2017-03

2016・12・26(月)ヤクブ・フルシャ指揮東京都響「第9」

     サントリーホール  7時

 12月の都響は首席客演指揮者フルシャの世界。「第9」は3回指揮して、今日はその最終公演。協演は森谷真理、富岡明子、福井敬、甲斐栄次郎、二期会合唱団。コンサートマスターは矢部達哉。

 予想通り、引き締まって瑞々しく、贅肉も誇張も皆無でストレートなフルシャの指揮だ。といって、昨日のタリのような坦々たる音楽づくりとは違い、デュナミークの対比もさらに大きな、豊かな起伏を備えた構築である。
 聴き手がベートーヴェンを古典派の作曲家として捉え、一切の猥雑物を排除してその純粋な精神とのみ対決しよう、というのであれば、この演奏は充分それに応えることのできる存在であろう。呼吸の合った指揮者とオケの演奏は、アンサンブルも個々のソロも、響きのバランスも上々であった。

 プログラムは、この「第9」1曲のみ。気分の上でも集中できるし、早く終るからいい━━などというのはわれわれ仕事で聴きに行く業界人の台詞だが、お金を払って、特に家族連れで「年末の行事」として聴きに行く人々の中には、何かプラス1曲、という好みもあるかもしれない。
 だが今日もほぼ満席、それも入門者というよりは、このフルシャと都響のとにかく「第9」を聴きに来た、というコアなお客さんがかなりの数を占めていたのでは━━とはこちらの勝手な推測だが、演奏終了後の拍手やブラヴォ―の声の質からすると、それも当らずとも遠からず、ではなかろうか。

2016・12・25(日)アヌ・タリ指揮東京フィル「第9」

      BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 エストニアの美人指揮者、アヌ・タリが東京フィルハーモニー交響楽団に客演した「第9」。
 協演は小川里美、向野由美子、宮里直樹、上江隼人、東京オペラシンガーズ。コンサートマスターは三浦章宏。

 リズム感は明晰で、オーケストラをすっきりした音で響かせ、特にホルンやトランペットやティンパニを明快に強調して小気味よいダイナミズムを構築して行く。そのあたりはいいのだが、しかし前半は何とも坦々とした音楽づくりであり、これほど「なにげない」演奏の「第9」もないのではないかとさえ思わせた。

 ところが、第4楽章の「歓喜の主題」がオーケストラでふくれ上がって行く個所のあたりから、演奏の生気がみるみる壮んになりはじめ、それまでの速いテンポでたたみかける推進力も、本来の昂揚感を伴いつつ発揮されて行ったのである。最後の歓喜のクライマックスでは、それに相応しい盛り上がりも聴かれた。

 このアヌ・タリ、現代ものが鮮やかなことでは定評があるが、清澄な美しい音をつくることでも知られている。今回もこの第4楽章で、東京フィルから見事に澄んだ音色を引き出したのには感心させられた。これだけでもたいした才能に違いない。

 第1部には、エストニアの作曲家ヘイノ・エッレルの「夜明け」という作品が置かれていた。1918年に作曲された10分足らずの小品だが、シベリウスとドビュッシーとR・シュトラウスの━━すべてその同時代の作曲家である━━影響も聞かれる美しいロマンティックな作品である。
 この曲、終ったのかどうか判らぬ終わり方をした上に、タリがそれらしいジェスチュアをしないまま立っていたので、客の1人が拍手をしかけてすぐ止めるといった空気の裡に、客席は静まり返ったままだった。すると彼女がちょっと首を曲げて半身のまま客席を振り返り、「終ったんですけど?」という表情を見せたので、場内からは軽い笑とともに拍手が起こるという一幕もあった。

 終演は4時35分。

2016・12・24(土)「浦安音楽ホール」開館プレ・イベント

      浦安市民プラザ Wave101

 JR京葉線の新浦安駅のすぐ傍に、新しく「浦安音楽ホール」が来年4月にオープンするとのこと。「地元に音響の良いコンサートホールが欲しい」という市民の声に応えたものだそうで、室内楽専用の「コンサートホール」(303席、固定席)と「ハーモニーホール」(201席、可動席)および5つのスタジオを含む音楽ホールとなっている。
 現在は未だ工事中だが、写真を見ると、特にコンサートホールは茶色系の内装で、落ち着いた雰囲気が感じられるようだ。

 今回は、プレス担当の長野隆人さん(いわきアリオスの広報グループチーフ)から案内を貰ったので、プレ・イベントだがちょっと覗きに行く。駅前の浦安市民プラザのギャラリーで、ちょうど上野耕平(サックス)と「こばんだウィンズ」が、2時から「くるみ割り人形」や「ルネ王の暖炉」「ディズニー・メドレー」といった曲を演奏、家族連れの客たちが会場を埋めていた。こういうお客さんが、今後もそのままクラシックのコンサートに来てくれるといいのだが━━。
 開館準備・事業のコンサルティング・チームはしっかりしているようだから、新しい音楽拠点を築いてくれることを期待したい。

2016・12・23(金)シュトックハウゼン「グルッペン」京都市響

      京都市勧業館みやこめっせ第3展示場  2時

 京都市響の創立60周年記念特別演奏会と銘打たれた大イヴェント。

 京響の3人の指揮者たち━━広上淳一、高関健、下野竜也が3群の小オーケストラをそれぞれ同時に指揮して演奏するシュトックハウゼンの「グルッペン」が、今日のメイン・プロである。
 この演奏は2回繰り返され、その間の休憩時間に聴衆は気に入った席に自由に移動して、異なった位置から聴き直すことができる。今回はさらにジョン・ケージの「5つのオーケストラのための30の小品」も加えられたので、甚だ前衛的な(?)演奏会になった。

