2017-06

2016・5・31(火)キリル・カラビッツ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 こちらは定期ではなく、「名曲シリーズ」。
 ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはヴィクトリア・ムローヴァ)、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」(7曲)というプログラムが組まれていた。

 ウクライナ出身の若手カラビッツ、例のごとく読響をよく鳴らす。若さの爆発は、大いに結構であろう。
 ただ、「ローマの謝肉祭」は、威勢はいいけれどもどこか野暮ったさの残る、融通の利かぬ演奏で、これはどう贔屓目に見ても、快演とは言い難い。

 さらに首を傾げさせられたのはシベリウスの協奏曲で、くぐもった音色と重々しく物々しい表情でオーケストラを轟かせるところは、豪快というより豪怪(?)と言った方がいいような演奏であった。かつてロジェストヴェンスキーがこういう猛々しいシベリウスをやっていたことがあるし、旧ソ連圏内の指揮者であればこういう感性もあるのかな、とも思えるが、いずれにせよカラビッツの個性がそうなのであれば、それはそれでいいだろう。
 だが、ソリストのいる協奏曲の場合には、もう少し音楽の性格を考えてもらわないといけない。

 ムローヴァは、この曲ではポルタメントをも駆使したかなり濃艶な音楽づくりを聴かせてはいたが、こんなにオーケストラを怒号させる指揮者とは、どう見ても合うわけはないだろう。第3楽章など、これではコンチェルトになるまいと思うようなバランスであった。
 ただ、オーケストラが叙情的に響いていた第2楽章のみは、特に終結の部分をはじとして、「ムローヴァのシベリウス」の濃厚な美しさを味わえるものになっていたと思う。

 そして、ソロ・アンコールで弾かれたバッハのソナタの一節こそは、一転して、彼女の清澄で瑞々しい音楽の本領を発揮するものであった。シベリウスとバッハと、これだけスタイルを変えてアプローチするところは、流石ムローヴァ、というべきであろう。

 というわけで俊英カラビッツ、今日はここまでは何とも評価しかねるものがあったけれども、さすがに後半のプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」では、先日と同様、攻撃的な音楽づくりで、この作曲家のラディカルな面を浮き彫りにしてくれた。それは、プロコフィエフがソ連に帰国して保守回帰をしたように見えながら、若い頃からの「恐るべき子供」の性格を未だ失っていなかった、ということを語るような指揮だったのである(これはゲルギエフと一脈通じるものがある)。

 ただし、前半での演奏は、少々荒っぽいところもあった。むしろ最良の個所は、日下紗矢子をコンサートマスターとする読響の弦のしなやかさと瑞々しさが前面に出た叙情的な曲想において聴かれた、と言っていいだろう。そして最後の「ジュリエットの墓の前のロメオ」で、オーケストラはほぼ完璧にまとまり、良い仕上げを聴かせてくれた。
 アンコールで飛び出した同じプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」の行進曲は、さらに豪壮華麗に弾んでいた。

2016・5・30(月)樫本大進&小菅優&クラウディオ・ボルケス

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 小菅優(pf)、樫本大進(vn)、クラウディオ・ボルケス(vc)のトリオが演奏するベートーヴェンのピアノ三重奏曲集。

 今回は5月19日から30日までの間に6都市で計7回の演奏会を行ない、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲(番号付)全7曲のうち、「第4番」を除く6曲を4通りに組み合わせてプログラムを組んでいた。「第4番」を除いたのは、原曲がヴァイオリンでなくクラリネットによる版だったからか。

 で、今日は「第3番」「第6番」「第7番《大公》」というプログラム。
 スター3人のトリオだから、多分満席だろうと思っていたのだが、意外にもそうでなかった。だが、この演奏は、満席になってもいい内容だったのでは? 「第6番」と「第7番」を並べて聴くのはかなり重圧感があるが、それだけに手応え充分である。

 ベートーヴェンのピアノ三重奏曲を、3曲いっぺんに、しかも名手たちの演奏で聴ける形のコンサートには滅多に出会えない。ナマ演奏でこうして聴いてみると、ベートーヴェンの作曲技法の並外れた巧さ、多彩さに、改めて感動させられずにはいられなくなるのだが、それはもちろん、彼らの卓越した演奏のおかげである。

 たとえば「第6番」の第2楽章で、ピアノが奥で柔らかく波打ちつづけているその上に、ヴァイオリンとチェロとが、短いさまざまな音型で、交互に対話を交わして行く個所。あるいは第3楽章で、今度はヴァイオリンとチェロとが組んで、ピアノと交互に対話を交わして行くあたり。これらの個所での3人の、優しい、叙情的な感性が素晴らしい。
 樫本、ボルケスの息の合った美しい音色の弦は実に快いが、小菅優のピアノも、また何とも見事にアンサンブルが溶け合っている。

 「大公トリオ」の第1楽章冒頭の主題でも、小菅優のピアノは少し控えめで、落ち着いている。ただしリピートの際には、ややスケール感が加わった。
 この楽章、3人ともに、もう少し伸びやかな解放感と男性的な力感とがあってもいいようにも感じられたが、考えてみるとこの楽章は「アレグロ・モデラート」なのであって、ベートーヴェンがよく使う「アレグロ・コン・ブリオ」ではなかったのだ。したがって、こういう演奏スタイルも成り立つはず。この流れのいい、柔らかい叙情性こそが、彼らトリオの持ち味でもあるだろう。

2016・5・28(土)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストはアレクサンダー・ロマノフスキー)と、チャイコフスキーの「交響曲第4番」を組合わせた定期。

 「首席客演指揮者クシシュトフ・ウルバンスキ」の名は、東京響のメンバー表からはもう消えてしまっている。わずか3年ほどの間だったが、このポーランドの俊英指揮者がキラルなどの作品で聴かせてくれた鮮烈な演奏は、忘れられない。いよいよ多忙を極めるようになった彼を、次に聴ける機会は、いつになるだろう?

 今日のチャイコフスキーの「4番」も、すこぶる個性的な表現だった。といって、奇を衒うような指揮ではない。むしろストレートなつくりだ。だがテンポはかなり遅い。彼はかつて、ブラームスの「第2交響曲」などでも、故・朝比奈隆のそれに匹敵するほどの遅いテンポを採っていたことがある。

 音の構築は、いつもながら緻密を極める。しかも、ほぼ完璧な均衡を保ちつつ、その中に内声部の各パートを明確に浮かび上がらせ、その微細な交錯で見事な多彩感をつくり出す。チャイコフスキーの「第4交響曲」の第1楽章が、決してヒステリックで感傷的な怒号の音楽でなく、他の作品と同様に精妙な管弦楽法を備えていることを、これほど明らかにしてくれた演奏も稀であろう。グレブ・ニキティンをコンサートマスターとした今日の東京響もそれに応え、柔軟で魅力的な演奏をしてくれた。

 第1楽章では、「運命」のモティーフでホルン群が強力な存在感を示し、再現部第2主題(第295小節以降)でも、ゆったりと揺らぐ弦と木管群の裏で歌う1番ホルンのソロがいい味を出す、といったような趣もあった。
 第2楽章ではオーボエが見事なソロを聴かせる一方、弦は副次旋律(第41小節から)でたとえようもなく秘めやかな、陰翳豊かな音色をささやく。
 また、第3楽章での、金管とティンパニによるピアニッシモの行進曲の音量設計の巧さも驚きで、これこそまさに、チャイコフスキーが説明した「眠る人の頭の中に描かれる幻想━━遠くを通る軍楽隊の響き」というイメージなのだと感心した次第である。

 プロコフィエフの「3番」でも、ウルバンスキと東京響が聴かせたオーケストラ・パートのカラフルな躍動感は見事の一語に尽きる。ここではロマノフスキーのソロも素晴らしく、客席から見ていると、おそろしく大きな手で楽々と弾きまくっているように感じられるのだが、その音色は実に綺麗である。彼がアンコールで弾いたバッハ~シロティ編の「プレリュード ロ短調」は、さらに夢のように美しかった。
     別稿 音楽の友7月号 Concert Reviews

2016・5・28(土)下野竜也指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  2時

 三善晃の「管弦楽のための協奏曲」、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」、黛敏郎の「涅槃交響曲」というプログラム。
 いかにも下野竜也のコンサートらしい、意欲的で大胆な選曲だ。
 協奏曲でのピアノ・ソロにはトーマス・ヘル、「涅槃」での合唱には東京藝術大学合唱団が協演した。コンサートマスターは豊嶋泰嗣。

