2017-10

2017・2・27(月)METライブビューイング
   グノー:「ロメオとジュリエット」

      東劇  7時

 メトロポリタン・オペラ、今年1月21日の上演ライヴ映像。
 バートレット・シャー(シェア)による新演出で、指揮はジャナンドレア・ノセダ。

 出演はヴィットーリオ・グリゴーロ(ロメオ)、ディアナ・ダムラウ(ジュリエット)、ミハイル・ペトレンコ(ローラン神父)、ロラン・ナウリ(キャピュレット)、エリオット・マドール(マキューシオ)、ヴィルジニー・ヴェレーズ(ステファーノ)他。
 ティバルト役はMETのシーズンブックにも歌手名が載っておらず、スクリーンのクレジットも見逃したので、とりあえず不明。

 シャー(シェア)の新演出は、舞台装置(マイケル・ヤーガン)とともにストレートかつ基本的にトラディショナルなスタイルだが、細部はかなり綿密かつ演劇的につくり上げられていて、舞台転換の場面などもなかなか巧く考えられているので、まず過不足ない出来と言っていいだろう。
 ノセダの指揮もすこぶる壮大であり、グノーの音楽がシンフォニックに、劇的描写の巧みなものに聞こえる。

 主役の2人の歌唱が実に素晴らしく、演技も動きが激しく情熱的なので、他の脇役たちの物足りなさを補って余りある。METの前プロダクション(ガイ・ヨーステン演出)での、ライブビューイングでも紹介されたアラーニャ&ネトレプコのコンビに勝るとも劣らぬステージであろう。
 上映時間は休憩1回を含めて約3時間15分ほど。進行を担当したのはアイリーン・ペレス(ソプラノ)だが、彼女はMETデビュー自体がほんの2年前(ミカエラ役)というから、随分早く進行役に抜擢されたものである。

 なお、マキューシオ、ティバルト、ロメオらが決闘する場面は、今回は剣を使ったかなり派手なものになっていたが、欧米の歌手たちの大立ち回りの上手さにはいつも感心させられる。
 METの前プロダクションにおけるヨーステン演出の時にも、ジョン・健・ヌッツォがティバルト役で出ていて、彼もまた白刃を振りかざして凄い立ち回りをやっており、私はそれを現地でナマで観て、よくまあ怪我しないものだ、と冷や冷やした記憶がある。
 歌手たちも、そういう訓練をやるのである。昔マリインスキー劇場のリハーサル室で、剣を使っての決闘シーンの練習をやっていたのを見学したことがあるが、それはもう凄まじく迫真的なものだった。うっかり傍に近づくと、こちらが怪我しかねない迫力。なるほどさもありなん、と舌を巻いたものであった。

 因みに、あのヨーステン演出を私がMETで観た時には、主役の2人はラモン・ヴァルガスとナタリー・デセイだったが、第4幕では2人の「ベッド」が空中高く上がって行き、背景と舞台中に星がいっぱいに煌めき、しかもベッドから垂れ下がっているレースが風にはためき続けている━━という、非常に幻想的な仕掛けだった。
 もっとも私が観たあとの何回目かの上演では、舞台機構が故障してそのベッドが降りなくなって大騒ぎになった、ということもあったそうだが。

2017・2・26(日)新垣隆の室内楽コンサート

    Hakuju Hall  7時

 「音楽との出会いⅡ 室内楽の愉しみ ~作曲家・ピアニスト 新垣隆とともに~」というのがコンサートのタイトル。
 ドビュッシー~ウェブスター編の「小組曲」、ドビュッシーの「クラリネットとピアノのための第1狂詩曲」、プーランクの「城への招待」、ラヴェルの「ツィガーヌ」、新垣隆の自作「楽興の時」と「メロディー」、バルトークの「コントラスツ」。
 協演はクラリネットの西尾郁子とヴァイオリンの浜野考史(各ニューシティ管弦楽団の奏者・客員コンサートマスター)。

 新垣隆のピアノの才能は夙に知られているところだが、私は聴いたのが実は今日が初めて。野太い音色と強靭なタッチでフランス音楽を弾く。なかなかの腕前だ。━━ただし、トークは全然上手くない(?)。テレビで拝見したり、ラジオで聞いたりした時には、もっと上手いと思っていたのだが・・・・。
 今日は彼のソロはなかった。ジャズ的なアドリブを入れたりするのが巧いとの噂だから、次はそういうのを聴いてみたいものだ。

2017・2・26(日)ファウスト、ケラス&メルニコフ

    神奈川県立音楽堂  2時

 イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)、ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)、アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)がトリオを組んでの演奏会。現代の名手たちの三重奏とあって、「音楽堂ヴィルトゥオーゾ・シリーズ17」には満員に近い聴衆が詰めかけた。
 プログラムは、シューマンの「ピアノ三重奏曲第3番」、エリオット・カーターの「エピグラム」、シューベルトの「ピアノ三重奏曲第1番」と、これまた魅力的なものだった。

 最大のスリリングな体験は、やはりカーターの「エピグラム」だったであろう。3年前にピエール=ロラン・エマールらによって日本に紹介された時の演奏は聴いていなかったので、今日は興味津々であった。
 驚くべき作品である。鋭い音たちが断続しつつ、強い緊迫感をもって織り成して行く時間は、一瞬の安息をも与えてくれない。3人の演奏も凄いが、そもそもこの作品が103歳の高齢の作曲家によって書かれたということ自体に、信じられぬような、空恐ろしいような気がする(カーターは2012年に満103歳で亡くなっている)。

