2017-07

2015・12・30(火)井上道義指揮大阪フィルの「第9」と「蛍の光」

    フェスティバルホール(大阪) 7時

 「第9」の演奏が終ってオーケストラが退場すると、ステージは暗くなり、舞台後方の壇上に残った大阪フィルハーモニー合唱団が福島章恭(同団指揮者)の指揮で、緑色のペンライトをかざしつつ「蛍の光」を歌い始める。

 ステージ中ほどからはスモークが出て、前方の舞台が沈んだピットの中にそれが集まり、譜面台や椅子が雲海の中に浮かぶように見える━━という演出も加わる。
 歌が終りに近づくとともにステージは次第に溶暗し、合唱団のメンバーも順に退場し、最後の緑色のペンライトが袖に消えるとホールの中は漆黒の闇に閉ざされる。合唱の人数が減って行くにつれ、歌声もフェイド・アウトして行くのが実に美しい。できれば、歌と灯が完全に消えるまで、その余韻が楽しめればよかったと思うが、終るのを待たずに拍手が起こってしまうのは残念だった。

 大阪フィルの名物として知られる、「暮の第9」の最終公演で行われる「蛍の光」に接したのは、私はこれが初めてだ。そもそも大阪フィルの「第9」を、ここ大阪で聴くこと自体が、25年前に朝比奈隆の指揮で聴いて以来のことである。だがあの時は最終公演でなかったせいか、「蛍の光」は演奏されていなかった。それにしてもこの趣向、なかなか良い感じである。

 もちろん今回は、この「蛍の光」だけを聴きに行ったのではない。井上道義が大阪フィルを振って「第9」を演奏するのは、彼がこのオケの首席指揮者となって以降、今年が初めてのはず。どんな「第9」をやるか聴いてみたいと思ったからでもある。

 前座の序曲などは無く、「第9」1曲だけ。
 第1楽章は、速いメトロノーム指定にはとらわれず、別に指定された通りの「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」で演奏されて行く。今日ではむしろ少数派に属する、重々しいテンポの演奏だ。「un poco maestoso」というよりは「molto maestoso」と言った方がいいようなテンポである。楷書調の剛直な音楽づくりで、「セリオーソ」の要素も濃い。

 「まさにマエストーゾだね」と終演後の楽屋でマエストロ井上に言ったら、「うん、マエストーゾ。僕のは昔からそうだよ」と。
 そうだったかなあ?という気もするけれども、とにかくこの倍管(4本)編成による重厚壮大な「第9」は、先日のインバル&都響のそれと同じく、当節ではすこぶる貴重なスタイルの演奏で、むしろ新鮮に聞こえる。いわゆる旧版(ブライトコップ版)を使用している点でも同様だろう。

 第2楽章では、鋭角的なリズムの進行の中に豪打されるティンパニが、音楽をいっそう強大にする。第3楽章は「アダージョ」の指定にふさわしく、ゆっくりした出だしだが、第2主題のアンダンテを経て、後半は高まる感情を抑えがたく次第にテンポを速めて行くといった感になる。
 第4楽章でも、がっしりとしたセリオーソ的な表情は変わらない。暗黒から光明へという理念は反映されていると思うが、歓喜の世界にしては、非常に力強いものの、明るさやしなやかさを表に出さぬままに進められる。

 病から復帰した後の井上道義の音楽には、昔のような大胆不敵な解放感は影を潜め、ひたすらシリアスに音楽の内面に突き進むような姿勢が増したという気がしていたが、この「第9」でも同様、以前より厳しい表情が濃くなって来たようだ。
 全曲終結直前、「マエストーゾ」と指定された「歓喜よ、神々の美しい輝きよ」の個所を思い切り長く遅く引き延ばしたあとのプレスティッシモは力感充分。私が聴いていた2階席からも、多くのブラヴォーの歓声が巻き起こった。

 声楽ソリストは、小林沙羅、小川明子、福井敬、青山貴。特に男声陣は、かなりパワフルな面々だ。
 コンサートマスターは田野倉雅秋。大阪フィルも総力をあげた重厚な演奏だったが、敢えて言えば、ホルンにはもう少し頑張ってもらいたいところである。なお、第4楽章のトルコ風の行進曲の個所で、大太鼓がファゴット群よりも何故かほんの僅か先行し、前打音のような形で入って来るので、ズシンというリズムになっているのが、何となくユーモア感をそそった。
 合唱は、男声よりも女声の方が、音色が綺麗である。だが「蛍の光」は、さすがのハーモニーの美。特に後半、ハミングに入ってからは、ここぞ聴かせどころ、といった雰囲気であった。

 8時半終演。楽屋に顔を出してハローを言ってからホールを出たのは8時40分過ぎ、淀屋橋駅で8時52分頃の地下鉄に間一髪飛び乗る。これに乗り遅れたとしたら、最終の「のぞみ」(9時23分)に乗るためには、ちょっと冷や冷やする事態になったかもしれない。

2015・12・23(水)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団の「第9」

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 3回公演の初日。協演は二期会合唱団、安藤赴美子、中島郁子、大槻孝志、甲斐栄次郎。コンサートマスターは矢部達哉。
 尖ったユニークな演奏の「第9」を続けて聴いた直後だけに、このオーソドックスな、正面切ったタイプの演奏がとてつもなく新鮮に聞こえる。

 一口に言えば、実に堂々たる「第9」である。ベートーヴェンの英雄的なイメージが押し出された、毅然たる風格にあふれた「第9」だ。16型の弦、倍管(4本)の木管という編成が、どっしりとした安定感のある音をつくり出す。インバルらしくがっしりと組み立てられた、一分の隙もない厳しい演奏であった。

 「歓喜の主題」が初めて全合奏で登場する個所など、その演奏の威容たるや驚くべきものだし、第4楽章最後のプレスティッシモでは、途中から一段、また一段と音楽の強度を上げて行くのだが、これがまた凄い。これだけ筋金入りの演奏の「第9」は、滅多に聞けない類のものではなかろうか。
 その一方で、第3楽章の第1主題など、率直かつ自然に演奏されているのだが、その不思議な美しさはたとえようもないのである。

 都響も、完璧に近いほどの見事な均衡をその演奏に保っていた。合唱もオケとよくバランスの取れた力強さを示していた。
 ソリストのうち、テノールにはもう少し「英雄的」な迫力が欲しかったところだが、アンサンブルとしての4人の均衡は良かったと思われる。

 演奏時間という点では━━第3楽章の前に合唱団とソリストらを入場させたので、それらの時間を差し引くと、正味64分程度か? 第2楽章前半のスケルツォは反復していない(トリオの指定個所はリピートされていた)。