 会場は「みやこめっせ」の広大な第3展示場。奥の下手側・中央・上手側に1グループずつのオーケストラが配置された。
 そのそれぞれを指揮する広上、高関、下野がアイ・コンタクトを交わしつつ、互いに呼吸を図りながら指揮する光景も面白いが、何より3方向から響くオケの音塊が互いにぶつかったり調和したりしながら巨大な音場をつくるさまは、ナマの演奏でこそ味わえる醍醐味である。

 前回聴いたサントリーホールでの演奏(2009年8月31日、マルッキ他の指揮、N響)では、残響の多いアコースティックのために3群の音が調和し、管弦楽のテクスチュアの緻密さが印象づけられたものだが、今回は会場の音響がデッドなこともあって、音がそれぞれ分離し、調和というよりは対立の魅力という印象の方が強くなっていたかもしれない。
 そのため、3群のオケの音がそれぞれ「点」としての性格を強め、それらが結び合されるとしても一本の太い「流れ」にならないところが、ちょっと物足りなかったともいえよう。

 これは、会場の後方で聴いた第1回の演奏の際にも、両翼のオケに挟まれる前方で聴いた第2回の演奏でも同様だった。
 ただ後半で、打楽器陣が最強奏で呼応して行く個所だけは、「力の連鎖」とでもいうべき迫力を感じさせてくれただろう。

 いっぽう、ジョン・ケージの「5つのオーケストラのための30の小品」では、指揮に水戸博之、大谷麻由美という2人の若手も参加する。前述の3つのオーケストラに加え、後方両翼にそれぞれ1群ずつ配置されたオケと合わせての、5つの音源から交錯して響いて来る音は、すこぶるスリリングなものだった。
 ただし問題は、音楽と同時に響く「ラジオの音」である。今回は「ヴェニスの商人」のラジオ・ドラマとその解説(対談)が流されていたが、それがあまりにリアルな印象を与えるので、耳がそれを追いかけてしまい、結局、音楽を聴くには非常に煩わしく、気が散って音楽の印象さえ薄れてしまうという、逆効果を生み出してしまったのである。

 そういえば、初演(1993年8月24日サントリーホール 高関健、佐藤聡明、西村朗、松下功、細川俊夫、東京響)の際にも、「ラジオ」の部分では、あるニュースのナレーションが流れて、その内容がどぎつすぎて、音楽への注意力を逸らしてしまったのではなかったっけ? 

 とはいえ、関西でこれだけの選曲、これだけの企画を実現した関係者の熱意と努力には、大いなる賛辞を贈りたい。そもそもの「言い出しっぺ」は下野竜也だそうだが、近年絶好調の京都市響の意欲も立派なものであった。

 会場には1700の椅子が並べられたそうで、その大半が埋まっていたのだから、1600人くらいは入っていたことになるか。私は正直なところ、お客さんの3分の1くらいは休憩時間に帰ってしまうのではないか、と他人事ながら危惧していたのだが、案に相違して、ほとんどの聴衆が最後まで残って聴いていた。
 それだけに「グルッペン」の2回目の演奏の前の「席獲り合戦」は熾烈を極め、前方の席は押し合いへし合いの様相を呈した。

 こういう争奪戦がからきし苦手な私などは、とても前方の席は獲れまいと諦めていたのだが━━7年前の時には、移動の途中で名刺を出して挨拶される人とかち合ったりして、見事に失敗していた━━何と幸いにも、理想的な位置に近い席に座ることができた。というのは、この種の行動に関しては千軍万馬の強者たる元新聞記者の女性が、実に素早く中心部に進入し、他の2人の女性記者の分と合わせて4つの席を鮮やかに確保してくれたからであった。
 終演は4時35分。
    モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2016・12・21(水)「没後20年 武満徹の映画音楽」

    BUNKAMURA オーチャードホール  7時

 「不良少年」「伊豆の踊子」「どですかでん」「日本の青春」「太平洋ひとりぼっち」「ホゼー・トレス」「狂った果実」「最後の審判」「他人の顔」「写楽」など、懐かしい名前がずらり並んだプログラムだったが、演奏者は渡辺香津美、鈴木大介、Coba、ヤヒロトモヒロといった人たちなので、所謂クラシック系現代音楽(?)のスタイルではない。

 しかし、さすがに名手たちの演奏だから、それはもう、見事なものである。アコーディオンのPAの音響が時に大きすぎて「武満的」でなかったことを除けば、良いコンサートだった。カルメン・マキが歌った「死んだ男の残したものは」や、渡辺香津美とヤヒロが即興で演奏した「Tribute to Toru」もいい。

 同一の作品の場合でも編曲などにより、クラシック系のジャンルのみならず、ジャズのジャンルにおいても存在を確立しているというのが、武満徹の音楽の面白いところだろう。
 「ホゼー・トレス」や「他人の顔」などには、オーケストラ版で聴くのとは全く別の作品になったかのような趣もある。

 ただ、こうしたコンサートは貴重だが、欲を言えば、この2150席のホールは、あまりにも大きすぎた。せめてオペラシティ(1600席程度)くらいの大きさのホールで、それもPAなしで聴きたいところだった。

 それにしても、武満徹の記念年だった今年、日本の音楽界は、この大作曲家に対して些か冷たかったようである。オーケストラ作品による大特集演奏会としては、来年1月26日、井上道義と新日本フィルの定期を待つしかない。

