2017-06

2016・7・29(金)上岡敏之指揮九州交響楽団

     アクロス福岡シンフォニーホール  7時

 上岡敏之が九響に客演するのは,、今回が初めてとのこと。
 この日のプログラムは、バッハ~ウェーベルンの「6声のリチェルカーレ」(「音楽の捧げもの」より)、モーツァルトの「協奏交響曲変ホ長調 旧K.297b」、ブラームスの「交響曲第1番」、アンコールに同「ハンガリー舞曲第1番」。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 九響は、上岡独特の陰翳の濃い音色と響きとを完璧に具現し、その流動的なテンポにも完全に応えていた。
 初手合わせでありながら、上岡がかくも九響を完全に彼流の手法で制御していたことは、彼の卓越した手腕を証明するものだろう。一方、九響が━━上岡の「どこが1(拍目)だか2だか判らない、猛烈に回し続ける」指揮の中で━━彼の音楽の個性的なイメージを見事に把握し、昂揚感のある演奏を創ったことは、楽団の演奏水準の高さを物語るものだろう。
 弦楽器群には、上岡が要求する羽毛のような、しかも厚みのある、良き時代のドイツのオケによくあるような音色が反映されていた。

 冒頭の「リチェルカーレ」は、おそろしく陰々滅々たる演奏に感じられたが、これは私が朝、東京で中村紘子さんの訃報に接し、かなり気が滅入っていたせいもあったかもしれない。
 「協奏交響曲」でも、オケは柔らかく控えめで、ソリストたち━━佐藤太一(ob)、タラス・デムチシン(cl)、岡本秀樹(hn)、埜口浩之(fg)、みんな良かった━━の闊達でリズミカルな演奏を、背後で流れるように支える、といった感。

 ブラームスの「第1交響曲」は、いわゆる孤高の英雄的な風格とか、重厚壮大とかいったイメージの演奏ではなく、しっとりした翳りをもった、凝縮したモノローグ風の世界━━とでもいうか。これまた、いかにも上岡らしい。
 第4楽章のあの有名な幅広い第1主題にしても、そこにつきものの「解放感」がほとんどない。やっとたどり着いた安息の世界、という感を全く与えない演奏なのである。
 そもそも上岡の音楽の本質は、そういう優しさのようなものを拒否し、常に緊張を絶やさぬ音の中に身を置く、というタイプのものなのかもしれない。
 コーダでは、最後のコラールの歓呼の個所だけを極度に遅いテンポで響かせただけで、あとはテンポを速めて激しく終結したが、そこにも開放的な歓呼といった雰囲気はほとんどなく、どこかに翳のようなものが漂い続ける演奏なのであった。

 なお、全体の構築は、いかにも上岡らしく、細部にまで綿密に配慮されたつくりである。第1楽章主部はかなり速いアレグロだが、第150小節前後と第420小節前後のような個所だけは極度にテンポを落して神秘的な、怪奇な雰囲気を形づくる、といった具合だ。
 少し神経質ではあるが、非常に面白い「ブラ1」の演奏だった。

2016・7・26(火)佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ
ブリテン:「夏の夜の夢」

     兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール  2時

 2005年に「ヘンゼルとグレーテル」で幕開けして以来、名作レパートリーで満席状態を続けて来たこの所謂「佐渡オペラ」が、今回初めてブリテンの作品上演に踏み切った。それも、有名な「ピーター・グライムズ」でなく、「夏の夜の夢」━━。

 しかし、ちょっと渋いオペラなのに、今日も補助席まで並ぶほどの超満員である。6回公演(毎回午後2時開演)全部がこの調子なのだそうだ。客は、圧倒的に女性客が多い。リピーターが80%以上の由。

 演出および装置と衣装のデザインは、英国の老練アントニー・マクドナルドが担当した。穏健なスタイルで、メルヘン的な、少しミュージカルのような寛いだ雰囲気も取り入れた舞台だが、比較的まとまりは良く、安心して観ていられるといったタイプのプロダクションである。
 ただ、宿命的ともいえるバランス上の問題がないわけではなく━━。

 今回の舞台では、「人間グループ」は来日歌手組が受け持ち、英語で歌う。
 一方、「妖精グループ」は日本人出演者が受け持ち、日本語で歌う。
 人間は「現実世界」なので英語、妖精は「違う世界」なので日本語になる、ということなのだそうな。
 日本で上演するならむしろ逆のイメージじゃないかと思うけれども、演出が英国人なので、そうなったのだそうである。ただし、妖精の王妃ティターニアが人間世界に降り、ロバに変身させられた男ボトムに恋する場面では、彼女も英語歌唱になるという具合である。

 それはまあ、どちらでも構わないけれども、しかし、もともと英国のオペラゆえに、来日歌手陣が原語で歌う部分と、邦人歌手が日本語訳歌詞で歌う部分とが、同一舞台に並列された場合、どうしてもギャップが感じられてしまうのは、致し方あるまい。
 来日歌手たちは、何気ない動作さえ、そのままサマになって、洒落た感じを出しているのに対し、日本人グループの方は、日本語歌詞を曲に当てはめて歌っている関係もあり、どうしてもつくりものめいた歌唱と芝居に・・・・という雰囲気が露呈してしまうのである。
 これはもう、どうしようもないのかもしれぬ(これが日本のオペラだったら、その立場は文句なく逆転するはずなのだが・・・・)。

 その来日組━━クレア・プレスランド(ハーミア)とピーター・カーク(ライサンダー)およびイーファ・ミスケリー(ヘレナ)とチャールズ・ライス(ディミ―トリアス)の恋人2組は、まさに闊達で、躍動感たっぷりの歌唱と演技だったし、また、アラン・ユーイング(ボトム)ら6人の職人たちの自然な発声と芝居も、良い雰囲気を生みだしていた。
 なおプレスランドは過日舞台で足を怪我したとかで、傘(ビニール傘?!)を杖代わりにして歩いたり、車椅子に乗ったりして舞台をこなしていた。その敢闘ぶりを讃えたい。

 一方、妖精グループを受け持った日本人歌手陣の方は━━藤木大地(妖精の王オーベロン)は、もう少し王様らしい威厳と存在感と神秘性が欲しいところ。
 森谷真理(王妃ティターニア)は、英語で歌う個所の方が音楽に乗れていたという印象で、第2幕では魅力を発揮していた。
 塩谷南(パック)は、飛んだり跳ねたりの大活躍ながら、セリフ回しはいかにも学生芝居っぽく、これがラストシーンを少し弱いものにしてしまったのは残念だが、大熱演に免じて・・・・ということにしよう。その他、第3幕では森雅史(シーシアス)と清水華澄(ヒポリタ)も登場した。

 邦訳歌詞が音楽に乗りにくいことから来るハンデはあったものの、邦人組もよくやっていたことに疑いはない。
 とりわけ、小妖精たちを歌い演じた「ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団」は、歌も芝居もめっぽう上手い。その可愛らしさは、前述の国籍の問題云々を超えて、第2幕のハイライトとさえ感じられたほどである。今日の殊勲賞は、この児童合唱団に贈呈したい。

 佐渡の指揮する兵庫芸術文化センター管弦楽団(ゲスト・コンサートマスター ベルンハルト・バルトーク)は、作品の性格もあって控えめな演奏だったが、美しく拡がりのある、重心の豊かな音で、この幻想的な物語を紡いで行った。

 それにしても、冒頭の話に戻るが、「阪神間」(大阪と神戸の間)には、どうしてこんなに女性のオペラ・ファンが多いのか、驚くべきことである。アンケート結果によると、「佐渡オペラ」だから観に来る、毎年観に来るのが習慣になっている━━などの回答が多いとのこと。

 だがその他、「上演されるオペラのストーリーがいいから」という要素もあるのだそうだ。つまり一般の女性ファンには、温かい内容の物語が好まれる、というのである。たしかに、殺伐たるストーリーは嫌がられるというのは、私も知っていた。
 ちなみに、これまで取り上げたオペラのうち、「トスカ」や「カルメン」には、殺人場面もある。だがそれらは名作の強みゆえ、ということなのだろう。ブリテンの作品を取り上げたがっていた佐渡芸術監督が、まず「夏の夜の夢」を先に選んだのは、物語がハッピーエンドで美しいから、という理由もあったという話も聞いた。