 これらは、1950年代後半から60年代にかけて作曲された力作である。私も当時、初演の時だったかどうか定かではないけれども、ステージや放送で聴いたことはある。だが、今回何十年ぶり(?)に聴いてみると、どれも実に新鮮で、当時はあまりピンと来なかった多くの大胆で精妙な音楽の手法が、鮮やかな形で心に迫って来るのを感じないではいられなかった。

 それはもちろん、昔の私の理解力や感性の至らなさに原因があったのだろうが━━今だって甚だ怪しいものにすぎないが━━しかし、その他にも、日本のオーケストラの成長や、ホールのアコースティックの改良という要因もあるのではなかろうか? わが国作曲界の先達たちは、当時からもうこんなことをやっていたのだ━━という感嘆とともに、昔とは全く違った気分で、この3曲を堪能させてもらった次第だ。
 これはもう、すっきりした明晰な響きの中に叙情美と力動感を交錯させ、起伏の大きな世界をつくった下野竜也の巧みな指揮のおかげである。

 1964年に作曲された三善晃の「管弦楽のための協奏曲」は、彼の端整で洗練された作風を象徴している、と当時は評されていたようである。私たちも、そういうイメージで彼の音楽に接していた。だが改めて今、下野の指揮で聴き直してみると、この曲の中には、のちの70年代に三善が足を踏み入れて行った、劇的で激しい、しかも厳しい音楽の萌芽のようなものがすでに在ったのではないか、とさえ感じられたのだ。が、これはあくまで私個人が持った印象に過ぎない。

 また矢代の「ピアノ協奏曲」のソリストには今回、リゲティの作品の演奏などで有名なトーマス・ハルが起用されたが、これも貴重なものだった。これは、昔この曲の演奏といえば必ず名前の出ていた中村紘子とは全く違うタイプの、極めてメリハリの強い、作品の構築性を明確に浮き出させるような演奏であり、曲についての新しいイメージを私たちに与えてくれたのである。人選の成功であろう。

 「涅槃交響曲」では、ステージを埋めた大編成の管弦楽と、ほどほどの数(?)の合唱に加えて、客席1階の中央通路の上手側に木管、下手側に金管などのバンダを配置し━━といってもこれも結構な人数だったから、真ん中あたりまで拡がっていたようだ━━重厚な空間的拡がりを持つ和音を客席から響かせていた。
 ただ、その音響的妙味を充分に嘆賞することができたのは、1階席前方席にいた聴衆だけだったろう。

 いつも感じることなのだが、客席にバンダを配置する場合、演奏者の立ち位置からの感覚だけで決めるのではなく、いかに多くの聴衆にその効果を味わってもらえるにはどうしたらよいか、ということを、最大限に柔軟に考えて決めてほしいものである。洋の東西を問わず、金管群のファンファーレを聴衆の耳元で爆発させるような配置を数多く見るたびに、そう思う。
 今回の「涅槃」では、バンダの音も柔らかく神秘的だったから、そういう弊害はなかったし、それに指揮者はじめオーケストラ、制作スタッフがいろいろテストを重ねた上で決めたという話だった。とはいえ結果としては、さらにもう一工夫あってもよかったのではないか、というのがわれわれ聴衆側の偽らざる感想なのである。だがそれはまた別の話。

 この「涅槃交響曲」。もちろん演奏は良かったのだが、ただ、昔聴いた時に仰天させられたような一種の凄味が、今回はそれほどには感じられなかったかな、という印象だ。つまり、「綺麗だった」のだ。おそらくそれは、オケも合唱も「西欧的に」まとまり過ぎていたことが最大の要因だったのではなかろうか。この曲の本質たる、異様な、民族的な根元的な力の物凄さ━━といったものが、もっと噴出していてもよかったのではないか、と思う。

 しかし、いい企画だった。

2016・5・26(木)「矢田部道一の世界を歌う」

    シャンパーニュ  7時

 青木小夜子さん━━といえば、FMを聴いていた方はご記憶だろう。かつて民放FMでネットされていた「FMバラエティ」という番組で、「こんばんは、こんばんは、もひとつおまけにこんばんは」(局によっては放送時間の関係で「こんにちは」とになる)という前枠で有名だったあの人である。

 今は、シャンソンを歌って活躍中だ。私も当然、FM東京時代に一緒に仕事をしたことがある身だし、その彼女から「たまにはシャンソンのコンサートも如何」との案内があったので、新宿のシャンパーニュという店(昔、東京厚生年金会館ホールが在った場所の向かい側だ)へ出かけてみた。
 40~50人ほどの客が入ると一杯になる店である。なかなか雰囲気がいい。女性客が圧倒的に多く、常連も多いらしい。

 情報不足のため、行くまでは、てっきり青木小夜子さんのソロ・シャンソンコンサートだと思い込んでいた。実際は、そうではなかった。これはこの店のオーナーでもあった、歌手・訳詞家の故・矢田部道一を記念するコンサートで、彼女の他に小松崎豊、Mizuki、かこい絵里加━━といった歌手のみなさんが入れ替わり立ち代わり登場するというステージだったのである。見事な歌唱力の持主ばかりだった。

 私も、こう見えても、50年近く前のFM東海(FM東京/東京FMの前身)在籍時代には、シャンソンの番組を制作させられたことだってある。だが、今は全くの門外漢だ。もっともらしいことなど、言えるわけはない。
 とはいえ、歌を聴いていると、昔の思い出があとからあとから甦る。その中に没頭して、何かこの上なく気持が良くなったことは確かであった。

 歌の中に、知り合いの客を即興でネタに織り込み、客席との温かい交流を生むというのは、クラシックのコンサートではまずあり得ない手法で、こういう場所にこの30年以上というもの、全然来ていなかった私などには、すこぶる新鮮に思える。私も思いがけず2回ばかりネタにされて、驚いたり、照れたりしたが、━━時間があったら、これからももっとこの種のライヴを見学してみたいところである。

2016・5・24(火)キリル・カラビッツ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 カラビッツの指揮を聴くのは、2010年5月のリヨン歌劇場と、同年秋の東響客演以来のことになるか。これほどのライジング・スターを6年間も聴く機会を持たなかったというのは、我ながら怠慢の極みである。

 「これはいい指揮者だ」と感心させられたあの時のカラビッツは34歳だったが、久しぶりに聴いた彼は、その容姿にも、指揮にも、見違えるほど風格を増したようだ。
 今日のプログラムは、プロコフィエフの交響的絵画「夢」と「交響曲第5番」と、その間にハチャトウリヤンの「フルート協奏曲」(ソロはエマニュエル・パユ)を入れた構成だった。いずれも豪壮華麗な色彩感と、重厚な力感と、鋭いリズムとにあふれた演奏で、そこではロシアやアルメニアの民族色が鮮やかに浮かび上がっていたのである。

 ハチャトゥリヤンでは、この曲の管弦楽編成が持つギラギラした音色を強調し、作品における粗暴なほどの野性味を再現していた。この指揮はすこぶる巧妙なもので、読響(コンサートマスター小森谷巧)がまた見事にそれに応えていたことも、今日のハイライトの一つであったろう。

 カラビッツは休憩後の「第5交響曲」でも、全編にわたり重厚な大音響を炸裂させ、「家鳴り震動」的な迫力を読響から引き出すとともに、随所に色合いの変化を持たせた設計の妙味を発揮していた。
 この「5番」はすこぶるエキサイティングな演奏であった━━が、わずかに残った不満といえば、各楽章の主題を先導する1番クラリネットの音量がやや物足りなかったことと、全曲をあまりに轟々と鳴らし続けたためか、第4楽章最後の追い込みの個所が、それを上回るダメ押しの頂点となり得なかったこと、の2点であろうか。

 協奏曲を吹いたエマニュエル・パユは、まさに超絶的な妙技を聴かせて、聴衆を熱狂させた。第1楽章など、原曲の「ヴァイオリン協奏曲」におけるソロ・ヴァイオリンをイメージしたような荒々しく異様な音色で開始した。その後も彼は、さまざまな音色の変化を駆使して、実に多彩かつ野性的な「フルート協奏曲」を構築してくれたのである。
 私はこの「フルート版」をこれまでに何度か聴いて、一度たりとも面白いと思ったことはなかった(申し訳ないことながら、編曲者のランパルの演奏も含めてである)のだが、今回こそは認識を改めさせられた━━という次第である。

