2017-09

2016・6・30(木)エクサン・プロヴァンス音楽祭(1)
モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」プレミエ

      アルシェヴェーシェ劇場 夜9時30分)

 前夜エクサン・プロヴァンスに入る。この音楽祭に来るのは、3年ぶり。

 この半野外劇場アルシェヴェーシェで「コジ・ファン・トゥッテ」を観るのは、2008年以来のこと。あの時のキアロスターミの演出は、背景の海や船の映像が実際に動くという、今のプロジェクション・マッピングのハシリのようなもので、のどかで微笑ましい舞台だった。
 だが今回のクリストフ・オノーレ演出の新プロダクションは、さすがに「ヨーロッパでの今風の」もの。

 今風になること自体は大いに結構なのだが、こういう「暴力的」なスタイルの描き方には、もううんざりさせられる。
 舞台は多分、1920~30年代のアルジェリアかどこか、アフリカの白人兵士部隊駐屯地だろうか。「6人の主役」および登場する兵士たちの何人かは白人だが、合唱団員を含めた召使、労働者たちはすべて黒人である。
 そして白人たちは、黒人たちに対し一方的に暴力を振う。白人の主役陣の間でも暴力的行為が絶えない。何かというと小突き、殴り、髪の毛を掴み、足蹴にし、性的暴行を加えるという始末だ。今どきのオペラの新演出は、こういうアイディアしかないのかねえ、という気にもなって来る。

 兵士フェルランド(ジョエル・プリエト)は、恋人がいるにもかかわらず、冒頭場面から黒人女性を追い回し殴打し、レイプしている。グリエルモ(ナウエル・ディ・ピエロ)も、恋人に裏切られた怒りを黒人女性にぶつけ、レイプする。ドン・アルフォンゾ(ロドニー・ジルフリー)も、黒人たちに対しすこぶる荒っぽい。

 一方、フィオルディリージ(レンネッケ・ルイテン)とドラベッラ(ケート・リンジー)も似たようなもので、ストレスを使用人の黒人男性にぶつけ、小突いたり足蹴にしたり、反抗しないのをいいことにして、玩具にして逆レイプするといった状態だ。デスピーナ(サンドリーヌ・ピオー)だけが、まあ少しはまともといってもいいか。
 もっとも、やられる方も、それなりのいろいろな願望があるように見えるが・・・・。

 こういう演出には、もううんざりさせられる。といったところで━━これは現代のストレスや人種差別意識を具象化しているのであり、単にこれまで表沙汰にはしなかったような心理を赤裸々にし、多くの人間の内心に潜む魔性的なものを現実の行動にして描いているのであって、これこそまさに現代の手法なのですぞ━━とかいった擁護論が聞こえてきそうな気がする。なるほど、「潜在意識の具現化」か。

 だが、考えてみると、この「コジ・ファン・トゥッテ」の、ダ・ポンテの台本そのものが、本来そういう性格を持っているのではなかったか? 端的に言えば、これは、男と女の「不倫願望」を、赤裸々に、しかも美しく軽快に描いたオペラだった。それを思えば、「コジ・ファン・トゥッテ=みんなそうする」という題名には、何と皮肉な意味が籠められていることだろう。

 などと言っていると、この演出を擁護する方に論が傾いてしまうことにもなるが、今ここでそれについて詳しく書いている時間はない。
 とにかく、こういう舞台をわざわざ財布をはたいて、欧州くんだりまで観に来るのは、ばかばかしいことに思えてしまう。といって、伝統的な平凡な形だけの演出も、観る気にもなれない。結局、「演奏会形式上演」が一番いい、ということになるのだろうか。

 カーテンコールでは、プレミエなので演出スタッフもステージに出て来た。拍手と一緒に、少なからぬブーイングも飛んだ。オノーレは、それらを受けて、至極満足そうな表情である。
 書き忘れたが、演奏はルイ・ラングレー指揮のフライブルク・バロック管弦楽団。合唱はケープタウン・オペラコーラス。

 終演は午前1時10分。夜9時半などに開演するから、こんな時間になってしまう。以前、野外劇場での上演は、暗くならないと始められないのだよ━━と教えられた。たしかに、夜の9時半は、こちらではまだ明るい時間だ。
 1時過ぎても、街は未だ賑わっているが、人通りのない暗い裏道は、気をつけなければならぬ。この街の意外なほどの治安の悪さは、数年前に実際に体験していることである。

 そういえば、すでにミュンヘン空港でEUとしての入国審査を受けていたにもかかわらず、マルセーユ空港で再びパスポート・チェックがあったのには驚いた。3年前にはこんなことはなかった。しかもアルシェヴェーシェ劇場でも、劇場敷地内に入る際に、空港並みのセキュリティ検査が行われるようになっていた。世情不安がここにも影を落している。

2016・6・28(火)山田和樹指揮バーミンガム市交響楽団

      サントリーホール  7時

 バーミンガム市響は、ネルソンスの後任音楽監督として、ミルガ・グラジニーテ=ティラというリトアニア出身の女性指揮者を今秋迎えることになっているので、われらの山田和樹は、ここでは単なる客演の指揮者である。
 だが、先年のスイス・ロマンド管弦楽団とのツアーもそうだが、たとえ客演関係であっても、いま日の出の勢いにある彼が欧州のオーケストラを指揮する演奏を日本で聴かせるという試みは非常に面白いし、極めて意義のあることだ。彼の世界での活躍ぶりの一端を、居ながらにして実際に聴くことができるからである。

 一聴した印象で言えば、この両者、相性はいいように感じられる。
 今日のプログラムはベートーヴェンの「エグモント」序曲と「交響曲第7番」、その間に河村尚子をソリストに迎えての、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」が置かれるというものだったが、どの作品においても山田の設計が実に細かく、しかも「持って行き方」が巧い上に、オーケストラがよくそれに反応していたのだ。

 「エグモント」序曲の、最初のフェルマータの長いこと。彼の劇的演出の巧さは以前から承知していたが、この曲においても、なかなかのものだ。
 フレーズ、アタック、テンポの細部にも神経を行き届かせているので、演奏の起伏が極めて豊かに感じられる。コーダに入る前の遅いテンポの個所を最弱音で強調し、コーダではティンパニのクレッシェンドをつくって追い込み、終結のフォルティッシモをひときわ強調させて終る━━という具合だが、これらがあまり芝居気を感じさせず、自然な起伏で流れて行くのも好ましい。

 「第7交響曲」でも同様、全体に速めのテンポによる闊達な流れになっているが、随所に綿密な気配りが感じられ、バランスの良さを感じさせる。
 山田和樹の「7番」といえば、6年前にサイトウ・キネン・オーケストラを指揮した演奏を聴いたことがあるが、今回の演奏には、この間の彼の成長ぶりが感じられて頼もしい。随所に細かい気配りが為され、それが見事にクライマックスで実を結ぶという構築が実現しているのである。

 テンポの闊達さゆえに、以前のような(一時代前の指揮者のような?)重厚壮大さは影を潜めたが、たとえば第2楽章の第27小節から第74小節にかけての弦の厚みのある交錯が、あたかも何か巨大な雲のうねりのような力を以って響いて来たのは、若い世代の指揮者の演奏としては珍しいだろう。
 そして彼は、情熱的な指揮ではあるものの、あまり「細かく棒を振る」ことなく、オケの自主的な動きを引き出すといった術をすでに充分身につけているように見える。

 協奏曲では、彼はバーミンガム市響をやや凝縮させつつ、しかも巨大な爆発を伴ってダイナミックに進めた。
 河村尚子のソロの出だしが意外なほどストレートで屈託なく始められたのには少し意外だったが、これが第3楽章での熱狂に盛り上がるまでの指揮者との丁々発止の応酬は、さすが若手同士の気魄の見事さを感じさせて痛快であった。
 それにしても、ここ東京で、日本人の若手音楽家2人が、泰西のオーケストラをバックに存分に気を吐くというステージが実現するとは、いい時代になったものだ。