 一方、シューベルトのトリオは、私が好きな曲だし、これを目当てに聴きに行ったようなものだから、大いに堪能できた。ロマン派的な流麗な演奏とはほど遠い、一つ一つのフレーズを明晰にクローズアップするようなスタイルで演奏されるので、全体にごつごつした厳しい造型感が浮き彫りにされる。それだけに、シューベルト特有の絶え間ない転調がはっきりと印象づけられるが、これがまたこたえられない素晴らしさなのだ。

 天気が良く、春の近づきを感じさせる日だったからよかったものの、桜木町駅から音楽堂に向かう途中のあの「紅葉坂」だけは、やはり難所だ。たいした勾配ではないにもかかわらず、どうしてあそこは、いつもあんなにきつい坂に感じられるのだろう? 帰りはそこを矢のように(?)下って、京浜東北線、東急東横線、地下鉄半蔵門線、地下鉄千代田線と乗り継ぎ、代々木公園駅近くのHakuju Hallへ向かう。

2017・2・24(金)川瀬賢太郎指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団

      愛知県芸術劇場コンサートホール  6時45分

 第443回定期公演で、ショスタコーヴィチの交響詩「十月革命」、ハチャトゥリヤンの「フルート協奏曲」(ソロは上野星矢)、プロコフィエフのカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」(合唱はグリーン・エコー、アルト・ソロは福原寿美枝)。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 すこぶる意欲的なプログラムだ。重量感からいっても、先頃の井上&大阪フィルのショスタコーヴィチ2曲に勝るとも劣らないだろう。
 川瀬賢太郎のつくる音楽がスケールも大きく、風格もある。若い指揮者の成長ぶりを目のあたりにするのは、うれしいことだ。

 「十月革命」は、冒頭でのオーケストラの確信に満ちた音の拡がりからして立派である。名古屋フィルと、その「指揮者」のポストに在る川瀬との呼吸も、充分に合っているように感じられた。
 「アレクサンドル・ネフスキー」も、前半の、特に叙情的な部分では、重厚でありながら色彩感も湛えた情感豊かな演奏に心を打たれる。第5曲「氷上の戦い」の冒頭など、不気味な緊迫感に満ちて見事だったし、また後半の弦の叙情的な部分は、この上なく美しかった。

 ただし、ステージ下手側手前に配置された打楽器群は、異様に音が大きすぎた。「十月革命」の終結といい、「ネフスキー」のクライマックス個所といい、打楽器群が爆発すると、もう他の楽器が何も聞こえなくなり、音楽全体が混濁して、すべてが騒々しい混沌の状態になってしまうのはいけない。シンバルなど、ただ強引にぶっ叩くといった雰囲気で、バランスへの配慮も何もないように感じられる。
 特に「氷上の戦い」では、小太鼓が走り過ぎるのか、それとも低弦や合唱が遅れるのか、とにかくステージの下手側と上手側の楽器のリズムが全く合っていなかったのはどういうことか? 

 声楽部分では、第6曲「死せる野」で歌った福原の深みのある、暗い音色のアルトは、まさにこの曲にぴったりだろう。彼女はこういう厳しい曲想の音楽に関しては、最高のはまり役だ。
 一方、コーラスは何語で歌っているのか判然とせず、ほとんどロシア語のようには聞こえなかったが、これはまあ仕方がないだろう。

 この2曲の間に演奏された「協奏曲」は、私はやはり原曲の「ヴァイオリン協奏曲」の方がハチャトゥリヤンらしく野性美も豊富だし、音量的にもバランスが取れているので好きなのだが、しかし今日のフルート協奏曲編曲版における上野星矢のヴィヴィッドな演奏は、愉しめた。
 8時50分頃終演。新幹線で引き返す。

2017・2・23(木)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフが聴かせてくれたのは、ストラヴィンスキーの「ロシア風スケルツォ」と「火の鳥」組曲(1945年版)と、その2曲の間にプロコフィエフの「交響的協奏曲(チェロ協奏曲第2番)」。
 チェロのソリストがアンドレイ・イオニーツァ、コンサートマスターは近藤薫。

 「ロシア風スケルツォ」が、異様に遅いテンポで演奏されたのにまず驚く。
 多くの指揮者が採るような軍楽調の元気のいいテンポだって、あまりスケルツォ的な雰囲気にはならないと思うけれども、こんな重々しく揺れ動くような演奏では、ますますスケルツォのイメージから遠くなる。
 「ロシア風」という題名ゆえに、もしやロシアではこういうスタイルが基準になっているのかと気になり、あとで二、三のCDを調べてみたが、どうもそうでもなさそうだ。やはりプレトニョフ独自の解釈なのだろう。

 「火の鳥」も遅めのテンポでじっくりと進め、特に大詰の個所では悠然と間を取りながら締め括った。
 それは些か劇的効果を薄めていたのは事実だが、近年のプレトニョフの指揮には、昔の颯爽とした音楽運びを売り物にしていた時代にはなかったような不思議な「色合い」と「味」が備わるようになっており、それが全てを救っていたことは事実だろう。

 ただし、今の彼は、かつてのような、きりりと引き締まったアンサンブルを東京フィルに求める気はないようで、それが今日の演奏では、必ずしもいい効果を生んでいなかったようである。曲の終り近く、オケが揃って分厚い和音を響かせるくだりで、初めてアンサンブルの威力が発揮されたという感であった。

 「チェロ協奏曲」では、何しろソリストのアンドレイ・イオニーツァ(ブカレスト生れ、今年23歳)が痛快無類の演奏である。2015年のチャイコフスキー国際コンクール優勝者の本領ここにあり、という快演だ。曲がまた豪快で物凄いから、演奏もまたラフ・ファイトのごとく、オーケストラにつかみかからんばかりの勢いになる。その一方、叙情的な個所での瑞々しさも光っていた。実に面白い。
           ☞別稿 音楽の友4月号  Concert Reviews

