2017-03

2016・1・30(土)野田秀樹作・演出「逆鱗」

   東京芸術劇場プレイハウス  7時

 チラシや印刷物における表記では、題名の「逆鱗」の字が裏返しにされているところがミソ。

 昨日フタを開け、3月13日まで公演(月曜休演)、そのあとは大阪と北九州でも公演がある。なにしろ、松たか子、瑛太、井上真央、阿部サダヲ、池田成志、満島真之介、銀粉蝶、野田秀樹ら、出演者が有名な人ばかりなので、「おすなおすなの大盛況」である。

 「逆鱗」とは、「逆鱗に触れる」などというような意味の「ゲキリン」ではなく、人魚の首だかに、逆さまについているウロコだそう。
 ドラマの中心は「人魚」だが、これは何と「人間魚雷」の略だという。前半は「人魚」(松たか子)を中心にしたギャグの多いコミカルな芝居になっているけれど、後半は俄然シリアスな、戦争の悲惨さを描くドラマとなる。
 前半では笑いさざめいていた客席も、後半では粛然たる雰囲気と化した。しかも前半の陽気な部分が後半の暗然たる部分への伏線になる━━多少の食い違いはあるものの━━という、すこぶる凝った構成になっているのが、野田秀樹の台本の面白いところだろう。

 正直言って、前半では少々退屈していたのだが、後半では身の毛のよだつような思いに襲われて、見終ったあとには重苦しい気分とともに、充実した見応え感とが残った。
 2時間と少し、休憩なしで、9時10分頃終演。

2016・1・30(土)山田和樹指揮日本フィルのマーラー・ツィクルス4

      オーチャードホール  3時

 山田和樹が日本フィルハーモニー交響楽団と組んでのマーラー交響曲ツィクルス。第2期「深化」の第1回は「交響曲第4番」。前半に組み合わせている武満徹の作品は、今日は「系図」である。

 「系図」では、2000年生れという若い上白石萌歌がナレーターに起用された。これは山田和樹自身による人選だという。作曲者も「ナレーターには10代の少女が望ましい」と言っていたそうだ。
 ぴったりである。少女が少女っぽい口調で、何の衒いも芝居気もなく、ただ率直に思いをこめて淡々と語るその語り口の、なんと素晴らしく、この作品の内容と音楽とに完璧に合致していることだろう。今回の人選は大成功だ。

 彼女はこのナレーションを暗譜でやってのけたが、これも若者らしくて立派である。山田和樹と日本フィルも、この甘美なオーケストラのパートを、過度な思い入れを行なわずに自然に演奏、美しさを出していた。日本人指揮者によるタケミツの音楽には、やはり独特の素晴らしさがある。

 その自然な演奏がマーラーの「第4交響曲」にも引き継がれたのは、実に順当なことといえるだろう。
 今回のツィクルスでは、武満とマーラーとの作品を、それぞれ共通するイメージにより選曲されており、しかも演奏にもそれが適切に反映されていることが多い。今日のプログラミングと演奏内容においても、それは実現されていたと思う。

 とにかくこのマーラーは、神経質な気分の振幅よりも、快い美しさが浮き彫りにされていた演奏という印象だ。
 日本フィル(コンサートマスターは扇谷泰朋)の演奏も、しなやかで瑞々しい。昨年の第1期での緊張しすぎた演奏とは打って変わった出来を示していたのは祝着であった。

 しかも、第4楽章でソプラノ・ソロを務めた小林沙羅が、これまた衒いのない、この上なく爽やかで純な歌唱だったのである。
 それは、「この2曲に共通するテーマは『子ども』である」(山田、プレトーク)というコンセプトにもぴったりだった。つまり、「系図」での語りと、「4番」での声楽は、見事に呼応し合っていたのである・・・・。

2016・1・28(木)ショパン国際コンクール入賞者ガラ

    東京芸術劇場コンサートホール  7時

 昨秋ワルシャワで開催された第17回ショパン国際ピアノ・コンクールの第1位~第6位入賞者全員を集めてのガラ・コンサート。
 全員が来られるとは立派な企画だ。協演はヤツェク・カスプシク指揮ワルシャワ国立フィル(ご苦労様です)。

 演奏者と曲目は順に、
 ドミトリー・シシキン(第6位、露)が「ロンド作品1」、イーケ・(トニー・)ヤン(第5位、カナダ)が「即興曲第2番」と「スケルツォ第3番」、エリック・ルー(第4位、米)が「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」(オケ付き版)、ケイト・リウ(第3位、米)が「華麗なる円舞曲作品34の1」と「3つのマズルカ作品56」。
 それに、シャルル・リシャール=アムラン(第2位、カナダ)が「ソナタ第3番」。最後に、チョ・ソンジン(優勝、韓国)が「協奏曲第1番」。

 ただでさえ豊富なプログラムの上に、しかもアンコールとしてルーが「前奏曲第17番」を、チョ・ソンジンが「英雄ポロネーズ」を弾いたので、終演は10時になった。

 6人のうち、何故かシシキンとりシャール=アムラン以外の4人が東洋系(の容貌)である。いずれ劣らぬ才能の持ち主だが、面白かったのは、その「東洋系?」の4人が、みんな整然として、純粋に「音」としてのショパンを突き詰めて行くといった演奏だったのに対し、リシャール=アムランが弾き出すと、途端にその音の背後に、えも言われぬ豊かな文化の伝統という広大な世界が沸き出すように感じられたことだった。

