2017-07

2017・1・31(火)カンブルラン指揮読響 メシアン「彼方の閃光」

      サントリーホール  7時

 読響第566回定期。
 オリヴィエ・メシアンの「彼方の閃光」(演奏時間約75分)1曲だけのプログラムで「完売」とは、驚くべき世の中になったものである。

 いくら東京でも、メシアンがそれほど圧倒的な人気をかち得るような時代になったとも思えないし。
 結局、滅多に聴けない珍しい曲への興味と、メシアンへの関心と、それにカンブルラン=読響の評価の高さと、━━それらいろいろな要素が集まって、このような「完売」になったのだろうが、祝着の極みだ。とはいえ、「完売」といっても、空席はあちこちに見られる。多分、定期会員が欠席しているのかもしれない。

 フルートとアルト・フルート、ピッコロとを合わせて計10本、エスクラやバスクラなど合わせてクラリネット総計10本、無数の打楽器群など・・・・といった超大編成の作品を、よくまあ取り上げたものだ。制作費も相当なものだったはずである。秋の「アッシジの聖フランチェスコ」全曲上演とこれと、メシアンの大曲に対するカンブルランと読響の総力を挙げた取り組みだ。
 その前哨戦たる今日の演奏会は、大成功を収めたと言ってよかろう。たった1回の演奏会ではもったいないような、密度の濃い快演であった。

 若い時期の「トゥーランガリラ交響曲」などでの沸き立つような作風と違い、最晩年の作であるこの「彼方の閃光」は、全編にわたって宗教的な色合いが濃く、遅いテンポによる祈りのコラールが連続し、その中に彼が愛した鳥の声が散りばめられて行くといった曲想をもつ。旋律性も強く、しかも静謐な音楽の中に、時に激烈さが交錯する、という特徴もあるだろう。

 今夜のカンブルランと読響(コンサートマスターは長原幸太)の演奏における豊かな色彩感は実に見事なもので、メシアンが最晩年に到達した目映いばかりの彼岸への憧れとは、まさにこういうものだったのか、という思いになる。
 おそらくこのメシアン・シリーズは、カンブルランが読響の常任指揮者として築きつつある最大の功績の一つたりうるかもしれない。

2017・1・29(日)アンサンブル・ノマド

   びわ湖ホール中ホール  2時

 朝10時から11時45分まで、びわ湖ホールの傍の「コラボしが」で「ラインの黄金」入門講座の第2回を一席喋ったあと━━今回の私の講座のお客さんは118名とのことで、まあ本当に熱心な方たちが多いのには感動してしまう━━中ホールでアンサンブル・ノマドの公演があると聞き、これ幸いと聴きに行く。

 音楽監督・指揮の佐藤紀雄以下計11名のメンバーが、声や楽器でさまざまな作品を演奏する。
 プログラムは、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」、ジョン・ケージの「居間の音楽」、武満徹の「海へ」、アレハンドロ・ビニャオの「リズムの手帳」という、すこぶる多彩で意欲的なものだ。
 「動物の謝肉祭」にしても、2台のピアノも入るちゃんとしたアンサンブルの演奏なのだが、これが今回は「ノマド版」となって、オリジナルの組曲の中に、サヴァロの「絶滅動物記」、ヴィヴァルディの「ごしきひわ」、川上統の「コウテイペンギン」といった作品が挿入されるというわけ。面白い趣向である。

 ジョン・ケージの「居間の音楽」では、舞台上で寛いでいた数人の奏者たちがやがて机をたたき、こすりはじめ、さらに家庭にあるような食器やら掃除機やらを使い、声によるリズムや唄をも交えて音の饗宴をつくり出すという具合だ。
 聴衆は必ずしも多いとは言えず、しかもこれら聴き慣れぬ音楽に多少の戸惑いもあるような雰囲気だったが、その聴衆をもアンコールの「11月の衛兵」とかいう曲では、全員を立ち上がらせ、手拍子や足拍子で演奏に引き込んでしまうという、洒落た手腕を見せるアンサンブルなのである。
 この団体は面白い。

 終演は4時頃。京都から5時5分発の「のぞみ」で帰京。

2017・1・28(土)華麗なる浜松市楽器博物館

 前夜、浜松に入る。
 私にとって浜松は、およそ30年前、「FM静岡」開局業務等のためにたった4年間出向していただけの街なのだが、まるで第2の故郷のように感じられてしまう場所だ。

 その4年の間に仕事を共にしたFMの同僚たち━━主として浜松在住の人々十数人の定期的会合に出席して旧交を温め、懐かしい浜松の空気に浸ってから一夜明けた今日、有名な浜松市楽器博物館を訪れる。
 ここは22年前に開館した世界的にも著名な施設だが、私は不勉強にして、今回が何と初の入館見学、というありさまである。

 だがこの博物館は、まさに聞きしに勝る見事なものだ。特に1階の日本を含むアジアの、その数およそ530点の展示楽器群は、まばゆいほどの美しさであり、興味深い。これは、たしかに一見に値する。部分的だが、演奏の音をヘッドフォンで聴くこともできる。
 西洋楽器だけが音楽のすべてではない━━ということを、身を以って体感できる場所といえるだろう。

 折も折だから、話題の「直虎」ゆかりの龍潭寺にも行ってみたかったが、近辺の道路を含め猛烈な混雑とのことで、諦めた。
 浜松は「直虎」に沸いている。たとえば駅の売店へ行くと、煎餅とかパイとか飴とかに「直虎」の名を付したものが、山のように並んでいる。「凛として直虎 バウムクーヘン」なんてのは、秀逸の類だろう。
 自笑亭の駅弁にも、大河ドラマで浜松ゆかりの「徳川家康」をやっていた年には「家康弁当」というのがあった(現在は「家康くん弁当」だそう)が、今年は「出世法師直虎ちゃん弁当」というのがあるらしい(今日は見当たらなかった)。
 感心ついでに、所謂名産ならずとも、いっそ日本全国に「家康」とか「直虎」とか、「信玄」とか「政宗」とかを主人公にした「ご当地オペラ」が妍を競うようになれば面白かろうに━━などと考えたりする。
 午後、大津に移動。