2017・2・22(水)井上道義指揮大阪フィル東京公演

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 先週の大阪での定期公演と同じプログラム、ショスタコーヴィチの交響曲「第11番」と「第12番」を引っ提げての東京公演。チケットは完売とか。

 今日は浜離宮朝日ホールでマーク・パドモアとティル・フェルナーの「冬の旅」があり、当初はそちらを聴きに行く計画だったのだが、大阪での井上と大フィルとがあまりに入魂の演奏だったので、もう一度聴いてみたくなった、というのが、池袋へ足を向けた所以である。

 フェスティバルホールと、ここ東京芸術劇場とでは、アコースティックが全く異なる。前者に比べ後者は残響が多いので、大阪で聴いた時よりは音に膨らみと余韻が感じられる。 
 ただ━━いつも座る2階席正面で聴いた限りでは━━今日は妙にティンパニの音が鈍重に唸って「回り気味」で、そのためフェスティバルホールで聴いた時のような歯切れの良さや小気味よいダイナミックな衝撃性が、かなり失われた感があったのは惜しい。これは多分、楽器の位置の問題から生じたものではないかと思われる。大阪フィルはこの東京芸術劇場には慣れていないはずだから・・・・。

 だがそうしたことを別にして、井上道義と大阪フィルは、今夜も大熱演を聴かせてくれた。

2017・2・21(火)音楽×ダンス×スイーツ

   Hakuju Hall  7時

 「第4回アート×アート×アート〈音楽×ダンス×スイーツ〉チェンバロと踊る”お菓子“な世界 ~聴覚、視覚、味覚で体験する驚異のコラボレーション」というのがコンサートのタイトル。
 出演は、鈴木優人(チェンバロ)、菊地賢一(パティシェ)、TAKAHIRO(上野隆博)ら計5人のダンサーたち。

 鈴木優人が、バッハの「半音階的幻想曲とフーガ BWV903」、クープランの「神秘的なバリケード」、ラモーの「めんどり」と「未開人の踊り」、武満徹の「夢見る雨」、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」からの「アリア」、マドンナの「ハング・アップ」を弾く。
 同じステージでTAKAHIROら5人のダンサーたちが踊り、上手側では菊地賢一が菓子をつくる。
 そして3人のトークが入る。

 ━━こう書いただけでは何が何だか解らぬ滅茶苦茶なステージのように思えてしまうだろうが、実際にはこれらが不思議な調和を醸し出して、お客を笑わせ愉しませ、演奏をもちゃんと聴かせるというコンサートになるのだから、面白い。
 たとえば、演劇風のダンスが続いていた瞬間に舞台上の全員の動きがストップし、間髪を入れず「ゴルトベルク変奏曲」が始まるというその取り合わせの可笑しさは、実際にそれを見、かつ聴いてみると、実に納得が行くのである。

 その間には、ダンスの「音ハメ」を実験してみせたり、3分間の演奏の中でスイーツを作ってみせたりという余興も入る。ホール内には、最初から美味しそうな香り(チョコレートの香りだとか)が漂う。
 休憩時間にはパティスリー「レザネフォール」による数種類のスイーツがチケット所有者に振舞われ、ホワイエは大混雑だったようだ。私はもう初めから争奪戦参加は諦めて、客席に残っていたのだが、結局最後にマカロンなど2個にありつくことができた。

 一風変わったチェンバロ・コンサートではあるが、このように既存の枠を外した演奏会は出来るものなら何でもやってみるのがいい、と私はふだんから思っている。結果さえ良ければ大いに結構ではないか。
 まあ、今回は、もう少しダンスが積極的に音楽に絡み、もっとスイーツの製作が演奏行為と関連づけられるような手法が欲しかったところではあるが。

 なお、演奏が行われているその同一平面上でダンスが繰り広げられるのは、何か煩わしくなるのではないか、と、見たり聴いたりする前は危惧していたのだが、意外に違和感がない。チェンバロ・コンサートの場合には、バロックだろうと現代音楽だろうと、むしろうまくマッチングするようだ。
 それは鈴木優人さんがステージで語っていたように、チェンバロの「音」の性格によるものなのだろう。ギイ・カシアスやアンドレアス・クリーゲンブルクがワーグナーの「指環」の音楽と舞台にダンスを入れた上演が煩わしさを感じさせた例とは、そこが違うようである。

2017・2・19(日)笈田ヨシ演出、中嶋彰子主演「蝶々夫人」

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 笈田ヨシのオペラ演出を拝見するのはこれが最初なのだが、舞台上の演技や性格描写がかなり細かいのに驚いた。
 未整理に感じられるところはあるとはいえ、コンサートホールという制約の多い舞台で、これだけ細部まで神経を行き届かせ、性格描写に重点を置いた演出をつくり出したのは立派であったと思う。

 たとえば終幕で、ピンカートン(ロレンツォ・デカーロ)に対し、これだけ激しい怒りと軽蔑感を露わにした領事シャープレス(ピーター・サヴィッジ)は稀ではなかろうか。
 ピンカートンの新妻ケート(サラ・マクドナルド)の存在は、旧版スコアから一部が再現されて挿入されることにより、蝶々さんとのやりとりを通じて、明確になった。スズキ(鳥木弥生)は第1幕でピンカートンの揶揄を毅然と撥ねつけ、蝶々さんとの愛を見据えた上で彼女を守ろうとする女性として描かれた。

