2017-09

2016・9・30(金)アリス=紗良・オット ピアノ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 満員の聴衆を集めての来日リサイタル。前半にグリーグの「抒情小曲集」から、「春に寄す」や「トロルドハウゲンの婚礼の日」など12曲、および「ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード」。後半にリストの「ソナタ」。アンコールはグリーグの「山の魔王の宮殿にて」というプログラム構成。

 ホール内は、照明を落し、ほとんど暗黒に近い状況。ピアノの白い鍵盤が白色の明かりの中に照らされ、純白のドレスを着た妖精のような雰囲気のアリスが音楽に没頭するという光景は、何か神秘的な宗教的儀式の、祭壇にぬかづく美しい巫女の祈りのようなものを感じさせる。
 しかも後半のリストのソナタでは、一転して魔女のような漆黒のドレスに身を包んで現れたので、作品本来の魔性的な性格と激しい演奏とが相まって、今度はワルプルギスの祭典の如き雰囲気となった(こういう視覚的な効果をつくり出す趣向は、ナマの演奏会ならではもので、大いに面白い)。

 で、演奏は? 前半での優しい愛らしさ、後半での激烈な気魄、その対比の見事さは、全く鮮やかなものだ。彼女の中にある天使と悪魔が、二つながら姿を現わした一夜といえるだろう。
 ただ、今夜の演奏を聴いていて、それぞれなにか一つ、物足りなく感じられるところがある。非凡な才能を持った彼女のことだ、日を経ずしてそれらを手に入れることだろう。

2016・9・29(木)声劇和楽団「源氏物語」

      サントリーホール ブルーローズ  2時

 3年ほど前、サントリーホールでは「やってみなはれプロジェクト」というシリーズがあって━━これは故・佐治敬三氏のモットー「やってみなはれ、やらしてみなはれ」という進取の精神に基づくものだったと聞いたが━━無声映画を弁士と三味線などの生演奏を併せて上映するなど、面白いイヴェントが行われたことがある。

 今回の「フロンティアプロジェクト」は、その流れを汲む、久しぶりのシリーズだと聞いた。ただしサントリーホールは主催ではなく共催、それもほぼお任せの形らしい。そのせいか、当日のホールの受け付け、プログラム販売、場内アナウンスまで、すべていつものスタイルと違い、常連をまごつかせることが多い。

 それはともかく、この声劇和楽団の「源氏物語」は、舞台に琴(田中奈央一)と琵琶(久保田晶子)と尺八(黒田鈴尊)が並び、旭井翔一の作曲による音楽を演奏、その前で、簡単だが古式床しい衣装を着けた朗読者たちが「源氏物語」を読んで行く、という形を採る。つまり放送劇をナマで演じるような形のものである。
 ただし読まれる内容は、あの紫式部の文章そのものではなく(あのままやられたら、学生時代の古文の勉強の悪夢が蘇る)、西瓜すいかの脚本による、格調高いが解りやすいセリフ的な文章になっている。

 今回は「桐壺」から「葵」あたりまでの部分が、2部構成で取り上げられる。
 第1部の最後は、光源氏(堀江一眞)が夕顔(満仲由紀子)と愛の逢瀬に浸っているところへ、六條御息所(杏実えいか)の生霊が現れ、「憎らしや、憎らしや」と物凄い表情の演技入りで迫って取り殺し、不気味な音楽がそれを彩るという手法。なかなかドラマティックである。

 この朗読は、読み手たちの表現にもう少し「味」が出てくれば、更に良くなるだろう。しかし、和楽器の玲瓏たる響きとともに進められる日本語の朗読は、不思議な快さを感じさせる。
 できれば最後まで聴いてみたかったが、私の時間の読みが甘く、第1部60分、第2分90分の長さで、終演は5時近くなるとのことで、次に入れた予定との折り合いがつかなくなり、第2部は聴かずに失礼しなくてはならなかった(あの小ホールは、途中で出るには甚だ具合の悪い構造なのである)。

2016・9・28(水)エリアフ・インバル指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

      フェスティバルホール(大阪) 7時

 エリアフ・インバルが大阪フィルに初客演。彼が、東京以外のオーケストラを指揮するのは、何と今回が初という。プログラムは、モーツァルトの「交響曲第25番ト短調」と、マーラーの「交響曲第5番嬰ハ短調」。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 インバルは、日本デビューとなった読響との演奏会(1973年)でも、またフランクフルト放送響との日本での初演奏会(1987年)でも、その最初のプログラムにマーラーの「5番」を乗せていた。そして今回の「東京以外のオーケストラへのデビュー」でも、「5番」を選んでいる。まるで、名刺代わりの作品みたいだ。

 今日は定期2日目の演奏━━モーツァルトは、あの冒頭の主題も、ことさらに激烈、劇的なつくりではない演奏で始められたが、どうもインバルの指揮としては、ふだんあまり聴いたことがないほど散漫なものである。モーツァルトの素晴らしさが、さっぱり浮かび上がって来ないのだ。
 これは、敢えて言わせてもらえば、第1楽章でのホルン群の不安定さや、第3楽章トリオでの木管群の溶け合わぬアンサンブルに代表される大阪フィルのまとまりの悪さも、影響しているかもしれない。いずれにせよ、この「25番」は、気心知れた都響との演奏で聴くインバルとは別人のような音楽になっていた。

 マーラーでも、今日が2日目にもかかわらず、第1楽章など、何か集中度に不足する演奏が続いた。大阪フィルとインバルとの相性はよろしくないのかと━━そして大阪フィルもここまでなのか、と落胆させられたが、ところが、第2楽章の半ばあたりから、その演奏がみるみる密度の濃いものになりはじめたのである!

 第3楽章でのホルン・ソロの良さ、セクション全体の充実も、オーケストラ全体に火を点けたか。この楽章が見事な推進性と緊迫感、豊かな音の均衡、スケールの大きさのうちに完成されると、「アダージェット」では大阪フィルの弦が剛直な音色で歌い(これはまさしくインバルの指揮の正確な投影だ)、続くフィナーレでは文字通り全管弦楽が躍動し、渦巻き、咆哮して、熱狂的に全曲を結んで行った。

 2700席のホールをほぼ満席に近く埋めた聴衆が沸きに沸いたのも当然である。大阪フィルが、その秘めていた力を全開したという感だったし、それをここまで引っ張り上げたインバルの指揮もさすがというべきだろう。
 もしこの大阪フィルが、トレーナーとしても非凡な手腕を持つ彼に鍛え上げられたら、きっと都響と同じように、がっちりと隙なく構築された厳しい佇まいの演奏をするようになることだろう。

 大阪フィルも、本気になればかくあり、という演奏の定期公演であった。
 1曲目からこういう演奏をしていてくれていれば、とは思うが、とにかく、終り良ければ全て善し。満足して席を立ったというわけである。

2016・9・27(火)インキネンの日本フィル首席指揮者就任記念演奏会

     サントリーホール  7時

 アレクサンドル・ラザレフの後任として日本フィルの首席指揮者となったピエタリ・インキネン。その就任記念の演奏会は、定期ではなく、特別演奏会の形で開催された。

 それも、マーラーやシベリウスではなく、ワーグナー・プロだ。しかもありきたりの「名曲集」ではなく、ソリスト歌手を招いての「ニーベルングの指環」からの抜粋プロである。指揮者とオケの意欲が覗われ、「打ち出し方」の巧さが感じられる。
 協演歌手はリーゼ・リンドストローム(ソプラノ)とサイモン・オニール(テノール)。コンサートマスターは木野雅之。

 前半に「ジークフリート」第3幕から、序奏に続いてヴォータンの場面の最初がオーケストラのみで演奏され、次いでジークフリートが岩山へ向かう場面からブリュンヒルデとの二重唱の最後までが全部演奏された。
 第2部では「神々の黄昏」から、序奏と、少し飛ばしてジークフリートとブリュンヒルデの二重唱および「ジークフリートのラインへの旅」、第1幕のハーゲンのモノローグのあとの間奏の一部、そして「ジークフリートの死と葬送行進曲」、「ブリュンヒルデの自己犠牲」および終曲━━という具合に、巧みに接続されて演奏された。

 これは、相当な長さと重量感である。終演は9時25分頃になり、すこぶる力のこもった演奏になった。
 インキネンは速めのテンポでたたみかけ、時にはスピーディ過ぎて素っ気ないところもあったが、若い世代の指揮者によるワーグナー解釈の一つのあり方として、決して悪いものではない。ワーグナーはやはりいいものだ、という感慨を抱かせる演奏であったことは確かである。

 ソリスト2人の声も、昔の歌手のような女傑・豪傑のタイプでなく、むしろ細身のリリカル系で、これもインキネンの指揮のタイプによく合致していた。リンドストロームのブリュンヒルデは、ゲルマン神話の女戦士というより初々しい少女といった趣であり、オニールのジークフリートも神経質で純粋な少年という感。

 だがこのお二方、「ジークフリート」第3幕の最後の二重唱は美しく昂揚して素晴らしかったが、何かそれで全精力を使い切ってしまったような感じではなかったろうか。「神々の黄昏」もよく歌っていたことは確かだが、どうも声のパワーも含め、第1部に比べるとやや精彩を欠いたような気がする。

