2017-10

2016・10・31(月)マレイ・ペライア ピアノ・リサイタル

      サントリーホール  7時

 ペライアの演奏は、幸いにもこのところ、毎年のように聴ける機会がある。ただし、ソロ・リサイタルは、3年ぶりだ。

 神経質な人とかで、ホールのアコースティックや楽器の状態などによって気持のコンディションが変わり、それが演奏に影響してしまうのだということを聞いた記憶がある。今日はどうだったか知らないけれども、演奏にちょっと首をひねらされる個所もないではなかった。しかし、やはり素晴らしいピアニストだ。

 プログラムは、ハイドンの「アンダンテと変奏曲ヘ短調」、モーツァルトの「ソナタ第8番イ短調K310」、ブラームスの作品118と119の小品集から2曲ずつおよび作品116の「幻想曲集」から「第1番」、休憩後にベートーヴェンの「ハンマークラヴィア・ソナタ」というもの。

 層の厚い響きで演奏されるペライアのハイドンとモーツァルトは、非常に陰翳が濃く、緊張感に満ちている。ソナタの第3楽章など、その推進力の強さも含め、何か魔性的なものをさえ感じさせたほどだ。
 これら短調の作品が2つ続いたあとのブラームスの5曲では、短調と長調の曲が交互に配列されていたので、陰翳の中に愁眉を開く、といった想いにさせられるだろう。巧みな選曲だ。
 だが、この3人の作品が、ペライアの演奏で聴くと、まさに一本の強い絆で結ばれたパトス━━といったように感じられたのが面白い。

 この鋭い緊迫した、しかも見事に流れのよい演奏だった第1部に比べると、第2部の「ハンマークラヴィア・ソナタ」は、━━ペライアの演奏はもちろん非凡なものには違いないが、たとえば速いテンポで一気に進む個所で、時に無理に急ぎ過ぎるような印象を与えられたのは、演奏に安定感をやや欠いたところもあったためだろうか? 

 しかし、やはりこのソナタは、本当に大変な作品だ。ライヴのステージで、われわれを心底から唸らせてくれるこの曲の演奏には、なかなか出逢えない・・・・。
 なお、彼がこの曲のあとでアンコール曲を弾かなかったのは、賢明なことであった。「ハンマークラヴィア・ソナタ」をナマ演奏で聴いたあとには、いかなる曲も必要でない。

2016・10・29(土)アントニ・ヴィト指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  3時

 当初はミシェル・プラッソンの客演指揮と発表されていたが、手術のためとかで来日が中止となり、替わってポーランドの名指揮者アントニ・ヴィト(ヴィット)が振った。
 彼の指揮に接するのは、5年前に東京でショパン国際コンクール入賞者を集めて行われたコンチェルトばかりの演奏会で聴いて以来のことになる。思いがけず、しかもフランスのレパートリーで聴けたのは幸いだった。彼は昔からフランスものはしばしば指揮していたそうだ。そういえば、今日もほとんど全部の曲を暗譜で振っていた。

 プログラムはドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、サティ~ドビュッシー編の「ジムノペディ」第1番と第3番、ドビュッシーの「海」、フォーレの「ペレアスとメリザンド」組曲、ラヴェルの「古風なメヌエット」と「ボレロ」、アンコールはラヴェルの「マ・メール・ロワ」からの終曲━━と、盛りだくさんなもの。なお「ペレアス」には「メリザンドの歌」が加えられ、鳥木弥生が歌った。コンサートマスターは日下紗矢子。

 ヴィトは、非常に芯の強い、強靭で骨太ともいえるほどの音でオーケストラを響かせる。ドビュッシーとラヴェルの作品の演奏の場合、繊細とか洗練とか秘めやかとかいった言葉で表現される先入観を抱くことが多いが、今回読響を指揮した彼の音楽は、そういった特徴からは些か遠く、やや武骨で剛直な特徴を持っている。
 弦の音色は、最弱音においても引き締まって剛直だし、低弦はずしりと響く。金管群に至っては華麗というより豪快で、強い(これは2階席正面で聴いた音だから、他の場所で聴くと少し違う印象になるのかもしれない)。だがそれでいて、無機的で粗暴な音楽には、決してならないのである。

 「海」での豪快な波浪はなかなか物凄く、一方「ボレロ」の最後の転調の瞬間に音量がさらに一段と大きくなったのには「やってくれたわ」とニヤリとさせられる。「古風なメヌエット」は呆気にとられるほどの豪壮さだったし、「ペレアスとメリザンド」の「シシリエンヌ」中間部での転調の瞬間も、どっしりした響きだ。
 まあ、こういう演奏も面白いだろう。ただ、メゾ・ソプラノのソロは、メリザンドの歌としては、ちょっと物々しかったのではないか。

2016・10・27(木)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団

      サントリーホール  7時

 ソヒエフとN響は、すっかり「親密な関係」になったようである。今年1月にも客演したばかりだったし、来年11月にも来る予定だそうだ。

 今回はB定期2回公演の指揮のみで、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」(ピアノはエリーザベト・レオンスカヤ)と、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」。
 指揮者とオケと、どちらの希望かは判らないけれども、名曲ばかりである。コンサートマスターは篠崎史紀。

 RB席前方という、オケの至近距離の席だったために、腕のいいN響の演奏の細部がよく聴き取れて、ソヒエフの音づくりの特徴が愉しめた。
 トゥールーズのオケなどを振る時と違い、N響を振る時には、彼の指揮はむしろストレートな表現になる。だがその細部のニュアンスは、実に精妙だ。「新世界」の第3楽章などでチェロがすっと浮かび上がり、また下行する個所での、短いが美しい表情の見事さ。

 第1楽章再現部の最初の方でオーボエが主題を奏する下に、ヴィオラがまず4分音符で、次にすぐ8分音符で、トレモロのまま不思議な細かい動きをする個所があるが、このヴィオラを明確に浮き立たせ、瞬時ながら音楽に変化をもたせた演奏は、久しぶりに聴いた。ソヒエフはここでヴィオラの方を向いてちょっと合図をしていたようだったから、明らかに意図的なものだったのであろう。
 第1楽章終結での力感も、凄まじい。
 このように、細かく神経を行き届かせた表現が随所に散りばめられている。こういう指揮者の手にかかると、聞き慣れた「新世界」が、非常に新鮮に感じられるのである。

 協奏曲の方では、レオンスカヤの武骨なピアノに合わせてか、ソヒエフは非常に重々しい音楽をN響から引き出した。
 レオンスカヤの演奏には昔ほどの切れ味は残念ながらもうないようだが、この「第3番」がこれほど陰翳の濃い、むしろ暗いほどの渋みをもった曲として聞こえたのは、初めての体験である。ソロ・アンコールで弾いたベートーヴェンのソナタ「テンペスト」のフィナーレも同様、流麗な力感の代わりに、不思議な「訥弁の滋味」といった印象が生まれていたのだった。

2016・10・24(月)レ・ヴァン・フランセ

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 親戚の葬式のため松本へ往復、もともと「のろい特急」で知られる「スーパーあずさ」が往復とも事故などでさらに遅れ、結局、列車内生活だけで計6時間を要した。それでも辛うじて6時には新宿に帰着できたので、予定通りオペラシティへ直行、「レ・ヴァン・フランセ」を聴きに行く。
 正直、疲労していたのだが、そこが「音楽の効用」というべきか、彼らの爽やかで胸のすくような勢いの演奏を聴いているうちに、疲れはどこかへ吹っ飛んでしまった。

 レ・ヴァン・フランセ━━メンバーはエマニュエル・パユ(フルート)、フランソワ・ルルー(オーボエ)、ポール・メイエ(クラリネット)、ラドヴァン・ヴラトコヴィチ(ホルン)、ジルベール・オダン(バソン)、エリック・ル・サージュ(ピアノ)。
 まさに「黄金の顔ぶれ」であろう。何人かは、先日の「ル・ポン」の公演に続いての出演だ。
 プログラムはエルサンの「復活祭の歌」、ベートーヴェンの「五重奏曲作品16」、マニャールの「五重奏曲作品8」、プーランクの「六重奏曲」。

 「ル・ポン」の時と同様、何しろ演奏者たちの巧いのなんの。ベートーヴェンの作品以外はフランスものだが、管楽器奏者たちがそれぞれ大きな音で自由奔放、勝手気ままに自己を主張しながら吹きまくっているように見えながら、それが実に見事なアンサンブルを形成し、闊達な音楽として躍動しているという、絶妙な演奏がこれなのである。しかも、エリック・ル・サージュのピアノの何と清澄な美しさか。

 ドイツの作品であるベートーヴェンにしても、これだけのびやかで開放的で、かつカンタービレに充ち溢れたアプローチの演奏は、滅多に聴けるものではなかろう。それらの演奏に感じられる洗練された粋な佇まいもまた、傑出したものであった。