 だがそれでもチョ・ソンジンの演奏は群を抜いていた。その音楽には、均衡と情熱とが肉離れを起こすことなく備わっている。彼のそれはまさに卓越した演奏であり、これが「伝統」を抑えて、1位と2位とを分けた所以かもしれぬ。

 その他の人々は、この日の演奏での印象では、シシキンは爽やかな息吹の、ヤンは思い入れ強く凝った音楽づくりの演奏だろう。ルーの演奏は、角張っていて、あまり面白くない。リウは演奏した作品の性格のためもあって、やや地味な存在に聞こえたか。

2016・1・27(水)トーマス・ダウスゴー指揮新日本フィル

    サントリーホール  7時15分

 モーツァルトの「ハフナー交響曲」と、マーラーの「第5交響曲」。

 昨年5月の都響客演、2012年3月および先週の新日本フィル客演━━ニールセンやシベリウスの作品を取り上げることが多かったダウスゴーだが、今回はモーツァルトとマーラーを聴かせてくれた。
 それらにおける演奏と同様、きりりと引き締まった音楽が痛快だ。獲物にとびかかるような精悍な身振りの指揮から生れる音楽は、すこぶる緊迫感にあふれている。

 いわゆる冷徹な演奏とは紙一重の堅固な端整さがあり、見事な集中力を示す。何一つとして余計な装飾はなく、厳しい構築性に富んでいて、モーツァルトもマーラーも、剛直、率直の極みである。
 だが、それらが全く無機的な演奏に感じられないのは、ダウスゴーの円熟の指揮と、今日の新日本フィル(コンサートマスターは西江辰郎)の鮮やかな順応性のゆえであろう。それに、こういう演奏は当節、むしろ新鮮に聞こえるのだ。

 とりわけマーラーでの木管群の躍動感は素晴らしかった。欲を言えば、第5楽章で、途中での追い込みと昂揚が目覚ましく利き過ぎてしまい、肝心の最後のダメ押しの昂揚に今一つ、それ以上の力感が伴わなかったという点か。このあたりは今のこのオケのエネルギーにちょっと物足りないところがあるせいだろうか? 
 とにかく、面白いモーツァルトとマーラーだった。

2016・1・26(火)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  7時

 アラン・ギルバート━━音楽監督を務めるニューヨーク・フィルや、客演の北ドイツ放送響などとの演奏会をいろいろ聴いて、どれも地味で色合いに乏しく、面白いとは思えなかった人だが、それが前回東京都響に客演した際(2011年7月17日)には、まるで別人かと思えるような素晴らしい、重厚壮麗なブラームス(第1交響曲他)を聴かせてくれた。
 みんなもそれを覚えているのだろう、今夜も彼は熱狂的な拍手と歓声に包まれた。これだけ日本で温かく迎えられれば、日系人たる彼も嬉しいのではないか。

 今日は、武満徹の「トィル・バイ・トワイライト」、シベリウスの交響詩「エン・サガ」、ギルバート自身の編纂によるワーグナーの「ニーベルングの指環」抜粋というプログラムである。

 武満作品は、非常にメリハリの強い鋭角的なアプローチで、明るく華麗なサウンドにもなっていた。外国人指揮者がタケミツを演奏すると、だいたいこのようなスタイルになることが多い。が、それはそれで興味深いだろう。武満の作品といえども、真摯な解釈であればどんなスタイルにも応じられるだけの幅広さと強さを持っているはずだから。

 「エン・サガ」も、今日は非常に生々しく、荒々しい音づくりの演奏だった。森と湖と霧の中を彷徨うような「伝説曲」ではなく、すこぶる激烈で闘争的な音詩という表現である。前半で、ある段落ごとに音の流れを断ち切るというやり方が採られたことには、ちょっと疑問を抱かされたが・・・・。

 ギルバート自身が編纂したという「指環」抜粋は、55分程度の長さにまとめられた、切れ目なく演奏される構成である。
 大きく分けて8つの個所が抜粋され、繋ぎ合わされている━━「ヴァルキューレの騎行」、「ヴァルキューレの逃走~ヴォータンとブリュンヒルデの対話の場への転換」、「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」、「炎を踏み越えるジークフリート~岩山の頂上場面への転換」、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」、「ハーゲンの見張り~ブリュンヒルデの岩山場面への転換」、「ジークフリートの葬送行進曲」、「ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲」という具合だ(プログラム表示ページでは、2番目のものが抜けていた)。

 このうち、2、3の部分では、中間を省略して先へ飛んだり、反復したりするなどの手が加えられている。デ・フリーハー版やマゼール版など、いくつかの編纂版に比べると、接続の手法に多少要領が悪く、バランスを欠くところもあるけれども━━まあそれはそれとして。

 「葬送行進曲」では、クライマックス個所でのテンポが速めだったので、威勢はよいが、悲壮美には不足しただろう。それにしても彼は、こういう要所に来ると、オーケストラを実に巨大な音量でたっぷり鳴らす。やはり「奔馬」ニューヨーク・フィル相手に仕事をしている人だなと、微笑ましい。
 ただ、今日の演奏は、低音域の響きが薄く、音が少し軽い。それに都響(コンサートマスターは四方恭子)が、常に似合わず、急いでいるような慌ただしい演奏で、アンサンブルにも精緻さを欠いていたのが気になる。

2016・1・22(金)トーマス・ダウスゴー指揮新日本フィル

     すみだトリフォニーホール  7時15分

 デンマークの指揮者トーマス・ダウスゴーが4年ぶり客演、シベリウスの「4つの伝説曲(レンミンカイネン組曲)」と、母国の作曲家ニールセンの「交響曲第5番」を指揮した。今月、私がこの上なく楽しみにしていたプログラムである。

