・9(金)北九州国際音楽祭最終日 パリ管弦楽団

  九州厚生年金会館 ウェルシティ小倉

 新幹線で夕方小倉に着き、1時間ほどホテルで休息してから、7時の演奏会を聴く。
 10月7日に開幕した音楽祭が、今日最終日を迎えた。会場もほぼ満席、カーテンコールなどでの熱い盛り上がりはさすが南国のお客さんというべきか、これなら演奏者も気分的に高揚するだろう。

 指揮がエッシェンバッハ、ソロはラン・ランという顔ぶれは11月7日の東京公演と同じだが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲が、こちらの音楽祭では「4番」になっている。
 作品ごとにさまざまなスタイルで新鮮なアプローチを試みるラン・ランは、この日もその本領を発揮、息を潜めなければ聞き取れぬほどの弱音と最弱音を、スコアの指定をはるかに超えて多用する一方、第1楽章と第2楽章では、今にも止まってしまうのではないかと思えるほどの遅いテンポを採り、この叙情的な協奏曲から、驚異的な緊迫感を引き出した(先日リリースされたCDとは比較にならぬほど極端である)。あたかも音符の一つ一つを慈しみつつ陶酔に浸るような、時にはデフォルメに近い弾き方さえ聴かれる演奏であり、これだけの強い自己主張を打ち出せる彼は、やはりただものではないピアニストというべきであろう。
 エッシェンバッハもまたそれを愉しむがごとく、第3楽章でのピアノ・ソロの副主題の下のチェロを極度に鋭い響きで演奏させるなど、先鋭的な音色の効果を聴かせてみせた。教条主義的な聞き手や、ベートーヴェンはかくあるべしという先入観に固まった聞き手なら激怒しそうな演奏だが、200年前の名曲に新鮮なイメージを見出したい聴き手には、実に面白いものといえるだろう。

 なおアンコールでは、この音楽祭の独自企画により、ラン・ランとエッシェンバッハがシューベルトの「4手のための性格的な行進曲」第1番を演奏した。これは、けだし「見もの・聴きもの」であった。エッシェンバッハはいうまでもなく、かつては名ピアニストとして鳴らした人であり、またラン・ランにとっても師匠格にあたる人だ。今回は「師弟協演」というわけだが、ピアニストとしての最近のキャリアのせいか、弟子の方が主導権を取り、先生が必死に追いついていくというような雰囲気である。音楽祭企画アドバイザー・奥田佳道さんの話によれば、弾いてくれと頼まれたエッシェンバッハは、「気持の準備はできているが、指の準備ができていない」と言って、必死で練習していた由。

 後半は東京公演と同じ「幻想交響曲」。ホールの音響がドライなため、あまり「パリ管」的な音色は味わえなかったが、その代わり、サントリーホールでの演奏では気づかなかった細かいエッシェンバッハの仕掛けが聴き取れて、これはこれで興味深かった。特に第2楽章後半からはオーケストラのアンサンブルが非常に引き締まり、これがパリ管かと思えるような緊密な合奏になっていったのにも驚いた。アンコールは「道化師の踊り」。

11・8(木)オーケストラ アジア

 トリフォニーホール

 これは「アジア・オーケストラ・ウィーク」ではなく、日本、中国、韓国それぞれの民族楽器によるアンサンブルの演奏会である。

 最初に日本の楽器の合奏団が四世杵屋六三郎/三世杵屋正治郎の「勧進帳」を演奏、続いて韓国の合奏団が登場し金永宰作曲のヘグム(韓国の琴)協奏曲「コンスパジ」を、次いで中国勢が黄貽鈞作曲の「花好月圓」を演奏した。各国それぞれの音楽の違いが如実に出て、実に愉しい。しかも、先に登場した集団は板付きのままなので、各国の民族衣装が百花繚乱と舞台に溢れる結果になる。そのさまは、すこぶる華麗で壮観であった。
 そのあとは3国の合奏団の合同演奏になり、華彦鈞作曲「二泉映月」と、劉文金(この人はこのプロジェクトの芸術監督である)作曲の「茉莉花(ジャスミン)」が演奏された。