 彼女のソロ・アンコールはラフマニノフの「エチュード作品33の8」で、うしろで黙って聴いているオケの存在を一瞬忘れさせるほどの沈潜した美しさであった。そしてオケのアンコールは、ウォルトンの「ヘンリー5世」からの叙情的な小品だった。
    →モーストリー・クラシック9月号 公演Reviews

2016・6・26(日)関西二期会 プッチーニ3部作

    メイシアター  2時

 また大阪へ。今日は日帰り。
 メイシアター(吹田市文化会館)大ホールで開催された関西二期会の第85回オペラ公演、プッチーニの3部作「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」を観る。主役陣はダブルキャスト制を採った2回公演の、今日は2日目。

 関西二期会の公演に接するのは昨年6月の「アンドレア・シェニエ」以来だが、今回もその時と同じ、ダニエーレ・アジマンの指揮する大阪交響楽団がピットに入っていた。
 アジマンの指揮はあまり山場のない音楽づくりなので、劇的な昂揚感には些か不足するが、今日は作品の性格からして、まずは無難にまとまっていたといっていいだろう。大阪響も、抑制された暗い音色で、ドラマに相応しい役割を果たしていた。

 モニカ・ベルナルディの舞台美術(デザイン)と衣装(デザイン)は超写実的(?)なものだが、まあそれはそれで一法ではあろう。
 ただし、マルチェッロ・リッピの演出は、何もないに等しく、演劇的な新鮮味は皆無である。「外套」で、妻の顔を彼女の不倫相手の男の死体の顔に押し付けるという衝撃的なはずのラストシーンなど、スリルも凄味も全く感じられない演出だし、加うるにアジマンの指揮もさっぱり盛り上がらないと来ているから、ごく平板な幕切れになってしまっていたのが残念である。

 主役歌手陣では、「外套」ではミケーレ役の萩原寛明が、「ジャンニ・スキッキ」では題名役の細川勝とラウレッタ役の金岡伶奈が「聴かせた」。
 だが最も映えたのは、やはり「修道女アンジェリカ」での題名役の尾崎比佐子と、公爵夫人役の福原寿美枝であろう。
 尾崎は例のごとく、ドラマが進むに従ってぐいぐい盛り上げるという強靭なパワーを発揮し、舞台をさらう。一方の福原は━━声からいっても演技からいっても、このような威厳たっぷりの「怖い女性」の役柄はお手のものだろう。今日も、登場した時から不気味で物凄かった。この2人のベテラン女性歌手のおかげで、舞台全体が引き締まった。

 午後5時40分終演。約1400席の会場はほぼ満席に近く、しかも女性客が非常に多いのが注目される。

2016・6・25(土)キュッヒル・クァルテットのシューベルティアーデⅢ

     サントリーホール ブルーローズ(小ホール) 7時

 横浜での演奏会のあと、首都高をのんびり飛ばし、赤坂へ移動。

 「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン2016」もあと1日を残すのみ。キュッヒル・クァルテットの「シューベルティアーデ」は、出来れば3日とも聴きたかったところだ。辛うじて今日、ツィクルスの最終日を聴くことができた。

 おなじみのクァルテット━━ライナー・キュッヒルとダニエル・フロシャウアー(ヴァイオリン)とハインリヒ・コル(ヴィオラ)、ロベルト・ノーチ(チェロ)らの顔ぶれを見ると、何となく懐かしく、ほっとした気持になるから不思議だ。今日は弦楽四重奏曲の「第12番《四重奏曲断章⦆》と「第9番」、それに堤剛が第2チェロとして特別参加しての「弦楽五重奏曲」というプログラムが組まれている。

 クァルテットのメンバーのうち、ノーチだけはハンガリー生まれだが、あとの3人はオーストリア生まれである。同じ国の血が流れている作曲家の作品を演奏して、有無を言わせぬ説得力がある。キュッヒルの演奏が少しくらい粗くても、それが何だ━━という気がしてくる。
 「四重奏曲断章」の瑞々しい美しさ、心に染み入って来る豊かな情感、あまり面白いとは言えない「第9番」をさえ魅力的に聴かせてしまうウィーンの名手たち。

 ただ惜しかったのは、「五重奏曲」での第2チェロの音色とニュアンスがクァルテットの4人とやはり異質で、特に第2楽章でのピッツィカートが他の4人と溶け合わず━━それは善し悪しの問題ではなく、身体に流れる「血」の違いのせい、と言ったらいいか━━この楽章の夢のような陶酔感を再現するまでにいたらなかったことだろう。これは、やはり同じウィーンの奏者が加わって演奏してもらいたかったところだ。
 ではあってもこの「五重奏曲」は、やはり並外れた、卓越した演奏だったことには間違いない。第1楽章での大河のごとき音楽のうねりなど、それはもう、本当に凄いものだった━━。

2016・6・25(土)川瀬賢太郎指揮 神奈川フィル&名古屋フィル

      横浜みなとみらいホール  2時

 二つのオーケストラの合同演奏という、一種の大イヴェント。
 プログラムは、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」(ソリストは菊池洋子)と、ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。しかもそのあとにアンコールとしてチャイコフスキーの「白鳥の湖」からの終曲まで演奏されたので、終演は4時半になった。

 若きホープ、川瀬賢太郎は、神奈川フィルの常任指揮者と、名古屋フィルの指揮者とを兼任しており、特にこの1,2年における、彼の成長と活躍ぶりは、実に目覚ましいものがある。今日、このステージで、2つのオケを堂々と制御する彼の姿を見ていると、いい指揮者になったものだ、と嬉しくなる。

 今日のモーツァルトでも、第1楽章提示部のオーケストラの鳴らし方など、まさに楽譜指定の「アレグロ・マエストーゾ」に相応しく、安定して恰幅のある響きだったのには感心させられた。ソリストの菊池洋子の、歯切れのいいヴィヴィッドなピアノと完璧に琴瑟相和していたかどうかまではちょっと微妙だが、まず気持のいい指揮ぶりだった。

 ショスタコーヴィチでは文字通り、獅子奮迅の指揮である。第1楽章は未だ調子が出なかったのか、弱音の個所での緊迫感が希薄になるということがあったり、所謂「戦争の主題」の反復の中で管弦楽のバランスが失われて主題が埋没することがあったり、怒号個所の響きが混濁の極みになるということがあったりしたものの、その一方で、中間2楽章で彼が引き出した繊細な叙情性には、注目すべきものがあったろう。
 オケの音がどんなに咆哮しても、全体が細身の音になるというのは、オケの━━特に神奈川フィルの個性のせいもあっただろうが、川瀬自身の個性のゆえもあったかもしれない。だが、終楽章の昂揚個所はなかなかのものがあった。

 今日のオーケストラは、モーツァルトでは日比浩一(名フィル)が、ショスタコーヴィチでは石田泰尚(神奈川フィル)がそれぞれコンサートマスターを務めた。前者は弦12型、後者は20型という編成だったが、たとえば第1ヴァイオリンでは2曲とも両団体の奏者が各プルトの外側と内側に交互に配置されるという具合である。

 「レニングラード」では、管と打楽器陣はよく鳴ったものの、弦は第1楽章など細身だし、この人数の割にはこの程度の音量か・・・・という印象もなくはなかった。しかも「戦争の主題」での小太鼓のリズムが明晰さを欠いていたため、初めのうちはどうもメリハリを欠いた演奏に聞こえてしまったのである。