 そしてパユは、アンコールに武満徹の「エア」を、こちらは一転して天国的な美しい音色で演奏、彼の芸域の幅広さを示してくれたのだった。


※コメントは、あまりに感情的な内容や口汚い個人攻撃は削除しておりますが、それ以外は、たとえ私への反対意見であっても、喜んで承認して公開しております。ここをみなさんの論争の場にすることも吝かではありません。
 ただし、ここは路上の「自由書き込み所」ではなく、あくまで「私の家」であることをお忘れなく。ひとの家を訪れながら、一言の挨拶もなしに、いきなり自分の(しかも反対の)意見だけ言いたい放題まくし立てるのは、どうかと思いますよ。

2016・5・23(月)佐渡裕指揮トーンキュンストラー管弦楽団

     サントリーホール  7時

 昨年9月、シェフに就任した佐渡裕と共に来日したウィーンのトーンキュンストラー管弦楽団。全14回公演の今日は第9日。

 プログラムには彼の肩書が「音楽監督」と記載されており、ご本人の「挨拶」でも同様になっているが、オケのサイトにはそういう肩書でなく、「Chefdirigent Yutaka Sado」と表示されている。したがって、これはやはり正確に「首席(主席)指揮者」と呼ぶべきではないのか。ただしこのオケの場合、首席指揮者の権限がどんな範囲にまで及んでいるのかは知らないけれども。

 それはともかく、今日のプログラムは、レイ・チェンをソリストにしたベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」と、R・シュトラウスの「英雄の生涯」。
 そしてオーケストラのアンコールは、ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」と、R・シュトラウスの「ばらの騎士」のワルツの最終部分だった。

 総合的な印象を結論から先に言うと、佐渡とこのオケの相性は、予想以上に良いように感じられる。未だ最初のシーズンの段階だが、ステージ上の雰囲気はすこぶる良い。佐渡が自然体で音楽をつくり、オケに敬意を払って彼らの個性を生かそうとしているせいもあるかもしれない。

 特にベートーヴェンの協奏曲では、その佐渡の衒いのない指揮と、オーケストラが持つ民族性が程良く合致していて、たっぷりとした響きの、流れの良い、均衡豊かな演奏がつくられていた。この曲のオーケストラ・パートが持つ流麗な曲想と芯の強い性格とが、これほど自然な形で表れていた演奏は、そう多くはないだろう。
 そしてレイ・チェンも、明晰で輝かしい、しかも誠実で雄弁なソロで、見事に主役を務めていた。27歳、台湾出身、2009年のエリーザベト王妃国際コンクールに史上最年少優勝をも果たしているこの若者は、素晴らしい才能の持主である。

 「英雄の生涯」では、佐渡の指揮は、叙情的な曲想の個所では自然に歌わせ、劇的な個所では猛然たるテンポを採った。
 「英雄の戦い」の部分では音も少しカオス気味になっていたが、これは標題音楽の面から、佐渡も承知の上でやっていたのだろうと思う。
 例の77の前では、大きな「矯め」を2回作ったが、ことさらな演出と言えばそのくらいなもので、その他はやはりストレートな部類に属する指揮だ。

 ただ、第1部の「英雄」での、オーケストラを滔々と流して押して行く部分の中で、音楽が時に色彩感や表情を失い、形だけのものになる部分も感じられた。このあたりに、佐渡の抱える昔からの問題点が表われてしまっていたようにも思う。

 トーンキュンストラー管弦楽団は、この曲でも優れた均衡豊かな響きを聴かせた。ベートーヴェンではあれほど毅然としていたティンパニが、「英雄の生涯」では何故か暴力的な叩き方をしたような向きもあったが、これは指揮者の注文か。ホルン群は素晴らしい。
 また特に「英雄の伴侶」の個所では、女性コンサートマスターが情熱的なソロを弾いて気を吐いた。「かなり性格の強い伴侶」といったイメージだが、適度の濃厚な表情も備えて、見事なコンサートマスターぶりだった。

 終結での管楽器と打楽器群の短い盛り上がりはすこぶる効果的だった。そのあと、聴衆は沸きに沸いた。
 カーテンコールでオケが指揮者を讃えるくだりでは、ステージ奥にずらり並んだ金管奏者たちが一斉に拍手を佐渡に贈っていた光景が印象的だった。
 彼がこのサントリーホールで、聴衆と楽員からこれほど熱狂的に拍手を贈られたことは、滅多になかったことだろう。彼とこのオケの、これからの良き活動を期待しよう。

2016・5・22(日)トッパンホール15周年室内楽フェスティバル最終日

     トッパンホール  3時

 山下一史が音楽監督に就任した「ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉」(日本オーケストラ連盟準会員オーケストラ)の定期を聴きに行く予定も当初はあったのだが、午前中の来客と打ち合わせの2件のあとでは、津田沼まで行くのは到底間に合わずと見て取り、「トッパンホール室内楽フェス」の方に変更した。
 この第6日は全シューベルト・プロで、「白鳥の歌」全曲と、「弦楽五重奏曲」の2曲。

 「白鳥の歌」は、ユリアン・プレガルディエンのテノールと、マルティン・ヘルムヒェンのピアノ。
 これはまあ、予想通りという思いと、まあ仕方がないだろうという思いとが相半ばする演奏となった。やはりシューベルトの後期の歌曲は、並みの経験では歌えない難物なのだという印象を改めて強く抱かされる。

 ユリアンも懸命に歌っていたことは充分に感じ取れるけれども、シューベルトが歌詞の内容に応じて微細微妙に音楽のニュアンスを変えて行ったあの独特の世界を再現するには、さらなる時間が必要だろう。
 「影法師」のような暗澹たる曲想の個所だけでなく、「別れ」のような快活な曲想においても、反復されるモティーフがどれも単調に聞こえ、感情の変化に乏しいというところにも、問題の一つがある。

 「弦楽五重奏曲」は、クリスティアン・テツラフと日下紗矢子(vn)、鈴木学(va)、ターニャ・テツラフとマリー=エリーザベト・ヘッカー(vc)が演奏した。
 アンサンブルの妙味というよりは、名手が競い合う━━といったような演奏になってはいたが、それはそれでスリルがあるだろう。シューベルト最後の室内楽曲の、この世ならざる美しさと凄まじさとを再現するには、こういう激烈な演奏の方が合う。

 とはいっても、死を前にしたシューベルトが全曲の最後に挿入した、異様なほど破滅的で凄愴なあの終結和音をも、彼ら演奏家たちがそれほど深刻に解釈していないようにみえたのは、やはり若さの気魄のなせるわざか。

2016・5・21(土)井上道義指揮群馬交響楽団

    群馬音楽センター  6時45分

 サントリーホールでの日本フィル定期の終演後、そのまま東京駅へ向かい、新幹線で高崎へ向かう。わずか50分ほどで着くから、群響の開演時間に楽々間に合う。このテは、以前にも使ったことがある。

 今日の群馬交響楽団(コンサートマスターは伊藤文乃)の定期は、井上道義の客演。ハイドンの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソロは佐藤久成)と、井上得意のショスタコーヴィチの「交響曲第10番」というプログラム。

 群響を聴くのは、先日の東京公演での「トゥーランガリラ」以来になる。引き続き快調のようだ。弦の音色にはしっとりとした潤いがあり、管楽器群とも優しく均衡を保っている。
 このホールの音響がもっと良かったら、このオーケストラもどんなに美しい音で響くことか、といつも思わずにはいられない。今日の「10番」でのダイナミックな演奏も、今の会場では、まるで古いモノーラル録音のように拡がりも奥行きもない音になり、それが本来備えているはずの壮大な気宇を薄めてしまう。1日も早く、新ホールの建設が待たれるところである。

 とはいえ、今日の演奏で唯一残念だったのは、第3楽章で、作曲者が好きだった女性エリミーラのモノグラム(名前を音名に変換したもの)を吹くホルンが、いかにも自信無げで、終始たどたどしい演奏しかできなかったことだ。
 このモティーフは、ショスタコーヴィチのモノグラムと同様、この交響曲では非常に重要であり、考えようによってはこの二つのモティーフの組み合わせが中心概念であるとされるほどなのである。したがって、これが決まらないと、作品の私小説的テーマが損なわれてしまう結果にもなる━━。