2016・12・19(月)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 定期演奏会Aシリーズで、フルシャがマルティヌーの「交響曲第5番」とショスタコーヴィチの「交響曲第10番」を指揮。コンサートマスターは四方恭子。

 フルシャのショスタコーヴィチの「10番」は、つい先ごろ、大阪フィルとの演奏で聴いたばかり。
 つまり今日は彼が手がける「二度目の《タコ10》」にあたるわけだが、前回と全く同じように、隙なくがっしりと組み立てた演奏が強い印象を残す。大阪フィルよりは気心が知れた都響とのステージであるだけに、いろいろな意味での呼吸もぴったり合って、ほぼ完璧な演奏(これ自体が曖昧な言い方だが)になっていたと言えるのではないか。

 ただ、極めて生真面目で几帳面な指揮のために、作品に込められたアイロニー感といったものは、あまり伝わって来ない。全曲最後の、作曲者の名を詠み込んだモティーフによる熱狂の終結個所が、全く羽目を外さぬエンディングになっていたのも大阪フィルとの演奏の時と同じで、あまり面白味が無い。

 こういうきっちりとした演奏でやられた時のこの「タコ10」は━━それはそれで作品のある面を浮き彫りにしているのは確かだが━━特に第1楽章など、えらく長々しく聞こえてしまい、私にはどうにもピンと来なくなるのだ。
 いや、そんなことを思うのは、今年この「10番」をたくさん聴き過ぎたせいもあるのかもしれない。

 今夜の演奏会では、従ってむしろ、マルティヌーの「第5交響曲」の方が、はるかに強い印象を残してくれた。
 フルシャのマルティヌーと言えば、6年前の12月20日、所も同じこの東京文化会館で、この都響を指揮した「第3交響曲」の見事な演奏がいまだに忘れ難いが、今日の「5番」も、それに劣らず感銘深い名演である。マルティヌーのミニマリズム的な曲想がこれほど快く陶酔的に聴けた「5番」の演奏は、私には初めての体験だった。

2016・12・18(日)静岡交響楽団第69回定期演奏会

      静岡市清水文化会館マリナートホール  2時

 前日、びわ湖ホールで「ラインの黄金」(来年3月上演)の入門講座を一席喋ったあと、清水に立ち寄って静岡交響楽団の定期演奏会「ベートーヴェン・シリーズ4 県民参加による《歓喜の歌》第九コンサート」を聴く。
 この会場を訪れるのはこれが2回目。東海道線清水駅に回廊で直結したホールで、目の前には富士山と駿河湾が見える。風光明美な点では全国でも指折りのロケーションといえるだろう。

 プログラムの第1部を指揮したのは、何と、静岡県の川勝平太知事だ。
 ベートーヴェンの「第7交響曲」第1楽章を、静岡響と静響ジュニアオーケストラ、常葉大学短期大学部音楽科による合同オーケストラとともに演奏した。
 川勝知事は、もともと早稲田大学経済学部教授や静岡文化芸術大学学長などを歴任した学者さんで、ヴァイオリンも弾き、高校時代はオケもやっていた由。指揮姿もすこぶる堂に入ったものである。

 ただし本職ではないから、イメージ的に振るのは当然だ。それゆえ、棒に頼らなくては弾けないようなレベルの弦楽器奏者の何人かが「飛び出す」ヘマをやる。こんなのは、コンサートマスターか首席奏者を見て出れば合うはずなのだが・・・・。
 知事は、慎重に振ったために、終始イン・テンポになり、盛り上がりを欠いたのは惜しい。次の機会にはもっと図々しく構えて、テンポを速めたり煽り立てたりする指揮も試みられたい。いずれにせよ、県知事がオーケストラの指揮をするなどというのは、非常に結構なことである。

 さて本来の「第9」の方を指揮したのは、静岡響常任指揮者の篠崎靖男であった。
 几帳面に音楽をまとめ、オーケストラをしっかりと構築する。この演奏に、さらに自由な感興を加え、もっと聴き手の心を揺り動かしてほしいところだ。演奏の骨格がしっかりしているのは、コンサートマスターの高木和弘をはじめ、各パートの首席に、白土文雄(コントラバス)ら、名だたる奏者を招聘しているからでもあろう。
 ソリストは西尾舞衣子、永井和子、五十嵐修、桝貴志。「県民参加による合唱団」も大いに健闘していた。

 演奏終了後には客席から「日本一!」という掛け声(これは知事が振ったあとにも聞こえたが)が飛ぶなど、微笑ましい雰囲気もあった。なお開演前には「ロビーコンサート」として、ホワイエの一角で、静響メンバーを加えた静岡ジュニアオーケストラの面々が篠崎の指揮でルロイ・アンダーソンの「そりすべり」を演奏していたが、若い人たちの真剣な演奏態度は、視る者に強い感銘を残した。
 演奏会は、4時前に終る。だれでも参加していいというティーパーティなどもあったが、些か疲労を覚えたのでそのまま失礼する。清水から静岡まではJRでたった10分。静岡駅4時37分の「ひかり」に乗る。

2016・12・13(火)カエターニ指揮読響&ポゴレリッチ

   サントリーホール  7時

 読響の定期演奏会ではあるけれど、イーヴォ・ポゴレリッチが客演ソリストとしてラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を弾く、というのがやはり話題の中心だろう。
 あの超個性的な「わが道を往く」ピアニストであるポゴレリッチがコンチェルトを演奏すれば、また天下の奇演・奇観になるのではないかという期待(?)が、どうしても湧いて来てしまう。

