2017-02

2016・2・28(日)大野和士指揮東京都響のプロムナードコンサート

     サントリーホール  2時

 日曜日午後の演奏会で、しかも人気の音楽監督・大野和士の指揮とあって、客席はほぼ満員。最近の定期などの演奏会には、10年ほど前とは違って男性客が格段に多くなっている傾向がある(男子トイレの長蛇の列で証明される)が、今日はむしろ女性客が多いように見えた。

 プログラムは名曲モノで、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」序曲、ドヴォルジャークの「弦楽セレナーデ」、チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」、ラヴェルの「ボレロ」。3時45分くらいには演奏が全部終ったけれども、アンコール曲は・・・・無かった。「あら、やらないの?」という、がっかりしたような中年女性の声が、近くから聞こえた。

 演奏は、どれも極めてシリアスな表情にあふれたものである(コンサートマスターは四方恭子。トップサイドに矢部達哉)。正面切ったアプローチで、おなじみの名曲小品の演奏につきものの「寛ぎ」という雰囲気は、ほとんどない。それはそれで一つの姿勢だろうけれども。
 ただ、その一方、定期で聴かれるような完璧志向の演奏とは、今日はやはり少し違うようであった。

2016・2・27(土)山田和樹指揮日本フィルのマーラー・ツィクルス5

      オーチャードホール  3時

 武満徹の「ア・ストリング・アラウンド・オータム」(ヴィオラのソロは赤坂智子)と、マーラーの「交響曲第5番」。日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターは木野雅之。

 3年がかりのシリーズの、今年の分の3回(4~6番)は「深化」と題されているが、この言葉がマーラーの交響曲自体を指すのか、山田和樹&日本フィルの演奏を指すのかは別として、とにかく昨年の3曲における演奏に比べ、今年のこれまでの2曲の演奏が格段に「深化」していることはたしかだ。

 もちろん、昨年の「第2番《復活》」は見事な演奏(エクストンから当日のライヴのCDが出ている━━OVCL00592)には違いなかったけれども、概してあの頃の演奏には、いかにも緊張でかちかちになったような雰囲気があったのである。マーラーの交響曲など、日本フィルはこれまでにも小林研一郎の指揮で盛んに演奏していたはずなのに、相手がヤマカズとなると何故あんなに緊張するのかと訝り、聴いているわれわれまでが肩が凝ってしまったほどであった。
 幸いにも今年のステージからは、そんな怖ろしいステージの雰囲気も消え去っている。先月の「4番」は極めて美しく、そして今日の「5番」は実にしなやかで豊麗で瑞々しい演奏になっていたのである。

 昨日チョン・ミョンフン指揮東京フィルの演奏する同じ「5番」を聴いたばかりだし、ただでさえ私はこの「5番」は些か食傷気味で、仕事とはいえ2日続けて聴くのは少々気が重かったのだが、いったん演奏が始まればそんなことはどこへやら、トランペットとホルンの爽快な高鳴り、トロンボーンの並外れたパワーの咆哮(これがいかにも日本フィルらしい)、近年の日本フィルが備え始めた豊麗で厚みのある弦の響き、といったものに魅了されて行った。
 何より、山田和樹の若々しいアプローチが、青春賛歌とでもいうべき「第5交響曲」を感じさせ、昨夜の別のオケの演奏とは別種の魅惑の世界をつくり上げていたのである。

 この路線、この調子で行けば、大丈夫だろう。来月の「第6番《悲劇的》」へどうぞ進んで下さい。

 武満の「ア・ストリング・アラウンド・オータム」は、赤坂智子のソロを含め、隈取りのはっきりした構築で演奏された。といって、欧米の指揮者が武満作品に施すようなメリハリの強い構築のスタイルとは、やはり違いがある。それにしても、この武満トーンの、何と夢見るような美しさ! 日本の純音楽だな、という懐かしい陶酔感に引き込まれる。
     別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2016・2・26(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

       サントリーホール  7時

 モーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」とマーラーの「交響曲第5番」がプログラムに組まれていたが、チョンみずから弾くはずの協奏曲は、またもや彼の「指の故障」とかで、今回もお預けとなった。

 代役として若い小林愛美が出演したが━━モーツァルトの協奏曲などを弾くのは、もっと将来のことにしておいた方がいいだろう。ましてわざわざアンコール(ショパンのノクターン)まで弾くことはない。

 結局、聴きものは、マーラーの「第5交響曲」のみになった。だがこれは、予想をはるかに上回る快演である。
 チョン・ミョンフンは東京フィルを完璧に制御し、全曲に大きな起伏を施しつつ、過度に音楽を絶叫させることなく、均衡を保った響きで構築して行った。烈しいが美しい演奏となっていたのはそのためだろう。第1楽章の頂点たる悲嘆のfffでさえ、混濁することの全くない、瑞々しい響きにあふれていたのである。
 そして、全5楽章を通じての「暗」から「明」への移行が、この日の演奏では、見事に形づくられていた。
 トランペットとホルンの活躍をも讃えたい。コンサートマスターは三浦章宏。

 それにしてもチョン・ミョンフン━━さほど大きな身振りもせず、それでいてオーケストラをかくも燃え立たせることのできる芸域に到達したのだろうか? ソウルで何があったにせよ、東京ではそれに関係なく、彼の人気はどうやら揺るがぬようである。

