2017-02

2016・4・29(金)準・メルクル指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  2時

 先週のフランス・プロは、残念ながらスケジュールの関係で聴けず。
 今日は「スコットランド特集」で、ドビュッシーの「民謡の主題によるスコットランド行進曲」、ブルッフの「スコットランド幻想曲」(ヴァイオリン・ソロは豊嶋泰嗣、ハープは平野花子)、メンデルスゾーンの「交響曲第3番《スコットランド》」というプログラム。コンサートマスターは西江辰郎。

 この数年来、メルクルが新境地を示しはじめていることは、いくつかの演奏会を聴いて承知していたのだが、今日の「スコットランド」などを聴くと、明らかにそれが確認できるような気がする。

 弦をかなり硬質な響きで弾かせているのは私の好みに合わないけれど、それに管の独特のバランスが加味されると、オーケストラの音色にある種の透明感が生れるのは事実で、これはなかなか面白いものがある。
 しかも、木管群を明確に響かせ、ふつうなら弦の背後に隠れるようなフレーズをはっきりと浮き出させつつ交錯させるため、特に第3楽章を中心に、音楽が聴き慣れたものとは異なった様相で立ち現れて来ることも多く、新鮮なイメージを与えてくれるのである。

 何より感嘆させられたのは、メルクルがメンデルスゾーンの音楽を、極めて緊迫感に満ちた推進性のある世界として再現していたことだ。第1楽章主部での、たたみかけるような猛烈な追い上げの迫力には息をのまされたし、嵐の個所での攻撃的なクレッシェンドとデクレッシェンドにも驚かされる(その迫力は、部分的に、1941年録音のトスカニーニ=NBC響の演奏を思い出させるところもある)。

 このメルクルの指揮は、「スコットランド交響曲」の全曲が、エディンバラの古城での悲劇的な事件のイメージで覆われていること、そしてもう一つ、メンデルスゾーンが一般に考えられているような、おっとりした「幸福な天才」では必ずしもないこと━━という、彼の解釈を示しているようにも聴き取れるのだが。

 ドビュッシーの行進曲も、硬質な弦と、強く響く木管との不思議なバランスの音色によって、バグパイプを思わせるサウンドを巧く再現していた。
 またブルッフの「幻想曲」でも、オーケストラ・パートは、ふつうの演奏によくある憂愁感というより、一種の剛直な精神に支えられているような感を受けた。そういえばこの曲の第4楽章の主題は、ベルリオーズも「ロブ・ロイ」序曲に取り入れている、スコットランドの「戦いの歌」でもあった・・・・。
      別稿 モーストリー・クラシック7月号 公演Reviews

2016・4・28(木)カール=ハインツ・シュッツ フルート・リサイタル

    フィリアホール(横浜市青葉区民センター) 7時

 ウィーンの名フルート奏者、カール=ハインツ・シュッツと、ピアノの長崎麻里香の協演。
 モーツァルトの「ソナタK301(293a)」、ゴーベールの「ソナタ第3番」、ブーレーズの「ソナチネ」、C・P・E・バッハの「無伴奏ソナタ イ短調」、プーランクの「ソナタ」、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」組曲(自編)━━と、どれもシュッツの美音を余すところなく発揮する選曲だ。

 品のいい表情の裡に芯の通った堅固な構築を感じさせるシュッツの演奏、特にブーレーズの初期の作品「ソナチネ」が白眉で、それに次いで流麗なプーランクの「ソナタ」も魅力的であった。プロコフィエフの「ロメジュリ」の編曲には注目していたのだが、原曲のイメージは見え隠れする程度で、やはりこれがぎりぎりのところなのかな、という感。

 ブーレーズでは、終結直前にチャイム風のケータイ音を大きな音で延々と鳴らした「国賊」が出現、シュッツがまるでそれに負けじと鋭いフォルティシモで吹きまくって応戦したような趣もあって━━もちろん曲自体がそういうつくりでもあるのだが、ともあれ天国のブーレーズには申し訳ない仕儀と相成った。
 ピアノの長崎麻里香が豊かな音で好演。

2016・4・27(水)レナード・スラットキン指揮NHK交響楽団

      サントリーホール  7時

 B定期。前半がバーンスタイン、後半がマーラー━━とは、なかなか意味深な組み合わせのプログラムである。

 バーンスタインの作品は、「キャンディード」序曲、「オン・ザ・タウン」から「3つのダンス・エピソード」、「ウェストサイド・ストーリー」からの「シンフォニック・ダンス」。マーラーは「交響曲第4番」。ソプラノ・ソロは安井陽子、コンサートマスターは伊藤亮太郎。

 バーンスタイン作品集では、N響もよく演奏してはいたが、やはり重い。それに、どう聴いても、いささかノリが悪い。
 もっとも、彼の作品をスウィング感豊かに躍動して演奏できるのは、アメリカのオーケストラ以外にはないだろう。それにアメリカのオケだって、完璧にそれを実現できたのはバーンスタイン自らが指揮したニューヨーク・フィルくらいなもの(録音で聴く限りは、だが)なのだから、致し方なかろう。

 今日は「ウェストサイド・ストーリー」で「マンボ!」の掛け声も出たが、やはりおとなしかった。
 思い出すのは十何年か前、小澤征爾がこのN響に客演し、これを指揮した際のこと。リハーサルでの「マンボ!」があまりに小声なので、彼は「皆さん、恥ずかしいですか?」と、楽員を説得にかかった。その結果、本番では、これがN響かとびっくりするほどの「マンボ!」の絶叫が炸裂して・・・・。
 その日は私がNHK-FMのN響定期生中継の解説を担当しており(民放局出身のこの私が畏れ多くも、である)一部始終を見ていたので、これは本当の話である。

 マーラーに入ると、N響も息を吹き返したような演奏になる。第1楽章前半こそ、やや乗らぬ雰囲気があったものの、1番ホルンが見事なソロを聴かせた個所(第110小節から)をきっかけとして、演奏は昂揚して行った。

 ただ、このB定期のサントリーホール(初日)のお客さんは、おとなしく、静かだ。N響の演奏が燃えない(もちろん例外はある)原因の一つは、一概には言えないけれど、この物静かな客層にもあるのかな、と━━。これはしかし、見当違い説か?

2016・4・25(月)プレトニョフ指揮東京フィル 「ペール・ギュント」

     サントリーホール  7時

 イプセン原作の劇詩/戯曲とグリーグの音楽の組み合わせ。

 「全曲版として現在最も信頼できる『グリーグ作品全集』版を用いつつ、劇の進行に沿った語りも入れての演奏」(寺西基之氏によるプログラム解説より)で、アレクセイ・ブルーニのロシア語版朗読台本(ミハイル・プレトニョフ監修)を基にした鈴木功訳による日本語台本を、石丸幹二が朗読。
 協演の声楽陣は、新国立劇場合唱団、ベリト・ゾルセット(ソールヴェイ)、大久保光哉(ペール・ギュント)、富岡明子(アニトラ)他。
 前半約60分、後半約80分という長さで、終演は9時35分となった。

 これは東京フィルの昨年の定期で上演が計画されていた企画だが、プレトニョフ側の事情で延期になっていたものである。折しも今年がちょうど初演140年記念の年に当るから、かえってよかったかもしれない。