2017・1・26(木)井上道義指揮新日本フィル 武満プロ

      サントリーホール  7時

 定期公演での「全・武満徹プログラム」というのは、これまで数えるほどしかなかったはずである。よくやってくれた、という感だ。
 今回は、いかにも井上道義らしいスタイルのプログラム構成で、彼みずからがトークを入れ、演奏者やゲストへのインタヴュ―なども交えつつ演奏して行くという形の演奏会だった。彼のトークは時々八方破れになることもあるのだが、今日は要を得て解り易かったし、また曲の多さに比して、予定時間もさほどオーバーせずに終ったのには感心させられた。

 今日の定期で取り上げられた作品は以下の通り。
 最初に、作曲者を音楽活動に引き込んだ縁のシャンソン「聞かせてよ愛の言葉を」を、SPレコードと手巻式蓄音機で再生して聴かせ、それから演奏に入る。曲は順に、
 オーケストラと大竹しのぶの歌で「死んだ男の残したものは」、
 木村かをりのピアノで、「二つのレント」の一部と、その改作版「リタニ」、
 そしてオーケストラで、「弦楽のためのレクイエム」「グリーン」「カトレーン」「鳥は星形の庭に降りる」という大曲が演奏され、最後に「これはアンコールのような形でお聴きいただきたい」との井上のコメント付きで「ホゼー・トレス」からの「訓練と休息の音楽」および「他人の顔」からの「ワルツ」が演奏された。

 かように、一味も二味も違うプログラムである。なお、「カトレーン」でのソリストは木村かをり〈ピアノ〉、崔文洙(ヴァイオリン)、富岡廉太郎(チェロ)、重松希巳江(クラリネット)、大萩康司(ギター、特別出演)。コンサートマスターは崔文洙。

 井上道義の指揮する武満作品は━━これは予想した通りだが━━どちらかと言えば闊達で開放的な表現である。
 所謂日本的な静謐さとか、沈潜した叙情といった要素をあえて意識的に排除したような演奏であり、それよりも作品に秘められた「生」への力を見出し、それを強調している演奏のように感じられる。ご本人の意図はどうか知らないけれども、少なくとも私にはそう感じられるのである。
 しかしこれは、武満作品への多様な解釈が生まれる一つのきっかけとして肯定できる手法だろう。あの「弦楽のためのレクイエム」さえ、極めて芯の強い、毅然とした佇まいを感じさせる演奏になる。

 ただ、それ自体は結構なのだが、新日本フィルの演奏が少し粗っぽく、勢いに任せたようなものになっていたことだけは、甚だ気になるところだ。「弦楽のためのレクイエム」にしても、曲想のやや明るい「グリーン」にしても同様である。もう少し丁寧に、共感と愛情をこめて演奏できなかったものか?

 就中「カトレーン」に至っては問題が多い。━━この曲は、私がFM東京勤務時代に担当していた番組「TDKオリジナルコンサート」の200回記念委嘱作品として、公開録音での初演と、ラジオ部門芸術祭大賞獲得に至るまでの作業に一役買わせていただいた立場からも、とりわけうるさい注文を出したくなるのだが・・・・まあそれは別としても、この曲の演奏には極度の緻密さ、精妙さという要素が絶対不可欠であることは主張しておきたい。

 「カトレーン」は、第一に「オーケストラと四重奏のための作品」なのであって、「オーケストラと4つのソロ楽器のための作品」ではないことを念頭に置かねばならない。初演した時の「タッシ」は、メシアンの「世の終りのための四重奏曲」を演奏するために集まり、がっちりと組んだ「四重奏団」だったから、その「四重奏」と「大管弦楽」との対比は、明確に表されていた。
 その意味で、今日のソリストたちは、技術的にはともかく、いかんせんそのあたりに大きな問題があったのではないか。

 また今回、この曲の題名「QUATRAIN=四行詩」たるゆえんの「4小節」単位の構成にさほど重点が置かれず、ただ連続して流れ行く音楽として構築された(ように聞こえた)ことも、やはりこの曲を何かまとまりのない作品というイメージに陥らせる結果を招いていた感を否めない。しかも、テンポも素っ気ないほど速すぎた。

 ステージ上で彼も語っていたが、確かに、この「カトレーン」は、演奏者にとっても、聴き手にとっても、非常に難解な作品であることは確かだろう。初演で指揮した小澤征爾以外、だれの指揮で聴いてもさっぱりまとまりのない曲に感じられてしまう。これら多くの要素があるために、残念ながら演奏の機会が少なくなっているのも事実なのである・・・・。

 その点、今日の演奏の中では「鳥は星形の庭に降りる」が、最もオーケストラの密度が濃く、瑞々しい叙情の裡にも緊迫感があった見事な演奏だったことを特筆しておきたい。だがそれは、武満の作風そのものの反映でもあるだろう。

 最後の2曲はしばしば演奏会でも取り上げられる曲で、今や耳慣れたものとなった。
 また「死んだ男の残したものは」(山下康介編曲)を歌った大竹しのぶは、たった1曲の出演ではもったいないほどの存在感。こういうタイプの歌唱のプログラムを、最初のシャンソンの蓄音機再生に続けて置いた選曲センスは秀逸である。
 そして、その「武満の愛した3拍子」(トークでの井上の指摘)に応じ、プログラムの最後に「ワルツ」を置いた選曲構成も秀逸といえよう。
 井上の才気が全編にあふれた、貴重な演奏会であった。
     音楽の友3月号 Concert Reviews

2017・1・25(水)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 デュカスの「ラ・ペリ」、ドビュッシーの「夜想曲」(合唱は新国立劇場合唱団)、ショーソンの「交響曲変ロ長調」。
 カンブルランが読響のシェフである間に是非ともやってもらいたいと思っていた、奮い付きたくなるようなプログラムだ。コンサートマスターは長原幸太。

 舞踊詩「ラ・ペリ」は、冒頭のファンファーレだけはしばしば聴く機会があるが、その全曲(約20分弱)をコンサートで聴ける機会は、そう多くあるわけではない。
 この冒頭が半世紀前の時代、NHKが第1放送と第2放送を使って放送していた「立体音楽堂」という番組のテーマに使われていたことを覚えている人も、もう少ないだろう。2台のラジオを各々の波長に合わせ、左右に並べて立体(ステレオ)放送として聴く方法である。「一つの電波で二つの放送が聴けるFMマルチ・ステレオ」が未だ普及していなかった時代、あの「立体放送」がどんなにエキサイティングな音の世界だったか━━。
 そんな古い話はともかく、この日、読響の金管セクションが華やかに演奏したそのファンファーレは、すこぶる力感に富んだものだった。