 終演は5時半近く。ホールからどっとはき出された群衆で、隣接する阪急電鉄の西宮北口駅の改札口は大混雑。運よく、すぐ来た特急に乗れたので、そのまま大阪へ戻り、新大阪6時半の「のぞみ」で帰京。

2016・7・25(月)フェスタサマーミューザKAWASAKI
上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 秋の音楽監督就任を前に、上岡敏之が、「スペイン・ラプソディー」と題したプログラムを指揮した。
 これまでの彼の日本での活動からすると、彼でもこういう軽い曲を振ることがあるのか、とつい思ってしまうが、指揮者たるもの、当然ながら何でも手がけるわけだから、不思議はないわけで。

 前半には、シャブリエの狂詩曲「スペイン」、ビゼーの「アルルの女」第1組曲、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」が演奏されたが、これはまあ、「並み」の演奏。

 しかし休憩後のラヴェルの「スペイン狂詩曲」では、いかにも上岡らしい、念入りに神経を行き届かせた演奏が出現した。
 冒頭では、やっと聞こえるかどうかというぎりぎりの最弱音の弦が、息づまるほどの緊張感を生み出す。これで、この曲全体にも精妙な音の絡み合いがつくり出され、オーケストラも引き締まって行く。やはりこの人は、解放的な演奏よりも、こういうぎりぎり細部まで追い込んで緊張を高めて行くシリアスな音楽づくりの方に、強みを発揮するようである。今日の演奏の中では、この「スペイン狂詩曲」がいちばん充実していた。

 最後のラヴェルの「ボレロ」も、前半は最弱音を駆使したリズムで進められたため、全体に神経質で渋めのボレロになったが、管の一部にこの最弱音を保ち切れぬ傾向があったのが惜しい。
 アンコールは「アルルの女」からの「ファランドール」。賑やかではあったが、どこかピリピリして解放感のない音楽になっていたのがこの指揮者らしくて面白い。
 新日本フィルの今日のコンサートマスターは崔文洙。

2016・7・23(土)クリスティアン・アルミンク指揮群馬交響楽団

      群馬音楽センター  6時45分

 東京芸術劇場での演奏会終演後、池袋から上野へ出て、上越新幹線で高崎へ向かう。

 久しぶり、アルミンク。今日は群響定期に客演して、ブルックナーの「交響曲第8番」を振る。これ1曲だが、今回もこれで充分。「ハース版」を久しぶりに聴く。こちらの方が「ノーヴァク版」よりずっといい。

 群響も、ホールのアコースティックによる不利を克服して、好演した。本調子が出て来たと感じられたのは、しかし第1楽章も終りに近くなってからである。弦(コンサートマスターは伊藤文乃)は第3楽章の主題で透明な音色となり、特に第4楽章ではハッとするほどクリスタルな美しさとなった。
 金管は、トラを含めたホルン・セクション(ワーグナーテューバとアシスタントを含め総計9人)が、非常に強力なところを示した。応援隊の力を借りたとはいえ、先日のショスタコーヴィチの「10番」での問題を払拭したのは結構なことである。

 だがその一方、トランペット3本にはもっと強靭な力が欲しい。第2楽章の第49~52小節(ここはフォルテ3つ、しかもアクセントが付けられている個所だ)や、第4楽章第11~14小節と第25~28小節、および同楽章コーダの【Xx】以降などは、トランペットは全管弦楽をリードする重要な役割を果たす個所なのである。それゆえ、もっと高らかに抜きん出て響かなくてはならないはずなのだ。

 アルミンクは、特に第3楽章でかなり遅いテンポを採った。また彼のアプローチは、エネルギーで押すよりは、沈潜する指向のブルックナーと見受けた。
 壮大に咆哮するブルックナーではないが、もともとこのホールのアコースティックでは、それは望むべくもなかろう。アルミンクも意図的に抑制していたのかもしれない。もしよく響くホールでこの演奏を聴いたら、さぞ瑞々しく透明な響きの、しっとりしたブルックナーになっただろうと惜しまれる。
 つまりアルミンクの本来の狙いが━━テンポの設定や、第3楽章での沈潜した叙情美の演奏を聴く限り━━若い頃のカラヤンのそれにも似た、祈りを捧げるような、神秘的で清澄なブルックナー像をつくり上げることにあったのでは、と思われるからだ。

 プログラムは1曲なので、8時15分を回った頃には終演となった。いつものように終演後のホワイエでは、楽員が聴衆の質問に答える集いが行なわれる。帰らずに集まった聴衆は100人以上。わが国のオーケストラの中でも、群響ほど熱心で温かい定期会員を擁している楽団は、他に例を見ないという気がする。
 すでに高崎駅の近くに新ホールの建設が始まっているという話を聞いた。音響の完璧な会場でお客さんが群響の演奏を愉しめる日が1日も早く訪れることを願ってやまない。

 21時07分高崎発の「MAXたにがわ414」で帰京。この「たにがわ」は、停車駅が多く、東京駅まで61分もかかり、しかも高崎駅では14分もあとから来る「はくたか576」に、東京駅ではわずか4分後に迫られる、という列車なのだが、「はくたか」より空いているし、パソコンを開いて仕事をするにはこの方が都合がいい。それに、高崎駅での21時を挟む前後計30分の範囲における上り新幹線の選択肢は、この2便しかない。
 ついでながら、まだ21時前だというのに、改札口近辺の駅弁の店は全てシャッターを下ろしてしまっているとは、なんとも商売気のない所だ。
  別稿 音楽の友9月号 Concert Reviews

2016・7・23(土)アレクサンダー・リープライヒ指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 ドイツはリーゲンスブルク生れの指揮者。
 前回聴いた時には、その猛速テンポに感嘆し、飛ばし屋リープライヒと称号を奉ったのだが、今日の演奏会では、48歳とは思えぬような老成した身振りでゆっくりと登場、この足取りからは、あの韋駄天のテンポが生まれるとはとても思えない雰囲気。

 果せるかな、最初の曲、メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」は、予想外に遅いテンポで、しかも重厚な響きで演奏された。まあ、作品の性格からいって、当然だろう。
 リープライヒは、2曲目のショパンの「ピアノ協奏曲第2番」もどっしりした風格で構築、若いソリストの牛田智大を支えた。この牛田の音色が、実に透明で清澄、美しい。生き生きした表情の音楽も魅力である。未だ几帳面に過ぎる演奏のところも少なくないけれども、これからまっすぐに伸びて行ってもらいたいと願う。

 最後のベートーヴェンの「第5交響曲」に至って、やっとリープライヒは、飛ばし屋の本領(?)を発揮。
 第1楽章は一気呵成に押し、第2楽章も快調なテンポで進めて行ったが、その一方、第3楽章トリオで意表を衝いたアクセントを効かせ、リズムの揺れをつくり出したり、第4楽章では第1主題を最初の提示と反復とでニュアンスを変えたり、その他、頻繁に漸強と漸弱を施したりして、さまざまな趣向を凝らした。第4楽章コーダのプレストは、まさに飛ばし屋と呼ばれるにふさわしいテンポだろう。

 聴いていると、実に面白い。先年、紀尾井シンフォニエッタ東京に客演したベートーヴェンの「7番」でも、速いテンポで飛ばしながら細部ではかなり細かい趣向を凝らしていたものだが、今回の読響との「5番」では、オケの反応力の良さもあって、その手腕が明確に示された。
 ただ、細部へはいろいろ手を加えていても、あくまで楽曲全体の型は崩していないのは確かである。これが、彼の良さなのであろう。

 このリープライヒの疾風の指揮に、読響(コンサートマスターは日下紗矢子)は、特に弦がうまくついて行った。管は、失礼ながら多少ドタバタしていたが、しかしそれは「5番」前半だけのこと。明日の演奏では、おそらく曲の最初からまとまるだろう。
 それにしてもこのリープライヒ、なかなかユニークな指揮者である。現在、ポーランド放送響のシェフである由。

2016・7・22(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィル 「蝶々夫人」

      サントリーホール  7時

 定期公演におけるオペラの演奏会形式上演(字幕付)。
 ヴィットリア・イェオ(蝶々夫人)、ヴィンチェンツォ・コスタンツォ(ピンカートン)、甲斐栄次郎(領事シャープレス)、山下牧子(スズキ)、糸賀修平(ゴロー)、志村文彦(ボンゾ)、ヤマドリ(小林由樹)、細岡雅哉(神官)、谷原めぐみ(ケイト)、新国立劇場合唱団が協演。コンサートマスターは荒井英治。