 演奏は極めて力の入ったもので、プレトニョフはかなり遅めのテンポ(「嵐」など)を採り、柔らかく膨らみのある響きをオーケストラから引き出し、すこぶる陰影に富んだ、物語の内容に相応しい寂然たる色合いを以って、全曲を大河の流れの如く進めて行った。
 組曲版でもおなじみの、あの懐かしい音楽が、今日は極度に翳りのある音色に包まれて現れる。それはグリーグの音楽にしては少し重い演奏と感じられなくもないが、静寂の中に人間的な温かさを湛えていた点では、まさにグリーグそのものだったであろう。彼の作曲小屋と山荘のあるあのトロルハウゲンを訪れると、まさにこういう音楽の雰囲気を、そのまま感じるのである。その意味でも、プレトニョフの音楽づくりは、極めて巧みなものがあった。

 かつてのコンサートマスター荒井英治がゲストでトップに座った東京フィルの弦の音色は殊更にふくよかで、「オーセ(オーゼはドイツ語読み)の死」での最弱音の美しさなどは、このオーケストラからは久しぶりに聴けたものだったし、また「嵐」での管楽器群の奥行感のある響き(dim.の個所でのバランスなど)も詩的な余韻を湛えたものであった。

 石丸幹二のナレーションは、表情も適切で、きっかけといい、テンポといい、音楽と実に見事に組み合わされていたのには感心した。第2部に入って、ナレーションの内容がペールの独白に重点が置かれるようになってからは、その抑制されたトーンが、語尾などにちょっと聞き取り難い個所を生じさせたものの、それはごく一部に過ぎない。プレトニョフの指揮と呼吸の合った彼の明晰な語りは、まさに音楽を生かし、物語を生かしたのである。

 ソリストの中では、ベリト・ゾルセットの清純この上ない、透明な美しさに富んだソプラノが映えた。全曲は切れ目なしに進められていたのだが、彼女の「ソールヴェイ(ソルヴェイグ)の歌」(第4幕)が澄んだ高音の裡に歌い終えられた時だけは、客席から拍手が沸き上がったほどである。

 今回は字幕付きで、曲名と、原語で歌われた歌詞の内容とが字幕に投映されたが、これは賢明な方法であった。ただその文体が少し荒っぽいのと、特にセリフ部分が「ら抜き」の文章であったことには強い抵抗感を覚えたが━━。

2016・4・24(日)大阪4大オーケストラの響演

    フェスティバルホール(大阪)  5時

 昨年4月22日の第1回に続いて今年も開催された、大阪オーケストラ界のユニークな大企画。「第54回大阪国際フェスティバル」の一環。

 今年は、最初に外山雄三指揮大阪交響楽団がストラヴィンスキーの「カルタ遊び」を、続いて井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団がラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲を演奏。
 そして第2部では、飯守泰次郎指揮関西フィルハーモニー管弦楽団がワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」を演奏、最後に飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団がベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」で締めるというプログラムだった。

 1都市の4つのオーケストラが一堂に会し、順番に演奏して見せるなどというイヴェントは、多分他に例はなく、いわゆる「関西のノリ」ゆえに出来ることだろう。
 昨年同様、各団体や指揮者がそれぞれ「やりたいもの」を出して来たプログラムがよく出来ている。前半には20世紀の対照的な性格を持ったバレエ音楽があり、後半にはドイツものがある。しかも全体を通じ、音楽史を遡る流れになっている。

 大阪響(コンサートマスターは林七奈、以下同)を指揮した外山雄三は、そのミュージック・アドバイザーに就任したばかり。生真面目で隙のない指揮で、新古典主義の作品を整然と構築する。それは俗受けする面白味に少々不足したとはいえ、大阪響が極めて引き締まった演奏を聴かせたのが注目された。オケのアンサンブルをもう一度整えるには、このような路線が適切なのかもしれない。

 続く井上道義と大阪フィル(田野倉雅秋)は、4団体のうち唯一の16型4管の大編成で、奔放華麗な大絵巻の演奏を披露してみせた。一転して飯守泰次郎と関西フィル(岩谷祐之)は、息の長い厚みのあるワーグナーを聴かせ、7月の「トリスタン」第3幕演奏会形式上演の予告編とした。
 そして飯森範親と日本センチュリー響(客演の高木和弘)は、12型2管編成ながらコントラバスを6本とし、大トリを飾るにふさわしい渾身の大熱演を聴かせて、特に第4楽章冒頭と展開部での昂揚感は見事なものがあった。

 近年、大阪のオケのアンサンブルが荒れ気味になっているのではないか、という印象があり、内心危惧していたのだが、今日の演奏を聴くと、センチュリー響には「ハイドン交響曲ツィクルス」でアンサンブルを鍛えている成果が如実に感じられたし、大阪響も前述のように引き締まった演奏を聴かせてくれたのは嬉しい。関西フィルも飯守の大波のようなワーグナーをよく再現していたと思う。
 ただし大阪フィルは、「いっちょう派手にやったろかい」という雰囲気が見え見えの演奏で、それはそれで大変結構だし、井上らしい面白さもあって良かったのだが、ことアンサンブルという点に限って言えば、老舗の大オケの油断(?)のようなものがチラチラと・・・・と、感じられたのだが如何。

 今回聴いたのは、2階席正面最前列だが、そこでは概して金管が正面から炸裂して鋭い音になり、また低音があまり響いて来ないという癖があるようだ。
 ただその中で、日本センチュリー響が採っていたコントラバスを正面奥に、トランペット(2本)を上手側に、という配置が、最もバランスよく聞こえたように思う。とはいえ、下手側の席にいた知人はトランペットが正面から飛んで来て少々・・・・とのことだったから、聴く位置によりすべての印象が変わって来るのは致し方ないようである。

 なお、オケの入れ替えに伴う大変なステージ転換作業は、今回も人海戦術により鮮やかに進められていた。特に第1部での、大阪響が退場してから大阪フィルの演奏が始まるまでわずか10分━━という進行は、偉とするに足る。
 大勢のスタッフの流れるような動きとともに、椅子と楽器がステージいっぱいに拡がって配置されて行くさまは、一種スペクタクルで、爽快であった。その動きを楽しんだお客さんもいたと聞く。

 4人の指揮者のプレトークも、面白い。演奏終了後にはまた4人の指揮者がステージに登場、各オーケストラの定期のチケットが当たるという抽選会が行われた。そういう場での仕切りは、やはり飯森範親が一番上手い。
 また笑いや不満のつぶやきなど、聴衆の率直な反応が、いかにも関西らしくていい。

 この演奏会は、オーケストラの聴き比べという、千載一遇の好機ともなっていたので、聴衆がどのオケを選んでその定期会員になろうか、という選択にも役立ったのではないかと思う。
 7時半頃に終演。意外に早く終った。
        別稿 モーストリー・クラシック7月号 公演Reviews

2016・4・23(土)山田和樹指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 読響は東京芸術劇場との提携によるマチネーのシリーズを拡大し、新シーズンから「土曜マチネーシリーズ」と「日曜マチネーシリーズ」を開始したが、今日はその第1弾とでもいうべき演奏会。
 山田和樹が客演指揮、オネゲルの「パシフィック231」、グリーグの「ピアノ協奏曲」(ソロは小山実稚恵)、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」という、すこぶる強力な布陣が敷かれた。