 しかし前述の通り、中間2楽章の叙情的な楽想の個所は美しかったし、特に弦は、第3楽章では、日本のオケらしい繊細な表情を発揮していた。また第4楽章後半での昂揚個所も、第1楽章冒頭に比べればよく鳴っていたし、昂揚感にも決して不足はしていなかった。おそらく27日の名古屋公演では、最初からパワー全開でとばせるのではなかろうか。

 ただ、細身だとか、量感的に少し物足りないところがあるとか言っても、それはやはり作品のイメージに基づいての話だ。
 つまり、「レニングラード」ではどんなに全管弦楽が怒号しても、音量はそこそこの程度という感だったのに対し、同じ4管の、しかも何とバンダまでそのまま加わった編成で演奏されたアンコールの「白鳥の湖」終曲のほうは、まるでバケモノのような異形の音楽に感じられてしまったからである。しかしまあこれは、一種のご愛敬とでもいうべきアンコールであろう。
        ☞音楽の友8月号 Concert Reviews

2016・6・24(金)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホ―ル  7時

 ベルリオーズの序曲「宗教裁判官」、デュティユーのチェロ協奏曲「遥かなる遠い世界」(ソリストはジャン=ギアン・ケラス)、ブルックナーの「交響曲第3番」(ノーヴァク版第3稿)。コンサートマスターは長原幸太。

 「宗教裁判官」は、ベルリオーズ・ファンの私から見ても変な曲だし(失礼!)、さすがのカンブルランも作品に新しい生命を吹き込むというところまでは行かなかったのかもしれない。
 それゆえ、第1部でのハイライトは、疑いなくデュティユーの協奏曲である。この曲をナマで聴いたのは確かこれが3度目・・・・しかし今回ほど、この曲のピアニッシモの中に拡がる豊かな空間性といったものを強く感じ取れたことはなかった。

 ケラスのソロも沈潜して、美しい。ただし、彼がそれより大きな拍手を贈られたのは、アンコールで弾いたバッハの「無伴奏チェロ組曲」第1番の「プレリュード」においてである。その自由自在な感興にあふれたソロは、たとえようもないほどの素晴らしさだった。

 カンブルランのブルックナーは、昨年の「7番」がすっきりした演奏だったのを思い出したが、今回の「3番」は、曲想のためもあって、かなり力動感に富んだ演奏となり、読響のがっしりした重量感たっぷりの音構築が生きていた。これは、オルガンの和声が大伽藍に木魂するような音・・・・ではなく、つまり所謂宗教性を備えたブルックナー像を描き出すのではなく、オーケストラのダイナミズムを前面に押し出した演奏と言ったらいいか。その意味では、すこぶる痛快な「3番」である。

 LC席で聴くと、管弦楽のバランスがちょっと風変わりなものに━━ドイツ系指揮者がやるような論理的な構築の音響とは違い、自由で即興性を滲ませたものに感じられたのだが、このへんがフランス人指揮者カンブルランの感性を示しているようで、面白い。
 読響は快演、ソロも快調である。

2016・6・23(木)ロベール・ルパージュの「887」

      東京芸術劇場プレイハウス  7時

 ロベール・ルパージュは、私の最も好きな演出家の一人だが、今日はその舞台の奥にある彼の演劇家としての本質を、まざまざと見せつけられた。
 約2時間10分近く、休憩なしの、彼の独り舞台である。演技そのものは比較的動きの少ないパターンだったが、英語とフランス語(日本語字幕付)による、ほとんどぶっ続けに語られる長大なモノローグが放つ豊かな表情は、凄まじい重量感だ。

 「887」とは、彼が少年時代、カナダのケベックに住んでいた家の番地であるという。
 つまり、ここで語られる内容は、彼の少年時代の「自分史」なのだが、実際にはそれに託して自らの演劇の信条を語っていると言ってもいいだろう。

 それにしても、このように彼の演出家・俳優としての本質の一端を垣間見てしまうと、これまで数多く観て来た彼の演出によるオペラの舞台のうち、彼のメッセージをダイレクトに伝えていたものは、一つとして無いようにさえ感じられてしまう。
 しかしこれは、ルパージュがオペラの演出家として才能がないという意味ではない。彼の持つ信条を顕わすには、オペラの舞台はあまりに制約が多すぎる、ということなのである。

2016・6・22(水)レーピン×マイスキー~華麗なる協奏曲

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ワディム・レーピンがアウェルバッハの「ヴァイオリン協奏曲第3番《深き淵より》」を日本初演、ミッシャ・マイスキーがチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」を弾き、そして2人がブラームスの「二重協奏曲」を演奏するという一夜。
 協演は、広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団。

 これは、レーピンを芸術監督とする「トランス=シベリア芸術祭」の一環。11日から名古屋、群馬、札幌、東京で計6回の公演の公演が行われ、今夜がその最終日だった。
 芸術祭の出演者には、レーピン、マイスキーの他、ニコライ・ルガンスキー、諏訪内晶子、バレエのスヴェトラーナ・ザハーロワら多数の顔ぶれが見え、かなりユニークなプログラムが組まれていたようである。ただ、あまり大々的にPRされていなかったようにも思われるが・・・・。

 ロシアの現代作曲家であり、文学者、美術家でもある多様な才能の持主レーラ・アウェルバッハ(レーラ・アヴェルバッハ)は、2009年にPMFのレジデント・コンポーザーを務めたこともある。
 あの時に聴いた弦楽四重奏と管弦楽のための作品は、四重奏部分が東京クァルテットの演奏で映えていたわりには、管弦楽部分が表情に乏しい感があったものだが、今回のこの協奏曲は、オーケストラ・パートの物々しさ、怪異さ、粘りの強さ、重々しさなどで聴き手を驚かせる。まるで先年、別の人間の名前で発表されて世間を騒がせた、ある交響曲のそれを連想させるようなおどろおどろしい曲想━━これは休憩時間にある知人が漏らした感想なのだが、なるほど、言い得て妙である。
 管弦楽法の多彩さは認めるし、レーピンの熱演にも拍手を贈りたいが、35分を超える長さを惹きつけるには少々凭れる感もある協奏曲ではあった。

 そのあとのチャイコフスキーは、これはもう定番だけあって、特にアウェルバッハの作品のあとに聴くと、いっそう美しさが際立つ。マイスキーのチェロが朗々と、実によく風格豊かに鳴るから、なおさらである。
 この第1部、それぞれの曲の性格のせいで、レーピンのカーテンコール回数がマイスキーの半分だったのは、ちょっと気の毒でもあった。

 日本フィルは、奇しくも今日が創立60年の記念日である。
 それを記念してレーピンとマイスキーが、ブラームスの「二重協奏曲」の演奏を「誕生日」の日本フィルに捧げると表明、演奏前に広上がその旨を場内にアナウンス。聴衆と一緒に2人も日本フィルに拍手を贈るという一幕があった。

 それに相応しく、今日の日本フィルは広上の指揮のもと、見事に引き締まってスケールの大きな、豊かな潤いにあふれた演奏をしていた。「ロココ変奏曲」の冒頭などには、そう、これがチャイコフスキー━━といった音色が聞こえたのである。前のアウェルバッハがあまりにおどろおどろしい音であったために、余計に清涼な印象をあたえたのかもしれぬ。マイスキーのソロと一体になった演奏も見事だった。
 一方ブラームスでは、日本フィルは、まるで「ヴァイオリンとチェロのオブリガート付き交響曲」でもあるかのような壮大な鳴りっぷりで━━しかし、作曲者がこれを当初「第5交響曲」にする意図があったことを思えば、あながち見当はずれのアプローチでもなかっただろう。
 2人のソロをも食ってしまった感のある、誕生日の日本フィルの大熱演。