 彼が先年(2010年4月28日)、デュトワ&フィラデルフィア管と東京で協演、ショパンの「2番」で、指揮者とオケを無視するがごとき演奏を悠々と展開した時の━━演奏終了後の拍手に応えてポゴレリッチがいくら誘っても、デュトワは一切応じずに「いや、どうぞどうぞ、貴殿おひとりでどうぞ」という身振りをしたまま知らん顔をして指揮台に立っていたこと、楽員たちもコンマスら2,3人を除いてポゴレリッチに拍手もせず、ソッポを向いたまま座っていたこと、などの光景は、未だに記憶に新しい。
 さて今回はどうなるか、と。

 そのポゴレリッチ、冒頭のソロは意外に普通のテンポでスタートしたが、その和音が3つ目あたりから早くも暗い翳りを帯び、凶暴なほどの激しい表情に変わり始めたのには慄然とさせられた。
 この曲がいくら豪壮な力強さを備えているといっても、このポゴレリッチの演奏ほど、悪魔的な物凄さを感じさせたものはない。

 ほぼ全曲がこの調子であった。その度外れた強靱さには、聴いているこちらの精神が威嚇され、鞭打たれるような思いにさえなって来る。
 しかしそれでも、第2楽章の終結の個所や、第3楽章の大詰めなどにおける暗い和音の、毅然たる剛直な響きは、圧倒的な力に満ち、襟を正す思いにさせてしまう。実に不思議な演奏だ。つまり、たじろがされるけれども、やはり凄い、と思わせる演奏なのである。

 ポゴレリッチは、作曲者ラフマニノフ本人でさえ想像しなかったイメージで、この曲を演奏したのだった。この大胆不敵で、作曲者をも畏れぬ感性は、激しく攻撃されて然るべきだが、しかし、それと同じ数の称賛を受けても然るべきだと思う。
 アンコールには第2楽章が演奏されたが、この時は少し落ち着いた演奏という印象を受けたのは、あるいはこちらの受容の気分が、彼の世界に少し慣れたせいなのかもしれぬ。

 それにしても、客演指揮者のオレグ・カエターニは、このコンチェルトでは、読響を異様なほどにガンガン鳴らし過ぎた。少なくとも、RC席で聴いていると、そう感じられた。これは指揮者の意向か、それともポゴレリッチの注文によるものか?

 以上は第2部での演奏である。第1部もロシア・プロだったが、こちらはカエターニの猛烈なエネルギーを持った指揮が生きていた。
 ムソルグスキーのオペラ「ホヴァーンシチナ」からの「ペルシャの女奴隷の踊り」は、さほどのインパクトはない曲だから━━「前奏曲《モスクワ河の夜明け》」をやってもらった方がずっとよかったのに━━どうということはないが、次のボロディンの「交響曲第2番」のほうは、聴き応えがあった。粗暴なほどに荒々しいタッチながら、この曲の野性的な力強さがよく再現されていた。ここでの読響は力感たっぷり。コンサートマスターは小森谷巧。

2016・12・11(日)ノット指揮東京交響楽団 「コジ・ファン・トゥッテ」

     東京芸術劇場 コンサートホール  3時

 ジョナサン・ノットのモーツァルトのオペラはいいだろうと思っていたが、予想通り。
 引き締まって歯切れのいい速めのテンポで、小気味よく進む指揮である。
 ある傾向の人々がやるような、ことさらテンポをいじって矯めをつくるような小細工など弄しないのがいい。

 序曲が非常に速いテンポで演奏されたのに続き、そのテンポに乗ってアレック・シュレイダー(士官フェルランド)、マルクス・ヴェルバ(士官グリエルモ)、トマス・アレン(老哲学者ドン・アルフォンソ)が歌い出す3重唱の、なんと爽快なこと。息もつかせぬ快速で歌われて行く第1場の3つの3重唱とレチタティーヴォに心身を委ねていると、その快さに、風邪などどこかへ飛んでしまう。

 特に、マルクス・ヴェルバのナマが聴けたのは嬉しい。彼の歌唱も演技も、実によく決まっている。トマス・アレンは久しぶりに聴いたが、往年の馬力はもう望むべくもないものの、この老哲学者役としてはそれなりに風格も味も出て、文句のないステージであったろう。

 今回はそのトマス・アレンが舞台監督も受け持ち、ステージ前方で演技を行わせながら進行させるという上演だった。特別な衣装も小道具もない舞台ながらも、各役柄の表情は実に生き生きとして雄弁だ。ドラマに必要なものは、これだけで全てそろっている、と言ってもいい舞台であった。

 女声陣も、もちろん手堅く達者だ。私としては、フィオルディリージに最初予定されていたミア・パーションが聴けなかったのは残念だったが、代わりに登場したヴィクトリヤ・カミンスカイテも輝かしく歌っていた。マイテ・ボーモン(妹ドラベッラ)、ヴァレンティナ・ファルカス(女中デスピーナ)も闊達な歌唱と演技で、特にファルカスのデスピーナは愛らしい。
 なお合唱は新国立劇場合唱団。アルフォンソに雇われてインチキ芝居に一役買ったという設定の「人々」の雰囲気をそれなりに出していただろう。