 最近、オペラは演奏会形式上演で聴くのが一番いい━━という心境にだんだんなりつつあることもあって、今夜も大いに愉しめた。もちろん、舞台上演とて「良い」演出なら問題ないのだが、変な舞台に遭遇して気を散らされるより、演奏会形式の方が音楽そのものにじっくりと浸ることができ、音楽そのものの力に感動することができる。
 東京フィルにしても、新国立劇場のピットで演奏する時より、今夜のようにステージで演奏する時の方が、まるで別の団体のように充実した演奏を聴かせてくれるし・・・・。

 チョン・ミョンフン、先年の「トリスタンとイゾルデ」の時と同様、相変わらずテンポが速い。素っ気ないほどの勢いでたたみ込んで行く。そのため、劇的な推進力においては並々ならぬものがある一方、詩趣を失いがちになるという欠点が出る。モティーフの一つ一つにこめられた意味を考えたり、その美しさを愛でたりするという指揮でないことに、私などは少々反発を抑えきれないのだが、まあそれも作品によりけり、ということにしておきましょう。
 だが彼の指揮する管弦楽パートは━━舞台前方に位置した歌手たちの声をしばしばマスクするほどの音量だったとはいえ━━プッチーニの精微で色彩的なオーケストラの語り口をこの上なく雄弁に、かつ劇的に再現し、ドラマをリードする役割を果たしていて、好ましいものであった。

 歌手陣はある程度の演技も交えて歌い、特に蝶々さんは衣装を幕ごとに変えるという凝りよう。このイェオというソウル出身のソプラノは、多分これが初めて聴く機会だと思うが、大柄な体躯と力のある声、表現の細やかさなど、なかなか良いものを持っている。
 ピンカートンのコスタンツォも熱演していたが、これからという人だろう。日本勢の甲斐栄次郎と山下牧子が渋い味で好演していた。
 終演は9時35分頃。

2016・7・22(金)小山由美メゾ・ソプラノ・リサイタル

    Hakuju Hall  2時

 「ワンダフルONEアワー」と題されたこのシリーズ、第22回である。1時間のプログラムで昼夜2回公演。
 客席はぎっしりで、しかも女性客が圧倒的に多い。

 小山由美が歌ったプログラムは、チレアの「アドリアーナ・ルクヴルール」からの「苦い喜び、甘い責め苦」、ビゼーの「カルメン」からの「ハバネラ」と「セギディリア」、サン=サーンスの「サムソンとデリラ」から「春の訪れ」と「君がみ声にわが心開く」、リムスキー=コルサコフの「不死身のカシチェイ」から「夜が来た」。
 作品ごとに衣装を変えて登場するという、1時間のコンサートにしては、甚だ凝った趣向である。

 そしてピアノで協演した佐藤正浩がプッチーニの「マノン・レスコー」からの「インテルメッツォ」と、プーランクの「即興曲第15番」を弾き、併せてトークをやり、ドン・ホセのパートも歌うという大サービス。1時間はあっという間に過ぎる。

 このホールはよく響くので、オペラの歌声にはどう見ても小さいという感だが、歌い手のナマの人間味に触れることができるというのは、なにものにも替えがたい強みである。
 今回のプログラムのテーマは、「悪女」だったらしいが、小山さんの「悪女」は、その本性を全く相手に感じさせずに、色気で迫る・・・・という表現だ(だからなおさら怖いかもしれぬ)。どれも見事で、愉しめたが、特に「不死身のカシチェイ」のアリアでの凄味のあるパワーには引き込まれた。

2016・7・21(木)アントニオ・メンデス指揮スペイン国立管弦楽団

      サントリーホール  7時

 1942年創立のスペイン国立管弦楽団(65年創立のスペイン放送響とは別団体)、現在の首席指揮者はダヴィット・アッカムだそうだが、今回の来日公演の指揮者は、パルマ生れ、32歳のアントニオ・メンデス。客演だが、なかなかイキのいい指揮者である。

 プログラムは、最初の案から変更になり、ファリャの「スペインの庭の夜」、ラヴェルの「ボレロ」、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」、ファリャの「三角帽子」第1&第2組曲━━という選曲と配列になった。

 これらの中ではやはり何といっても、スペインの作曲家のものが堂に入った演奏だ。
 音色といい、リズムといい、湧き立つ躍動感といい、物憂げな表情の中に見え隠れする艶やかさといい、惚れ惚れするような素晴らしさである。「スペインの庭の夜」の最初の官能的な色彩感からして、これこそまさにスペインのオーケストラだな━━という独特の雰囲気をいっぱいに撒き散らす。見事なものだ。
 「フランスの作曲家」の「ボレロ」も、やや大味なアンサンブルとバランスの演奏とはいえ、もちろん悪くはない。ただ、真正スペインものの演奏には、異論を認めぬほどの民族的な底力があふれている、ということである。

 プログラムは、もともと時間いっぱいの量だった上に、楽器の配置換えなど舞台転換の時間もかかったし、しかも2人のソリストがそれぞれ2曲もソロ・アンコールを弾いたものだから、恐ろしく長くなった。
 つまり、「スペインの庭の夜」でソロを弾いたピアノのジュディット・ハウレギが、アルベニスの「アラゴン」と、モンポウの「庭の乙女たち」を弾き、「アランフェス」を弾いたギターのパブロ・ヴィレガスが、タレガの「グラン・ホタ」と「アルハンブラの思い出」を弾いたのである。
 オーケストラ・コンサートでソリストが2曲もアンコールを弾くことには、私はもともと大反対なのだが、今回のように、演奏があまりに鮮やかで、しかもいい雰囲気を漂わせていると、文句も言えなくなる。

 最後の曲目「三角帽子」に入った時にはすでに9時を回っていたけれども、冒頭からティンパニとトランペットが華やかに響きはじめるその勢いの良さに、時間のことはたちまち忘れてしまう。
 これが終ったのが9時35分。しかもそのあと、メンデスとオーケストラは、チャピの「前奏曲」、ビゼーの「カルメン」前奏曲、ヒメネスの「ルイス・アロンソの結婚」の「間奏曲」━━と、何と3曲もアンコールを演奏したのだった。終演は何と、9時50分を過ぎた。

 お客さんも、よもやこんな時間になるとは思わなかったろうが、もうこうなったら・・・・というノリだったのではないか。「カルメン」では、客席から自然に手拍子が沸き上がり、メンデスもこれを煽り立てる。
 オーケストラがやっと舞台から引き上げはじめた時刻は、10時直前だった。
 招聘元マネージメントは、ホール使用料の時間超過料金に頭を悩ませたのでは?

2016・7・18(月)東京二期会 モーツァルト「フィガロの結婚」

      東京文化会館大ホール  2時

 13日にゲネプロを観たキャストとは別の組による2日目の本番公演。
 歌手陣は、アルマヴィーヴァ伯爵に与那城敬、伯爵夫人に増田のり子、フィガロに萩原潤、スザンナに高橋維、ケルビーノに青木エマ、バルトロに長谷川顯、マルチェリーナに石井藍、バジリオに高田正人、アントニオに畠山茂、バルバリーナに全詠玉、ドン・クルツィオに升島唯博━━といった人たちである。
 演出は宮本亜門、舞台装置はニール・パテル。サッシャ・ゲッツェル指揮の東京フィルが演奏。

 与那城敬の伯爵役は5年前にも観たが あの時の皮肉な薄笑いを浮かべただけの演技よりも今回の方が表現も格段に細かくなり、眼つきにもいやらしさのようなもの(?)が加わって、伯爵としての個性が明確に出るようになった。フィガロ役の萩原潤は闊達であり、ケルビーノの青木エマは上背のある容姿を生かして活躍。

 別キャスト組よりこちらの方が世代も若いので、勢いはいいはず、とある関係者が語っていたが、たしかにそうかもしれない。ただ、演技の点では、やはりベテラン組の方に一日の長があるだろう。若い組の方には、概して演技にまだ少しムリがある。その「わざとらしさ」が解消され、自然な性格表現ができるようになれば、と思う。

 サッシャ・ゲッツェルは、東京フィルを指揮して、極めてソフトな音楽を響かせた。テンポ運びも好い。
 ただ、もう少しオケを鳴らし、モーツァルトのオーケストラ・パートの雄弁な劇的要素を浮き彫りにしてもいいのではないかとも思う。伯爵の怒りがシリアスな形で爆発する第3幕のアリアなどでは、オーケストラが本来持っている劇的な要素をもっと強調してもいいのではないか、と。