 「夜想曲」では、読響のサウンドは一変し、弦にも柔かさが加わる。もう少し夢幻的な雰囲気が加われば文句ないのだが、当節の演奏はこういうものだろう。
 女声合唱は下手側のやや前方に位置していたので、その声が如何にも「合唱団」というイメージでリアルに響くのが、私の好みとはちょっと違う。

 この日の圧巻は、何といってもショーソンの交響曲だった。良い曲なのに、日本では滅多に演奏会で取り上げられないのが不思議である。
 ━━この曲の第3楽章の冒頭も、1950年代頃には、アメリカのニュース映画の中で、竜巻の災害の場面でよく使われていたものだった。これがまた、実によくそのシーンに合うのである。ちなみに、火災、地震、暴動などの場面で使われる音楽は、判で押したように、マーラーの「巨人」第4楽章の冒頭だった。当時は、そういう「ニュース映画」のBGMや、あるいはラジオの番組のテーマ音楽などの大半はクラシック音楽だったから、私たちはたとえ作曲家の名を知らなくても、そのようにしてショーソンやマーラーの音楽に触れる機会があったのである。

 さて、カンブルランはこの交響曲を、比較的暗い音色をあふれさせつつ、重厚な響きと、濃い陰翳を以って繰り広げて行った。私が昔愛聴したミュンシュ指揮ボストン響の演奏に比べると、別の曲のように音色が暗い。特に第1楽章主部は終始イン・テンポで進められるので、いっそう重厚な印象が強くなるだろう。
 だが、その陰翳が存分に威力を発揮したのは第2楽章であった。カンブルランと読響による数々の名演の中でも、この第2楽章での演奏は指折りの名演だったのではないか。瑞々しい豊潤さの一方、くぐもった翳りに覆われた、濃い霧の中から湧き上がって来るような音楽。しかも気品のある佇まい。この楽章が閉じられた時には、これは見事な演奏だったな、と心底から感動させられたのである。

 第2楽章の演奏があまりに素晴らしかったために、私の印象の中では第3楽章の影はちょっと薄くなってしまったが、その例の冒頭主題を、カンブルランと読響はやや抑制気味に響かせ、ミュンシュのように劇的効果を追うことなく、前楽章の暗い雰囲気を更に引き継いだような感じで演奏して行った。終結近く、雲間から光が差して来るように音楽が明るさを増して行くあたりでは、もう少し明快な音の色彩の変化が欲しいところではあったが、それは本番を2~3回繰り返すうちに実現する類のものであろう。
 とにかく、見事な演奏だったことは疑いない。
    音楽の友3月号 Concert Reviews

2017・1・24(火)ロイヤル・オペラハウス・シネマシーズン
「ホフマン物語」

    東宝東和試写室 3時30分

 英国版ライブ・ビューイングともいうべき「ロイヤル・オペラハウス・シネマシーズン」。  
 先日は六本木ヒルズの「TOHOシネマズ」で「ノルマ」を観た(昨年11月30日の項)が、今回は東宝東和の試写会で、オッフェンバックの「ホフマン物語」を観る。

 これは昨年11月15日の上演ライヴで、故ジョン・シュレシンジャーによる1980年演出版を、ダニエル・ドゥーナーが再演演出したもの。極めてオーソドックスなスタイルの舞台だが、人物の動きはかなり微細なので、ドラマとしての不備は感じられない。
 指揮はエヴェリーノ・ピドで、誇張のない安定した音楽づくりだ。

 主役歌手陣も粒が揃っている。
 ホフマン役のヴィットリオ・グリゴーロは、いわゆる「悩める詩人」というガラでないのは一昨年のMET出演(バートレット・シェア演出)の時と同様だが、真摯な青年という雰囲気を感じさせる点では、今回のほうが良かったのではないか。
 ニクラウス/ミューズ役のケート・リンジーはもう当たり役というほかなく、ホフマンを心底から気遣う温かい親友としての性格は、これもMETのシェア演出の時よりずっとストレートに表わされていた。

 「4人の悪役」は、これも前出MET同様、トーマス・ハンプソンで、容姿の雰囲気からいって、これもいい味を出していたと言えよう。
 「ホフマンが愛した3人の女性」の中では、オランピアを歌ったソフィア・フォミーナが出色の出来で、歌唱もいいが、自動機械人形としての演技が秀逸だ。あとのクリスティーヌ・ライス(ジュリエッタ)と、ソニヤ・ヨンチェーヴァ(アントニーナ)は、もちろん実力充分のいい歌手だが、今回の演出では、なぜかそれほど目立った存在になっていない。
 なお、クレスペル役として、エリック・ハルフヴァーソンが出ていた。

 上映時間は、2回の短い休憩を入れ、4時間5分ほど。旧いプロダクションなので、楽譜にも旧慣用版に近いものが使われており、エピローグ(酒場の場面)は短い。
 ロイヤル・オペラでの休憩時間はMETと同じ30分ずつなので、この時間を利用してホストの女性(名は聞き逃した)がインタビューしたり、練習風景やドキュメントを織り込んだり、次の幕の予告を紹介したりと、さまざまな趣向を凝らしている。それはそれで面白いのだが、作り方は少々凝り過ぎだ。次の幕が始まったのかと思ったら実は予告だったり、ドキュメントだったりと、些か紛らわしいところが無いでもない。

 だがこのシリーズは、オペラだけでなくバレエ(来月以降には「くるみ割り人形」「ウルフ・ワークス」「眠りの森の美女」など)も含んでおり、その意味で「METライブ」と異なる個性を発揮することができるだろう。オペラでも、このあと「トロヴァトーレ」やカウフマン主演の「オテロ」なども予定されているようだ。
 昨年11月の時にも書いたことだが、上映予定が早めに発表され、また上演の詳しい日本語資料(配役、解説など)が配布されるようなシステムが早く実現されることを希望したいもの。