2016・2・25(木)狂言風オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」

      すみだトリフォニーホール  7時

 一般表記は「コジ・ファン・トゥッテ」だが、今回の主催者表記と、脚本・演出を担当した桂米團治が前口上の中でそのように触れていたので、とりあえずそれに合わせることにする。
 これは「狂言風オペラ」とは言い条、狂言とオペラを巧みにミックスさせたスタイルというべきだろう。

 オーケストラはドイツ・カンマーフィル・ブレーメンの管楽器奏者とコントラバス奏者計9名で、ステージ下手側に位置し、全曲の中から抜粋した17曲ほどを美しく軽快に演奏し、時には日本語で芝居に加わったり、「結婚披露宴」の祝杯を一緒に上げたりする。

 芝居の方は、オペラのオリジナルの筋書をほぼ忠実に追い、最後はハッピーエンドで結ぶ構成だが、設定はもちろん「狂言風」に変わる。
 舞台は平安末期の「京の都」で、フェルランドは太郎冠者(茂山宗彦)に、グリエルモは次郎冠者(茂山逸平)となり、ドン・アルフォンゾ変じて「主(あるじ)」(網谷正美)の提案で「博打」に応じ、「源氏と平家の合戦」に出征すると称して姿を消し、変装して別の人物に化ける。
 一方のフィオルディリージは「姉」(茂山茂)、ドラベッラは「妹」(茂山童司)の名で、デスピーナ変じて「乳母」(茂山正邦)に煽られて次第に心変わり・・・・という具合である。

 物語の構成は原曲のオペラと同様、2部に分けられているが、第1部では狂言の台詞とモーツァルトの音楽とがただ交互に進められて行くことが多く、正直言って、これではただ単純に組み合わせただけではないのか・・・・と落胆しかけたのだが、第2部になると俄然舞台は盛り上がり、モーツァルトの音楽に狂言謡を乗せたり、台詞や謡を音楽と細かく組み合わせたりといった手法も活用され、これが思いのほか見事に合致して、不思議な効果を生んだ。

 日本語とクラシック音楽とはそもそもあまり合わぬものだが、この場合は台詞にも狂言謡の流れやアクセントが混じっているので、意外に泰西オペラの響きとぴったり合うのである。
 それとは少し違う意味でだけれども、謡の声がモーツァルトの音楽の旋律に乗った時の感じと、原曲で医者や公証人に化けたデスピーナがわざと妙な声で歌うところには、思わぬ共通性があるのに気がついた。これには、なるほどと感心。

 舞台装置は、屏風程度のものしかないが、小道具としては磁石も出て来るし、結婚式用の祭壇も登場する。乳母(デスピーナ)は神主に化け、「かしこみかしこみ申す」と祝詞(のりと)をあげる。
 和楽器は一切使われないので、冒頭の「狂言一声」などはない。
 最後はアンコールとして、管楽アンサンブルが「コジ」の一節を演奏し、狂言方はお囃子なしの「付祝言」を全員で謡って、めでたくお開きになった。面白い可能性を示した上演であった。
      別稿 音楽の友4月号 Concert Reviews

2016・2・24(水)児玉宏指揮大阪交響楽団 ワーグナー父子の作品

    ザ・シンフォニーホール  7時

 音楽監督・首席指揮者の児玉宏が任期最後の定期を、得意のドイツもの━━ワーグナーの作品で飾った。これは大阪交響楽団の第200回記念定期演奏会にもあたる。

 しかもプログラムは、大ワーグナーの「ニーベルングの指環」の音楽を児玉自ら接続編纂した版に、息子ジークフリート・ワーグナーの交響詩「憧れ」を組み合わせるという凝ったものである。在任期間を通じてレパートリーの拡大を試み続けて来た児玉らしい、意欲的な選曲と言えるだろう。
 今回は解説を書いた経緯もあり、また文化庁・芸術文化振興基金の調査という仕事もあって、この貴重なプログラムの定期を聴きに行く。

 ジークフリート・ワーグナーの「憧れ」は、シラーの詩に由った20分ほどの後期ロマン派的な作品で、CDで聴くとそれほど面白い曲ではないけれども、今日のようにナマで、それも大きな起伏を持たせた演奏で聴けば、それなりに曲想の変化に富んだ作品だということが解る。何となく、父親の「リエンツィ」を、厚い管弦楽編成で覆った曲・・・・という印象も得るが、これもナマで聴いてこそのこと。ともあれ、得難い一期一会であった。

 「指環」の抜粋メドレーは、他にも何人かの手による版があるが、今回の「児玉宏版」もなかなか興味深いものだ。
 「ラインの黄金」序奏から「神々の黄昏」の幕切れにいたる長い全曲の聴きどころを、原曲の順番を崩さずに配列して切れ目なく接続しているのは他の版と同様だが、ただしこちらは「ヴァルキューレたちの逃走」から「ヴォータンとブリュンヒルデの場」への転換の音楽や、「ヴォータンとジークフリートの場」から「岩山へ向かうジークフリート」、あるいは「ホイホー・ハーゲン」のような場の音楽なども取り入れて独自性を出している。
 ワグネリアンが聴けばニヤリとさせられる面白さも充分であろう。児玉の力作であった。