 そして後半は、引き続き合同演奏に、各国の民族楽器のソロと歌が入る。秋岸寛久作曲の琵琶協奏曲「祇園精舎」、朴範薫作曲の伽耶協奏曲「伽耶誦」、唐建平作曲の馬頭琴と管弦楽のための「源」というプログラム。合同演奏では、3国おのおのの民族楽器の特徴は薄められたが、ソロ楽器の活躍が見事にお国ぶりを発揮する。特に最後の馬頭琴奏者・那日蘇によるホーミーは、アンコールともども、ド迫力で客席を沸かせていた。
 日本の楽器と作品が「間」を重視するのに対し、中国と韓国のそれは「大石急坂を下る」がごとき勢いを示す。そういう違いも興味深い。

 とにかく、めっちゃ面白い演奏会とはこのことだ。あまり体調が芳しくなかったのだが、聴きに行って良かったと思う。

11・7(水)クリストフ・エッシェンバッハ指揮パリ管弦楽団

  サントリーホール

 今日はパリ管、昨日は国立リヨン管、一昨日はマリインスキー劇場管、その前日はミュンヘン・フィル。これだけの来日オーケストラが、サントリーホールに連日登場している。いずれも九分通り客席が埋まるのだから、考えてみれば、東京という所は、たいしたものである。
 
 ベルリオーズの「幻想交響曲」に、アンコールはスメタナの「売られた花嫁」からの「道化師の踊り」。昨夜のリヨン管に比較すると流石にオーケストラの風格は大きいものがあり、技術的にも優れたところが多いが、しかし総合奏での音色は必ずしもきれいとはいえず、この楽団にして何故このような、と思いたくなるような混濁も時に生じることがある。リピートはすべて行なわれたため、演奏時間も長い。第3楽章では、イングリッシュ・ホルン奏者はステージ袖に登場、暗譜で吹き、また袖に姿を隠して行く。これは音響効果の上でも一風変わった味を出していた。

 前半には、ラン・ランがベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」を個性豊かに弾いたが、アンコールになんとワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」(リスト編曲)をモルト・エスプレッシーヴォに弾き、すっかり舞台を食ってしまった。

11・6(火)準・メルクル指揮国立リヨン管弦楽団

  サントリーホール

 以前にクリヴィヌと来た時に比べ、オーケストラ全体の響きが格段に明るく色彩的になり、ブリリアントでダイナミックなサウンドに変わった。特に弦の音色には爽やかな輝きがある。管ももちろん悪くはないが、やはりフランスのオケだから、やや気儘なところがあるのは致し方あるまい。それでも、ラヴェルのト長調の協奏曲で最初にトランペットが一閃した時の華麗な音色は、さすがフランスのオケだと思わせたものだ。
 
 総じてピアニシモの音色には素晴らしいものがある。協奏曲の第2楽章や「海」の第1曲などは絶品で、メルクルの音色感覚の確かさと、オーケストラの水準の高さを証明していたであろう。「夜想曲」(ドビュッシー)での最強奏部分では音に透明感を欠いて危惧を抱かせたが、最後の「海」ではその傾向は皆無で、驚異的なほどに明晰さを保持した響きを創り出していた。この曲だけ、練習を重ねていたのだろうか。アンコールは「月の光」と「ゴリウォーグのケークウォーク」(管弦楽編曲で聴く機会はナマではめずらしい)。後者ではなかなか洒落た味を出していた。
 メルクルの音楽は、かように美しい音色を持っているが、ただしどこかに抑制され、醒めたところもあり、特にクライマックスに向けて熱狂的に押して行くといった強さは、それほどない。最後の「決め」が意外に呆気ないのは、そのためかもしれない。なお協奏曲でソロを弾いたのはジャン・フレデリックという若いピアニスト。明るく温かい音色で、メルクルのそれとよく合う。