 とはいえ、今回の宮本亜門演出のプロダクションでは、登場人物の内面の複雑な心理の襞を浮き彫りにするのが狙いではなく、単に生き生きとコミカルに躍動させることに重点が置かれているようだから、このように「平和で楽しく、美しい」音楽の側面だけを前面に出す━━という演奏でいいのかもしれない。
 言いかえれば、貴族と平民の激突を描くといったシリアスなタイプの「フィガロの結婚」ではなく、一日の明るい騒動を描くブッフォ的な「フィガロの結婚」を求めた演出であるなら、演奏もそれに合わせたものでよい・・・・ということになるわけだろう。

 これは、前述のアリアや、第2幕で激怒した伯爵が「貴様はこの館を去らねばならぬ」と夫人を恫喝する場面で、封建領主の怒りの凄さをオーケストラから引き出していたカール・ベームのような指揮とは対極的な性格にある、という意味なのだが、さりとて、どちらがいいとか悪いとかを言っているわけではない。

2016・7・17(日)ナガノ・チェンバー・オーケストラ第2回定期演奏会

      長野市芸術館メインホール  3時

 長野県長野市に落成した「長野市芸術館」。市役所の隣にあるのだが、初めて訪れた者には、どこから入るべきか、すこぶる判り難い。街路からはセブン・イレブンばかりが目立つので、まさかその横の狭い通路が入口だとは、ちょっと気がつかない。

 このホールは、先頃「2階席の見切れ」の問題で話題になったが、私も朝日新聞のその記事ではコメントを出した手前、どのように改造されたのかと興味があったので、念のため、開演前にその席に座ってみた。舞台手前の部分だけ見えないということはあるものの、改造の結果は一応、まずまずと思われる。ただ、子供や、小柄な人には、ちょっと苦しいかもしれない。

 ホールは新しい。内部は白い木目調で統一され、非常にシンプルな雰囲気だ。客席数は1292、椅子もゆったりしている。残響も適度にあり、1階席やや前方で聴いたが、音響は良いのではないかと思われる。

 さて今日は、ホールの開館記念行事、「アートメントNAGANO2016」第4日。このホールを本拠とするナガノ・チェンバー・オーケストラの第2回定期演奏会だ。ちなみに、「第1回」は前日に行われたばかり。指揮は、長野市芸術館の芸術監督・久石譲である。

 この新設のオーケストラは、長野県在住の演奏家を結集した楽団というわけでない。N響、東京フィル、東京都響、東京響、新日本フィル、九響、関西フィル、読響、シュトゥットガルト放送響などから腕利きのメンバーを集め、フリーランスや音大准教授も加えた室内管弦楽団規模のオーケストラだ。コンサートマスターは東京フィルの近藤薫。メンバーの中には長野県出身の奏者も何人かいる由。とにかく、みんな小気味よいほど上手い。
 この楽団を、単なるフェスティバル・オーケストラとして将来も続けるのか、それとも、この名手たちのオケを基として、将来における長野独自のプロ・オケ誕生を見据えているのかどうか━━。

 今日のプログラムは、久石譲の「シンフォニア」、ウラジーミル・マルティノフの「カム・イン!」、ベートーヴェンの「交響曲第2番」というもの。これは「ベートーヴェン・シンフォニー・ツィクルス」としても組まれているシリーズの由で、昨日は「第1番」が演奏されたはずである。

 久石譲の作品(リコンポーズを含む)は、このオケの定期公演の、少なくとも第7回までの中に、5曲も取り上げられている。また開館記念演奏会の中でも、他にいくつか演奏される。さながら「久石譲作品展」だ。
 プロデューサーのカラーを前面に押し出す試みそのものは私も支持するけれど、しかし芸術監督が、その自作を屡々主催公演のプログラムに入れて行くことが果たして妥当なのかどうか、私には判断しかねるが━━。
 しかしとにかく、今日の「シンフォニア」は、彼のミニマル・ミュージック志向を強く出した作風で、第2楽章「フーガ」では木管のエコー効果のような魔術的なサウンドも聴かれたし、特に第3曲「ディヴェルティメント」ではベートーヴェンの「第9」冒頭のパロディも登場し━━それがブルックナーの第3番などの交響曲と共通性があることが図らずも明らかにされたのが面白い━━聴衆を楽しませただろうと思う。

 マルティノフの「カム・イン!」は、近藤薫のヴァイオリン・ソロをフィーチャーした「弦とウッドブロックとチェレスタのための音楽」とでもいう作品。叙情的なカンタービレの作風で、大変綺麗ではあるが、同じ曲想と形式とを30分近く延々繰り返して行くので、えらく長く感じる。もうわかったから、そろそろ終ってくれないかな━━という気にさせられたのは事実である。

 ベートーヴェンの「2番」は、久石の指揮が、実にユニークだ。まるでリズム・ボックスに乗っているようなイン・テンポの演奏、少し騒々しいけれども強いパンチのアタック、陰翳を排除した攻撃的な音色と響きのアプローチ・・・・。
 だが久石譲のふだんのフィールドから、これが彼の感じるベートーヴェンの「アレグロ・コン・ブリオ」であり、「アレグロ・モルト」なのだな、と理解してみる。あとでプログラムを読み返してみたら、「私のベートーヴェンはロックととらえてもらっていいぐらいに激しくなるはず」という彼のコメントが載っていた。なるほど、それが彼の個性だろうし、もし彼が取ってつけたように、伝統的な演奏スタイルを真似たら、かえっておかしなことになるだろう。聴き手の好みは別として、彼は彼のスタイルを貫き通すことが最も自然なのだ。

 東京・長野間は、「かがやき」で85分前後。近い。

2016・7・16(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
ブルックナー「交響曲第8番」

    サントリーホール  6時

 ブルックナーの「交響曲第8番ハ短調」。今夜のプログラムはこれ1曲だが、充分だ。使用楽譜はノーヴァク版第2稿。コンサートマスターは、客演の林悠介。

 東響の「ブル8」を聴くのは、6年前のスダーンの指揮以来のことになるか。あの時は、同曲のレコーディング直後とあって、オーケストラも冒頭から自信満々の雰囲気で、完璧な構築で演奏が始まったのが印象に強く残っている。もっとも、ああいう凄い第1楽章の演奏は、滅多にあるわけではない。

 今回のノットだが、第1楽章は、ちょっと手探り的な雰囲気を感じさせないわけではなかった。あるいは、ノリが今一つだった、というか。
 だが、第2楽章後半あたりからは、音楽に目覚ましい勢いが生じて来て、第3楽章と第4楽章は、非常に緊密度の高い音楽となった。特に第4楽章コーダの演奏は極めて立派なもので、最後の大頂点でいっぺんに奏される各主題が明確な形を保ったまま交錯していたことも、ブルックナーの意図を忠実に再現したものと言えるだろう。

 ノットの指揮は、スダーンのように突き詰めた隙のない構築志向とは異なり、もう少し開放感のあるものだ。が、壮麗な大伽藍を思わせる風格というより、内側に凝縮させた音楽づくりという点では、ある程度共通したものがあるだろう。
 演奏のイメージも、いわゆる巨大な連峰とか、山の奥深くにある静謐な湖とか言ったような自然の威容を思わせるものではなく、むしろ即物的な、音の大建築の趣を感じさせる。東響のふだんの演奏スタイルからいえば、こういうサウンド志向の方が、体質に合うだろうと思う。
 ノットの安定したテンポと、作為のない音楽づくりも好ましい。ことさら芝居がかったテンポの加速は行わず、第4楽章の【X】においても、コーダにおいても、彼はテンポを僅かに速めるのみである。そして、緊迫感が途切れることはただの一度もなかった。

 今や、大変な人気を集めるノット。ソロ・カーテンコールでの拍手は熱烈そのもの、ブラヴォーも盛んだった。
      音楽の友9月号 Concert Reviews

 ブラヴォーが盛んだったのはめでたいことだが、昨夜の大阪に続いて、今夜もまた・・・・。やれやれである。
 しかしこの2回とも、いずれも「指揮者の手が下りてから」だったのだから、さしあたりは文句を言うわけにも行くまい。残るは、デリカシーの問題である。
 それにしても、「拍手は指揮者の手が完全に下りてから」だの、「ホールに残る響きも音楽の一つ」だの、まるで子供に教えるような注意アナウンスを入れなければいけないとは情けない世の中だが、今度はそれを「遵守したタイミング」で、不相応なわめき声を発する御仁が出て来るとは━━。「浜の真砂は尽きるとも・・・・」だ。