 ノットと東響は、モーツァルトの魅力を充分に再現する躍動的な快演。
 ただ、そのノットの指揮だが━━前述のとおり快調であることは疑いのないことなのだが、ずっと聴いていると、もう少し音楽に色合いの変化というか、登場人物の心理の変化に即したニュアンスの変化が、演奏にだんだん欲しくなって来る。
 ただしこれは、デュナミークやテンポをもっと変化させればいいという意味ではない。そういう小細工をせずとも音楽に表情の変化を生れさせる芸の幅━━それを彼が持つようになる時期を待つことにしよう。
 6時40分終演。

2016・12・10(土)広上淳一指揮東京シティ・フィルハーモニック

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 大阪から早朝の新幹線で帰京。まだ咳が残るのだが、マスクをしてホールに出かける。演奏中に咳を堪えるこの辛さは、本人でないと解らない。危ない時には、フォルティッシモをひたすら必死に待ちわびるということになる。ピアノのリサイタルだったら、行くのを止めなければならぬ。

 広上淳一が客演指揮。ベルリオーズの序曲「海賊」と交響曲「イタリアのハロルド」、およびその2曲の間にプーランクのバレエ組曲「牝鹿」(めじか)を置くという洒落たプログラムである。「ハロルド」のソロは川本嘉子、コンサートマスターは松野弘明。

 チラシにはたしか「ベルリオーズの失恋劇場その2、男の刹那な最期」とかいう、解ったような解らないようなキャッチがついていたはずだが、とにかくこれは先月定期の下野竜也指揮の「幻想交響曲」に続く「失恋劇場」第2弾であり、ベルリオーズ・ツィクルスとしては9月の高関健指揮による「ファウストの劫罰」に続く第3回ということになる。

 この広上・下野・高関の3マエストロが、いずれも京都市響の重鎮━━それぞれ京都市響の常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザー、常任客演指揮者、常任首席客演指揮者というポストに在る人たちであることが面白い(3本の矢、と言っているんだって?)。
 とにかく、この3回とも掛け値なしの見事な演奏で、もっと多くの人が来て聴いてあげて欲しかったと思うのだが・・・・。

 広上淳一が振ると、オーケストラが躍動し、スウィングする。「海賊」のコーダなど、音楽の昂揚とともに、舞台全体が沸き立っているような感があった。オケが燃えている時でも、ぴりぴりとした雰囲気でなく、楽員たちが音楽を愉しんでいる、という雰囲気が客席に伝わって来るのである。
 こういう指揮者は、稀有の存在だろう。京都市交響楽団をあの水準まで引き上げた実績は驚異的だし、今やそれが彼の絶対の自信の基となっているのではないだろうか? 

 「牝鹿」はやや正面切ったシリアスな表情の演奏で、少し重くもあったが、シンフォニックな良さもあり、こちらも楽しく聴けた。
 そして「イタリアのハロルド」では、オケが派手に炸裂、豊麗かつ色彩的なサウンドで、胸のすくような演奏を聴かせてくれた。アンサンブルも、管のソリも快調だし、音のスケール感も重量感も充分、何より音楽が燃えたぎっているのがいい。シティ・フィル、このところ確かに好調である。

 ハロルド役を象徴するヴィオラ・ソロの川本嘉子もふくよかな演奏を繰り広げたが、ベルリオーズの責任で出番のなくなった第4楽章後半では、椅子にかけてみんなの演奏を聴くという段取り。それでも最後にソロに復帰したあとは、そのままオケと盛り上がり、ついに一緒にエンディングまで弾いてしまった。
 前回、どこかで彼女がこれを弾いた時にも、やはり最後までオケと一緒に弾いていたので、「死んだはずのハロルドが山賊になって大騒ぎじゃ、ストーリー的におかしいじゃない?」とご本人に突っ込んだところ、「どうしても最後まで一緒に弾きたくなっちゃうのよ」と宣うておられたが、今回も楽屋を訪ね、その話で大笑いした次第。

 真摯で、いい演奏だった。しかし、この客の入りでは、いくら何でもちょっと可哀想だ。みなさん、何とか聴いてあげて下さい。
       音楽の友2月号 Concert Reviews

2016・12・9(金)ヤクブ・フルシャ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

     フェスティバルホール(大阪) 7時

 一泊して、さらにもう一つ、大阪のオケを聴く。大阪フィルの定期の2日目だ。ヤクブ・フルシャが客演しての、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソリストは河村尚子)、ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」というプログラムである。コンサートマスターは田野倉雅明。

 今日の大フィルは、端整で、正確で、精密なアンサンブルが映え、凝縮した密度の濃い音楽を響かせてくれた。久しぶりに聴く大フィルの「完璧に近い」音である。隙のない、画然たる演奏である。
 しかしこうなると、先日のインバルが客演した際のあのモーツァルトや、マーラーの「5番」第1楽章でのしまりのない演奏は、一体何だったのかと思ってしまうのだが━━。

 ま、過ぎた話はともかく、老舗の大フィルが、いざその気になればこういう精密な演奏を聴かせることができる、ということを確認できただけでも嬉しい。昨夜の大阪響の熱演と併せ、大阪まで聴きに来た甲斐があるというものである。

 フルシャは、意外にも、この「10番」を指揮するのは今回が初めてなのだそうだ。プログラム冊子にも、自らそう書いている。
 実際の演奏では、第1楽章では曲の形式感を確立するまでには行かない印象があったとはいえ、第2楽章と第4楽章ではエネルギー性も過不足なかったし、第3楽章での「作曲者自身」と「秘かな恋人エルミーラ」の二つのモティーフの対比と絡みも、それなりに巧く出していただろう。フルシャらしく贅肉のない、ストレートな表情で押し切った演奏だった。第3楽章でのホルンのソロの良さも、特筆すべきものであった。