 大阪響(コンサートマスター・森下幸路)の演奏は、「ジークフリート」の部分以降で弦楽器群が引き締まり、その波打つ豊かな響きにはハッとするような美しさが聴かれた。熱演と言えよう。
 ただ、金管群には不安定さも目立ち、特に前半の「ラインの黄金」部分では極めて苦しいものがあった。このオーケストラの正規楽員は、今日ステージに乗ったメンバーの約半分のはずで、その他の楽員のうち所謂「常トラ」がどのくらいの数になるのかは定かでないが、そういう問題は措くとしても、正規楽員の管楽器セクションには、ソロの面でもアンサンブルの面でも、もっと頑張っていただかなくてはならぬ。ハーゲンがライン河中に突進する場面での「呪いの動機」など、まさにその「呪い」に祟られたような状態になってしまったようである。

 とはいえ前述のように、後半の演奏には目覚ましい昂揚感があり、聴衆も大いに沸いていたのは祝着であった。「大阪でこれだけ盛り上がった《指環》の音楽の演奏が聴ける機会はめったにない、たとえ少しくらいのミスがあっても、そんなことは問題じゃない」と、大阪在住の知人たちは口々に言っていた。
 在任最後の定期を振り終わった児玉宏にも、オケと聴衆から熱烈な拍手が贈られていた。

2016・2・21(日)飯森範親指揮山形交響楽団 南陽公演

   南陽市文化会館大ホール  4時

 山形新幹線の赤湯駅から1キロほどの距離、昨年10月にオープンしたばかりの南陽市文化会館がある。
 「戦後行なわれた植林が伐採の適期を迎え、林野庁を中心に同木材の利用推進が図られている・・・・南陽市は地場産を中心とする木材で主構造を構成する文化ホールの建設を進めた・・・・杉の芯材を無機質耐火ボードで囲い・・・・」(永田音響設計会報)とあるように、ホールの内部も、アプローチも、全てが木目になっているという珍しい建物だ。ただし、舞台機構など、劇場としての機能を支える構造は鉄骨造りなのだそうな。

 なお大ホールは、昨年12月21日、「世界最大の木造(音楽)ホール」として、ギネスの認定を受けたという。

 その大ホールは客席数1403。客席部分は意外に広い空間だ。
 早く着いたので、ゲネプロの後半を少し聞いたが、竣工間もないホールであるため、音響は些か硬質だ。だが数年経てば、木の質もなじんで来て、素晴らしい音響のホールになる可能性も充分にある。
 ただし問題は、ホールにクロークもコインロッカーも無いため、客はコートを着たまま、あるいは持ったまま席に着かねばならず、そのため恰もホールいっぱいに吸音材を設置したような結果になることだろう。これで、音はかなり吸われてしまい、折角の「木のホール」の価値も半減しかねない。

 さて、今日の演奏会は、飯森範親指揮の山形交響楽団の「ユアタウンコンサート」で、モーツァルトの「交響曲第1番」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロは高橋優介)、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」というプログラムだ。
 チケットは完売状況で、自由席のため開場1時間前から長蛇の列。雪の中を他の市や町から聴きに来た人も多いらしい。客席は95%以上埋まっていた。聴衆の集中度は非常に高く、咳払いも紙の音も鈴の音も、雑音は一切ない。完全に音楽に没頭している、という雰囲気である。

 山響も快調のようだ。飯森範親のマジックは今なお勢いを失ってはおらず、関西から来た俊英・西濱秀樹専務理事・事務局長らがそれを強力にサポート、楽員と一体となった経営努力で、財政的にも好転が見込まれているようである。その状況が、演奏にも如実に反映しているのだろう。

 特にベートーヴェンでは、音楽に目覚ましい推進性が感じられた。チェロを除く全員が立ったまま演奏したモーツァルトも、以前聴いた時よりも演奏に密度の濃さがあったと思われる。
 ただ、この空間と音響特性のホールの中では、8型のピリオド楽器スタイルを採った古典派音楽にふさわしいアンサンブルが、十全に生きていたかどうかは、微妙な部分もあるだろう。コンサートマスターは高橋和貴。

 コンチェルトでは、21歳の若手、高橋優介が大熱演。極度に粒立ちのいい、明快かつ大きな音で、割り切ったラインのラフマニノフを弾く。ちょっと変わったタイプだが、若さと勢いにあふれ返った演奏だけに、面白い。物怖じせずに伸びてほしいものだ。
 熱演のあまりか、演奏が終った時には鼻血を出してひと騒ぎ。鼻にティッシュか何かを詰め込んだまま挨拶をしてアンコール曲を弾く、という始末で聴衆を爆笑させたが、カーテンコールでの動作も含めて、何か愉快な若者である。

 テレビでも紹介されたらしいが、赤湯というところは、ラーメン好きの人の多い町であるとか。
 帰りの新幹線に乗る前に、マエストロ飯森、西濱専務理事らと「龍上海」なる有名なラーメン店に寄り、「赤湯からみそラーメン」とかいうものを食す。麺は太目で、それには少々抵抗があるけれども、いかにも地方色満載の味で、美味しい。
 しかし、より感動的だったのは、その店にいたお客が全員コンサート帰りの人々で、マエストロ飯森に向かい口々に「今日は素晴らしかった、楽しかった、また聴きに来ます」と礼を言って帰って行く光景であった。
       →別稿 音楽の友4月号 Concert Reviews

2016・2・20(土)東京芸術劇場コンサートオペラ「サムソンとダリラ」

    東京芸術劇場コンサートホール  3時

 日本語の標準表記は「サムソンとデリラ」らしいが、歌詞では「ダリラ」と歌われているので、それに従う。

 今回は佐藤正浩指揮のザ・オペラ・バンドと武蔵野音大のコーラス、ロザリオ・ラ・スピナ(サムソン)、ミリヤーナ・ニコリッチ(ダリラ)、甲斐栄次郎(大祭司)、妻屋秀和(老ヘブライ人)、ジョン・ハオ(アビメレク)、小笠原一規(伝令)、鈴木俊介&井出壮志朗(ペリシテ人)の出演。