 客席がほとんど全部埋まっているのに感心する。見たところ、年齢層はやはり高めのようだが、ふだんクラシックの演奏会にはあまり来たことのないような人も結構多いようで、その意味では、聴衆の拡大を図る土・日のマチネーの成果は出ていたと思われる。

 演奏が見事。山田和樹の張りのある指揮と、読響(コンサートマスターは小森谷巧)の強大なパワーとが相まって、骨太で豪壮な演奏が出現した。
 山田の「パシフィック231」は、一昨年のスイス・ロマンド管との日本公演でも聴いた記憶があるが、今回はその時の演奏よりも更にダイナミックな機関車の驀進が描かれていただろう。

 半世紀ほど昔、ある評論家がパリでこの曲を聴き、「それは本当にもう物凄い曲だと思いましたよ」とラジオで語っていたのに憧れ、その後日本のオケが演奏するのを二つ三つ聴いたが、騒々しいだけでちっとも凄くないじゃないか、と落胆し続けた経験がある。それを思えば、今日の演奏は、夢の実現ともいうべく、至極満足なものであった。近くにいた中年の女性2人組は「なんだ、こんなに短いの?」とがっかりしていたが・・・・。

 小山実稚恵のグリーグを聴いたのは、もしかしたら今回が初めてだったか? 山田はオケを轟々と鳴らし、小山は一歩も引かずにシンの強い表現で丁々発止の応酬を繰り広げる。そのさまが面白い。
 北欧の憂愁美といった要素はあまり感じられないものの、毅然とした佇まいのグリーグ像が立ち現れていたような気がする。久しぶりに聴くと、実に良い曲だ。

 そして最後の「悲愴」は、これもがっちりとした骨格を備えた豪快な音楽づくりだ。チャイコフスキー特有の「ffff」から「pppppp」にいたるデュナーミクの広さはあまりなく、すべてが明晰な音量と音色で演奏されたという感だったが、しかし決して野放図な演奏ではなく、多少の自由さを含みつつも、適切な制御の利いた、スケールの大きな構築だったのである。胸のすくような、ストレスが解消されるような、痛快な「悲愴交響曲」であった。

 それにしても、山田和樹の指揮はいい。そういえば、彼が横浜シンフォニエッタを一昨年熊本で指揮したライヴによる、信時潔の「海道東征」のCDが今月出た(エクストンOVCL-00593)。一聴して、その透明な美しさに舌を巻き、昨年大阪で聴いた別の演奏では再現されていなかった信時の作品の清澄な叙情の素晴らしさを、改めて認識させられた。本当に、いい指揮者になったものである。

2016・4・22(金)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団G.P

       ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 4月定期のプログラムは、シェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」、ベルクの「ルル」組曲、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」。

 ただし今日は、事実上のゲネプロである。本番は明日のミューザ川崎と明後日のサントリーホールだが、両日とも他の予定が入っていて聴けず、といって聞き逃すのはいかにも惜しく、事務局に頼んで、今日のゲネプロを取材させてもらったというわけ。
 何しろ長大なプログラムである。実際の公演時間は、休憩を含めば2時間半くらいになるだろうか。

 協演は、東響コーラス、チェン・レイス(S)、クレシミル・ストラジャナッツ(Br、語り手)。コンサートマスターは水谷晃。
 G.Pだけを聴いて批評するのはルール違反なので、実際の演奏内容についての意見は省く。だが、関係者しかいないガランとした客席で聴くと、オーケストラも合唱も、たっぷりとよく響いて豊麗で、実に快い気持になる。特にブラームスは、ティンパニを極力抑えた演奏だったので、いっそう柔らかい祈りの歌に聞こえたのであった。

2016・4・21(木)マウリツィオ・ポリーニ・リサイタル

     サントリーホール  7時

 来日公演最終日。
 前半がショパン・プロ(「前奏曲 作品45」「幻想ポロネーズ」「ノクターン作品62」の2曲、「マズルカ作品59」の3曲、スケルツォ第3番」)。後半がドビュッシーの「前奏曲集第2巻」。アンコールは、ドビュッシーの「沈める寺」と、ショパンの「バラード第1番」。

 たとえば・・・・「沈める寺」の頂点の巨大な鐘の音の模倣の個所など、かつてのポリーニの演奏だったら、強音の一つ一つが堅固に引き締められ、その音が消えるまで完璧なコントロールが加えられていた。またショパンのいくつかの曲でも、全ての音に完璧な「歯止め」が付されていた。
 齢を重ねれば、指の動きとかテクニックとかは、おのずから力を失って行く。それについて嘆いたり、それを理由にアーティストを貶めたりすることは、全く意味がない。

 むしろ重要なのは、その人の芸風に、その年齢なりの何か新しいものが加わって来ているかどうか━━なのだが、・・・・・・。

2016・4・17(日)仙台フィル東京特別公演

      サントリーホール  2時

 「東北復興」を掲げ、かつ第300回定期開催(4月15,16日)を記念しての、仙台フィルハーモニー管弦楽団の大々的な東京公演。それゆえ、当初予定されていた天皇・皇后両陛下御臨席が熊本の地震のために中止になったことは、仙台フィル関係者をいたく落胆させたようである。
 だが、常任指揮者パスカル・ヴェロに率いられての、今回のベルリオーズ・プロ(「幻想交響曲」と「レリオ、または生への回帰」の組み合わせ)は、まさに快心の演奏であった。

 それにしても、仙台フィルはいつからこんなに素晴らしいオケになったのか━━私も年に一度か二度はこのオケを聴いているけれども、サントリーホールを轟かせた今回のようなダイナミックで壮大で深みのある演奏は、これまでほとんど聴いたことはなかった。
 特に弦の張りのある色彩感、低弦の艶やかさと力強さ、金管楽器群の豪壮華麗な重量感などは卓越していて、そこには、フランスのオーケストラにしばしば聞かれるようなブリリアントな音色さえあふれていたのである。

 何より見事だったのは、そうした音色や響きの美点だけでなく、ベルリオーズの音楽に特有の、たたみかける緊迫性と、一種の不気味でミステリオーゾな陰翳が見事に表出されていたことだ。日本のオーケストラで、「幻想交響曲」がこうした特徴をすべて備えた形で演奏された例は、私の経験では、むしろ稀有といっていい。

 そして、パスカル・ヴェロの円熟は疑いないところだろう。新星日響時代からよく聴いて来た指揮者だが、この境地に至ったことは嬉しい。彼は、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」をはじめ、やはりフランス音楽のレパートリーで最大の強みを発揮する。
 今回の「幻想交響曲」も、滅多に聴けないような密度の高い指揮だった。けれんのない、基本的にはストレートな構築だが、オーケストラを豪快に響かせ、しかも弦のアクセントに鋭さを与えたり(第5楽章でのロンドの主題)、断頭台の露と消える直前の主人公の幻想に狂気の絶望感を導入したり(第4楽章のクラリネットによる固定楽想)と、随所に鮮やかな手法を取り入れた指揮だったのである。