 井上は、この「10番」を、光明に向けて構築して行ったように聴き取れた。第3楽章でのショスタコーヴィチのモノグラムがリズミカルに登場する個所では、まさに躍るように(指揮のジェスチュアと同様)演奏を弾ませていた。
 こうなると、激烈な第2楽章も、一頃解釈されたような「スターリンの暴虐」(これはもともとこじつけに過ぎる)などではさらさらなく、彼がプレトークで語っていた「スポーツカーでぶっ飛ばしたくなるような曲」という性格を帯びて来るのかもしれない。ただし私にはやはり、光明は第3楽章以降にしか見えて来ない、としか感じられないのだが━━。

 1曲目に演奏されたハイドンの協奏曲では、佐藤久成が挑戦的で攻撃的な表情のソロを展開、その一方で、小編成の弦楽合奏は柔らかい温かさを語り続けた。双方ともにそれなりの魅力を感じさせるだけに、この全く調和せざる二つの性格が自己を主張し続ける不思議な面白さが印象づけられた次第である。

 8時半終演。ホールは今日も、ほぼ満席の盛況。終演後のホワイエで、その日の演奏者がインタビューに応える「ふれあいトーク」をはじめ、オーケストラと聴衆との強い結びつきを感じさせるのも、いつもの群響定期の光景だ。
 9時過ぎの新幹線で東京へ引返す。
         👉別稿 モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

2016・5・21(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      サントリーホール  2時

 日本フィルハーモニー交響楽団とその首席指揮者ラザレフのコンビは、ことロシア音楽の演奏に関するかぎり、現在のわが国のオーケストラ界では随一と言ってもいいかもしれない。
 事実、今日のチャイコフスキーの「組曲第1番」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第6番」の演奏などを聴くと、彼らがこの8年ほどの間に築き上げて来たものが最良の形で発揮されているように思えるのである。

 チャイコフスキーの「第1組曲」とは、珍しい選曲だ。第4曲の「小行進曲」だけは単独で聴く機会があるが、組曲の全曲が演奏会で取り上げられることは、日本ではほとんど無いだろう。
 今日の演奏では、特にこの行進曲が、木管楽器群の鮮やかな躍動で映えた。日本フィルの木管群━━特にフルートとオーボエの良さが光る。また全曲においても、分厚く底力のある低音、引き締まった音が展開され、かなりスケールの大きな、シンフォニックな演奏が聴けた。
 ただ、やっぱりこの組曲は、あの「小行進曲」を除いては、あまり面白くない曲だ、というのが正直なところである。だが、聴かせてくれたことには感謝したい。

 ショスタコーヴィチの「6番」の方は、これまでのラザレフと日本フィルの演奏の中でも、屈指の快演と言っていい。
 冒頭の低弦の響きからして強靭な意志力が漲っているし、特にその第1楽章では、神秘的な緊張感にも事欠かない。ホールを揺るがせんばかりの大音響は相変わらずだが、それが決してヒステリックな絶叫にならず、完璧な均衡を備えたエネルギーとなって突進するのが素晴らしい。ラザレフは、この少し軽く見られることの多い「6番」の中にも、前後の交響曲群と共通した巨大性を見出し、それを再現しようとしていたのだろう。

 音楽がティンパニの豪打の中に終結へ殺到して行くと、聴衆も堪えていられなかったらしく、最後の和音から間髪をおかずに拍手とブラヴォーが炸裂したのだった。
 これは、これまで聴いた「6番」の中でも、最も密度の濃い演奏だったと言っても誇張ではないだろう。木野雅之をコンサートマスターとした今日の日本フィルの演奏をも讃えたい。

 3時35分終演。プログラムは短かめだったが、中身はぎっしり詰まっていたので、これで充分という感じがする。

2016・5・19(木)トッパンホール15周年室内楽フェスティバル4日目

      トッパンホール  7時

 前日は東京都響定期のペルトの作品その他を聴くつもりでいたのだが、午後3時頃、頼みもしないのにWindows10がPCに乱入して勝手にインストールを開始、しかも勝手に失敗しておいて横柄に修復を要求、挙句の果ては起動不能に陥らせてしまった。この対応に数時間を要したため、結局演奏会をフイにする羽目になる。
 専門家に訊くと、「断りの返事がない場合には水曜日午後3時にインストールを行うぞという告知が2、3日前に来ただろう」とのこと。そういえば何かそんなものが来たような気もするが、なにせノベツそういう告知が来てうるさいので、いちいち見なくなっていたのも事実である。
 そういう弱みに付け込み、勝手に侵入してPCを使用不能に陥らせるとは、ウィルスにも等しい。この方面に詳しい人ならどうということはないのだろうが、私のようなPCオンチのド素人には、災難もいいところだ。この種のことは、怒る方がバカなのか?

 というわけで、大切な演奏会を一つ棒に振った。そして今日は、トッパンホールの室内楽フェスの第4日。
 モーツァルトの「ピアノ四重奏曲ト短調K479」、ベルク~H・ミュラー編の「六重奏曲作品1」、シューベルトの「ピアノ三重奏曲第1番」という魅力あふれるプログラムだった。

 演奏は、モーツァルトが久保田巧〈Vn〉、鈴木学(Va)、マリー=エリーザベト・ヘッカー(Vc)、マルティン・ヘルムヒェン(pf)。
 ベルクがクリスティアン・テツラフ(vn)、日下紗矢子(vn)、鈴木学(va)、原麻理子(va)、マリー=エリーザベト・ヘッカー(vc)、ターニャ・テツラフ(vc)。
 そしてシューベルトがクリスティアン・テツラフ(vn)、マリー=エリーザベト・ヘッカー(vc)、マルティン・ヘルムヒェン(pf)。

 初日のラルス・フォークトが今日はヘルムヒェンに替わり、ピアノが俄然おとなしくなった。あまりに強靭な音響を轟かせるのも何だが、こうおとなしくて、生真面目で、煌きの少ないピアノというのも、物足りない。協演者もその分、安定路線にとどまってしまったようで、バランスは良いけれども、噴出する熱気は抑制され、スリルにも不足する、といった感になるだろう。

 むしろ聴きごたえがあったのは、6つの弦楽器が火花を散らしたベルク~ミュラー編の「六重奏曲」だった。この声部の交錯の面白さは、原曲のピアノ版に勝るとも劣らない。

※5月26日追記━━PCに詳しい人に来てもらって、やっと完璧に「回復」したが、インストール記録データを見てみると、それが開始された直後から早くも「エラー」が出ており、15分後には全部がエラーマークと化していた。とすれば、エラーを構わず延々と侵入を続けたわけか? 起動不能を招くのも当たり前だろう。マイクロソフトというのは、全く傲岸不遜なものである。

2016・5・17(火)METライブビューイング プッチーニ「蝶々夫人」

   東劇  7時

 4月2日の上演ライヴ。
 アンソニー・ミンゲラ(英・映画監督)演出、舞台演出監督キャロリン・チョイ、マイケル・レヴァイン美術、ハン・フェン衣装。METでは定番のプロダクションだそうだが、私は今回初めて観る。

 舞台装置は比較的シンプルな部類に入るだろうが、ピーター・マムフォードの巧みな照明を活用して、豪華絢爛、綺麗に見せる。
 しかも衣装が極度に華麗で、女性たちの着物だけでなく、神官や僧侶ボンゾや大尽ヤマドリの服装も恐ろしくカラフルである。それらが日本風であるかどうかは別として、それらの色彩感そのものが、このオペラを見事な幻想の世界として描き出しているともいえるだろう。

 さらに面白いのは、黒子を多用して蛍や鳥を動かすだけでなく、蝶々さんの子供を文楽の手法で黒子3人により動かしていることだ。従って子供の動作は、実物よりもはるかに細かく表情豊かになる━━ただその顔が、可愛いけれども、少々気味の悪いところがないでもないが。

