2017-06

2017・4・29(土)飯守泰次郎指揮関西フィル「ミサ・ソレムニス」

     ザ・シンフォニーホール  2時

 「テトラ大津」はチェックアウト・タイムが正午なので、ゆっくり休めて有難い。だが、大津から直接大阪まで40分ほどで行けるJRの「新快速」に乗ったら、さすが連休初日、身動きも出来ぬほどの大混雑で些か閉口した。
 とにかく12時半頃には福島駅に着く。大阪のオーケストラ公演では、シンフォニーホールでもフェスティバルホールでも、開演の1時間前には開場してくれるので、ホールの中でゆっくりできる。これも有難い。

 これは関西フィルハーモニー管弦楽団の4月定期。桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎が指揮して、ベートーヴェンの大曲「ミサ・ソレムニス」を取り上げた。
 協演は、澤畑恵美、池田香織、畑儀文、片桐直樹、関西フィルハーモニー合唱団。コンサートマスターは岩谷祐之。

 演奏がはじまった瞬間から、なにか不思議な温かさがあふれ出て来るよう。いかにも飯守泰次郎らしいヒューマンな情感に満ちた音楽が、関西フィルから絶えることなく引き出されて来る。こういう演奏はいい。所謂「心より出でて心に入る」というタイプの音楽だろう。
 正直言って、関西フィルのアンサンブルを含めた細部の仕上げについては、残念ながら不満もないわけではないが、━━しかし、たとえそういう不完全さがあったとしても、このような温かい情感が演奏に備わっている場合には、単に機能的で上手いだけの演奏よりも、私はこちらの方を採る。

 それよりも問題は合唱団か。今日の合唱は総じて音量が小さく、しかも歌唱に力強さと量感がどうも不足していて、この作品がもつ宇宙的な巨大さ、強靭な意志と祈りとの葛藤、その祈りの中に湧き立つ激しい感情のうねり━━といったものを表現するには、なんか頼りなかった。
 飯守と関西フィルの演奏が今日はやや抑制されていたようにも感じられたのだが、もしオーケストラがもしベートーヴェンらしく轟いたとしたら、合唱はオケの彼方に霞んでしまったかもしれない。とにかく合唱団には、もう少し頑張ってほしいところである。
 結局、この数日の間に聴いた関西の3つの合唱団の演奏の中では、やはり大阪フィルハーモニー合唱団のそれが抜きん出ていたような気がする。

 その一方で、ソロ歌手陣は見事な出来だった。特に女声2人は驚異的な素晴らしさで、澤畑恵美の優しさとふくよかさにあふれたソプラノと、池田香織の張りのある緊張感豊かなメゾ・ソプラノとは、合唱団の数倍も強い存在感を示し、輝かしく映えていた。指揮者を別とすれば、今日はこの2人で決まり━━と言っていいくらいだ。「アニュス・デイ」での池田のソロなど、圧巻だった。

 4時20分終演。プログラムはこの1曲だけだったが、作品の重量感からすれば、これだけで充分である。

2017・4・28(金)沼尻竜典指揮日本センチュリー響「カルミナ・ブラーナ」

       滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  7時

 快晴温暖な春の日の夕方、琵琶湖畔のなんと美しく快いこと。6時過ぎ、太陽が西の山に消えて行ったばかりで、長い、明るい、華やかな夕焼けが拡がっている。このままずっと、穏やかな琵琶湖を眺めながら時を過ごしたい気もしたが、仕事となればそうも行かず。

 今年の「ラ・フォル・ジュルネびわ湖2017」は、4月29日と30日の開催で、びわ湖ホールの3つのホールとメインロビーを使って、東京のそれと同じように多彩な内容の演奏会が行われる。
 この音楽祭では、本拠地のナントはもちろん、世界各国どの会場にも一つ一つ特別な名前を付すのが特徴だが、今回も、たとえば大ホールは「ニジンスキー」、ロビーは「ベジャール」という具合だ。

 そして、ここならではのユニークな企画は、びわ湖周遊の遊覧船「ミシガン」船上で、80分あるいは60分コースのクルーズとして、金管アンサンブルや「3/4大テノール」のコンサートが行われる、という趣向だろう。ちなみにこの「3/4大テノール」とは、本来は4人からなる「びわ湖ホール・4大テノール」のうち、1人が海外留学中で留守なので、「4分の3」なのだとか。

 今日の演奏会は、その「ラ・フォル・ジュルネ」の「前夜祭」としての開催である。
 びわ湖ホール芸術監督・沼尻竜典が日本センチュリー交響楽団を指揮しての出演。彼はちょうど紫綬褒章を受けたばかりだ。いいお祝いの演奏会になったわけだが、ただし開演前のステージでホール館長がその件につき紹介し、祝いの言葉を述べたほかには、特に何もセレモニーは行われなかった。

 プログラムは、J・シュトラウスの「春の声」と、ここでもまたオルフの「カルミナ・ブラーナ」である。
 前者では石橋栄美が協演し、後者では石橋栄美、藤木大地、大沼徹、びわ湖ホール声楽アンサンブル、ラ・フォル・ジュルネびわ湖「カルミナ・ブラーナ」合唱団、および大津児童合唱団が協演した。コンサートマスターは松浦奈々。

 藤木大地は、先日の大阪フィル定期での「カルミナ・ブラーナ」に続いての登場。今日も見事なファルセットと、歌詞に応じた切なそうな演技を入れての快演である。だが今日は字幕が無く、しかもこの「バーベキューにされている哀れな白鳥の嘆き」という内容についてはプログラムの解説でも全く触れられていないので、初めてこの曲を聞きに来た人たちには、彼の情けなさそうな歌い方と身振りの意味が理解できなかったのでは、と気になる。

 大沼徹も、歌唱の上での演技力も堂に入ったもので、シリアスな内容の個所から酩酊の表現の個所までを実に巧く歌ってくれて、こちらでは聴衆の笑い声も起きた。といっても、大阪での与那城敬のような、隣で意気消沈している「白鳥」のテノールを「大丈夫か?」と覗き込むほどの大芝居はしていない。
 石橋栄美はもちろん「おとなの風格」にあふれた好演だが、このソプラノの歌詞は、演技に移すと少し危ない内容だから、先日の森麻季と同様、落ち着いた挙止で華麗に歌っていたのは言わずもがな。

 メインの大合唱団は、核となるびわ湖ホールの声楽アンサンブルを除く大多数は臨時編成のようだが、健闘して熱演を聞かせていた。ただ、急速テンポの個所を歌う男声合唱は、どうしても苦しいようである。
 日本センチュリー響の演奏については、そもそもこの曲の場合にはオーケストラの聴かせどころはほとんどないといっていいので、実力のほどを窺うというところまでは行かない。

 沼尻竜典の指揮する「カルミナ・ブラーナ」は、先日の大植英次のピリピリした感のあるそれとは違い、テンポの切り替えもなだらかで、従って演奏の流れに解放感もあって、気分的にも安心して聴ける。第2部後半での押しに押すテンポは、オペラのように劇的な盛り上がりをつくり出し、迫力を感じさせていた。また、全曲最後の「だめ押し」の盛り上げもすこぶる強靱な構築になっていて、最近の沼尻の巧みな音楽上の演出を感じさせてくれた。

 このびわ湖ホールで、オペラでなく「演奏会」を聴いたのはたしかこれで2回目だが、オペラ上演の時と同じように音響がいいのには感心する。
 終演は8時20分頃。「ラ・フォル・ジュルネ」だから、プログラムは短い。
 大津駅直結のホテル「テトラ大津」に一泊。

2017・4・25(火)大植英次指揮大阪フィル 「カルミナ・ブラーナ」他

       ザ・フェスティバルホール  7時

 広島からは24日朝に帰京していたのだが、今日また大阪へ。
 これは大阪フィルハーモニー交響楽団の4月定期初日。桂冠指揮者の大植英次が指揮したのは、ベートーヴェンの「第7交響曲」と、オルフの「カルミナ・ブラーナ」である。リズムをテーマにしたプログラミングといえようか。
 後者での協演は森麻季、与那城敬、藤木大地、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪すみよし少年少女合唱団。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 大植英次が、朝比奈隆のあとをうけて大阪フィルの音楽監督に迎えられたのは、2003年のことだった。あの時は私も、NHKーTVの「芸術劇場」で黒崎めぐみさんと対談しながら、老練の「創業者社長」のあとに清新な若手指揮者を起用してイメージを一新した大阪フィルの英断を讃え、ミネソタ管弦楽団音楽監督として優れた成果を上げていた大植英次の活躍に満腔の期待を捧げたものである。
 それから早や14年が経つ。今の大植英次は、再びかつてのようなエネルギッシュな勢いを取り戻しているようである。

 ベートーヴェンの「7番」では、大植は、殊更な誇張や演出を一切排し、速めのテンポで押しに押した。両端楽章での提示部リピートは行わず、第3楽章でもスコア指定の最小限の反復を行なうのみなので、演奏時間も32~33分というところだったろうか。第4楽章は煽りに煽ったテンポで盛り上げられた。