 だが、フルシャの端整な音楽づくりの良さが発揮されていたのは、実はむしろ第1部でのベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」の方だろう。
 ここでは、フルシャの引き締まった音楽と、河村尚子の清澄でスケールの大きな音楽とが、素晴らしい組み合わせを形づくっていた。とりわけ第2楽章などでは、オーケストラの冷徹で歯切れよいフォルテのスタッカートと、ピアノのモノローグ的な最弱音による歌(いずれもまさにスコアの指定通りである!)が絶妙な対比を為し、いっぽう前後の楽章では、オーケストラの端整な進行と、ピアノの毅然たる表情とが、これまた見事な対話を繰り広げていたのである。

 河村尚子も、一段とスケール感を増した。堂々たる演奏である。
 素晴らしいなと思ったのは、例えば第1楽章の第204~215小節で、8分音符がマルカートで上行を繰り返して行く個所。このリズムを、彼女は決然と強調し、音楽に凛とした力強さを加えていたのだが、その豪快さは、他になかなか聴けないようなものであった。

 また第1楽章冒頭、ピアノのソロの最後の音(第5小節)を、彼女は驚くほど、スパッと切った。まるでオーケストラ(弦合奏)に向かい、「私はこう音楽を始めた。で、あなたには何が出来る?」と鋭い問いを投げかけるかのように。
 これは、あまりにも挑戦的な弾き方に聞こえたが、実はそれは、この第5小節のピアノの最後の音がスコアでは8分音符であることを、私たちに改めて認識させてくれたのである。
 多くのピアニストは、この音を4分音符か、時には付点4分音符くらいの長さで、じっくりと余韻をこめて優しく弾く。だが彼女は、はっきりとこれをスコア通りに弾き、この協奏曲が、ふつう考えられているような単なる叙情的な性格のものではないことを、聴き手に気づかせたのだった。
      ☞モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2016・12・8(木)寺岡清高指揮大阪交響楽団

     ザ・シンフォニーホール(大阪)  7時

 常任指揮者・寺岡清高による、コルンゴルトとツェムリンスキーを組み合わせたプロ。
 コルンゴルト~ツェムリンスキー編の「雪だるま」前奏曲とセレナード、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは小林美樹)、ツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」。

 東京のオケでも最近はあまり見られなくなってしまったような、意欲的なプログラムだ。決しておなじみとは言えない曲ばかりなので、お客さんがどのくらい来るかとちょっと心配だったが、実際には80%近く入っていたのではなかろうか。コンサートマスターは森下幸路。

 この3曲の中では、何といっても「人魚姫」が圧倒的に快演だった。予想を上回る見事さと讃えていいだろう。幻想的な味を湛えた分厚いオーケストレーションが、均衡を保ちながらも豊かな色合いを以って再現され、起伏感と緊張感も素晴らしいものがある。特に全曲幕切れで音楽が浄化されて行く個所での美しさは印象的だった。
 おそらく、指揮者もオケも、今回はこの「人魚姫」に全力を傾注していたのではないか、と想像するのだが・・・・。

 もちろん、他の2曲の演奏が手抜きだったなどという意味ではない。コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」では、ソロの小林美樹が力のこもった演奏を繰り広げていた。ただ、オーケストラは━━第3楽章結尾の決め手であるホルン群にもう少し昂然たる気魄がみなぎっていてもよかったような気もするし、全体にいわゆる「コルンゴルト節」がもっと濃く浮き出ていてもよかったのでは、と思うのである。
 結局やはり、「人魚姫」での色彩感に富んだ演奏が、この日の印象を独り占めにしてしまった、ということか。

 寺岡清高と大阪響の演奏を聴いたのは、考えてみると、ハンス・ロット特集の定期以来のことのようだ。あの時に比べると、今夜の演奏は極めてまとまりが良い。1度や2度の演奏を聴いただけで云々するのは早計かと思うけれども、大阪響の音のバランスは、このところ良くなっているような気がする。

2016・12・7〈水〉川端康成/クリス・デフォート:「眠れる美女」

       東京文化会館大ホール、通しリハーサル  7時

 1961年に刊行された川端康成の「眠れる美女」をオペラ化した「House of Sleeping Beauties」。こういうオペラがあるということを不勉強にして知らなかった私としては目から鱗ともいうべきものである。
 本番は10日と11日だが、あいにく予定が合わず観に行けぬとあって、せめて衣装付き、オーケストラ付きの「通しリハーサル」でもと思い、主催者に頼みこんで覗かせてもらう。

 休憩なしの3場からなる約1時間半、なかなか面白い。
 物語は、性機能をすでに失っている老人男性を、睡眠薬で眠らされている若い裸の女性と一夜を過ごさせる宿を経営している謎めいた女将━━その2人の対話で始まる。女というものに対する男の複雑な心理が幻想的に、しかも実に美しく展開されて行くもので、これは官能的な心理劇だ。

 長塚京三(丹前姿で出ずっぱりの江口老人)と原田美枝子(女将)の、日本語による現実めいた「芝居」の部分と、各同役をオマール・エイブライムとカトリン・バルツが歌い演じる夢か現かの「オペラ」の部分を組み合わせた構成で進められ、伊藤郁女のダンス、原千裕・林よう子・吉村恵・塩崎めぐみのヴォーカルが夢幻的に絡む。