 歌手陣。
 蝶々さんはクリスティーヌ・オポライス。無邪気さよりも知的で芯の強い女性というイメージで、これは当たり役であろう。
 スズキはマリア・ジフチャクで、小太りの体躯とメイクが不思議な良い味を出している。彼女の存在は蝶々さんにとっては、スカーレットに対するマミー、タチヤーナに対する乳母フィリッピエヴナのような役柄として描かれているように見える。

 ピンカートンはロベルト・アラーニャ、領事シャープレスはドゥウェイン・クロフト、いずれも非の打ちどころのない役柄表現だ。
 なお、スクリーンでは配役表が電光石火の勢いで流れるため見逃してしまったが、ヤマドリ役の(多分)中国人歌手(SEASON BOOKの当該配役表にも載っていない。OPERA NEWSには多分載っていると思うが、手許に無い)も実に雰囲気がいい。
 以上、歌唱力もみんな見事だ。

 指揮はカレル・マーク・シションという人で、英国生まれの45歳とか。これがMETデビューの由。極めて丁寧に、ゆっくりと音楽を歌わせる人のようだが、今回の「蝶々夫人」での指揮を聴く限り、滔々と音楽を押して行くというタイプの指揮者ではなさそうである。

 第2幕の第1場と第2場の間にも約30分の休憩(うち17分はインタビューだ)があったので、終映は10時半になった。案内役はデボラ・ヴォイト。この人の切り回しの巧さには、何度見ても舌を巻く。

2016・5・16(月)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

     サントリーホール  7時

 首席客演指揮者バッティストーニが、イタリアン・プログラムを振る。彼、最近、見るたびに偉大なる体格になっていくような気がするが・・・・後姿は、黒服と、激烈な身振りの指揮と併せて、怒れるキングコングさながらだ。

 彼が東京フィルから引き出す音楽は、今日も猛烈に熱っぽい。
 1曲目のヴェルディの「ナブッコ」序曲では、前半は少し狎れたような、若干緊迫度が希薄に感じられるところもなくはなかったものの、後半は例のごとくダイナミックに押しまくり、盛り上げた。

 そして、ひときわ面白かったのが、ニーノ・ロータ作曲のバレエ組曲「道」である。
 大昔、この映画の主題曲はヒットパレードの常連だったが、日本で専ら流れていたスリーサンズの演奏は、私はあまり好きではなかったので、何となくいい印象を得なかった。その後、この組曲は一度聴いたような気がするのだが、演奏会だったかFMだったか、記憶が定かではない━━ということは、その時には面白く感じられなかったのだろう。
 70年代半ば、ロータが来日して新日本フィルを指揮した時にインタビューし、この曲について詳しく話してもらったこともあったが、失礼ながらあまり実感は湧かなかった。

 結局、この曲の真価は、今回初めて理解できたようなものである。その意味でも、今日のバッティストーニと東京フィルの大熱演には、感謝しなくてはならない。
 大編成の管弦楽はすこぶる色彩的であり、ジャズの手法やストラヴィンスキーの影響なども聴き取れ、ほぼ30分間におよぶ組曲(切れ目なしに演奏された)におけるロータの才能は、やはり端倪すべからざるものがある。
 あの有名な「ジェルソミーナ」のテーマも第3曲と第7曲で現われたが、特にその第7曲では、トランペットで甘く朗々と吹かれる。見え見えの効果狙いであるとは思いつつも、何となくジンと来てしまうのが、あの映画の初公開時代を体験している世代の人間の、偽らざる感情というものであろう。

 プログラムの後半は、レスピーギの「教会のステンドグラス」だ。「ローマ三部作」以外のレスピーギの優れた作品が、こうしてバッティストーニの指揮により聴くことができるのは、大いなる喜びである。これは、この作曲家がいかに管弦楽法の名手であったかを示す最良の作品の一つであろう。

 アンコールには、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲が、かなり濃い表情で演奏された。バッティストーニみずから、10月に上演予定の「イリス」について予告、その同じマスカーニの・・・・というアナウンスをして指揮に移る。なかなか巧いPR方法である。
 東京フィルの今日のコンサートマスターは近藤薫。極めて華麗なる熱演を聴かせてくれた。

2016・5・15(日)トッパンホール15周年室内楽フェスティバル初日

      トッパンホール  3時

 トッパンホールは実に良い企画を組む。

 今回の15周年記念のフェスティバルも、6回に及ぶ公演でシューベルト、シューマン、ブラームスなどからシェーンベルクにいたる作曲家の作品を集め、歌曲と室内楽のレパートリーから選曲、なかなか多彩なプログラムを構成している。
 その中でも、シューベルトのピアノ三重奏曲2曲と、弦楽五重奏曲および歌曲集は、特に目立つ存在だろう。

 今日、初日はシューベルト・プロ。
 前半には、ユリアン・プレガルディエン(テノール)とラルス・フォークト(ピアノ)の協演で、「秋 D945」「あこがれ D879」など9つの歌曲が歌われた。
 なお最後の「流れの上で D943」のチェロには、ターニャ・テツラフが協演するという洒落た顔合わせであった。彼女はそれまでの8曲を、ステージ下手側の隅で聴いていたのである。

 歌ったユリアン・プレガルディエンは、あのクリストフ・プレガルディエンの子息で、1984年生まれとのこと。若いが、しっかりと筋の通った歌唱を聴かせてくれる。
 ただ、若さはやはり仕方のないところで、3曲目の「私の心に D860」などのような情熱的な曲想を歌う場合にはそれなりの勢いのいい気概を感じさせるのだが、哀しみや物想いをしみじみと歌い上げるべき部分では、まだまだ・・・・と言わざるを得まい。
 水曜日の「詩人の恋」や、日曜日の「白鳥の歌」では、どんな具合になるか?

 後半は、「ピアノ三重奏曲第2番」。クリスティアン・テツラフ(ヴァイオリン)が加わり、ターニャ・テツラフとラルス・フォークトとのトリオで演奏された。
 これは驚くほど強烈なダイナミズムを持った演奏で、特にフォークトのピアノは、最強奏個所ではホールを揺るがせんばかりの大音響となり、クリスティアンも鋭角的な強奏でこれに応じる。あたかも、強靭な意志力を備えた、荒々しい現代音楽的シューベルト━━といったイメージである。
 まあ、それはそれでいいのだが、この小さなホールで、何もそんなに大きな音を出さなくても・・・・。

2016・5・14(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      横浜みなとみらいホール  6時

 新宿でのシティ・フィルの定期演奏会から2時間置いて、今度は横浜でのアレクサンドル・ラザレフと日本フィルハーモニー交響楽団の「横浜定期」。

 モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲と「ヴァイオリン協奏曲第5番《トルコ風》」(ソロは渡辺玲子)、ベルリオーズの「幻想交響曲」というプログラム。アンコールはビゼーの「カルメン」第3幕の前の「間奏曲」だった。
 日本のオケの演奏もいいものだぜ、世界のブランドだけが全てではないよ、と言いたくなるような例が、ここにもひとつ。

 弦16型の大編成を快速テンポでソフトに響かせた序曲、渡辺の芯の強いソロを羽毛の如く軽やかな音色で包んだ協奏曲━━と進んだあとには、重厚で、見事なほど完璧な音響バランスを備えたベルリオーズが来る。
 ラザレフの指揮だから猛烈果敢な悪魔の饗宴になるだろうと思うのが普通だが、実際は正反対で、これほど遅めのイン・テンポで骨太に、剛直に、力感豊かに揺るぎなく演奏された「幻想」も珍しいだろう。

 ベルリオーズの「激情」は、ここでは烈しく爆発するというよりは、強面の表情の中に矯められ、音楽もロマン派の標題音楽というよりはむしろ古典的な構築を前面に押し出して、滔々と流れて行く。音響こそ轟くばかりの豪快さだが、それが感情に流されることはない。その意味では、最終個所の阿鼻叫喚のクライマックスなど、少々肩透かしを食ったような思いにさせられるだろう。

 なお今回は、第2楽章(舞踏会)で、コルネットのパートが復活され、名手クリストーフォリがトランペットで鮮やかに吹いていた。私は、作曲者自身がカットしてしまったこのコルネットのパートが好きで、復活された方が音楽に華やかさが出ると思っているのだが、久しぶりにこれをやってくれた指揮者に出会ったというわけだ。
 また、第5楽章に本物の鐘(先日「皇帝に捧げし命」の最後で打ち鳴らされたあの鐘である)を使っていたのもよく、これはチューブベルではやはり悪魔的な野趣は出せないだろう。