 三度目あたりのカーテンコールの際に、オーケストラが大植の合図にもかかわらず起立せず、拍手を享ける権利を指揮者に譲ったようにも見えたのだが、この時にコンサートマスター以下、ステージ前方の奏者たちがかんじんの指揮者を称えるような動作をせず、拍手も行なわず(後方の金管あたりの奏者たちは拍手をしていたが)、まるで「お前だけで答礼しろ、立つのは嫌だ」と拒否しているように見えたのは、何とも異様な感であった。ちぐはぐな光景に、客席もちょっとざわめいた。ステージでの挙止は、もっとスマートでありたいものだ。

 「カルミナ・ブラーナ」では、大植は「7番」の時とは打って変わって、テンポを緩急に激しく動かし、デュナミークの対比も極度に強調して、起伏の大きな構築を行なった。
 終演後に楽屋を訪れた私の顔を見るなり彼は、「ね、今日はスコアの指定通りのテンポでやったよ。ここまでは120、ここから130、って・・・・。そのテンポを変えるのをみんなはたいてい、いい加減にやるだろ。今日のがオルフの書いたテンポなんだから」と、例のごとく熱中的な早口で語り続けていた。

 それは確かに認めるし、事実、演奏は大変スリリングなものだった。ただしお言葉を返すようだが、多くの場合、そのテンポの変動は、今日のように「この小節から」突然変わるのでなく、もう少しアッチェルランド気味に、なだらかに行なわれるのではないか? スコア通りに突然テンポを変えると、この曲はかなり尖った、ヒステリックな異常さを露呈することになる。それはそれで面白い様相を感じさせることは事実だが、聴いていると些か疲れるのも事実だ。
 特に第1部では、大植はいくつかの転換の部分で大きな間を採り、緩徐部分では非常に遅いテンポを採っていたが、これが作品全体の滔々たる流れを堰き止めた印象を生んでしまうので、私としては少々共感しかねるところがあった。

 だが一方、「酒場にて」の場面では、大植は疾風怒濤の荒々しさでこの酒乱の光景を描き出し、「白鳥の嘆き」の個所も適切なテンポでコミカルな光景をつくり出していた。
 この個所に限らず彼は、オーケストラの音色にも気を配っている。特に第1部の「太陽は万物を整え治める」でのヴィオラの音色とそのアタックなど、実に巧い響かせ方だなと感心させられたものである。

 大阪フィルは、さすがに老舗の貫録、弦16型編成の重量感あふれる響きで、広大なフェスティバルホールをいっぱいに轟かせたのはさすがである。弦楽器群のまとまりの良さは、いつもながら印象的だった。ただ、管の一部━━ホルンとフルートには、もう少し細部までの丁寧な仕上げが欲しいところである。

 今回素晴らしかったのは、声楽陣だ。特に3人のソリストの声の明晰さと、歌唱の闊達さは見事であった。「焼かれた白鳥」での藤木大地(カウンターテナー)の演技はやや控えめながらも、ファルセットはさすがに安定していた。
 与那城敬も、このバリトンのパートがこれほどはっきりと響き、かつ演技的にも解り易く表現されたのは、日本人の演奏ではこれまで滅多に聴いたことがなかったほどである。森麻季も爽やかで伸びのある声で、清純な第3部「愛の誘い」を美しく歌ってくれた。

 そして同等に称賛されるべきは、大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指揮・福島章恭)である。多分170人近くの大編成だが、とりわけ女声に膨らみと柔らかさと量感があふれていた。

 9時15分終演。この日は「レム新大阪」に一泊、翌日早朝の「のぞみ」で帰京。

2017・4・23(日)広島交響楽団 廿日市定期演奏会(第20回)

     はつかいち文化ホールさくらぴあ大ホール  3時

 先週日曜日に続いて、また広島を訪れる。今回も先週同様、文化庁の芸術文化振興基金の「事後評価」の調査を兼ねている。この3年ばかリ、専門委員を務めているのだが、今年度はおこがましくも主査のポストに在るので、各地のオーケストラを聴いて報告書を書く機会も例年以上に増える。
 今日のも同団体の依頼によるものだが、何しろ廿日市という場所に足を踏み入れるのはこれが初めてなので、興味津々だ。

 広島からJR山陽本線に乗り換え、次に五日市駅で広電(この電車、乗客が少ない時には車両のバネが弾んで上下にリズミカルに揺れるのが面白い)に乗り換える。似たような駅名が並んでいるので、「廿日市駅」で降りてしまったが、駅前はガランとして人もいないし、なんにもないのに慌てた。地図を見直して間違いに気づき、自己憐憫に浸りつつ、次の電車を待ち、もう一つ先の「廿日市市役所前」まで乗る。
 快晴好天、空気も爽やかなので、街をぶらぶら歩いて行く。すると間もなく、市役所やホールやショッピングモルが並んでいる賑やかな一角が見えて来る。

 コンサートは、広響の「第20回廿日市定期演奏会」である。「20回」とはいっても、これが「さくらぴあ」の開館20周年記念事業の一環なので、年に一度のご当地公演というわけか。
 今日は現田茂夫が客演指揮、チャイコフスキーの「眠りの森の美女」のワルツ、「弦楽セレナード」および「ロメオとジュリエット」という曲目で前後を固め、真ん中はオペラコンサートで、グノーの「ファウスト」のワルツとプッチーニの「マノン・レスコー」間奏曲を演奏したほか、ゲスト・ソリストの佐藤しのぶがグノーの「宝石の歌」、プッチーニの「わたしのお父さん」「ある晴れた日に」「可愛い坊や」を歌う、というプログラムだ。

 佐藤しのぶは相変わらず華やかな雰囲気で、その人気も圧倒的である。彼女が歌った曲と、そうでない曲とでは、ほぼ満席の聴衆の拍手の量が全く違う。
 1曲目のオーケストラだけの「眠りの森の美女」のワルツのあとなど、指揮者が指揮台を降りて歩き始めた瞬間に、もう拍手が終ってしまったのには、心底驚いた。現田さんが袖に消えるまで手を叩いていたのは、私と、多分他に2、3人くらいだったのではないか?

 しかし、佐藤しのぶが再び現れてビゼーの「ハバネラ」を歌ったのを最後にコンサートが終ると、客席を出て行く中年以上の女性たちが口々に「良かったねえ」「良かったねえ」と言葉を交わし合っているのだ。そういう声を聞くと、みんな本当に心から愉しんでいたんだな、と、やはり胸が熱くなってしまうのである。

 このシューボックス型ホールは、桜の木を素材に使っている由。ステージの景観も落ち着いているし、アコースティックも予想外に良いのには感心した。客席数1090ほどだから、あまり大きな音には向いていないのかもしれないが、オーケストラのバランスさえ完璧ならば、実にいい音で響く。

 現田茂夫のまとめもよかったが、広響(コンサートマスターは佐久間聡一)自身も、会場のアコースティックに巧く合わせて行ったのだろう。1曲目のワルツよりも次の「弦楽セレナード」の方が、そしてさらに最後の「ロメオとジュリエット」の方が、ずっと演奏も良かった。特に「ロメジュリ」は━━アンダンテの個所のテンポが遅すぎて楽曲全体のバランスを失わせるきらいがなくもなかったが━━聴き応えのある演奏だった。

 広響の快調さは1週間前と同様で、特に弦楽器群の音色の良さは、今日も印象に強く残った。
 あの身振りの大きいヴァイオリン奏者(Yさん、とおっしゃるのですか?)は、今日は第1ヴァイオリンの第2プルトの外側に座っていて、終始ニコニコと聴衆に微笑みかけていたのが、とてもあたたかい、素晴らしい雰囲気を生んでいた。彼が「広響名物」的存在で、「彼から元気をもらう広島市民も大勢いるようだ」という、3月18日の広響の項にコメントで頂戴したご意見は、たしかにその通りかもしれない。もしかしたら、あの笑顔は「広響の宝」かもしれない。だいいち私自身が「あの人は、今日はどこに座っているのかな」と目で探してしまったほどなのだから━━。

2017・4・22(土)沼尻竜典指揮東京交響楽団
グバイドゥーリナ「アッシジの聖フランチェスコによる《太陽の讃歌》」日本初演

      ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 紀尾井ホールからJR四谷駅、東京駅を経て川崎駅へ。予想していたよりも短時間で着いてしまい、簡単に食事をする時間が出来たのは有難い。

 コンサートはサントリーホールの工事中休業による振替定期。沼尻竜典の客演指揮で、グバイドゥーリナのチェロと室内合唱団と打楽器のための「アッシジの聖フランチェスコによる《太陽の讃歌》」日本初演と、ホルストの組曲「惑星」である。協演は東響コーラス、前者でのチェロのソロは堤剛。コンサートマスターは水谷晃。

 「太陽」と「惑星」━━とは洒落た語呂合わせの選曲だが、マエストロ沼尻の話によれば、両者の曲想や主旨などに一部共通するエネルギー性、宇宙への連想、宗教性もしくは占星術的な意味合いなどからこのプログラムを構成した、とのことであった。

 「太陽の讃歌」は、1997年にロストロポーヴィチの古希を祝って作曲されたものとのこと。ステージには、4人の奏者による打楽器群と、奥に混声合唱(24声!)、前面にチェロ奏者が位置する。
 このチェロが奏する音は複雑精緻を極め、4弦で第11倍音にまで達する倍音列に重要な意味を持たせた奏法を含む。第4部の「死への讃歌」では、第11倍音目の平均律音と変位音が応答するというアイディアなど、「11」がキリスト教の12使徒からユダを除いた数であることに結びつくというのも興味深い。プログラムには中田朱美さんの解りやすい解説がついているので、参考になった。