 フランス音楽3曲の前に、細川俊夫の「循環する海」が演奏された。これは3日の大阪での公演で日本初演されたものである。これをザルツブルク音楽祭で世界初演したのはゲルギエフだが、彼もちょうど来日中、それを尻目にメルクルが日本初演するという面白い事態になった。
 大きなクレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返し揺れ動く弦楽器の暗い沸騰は何か恐怖感をも誘わずにおかない。最後は金管楽器奏者たちが作る風の音が遠ざかり、消えるように曲を終結させる。いずれも、「海」のシリーズで細川が多用してきた手法だ。
 以前に比べ変わってきたところといえば、オーケストラのデュナミークが非常に大きくなり、また海鳴りの如き重低音が威嚇するように高鳴ることが多くなった、などの点か。
 細川はこれらの波動を人間の生涯として、また終結をいのちの再生と感じているという。だがどうも私には、このシリーズに共通していえることだが、それが甚だ暗鬱なものに、そして虚無的なところもある無常なものを感じてしまうのである。
音楽の友08年新年号演奏会評

11・5(月)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団

  サントリーホール

 メンバーがかなり入れ替わったのか、若い奏者が多くなったのが目についた。オーケストラの響きも、以前と同じようにまとまりが出てきたのは喜ばしい。全体的に音色が明るくなったように感じられたのだが、これは席の位置のせいもあったか。今回のツァーのプログラムは、すべてロシアもので固められている。

 前半のチャイコフスキーの「冬の日の幻想」は、不思議に几帳面なイン・テンポの演奏で繰り広げられ、それは「ロシアの冬」を感じさせる情感こそ出ていたものの、なにか優等生的で面白みのない表現だった。こちらが気分的に乗らなかったためもあるのか。
 が、後半のラフマニノフの第2交響曲に入るや、やっとゲルギエフ節が炸裂、劇的なデュナミークの対比に加え、テンポも生き生きと流動しはじめた。クレッシェンドとアッチェルランドを自然な流れの中に結合させて巧みにクライマックスへ盛り上げるのはゲルギエフのお家芸だが、それも最高度に発揮されていた。特に豊麗な音色で情感たっぷりに歌い上げられた第3楽章は、圧巻といえたであろう。

 アンコールでは、最初にリャードフの「バーバ・ヤガー」。こういう荒々しい、怪奇な音楽をやると、彼らは実に巧い。2曲目は「胡桃割人形」の「トレパーク」で、これは最近彼らがよくやるアンコール曲だが、ゲルギエフはほとんど腕を動かさず、オーケストラの自主的な躍動にすべて任せて見せるといった調子。その代わり、あのリズムを保持するために、コンサートマスターが獅子奮迅の活躍。

11・4(日)クリスティアン・ティーレマン指揮ミュンヘン・フィル

 サントリーホール

 いよいよ帝王的な風貌になってきたティーレマン。日本での人気も、今や熱狂的なものになってきた。
 今日はブルックナーの「5番」。ワーグナーものやR・シュトラウスものの時とは異なり、パウゼをことさら引き伸ばしたり、テンポを大幅に動かして見せるといった、得意の大芝居を見せるわけではない。その点、ちょっと物足りないところも感じてしまうのだが、しかしそうそうキワモノ的なイメージを彼に対して抱くわけにも行くまい。

 とはいえ、要所に聴かせるテンポとデュナミークの設定などには、いかにも彼らしい凝ったものがある。たとえば第4楽章(H)の直前10小節間でテンポを大きく落し、スコアのpppの指定を極端に強調して、次のコラール主題の登場に向けていやが上にも緊張を強めていくあたりの呼吸などはほんの一例である。全曲冒頭からスコアにある弱音と最弱音が特に強調されて演奏されていたが、これは全管弦楽が咆哮する個所との効果的なデュナミークの対比を作り出していた。