2017・1・23(月)キット・アームストロング・ピアノ・リサイタル

      浜離宮朝日ホール  7時

 今年24歳という青年キット・アームストロングのリサイタルを聴く。
 ウィリアム・バードの「パーセニア」から「プレリュード」など3曲、同じくバード編の「ネヴェル夫人の曲集」から「ファンシー」、モーツァルトの「幻想曲とフーガ K394」と「ソナタ第17番 K576」、リストの「ソナタ ロ短調」と「エステ荘の噴水」━━と、プログラムからしてユニークだ。

 何とも面白い、興味をそそられる若手ピアニストだ。音色への異様なほどの鋭敏な感性を持ったピアニスト━━と言ったらいいのだろうか。
 昨秋に東京でティーレマンと協演したベートーヴェンの協奏曲と同様、今夜のバードとモーツァルトの作品では、端整な構築の裡に、極度に美しく澄んだ音を響かせた。このホールのベーゼンドルファーのピアノが、実に清澄な、綺麗な音で鳴ったのである。

 ところがこれが、後半のリストでは一変する。音楽の昂揚に応じての激烈なアッチェルランドを駆使、その加速して行くテンポの凄まじさにはぎょっとさせられるが、その奔放なテンポの変化の中で、音の色彩も目まぐるしく変わって行くのが面白い。高音域の煌めきの個所など、あたかもオーケストラのフルートとピッコロが高音で絶叫するかのような音色に聞こえる。
 この千変万化の音色の設定は、まるでオーケストラをイメージして行われているかのようにさえ感じられるのだが、彼が実際にどう考えているのかは、私は知らない。

 リストの作品では、あふれる感興を制御しきれぬといった演奏に感じられるところがなくもなかったが、若いのだからそれもいいだろう。こういう演奏には、かなりの即興的要素も含まれているだろう。他の日には、また違った表現で演奏をやるタイプの演奏家かもしれない。CDとステージとでは演奏スタイルが全く異なるというタイプかもしれない。

 とにかく、大変な「尖った」音楽をやる若者が現われたものだ。24歳でこういう音楽をつくってしまうピアニストは、得てして中年以降には違った方向へ走ってしまう危険性もなくはない・・・・などと取り越し苦労をしてしまうのだが、とにかく、まっすぐに伸びて行って欲しいもの。

2017・1・22(日)METライブビューイング 「遥かなる愛」

    東劇  6時30分

 現代作曲家カイヤ・サーリアホのオペラ「遥かなる愛」。
 メトロポリタン・オペラでの、昨年12月10日上演のライヴ映像。

 ロベール・ルパージュによる新演出、マイケル・カリーの舞台美術、スザンナ・マルッキの指揮。
 トリポリの女性伯爵クレマンスをスザンナ・フィリップス、彼女に憧れる吟遊詩人ジョフレ・リュデルをエリック・オーウェンズ、2人を仲介する巡礼の旅人をタマラ・マムフォードという配役。

 2000年の8月15日、ザルツブルクのフェルゼンライトシューレで観たこのオペラの世界初演は、ピーター・セラーズの演出とゲオルギー・ツィーピンの美術によるもので、あの横長の舞台一杯になみなみと水が湛えられ、その「海」を吟遊詩人と巡礼とが船で渡って行くという光景だった。
 が、今回のルパージュ/カリーの舞台は、さすがハイテク時代の演出とあって、一面の「光の海」である。

 それは舞台奥からオーケストラ・ピットの上までの空間に、横に張られた無数のライン(専門用語で何というのか知らないが、要するにクリスマス・ツリーのような電線?綱?紐?)が、精妙に変化する照明によってさまざまに光り輝くという仕掛けなのだが、その多彩な光の海の何とまばゆいこと、美しいこと。
 サーリアホのあの夢幻的な音楽とともに舞台全体がきらきらと輝くさまは、見事としか言いようがない。映像で観てもこれだから、METの現場でナマで観たらいかに綺麗だったか、と思う。

 合唱団はその「海」の中から、遠く近く、首か半身を出没させながら歌を聴かせる。これも幻想的だ。
 歌手陣も悪くはないが、吟遊詩人役のオーウェンズだけは、見かけからして、この役のイメージとは、ちょっと雰囲気が違う。しかし、何といってもスザンナ・マルッキの指揮が素晴らしい。METのオーケストラが実に美しくカラフルにサーリアホの音楽を響かせていた。

 休憩1回を挟んで、終映は9時20分頃。いい音楽だが、少し長く感じてしまうのは、幕のエンディングの場面が所謂「延々と続き、なかなか終らない」スタイルで書かれているからだろう。だがこれも、ナマで観れば、さらなる陶酔の極みだったかもしれない。

2017・1・22(日)佐渡裕指揮東京フィル ブルックナー9番

      BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 武満徹の「セレモニアル」(笙のソロは宮田まゆみ)とブルックナーの「第9交響曲」(ノーヴァク版、第3楽章まで)を組み合わせたプログラム。
 2曲の間に休憩は無しだったが、「セレモニアル」が終ったあとにはカーテンコールがあり、若干のステージ転換もあったので、2つの作品を有機的に連続させたというような形ではない(その形で演奏されてもよかったのではないか、という気持は抑えきれない)。コンサートマスターは三浦章宏。

 「セレモニアル」は、1992年、第1回サイトウ・キネン・フェスティバルにおける小澤征爾指揮のコンサートで初演された時以来、何度か聴く機会があったが、ソリストは常に宮田まゆみだった。今回も秘めやかな美しさを湛えた演奏。佐渡裕指揮する東京フィルも静謐な音を滲ませて好演した。

 ただ、非常に残念なことに、武満徹の作品は、どんなに見事に演奏されても━━彼のファンが集まった演奏会ででもない限り、拍手は戸惑ったような、あるいはお座なりのような程度にしか起こらないという傾向が、いまだに多く見られるのだ・・・・。まあ、これは、時が解決することになるだろうけれども。

 ブルックナーの「9番」は、驚くほど「太い」演奏だ。東京フィルが、重く、巨大に、轟然と鳴りわたる。佐渡はこの曲を兵庫芸術文化センター管弦楽団の9月定期でも指揮しているから、このところ「入れ込んでいる」交響曲なのであろう。この作品を、これほど地響きするように轟かせた演奏を、私はこれまで聴いたことがない。
 いかにも佐渡らしい演奏だな、と微苦笑させられるが、ブルックナーの交響曲における超弩級の巨大性やエネルギー性を浮き彫りにしようというのが彼の狙いであるならば、それらは余すところなく達成されていた、と見るべきであろう。