2016・10・23(日)山下一史指揮 千葉交響楽団

     千葉県文化会館大ホール  2時

 ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉(1985年創立)がこの10月から「千葉交響楽団」と改称、第100回記念定期演奏会を迎えた。第100回を記念して改称したのではなく、改称した月の定期公演がたまたま第100回だった、ということのようである。
 そして指揮は、この4月から音楽監督となった山下一史。彼の就任披露は、すでに5月の第99回定期で行なわれている。このオーケストラの年間定期回数は、2回である。

 今日のプログラムは、モーツァルトの「交響曲《ジュピター》」、山本純ノ介の「千の音と楽の葉」(100回記念委嘱作品・世界初演)、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲(1919年版)。

 私もこのオーケストラをナマで聴くのはこれが初めてだし、山下一史の指揮ということもあって、大いに期待してやって来たわけだが、「ジュピター」の冒頭が実に歯切れよく、明るい音で、活気にあふれて始まったので、すっかり気持が良くなった。4月から特任コンサートマスターになっている神谷未穂を先頭に、弦楽セクションが張りのある音を響かせる。金管楽器の一部には僅かに気になる個所があったけれども、オーケストラのまとまりはいい。山下がよく引っ張っているな、という感である。

 これは「火の鳥」でも同様である。この曲では、最弱音から爆発点にいたるまで均衡豊かな響きを保ち、「魔王カスチェイの凶悪な踊り」やフィナーレの昂揚個所では、極めて重量感に富んだ演奏を聴かせてくれた。
 このオケの正規団員は、今年1月時点では25名(現在は27名?)なので、「火の鳥」では30名超の客員奏者を加えての演奏ということになるが、山下一史の制御は上々だったようだ。演奏に色合いの変化が不足するとか、几帳面に過ぎるとかという問題はあるだろうが、現時点ではこれ以上を望むのは酷というものだろう。

 山本純ノ介の、千葉響のために書かれた「千の音と楽の葉」は、作曲者の解説によれば、「千葉・・・・ちば・・・・CHIBA・・・・CHI-BACH-IBA」という発想のモティーフが隠されている由。プレトークの際に、このモノグラムが実際に楽器で紹介されていれば、お客さんの愉しみも倍加したに違いない。
 曲は、一聴した感では、かなり精妙な管弦楽法を備えた作品である。特に「序曲」の部分ではオーケストラ全体を持続的に貫く強靭な響きが強い印象を残し、「コンチェルト・グロッソ」の部分では、木管の特殊奏法━━クラリネットの重音奏法は見事だった━━などを含むオーケストラの多様な響きが聴き手の耳を奪う。

 最後の「火の鳥」が終ったあと、山下音楽監督が「プレトークで言い残したこと」として「定期100回記念」に関するスピーチをまた行ったが、喋りたいということは理解できるものの、話が長すぎる。
 アンコールは「火の鳥」の「子守歌」から「フィナーレ」にかけての部分。
 ともあれ、音楽監督と千葉響の新しい門出を祝い、今後の活動に期待を寄せたい。
      音楽の友12月号 演奏会評

2016・10・21(金)フライブルク・バロック・オーケストラ

      トッパンホール  7時

 来日したフライブルク・バロック・オーケストラ。4年前にバッハの「管弦楽組曲全集」を持って来た時には20人以上の編成だったが、今回は弦14、チェンバロ1の15人編成。

 ヴィヴァルディのオペラ「オリュンピアス」序曲で始まり、バッハの「ヴァイオリン協奏曲第2番」、ヘンデルの「合奏協奏曲作品6の11」と続き、休憩後はヴィヴァルディのシンフォニア「聖なる墓にて」、バッハの「3つのヴァイオリンのための協奏曲」、コレッリの「合奏協奏曲作品6の1」と並ぶ。アンコールはヘンデルの「合奏協奏曲作品6の10」から2曲。

 2人の芸術監督━━ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツとペトラ・ミュレヤンスのソロも活躍して、闊達で素晴らしい演奏を繰り広げた。選曲も良く、それぞれの作曲家の個性が一目瞭然という作品ばかりであり、その聞き比べもまた実に愉しい。ヴィヴァルディの作品だけはちょっと渋く、せめて「調和の幻想」━━私はどうも、昔使われていたこの題名が好きなのだが━━のどれかでも聴きたいところだったけれども、それは24日のプログラムにしか入っていない由。

 連日、濃厚な音楽ばかりに浸っている中に、こういったジャンルの音楽を聴くと、清涼剤のような爽やかな、快い感覚に浸ることができる。
 もっとも、フライブルク・バロック・オーケストラの演奏は、切り込むような鋭さを持っているので、必ずしも昔の名門バロック合奏団の演奏のように、寛いで聴けるという類のものではない。だが、快活な曲想の楽章でリズミカルに身体を上下に揺らしながら楽しそうに弾く彼らのステージは、音楽的にだけでなく、視覚的にも大いに楽しめるものであった。

2016・10・20(木)バッティストーニ指揮東京フィル 「イリス」

       サントリーホール  7時

 この9月に首席指揮者に就任したアンドレア・バッティストーニが、マスカーニのオペラ「イリス(あやめ)」を取り上げた。東京フィルの「ジャポニズム・オペラ」のシリーズの第2弾、とのことである。

 演奏会形式だが、ちょっと面白い趣向が凝らされていた。照明(喜多村貴)が活用されているのはもちろんだが、オルガンの前には大きな紗幕が下ろされ、バッティストーニ自ら選定した葛飾北斎や歌川広重、狩野芳崖らの浮世絵が、若干デフォルメされた図柄で投映される、という具合である。これが単に雰囲気づけにとどまらず、たとえば好色な若衆「大阪」がイリスを卑猥に近い言葉で口説く場面では、北斎の「蛸と海女」(この絵、昔、樋口可南子と緒形拳が凄い場面を繰り広げた映画「北斎漫画」の一場面を思い出させた)が投映され、いやが上にもエロティックな幻想を誘い出す効果を上げているのだ。
 歌手陣は、主としてステージ前面で、ある程度の演技を交えつつ歌うが、幻想的な場面では、前述の紗幕の彼方で歌う。

 バッティストーニは、例のごとく速めのテンポで歯切れよく、最弱音はやっと聞き取れるような音で、最強音は荒々しくホールを揺るがせるような音で轟かせ、緊迫感を全曲に漲らせた「イリス」を再現した。これまでにも何度かこのオペラを聴く機会はあったが、これほどドラマティックな音楽のオペラだったか━━と、今回初めて認識させられた次第である。
 正直いって聴く前は、この作品は演奏会形式で聴くオペラとしてはどうかな、と危惧していたのだが、それは全くの杞憂に終った。このバッティストーニのオペラにおける並外れた才能に、ここでもまた舌を巻かされたのである。こうなると、彼の指揮でイタリア・オペラをもっと聴いてみたい、という気も起って来る。次回は来年9月の「オテロ」になるというが━━。

 歌手陣もよかった。イリス役のラケーレ・スターニシは、最初のうちはヴィブラートが物々しく重く聞こえて辟易させられたが、第2幕以降はのびやかな声にスケール感を加え、「太陽の光のうちに選ばれた女性」といったイメージに相応しい歌唱を聴かせてくれた。
 出色だったのは、金持の男・大阪を歌ったフランチェスコ・アニーレで、粋な若衆というイメージからは遠い容貌と体躯だが、それだけに第2幕での好色丸出しのオヤジの雰囲気でイリスに迫る場面では、大いに存在感を出していた。

 イリスの父親チェーコ役の妻屋秀和と女衒・京都役の町英和はいつも通りに「決め」ていたし、出番は少ないが屑拾い役の伊達英二も舞台を引き締める。ディーアと芸者の役を歌った鷲尾麻衣が極めて清澄な声で映えたことも特筆すべきであろう。

 P席に配置された新国立劇場合唱団もなかなかの迫力で、最後の「太陽賛歌」では轟くオーケストラに負けず声を響かせたのは立派である。東京フィルも、オペラを劇場のピットの中で演奏する時とは違い、ステージ上では豊かな音で「音楽し」てくれたのが有難い。コンサートマスターは三浦章宏。
 休憩1回を含み、終演は9時25分頃。

2016・10・19(水)シルヴァン・カンブルラン指揮読響、五嶋みどり

      サントリーホール  7時

 定期演奏会。シューベルト~ウェーベルン編の「6つのドイツ舞曲」、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」、ヨハネス・マリア・シュタウト(1974年生れ)のヴァイオリン協奏曲「オスカー」(日本初演)、デュティユーの「交響曲第2番《ル・ドゥーブル》」。