 今日もこれ1曲。私などはこの方が「第9」に集中できて好いのだが、お客さんとしては、どうなのだろう。

2015・12・22(火)上岡敏之指揮読売日本交響楽団の「第9」

      サントリーホール  7時

 速いテンポの「第9」がもうひとつ。

 私の時計では、信じられないような話だが、総計58分前後。しかも楽章間は3カ所合計で2分15秒程度はあったはずだから、演奏時間は正味56分弱ということになるか。第1楽章が12分、第2楽章が10分・・・・という具合である。
 ただし、第2楽章スケルツォ前半でのリピートが無い(トリオでの反復は通常通り行われていた)。
 バッティストーニ&東京フィルと並び、今年は速い「第9」が東京で同時に演奏されていることになるが、たまたま二つあったからといって、もはや稀有でない、ということにはなるまい。やはり珍しいケースであることはたしかである。

 もっと驚かされるのは、特に第1楽章。
 異様にレガートで、楽章全体がなだらかに、切れ目なく続く大波のように進んで行く。リズムも長めに響く。
 まず冒頭の、序奏からクレッシェンドして第1主題に入る音に全く切れ目がないのに仰天させられるだろう。マエストロ上岡は楽屋で、「ベートーヴェンは、切れ目が欲しかったのなら、そこに必ず休止符を入れたはずだ」と語っていた。たしかに、スコアを見れば、弦には休止符はあるけれども、全管楽器のパートには休止符は全くない。つまり序奏と第1主題の間には、管の息継ぎはないのである。
 それゆえ、上岡の採った演奏が根拠のない勝手な手法とは決して言えないのだ(「第5交響曲」の第3楽章から第4楽章に入る個所にも、その前例がある)。

 もうひとつ目立ったのは、全曲を通じて、攻撃的、闘争的なフォルティシモが一切無いことだ。オーケストラは常に柔らかく、しかも膨らみのある音で鳴り続ける。力がないというのとは違う。最強音はもちろんあるのだが、それが決して怒号にも、威嚇的にも、巨人的にもならないということなのである。
 これは、40年近く前にチェリビダッケが初めて読響に客演した時につくり出した、あの羽毛のように柔らかいフォルティシモと、どこか一脈通じるものがあるだろう。

 前半2楽章はもちろん、第4楽章の器楽だけの部分までは快速テンポで進んで来た演奏が、声楽が登場した途端に突如として遅くなり、バリトンの叙唱が出る直前に長い総休止が置かれたり、そのくだりが悠然と歌われたりしたのは、意外な展開だ。行進曲の個所は猛烈に速いが、そのあとの祈りの個所以降は、ほぼ通常のテンポになる━━といった具合である。

 ともかくこれは、非常に個性的な、最初から最後まで上岡敏之らしい「第9」である。以前N響に客演した時の惨憺たる演奏とは大違い、今度こそは「復讐戦」で、彼を理解してくれるオーケストラとともに、己のやりたい「第9」をやりぬいたというわけだろう。その解釈には、必ずしも賛意を表しかねるところもあるけれども、慎重に聴く価値のある演奏であることは間違いない。

 読響(コンサートミストレス・日下紗矢子)は、さすがに上岡のこの指揮を━━多少ぎくしゃくしたところがないでもなかったが━━巧く演奏に映していた。自在なデュナミークと疾風怒濤のテンポを駆使しながら、演奏にほとんど乱れがなかったのも、さすが快調の読響だけのことはある。

 協演の合唱は新国立劇場合唱団。しかし、オーケストラの柔らかい音色に合わせるには、この合唱の音色は、少しニュアンスが違うものだったのではないか。男声合唱はともかく、特にソプラノ・パートは通常と同じ絶叫型の歌い方で、全体の均衡を破ってむしろ耳を劈くように聞こえてしまっていた。
 声楽ソロ陣は、イリーデ・マルティネス、清水華澄、吉田浩之、オラファ・シグルザルソン。この人たちのアンサンブルも、あまりバランスがいいとは思えない。だがその中で、ふだんは目立たないアルトのパートを歌った清水華澄が最も安定していたように感じられた。

 コンサートは、これ1曲のみ。終演も早い。

2015・12・20(日)バッティストーニ指揮東京フィルの「第9」

     Bunkamuraオーチャードホール  3時

 ラジオから流れる「第9」を家族みんなでこたつに入って聴いた子供の頃(そんな光景もあったのだ昭和の昔には!)は別として、年末に「第9」を聴く習慣というのは、最近の私には無い。

 だが今年は、指揮者とオケとの組み合わせもちょっと興味があるので、二つ三つ聴きに行くことにした。本当は昨日、びわ湖ホールで午前中に「さまよえるオランダ人」のオペラ講座を担当した時、大ホールでは午後に佐渡裕と兵庫芸術文化センター管の「第9」があったのだが、帰京する都合で聴けなかったので、今日の東京フィルハーモニー交響楽団の「第9」を以ってその初弾とする。

 俊英の首席客演指揮者アンドレア・バッティストーニが振ることが、最大の注目点だ。プログラムは「《レオノーレ》序曲第3番」との組み合わせだ。協演は東京オペラシンガーズ、声楽ソロは安井陽子、竹本節子、アンドレアス・シャーガー、萩原潤。コンサートマスターは三浦章宏。

 結論から先に言うと、とにかくテンポの速い「第9」である。演奏時間60分、正味58分くらいか。昔のレコードにはそういう演奏もあったが、最近のナマのステージでは、極めて珍しいタイプに属するだろう。
 「矯め」もほとんどないイン・テンポの演奏で、それは痛快というか、あっさりしすぎるというか。良くも悪くも、猛烈に慌ただしい「第9」だ。
 第1楽章の、コーダに入るところのリタルダンドも概して目にも止まらぬ速度で通り過ぎ、第4楽章のファンファーレとレシタティーフも、勢いのいいテンポで飛ばして行く。第1楽章はもちろん、ベートーヴェンがスコアに指定した「マ・ノン・トロッポ」ではないし、「マエストーゾ」の要素も皆無である。

 それらはまあ一つの手法だとしても、しかし第27、29小節のトランペットとティンパニによるリズムが、まるで踊るように快活な表情で演奏された(バッティストーニ自身が、指揮台の上で躍っていた)のには愕然とし、この第1楽章にかくのごときイメージをぶち込むとは、彼の解釈に根本的な誤りがあるのではないかという気さえしたほどだった・・・・。

 同じように速いテンポの中にも、流動的な音楽の動きと、微細な明暗と陰翳の変化とを常に欠かさなかった大先輩トスカニーニのような演奏もあるのだから、若いバッティストーニも、この「第9」を振るからには、もう少し音楽の構築についての研究を重ねて行ってもらいたいと思わざるを得ない。