 クリス・デフォート(台本・作曲)の音楽は繊細で、静中の動、動中の静とでもいうか。ギイ・カシアス(演出・台本)も、あの「指環」でのような煩わしい動きを導入することなく、ただ背景の高所で幻想的なダンスを見せるのみだが、これもいい。東京藝大シンフォニエッタが、パトリック・ダヴァンの指揮で演奏している。
 ━━川端康成の清澄な官能美の世界だ。本番が見られないのは残念。

2016・12・6(火)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 1カ月以上の間、1日も休みなしでコンサートやオペラに通い続けたのが祟ったか、風邪気味になって咽喉が痛み、咳が出る。
 午後に予定していた東劇での「METライブビューイング」の「ドン・ジョヴァンニ」は、残念ながら松竹へ欠席のお詫び連絡をし、自宅で吸入や薬やうがいで闘咳(?)。何とか辛うじて少し治まったようなので、夜はとにかくサントリーホールへ出かける。

 上岡と新日本フィルの演奏による、ストラヴィンスキーの「プルチネッラ」組曲、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」組曲、プロコフィエフの「第5交響曲」という、「上岡のロシア・プログラム」だ。コンサートマスターは崔文洙。

 こういう芳しからざる体調の時は、あまり適切な感覚で音楽を受容できないことが多いものだが(まともな体調の時だって、怪しいものだが)今夜の上岡&新日本フィル、先頃の定期での演奏に比べると、何かちょっと散漫なように感じられたのは、こちらのコンディションの所為か?

 特に「プルチネッラ」と「くるみ割り人形」は、━━どうも上岡と新日本フィルは、こういう「軽い、洒落た」曲を手がけると、いつぞやの川崎での名曲コンサートでもそうだったが、何となく茫漠として掴みどころのない演奏になってしまう。自由なアンサンブルによる空間的なふくらみのある音を求める上岡の指揮と、それに呼吸が未だ合わぬ新日本フィルとのギャップが、「瀟洒で颯爽とした」曲想の作品では目立ってしまうのか? 
 ただし「プルチネッラ」では、手触りの少し温かい、柔らかい響きが━━新古典主義的作品における普通の演奏とはだいぶ違うとはいえ━━それはそれで面白かったけれど。

 プロコフィエフの「5番」の方は、もともと物々しい曲想の交響曲ゆえに、上岡と新日本フィルの演奏にもシリアスな量感が生まれ、正面から迫って来るエネルギーを感じさせる。
 最強奏における音色に濁りが生じる上に、オケとしての機能的な完璧さがこのところ薄れ気味なのが気になるとはいえ、速めのテンポで押し切ったこの演奏は、それなりに面白いものがあった。

 私が最も気に入ったのは、第4楽章の幕切れ直前の個所だ。そこまで「こけつまろびつ」突進して来た音楽の中に、突然別の世界から混入して来たように色合いの異なる響きが生まれる瞬間。
 指揮者によっては統一感を乱さぬためにさりげなくやってしまう人もいるが、それではプロコフィエフが意地を見せたアイロニー感が生きなくなる。その点、そこでの上岡の指揮は、かなりの段階までその「サプライズ感」を生かしたものだった。

 アンコールは、「くるみ割り人形」からの「パ・ドゥ・ドゥ」。定期でもアンコールをやるという珍しい癖を持つのが上岡である。

2016・12・5(月)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

      東京オペラシティ コンサートホール 7時

 ドイツ・カンマーフィル・ブレーメン(ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団)の今回の日本ツアーは8公演で、今夜が最終日。ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは樫本大進)、シューマンの「交響曲第3番《ライン》」

 パーヴォ・ヤルヴィは、やはり大編成のオーケストラよりも、こういうドイツ・カンマーフィルのような中規模の、それも斬新な感覚で沸き立っている「ヒッピー楽団」(4年前のパーヴォの発言、朝日新聞から)を指揮する時の方が、はるかにいい。骨の髄まで彼らしい、大胆不敵な、急進的でラディカルな個性が、存分に発揮できる。

 その最たるものは、今日のプログラムの中では、シューマンの交響曲「ライン」における演奏だ。これは4年前の来日の際にも「シューマン交響曲ツィクルス」の一環として演奏したことがあるけれど、これほどスリリングで面白い《ライン》の演奏は他に例を見ない。
 一つ一つの音符が、あらゆるフレーズが、際立ち毛羽立ち、鋭角的で闘争的な形になる。全曲にわたって予想外のリズム処理が為され、思いがけぬパートが浮き彫りにされる。聴き慣れたこの交響曲が全く違った様相で立ち現れて来る。

 シューマンはオーケストレーションが不器用だ━━などという古来の先入観など何処へやら、むしろ前衛的で斬新極まりない管弦楽法のイメージを以って響きわたるのである。快速テンポで、ほとんどの楽章をアタッカで有機的に接続し、緊迫感を保ち続けて指揮して行くパーヴォの気魄も見事だし、それに応えるオーケストラも巧い。実に荒々しく激しい、しかし痛快極まる「ライン」であった。

 「ハイドンの主題による変奏曲」にしても同様である。冒頭の管楽器による古式ゆかしいコラールが、骨太で強面に響きはじめる瞬間から、今日の演奏が何か並みのものとは違うものになりそうだという、不思議な期待感を持たせてくれる。コンサートに行って、最初からこういう感覚に浸れる時は、幸せである。そして、パーヴォとドイツ・カンマ―の実際の演奏は、その期待通りになるのである。