 ダウスゴーのことだから、きっと鮮烈な演奏になるだろうと思っていたが、その予測どおり、デュナーミクが鋭く強烈で、かつ起伏が大きいので、この2曲は極めて劇的な力感に富むものとなった。
 彼の指揮は、CDで聴くと、時に味も素っ気もない冷徹な表情に感じられることがあるのだが、ナマで聴く彼の指揮は、非常に生き生きしていて、多彩である。

 何より、ひた押しに押す力感が物凄い。シベリウスの第1曲「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」でクライマックスに押して行く緊迫感もさることながら、「トゥオネラのレンミンカイネン」でうねりながらクレッシェンドして行くあたりは、これまで他の演奏では滅多に聞いたことのないほどの魔性的な力を感じさせていた。

 ニールセンの「第5交響曲」も、このくらい鋭角的なリズムと、強弱の幅の大きい演奏で聞かされれば、私はほぼ満足である。
 特に第1楽章、あの小太鼓の行進曲的リズムに煽られる音楽の揺れ━━遠ざかるかと思えばまた目の前に近づいて来るようなクレッシェンドとデクレッシェンドは、よほど起伏の大きな演奏でないとその不気味さは巧く再現できないのであり、かつてホーレンシュタインが指揮した古いレコード以外ではなかなか聞けないのが実情だ。

 もちろん、ナマでそんな凄い演奏を聞けるのも稀なのだが、そういう点では、今日の演奏は、かなり楽しめるものだったのである。欲を言えば、強奏個所の小太鼓に、もう少し微細なニュアンスが欲しかったが・・・・。しかし、第1楽章の終結の最弱音は、見事なものだった。

 新日本フィル(コンサートマスターは崔文洙)は、アンサンブルがあまり密でないのが残念だったけれども、北欧の2作品をこのように暗く揺れ動く響きで再現してくれたということで、好しとしましょう。「レンミンカイネンの帰郷」の最後では打楽器のだれかが勢い余って・・・・というところもあったが、これはご愛敬。

 なお、「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」が次第に佳境に入り、神秘的な弱音で緊迫感を高めていたさなかに、演奏をも打ち消さんばかりの音量で、無分別で無作法極まる巨大な咳(咳払い)を、一度ならずも二度三度した男がいた。これのせいで、同曲のみならず、森明子がイングリッシュホルンを美しく吹いた第2曲「トゥオネラの白鳥」まで、何か落ち着かぬ気持で聞かなくてはならなくなったのが口惜しい(つまり、いつまたあの狂気じみた咳をされるかという不安)。これは、あのチューニングが始まっている時に客席最前列へ悠々と入って来る非常識な御仁をも凌ぐ、悪質な所業といえるだろう。

2016・1・21(木)スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 ブルックナーの「交響曲第8番」(ノーヴァク版)を指揮した桂冠名誉指揮者スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ。満92歳。

 鶴の如く痩せた体躯ながら歩く姿はしっかりしており、指揮台にも容易く上り下りする。そして80分以上の長さの大交響曲を立ちっぱなしで、しかも暗譜で指揮する。実に矍鑠たるものである。
 しかも、その演奏は確固として揺るぎない。速めのテンポとシャープなリズム感で嵐のような音楽をつくり、厳しい緊迫感を失わずに、全曲をバランスよく完璧に構築する。かつてのような、テンポを忙しく動かしたりすることはなくなったけれども、その代り、いっそう厳しい力が演奏に加わったようにも感じられたのだが、どうだろう。

 彼が指揮する音楽には、少しも手垢がついていない。常に新しいものを作品の中に見出して行こうという気迫が感じられるのである。

 特に第3楽章のアダージョは、圧巻だった。深山の湖のほとりに佇むような思いにさせられる清澄な叙情美が、やがて後半の巨大な頂点に向かって昂揚して行くあたりの凄さ。
 そして、そのあとの第4楽章が、これまた疾風怒濤のような演奏で進んで行くのだから、老巨匠の精神力にはただ感嘆するばかりである。

 読響(コンサートマスターは長原幸太)も力感に富んだ演奏を披露した。アンサンブルにはちょっと荒っぽいところもあるものの、スクロヴァチェフスキの若々しい情熱と気迫と、人間味にもあふれた指揮から生まれる演奏の素晴らしさを思えば、そんな細かいところがどうして気になるだろう。

 演奏後、後方の客席から一斉に沸き起こるブラヴォーの響きも美しい。こういうブラヴォーのハーモニーは、以前のブルックナーの「7番」の時以来だろう。ほとんどの聴衆が居残って、スクロヴァチェフスキを単独で2回もステージに呼び出すまで拍手を続け、ブラヴォーを叫んでいた。こういう熱狂も、かつての朝比奈隆以来のことかもしれない。
      別稿 音楽の友3月号 演奏会評

2016・1・20(水)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団

     サントリーホール  7時

 これはB定期。グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはルーカス・ゲニューシャス)、チャイコフスキーの「白鳥の湖」抜粋という、ちょっと風変わりなプログラミングだった。コンサートマスターは篠崎史紀。

 ロシアものとなれば、ソヒエフも自由にいろいろ仕掛けるのではないかと期待していたのだが、「ルスラン」も「白鳥」も、華麗ではあったものの、すこぶるストレートでケレンのない演奏になっていた。
 客演のオケではあまり冒険はしない流儀かとも思われるが、しかし日記を調べてみると、気心知れたトゥールーズのオーケストラとの「シェエラザード」でも、4年前の演奏に比べると最近はあまり大暴れする演奏ではなくなり、良くも悪くも落ち着いたスタイルに変わって来ていることが判る。アンファン・テリブルが常識人になってしまうのでは面白くないが、まあ、見守ることにしよう。