 とはいえ、最近のように「注意書き」があまりに多くなると、逆にこう思うこともある。
 最弱奏で終結した場合は別だが、音楽が昂揚に昂揚を重ねて、最強奏で一気に終った場合には、聴き手もそのテンポに乗って感動の表現を爆発させることの方が、むしろ自然な衝動なのではなかろうか━━と。
 残響まで受け止めることはもちろん大切だが、その「手を下すまで」の沈黙が、時と場合によっては、長すぎる「演出」もしくは「強制」のように感じられてしまうケースも、あながち皆無とは言えないこのごろなのである。

2016・7・15(金)飯守泰次郎指揮関西フィル「トリスタンとイゾルデ」第3幕

      ザ・シンフォニーホール  7時

 関西フィルハーモニー管弦楽団が、その桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎とともに、ほぼ毎年1回の割で進めているオペラ演奏会形式上演シリーズ。今年は第14回で、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」第3幕だ。

 ちなみにこのシリーズ、ワーグナーの各幕ずつの演奏会形式上演がこのところ連続しており、「ヴァルキューレ」第1幕(09年)、「トリスタンとイゾルデ」第2幕(10年)、「ジークフリート」第1幕(11年)、「ヴァルキューレ」第3幕(12年)、「ジークフリート」第3幕(14年)と来て、この「トリスタン」第3幕が、6作目になる。

 配役は、二塚直紀(トリスタン)、畑田弘美(イゾルデ)、片桐直樹(マルケ王)、福原寿美枝(ブランゲーネ)、萩原寛明(クルヴェナール)、松原友(メーロト)、谷浩一郎(牧童)、黒田まさき(舵手)という顔ぶれ。
 コンサートマスターは岩谷祐之。

 二塚直紀のトリスタンは初めて聴いたが、素晴らしい。以前、「ジークフリート」第1幕の時にミーメを絶妙な表現力で歌っていたのを聴いて感心したことがあるが、今回のトリスタンも声は充分、この役柄の懊悩、苦悩、憧憬を歌い切って見事だった。

 一方、出番は少ないけれども、福原寿美枝のブランゲーネもいつも通り貫録たっぷり。以前、彼女のブランゲーネを「怖い家庭教師か女監」みたいだと書いたことがあるけれど、今回も同様、厳格な侍女役を表現していた。つい先日もメイシアターでの「修道女アンジェリカ」の公爵夫人役に接し、その怖さに震え上がった(?)ばかりだが、その存在感は強烈である。

 イゾルデの畑田弘美は、大阪での「飯守のワーグナー」でもう何度も聴いた人だ。声の質が柔らかいので、ワーグナーものではどうかなと思ったこともあるが、このヒューマンな雰囲気が飯守の好む所以なのかもしれない。
 ただ、出来得れば、「拍」をもう少し正確に歌ってほしいところで、━━というのは、特にこの「トリスタン」では、旋律的要素よりも和声的な動きが重要で、声楽パートと管弦楽パートとの関連においてもそれが徹底されていることは周知の通り、したがって両者のリズムがずれると、両者の和声の妙味が失われてしまうのではないか。

 関西フィルは、これまでのワーグナーでいつも感じられたアンサンブルの不備が、今回は解消されていた。この作品に相応しい音が聴かれたのは嬉しい。
 ただし、オルガンの下に配置されていた「牧笛」役のイングリッシュホルンは━━東京のオケから参加したゲスト奏者で、巧いのは事実だが━━その演奏の解釈には大いに疑問がある。この「笛」は、本来、素朴で哀切な慟哭の歌のはずであって、スコアに書かれているクレッシェンドやアッチェルランドにしても、今回のように協奏曲のカデンツァの如く華やかに表情たっぷり吹かれてしまうと、トリスタンの悲痛な世界もどこかへ吹っ飛んでしまうだろう。

 なおこの笛は、イゾルデの船が見えて来た個所では、ホルツ・トランペットに替えられて吹かれ、一定の効果は上げていた。
 この部分は、いろいろな上演のたびに、あれこれ趣向が凝らされる。どんな楽器が使われても結構なのだが、とにかく劇的な瞬間なのだから、音が外れさえしなければ━━。いっそ、イングリッシュホルンでそのまま「完璧に」吹いてもらった方がどれほどいいか、といつも思うほどである(今日のイングリッシュホルン奏者の腕と、その立ち位置からすれば、それだけで充分効果を出せたのでは?)。

 飯守の指揮は、今回も独特の味を発揮した。「前奏曲」は悲痛で重厚なテンポで開始されたが、トリスタンの感情が昂る個所、イゾルデの船が近づいて来る個所での緊迫感は素晴らしく、特に「愛の死」の個所でのうねるような昂揚感は、関西フィルの好演もあって感動的なものになった。先日の「大阪4大オーケストラ」の時の演奏とは比較にならぬ密度の高い演奏であった。

 「トリスタン和音」が解決し、消え去るように終ったあとの感動的な静寂を破った狂気じみた下品な声のブラヴォーの主は、全く人間性を疑われるべき、音楽テロリストと称してもいいほどの輩だが、不快な体験の記憶は早く消し去り、演奏の素晴らしさだけを心に残すことにしよう。
  ☞別稿 モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2016・7・14(木)コルネリウス・マイスター指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 来年4月には読響の首席客演指揮者に就任することになっているコルネリウス・マイスターが、ハイドンの交響曲第6番「朝」と、マーラーの交響曲第6番「悲劇的」を指揮した。

 ドイツはハノーファー生れ、まだ36歳という若さだが、欧州ではウィーン放送響の首席指揮者を務め、また近々シュトゥットガルト州立劇場の音楽総監督になることが決まっているなど、活躍の場を拡げている人である。
 ウィーン放送響との日本での演奏はあまり面白くはなかったけれども、読響への客演指揮での「アルプス交響曲」(14年9月)はまとまりもよかったし、オケとの相性も良いように感じられたことは確かである。

 ただ彼はやはり、根が真面目で、几帳面なタイプの指揮者なのかもしれない。
 マーラーの「悲劇的」のような作品を指揮した時には、所謂「狂気」には陥らないタイプだ。作品のダイナミズムをきちんとまとめ、大編成の管弦楽をバランスよく構築することに重点を置く。
 それゆえ、この交響曲のエクセントリックなスリルを求める聴き手には些か物足りなく、むしろ大音響のくどさを感じてしまうだろう。しかし、この曲から狂気じみた興奮を取り去って、作品を古典的な形式性という点から見つめ直そうとする場合には、それは極めて興味深い解釈かもしれない。

 そういうこともあって、今日のプログラムの中では、ハイドンの交響曲の方が、彼の端整な均衡の指向が生きていた。澄んだ音色と、率直な佇まいが成功している。彼マイスターの良さは、どちらかといえばウィーン古典派の作品とか、過度にロマン的な作品でないものの方に出るのではないか?
 まあ、今後、協演の機会が増え、両者の呼吸が合えばまた、別の面白さが出て来るだろうと思う。

 読響(コンサートマスターは小森谷巧)は、マーラーではいつものように馬力充分の威力的豪演。一方、ハイドンでは、各パートのソロが映えた。ファゴットも、フルートも・・・・。
 チェロのトップの女性のソロがめっぽう鮮やかだと思ったら、なんと遠藤真理だった由。もしや彼女も「読響の向山佳絵子」となるのか?