 日本フィルは、並々ならぬ頑張りよう。ステージ上の雰囲気たるや、火の玉と化して突進し、インキネンの煽りに応え、ワーグナーの魔窟に挑む、という感だった。
 それはいいのだけれど、「ジークフリート」冒頭の手探りのような出だしや、同幕でのホルン群の弱さ、第2部までの全体を通じてのトランペットの不安定(珍しいことだ)、細部の仕上げの乱れなどもあり、そう手放しで絶賛できる状態でもない。ラザレフの定期で聴かせたあの鉄桶のごときアンサンブルと比べると、夏の間に何かがあって、アンサンブルが「また」荒れてしまったとしか思えぬ。そういう一進一退の状況があるようでは、未だオーケストラとして完璧とは言い難いのではないか。

 とはいえ、「ジークフリート」後半の演奏は見事な昂揚と充実を示し、前述の歌手陣の快唱とともに、客席を熱狂的に湧き返らせたのは、紛れもない事実だった。
 そして「神々の黄昏」でも、ホルン群が復調し、特にホルンのソロは見事な演奏を聴かせ、オーケストラも概して引き締まって、3年前の「ヴァルキューレ」第1幕の演奏の素晴らしい出来には及ばぬまでも、熱気充分のワーグナーを聴かせてくれたことも間違いない。「葬送行進曲」でのエネルギー感など、目覚ましいものがあった。
 新しい首席指揮者との今後の活動に期待しよう。

2016・9・26(月)ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 今日はショスタコーヴィチ・プロで、「黄金時代」組曲、「ピアノ協奏曲第1番」、「交響曲第10番」。
 協奏曲でのピアノはいつものように(?)ヴィクトリア・ボストニコワ、トランペットは辻本憲一(読響首席)。コンサートマスターは前日と同様に小森谷巧。

 昨日のチャイコフスキーの、少し野放図な演奏から一転して、今日は引き締まって厳しい造型感の漲る、一音たりとも揺らぎのない演奏になった。音色も陰翳が濃いものに一変したが、その音にはなお彼独特のきらきらとした色彩が散りばめられていて、いわば「暗い輝き」といったものだろうか。これこそロジェストヴェンスキーの巨匠芸、その真髄であろう。

 テンポは相変わらず遅く、「10番」では第1楽章だけで約28分かかっていたが、但しその後は通常のテンポに戻ったため、全体では約63分を要するにとどまった。もちろん、楽章間では彼の流儀で、長い「間」は採っていない。

 重戦車のごとき厚みと重低音による演奏の量感も相変わらず物凄いが、昨日のチャイコフスキーと違って、こちらショスタコーヴィチ・プロでは、それらは長所になるところが多い。
 「黄金時代」など、一般の演奏では軽妙洒脱なアイロニーが躍動するものだが、それがどっしりとした量感でゆっくり演奏されると、まるで厳めしい巨人が笑っているような、別の可笑しみが出るだろう。しかし、「アダージョ」(第2曲)では、普通の演奏では気がつかないような、魔性的な要素も浮き彫りにされていた。

 「協奏曲」では、ボストニコワの、あまり華やかな技巧を誇示しない落ち着いた円熟のソロに対して、ロジェストヴェンスキーも予想外に柔らかいサポートで臨む。トランペットのソロも、やや控えめではあったものの、充分に責任を果たしていた。

 「10番」の演奏の見事さは、群を抜いていただろう。
 長大な第1楽章でも、音符の一つ一つに瑞々しさがあり、2つの主題のそれぞれに鮮やかな色分けが与えられているので、形式感が明瞭に聴き取れる。凡庸な演奏ではだらだらと繰り返されるという印象になるこの第1楽章が、演奏時間の長さにもかかわらず、これほど要を得て感じられたことは、私には初めての経験である。

 第3楽章での、ショスタコーヴィチのモノグラム「D-Es-C-H」と、「若い恋人」エリミーラのモノグラム「E-A-E-D-H」との対比も実に鮮やかに描かれた。この2つが絡み合う結尾では、遠ざかるエリミーラの主題と、悩むような作曲者自身の主題との対比がまさに標題音楽的に描写され、あたかも一篇の私小説を読むような趣があった・・・・。
 CDではいくつかここを巧く演奏したものもあったが、ナマではこういう洒落た描写は、なかなか聴けない。このロジェストヴェンスキーと読響の演奏は、私の「10番」体験の、一つのハイライトとなろう。

 それにしても、読響の上手いこと。この3日間で、同じロシアの作曲家のものとはいえ、正反対のカラーを持つ音楽を見事に演じ分けるとは、素晴らしく多彩な表現力だ。
 もっとも、今にして思えば、この厳しいショスタコーヴィチでの演奏(の練習)に対して、昨日のチャイコフスキーでの演奏は、いわばストレス発散の場だったか?という気がしないでもないのだが、それはまあ・・・・。

2016・9・25(日)ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 懐かしやゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、読響には4年ぶりの登場。85歳だが指揮台に椅子は使わず、足こそ少し不自由になった様子ながら、しっかりした指揮姿である。
 今回は読響を3回指揮するが、何と3日連続で2種のプログラムを振るという不思議なスケジュールだ。今日はチャイコフスキーの「3大バレエ曲」抜粋のプログラム2日目。

 「3大」と言っても、チャイコフスキーはもともと3つしかバレエ曲を書いていないのだからおかしい、などという揚げ足取りは古くから使われて来たこと。とにかく今日は、まず「白鳥の湖」から「序奏」「ワルツ」「4羽の白鳥の踊り」「ハンガリーの踊り」「スペインの踊り」「終曲」。次に「眠りの森の美女」から「ワルツ」「パノラマ」「アダージョ」。そして休憩後に「くるみ割り人形」第2幕全曲━━というプログラムである。
 コンサートマスターは小森谷巧。

 驚かされたのは、全作品が滔々たるゆったりしたテンポで、しかも━━極端に言えばだが━━どの作品も最強奏で轟々と鳴り響いたこと。
 テンポの遅さは際立っており、「くるみ割り人形」の第2幕など、普通ならせいぜい40~45分で演奏されるはずだが、今日は57分かかっていた(それほど曲間に休みをおいたわけではない)。バレエ音楽というより、シンフォニーといった演奏で、あたかも重戦車のごときどっしりした構築であった。

 しかもその音の強大さたるや凄まじく、読響も得意の馬力を全開し、最初から最後まで咆哮した。チャイコフスキーの洗練されたリリシズムなどは木の葉の如く吹き飛ばされ、メルヘン・バレエの音楽というよりは、彼の幻想序曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」のダンテの地獄の場さながらの物凄さになっていた。いかにチャイコフスキー愛好者の私でも、これには些か辟易させられ、へとへとに疲れてしまったというのが本音である━━。

 解釈(?)で興味を惹いたのは、「白鳥の湖」の終曲、ハープと弦楽器が浄化されたような雰囲気で次第に上昇して行く個所で、テンポを半分に落して演奏して行ったこと。これは如何にも物々し過ぎて共感できないけれども、ロジェストヴェンスキーがやっていることだから、もしかしたら何か根拠があるのかもしれない。彼の指揮でだったかどうか忘れたが、昔こういう演奏を一度聴いたような記憶がある。

2016・9・24(土)スダーン指揮東京交響楽団「ファウストの劫罰」

      サントリーホール  6時

 ベルリオーズの名作、劇的物語「ファウストの劫罰」。2週間前の高関健と東京シティ・フィルの演奏に続く「9月の競演」の第2陣、

 桂冠指揮者ユベール・スダーンと東京交響楽団の定期公演。協演は、マイケル・スパイアーズ(ファウスト)、ミハイル・ペトレンコ(メフィストフェレス)、ソフィー・コッシュ(マルグリート)、北川辰彦(ブランデル)、東響コーラス、東京少年少女合唱隊。コンサートマスターは水谷晃。

 演奏時間は、第1部が約59分、第2部が約72分というところだったから、スダーンのテンポはやや遅めだったと言えるだろう。
 だがスダーンらしく、音のつくりは細部まで疎かにしない。彼が音楽監督を務めていた時期のような完璧な音の均衡は弱まってはいるけれど、ベルリオーズの管弦楽法の面白さは、随所で再現されていた。普通なら合唱の中に埋没してしまう管楽器群の細かい動きが、均衡を保った響きの中ではっきりと浮かび上がって聞こえていたのは、私としては初めての体験である。これはもちろん、東響の演奏の良さによるところも大きいのだが。

 スダーンのベルリオーズは、「不意打ちと情熱の爆発」ではなく、この作曲家の叙情的で端整な面に光を当てたものだろう。
 つまり、フランス音楽史上の異端児ではなく、ドイツ・ロマンティシズムの模倣者でもなく、のちにドビュッシーの印象主義へ移り変わって行くフランス・ロマンティシズムの流れの中に、この作曲家を位置づけていたのではなかろうか? マルグリートの2つの歌━━「トゥーレの王」と「ロマンス」でのオーケストラの響きを聴いていると、そういう思いも浮かんで来る。
 こうなると、同じベルリオーズの「キリストの幼時」を、もしスダーンが指揮したらどんなものになるか、聴いてみたい気がする。