 「白鳥の湖」の序奏を、目を閉じて聴いていたら、かつて何度か訪れ、そのたびに感動したあのロシアの澄み切った静かな光景が甦って来た。チャイコフスキーの弦は、美しく演奏されると、しばしばそういうものを思い出させるのだ。

 ゲスト・ソリストのゲニューシャスは、25歳。率直で澄んだ綺麗な音色で、瑞々しいラフマニノフを聴かせてくれる。ソロ・アンコールでの「マズルカ 作品63の2」も美しい演奏だった。
      →別稿 モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2016・1・20(水)シンポジウム「世界における我が国オーケストラのポジション」

     政策研究大学院大学・想海樓ホール  4時

 文化庁と日本オーケストラ連盟が主催するシンポジウムの第2回で、前回同様、海外から数人の評論家を招き、日本のオーケストラの演奏会を聴かせて忌憚ない批評を求めるという場がつくられた。
 今年は米国からマーク・スウェッド(前回も来ていた)、ドイツからマニュエル・ブルク、フランスからクリスティアン・メルラン、オランダからグイド・ファン・オールスホットといった、それぞれ「ロサンゼルス・タイムズ」や「ディ・ヴェルト」「ル・フィガロ」等に批評を書いているという人が参加した。

 私は第1部の「現代欧米オーケストラ事情」(4~6時)しか聴けなかったが、各国のオーケストラ界それぞれが抱えている問題点や解決例などの話が提示されて実に面白く、興味深い内容になっていた。
 前回は私が日本側のパネリストとして出席し、日本のオケを弁護する立場に回ったわけだが、今年は沼野雄司さんが日本代表を務めており、彼らしい明快な論旨で問題提起をしていたので、第2部はいっそう面白くなったのではないかと思うが、どうだったろうか。

 だがそれにしても━━前回も似たようなものだったが━━同時通訳の担当には問題が多すぎる。複数で担当しているようだが、今日のドイツ語を担当した通訳は酷いもので、固有名詞も滅茶苦茶、発言内容でも大切な個所をいくつも飛ばすので、何を言っているのかさっぱり解らないほどだった。
 通訳を介していると知りながら早口で切れ目なく喋りまくるパネリスト側にも問題があるが、いずれにせよもう少し音楽界の事情を知っている人に通訳を依頼するべきである。

2016・1・18(月)ピエタリ・インキネン指揮プラハ交響楽団

     サントリーホール  7時

 インキネンは昨年秋に、このプラハ響の首席指揮者に就任したばかり。したがって、このコンビでの来日は、これが最初になる。
 プログラムは、シベリウスの「フィンランディア」、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」、ベートーヴェンの「交響曲第7番」。オケのアンコールはドヴォルジャークの「スラヴ舞曲作品72の2」とブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」。━━相も変わらず名曲ばかりである。

 「フィンランディア」は、さすがインキネンの堂に入った指揮で、デュナーミクの起伏の大きな、豪壮な演奏となった。一方、メンデルスゾーンとベートーヴェンは、いずれも整然とまとめた演奏である。
 オーケストラには、チェロの良きローカルな特色が今なお残っており、それはヒューマンな味と温かさを感じさせる。総じて、弦を基盤とした厚みのある響きで、確固とした構築でまとめられた演奏だ。力強いが柔らかく瑞々しく弦を中心に語られる音楽の構築も明快、オーケストラのバランスと音楽全体の流れも極めて良い。
 特に「第7交響曲」は、当節の演奏としては極めて正統的な、正面から取り組んだ均衡豊かな演奏になっていた。

 メンデルスゾーンの協奏曲を弾いたのは成田達輝である。全曲を通じて、よくいえば屈託ない、この曲の軽快な要素を普通以上に浮き彫りにした演奏とでもいえようか。だが反面、音符の一つ一つに対し何の意味をも考えずに、ただ飛び跳ねるように、初めから終りまで軽快に愉しく、しかも格好をつけて弾く、といった演奏でもあって、これはしかし、あまりに皮相的な演奏に過ぎはしないか? 
 西欧人でない演奏家が、西欧の作品から新しい何かを引き出すために実験的試みを加えること自体は大いに結構だ。が、この演奏を聴く限り、どうみても、考え抜かれた音楽づくりという印象は得られないのである。結果として彼の解釈は、この協奏曲を天下泰平でポップな、しかも単調な音楽にしてしまったとしか言いようがないだろう。

 なお彼は、アンコールにはバッハとパガニーニを弾いたが、ゲスト・ソリストがアンコールを2曲もやる必要はない。しかも自分のリサイタルでもないのに、アンコールを弾く前に「今日はお足元の悪い中を・・・・」などとスピーチをやるのは、全く余計なことである。
    別稿 音楽の友3月号 演奏会評

2016・1・18(月)METライブビューイング ベルク:「ルル」

   東劇  1時

 昨年11月21日MET上演のライヴ映像。ドローイング・アニメの大家ウィリアム・ケントリッジの演出が話題となったプロダクションである。

 彼の最初のMET演出だった「鼻」(ショスタコーヴィチ)の舞台は、現場で観て大いに感心したものだが、第2作の「ルル」はそれよりも更に、はるかに微細で雄弁なつくりになっているようである。どこまでが大道具で、どこからがアニメの投映なのか分からないほどの精妙な舞台だ。