 そして、蝶々さん(中嶋彰子)自身も、第2幕の最初からピンカートンがもう帰って来ないのではないかという疑いを内心に抱き、不安に脅えているという演出である。「ある晴れた日」を歌い終ってからの後奏の中で、みずからも絶望に近い状況まで落ち込んでしまうという設定など、その一例だろう。

 第1幕で、蝶々さんがピンカートンに伝来の脇差を見せるくだりで、背景の紗幕の奥に、名誉を守って自決した彼女の父親の幻が登場するという場面がある。こういうのは無くもがなという感じがしないでもないが、ただその亡霊(?)が予想通り、彼女が死を決意する場面で再び姿を見せるのは、人は名誉を重んずべきだというコンセプトを暗示することになるので、悪い発想ではないだろう。

 興味深かったのは、第2幕での蝶々さんの家の暮らしが、着ている服を含めて第1幕とは全く異なり、平凡な農家風のものになっていることだった。これは納得の行く手法である。
 また終場面で、彼女はそれまで家の一角に「掲揚」してあった巨大な米国国旗を引き抜き、それを床に打ち捨てる。信じていたアメリカに裏切られた失望と怒りを表わすものとして当を得ているだろう。
 この国旗は周旋人ゴロー(晴雅彦)が第1幕でアメリカ人に卑屈に阿るがごとく打ち振りながら運んで来たものだが、このあたり、私もおぼろげながら記憶している敗戦後の日本の世相を思い出させる。そうなると、蝶々さんが、アメリカでの裁判は正義で公正なのだと言い張る場面にしてからが━━彼女が単なる無邪気で無知な少女ではないという性格づけで描かれているこの演出ゆえになおさら━━アメリカが正義の国だと思い込んでいた戦後の日本の世相を風刺しているかのようではないか。

 ラストシーンは、蝶々さんが脇差を手にして毅然と立つところで物語は終る。鮮血にまみれて子供に手を差し延べるといった演出は採られない。お涙頂戴の幕切れよりも、この方が名誉のために死すというコンセプトが強く感じられるような気がして、私は気に入った。

 歌手陣は、みんな演技も巧いし、歌唱も水準に達していただろう。中嶋彰子の蝶々さんは、所謂イタリアオペラ的なカンタービレを聞かせるというスタイルとは違い、性格派歌手とでもいったニュアンスの濃い表現であり、この演出の目指すところとは一致しているのではないかと思う。

 演奏は読売日本交響楽団、指揮はドイツのミヒャエル・バルケという若手。
 歯に衣着せずに言わせてもらえば、オーケストラと歌手の声とが、全く溶け合わない。特に第1幕は、どうしようもない出来であった。
 編成の大きい読響は、今回は舞台手前の客席を潰して設けられたピットの位置に配置され、いつものようによく鳴り響いていた。それは別に悪いことではなく、劇的効果を出すためには、ある程度以上のオケの音量は不可欠である。
 問題は指揮者が、巧く声を浮き出させるようにオケを鳴らすことが出来なかったということにあるだろう。

 以前、準・メルクルが語ってくれたことだが、オペラに長じた指揮者は、例えばあの「ヴァルキューレの騎行」のようにオケが轟々と鳴り響く瞬間にも、オケと声楽のバランスを巧く取り、声楽パートをはっきりと聴かせる「マジック」(メルクルの表現による)を心得ているそうである(どんなマジック?と訊いたら、それは秘密ですよ、と笑っていたが)。
   別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2017・2・18(土)井上道義指揮大阪フィル ショスタコーヴィチ2曲

     フェスティバルホール(大阪)  3時

 第505回定期の2日目。
 ショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》」と「交響曲第12番《1917年》」を一夜のプログラムに組むという、まさに破天荒な定期だ。こんな物凄いプログラムは、私もこれまで聴いたことがない。

 内容としては、前者が「血の日曜日」、後者が「十月革命」で、ロシア革命の通史を描くようなものであり、かつ音楽に双児のような性格の部分が無くもないのだから、一緒にやる理屈は充分に立つ。とはいえ、なんせその音楽的な重量感が凄い。演奏時間も各々65分と40分の長さ。休憩を含め、終演は5時20分、ということになる。いかにも井上道義らしい斬新なプログラミングだ。
 彼はこの日が大阪フィルの首席指揮者としての最後の定期になる。3年前の4月、ショスタコーヴィチの「第4交響曲」で幕を開けた彼の首席指揮者としての活動は、再び得意のショスタコーヴィチの交響曲で幕を閉じるというわけであった。コンサートマスターは崔文洙。

 ところで、今日は初めて、このホールのバルコン席(下手側)に座ってみた。
 ペア席なので、知人の女性新聞記者を━━高所は苦手だと嫌がるのを強引に頼み込んで付き合ってもらったのだが、いざ桟敷席に向かって一歩足を踏み出した瞬間、ワッという感覚。想像していた以上に、高所感が強い。眼下に拡がる客席に目をやった瞬間、くらくらするような感覚になる。
 高所感という点では、他のホールにもこれより強く感じられる場所も数多くあるが、ここフェスティバルホールのバルコンは、席全体が空中に突き出ているので━━空中浮揚感というのか、それがちょっと慄きを呼ぶのである。金属製の手摺がステージへの視覚の上で若干障害になるが、この手摺が無かったらもっと怖いだろう。