2016・7・13(水)東京二期会 モーツァルト「フィガロの結婚」GP

     東京文化会館大ホール  5時

 この組が出演する15日と17日の本番はスケジュールの関係で観られないので、GP(ゲネプロ)を観に行く。
 フィガロに黒田博、スザンナに嘉目真木子、アルマヴィーヴァ伯爵に小森輝彦、伯爵夫人に大村博美、ケルビーノに小林由佳、ドン・バルトロに妻屋秀和、マルチェリーナに押見朋子、ドン・バジリオに高橋淳・・・・と、ツワモノたちが揃った配役だ。見逃すのは惜しい。

 これは宮本亜門演出のプロダクション。2002年のプレミエ以来、これが4度目の上演になる。
 今回は指揮がサッシャ・ゲッツェルなので、前回の指揮者とは違ってテンポもリズムも明快に歯切れよく進み、宮本亜門の軽快な演出のテンポとよく合う。このプロダクションもやっと活気を取り戻した、という感だ。
 歌手陣も生き生きとしているし、とにかく演技が細部まで精妙で、みんな巧い。

 温かい人間性を感じさせる黒田博のフィガロはもちろんのこと、前回よりも格段の成長を示した嘉目真木子のスザンナは━━困ったような表情の時に綾瀬はるかそっくりの顔になるのが面白い━━華麗な大輪の花といった歌唱と演技だ。すてきな歌手になった。

 だが何といっても傑作なのは、伯爵役の小森輝彦だ。常に口を半開きにして、眼も常に座ったままの表情で、ちょっと偏執狂な薄気味悪さと、それでいて憎めぬような愛敬とを備えた演技力が素晴らしい。第2幕フィナーレでせっかく夫人ロジーナと仲直りしてよろしくやりかけたところへ騒々しく飛び込んで来たフィガロを「邪魔しやがってこの馬鹿野郎」とばかり横目で睨みつける愉快な演技も、さすがのものがある。

 ロジーナ役の大村博美を含め、この第2幕フィナーレでの主役4人の細かい演技の面白さは、オペラグラスで眺めていると、時の経つのを忘れるほどだ。が、多分、大多数の人は字幕を見ていて、その演技の細やかさ、演出の妙味には気がつかぬかもしれぬ。それではいかにも惜しいのだが・・・・。
 16日と18日は、別の組(伯爵は与那城敬、フィガロは萩原潤、他)が出る。18日の本番を観よう。

2016・7・12(火)田部京子ピアノ・リサイタル

     浜離宮朝日ホール  1時30分

 「浜離宮アフタヌーンコンサート」と題するシリーズの第11回。
 平日午後の演奏会の評判がすこぶるよろしいことは近年の傾向だが、今日もお客さんがよく入っている。もちろん、こういう時間帯にコンサートを聴きに来られる世代のお客ばかりだが、それは即ちその世代にクラシックのコンサートを聴きたい人たちが如何に多いか、を示す証であろう。この世代にとっては、夜の9時過ぎまでかかる演奏会を聴きに行くと、帰りが非常に辛くなるのである。

 それはともかく、今日は田部京子のリサイタル。
 「ドイツの思い出を訪ねて」という副題を付し、四半世紀前のドイツ留学時代の写真を映写して当時の思い出を語るコーナーを挿入しつつ、ドイツの作品を演奏した。
 メンデルスゾーンの「夏の名残のばら」による幻想曲と、「無言歌集」から「甘き思い出」など3曲、ベートーヴェンのソナタ「テンペスト」、シューマンの「交響的練習曲」(遺作付)およびアンコールとして「トロイメライ」という、全体で1時間半と少しの長さの演奏会になっていた。

 彼女のリサイタルを聴きに来たのは、久しぶりである。今日の演奏を聴いた範囲で言えば、昔とはずいぶん変わったものだと思う。
 清澄で気品のある音色は昔のままだが、音楽の表情が極度に端整で、シリアスなものになった。澄み切った感覚の裡にも、情緒を一切排し、むしろ楽曲の構築を優先させることに重点を置いた演奏に感じられてしまったのである。

 昨年彼女が出したベートーヴェンの最後の3つのソナタのCD(トリトンOVCT―00120)は素晴らしい出来で、私も雑誌「ステレオサウンド」で推薦盤に取り上げたほどだ。だが、あそこでの堂々たる風格にあふれた表現に比べると、今日の「テンペスト」は、些か趣を異にして、何か、良くも悪くもプロフェッサーの演奏、というように聞こえてしまったのだが━━それはピアノの所為か、こちらの聴いた位置(1階席後方)の所為か?

 だが、彼女の話の方は、相変わらず温かい。投映された写真の中には「壁」解体以前の東ベルリンの光景なども交じっており、興味深いものがあった。彼女は「壁」崩壊の夜、西ベルリンのツォーに居たのだそうである。

2016・7・9(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      サントリーホール  4時

 天皇・皇后両陛下が日本フィルハーモニー交響楽団の定期を、しかもラザレフの指揮するショスタコーヴィチの「交響曲第15番」を聴きに来られるとは、いろいろな意味で、何となく意外な感に打たれることだが・・・・いや、とにかく、今年が創立60周年記念の年にあたる日本フィルとしては、大いに結構な話であることはたしかである。
 いつもは賑やかな身振りで聴衆に答礼するラザレフが、珍しく今日は直立不動の姿勢で皇族席に向かって敬意を表していた光景には、聴衆から軽い笑いが起こった。

 今日はラザレフの日本フィル首席指揮者としての最終定期とあって、しかも近年例のないほど見事な演奏だったこともあって、オケが退場してからも聴衆は彼をステージに呼び出すべく、拍手を延々と続けていたのだが、どうやら彼は両陛下のもとへ表敬にでも行ってしまったか、ついにステージには現れず。事務局のM氏が恐縮し切った様子で出て来て、申し訳なさそうに拍手を制止し、聴衆も諦めて引き揚げるという結末になった。彼への花束の贈呈などは特に無かった。

 その「交響曲第15番」の演奏が良かったことはもちろんだが、まずその前に、前半に演奏されたグラズノフのバレエ音楽「四季」がまた実にカラフルな音色の演奏だったのである。これは、ラザレフと日本フィルの演奏水準が、特にロシア音楽のレパートリーで、今や国内随一の域に達していることをはっきりと示すものだろう。
 とりわけ木管群の色彩感は素晴らしい。この全曲を演奏会で聴ける機会など滅多にないし、たまにあってもオケに色気がなければ、さっぱり面白くない曲に感じられてしまう。今回は初めてこの曲の良さに気づかされた━━というのが正直なところである。

 そして、天覧演奏(?)の、ショスタコーヴィチの「交響曲第15番」。
 今日の演奏は、これまで私が聴いたこの曲の数多い演奏のうちでもベストに属するものと断言してもいい。第2楽章でのコントラバスのピッツィカートがあんなに緊迫感を以って、何かの前兆を示すように、不気味に聞こえたのは初めてだ。

 スコアに指定されているフォルテが非常に強く━━時にはぎょっとさせるような強烈なアタックで演奏されるので、音楽が極度に鋭角的な姿になっていたのも印象に残る。
 第4楽章最後の打楽器群のリズムにおいても、特に終結の数小節前でラザレフは部分的に凄まじく鋭いアタックを施して聴く者を驚かせる。が、スコアをよく見ると、デクレッシェンドしてpになったはずの音が次の小節の頭では突然メゾフォルテになっているといったような作曲者の指定を、ラザレフが精妙に配慮し、かつそれらを衝撃的に強調して演奏させているのだということが判るのである。その緊迫感たるや、凄まじい。

 Morendo(だんだん弱く)で音が消えて行ったあとも、ラザレフはこういう曲ではいつもやるように、虚空に無音を永遠に響かせるかのように高く上げた指の先で指揮を続けていた。その間、ホール内は物音ひとつない静寂に包まれていたのだった。

 日本フィル(コンサートマスターは扇谷泰朋)の演奏も、まさにくっきりとした構成で、無駄にヒステリックな叫びになることも一切なく、持ってまわった重苦しさもなく、しかも陰影に富んで、充分に響きわたっていた。トロンボーンとチェロのソロは、ひときわ鮮やかだった。見事なものだった。

 かくてラザレフは、首席指揮者として、完璧な結果を出した。
 あとは日本フィルが、彼の素晴らしい置き土産をいかに活用するかである。

2016・7・6(水)ミハイル・プレトニョフ・ピアノ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 使用ピアノは、プレトニョフお気に入りの「SHIGERU KAWAI(KAWAI SK-EX)」。以前より音色が清澄になり、ふくよかになった気もするが━━ピアノが変わったのか、それとも楽器が年月を経て「鳴る」ようになった所為か。

 プログラムは、第1部がバッハ~リストの「前奏曲とフーガ BEV543」、グリーグの「ソナタ」と「ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード」。第2部がモーツァルトのソナタ「K311」「K457」「K533/494」という構成。

 それぞれの3曲は、有機的な繋がりを持たせるために切れ目なしに演奏された。1曲終るごとに軽い拍手は起こったが、プレトニョフは客席に軽く頭を下げるだけで、すぐ次の曲の演奏に移る。
 第1部は50分、第2部は1時間を要し、更にアンコールを3曲(リストの「愛の夢第3番」と「小人の踊り」、ラフマニノフの「バルカロール」)も演奏したので、終演は9時半頃になった。