 登場人物の心理や、舞台で見せぬ部分は、アニメで表現される。原作のト書きでも映画が使われる個所があるが、そこなどはまさにアニメ投映の見せ所といえよう。
 ラストシーンでは、物陰で殺されたルルは姿を見せず、彼女の安息に満ちた顔がアニメで投映されてドラマが終る、という仕組だ。
 ただ、やはり「鼻」と同様、METのあの広大なナマのステージで観てみないと、その真価は十全に理解できない類のものではないだろうか。

 題名役はマルリス・ペーターゼン、歌唱力は相変わらず素晴らしい。どちらかというとシリアスなルル像だが、特に最後の場面、尾羽打ち枯らした姿となり、「たとえ銀貨1枚でも」と男に哀願するあたり、見事な演技力である。
 ゲシュヴィッツ伯爵令嬢役では、スーザン・グラハムが珍しく汚れ役を演じた。悪くはないが、どうもあまりピンと来ない演技である。幕間での案内役デボラ・ヴォイトとの掛け合いはまた漫才のようになって楽しかった。

 シェーン博士と切り裂きジャックはもちろん同一歌手が歌い演じるが、ここでのヨハン・ロイターは存在感充分。
 老人シゴルヒにはフランツ・グルントヘーバーが登場、もう80歳近いが、立派である。もっともこの役はたしか往年の大歌手ハンス・ホッターが90歳近くなっても歌ったはずで、高齢のドイツ人歌手には持って来いのキャラクターかもしれない。
 猛獣使いとサーカスの力芸人を歌い演じたバリトンが、井上道義さんによく似ていると思ったら、あのバイロイトの2013年の「指環」でアルベリヒを歌っていたマルティン・ヴィンクラーだった。あの時よりも、今回の舞台の方が生き生きとしているようである。

 アルヴァ役はダニエル・ブレンナという人が歌い、これは「注目の若手のMETデビュー」だったそうだが、あまり冴えない。
 総じて、みんな歌は完璧だが、ペーターゼンを別として、人物描写は思ったほど生き生きしたものではなかった。脇役の中には、やや手持無沙汰の演技を見せていた人もいる。このあたりに、アニメでは超一流ではあっても、プロの演出家ではないケントリッジの演出の限界があるだろうか。

 指揮は、当初予定されたジェイムズ・レヴァインに代わってローター・ケーニクスという人が受け持っていた。録音で聴く限りは無難な出来に感じられるが、本質的なものはナマで聴いてみないと分からないだろう。とにかく、よく喋る人である。

 休憩2回を含み、上映時間は3時間54分。
 こういう、オペラファン以外にはあまり知られていない名作が、解りやすい字幕つきの映像で広く紹介されることは、実にありがたい。

2016・1・17(日)井上道義指揮東京フィルハーモニー交響楽団

     オーチャードホール  3時

 前半にハチャトゥリヤンの「ガイーヌ」から「ばらの乙女たちの踊り」「子守歌」「山岳民族の踊り」「レスギンカ」の4曲が演奏されたが━━これはどうも前座のオハヤシといった感じで、ただもうガンガン鳴りっぱなしの、わけの解らない演奏と相成り、呆気にとられて聞いていた。

 だが、さすがに後半、真打のショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」となると、音から何からガラリと変わり、特に弦楽器群には透徹した明晰さが現われて、演奏も厳しくシリアスな表情となる。これこそが、井上が全身全霊をこめるショスタコーヴィチの交響曲の世界である。
 全曲大詰の頂点でも完璧な均衡を備えたテュッティが見事、鮮やかな昂揚がつくり出されていた。中間2楽章での透明な叙情感も、かつて彼が日比谷公会堂で行なった全曲ツィクルスでの演奏をはるかに凌ぐものだったように思われた。
 好演のオーケストラの、今回のコンサートマスターは「客演」の荒井英治、懐かしい光景である。

 ただし欲を言えば、第1楽章のあの「戦争の主題」での楽器群の受け渡しの個所が何となくスムースでなく、小太鼓のリズムも何か少し遅れ気味になることが多いように感じられ、「繰り返しの魔性」に不足する演奏に思えた、ということ。

 それにしても、1階席中央あたり、周囲で居眠りしている人の多かったこと! 私の左隣あたりからは猛烈な寝息がずっと聞こえていて閉口した。うっかり目を閉じて聴いていたりすると、発生源と間違えられるかもしれないと思い、警戒する。演奏後、客席から出ようとしているご婦人が「あたし、3分の1は寝てたわ」と連れに話していたのには驚いた。
 しかし知人に訊くと、熱心なマニアの多い1階席後方あたりの席では、当然ながらみんな物凄い緊張のうちに、音楽に集中していたそうである。

 終演後に楽屋で会った井上さんがいきなり「この曲、いい曲だよね」と叫んで来たので、「いいけど、長いよね」と返したら、「うん、ロシアは夜が長いからさ」と、解ったような解らないような御説を・・・・。

2016・1・16(土)秋山和慶指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 定期にしては珍しい、愉しく威勢のいい曲ばかりのプログラムが組まれた。

 第1部ではヒンデミットの「ラグタイム」に始まり、次にヴォルフ・ケルシェック(1969~、ドイツ)の「トランペット・ダンス」(2013年作)が、マティアス・ヘフスをソリストに迎えて演奏される。
 そして休憩後はショスタコーヴィチの作品2曲で、「ピアノ協奏曲第1番」が小曽根真とへフスをソリストとして演奏され、最後にオーケストラのみで「ジャズ組曲第2番」が演奏されて結ばれる。
 オケの定期というのは、えてして重い曲ばかりが演奏されるものだが、たまにはこのような飛び跳ねる音楽ばかりのプロが組まれるのもいいものだ。