 この歌手陣は極めて高水準で、聴きごたえがあった。
 とりわけ甲斐栄次郎の張りつめた力感のある声は、主役の2人を威嚇する役柄にふさわしく、緊迫度の高い音楽をつくり出していた。まっすぐな声ゆえに、第3幕の儀式場面ではもう少し悪役然とした凄みが欲しいとも感じられたが、しかしこれだけ大司教としての存在感を出してくれれば充分である。
 その主役2人━━ニコリッチは豊麗そのものの声で、またラ・スピナも英雄的な声で、聴かせどころの二重唱「君がみ声にわが心開く」をはじめ、全曲にわたって大いに映えた。

 上演は、舞台装置を使わぬ演奏会形式だが、若干の照明演出が加えられていた。
 演技らしきものは、第1幕の一部を除いてほとんどないけれども、原曲の場面設定に応じて、歌手はオケの前方や後方を移動し、時にはバルコン席やオルガン席にも移動して歌い、劇的雰囲気を出すという趣向が施されていた。

 とりわけラストシーンで、サムソンがオルガン席中央に立ち、それまで稲妻の描写以外には全く控えめだった照明演出が突如前面に躍り出て、輝くオルガン=大聖堂が凄まじい勢いで崩壊するような映像をつくり出したのは、すこぶる効果的であった。
 プロジェクション・マッピングが活用され始めた時代、こういう映像演出はこれから増えるだろう。なまじ中途半端な舞台演出より、この種の映像でイメージを縦横に拡大してくれた方が、オペラの音楽を純粋に楽しむことができるというものである。

 佐藤正浩は、これまでいくつか聴いた彼の指揮するオペラに置けると同様、全くケレンのない指揮で率直に押す人だが、それがむしろ作品の音楽が持つ本来のエネルギーを率直に発揮させるもとになっているようである。
 今日も、ひた押しに押す音楽づくりが優れた効果を上げていた。私がこれまで聴いた「サムソンとダリラ」の指揮の中で、ロイヤル・オペラやMETの上演で振った指揮者よりも、よほど作品本来のドラマティックな要素を生かしていた指揮と言えたのではないかと思う(ただし、カーテンコールでの挙止の要領はすこぶる悪く、もう少し段取りを上手くしてもらわないと、歌手に失礼なことにもなる。これは演奏本番にも劣らぬ重要なことである)。
 彼に率いられたオーケストラも、舞台奥に配置されたコーラスも、なかなか優秀であった。

 唯一問題なのが、ホールのアコースティックだ。ステージに空間が多いせいか、ふだんよりもはるかに「風呂場的音響」になる。ドライすぎるのはもちろん困るが、あまりにワンワンした音になり過ぎて、オケと歌が混然とし、細部の明晰さを失わせてしまうのも困る。
 歌手はステージ前方で歌っている時はともかく、オケの後方に回った場合には、歌詞もさっぱり判らないし、旋律線もぼけてしまう。なお、私の聴いた席は、2階正面最前列の席である。
 折角のいい演奏のオペラも、これでは魅力半減である。━━これは今に始まったことではなく、このホールでのオペラ上演ではいつも気になること。なんとか解決に向けて検討を願いたいものだが・・・・。

2016・2・18(木)ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 ブルックナーの「交響曲第8番」。
 今日の演奏会は「ツィクルス」には含まれていないが、「第8回」の番外編とでもいうか。

 2階席の最前列では、この曲を聴くには近すぎてちょっと辛いかなという気もしていたが、音像がなまなましいわりには、金管が鋭く突出することのない、バランスの良い響きが保たれていたのに安心。
 いや、バランスだけではない。演奏も、もう少し荒っぽくガサガサしたものになるのではないかと覚悟していたのだが、予想を覆して、ずっと良かった。

 抑制気味に演奏された第1楽章では、第2主題の静寂な美しさが際立っていた。猛烈に突進するの愚を避けたテンポの第2楽章では、ややクレッシェンド気味に反復されて行く動機が、ちょうどいい重量感を出していた。後半の2つの楽章でも、その巨大さは充分に表出されていた。
 たった一つ、それまでの威容や荘厳さをフイにしてしまうのが、第4楽章のコーダの後半におけるテンポの加速━━。ここで音楽を一気に驀進させる指揮者は、かのフルトヴェングラーをはじめとして少なくないが、これをやられると、私は一気に白けてしまうのである。

 ともあれ、バレンボイムのブルックナーは、いわゆる宗教性はもちろん、その音楽自体が持つ高貴さや威厳といった要素にはあまりこだわらないタイプのものだろう。壮大な自然の威容を思わせるよりは、生々しく息づく人間のドラマといったもののように私には感じられるのだ。それゆえ、私の好みのブルックナーとは、少し違う。

 今日も終演後、聴衆の1人から彼に花束が捧げられた。例のごとく何本か抜き取ろうとした彼は、途中でそれを諦め、束ごと1人の女性楽員に贈呈してしまい、聴衆の笑いを誘った。
 それにしても、当今のバレンボイムの日本での人気は、たいしたものである。はるか昔、来日記者会見で、質問が低調なのに怒り出し、「おれはこんな場所にいることより、会場で練習を早く始めることの方が遥かに重要だ」と言い放って席を立ち、記者連中から総スカンを食らった頃とは大違いである。あの頃は、彼も血の気が多かった。今は別人の趣があるだろう。