 しかもチェロ奏者は時に立ち上がって、打楽器をも演奏するという行動も取るが、それらの身振りはすべて楽譜に指定されているというのも面白い。
 この演奏と行動を、堤さんがいつに変わらず、鬼気迫るほどに没入して進めて行くのにも心を打たれた━━言っては何だが、堤さんだってもう高齢のはずだし、さまざまな公職でも多忙を極めている人だ。にもかかわらず活発に演奏活動を続け、しかもこのような現代音楽の初演に全力で取り組んでいる姿には、本当に頭が下がる思いがする。

 「惑星」では、沼尻竜典の指揮に、以前の彼とは大きく違う表情の濃さと熱っぽさと、一種の物凄い力感があふれているのに強い印象を与えられた。びわ湖ホールでのオペラ指揮や、リューベックの音楽総監督としてのキャリアなどが、明らかに彼の音楽をいっそう成長させているだろう。そう感じられるのは嬉しいことである。

 「海王星」の女声合唱は上手側の舞台裏で歌われたが、オーケストラとのバランスも美しい。最後を遠くフェイドアウトさせて終らせるのもよかった━━最後の音が和声的にアンバランスになっていたのだけは惜しかったが。
 この女声コーラスは、カーテンコールの際に舞台に呼び戻されたが、上手ドアから、あとからあとから絶えることなく出て来るその数の、何と多いこと。こんなに大勢で歌っていたのかと呆気にとられるほどの人数。
   モーストリー・クラシック7月号 公演Reviews

2017・4・22(土)ライナー・ホーネック指揮紀尾井ホール室内管弦楽団

       紀尾井ホール  2時

 「紀尾井シンフォニエッタ東京」が「紀尾井ホール室内管弦楽団」と改称、首席指揮者にライナー・ホーネックを迎えたその最初の定期公演(2日目)。
 プログラムは、ストラヴィンスキーの「バーゼル協奏曲」に始まり、バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」に続き、ハイドンの「十字架上のイエス・キリストの最後の七つの言葉」(管弦楽版)で結ばれる、というものだった。

 「リニューアル・オープニング」の披露公演にしてはおそろしく渋いプログラムだが、賢明な選曲だろう。こんな渋いプログラムは他のどの指揮者も、どのオケもやらないだろうから、演奏を比較して文句が出るようなことはない。そしてこのホールでこのオーケストラが演奏するにあたって、この編成はホールのアコースティックとのバランスの上で、最も好ましい規模のものであるということ。しかも何より、選曲が「上品」である。

 ホーネックとオーケストラは、まずストラヴィンスキーの新古典主義の作品で、ふくらみのある響きと、整然としたアンサンブルを披露した。
 そしてバッハのコンチェルトでは、ホーネック自身もソロを弾いた。オケのコンサートマスター、千々岩英一とのデュオである。しかもアンコールには、ヘルメスベルガーが作った、この曲の第3楽章へのカデンツァ━━ホーネックが語ったように、確かにちょっとロマンティックなところがある━━を演奏して見せるという、洒落た余興も行なった。以上2曲のコンサートマスターは玉井菜採。

 ハイドンの「十字架上のイエス・キリストの最後の七つの言葉」は、長大な作品である。  
 ハイドンは、オラトリオ版の出版に際し、スコアの序文で、司教の説教が一つ終るごとにオーケストラが流れる、という儀式について説明したのち、こう記したそうである━━「それゆえ私は7つのアダージョを次々と聴かせなければならなかった。しかも聴衆を飽きさせることなしにである。この仕事は易しいものとは到底言えなかったので、私はすぐに、これは思ったより多くの時間を必要とするだろうということがわかった」(ラルース世界音楽事典、福武出版社)。
 たしかにこれは、最終の「地震」で曲想が大きく変わるとはいえ、1時間にわたる序奏と7つのソナタは、全てゆっくりしたイン・テンポの曲の連続である。クリスチャンにとっては法悦の世界だろう。だが、そうでない私のような人間は、少々違った意見になる。

 国内楽団の腕利きたちを選りすぐって編成したこの室内管弦楽団、ともあれ今回も、最もバランスのいい響きで大成功を収めたことには間違いない。

2017・4・21(金)サッシャ・ゲッツェル指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 サッシャ・ゲッツェルが初めて客演指揮。
 神奈川フィルや、旧・紀尾井シンフォニエッタ東京での指揮、あるいはモーツァルトのオペラなどで、これまで何度か聴いて来た指揮者だ。なかなかいい指揮者だと思う。
 「GOETZEL」なら、ゲッツェルより「ゲーツェル」の表記の方がいいのではないか、と隣に座っていたS教授が言った。なるほど。

 今日のプログラムは、ウェーバーの「魔弾の射手」序曲、グリーグの「ピアノ協奏曲」(ソロはユリアンナ・アヴデーエワ)、ドヴォルジャークの「交響曲第7番」。コンサートマスターは長原幸太。

 読響は、先頃のカンブルランの時と同様、すこぶる上手い。
 「魔弾の射手」ではホルンがうまく行ったので、安心して聴けた・・・・と思っていたら、S教授は、「日本のオケでここのホルンがきれいに揃った演奏をついぞ聞いたことがない」とご不満げ。注文の厳しい方だ。ともあれ、ロマン派オペラの不気味な森の雰囲気はあまり感じさせない演奏だったのは確かで、これはゲッツェルの指揮のなせる業だろう。

 グリーグの協奏曲では、アヴデーエワのソロの若々しい活力は魅力だったものの、ゆっくりした叙情的な部分にさらなる情感があれば、と思われる(これはS教授と同意見)。というのは、彼女がアンコールで弾いたショパンの「ノクターン嬰ハ短調(遺作)」のほうには、まるで別人のような深い情感がこもっていたからである。

 ドヴォルジャークの交響曲は、実は私は、「3番」から「7番」までが非常に好きなのである。この「7番」も、素朴な味に何とも言えない良さがある。
 ゲッツェルの指揮は、この作曲家特有の郷愁のようなものはあまり感じさせないとはいえ、率直でエネルギッシュで、その勢いは痛快なほどだ。ただ、痛快はいいけれども、第4楽章など、終始力一杯飛ばし過ぎるので、かんじんの終結の怒涛の如きクライマックスがさほど際立たなくなるという欠点があるだろう。

 ここを聴くたびに、もう40年も昔のことだが、ズデニェク・コシュラーが札幌交響楽団を指揮した時の最後の盛り上げ方の見事さ━━大波のようにクレッシェンドを繰り返しつつ結んで行ったあの終結の巧さを、私は思い出さずにはいられないのである。

2017・4・20(木)新国立劇場 モーツァルト:「フィガロの結婚」

     新国立劇場オペラパレス  6時30分

 2003年10月(もうそんなに年月が経ったのかと慨嘆)、ノヴォラツスキー芸術監督就任第1作としてプレミエされた、アンドレアス・ホモキ演出によるプロダクション。例の「段ボール箱」が積まれた舞台というのが話題を呼んだ「フィガロの結婚」である。
 新国立劇場の定番の出しもので、再演もこれが4年ぶり6度目になる。

 今回は、コンスタンティン・トリンクス指揮の東京フィルと、アダム・パルカ(フィガロ)、中村恵理(スザンナ)、ピエトロ・スパニョーリ(アルマヴィーヴァ伯爵)、アガ・ミコライ(伯爵夫人)、ヤナ・クルコヴァ(ケルビーノ)、吉原圭子(バルバリーナ)、久保田真澄(バルトロ)、竹本節子(マルチェリーナ)、小山陽二郎(バジリオ)、晴雅彦(アントニオ)、糸賀修平(クルツィオ)、岩本麻里&小林昌代(2人の娘)という出演者。

 とりわけ、トリンクスの指揮には期待していたが、東京フィルをよく制御して好演。彼としては意外にレガートな音づくりで、休憩後の第3幕ではそのレガート度がさらに増して来てしまったようにも感じられたのだが・・・・。しかしモーツァルトのオーケストレーションの素晴らしさに酔わされたところも多かったので、私にとっては、これは良い演奏だった、と言える。
 なお、小埜寺美樹のチェンバロが表情豊かで素晴らしかった。

 歌手陣も概して好演と言っていいだろう。歌手同士のアンサンブルが合わなかったり、歌手とオケとが全然合わなかったりする個所もいくつかあったけれども━━スザンナとケルビーノの慌ただしい二重唱(第2幕)など、何が何だか解らないほどごちゃごちゃになっていた━━初日ということで、大目に見ましょう。

 演出は基本的に良く出来ているし、現在みても決して悪いものではないが、最初観た時の印象に比べると、やはり緊張感に乏しくなっているように感じられる。これは、再演演出監督の責任ではなかろうか。この方は、初日だから、という問題ではなさそうである。
 ただその中でも、みんなよく細かい演技をこなしていたのは事実だ。