 ハイライトは、やはりマティアス・ヘフスのトランペットだろう。ドイツの名手としておなじみの彼は、軽やかでありながら骨太で、力強いが柔らかい、しかも朗々たる音色のラッパを響かせる。ただでさえ陽気なこの「トランペット・ダンス」が、いっそう華麗に鳴り渡っていた。

 ただ、ショスタコーヴィチの協奏曲のほうでは、彼のトランペットはあの賑やかな第3楽章でも少し抑制気味で、小曽根を引き立てようと遠慮していたような雰囲気で・・・・。
 その小曾根のほうも、いつもの彼とはちょっと違って、意外におとなしい演奏に終始したという印象だった。秋山和慶と東響が、きっちりと引き締まっていたけれども何となく真面目さの抜け切れない演奏だったので、それに影響されたのかしらん?

 「ジャズ組曲第2番」など、精一杯スウィングしようとしていたのかもしれないが、やはり結果的には、正面切った折り目正しい演奏という感だったのである。コンサートマスターは水谷晃。

2016・1・16(土)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団

    NHKホール  3時

 トゥガン・ソヒエフ━━当節トップグループの若手指揮者たちの中では、最も来日頻度の高い指揮者だろう。N響にはこれが3度目の客演か。相性も良いらしい。
 今日はCプロの2日目で、ブラームスの「二重協奏曲」(ソロはヴァイオリンのフォルクハルト・シュトイデおよびチェロのペーテル・ソモダリ)と、ベルリオーズの「幻想交響曲」。コンサートマスターは伊藤亮太郎。

 ブラームスの冒頭の全合奏が開始された瞬間の、弦を中心としたその音色の開放的な艶やかさに心を惹かれる。N響がよく出す、あのくすんだ重い響きが、ここでは一掃されてしまっていた。こういう生気にあふれた音なら、このNHKホールのアコースティックの中でも、充分愉しめるというものである。ウィーン・フィルの楽員2人によるソロの音色ともよく合う。
 このブラームス、なかなか魅力的な演奏だった。

 「幻想交響曲」のほうは、ソヒエフ得意のフランス音楽ゆえ、もう少し自由奔放に演奏をつくるかと思ったのだが、予想外なほどシリアスにがっしりと構築されていて、非常に厳しい顔つきのベルリオーズという印象になっていた。
 やはりフランスのオーケストラ(トゥールーズ)相手のようには行かぬらしく、むしろ先頃一緒に日本公演を行なったベルリン・ドイツ響との演奏スタイルに近くなっていたのだが、これも、相手のオーケストラのカラーを生かした表現を採ろうという彼の狙いゆえだろう。

 極めて立派な音楽づくりではあったが、この狂気じみたストーリーを持つ交響曲の演奏としては、少しく異色のものだったかもしれない。

2015・1・15(金)ハーディング指揮新日本フィル「戦争レクイエム」

     すみだトリフォニーホール  7時15分

 ダニエル・ハーディングと新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽面での呼吸は、演奏を聴く範囲では、このところいっそう緊密さを増しているように感じられる。シェフとしての残る任期はおよそ半年。残念な気もするけれども、「頂点で終る」というのも、一種の美学かもしれぬ。

 今日はブリテンの大作「戦争レクイエム」で、コンサートマスターは西江辰郎、室内オーケストラ側のコンサートマスターは崔文沫。

 「戦争レクイエム」は、いわゆるシンフォニックな性格の作品ではないが、ハーディングのつくり出す滔々たる鎮魂の音楽は、新日本フィルにもよく投影されているように思われた。
 先輩ベテラン指揮者たちのそれのような、深みや痛切さといった特色には不足する傾向はあったものの、その代り、若々しい純な感性による悲しみの表現・・・・といった要素を感じさせたのではあるまいか。終結近く、テノールとバリトンのソロが「さあもう眠ろう」と歌い交わし、合唱が静かに加わって来るくだりは、何度聴いても胸が締め付けられるところだが、今日はあまり深刻にはならぬ表現ながら、それでもやはり心に迫る演奏であった。

 その個所で、後方の高所から響いて来る東京少年少女合唱隊の歌声もすこぶる幻想的であった(上階で聴いていた人たちにはバランスが悪かったかもしれないが)。そしてステージ上の合唱は栗友会合唱団。ソリストはアルビナ・シャギムラトヴァ(ロシア)、イアン・ボストリッジ(英国)、アウドゥン・イヴェルセン(ドイツではなく・・・・ノルウェー)。いずれも良い演奏である。

2016・1・14(木)「JAM TOWN」

     KAAT神奈川芸術劇場  2時

 KAAT神奈川芸術劇場プロデュースによる「NEW MUSICAL」と銘打った西寺郷太作曲(作詞・編曲・Drumsを兼ねる)と錦織一清演出の新作。
 2014年11月にトライアウト公演(試演)が行なわれているそうだが、正式上演としては今回が初ということらしい。

 もちろん私も、観るのはこれが初めてである。この方面には私は全くの素人だが、KAATの上演には以前の宮本亜門芸術監督時代から面白いものが結構たくさん並んでいるので、時々こうして観に行く。
 こういう演劇系の舞台は━━音楽は好みに合わなかったり、歌唱力には意に満たぬものがあったりしても━━とにかくテンポよく、流れよく、隙間なく芝居が構築されており、演技も自然で上手いので、日本人がやる泰西オペラの舞台のような不自然な演技でムズムズさせられることがないから、実に愉しいのである。