2016・2・17(水)東京二期会 ヴェルディ:「イル・トロヴァトーレ」

      東京文化会館大ホール  6時30分

 東京二期会がこの作品を手がけるのは、1994年以来という。
 今回は、アンドレア・バッティストーニの指揮、ロレンツォ・マリアーニの演出。今日は初日のキャストで、エクトール・サンドバル(吟遊詩人マンリーコ)、並河寿美(女官レオノーラ)、上江隼人(ルーナ伯爵)、清水華澄(ジプシーの老女アズチェーナ)、伊藤純(伯爵の腹心フェルランド)、高岡明子(レオノーラの侍女イネス)、今尾滋(マンリーコの部下ルイス)他の人々。

20160201-2
並河寿美
 
20160201-1
サンドバル(左)清水華澄(右)
       
 東京二期会は1シーズンに、「現代的な」スタイルの演出と、このような「伝統的な」スタイルの演出のものとを組み合わせつつ、数本を制作して行く方針を採っているが、今回のはパルマ王立歌劇場とヴェネツィア・フェニーチェ劇場によるプロダクションで、台本に忠実な、ごくオーソドックスなスタイルの演出だ。演技も、特に斬新な解釈はないものの、概して丁寧につくられており、視覚的にも無駄がない。

 舞台は全体に非常に暗い色調である。そのため、物語の「ミステリアスな」要素(演出家のコメント、プログラム掲載)は、よく表出されていただろう。
 また、演出家マリアーニは、登場人物の性格が程度こそ違え「非現実的」であり、リアルな物語として考える必要がないことを示すために、舞台を大きな「古いタペストリー」で包み込むことにした、という意味のことを述べている。それはたしかに一法だ。が、左右に移動するその巨大な「タペストリー」は、時に単なる「幕」の役割を果たしているだけのもののようにも見えてしまい、その意味が解りやすいとは言い難い。

 舞台美術(ウィリアム・オルランディ)と照明(クリスチャン・ピノー)も極めてシンプルなもので、それなりの雰囲気はある。ただ、この装置は━━パルマ王立劇場から高額な借用料を払って借りるほどのものでもないように思えるのだが如何。

 音楽的に最も注目されたのはバッティストーニの指揮だ。彼への拍手も一段と高い。上半身が見えるピットでの彼の指揮は、文字通り獅子奮迅である。だがそれにしては、今回ピットに入った東京都交響楽団の演奏は、比較的冷静で硬質なもので、音楽があまり燃え上がらない。
 最強音と最弱音の対比は非常に激しく、それ自体はたしかに鋭い劇的効果は生むが、ピアニッシモの個所に膨らみや余韻が不足しているため、その個所に来ると緊迫感が薄らいでしまうということが起こる。

 同じことは、合唱にも言えるだろう。今日の二期会合唱団は、何かいつもと違い、アンサンブルにも締まりがなく、歌を抑え過ぎて、迫力を欠いた感があった。「アンヴィル・コーラス」など最たるもので、特に最後に歌いながら退場する個所でのコーラスの乱れは、この合唱団とは思えぬものがあった。

 それにしてもバッティストーニの指揮、本来はもっと熱っぽい音楽づくりが身上のはずで、その方が面白い人なのだが・・・・。

 歌手陣では、男声陣よりも女声陣の方が圧倒的にパワーを出した。
 並河寿美は豊麗な声で、清水華澄は鮮烈な激しい歌唱でそれぞれの役柄を際立たせ、2人とも成功を収めていたと思う。なお出番は短いが、イネス役の富岡明子の清純な声もいい。
 これに対し、男声主役2人は、声がオケにマスクされがちだったし、歌唱・演技ともに、これらの役柄にはもう少し「あざとい」存在感が欲しいところであった。むしろフェルランド役の伊藤純の方が、脇役なりの存在感を出していただろう。
 休憩約25分を挟み、9時10分終演。

※写真提供:東京二期会  撮影:三枝近志

2016・2・15(月)ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン

      サントリーホール  7時

 ブルックナー・ツィクルス第6日。「交響曲第6番」と、彼の弾き振りによるモーツァルトの「ピアノ協奏曲第22番」の組み合わせ。

 モーツァルトは小編成だが、重心の低い、しっかりした低音の上に構築された陰翳の濃い音だ。第1楽章などは、それぞれの主題が闊達に躍動するというより、一つの大きなハーモニーの流れの中に主題群が滔々と流れて行く、といったイメージを感じさせる。
 ナマの演奏会でこういう「良き時代のドイツの響き」のモーツァルトを聴くのは本当に久しぶりのように思う。まだこういうモーツァルトが健在だったのだ、と、何か不思議な懐かしさを覚えたが、ただ全曲を聴いているうちに、やはりこういうスタイルからは今や自分の好みも離れてしまっているのかな、とつい考えてしまうのは、我ながら意外であった。

 バレンボイムのピアノも、そろそろ味と雰囲気で聴かせるという域に入ったような感があるけれど、しかしとにかく、連日連夜、こんな重量級プログラムをこなす彼の超人的なパワーは、今なお全く衰えていないようである。頭が下がる。