 が、バッティストーニの面白いところは、第4楽章冒頭のレシタティーフを実に慌ただしく(まるで問答無用と言わんばかりに)片付けておきながら、それに続く各楽章の主題を順に否定して行く個所では、まるで思い悩むかのように躊躇いがちにチェロとバスを歌わせて行くようなところだろう。このあたりはなかなかオペラ的な感覚だな、と思わせる。

 そしてそのあとに出現する「歓喜の主題」で、カンタービレをいっぱいに利かせつつ、歓びに満ちるように盛り上げて行くあたりも、巧い。こういうところが、彼の身上ではないかという気がする。
 「歓喜の歌」は、彼の指揮では、まさに爽やかで、若々しい歌になる。合唱も、若いエネルギーを噴出させるように歌って行った。

 特に愉快だったのは、テノール・ソロのシャーガーだった。声の張りと勢いが目覚ましく、他の3人のソロ歌手を牽引するかのように朗々と歌っていただけでなく、あの行進曲に乗ったソロの個所では、あたかもオペラのような身振りを加えて劇的に歌っていたのが微笑ましい。
 身振りの是非はともかくとしても、この「兄弟たちよ、勝利に向かう英雄のように歓びに満ちて自分の道を進め!」という歌詞は、若者たちの集団の先頭に立つリーダーの歌なのであり、曲想からいっても、本来はこのようにドラマティックに歌うのが正しいのではないかと思う。
 若いバッティストーニの「第9」のイメージが原曲のそれと完璧に合致した個所は、この勝利の進軍のところだったかもしれない。
          →モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2015・12・17(木)ミカラ・ペトリ リコーダー・リサイタル

     Hakuju Hall  7時

 デンマーク出身の名リコーダー奏者、ミカラ・ペトリの演奏をナマで聴いたのは、本当に久しぶりだ。かつては初々しい美女という雰囲気だった彼女も、今や落ち着いた感じの、気品のある奥様である。美しく齢を取った人━━というのは、彼女のような人を謂うのだろう。

 何よりそのリコーダーが紡ぎ出す演奏の、美しく温かく、聴き手の心を包んでしまう素晴らしさと来たら! 
 Hakuju Hallの最後列の、リクライニングのできる椅子にすっぽりと身体を埋め、彼女の演奏を聴いていると、何だか天国的な、身も心も溶けてしまうような、形容しがたい陶酔感に包まれてしまう。今年、これだけ気持のいい状態に引き込まれてしまった演奏会は、他になかった。

 協演のチェンバロは名手・西山まりえ。何となくいつもの彼女と雰囲気が違い、おしとやかで畏まった雰囲気のステージ姿に見えたけれども、ペトリに合わせて、いい演奏を聴かせてくれた。

 プログラムは多岐にわたっていたが、2人が一緒に演奏したのは、J・S・バッハの「ト短調BWV.1034」、テレマンの「音楽の練習帳」からの「ハ長調」、タルティーニの「悪魔のトリル」、ジェイコブの「ソナチネ」、コレッリの「ラ・フォリア」、ヴィヴァルディの「ハ長調RV,443」。
 ペトリのソロではボロプ=ヨアンセンの「鳥のコンサートOp.91-2」、西山のソロではスカルラッティの「トッカータ イ短調」とバッハの「イタリア協奏曲」。
 アンコールでは「グリーンスリーヴス」などで西山が得意のヒストリカル・ハープを持ち出して協演するという愉しいひと時もあった。

2015・12・15(火)マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 午前11時羽田着。成田と違い、自宅まで1時間かからないので羽田は楽だ。

 ミュンヘン滞在中から歯痛と首肩痛に襲われ、機内ではアスピリンをもらって切り抜けるというていたらくではあったものの、とりあえず時差解消のための2時間の昼寝を試み体力を回復したところで、ミンコフスキと都響を聴きに行く。

 ミンコフスキは、先週のオーケストラ・アンサンブル金沢とのシューマン交響曲全曲演奏会を旅行のため聴けなかったのは痛恨の極みだったが、都響の方もルーセルの「バッカスとアリアーヌ」第1・第2組曲及びブルックナーの「交響曲第0番」という面白いプログラムだったので、楽しみにしていたところだった。

 演奏の出来栄えは上々である。
 ルーセルは、演奏に今少しの優雅さとか洒落っ気とか、しなやかな弾力性とかが欲しかったような気がしたけれども、これは日本のオーケストラが最も苦手とする分野だから仕方ないかもしれない。もっとも、「第2組曲」後半の音楽が持っている豊麗な音色と忘我的な興奮という特徴を巧く出せるオーケストラなどというものは、今は世界中どこを探して見つからないだろう。
 それよりもミンコフスキが、この曲のエネルギッシュなダイナミズムを、都響から巧く引き出すことに成功していたことを讃えよう。

 一方ブルックナーの「0番」は、━━もともとナマで聴ける機会などほとんどない交響曲だが、それにしても、これほど美しい「0番」を聴かせてもらったのは初めてである。
 ブルックナー最初期の、普通にやれば若書きの荒っぽい作品だと片づけられかねないこの交響曲を、ミンコフスキは細部に至るまで緻密精妙に彫琢し、全ての小節に温かい情感を導入して、これまで聴いたことのないような叙情美をつくり出していたのだった。

 いわゆる「ブルックナー指揮者」ではないはずのミンコフスキが、ふだんはあまり「問題にされない」交響曲が持つこのような美点を鮮やかに蘇らせたということに、驚きを感じないではいられない。作品そのものの構築的な弱さは如何ともし難いけれど、それをカバーして余りある良さを、この演奏は聴かせてくれたのである。

 矢部達哉をコンサートマスターとする都響の弦のしっとりした美しさが、それを完璧に仕上げてくれた。時差ボケも歯痛も、どこかへ吹き飛んでしまったような演奏会だった。
         →別稿 モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2015・12・13(日)ミュンヘン日記(終)ワーグナー「神々の黄昏」

      バイエルン州立歌劇場  4時

 2012年にプレミエされたアンドレアス・クリーゲンブルク演出のプロダクション、同年7月15日に観た舞台とほとんど同じ舞台だ。
 序幕の「ノルンの場」は、東日本大震災の映像を含む原発災害の避難民と除染の場面となり、全曲大詰め場面も原発事故を連想させる光景の修羅場となるあたりは、われわれ日本人には気が重くなる設定の演出である。

 もちろん、全部が全部こういう調子でドラマが展開するわけではない。2012年7月15日の項で概要はメモしてあるので、ここでは省略するが、前回と変わったところと言えば、第3幕冒頭で寝ている大勢の人間のうち、大部分が退場せずにそのまま残って、ギビフングの郎党━━ここでは大会社の社員たち━━に早変わりするあたりか。それと今回は、人力で行う場面転換の作業が、少し騒々しく、乱暴になった。