 もう一つ、今回は、スザンナを歌う中村恵理に期待していた。プログラム巻末に乗っている上演記録配役表を見ると、彼女は2003、2005年にバルバリーナ、2007年にスザンナを歌っている。私は2003年上演の後、しばらくこのプロダクションを観なかったので、それを知らなかった。まだ彼女のブレイク前、ミュンヘンへ行く前の時期だったか? いま、成長し、巧味を増した彼女を観、聴くのは、愉しいことである。

 休憩1回を含み、9時55分終演。

2017・4・19(水)ナタリー・デセイ&フィリップ・カサール・デュオ

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ナタリー・デセイ(ドゥセ―)が、歌曲集とオペラのアリアを歌う。
 考えてみると、彼女の活動歴も随分長い。声そのものを全盛期のそれと比較してどうこう言っても仕方がない。むしろ今の彼女が歌唱にどのような表現を試みているか、それを味わう方が重要だ。

 モーツァルトの「フィガロの結婚」(スザンナ)と「魔笛」(パミーナ)、グノーの「ファウスト」(マルグリット)では、オペラらしく表情の大きな、劇的な歌唱を聴かせるのは言うまでもないが、シューベルト、プフィッツナー、ショーソン、ビゼー、ドビュッシーなどの歌曲集においてもそれは全く同様で、その表情の濃さたるや、いかなる歌手に比べても極端な域にまで達している。
 ソット・ヴォーチェを多用して歌詞の内容を強調する手法は、ドビュッシーの歌曲などでは、そのフランス語の発音の特徴などもあって、自然に受け取れるが、シューベルトあたりでは、その歌唱スタイルには、時に戸惑わされることもある。とはいえ、CDで聴くのと異なり、ナマのステージでは、歌曲においても彼女の演技━━雄弁な身振りによって、視覚的な効果が加わるので、また違った良さが感じられるだろう。

 シューベルトの「若き尼僧」の最後の「ハレルヤ」を、あんなに少女っぽく、清らかに夢見るように歌った例を私は知らない。また「糸を紡ぐグレートヒェン」は、最後の「Meine Ruh ist hin」以下は、普通はピアノのデクレッシェンドおよびリタルダンドとともに冒頭回帰の如く、再び悲しみに落ち込んで行くように歌われるものだが(彼女もCDではそのように歌っていた)今日は最後まで激しい感情に揺れ動いたまま歌を結んで行ったのが印象的だった。

 ピアノのカサールも、ソロでドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」などを弾いたが、そこでは弱音ながらも重厚な響きを出すという、本性も垣間見せる。
 コンサートの1曲目の「フィガロ」の序奏の前に、彼が突然モーツァルトのソナタの一節を弾きはじめてみせ、デセイが「何よそれ?」という芝居を見せたり、アンコールの際に2人が何も持たずに出て来たようなフリをしながら、いきなり譜面を手品みたいに取り出して聴衆を爆笑させたり、ユーモアのある光景も多かった。彼女が曲間に咳をしたら会場も一斉に咳をし始めたなどという出来事には、今日はクスクス笑いだったが、欧米の演奏会だったら大爆笑となっただろう。

 アンコールではドリーブ、ドビュッシー、R・シュトラウスの歌曲やオペラから計4曲が歌われたが、デセイの「(ペレアスと)メリザンド」が聴けたのは貴重だった。一番最後は、花束とケーキとがステージに出され、デセイへの「ハッピー・バースデイ」をピアノに合わせ聴衆が歌ってお開きという具合。

 それにしても、彼女のオペラの舞台が日本でもっと観られていれば、と、かえすがえすも残念である。先年の「椿姫」での、夫君ロラン・ナウリとの共演による名演は忘れられないが、DVDで出ている「優雅なインドの国々」とか、「天国と地獄」とかが、生のステージで日本のファンに紹介されていたらどんなによかったか、と思う。もう機会はなかろう。

2017・4・18(火)ギルバート指揮東京都響「シェヘラザード.2」

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 珍しい曲をやってくれたものである。
 「.2」(ポイント・トゥーと読む由)となっている通り、リムスキー=コルサコフの交響組曲ではない。
 アメリカの現代作曲家ジョン・アダムズが2014年に書いた「ヴァイオリンと管弦楽のための劇的交響曲」である。
 初演は2015年3月、ニューヨーク・フィルと、今日の指揮者アラン・ギルバート及びソリストのリーラ・ジョセフォヴィッツにより行われている。日本では今回が初演(但し2日目)。4楽章からなる、50分近い大作だ。

 白石美雪さんのたいへん解り易いプログラム解説を参考にさせていただきつつ、この曲の内容を要約すれば━━「アラブの男性中心社会で虐げられ、死と隣り合わせで語るアラビアンナイトの女性シェヘラザード」の存在をさらに拡大し、現代のアラブ、もしくは世界の戦争の中で男たちに抑圧されている女性たちの闘いと解放を描く、ということになろう。シェヘラザードの中にこういう女性像を見出したジョン・アダムズの発想は、実に興味深いものがある。

 各楽章の標題は以下の通り。
 第1楽章は「若く聡明な女性の物語━━狂信者たちに追われて」、第2楽章は「遥かなる欲望(愛の場面)」、第3楽章は「シェヘラザードと髭を蓄えた男たち」(宗教裁判の場面)、第4楽章が「脱出、飛翔、聖域」。

 ヒロインのシェヘラザードは、リムスキー=コルサコフの作品におけるそれと同じように、ソロ・ヴァイオリンで描き出される。事実、ここではヴァイオリン・ソロはしばしば抗うように、闘争的に、激しい表情で奏される。最後は解放されたように、浄化されたように、清澄な表情の裡に終って行く。
 従って、一方の大編成のオーケストラは、彼女を取り巻く戦争の世界、女性たちを蹂躙する男性中心社会を描くことが多くなるだろう。それはしばしば暴力的に、威圧的に怒号する。

 だがソロ・ヴァイオリンは、断じてたじろぐことはない。これを弾くリーラ・ジョセフォヴィッツの演奏が、まことに凄い。激烈と温かさが交錯するダイナミックな表現も卓越しているが、演奏するジェスチュアの劇的なさまも━━ある程度の意識的な演技もあるのだろうが━━シェヘラザードかジャンヌ・ダルクか、といった感で、あたかもオーケストラと戦っているかのよう。第3楽章での管弦楽とソロ・ヴァイオリンとの猛烈な応酬は、たしかに標題と照らし合わせても整合性がある。

 それにしても、ジョン・アダムズの音楽の、何という多彩な音色か。第2楽章での官能的な音色など、あのメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」を連想させるところさえある
 これまでに聴いた「中国のニクソン」や「ドクター・アトミック」などのオペラから思い浮かぶジョン・アダムズといえば、どうしてもミニマル・ミュージック作曲家のイメージに囚われてしまうが、この劇的交響曲は、それらとは全く違い、「きわめてまっとうな」スタイルの音楽の範疇にある。それは実に起伏が大きく、目くるめく美しさをもっている。

 アラン・ギルバートも、鮮やかな手腕を示したし、都響(コンサートマスターは四方恭子)の柔軟な反応による演奏も素晴らしい。
 プログラムの前半にはラヴェルの「マ・メール・ロワ」全曲版が演奏されたのだが、これも遅いテンポの中に、色彩感をよく出した美しいものだった。
 二つの色彩━━ひとつは叙情、もう一つは劇的。
 これは、注目すべき定期公演だった。
   →別稿 モーストリー・クラシック7月号 公演Reviews

2017・4・16(日)広島響、下野竜也音楽総監督就任初の定期

      広島文化学園HBGホール  3時

 先月、秋山和慶・音楽監督の「告別定期」を聴いたばかりの広響へ、今度は新しく音楽総監督に就任した下野竜也の「披露定期」を聴きに行く。午後0時50分、「のぞみ」で広島駅着。

 プログラムは、ブルックナーの「交響曲第8番」(ハース版)である。下野竜也の気負いと意欲とが、まざまざと感じられるような選曲だ。広響としても、これは一種の祝典的な意味をもったプログラムという考え方なのだろう。

 下野と広響は、2日前にもこの曲を、大阪のザ・シンフォニーホールで演奏している。本拠地より先に、大都市・大阪でやるとは珍しいケースだ。見方によっては、かつて朝比奈隆が「ブルックナーの牙城」を築いた大阪への「殴り込み」と感じられるかもしれないし、その朝比奈の薫陶を受けた下野がブルックナーで「恩返し」を、あるいは「墓前報告」を━━と思えるかもしれない。ホームグラウンドの広島でやる前に大阪で公開ゲネプロをやっておいて・・・・というのは、これは悪いシャレだろう。

 しかしさすがに今日は、本番を一度こなしたあとだけに、自信というか、安定というか、何か強靭な意志力のようなものがみなぎった演奏に感じられた。第1楽章前半にはやや緊張が抜けきれないような感もなくはなかったが、全体に堂々として揺るぎない構築の、見事な演奏だった。
 下野は、どちらかといえば遅いイン・テンポで、自信満々押し切った。
 前半の二つの楽章はスコアの指定通り、アレグロではあるがあくまでモデラートのテンポで演奏された。第3楽章と第4楽章は荘厳にマエストーゾに、かつ非常に遅く、あるいは「急がずに」演奏された。テンポをあまり動かさない演奏は、いわば正統派のブルックナー・スタイルといってよかろう。
 こういう泰然、厳然としたブルックナー構築は、今日ではむしろ少数派になってしまった傾向もあるので、極めて貴重といわなければならない。