 前半でのグリーグが、あまりグリーグらしくなく手の混んだつくりで演奏されたのももちろん興味深かったが、それ以上に興味深かったのは、後半のモーツァルト3曲だ。近年流行のスタイルとは正反対の、現代のピアノが持つ、厚く重々しく、温かく陰翳の濃い音色を駆使し、ペダル効果を最大級に━━時にはエコー効果のように━━発揮させた演奏のモーツァルトである。
 しかもテンポやデュナミークにも、極度に変幻自在、主観的な解釈が施されている。緩徐楽章では自由な遅いテンポが採られ、解体寸前か、停止するか、と危ぶまれるほどの音楽になることさえあり、著しい沈潜を極める。

 ポゴレリッチほど極端ではないにしても、それを連想させるような演奏構築ではある。フィナーレでは明るい音色になって終結感をもたらすが、それが決して解放的な歓びの表情にはならないところも、面白いモーツァルト解釈といえるだろう。アンコールでの演奏も、よく言えば洒落たユーモア、逆に言えば怪奇さと表現主義的な強烈さ・・・・といったものを導入した解釈だった。
 超個性的なプレトニョフ・スタイル、いまだ健在である。

2016・7・5(火)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の第299回定期演奏会。
 桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎の、ブルックナーの「交響曲(選集)ツィクルス最終回として、「テ・デウム」と「交響曲第9番」が演奏された。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 「9番」のあとに「テ・デウム」が━━ではなく、「テ・デウム」の方が先に演奏されたが、これは賢明な選択である。
 作曲者自身の意図がどうだったかはともかく、「9番」の第3楽章のあとに別の作品━━たとえ「第4楽章の完成版」であろうと━━をつけて演奏するのは、全く無意味であると私も思う。あの第3楽章のアダージョの、この世ならざる浄化の響きで全てが閉じられるのが最も感動的だからである。

 とにかく今日は、その「最終回」だったわけだが、それもあってか、客席はほぼ満席に近いほどに埋め尽くされた。シティ・フィルの定期としては、久しぶりに見る大盛況である。いつもこうであってほしいものだと、心底そう思う。

 「テ・デウム」では、東京シティ・フィル・コーアの合唱と、安井陽子、増田弥生、福井敬、清水那由太のソリストたちが協演した。
 だがこの曲では、飯守の遅いテンポをオーケストラが━━特に合唱団が保ち切れなかったという感がある。ソリストたちも、技術的には問題は無いのだが、演奏としては何となく散漫な印象を抑えきれない。テンポの遅いこともさることながら、音楽の密度の薄さが問題で、全曲最後の個所でも、ちっとも盛り上がりがないのである。━━これは、「飯守のブルックナー」ではあるけれども、残念ながらまったく共感できない。

 「9番」第1楽章冒頭でも、このテンポの遅さが持ちこたえられない感もなくはなかったが、展開部の前あたりからはそういう弛みも消え去り、全管弦楽のfffなどには飯守らしい狂気のごとき激しさも漲って、演奏は怒涛澎湃たるものになって行った。
 それからは、まさに「飯守のブルックナー」である。第2楽章も充分に魔性的な激烈さにあふれていたが、スケルツォでの演奏はダ・カーポ以降の方がアンサンブルに均衡が取り戻されたようだ(その代わり、勢いは1回目の方が勝っていた)。第3楽章最後の浄化の終結における金管も、まずまずこれなら、といった「決め」であった。
 シティ・フィルの演奏も、以前より精度を増しつつあるようである。

 聴衆の飯守に対する熱狂的な長い拍手は、単にツィクルスの仕上げを賞賛する以上のものがあった。客席の雰囲気には、いつもよりも活気があったし、特にホワイエの賑やかさは久しぶりだった。終演後もお客さんは何か興奮冷めやらずの雰囲気、なかなか帰ろうとしないのも、久しぶりに見る光景である。

 さてシティ・フィル、9月の新シーズンの定期第1弾には、常任指揮者・高関健の指揮するあの「ファウストの劫罰」(ベルリオーズ)が来る。
   音楽の友9月号 Concert Reviews

2016・7・4(月)ハーディング指揮新日本フィル「千人の交響曲」

      サントリーホール  7時15分

 ダニエル・ハーディングの、新日本フィルハーモニー交響楽団「Music Partner of NJP」としての最後の定期最終日、マーラーの「交響曲第8番《千人の交響曲》」。
 声楽ソリスト陣には、エミリー・マギー、ユリアーネ・バンゼ、市原愛、加納悦子、中島郁子、サイモン・オニール、ミヒャエル・ナジ、シェン・ヤン。合唱は栗友会合唱団と東京少年少女合唱隊。
 エクス滞在を短くし、今朝帰国したのは、この演奏会を聴くためだった。

 この「8番」、マーラーの交響曲の中では、どうもあまり好きになれぬ曲なのだが、今夜のハーディングの指揮は、比較的気持よく聴けた。気に入ったのは、彼が新日本フィルから引き出した明晰な声部構築、明快で鋭いアタック。強弱の対比の鮮やかさ。
 それゆえ、演奏は極めてメリハリのある、起伏の豊かな、音色の変化に富んだものになっていた。全体に爽やかな感覚にあふれた「千人」ではなかったろうか。

 速めのテンポで、疾風怒濤のエネルギーで押した第1部━━ここは誰が指揮しても騒々しい絶叫となるので私は苦手なのだが━━とは対照的に、第2部での、神秘的な最弱音を多用して若々しく清新な叙情性を浮き彫りにしたハーディングの指揮が、思いがけず魅力を感じさせる。

 ただ、最後の合唱からエンディングにかけての大昂揚個所では、ハーディングはテンポを速め、実にあっさりと結んでしまった・・・マーラーの言う「宇宙が鳴り響く」というにはちょっと短い法悦の時間だったけれども、このへんが、後期ロマン派の世界には耽溺しないというハーディングの美学なのかもしれない。
 いずれにせよ、最近の彼の指揮姿には、何か強い自信があふれているように見える。

 新日本フィルも、この日はバランスの良い、確実な演奏を繰り広げ、ハーディングへのはなむけとした。演奏終了後には、コンサートマスターの豊嶋泰嗣から、ハーディングへ大きな花束が捧げられ、ハーディングもユーモアあふれるスピーチを行なって応えた。聴衆も、今日は長い長い拍手と歓声で、彼を送ったのである。

 こういった光景から、新日本フィルの指揮者としてのハーディングが、いかに愛されていたかがわかる。
 それはもちろん、彼の指揮への評価もあるだろう。が、それ以上に、あの5年前の東日本大震災による混乱のさなか、たじろがず東京にとどまって新日本フィルを指揮したことや、その後の演奏会でも自ら募金箱を持ってロビーに立ったことなどが、日本人の心情に訴えるものがあったからだろう。
 当時の音楽監督アルミンクが、新日本フィルに対する貢献度ではハーディング以上のものがありながら、大震災のあとの対応が著しく不手際だったために、やや気まずい形での任期終了になってしまったのとは対照的である。

 ハーディングは今秋、新しいパートナーであるパリ管弦楽団とともに日本に来る。ファンは、「出世」した彼を、おそらくその時もまた温かく迎えるのではなかろうか。

2016・7・2(土)エクサン・プロヴァンス音楽祭(終)
ドビュッシー:「ペレアスとメリザンド」プレミエ

     プロヴァンス大劇場  7時30分

 3日目にして、やっと満足すべき上演に出会う。

 これは、英国の女性演出家カティー・ミッチェルが手がけたプロダクション。
 舞台上に、幻想と現実、過去と現在、現実認識と潜在意識、本人と分身━━など相反する要素が混在し、かつ交錯して、ちょっと紛らわしくややこしく、煩わしいところもある演出だが、間もなく手の内が解ると、このややこしさが実に面白く感じられるようになる。
 とにかく、この物語全体を「メリザンドの夢」として収斂させた発想は、なかなか秀逸である。

 メリザンドには、分身がいて━━この両者がまた実によく似ていて、どちらがどちらか判らなくなることもあるくらい巧く出来ている━━彼女自身が「夢の中」で、ペレアスに恋する自己と、ゴローの妻たる自己とを別々に認識しており、舞台ではこの「2人の自己」が、同時に正反対の行動をとることが多い。