 主役歌手陣は好調。ミハイル・ペトレンコは、いつからスキンヘッドになったのかしらん? 昔は舞台での挙止もちょっと陰気な雰囲気だったのに、近年は明るくなり、今日はえらくハイで陽気な感じだった。身をよじらせておどけて歌い、ひとりだけ演技を行い、━━悪魔としてよりも「道化的な案内人」のイメージが先行したか。声質も含め、もう少し悪役的な凄味があったほうがドラマティックになると思うのだが・・・・。

 ファウスト役のスパイアーズは、ソリスト陣の中でただ一人、暗譜で歌っていたところを見ると、この役は得意のレパートリーなのだろう。骨太なテナーだ。だがファウストとしては、失礼ながら、もう少し知的な雰囲気が欲しいのだけれど・・・・。

 コッシュは、実力から言っても充分だ。澄んだ声で美しく、やや抑制気味に歌っていたが、この作品でのマルグリートは、こういう表現が的を射ているだろう。
 ともあれ、この主役3人の粒のそろった歌唱は満足すべきものだった。

 合唱。P席に配置された東響コーラス(安藤常光合唱指揮)が、すべて暗譜で歌っていたのはえらいものである。バランスもいいし、ここのコーラスは昔から水準が高い。また、東京少年少女合唱隊(長谷川久恵合唱指揮)がステージ上の上手側に板付で配置されていたのは好ましい。これを客席に持って来たりすると、最後の浄化された場面で聴衆の注意力を散漫にしてしまうからである。
  音楽の友11月号 Concert Reviews

2016・9・23(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  7時

 名誉音楽監督チョン・ミョンフンが指揮するベートーヴェン・プロ。
 前半にチョ・ソンジンをソリストに迎えて「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」、後半に「田園交響曲」。そしてアンコールに、日曜日のコンサートで演奏する「第7交響曲」の第4楽章。コンサートマスターは三浦章宏。

 チョ・ソンジンの若々しい「皇帝」が、力に満ちて爽やかだ。冒頭のカデンツァからして音色と表情に輝きがある。全曲、充分に躍動的で溌剌として瑞々しい。ただそれでも、どちらかといえば叙情的なイメージを感じさせる演奏━━という印象が残る。
 40年ほど前、小澤征爾の指揮とエッシェンバッハのソロで「皇帝」のレコードが出た時、豪壮さよりも端整さに重点が置かれた演奏が、「皇帝」というより「皇太子」というイメージだ、などと評されたことがあるが、このチョ・ソンジンの演奏も、どちらかというとそれに共通する色合いがあるかもしれない。
 ソロ・アンコールで弾いた「悲愴ソナタ」の第2楽章なども、ベートーヴェンのカンタービレの美しさを愛でるような演奏だった。

 チョン・ミョンフンの指揮も、東京フィルを温かい音色で、流れるように、伸びやかに響かせた。随所でホルンが強調されるのも面白く聴いた。とはいえ、第2楽章の最後、2本のホルンの長い持続音の上にピアノが最弱音で第3楽章の主題を予告する個所で、チョ・ソンジンはテンポを極度に落して音楽の流れを矯めた(これだけテンポを遅くしたピアニストは、私の聴いた範囲では41年前の荒憲一以来である)が、チョン・ミョンフンがその2小節目で公然とホルンに息継ぎさせたのにはちょっと驚いた。これは、このブリッジ・パッセージが本来備えている神秘性を、無惨にも失わせるものではなかったか?

 「田園」は弦14型だったが、ホルンは4本に倍管されていて、この曲でもホルンが強調されていたのが目立つ。アンサンブルはかなり「自由」な趣である。
 第4~5楽章に全体のクライマックスが置かれたが、とりわけ嵐が去り、日の光が雲間から指しはじめるオーボエのフレーズが醸し出す安息感は、今日は実に見事なものがあった。第5楽章の第1ヴァイオリンによる第1主題がこれほどレガートに安息感にあふれて「回復された平和」を歌い上げていた例も稀ではなかろうか。
 第2楽章でソリを受け持つチェロが、スコアに指定された2本でなく4本にされていたのは、14型編成の弦楽器群における音量のバランスを取る方法として的確なものだろう。

2016・9・22(木)横山幸雄のベートーヴェン・ピアノ協奏曲全曲演奏会

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲5曲を、番号順に、「第2番」以降は休憩を20~40分ずつ入れながら演奏。「第3番」以降を聴く。

 こうして並べて聴いてみると、ベートーヴェンのピアノ協奏曲が、作曲時期を追うごとにスケール感を増し、かつヴィルトゥオーゾ性を強めて行った様子が改めて実感できるというものだ。
 それにしても、横山幸雄教授の指の回りの何と速いこと。たとえば「第4番」第1楽章のカデンツァにおけるように、完璧に均一化された音が流麗な曲線を描くさまなど、全く見事なものである。

 ただ、最後の「皇帝」に入ってからは、第1楽章の中ほどで少し集中力が希薄になったのか、思わぬ出来事が起こったりしたが・・・・。
 こういう大プロジェクトでは、最後の曲がえてして鬼門になるものだ。かの大歌手ヘルマン・プライでさえ、かつて東京でシューベルトの歌曲集の大ツィクルス(これは感動的だった!)をすべて暗譜で歌った時、文字通り最後の最後、「白鳥の歌」の最後の1曲、終りまであと数十小節という個所で突然集中力が途切れ、歌が止まってしまったことがあったほどだから。

 協演したのは、「トリトン晴れた海のオーケストラ」(第一生命ホールを拠点とする室内オーケストラ)で、矢部達哉をリーダーとして都響はじめ各楽団の腕利きメンバーが集まった楽団である。その上手いこと、巧いこと。
 コンサートマスター矢部のリードで演奏しているのだが、あるパートの音を漸強で膨らませたり、デュナミークの変化を強調したりといったような精妙な趣向は、誰が指示してつくっているのか、聞きたい気がする。なまじ変な(失礼)指揮者が振るより、楽員がそれぞれ自発性を以って演奏したほうがよほどいい演奏になる、という好例だろう。
 終演は6時半過ぎになった。

2016・9・20(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団 定期B

     サントリーホール  7時

 モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」というシンプルなプログラム。ソリストはオーギュスタン・デュメイ、コンサートマスターは山本友重。
 デュメイを、彼が音楽監督を務める関西フィル以外のオーケストラで、コンチェルトのソリストとして聴くのは久しぶりである。

 そのデュメイは、雲つくような長身を翻しつつ、豪快に弾く。
 演奏の前に、手にしていたハンカチをクシャクシャのまま指揮台の傍に投げ捨て(乱雑!)、第1楽章が終ると無造作に床から拾い上げ、それで慌しく楽器を拭き、ついでに顔まで拭き、また投げ捨て、終ると拾わずに引っ込んでしまう・・・・という具合だ。音楽と関係ないじゃないか、と言われそうだが、実はその行動が演奏の雰囲気と、どういうわけかぴたりと合致していて、笑いを誘われるのである。
 演奏が乱雑だと言っているわけではない。だが、第1楽章の頭など、まさにエイヤと飛び込むような弾き方だったし、全体にかなり野武士的な、骨太な演奏で押し切ったのは確かだろう。

 こういう演奏のモーツァルトはあまり聞いたことがないけれども、この曲を一般に言われるようなギャラント・スタイルから解放し、ヴィヴィッドで剛直でダイナミックな要素を掘り起こしてみせるような演奏も、なかなか面白い。
 もちろんデュメイの演奏はそういう力任せの弾き方だけに終始しているのではない。やや武骨ながらも、美しい「歌」を持っていることには間違いないのである。
 ━━そのデュメイのソロを受けてかどうかは判らないが、インバルと都響の演奏も、いつもに似合わず、出だしからして妙に荒っぽく、オヤオヤと思わせられるものだった。

 しかし、後半のショスタコーヴィチの「8番」は、がっちりと凝縮した音の構築、速めのテンポによる強靭な推進力など、まさにいつものインバルと都響のそれである。
 第1楽章がこれほど求心性の強い演奏で聴かれた例は、それほど多くないだろう。第2楽章は「アレグレット」ではあるが、アジタートの要素がむしろ強い。特徴的だったのは第3楽章で、「アレグロ・ノン・トロッポ」の「ノン・トロッポ」を切り捨てた激しい驀進が息を呑ませる。その猛速の中で、ヴィオラもトランペットも、ぎりぎり踏み止まって闘った。

 ただ、そういう起伏の激しい演奏であっても、決して所謂「狂気」に陥らず、常に強い自己抑制力と、厳しい形式感を失わないのが、インバルのインバルたるところではなかろうか。全曲冒頭の強靭な低弦の響きから、全曲最後の消え入るような安息の響きまで、交響曲全体の構築上の均衡は、完璧に保たれていた。