2017・1・21(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル ブルックナー8番

     サントリーホール  2時

 昨秋の「ジークフリート」と「神々の黄昏」の抜粋、そしてこのブルックナーの「8番」、あとに続くブラームス交響曲ツィクルス(4月)、そして「ラインの黄金」セミ・ステージ上演(5月)と、首席指揮者就任以降のインキネンのプログラミングには、日本フィルがこれまであまり手がけなかったような、独墺系ロマン派の大曲が並びはじめているのが興味深い。

 昨秋のワーグナーの時には速いテンポで押しまくったインキネンは、今回のブルックナーではかなりの遅いテンポで、重厚かつ綿密に音楽を構築した。作曲家や作品によりこのようにアプローチを大きく変えるのもインキネンの主義らしいが、その基準点(のようなもの)をどこに置いているのか、まだよくつかめないところがある。
 いずれにせよ、独墺系指揮者たちとはかなり異なったスタイルによるインキネンのロマン派ものだ。大いに期待をもって聴いて行きたいものである。

 今日の「8番」(ノーヴァク版)の演奏時間は、楽章間の1分足らずの休みも含め、89分程度だった(昨日の演奏では、もう少し長かったそうである)。だが、弛緩した演奏の個所など、ただの1小節とて無い。
 遅いテンポが印象づけられたのはもちろん第3楽章においてだが、イン・テンポでゆったりと進めつつも、粘った感を与えずに頂点へ盛り上げて行くインキネンと、それに応えた日本フィルの意欲的な演奏には、なかなかのものがあった。特に第3楽章終結における「彼岸的で永遠なるもの」への憧憬の個所での演奏は、見事といっていい。

 インキネンが日本フィルから引き出した音色は、清澄とは言えぬまでも、かなりの程度まで透明さを保っていただろう。
 そして、アンサンブルも均衡を重視し、ある楽器群を突出させるということは避けているようだ。演奏が攻撃的でも刺激的でもなく、明快さをもちながらも柔らかさを感じさせたのは、そのためかもしれない。

 特に彼は、トランペットやティンパニを戦闘的に響かせるということは、あまりやらない。トランペットはむしろ抑制気味で、それゆえ第2楽章のスケルツォ主題のあくなき反復個所(第49~52小節)や、第4楽章でのファンファーレ(第11~16小節あるいは687~696小節など)で、トランペットだけに託されたモティーフが強く前面に出て来ないことには、どうしても疑問を抑え切れなくなる。全曲最後の大頂点(第697小節以降)で複数の主題動機が一度に鳴り響く個所で、トランペットの受け持つ動機が他の動機と同等に主張されないところも、同様である。

 ティンパニのほうは、第4楽章冒頭では本来の力強さで活躍、また例のスペクタクルな【N】の個所では、かつてのミュンヘン・フィルの剛腕奏者ペーター・ザードロにちょっと似た雰囲気で叩きまくるさまが面白かった(このティンパニ奏者は以前から目立っているが、プログラムの楽員表には名前が出ていない)。

 ともあれ、日本フィルが新境地を開きつつあるという点でも、このブルックナーは興味深いものがあった。秋には、「5番」をやるそうである。今日のコンサートマスターは扇谷泰朋。

2017・1・19(木)西山まりえのミュジストワール「音楽歴史紀行」

      JTアートホール  7時

 「アントネッロ」のメンバーであり、ヒストリカル・ハープとチェンバロの名奏者(カスタネットも名人級)でもある西山まりえが、自らナビゲーターとなって解説しながら17世紀の名曲を演奏して行くというコンサート。

 阿部早稀子(ソプラノ)、朝吹園子(バロック・ヴァイオリン)、懸田貴嗣(バロック・チェロ)が協演して、古代ギリシャ神話に縁のある作品を中心に演奏する。
 ペーリ、フレスコバルディ、カヴァッリ、カッツァーティ、ウッチェリーニ、モンテヴェルディ、ピッキ、カステッロ、カッチーニといった作曲家の美しい声楽曲や室内楽曲が次から次へと登場、私たちを快い世界へ誘ってくれるというわけである。

 東京・虎ノ門にあるこのホールは、座席数も250前後だから、こういう趣旨の演奏会には絶好だ。インティメートな雰囲気が、作品と演奏をいっそう素晴らしく感じさせる。第2部のプログラムの核に、今年が生誕450年に当る大作曲家モンテヴェルディの作品を3つほど置き、解説にもアントネッロ他の演奏会の予告をさり気なく入れるという作戦も巧い。この西山まりえさんという奏者は、本当に「八面六臂」の人である。

2017・1・18(水)サイトウ・キネン・オーケストラ・ブラス・アンサンブル

      紀尾井ホール  7時

 小澤征爾監督下にある団体として、昨日の演奏会の続きのような錯覚をつい抱いてしまうが、昨日は水戸、今日は松本。

 サイトウ・キネン・オーケストラ・ブラス・アンサンブルという名称だが━━トランペットは、ガボール・タルコヴィ(ベルリン・フィル)、カール・ゾードル(グラーツ・フィル)、高橋敦(都響)、服部孝也(新日本フィル)。ホルンがラデク・バボラーク(元ベルリン・フィル他)、阿部麿(フリー)、勝俣泰(N響)。トロンボーンはワルター・フォーグルマイヤー(ウィーン響)と呉信一(元大阪フィル)。バス・トロンボーンがヨハン・シュトレッカー(ウィーン・フィル)、テューバがピーター・リンク(仙台フィル)。
 この11人の男たちに、打楽器の竹島悟史(N響)が加わったのが今回のアンサンブルだ。まさに錚々たる名手たちの集団である。

 とにかく、その巧いこと。どの曲一つとっても鮮やかな演奏なので、痛快そのものだ。音量のパワーも凄いから、もっと大きなホールでやってもらいたかったが・・・・。
 第1部がいわゆるクラシックのレパートリーで、ヘンデルの「王宮の花火の音楽」の序曲に始まり、プレトリウスの「テレプシコーレ舞曲集」抜粋、バッハ(シュテルツェル)の「御身がともにいるならば」、モーツァルトの「ホルン協奏曲第3番」第3楽章、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲(最初と最後を繋げたもの)、ミロシュ・ボクの「3つのイントラーダ」と続くプログラム。