 このテンポを見事に持ちこたえた広響も見事であり、渾身の力演であった。後半の二つの楽章での上滑りしない誠実な演奏は素晴らしく、とりわけ終楽章は威容に満ちていた。下野は、そのコーダではトランペットを全力で輝かしく吹かせ、三つの楽章の主題が轟々と合体するさまを明確に浮き立たせて、全曲を結んで行ったのである。

 聴衆の反応も上々だった。新・音楽総監督の就任が熱狂的に温かく寿がれたのは、めでたいことである。
 下野はカーテンコールの最後に、「新人ですが(なので、と言ったっけ?)よろしくお願いします」と短く挨拶し、場内に温かい爆笑と大拍手を巻き起こした。私は指揮者が演奏終了後に喋るのはあまり好きではないのだが、下野の話は真摯で客に媚びることがないし、しかも抜群のユーモアがあるので、例外的に好きである。

 彼は今シーズン、7月、10月、2月の定期と、8月の「平和の夕べ」の他、シューベルトと新ウィーン楽派とスッペとを組み合わせた「新ディスカバリー・シリーズ」などを指揮する。私はそう度々は聴きに行けないが、実に楽しみだ。広響は、もっと東京をはじめ他の都市にも情報を流して、全国区のオーケストラとしての存在をPRすべきである。

 ところで、今日は初めてこのホールの2階席(4列目ほぼ中央)で聴いたが、1階席で聴くより、ここの方がまとまったバランスのいい音で聞こえるようである。残響が少ないことには変わりないけれども、咆哮する金管楽器群と、弦と木管とがうまく均衡を保って響いていて、聴きやすかった。
 5時35分の「のぞみ」で帰京。

2017・4・15(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  6時

 渋谷から池袋に移動。このハシゴをした人も、少なくなかったらしい。
 プログラムは、メシアンの「忘れられた捧げもの」、ドビュッシーの交響的断章「聖セバスティアンの殉教」、バルトークの「青ひげ公の城」(演奏会形式)という大規模なもの。コンサートマスターは小森谷巧。

 カンブルランのフランスものは、さすがに見事としか言いようがない。洗練された味とかいったものは、日本のオケだからそう簡単に出せるものではないが、輝かしさ、色彩の鮮やかさなどは、充分に出すことは出来る。何しろ、読響が素晴らしく上手いのである。

 メシアンの「忘れられた捧げもの」では、その鮮やかな色彩の変化、強弱の対比、熱狂と敬虔さの交錯、という美点が、華麗に表出された。これぞカンブルランと読響の数年にわたる共同作業の結実である。1月の「彼方の閃光」も優れた演奏だったし、この調子で行くと、秋の「アッシジの聖フランチェスコ」全曲上演は、さぞや圧巻の演奏になるのではなかろうか。
 「聖セバスティアンの殉教」でも、冒頭のファンファーレの均衡豊かな決まりようには感心した。2つあるファンファーレは1つのみに短縮されたが、これなら全部やって欲しかった、と思ったくらいである。

 この日の眼目たるオペラ「青ひげ公の城」は、私の最も好きなオペラの一つである。
 ところが、これが今回は、暗鬱で重苦しい心理の襞の濃いドラマというより、これ以上はないと思われるほど、豪華絢爛な大絵巻物といった感の演奏になった。「第6の扉」の個所における陰鬱で不気味な「涙のモティーフ」が、妙に明るく鋭く煌めいて聞こえたことは、その端的な例である。これは、作品の性格からして、疑問が無くもない。こんな華麗な「青ひげ公の城」があったか?

 とはいえ、「血のモティーフ」や、ユディットのヒステリックな感情を象徴する強奏個所などにおける表情の鋭さは、常ならぬほど劇的だった。また「第5の扉」における、バンダ(オルガンの下に並ぶ)を加えての輝かしい、壮大無比な音の饗宴なども、これはこれで悪くはないだろう。
 いずれにせよ、このふだんは渋いオペラが、これほどダイナミックかつスペクタクルで、「面白い」ものとして聴けたのは、私には初めてのことである。そして、読響の上手さが、あらゆる個所で印象に残った。

 歌手2人は、指揮台の両側にそれぞれ位置する(吟遊詩人の台詞は省かれている)。
 青ひげ公の役はバリント・ザボ。ハンガリー生まれで、この役を得意としている由。事実、暗譜で歌っていた。頻繁に水を飲んでいたのは、あるいは本調子でなかったのか? 
 しかしもともと青ひげ公というキャラクターは、朗々と歌う役柄ではなく、むしろ抑えた声で、孤独と苦悩をモノローグ風に歌うものである。この役を得意としているという彼なら、その枠をはみ出すはずもなく、従ってふつう以上に華麗豪壮に轟くオーケストラ相手にバランスを取るのは、難しかったのではなかろうか。

 一方のユディットを歌ったイリス・フェルミリオンは、譜面を見ながらの歌唱だが、持ち前のよく通る美声で朗々と歌い、ユディットの情熱と、焦りと、ヒステリックなほどの自己主張を見事に表現し、すこぶるドラマティックな音楽をつくり出していた。
 顔や腕の動きにも最小限の必要な演技を加え、新しい扉が開くごとにその表情を変化させる。幕切れで青ひげの「第4の女」になってしまう絶望感━━生ける屍となる模様までをも、巧みに表現していたのである。

 歌手たちのこういう好演をも含めて、この「青ひげ公の城」は、たった1回の演奏ではもったいないほどの、優れた演奏であった。
 ただし、問題が二つ。まず、前半でユディットがドアをたたいた時に流れるはずの「長い廊下を吹き抜ける風のような不気味な溜息」の効果音が使われなかったことは、音楽や歌詞との整合性の上で、やはり不都合なのではないか?

 もう一つ、今回の字幕は━━製作者についてのクレジットが無いが━━ドラマの流れと、登場人物の心理的ニュアンスの表現の上で、大いに不満が残る。意味の通じないところも、いくつかあったのである。
 たとえば(うろ覚えだが)、青ひげの歌詞の中に「この城の土台が揺れる・・・・どの扉を開けても閉めてもよい」という文章があったように記憶する。これは、完全に意味が違う。「土台が揺れる」などというのは詩情のない表現だし、「すべての扉を開けても閉めてもよい」では、ドラマのストーリーからみても矛盾している。
 ここはやはり、一般に使われているように、「扉を開けても閉めても城は揺らぐのだ」の方がはるかに「城=青ひげの存在そのもの」と、「扉=覗かれたくない彼の心」とを深層心理的に表す文章となるはずである。

 字幕は、いわば演出の一つだ。ドラマの本質まで描き出してくれるような字幕に出会った時には、音楽と併せて本当に感動するものである。だが時には、音楽をよく聴かないで、あるいは実際にそのオペラをちゃんと研究しないまま、登場人物の心に共感することのないまま、詩情のセンスも何もないままに作ったのではないか、と思われるような字幕にお目にかかることがある。嘆かわしいことである。
    別稿 音楽の友6月号 Concert Reviews

2017・4・15(土)インキネン指揮日本フィル ブラームス:3番、4番

      BUNKAMURAオーチャードホール  2時

 首席指揮者ピエタリ・インキネンのもと、ブラームスの交響曲ツィクルスの一環で、今日は「第3番」と「第4番」。コンサートマスターは木野雅之。

 日本フィルをこのオーチャードホールで聴く機会は、あまりない。唯一、山田和樹指揮の「マーラー/武満シリーズ」はここで開催されているけれども、日本フィルのふつうの「落ち着いた雰囲気」(?)の定期演奏会を聴くのは、今回が初めてかかもしれない。
 だが、インキネンのもと、日本フィルは、このオケがこれまであまり聴かせなかったような、しっとりとして余裕のある、重厚でスケールの大きい、精緻に設計された演奏を繰り広げ、「慣れない」このホールを見事に鳴らしてみせた。最近の日本フィルは、こういう幅広さを出せるようになった。めでたいことである。

 インキネンは「3番」と「4番」を、ともにストレートに、外連の一切ない構築で指揮してみせた。
 たとえば老獪な故マゼールとか、一癖も二癖もあるパーヴォ・ヤルヴィなどがこの2曲を一つのコンサートで指揮した時には、片方の曲を劇的に激しく、もう一方を整然と構築するというように、プログラムの中で大きな対比をつくったものだった。しかしそんな演出をやらずに、2曲とも真っ正直にやるところが、インキネンなのだろう。
 2曲とも遅めのイン・テンポで押し通す。変化は、デュナミーク、音色、表情などに反映して行くという手法だ。事実、それは実にうまく行っていた。

 「3番」は、ブラームスの交響曲の中では私が一番好きな曲なのだが、第1楽章が始まった時、何といい曲だろうと思わされた。いくら好きな曲でも、そう感じさせてくれる演奏に、毎回巡り合えるとは限らない。
 インキネンは、何一つあざとい細工や演出を加えることなく、滔々と押した。フルトヴェングラーのような、巨大な世界が揺れ動くような演奏にも圧倒されるが、今日のように、たっぷりとした響きで悠然と歩みを進めて行く演奏も、いい。それは決して老成した演奏ではない。あくまで若々しく、すっきりした表情がこもっているのである。あの美しい憂愁のこもった第3楽章をも、彼らは真摯に演奏してくれた。

 「4番」に入った時は、前記のような指揮の特徴から、もしかしたらこれも「3番」と全く同じアプローチでやるのか、と、ちょっと心配になったのは事実だったが、やはり曲想の影響もあって、こちらの方が劇的な表情もおのずから出て来る。第1楽章や第3楽章での終結に向けての追い込みは、聴き応えがあった。
 さらにいっそう見事だったのは、第2楽章と第4楽章である━━内声部が明晰な形を採りつつ、あざやかに交錯して行き、ブラームスの音楽ならではの精緻な綾をつくり出すことに成功していたのだった。いい曲だ、と心から感じさせられた。

 まあ、こういう演奏はしかし、良い指揮者と良いオケなら、必ずやるものである。だが、長年の間、荒っぽいパワーで鳴らしていた日本フィルが、とうとう━━というか、再びというか、つまり60年前の創立直後の渡邉暁雄時代を思い出させる━━このような演奏スタイルを取り戻した・・・・それだけでも嬉しいことではなかろうか? 