2016・9・19(月)あいちトリエンナーレ モーツァルト「魔笛」

    愛知県芸術劇場大ホール  3時

 あいちトリエンナーレ制作になるモーツァルトの「魔笛」(2日目)。勅使川原三郎の演出(美術・衣装・照明を含む)が話題。

 演奏は、ガエターノ・デスピノーザ指揮の名古屋フィルと愛知県芸術劇場合唱団、妻屋秀和(ザラストロ)、高橋維(夜の女王)、鈴木准(タミーノ)、森谷真理(パミーナ)、宮本益光(パパゲーノ)、醍醐園佳(パパゲーナ)、青柳素晴(モノスタトス)、小森輝彦(弁者)ほかという錚々たる顔ぶれ。東京バレエ団および佐藤利穂子(ダンス、ナレーション)も協演していた。

 勅使川原の舞台は予想通り、黒色の背景と白色の照明というシンプルな装置による静的なものだ。もちろんダンスは随所で活用され、大蛇はじめ動物たちも、ダンサーたちにより象徴的に表現される。
 宙に動く3組の「3つの輪」は、演出家によれば「大小さまざまなリング、円という絶対的であり宇宙的でもある完結した造形空間」(演出ノート)だそうだが、しかしそれはもちろん、このオペラの本来の有名なモティーフである「3」とも関連しているのだろう。

 衣装はユニークで、タミーノ、パミーナ、パパゲーノ、パパゲーナを除く魔界(?)の登場者はすべて異形の扮装。こけし人形を模した衣装なども面白い。

 オペラを日本風の舞台にして再創造する手法は、これまでにもいくつか試みられて来ている。大成功を収めた昨年の弥勒忠史演出「メッセニアの神託」はそのベストな例だし、古くは猿之助演出「影のない女」(バイエルン州立歌劇場)、若杉弘制作の「サロメ」(鎌倉芸術館)などもある。
 こういった手法は、ヴォルフガング・ワーグナーやルドルフ・ゼルナーの進言を待つまでもなく、積極的に試みられるべきである。その意味でも、これは有意義な企画だったし、ある部分では成功していた。

 ただ、それがわれわれ観客に舌を巻かせるほど音楽と調和していたかというと、どうも消化不良の感が残っただろう。例えば、ダンスが散発的なものにとどまり、ケレンを求められる「試練の場」ではほとんど活用されず、曖昧なものになっていたのは、もったいない話だ。

 だがそれ以上に、今回はドイツ語の歌唱を採ったものの、台詞をすべてカットし、それに代わるものとして、その都度日本語による説明的ナレーションを入れ、その間、登場人物たちにはパントマイムで演技をやらせたのが、何ともチグハグな結果を生んだことが問題だ。
 このナレーションのスタイルは、私も含め、ラジオ放送が昔よく使った手である。しかしこれは、ラジオでは効果的だが、ナマの舞台の上演では、視覚が伴うだけに、むしろオペラとしての流れが阻害されるような感じになってしまうのである。

 デスピノーザの指揮が何とも坦々としていて、モーツァルトの音楽が持つ強力な流れと、自然な昂揚感を生かせずに終ったのは、あるいはその影響によるのではなかろうか。
 「魔笛」は、音楽━━台詞━━音楽というジンクシュピール(歌芝居)として、全体が有機的な繋がりと流れをもつ構成の作品だ。ところが今回のプロダクションでは、それが日本語ナレーションとパントマイムにより分断されたために、彼のような外国人指揮者はその日本語のテンポをうまく把握できず(しかもそのナレーションが常に同一テンポで進められるものだから)音楽を大きな流れとして盛り上げるまでに行かなかったのではないかと思われる。

 歌手陣はみんなよくやっていた。鈴木准は当たり役だし、宮本益光は「独りで懸命に舞台を盛り上げ」ていた。森谷と高橋は、役柄を入れ替わった方がいいのではないかと思うところも少なくなかったが・・・・。妻屋秀和も貫録の低音で聴かせていた。
 醍醐園佳が溌剌たるところを見せ、聴かせたのが印象に残る。特に彼女と宮本の2人ともが「パパパパパ・・・・」を明晰に、弾むように歌ってくれたのがありがたい。歌い手さんの中には時々、この唇の弾みがままならぬ人もおられるので・・・・。

 台詞がないので、休憩1回を含め、5時50分くらいには演奏が終ってしまった。8時前の新幹線で帰京。名古屋はただの曇だったのに、東京は土砂降りである。

2016・9・17(土)東京二期会「トリスタンとイゾルデ」3日目

    (東京文化会館大ホール 2時)

 ヴィリー・デッカーの演出、ヴォルフガング・グスマンの舞台美術によるこのプロダクションを、はじめライプツィヒ歌劇場での上演記録映像で観た時には、正直、えらく単調で、さっぱり面白くない演出のように思えたものである。だが、空間的な拡がりのあるナマの舞台で観てみると、それなりのまとまりと雰囲気があることがわかる。

 先日のGPで観た時の印象と同様、キーワードは、愛し合う2人にとっての、出口のない世界、孤独で荒涼とした海、2人にとって唯一許された世界であるか細い小舟━━と言っていいだろう。
 特に、頼りない小舟に乗って2人だけの海に漕ぎ出すという光景で表わされる「愛の世界」は、印象的なものがある。


オール
福井敬(トリスタン)と池田香織(イゾルデ)

 ユニークな手法といえば、第2幕の幕切れで2人が自ら短剣で眼を切り、おぞましい「明るい昼」へ永遠の別れを告げるという設定(これは少なからず衝撃的な設定だ)がまずひとつ。

銃
自らの眼を傷つけるトリスタン
写真提供 東京二期会 撮影©三枝近志


 その他、第3幕では、クルヴェナールがマルケ王の前で自ら死を選ぶという設定が採られる。彼が王の軍勢と戦うのは単に彼の幻想に過ぎぬという解釈は、バイロイトのマルターラー演出をはじめ最近は増えているようだが、これも同様の解釈である。
 ただし、ラストシーンの「イゾルデの愛の死」は、すでに彼女の死後の世界での出来事であるという設定だそうだが、どうも前後の流れからして唐突で解り難い。イゾルデの眼がなぜ突然また見えるようになったのか、なぜ彼女が毅然と起き上がり、槍を持ったブリュンヒルデさながらにオールを携えて屹立するのか、などと訝るほうが先に立ってしまうかもしれない。

 今回の歌手陣の中で、驚異的な素晴らしさを示した人は、イゾルデの池田香織である。これまで彼女のイゾルデは断片的にいくつか聞いたことはあったが、それらとは比較にならぬ成長ぶりで、この役のひたむきな性格を見事に表現していた。
 特に(しばらく休んでから再登場した)第3幕後半の場面では、第2幕までよりも声が澄んだような印象があり、「愛の死」の最後までを安定感豊かに歌い切った。歓びと哀しみとを歌い分ける陰翳ある性格表現という点は、これから身について来るものだろう。邦人歌手に優れたイゾルデが出現したことを慶びたい。

 その一方で惜しかったのは、トリスタンの福井敬。先週の第1回上演では最後まで朗々と押し切ったということだが、今日は体調不良とのことで、第2幕の愛の二重唱のあたりからすでに不安を感じさせる出来であり、第3幕の前では大野徹也公演監督が観客に了承を求めるという事態になった(今回のトリスタンは2人とも受難だったことになる)。
 第3幕でもハラハラさせられることが何度かあったが、幸いにもここは「瀕死のトリスタン」役とあって、辛うじて最後までアンダーを立てずに押し切ったのは幸いだった。終演後の楽屋で会った時には、話す声が半ばしわがれていて、ぎょっとさせられたものである。強靭な声の持主にも、たまにはこういうことがあるのか、と。

 ちなみに、トリスタンのアンダーは菅野敦で、彼は先日、もう一つの組のGPで、ブライアン・レジスターが演技のみで歌わなかった時、舞台袖に立って終始トリスタンを歌っていた人だ。なかなかいい歌手とお見受けした。

 今回のデッカ―演出では、題名役のこの2人が比較的動きの少ない演技であるのとは対照的に、脇役たちは終始オタオタし、不必要とまで思われるほどに慌ただしく動き回る、という設定になっていた。ブランゲーネは山下牧子、クルヴェナールは友清崇、マルケ王は小鉄和広が歌い演じ、歌唱面では、もちろん、みんな優れたものを示していた。

 その中で私は、山下牧子の演技に賛辞を贈り、勝手に「最優秀演技賞」を贈呈したい。第1幕の幕切れ、「愛の薬」を飲んだ後のトリスタンとイゾルデを見て、どうしようもないほどおろおろし、取り乱し、やがて絶望感に陥って行く様子をこれだけ見事に、人間味豊かに表現したブランゲーネを、私はこれまで観たことがない。こういう脇役こそが、舞台を引き締める役割を果たすのである。

 指揮とオーケストラは、ヘスス・ロペス=コボス指揮の読売日本交響楽団。日本のオペラ上演としては、あの「パルジファル」での演奏に次ぐ好演である。おそらく今日、ピットに入って最も充実した演奏を聴かせてくれるのは、わが国ではこのオーケストラだといっていいだろう。第3幕前半では少々不安定なところもあったが、全体としては満足できる演奏である。
 なお、第2幕冒頭のホルン(狩の角笛)は、すこぶる快調。遠近感もよく出ていて、遠く音が消えてオーケストラのゆらめきに引き継がれるあたりの音のバランスなど、絶品だった。