 だが主役歌手陣は、ヴァルトラウテのミヒャエラ・シュスター以外は、プレミエ時と比べ、全部入れ替わっている。
 今回はジークフリートがランス・ライアン、ブリュンヒルデがペトラ・ラング、グンターがマルクス・アイヒェ、ハーゲンがハンス=ペーター・ケーニヒ、アルベリヒがクリストファー・パーヴェス、グートルーネがアンナ・ガブラー・・・・という顔ぶれだ。
 なお「ラインの乙女」の一人ヴォークリンデ役は、前回同様に中村恵理が歌っていた。

 重厚で落ち着いたハーゲン、どうしようもない遊び人のグンター、蓮っ葉なグートルーネなど、歌唱面でも演技面でも、みんなそれぞれ役柄を巧くこなして、流石のものがある。ただランス・ライアンだけは、声も馬力も人並み以上のものはあるのだが、どうもあの声の乱暴な(?)出し方にはなじめない。

 音楽面での最も大きな違いは、指揮者キリル・ペトレンコにあるだろう。テンポは素晴らしく生き生きして速く、リズムも歯切れよい。序幕と第1幕が115分、第2幕が67分、第3幕が73分━━と、プレミエの時に指揮していたケント・ナガノに比べると、小気味よいほどのテンポの速さである。40分程度の休憩2回を含め、9時43分には演奏が終了した。

 テンポが速ければいいというものではないのはもちろんだが、ペトレンコの場合、音楽に寸分の緩みもなく、緊張感は常に保たれ、昂揚と鎮静の劇的な起伏感も申し分がないという特徴がある。2年前にバイロイトで聴いた時のような緻密さや柔らかい豊麗さ、楽器のバランスの精妙さなどには欠けるけれども、これはオーケストラが異なるし、ルーティン公演ということもあるから、仕方あるまい。今回聴いた席はバルコン(2階)正面最前列だったが、もし1階平土間前方で聴いたなら、多分もっと柔らかく豊麗な響きで愉しめたろうと思われる。
 カーテンコールでのペトレンコへの拍手と歓声は、どの歌手に対してのそれよりも大きく、熱狂的なものがあった。今や寵児といった感だ。

 このたった3つで、今回のミュンヘン滞在は終り。明日午後のLH714で帰国する。

2015・12・12(土)ミュンヘン日記(2)プロコフィエフ:「炎の天使」

      バイエルン州立歌劇場  7時

 プロコフィエフのオペラ「炎の天使」。
 これは11月29日にプレミエされたバリー・コスキー演出による今シーズンの新制作プロダクション、そして今シーズンにおける最終上演である。ウラディーミル・ユロフスキが指揮、騎士ルプレヒトをエフゲニー・ニキーチンが歌う。

 相手役レナータにエヴェリン・ヘルリツィウス━━と年間プログラムに載っていたのをそのまま信用して楽しみにしていたのだが、何ぞ知らん、とっくに変更になっていた。
 出演しているのはSvetlana Sozdatelevaというソプラノ━━この人の姓の正確な発音と日本語表記をご教示ありたい━━ナマで聴くのは多分初めてではないかと思うし、もちろん主役として聴くのもこれが初めてだが、最近カテリーナ・イズマイローワなどをあちこちで歌って売り出し中の人だから、ちょうどいい機会だ。
 休みなしの2時間10分、ほとんど出ずっぱりの大熱演。演技はかなり素人っぽいところがあるけれども、声はよく持続して、ヒステリックで神経質で病的なこの謎の女を、体当たり的に、一所懸命に歌い演じていた。

 ニキーチンも安定した歌と熱演で大拍手を浴びていた。あのバイロイト刺青事件の後、ドイツでは彼の活動はどうなのか、観客の反応は如何に、と心配していたのだが、全く問題はないようで、とりあえずは祝着の極みである。
 また魔術研究家アグリッパにはウラジーミル・ガルージンが登場、出番は少ないが、良く通る声を聴かせていた。
 他にはあまり知っている歌手がいなかったので省略するが、みんなさすがに手堅く粒がそろっている。

 ユロフスキの指揮は、第2幕と第3幕の各間奏曲を除いては、基本的にはあまりオーケストラを咆哮させない。第2幕の「3度戸を叩け」のオカルト的な場面、あるいは第5幕大詰めの「修道女たちの狂乱」の場面などでも、意外なほど抑制した指揮だった。
 もっとも、こういった個所は、以前ゲルギエフの指揮で聴いた、嵐のような魔性的な演奏の印象から未だに抜け切れていないので、それで物足りなく感じたのかもしれない。ともあれ、今回は平土間3列目の下手側の席だったため、バイエルン州立歌劇場管弦楽団のたっぷりしたスケール豊かな響きを堪能した次第である。

 注目のバリー・コスキーの演出。
 もちろん、あのデイヴィッド・フリーマンの演出のような、白塗りの悪魔群などは登場させない。むしろ徹底的に主人公2人の心理劇として━━つまり2人が見た一場の悪夢のようなストーリーにしていたのが興味深い。
 ドラマの進行は、すべての幕をホテルの一室に設定し、照明や家具の位置の変化を以ってさまざまな状況に仕立てる。レナータは、原台本のように「隣の部屋にいる」のではなく、ルプレヒトの到着の前からこの部屋のベッドに下に潜り込んでいた(彼女は最初から何故かルプレヒトの名前を知っていたのだから、それもありうるだろう)。

 また原台本と違い、ハインリヒ伯爵も登場しないので、ルプレヒトは彼と決闘せず、負傷はレナータともみ合った時にピストルの暴発で自らの足を傷つけてしまうという設定に変わっている。前述の間奏曲の個所では、ゾンビからオカルトからジンギスカン(グループの方)のごとき怪奇かつコミックな扮装をしたダンサーたちが踊り狂う。
 ラストシーンでは、レナータを中心に、傷ついたキリストの扮装の修道女が狂乱状態に陥る・・・・。

 幕切れ寸前、異端審問官も、狂乱していた修道女たちも一瞬にして姿を消し、舞台は最初のホテルの一室の光景に戻り、そこにルプレヒトとレナータだけが茫然と佇んでいる。全てはこの2人の幻想であったことが、この一瞬で解き明かされる。
 この幕切れ、ユロフスキの指揮する音楽があっさりと終了し、幕も下りず照明も落ちぬまま、沈黙の中に主人公2人が立ち尽くし、観客がちょっと拍子抜けしていると、「教えてやるけど、これで終りなんだよ皆さん」と言わんばかりのブラヴォーが一声飛んで(どこの国にもいるんだよなあ、こういう手合いが)笑い声とともに大拍手が起こるといった具合であった。