 さてこの下手側バルコン席で聴く音だが、ステージを斜め上から見下ろす位置なので、今日の編成の場合は、ヴァイオリン群を上から、チェロやコントラバスなど低弦群を正面から聴くことになる。したがって、弦の響きは素晴らしい。昔好きだった東京文化会館大ホールの4階下手側舞台より最前列の席に似たようなアコースティックである。
 「第11番」第1楽章の弱音の弦など、極めて拡がり豊かに、ミステリオーゾに感じられた。この弦とハープによるアダージョの個所が、これほど静謐な大空間を感じさせ、美しく聴けたのは初めてかもしれない。もちろんそれは、演奏の所為もあっただろう。また「第12番」冒頭の弦も、たっぷりと豊かに聞こえ、豪壮なスリルを味わわせてくれた。

 このバルコン席、大編成の管弦楽のあらゆる楽器が明晰に聞こえて来るのは、もちろんそれはそれでいいのだが、その一方、どの楽器も音量的に均等に聞こえてしまい、楽器群に距離感や奥行き感といったものが薄れてしまうという傾向もある。
 特にそれが最強奏で轟く瞬間になると、拡がる弦よりも咆哮する金管が強く聞こえ、更にそれよりも絶叫するピッコロなど高音の木管群が強く聞こえ、なおそれよりも怒号する打楽器群の方が強く耳に入って来る結果となる。

 しかし、この日の井上と大阪フィルの演奏は見事だった。
 「11番」では、特に第1楽章 の形式感が明晰に整理され、刻々と変わる色合いが浮き彫りにされて、些かも長さを感じさせない。血の修羅場を描く個所は壮絶であり、斃れた同士を悼む革命の歌も情感に富んでいる。
 ただ、第4楽章終り近くでのコール・アングレの長い歌は、スコアの指定では「p」が基本だが、かなり強くリアルに、武骨に感じられた。これは、必ずしも席の位置による印象とは言えないようである。もう少し哀調を籠めた挽歌として歌われれば、感動もひとしおだったのではなかろうか。

 これ1曲だけでもういいんじゃないか、と思えるような重量感のある演奏だったが、さらに20分の休憩を挟んで「12番」が始まると、これまた実に密度の濃い演奏だったので、一気に引き込まれてしまう。
 オーケストラのまとまりとしてはこちらの方が良かったように思えるが、それは作品の性格の所為もあっただろう。ショスタコーヴィチの作曲技法が明らかに円熟に向かいつつあるということが、この2曲を「ナマ演奏で」続けて聴いてみると、まざまざと感じられて来るのである。

 最後の頂点での井上の指揮はまさに入魂というべきもので、管弦楽の響きはいっそう濃密になり、調和のハーモニー、均整の坩堝、豪快な熱狂に満たされた。彼の大阪フィルとの活動の総決算に相応しい昂揚の瞬間であった。

 その大阪フィルの演奏も、2曲を通じてアンサンブルも濃密、金管のソリも良く、ティンパニは張りのある響きで強い存在感を示していた。あらゆる意味で、大阪フィルの底力を示した演奏会であったろう。

 井上は、こうして、首席指揮者としての最後の定期公演を本領発揮で飾った。彼と大阪フィルの演奏を全部聴いたわけではもちろんないけれども、今日のそれは、おそらく彼の大阪フィル時代における最高の演奏だったのではないか、と想像する。さすがショスタコーヴィチの交響曲に愛情と熱意を注いでいる井上ならではの指揮だ。
 彼の大阪フィルの首席指揮者としての期間はわずか3シーズンと短く、しかもその最初の年は闘病のためほとんど振れなかったので、不本意なことが多かったろう。オケの側からしても同様だったと思う。だが、今回の定期で、彼の名は大阪フィルの歴史に刻まれるだろう。

 今後ももちろん、井上の大阪フィルへの客演はある。22日には同一プログラムで東京公演があるし、次のシーズンの定期への客演は18年3月にもある(やはりショスタコーヴィチで、「2番」と「3番」だ)。定期以外にも、ブルックナーの「5番」やバーンスタインの「ミサ」を指揮するコンサートがある。

 何度かのカーテンコールの最後に、井上は指揮台の上から客席に向かって答礼した姿のまま、長いあいだ動かなかった。それからゆっくり指揮台を降り、今度はオーケストラに向かって静かに頭を下げたのち、ステージを去って行った。
       別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2015・2・11(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

    NHKホール  6時

 A定期。
 ペルトの「シルエット━━ギュスターヴ・エッフェルへのオマージュ」(日本初演)、トゥールの「アコーディオンと管弦楽のための《プロフェシー》」(同、ソロはクセニア・シドロヴァ)、シベリウスの「交響曲第2番」というプログラム。

 パーヴォ・ヤルヴィが首席指揮者になって以降━━デュトワ音楽監督時代以来久しぶりに、と言おうか━━N響定期にもこのような斬新なプログラミングが現われるようになったのは歓迎すべきことであろう。
 エストニアの2人の作曲家による2つの現代曲も、いずれも透き通るような清澄さを湛えた美しい作品だし、所謂「現代音楽嫌い」のお客さんにもストレートに受け入れられたのではないかと思う。
 エストニアとフィンランドの音楽が好きな私も━━この2つの国の名だけを並べて挙げても、特に見当外れと言われることはあるまい━━今日のプログラムは大変心に響くものであった。

 とはいえ、後半には、本当はニールセンの交響曲でもやってもらいたかった、というのが本音なのだが、独特の好みを持った聴衆で固められているN響の定期としては、そこまでの選曲は無理なのであろう。
 しかし、今日のシベリウスの「第2交響曲」は、パーヴォ・ヤルヴィとN響が、もう完全に良きコンビとして固い絆を結ぶのに成功した、ということを示す演奏ではなかったか? 