 ロペス=コボスは、ワーグナー指揮者として合っているかどうかは一概に言い難く、特に第2幕でのイゾルデのモノローグや二重唱、同幕終結近くの2人の「昼を呪い、夜に憧れる」くだりなどでは、もっと音楽のうねりが欲しかった。だが、少なくとも29年前にこのホールで行われたベルリン・ドイツオペラ公演の「トンネル・リング」で指揮した時よりは、はるかに良かったと言わねばなるまい。

 最後に、字幕。製作としてクレジットされている方をよく存じ上げているので、あまりずけずけ言い難いのだが、文字数も多く、文体も些か不自然で、ワーグナーの音楽の雰囲気と合わぬところが多い。「薬」を「愛の妙薬」という表現も奇怪だろう(ドニゼッティじゃあるまいし、ワグネリアンはこの作品ではそういう言葉は使いません)。

 30分の休憩2回を含み、6時45分終演。
 折角のいい内容だったのから、もう少しお客さんが入って欲しかった。「トリスタンとイゾルデ」は、ワーグナーの最大傑作であり、あらゆるオペラの中でも屈指の名作なのである。

(付)夜のとばり様 そこのクルヴェナールの動き、私も同感でしたよ。何をオタオタしながら見ているんだ、さっさと手助けしてやればいいじゃないか、と。ああいう演出を観ると、ちょっとやきもきしますね。、

2016・9・16(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  7時

 先週のサントリーホール定期でR・シュトラウスの大曲を2曲演奏した上岡と新日本フィル(コンサートマスターは崔文洙)は、こちら本拠地ホールの定期ではがらりと趣向を変えて、モーツァルトの「交響曲第33番」と「ピアノ協奏曲第27番」、ブラームスの原曲をシェーンベルクが管弦楽に編曲した「ピアノ四重奏曲第1番」を演奏した。

 前半での2曲のモーツァルトは、どちらかといえば優雅で繊細な演奏に聞こえたが、これはこの演奏スタイルには、ホールの空間があまりに大きすぎたせいかもしれない。むしろ最弱音もホールの隅々までよく響くサントリーホールで演奏された方が、この緻密で表情に富んだ、しかも軽やかなオーケストラの音色が生きたのではないかと思う。

 協奏曲ではアンヌ・ケフェレックがソロを弾いてくれたが、彼女のピアノについても同様、ささやくような美しさと、音楽を愛でる優しさに富んだ演奏が、それに相応しく充分にホールを満たすことができなかったのは、些か惜しまれる。

 後半のブラームス~シェーンベルクは、打楽器を含めた大編成ゆえに、その重量感あふれる演奏はホールに轟き渡った。この編曲版は世評が高いわりに、私はどうも弦の響きに今一つ不満を感じないではいられないのだが━━。それにしても、ブラームスへの敬意を前面に押し出し、自らの嗜好を抑えに抑えていたシェーンベルクが、終楽章に至ってついに本性を現す様子は、何度聴いても面白い。
 上岡と新日本フィルも、渋い音色ながら、この精緻なつくりの作品を躍動的に演奏してくれた。アンサンブルの緻密さの点では本来もう少し徹底したかったのではないかと想像されるが、それは明日(2日目)の演奏で実現される類のものだろう。

 今日もまたアンコールの演奏があり、ブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」が変幻自在な表情で披露されたが、これも前回の「サロメの7つのヴェールの踊り」と同様、メイン・プロで聴かせた芸風についての良き「補足」的存在となった。

2016・9・15(木)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団定期A

      東京文化会館大ホール  7時

 「インバル80歳記念/都響デビュー25周年記念」と銘打たれた9月の3つの定期。先週の「ザ・グレイト」は壮大な倍管編成で独立独歩の芸風を誇示した、という噂だが、それは聴けなかった。

 今日のプログラムは、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはアンナ・ヴィニツカヤ)、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」。コンサートマスターは矢部達哉。

 1曲目は、強面インバルが「ルスラン」を振ればこうなるだろう、と予想した通りの演奏。ヴィオラとチェロ(再現部ではチェロのみ)による第2主題(カンタービレ)の2回目を最弱音に落とすという珍しい解釈を行なった以外は、予想通りコワモテのストレートな指揮である。厳めしくて立派な「ルスランとリュドミラ」序曲ではあったが、面白さはあまり感じられぬ。

 会場を温めてくれたのは、やはり次に登場したアンナ・ヴィニツカヤだった。美しく明晰な、抜けのよい音色で、名人主義的なプロコフィエフのピアノパートを、攻撃的な演奏にならずに、爽やかに聴かせてくれた。
 第1楽章後半の長大極まるカデンツァ━━ここでの作曲者は、一緒にいるオーケストラのことなど完全に忘れてしまったような様子を見せる━━では、彼女の抒情性のある音色と闊達な躍動感がほどよく調和していたように思う。
 休憩で客席から出る時、だれかが後方で「プロコフィエフにしちゃ線が細いよ」と言っている声が聞こえたが、プロコフィエフならいつも野性的で狂暴で猛烈な演奏であるべきだ、ということもなかろう。

 それまでどっしりとした厳格な演奏を続けて来たインバルと都響は、休憩後のバルトークの「管弦楽のための協奏曲」にいたって、まさに彼らの真髄を発揮してくれた。
 全曲をアタッカで演奏して緊張感を持続させ、明晰極まりない音で楽器群の対比を作曲者の狙い通りに浮き彫りにする。原曲の巧みな管弦楽法をこれだけ見事に再現させた演奏をナマで聴けたのは久しぶりだし、この曲がこんなに厳然とした風格を備えているのだということを再認識させる演奏に接したのも久しぶりである。
 インバルと都響、シリアスな作品を手がけた時の演奏は、完全無欠と称してもいいほどだろう。
      ☞モーストリー・クラシック12月号 公演Reviews

2016・9・14(水)「マハゴニー市の興亡」

    KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉 7時

 ベルトルト・ブレヒトとクルト・ヴァイルの有名なオペラだが、今回は歌入りドラマとしての再構成版。
 同劇場芸術監督・白井晃の訳詞・上演台本・演出に、スガダイローの音楽監督とピアノ(編曲も?)、山本耕史、中尾ミエ、上条恒彦、古谷一行、マルシアほかの出演━━という魅力的な顔ぶれによる上演(9月6日~22日)なので、当初予定していたハーゲン・クァルテットの演奏会をもったいなくも棒に振り、横浜まで出かける。

 舞台は大きく手前まで拡げられ、上手と下手の両側には「マハゴニー市民」と称される少なからぬ数の観客が配置される。こういう、緞帳などない演劇の舞台の、何が起こるかと待つ期待感のあふれる劇場の雰囲気が、私はワクワクするほど好きなのだが━━。

 いざ始まってみると、どうも出演者たちのセリフと演技のノリが今一つ。何というか、自然な感興の流れに不足し、台詞回しにしても演技にしてもわざとらしい「つくりもの」のような感じが抜けきれないのである。
 それに加えて閉口したのは、音響の悪さであった。中には本職の歌手(だった人?)もいるにもかかわらず、歌を所謂「咽喉声」で絶叫し、それがひずみのある音のPAで増大される音響の趣味の悪さ。これは、とても耐えきれるものではない。この劇場で観た芝居の中では、何年か前の「スウィニー・トッド」に匹敵する音の酷さとうるささであった。

 それさえなければ、たとえ芝居の出来にあまり満足が行かなくても、終りまでちゃんと楽しませてもらえたであろう。次の機会には、ルフトハンザ機内で貰った耳栓を携えて行き、か弱い耳を守ることにしよう。

2016・9・11(日)愛知祝祭管弦楽団「ラインの黄金」

      愛知県芸術劇場コンサートホール  4時

 1週間前にオーケストラのリハーサルを聴き、本番までには何とかなるだろうと思ったものだが、ここまでになるとは予想していなかった。
 火事場の何とかヂカラ、というけれども、本番になると物凄い力を出すという例は、アマオケにはよくあること。この愛知祝祭管弦楽団も同様で、三澤洋史の指揮のもと、まさに入魂の演奏を聴かせてくれた。

 最大の難所である冒頭の「生成の動機」を吹くホルンが、少し粗かったとはいえ、音を外さずに決まって行ったのが成功の端緒。こうなれば、あとはラインの流れに乗って(?)進むことができるというものだ。
 私の席からは確認できなかったが、弦はもしかして14型基本だったか。しかしコントラバス10本、ハープ6台を揃える本格的な大編成オケを乗せた舞台は、すこぶる壮観である。
 弦(コンサートマスターは高橋広)はあまりガリガリ弾かず、むしろたっぷりと拡がりを感じさせる柔らかい音を豊麗に響かせたのが好ましい。管・打楽器もその均衡の中にあり、ホールを豊かに鳴り響かせるという、スケールの大きな演奏となった。