 「レリオ」では、ジル・ラゴン(テノール)、宮本益光(バリトン)、仙台フィル第300回定期記念合唱団が協演して原語で歌った。
 ジル・ラゴンは、彼らしく巧味のある歌唱だったが、残念ながら数年前にヴェロ指揮仙台フィルや、アルミンク指揮新日本フィルのそれぞれ「ペレアスとメリザンド」でペレアス役を歌った頃の見事な歌唱表現はもう望めず、声よりも味で聴かせる状態になっていたのが寂しい。
 レリオ役は、渡部ギュウが日本語(台詞原訳・久納慶一)で演技を交えつつ受け持っていた。台詞はPAを利用して流されたが、響き過ぎて明晰さを欠くところもあり、━━彼の声量をもってすれば、PAなしでも行けたのではないかという気もするが、そのあたりはテストの結果で決めたのだと思うから、言っても詮無いことだろう。

 しかしいずれにせよこの「レリオ」は、作品の性格としては「幻想交響曲の後編」にふさわしい水準に達しているものとは、どうみても思えない。いかに演奏者たちの大熱演をもってしても、それは補い得ないものではなかろうか。なおコンサートマスターは、「幻想交響曲」が神谷未穂、「レリオ」が西本幸弘だった。

 「演出」はヴェロ自身によるものとのことだが、「幻想交響曲」は、半明かりのような状態のステージで、指揮者はいつの間にか定位置にいて、いきなり演奏が開始された。その曲の間じゅう、下手側の山台の上で行われた主人公(渡部ギュウ)のパントマイムは、━━今日のプログラムの趣旨からいえば、もちろんあってもいいものだが、やや中途半端で曖昧なイメージしか生まなかったのではないか?
 「幻想交響曲」が終るとステージは暗転してしばし沈黙に包まれ、やがて客電もろとも場内の照明が入り、盛大な拍手が爆発したが、その時にはすでに指揮者は居らず、楽員も退場のさなかというわけで、これも何となく締まらぬ印象を与えたまま、休憩に入る段取りとなった。演奏は良かったのだが、この演出と進行のほうは、どうも今いちである。

 とはいうものの今日は、仙台フィルの大躍進を印象づける演奏会であった。仙台フィルが、あの本拠地の小さな、しかも大オーケストラに充分なキャパシティとは言えぬアコースティックのホールにおいて、これだけのブリリアントな音をつくり上げているということには敬意を払わずにはいられない。
 去る1月に仙台で山田和樹の指揮により演奏した「エリヤ」も、その演奏の素晴らしさで、欧米から取材に来ていたうるさがたの批評家連中の舌を巻かせたという。そういえば今日は、開演前にその山田和樹がロビーに立って、来客に挨拶していた。マエストロがそんなことをやっているので私もびっくりしたのだが、彼は「(仙台フィルの)ミュージック・パートナーですから」と涼しい顔をしていた。
     別稿 音楽の友6月号 演奏会Reviews

2016・4・16(土)インキネン指揮日本フィル ヴェルディ「レクイエム」

      横浜みなとみらいホール  6時

 東京響の演奏を聴いたあと、オペラシティを4時15分に出れば、今日のように首都高に渋滞さえなければ、ゆっくり走ってもみなとみらいホールには5時に着く。ちょうどいい時間だ。
 本当は、午前11時からのトリフォニーホールにおける川瀬賢太郎指揮の新日本フィルを聴く予定も追加していたのだが、トリプルヘッダーでは━━各ホールが至近距離にあるロンドンやベルリンやザルツブルクでならともかく、首都高なり電車なりで延々移動してのトリプルでは、このトシじゃいくら何でも体力が持つまいと思い直し、午前の方は、今朝FAXで欠席連絡をした次第。

 さて、こちら横浜での日本フィルも、いい音を出していた。各オーケストラが、揃いも揃ってこのような水準の高い演奏を聴かせてくれると、日本のオーケストラ界も素晴らしくなったな、という嬉しい気持に満たされる。

 今日はヴェルディの大作「レクイエム」で、指揮は次期首席指揮者ピエタリ・インキネン。合唱が晋友会合唱団、声楽ソロは安藤赴美子、池田香織、錦織健、妻屋秀和。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 今回は、「トゥーバ・ミルム」での金管群のバンダは上階客席ではなく、舞台両袖の陰で吹かれた。これは、特に最初の部分では、最後の審判のラッパが天の彼方から響いて来るかのような音量で、バランスとしては良かったと思われる。ただその分、全合奏の個所では、オケの本体にマスクされて、凄絶な雰囲気とは行かなかったけれど。
 なお、指揮者の指示かどうかは判らないが、「怒りの日」の最強奏の個所をはじめとして、常よりもピッコロが突出して聞こえ、著しく刺激的な音になっていた。一所懸命吹いていた奏者には悪いが、その耳を劈く音が延々と続くのには些か閉口、おかげで「怒りの日」が出て来る個所が近づくと、恐怖感さえ覚えた次第である。今回ほど、ピッコロのパートがすべて聞き取れた演奏はなかった。

 そんなこともあって、妙に落ち着かないままに全曲を聴き終えてしまったが、もちろん美しい瞬間も数多くある。だがどちらかといえば声楽部分の勝った作品だから、そちらの方が主たる興味の対象になるだろう。
 その声楽ソリストは概して頑張っていたし、特に池田香織と、大隅智佳子の代役で出演した安藤赴美子の健闘が印象づけられた。合唱団が暗譜で歌っていたのは立派なものだが、アンサンブルはもう一息、といったところだろう。

2016・4・16(土)ノット指揮東京響 リゲティ&R・シュトラウス

       東京オペラシティ コンサートホール  2時

 この4月に創立70周年を迎えた東京交響楽団。
 シーズン幕開きの「オペラシティシリーズ」は、音楽監督ジョナサン・ノットの指揮による意欲的なプログラムで飾られた。

 前半は、リゲティの作品を計3曲、その間にパーセルの作品を2曲ずつ1組にして計2回挿入する凝った構成だ。
 具体的に言うと、リゲティの「アトモスフェール」、パーセルの「4声のファンタジアZ.742と739」、リゲティの「ロンターノ」、パーセルの「同737、741」、リゲティの「サンフランシスコ・ポリフォニー」━━という配列である。これら全部の演奏時間は、計1時間近くになった。

 ノットと東響が演奏するリゲティの作品群は、いずれも壮麗なふくらみを以って蘇る。鮮烈かつ幻想的な音の綾の、法悦と陶酔。
 一方、パーセルの作品群は、オルガンの下手側に配置された神戸愉樹美ヴィオラ・ダ・ガンバ合奏団(4人)により演奏されたが、これは現代音楽のトーンとの対比をつくるよりも、むしろ一つの流れに同化して、リゲティの音色の陰影に対して明朗、あるいは複雑に対して明晰、不安に対して平安━━といったような、表裏一体の世界をつくり出すことになっていた。これまた「プログラミングの妙」と言えよう。
 私の好みからいえばリゲティの方だが、この対照の面白さはまたとないものだったことは確かである。

 後半は、R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。
 このホールで「ツァラ」は如何なものか、と、正直なところ聴く前には少々危惧もいだいていたのだが、さすがはノット、見事な音量とバランスとで全曲を構築した。鳴らし過ぎず、抑え過ぎず、明晰な響きと艶やかな音色で、この曲を最後まで雄弁に再現してくれた。
 特にチェロとコントラバスの響きが力強く美しく、曲全体を堅固に支えて、どっしりとした安定感を生み出していたことが印象に残る。

 ただし、特に前半での、アインザッツやアンサンブル等に関しては、出来れば「TAKE2」をやりたいな、と思ってしまう・・・・。練習時間がリゲティの作品群の方に多く割かれたのかしらん。いずれにせよ、もう一度公演があれば、そこでは完璧になるだろう(1回公演だけではもったいない)。なお、コンサートマスターは、客演の林悠介。