2017・4・13(木)東京シティ・フィル特別演奏会 千住明:「万葉集」

      東京文化会館大ホール  7時

 千住明が2009年に発表したオペラ「万葉集」の演奏会形式上演。黛まどかの台本により、「明日香風編」と「二上山挽歌編」の二つの部分からなる。
 演奏は藤岡幸夫の指揮と東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団(コンサートマスターは戸澤哲夫)、東京シティ・フィル・コーア(見事に暗譜で歌った)、声楽ソロは市原愛、富岡明子、中嶋克彦、与那城敬。

2017・4・12(水)新国立劇場 ヴェルディ:「オテロ」

      新国立劇場オペラパレス  7時

 2009年にプレミエされたマリオ・マルトーネ演出の、5年ぶり3度目の上演。舞台に水が湛えられているあの舞台だが、今回は少し細部を変えたか? 最初に観た時よりも、人物たちの動きを含めて、舞台全体に少し緊張感が薄らいでいるようにも感じられる。

 今回は、指揮をパオロ・カリニャーニ。オテロをカルロ・ヴェントレ、デズデーモナをセレーナ・ファルノッキア、イアーゴをウラディーミル・ストヤノフ、ロドヴィーコを妻屋秀和、カッシオを与儀巧、エミーリアを清水華澄、ロデリーゴを村上敏明、モンターノを伊藤貴之、ほか。

 カルロ・ヴェントレって、こんな歌い方したっけ?と思わせるような「オテロの登場」の出だし。ギョッとするほど声も音程も不安定で粗くて調子も悪そうだったが、第2部(第3、4幕)は何とか持ち直して、「オテロの死」はとにかく決めた。
 もともと荒々しい声で吼えるタイプの人だから、「野人オテロ」といった感になってしまうのもやむを得まい。でも、オテロという人物は、本来はもっと知的で高貴な性格を備えているはずなのである(それが錯乱に陥るからこそ悲劇となるのだ)。

 ストヤノフも前半は意外に声がこもり気味で、後半は何とか持ち直したものの、「外面誠実、内面策士」たるイアーゴとしては、歌唱・演技ともに鋭さに欠ける。
 結局、主役3人のうち、温かい誠実な妻としての性格を「心をこめて」表現していたのは、ファルノッキアだけということになるか。
 妻屋、与儀、清水ら脇役の日本人勢の方が、地道に決めていた。

 カリニャーニは予想通り、テンポやデュナミークを煽ること、煽ること。東京フィルと新国立劇場合唱団が咆哮する。ちょっと騒々しいところもあるが、面白い。このくらいの勢いと激しさがないと、ドラマティックなオペラにならない。

2017・4・11(火)METライブビューイング ヴェルディ:「椿姫」

     東劇  6時30分

 3月11日メトロポリタン・オペラにおける上演のライヴ映像。

 例のヴィリー・デッカー演出━━といえば、2005年夏にザルツブルク音楽祭でアンナ・ネトレプコ、ロランド・ビリャソン主演によりプレミエされ、大センセーションを巻き起こし、DVDでも出たあのプロダクションだ。大時計を使ってヴィオレッタの「残された時間」を描き、医者グランヴィルを最初からずっと舞台に登場させて彼女を見守らせる(もしくは死へ導く)役割を持たせた、あの舞台である。
 もう何度も観ているので、個人的にはもう・・・・という気もするが、しかしこの演出自体は、実に精緻で、良く出来たものであることは、疑いない。

 ヴィオレッタを歌い演じたソニア・ヨンチェーヴァがいい。特に第3幕でのアリアは、限りない憧れを感じさせて絶品であった。
 アルフレード・ジェルモンを歌ったマイケル・ファビアーノが少々個性も弱くて物足りないが、世間知らずのボンボンたる感じはある程度出ていたかもしれない。

 父ジョルジョ・ジェルモンはトーマス・ハンプソン。ザルツブルク・プレミエにも出ていて、本人は幕間のインタヴューで「あの頃との違いといえば、老人のメークにあまり時間がかからなくなったこと」と笑いのめしていたけれども、まだまだ元気だ。

 もともとは主役ではなく、歌う個所も二つか三つしかないにもかかわらず、この演出では重要な役割に押し上げられている医者グランヴィルを演じていたのは、誰だか・・・・METのシーズンブックにも配役が出ていない(「Artist Roster」を全部見ればどこかに出ているはずだが、探す時間が無い。映像のクレジットを視ていれば容易に判るだろう)。

 指揮はニコラ・ルイゾッティ。いつもより柔らかい表情に聞こえたのは、録音のせいかもしれない。
 9時20分頃終映。

2017・4・9(日)ジョン・ケアード演出 内野聖陽主演「ハムレット」

      東京芸術劇場プレイハウス  5時

 引き続き東京芸術劇場に留まり、2階の劇場へ向かう。
 シェイクスピアの戯曲「ハムレット」の上演。7日と8日のプレビュー公演を経て、今日が初日。
 この公演、28日まで東京芸術劇場でやり、そのあと西宮、高知、小倉、松本、上田、豊橋という具合に、5月26日までやるそうだ。もちろん休演日はあるにしても、俳優たちのエネルギーの凄さにはいつもながら感心する。

 今回の上演は、松岡和子の翻訳、ジョン・ケアードと今井麻緒子の上演台本、藤原道山の音楽・演奏、他による舞台だが、出演者数は全部で僅か14人━━ホレイショー役(北村有起哉)を除く役者たちが1人で数役を演じるという形がユニークである。

 ハムレット役(内野聖陽)がデンマーク王子フォーティンブラス役をも演じ、クローディアス王(國村隼)が先王の亡霊との両役を、オフィーリア(貫地谷しほり)が廷臣オズリックをも演じる、という話を聞いた時には仰天し、首をひねったほどだったが、いざ観てみると、全く違和感がないどころか、この「1人2役」というのはドラマトゥルギーとしても実に興味深いことを認識した。
 つまり、ワーグナーの「タンホイザー」で、エリーザベトとヴェーヌスが女性の両側面を描いていることを表わすために、ひとりのソプラノが2役を歌い演じるのとちょうど同じようなものなのである。

 ケアードも、それを狙いとして解釈しているのかと思ったが、彼の「演出メモ」には、「現実と非現実の多層的構造・・・・ハムレットは自分がなるべきだった王=フォーティンブラスとなって甦り、オフィーリアは浅はかなオズリックとなってハムレットの死に立ち会う」という程度のことしか触れられていない。仕方がないので、こちらが勝手に解釈すれば━━。

 たとえばハムレットとフォーティンブラスは、ひとりの王子の「陽」と「陰」の両面の性格を表わす存在とも考えられるだろう。決断を躊躇ってばかりいる己の性格に苛々しているハムレットは、決断力と行動力に富むフォーティンブラスの性格に憧れる。ハムレットが彼を後継者に指定し、己が果たすべき使命を託すのは、即ち彼のもう一つの性格への脱皮にほかならない。。

 また、クローディアス王と先王(亡霊)とは、ひとりの「王」の分身とも解釈できよう。「亡霊」は、いわばクローディアスの裡に残っている「良心」の具現であり、一方クローディアスは、先王の中の(おそらくあるはずの)「悪」の部分を象徴する存在とも考えられるだろう。

 オフィーリア役の女優が男の廷臣オズリックを掛け持ちで演じるというのは、単なる便宜的な方法かと一瞬思ったが、これは、観ているうちにその本来の意味が判って来る━━。 
 ハムレットに殺されたに等しいオフィーリアの心のどこかに、ハムレットを恨む感情が無かったとは考えられない。その彼女の心が、復讐心となって具現された存在が、オズリックなのである。