 この「JAM TOWN」も、そういう意味では、芝居に「隙間」がほとんどない。
 物語は、横浜港へ流れる川に繫留されているエンジンの壊れた船を改装したバーで繰り広げられる「人情話」のようなものだが、騒々しいところはあるけれども、どこにでもいるような人間像がひしめく舞台は、快適なテンポで進められる。

 マスターを演じる筧利夫は、以前「テイキング・サイド」(フルトヴェングラー裁判を扱ったドラマ)でも感心させられたが、存在感充分だ。
 東風万智子はここでも「暗い」役柄で━━私などは未だに昔の「真中瞳」時代の明るさが懐かしく思えてしまうのだが━━ただひとり異次元の世界に生きる「妻」を巧く表現していた(歌うとは知らなかった)。
 松浦雅の「女のコ」的な表現も、この上なく見事にはまっている。そして何より、水田航生、YOSHIE、Oguri、HASSE、エリアンナらをはじめとする若手たちの活気ある演技とダンスの巧さ。

2016・1・13(水)クリスティアン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル

     サントリーホール  7時

 定例の集中的国内ツァー。11月19日の倉敷に始まり、1月18日の武蔵野まで計13公演。
 日本に住んでいる期間も長いらしいから、もっとしばしば演奏会をやってくれてもいいような気もするが、やはりそれでは「大ピアニストの来日公演」という有難味は出ないらしい。それに、こういう卓越無比な演奏を聴かせてくれるアーティストは、2年に1度くらいの割で現われてくれた方が、こちらも新鮮な気持で感動することができるかもしれない。

 で、今日は「シューベルト・プログラム」だった。「7つの軽快な変奏曲」に、ソナタの「第20番」と「第21番」。ただしアンコール曲はシマノフスキで、「前奏曲作品1の1」。

 独自の楽器を使用しての音色の美しさは改めて触れるまでもないが、今夜のこのホールでの演奏では、シューベルトの2つのソナタが、これまで聴いたことのないような見事な語り口で蘇っていたことに、言葉で表現できぬほどの感銘を受けた。
 主題が非常に素朴で率直な形で浮き彫りにされるのにも驚いたが、それと同時に、各主題やモティーフの間に挿入されるちょっとした経過句の一つ一つを、ツィメルマンが見事に有機的かつ雄弁に表現していることにも感嘆させられる。

 並みの演奏で聴くとつい長く感じられてしまう「第21番」でさえ、実はただの一つも無駄な音符のない曲であることが、彼の演奏では、はっきりと分かる。この2つのソナタで、これまで自分はいったい何を聴いていたのだろう、と思わせられるようなツィメルマンの凄さなのである。

2016・1・11(月)ロームシアター京都プロデュース「フィデリオ」

    ロームシアター京都  5時

 リニューアル・オープンした「ロームシアター京都」は、平安神宮のすぐ近く、岡崎公園の西側に位置する。南側には「みやこめっせ」がある。地下鉄東西線の東山駅から歩いて10分以上かかる場所だ。

 天気晴朗、気候温暖とあって、周辺を少し探索してみようと、3時少し過ぎに現地に着く。ちょうど「みやこめっせ」での成人式が終ったばかりで、周辺はごった返していた。きょろきょろしながら歩いていたら、なんと今日の「フィデリオ」で悪役ドン・ピツァロを歌うはずの小森輝彦さんとばったり出会った。「おやどうも」と挨拶したものの、彼のカジュアルな服装を見て、もしかしてこちらが時間を間違えていたか、もう上演が終ってしまったのか、と、一瞬ぎょっとしたが・・・・。
 しかし彼が「今日のは悪くないと思いますよ」とにこやかに語っていたので、本番はやはりこれからだったか、と一安心。

 「ロームシアター京都」は、京都市内の他の多くの建物と同じように、「和」の雰囲気を建物の内外に滲ませている。東京モノにとっては、実に得がたい存在に感じられる。
 ホールの響きは「劇場的」で、残響はほとんどないが、オーケストラはさほどドライには聞こえない。ただし今日は、セミ・ステージ形式上演で、オーケストラはステージの上、かなり前面にまで拡げられて配置されていたので、ピットの中での演奏に関しては定かではない。
 私が今日聴いた席は2階席の最後列だが、ここは完全に「屋根」がかぶっている位置だ。オケの後方に組まれたやぐらの上を行き来しながら歌う歌手たちの声がやや遠いように聞こえたのはそのためかどうか。

 ベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」、今日の演奏は、下野竜也指揮の京都市交響楽団と京響コーラス。
 ソリストは木下美穂子(レオノーレ/フィデリオ)、小原啓楼(夫フロレスタン)、小森輝彦(刑務所長ドン・ピツァロ)、黒田博(大臣ドン・フェルナンド)、久保和範(看守ロッコ)、石橋栄美(娘マルツェリーネ)、糸賀修平(門番ヤキーノ)。

 まず、下野竜也の指揮がいい。がっしりと構築され、ひたすら作品の高貴な理念を揺るぎなく表出するといった指揮だ。
 ある面、しなやかさに不足するという向きもあったが 厳しくシリアスな表情が劇的な力感を出した。そのアクセントとリズムの鋭い演奏は、特に第1幕のピツァロがロッコに囚人殺害を命じる場面で、それぞれの威嚇と衝撃を鮮やかに描き出し、最大の効果を発揮していた。この点、下野の劇的感覚も見事というべきだろう。
 また京都市響が、実に重心の豊かな、弾力性のあるシンフォニックな響きで応えていたのにも感心させられる。