 かなり渋い大胆なプログラムで、在京民間オーケストラの並々ならぬ意欲を物語る演奏会だが、それでも結構な盛況だったのは、五嶋みどりの出演と、読響の定期の最近の集客力の強さゆえだろうか。
 コンサートマスターは、最初の3曲が日下紗矢子だったが、最後の「ル・ドゥーブル」では彼女はソリストグループにまわり、その後ろに座った長原幸太がコンマスを務めた。

 カンブルランと読響の演奏は、多彩な音色を駆使して、今日も好調である。
 最初のウェーベルン編「6つのドイツ舞曲」では、弦の抑えつけたようなリズムが異様な重さと暗さを出して際立っているし、「ル・ドゥーブル」でも、輝かしく清澄で、しかも自然な演奏の見事さに、快いシャワーを浴びているような感覚に引き込まれてしまう。

 五嶋みどりの演奏が、また凄い。コルンゴルトの第2楽章では危ういほど沈潜した音楽を聴かせ、他の2つの楽章でも嫋々たる官能の世界をつくり出す。この曲、こんな曲だったかな、と思わせられた理由のもう一つは、各主題の旋律線が埋もれてしまうほどに濃厚な表情で弾かれていたからかもしれない。辛うじて、カンブルランと読響が響かせた、のちにジョン・ウィリアムズがそれを真似た映画音楽のような金管群の咆哮が、これがコルンゴルトの作品だったことを思い出させたのであった。

 シュタウトの協奏曲は、2014年に五嶋みどりが初演、彼女に献呈されたものとのこと。ネットでスコアを覗き見した時には気が付かなかったが、前半の部分でピッチカートの続く緊迫した弱音の個所が、ジョン・アダムズのオペラ「ドクター・アトミック」の中の、原爆実験が開始される直前の場面の音楽を思い出させる。これも五嶋みどりの厳しい集中力に富む演奏によって、この曲の場合は、まるで「冷たいシャワー」を浴びるような感覚に引き込まれたのであった。
 
 それにしても、「オスカー」という、アカデミー賞みたいなタイトルは、どういう意味でしょう? プログラムの解説には触れられていないし、ネットのサイトをチラチラ覗いてもすぐには出て来ない。どなたか、詳しい方のご教示を賜りたい。

2016・10・17(月)「ル・ポン国際音楽祭赤穂・姫路」東京公演

       サントリーホール  7時

 樫本大進が音楽監督を務める「ル・ポン国際音楽祭 赤穂・姫路」が今年は10周年。
 赤穂(赤穂市文化会館ハーモニーホール)で2回、姫路(姫路城二の丸他)で4回の公演を行なって、今夜が最終日の東京公演だ。もちろん、音楽祭の発祥の地である赤穂などでは、いくつかの関連アカデミーも行っている。

 今回の東京公演、サントリーホールも満席、第2部では皇后陛下御臨席という華やかなもので、演奏者たちも豪華な顔ぶれである。
 当初予定の何人かは入れ替わったものの、今日は樫本大進をはじめ、エマニュエル・パユ(フルート)、アンドレアス・オッテンザマー(クラリネット)、ポール・メイエ(同)、ラデク・バボラーク(ホルン)、ジルベール・オダン(ファゴット)、エリック・ル・サージュ(ピアノ)他・・・・。日本勢からは他に古部賢一(オーボエ)、堤剛(チェロ)らも参加していた。

 プログラムは、モーツァルトの「ディヴェルティメント K.439b」、ドヴォルジャークの「夜想曲作品40」、シェーンベルク~ウェーベルンの「室内交響曲第1番」、マルティヌーの「マドリガル・ソナタ」、ブラームスの「セレナード第1番」などだったが、こういう名手たちの手にかかると、どの作品もきらきらと輝き、闊達な生命力をあふれさせるようになる。
 特にシェーンベルクでの緊密度の高い演奏、マルティヌーでの洒落た明朗さなどは見事だった。

 ブラームスの「セレナード第1番」はもちろん室内楽編成(9人)編曲版だが、これだけみんな巧いと、オケ版に劣らず佳い曲に聞こえる━━ただ、フィナーレ(第6楽章)に来ると、流石にもう一つ、音圧的な盛り上がりも求めたくなるが・・・・。
 だがこの曲、室内楽編成になると、オケ版の重々しさから解放されて音色に清澄さが増し、「第2番」との共通性が強く浮かび上がって来るのだということを、今日の演奏から教えられた。それもこれも、彼らの演奏の巧さゆえである。
      ⇒モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

2016・10・16(日)マリインスキー・オペラ 「エフゲニー・オネーギン」

        東京文化会館大ホール  2時

 「ドン・カルロ」の演出のことはクソミソに言ってしまったけれど、こちらチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」でのアレクセイ・ステパニュクの演出の方は、なかなか良い。
 マリインスキーの同作品としては、2003年に持って来たプロダクション(レゼール&コーリエ演出)も面白かったが、まとまりという点では、どちらかといえば今回の方に分があるのではないかと思う。

 もちろん先鋭的なものではなく、演技にはある程度の様式的なスタイルも見られるものの、概して手堅くストレートに、しかも過不足のない手法で人間模様を描き出すといったタイプの演出である。
 第1幕大詰で、オネーギンから慇懃無礼に一蹴され、自分の書いた手紙を返されたタチヤーナがそれを口惜しそうに自ら破り捨てる動作には、夢見る少女が秘める激しいプライドと、のちに公爵夫人となる女性の強さが暗示されていただろう。
 また全曲の大詰では、逆の立場となったオネーギンが、背景に開いた幕の彼方に拡がる一面の「霧」の中へ絶望のうちによろめき去り、姿を消して行くという光景となっていたが、これも余韻を感じさせる手法である。

 なお第3幕前半のペテルブルクの舞踏会の場面では、客たちは豪華に着飾ってはいるものの、リアルな動きを一切せず、ただ影のように動いているだけ、という構図が採られていた。これは、ポクロフスキーが晩年に東京へも持って来た演出の「ペテルブルクの冷徹で非人間的な社交界を描き出す」コンセプトと一脈通じるものがあろう。舞台美術(アレクサンドル・オルロフ)も、基本的に簡素だが要を得ていた。

 主役歌手陣は、どちらかと言えば若い人が多いが、安定していたのではないか。
 エカテリーナ・ゴンチャロワ(タチヤーナ)は声も容姿も美しく、田舎娘時代と社交界の花形時代の演じ分けも成功していた。ロマン・ブルデンコ(エフゲニー・オネーギン)は堂々たる体格で、ニヒルな青年らしくない風貌と演技だが、しかしこれはこれで立派なものだった。

 ディミートリー・コルチャック(レンスキー)も有望株で、今春の新国立劇場での「ウェルテル」の題名役を歌った時にも声の伸びの良いのに感心したが、今夜の詩人役も素晴らしい。ただ、第2幕後半でのあの有名なアリアは、ちょっと抑え気味に━━絶望しているさまを強調して━━歌っていたのではないかしらん。

 エドワルド・ツァンガ(グレーミン公爵)は、「退役した老将軍」としては随分艶々した顔に見えるが、声は悪くない。ユリア・マトーチュキナ(オリガ)は目立たぬ存在に終始、エレーナ・ヴィトマン(乳母)が演技でちょっといい味を出し、アレクサンドル・トロフィモフ(家庭教師トリケ)は薄気味悪いメイクと演技と声で、出番は少ないものの特異な味を出していた。こういう脇役の存在は舞台では重要である。

 ゲルギエフとマリインスキー劇場管弦楽団は、今回の日本でのオペラ公演では、総じて見事な出来を示していたと思う。
 オーケストラは━━ひところはかなり荒れていた時期もあったが━━ゲルギエフが育てた若手楽員が今や中核を為し、良いアンサンブルと音色を形づくっているようである。弦には、泡立ちクリームのような美しさが漂う瞬間もある。ましてロシアものと来れば、共感と愛情が作品に反映されるのも当然であろう。
 ゲルギエフのテンポはもともと遅い方だが、大詰のオネーギンとタチヤーナの二重唱でのテンポは、数年前にMETで指揮した時よりも、さらに遅くなっていた。
       ⇒モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

2016・10・15(土)ジョナサン・ノット指揮東京響&イザベル・ファウスト

     サントリーホール  6時

 新宿初台のオペラシティから、赤坂のサントリーホールに移動。1日のうちに、2人の素晴らしい女性ヴァイオリニストを続けざまに聴けるとは、何と幸いなこと。
 こちら、音楽監督ジョナサン・ノットが東京交響楽団(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)を指揮する定期には、イザベル・ファウストが登場し、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」を弾く。