 三澤洋史の指揮は、坦々としたイン・テンポに徹した感があって、その点ではやや単調に聞こえるところが無くもなかったが、もともと非常に「言葉」の多いこの作品の場合、このようにストレートに、滔々と進む演奏に仕上げた方が聴きやすいかもしれない。「二―ベルハイムへの下降」の場面の音楽など、量感とエネルギー充分なものがあったし、幕切れの「ヴァルハル入城」も、総力を挙げての豪壮な大頂点となっていた。

 それにしても、このアマオケは、なかなか優秀である。
 2005年に「愛知万博祝祭管弦楽団」として発足しマーラーの「5番」を演奏、その後レパートリーによって「マーラープロジェクト名古屋管弦楽団」「ワーグナープロジェクト名古屋管弦楽団」などの名称を使い、2014年に「愛知祝祭管弦楽団」と改称した由。ただし昨年ウィーンのムジークフェラインで演奏会(マーラーの「復活」)をやった際には、「マーラー・フェスティバル・オーケストラ・ジャパン」という名称にしたそうである。
 このうち、「ワーグナープロジェクト」と名乗った2013年に演奏会形式で上演したのが「パルジファル」(私は聴けなかった)で、それがきっかけで「指環」4部作上演の企画が持ち上がり、かくて今回の第1作「ラインの黄金」上演が実現した━━という。
 素晴らしい意欲だ。

 この企画の中心人物は、佐藤悦雄さん。愛知祝祭管弦楽団の団長であり、スタジオ・フォンテーヌ主宰者であり、日本ワーグナー協会員でもある。長身で堂々たる体躯、にこやかで温かい表情、いい低音の声を持っているので、歌い手さん系かと思っていたら、楽器はテューバで、生業は、愛知県警の警部補殿とのこと。何となく感動。そういえば、眼は鋭かった。

 今回の歌手陣は次の通り━━青山貴(ヴォータン)、相可佐代子(フリッカ)、金原聡子(フライア)、滝沢博(ドンナ―)、大久保亮(フロー)、三輪陽子(エルダ)、升島唯博(ローゲ)、長谷川顯(ファーゾルト)、松下雅人(ファーフナー)、大森いちえい(アルベリヒ)、神田豊壽(ミーメ)、大須賀園枝(ヴォークリンデ)、船越亜弥(ヴェルグンデ)、加藤愛(フロスヒルデ)。

 この中では、何といっても青山貴が傑出していた。彼のヴォータンは以前にもびわ湖ホールの「ヴァルキューレ」を堪能させてもらったことがあるが、今回も歌唱の風格と声量は群を抜いた存在だった。
 2人の巨人(長谷川、松下)も貫録を示した。ローゲの升島も、少し線は細かったけれども、演技も含めて、策士たる半神の性格をよく表現していた。
 ただ、女声歌手の中には、現代では流行らないような恐ろしく大きなヴィブラートを使い、物々しく歌う人がいて、その役柄だけが演奏全体の均衡を破る結果になっていたのは惜しまれる。

 演出構成は佐藤美晴。セミ・ステージ形式なので、特に奇抜な手法は使われなかったが、照明(杉浦清数)も含めて基本的に明るく華麗な、「光の子」ヴォータンに相応しい場が創られていた。もちろん、地下の国の場面は光も翳っている。
 オーケストラの後方には、一段高くした舞台が設置され、ソファと譜面台が置かれる。この譜面台は━━私は最近眼鏡が合わないのでよく判らなかったのだが━━古代エッダの宇宙樹をイメージしたデザインだったのか? 
 当然オルガン下の席もステージとして使われ、巨人たちはそこに出没。その両側にはかなり大人数の黒服のグループが終始座っており、彼らはニーベルング族として、ドラマの中で計2回、大きな悲鳴を上げる役割を持つ。

 ラストシーンにおいて巨大なオルガンがヴァルハル城のイメージになることは予想通りだが、ここはもう少しあからさまに照明演出を加えた方が良かったのでは? 美晴さんの言う「宇宙樹ユグドラシル」なり、あるいは「ヴァルハル城」なり「とねりこ」なりのイメージを背景の巨大なオルガンに投影するとか、何かひとつ、ドラマの「核」になるような視覚効果が舞台上に━━オーケストラの他に、である━━欲しかった気もするのだが。
 また、「ヴァルハル入城」の音楽が轟々と鳴り響いているさなかに、ローゲが譜面台を片づけるという動きは、ドラマの意味としては充分理解はできるものの、視覚的にはこの壮大な終結音楽が生み出す興奮を薄めさせるものではなかったろうか。

 ともあれ、アマオケが挑んだ巨作「指環」の第1弾は、華麗な光の中で、大成功を収めた。その意欲と健闘を絶賛したい。来年6月11日には「ヴァルキューレ」を予定しているとのこと。
 「4部作」を始めた以上、4年間これで突進するしかない、というわけで、他の団員さんも「どうなることかと思いますが、こうなった以上は、最後までやるしかありません」と笑っていた。
 大丈夫、やれるでしょう。開演ファンファーレとして今日は「呪いの動機」が吹かれたが(このあたりがいかにもアマオケらしい愉快なシャレである)これが狙い通りのシャレのままでありますように。

 6時40分頃終演。7時49分の「のぞみ」で帰京。往路の新幹線の中で寝冷え(?)したのか、名古屋に着いてからは著しく体調が悪かったが、演奏を聴いているうちに全快してしまった。
     別稿 モーストリー・クラシック12月号

2016・9・10(土)高関健指揮東京シティ・フィル 「ファウストの劫罰」

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が第300回定期公演を迎えた。今日は常任指揮者・高関健の指揮で、ベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」。
 ステージには、西村悟(ファウスト)、福島明也(メフィストフェレス)、林美智子(マルグリート)、北川辰彦(ブランデル)、吉成文乃(天の声)、東京シティ・フィル・コーアと江東少年少女合唱団が並ぶ。コンサートマスターは戸澤哲夫。

「ファウストの劫罰」をナマで聴ける機会は滅多にない。私が聴いたものを振り返ってみても、今世紀になってからは、東京二期会の舞台上演の時のみだ。前世紀(!)には、サイトウ・キネン・フェスティバルでの小澤征爾指揮、ザルツブルク音楽祭でのカンブルラン指揮の、それぞれ舞台上演。その前は━━東京でのレヴァインとMETオーケストラの、遡れば小澤征爾指揮や若杉弘指揮のいずれも演奏会形式上演、という程度だろうか。

 そのレアな「ファウストの劫罰」が、この9月に限っては、東京シティ・フィルのほかに、スダーン指揮東京響(24、25日)でも競演されるという珍しい事態になっている。ここでもまた偶然の「カチ合い」である。不思議なものだ。しかしこの曲は、ベルリオーズの最高傑作だと私は思うし(プレトークで高関さんも同じことを言っていた)昔から好きで好きでたまらない曲だから、何度でも聴きたいほどである。

 さて、その高関健が、精魂こめて取り組んだ「ファウストの劫罰」。彼らしい整然たる構築と、節度と均衡を保ったテンポ及びデュナミークで、極めて密度の高い演奏をつくり出した。シティ・フィルも、文字通り熱演した。冒頭のヴィオラだけはいかにも自信なげで頼りなかったけれど、その個所を除けば、現在のこのオーケストラの100%の力が発揮された演奏ではないかと思う。

 日本勢だけで固めた歌手陣も好演である。ファウストの西村悟は伸びの良い、明るい声で全曲を押し切った。この作品でのファウスト博士は年齢不詳だから、こういう若々しい声でオーケストラの流れの中に身を委ねる解釈も成立するだろう。
 一方、林美智子は、この作品でのマルグリートに相応しく、憂いと悩みとに打ち沈んだ女性の性格を見事に表現していたように感じられる。「トゥーレの王」の最後、言葉が切れ切れになって沈んで行く個所では、あまり「眠り込んでしまう」ように聞こえなかったのだが、これは解釈の違いかもしれない。
 メフィストの福島明也は、後半では凄味を利かせたものの、もう少しこの役柄に相応しい皮肉な闊達さといったものが前面に出せたら、と思う。

 彼らソリストたちに劣らぬ重要な音楽的な演技を必要とされる合唱(東京シティ・フィル・コーア)も力演していた。ただ、第2部の終結個所で2種の主題が組み合わされる部分や、終結近くの悪魔の合唱の部分では、男声パートにもう少し人数が欲しいと感じられたが・・・・。完璧な水準にはかなりの距離があるけれども、曲の良さを失わせぬ出来であったことは確かだろう。

 そして「アーメン・コーラス」では、いかにも酔っぱらった学生たちの野蛮な歌声という性格がよく出ていて、これは上々の出来。ベルリオーズが「なるべく下手糞に、よれよれの声で歌え」と指示したと伝えられるこの個所は、そのいきさつを知らぬ聴き手から「下手な合唱団」と思い込まれるのが嫌ゆえに、崩して歌われることがなかなか無いものだが、今回は敢えてそれに挑んだ勇気を讃えたい(オヤマダアツシさんの解説が、さり気なくそれに触れていた配慮にも感心した)。
 ちなみに、レコードで「思い切り下手に」歌わせているのは、マルケヴィッチ指揮の盤くらいなものだろう。