 響きのドライなこのNHKホールで、これだけ翳りの濃い、重厚でありながら鈍重なところは少しも無い音を響かせたのは、たいしたものだと思う。特に終楽章のコーダで、全管弦楽が一体となって、あたかも深い霧の奥から響いて来るようなくぐもった音色で頂点を築いたのは、見事なものだった。
 いかなるスペクタクルな、力感で押し切った演奏よりも、このような陰翳豊かなシベリウスのほうが、心に響く。

2017・2・6(月)METライブ・ビューイング ヴェルディ:「ナブッコ」

    東劇  6時30分

 今年1月7日の上演ライヴ。ジェイムズ・レヴァインの指揮、エライジャ・モシンスキーの演出。
 主役歌手陣は、プラシド・ドミンゴ(ナブッコ)、リュドミラ・モナスティルスカ(アビガイッレ)、ディミトリ・ベロセルスキー(ザッカーリア)、ジェイミー・バートン(フェネーナ)、ラッセル・トーマス(イズマエーレ)。

 このプロダクションはおそらく、現在METで上演されているものの中では、最も古いものの一つではないか。
 ジョン・ネイピアの舞台装置こそ豪壮だが、合唱はほぼ全部にわたって「直立して客席を向き」だし、登場人物たちも演技というよりは曖昧な動作しかしていないという舞台で、すこぶる保守的なものである。要するに立派な舞台装置を使ったセミ・ステージ上演に近いものと言っていいだろう。

 私はどういうわけか、これをMETの現場で2回観ている。最初はプレミエのシーズンの2003年3月22日、次が2011年11月5日のことだった。
 特に2003年の時は、アメリカがイラク戦争を開始した3日後(NY時間)という、マンハッタンも穏やかならざる雰囲気に包まれているさなかのことだったのである。その時には、ナブッコ王率いるバビロニア軍が侵入して来るシーンで、巨大な戦闘用の「棒」が門をバリバリと破壊しながら突っ込んで来るという物凄い演出があって、折も折とて不気味な思いに駆られたものであった。

 だがその演出設定は、その後消えてしまい、ただナブッコが歩いて入って来るという、どうということもない演出に変えられてしまった。今回もそういう形である。いちいちぶっ壊していては修理が大変で、制作費がかかり過ぎるということなのか、それともあの棒が何か別のことを連想させるとかいうクレームでも出たのか?
 大詰近くの偶像破壊のシーンも、最初観た時にはもっと何かあったはずだと思うが、二度目に観た時も、今回も、何も行なわれていなかった。

 だが、もちろんヴェルディの音楽はいいし、レヴァインの指揮もいい。病から復帰したあとのレヴァインの音楽は、昔とは全く違って、一種ハートフルな温か味と、猛烈な熱気といったものを感じさせることは、既に書いたとおりである。

 それに今回は、ドミンゴの存在が大きい。バリトンのパートをテナーの音色で歌うという形である。声のパンチに不足しているのは仕方ないけれども、やはり巧い。零落した失意のナブッコと、それが正気を取り戻し、威厳を蘇らせた瞬間の歌と演技の表現などは、さすがの味があった。
 それにしても、70歳代半ばという年齢で、あれだけ歌えて演技が出来るのだから、全く驚異的である。

 その他の4人の主役たちが、揃いも揃って「偉大な体格」というのは、最近のオペラの舞台ではむしろ珍しいだろう。
 その中でも、アビガイッレ役のモナスティルスカは、強靭な声と馬力で、圧倒的な勢いだった。特に第2幕のあの有名なアリアで、ライヴの上演ではどの歌手ですら声の負担を避けてカットしてしまう個所をも、完全にノーカットで高らかに歌い切ったパワーは、もう見事というほかはなかった。

 休憩1回を含み、9時半少し過ぎ終映。

2017・2・5(日)ウラジーミル・フェドセーエフ指揮NHK交響楽団

      いわき芸術文化交流館アリオス 大ホール  3時

 JR常磐線のいわき駅から徒歩15分ほどの距離、いわゆる「いわきアリオス」のホールを初めて訪問。

 この会館は、大ホール(客席数1705)、中劇場(687~517席)、小劇場(233席)、音楽小ホール(200席)を擁する大規模な施設だ。クラシック音楽から演劇まで、多種多様な催事が行なわれている。
 今日コンサートを聴いた大ホールは、ステージの天井が高く、ちょっとオーチャードホールに似た構造で、客席は4階まである。客席の壁がちょっと変わった造りで、彫刻刀で彫り込んだような感じのデザインの板が上下何層にもわたって並んでいるのが眼を引く。私はつい、海産物を並べて干してある漁村の光景を連想してしまったのだが・・・・。

 演奏会は「第6回NHK交響楽団いわき定期演奏会」と題されている。おなじみフェドセーエフの指揮で、ムソルグスキーの「禿山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編曲版)、ハチャトゥリヤンの「仮面舞踏会」組曲、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」及び「1812年」というロシア名曲プロ。
 「1812年」では、東京混声合唱団と、いわき市立高坂小学校合唱部、いわき市立平第三小学校合唱部が協演していた。なかなか賑やかな演奏会である。コンサートマスターは伊藤亮太郎。

 音響は永田音響設計の手によるものだという。1階席ほぼ中央で聴いた範囲では、音の分離が極めてよく、明晰な響きに聞こえる。ステージに奥行きがあるので、金管など距離感があって、平べったい響きにならず、クラシック音楽のオーケストラに適したアコースティックになっているのがいい。ただ、明快過ぎるあまりに、音のふくらみには少々不足し、所謂重厚壮大なオーケストラ・サウンドを味わいたいという向きには、やや物足りないかもしれない。