 この曲で、これほど聴衆が熱狂的に沸いたのも珍しいだろう。事実、これだけスリリングで緊迫感に満ち、しかも美しい演奏は、滅多に聴けるものでもなかろう。
 イザベル・ファウストのソロが、真摯で自然で、しかも精妙で、まるで1小節ごとに音楽の色合いが変化して行くような感を与える。そうした多彩な変化と起伏を保ちながら、しかも全曲を驚くべき集中力で完璧なバランスに構築して行く演奏には、本当に圧倒された。ノットも、速めのテンポを採りつつ、東響を自在に制御する。
 そのように両者が、のびやかでありながら一分の隙もなく、楽曲をがっしりと堅固な構造体に組み立てて行くといったおおわざを見せてくれると、この長大な協奏曲も実に短く感じられてしまうのである。

 なおファウストが弾いた第1楽章のカデンツァは、例の「ピアノ協奏曲編曲版」のカデンツァに彼女自ら手を加えたものの由で、ティンパニとの掛け合いが面白い。
 第3楽章では、冒頭のロンド主題のソロを軽快な舞踊曲のようなイメージで開始し、さまざまな起伏を繰り広げた後に、全曲最後の3小節間のロンド主題をこれまた軽快に優しく、思い出のように弾いて結んだが、この洒落たセンスは何とも見事だ。
 ソロ・アンコールは、ギユマンの「アミューズ」という曲だったそうだが、そのダンス的な曲想が、協奏曲のロンド主題とイメージ的に関連しているような気がして、これも面白かった。

 プログラムの後半には、ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」が演奏された。彼の生誕100年記念の今年だが、どういうわけかこの「第10番」ばかりが演奏される、という不思議な状況である。
 それはともかく、私は先日、ロジェストヴェンスキーが読響を指揮した色彩的な変化に富む「10番」の演奏の呪縛からいまだに逃れられず、正直、困っている(?)のである。このノットと東響の直截な力に満ちた演奏を聴いているさなかにさえ、どこかにもう少し色濃い情感を探し求める、そんな心理が働いてしまうのだ。申し訳ない。

 カーテンコールで、ノットはまた単独でステージに呼び戻された。彼の人気は今や凄い。昔、バンベルク響と来た時は、これほどではなかった。それだけ、今の東響との相性が良いという証拠だろう。

2016・10・15(土)ユリア・フィッシャー・ヴァイオリン・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 彼女のリサイタルは久しぶりに聴くような気がする。ドヴォルジャークの「ソナチネ」に始まり、シューベルトの「ソナチネ第3番」、休憩を挟んで同「第1番」、最後にブラームスの「ソナタ第3番」という不思議なプログラムが今日の演奏会。

 音色の爽やかさは以前と同じだ。快い。
 そして、ソナチネを3曲並べたのが、リサイタルのプログラムとしてはユニークだ。もちろん彼女はそれらの中に、ソナタと変わらぬシリアスで複雑な性格があるのを見ぬいて、それを浮き彫りにする狙いがあったのだろう。

 事実、彼女の演奏を聴いていると、爽やかな表情の中にさえ、これらの作品の構築性に注意を向けさせるような語り口を感じてしまったのである。シューベルトの作品でのエンディングの和音の、なんとまあ強靭なことか。
 そうはいっても、そのあとでブラームスのソナタに移った時の、その音楽の変化が衝撃的で面白かったことも、また事実なのだった。
 協演のピアノは、マルティン・ヘルムヒェン。

2016・10・14(金)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 トリフォニーホールからサントリーホールへ移動。
 こちらは「名曲シリーズ」の一環。

 シューベルトの「ロザムンデ」からの3曲、ベルリオーズの歌曲集「夏の夜」、ベートーヴェンの「第8交響曲」というプログラムだが、「ロザムンデ」は、「序曲」を第1部冒頭に、「間奏曲第3番」と「バレエ音楽第2番」を第2部の最初に演奏するという、ちょっと洒落た(?)配列になっていた。
 第1部の2曲目に演奏された「夏の夜」のソリストは、スコットランド出身のソプラノ、カレン・カーギル。コンサートマスターは長原幸太。

 「ロザムンデ」序曲が、無骨な風格で、どっしりと響きわたる。生真面目で重いシューベルトだ。だが不思議なもので、3時間前のユニークなサウンドのベートーヴェンを聴いたあとの耳には、こちらは実にオーソドックスでスタンダードなオーケストラ・サウンドに聞こえ、何となく安心感が甦るという心理状態になる。

 「夏の夜」のベルリオーズ・サウンドは、いつもながら素晴らしい。カンブルランと読響の音が明晰なので、ベルリオーズ特有の管弦楽法の魅力が充分に再現される。カーギルの声は少し物々しいが、ピアニッシモも美しく響かせてくれたので、ベルリオーズ・マニアの私にも、まずは満足できるものであった。
 第2部ももちろん聴くつもりでいたが、突発的な用件が持ち上がり、休憩時間で失礼させていただく。

2016・10・14(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       すみだトリフォニーホール  2時

 午前中に仙台から帰京、その足で錦糸町へ向かう。こちらは、今シーズンから始まった「アフタヌーン コンサート・シリーズ」第1回(2日公演)の初日。
 音楽監督の上岡敏之が指揮するベートーヴェン・プロで、「コリオラン」序曲、「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは崔文洙)、「第5交響曲《運命》」。アンコールだけは何故かモーツァルトで、「フィガロの結婚」序曲。

 マチネーの所為か、オーケストラには定期の時と違い、やや解放的な雰囲気が感じられなくもないが、それでも上岡独特の個性的な音づくりは、前回の演奏よりもさらに強く現れ始めている。ベートーヴェンの作品だから、それが目立って聞こえるのかもしれない。

 たとえば「コリオラン」冒頭では、弦のフォルティッシモを強いアタックで開始せず、滑り込むように開始したり、「5番」冒頭では「運命」のモティーフの最初のフェルマータを短く、二度目のそれを長めにしてフェイドアウト気味にし、それとクロス気味に6小節目の8分音符を発進させたりと、細かく神経を行き届かせる。
 内声部の扱いに凝った趣向が聴かれるのも彼の指揮の特徴の一つだが、今日もいくつかの個所でそれらを明確に響かせ、作品の構築性を強く印象づける演奏も聴かせていた。

 彼のフォルティッシモは、まっすぐな音でストレートに爆発することが、ほとんどない。しかも、響きにも常にくぐもった音色が使用されるので、「コリオラン」にせよ「5番」にせよ、全体に抑圧されたような、不安な緊張を漂わせる音楽になる。
 こういった上岡の音楽の特徴に、新日本フィルもだんだん染まって来たようである。

 「ヴァイオリン協奏曲」では崔文洙がソリストとなったが、これは実にユニークな演奏だった。そこでの崔文洙の音色と表情は極度に濃厚であり、したがって彼のソロが上岡の指揮する粘着した表情のオーケストラに、まるでじっとりと絡みついて行くようなイメージを感じさせてしまったのである。さながらインティメートな会話を交わすかのような、こんな粘ったベートーヴェンの協奏曲の演奏もあり得るのかと驚いた。これは、もしかしたら指揮者とソリストが肝胆相照らす親友同士であるがゆえに生まれた演奏なのかもしれない。
 ただ私の好みから言えば、こういうタイプのベートーヴェンの演奏は、どうもあまり居心地がよろしくない。

 そのあとのソロ・アンコールで崔文洙が弾いたバッハ(「無伴奏ソナタ第1番」からの「アダージョ」)も同様に、かなり濃厚で思い入れたっぷりの演奏だった。それにしても、彼はいつからこういう演奏スタイルになったのかしらん。

 コンサートの前半2曲では、西江辰郎がコンマスを務めた。最近の新日本フィルの演奏会で、上岡の指揮の時に崔文洙以外のコンマスがトップに座ったのを聴いたのは初めてである。だが「5番」では、また崔がトップに復帰していた。

2016・10・13(木)山田和樹指揮仙台フィル 「カルミナ・ブラーナ」

       東京エレクトロンホール宮城  7時

 東京での武満徹のコンサート(オペラシティ)も聴きたかったが、今回は仙台フィルハーモニー管弦楽団の特別演奏会を取材に行く。
 ミュージック・パートナーの山田和樹が指揮、安井陽子(ソプラノ)、松原友(テノール)、小森輝彦(バリトン)、仙台フィル「カルミナ・ブラーナ」合唱団、NHK仙台少年少女合唱隊が協演。コンサートマスターは神谷未穂。

 プログラムは、サン=サーンスの「サムソンとダリラ」の「バッカナール」、コープランドの「エル・サロン・メヒコ」、オルフの「カルミナ・ブラーナ」。
 マエストロの表現によれば、この日のテーマは「踊り」もしくは「酔う」であるとのこと。なるほど、この3曲には酒宴・祝宴の要素があるし、また「カルミナ・ブラーナ」のあのリズムを一種のダンスと解釈し、しかも彼がこの曲を実際に「舞踊」のイメージで聴かせたことを思えば、辻褄はすべて合う。