 ブルックナーの「6番」をわざわざ選んで聴きに行ったのは、この曲が彼の交響曲の中でも好きな部類に入るからだ。中期の作品の中では、著しく人間臭い雰囲気を感じさせるものだろう。
 バレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンは、モーツァルトでの「旧き良き時代のドイツ的カラー」をある程度残しつつも、ここではすこぶる戦闘的で激烈な、轟くようなブルックナー像を描き出した。だがその反面、最弱音の美しさは極限まで追求する、といった傾向もあって、このデュナーミクの鋭い対比が、今回の演奏の最大の特徴といえるかもしれない。

 ブルックナーが終ったあと、最前列の1人の女性が花束をバレンボイムに捧げようとして、ホールのスタッフに阻止された。しばらくして彼女はもう一度それを試みたが、見るからにそのタイミングが悪い。駆け寄って来たスタッフにまたあわや・・・という瞬間、バレンボイムが振り向き、めでたく花束を受け取ったのだが、この時バレンボイムが、割って入ろうとするスタッフを「いいから、君はあっちへ行け」とばかり手で追い払ってしまったのには聴衆も爆笑。おそらく大部分の聴衆も「ま、いいじゃないの、折角だから渡させてやりなさいよ」と思いながら拍手を続けていたのではなかろうか。
 そのあとバレンボイムは、その花束から、長い手間をかけてやっと何本かの赤い花を引き抜き、女性楽員たちにも贈ってやっていた。

 スタッフを手で追い払ったのには大笑いだが、バレンボイムは、時々こういう無邪気な(?)ジェスチュアを見せることがある。
 いつだったか彼は、ベルリンのフィルハーモニーでのカーテンコールで、大拍手のうちにホールのスタッフから「公式に」大きな花束を渡された。彼はそれをかかえ、そこから何本かのバラを引き抜こうとするのだが、固く縛ってあるのでなかなか取れない。苦心惨憺しているバレンボイムに、見かねたコンマスが、「どれ、貸してごらんなさい」と手を伸ばすと、バレンボイムは「いいよォ、自分でやるから」とばかり、花束ごと反対側を向いてしまった。茶目っ気たっぷりである。そして、なお延々と花束相手に格闘を続けていた。しばらくしてやっと2、3本を引き抜いて女性楽員に手渡せた時には、聴衆からは安堵の笑いと、さらなる大拍手が盛り上がったのであった。

2016・2・14(日)マスカーニ:「イリス」

    アクトシティ浜松大ホール  2時

 「静岡国際オペラコンクールイベント 第5回県民オペラ」と題された上演。
 2011年のコンクールで最高位と「三浦環特別賞」を得た吉田珠代をタイトルロールに配した上演である。公演監督が木村俊光、指揮が杉浦直基、演出が三浦安浩。

 このオペラ、舞台が日本で、大阪だの京都だのという名の人物が登場し、しかも遊郭の回廊から投身した主人公の女性イリスが、次の場面では何故か富士山麓に倒れているといったような(※)ヘンなストーリーだが、音楽には魅力的なところが結構多い。
 とにかく、原作にも富士山が出て来るオペラだから、静岡県のオペラのイベントには絶好だろう。今回の舞台でも、富士山が━━あまり良い造りの舞台装置とも言えなかったが━━重要な背景のモティーフを為していた。
 ついでながら、遊郭・吉原も、そもそもの発祥の地は、徳川家康時代の静岡の駿府だったそうである。

 主役の吉田珠代は、柔らかくて綺麗な声を持った人だ。
 欲を言えば、声そのものに演技力がもっと欲しいところで、その意味では、このイリスという複雑な性格を持った女性の役柄を演じるにはまだ時期尚早だったかも━━もしくはこの役柄における微細精妙な歌唱の仕方をよくリードできる指揮者のもとで歌うべきだったかもしれない。

 何しろ今回は、指揮がただ几帳面に音楽をなぞって行くだけなので、音楽は極度に平板で生気のないものになってしまった。このオペラのオーケストラ・パートは本来、もっと活気と劇的な性格を持っているはずなのだが、それが甚だ緊迫感を欠いた、盛り上がりのない音楽になっていたのは残念である。
 ピットに入った浜松フィルハーモニー管弦楽団(1998年創立)は初めて聴いたオケだが、基本的にはいい線を行っているようだ。コントラバスにはもう少ししっかりして欲しかったが、これも指揮者次第だろう。

 演出は━━背景の人物に無駄な動きが多いので、主役の存在が視覚的にぼけてしまうことが多いのはこの演出家の癖だ。今回もその連続で、舞台はすこぶる散漫であった。
 しかし、第3幕を「イリスの死後の世界」のように設定したのは、実に当を得ているだろう。これにより、吉原の回廊から飛び降りたイリスが富士山麓に倒れているという原作の滅茶苦茶な設定も、「イリスの死後の幻想」として見事に解決されていた(その場合、第2幕と第3幕は続けて演奏する方が効果的だろうが、今回は間に休憩が入った)。

 とはいえ、そのアイディアも、最終場面でイリスを群集と絡ませたことによって散漫化してしまったのは惜しい。要するに、「自由を求める市民の世界」(プログラム掲載コメント)などという要素を、取ってつけたようにイリスの悲劇に混ぜ込んだことが失敗の原因なのである。ここを最後までイリスという女性の生き方のみに集中させておけば、このラストシーンはどれだけ感動的になったことかと思う。

 その他の配役は、水船桂太郎(金持の男オーサカ)、町英和(女衒キョート)、大塚博章(イリスの父)、大石真喜子(芸者他)ほかと、合唱がコール・デル・ソーレ。
 20分の休憩2回を入れ、終演は5時少し過ぎ。