 集客は、このプログラムではちょっと苦戦したという話だが、確かに1階席後方には空席も見られた。だが、2階と3階の席は埋まっていたようである。安い席を買って聴きに来る、「こういうプログラムが好きな客」の方が多かったということか? もしそうだとしたら、この意欲的なプログラムの意義は、充分に生かされたことになるだろう。

2016・4・14(木)下野竜也指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール  7時

 池辺晋一郎の「多年生のプレリュード」、ベートーヴェンの「交響曲第2番」、ジェラルド・フィンジ(1901~56、英)の「霊魂不滅の啓示」という、いかにも下野の演奏会らしいプログラム。そして事実、見事を極めた演奏だった。

 池辺の「多年生のプレリュード」は、5年前に読響500回定期記念委嘱作品として下野が指揮し初演したもので、聴くのはあの時以来になる。この作曲家らしい快活明朗な作品で、いわば「序曲」のように、演奏会の幕開きにはぴったりの音楽だ。
 そしてそのあとにベートーヴェンのニ長調の交響曲が開始されると、これがまた実にいい流れで2曲が結びついているような気分になる。プログラミングの妙というものであろう。

 しかもこのベートーヴェンの「2番」が、驚くほど堂々たる風格と剛直な構築性、隙のない緊迫度を兼ね備えた演奏だったのである。読響(コンサートマスターは長原幸太)の充実した音の良さもさることながら、下野のベートーヴェンがこれほど成熟した世界に到達して来たとは━━。いい指揮者になったものだ。

 フィンジの「霊魂不滅の啓示」は、英国の詩人ワーズワースの詩を基にしたテノール・ソロ(ロビン・トリッチュラー)と合唱(二期会合唱団)と大管弦楽のための、演奏時間も40分を超える大規模な作品だ。着手が1930年代、完成が1950年というが、音楽のスタイル自体は、所謂「現代音楽」風からは遠く距離を置いた、エルガーなどの流れを汲む穏健で美しい世界に属するものである。

 ━━そういう点からいっても、池辺晋一郎の作品を冒頭に置き、大きく弧を描いてこのフィンジの世界に戻って来るようなプログラム構成は、実に巧みなものだったと謂うべきだろう。演奏もそれにふさわしく、壮麗なものだった。

2016・4・13(水)東京・春・音楽祭 コニエチュニーのリサイタル

     東京文化会館小ホール  7時

 「東京春祭 歌曲シリーズ」の一環で、今回の「ニーベルングの指環」でアルベリヒを歌っている性格派バス・バリトン、トマシュ・コニエチュニー(ポーランド出身)のリサイタル。レフ・ナピェラワ(同)のピアノとの協演である。

 プログラムは、前半がラフマニノフの作品で、「ロマンス」集から10曲と、オペラ「アレコ」から「カヴァティーナ」。後半ではR・シュトラウスの歌曲12曲と、「ダナエの愛」から「マヤの物語」が歌われたが、最後には突然ワーグナーの「さまよえるオランダ人」から「オランダ人のモノローグ」が置かれるという選曲だ。そしてアンコールにも、何とワーグナーの「ヴァルキューレ」からの「ヴォータンの告別」が出た。

 どちらかというと粗削りな歌い方で、高音域など強引に片づけるところもあるのだが、とにかく悪役を演じては当代指折りの人だから、ドラマティックな気魄には事欠かない。結局、歌曲よりもやはり、オペラの曲の方に彼の真骨頂が顕われていたのではないか。
 それにしても、彼のような馬力のある歌手にとっては、このホールは小さすぎ、そしてよく響きすぎた・・・・声がビンビン響いて木魂して、細部の明晰さを失わせるきらいもあった。

2016・4・12(火)フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 今回の定期はストラヴィンスキー・プロで、「ペトルーシュカ」(1911年版)と、「火の鳥」(1910年版)。コンサートマスターは矢部達哉。

 2曲ともオリジナル版でやってくれるというのが良い。ストラヴィンスキーのこの初期の大バレエ曲は、やはり最初につくられたこれら4管編成の版の方が、色彩感もはるかに豊富だし、バーバリズム的な要素も強く浮き出ていて、面白い。
 オーケストラにとってはカネのかかるシロモノだから、のちに編成を縮小して改訂された版よりも演奏回数は少ないようだが、聴き手にとっては千載一遇の好機で、ありがたいことには違いない。

 「ペトルーシュカ」は、かなり固く鋭い、攻撃的な音色とリズム感で演奏された(聴いた位置の所為でもないだろう)。これがロトの意図だったとすれば、おそらく後半の「火の鳥」との音響的な対比づくりを考慮したのではなかろうか。
 「火の鳥」の方は、数少ない爆発点を除き抑制した構築で、むしろミステリオーゾな要素を強く打ち出す演奏になっていた。「ペトルーシュカ」が生き生きした人間的な人形の物語であるのに対し、「火の鳥」は超現実的なお伽噺の世界であることを考慮しての対比だったのだろうか? もう少し残響の長いホールで聴けば、「色彩感」もさらに豊富に出ただろう。

 以前、何かのパーティで、池辺晋一郎さんがある人のスピーチを評して、「○○さんの話は《火の鳥》の最初のところみたいなものだ」と言ったことがあった。つまり、いつになったら本題に入るのか分からない、という意味である。巧いことを言うものである。

2016・4・10(日)東京・春・音楽祭「ジークフリート」

     東京文化会館大ホール  3時

 「東京春祭ワーグナー・シリーズ」の第7回、「ニーベルングの指環」第2夜「ジークフリート」。
 昨年に続き、マレク・ヤノフスキ指揮のNHK交響楽団がステージ上に並び、背景の巨大なスクリーンには田尾下哲による動画の映像が投映される。歌手たちは原則としてステージ前面で、譜面を見ながら歌う。

 ヤノフスキの速めのテンポによるたたみかけの良さ、ライナー・キュッヒルを今年もコンサートマスターに迎えたN響の厚み。これがまず、今回の「ジークフリート」の成功の最大の功績である。
 特に第1幕の終り近く、ジークフリートの鍛冶の場面における演奏の昂揚は、2人のテノールの輝かしく張りのある声とともに、実に見事なものだった。

 ただ、第2幕に入ると、オケの演奏は少し淡々となり、また第3幕では音量、重量感、エネルギー感などが、いずれも何故かやや弱められて行ったような印象がある━━というより、第1幕の幕切れを上回るようなクライマックスが、その後の演奏では惜しくも築かれなかった、といった方が正しいだろうか。ヤノフスキもN響も、何か第1幕の最後で燃焼し切ってしまったような感があったのである。
 第2幕の「森のささやき」は、それは実に美しかったのだが、ジークフリートと大蛇との戦いの場面や、特に第3幕の「ブリュンヒルデの目覚めの場」の冒頭場面のクレッシェンドなどは、もう少し熱っぽく劇的にやってもらいたかったところだ。