 まあ、このコスキー演出、これはこれで面白い。
 だが思い出すと、あのマリインスキー・オペラ(当時はキーロフ・オペラ)のフリーマン演出は、これに比べると、随分オカルト的なスリルがあった。大勢の白塗りのスマートな裸体姿の山海塾みたいな悪魔が終始舞台上にいて、レナータの心に魔性が宿り始めると同時に不気味な動きを始めるという手法は、今にして思えば実に解りやすく、よく出来ていたなあと、懐かしく思う。

 9時15分終演。外はあまり寒くない。

2015・12・11(金)ミュンヘン日記(1)
ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

       ガスタイク フィルハーモニー  8時

 ミュンヘン・フィルの本拠地たるこのホールで、初めてゲルギエフとのコンビの演奏を聴く。プログラムは、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」、R・シュトラウスの「変容」、ショスタコーヴィチの「交響曲第15番」。

 ゲルギエフはこの就任シーズンの最初を9月17日の「復活」で飾ったあと、11月、12月、1月、3月、4月、6月━━と、各月数回ずつの定期(異なるプログラムもある)を指揮する。結構な回数だ(ちなみに彼以外の指揮者では、ビシュコフ、ポーガ、M・ホーネック、マンゼ、コープマン、ウルバンスキ、ヒメノ、ダウスゴー、ズナイダー、メータ、ハンニガン(!)、ノセダ、パーヴォ・ヤルヴィ、トリンクス、ナガノといった人たちの名が見える)。

 ゲルギエフの今シーズンのプログラミングは、ドイツやフランスの作品とともに、ロシアのレパートリーを必ず1曲含めるという方針を徹底しているようだ。例えば11月には、シェーンベルク(「映画の一場面のための伴奏音楽」)とワーグナー(「ヴァルキューレ」第1幕」)との間に、スクリャービンの「プロメテウス」を入れるといった具合であった。
 しかしこの選曲構成は、彼にとってもミュンヘン・フィルにとっても、双方の得意ワザを繰り出すことができるという点で、巧みな戦法かもしれない。

 ただ、先週に東京で聴いた演奏と同じく、ゲルギエフとしては未だオケに花を持たせているのか、それとも遠慮しているのか、オケを完全に自分のペースに引き込むということは、控えめにしているようである。
 たとえば今夜のショスタコーヴィチの演奏にしても、ドイツのオーケストラの個性の方が前面に出ているというのか、何か鬱陶しいほどに暗く、重々しい。リズムがどっしりと重く、引きずるような趣を呈している。そのため、曲が持つアイロニー性すら影を潜め、ひたすら重厚で暗鬱な、苦悩に呻くような雰囲気に満たされた演奏になっていたのだ。

 ここでは、マリインスキー管やロンドン響との演奏で描かれるものとは異なる、非常に重苦しいショスタコーヴィチ像が浮かび上がっていたと言ってもいい。ゲルギエフがドイツのオーケストラを通じてそういうイメージを強調しようと思っていたのなら、それはそれでいいだろう。
 ただ、彼の採るテンポの遅さ(演奏時間は約50分になった)が━━非常に念入りな指揮であることは事実だが━━その何とも重々しい音楽と相まって、演奏に緊迫感を失わせることもある。そこがふだんのゲルギエフとはだいぶ違い、どうも日頃の冴えが無いな、という印象も生まれて来るわけだ。
 その傾向は、第1部で演奏されたワーグナーとR・シュトラウスでも聴かれたのであった。

 やはり、先週の日本公演で感じたことと同様、彼とこのオケとの共同作業については、もう少し時間をかけて見守る必要があるだろう。
 歯に衣着せで言えば、ゲルギエフをマリインスキー芸術監督就任直後から聴き続けて来た自称「理解者」の立場からすると、彼とこのオケとの演奏はどうも何だか面白くないな、というのが率直な感想なのだが、━━彼には彼で他の意図があるのだろうから、勝手な即断はやめておく。

 10時15分終演。
 こちらでのオケのコンサートは、来日演奏会の時と違ってカーテンコールが短いので━━指揮者の出入りはせいぜい3回━━夜の遅い時間の際にはラクである。しかも今回は宿泊ホテルが隣接のヒルトン・シティだから、コートなしで往復できるという利点がある。ただし猛烈に冷える。

2015・12・8(火)浜松国際ピアノコンクール入賞者披露演奏会

      東京文化会館小ホール  7時

 昨日の浜松演奏会と同一の演奏者、同一のプログラムだが、異なるのは、多分会場との関係で、全員が同じカワイのピアノ(SHIGERU KAWAI)を弾いたこと。これがために、昨日とは演奏の印象がやや変わったソリストもいる。

 だがやはり最も大きな違いは、コンクールの重圧から解放されて2日目、気分的にも楽になったのだろうが、6人の演奏がみんな格段に瑞々しく伸びやかになっていたことだ。
 演奏に風格が増したソリストもいる。たとえば、ムーサとロパティンスキーがそれぞれ弾いたハイドンのソナタには、昨日のそれよりもずっと深みを増した。こういう演奏を聴くと、若くしてこれだけのハイドンが弾けるというのは、やはり立派なものと言わなければならない。

 そして、さらに演奏に豊かさが加わったのは、優勝者アレクサンデル・ガジェフである。
 昨日と同様にユニークなショパンの「葬送ソナタ」だが、テンポやデュナミークの設定などに細かい工夫を凝らした第1楽章などは、昨日よりもずっと自然な表情を感じさせるようになっていた。第3楽章の「葬送行進曲」の、特に弱音のイン・テンポで進められたマジョーレの部分も、今日は見違えるほど緊迫感のある、しかも心のこもった歌い方になっていたのである。これは、特筆すべきものだった。
 昨日感じた不満は、これで跡形もなく消し飛んでしまった、と申し上げたい。彼のショパンには、一種の形容しがたい、明るく優しい光のようなものが満ちているように感じられる。

 ガジェフの演奏が終ると、昨日と同じように、6人全員がステージに並んで手をつなぎ答礼し、拍手を浴びた。みんな若い。勢いよく巣立ってもらいたい。

2015・12・7(月)浜松国際ピアノコンクール入賞者披露演奏会

    アクトシティ浜松大ホール  7時

 コンクール入賞者6人のガラ・コンサート。

 演奏はすべてソロ。1階席と2階席にいっぱいの客を入れての演奏会で、ステージには前夜と同様、仮屋崎省吾による大きな生花が上手側と下手側に飾られているが、心なしか寂しさが漂うのは、やはり華やかな「祭」が今日でおしまいなのだという感傷ゆえだろう。だが聴衆には若い人が多い。それが慰めだ。