 ただ、こういうことは他の指揮者も行なっていることなのに、ティーレマンがやるとそれが殊更演出っぽく聞こえてしまうのは、必ずしも彼に対する先入観のためだけではないようである。ミュンヘン・フィルの響きは、ちょっと聴いたところではそれほど緻密なものではないけれども、聞こえて欲しい個所はちゃんと浮き出て聞こえるようになっている。スケルツォ楽章の[M]のホルン2本のフレーズなど、普通は聞き逃しがちな個所だが、これがさりげなくオーケストラの中に影のように浮かび上がると、ブルックナーの音楽はいよいよ多彩なものになってくる。
音楽の友08年新年号演奏会評

11・3(土)井上道義「ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏」初日

  日比谷公会堂

 初めてプレイガイドで買ったチケットをにぎりしめ、胸を躍らせてコンサートを聴きに行ったのは、日比谷公会堂だった(あの初心だけは決して忘れまい、といつも心がけているのだが)。その時に聴いたのは、山田和男(一雄)指揮東フィルの「3大交響曲の夕べ」だったが、以来東京文化会館が出来るまでの数年間、実にいろいろなコンサートをあそこで聴いた。初めて見たオペラも、あそこでの二期会の「カルメン」だった。

 その日比谷公会堂に、ほぼ30年ぶりに足を踏み入れた。
 昔のままである。狭いロビーも、レトロな雰囲気の売店も、頭をぶつけそうなロビーの階段の天井も、おそろしく段差のある客席の階段も。トイレだけは見違えるほどきれいになっていた。井上道義がここでショスタコーヴィチの交響曲チクルスをやるなどという突拍子もないことを企画しなければ、われわれはこの古い公会堂の席に座るという体験に、もう永遠にめぐりあえなかったかもしれない。

 ステージ正面奥の反響板は昔のそれの面影をとどめていたが、今回は不思議なことに左右の反響板は設置されておらず、コンクリートの壁と、シャッターとが剥き出しになっていた。コンサートの舞台の景観としては、笑い出したくなるほど殺風景なものである。
 だがそこに、16型編成のサンクトペテルブルク交響楽団(ドミトリエフが率いているサンクトペテルブルク・フィルハーモニーである)と、普通の編成(?)の合唱団(栗友会)が並ぶと、それだけでステージは一杯になってしまう。

 ホールの音響も、昔と変わらない。残響ゼロといっていいだろう。すべて裸の音が伝わってくる。狭いリハーサル室で聞くような音だ。フォルティシモの和音は味気なくそのまま切れるし、最弱音は潤いがない。が、サンクトペテルブルク響の大音量は、このホールの音響の欠点を蹴散らして、見事にショスタコーヴィチの音楽の凄まじさを再現していたのであった。さすがのパワーである。
 プログラムの前半は2階席正面最前列で聴いたが、楽器の一つ一つがナマで迫ってくるようなリアルな音響だった。それはそれで面白いが、昔に変わらぬ椅子の狭さに耐えかね、後半は2階最後方の、昔よく聴いた「安い席」に場所を移し、椅子を3つばかり占領し、足を投げ出して、ペットボトルのお茶を飲みながらという、言語道断な、はなはだ怪しからぬ態度で聴かせてもらった。左右前後、身動きすらできぬという状態で息をつめて聴くよりはるかにマシで、この方が余程音楽に没頭できる。そして、この位置だと、少し音も柔らかくなる。
 いずれにせよこの日比谷公会堂の音響は、各都市のプロ・オーケストラが本拠としている会場と比較して、最も音の悪い群馬音楽センターと広島厚生年金会館のそれにさえ及ばない、という水準だろう。

 今日のプログラムは、交響曲の第1番から第3番まで。井上道義の意欲と情熱と奮闘は涙ぐましいほどで、演奏もそれを反映して、爆発的だった。
 「大変な借金をしてこのシリーズをやったので、援けて下さい」との彼のトーク(チケットは一律3千円なのだ!)もあったため、終演後のロビーのカンパ箱に千円札を投げ込む客も多数。私も貧者の一灯を。

 このチクルスは、12月9日までの間に合計8回行われる。いろいろな意味で、話の種になる。覗いてみては如何に。

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