 東京シティ・フィルの300回記念定期は、このように、熱演を以って成功した。客席もほぼ満杯で、祝着の極みである。今後もこの勢いで続くことを祈りたい。
 なお今回は、抽選(チケットの席番号)で「300回記念のどら焼き」が提供されていた。もちろん、われわれ業者連中が当選するような仕組にはなっていない。

2016・9・9(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 新日本フィルと、この9月から正式に音楽監督となった上岡敏之の定期が、彼の得意とするR・シュトラウスの作品2曲でその幕を開けた。

 演奏されたのは「ツァラトゥストラはかく語りき」と「英雄の生涯」という大曲だが、こういうレパートリーは、上岡独特のサウンドを発揮させるには最適のものだろう。
 事実、その兆しは、曲ごとに、あるいは曲の中で演奏が進むごとに、明確に現われて行った。いわゆる「上岡ぶし」がこの新日本フィルとの演奏において全開するのはもう少し先のことだろうが、今夜の演奏には、明らかにその方向性は示されていただろう。

 「ツァラトゥストラはかく語りき」の劇的な冒頭部分は、思いのほかレガートに、殊更な大芝居的誇張をすることなく開始された。流麗ながら濃厚な、ひとひねりした色合いを備えた響きが、いかにも上岡らしい。全体にゆっくり、たっぷりしたテンポだった点も同様である。
 「科学について」のチェロとコントラバスのピアニッシモが、やっと聞こえるかどうかという最弱音でつくられたのもいつもの彼の流儀だ。ただ、演奏全体という点では、彼としてはむしろストレートな表現の部類に属するものだろう。

 「英雄の生涯」になると、流動性のあるテンポや、長い「間」の採り方、独特のバランスを備えた色彩など、上岡らしい個性が、もう少し強く出て来る。
 ここでも冒頭の「英雄の主題」は、あまり物々しくない流麗さで開始された。一見、穏やかで優しく、ただし一癖ある複雑な性格の「英雄」といったイメージだが、それが徐々に盛り上がり、一つの頂点を築いて行くあたりの呼吸は、すこぶる巧い。

 全曲最大の頂点はもちろん「戦い」とその「勝利」で築かれたが、その爆発点での音色が混濁せず、しかもテンポやデュナミークの昂揚が自然な流れのうちにつくられて行ったのも好ましい。作為的な大芝居は聞かれないにもかかわらず、全体に「濃い」演奏として印象に残ったのは、やはり上岡の巧みなオーケストラ制御と、新日本フィル(コンサートマスターは崔文洙)の柔軟性によるものだろう。

 各パートの奏者を讃えるカーテンコールが長く続いたあと、これで終りと思った途端、何とアンコールが始まり、「サロメ」からの「7つのヴェールの踊り」が演奏された。これが実に見事な演奏だった。いたずらにダイナミズムを誇張して怒号することなく、むしろ怪奇な雰囲気を持った暗い音色で、官能性を濃厚に浮き彫りにする━━。
 上岡独特の個性を自然に出したこの曲での演奏こそ、彼と新日本フィルの今後の方向性を暗示または象徴しているかもしれない。
      音楽の友11月号 Concert Reviews

2016・9・8(木)東京二期会「トリスタンとイゾルデ」GP

     東京文化会館大ホール  2時

 今回もダブルキャストだが、私が観られる本番は17日。したがって10日&18日の組は都合で観られないので、せめてGPだけでもと出かけて行く。

 ブライアン・レジスター(トリスタン)、横山恵子(イゾルデ)、大沼徹(クルヴェナール)、加納悦子(ブランゲーネ)、清水那由太(マルケ王)らが歌う組だ。
 といってもGPだから、ある程度セーブして歌う人もいるし、アンダーに舞台横で歌わせる歌手もいる。

 今回のプロダクションは、ライプツィヒ歌劇場から持って来たウィリー・デッカ―演出のもの。モティーフは、トリスタンとイゾルデが彷徨う、無味乾燥な海、孤独でか細い無力な小舟、出口のない世界━━といったものだろうか。
 動きはあまりない演出だが、第2幕の幕切れでのショッキングな光景は、確かに第3幕での錯乱したトリスタンの最後の一言「光が聞こえるのかな? ああ、その光も消える!」への伏線になる新解釈として理解できるのではないかと思われる。

 ヘスス・ロペス=コボスが指揮する読響が、重量感のある、いい演奏をしていた。第2幕まで観て失礼する。あとは本番を楽しみに。

2016・9・7(水)ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル

  サントリーホール  7時

 プログラム冊子には曲目変更を知らせる紙が挟んであったが、開演前の場内アナウンスで更なる変更が告げられ、しかもいざ本番になったら、予告なしに更に別の曲が追加される、という不思議なリサイタルになった。
 それでも文句は出ないようで。━━若い女性ピアニストなのに、何だかホロヴィッツかリヒテルか、といった神がかり的な雰囲気になって来た。まあ私としては、「ハンマークラヴィーア・ソナタ」さえ弾いてもらえればいいや、という心境だったのだったけれど。

 変更された最初のプログラム、シューマンの「クライスレリアーナ」は、無造作と思えるほど開放的な表情の、きらきらとした音で演奏が開始された。これは、古来語られて来たロマン派の詩人シューマンといったイメージ━━曖昧な表現には違いないが、そのニュアンスはだれにでも解るものだろう━━からは遠く離れて、驚くほど身近でリアルなイメージを感じさせる。
 一つ一つの音が真珠か宝石のごとく煌き、何の屈託もない若々しい躍動に充ちてはいるが、遅いテンポの個所での沈潜ぶりも目立つ。
 シューマンの音楽からこのような、全く異なった世界を見つけ出してみせる彼女の感性は、驚くべきものだ。欧州の伝統に囚われずに済む東洋人ピアニストならではの強みかもしれない。

 第1部の演奏曲目はこれしかアナウンスされなかったので、当初の発表プロ(スクリャービン、ショパン、グラナドス)より随分少ないなと訝っていたら、彼女は今度はタブレットの楽譜を持って出て来て、カプースチンの「変奏曲作品41」を弾き始めた。これはまさしく身も心も躍動するといった演奏で、ホール内はいっぺんに活気づく。

 だが私が今夜本当に心を打たれたのは、そのあとに演奏されたショパンの「バラード第1番」である。
 打って変わって翳りの濃い音色と、沈潜した表情で弾き始められたこのバラードは、鋭く引き締まっているが柔軟で、一つのフレーズから次のフレーズに移行する僅かの瞬間にさえ、「来たるべきもの」への強い期待を抱かせてしまうといった、強い集中力にあふれた演奏だったのである。こんなに若いピアニストなのに、こんなにも凄い音楽をつくり出すとは、何という人なのだろう?

 ただし、第2部での「ハンマークラヴィーア・ソナタ」は、こちらの期待が大きすぎたか、という感。明るく、すべての音符が透けて見えるような、開放感にあふれた音楽になっていて、それはそれで興味深かったが━━ベートーヴェンの音楽から隙のない構築性や巨人的な風格と緊迫性、強靭な意志力などの特性が完全に拭い去られてしまった時、そこに残るものは・・・・などと考えさせられたのである。

 あとはアンコール。シューベルト~リストの「糸を紡ぐグレートヒェン」が素晴らしく陰影に富んでいた。そのあとには、プロコフィエフの第7ソナタの「プレチピタート」、ホロヴィッツ編の「カルメン変奏曲」、ヴォロドス&サイ編の「トルコ行進曲」(モーツァルトの方)、カプースチンの「トッカティーナ」と、延々と続いたが、威勢のいい曲と演奏では途端にスタンディング・オヴェーションになる客席の沸騰振りに少々疲れ、最前のシューベルトやショパンの残像を失いたくなかったので、そこで失礼することにした。あとで聞けば、そのあとにラフマニノフやグルックの静かな曲を2曲演奏してくれていたそうだが・・・・。

2016・9・6(火)山田和樹指揮東京混声合唱団  「日本の歌」

      神奈川県立音楽堂  2時

 「音楽堂アフタヌーン・コンサート」の一環。東京混声合唱団と、その音楽監督・山田和樹が、「里の秋」「春の小川」「夏は来ぬ」「みかんの花咲く丘」「リンゴの歌」「おもちゃのチャチャチャ」といったおなじみの歌曲から、上田真樹の「夢の意味」、柴田南雄の「萬歳流し」などシリアスな作品までを取り上げた。

 「軽い名曲」も悪くはなかったが、私がやはり最も興味を覚えたのは、柴田南雄の「萬歳流し」だった。
 これは、「秋田県横手萬歳によるシアターピース」という副題をもつ、1975年の作品である。

 門付(かどづけ)と呼ばれる、大道芸人が家々の門を回って芸を行ない、お布施を貰うという古来の芸があるそうだが、それに基づきこの曲の「御門開き」の部分では、合唱団員がそれぞれ「太夫」と「才蔵」のコンビを組み、「鶴は千年、亀は万劫、君は栄えておわします、御殿造りの結構は・・・・」と威勢よく唱えながら客席を回り続ける。
 お客からお布施(御祝儀)が出れば有難く頂戴してよろしいという決まりもあるらしく、前の方で何か渡していたおばちゃんもいたようだ。