2016・6・19(日)下野竜也指揮九州交響楽団

   響ホール  3時

 3日連続の文化庁・芸術文化振興基金の助成事後調査、その最終日。
 前夜は博多駅前の日航ホテル福岡に一泊。このところ、大都市のホテルは何処も彼処も宿泊費が高騰していて閉口だが、この「立派な」ホテルが偶然比較的廉いレートで取れたのは幸いだった━━とはいえ、和食の朝食が3千円というのはやはり豪勢に過ぎるので、近くのコンビニのサンドウィッチで安上がりに済ませる。

 さて今日は、九州交響楽団の「北九州定期演奏会」のシリーズ。プログラムは「《レオノーレ》序曲」が「《エグモント》序曲」に替わったのみで、「5番」も、下野による「運命」名解説も、主旨はすべて昨日と同じである。

 八幡市にあるこの響ホール(720席)では、10年以上前、「北九州国際音楽祭」に数年間連続して訪れていた頃に、室内楽や室内合奏団の演奏を何度か聴いたことがある。
 音の良いことでは定評のあるホールだが、フル・オーケストラ(弦編成は昨日に同じ)をも、驚くほどたっぷりとした音で鳴らすのには感心した。「エグモント」や「第5交響曲」の力感ある音楽をも量感豊かに響かせてくれる。下野=九響の演奏も昨日よりふくらみを以って響き、いっそうの壮大さを感じさせていた。

 八幡から小倉へ回り、新横浜まで新幹線で帰京。新幹線の所要時間は4時間25分だが、ホールから自宅まで━━いわゆるDoor to doorの所要時間としては、北九州空港―羽田空港経由の場合とそんなに大きく変わるわけではない。しかもその間、のんびり駅弁を味わったり、原稿を書いたり本を読んだり、眠ったりできるという利点がある。「飛行機なら早いのに」という人の意見ももっともだが、空港の傍に住んでいるわけじゃないのでね。

2016・6・18(土)下野竜也指揮九州交響楽団

    FFGホール  3時

 昨夜は新大阪駅の「レム新大阪」というホテルに一泊。部屋は小さいけれども清潔だし、何より新幹線中央口までわずか1分という距離にあるのが楽だ。

 今日は博多に移動。九州交響楽団(音楽監督・小泉和裕)の「天神でクラシック」というシリーズを聴く。
 コンサートは、「下野竜也の名曲プレゼント《運命》編」と題し、ベートーヴェンの「《レオノーレ》序曲第2番」と「交響曲第5番ハ短調《運命》」をプログラムに組み、2曲の間に下野が「運命」を九響のナマ演奏付きで解説するという趣向である。

 このマエストロ下野の話が、めっぽう巧くて面白い。口八丁、指揮八丁、とでもいうか。クラシック音楽をユーモアたっぷり、誰にも解りやすく、しかもオーケストラを指揮しながら解説できるなどという人は、わが国には彼を措いていないかもしれない。

 今回も、第1番から第4番までの「出だし」と「5番」の出だしをジョークを交えつつナマ演奏で比較して見せたり、冒頭の「運命のモティーフ」の流れ「G-Es、F-D」を「未解決の期待感」と表現し、解決させたらどうなるか、として「Es-C」を付け加えてオケに演奏させたり(なるほどこれなら曲はハ短調に解決する)、このモティーフの原型という説が出て来たキアオジという鳥の鳴き声をテープで聞かせて音楽と比較したり、モデルがキアオジでなくニワトリだったらどんな曲になるかを実験したり、作品中に現れる下行志向のモティーフと上行志向のモティーフを比較したり━━と、すこぶる凝ったものだった。

 こういうテは、われわれ放送屋も昔FMでよくやったものだが、目の前でオケの生演奏を入れながら・・・・というのはちょっと出来ぬワザである。とにかく聴衆としても、作品を何の気なしに聞き流すより、こういう解説に接した後に聴く方が、面白さが増すだろう。

 このFFGホール(旧福岡銀行本店大ホール)は、残響ほぼゼロなので、オーケストラには少々厳しいものがあるだろう。
 「《レオノーレ》序曲第2番」のように、ゲネラル・パウゼ(総休止)の多い曲にはなおさらである。しかし終結近く、遠方からのトランペットの信号出現に向かって全管弦楽が追い込んで行く個所での下野と九響の推進性豊かな演奏は迫力充分で、こういう演奏なら、響かないホールの欠点をすら忘れることができる。
 「5番」でも同様のことが言えた。強い推進力を持った演奏は、残響のないホールにおいても、聴き手を巻き込んでしまうという証明である。

 弦12-10-8-8-6の編成を採っていた九響(コンサートマスターは扇谷泰朋)も骨太の演奏を聴かせ、好調ぶりを示した。
 アンコールはベートーヴェンの「悲愴ソナタ」第2楽章の管弦楽編曲版(読響の打楽器奏者・野本洋介編曲の由)。
 692席のホールは、ほぼ満席の盛況であった。

2016・6・17(金)飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団
「ハイドン・マラソン」第5回

   いずみホール  7時

 1カ月ぶり、大阪に。
 日本センチュリー響が年間4回開催している「いずみ定期」。首席指揮者・飯森範親が振る「ハイドン・マラソン~ハイドンの交響曲全曲演奏」が2年目に入っている。
 今日は「第19番」「第58番」「第7番《昼》」という選曲で、それに加え、2曲目にモーツァルトの「オーボエ協奏曲」がおかれ、ハンスイェルク・シェレンベルガーがソリストに迎えられていた。

 JR大阪城公園駅の近くにある「いずみホール」は音もいいし、内部の雰囲気もいいので、私は好きだ。821という座席数は東京の紀尾井ホール(800席)とそう変わらないが、空間的には段違いに広々として、通常編成のオーケストラにはちょうどいい。
 音響の面でも、ザ・シンフォニーホールより豊かな感じがする。日本センチュリー響も、こちらで聴いた方が良い音で響く━━と言っては失礼にあたるかもしれないが、実際このような古典派の作品を演奏するには、このホールはベストだろう。

 今日のハイドン&モーツァルトも、予想を上回る見事な演奏だった。
 コンマスは荒井英治(首席客演コンサートマスター)。弦は6-6-4-2-2の編成。ノン・ヴィブラート奏法中心で、管楽器群とのバランスも良い。アンサンブルが引き締まったものだったこともうれしい。この古典の交響曲連続演奏の路線は、たしかにオーケストラのために有益だろう。

 「19番」での演奏は引き締まって安定し、「58番」では少し柔らかく厚みのある演奏となり、サンフォニー・コンセルタントかコンチェルト・グロッソの趣もある「7番」では各パートのソロも決まっていた。
 ライヴ・レコーディングを意識したためか、やや慎重な演奏という感もないではなかったが、充実したものだった。飯森がこのツィクルスに賭けた狙いも成功していたようだ。

 ゲスト・コーナーともいうべきモーツァルトの「オーボエ協奏曲」では、やはりシェレンベルガーのソロが魅力的だった。
 テクニックの点こそ、往年のようにとは行かないけれども、ベルリン・フィルの顔の一つとして愛されたあの美しい音色は今も変わらない。何より、演奏にえも言われぬ「味」というものがある。

 第3楽章最後のカデンツァの中に「後宮よりの逃走」の「オスミンのアリア」の一節をまるまる引用して織り込む洒落っ気を見せつつ━━もともとこの楽章の主題はそのアリアと深い関係性を持つものだが━━追い込み追い上げ、華麗に締め括る。聴衆からは熱狂的な拍手とブラヴォーが沸き起こったのである。
     ☞別稿 モーストリー・クラシック9月号 公演Reviews