※昔のテレビドラマでも、羽田空港で刑事たちを振り切って逃げた犯人が、次の場面ではいきなり新宿の高層ビル街で大立ち回りの挙句逮捕されるという設定が多くあったから、似たようなものかもしれない。

2016・2・13(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

    NHKホール  3時

 ジャニーヌ・ヤンセンをソリストに迎えたブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」に加うるに、ニールセンの「交響曲第5番」━━楽しみにしていたプログラムだ。

 私の好みからすると、このデッドな音響のホールでブラームスを聴くのは些か辛いものがあるけれども、それでも極めて手応えのある演奏に感じられたのは、パーヴォよりもN響よりも、ひとえにジャニーヌ・ヤンセンのおかげのような気がする。

 この人、近年ますます音楽の風格が大きくなって来たのではないか。最近出たデッカのCD(UCCD1424)で聴いたブラームスは、何か音色の華麗さが目立つ演奏という傾向があったのだが、今日ナマで聴いた彼女のブラームスは、全くそれとは違う。もっとずっと骨太で、力強い推進性をもった演奏であった。そして、表面的な表情の変化などよりも、内面的な感情の陰翳の豊かさを感じさせる演奏でもあったのである。これなら━━納得が行く。

 一方、ニールセンの「5番」は、まさにパーヴォの本領ここにあり、という指揮だったろう。それは、この作曲家の異常なほどの感情の振幅の大きさを、鋭利な音づくりの手法で、限界まで追求するかのような演奏だった。第1楽章における小太鼓とティンパニの、近づいては遠ざかるその強弱の対比の鮮烈さ。あるいは、第2楽章における峻烈で苛立たしい音群の痙攣━━。
 このあたりは、彼がフランクフルト放送響を指揮した全集のCD(RCA SICC30287~9)で聴く演奏よりも、はるかにリアルで、面白い。

 N響(コンサートマスターは伊藤亮太郎)も、そのパワーを発揮していた。パーヴォとN響の演奏としては、昨年のマーラーやR・シュトラウスよりも、今回のこの演奏の方がずっと鮮やかではなかったかと思う。
 ただ、これは今に始まったことではないけれども、N響は確かに上手い見事な演奏をするが、やはりどこか冷めたところを感じさせてしまう傾向がある。今日のこのパーヴォが振る「5番」など、もしこれが東響なり読響なり都響だったら、あるいは新日本フィルであっても、もっと憑かれたような物凄い熱演を聴かせるのではなかろうか?

2016・2・12(金)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」にマーラーの第7交響曲「夜の歌」というプログラム。

 いくら「夜の歌」をやるからといって、前座に「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」とは・・・・せめて「セレナータ・ノットゥルナ」とかをやったら如何・・・・と、スレッカラシ族はすぐそんなことを考えるものだが、ところが実際に、ちゃんとした指揮者とオーケストラがちゃんとした(?)演奏でこの「アイネ・クライネ・・・・」をやると、これがすこぶるいい感じで、爽やかで新鮮な作品という印象を与えてくれることがわかる。

 読響(コンサートマスターは長原幸太)の弦が良いし、それが8型編成で歯切れよく、たとえば第1楽章の2小節目と4小節目の4分音符のD音を、アクセントをつけたあとにちょっと漸弱気味に弾いたりすると、表情もいっそう豊かになる。
 いわゆるイージーリスニング調の甘さを排した、引き締まった「アイネ・クライネ」は、なかなか好いものであった。特に気に入ったのは第3楽章のトリオ。第2ヴァイオリンとヴィオラの内声部の揺れが豊かで美しく、モーツァルト円熟期の豊麗な音色が、瞬時ではあるが愉しめた。

 第7番「夜の歌」は、今のところ、マーラーの交響曲の中で、私が一番興味を持っている作品である。
 第1楽章に現われる動機の一つが60年代のヒット曲「霧の中のジョニー」と同じフシ(「Johnny、Remember me!」のところです)であるのは、私などの世代には実に面白いことなのだが、まあそれは別として、中間の3つの楽章における怪奇な幻想的雰囲気、大胆な色彩の管弦楽法などは、まさに魅力の宝庫ともいうべきものだ。

 だがやはり、この曲の演奏は、本当に難しいのだろう━━技術的にというより、楽曲全体のバランス構築という面で、である。あの「第6番《悲劇的》」であれほどの怒涛の名演をつくったカンブルランでさえ、今回の「夜の歌」では、何か一つ緊密度に不足し、この交響曲全体の散漫な構築を巧みに整理するところまでは行かなかったのではないか、という気がした。
 それに読響も、今日は少々バランスがよろしくない。ホルンは、このところ聴くたびに不安定さが続いているのだが、これもあまり芳しいこととは言えぬ。

 だがまあ、曲が終ったあとの拍手とブラヴォ―は盛んだったし、大方には楽しんでもらえたのかもしれない。いずれにせよ、第2回の演奏(14日)では、今日感じられたような問題は、おそらく解決されるのではないかと思われる。

2016・2・10(水)METライブビューイング ビゼー:「真珠採り」

     東劇  午前11時

 この時間の上映、お客さんが結構入っている。女性客が多い。たしかに、終映が夜10時過ぎになるより、昼間の方が楽だろう。
 それにしても、METのライブビューイングも今年が10周年とか。継続は力なりだ。PRのつもりで言っているのではないが、勧進元の松竹も立派なものである。