 休憩後に「ロメオとジュリエット」が始まると、さすがにその前の2作品に比べるとよく出来ているという気がして来る。だがそれは、フェドセーエフとN響の演奏が、この曲から突然引き締まって来た所為もあるかもしれない。特に弦のカンタービレが美しい。フェドセーエフの指揮には、若い頃とはもう大きく違い、テンポやデュナミークにも老巨匠のそれらしい落ち着きがあふれている。

 「1812年」でも、フェドセーエフの「もって行き方」はさすがに巧いなという気がする。演奏によっては騒々しいだけの陳腐な作品というイメージに陥りかねないこの曲を、彼は巧妙な演出により、変化に富んだ表情で聴かせてくれた。
 特に今回は、合唱と、最後にバンダ(ステージ前方の上手側と下手側)を入れたのが効果的だったであろう。合唱としては、東混が冒頭部分と大詰めの個所で歌い、前記の少年少女合唱が、中ほどの民族舞踊のような個所を歌ったほか、大詰めの部分でも参加した。
 男声のみの東混がおそろしく雑然とした合唱だったのに比べ、後者の子どもたちは、この日のために一所懸命練習を重ねたというだけあって、出番は全部で僅か1分足らずだが、見事に澄んだ爽やかな声を聴かせてくれた。さすが、「合唱の福島県」と謂われるだけのことはある。

 アンコールでは、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の旋律が始まったが、それなら当然一緒に歌うのだろうと思っていた合唱は入らず、オーケストラだけの演奏のあの曲で終ってしまったのには拍子抜け。折角合唱団が並んでいたのにもったいない。練習する時間が無かったのだろう。

 お客さんは、初めのうちはややおとなしい感じではあったが、「ロメオとジュリエット」のあとでは演奏の出来に敏感に反応し、急に拍手も大きくなり、上階からはブラヴォーも飛び始めた。なかなか耳が鋭い。━━「1812年」では、地元の子どもたちに人気が集まった感で、登場した時から私の隣の女性は舞台に向かって手を振っているという具合であった。

 品川━いわき間は、特急「ひたち」で(「スーパーひたち」はもう無い)約2時間半強。水戸から先の停まる駅の多さも含め、中央本線の「スーバーあずさ」といい勝負か。ただし車両は「ひたち」の方が遥かに良い。
    モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2017・2・3(金)山田和樹指揮の「カルメン」

     東京文化会館大ホール  6時30分

 日本オペラ振興会の制作によるビゼーの「カルメン」。
 ダブルキャストで、初日の今日はミリヤーナ・ニコリッチ(カルメン)、笛田博昭(ドン・ホセ)、須藤慎吾(エスカミーリョ)、小林沙羅(ミカエラ)、伊藤貴之(スニガ)、平野雅世(フラスキータ)、米谷朋子(メルセデス)、安東玄人(ダンカイロ)、狩野武(レメンダード)、押川浩士(モラレス)。
 そして藤原歌劇団合唱部と東京少年少女合唱隊、平富恵スペイン舞踊団、日本フィル、山田和樹(指揮)、岩田達宗(演出)という顔ぶれである。

 今回の「カルメン」で、最も注目を集めていたのは、山田和樹の指揮だったろう。
 ピットでの指揮経験が少ないにもかかわらず、神経の行き届いた指揮で、かつ情熱的にオーケストラを構築、劇的な盛り上がりと緊迫感をも打ち出していた。聴いていて、ビゼーの音楽の美しさを堪能できた個所もいくつかあったのは確かである。オペラの指揮としては、特に歌との微妙な絡み合いの点で未だ練れていない部分があるのも事実だけれど、それは今後に期待すべきこと。とにかく、彼の新たな快進撃は嬉しい。

 オーケストラは、これもオペラのピットに入るのが久しぶりという日本フィル。思いのほか━━と言っては悪いが、大熱演がうまく「決まって」いた。細かいところはともかく、その沸騰した熱っぽい演奏は賞賛されてよい。ピットで無気力なパワーのない演奏をするオケほど、オペラをつまらなくするものはないのだから。

 かようにオケ・ピットは満足すべき水準にあったのだが━━この日の歌手陣には、どうも問題が多いようだ。それはやはり、最終的には指揮者が責任を負わなくてはならないことなのだが。

 先ずタイトルロールのミリヤーナ・ニコリッチ。
 長身で、財前直見と木の実ナナを合わせたような顔をしていて、可愛いし、演技もそれなりに悪くないのだが、肝心の歌がいけない。音程が非常に粗雑であるだけでなく、声が所謂「ぶら下がり」状態になってしまい、曲がまるで違う旋律のように聞こえたことも一度や二度ではなかった。
 昨年東京芸術劇場で「サムソンとダリラ」のダリラを歌った時には、曲想の違いもあるのだろうが、こんなに気にならなかったのだが━━いったいどうしたことか。

 自分勝手に崩して歌っていいということになっていたのなら、指揮者とどのような打ち合わせになっていたのか? とにかく、「セギディリア」以降、幕を追うごとに音程が崩れて行くのだから、聴いていて落ち着かぬことこの上ない。
 しかしこれは、エスカミ-リョも似たようなものだったろう。聴かせどころの「闘牛士の歌」からして、いくらなんでも、今の時代には、もう少し正確に歌って欲しいものである。

 だがそういった中で、ドン・ホセの笛田博昭は、歌唱面ではもちろん、演技の面でもよく健闘していた。軍人ホセとしては稀勢の里さながらの不愛想な顔付で押し、第3幕以降で失意に陥って行くあたりの表情は船越英一郎が顔を顰めたような顔になって、すこぶる人間的で良かった。

