2018-11

2007・4・29(日)藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団

      ザ・シンフォニーホール  3時

 朝一番のANAで羽田に着き、品川から新幹線で大阪に向かい、3時からの関西フィルを聴く。札幌から大阪までの直行便は、なぜこんなに少ないのか?

 これは藤岡幸夫の「関西フィル首席指揮者就任記念定期」である。これにもプログラムにエッセイを書いた関係で急遽聴きに行った次第。1階後ろから2列目の席を貰って聴いたが、オーケストラのバランスの良さの点では大阪フィルを凌ぐほどと言ってもいい。楽員の張り切りようは目覚ましく、演奏の充実という点でも、大阪フィルに決して劣らぬ出来を示していたといって間違いない。

 マーラーの「第1交響曲《巨人》」は、特に誇張もあざとさもない演奏だったが、しかし最後のクライマックスではホルンだけでなく金管全員を(!)次々と起立させるという派手な舞台上の演出を行なっていた。

 ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」は黒川侑のソロ。音は美しく技術もしっかりしていて、大変良いものを持っているという印象だが、何か優等生っぽい面もあり、今後は「音楽」を学んで行って欲しいもの。第1楽章冒頭などテンポを極度に遅く取っていたが、だれに指導された解釈か。

 藤岡は、大阪ではやはり目覚ましい人気の持主のようである。マスクも受けているらしい。今日はほぼ満席。オーケストラの西濱秀樹事務局長とのプレ・トークなど、ちょっと漫才的なところもある雰囲気で、面白い。

 終演後、ホールから新大阪までタクシーに乗ったが、その運転手氏が「いつもここから客を乗せるので、その人たちの話を何となく聞いているうちに、指揮者のことが解るようになって来ましたよ」と言う。広上淳一が以前ここで指揮したこと、テレビで大野和士のドキュメントをやっていたこと、大植英次がバイロイト音楽祭に出たが1年しか指揮できなかったこと、などなど、実によく知っている。ちょっとした「門前の小僧」か。驚嘆。

2007・4・28(土)広上淳一指揮札幌交響楽団

      札幌コンサートホールkitara  3時

 プログラムにエッセイを書いたこともあって、聴きに行く。
 広上と札響の顔合わせは初めて聴いたが、どうやら最高の相性らしい。カーテンコールでの楽員の反応は極めて良く、何より演奏がそれを証明していた。もしかしたら将来の常任指揮者最有力候補か?

 ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」序曲では、金管を開放的に咆哮させ、札響からはあまり聞いたことの無いような激しさを引き出していた。それは迫力十分ではあったけれど、少々雑であり、札響がこのような音楽にあまり慣れていないのではないかという気にもさせた。
 2曲目には、小菅優が弾くベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」。彼女のピアノの瑞々しさは魅力である。

 聴かせどころはやはり後半の「幻想交響曲」。
 第1楽章後半における内声部の明晰な交錯が素晴らしく、特にチェロとコントラバスの音色に艶があり、この曲はこんなにも色彩的な管弦楽法を備え、こんなにも多彩な音色を持っているのだという新しい発見をもたらしてくれた。これまでいろいろな指揮者とオケで聴いていた「幻想」が、いかにベルリオーズの対位法の面白さを蔑ろにしたモノフォニックな演奏であったろうか、とさえ思えるほどである。

 第2楽章では、トランペットにコルネットのパートを吹かせていたのは面白い。第3楽章でのオーボエは、上手客席上段に配置されていたが、ホールがよく響きすぎるために遠距離感が全く出ず、これは必ずしも成功とは思えなかった。
 最終楽章の大詰では、テンポはむしろ抑制され、熱狂的な頂点とは言い難い。「葬礼の鐘」もオルガン前に配置され、これは音量が巨大すぎてむしろ耳障り。金管はよく鳴ったが、いかに最強奏となった場合でも、音色はもう少し美しくあるべきだろう。
 所々で交じる理解しがたい雑音もそうだが、札響が一流のオケたるにはあと一歩と思わせる所以である。ほぼ満席。

 終演後、上野葉子氏(前札響事務局、現・井関楽器札幌支店長)のコーディネイトで、三浦洋氏〔音楽評論家〕、古家昌伸氏(北海道新聞記者)、閔鎭京(みん じんきん)氏(北海道教育大学芸術課程講師)とグランドホテルで会食した後、伏見にある宮越屋珈琲店を訪れる。
 そこの御主人、蔵隆司氏が、1974年にFM東京が放送したライヴ番組「TDKオリジナル・コンサート」の、小澤征爾指揮札幌交響楽団による「幻想交響曲」のエアチェック・テープ(4トラ19)を保存しておられたのである。これは、私が制作した番組だった。思いもかけぬ33年前の世界へのタイム・スリップに感動も一入。

 そして、その録音で聴く33年前の小澤と札響の「幻想交響曲」の演奏の素晴らしさに、一同、感動して聴き入った。「昔の札響、悪くないじゃないか」と、みんな口々に言う。
 この店のオーディオ装置には、マッキントッシュのアンプ、スチューダーのCDプレーヤー、CS-PCMのミュージックバードのチューナーなども揃っている。「ミュージックバード」の放送は全国カバーなので、私が喋っている「新譜紹介」などの番組もよく聴いて下さっている由。蔵氏は以前、神奈川芸術文化財団におられたという。
 新千歳の三井アーバン・ホテルに宿泊。