 演奏者は、入賞順に登場する。使用ピアノは3次や本選で各自が使ったのと同じもの。まずミトレアがプロコフィエフの「第6ソナタ」の第1楽章を猛烈な勢いで弾き、シューがブラームスの「3つの間奏曲(作品117)」を静かに慈しむように弾く。
 替わってメリニコフが登場、シューベルトの「即興曲作品90の3」を情感豊かに弾いた後にスクリャービンの「24の前奏曲」からの5曲をたっぷりと弾く。そしてムーサは、ハイドンの「ソナタ ハ長調Hob.ⅩⅥ:50」を今日も綺麗な音で爽やかに弾いた。

 休憩後には、ロパティンスキーが同じくハイドンの「ソナタ ロ短調Hob.ⅩⅥ:32」と、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」第3楽章をフェインベルクが編曲した版で弾いた。
 後者の曲では、それはもう猛烈果敢な名人主義的演奏だったが、━━こちらは原曲を頭の中で追いながら聴いているので曲の構造も解るのだが、もし原曲を知らぬ人がこれを聴いたら、ガシャガシャ滅茶苦茶に怒号するばかりでさっぱり見当のつかぬ曲に思えるのではないかしら、などと心配になる。

 そして最後に、優勝者ガジェヴが登場してショパンの「葬送ソナタ」を弾いた。ところどころ、驚くほど柔らかい、優しく愛でるような表現を採ることがある。第1楽章ではテンポも極度に落して━━沈潜というよりは詠嘆に浸るといった感の、当節流行りのスタイルによる演奏を聴かせる。コンクールの時とは違い、解放感をも覗わせるが、もう一つガンと迫って来るような手応えのあるものが欲しいと感じたのは、私だけではなかろう━━。

2015・12・6(日)浜松国際ピアノコンクール本選2日(最終日)

     アクトシティ浜松大ホール  2時

 あの3次予選を勝ち抜いた6人の本選出場者は、アレクセイ・メリニコフ、ダニエル・シュー、アレクサンデル・ガジェヴ(以上は第1日の昨日に演奏)、およびアレクシーア・ムーサ、フロリアン・ミトレア(ルーマニア 26歳)、ロマーン・ロパティンスキー(ウクライナ 22歳)であった。

 本選では、課題曲の協奏曲を、高関健指揮東京交響楽団との協演で演奏する。今日の3人━━まずムーサは、チャイコフスキーの「1番」をヤマハのピアノを使って弾き、漸強や漸弱を多用して細かいニュアンスの演奏を聴かせたが、ミスタッチが少なからずあったのが惜しい。
 ミトレアは、プロコフィエフの「3番」をカワイのピアノで弾き、非常にエネルギッシュな、ダイナミックで骨太な演奏を聴かせた。
 そしてロパティンスキーは、ラフマニノフの「3番」をスタインウェイのピアノを使って弾き、前半2楽章でつくり出した陰翳を、第3楽章で一気に開放して華麗に盛り上げるという構築を採っていた。彼の演奏、みんなが誉めるほどには面白いとも思わなかったが━━ある意味でバランスの取れた演奏であったことは確かである。

 2日間の本選で出場者が選んだ協奏曲は、ラフマニノフの「3番」が2人、プロコフィエフの「3番」が2人、ラフマニノフの「2番」とチャイコフスキーの「1番」が各1人。派手に終って聴衆をワッと沸かすことができるとなれば、どうしてもロシアものに偏ることになるのかもしれない。だが、こういうレパートリーでしか得点が稼げぬ風潮があるとすれば、現今のコンクールはちょっと偏った傾向があるのではないかという気もする。

 演奏が4時40分頃に終ると、ホールは一度閉められて表彰式の準備に入る。
 5時半、再び開場となり、1階席のみ聴衆や取材陣を入れて表彰式が行われる━━といっても、予想通り審査が長引いたようで、実際にセレモニーが始まったのは6時20分になってからであり、海老彰子審査委員長から入賞者が発表されたのは7時頃になっていた。

 結果は、以下の通りである━━優勝はイタリア/スロベニアのアレクサンデル・ガジェヴ。第2位がロパティンスキー、第3位がメリニコフ、シュー、ムーサの3人(!)。そして第6位ならざる「第4位」がミトレア。
 なお聴衆賞(聴衆の投票により選ばれる)がガジェヴ、室内楽賞がミトレア、奨励賞が三浦謙司、日本人作品最優秀演奏賞がイーゴリ・アンドレーエフ(ロシア 27歳)であった。

 前回と異なって、私の予想とは些か違ったが・・・・もっとも今回は、おしなべて水準は高かったものの、突出した個性を持つ出場者がなく、どういう順番になってもおかしくはなかろう、というのが私の率直な印象だったから、「予想と違った」もなにもない。
 それゆえ、彼らの中から成長して世界の大コンクールで優勝するとか、コンクールとは無縁でも着実に成長して誠実な演奏を聴かせるとかいう人が出るように、期待しよう。

2015・12・5(土)黛敏郎:オペラ「金閣寺」

   神奈川県民ホール  3時

 1976年にベルリン・ドイツオペラで初演された黛敏郎のオペラ「金閣寺」(三島由紀夫原作、クラウス・H・ヘンネベルク台本)の、待望の新演出上演。

 田尾下哲が非常にきめ細かい演出を施し、幹子・S・マックアダムスの舞台装置と沢田祐二の照明が日本の美を巧みに反映させ、半ば写実的な、半ば象徴的な見事な舞台をつくり上げた。巨大で立派な金閣寺の建物は舞台奥にどっしりと聳え立っているが、さりとて舞台全体がリアルになっているわけではなく、物語の進行と舞台転換には幻想味も漂い、美しい。

 原台本にある「尺八の場面」をカットし、「京都の祇園の場面」を復活させた━━と田尾下はプログラム冊子の対談で語っているが、これは正当な手法であったと思う。
 また主人公の溝口━━ほとんど出ずっぱりで歌い演じる小森輝彦が大熱演だった━━が、単なるマニアックな男でなく、知的で悩める青年という設定で描かれていたことも、三島の原作のイメージを損なわない、当を得た演出と言えたであろう。

 大詰めのクライマックスシーン━━金閣寺炎上の場面は、極めて効果を上げていた。さすがに今日の演出では、照明により建物をただ赤く染めるなどというチャチな手でなく、寺の内部から燃え上がって行くさまを照明で精妙に描くという手法が採られる。
 それにしても、日本のオペラで、これだけ最後に見せ場をつくるストーリーになっているものは、稀な存在だろう。これだって、オペラとしては、重要な要素なのである。