 「真珠採り」は、今年1月16日のメトロポリタン・オペラにおける上演のライヴ。
 ディアナ・ダムラウ(巫女レイラ)、マシュー・ポレンザーニ(漁夫ナディール)、マリウシュ・クヴィエチェン(部族の長ズルガ)、ニコラ・テステ(バラモン教の高僧ヌラバッド)と揃った歌手陣は素晴らしく、特にクヴィエチェンは歌唱と演技ともに圧倒的で、迫力ある存在感を発揮していた。

 そして何より、ジャナンドレア・ノセダの指揮が鮮やかそのもの、このオペラをこれだけ━━特に後半をこれだけ緊迫度の高い演奏で持って行った指揮の手腕は、流石というほかはない。

 もう一つ、流石といえるのは、舞台(ディック・バード)である。映像の変化による舞台━━多分プロジェクション・マッピングを使用しているのだろうが、特に第3幕でのスペクタクルな景観は、METならではの芸当だ。水中を泳ぐ(ように見せる)アクロバットも、巧みな照明(ジェン・シュライヴァー)効果も含めて秀逸なものである。前半2幕は少々単調だったが・・・・。

 演出はペニー・ウールコックで、全体としては保守的なスタイルである。したがって、クヴィエチェンの迫力が目立ったのは、おそらく彼自身の工夫による演技ではないかという気がする。
 なおこれも、全曲の幕切れでズルガが自殺したり殺されたりするのではなく、炎上する街を背景に、みずからの孤独に打ちひしがれる場面で終るようにした演出であった。METの公式パンフレットにおける解説でもそうなっている。この方が後味も好いだろう。上映時間は休憩を含み約2時間半。

2016・2・9(火)びわ湖ホール声楽アンサンブル東京公演

     東京文化会館小ホール  7時

 沼尻竜典が芸術監督として率いるびわ湖ホールのオペラは、国内では新国立劇場と拮抗し、東京二期会や藤原オペラをも凌ぐほど意気盛んな活動を展開しているが、その合唱団━━声楽アンサンブルは、オペラだけでなく、日本歌曲のレパートリーも手がけている。

 その活動の一端が、「日本合唱音楽の古典Ⅳ」と銘打った演奏会として、東京公演(第8回)で紹介された。
 沼尻自身の指揮、渡辺治子のピアノで、プログラムは、廣瀬量平の「海の詩」、三善晃の「三つの抒情」(これのみ女声合唱)、寺嶋陸也の編曲による「宮崎駿アニメ名曲集《さくらんぼの実る頃》」、湯山昭の「コタンの歌」。━━(「さくらんぼの実る頃」を、いくら「紅の豚」で使われたとはいえ、アニメ主題歌と呼ばれては、オリジナルのシャンソンがチト可哀想だ)。

 編成は女声5+5、男声4+4。多くはないけれども、少ないというほどでもない。本当に真摯に、よく歌っていた。
 ドラマティックな曲想の作品ではなかなかの力を出したが、ただ、日本の合唱曲独特の抒情性を聴かせる個所では、もう少し音楽の背後に「余韻」とか「余情」といったものが欲しいところだろう。

 だがこのあたりは理屈ではなく、聴き手が感じる「えも言われぬ雰囲気」という、主観の別れる問題かもしれない。それには合唱団の構成メンバーの経験の長短も影響しているのだろうし、あるいは━━ふだんオペラのような劇的迫力を優先したレパートリーを歌うことの方が多い合唱団と、微細な表情を追及する歌曲専門の合唱団との違い、といったものも関係しているかもしれない。

2016・2・8(月)クァルテット・ベルリン=トウキョウ

    サルビアホール  7時

 サルビアホールは、JR鶴見駅に隣接する横浜市鶴見区民文化センターの3階にある。もちろん、京浜急行鶴見駅からも近い。

 100人収容の室内楽専用━━弦楽四重奏向きのシューボックス型ホールだが、音響がすこぶる良い。思わぬ場所に佳いホールが在るものである。これまで、パノハ四重奏団やカルミナ四重奏団をはじめ、錚々たる弦楽四重奏団がここで演奏して行った由。

 今夜の出演は、クァルテット・ベルリン=トウキョウという団体。守屋剛志&モティ・パヴロフ(vn)、杉田恵理(va)、松本瑠衣子(vc)というメンバーで、2011年にベルリンで結成されたという。
 プログラムは、ハイドンの「皇帝」、ベートーヴェンの「セリオーソ」、バルトークの「第6番」というものだった。

 「セリオーソ」における音の密度の濃さと、バルトークにおける表情の豊かさが特に印象に残る。音楽の推進力の豊かさも、メンバーの若々しい意気をうかがわせるものだろう。
 ただ、これは考え方にもよるだろうが、100席の広さのホールにはそれなりの弾き方が━━つまり、たとえば800席のホールとは異なった弾き方があってもいいのではないのか? 小さなホールで、「皇帝」をあんなに耳を劈くほどガリガリと弾きまくる必要はないのではなかろうか。力感と轟音とは違うのだから。

 なおこのホールのクァルテット・シリーズ、3月はロータス・クァルテットが出演する。
 また今年は開館5周年の「弦楽四重奏フェスト」として、3月以降ウィハン・クァルテット、キアロスクーロ・クァルテット、ヘンシェル・クァルテット、ライプツィヒ・クァルテットなども出演することになっており、特に6月にはパシフィカ・クァルテットがショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全15曲を4回シリーズで演奏するそうである。

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