 プレトリウスの舞曲など、あの伝説的なフィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルのような、常時編成の団体のような溶け合った響きは求むべくもないが、各国の名奏者たちが集い、腕を競い合いつつアンサンブルをつくって楽しむというさまが、演奏に開放的なスリルを感じさせて素晴らしい。モーツァルトの協奏曲で、バボラークの颯爽たるソロを聴けたのも嬉しかった。

 第2部は、ポップス系のプログラムだ。ジョン・ウィリアムズの作品集、グレン・ミラーでおなじみの「イン・ザ・ムード」と「ムーンライト・セレナーデ」、それから「ロンドンデリーの歌」といった傾向のもの。更にアンコールとして、エルガーの「威風堂々第1番」、クリス・ヘイゼルの「三匹の猫」からの「ミスター・ジャムス」、ジョン・ウィリアムズの「レイダース・マーチ」の3曲が闊達に演奏された。
 こういうのを手がけても、彼らの演奏は実に鮮やかなものである。

 フォーグルマイヤーも巧かったが、それ以上に、高橋・服部のトランペット日本勢が「平気な顔で」燦然たる高音を吹きまくるのには感心させられたし、竹島悟史がクラシックからジャージーなスタイルまで、あらゆるパーカッションを見事にこなして八面六臂の大活躍を繰り広げたのにも舌を巻かされた。

 客席には小澤さんも座っていて、1曲終るごとにブラヴォーを叫んで、立ち上がって拍手を贈る。彼が客席に入って来ると、ホール全体から万雷の拍手が起こる。皇族並みの光景だ。彼が如何に愛されているかという証だろう。
 私も席が彼の真後ろだったのを幸い、首を伸ばして、昨日のミューザ川崎でのことを囁くと、「ああ、聴きに来てくれてたの? あのオーケストラ、いいでしょう!」と、忽ちいつものようにオケを誉めあげていた。ほんとに元気そうに見えましたよ、と言うと、「でもやっぱり、くたびれちゃった」と苦笑していたが、やはり今は「1曲だけ指揮」が精一杯なのだろうか?
 しかし今夜も小澤さんは、カーテンコールではメンバーから一度ならずステージに引っ張り上げられたりして、舞台と客席との間を元気に歩き回っていた。祝着である。
     モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2017・1・17(火)小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団 川崎公演

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 水戸で2回の定期公演を行なったあと、川崎に進出しての公演。
 モーツァルトの「協奏交響曲変ホ長調K364(320d)」と、ベートーヴェンの「交響曲第1番」。

 1時間そこそこのプログラムで、しかも総監督・小澤征爾が振るのは交響曲のみである。
 それでも、指揮台上に小澤さんが元気に顔を見せてくれれば、何かしら、ほっとする。この半世紀以上にわたって国内や外国で聴いて来た彼の指揮━━それらの数々の思い出が甦り、たとえ1曲だけでも、今なおこうして聴けるということに嬉しさを感じてしまうのである。これがファン気質(?)というものか。

 交響曲での弦編成は、7・6・5・4・2。コンサートマスターは豊嶋泰嗣が務めた。
 小澤征爾は、昨夏のセイジ・オザワ松本フェスティバルにおけると同様、椅子に腰を下ろして指揮、曲の要所では立ち上がってオーケストラを鼓舞する。楽章の合間には別の椅子に移って30秒~1分程度の休息を摂るが、第4楽章では大半を立ったままで振り続けた。
 ともあれ、彼が指揮台に上った瞬間に、オケの楽員たちの雰囲気が忽ち一変し、気合のこもった異様な熱気のようなものがステージいっぱいに立ち込めるのだから、これがカリスマ性というものであろう。

 その演奏には、かつての小澤が得意とした、弾むように躍動する力感はもう薄れてはいるものの、年齢よりははるかに若々しい勢いがまだあふれている。
 そして、彼自身の指揮の動作こそ昔よりは抑制されて来ているが、その強烈な精神力に触発された楽員たちが自発的に創り出す音楽の燃焼力は、今も不変であるどころか、時には昔よりむしろ旺盛になって来ているのではないか。病から回復したあとの小澤征爾の音楽が一種の凄愴さを帯びるようになっているのも、そのためだろう。

 名手たちが結集したオーケストラは、相変わらず上手い。
 カーテンコールは4回。小澤さんは、楽員たちと一緒に、休みなしに出たり入ったり。これだけ見れば、もう本当に健康回復という気もするのだが・・・・。

 1曲目の「協奏交響曲」では、竹澤恭子(ヴァイオリン)と川本嘉子(ヴィオラ)がソリストとなり、リーダーは渡辺實和子が務めた。
 全身を大きく躍動させ、動き回ってオーケストラに呼びかけ、誘い、共に昂揚して行くかのように弾く竹澤恭子。これに対し、定位置にどっしりと構え、落ち着いた雰囲気で弾きつづける川本嘉子。この2人の対比が面白く、それは同時に、この作品におけるヴァイオリンとヴィオラのソロの各々の性格を具現していたようにさえ感じられたのである。

 第2楽章最後のカデンツァの個所では、2人のソリストがじっくりと親密な対話を繰り広げた。こういう演奏は、指揮者がいない時のほうが、自由に出来るかもしれない。いかにも腕利きの楽員同士が愉しみつつ、自発的に演奏しているという感だ。そのためか演奏時間も延び、30分を超す長さとなったが、何しろオケが巧いから、快いひとときとなった。
 ホールは満席の盛況。
      モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2017・1・14(土)秋山和慶指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 1月定期。メシアンの「忘れられた捧げもの」、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」、フローラン・シュミットの「サロメの悲劇」━━という、非常に意欲的なプログラムが組まれている。
 ジョナサン・ノットの音楽監督就任以来、東京響の定期での曲目編成には、こういう近・現代ものが極度に増えたような印象がある。かつてはアルブレヒト常任時代の読響、次いでアルミンク音楽監督時代の新日本フィルがこういった大胆路線で気を吐いていたものだが、今やそれは東京響に引き継がれたという感だ。
 今日のピアノ・ソロは小菅優、コンサートマスターは水谷晃。