 ここでのオズリックは、オリヴィエ監督の映画に出て来るような軽薄な役柄ではなく、非常に「形式的な」男なのだが、ハムレットを剣試合の場に案内し、かつ毒を塗った槍を秘かにレアティーズ(加藤和樹)へ渡すという行動に出る。明らかにこれはオフィーリアのハムレットへの復讐(もしくは、自分のいる死の世界へ呼び寄せる)の具現であり、それをオフィーリア役の女優みずからが演じているところに、何とも言えぬ宿命の怖しさが感じられるだろう。
 しかも、極め付きの象徴的な描写は、そのレアティーズがオズリック(つまり妹オフィーリアの分身)の膝に頭を乗せて息絶えるという光景である。
 ━━こういう読み替え解釈を考えつつ、この芝居を観るのも面白い。

 出演は、その他に浅野ゆう子(王妃ガートルード他)、壤晴彦(ポローニャス他)、村井國夫(劇中の王他)、山口馬木也(ローゼンクランツ他)、今拓哉(ギルデンスターン他)、大重わたる、村岡哲至、内堀律子、深見由真、といった人たち。
 唯一、気になったことといえば、台詞の「発音」だろう。全体に、もう少し発音を明確にしていただきたい。人によっては、何を喋っているのかさっぱり判らない役者さんもいたのだ。
 しかしその中で、貫地谷しほりと浅野ゆう子の発音が実に明晰で綺麗なのには、感心させられた。特に貫地谷が、舞台でここまでの力量を示すとは、認識を新たにさせられた次第である。

 舞台、演技、台詞とも、第1部はイメージ的に少し軽く、何となく薄いという印象が抑え切れなかったが、これは事実上の初日だったということも影響しているかもしれない。第2部では、次第に密度が濃くなって行った。
 ホレイショーが、ハムレットの部下というよりも「友人」であるという性格が一層はっきり描かれているのも面白く、特にラストシーンは、彼がただ独り最後まで残って、この悲劇を後世に語り伝える役目にあることを象徴的に描いて結ぶ。この幕切れは、すこぶる印象的であった。

 休憩15分と、カーテンコール5分とを含め、8時25分に終演。客席は超満員である。 
 舞台下手側にも観客席が設置されていたが、これはむしろ、「役者たちと観客たち」の構図を舞台上に作り出す意図によるものだったのではなかろうか。

2017・4・9(日)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 日曜マチネー・シリーズ、お客さんがよく入っている。プログラムは、ハイドンの「交響曲第103番《太鼓連打》」と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」。

 2日続けて「太鼓連打」を聴くことになったが、私はハイドンの晩年の「ロンドン・セット」の中で、実はこの曲が一番好きなので、今日も大いに愉しめた。
 こちらカンブルランは、ティンパニはスコアの指定通り1対。ただしその演奏は、少しく行進曲調の、リズムに変化をもたせたカデンツァ風のもので、長さはアーノンクール盤のそれと同じくらいか(ちなみに昨日の飯森範親のそれは、ミンコフスキに近いスタイルのカデンツァだった)。

 今日のカンブルランは、「太鼓」だけを音量的に強調することはしない。第1楽章の管弦楽をかなり厚い音で堂々と進める。これでこそ、楽曲のバランスが完璧になるだろう。
 第2楽章では、新任のコンサートマスター荻原尚子が美しいソロを聴かせてくれた。
 全曲にわたり、読響らしい音の壮大さ、重厚さが発揮されており、すこぶる起伏の大きな、しかも両端楽章に激しさを備えた演奏となった。こういうハイドンは面白い。

 「巨人」の豪壮な演奏も、さすがカンブルランと読響だけのことはある。音の力感の点では国内一、二を争う存在である読響がマーラーをやると、なかなか凄い。
 多分今日の演奏の中での圧巻は、第4楽章だろう。爆発点での威力も凄まじいが、私が最も感心したのは、その爆発個所の間にある二つの叙情的な個所である。この部分をカンブルランは精緻微細に、しかも非常に濃厚な色彩と表情をもって仕上げてくれたので、ここで緊張感が失われるということは全くなかったのである。

 昨日の演奏ではホルンが不調だったと、聴きに行った知人が盛んにぼやいていたが、今日は━━ちょっと頼りなかった個所もないでもなかったが、一応これなら、というところか。代わって、トランペット・セクションが痛快に咆哮した。しかも音色が、実に輝かしい。わが国のオケのトランペットがすべてこういう力と音色を発揮してくれたら、さらに色彩感が豊かになるだろうに。

2017・4・8(土)大阪4大オーケストラの響演

     ザ・フェスティバルホール  4時

 最初は単発イヴェントかと思われたこのユニークな演奏会も、回を重ね、はや第3回。
 そして今年も、大阪国際フェスティバル(第55回)の一環としての開催である。このフェスティバルの目玉公演の一つとして、定着することになるか。
 ともあれ、この「4大オケ」が、大阪の大フェスティバルにおける、いわゆる「レジデント・オーケストラ」の役割を果たすことになるなら、それは非常に結構なことであるに違いない。どれか1団体が━━となるとカドが立つだろうから、4つ一緒に、となれば、丸く収まるかも。

 さて今年は━━
 飯森範親指揮日本センチュリー響がハイドンの「交響曲第103番《太鼓連打》」
 外山雄三指揮大阪響がチャイコフスキーの「くるみ割り人形」組曲
 角田鋼亮指揮大阪フィルがR・シュトラウスの「ドン・ファン」
 藤岡幸夫指揮関西フィルがレスピーギの「ローマの松」
というプログラムになった。

 3時半から「プレ」が始まり、まずは4つのオケの金管奏者たちが登場。トランペットとトロンボーン計12本で、大栗裕の「大阪国際フェスティバルのためのファンファーレ」が、続いてホルン6本で、プレスティの「マーチ」が演奏された。
 そのあとに、4人の指揮者たちのプレトークがある。これが、毎年面白い。昨年は無口だった長老・外山雄三が今年は元気で、鋭いツッコミを入れたりして会場を笑わせる。
 進行役は朝日放送のアナウンサーで、野外イヴェントさながらのビンビン響く声で切れ目なくまくしたてるのには疲労させられたが、それはまあ好みの問題としても、この進行役、金管奏者たちを紹介する際に、1人抜かしてしまったような気もするのだが?

 演奏は、毎年のことながら、4オケとも気合の入ったステージだ。
 飯森と日本センチュリー響(コンサートマスター松浦奈々)は、売りもののハイドンの交響曲で勝負に出る。「太鼓連打」に相応しく、ティンパニのパートに趣向を凝らし、冒頭では奏者が太皷をたたきながら入場して来たり、ティンパニを2対にして派手にたたかせたりと、近年流行りのスタイルで聴衆を楽しませる。
 第1楽章では、派手なティンパニに比べ、トゥッティには何となく慎重さが感じられたものの、第2楽章からは音色も多彩になり、表情も豊かになって愉しめた。演奏全体にもう少し洒落っ気があれば、申し分なかったろう。
 松浦さんのコンマスぶりは久しぶりに拝見したが、以前見られたような華やかで愛らしい身振りが影を潜めていたのには少々落胆。なんか言われたのですか?

 外山と大阪響(コンマス森下幸路)は、これはもう、完全に外山スタイルのチャイコフスキーというか。バレエ音楽をひたすらイン・テンポで、頑固に滔々と押して行くという手法には些か賛意を表しかねるが、かりにそれをひとつの交響組曲として解釈するなら、今日のオーケストラのまとまりの良さ、昨年のストラヴィンスキーよりもはるかに濃くなった色彩感の魅力、ということもあって、それなりに説得性をもつ解釈ではあろう。

 休憩を挟んで登場した大阪フィル(コンマス田野倉雅秋)は随一の大編成で、老舗の貫録、フェスティバルホールの「あるじ」オケとしての自信など、威力充分だ。
 これまでの井上道義に替わって指揮台に上がったのは、同団「指揮者」の、若手の角田鋼亮。最近めきめき頭角を現して来た人だが、実は私は、彼の指揮する「正規の」ステージ演奏を聴いたのは、これが初めてなのである。非常に闊達で、勢いのいい指揮なのには、好感を抱いた。大阪フィルを伸び伸びと鳴らした、颯爽たる「ドン・ファン」だ。
 最後の「炉端の火も消え、総てが暗くなった」に相当する個所でオーケストラから引き出した暗く不気味な表情は、なかなか見事なものだった。主部での力強いエネルギー感と、この終結個所での陰翳とを、ここまで巧く対比させるとは、楽しみな指揮者である。東京のオケの定期にも登場する日を待ちたい。

 今年の大トリを務めた藤岡と関西フィル(コンマス岩谷祐之)は、シンフォニーホールで聴くこのオケとは、かなり趣を異にしたパワフルな力演だった(一昨年の「4大」でもそうだったが)。大ホールを朗々と鳴らしたスケール感と色彩感は、このオケがもつ潜在的な力感を示していただろう。
 他の「3オケ」の金管奏者たちが特別参加したバンダは、2階席の上手側袖近くに配置されたが、1階席中央で聴いた限りでは、その音量はステージ上のオケに消され気味で、必ずしも迫力を感じさせるものではなかったようである。
 しかしとにかく派手な曲だから、今日の演奏会をさらってしまったような印象をも与えたが、藤岡さんは「あの曲なら、だれがやってもああなるよ。ほんとはウチらしい別の曲をやりたかったんだけど」とのこと。

 演奏終了後には、そのまま抽選会が行われ、座席番号により各オケにつき1組ずつ無料招待券が当たるという趣向だった(2700人の聴衆相手にはちょっと少ないのじゃないか?)。6時半頃には終演となった。