 ラザレフ、今日も指揮しながら客席に身体を向けてホールの響に浸ってみせたり、客席に向いた格好で勢いよく振り終えてみせたり、果ては自ら客席に降りてしまってオケに拍手を贈ってみせたり、相変わらず賑やかなこと。

2016・5・14(土)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 常任指揮者・高関健が、シベリウスの「交響曲第7番」と、マーラーの交響曲「大地の歌」を振る。コンサートマスターは戸澤哲夫、「大地の歌」での協演は小山由美と小原啓楼。

 シティ・フィルの演奏水準は、高関の下で、期待通りに整備されつつあるようだ。今日の演奏もすこぶる聴き応えがあり、このオケが上昇線を辿っていることが感じられて、嬉しくなる。

 特に、シベリウスの「7番」での重厚で陰翳の濃い、スケールの大きな演奏は見事というべきだろう。音響的な充実感とともに、音楽そのものに力が感じられる。手っ取り早く言えば、こちらの心にじっくりと入り込んで来る演奏なのである。
 敢えて言えば、最近聴いた世界最高ブランドの某外来オーケストラの演奏によるベートーヴェンよりも、こちら日本のオケが精魂込めて取り組んだシベリウスの音楽の方が、ずっと強くこちらの感情の襞に食い入って来るのではないか。

 「大地の歌」は、シティ・フィルとしては大編成の作品に挑んだわけだが、それでも高関の巧みな制御により、良いバランスで聴けたと思う。普通ならオケに消されて聞こえない第1楽章のテナー・ソロも比較的明確に聴き取れたのは、もちろん小原啓楼の力量もあるのだろうが、高関のオケの鳴らし方も巧いのだろう。

 だが概してやはり、叙情的な楽章の方に演奏の良さが出ていたのは事実だ。
 最終楽章「告別」は、所謂ロマン的な陶酔にのめり込む演奏ではないけれども、小山由美の滋味ある歌唱とともに、深みのある寂寥感は充分だった。
       別稿 音楽の友7月号 Concert Reviews

2016・5・13(金)サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル 3日目

     サントリーホール  7時

 今日の二つの「ヘ長調交響曲」━━「8番」と「6番《田園》」は、すこぶる気魄に満ちた演奏で、随所に独自の強い主張が織り込まれていた。
 こうなるとやはり、初日のあの平板な演奏は、やはり時差ボケか疲れのせい、ということになるのだろうか? 昨夜の「5番」も絶賛されていたようだし・・・・。

 「8番」は、豊麗な響きの裡にも、鋭いデュナミークの対比と、大きな起伏と、強い推進力とを充分に備えた演奏となっていた。第1楽章冒頭の1小節のみ、弦の主題の8分音符の動きが管にマスクされてしまい、ぎくりとさせられたが、それ以降は均衡豊かな快演である。
 緊迫性という点では、このコンビの初期の頃の演奏より少し自由さが増したように思うが、曲想が移り変わるのに応じた管弦楽の音色の多彩さは、流石のものがあるだろう。

 後半の「田園」は、今夜の圧巻といっていい。
 極度のピアニッシモが随所に使われており、そのやっと聴き取れるような最弱音は、特に第2楽章で微細かつ精緻なニュアンスを最高度に発揮していた。第5楽章では、特に弦の各パートの織り成す線が明快で、それらが交錯して行くさまが素晴らしい。ラトルの(昔よりまろやかになったとはいえ)精妙な音づくりと、樫本大進をコンサートマスターとするベルリン・フィルの巧さが、この「田園」では見事に生きていただろう。

 この「田園」、今日の演奏よりは、キング・インターナショナルから発売された昨秋の録音における方が演奏にスウィングが感じられ、もちろんアンサンブルも整っている。そしてまた、かつてスクロヴァチェフスキがあんなにも美しく歌わせた第5楽章のヴィオラのフレーズ(第64~71小節、第117~124小節)を、ラトルもまた、やや控えめではあるがカンタービレを利かせて歌い上げていたのが、録音では明確にわかる。
 今日のナマ演奏では、そこまでの細やかさは聴き取れなかったが、これは1階席では無理だろう。2階席でなら、あるいは明瞭に聴き取れたかもしれない。
 だが一方、ラトルとベルリン・フィルのあの念入りなピアニッシモの妙味となると、これはもう、1階席でだろうと2階席でだろうと、やはりナマで聴いた方が、美しさもはるかに際立って聞こえる。

 正直なところ、初日は本当に落胆して会場を出たのだが、今日はかなりの程度まで彼らの本領に触れることができたようだ、という、ある程度の満足感。

2016・5・11(水)サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル 初日

      サントリーホール  7時

 ラトルとベルリン・フィルにとっての、これが最後のベートーヴェン交響曲ツィクルスになる由。今日は第1夜で、「第1番」と「第3番《英雄》」。

 思えばこの同じサントリーホールで、ラトルがウィーン・フィルを指揮した、プログラムも同じ「1番」と「英雄」を聴いたのは、もう15年も前になる━━まだほんの昨日のことのような気もするが。
 あの頃は、ラトルも「尖った」指揮で、「英雄」など表現主義的な激烈さがあり、各パートの音のぶつかり合いが、ベートーヴェンの革命的な手法を強く感じさせたものだった。
 だが、その頃に比べると、ラトルの指揮も、随分丸くなったようである。

 ベルリン・フィルの音も、ラトルのシェフ就任前後の演奏(たとえばベルリンで聴いた「第9」など)と比べると、かなり柔らかく感じられてしまう。1階席後方で聴いた限りでは、弦(「1番」は10型、「英雄」は12型)が前面に浮かび上がり、管は後方に溶け合って響き、全体に飽和した音で、良くも悪くも安定した演奏という印象である。もっとも、昨年彼らが録音した同じ曲のCDを聴いてみても、やはり似たような特徴が示されているから、今日だけの特徴でもなさそうだ。

 だが・・・・それにしても、今日の演奏は、単に響きの問題だけでなく、演奏のアプローチそのものも、随分おとなしく、温厚で、「物わかりのいい」ものになってしまっていたように思う。ベートーヴェンの革命的で攻撃的な手法もかなり薄められ、特に「1番」など、むしろ優雅な手すさびのような雰囲気さえ感じられてしまったというのは極端な見方か?
 このホールの1階中央やや後方では音が拡散して聞こえるという癖もあるので、あるいはその影響かもしれないが。「英雄」も、全部が全部そうというわけではないが、淡彩な演奏に感じられる。

 樫本大進をコンサートマスターとするオーケストラは、相変わらずいい音だが、いわゆるスーパー・オーケストラのイメージは、些か薄れたか。
 特に今日はホルン群のバランスが悪いのが気になった。1番奏者は不思議におとなしいし、一方3番奏者の音は何故か荒っぽくて強く、第3楽章トリオでのあのホルン3本のファンファーレの音も、甚だアンバランスだ。リピートの際には1番奏者の音も少し明確になったところをみると、旅の疲れか、ノッていなかったのか?