 演出は岩田達宗。スケール感を備えた舞台である。第3幕の幕切れで、ホセがいつまでも慟哭しているという演出は少々凝り過ぎかとは思ったが、第2幕冒頭のジプシーの舞踊場面は豪華絢爛として、このオペラに相応しい光景であった。
 そしてまた、煙草工場の女工たちやジプシーたちが生き生きと熱っぽく演技し、兵士たちを除く脇役・端役たち(合唱団)が舞台を引き締めていたことにも触れておきたい。
 第4幕幕切れでは、斃れたカルメンの周囲に血の輪が大きく拡がり、また背景の「血のような赤い色をした月」がいよいよ巨大に迫って来るという光景もいいだろう。

 主人公たちの演技にも、かなり細かい設定がなされていたのがいい。
 第1幕幕切れ、ホセがカルメンを逃がすことを決心するくだりでは、彼が「大切な」はずの母親の手紙を握り潰してしまう、という細かい演出も目を引く。
 また、第3幕終結近く、ホセがカルメンの首を絞めるなど常軌を逸した行動に出、これがカルメンをしてエスカミーリョに気持を走らせてしまい(ちょうど遠くから闘牛士の歌声が聞こえて来る)、あるいは第4幕でも、ホセがカルメンの顔を何度も殴打するという設定があり、これが僅かに残っていたであろう彼女のホセへの同情の念を完全に失わせてしまう、といったような、━━つまりカルメンがホセを棄てたのは、カルメンの移り気の所為だけではなく、ホセの行動にもその原因があったのだ、という解釈が行われていたような気がして、大変興味深い。

 もう一つ、ホセとエスカミーリョの決闘場面(第3幕)でも、アルコア版のような長さをもたぬギロー編曲版を巧くカバーし、闘牛士がホセを一度は打倒しながら逆襲されるという設定にして、そのあとの闘牛士の「勝負は互角だな」という歌詞に矛盾を生まぬよう描き出すという演出は、実に当を得たアイディアだったと思う。

 こうした演技を、カルメンも、ホセも、エスカミーリョも、見事にこなしていたのは確かである。ただ一つ、ミカエラのみ、要所で「アリアを歌う」類型的なポーズを取ってしまうのが、演技のバランスを壊す結果を招いているような印象があって、少々気になる。

 今回は前出のように、ギロー編曲による旧慣用版が使用されていたが、細部では、特に第2幕などでいくつかカットがあったようである。第4幕は間奏曲のあと、「物売り」の場面を省略し、いきなり闘牛士たちの入場場面から始められたが、これは意外に不自然さを感じさせない手法だったようだ。
 とにかく、話題豊富な「カルメン」だった。

2017・2・3(金)ユッカ=ペッカ・サラステ指揮新日本フィル

      すみだトリフォニーホール  2時

 これは「アフタヌーン・コンサート・シリーズ」のひとつ。
 平日午後のコンサートが結構多くの聴衆を集めているというのは最近の傾向だが、この日もメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」とチャイコフスキーの「交響曲第4番」という「名曲プログラム」であることも手伝って、なかなかの入りであった。もっとも、天下の名指揮者サラステの初客演が、2回(土・日)公演とはいえ、平日マチネーでは、ちょっともったいないような気がしないでもない。

 協奏曲では、レイ・チェンが例のごとく元気のいい、勢いにあふれたソロを聴かせてくれた。今年28歳、勢いに任せた荒っぽい演奏ではあるが、若者ゆえの気魄は気持がいいものだ。
 サラステもまた、オーケストラをかなり勢いよく鳴らす。チャイコフスキーではそれがエネルギッシュな力を生んでいたが、━━新日本フィル、このところ少し荒れ気味ではないか? 例えば冒頭のファンファーレなど、かつての好調時と、どこか違う。
         別稿 音楽の友3月号 Concert Reviews

2017・2・1(水)野田秀樹演出「足跡姫~時代錯誤冬幽霊」

     東京芸術劇場プレイハウス  2時

 野田秀樹作・演出による演劇、「NODA MAP」第21回公演で、「時代錯誤冬幽霊」には「ときあやまってふゆのゆうれい」とルビがふってある。
 1月18日にフタを開け、3月12日まで、昼夜2回公演も少なからずあり、休演日は僅か8日を数えるのみというから凄い。

 出演者は、宮沢りえ(三、四代目出雲阿国)、妻夫木聡(淋しがり屋サルワカ)、古田新太(売れない幽霊小説家)、佐藤隆太(戯〈たわ〉けもの)、鈴木杏(踊子ヤワハダ)、池谷のぶえ(万歳三唱太夫)、中村扇雀(伊達の十役人)、野田秀樹(腑分けもの)といった人々。

 ヒロインの名を見れば、これが1600年代初頭に出現した「女歌舞伎」に関連のある物語だということはすぐ判るが、さりとて歴史を「理有」(りある)に描いたドラマではもちろんない。
 野田秀樹らしい、いつもの「言葉の遊び」が横溢した芝居だ。「売れない幽霊小説家(売れないゆうれいしょうせつか)」が「うれない」━━つまり「う」と「れ」が無いのであれば、「由比正雪か?」と誰何される立場となって、将軍暗殺を狙うテロリストに早変わりするといった具合で━━。

 芝居運びの巧さと、宮沢りえや妻夫木聡ら、出演者全員の早口台詞の明快さと芝居達者に感嘆したひととき。15分の休憩1回を含み、4時40分終演。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」