 共演の歌手陣は、黒田博(父)、飯田みち代(母)、三戸大久(道詮和尚)、与那城敬(鶴川)、鈴木准(柏木)、谷口睦美(娼婦)、嘉目真木子(有為子)、吉原圭子(女)、高田正人(若い男)ほか。
 下野竜也が神奈川フィルを指揮、黛の重厚で暗い色合いの音楽を強靭なデュナミークで再現し、この作曲家の音楽の魅力に光を当てた。
 合唱(東京オペラシンガーズ)は、コロスの役割を果たす個所も多いが、それらはほんの一部を除き、陰コーラスとして扱われる。ただ、それはいいとしても、その陰コーラスを増幅して流すPAがあまりに音質が悪く、音楽を損なうほどだったのは、今日の上演における唯一最大の瑕疵といえよう。もっとも、日本に限らず、どこの歌劇場でも陰コーラスのPAの音が良かったためしはないのだが・・・・。

 30分程度の休憩1回を挟み、終演は5時40分頃。

2015・12・4(金)オスモ・ヴァンスカ指揮読売日響のシベリウス(終)

      サントリーホール  7時

 シベリウス・ツィクルスの第3夜、最終回。交響曲の「5番」「6番」「7番」が演奏された。先日のラハティ響の演奏会の時と同様、シベリウス・ファンにとっては、このプログラムは至高のものと言っていいだろう。

 今のヴァンスカのシベリウスが、激しく攻撃的で、強い意志力にあふれた音楽づくりであることは、すでに書いた通り。今日の3曲もそういうタイプの演奏といえるだろう。読響(コンサートマスターはゲストの荻原尚子、ケルン放送響のコンサートミストレスである)も持ち前の馬力で完璧に応じた。

 「5番」が作品の性格からして壮大な表現になっていたことは当然だが、ふつうはやや軽い曲想と考えられている「6番」が、これほど激動を秘めている曲なのだと感じさせる演奏は、そうは多くないだろう。第3楽章から第4楽章にかけての追い込みは壮烈を極め、息をのませるほどの力にあふれていた。

 「7番」においても、緊張感を失わず、強力な弦の響きを中心に滔々と押して行く演奏が見事というほかはない。
 曲の冒頭、上昇するコントラバスが、チェロに対してシンコペートしていることをこれだけ明確に聴かせる演奏には久しぶりで出会ったような気がする。全曲の最後の音はスコアに比較的忠実に、あまり延ばさずに終ったが、これはそこのクレッシェンドがそれほど大がかりでなかったことと併せ、ちょっとあっさりし過ぎていて、なんか拍子抜けの感がなくもなかったが━━。

 しかし、ヴァンスカ&読響のこのシベリウス・ツィクルス、とにかく聴き応えがあった。願わくは、今回やらなかった「3番」と「4番」、それに「クレルヴォ交響曲」を、なるべく早い機会にやってもらいたいものである。

2015・12・2(水)ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィル

     サントリーホール  7時

 プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」から数曲、R・シュトラウスの「ドン・ファン」、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」。長大なプログラムとなった。今日が日本公演最終日となる。

 ゲルギエフと、ドイツのオーケストラ、ミュンヘン・フィルとの相性は如何なものなりや、というのが興味の的だ。
 もちろん悪くはないものの、まだ掴みかねるところが多々ある。

 ゲルギエフは、マリインスキー管を相手の時には━━昔はパレフのようにロシア的な濃厚な色彩感で、今はインターナショナルな洗練された音で、完璧に統率する。ウィーン・フィル相手の時には、このオケの不屈の個性とのせめぎ合いがスリリングな応酬を生んだ。一方、ロンドン響との演奏は、その無色の個性との組み合わせが曖昧な結果しか生まなかったのではないか?
 ミュンヘン・フィルは、ドイツのオケの個性をはっきり持っている楽団なので、ゲルギエフにとっては手強い相手だろう。

 今日はドイツ・ロマン派の作品が中心だったので、どちらかと言えばオケの色合いの方が強く出ていたと言えるかもしれぬ。プロコフィエフの作品の演奏も、このオケの重厚な響きに呑み込まれたか。つまり今日のゲルギエフは、ミュンヘン・フィルの個性を触発させたに留まっていたような印象なのだ。

 そういう点で、この両者が今後どういう音楽をつくり出して行くのか、今日の演奏を聴いた限りでは即断しかねる、というわけである。来週もミュンヘンで、彼らの演奏するショスタコーヴィチの「15番」を聴く予定だから、そこで何か新しい手掛かりがつかめるかもしれないとも思う。

 「4番」は、いわゆるコラール的な要素に重点を置いた普通のブルックナー・スタイルの演奏とはちょっと違い、弦楽器群をも前面に押し出し、弦と金管が一体となったロマン派的(?)な、シンフォニックなアプローチを試みていた。第4楽章の途中から弦楽器群にそれまでの少しガサガサした響きが消え、突然しっとりした音色が浮かび上がってきたのは、不思議であった。
      別稿 音楽の友2月号 演奏会評

2015・12・2(水)第9回浜松国際ピアノコンクール 第3次予選2日目

       アクトシティ浜松中ホール  午前10時

 今日は、続く6人が演奏する。

 室内楽は━━これも昨日と同様なのだが、モーツァルトだからというせいもあるのか、みんなおそろしく丁寧に、時には慎重すぎるような姿勢で弾いている。それは大変美しくはあるのだが、何か演奏に、吹き上げる喜びといったような雰囲気があまり感じられないのである。不思議であり、残念でもあった。

 後半のトップを切ったノ・イェジン(53、韓国 28歳)も、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲」を丁寧に弾く。シューマンの「ソナタ第1番」になると、瑞々しさが花開いた感。「ペトルーシュカからの3つの断章」もいい音で、安定している(ピアノはヤマハ)。

 続くはドミトリー・マイボロダ(44、ロシア 22歳)だ。室内楽はみんなと同じようにきれいに弾いたが、いざラフマニノフの「前奏曲」(3曲)と「展覧会の絵」に入るや、ロシアの作品はこう弾くんだとばかり、豪快で骨太なアプローチで意地を見せるのが面白い。特に後者は構築を研究しつくしたという感で、ありとあらゆる手練手管を動員し、なかなか変化に富んだ演奏を聴かせたけれど、ちょっと自己陶酔的にいじり過ぎたという感もなくもない。彼はしばしば陶酔したような身振りで弾き、また、ピアノの前に座っても、椅子の高さを何度も調節したり周囲を見回したり、なかなか弾き出さないという変な癖もある青年だ(ヤマハ)。

 予定時間を20分も過ぎて、漸く午前の部を終了した。これはマイボロダが持ち時間をオーバーしたためもあるが、昨日と同様、審査員たちがロビーでベラベラお喋りしていて、なかなか審査員席に着かないため、進行が押してしまう傾向があったためでもある。

 ここまで、12人の中の8人を聴いて、東京に引き返す。
 昨日の印象と同様、みんなよく弾くし、上手くて見事だけれども、さりとて「決め手」に今一つ不足する、という感じだろう。あとの4人の演奏は聴けなかったが、いずれにせよ、今夜には計6人の本選出場者が決まる。ここまでは帰りの新幹線の中で書いたが、これがアップロードされる頃には、浜松国際ピアノコンクールのサイトに、出場者の決定リストが発表されているだろう。だが、ゲームとしても面白いから、この原稿はこのまま変更しないでおく。

 午前の部が終った時、2階ロビーには審査員と取材陣用の昼食が用意されていたが、食べる時間が無くなった。そのまま新幹線の浜松駅へ向かう。列車の変更に手間取る。飛び乗る直前、自笑亭の「うなぎ弁当」をほぼ30年ぶりに購入してみた。内容に比して、随分と割高だ。味も昔よりさらに落ちたのではないか? 