 とはいえ、N響の量感はやはりさすがのものがあり、この楽団が本気で演奏すればかくの如し、といった出来だったことは疑いない。
 また舞台前面に出て吹いた福川伸陽(N響首席)の「ジークフリートの角笛」は、ここまでやるか、と思えたほど見事なものだった。ただし、これも前面で叩いた打楽器奏者による鍛冶の効果音は、リズムが前のめりになることが多く、何よりノートゥングが「出来上がって行く」変化というものが打撃音に反映されることなく、ただ機械的に叩かれていたことが残念だった。

 歌手陣。実力派の歌い手が揃っていて、これも今回の演奏を成功させた因といえるだろう。
 まずジークフリート役のアンドレアス・シャーガー。実に伸びのいい、若々しく力強い声だ。鍛冶の場面では鉄梃を打つ身振りも華やかに、躍動的な演技も交えて、「若き」ジークフリートの性格を完璧に表現した。
 3年前にチョン・ミョンフン指揮東京フィルの演奏会形式全曲上演でトリスタンを歌った時には、ちょっと線が細めかな、という感はあったものの、純な性格の青年トリスタンというイメージで成功していたし、昨年のバッティストーニ指揮の「第9」では、オペラのような身振りを交えつつ、進軍の先頭に立つ若きリーダーという感で颯爽と歌っていたのを思い出す。今回はまさに実力全開、という趣であろう。この若きヘルデン・テノールは、これからさらに大活躍するだろうと思う。

 ミーメを歌ったゲルハルト・シーゲルは、この役柄にしては声が並外れて力強い。「英雄的」過ぎて、狡猾なミーメというイメージには少し不足するけれども、兄にも劣らぬ野心を秘めた強靭な性格のミーメという解釈が、ここでは成り立つだろう。
 またアルベリヒ役のトマシュ・コニェチュニーは、まさに当たり役の人だ。この第2幕では「ラインの黄金」でのアルベリヒのように大暴れする役柄ではないから、少し控えめではあったけれども、迫力は相変わらず充分である。

 さすらい人ヴォータンのエギルス・シリンス、大蛇ファーフナーのシム・インスンは、昨年の「ヴァルキューレ」に続いての登場で、後者は「洞窟の中から響く」声をステージの奥でメガフォン(?)を使って歌っていた。
 智の女神エルダは、今年はヴィープケ・レームクールだったが、これは一昨年の「ラインの黄金」でこの役を歌ったエリーザベト・クールマンに比べると少々軽く、ヴォータン相手の丁々発止の場面では、運命の女神たちを統率する女神としての深みと凄みをもっと出してもらいたかったところだ。
 そして、森の小鳥は清水理恵。客席後方最上階から響かせた声はよく通ったが、ちょっと力がこもり過ぎて、小鳥らしい軽快さに不足した感もあったか?

 最大の問題は、今年のブリュンヒルデ役に登場したエリカ・スンネガルドである。これほどクールで、人形のように変化のない、単調な歌い方をするブリュンヒルデを聴いたのは初めてだ。
 未だずっと夢に浸っているような、と言えば聞こえはいいが、要するに目覚めた時から最後まで、ただ同じように、単調に、小綺麗に歌い続けるのみなのである。
 本来ここでのブリュンヒルデは、蘇生した歓びから戸惑いへ、不安感へ、ジークフリートによって呼び覚まされた愛の情熱へ、といったように感情が激しく変化するはずなのだが、それが一向に表現されないのだ。
 これは、いかなる解釈の角度から見ても、ブリュンヒルデではない。声楽的にも、高音の声だけは実に美しいのだが、低音域はほとんど聞こえない。

 このソプラノは、10年ほど前にMETに鳴り物入りでデビューしたレオノーレ役の時から私は何度か聴いているのだが、未だに進歩が全くないのには驚く。2009年にウィーン国立歌劇場でマクベス夫人(ヴェルディの方)を聴いた時も、この役らしい激しさも怒りも絶望感も、すべて区別なく同じような調子で綺麗に歌うだけだったのに啞然としたほどだ(観客からもブーイングや叱声が出ていた)。
 ゆえに、今回のブリュンヒルデも、こうなるのは充分予想できたことである。こんな歌い方では、まして「神々の黄昏」のブリュンヒルデなど、とても務まらない。来年は違うソプラノに来てもらうべきだろう。

 結論から言えば、今回の「ジークフリート」は、そのブリュンヒルデ以外は、全ていい。訳詞も、昨年よりバランスが取れていたと思う。
 30分の休憩2回を挟み、計5時間の上演で、8時終演。

2016・4・9(土)ネヴィル・マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 マリナー&アカデミーの「四季」━━この言葉が1970年代初頭にどれほどクラシック音楽界を賑わせたことか。

 当時のキングレコード(ロンドン・レーベル)は、このレコードを鳴り物入りでPRし、レコード界でも放送界でも、この名は寵児となった。それまでのイ・ムジチ合奏団の正統的(?)で流麗な演奏のヴィヴァルディの「四季」に慣れたわれわれの耳には、このマリナー&アカデミーによる「四季」の演奏は、いかにも先鋭的で、新鮮に響いたのである。

 もっとも、当時出ていたレコードには、それに劣らぬ、もしくはそれ以上の大胆な解釈をやっていた演奏もあったのである。レナート・ファザーノ指揮ローマ合奏団のレコードなどその一例だったが、こちらはレコード会社が全くPRしなかったせいで、目立たなかっただけのことだった。

 そのマリナー&アカデミーがついに初来日したのは1972年春のこと。マリナーは未だ40代後半の若さで、颯爽としていた。東京厚生年金会館での演奏会で、自らリーダーとして第1ヴァイオリンの首席に座り、ブリテンの「シンプル・シンフォニー」の第1楽章最後の音を、何とも歯切れよく軽やかにパッと弾いてのけたあのステージ姿は、今も目に焼き付いている。

 私は当時のFM東京の番組で彼らの演奏会をライヴ録音により放送したが、それに挿入するマリナーへの特別インタビューを、たしかホテルオークラの、今は壊されてしまった本館5階のロビーで録音したことがある。彼は機嫌よく喋ってくれたのち、招聘の神原音楽事務所の井関さんと手短かに何かを打ち合わせると、朗らかに笑って足早にエレベーターの方へ向かって行った。井関さんは「あの人は時差ボケですごく眠いのよ。眠くなると、ふだんよりもっと、今みたいに目が細くなるの」と言ったが、私は全く気がつかなかった━━もともと目は細いタイプの人だと思っていたので。

 なお、この時の来日で、マリナーとアカデミーが神奈川県立音楽堂で演奏会をやっているさなかに火事騒ぎがあって、捧腹絶倒の後日談にまで発展するのだが、それはこのブログのカテゴリーの「マエストロへのオマージュ」をお読み下さい。

 ちなみに、アカデミー室内管弦楽団は、周知の通り正式名称は「ジ・アカデミー・オヴ・セント・マーティン・インザ・フィールズ」である。最初はロンドンのトラファルガー広場の一角にある聖マーティン・イン・ザ・フィールズを本拠にしていた。
 私もこの教会を訪れた際には、「ここであのアカデミーが━━」と大いに感動に浸ったものであった。折しも当夜、アカデミーは出ないけれども、クリスマスの合唱コンサートが開かれることになっていた。しめたとばかりチケットを買ったのだが、席の希望を訊かれて思わず「アリーナを」と答えたのが大失敗。窓口のおばさんはニコリと笑い、チケットを出しながら「Sing Together」と言ったのである。しまったと思ったが遅かった。