 そのメイン・プロの「カルミナ・ブラーナ」は、速めのテンポで煽りに煽った、エネルギッシュでワイルドな演奏となった。
 その速いテンポにオーケストラや合唱がついて行けない時もあり、リズム感が曖昧になって音符の明晰さを失わせるところもあった。また、過度に強調された打楽器群が、他のパートをマスクしてしまう個所もいくつかあった。だが、そのリズムの躍動感と昂揚感と、歌詞の内容に応じて「羽目を外した」娯楽性などにより、闊達で楽しめる演奏になっていたことは確かであろう。

 第2部の酒場の場面でのバリトン・ソロや、「丸焼きにされた白鳥」のテノール・ソロはもちろん、オーケストラと合唱のパートにも、コミカルな味が存分に取り入れられた。時に誇張めいたところもなくはなかったが、これだけ徹底して酔いどれぶりを表現し、エロティックな揶揄を強調した演奏は稀であろう。堅物の指揮者だったら、ここまではやるまい。
 山田和樹がこの曲を指揮するのは、「演奏会としては」これが初めてだというが、何でも試みてみようという怖いもの知らずの姿勢は若い音楽家として貴重であり、それは大いに応援したいところである。

 少年少女合唱団は下手側舞台袖に並んでいた。
 メインの合唱は、4分の3が女声という変則的な編成である。前半は、男声は上手側にまとめて配置されていたが、男女の愛の歓喜が歌われる第3部では、女声が前列グループに、男声が最後列に並び替えられた。
 そして、「愉しい季節」のくだりでは、全員が楽しそうに体をリズミカルに動かしながら歌うという演出が取り入れられていた。曲想と、歌詞の内容からして、これは全く当を得た解釈であり、面白い試みである。以前、老大家ヴィンシャーマンがバッハの「ロ短調ミサ」を大阪で指揮した時、「グローリア」のある個所で合唱団員に楽譜を揺らせつつ歌わせ、人々が喜びに躍っているようなイメージをつくり出していたのを思い出す。

 全曲の大詰め個所は、まさに総力を挙げての盛り上げ。このあたりの山田の「もって行き方」は、相変わらず巧い。

 仙台フィルは、今年4月のパスカル・ヴェロ指揮のベルリオーズ(東京公演)が超絶的な出来だったので、このオケもいよいよ日本屈指の存在に成長したかとあの時はうれしくなったものだが、今日の前半の「バッカナール」や「エル・サロン・メヒコ」でのアンサンブルや管のソロなどを聴くと、その賛辞もちょっと割引しなければならないかもしれない・・・・。まあ今日の山田和樹が、細部の仕上げよりも「愉悦の祭典の熱狂」で盛り上げたためにこうなった、ということもあろうが・・・・。
     音楽の友12月号 演奏会評

2016・10・12(水)マリインスキー・オペラ 「ドン・カルロ」

     東京文化会館大ホール  6時

 ヴェルディの「ドン・カルロ」、今回は4幕版による上演。

 演出には、ジョルジョ・バルベリオ・コルセッティとファビオ・チェルスティッチという2人の名がクレジットされており、どちらが主導権を取っていたのかは定かでないが、いずれにせよイタリア系の人たちによるプロダクションと思われる。
 シンプルな装置に、流行りのプロジェクション・マッピングもどきの映像も取り入れた舞台だが、しかし━━これほど「演技性の希薄な」演出は、今どき、ちょっと珍しいのではないか。

 歌手によっては、何とか(自主的にでも?)身振りや顔の表情に演技を示す人もいる。
 フェルッチョ・フルラネット(フィリッポ2世)がそうだし、アレクセイ・マルコフ(ロドリーゴ)も、憂国の志士の役に相応しく、多少の強面の演技をみせていた。
 だが、ヨンフン・リー(ドン・カルロ)は身振りと表情は大きいものの、これは演技というよりむしろ、両腕をあちこち動かすだけの、歌う時の類型的な身振りという類だろう。そしてイリーナ・チュリロワ(王妃エリザベッタ)は能面のような表情を最後まで崩さないし、ユリア・マトーチュキナ(エボリ公女)も舞台上での視線の方向が定まらない。

 おまけに群集と来たら、主人公の悲劇に全く反応を示さず、大広場の場面での兵士や群衆はただ歩き回るだけだ。大詰めの場でカルロと槍で戦っていた2人の兵士が、先帝カルロ5世の声で歌う謎の修道僧に出くわしたとたんにあっさりと向きを変え、のこのこと引っ込んでしまうのに至っては、手抜きもここに極まれり、としかいいようがない。
 このラストシーンはもともと謎だらけで、どう演出しても訳の解らない舞台が多くなるものだが、今回のもフィリッポ2世だけが顔を覆ってしゃがみ込んだ以外は、全員があまり驚いた様子も見せずボーッと立っているだけで、ドラマの終結としては、ますますインパクトのないものになっていたのである。

 とはいえ、興味深い設定も観られなかったわけではない。その唯一の個所は、第3幕のフィリッポ2世の居間の場面だ。
 王が「妻はわしを愛したことがない」と嘆く時、彼が王妃の裏切りの証拠たる首飾り(これは後でエリザベッタが「盗まれた」と訴えて来るもの)を苦々しく手にして歌うこと。なるほど、これは良い伏線である。
 また背景に写される映像で、死して横たわる自分を、息子のカルロが王冠を頭に着け、この上なく穏やかな優しい表情で見守ってくれている幻想が描かれたことは━━息子がおのれの後継者になってくれたらどんなに幸せであろうか、という彼の内心の想いを描き出したもので、王のもう一つの悩みを如実に表す解釈として、出色のものだった。

 もう一つ、王が宗教裁判長との問答との間に仕方なく書いたカルロの処刑命令書(?)を、ロドリーゴが盗み見するという演出が行われたが、これも彼の自己犠牲の決意の伏線として成り立つアイディアだろう。
 こういう精妙な設定を思いつく演出家なら、他の場面でももう少し気の利いたことをやるはずだと思うのだが・・・・あるいは2人のうちのどちらかが、もしくは他の誰かがオリジナルを歪めたか、または本来の意図が歌手陣に周知徹底されていなかったか、だろう。

 音楽面においては、決して悪くはない。エリザベッタ役のイリーナ・チュリロワが、最後のアリアで少々不安定で、しかも歌い方が物々しく、一時代前のロシア人歌手のスタイルのような感を与えたことを除けば、みんな一応手堅く安定して歌っていた。
 フルラネットは貫録で聴かせるといった雰囲気だし、マルコフは予想通り胸のすくような歌唱ぶりで、表現に色彩感が伴うようになればいっそう素晴らしくなるだろうと思わせる。ヨンフン・リーは、かなり癖のある歌いぶりだが、これはこれでいいのだろう。またミハイル・ペトレンコ(宗教裁判長)は、この不気味な役には声の点で少し軽いものの、歌唱としてはそれなりにまとまっていただろう。

 そしてゲルギエフの指揮。かつてザルツブルク音楽祭の「ドン・カルロ」(ヴェルニケ演出)でウィーン・フィルを指揮した時と同じように、骨太で剛直で、轟々と流れる大河のごとき「ドン・カルロ」をつくり出していた。マリインスキー劇場のオーケストラも、今回はかなり良い状態に在るように思われる。
 休憩2回を挟み、10時20分終演。

2016・10・11(火)ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 ワレリー・ゲルギエフが、マリインスキー・オペラを率いて来日、オペラの他にも、いくつかの演奏会を行なっている。今日のは演奏会で、都民劇場音楽サークルの定期公演。

 通常の反響板を取り去り、奥の壁面一杯に、本拠マリインスキー劇場の緞帳と同じようなデザインの大きな幕が飾られていた。もちろん本物と違い、デザインは平面的だし、色も少し地味だが、それでも結構な雰囲気が出ている。その幕を背景として、マリインスキー劇場管弦楽団と合唱団が並ぶ。

 プログラムと出演歌手が一部変更になったが、それでもプログラムが面白い。最初にチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」が演奏されたあと、「エフゲニー・オネーギン」から「レンスキーのアリア」(テノールはエフゲニー・アフメドフ)と「グレーミン公爵のアリア」(バス:エドワルト・ツァンガ)と「手紙の場」(ソプラノ:エカテリーナ・ゴンチャロワ)、ボロディンの「イーゴリ公」からの「コンチャーク汗のアリア」(バス:ミハイル・ペトレンコ)及び「ポロヴェッツ人の踊り」と続き、第2部にはプロコフィエフの「十月革命20周年のためのカンタータ」という珍しい作品が置かれるという、かなり凝った選曲だったのである。