 何を措いても、秋山和慶(桂冠指揮者)の指揮の巧いこと! 
 複雑で多彩な大管弦楽のパートを、見事に均整を保って微塵の隙もなく構築、明晰なサウンドを響かせる。正確過ぎて几帳面で面白味に不足する、という人もいるが━━私も彼のロマン派音楽においては同感な部分もあるが、このような近・現代のレパートリーに関しては、彼の指揮の鮮やかさに脱帽するほかはない。

 今日の演奏会でも、メシアンの作品は、あまりメシアンらしくない端整な佇まいを備えて演奏された。また、「パルジファル」とドビュッシーと、それに「惑星」の先取り?とが入り混じったようなフローラン・シュミットの「サロメの悲劇」は、たしかに端整さが勝ちすぎた演奏という印象はあったけれど、立派な構築であることに変わりはなかった。

 だが、今日のハイライトは何といっても、この2人の作曲家の作品を前後に置いて関連させた、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」ではなかったろうか。小菅優のソロは闊達で素晴らしく、秋山と東京響の演奏も瑞々しく多彩で豊麗で、しかも純な清澄さにあふれていた。

 この曲、公開初演は1967年11月29日の東京文化会館、森正指揮のN響、中村紘子のソロによるもので、私はうろ覚えながら、どうもそれを現場で聴いたような記憶があるのだが━━当時のことだから、あまりピンとはこなかった。
 そもそも、あの頃聴いた日本のオーケストラ曲の多くは、おしなべて音が薄く、小奇麗ではあるが端整過ぎて冷たい、という印象だったのだ。当時録音されたレコードで聴いてもほぼ同じ感がするだろう。

 だがそれが不思議にも、今日のオケによるナマ演奏で改めて聴いてみると、驚くほど豊潤で多彩で、雄弁な音楽となって甦って来る。これは必ずしも私だけの感想ではないだろう。演奏スタイルの変遷か、オーケストラや指揮者のスタイルが変わったのか、などということまで考えてしまう。

 この矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」も同様である。特にそのミステリアスな第2楽章が、恐ろしい緊迫感にあふれ、作曲者の言う通り、悪夢の中をさまようような不気味さで聴き手をぞっとさせることは、昔聞いた印象以上のものだ。この第2楽章ひとつ取ってみても、この曲が日本の作曲史における大エポックなのではなかったか、という気までして来る。
 先日の柴田南雄の作品集と同様、日本の先人作曲家たちの作品を見直すことは、私たちに大きな宝をもたらすことになりそうである。

2017・1・12(木)オーケストラ・アンサンブル金沢 東京公演

     紀尾井ホール  7時

 「ニューイヤーコンサート2017in東京」と題された演奏会で、金沢(8日)、富山(9日)、大阪(11日)と回って今夜が最終日。相変わらずフットワークの軽い足長オーケストラだ。
 今回の指揮は音楽監督の井上道義ではなく、バロック・ヴァイオリンの大家エンリコ・オノフリ。足の長い痩躯を躍動させ、ヴァイオリンに付けた長い房(?)を首に巻きつけたおなじみのスタイルでエネルギッシュに弾き振りする。

 前半にヴィヴァルディの「祝されたセーナ」の「シンフォニア」と「ヴァイオリン協奏曲 作品3の3」、ヘンデルの「時と真理の勝利」からの「神により選ばれた天の使者」および「王宮の花火の音楽」。後半はヴァイオリンを持たず指揮専門で、モーツァルトの「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」および「ハフナー交響曲」というプログラムだった。
 ソプラノ・ソロは森麻季、チェンバロが桒形亜樹子、コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。

 まことに「音楽の新年」らしい爽やかで、品が良くて、快いプログラムだ。特に前半のような曲目を、オーケストラ演奏会で聴ける機会は滅多にない。
 バロック音楽の清澄爽快な響きをそのまま、室内合奏団のようなスタイルでなく、いわゆる「管弦楽団」的なシンフォニックかつスケールの大きな演奏スタイルで聴かせることができるオケは、この「オーケストラ・アンサンブル金沢」を以って国内第一と言うことができるだろう。

 聴き慣れた「調和の幻想」が颯爽と、しかも厚みのある音で始まった時には、何と胸のすくような、気持のいい演奏かと、惚れ惚れしたくらいであった。そして「王宮の花火の音楽」では、金管とティンパニがおそろしく豪快に鳴り渡り、まさにこの作品に相応しい祝典的な雰囲気を醸し出す。エンリコ・オノフリのダイナミズムというか、良い意味でのハッタリというか、こういう解放的で突き抜けた「王宮の花火」は、聴いていて実に痛快なものがある。

 また後半では、チェンバロを加えた「ハフナー交響曲」の演奏もすこぶる表情が大きく、叩きつけるティンパニの鋭さも印象的だが、大仰なリタルダンドの多用(第3楽章)など、自らが愉しみまくっているようなオノフリの指揮が微笑ましい。それは些か荒っぽいタッチではあったけれども、こじんまりしたクソ真面目な演奏よりも、勢い全開のこのようなステージのほうが、なんぼ面白いかと思う。

2017・1・10(火)日下紗矢子、C・ハーゲン&河村尚子

      トッパンホール  7時

 「トッパンホール ニューイヤーコンサート 2017」と銘打たれた演奏会で、プログラムはベートーヴェンの「チェロ・ソナタ第2番」、コダーイの「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」、シューベルトの「ピアノ三重奏曲第2番」。
 いずれ劣らぬ実力者揃い。3人の個性がはっきりと感じられて、実に聴き応えのある演奏会となった。

 ベートーヴェンのソナタでは、河村尚子のピアノが見事な活気を見せてクレメンス・ハーゲンのチェロとわたり合い、コダーイの二重奏曲では日下紗矢子のヴァイオリンがハーゲンと丁々発止の応酬を繰り広げる。
 いずれにおいても、ベテランのハーゲンがむしろ押され気味といった感。日本の2人の女性のパワーを大いに楽しませてもらった。以上が第1部。

 第2部の三重奏曲では多分ハーゲンの逆襲が聴かれるのでは、と予想していたら、案の定。落ちついた風格を全身に漂わせ、アンサンブルをしっかりと支えたのは、さすが千軍万馬の弦楽四重奏曲のメンバーの貫録だ。