 なおこの4月17日には、このホールが入っている「中之島フェスティバルタワー」の隣に、美術館等を包含する「中之島フェスティバルタワー・ウェスト」が開館し、「フェスティバルシティ」なる一大文化センターが形成されるそうで、今年の「大阪国際フェスティバル」にはその「フェスティバルシティ・オープン記念」も謳われていた。

2017・4・4(火)東京・春・音楽祭 ワーグナー「神々の黄昏」

      東京文化会館大ホール  3時

 音楽祭の目玉、「東京春祭ワーグナー・シリーズ」の第8輯。マレク・ヤノフスキがNHK交響楽団(コンサートマスターはライナー・キュッヒル)を率い、安定した演奏で「ニーベルングの指環」最終章を飾った。

 ヤノフスキは、これまでの3作におけると同様、かなり速いテンポで坦々と音楽を進める。
 だがこの「坦々」は━━無数のライト・モティーフが複雑に織り成され、心理描写的にも、あるいは叙事詩的にも精緻を極める「神々の黄昏」の場合には、時に作品を上滑りに聞かせてしまうという危険性を生じさせかねない。
 今回も第1幕では、演奏がやや素っ気なく、無味乾燥な感も与えられる傾向が無くもなかった。第2幕冒頭のハーゲンとアルベリヒの場にはもっと魔性的な不気味さが欲しかったし、英雄の生涯を回顧する「ジークフリートの葬送行進曲」には、もっとコロス的な感動の表現が欲しい。

 しかしその一方、おそらくワーグナーの音楽の中で最も驚異的な、巨大な音の建築である第2幕後半などでは、ヤノフスキの率直な指揮がむしろ音楽本来の力をストレートに発揮させ、見事な迫力を生じさせていたのは事実である。ともあれ、4部作を通じてヒューマンな性格を感じさせる演奏を聴かせてくれたのは有難かった。

 N響もさすがの力感。これだけ堂々たる「指環」を演奏できるのは、わが国では他に読響と、それにおそらくは京響あるのみだろう。もし反響板がオーケストラの音をもっと客席にうまく響かせるように組まれていたら、さらに凄まじい音圧でワーグナーの「力」を堪能させてくれたのではないかと思う。

 歌手陣。
 ジークフリート役に予定されていたロバート・ディーン・スミスが来られなくなったということで、急遽アーノルド・ベズイエンに替わった。このツィクルスの「ラインの黄金」で、見事なローゲを聴かせた人である。
 代役としてよく頑張ってくれたことは確かだが、残念ながら、所詮彼は「ジークフリート歌い」ではない。声質、声量ともに所謂ヘルデン・テノールのタイプではないから、どうしてもひ弱な、あまり英雄とは言い難いジークフリートになってしまう。ちょっと気の毒だった。
 彼が今夜最も良かったのは、グンターに化けてブリュンヒルデを強奪する場面である。あそこはジークフリートが「声を変えて」歌う個所で、少し屈折した表現の歌唱を必要とする個所だ。それゆえ、ベズイエンの性格派歌手としての歌唱が生きる。

 その他の歌手陣は概ね見事だった。
 ブリュンヒルデ役のクリスティアーネ・リボールは、ドラマティック・ソプラノというには少し線が細いが、第2幕後半の「怒れるブリュンヒルデ」を、あの轟々と渦巻くオーケストラとよく拮抗して歌っていたし、山場の「ブリュンヒルデの自己犠牲」の場も、最後は多少体当り的に押し切ったような雰囲気もあったけれども、見事に持ちこたえていた。

 ハーゲン役のアイン・アンガーは、風格と声量、腹黒い歌唱表現など、全ての点でドラマの中心たる役柄としての存在感を発揮していた。第2幕の「ホイホー、ハーゲン!」の場であれだけ迫力を出せれば御の字である。
 アルベリヒ役のトマス・コニェチュニーはまさに適役、「ラインの黄金」に続き、邪悪な小人ぶり。第2幕冒頭のアンガーとの応酬は聴きものであった。
 グンターのマルクス・アイヒェは予想通り、この役の屈折した性格を巧く描く。演技を少し入れていたのは彼だけだ。おそらく、自分で考えて演技を入れたのだろう。とはいえ、彼やジークフリートを殺す役回りのハーゲンが全く泰然として動かないので、効果も半減したとも言えるが・・・・。

 グートルーネのレジーネ・ハングラーも安定した歌唱だった。素晴らしかったのはヴァルトラウテを歌ったエリーザベト・クールマンである。この知的で、表現力豊かな歌いぶりは、まさにメゾ・ソプラノの華ともいうべきものだ。以前聴かせてくれたフリッカ役とともに、出番は少なかったけれどもこのツィクルスで最も聴き応えのあった歌手のひとりだったといえよう。

 なお、脇役陣は日本人歌手で固められた。3人のノルンは金子美香、秋本悠希、藤谷佳奈枝。ヴォークリンデは小川里美。ヴェルグンデの秋本悠希と、フロスヒルデの金子美香は、それぞれノルンとの掛け持ち。
 合唱は東京オペラ・シンガーズで、かなりの大編成。第2幕ではそれに相応しい力感を出していた。

 映像は田尾下哲。「どうやっても悪口を言われる」気の毒な役回りだったのには同情する。
 今回も、さほど押しつけがましい映像はなかった。ラストシーンで、遥かに聳える神々の居城ヴァルハルが「火」に包まれるあたりは、初めてこの作品を聴く人にも多少は解り易いガイドとなったかもしれない。
 ただ、あのヴァルハルは、まるでディズニーの魔法の城か、「オズの魔法使」の城のような姿であり、このドラマにおける権力の象徴━━古代ゲルマン神話における世界最終戦争の際には「ヴァルハルの門から出撃して来るヴォータンの軍勢はあとを絶たなかった」というほど鬼気迫る存在のはずである━━としては、あまりに可愛すぎたようだったが、・・・・しかしいずれにしても、そんなに目くじら立てることもあるまい。

 それより気になったのは、今年もやはり字幕のことだ。
 異様に物々しく、かつ人間味のない表現の訳詞は、ある程度好みの問題もあろうからともかくとして、神々の世界では厳めしい台詞を、人間やラインの乙女たちの世界では俗語的な台詞を、といったように区別しているのかと思ったけれども、4部作を通じて振り返ると、必ずしもそうではなかったようである。その辺が一定していないと、「妻問いに来た」などという大時代がかった言葉をただ楽しんで使っているのかと誤解されかねまい。
 なにより問題だったのは、しばしば主語がはっきりしない個所があったこと、また「質問」なのか「独白」なのか区別のつきにくい表現が見られたこと、しかも表示される切れ切れの文章が、いったいどこまで連続した台詞になるのか見当がつき難かったことなどであった。担当しておられた方は優秀な評論家なのだから、このあたりをもう少し自分で客観的に字幕を「眺め」て、そのコツを会得していただきたいものである。

 30分の休憩2回を含み、8時25分終演。4年の歳月は、何と速く過ぎ去ったことだろう!

2017・4・2(日)東京・春・音楽祭 マルクス・アイヒェ・リサイタル

      東京文化会館小ホール  3時

 少し寒いが天気のいい日曜日、上野公園の人出はさすがに凄い。JR公園口の改札口は雑踏の極み、出るのにも時間がかかる。ぎりぎりに来なくてよかったと思ったほどである。

 今日のコンサートは、バリトンのマルクス・アイヒェの歌曲リサイタル。
 プログラムは、シューベルトの歌曲からは「さすらい人」「月に寄す」など7曲、そしてベートーヴェンの「はるかな恋人に」と、シューマンの「リーダークライスOp.39」。
 アンコールには、ベートーヴェンの「口づけ」、シューベルトの「音楽に寄す」、ワーグナーの「夕星の歌」、コルンゴルトの「ピエロの歌」が歌われた。協演のピアノはクリストフ・ベルナー。

 マルクス・アイヒェは、昨日の「神々の黄昏」(私は4日に聴く)でグンターを歌ったばかりでは? 
 弱音をも効果的に使ってデュナミークを巧みに対比させ、歌詞のニュアンスと発音を重視して緻密に表現するという知的な歌唱を聴かせる人だ。今日のようなドイツ歌曲(オペラからも2曲あったが)の場合には、完璧に近い出来になるだろう。 オペラを中心に歌う人の場合、概してリートはサマにならぬ傾向があるものだが、彼はそうではない。非常に幅広い表現力をもったバリトンのようである。楽しみな人だ。

 「リーダークライス」における叙情美の表現は、今日の白眉であった。ベルナーのピアノもすこぶる深味に富んでいるので、第5曲の「月の夜」での旋律と和声の組み合わせの美しさなど、例えようがない。
 シューベルトの「船乗り(舟人)D536」も━━かつて大歌手フィッシャー=ディースカウが、一つ一つの言葉を叩きつけるように激しく歌い、あらゆる試練に挑戦してやるぞという気概を表現したあの迫力には及ばぬとしても━━なかなか劇的な表情をもった歌唱であった。

 ━━それにしても、こと歌曲の世界では、シューベルトとシューマンの間に挟まれると、さすがのベートーヴェンも顔色なし、か。

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