 曲では、11月7日に山田和樹が日本フィルと演奏する柴田南雄の「ゆく河の流れは絶えずして」と同様、客席のあちこちから聞こえる声が対比し調和し、不思議な音場をつくり出すのが面白く、さらにそれらが、ステージ上に位置した女声合唱の保持する一つの髙音と木魂し合い、神秘的なハーモニーでホール全体を満たすという音響効果が、何とも素晴らしいものだったのである。
 山田は今年、柴田南雄(生誕100年、没後20年)の作品を集中的に取り上げているが、この作曲家の美点を再認識させるよい企画と言えよう。

 なお今日は、ピアノに、いわゆる合唱団付のピアニストではなく、ソリストの小林有沙が招かれ協演していた。合唱に影の如く寄り添うといったピアノでなく、むしろコンチェルトのような意味合いを感じさせる演奏だったのが興味深い。「夢の意味」の第3曲「歩いて」での不気味な音色の一撃など、ソリストでなければ出せないような強烈さにあふれていた。

 山田和樹はこの演奏会でも、指揮だけでなくプレトークから演奏会のMCまで、八面六臂の大活躍。聴衆を巻き込むその話の巧いこと。

2016・9・4(日)名古屋の「ラインの黄金」リハーサルと講演会

 アマオケの愛知祝祭管弦楽団が、4年がかりでワーグナーの「ニーベルングの指環」に挑む。その第1弾「ラインの黄金」を、今月11日に愛知県芸術劇場で上演する。三澤洋史の指揮、青山貴(ヴォータン)他の出演、佐藤美晴の演出構成、という布陣だ。

 そのリハーサルが、東海道線の大府駅近く、大府市役所の多目的ホールで行われるというので、大阪からの帰りに立ち寄る。もう通し練習に入っている。今日は3時から4時半まで、第3場と第4場の全曲のリハーサルだった。

 そのあと、名古屋に戻り、6時半から、駅近くの「ウィンクあいち」の会議室における日本ワーグナー協会の名古屋地区例会、三澤氏による「ラインの黄金」講演を拝聴する。聴衆は協会員、出演者、会員以外の人々など百人以上、満席の盛況。

 3年前には「ヴァルキューレ」があちこちで競演され、「ヴァルキューレ戦争」の様相を呈していたが、今年から来年にかけては「ラインの黄金」が各所で演奏または上演されるという現象が生まれることになる。
 この愛知祝祭管弦楽団に続いては、サントリーホールでのティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデン(11月)、来年はびわ湖ホールの舞台上演(3月)、インキネンと日本フィル定期(5月)など━━。
 打ち合わせたわけでもないのに、かち合う時には妙にかち合うのが、この世界の不思議な傾向だ。

2016・9・3(土)いずみホールオペラ「ドン・ジョヴァンニ」

     いずみホール(大阪) 4時

 残響の長いこの演奏会用ホールが、河原忠之の指揮するザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団を豊麗に響かせる。モーツァルトの雄弁かつ多彩なオーケストレーションが、まるで声楽付きのシンフォニーにように鳴り渡る。

 一切の小細工を配し、滔々と音楽を進めるのが彼の指揮の特徴で、それは骨太な迫力を持ってはいるが、登場人物の心理的な動きを描き出すためには、もう少し演奏に細かいニュアンスの変化があってもいいのではないか。第1幕前半など、一本調子で単調になるきらいがあった。

 ただし、この大河のような音楽づくりが、第1幕の終結や、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの場面、あるいはいくつかのアリアの個所などで、スケールの大きな力感に転じるのだから、その点では面白い。ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の好演も、モーツァルトの音楽の素晴らしさをわれわれに伝えてくれる。

 歌手陣も良かった。ドン・ジョヴァンニの黒田博は貫録十二分の舞台姿と歌唱力だし、レポレッロの西尾岳史は張りのある声でエネルギッシュな従者ぶり。
 ドン・オッターヴィオの清水徹太郎は体調不良だったということをあとで聞いたが、そんなことを感じさせぬ安定した舞台を示してくれていた。ただ、第2幕でのアリアが、アンダンテ・グラツィオーソにしては速いテンポだった上にブレスも多かったので、どういう解釈なのかなと訝っていたのは事実なのだが・・・・。

 また澤畑恵美は、見事な大人の女性ドンナ・エルヴィラといった雰囲気で、この役が唯一純粋な、ひたすらジョヴァンニに愛を捧げることに徹してブレることのない性格であることを再認識させてくれる見事な演技と歌唱の表現だった。
 一方、石橋栄美のドンナ・アンナは、美しい声(第2幕では声がフラット気味になったが)ではあったものの、もう少しこの役柄に相応しい複雑な心理表現が欲しいところ。老田裕子のツェルリーナは、第1幕での方が闊達で洒落ていた。
 ジョン・ハオの騎士長、東平聞のマゼットも好演。合唱にはザ・カレッジ・オペラハウス合唱団が登場していた。

 演出は粟国淳。コンサートホールのステージを巧く活用して、過不足なく物語を描き出した。たとえオペラハウスでの本格的上演であっても、妙に見え透いた小細工を弄する演出(誰とは言いませんが、今年のザルツブルクのプロダクションのごとき)を見せられる今日この頃、このようなセミ・ステージ的スタイルで音楽の良さに没頭できる上演の方が、よほど好ましい。
 ただし、「地獄落ち」では舞台手前から黒子たちが引き出す深紅の巨大な布がステージを覆い、ジョヴァンニを包み込んで舞台下手に退くという手法が採られたが━━セリがないホールだから仕方がないにしても━━もう少し何か、洒落たテはなかったものでしょうか。

 まとまりのいいこのホールのオペラのシリーズ。さて、来年は何だろう?
       ⇒モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

2016・9・2(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 柴田南雄の「コンソート・オブ・オーケストラ」、R・シュトラウスの{4つの最後の歌}(ソロは清水華澄)、エルガーの「交響曲第1番」というプログラム。かなり個性的な選曲である。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 柴田南雄の「コンソート・オブ・オーケストラ」は、昔━━それが公開初演の渡邊暁雄と都響の演奏会(1973年)の時だったかどうかはよく覚えていないのだが━━聴いたことがあった。
 当時の私の感覚では、クラスターの手法など明確に認識できなかったし、何か冷い感じの巨大な音塊が押し寄せて来るような印象だけが残って、あまり面白くなかったという記憶がある。もちろん、当時の私の耳が幼かったのは確かだが━━といって、今だって怪しいものだが━━しかし他にも、会場のアコースティックや、オーケストラの技量なども影響していたのではないか、という気がしないでもない。

 いま、山田和樹と日本フィルの演奏で改めて聴いてみると、こんなにも豊かな響きの曲だったのかと、ただ驚くばかりだ。あたかもオーケストラのためのコンチェルト・グロッソともいうべく、各楽器群の呼びかけと応答とが実に精妙につくられている。
 ある個所では、弦楽器群の動きが木管群に移り、次いで金管群が主役を演じたかと思うと、それが打楽器群に引き継がれて行く━━という具合に、いわばステージの手前から奥へ音が移動して行く面白さもはっきりわかる。また、上手側に並ぶ低音楽器群から下手側へ音が流れ移って行くといったような、管弦楽法の細やかさが散りばめられていることも理解できるというものである。
 当時の日本の作曲家がこれだけのことをやっていたのだということ、それを、良い演奏によって再認識できたのがうれしい。

 山田和樹と日本フィルは、11月7日にも柴田南雄の作品を集めた演奏会をやることになっている。そこではあの「ゆく河の流れは絶えずして」も演奏される。合唱団が客席に散開し、聴衆一人一人の顔を見つめながら行う「口説」が、今どのように感じられるか楽しみである。

 「4つの最後の歌」では、日本フィルはいつもより随分「優しい」演奏をしていたが、もう少し柔らかい音が出れば、もっとこの曲の耽美的な良さが出たのではないか。もっとも、過度な耽美性に陥るのを指揮者自ら避けていたのならまた別だが━━。
 ただ、第4曲「夕映えの中で」で、山田がこの曲に耽美性の頂点を置こうとしていた意図が感じられ、方向性は読み取れたので、明日(2日目)の演奏は、全体にいっそう美しくなるだろうという気がする。
 ソリストの清水華澄も、この曲への初挑戦だった由。彼女らしい豊麗な声でロマン的な味をたっぷり出したが、オケとの呼吸は今一つか。あまり「歌い」過ぎない方が、この曲の彼岸的な世界を描き出せると思うのだが。

 エルガーでは、出だしはかなり野性的だったが、第2楽章以降の詩的な美しさを聴くと、これも明日の演奏ではもっと・・・・という気が。
 日本フィルの定期での演奏は、初日は(良く言えば)ダイナミックで、2日目になるとしっとりするのは周知の通り。
        ⇒モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

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