 ベートーヴェンの協奏曲でも、オーケストラの沸騰するようなエネルギーが、この曲をドラマティックな様相に仕立て上げる。樫本大進のソロは、コンサートマスターのポストにあるヴァイオリニストらしく、整然としたものだが、それでも今日は、精一杯の自由さを志向した演奏だったと言えようか。それがパーヴォとオケの激しい波浪のような演奏と、微妙なバランスを以って対峙する。

 オーケストラのアンコールは、ブラームスの「ハンガリー舞曲」からの「第3番」と「第1番」。これまた、曲をデフォルメ寸前にまで追い込むユニークな演奏である。
       ⇒音楽の友2月号 Concert Reviews

2016・12・4(日)京響プレミアム 岸田繁の「交響曲第1番」初演

     ロームシアター京都メインホール  4時

 ロックバンド「くるり」のシンガーソングライター、ギタリストとして人気のある岸田繁が、クラシック音楽の世界に挑んだ力作が2曲。
 最初に演奏時間20分前後の長さの「Quruliの主題による狂詩曲」(岸田繁自身も第4曲で歌唱)、休憩後に、50分以上を要する長大な「交響曲第1番」(初演)。なお後者は三浦秀秋のオーケストレーションとコメントされているが・・・・。

 演奏は広上淳一指揮の京都市交響楽団。
 
 岸田氏に提案したい。自己の立派なテリトリーをあくまで大切にしていただきたい。クラシック音楽におもねる必要などない。まず何よりも自己の独自の、最も得意とする語法を堂々と振りかざして、クラシック音楽に正面から斬り込んで来てもらいたい。

2016・12・3(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 定期公演。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の第1幕前奏曲、デュティユーの「チェロ協奏曲《遥かなる遠い国へ》」(ソリストはヨハネス・モーザー)、シューマンの「交響曲第2番」というプログラム。
 ちょっと渋めだが、いかにも「ノット&東響」らしい意欲的なプログラミングだ。コンサートマスターは水谷晃。

 「トリスタン」と「遥かなる遠い国へ」は、切れ目なしに続けて演奏された。これは、すこぶる秀逸なアイディアである。
 しかもヨハネス・モーザーは、「トリスタン」から演奏に参加し、ソリストの台の上でチェロのパートを一緒に弾く。おかげで、この曲のチェロのパートがいつもよりずっと目立ったのは当然だろう。

 その「トリスタン」も、ノットの指揮は濃厚なものではなく、デュティユーの透明で清澄な世界へ直結したような表現を採っているので、この2曲が続けて演奏される意味も明確になる。またデュティユーの協奏曲の方にも、「トリスタン」の世界からの浄化━━といった趣が加わって来る。
 2つの作品に、それぞれ単独で聴いた時とは全く異なった意味合いが付与される結果を生む━━これこそがまさにプログラミングの妙味といえるものであろう。

 休憩後のシューマンの「第2交響曲」は、先の2曲とは全く異なった色合いの、大胆かつ力動的な演奏となった。
 第1、2、4楽章は、それこそ一刻の休みも無しに動き回る世界だ。これは闊達というよりも、落ち着きのない躁状態と言った方がいいような表現ではないだろうか? かつてシノーポリがこの曲を精神病理学的に解釈し演奏してわれわれを驚かせたことがあったが、今夜のノットの指揮は、それと同じとまでは言わぬまでも、何かそれを連想させるものがある。

 そう思わせる理由は他にも、テンポの速さと、オーケストラの音色にあるだろう。この演奏は、明るく澄んだ音色ではなく、弦楽器全体が終始トレモロで震えているような響きに聞こえ、それが異常な緊張をつくり出しているように感じられたのである。

 このような特殊で見事な音色と楽器のバランスは━━これとは少し異質な、もっと柔らかいものだったけれども━━前音楽監督スダーンも、この東響との演奏でつくり出したことがある。ただ、スダーンの時には、曲の後半でオケが普通の状態に戻ってしまうことがあり、そしてこのノットの場合には、最強奏の際に音色が濁ってしまう傾向がある。今後の課題かもしれない。

 いずれにせよ、ノットが指揮する東響の演奏会には、退屈というものが無い。

2016・12・1(木)アルベルト・ゼッダ米寿記念コンサート

      BUNKAMURAオーチャードホール  7時

 イタリアの名指揮者アルベルト・ゼッダの88歳を記念して、彼がしばしば客演している藤原歌劇団(日本オペラ振興会)が祝いの演奏会を開催。彼の指揮で、ロッシーニのカンタータ「テーティとペレーオの結婚」と、「スターバト・マーテル」が演奏された。

 前者では佐藤美枝子、中井亮一、光岡暁恵、鳥木弥生、角田和弘が、後者では砂川涼子、向野由美子、村上敏明、伊藤貴之がソロを歌った。合唱と管弦楽は、藤原歌劇団合唱部と東京フィルハーモニー交響楽団。

 人間味あふれる温かい情感に富んだ指揮で、日本でも圧倒的な人気を得ている名匠アルベルト・ゼッダ。今夜もこの2曲で、ロッシーニの作品の良さをホールいっぱいにあふれさせた。米寿の高齢でありながら、彼が演奏者から引き出す音楽は、素晴らしく生き生きしていて、若々しい。
 2曲とも指揮台上に立ったままで、エネルギッシュに指揮、袖との往復の歩き方も速い。

 カーテンコールの締め括りには、折江忠道・藤原歌劇団総監督のリードで、マエストロに黄金色の帽子とちゃんちゃんこ?を着させ、全員でイタリア語の「ハッピー・バースデイ」を歌うという趣向もあった。心温まる演奏会である。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」