 そして日下紗矢子がこれまた見事にぴたりとアンサンブルを合わせたのも、さすがベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団と読響のコンサートマスターだけのことはある。コダーイの時と同様、もうすこし自己主張をみせてもいいのではないかと思ったほどだが、このあたりが、ソロとアンサンブルでスタイルを使い分けるという彼女の方針なのだろう。
 この2人に対し、河村尚子は、やはり「ソリスト」だ。━━生き生きしたピアノではあるものの、第1楽章と第2楽章では、「三重奏曲」のアンサンブルとはどこか違うようなものを感じさせていた。

 ところが第3楽章の中間あたりから、ものの見事に3人のアンサンブルがぴたりと決まって来たのである。第4楽章後半など、これぞトリオの醍醐味、という演奏だったであろう。
 とはいえこれは、途中から呼吸が合って来たということではなく、むしろ作品の構造が大きく作用しているのだろうと思われる。シューベルトは、最初の二つの楽章ではピアノを比較的自由に歌わせていたが、第3楽章以降では、3つの楽器がしっとりと合うような手法を多用しているとも言えるのだから。

 いずれにしても、今夜は良い「ニューイヤーコンサート」であった。9時10分終演。

2017・1・9(月)佐々木典子&大澤一彰デュオ・リサイタル

     東京文化会館小ホール  2時

 佐々木典子(ソプラノ)と大澤一彰(テノール)の華やかなコンサート。
 ヴェルディ、プッチーニ、ベルリーニ、グノー、ワーグナー、コルンゴルト、レハールなどのオペラのアリアから二重唱、滝廉太郎、武満徹ら日本の歌曲にいたるまで、実に大量多彩なプログラミングで構成されていた。ピアノは仲田淳也。

 所用のため演奏会の前半しか聴けなかったけれど、ふくよかで温かいヒューマンな佐々木典子と、高音域を小気味よく爽やかに響かせる大澤一彰の明るい歌唱が映えて、ぎっしりと満席のホールはオペラ歌手のコンサートらしく盛り上がりをみせていた。

2017・1・7(土)飯森範親指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      横浜みなとみらいホール  6時

 サントリーホールでの演奏会が4時に終ったので、クルマで横浜へ向かう。ガラガラの首都高だから、のんびり定速で走っても、Door to doorで1時間もかからない。
 こちらは日本フィルの横浜定期演奏会のシーズン最終日で、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは神尾真由子)と、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」が演奏された。コンサートマスターは木野雅之。

 神尾真由子のヴァイオリンは、音色といい、表情といい、いつものように濃厚そのものだ。ただしそこには、妖艶とか艶麗とか甘美さとかいったものとは正反対の、もっと攻撃的で激しい、凄愴な陰翳を感じさせるものがある。そういうブラームスを聴くと、初めは少々まごつかざるを得ないが、しかしこれが全曲の終りに近づくまでには、一種の魔性の糸に絡め獲られたような気持になって来るのだから不思議である。
 が、我に返って考えれば、彼女のこういった演奏は、アンコールで弾いたパガニーニの「カプリース」での方にいっそうの良さが発揮されていたと見るのが妥当かもしれない。

 「新世界交響曲」では、飯森範親が、これもかなり念の入った、思い入れの強い指揮を聴かせてくれた。
 第4楽章の再現部に入ったあと、(Poco)meno mossoから大きくテンポを落したのはスコアの指定通りだが、そのあとのTempoⅠの個所に入ってもまだテンポを回復させなかった(ように聞こえた)のは、彼のことだから何か根拠があってやっていたのかもしれないが、私の正直な印象で言えば、このあたりから終結部に入るまでの間では、演奏にやや誇張めいたものが感じられ、その結果、音楽にもやや弛緩が感じられてしまったのだが。

 日本フィルは、今日は、ありていに言えば、まず並みの演奏、という出来であろう。

 終演後、ホワイエで「シーズン・ファイナル・パーティ」が開催された。無料でドリンクがふるまわれる。これは事務局及び楽員と横浜の聴衆との交流を狙いとするもので、シーズンの最終定期のあとに毎年やっている企画だそうである。こういうところが、昔から聴衆との結びつきを重要視している日本フィルの偉いところだ。
 私も1杯のソフト・ドリンクにでもあずかろうかとカウンターへ足を運んだのだが━━お婆さん連中の割り込み、押しのけ、突き飛ばし、ビールのコップをひとにぶつけながら邪魔そうにこちらを睨みつけて通り過ぎる荒々しい行動に怖れをなし、諦めて早々に退散した。あとで聞けば、オーボエ・クァルテットの演奏などの出しものもあったそうである。

 巷では若者たちの礼儀知らずが指摘されていますが、クラシックの会場では若者たちは常に礼儀正しく、むしろ高齢者たちのほうに、横柄で乱暴なのが多いのです。威張る、すぐキレる。
 特にロビーなどでガンと人にぶつかりながら知らん顔をして通り抜けて行く男の高齢者の多いことは、驚くほどですな。私も高齢者のはしくれ(?)ゆえ、気がつかぬうちにやっているかもしれない。自戒しましょう。

2017・1・7(土)吉野直子ハープ・リサイタル

     サントリーホール ブルーローズ  2時

 ハープのリサイタルは、私の好みからすると、新年の最初に聴く演奏会としてはこれ以上のものはない、と言ってもいいほどである。しかも演奏者は吉野直子。

 プログラムは、ブリテンの「組曲 作品83」、クシェネクの「ソナタ 作品150」、ヒンデミットの「ソナタ」、サルツェードの「古代様式の主題による変奏曲」と「シンティレーション」と「バラード 作品28」━━という選曲で、前半3曲のコワモテの雰囲気が、後半のサルツェードで一転解放されるといった具合。
 いかにも「濃い」プログラムではあったが、それを堅苦しい雰囲気に陥ることから救っていたものは、ほかならぬ彼女の、真摯でかつ温かい、ヒューマンな感覚に満ちた演奏であったろう。

 ただし今回は超満席の小ホールとあって、インティメートな空気はあったものの、残響は殆どなく、そのためハープの音色に玲瓏さは薄められ、リアルな存在感が強められた。それがいいという人もいるだろうが、私の好みからすると、もう少し空間的な拡がりをもった会場で聴きたかったところであり・・・・。

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