 通常の反響板がないため、1階席24列中央で聴いた限りでは、オーケストラの音はやや拡散して平面的になったような感はあったものの、そこは馬力のあるマリインスキー劇場管、それなりの雰囲気を出して鳴り渡る。といっても、「ロメオとジュリエット」は、音響の所為か、あまり冴えた演奏とは言い難かった。

 それより、「オネーギン」からのアリアを歌った3人の歌手が、未だ若い世代らしいけれどもフレッシュな表情の声を聞かせてくれたのが快かった。
 ただ、残念だったのは、当初予定に入っていたアレクセイ・マルコフ(バリトン)が出なかったことで━━彼を初めて聴いたのは6年前のリヨンで、キリル・ペトレンコ指揮の「エフゲニー・オネーギン」のタイトルロールを歌っていた時だったが、今年夏のザルツブルクでの「ファウスト」のヴァランタンを聴き、見事な成長を示していたのを知って、大いに注目していたのである・・・・。

 「ポロヴェッツ人の踊り」は、ゲルギエフがこの曲になるといつも見せる力任せの爆演スタイル。勢いは猛烈だが、荒々しくて騒々しい。この劇場の合唱団の粗っぽさも露呈するが、曲が曲だけに仕方がないのかもしれない。

 後半のプログラム、プロコフィエフの「十月革命20周年のためのカンタータ 作品24」を初めてナマで聴けたのは貴重であった。
 1930年代にスターリン政権の厳重な統制下にあって書かれ、レーニンの語録やスターリンの演説などからの引用を含んだ革命賛美の闘争的な歌詞にあふれたものだが、音楽はプロコフィエフとしてはかなり荒々しく、時には「鉄と鋼」時代の作風を思わせて、すこぶる興味深いいものであった。
 ロシアが仮に今でも「ソビエト連邦」であったなら、その国のオケが日本公演でこんな歌詞のカンタータを演奏したらさぞや嫌味になったろうが、幸い今日では、すべてが「歴史の産物」として受け止める時代へ変貌しつつあるのである。

 それにしても、ゲルギエフはなぜこういう作品を日本公演で取り上げる気になったのか? 
 それを訊こうと思って、終演後、もうシャワーを浴びようと服を脱ぎかけていたゲルギエフの楽屋へ、強引に割り込んだ。私の顔を見るなり、彼が喋り出した話は、要約すればこういうものだ━━。
 「聴いたのは初めてだろう? 僕は英国やヨーロッパ各地でこれを指揮したが、みんな初めて聴いたと驚いていた。内容(歌詞)は、ロシアの中でも、いろいろ(苦笑して)大きな問題があり、議論が絶えないね。だが、内容は別として、とにかく、音楽がいい。輝かしくて生気にあふれ、本当に素晴らしい。プロコフィエフの、この音楽そのものをみんなに聴いてもらいたいと思うんだ」。
 プロコフィエフに熱中し、彼のオペラや交響曲はもちろん、すべての作品を演奏することを目標としているゲルギエフらしい意見であった。

2016・10・10(月)ズービン・メータ指揮ウィーン・フィル

      サントリーホール  7時

 昨日の川崎での「ザ・グレイト」では、木管群を指揮者のすぐ前面に配置、弦を後方に配置して、実に不思議な音のバランスをつくり出していたとのこと。そちらを聴きに行けばよかった、とほぞを噛む。
 今日のプログラム、モーツァルトの「リンツ交響曲」と、ブルックナーの「第7交響曲」では、そんな変わったことは行われず、通常の配置で、普通に演奏された。コンサートマスターはライナー・ホーネック。

 「普通」とはいえ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の、特に弦の瑞々しい、気品のある美しさは、相変わらず天下一品の趣がある。特に今日は、これまで何度となく聴いたウィーン・フィルの演奏会の中でも、一段と弦のアンサンブルが豊かだったような気がしたのだが━━。
 「リンツ交響曲」が開始されたその時から、その柔らかい音色にうっとりさせられたが、この温かいヒューマンな世界こそ、今日ではこのオーケストラだけが守り抜いている特質だろう。

 「第7番」でも、第1楽章冒頭からその弦が豊かに拡がって行く。第2楽章でも、第1主題、第2主題と、━━いや、この楽章全部があの弦の分厚い、しかも美しく透明な音色の響きに委ねられている。この曲のそうした特徴を改めてまざまざと認識させてくれたのが、今日のメータとウィーン・フィルの演奏だった。
 さらに第4楽章コーダの冒頭、6オクターヴ以上に拡がった弦のトレモロがつくり出す巨大な空間の中で、ホルンが主題の断片を取り上げる個所がある。昔クレンペラーとフィルハーモニア管のレコードを聴いて以来、私が好きでたまらなくなった個所だが、ここはよほど弦がしっかりしていないと、またよく響くピアニッシモで演奏してくれないと、その大空間の素晴らしさは生まれて来ないものだ。今日のメータとウィーン・フィルの演奏は、そこでほぼ完璧に近い形で満足感を与えてくれたようである。

 なお、付け足しのようになるが、第1楽章と第4楽章の各コーダでオルゲルプンクトのように轟くティンパニを、2人の奏者に叩かせていたのが興味深かった(これはカラヤンもやっていたような記憶があるが・・・・)。

 かように、ウィーン・フィルの良さを存分に発揮させたメータであった。
 彼は、良いオーケストラをそれに相応しく豊麗に演奏させるという美点の持主である。バイエルン州立歌劇場での「トリスタンとイゾルデ」などその最たるものだった。
 ただ彼の場合、音楽がその段階だけにとどまっていて、魔性的な力とか、精神の微妙な襞とか、音色の陰翳の変化とかいった要素は、どうも希薄に感じられてしまうのである。そこが、物足りないと言えば物足りないのだ。そのあたりが、同じウィーン・フィルで同じブルックナーを演奏しても、ハイティンクとは違うところであろう。

 だが、やはり日本の聴衆は忘れてはいない。あの5年前の東日本大震災の直後、フクシマの風評のために外国人演奏家たちが軒並み来日を取りやめた中にあって、彼がいち早く敢然と日本に駆けつけ、東京でチャリティコンサートの「第9」を指揮(2011年4月10日)してくれたことを━━。聴衆は今日もメータを、ソロ・カーテンコールに呼び出した。ただし彼はホーネックを一緒に連れてステージに出て来た。このあたりが、メータらしい気遣いである。
    別稿 音楽の友12月号演奏会評

2016・10・9(日)アンネ=ゾフィー・ムター 4日目

      サントリーホール  4時

 初台のオペラシティから、赤坂のサントリーホールへ移動。

 プログラムの演奏順が変更になり、無伴奏の作品であるペンデレツキの「ヴァイオリン・ソロのためのラ・フォリア」が冒頭に演奏(日本初演)されたが、これは良い選択だっただろう。
 それほど先鋭的でない、跳躍の多い旋律と明解なリズム感を備えた前半の曲想から次第に華麗奔放な躍動に移って行く美しいこの曲を、ムターは実に大きな気宇を以って演奏した。もし演奏したのがムターでなかったら、これほど作品を面白く聴けたかどうか━━。
 とにかくこれは、幕開きから女王が堂々たる威容と強烈な存在感を示し、彼女以外の演奏者は単なる従者でしかない、ということを宣言してしまった感があった。

 そうなると、次に今日の指揮者クリスティアン・マチェラルと新日本フィルが演奏したフォーレの「パヴァーヌ」は、失礼ながら、箸休めみたいなイメージになってしまう。
 それに、このマチェラルという人の指揮には、何とも生気が感じられない。もしこれが当初の順序に従って1曲目に置かれていたら、およそ冴えない幕開きになっていたのではないか。

 そのあとの、ノルベール・モレの「夢の中で~ヴァイオリンと室内オーケストラのための(日本初演)、および休憩後のブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」は、いずれもムターの、まさに独壇場である。

 特に後者は「オーケストラのオブリガート付きの、ムターのためのヴァイオリン・ソナタ」と言ってもいいような演奏になった。
 テンポもデュナミークも、エスプレッシーヴォも、すべてムターの支配下にある。第1楽章や第2楽章で、彼女があわや止まるのではないかという段階までテンポを落しつつ最弱音に沈潜して行くところでは、指揮者とオーケストラもおとなしくそれに従う。第3楽章で彼女が情熱的に昂揚すると、「従者たち」もそれに従い、忠実にリトルネッロを奏でる。

 まあとにかく、ムターの女王ぶりは━━あくまで良い意味でだが━━立派なもので、彼女の芸風を余すところなく堪能できた演奏会ではあった。がしかし、ソリストの主張におとなしく従う(もしくは、従って見せる?)だけの指揮者が振ると、決して「コンチェルト」の面白味は出ない、ということが実証された場でもあった。