2016・6・16(木) WAGNER 「」の会コンサート

       すみだトリフォニー小ホール  7時

 「わ」の会の「わ」とは、ワーグナーの「ワ」、「ニーベルングの指環」の「環」、メンバーの「和」・・・・未だ他にもありそうだが、とにかくワーグナーの作品を、わが国のワーグナー好きの歌手たちが小規模のコンサートの場で歌って行く、という趣旨である。私も一昨年のHAKUJU HALLでの第1回は聴いた。

 今年、第3回のプログラムは、「タンホイザー」第2幕の接続形式による抜粋と、「トリスタンとイゾルデ」第2幕全曲。出演は━━

 前者では片寄純也(タンホイザー)、大塚博章(ヘルマン)、大沼徹(ヴォルフラム)、友清崇(ビーテロルフ)、池田香織(エリーザベト)、他に4人の小姓役、巡礼たち(女声合唱8人、舞台裏)。
 後者では片寄純也(トリスタン)、池田香織(イゾルデ)、山下牧子(ブランゲーネ)、大塚博章(マルケ王)、大沼徹(メーロト)、友清崇(クルヴェナル)という歌手陣。
 これに操美穂子(ハープ)と木下志寿子(ピアノ)が協演、城谷正博が指揮した。

 262席の小ホールで、装置も何もない舞台ではあるが、全員、大舞台さながらの大熱演である。特に池田香織のイゾルデは、清純な愛らしさを感じさせる歌唱と容姿で、9月の東京二期会の「トリスタン」公演での主役が楽しみになる。
 なお今日の出演者の中で、その「トリスタン」に、大沼徹と友清崇がいずれもクルヴェナルとして、また山下牧子がブランゲーネとして出ることになっている。期待できよう。

 それにしても━━オペラ歌手は、本当に声が大きい・・・・。こんな小さな会場に納まりきれる類のものではない。アンケート用紙の「改善した方が良いと思うことは」の欄に、マルをつけよと書かれたいくつかの項目があり、その中に「声が大きすぎる」という項目があったのには吹き出した。これはジョークか?

 たしかに最初から最後まで耳がビリビリ劈けそうだったのは事実だが・・・・しかし、オペラですからねえ。「トリスタンとイゾルデ」をソット・ヴォーチェで歌えと言っても無理でしょう。第4回はもう少し大きな会場でやるしかないのでは? 今日も満席だったし。

2016・6・15(水)大野和士指揮 東京都交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 平日の午後にマチネーで定期をやる、という珍しい試み。
 都響は今シーズンから東京芸術劇場での「定期演奏会C」を創設、これをすべてマチネー公演としたが、8回シリーズのうち3回は平日に開催する。聴衆の生活動態が多様化したのに適応させるという試みだ。

 確かに日本では━━帰宅が夜の10時や11時になるのでは、苦しい人も少なくないはずである。
 こうした状況の中で、西宮の兵庫県立芸術文化センターの「佐渡オペラ」は、以前から公演をすべて平日あるいは休日のマチネーにしているし、近年では新国立劇場も平日午後の上演を組むようになり、いずれもそれなりの観客動員を果たしている、という流れも生まれている当節である。

 この都響の「定期演奏会C」も、聞くところによると出足は快調で、会員も1100を越しているとか。
 事実、今日もほぼ満席に近い光景であった。年輩の客がもちろん多いけれども、何かいつもの定期よりも女性客が多いような・・・・それも解るような気がする。

 さて、今日の定期は、音楽監督・大野和士の指揮で、モーツァルトの「後宮よりの逃走」序曲、サン=サーンスの「ピアノ協奏曲第5番《エジプト風》」、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」というプログラム。題して「アラブの香り」とのこと。
 アンコールがなかったのは、これが定期だったからかもしれないが、まあ、なくてもいい。

 協奏曲のソリストには小山実稚恵が登場するという豪華な布陣で、あまりナマで聴ける機会のないこのコンチェルトをしっかりと弾いてくれたのはうれしかった。
 「シェエラザード」は、大野と都響の華麗なる豪演が見事。同じフシを何度も何度も楽器編成を変えて繰り返すだけのこの曲━━といってはミもフタもないが、とにかくそれを華やかに演奏してくれた。コンサートマスターの矢部達哉をはじめ、各パートのソロも冴えていた。

 午後のコンサートだからといって手を抜かなかったのは大歓迎、これからもこの調子でお願いしたいもの。ただし客の中に、フライング・ブラボーをやる目立ちたがり屋の男女があちこちにいるというのが、都響としては夜の定期と異なるところだろう。

2016・6・13(月)ドミトリー・マスレエフ ピアノ・リサイタル

      浜離宮朝日ホール  7時

 昨年(2015年)のチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門優勝者マスレエフの演奏をナマで聴くのは、多分これが2度目。
 最初は昨年のPMFオーケストラとの協演で、あの時にはゲルギエフの指導があったのか、清澄な音色と瑞々しい表情でラフマニノフの「第2協奏曲」を、どちらかといえば「控えめに」弾いていたのが印象的だった。
 今回はソロ・リサイタルだから、彼も自己の感性を自由奔放に出していたのだろう。

 私の好みの所為もあろうかと思うが、リストの「超絶技巧練習曲」の「狩」や、サン=サーンス~リスト~ホロヴィッツ編の「死の舞踏」のような、技巧全開で「叩きまくった」演奏よりも、バッハの「パルティータ第1番」やシューマンの「ソナタ第2番」、メトネルの「追想のソナタ」でのような、くっきりとした構成と瑞々しい清新な表情に充ちた演奏の方がはるかに良かった。
 特にシューベルト~リスト編の「水に寄せて歌う」での夢幻的な波打つ演奏は、このピアニストのただものでない素質を感じさせたのである。

 ただ、そういう美しい演奏の時にはふつうの静かな拍手だけなのに、ピアノも壊れんばかりに叩きまくった演奏にだけブラヴォーが飛ぶというのは、どうも納得が行かない。
 メイン・プロが終了したのが8時40分頃で、直ちにアンコールが始まったが、この調子では、怒号するピアノばかり聴かされるのではないかという恐れが先に立って、早めに失礼してしまった・・・・のだが、その後はどうなったろうか。

2016・6・12(日)クァルテット・エクセルシオのベートーヴェン

      サントリーホール ブルーローズ(小ホール)  2時

 サントリーホール恒例の「チェンバーミュージック・ガーデン」は、今年は6月4日から26日まで開催。毎年その中核を成すのが「ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲ツィクルス」だが、今年は日本の四重奏団「クァルテット・エクセルシオ」がそれを受け持っている。その第3日、「4番」「7番」「16番」というプログラムを聴く。

 クァルテット・エクセルシオは、西野ゆか(1vn)、山田百子(2vn)、吉田有紀子(va)、大友肇(vc)。1994年に結成され、メンバーは第2ヴァイオリンを除き、結成以来不動の顔ぶれ。第2代の山田百子でさえ既に加入以来13年になるのだから、日本の弦楽四重奏団としては稀有の存在と言っていいだろう。
 年間70回以上の公演を行うというから、これも立派なものである。

 演奏も、曲の隅々まで丁寧に組み立てたものだ。思い入れも、持って回った誇張もない。自然体のまま、ひたすら作品を正確に再現しようという姿勢には、ある面では好感が持てる。
 ただそれが、どれもいかにもきちんとした佇まいで、テンポの動きや音の線の絡みに情感的なものが不足し、音楽に余裕のようなものを失わせる結果を生んでいないだろうか? 「第16番 作品135」の、特に最終楽章での演奏など、ベートーヴェン最晩年のユーモア、皮肉、洒落っ気といった要素がもっと出ていてもいいのではなかろうか。テンポの変化の点でも、あまりに音符を几帳面に追い過ぎてしなやかさに不足するきらいがあるように思われる。