 オケも人間の集団だから、日によって演奏が違い、出来不出来もあることは当然ではあるものの、これはあまりベルリン・フィルには似合わぬバランスではある━━。とはいえ、いずれにせよ、今日の演奏だけで云々するべきではなかろう。

 ラトルはまだ61歳、丸くなるのは早すぎる。あの15年前の鮮烈な演奏が懐かしく思い出された次第である。

2016・5・11(水)中嶋朋子が誘う音楽劇紀行第一夜

    Hakuju Hall  2時

 当初は夜の公演だけだったのが、完売になったので昼公演が追加されたそうである。この昼公演もほぼ満員。圧倒的に女性が多い。

 全6回と予告されたこのシリーズ。今日の第1回は、「バロック・オペラからミュージカルへ~音楽劇の歴史を追う」という副題が付されており、グレゴリオ聖歌からミュージカルまでの中から13作品を取り上げ、中嶋朋子が「案内人」となって朗読を受け持つという仕組みだ。

 曰く、グレゴリオ聖歌、中世典礼劇、ジョスカン・デプレ、シャルル・テシエの作品から各1曲と、以下はオペラから、モンテヴェルディ、ヘンデル、パーセル、モーツァルト、ヴェルディ、マスネ、フンパーディンク、J・シュトラウス2世、バーンスタインの作品から各1曲が並ぶ。
 演奏者は、ヴォーカル・アンサンブル・カペラ、藤木大地、森谷真理、中川晃教。音楽監督として加藤昌則がピアノとオルガンとチェンバロを演奏、田尾下哲が総合プロデューサーを務めた。

 これは、極めて面白い企画だ。中嶋のナレーションがあまり理屈っぽい内容でなく、人類が登場した頃の最初の発声から、それが神への祈りの歌、人間ドラマの音楽へと展開して来たさまを、少しロマンティックな雰囲気をこめて物語るという、解りやすい形になっているのもいい。これがもし音楽学者が出て来て解説しながら━━という形になっていたら、堅苦しい音楽講座になってしまい、こんなに満員にはならなかったことだろう。

 声楽陣の中では、中世の音楽を得意とするヴォーカル・アンサンブル・カペラと、バロック以前の作品を歌うカウンターテナーの藤木大地が、歌唱に説得性を感じさせていた。
 ただしどうも、声楽と加藤昌則のキーボードとの呼吸が、一体感に欠けるのだが・・・・。

 ついでに、敢えて注文をつければ、台本作者の名は明示されていないが、ナレーションの中に出て来た作品の話が、実際に演奏される作品と結びつかなかったりすることがある。「オルフェオ」の物語に詳しく触れながら、曲名紹介なしに始まった曲が「ポッペアの戴冠」だったという具合である。暗い席ゆえにプログラムを参照するわけには行かぬ客席の状況を考慮すると、台本としてはもう少し考慮する必要があるだろう。

 そして、どんな作品にも、やはり字幕が欲しいところである。
 さらに、ナレーションと演奏の接続━━ステージへの出入りを含む━━をもっとスムースなものにしていただきたい。田尾下哲が絡んでいるなら、もう少し要領よく、洗練された形で演出されるかと思っていたのだが。

 第2回は、今年12月になるという。良い企画だから、いろいろ練り上げていただきたい。くれぐれも、単なる「オペラ名アリアの夕べ」という平凡な構成に堕さぬようお願いする。

2016・5・10(火)外山雄三の大阪交響楽団シェフ就任定期

     ザ・シンフォニーホール  7時

 午前10時から赤坂のキャピトル東急ホテルで、ラトルとベルリン・フィルの来日記者会見が行われた。61歳を迎えているラトルは、かつての精悍な雰囲気から丸味のある堂々たる風格の体型となって、一瞬マゼールが出て来たのかと錯覚を起こさせるほど。

 それはそれとして、午後から大阪へ向かう。これは文化庁の芸術文化振興基金の調査を兼ねてのもので、聴きに行く演奏会は、外山雄三の大阪交響楽団ミュージック・アドバイザー就任記念の定期だ。
 プログラムは、外山自身の作「オーケストラのための《玄奥》」で開始され、次がプーランクのバレエ組曲「模範的な動物たち」、最後にベートーヴェンの「英雄交響曲」。

 先日の「大阪4大オーケストラ」の時にも感じられたことだが、大阪響は彼の指揮の下で、最強奏における金管と弦とのバランスの良さなど、アンサンブルの整備は実現されつつあるように思われる。特に金管群は、安定度を増した。荒れていたアンサンブルを整えるには、こういう指揮者がお目付け役として存在するに限る。
 ただ、それはいいのだが━━。

 最初の自作(昨年初演された、諏訪交響楽団創立90周年委嘱作の由)は「名刺代わり」ということでともかくとして、次のプーランクの作品は、いかにも生真面目な、整然として端整極まる音楽となっていたのには微苦笑を誘われる。これは、プーランクの作品からウィットやユーモアや色彩感を取り去るとこういう音楽になるのだ、という見本のような演奏ではなかったか。

 「英雄」は━━デュナミークや、ホルンの扱いに一部強調はあったものの━━ほぼ楽譜に忠実な演奏となっていたが、しかし・・・・これほど全く作為なしに、淡々と、しかも終始イン・テンポで押し切った「英雄」も珍しいだろう。

 確かに、ストレートな演奏なりの良さは感じられた。第1楽章にはそれなりの飾らぬ風格はあったし、第2楽章終結近くでは、作品に本来備わっている寂寥感が飾らぬ表情で自然に、感動的に再現されていた。
 だが、後半2楽章になると、そのあまりにも頑固なイン・テンポが、次第に耐え切れなくなるほどの重圧に感じられ始めたのも事実である。

 第4楽章終結のプレストが、その前のポーコ・アンダンテに比べて快速感がなく、悠然と進められ、そして最後に念入りなリタルダンドを以って閉じられると・・・・「傑作の森」の時期に突入した若きベートーヴェンの革命的な気魄が、こんなに落ち着き払った、老成した形に変えられてしまってもいいのだろうか、という疑問さえ起って来る。

 カーテンコールの際、森下幸路コンサートマスターが拍手を一度制し、「今日は外山先生のお誕生日です」と告げると、客席から改めて歓声と拍手が巻き起こり、「ハッピー・バースデイ」の演奏とともに、二宮光由インテンダントが、人の上半身ほどもある大きな花束をマエストロに捧げるという温かいセレモニーがあった。

2016・5・9(月)ライプツィヒ・クァルテット

    サルビアホール(鶴見駅前) 7時

 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の元首席奏者たちを含むメンバーで構成されているライプツィヒ・クァルテット。それをわずか100席のホールで、インティメートな雰囲気で聴けるのだから、贅沢なものだ。

 現メンバーは、ヴァイオリンがコンラート・ムックとティルマン・ビューニング、ヴィオラがイフォ・バウアー、チェロがマティアス・モースドルフ。
 このうち、第1ヴァイオリンのムックは、アンドレアス・ザイドル、シュテファン・アルツベルガーに継ぐ3代目だ。アルツベルガーがある不祥事のために出られなくなっているのに代わって、頑張ってはいるものの、どう贔屓目に見ても他の3人と全く音楽性が異質で、音色ひとつ取ってみても彼だけが浮き上がっているような気がする。アルツベルガーの復帰はならないものか?

 プログラムは、最初がグリーン・デイヴィス編曲による弦楽四重奏版、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」。言っちゃなんだけれど、弦楽器4本がさっぱり調和しない、甚だつまらない編曲である。
 次がドヴォルジャークの「アメリカ」。演奏はやや荒っぽく、それぞれの奏者が己を主張しながら弾いているような感があったが、これがいざフィナーレの最後の追い込みにかかるや、途端にがっちり一丸となって猛烈なエネルギーで追い上げて行くところが、いかにもドイツのクァルテットらしい。チェコの四重奏団だったら、こんなにデモーニッシュな力感にはならないだろう。

 そして最後がブラームスの「第2番イ短調」で、この曲に入ると途端にアンサンブルが溶け合い、渋く内省的な作品の性格が浮き彫りにされるところが、さすがお国ものの強みである。ただここでも、ムックの音色だけが、他の3人の渋い落ち着きのある音楽と微妙に食い違っていたような気がしてならない。

 アンコールでは、何故か「ローレライ」の弦楽四重奏版が演奏された。満席の客は拍子抜けしたのか、拍手の密度は、その前のブラームスの作品の時ほどではなかった。

2016・5・8(日)サンデーコンサート 日本フィル創立60周年記念

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 フォーマルな創立記念年祝賀演奏会ではなく、会員対象のお祭りコンサートといった趣で、終演後にも会員と楽員の交流パーティを開催する。いかにも日本フィルらしい行事である。
 そのパーティは同劇場2階のレストランで行なわれたが、協演した日本フィルハーモニー協会合唱団の方は、別に隣のレストランで打ち上げパーティを行なっているという、何だかよく解らないけれど、賑やかな日曜午後となっていた。

 演奏会での指揮はアレクサンドル・ラザレフ、ピアノは若林顕、コンサートマスターは木野雅之。
 プログラムは、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」と「白鳥の湖」組曲、ボロディンの「イーゴリ公」から「ポロヴェッツ人の踊り」、最後にグリンカの「皇帝に捧げし命」より「終幕の合唱」。