 歌手陣もそろって好演だったが、今日私が聴いていた席からは、女声のほうがよく響いていたように思う。特に木下は、アリアで高音を楽々と響かせ、題名役としての責任を見事に果たした。これにヒロインとしての苦悩と希望の感情の交錯が巧く出ていれば完璧であったろう。
 石橋もまろやかな声を聴かせて好演。ロッコ役は、もう少し重厚な声質の方がアンサンブルを低音から支える点で好ましいのではなかったかと思うのだが。

 さて、今回の演出は、演劇の分野では名高い三浦基。これが注目の的であった。
 歌手たちをあちこちゆっくりと移動させつつも端然たる姿勢を保ったまま歌わせるという手法だが、これがセミ・ステージ形式の範疇に入るかどうかはともかくとしても、たしかに「悪くない」し、ベートーヴェンの音楽と、下野=京響の整然たる演奏のイメージとも完全に合致するといえるだろう。

 ステージの背景には、巨大な映像が投射される。この映像はかなり多用されており、たとえばピットの中で赤い僧服のようなものを纏った人間が蠢くのを上方から写した映像が投映されたり、また「レオノーレ」序曲第3番の前半では、霧や暗雲が激しい勢いで流れて行くような幻想的な映像が現われたりする。この照明(藤本隆行)と映像(小西小多郎)は、なかなか巧みであった。
 これらは、必ずしも納得できるものばかりではなかったけれども、映像利用の手法そのものは大きな可能性を生むだろう。オペラにおけるこのような実験(?)は、日本でももっと積極的に行われてしかるべきなのである。

 とはいうもののこの演出、全く承服できなかった部分も多々ある。
 まず、ピット内で慌ただしく動き続ける「赤い僧服」の人間の存在だ。スクリーン上の映像を見る限りでは、それらは一種の幻想を生むのだが、上階席から見るとその動きまくっている人間が直接目に入ってしまう。視覚的に煩わしいことこの上ない。どこか別の場所でやってもらいたかった。

 最大の問題は、上手側と下手側に位置した男女によるナレーションだ。
 第1幕では原作のセリフ部分を変形してこれらのナレーターが担当したが、客観的な語りと情緒的な表情のセリフとが混在して、中途半端の極みである。とりわけ女性が、アナ尻を甘ったるい声で、勿体ぶった表情で発音するのが、音楽の性格━━特に下野と京響の整然たる演奏とのギャップを感じさせ、苛々させられる。
 第1幕の最後に突然「キュウ・・・・ケイ、ニジュ・・・・ップン」などとやられては、場内失笑も当然だろう。

 第2幕は原曲の一部がメロドラマ形式だから、余計なナレーションは入らないだろうと思っていたら、何と、もっとひどくなった。日本語の言葉を解体する手法が、このオペラにおける音楽とドラマのスムースな流れを完全に破壊してしまった。特にもともと音楽と短いドイツ語のセリフで巧く接続されているはずの場面(第14~15番)で、夫を救った妻の想いが、甘ったるい表情の声に不自然な吐息を交えたりして、「解体された」煩わしい流れの言葉で延々と繰り返されたのは、全く以ってアンバランスとしか言いようがない。

 ナレーションを入れるアイディア自体には問題はないのだが、それはあくまでスタイルによるだろう。かつてザルツブルク音楽祭で上演された「レオノーレ」におけるように、音楽の良い流れをさらに引き立てるようなバランスの良いナレーションは、日本語でもできるはずではないか?

 ラストシーンでは、コーラスのメンバーが客席に向かって手を振りながら舞台奥の台上に集結して行くさまは、コロスと観客の一体化を意味するものかとも思われるが、別に目くじら立てるほどのものでもあるまい。
 ただし幕切れで、背景のスクリーンを下降させ、奥の裸の舞台を露わにするのは、意図はあったろうが、あまり意味はないだろう。上階席で観ていたわれわれが、露わになった照明器具のために、眩しくて目を開いていられなくなり、音楽の終りの印象がどこかへすっ飛んでしまったという、残念なことがあっただけの話である・・・・。

 というわけで、今回の演出にはあまり賛意を表すことは出来ないけれども、しかし、従来のオペラ上演のスタイルに一石を投じるための実験そのものは、もっと頻繁に行われてもいいだろう。
 昨年は横浜の神奈川県立音楽堂でのバロック・オペラ上演にその一つが試みられた。今回は、古都・京都で行われたということに、非常に興味深いものがある。
     モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

※「アナ尻」とはラジオ業界用語です。「アナウンス」の言葉の最後、結尾のことです。

2016・1・8(金)グザヴィエ・ドゥ・メストレ ハープ・リサイタル

     紀尾井ホール  7時

 ペシェッティとモーツァルトのソナタ1曲ずつに、グリンカ、リスト、タレガ、ファリャの作品などの一部編曲もの、ワルター=キューネ編曲のチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」の主題による幻想曲、ドビュッシーの「2つのアラベスク」と「月の光」、トゥルネチェック編曲のスメタナの「モルダウ」など、かなり多彩なプログラムを演奏して行った。

 彼の来日リサイタルを聴くのは、たしか8年前と、2年前とに続いて、これが3度目になるだろう。
 最初の頃には見事なテクニックばかりが目立ったが、そのうち音楽に膨らみも加わって来た、当然のことだろう━━と思っていたのだが、今夜の演奏を聴くと、どうもまた昔に立ち戻ってしまったような印象を受けてしまう。

 とにかく上手い。明快な粒立ちの音、歯切れのいい躍動感、音符の全てが聞こえて来るような、鮮やかな演奏であることは疑いない。だが、決して「酔わない」音楽である。

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