 だが、中期の傑作「第7番《ラズモフスキー第1》」はエネルギッシュな追い込みが成功していただろう。どの曲もスコアの指定通りに反復を行ったため、この3曲だけでも結構な演奏時間となっていた。

2016・6・11(土)広上淳一指揮 札幌交響楽団

     札幌コンサートホールkitara  2時

 札幌へ赴き、「本拠地Kitaraでの札響」を聴く。
 このオーケストラは、このホールで聴いた時がいちばん良い。ホールのアコースティックと一体になった響きに独特の色合いがある。これはわが国では、オーケストラ・アンサンブル金沢と二つだけの、稀有の例である。

 札響の現在の首席指揮者はマックス・ポンマーだが、今日は客演の広上淳一の指揮だ。 
 メインのプログラムは、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」。そして前半は、広上の盟友ボリス・ベルキンをソリストに迎えたシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」だった。コンサートマスターは大平まゆみ。

 「8番」は、冒頭の低弦の響きからして艶やかで力があり、大交響曲の開始部にふさわしい劇的な力を感じさせる。だが札響は、少しも力まず無理をせず、楽々と余裕を持って音楽を展開させて行くという感であった。これは、オーケストラを「自然に演奏させて行く」という広上の指揮のたまものであろう。

 響きに明晰さが不足する瞬間も全くなかったわけではないし、全管弦楽が咆哮する個所では第1ヴァイオリン群にもう少しパワーが欲しいという気がするところもあったのは事実だが、それでも概して均衡の豊かな、まとまりのいい演奏だった。各パートのソロも、すこぶる快調だった。

 こうしたオーケストラの響きをつくり出して行く広上淳一の指揮は実に卓越したもので、まさにこれこそが、あの京都市響を国内屈指の演奏水準にまで高めた魔術的手腕なのであろう。
 では、その彼が札響から引き出したショスタコーヴィチの「8番」は、どんなものだったか? ふつう、この曲には、どこかに苦悩、絶望、絶叫、怒号とかいったような、悲劇的な要素を感じさせるところが多いものだが、この広上=札響の演奏では、そういう特徴は、むしろ薄い。

 もちろん、ショスタコーヴィチ特有の劇的な爆発の個所はそれにふさわしく、ホールを揺るがせるほどに激しいけれども、ただそこには、あまり暗い翳りは感じられないのだ。
 全曲大詰めの個所でも、苦悩や闘争に疲れた挙句の果てに辿り着いた白々とした虚しさといったものではなく、むしろ次第に浄化され、安息に達して終るというように、私には聞こえた(この終結は、実に美しい演奏だった)。

 ショスタコーヴィチの交響曲をどれもこれも悲劇の権化のように解釈する聴き手には、この演奏はどう感じられただろうか? 
 だがいずれにせよ、誕生してから既に70年以上も経たこの作品が、このように演奏されたとしても、それはむしろ作品の多様性を浮き彫りにした一例と受け取られてもいいだろう。
 激しいけれども、大仰には悲劇性を誇示しない、ヒステリックにならないショスタコーヴィチ像は、私には非常に興味深く、また好ましくもあった。

 シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」でも、広上=札響の自然な流れの演奏は好ましく保たれていた。だが音楽の陰翳は豊かである。ベルキンも、相変わらず個性的だが、昔の演奏よりは少し淡白な表情に変わって来たような気もしないでもない。
        ☞別稿 北海道新聞

2016・6・9(木)大野和士指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 久しぶりで大野=都響の快演に出会ったような気がする。
 昨年、彼が音楽監督に就任して以降の演奏会━━春のベルリオーズの「レクイエム」やマーラーの「7番」、秋のバルトークやドビュッシーなど━━はどれもあまり納得が行かず、むしろ就任前の一昨年秋のシベリウスやバルトークなどの方が良かった、とさえ思っていたのだが、ようやく両者の呼吸が再び合って来たのか、今回の定期では、彼の音楽も、都響の響きも、極めてまとまりのいいものになっていた。

 プログラムは、ブリテンの「ピーター・グライムズ」からの「4つの海の間奏曲」と「イリュミナシオン」(テノールはイアン・ボストリッジ)、ドビュッシーの「夜想曲」から「雲」と「祭」、スクリャービンの「法悦の詩」と並んでいる。
 題名を見れば、ある一つの流れがあるのにすぐ気づく。「海」「光」「雲」という「自然」のテーマだ。最後に「法悦」となるのも、「自然」とは少し違うが、何となくそれらしく、解ったような気になる組み合わせといえよう(こういう「テーマ性」を持たせたプログラミングは、都響ではかつて若杉弘がよくやっていたテである)。
 だが、コンセプトが面白いだけではない。実際につくられる音楽がその流れに乗って色彩を変えて行くという大野の指揮も見事だった。

 都響(コンサートマスターは四方恭子)も、いい音を出した。ブリテンの2つの作品における弦のブリリアントな美しさは際立っていたし、金管群も輝かしい音色で映えていた。「祭」でのミュートの3本のトランペットだけは今一つ・・・・の感はあったものの、それは些細なことでしかない。
 
 全体として、ピアニッシモにおける美しさと爽やかさ、凛とした鮮やかな音色が素晴らしい。ただし、最強音で轟く際のハーモニーには━━特に「祭」において━━もう少し明晰で澄んだ音色が欲しいところである。都響もインバルの指揮の時には、そういう音を出していたはず。
 とはいえ、「法悦の詩」でのクライマックス個所は、曲想が曲想だけに、そんなことを云々する前に、光と怒涛の大音響の「法悦」に巻き込まれてしまったというところ。
 結局、やはり演奏は素晴らしかったのである。

 ボストリッジは、この作品を自家薬籠中の物としているだけに堂に入った歌唱で、文句のつけようがない。かなり以前、ザルツブルクのイースター音楽祭で彼がこの曲を歌ったのを聴いたことがあるが、その時よりも遥かに歌唱のニュアンスが細かくなっているように感じられた。
 そして、その時協演したラトルとベルリン・フィルの演奏より、今日の大野=都響の演奏の方が、これもはるかに瑞々しく多彩で、まさに「光」に満ちているように感じられたのである。

 もっとも、「イリュミナシオン」が終って休憩になった時、ロビーへ出る途中で、知らない女性が仲間にこう話しているのを小耳に挟んだ━━「今の曲、歌詞はフランス語でしょ? あたし、どう聞いてもフランス語に聞こえなかったわよ」。
 これは、きびしい。
          ☞別稿 音楽の友8月号 Concert Reviews

2016・6・8(水)ヒラリー・ハーン リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 昨夜の庄司紗矢香の演奏も凄かったが、今日のヒラリー・ハーンの演奏も、それに勝るとも劣らない凄さだ。
 ヒラリーの今回の来日ツアーは、9日間で7回のコンサート。ただし東京の他には、松本、名古屋、西宮での公演である。庄司紗矢香のそれとは違って比較的移動しやすい範囲のスケジュールであろう。

 こちらのプログラムもすこぶる個性的で、前半にモーツァルトの「ソナタ ト短調BWV379」、バッハの「無伴奏ソナタ第3番」。後半にはアントン・ガルシア・アブリルの「無伴奏ヴァイオリンのための6つのパルティータ」から「無限の広がり」と「愛」、コープランドの「ソナタ」、ティナ・デヴィッドソンの「地上の青い曲線」という曲目構成。ピアノの協演はコリー・スマイスである。

 ヒラリー・ハーンの演奏には、コンチェルトの時も、ソロの時も、常に胸を躍らせてくれるようなスリル感が伴う。張り詰めた知的な叙情と昂揚、寸毫も隙のない音の密度、クライマックスに追い込んで行く強靭な力感━━これまで演奏に一度たりとも不満を感じさせられたことのないヴァイオリニストだ。
 バッハとモーツァルトでの音の明晰さも素晴らしい。たった一つのヴァイオリンの中で、こんなにも多様なポリフォニーが交錯するのかと、ただ嘆賞するのみである。