 余談はともかくとして、今日の演奏会の話。
 そのマエストロ、ネヴィル・マリナーも、この4月15日で、92歳を迎える。だが、見事なほどにお元気である。N響には最近も客演しているが、あのアカデミー室内管と組んでの来日は、おそらくはこれが最後になるであろうとのこと。オケはもちろん新しいメンバーで、今回は弦8型編成、リーダーはトモ・ケラーという人だった。
 プログラムは、プロコフィエフの「古典交響曲」、ヴォーン・ウィリアムズの「トマス・タリスの主題による幻想曲」、ベートーヴェンの「第7交響曲」。アンコールはモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲と、「ダニー・ボーイ」だった。

 「古典交響曲」での明るい音色、歯切れのいいリズム感、闊達な音楽は、やはり昔ながらのマリナーである。ただし、80年代以降の彼の指揮と同じく、構築は少し大らかになっているだろう。とにかく爽やかで温かく、滋味あふれる、実に気持のいい演奏だ。
 ベートーヴェンの「7番」も同様、随所に神経の行き届いたアクセントの強調が聴かれるけれども、基本的にはストレートなアプローチに貫かれている。筋の通った力強さの中に、流れのいい、伸びやかな、楽天的な演奏が繰り広げられる。喩えれば、元気溌剌たる年輩者がにこやかに流暢に語ってくれる物語━━といった趣だろうか。

 そして、最も情感がこもっていたのは、やはりヴォーン・ウィリアムズの幻想曲であった。自国の作品に寄せる愛情と共感があふれて、これはもう、天下一品の美しい演奏であった。「ダニー・ボーイ」も壮大な編曲で美しかったが、こちらはまあ、アンコールだし、毒にも薬にもならぬ程度の演奏、と言ったら申し訳ないか。
 しかし、この「ダニー・ボーイ」に、もしかして日本のファンへの「別れの歌」の意味がこめられていたとすれば・・・・。

 マリナーは、終演後のホワイエで、サイン会までやった。そのパワーには敬意を払わずにはいられない。
       別稿 音楽の友6月号 演奏会Reviews

2016・4・7(木)フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  7時

 フランスの個性派指揮者ロトが客演。今年46歳、私のご贔屓指揮者の一人だ。
 シューベルト~ウェーベルン編の「ドイツ舞曲」、R・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」、ベートーヴェンの「英雄交響曲」。2曲目が「英雄」第2楽章の葬送行進曲の主題と深い関連を持つ作品であることを踏まえたプログラミングだろう。

 が、その「メタモルフォーゼン」が、今夜の演奏の中でも、白眉だった。そこには、シュトラウス晩年の諦念という作品のイメージは、もはやなかった。曲の頂点では激烈な感情が表出され、生への闘争━━死は単なる休息に過ぎず、とでも言う内容を持つ作品に姿を変えていた。そういう「メタモルフォーゼン」を、私は今夜の演奏から聞き取った。
 この、美しくともだらだらと流れて行くような演奏になることの多い曲が、これほど生気に満ちた「未来志向」のものに聞こえたことはない(その点、プログラムにロト自身が述べているメッセージとは、全く逆のイメージの演奏となっていたように私には聞こえたのだ。感じ方はさまざまだな、と思う)。

 特にこの曲では、矢部達哉をコンサートマスターとする都響の弦が、この上もなく艶と生気とにあふれていた。そして、全員が没入して弾いているような、素晴らしい演奏をつくっていた。

 いっぽう、「英雄」は、予想通りのユニークな解釈。
 全曲にわたり細部に綿密な設計を施した演奏で、特に印象に残ったのは第1楽章展開部でのホルンの動きと、第2楽章154~159小節における長いパウゼによる衝撃的な曲想の変化だった。また両端楽章では、非常に速いテンポでたたみかけたため、流石の都響も、時には見事にこなし(第4楽章190小節以降のフルート・ソロ)ながらも、時には必死の(?)形相(第1楽章の弦)といった趣を呈していたほどだ。
 第4楽章44~77小節の弦4部の個所はソリで演奏させていたが、これは誰だったか他の指揮者もやっていたテのはずである。

 ともあれこれは、当代流行りの、かなり慌ただしい演奏の「英雄」ではあったものの、しかし極めて刺激的で、面白い演奏ではあった。ロトはやはりクセモノである。来週のストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」と「火の鳥」も、きっと面白くなるだろう。

2016・4・6(水)新国立劇場 マスネ「ウェルテル」

     新国立劇場オペラパレス  2時

 ニコラ・ジョエル演出による新制作プロダクション。新国立劇場としては14年ぶりの「ウェルテル」になる。
 前回(2002年)の平凡なファッシーニ演出と異なり、今回はエマニュエル・ファーヴルによる品のいい、がっちりした舞台美術とともに、緻密に構築された舞台がつくられていた。

 ただし、今回のこれも、ト書きの演技と設定に几帳面に従った、極めてまっとうな演出である。例えばウェルテル━━シャルロット━━アルベールの三角関係を、殊更に強烈に描き出したりするものでは、ない。また、第3幕の幕切れでシャルロットとアルベールの夫妻がウェルテルの自殺を予想して諍いを起す(モネ劇場でのヨーステン演出)といったような、スリリングな設定もない。

 つまり今回のジョエル演出は、ウェルテルを情熱的で前後の見境もない青年として、シャルロットを控えめで受け身的な女性として、アルベールを表面上はあくまで冷静な夫として、それぞれ過不足ない範囲で描き出すことで完結したドラマ、といえるだろうか。
 それはそれで一つの演出手法であることは確かだ。ただ、このオペラをすでに何度か見た者からすれば、さほど新しい発見のない、刺激のない舞台に感じられてしまうのも事実である。

 指揮は、当初予定されていたミシェル・プラッソンが怪我とかで来られず、子息のエマニュエル・プラッソンが登場した。
 この指揮者、東京フィルの弦からいつもとは全然違う濃厚な色合いの音を引き出し、かつ重量感のある響きをつくり出していて、マスネの音楽を再現する点では、なかなか結構な手腕を発揮していたようである。最弱音の個所で演奏の緊張がやや薄らいでしまうという傾向もなくはなかったけれども・・・・。
 東京フィルも今日はホルンがしっかしりしていたし、まずはこれなら・・・・というところ。

 タイトルロールも当初の予定から変更になった。マルチェロ・ジョルダーニも交通事故に遭ったとか。代わりにディミトリー・コルチャックが来日して歌った。一本気で自己抑制力のない(?)ウェルテル像ともいうような、力と伸びのある声で歌い、各幕のクライマックスではいずれもダイナミックな歌唱力を披露していた。
 シャルロット役はエレーナ・マクシモワで、強音での声が鋭いのと、弱音の個所では言葉がはっきりしなくなるのが玉に瑕というところだろう。

 アルベール役のアドリアン・エレートは、今回はえらく治まりかえって落ち着いた演技と歌唱。
 なおソフィー役には砂川涼子が出演し、外国勢3人に負けじとばかり、少し力み返ってムキになったような演技ではあったものの、軽やかな声で映えていた。
 敢えて主役の皆さんに異議を唱えるなら、どちら様も歌っている言葉があまりフランス語に聞こえなかった・・・・という点か。