 一例を挙げれば、ゴローがイニョルドに命じ、ペレアスとメリザンドの様子を覗き見させる場面では、室内でメリザンドがペレアスと全裸で向き合っているのを、「もう一人のメリザンド」が、窓外で激するゴローを必死に押しとどめている、といった具合。
 また終幕の「メリザンドの死」の場面では、歌っている方のメリザンドは動いていて、「幻想上のペレアス」の姿に縋り、いっぽうベッドには息を引き取りつつある別のメリザンドがいて、人々はそれを囲んで悲嘆にくれている、という光景だ。

 そして全曲の最後は、冒頭と同じ衣装のまま、誰もいない寝室のベッドでハッと起き上がり、総てが白昼夢だった、と茫然とするメリザンドの姿で閉じられる。
 この部屋が、ドラマの冒頭シーンでは、ベッドや家具と一緒に森の木々が混在する光景になっていて、そこへ銃を携えたゴローが出て来て・・・・という設定だったわけだから、これで全てが繋がったことになるわけだ。
 実を言えば、予備知識なしでこのオペラの開始部に接した時には、また全部が室内で行われるタイプの「ペレアス」か━━と一瞬たじろいでしまったのだが・・・・。
 そういえば、彼女の衣装が正装だったのは、もしかしたら彼女はだれかとの結婚式に臨む直前だったのか?

 いずれにせよ、この演出は、メリザンドの深層心理を描き、そのセックス願望やロマン願望、自己破壊的な心理━━といったものを浮き彫りにしたものであることは、確かであろう。
 それゆえ彼女の眼には、ゴローを含めたアルケル一家の者たちが、優しいけれども時に幽霊のように見えることがある。ペレアスだけは、常に愛の対象として描かれる。

 この舞台が、中央の本舞台と、下手側4分の1程度の幅の副舞台(?)とに分けられていたことも、アイディアとしては悪くない。
 たとえば、間奏曲の部分では本舞台の幕が閉まり、副舞台の方で、その間のドラマの動きが登場人物たちの演技で示される。そしてその間に本舞台の方は、寝室、食堂、古いプール(これが原曲の「泉のほとり」になる)、倉庫(これは海岸)など、様々な場面に転換されるという仕組だ。いくつかある間奏曲の部分を、回り舞台などを使わずに視覚化する方法としては、巧いテだろう。

 ただ、この副舞台なるもの、下手寄り前方に座っていた私には至近距離で観やすかったが、上手側前方の客にとっては見切れが多かったはずで、苛立たしい思いをした人も多かったのではないか。

 こういう舞台の面白さに加え、演奏が、文句のつけようもない素晴らしさだった。
 なにより、メリザンドを歌い演じたバーバラ・ハンニガンの、柔軟な身体の動きを交えた表情豊かな演技と、清楚で芯の強い歌唱の見事さ。この人は本当にすごい歌手である。
 そして、演出上の役柄表現の面でこそ彼女に食われた感もあるものの、歌唱では一歩も譲らぬ表現力を示したペレアス役のステファーヌ・ドゥグー、ゴロー役のロラン・ナウリ(この人も素晴らしい性格俳優だ! 私は大ファンである)、アルケル役の重厚なフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ。
 その他、ジュヌヴィエーヴ役のシルヴィ・ブルネ=グルッポーソ、イニョルド役のクロエ・ブリオ、医者役のトーマス・ディアーも、しっかりした脇役ぶりで舞台を支えていた。

 そして観客を最も沸かせたのは、指揮のエサ=ペッカ・サロネンと、「彼のオーケストラ」フィルハーモニア管弦楽団である。
 サロネンのドビュッシーは、やや冷徹なところはあるけれども、明晰な光を当てた音の交錯が実に鮮やかだ。オケも美しくて上手いこと、場面が一転してフルートのソロが始まる瞬間など、なんとまあ「別の世界の幕開き」といったような、雄弁な表現力を感じさせたことか。
 この音楽祭でサロネンの指揮を聴いたことは、2013年の「エレクトラ」を含めて何回かあるが、今回ほど「最高の出来」だと思ったことは、かつてなかった。

 プレミエなので、カーテンコールではミッチェルら演出チームも舞台に登場、拍手は大きかったが、当然ブーイングもかなり出た。私の後ろにいた男性数人がムキになってブーをわめいていたのが、可笑しみを誘う。
 そのあと、珍しく大勢の裏方たちまで答礼に現れたが、舞台転換が甚だ凝っていたことを知っている観客の拍手は、彼らに対しても大きかった。

 私も、この3日間で、初めてカーテンコールの最後まで客席にいて、熱烈な拍手を贈った次第である。だが、休憩で帰ってしまった客も少なくなかった。甚だしきは、演奏中に帰ってしまったのもいた。たいてい、着飾った若い女である。縁なき衆生は度し難し。
 私の周囲もいくつか空いたので、知らない同士ながら顔を見合わせてニヤリと笑い、どんどん真ん中の空いた席に移動する。これがヨーロッパの劇場のいいところだ。空いていれば、詰めていいことになっているのである。

 11時15分頃に終演、この時間が妙に早い時間に思えるようになっている。ホテル帰着は11時半。
 今回はHotel Artea Aix Centreというホテルに泊まったが、両方の劇場に近く、便利な場所にある。
       ☞別稿 モーストリー・クラシック10月号

2016・7・1(金)エクサン・プロヴァンス音楽祭(2)
ヘンデル:「時と悟りの勝利」HWV46a プレミエ

    アルシェヴェーシェ劇場 夜10時

 ヘンデル最初のオラトリオ「時と悟りの勝利 Il Trionfo del Tempo e del Disinganno」(2部構成版)なる作品の上演。
 ヘンデルには、これを3部構成に改作した「時と真理の勝利」HWV46bというのもあるが、今回は「HWV46a」、つまり初版による上演、ということになる。

 今回のは、クリュストフ・ワリコフスキが舞台視覚化したプロダクションだ。
 声楽面での登場人物は、「美 Bellezza」(サヴィーヌ・ドゥヴィエイユ)、「陽気 Piacere」(フランコ・ファジョーリ)、「知識、悟り Disinganno」(サラ・ミンガルド)、「時 Tempo」(マイケル・スパイレス)の4人のみだが、その他にも黙役あるいはダンサーとして、青年たちや美女たちが大勢登場する。
 指揮がエマニュエル・エイム、オーケストラがル・コンセール・ダストレ。

 何より、この歌手陣と、エイムの指揮とオーケストラが、表情豊かな演奏で素晴らしい。
 オーケストラは、決して大きな音ではなく、むしろ品のいい中庸を保った響きなのだが、これがきわめて自然な息づきを以って流れて行くのが快い。テンポの速い個所、激した個所での緊迫感も見事だ。
 それに歌手4人も━━舞台の上や、客席下手側の芝生と樹がある場所でオペラ同様の演技をしながら繰り広げる歌唱が鮮やかである。

 舞台中央に巨大なガラス張りの箱があり、その中でダンサーたちが踊ったりするのだが(ヘンデルの音楽に乗っていまどきのロック風のダンスや、美容体操だかストレッチだかが展開される光景は傑作だ)、「美」と「陽気」もこれに加わることもある。
 だが「美」には、その美しさを保つための悩みの方が多い。一方、「時」と「悟り」は分別臭い老人的メイクと、やや横柄でシニカルな態度で落ち着いた演技を繰り広げる。
 要するに「美」と「陽気」は限りある身でいつか滅びるもの、それに対し「時」と「悟り」は永遠なるもの、という内容のオラトリオだから、その対照を舞台につくり出すのは予想されたことだった。巧く舞台を作ったものだと感心させられる。

 その演出のワリコフスキ、感心させられたのは事実だが、しかし余計なことをやり過ぎるところもある。
 たとえば第1部の最後、幕が降りて、演奏者への拍手とブラヴォーが爆発する━━はずだったが、突然その幕に彼のインタビューが映写され(またやった!)、電話の応対の模様まで入れたその演技(?)のクサイこと、くどいこと。
 終った途端に観客から失笑とブーイングが出る。そこで手を叩けば彼に拍手を贈るような形になると誰もが思ったのだろう、少数の観客がパラパラと拍手したのみ。本来起こるべき、素晴らしい演奏をした音楽家たちへの称賛がどこかへすっ飛んでしまったのは、何とも気の毒なことであった。

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