 後半のプロは、コープランドのソナタ以外はヒラリーのために作られた曲ばかり。いわば彼女の「自画像」を演奏しているようなもので、これもまた彼女のリサイタルらしい趣向であった。
 アンコールは、佐藤聡明の「微風」、ターネジの「ヒラリーのホー・ダウン」・・・・まで聴いて失礼した。

2016・6・7(火)庄司紗矢香 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル

       紀尾井ホール  7時

 満員の聴衆を集めた庄司紗矢香の今回のリサイタルは、無伴奏の作品を4曲。
 バッハの「幻想曲とフーガ ト短調」(ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ編曲!)、バルトークの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」、細川俊夫の新作(庄司紗矢香の委嘱作)「ヴァイオリン独奏のための《エクスタシス》」、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番」というプログラムだった。

 この中では、やはりまずバルトークのソナタと、細川俊夫の新作が、凄かった。強靭な集中力、緊迫感、憑かれたような没入性、何ものをも寄せつけぬ気魄━━聴き手の側も一瞬たりとも気を抜けない強烈な対決を強いられる演奏である。

 細川の「エクスタシス」は、鋭く切り込むようなモティーフと、痙攣するようなモティーフとが交錯する、かなり長い作品だったが、ここでの庄司紗矢香の演奏も壮絶を極めた。そのせいか、意外なことに、そのあとに演奏されたバッハのパルティータが、不思議に温厚な音楽に聞こえてしまったほどだ。彼女の演奏そのものが、そういう流れだったのか? あの「シャコンヌ」でさえ、妙にあっさりした演奏に感じられてしまったのだが・・・・。

 それにしても、たった一人で、ホール全体をおそるべき精神力で支配してしまった彼女。本当に凄いアーティストになったものである。
 今回のツアーは北海道から島根・広島まで行ったり来たり、毎度ながら随分きついスケジュールを組むものだと思うが、どうかご自愛を。

※広島公演についてコのメントを頂戴しました。たいへん参考になりました。

2016・6・6(月)クラウス・フローリアン・フォークト「美しき水車屋の娘」

      東京文化会館小ホール  7時

 ローエングリンを素晴らしく歌ったばかりの、クラウス・フローリアン・フォークトのリサイタルを聴く。
 ヨプスト・シュナイデラート(ピアノ)との協演で、シューベルトの「美しき水車屋の娘」と、アンコールにブラームスの「マゲローネのロマンス」からの第6曲と、「5つの歌曲」の第3曲が歌われた。ホールは超満員。さすがの人気だ。

 「美しき水車屋の娘」が、これほど爽やかな表情で歌われた例を私は知らない。彼の声の若々しさ、明るさ、爽快さが、主人公の若者の気負いにあふれた旅立ち、夢と憧れ、愛の情熱と苦悩を、たとえようもないほど美しく、闊達に描き出す。

 最終曲の「小川の子守歌」における彼の歌唱に表現されていたのは、恋を失った絶望感ではなく、むしろ一つの「美しい」体験を終え、これからさらに新しい旅に向かおうという若者の姿であろう。

 このミュラーの詩は、大半を主人公が一人称で歌っているのに、第19曲第2節では唐突に「小川」が歌い、第2曲(どこへ?)の最後の一節と終曲の「小川の子守歌」では「語り手」が主人公を見守りつつ歌う、という、あまり一貫性のない構成になっているので、演奏者には工夫が求められるところだろう。
 だが今回のフォークトは、主人公の若者に同化したような歌唱を中心としつつも、そのあたりの区別をさすがに心得て歌っていたようだ。
 私だけの受け取り方かもしれないが、「小川の子守歌」の途中から、彼の歌には、「こうして若者は、ある貴重な体験を経て、逞しく成長して行ったそうです。これが、その若者の物語でした」とでもいったような、バラード的な語り手の雰囲気が、驚くほどはっきりと現れて来ていたのである。

2016・6・4(土)フィルハルモニア多摩第13回定期演奏会

      狛江エコルマホール  3時

 小田急線の狛江駅前にある狛江エコルマホールは、客席数725席。
 このホールで、2004年創設、「多摩地域の皆様のためのプロフェッショナル・オーケストラ」と名乗る「フィルハルモニア多摩」の演奏を、音楽監督・今村能の指揮で初めて聴く。

 今日は「モーツァルトをあなたに」と題して、「ホルン協奏曲第3番」(ソロはダリウシュ・ミクルスキ)、「ピアノ協奏曲第24番」(ソロはマリア・ヤヴロウミ)、「交響曲第39番」というプログラムだ。弦は6-6-4-3-2の対向配置編成、管はスコア通りの数。

 ホールはほぼ満席に近い入りで、聴衆の間には「わがまちのオーケストラ」という雰囲気がいっぱいにあふれ、みんな文字通り心から楽しんでいる様子がありありと感じられる。オケの技術力のことや、細かいことなど、それがどうした、いいじゃないかこれで、という雰囲気だ。
 お客さんを見ると、多分ふだん小田急に乗って新宿や池袋までコンサートを聴きに行く習慣はないだろうな、と思われる人たちが多い。そういう人たちに、近くの町で定期的に地元のオーケストラが演奏を聴かせる。実に素適なことだ。まさに「多摩地域の皆様のための」オーケストラである。この空気が実に快い。

 オーケストラは、敢えていえば、弦、特に第1ヴァイオリンのセクションにもっと力と安定性が欲しいところ。それに全体に、少しおっかなびっくり、慎重に弾いているような演奏に聞こえた。もう少し思い切って闊達に躍動したら如何なものか、という印象も受けたが・・・・。

 以下は余談。聴衆のマナーが取り沙汰されている当節、今日は客席の中に、驚くべき剛の者の女性を見かけた。演奏中に、ガサゴソと、スーパーの袋を丸めて枕(!)を作り、それを頭のうしろに当て、のけぞって寝る、ということをやり始めたのである(奇抜なアイディアだ)。しかもその「枕」の位置をのべつ「調整」するのだから、そのたびにガサガサ凄い音がする。
 「39番」の演奏が始まる直前、今度は袋を二つ三つ出し、ガシャガシャとホール中に響きわたる音で枕を組み立て始めた。たまりかねて一人の女性が近寄り、かなり長く注意していた。当の女性はおとなしく「枕」を引っ込めたが、何と、そのままこそこそと出て行ってしまった。
 多分、彼女はもう二度とクラシックのコンサートには来ないだろう。多摩の大切な聴衆を一人失ったのは残念ではある。だが、いくら何でも、あの袋の枕はいけない━━。

2016・6・3(金)ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団

     サントリーホール  7時

 折も折、ネゼ=セガンのMET音楽監督就任(2020年秋)と、フィラデルフィア管音楽監督任期の延長(2026年春まで)が発表されたばかり。ロビーでもそれがファンたちの話題になっていた。

 彼とフィラデルフィア管のコンビは、2年ぶりの来日だ。今回は東京・大阪・川崎で計5回の公演。
 3回目の公演に当る今夜は、シベリウスの「フィンランディア」、武満徹の「アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」(ヴァイオリン・ソロは五嶋龍)、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」が演奏された。

 武満の作品がプログラムに織り込まれたのは、どのあたりの企画なのかは知らないけれど、大いにありがたいことだ。このオーケストラの美しい弦の音色が、この曲の秘めやかな叙情性を明晰に描き出す。外国の指揮者やオーケストラが武満作品を演奏すると、概して隈取りのはっきりした構築になるのだが、それがまた新鮮で面白い。

