2017-07

4・9(月)ザルツブルク・イースター音楽祭 「ラインの黄金」

 ザルツブルク祝祭大劇場

 イースター注目のヴァーグナーの「ニーベルングの指環」がついに発進。
 
 演出と装置とビデオ制作(流行る!)は、シュテファーヌ・ブラウンシュヴァイク。
 舞台は至極シンプルで、小さな窓が一つある牢獄のような空間。奥にセリが多数生じて変化を持たせるが、その他は照明および3面の壁に映写されるビデオで動きを出すのみ。この種の舞台は、近年とみに増えてきたような気がする。今回のビデオは、ライン河の場では水、ヴァルハルの場では雲、ローゲ登場の場では焔が映写される。そして、アルベリヒが化ける場面では大蛇のウロコ、最終場面では雲と山の峰が映される、といったエフェクト的なもので、まあ書き割りより少しはイメージが良いというところだろう。

 ライン河の場面では、奥のセリの段差の間で演技が行なわれる。曲の開始前から椅子に一人の男が寝ているが、これはアルベリヒかと思いきや、ヴォータン(ウィラード・ホワイト)であった。彼は一貫してクール・ビズみたいな背広姿である。ローゲ(ロバート・ギャンビル)は、金ピカのいでたちのホモ男。巨人2人(ファーゾルト=イアイン・パターソンとファーフナー=アルフレッド・ライター)は、きちんとした服装のビジネスマンで、これは債権取り立ての銀行員というところか。
 アルベリヒ(デイル・デューシング)は、最初ホームレスのような格好をしているが、財産を得ると羽振りのいい軍人になる。エルダ(アンナ・ラーソン)はセリの端から歩いて登場し、ヴォータンを愛しげに説く。ニーベルングのこびとたちは、ここでは工員であり、宝物はすべて札束だ。
 大詰では、ヴォータンとフリッカ(リリー・パーシキヴィ)が手を取り合って背景の壁に向かって進むという、ケレンも何もない、あっさりした舞台になっている。こういう傾向の舞台は、費用節減路線か。

 面白くない舞台だね、とぼやいていたら、情報通の知人いわく、共同制作のエクサン・プロヴァンス音楽祭(昨年夏)での上演の際に旧い小さな劇場を使わなければならなかったので(新劇場の竣工が遅れたとか)、舞台上の制約が生じ、それでこういう舞台装置にならざるを得なかったのだ、と。次年の「ヴァルキューレ」に期待するか。

 ラトルの指揮には、実に興味津々たるものがある。冒頭ではコントラバスの持続音にさえ軽いリズムとアクセントが付されており、ラインの乙女たちの歌のオーケストラのモティーフには、弾むような躍動感が与えられていた。最近の彼の録音「ドイツ・レクィエム」でも聴かれた、あの独特のリズム感と共通するだろう。
 しかも、演奏にあふれる叙情性が見事だ。ふっくらと拡がる豊かな柔らかい木管の和声など、惚れぼれするほどの美しさにあふれている(きっと「ヴァルキューレ」第1幕など聴きものになるのではないかと思う)。多くのモティーフはあまり浮き出さずに、きれいに流れる。もともとこの作品では、モティーフが裸で登場するため、ゴツゴツと、かつバラバラな音楽のイメージになりかねないのだが、今回は希有なほどに流れが良い。
 だがその一方、ニーベルハイムへの下降と帰還の音楽や、終結のヴァルハル入城の音楽などでは、まさに総力を揚げた大強奏となる。その凄まじい咆哮は、さすが巨艦ベルリン・フィルだ。テンポは非常に遅く感じられたが、手元の時計では大体2時間35分位ではなかったかと思う。
 総じて、舞台は平凡ながら、演奏は新鮮そのもの、というところ。

 今年のザルツブルク・イースター・フェスティヴァル体験はこれで終了。めずらしく滞在期間中は好天に恵まれた。

4・8(日)ザルツブルク・イースター音楽祭
ベルナルト・ハイティンク指揮ベルリン・フィル

 ザルツブルク祝祭大劇場

 ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が演奏された。
 冒頭の和音から早くも温かい、心の奥底にまで染み通ってくる音楽が始まる。ラトルやチョンの指揮の時にはどこか一つ充たされなかった心の空白を、流れ出るような暖かさが充たしてくれた。今回のイースターにハイティンクが出演していて良かった、と心底から感じてしまうような演奏会であった。

4・8(日)ザルツブルク・イースター音楽祭
チョン・ミョンフン指揮グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ

  ザルツブルク祝祭大劇場マチネー

 ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」でのオーケストラの音色もなかなかに渋く厚みがあり、聴きごたえがあったが、何といってもルノー・カピュソンとゴーティエ・カピュソンの若々しく張りのある、胸のすくようなソリが圧巻であった。若く優秀なソリストとオーケストラの性格が完全に一致し、しかもチョンの指揮が情熱的であるということになれば、ブラームスの音楽は見事な説得力にあふれたものとなる。
 後半はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」。若い腕利きの集団らしく、唖然とさせられるほどのヴィルトゥオージぶりだ。ただ、20型(と思われる)の大編成のため、音はかなり厚ぼったく、明晰さは間引きされてしまう。

4・7(土)ザルツブルク・イースター音楽祭
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル 

 ザルツブルク祝祭大劇場(夜6時30分)

 1曲目、ショスタコーヴィチの組曲「黄金時代」のユーモアを覗かせる曲想に、客席から軽い笑いも漏れる。演奏もそれにふさわしく明るかったが、そこがベルリン・フィル、何か一つまじめくさった表情が残っていて、冗談と皮肉を自分では一所懸命愉快そうに話してみせるのだけれども・・・・という感じだ。ロシア人の音楽家が演奏するときのような、一種の粗野なユーモアのようなものは微塵もない。そこがまた微笑ましいのだが。

 イェフィム・ブロンフマンがラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を弾く。これも出だしは意外に几帳面な表情で、しかも彼の音がオーケストラの豊麗な主題の響き(特にヴィオラが見事だった!)に埋没してしまう状態だったから、どうなることかと思わせたのだが、そのうちに己れのペースを取り戻したようだ。ラトルの「もって行き方」も実に巧い。フィナーレ最後の「決め」でのハッタリをかませた鮮やかさたるや、ベルリン・フィルの巧さも加わって、かのゲルギエフとマリインスキー管の演奏をも凌ぐほどであった。とは言っても、こういう時だけ瞬時にして総立ちの熱狂を示すというのは、ザルツブルク・イースターに来る欧米人客のレベルも落ちたものである。

 最後のブラームスの「第4交響曲」では、ラトルとベルリン・フィルの目覚ましい進化が示されたと思われる。ラトルの神経の行き届いた音楽の構築、ベルリン・フィルの超絶的な巧さとの結合が生み出す、艶やかな弦の音色と緻密に交錯する声部の美しさには舌を巻くほどであった。ドイツのオーケストラらしくないブラームスであり、また陰影のほとんどないブラームスではあるが、ラトルが最近よく口にしている「リニューアル」なるものは、ここでも達成されていると思ってよかろう。
 このオーケストラは、見事に巨艦として蘇った・・・・と私は思ったのだが、客の拍手は通り一辺のものである。2階席で聴いていた知人たちには、全く正反対の、硬くケバ立った耳障りな音に聞こえたという。この劇場の、席による音の違いは今に始まったものではないけれども・・・・。

4・7(土)ザルツブルク・イースター音楽祭
ラトルとベルリン・フィルの公開GP

サルツブルク祝祭大劇場(午前11時30分)

 今夜のプログラムから練習して聴かせたが、常にサービス満点のラトルのこと、それだけでは面白くなかろうと考えたのか、愛妻マグダレナ・コジェナーをわざわざ登場させ、マーラーの歌曲を2曲歌わせた。これがまさに絶品で、オーケストラの最弱音は実に豊かで美しく、ラトルの感性豊かな叙情性を垣間見せた。

4・6(金)ザルツブルク・イースター音楽祭
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル

 ザルツブルク祝祭大劇場

 昨年に続きザルツブルク・イースター・フェスティヴァルの第2ツィクルスに。天気予報が外れ、快晴となっているのはありがたい。
 プログラムは、ドヴォルジャークの「金の紡ぎ車」、プロコフィエフの「第3ピアノ協奏曲」にヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。

 このような作品を演奏する際に、ベルリン・フィルが再び柔らかい響きを出せるようになっているのがうれしい。一頃のような「力み」がなくなっているのかもしれない。弦は驚くほどふくよかで、力強い音を出す際にも全く威圧的にならない。この演奏で唯一物足りない点があるとすれば、演奏の音色に陰影というものが備わっていないことであろう。それはまるで、再開発が進む現代都市ベルリンのインターナショナルな雰囲気を反映しているかのようである。

 最も拍手を浴びたのはラン・ラン。やや線の細いピアニズムであり、時にオーケストラに埋没する向きも少なくなかったが、これは聴く席の位置により異なった印象を得るのではないかと思う。彼の人気はすばらしい。最後の和音が終ると同時に、ブラヴォーと拍手が爆発、1階はスタンディング・オヴェーションと化した。

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