2015・12・1(火)第9回浜松国際ピアノコンクール 第3次予選初日

    アクトシティ浜松中ホール  午後0時30分

 1991年以来、3年ごとに開催されているこのコンクール。過去にはアレクサンダー・ガブリリュク、ラファウ・ブレハッチ、チョ・ソンジンらを優勝者として輩出した、実績のあるコンクールである。

 審査委員長は前回に続き海老彰子。審査委員はマルタ・アルゲリッチ、アンヌ・ケフェレックら計10人。
 この第3次予選には12人が残り、内訳はロシア4人、他には、日本、米国、中国、韓国、イタリア、ルーマニア、ウクライナ、ギリシャ/ベネズエラが各1人、となっている。それにしても、残った日本人がたった1人とは、残念なこと。

 今日は、6人が演奏した。1人あたりの持ち時間は、予定では70分だが、5分ほどオーバーする人もいる。それぞれのあとに、15分ずつの休憩がある(夜は1時間ちょっとの休憩時間がある)。夜の9時40分まで、延べ9時間にわたってコンサートを6つ聴くようなものだ。「ラ・フォル・ジュルネ」といえども、これほど濃密なスケジュールではない。審査委員ならずとも、かなり体力と精神力を消耗する。

 審査委員とわれわれ取材関係は2階席に陣取る。1階席は一般のお客さんのためのものだ。いつものように熱心な聴衆で席が埋め尽くされるので、主催の浜松市と浜松市文化振興財団も満足だろう。

 出場者が演奏するのは、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲」の第1番もしくは第2番と、ソロ作品数曲ずつである。
 室内楽では、豊嶋泰嗣、磯村和英、上村昇、漆原啓子、鈴木康浩、向山佳絵子という名手たちがトリオを組み、交替でソリストと協演するのだが、彼らの演奏が実に見事な上に、ホールの音響効果がいいので、それに釣られてコンペティターたちの演奏がみんな良く聞こえるという効果も生んでいるようだ(したがって以下の日記ではこの曲での演奏については省略する)。
 とにかく、今日の出場者6人の水準の高さには感心する。技術的にも見事だし(それを誇示し過ぎるという面もなくはないが)音楽も立派なのである。

 最初に登場したアレクセイ・メリニコフ(エントリーナンバー45、ロシア 25歳)は、ロシア人の強みとでもいうか、特にプロコフィエフの「ソナタ第6番」で、自信満々のソロを聴かせた(使用ピアノはカワイ)。

 続くダニエル・シュー(17、アメリカ 18歳)は、シューベルトの「即興曲作品142-1」を弾き始めた時の、音楽が突然ぱっと拡がって行くような素晴らしさにまず惹きつけられる。「展覧会の絵」も明晰、くっきりと隈取りされた音色が爽やかだ(ピアノはスタインウェイ)。

 3番目のシェン・ルウ(68、中国 30歳)も、演奏はこの上なく鮮やかである。特にスクリャービンの「ソナタ第4番」やラフマニノフの「絵画的練習曲集 作品31」での幻想味が素晴らしかったが・・・・ただしプログラムは少し長すぎた(ピアノはカワイ)。

 そして次がわが日本の三浦謙司(48、22歳)である。
 居並ぶ外国人たちの中で聴くと、どんなに激しい熱演を聴かせても、どこかに、いかにも日本人といった節度を感じさせるのが国民性というものだろう。バッハ~ブゾーニの「シャコンヌ」は力強いながら清澄な感性を持った演奏であり、ラフマニノフの前奏曲(3曲)および「ペトルーシュカからの3つの断章」は、いずれも大熱演で鮮やかな弾きっぷりだ。
 とはいえ、もう少し音に深みと重みと色彩感といったようなものが欲しくなる。正確そのものだが、色が薄いのである(カワイ)。

 ここで夕食タイムということで1時間強の休憩。予定では75分だが、時間が押していて休憩時間も短くなってしまうのは、持ち時間を少し超過する出場者がいるのと(前回ほどはいない)、審査員たちがお喋りしていて、開始時間になってもなかなか席に着かないからでもある。

 そのあとに、アレクサンデル・ガジェヴ(15、イタリア/スロべニア 20歳)が弾く。ベートーヴェンの「ソナタ第7番」があまり面白くなくて退屈させられたが、最後の「ペトルーシュカからの3つの断章」になると、これはまあ、何と闊達で派手で、音楽の動きが大きく、カラフルな演奏を聴かせることか。自ら思い切り愉しみ、お客も楽しませるといった雰囲気が横溢しているのである。さっきの三浦と比べてどうこうという意味ではないが、これがすなわち国民性というものだろう(カワイ)。

 本日のトリは、アレクシーア・ムーサ(50、ギリシャ/ベネズエラ 26歳)。本日登場の唯一の女性で、綺麗な、明るい音だ。室内楽では、今日の6人の中で、この人のピアノがいちばん音がよく透ってはっきりと出ていたようである。
 ソロ曲では、ショパンの「前奏曲集」全曲を弾いた。叙情的な良さはあるものの、全24曲の流れの中での起伏感と緊迫度などにはちょっと不足していたのではないか(ヤマハ)。今日の6人の中で、ちょっと引けを取った感があったのは、このムーサかもしれない。

 夜9時40分頃、全ての演奏が終る。ともあれ、みんな頑張って、よく弾いている若者たちである。どれもいい、と言いたくなる。
 だがその一方、突出した個性はというと、どうか? どこの大コンクールでも、たいてい、これは図抜けている、とか、優勝はこれじゃないか、とか、下馬評の集中する存在が1人か2人はいるものだが、今年は、ここまでのところ、未だそういう出場者にはお目にかかれないのである。それゆえ、正直言って、私には全く予想がつかないのが、初日の印象であった。

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