 一方、シベリウスとブルックナーにおける演奏からは、前回よりもさらに顕著に、かつての豪華絢爛にして美麗な「フィラデルフィア・サウンド」も大きく変質してしまったような印象を受ける。この2曲では、かなり荒々しい音づくりが為されていたのだった。

 とはいえ、「フィンランディア」では、綿密なテンポと巧みなフレージングが冴えていたし、次の主題やモティーフに移る際の、ほんのちょっとしたテンポの調整の呼吸の巧さが絶品であった。これを聴けば、ネゼ=セガンという指揮者はやはりただものではない、という印象を強くするだろう。

 ただしブルックナーの「4番」は、これまでのブルックナー像を根本から覆した演奏といってもいい。
 これを聴く限り、ネゼ=セガンは、ブルックナーの音楽の持つ、オルガンから発想された音の分厚い積み重ね、神秘性、宇宙的な壮大さ、清澄さ、落ち着いた高貴さ、それにもちろん宗教性もだが━━そういったさまざまな特質を全くと言っていいほど排除してしまい、むしろ強大な音のマッスとしての劇的な起伏のみを重視する音楽をつくっているのではないかと思える。音量的にクライマックスとなっていた第4楽章など、恐るべき破壊的なブルックナーだった、と言ってもいいのではないか。

 「ブルックナーから宗教性を取り去り、もっと自由なイメージを」と主張したのは1990年代のフランツ・ウェルザー=メストだったが、それでも彼の指揮は、まだ伝統的なブルックナー・トーンを基本としたものだった。
 だが今、こういう解釈によるブルックナーが、ついに現実に出現して来たとなると、時代の変遷を目の当たり見た思いになり、感慨に浸らないではいられない。今のところは私の好みには合わないけれど、非常に興味深く聴いたのは事実である。

 もしかしたらこれは、いわゆるアンチ・ブルックナー派とか、そこまでは行かずともブルックナーはどうしても合わぬ、と言っている人たちには、面白がられ、受け入れられるかもしれない。

2016・6・2(木)テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルク・フィル

     サントリーホール  7時

 ユーリ・テミルカーノフ率いるサンクトペテルブルク・フィルの今回の来日公演は、4都市で7回の開催。
 今日はその5回目で、ただ一つのプロ、ショスタコーヴィチの「第7交響曲《レニングラード》」だった。彼らがこの曲を日本で演奏するのは、1994年、2003年に続き、これが3度目になる。

 最初の頃の演奏と比べると、同じ豪壮雄大とはいっても、やはり落ち着いた佇まいを感じさせるようになっている。フィナーレの最後の怒涛のような昂揚にしても、22年前のそれは何か憑かれたような熱狂にあふれていたような記憶があるが、今は━━滋味豊かなものに聞こえる。
 といって、テミルカーノフの制御が衰えたという意味では全然ない。彼のつくる音楽には、昔はなかったような透明感豊かな響きが、年々増しているようだ。この奔馬のようなオーケストラを楽々と乗りこなすテミルカーノフ。指揮の身振りは最小限であるにもかかわらず、オーケストラは全力をあげて沸騰する。見事な統率力だ。

 それにしても、このサンクトペテルブルク・フィルも、相変わらず凄い。どちらかというと演奏には波のあるオケだが、凄い時は凄い。今日の「タコ7」での演奏は、その最も凄い部類に属するだろう。
 金管群の力感も見事だが、それよりもやはり弦楽器群のパワーが並外れている。冒頭の低弦の主題からして壮麗というか、豊麗というか━━こればかりは残念ながらわれわれの国のオケがどんなに力いっぱい弾いても、及ばぬものがあるだろう。弦には、その他随所に、厚みのある、しかも透明度の高い音色があふれていた。
 バンダの金管群はステージ上手側にずらり並んでいたが、あれだけ大量の金管群が咆哮しながら、弦の音が少しも消されないのも、このオケの立派なバランス感覚である。

 カーテンコールでテミルカーノフは、ソロでステージに呼び戻された。彼が第1レン・フィルと初来日した頃に比べると、隔世の感がある。終演直後の楽屋でも、ご機嫌だった。

2016・6・1(水)新国立劇場「ローエングリン」(4日目)

      新国立劇場オペラパレス  5時

 2012年6月にプレミエされたプロダクションの再演。
 演出がマティアス・フォン・シュテークマン、舞台装置・光メディア造形・衣装がロザリエ、照明がグイド・ペツォルト。

 演奏陣は、今回は飯守泰次郎指揮東京フィルと新国立劇場合唱団、クラウス・フローリアン・フォークト(騎士ローエングリン)、マヌエラ・ウール(ブラバントの姫エルザ)、ユルゲン・リン(フリードリヒ・フォン・テルラムント伯)、その妻オルトルート(ぺトラ・ラング)、アンドレアス・バウアー(ハインリヒ国王)、萩原潤(伝令)。
 なおフリードリヒ配下の4人の貴族には望月哲也、秋谷直之、小森輝彦、妻屋秀和という錚々たる顔ぶれが配されていたが、その大半は主役のアンダーを受け持っている人たちである。

 前回これを観たのは、奇しくも4年前のこの日━━2012年6月1日のことだった。あの時は第1幕途中の、ローエングリンが「禁問の動機」を歌っているさなかに地震が起こって━━などの話は当該項に記載済みだから、ここでは省く。とにかく、それと同じ舞台である。演出は交通整理的なものに止まるが、結局はロザリエの美しい「舞台」が全てだ、というプロダクションだ。

 今回、これまでの例からして、どうせ初日はオーケストラがヨレヨレだろうと思い、わざと4日目を選んだのだが、帰りがけに出逢った業界の某プロデューサーの話では、今日の演奏はちょっと「中だるみ」で、オケはマアマアだったけれど、特に男声主役歌手は、フォークト以外はみんな初日の方が緊張感があって良かったように思う━━とのことだった。

 なるほどそうかもしれない、と思った。今日のフォークトの歌唱はかなりの馬力を感じさせたが、彼の個性からすると、あれだけ声が突出して聞こえていたのは、他の男声歌手があまり冴えなかったからではないか、と思えないでもなかったのだ。しかしとにかく、みんな生身の人間なのだから、日によって調子が上下するのは、致し方ない。

 エルザを歌ったマヌエラ・ウールは、2009年にアルミンクと新日本フィルがマーラーの「千人の交響曲」を演奏した時に歌っていたのを聴いたことがあるが、舞台は今日初めて観た。
 オペラグラスで観ると、終始視線が定まらず、常に夢の中に浸っていて心ここに在らず、といった顔の演技がエルザにふさわしく、すこぶる巧い人だと思ったが、しかし歌い方があまりにビンビンと芯が強すぎて、ちっとも「夢見る姫」に聞こえないというのが疑問であろう。

 一方、オルトルートを歌ったぺトラ・ラングは、ワーグナー歌いとして定評のある存在で、今回は極度に意地悪そうなメークで役柄を強調、その睨みつける目ヂカラの演技の凄さも見事であり、歌唱の面でも大詰の大見得を完璧に歌って、前回上演の際の歌手とは比較にならぬ存在感を示していた。

 で、最後になったが、飯守泰次郎の指揮。どちらかというと遅めのテンポだが、ワーグナーのオペラの良き伝統の雰囲気を豊かに感じさせる指揮で、これは一家言ある解釈である。オケをかなり豪快に鳴らしていたが、ワーグナーの音楽の場合はこのくらいオケが雄弁でないとドラマが成立しない。
 ただし東京フィルは、よく鳴ってはいたものの、演奏のニュアンスや音楽の息づきにおいては如何にも粗っぽくおざなりで、到底これがプロのオペラ・オーケストラとは思えないところが随所にある。指揮者のせいにして逃げられる問題ではあるまい。

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