2016・10・9(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 東京オペラシティシリーズの一環で、創立70周年記念の欧州公演プレコンサートの一つでもある。武満徹の「弦楽のためのレクイエム」、ドビュッシーの「海」、ブラームスの「交響曲第1番」というプログラムだったが、前半の2曲のみを聴く。コンサートマスターは水谷晃。

 「レクイエム」は、弦の音色こそやや硬質だったが、これは多分、意図的につくり出されたものだったのだろう。静かだが、生気にあふれた演奏の「弦楽のためのレクイエム」とでもいうべきか、この曲に秘められた形式感を確固たる形で浮き彫りにした演奏だ。
 私は最近、武満の音楽を聴くと、日本庭園を見た時に感じるような、懐かしく陶酔的な気持に引き込まれるのだが、今日はそれがひときわ強かった。ノットと東響の演奏には、何かそういう感情を呼び覚ますものがある━━のかもしれない。

 この静的な「レクイエム」と、次の起伏豊かで壮麗な「海」との、作品の性格における対比、および今日の演奏における対比は、見事なプログラミングの妙味だった。かりにこの2曲が、ステージ転換を置かずに、続けて切れ目なく演奏されていたら、さらに面白い効果が生まれていたかもしれない。

2016・10・8(土)「あの大鴉、さえも」

    東京芸術劇場シアター・イースト  7時

 4時に終った読響の演奏会のあと、同じ劇場の建物の中にあるのを幸い、ある仕事に関連して、この演劇を観る。
 これは竹内銃一郎の作、ノゾエ征爾の上演台本、小野寺修二の演出による舞台で、小林聡美、片桐はいり、藤田桃子の出演。制作は東京芸術劇場。

 上演時間は約80分。「大鴉」とは「大ガラス(硝子)」のもじり(台詞には言葉のもじりが頻出する)で、大きなガラスを運搬する3人の「男」が主人公たちである。
 届け先の相手たる「山田家」がどうしても見つからず、それがやっと発見できた時には━━という騒ぎだけでドラマは進められるのだが、これはプログラム冊子に掲載の劇評でも触れられている通り、「ゴドーを待ちながら」の裏返しでもあるだろう。
 もっとも私には、70年代後半にたしか「三百人劇場」で上演された、何とかという芝居━━ゴドーならぬ「後藤」がなかなか来ず、大詰でやっと現われたその「後藤」は何とヒトラーと同じ顔をしていた、というパロディ劇との共通性の方が強く感じられたのだが。

 いずれにせよこの「大鴉」の舞台、私は演劇に関してはド素人だから全くの感想の域を出ないが、同じ「待つ、探す」にしても、運びが単調であり、少々くどく、まだるっこしいものに思われた。

 劇中では前述のように、架空の大きな「ガラス」を苦心して(ジェスチュアのみで)運搬する光景が多く出て来る。実はそのシアター・イーストに行く前、東京芸術劇場の中2階にあるティールームで1時間半ほど仕事をしていたら、トイレに行こうとしたらしい中年女性が、回廊側の大きなガラスの一隅を、何も遮蔽物のない出口と思い込んだらしく、そのガラスに正面から激突するという出来事があったのだ(幸い怪我はしなかったらしい)。
 なるほど、ガラスというものは異次元の世界を作り出す不思議なものなのだな、と妙に感心したのだが、その直後に、ガラスを扱ったこの劇が・・・・。

2016・10・8(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 「土曜マチネーシリーズ」の一環。プログラムは、ラモーの「カストールとポリュックス」組曲、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第15番」、シューベルトの交響曲「ザ・グレイト」。ピアノ・ソロはマルティン・シュタットフェルト、コンサートマスターは長原幸太。

 「天国的に長い」━━でなく、シューマンのこの言葉の本来の意味であるはずの「天国的に美しい」世界だったのは、むしろモーツァルトのピアノ協奏曲の方だった。
 シュタットフェルトの、ささやくような神秘的な弱音と、限りなく澄み切った音色による演奏が素晴らしい。この世ならざる清らかな世界だ。

 ピアノの調律にも、おそらく特殊な手法を適用していたのだろう。わが国での最近のコンサートでこれほど澄んだ音色を聴いたのは、何年か前の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で、ミントーン調律によるピアノを弾いたピーター・ゼルキン以来である。
 こういう音色で演奏されたモーツァルトの協奏曲が、どれほど崇高で美しい音楽になるか、とても筆舌に尽くしがたい。ただもう陶然として聴き惚れるという状態であった━━。カンブルランと読響も、特に第2楽章では、このピアノに相応しい、清澄な弦を響かせていた。

 ところで、「天国的」の本家たる「ザ・グレイト」の方は、予想を覆して、轟くティンパニと鋭く切り込む金管、鋭角的な弦のリズムも凄まじく、実に豪快でダイナミックな演奏だ。
 これはもう、天国どころではなく、なまなましい現世の躍動の歌である。昔よく言われていた「彼岸的」とか、ロマン的とかいう性格を根こそぎ払拭し、猛烈なエネルギー性を引き出して前面に押し立てた演奏、ともいえようか。

 第1楽章など、普通は聞こえない金管の動きが弦楽器を圧して出て来る。初めは少々戸惑ったが、やがてその骨太な「ザ・グレイト」が、不思議に魅力あるものに感じられて来た。このテで演奏されると、第4楽章の第2主題(オーボエが一つの音を反復し、弦が同じリズムを反復しつつ進んで行くあの主題だ)も、息詰まるような緊張感を生み出すのである。実に面白い。

2016・10・6(木)パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響 マーラー「3番」

      サントリーホール  7時

 NHK交響楽団90周年とサントリーホール30周年を祝う特別公演で、マーラーの「交響曲第3番」が演奏された。コンサートマスターは篠崎史紀。協演はミシェル・デ・ヤング(メゾ・ソプラノ)、東京音楽大学合唱団、NHK東京児童合唱団。

 パーヴォらしく、実に明晰で、些かの翳りもない、割り切った演奏だ。白日の下にさらけ出されたマーラーである。テンポも速めで、演奏時間は総計で100分を下回っていたのではないか。
 第3楽章などでの、快速テンポでリズミカルに進んで行くさまは、見事なほどに快調そのものだ。安息感から昂揚感へゆっくりと移って行くはずの第6楽章も、屈託なく、どんどん盛り上がって行く(おかげで意外に短く感じられたが・・・・)。

 こういう演奏は、マーラーの音楽にある巨大なエネルギー性を浮き彫りにするもので、それはそれで一つの手法ではあろう。ただ、マーラーの複雑怪奇な心理状態の面白さ、陰翳と多彩さが交錯する彼の音楽の怪奇な面白さを、ここまで綺麗さっぱり拭い去ってしまう演奏は、私はその存在意義は認めるけれど、どうしても心からそれに浸ることはできない。
 N響の演奏の技術的な高さに感心して聴いているうちに、気がつくと交響曲はいつのまにか、頭の上を通り過ぎて行ってしまっていた━━とでもいうか。

 なお、第5楽章で「ビム、バム」を歌う児童合唱団の最前列ほぼ中央の1人の児童が貧血でも起こしたのか、起立できないという出来事があったが、大丈夫だったろうか。
 そういえば、6年前の3月にインバルと都響がこのホールで「3番」を演奏した際にも、P席に座っていた児童合唱団の最前列の子の1人が居眠りしていて起立せず、次いでその隣の子まで貧血を起こして座り込むという事件があったが━━日記をひっくり返してみたら、あれも今日と同じNHKの児童合唱団だった。

2016・10・4(火)アンネ=ゾフィー・ムター 初日

     サントリーホール  7時

 1曲目に演奏されたアンドレ・プレヴィンの「2つのクァルテットとコントラバスのためのノネット」は(日本初演)は、2014年にムターの依頼により作曲されたものとのこと。
 このお二人、ハテ、でも、今は? と思ってしまうが、プレヴィンは最近になっても彼女に何曲か作品を献呈しているという話で━━そういうおとなの関係はすてきですね。ただし、言っちゃ何だが、曲としてはさほど面白いものではない。

 そのあとは、バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調」と、ヴィヴァルディの「四季」。アンコールは「四季」の「夏」の終楽章とバッハの「管弦楽組曲第3番」の「アリア」と進む。

 協演していたのは「ムター・ヴィルトゥオージ」という8人の弦楽奏者および「サントリーホール室内楽アカデミー」選抜メンバー7人、そしてチェンバロのランバート・オーキスである。
 しかしまあ、この弦楽セクションの演奏の鮮やかなこと、特に「四季」では、変幻自在のムターのソロにぴたりと合わせて縦横に躍動する小気味よさは筆舌に尽し難いほどで、そこにはシンフォニックな量感も兼ね備わっている。若い弦楽奏者たちの中央に屹立してリードするムターの姿は、まさに女王の風格だ。その演奏も同様。