 ちなみに、14年前の2月の新国立劇場での「ウェルテル」では、ジュゼッペ・サッバティーニ(ウェルテル)、アンナ・カテリーナ・アントナッチ(シャルロット)、ナターレ・デ・カロリス(アルベール)という布陣だったが、ソフィーを歌っていたのは新国デビューの「注目の若手」中嶋彰子だった。当時の日記を繰ってみると、「声は柔らかく美しく、何か非常に大きな拡がりを感じさせ、期待充分な人である」と。

2016・4・5(火)METライブビューイング「マノン・レスコー」

    東劇  7時

 3月5日、メトロポリタン・オペラにおける上演のライヴ。今シーズンの新制作プロダクションの一つで、バーデン=バーデン音楽祭との共同制作の由。

 このプッチーニの「マノン・レスコー」、私はもともとあまり好きなオペラではないのだが、今回はヨナス・カウフマンのデ・グリュー、クリスティーナ・オポライスのマノン━━という主役陣の魅力で、観ようと最初から決めていた。
 もっともそのカウフマンが出演不可能となり、急遽ロベルト・アラーニャが代役で出たことは周知の通り。それならそれでまた別の魅力が生じる。

 そのアラーニャは、この役を手がけるのが初めてだったそうだが、とてもそうは信じられないほど見事な歌唱と演技で、情熱的な舞台をこなしていた。立派なものである。
 一方オポライスは、第2幕ではマリリン・モンローばりの衣装(自分でそう言っていた)で活躍。ただし歌唱は、細かい感情の変化の表現という点では、未だこれからというところだろう。

 指揮はファビオ・ルイージで、この人はイタリア・オペラを振った時には流石に鮮やかなものがあり、プッチーニの音楽の熱っぽい劇的な起伏を生かして余すところがない。
 演出はおなじみリチャード・エア、舞台美術はロブ・ハウェル。豪華で大がかりな装置の中で、写実的な演出ながら細かい表情に富んだ演技が展開されていた。バランスの良い舞台である。
 10時16分頃終映。

2016・4・3(日)東京・春・音楽祭マラソン・コンサートⅤ

      東京文化会館小ホール  7時

 最終パートは「《変奏曲》の変容」と題されたプログラム。
 ワーグナー~ラインハルト編の「ハルモニウムとピアノのための二重奏曲《聖杯城への行進》」、サティの「ヴェクサシオン(嫌がらせ)」抜粋および「パッサカリア」、ブラームス~ケラー編の「4手のピアノのための《第4交響曲》第4楽章」、バッハ~ブゾーニ編の「シャコンヌ」。

 この回の演奏者は、ピアノが岡田将、加藤昌則、高田匡高、山田武彦。ポジティフ・オルガンが大木麻里だった。

 ブラームスの「4番」第4楽章のピアノ4手版など、よくまあこういう珍しいものを紹介してくれるものだと感心するし、ワーグナーの「パルジファル」の編曲も物珍しい(ただしポジティフ・オルガンの音が構造的に音楽の流麗さを欠くのは惜しい)。
 私などはこの回のプログラムが一番面白いと思っていたクチだが、やはり曲が渋いせいか、それとも日曜の夜というせいか、客の入りは第4部に比べるとだいぶ寂しくなる。しかし、最後は加藤昌則が「シャコンヌ」を堂々と聴かせ(大変失礼、弾いたのは高田匡高さんでした!)、聴衆は多くなかったけれども、拍手は長く続いた。
 それにしても、このブゾーニの編曲はやはり物凄く、聴き手を圧倒し巻き込む力を備えている。

2016・4・3(日)東京・春・音楽祭マラソン・コンサートⅣ

     東京文化会館小ホール  5時

 午前11時から始まった、全5部からなる「マラソン・コンサート」。
 企画構成の小宮正安さんの解説を含め、インターネットでライブ・ストリーミングが行なわれていたので、朝はそれを少し視ていた。1コマ1時間の演奏会だが、休憩時間にはロビーでピアノの演奏もあるという、なかなか盛り沢山のマラソンである。

 今年の統一テーマは「Variations(変奏)━━変容する音楽」と題されており、第4部は「《サロン》の変容」というプログラム。
 ベートーヴェン~ブゾーニ編の「6つのエコセーズ」、バダジェフスカの「乙女の祈り」、ハイドン~ヴィルバク他編の「驚愕交響曲」第2楽章、トリーベンゼーの「ハイドンの《びっくり交響曲》による変奏曲」、シューベルトの「死と乙女」および弦楽四重奏曲「死と乙女」第2楽章、レーガーの「《美しく青きドナウ》による即興曲」。これに解説を加えて、ちょうど1時間プロ、というわけだ。

 演奏者に敬意を捧げておこう。ヴァイオリンを伊藤亮太郎と西江辰郎、ヴィオラを安藤裕子、チェロを小川和久、フルートを小山裕幾と竹山愛、イングリッシュホルンを大植圭太郎、ピアノを岡田将と加藤昌則、高田匡高。

2016・4・2(土)プレガルディエンが歌う室内楽版「冬の旅」

    東京文化会館小ホール  7時

 上野で開催中の「東京・春・音楽祭」の「歌曲シリーズ」の一つ。テノールと6人の器楽奏者によるシューベルトの「冬の旅」という、実に興味深いコンサートだ。今年の「東京春祭」は、面白いプログラムが多い。

 テノールの━━といっても近年はハイ・バリトンの色合いが濃くなって来た人だが━━おなじみの名歌手クリストフ・プレガルディエンが歌う。
 協演陣も、小山裕幾(フルート)、金子亜未(オーボエ・ダモーレ)、西川智也(クラリネット)、長哲也(ファゴット)、日橋辰朗(ホルン)、ジョセフ・ペトリック(アコーディオン)という錚々たる顔ぶれだ。

 編曲者はフォルジェという人だそうだが、プログラムには紹介が載っていないので、私は知らない(CDも持っていないので・・・・)。
 かなり手の混んだ編曲という印象だが、この種の編曲モノは、一度聴いただけではなかなかその真価を理解し難いものである。というのは、聴き慣れた原曲の素晴らしいイメージから脱却するのは、そう容易いことではないからだ。

 今回も、何よりまず、あのシューベルトのピアノ・パートがいかに完全無欠なものであり、そのピアノと声楽がいかに完璧な調和とバランスで結びついているか━━それを改めて強く感じる結果となったことを告白しておかなくてはならない。シューベルトが終り近くにつくり出した、あの白々とした、身の毛のよだつような虚無感といったものは、この編曲版からは全く体験できなかったのである。

 とはいえ、興味深い編曲だったことは確かだ。あの名高い前衛的なツェンダーの編曲とはまったく異なる傾向のもので、あくまで声楽のパートを中心に構築して行くタイプの編曲である。
 「旅籠屋」では例外的に、器楽奏者たちが弱音のヴォカリーズでハーモニーをつけて行くという編曲が行なわれていたが、これがまたとてつもなく美しかった。そして曲順もシューベルトのそれとはいくつか異なっているが、これはヴィルヘルム・ミュラーの詩集の最終決定稿に従った順序によるものであるとのことである。

 プレガルディエンは、もともと感情の起伏の非常に大きい歌い方をする人だから、今回も歌唱には劇的な表現が強く現われていた。協演者たちも巧い。「郵便馬車」でのホルンなど、いわゆる「ラッパ節」であることは確かだろうが、それにしても日橋さんのホルン信号は鮮やかであった。

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