 拍手の中を小走りに登場したラザレフは、指揮台に飛び上がり、満員の客席に慌ただしく一礼するが早いか、振り向きざまに猛然と指揮を始める。例の調子だ。
 楽員も最初は立って答礼していたわけだから、座った途端に音を出すこの早業は、見上げたものだ。
 何しろ曲は威勢のいい「ルスランとリュドミラ」序曲、冒頭から盛り上げて煽るにはこの方法に限る。もしこれを、ゆっくり着席させて、それからじっくりと神経を集中して・・・・といった調子で始めたら、全くクソ真面目な、格式ばった演奏会になってしまうだろう。

 とまあ、そのクソ真面目でない、楽しいところは取り柄なのだけれど、この日の演奏は、最初から最後まで、ドッシャンガッシャン鳴りわたる猛烈なものになった。もしラザレフと日本フィルの演奏を初めて聴いた人がいたら、まあ何という指揮者とオケだろ、とびっくりしたかもしれない。
 だが幸いなことに、このラザレフと日本フィルが、普段はどんなに見事な演奏をしているかを、われわれは充分に心得ている。したがって今日はあくまで気軽なお祭りイヴェントである━━ということで、クスクス笑って聴き終えたことにしよう。

 それにしても、ラザレフの指揮するロシア・オペラを日本で聴ける機会がなかなかないのは残念だ。ボリショイ劇場芸術監督時代の彼が、どんなに壮大で劇的な音楽をつくる指揮者だったか。それは、当時の「皇帝に捧げし命」や「オルレアンの少女」のライヴ上演映像で、その片鱗を窺い知ることができる。
 首席指揮者の任期は間もなく終わるにせよ、日本フィルとの縁が切れぬうちに、せめて演奏会形式で、今度はシリアスなスタイルで、何か指揮してくれる機会が出来ぬものか。

2016・5・4(水)ラ・フォル・ジュルネ(4)アフリカン・パーカッション

      東京国際フォーラム ホールB7(ライン)  7時15分

 アフリカ大陸の中央部、タンガニーカ湖の東に位置するブルンジ共和国から訪れた打楽器集団、「ドラマーズ・オブ・ブルンジ The Master Drummers of Burundi」の演奏会。
 これは2年前にユネスコの無形文化遺産に登録されているものの由。

 演奏者は、色彩的な民族衣装を纏った11人の男たちである。
 樽のような太鼓━━解説書を読むと、木をくり抜いて空洞を作り、動物の皮を張ったもの、とのこと━━を打ち鳴らしつつ踊り、跳躍し、声を発して、激烈なパフォーマンスを展開する。

 太鼓の連打も腹と心臓に響くが、それ以上に、その持続力が凄まじい。
 日本の太鼓だったら、序破急の流れとか、静と動との対比とか、変化と起伏のある構成が採られるだろうが、このアフリカのパーカッションは、常に「動」と「強」の連続である。日本の太鼓の演奏会ならクライマックスに当るであろう部分が、こちらアフリカ版では、最初から最後まで、45分間も持続するのである。
 この執拗な、疲れを知らぬエネルギーは、まさにアフリカの大地から生まれたものに他ならないだろう。静謐な山国の日本のそれとは、ケタが違うようである。

 オープニングでは、ステージ袖から、9人の男が頭上に太鼓を乗せ、各々が自ら叩きつつ、前後を守る2人の踊り手と共に登場した。儀式的な雰囲気のダイナミックな舞踏は何人かが交替で務め、その都度見得を切るようにして観客の大拍手を浴びる。最後は太鼓を再び頭に載せ、観客の手拍子に包まれながら、躍るような足取りでステージ袖へ姿を消して行く。

 若い人たちが圧倒的に多い今夜の客席は、ノリもすこぶるよろしい。「観ると面白い。音だけだったら恐い」とは、帰りがけのエスカレーターで私のうしろにいた関西弁の若い女性2人連れの会話。

2016・5・3(火)ラ・フォル・ジュルネ(3)庄司紗矢香の「四季」

      東京国際フォーラム ホールB7(ライン)  8時30分

 再びさっきのホール。「音楽の冒険~21世紀に甦る《四季》」と題された演奏会。

 庄司紗矢香とポーランド室内管弦楽団が披露したのは、ドイツの作曲家マックス・リヒターがヴィヴァルディの《四季》をリコンポーズ(Re-compose)した作品。
 庄司紗矢香が出るということだけでも満席になり得るだろうが、この曲自体も、以前に出たCDによって、その方面の人たちの間では、かなり話題を集めていたようである。

 とにかく、やたら面白い。
 ヴィヴァルディは確かにそこにいるのだが、鳴り出す音楽は、ヴィヴァルディとは別物である。ヴィヴァルディに似て非なる「四季」というか、ヴィヴァルディの「四季」が見え隠れしながら現われる何か別の曲、というか━━。そのくせ、ヴィヴァルディの原曲がほぼそのままの形で現われる瞬間も僅かには有る。
 しかも、ミニマル・ミュージックのスタイルが主導権を握るこの再構築作品にはハープまで使われ、それがまた、不思議に快い躍動感と音色とをつくり出していた。

 このマックス・リヒターという人、ルチアーノ・ベリオの弟子だそうだ。なるほどこの編曲、親分の手法によく似ていて、さもありなん、と納得。

2016・5・3(火)ラ・フォル・ジュルネ(2)ウラル・フィル

      東京国際フォーラム ホールA(ロワール)  7時15分

 「ラ・フォル・ジュルネ」にはほぼ毎年登場して来るオーケストラ、ドミトリー・リスが指揮するウラル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会。

 これを聴きに行ったのは、細川俊夫の「循環する海」がプログラムに載っていたからである。
 この曲を前回聴いたのは━━つい最近のような気がするが、実はもう9年も前になる━━準・メルクルと国立リヨン管弦楽団の演奏(2007年11月6日の項)だった。あの時のような丁寧な演奏でないとこの人の音楽は生きないから、今日はどうかな・・・・と、聴く前は危惧していた。
 だが、思いのほか繊細な表現も備わった、囁くような最弱音から量感豊かな昂揚まで念入りに構築された演奏が聴けて、一安心。その前に演奏されたドビュッシーの「海」が、少し重いけれどもそれなりに何とか雰囲気もあったので、併せて聴いて、損はなかったと思う。

 それにしても、5008席を持つこの巨大なホール━━今日はプレスにあてがわれた席が1階38列の下手側だったが、未だ背後に相当な列を残す位置でありながら、ステージはすでに雲煙万里の彼方。オケも、前の方に座っているお客さんも、まるで豆粒のように見える。

2016・5・3(火)ラ・フォル・ジュルネ(1)ローザンヌ声楽アンサンブル

      東京国際フォーラム ホールB7(ライン) 5時

 東京は今日が初日。快晴の音楽日和。

 今年のテーマは「la nature」(ナチュール~自然と音楽)だそうで、何らかの意味で自然や動物といったものに関連する音楽を中心に据えてのプログラミングが為されている(さほど関連のないものも混じっているので、「中心に」と言った)。

 フォーラム内の各ホールには例年、テーマに因んださまざまなニックネームが付けられるが、今年は世界の「河」の名だ。曰く、ロワール、ライン、ドナウ、モルダウ、テムズ、セーヌ、アマゾン━━という具合である。「アマゾン」は、日比谷野外音楽堂のことだ。
 ここは東京なのだから、たまには日本の河の名前を付けたっていいのではないかという気もするが━━しかしまあ、プログラムには日本の作品が残念ながらほとんど無いのだし、プロデューサーが外国人(ルネ・マルタン)なのだから、仕方あるまい。それに「利根」とか「信濃」とか「大淀」では、昔の軍艦みたいになってしまうし。

 今年最初に聴いたのは、822席の「ホールB7(ライン)」で、5時に始まったダニエル・ロイス指揮ローザンヌ声楽アンサンブルによる「自然へのオマージュ~文学と音楽の至福の出会い」と題された演奏会である。
 プーランクの「7つの歌」、ドビュッシーの「シャルル・ドルレアンの詩による3つの歌」、ラヴェルの「3つの歌」、ヒンデミットの「リルケの詩による6つのシャンソン」、フォーレの「ラシーヌの賛歌」および「魔人たち」というプログラムだった。フランスものの好きな聴き手にはこたえられぬひとときである。
 ホールの音響がデッドゆえに、コーラスに余韻が感じられないのだけは惜しいが・・・・。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」