2016・10・3(月)信時潔:「海道東征」

    ザ・シンフォニーホール  6時30分

 大阪での再演。昨年11月22日の演奏は、演奏内容といい趣旨といい、腑に落ちぬことばかり多かったのだが、それでも再演を聴きに行った最大の理由は、今年は指揮者が変わり、歌手陣も大部分が入れ替わったので、作品本来のあるべき姿を今度こそ再認識できるのではないかという期待からだった。
 またそれとともに、これまでどうしても予定が合わず、聴く機会を失っていた大井剛史の指揮をじっくり聴いてみたい、という狙いもあった。

 作品についてのこと、また昨年の演奏会での出来事などは、当日の項に詳しく書いたので省略する。

 しかし、今年は期待通り、交声曲「海道東征」は、昨年とは全く違った音楽として甦った。昨年の演奏に聞かれたような、だらだらと流れるだけのイメージは払拭され、もっと起伏の大きな、しかも清澄な信時潔の世界が立ち現れていた。作品に込められた、控えめながらも確実な昂揚感が見事に表出され、大和の国の美を讃える感情の高まりが明らかに感じられる演奏となっていたのである。歌詞の内容には一部共感し難いところがあるとはいえ、いい音楽だ。
 これは、大井剛史の真摯な指揮によるところが大きいだろう。彼は、派手なイメージは一切ない人のようだが、手堅く、しかも瑞々しく温かい表情で演奏を構築する美点を備えている指揮者のように思われる。

 その彼の指揮で、大阪フィルハーモニー交響楽団も、大阪フィルハーモニー合唱団も、昨年とは見違えるように生き生きと波打つ演奏を聴かせてくれた。
 欲を言えば、オケにも合唱にも、「ヤァハレ」のような個所などでもう少しリズミカルな響きが欲しいし、また声楽には歌詞の表現にもう少し実感や共感のようなものが欲しいとも感じられる。
 しかし、もともと北原白秋の詞がなだらかで美しい荘重なつくりである上に、音楽もそれを生かした流れになっているので、こういうレガートな演奏で充分なのかもしれない。レガートに演奏すれば荘重さが生まれ、リズミカルに演奏すれば土俗的な開放感が生まれる━━というところだろうか。

 大阪すみよし少年少女合唱団も「亀の甲に揺られて」の個所で好演を聴かせた。そしてソロ歌手陣━━北野加織・幸田浩子・糀谷栄里子(以上ソプラノ)、二塚直紀(テノール)、田中勉(バリトン)のうち、特に男声の2人が力強く全体をリードして、高千穂の美しさを歌い上げていた。

 なお、アンコールとして、信時潔の名作「海ゆかば」がまた演奏されたが、これも今年は昨年と違い、「起立して聴け、一緒に歌え」などという、愚にもつかぬ思想強制的な指示は出されなかったし、立ち上がって歌い出す客など一人もいなかった。おかげで、この曲の高貴な美しさが、やっと堪能できたというわけである。素晴らしい音楽だ。
 戦争末期には、ラジオのニュースで、玉砕の戦況報告でこの曲が流されたそうだが、そういった歴史的な事実は事実として受け止めつつ、今日のわれわれには、聴き手のそれぞれが作品の本質に立ち返ってアプローチする自由が許されるだろう。━━それにしても、この管弦楽編曲はだれが行ったのだろうか。編曲はなかなか良いが、所々に加えられる小太鼓の行進曲的リズムが、この曲を妙に軍楽調に響かせ、本来の崇高さを失わせてしまうのが唯一最大の欠点だ。

 プログラムの前半には、スメタナの「モルダウ」と、大栗裕の「管弦楽のための《神話》~天の岩戸の物語による~」が演奏された。「海道東征」との組み合わせにおいては、昨年よりコンセプトの統一が感じられよう。

2016・10・2(日)新国立劇場 「ヴァルキューレ」初日

      新国立劇場オペラパレス  2時

 新国立劇場の新しい「指環」ツィクルスが、「ヴァルキューレ」に入った。

 芸術監督・飯守泰次郎が自ら指揮する東京フィルハーモニー交響楽団が、今回は珍しく、これまでにないような大音響で鳴り渡った。時にはムキになって咆哮怒号しているようなところもなくはなかったけれど、か細い貧弱な音のワーグナーよりは、ずっといい。
 要所でホルンなどが音を外したり、木管がひっくり返ったりすることが頻発するのだけは困るが、とにかく、今回のオーケストラは、概ね良しとしたい。弦のトレモロの力感も充分だった。
 ただ、歌手陣が粒も揃っていることだし、声量も充分なのだから、ピットの位置をもう少し上げて、オケの最強奏を無理せずに楽々と豊麗に響かせるというやり方はできないのだろうか?

 飯守は、おれの劇的なワーグナーを聴け、といわんばかりの指揮を繰り広げた。「ヴォータンの告別」の頂点でのクレッシェンドは、昔から彼の得意とした個所だが、今回も見事に盛り上げて決めていた。
 現代の指揮者がよくやるような、乾いて素っ気ないワーグナー演奏とは根本的に異なる、ヒューマンな情感が根底に流れるアプローチが、飯守のワーグナーのそれである。私は、こういう温かいタイプのワーグナー演奏の方が好きだ。アンサンブルに多少の緩みがあるにしても、そういう不確かさが飯守の持ち味なのであり、それがむしろ手づくりの温か味を生むのである。

 ヒヤリとさせられた個所といえば、第1幕のジークムントのモノローグの中で、トランペットの「剣の動機」がしばらく出なかったところくらいなものだろう。しかし、われわれ聴き手側からすれば、奏者がここの音楽をよく知っていれば、こんなにマを空けていいわけはないと気がつくだろうに、と訝ってしまう。こんなのは奏者が自然に流れに乗って吹いて行くのが当然のような気がしてしまうのだが・・・・。

 歌手陣は前述の如く、今回はいい顔ぶれが揃っていた。
 まずジークムントのシュテファン・グールド。まさに「荒々しいヴェルゼ」の息子、大神ヴォータンが期待をかける英雄━━といった力強さだ。第1幕での「ヴェルゼ! ヴェルゼ!」における力にあふれた長い叫び、同幕最後の「かくてヴェルズングの血よ、栄えよ!」での力感に富んだ大見得など、理想的なジークムントといえよう。

 ヴォータンのグリア・グリムスレイは、3年前のびわ湖ホールにおけるのと同じように、今回も落ち着いた風格の神々の長を歌い演じた。ブリュンヒルデのイレーネ・テオリンは例の如くの馬力だし、ジークリンデのジョセフィーネ・ウェーバーは可憐さを残した歌唱と演技で注目されるだろう。フリッカのエレーナ・ツィトコーワが気品と冷たさをよく表現していたのには感心。フンディングのアルベルト・ペーゼンドルファーも、ちょっと愛嬌のある顔の表情と力のある低音の声とで、面白い個性の役柄を作っていた。
 ヴァルキューレたちは佐藤路子、増田のり子、増田弥生、小野美咲、日比野幸、松浦麗、金子美香、田村由貴絵、いずれも大暴れして健闘。

 ゲッツ・フリードリヒの演出は、人物の構図が第3幕などであの「トンネル・リング」を思い出させるようなところがあるが、とにかくオーソドックスでストレートなスタイル、当節としてはむしろ珍しいものに属する。
 ヴォータンは決してやくざの親分ではなく、一族の安寧をひたすら模索している「神々の長」だし、ブリュンヒルデを除く8人のヴァルキューレたちは少し素頓狂だが、それでも忠実に父神の命に従っている。すべてのキャラクターがシリアスに生き、行動しているという、ト書きに従った演出だ。新鮮味に欠けるとか面白味がないとかいう批判は受けるだろうし━━事実その通りではあるが━━しかし、これはこれで悪くはない。

 舞台美術と衣装はゴットフリート・ピルツ。フリードリヒのストレートな演出の中で精一杯趣向を凝らしているという感だが、見せ場の「魔の炎の場面」では舞台を取り巻く炎の中に緑色のレーザー光線(でしょう?)によるフレームが作られたのは、何となくクプファーのバイロイト版を連想させた。
 衣装に関しては、ヴォータンやフンディング、フリッカなどのそれは結構だと思うが、第1幕のジークリンデのスタイルがドイツ料理店のおばさんみたいだったのはともかく、ブリュンヒルデの姿と来たら何か空手の試合着のようで、あまり趣味がよろしいとは言えない。

 観客の入りは良い。ホワイエは初日らしい賑やかな雰囲気にあふれていたし、上演にはブラヴォーとブーイングが交錯し、少し活気が出て来たようだ。
 休憩40分と35分を含み、終演は7時25分となった。

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