2007・4・26(木)佐渡裕指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      東京オペラシティコンサートホール  7時

 2階正面2列目の席で聴いたが、ドヴォルジャークの序曲「謝肉祭」の演奏の、あまりの乱暴さと音の汚さに耳が痛くなる。この指揮者個人に対しては、人間的にも好感を持っているし、大きな音を要求することに共感もするのだが、音の美感というものにもう少し気を使ってもらいたいと思うことがしばしばある。

 お陰で、リディア・バイチが弾くメンデルスゾーンの協奏曲の時にはほとんど失神状態(?)。後半の、レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」は表情の大きな弦楽合奏で、今日のプロの中ではこれが最も良かった。

 最後はレスピーギの「ローマの松」で、「カタコンブの松」と「ジャニコロの松」が壮麗で出色の出来。「アッピア街道の松」は、まあこのくらい勢いのいい音で鳴らないと面白くないのは事実だが、それにしてもやはりもっと綺麗な音でやって貰わないと。

2007・4・23(月)ドリーブ:オペラ「ラクメ」

      東京文化会館大ホール  6時30分

 オーストリアとイタリアの隣国にあたる小国スロヴェニアから来日したスロヴェニア国立マリボール歌劇場の「ラクメ」。
 主催は大阪フェスティバルを含む朝日新聞グループだが、招聘したのはどうやら永竹由幸らしい。実に珍しいレパートリーで、日本での上演は80年ぶりだとかいう記事をどこかで読んだ。

 とはいうものの、これは実につまらないオペラである。だらだらと同じような曲想の羅列で、ドラマティックな変化というものが全くといっていいほど無い。「シルヴィア」や「コッペリア」などであれほど魅力的な躍動を聴かせたドリーブなのに、不思議なことだ。フランチェスコ・ローザなる指揮者のせいもあるかもしれぬ。

 それに、鳴り物入りで来日したソプラノ、デジレ・ランカトーレも、何とも平凡な出来だ。低音域と高音域とで発声の仕方が全く異なり、別人のような声に聞こえるのも不思議である。
 客席は満員、関係者やサクラも多いらしく、演奏の水準にあまりふさわしくない拍手やブラヴォーが乱れ飛んでいた。

2007・4・20(金)大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

      ザ・シンフォニーニーホール  7時

 初めてV-1という1階最後列のL側を貰って聴いた。どんな格好をしていてもいい席だから、実に気軽で楽である。遅れて入ってきた人が横に立つのだけが迷惑だが。
 屋根の下にあたるため、音がやや遠く聞こえるし、直接音が来ないせいで柔らかくも聞こえる。ショスタコーヴィチの「交響曲5番」がどちらかといえばおとなしい演奏のように感じられたのは、この席の関係でもあろう。
 ただ、あるマネージャーが「彼も大振りしなくなった」と感心していたから、演奏のスタイルが多少変化してきたとも考えられる。

 1曲目はラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」。大植がオレグ・マイセンベルクのソロに神経質なほど合わせ、オーケストラを殆ど鳴らさなかったのには意外な感がしたが、実はマイセンベルクがこの曲を覚えておらず(!?)リハーサルの時にも2、3回止まるなどしたため、指揮者もオケも薄氷を踏む思いだったんだそうな。信じられない話だ。
 オーケストラはよかったが、トランペットに弱点がある。

2007・4・18(水)新国立劇場 プッチーニ「西部の娘」

       新国立劇場  6時30分

 アンドレアス・ホモキによる新演出。特に傑出しているというほどではないが、「新国もの」としては悪くない部類に入るだろう。
 ウルフ・シルマーが東フィルをよく鳴らし、オーケストラがドラマをリードするスタイルを採ったが、ドレスデンでの公演などを聴いてきた耳にとっては、このくらいオーケストラが雄弁でないとドラマが引き締まらないように思える。

 ジャック・ランス役のルチオ・ガッロ(いかにも仇役の保安官らしい存在感だった)を除く主役歌手が小粒だったため、このオーケストラの鳴りっぷりはありがたい。
 ミニー役のステファニー・フリーデは一所懸命やってはいるけれど、賭博の場面やジョンソンを救出に入ってくる場面などでいかにも迫力に乏しい(昔のステッラのあの迫力が忘れられない、と、隣席の三善清達氏と囁き合った)。ジョンソンのアティッラ・キッシュは歌唱が雑である。アシュビーの長谷川顕は存在感あり。

 ホモキの演出は、舞台を米国西部から現代の移民社会へ読み替えた。コンセプトとしてはいいと思うが、舞台の作り(フランク・フィリップ・シュレスマン)はそれを明確に反映しているとも感じられぬ。ダンボール箱の積み重ねがいいか悪いか、場面がスーパーの倉庫みたいに見えることの善し悪しなどは別として━━だが。

 「移民」たちのメイクや衣装は、よくあれだけいろいろなタイプ(刺青男からモンゴル人まで)を並べたと感心する。山場のギャンブル場面は、実に平凡で迫力を欠く。

2007・4・17(火)スクロヴァチェフスキ指揮読売日響

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 お馴染みのスタニスラフ・スクロヴァチェフスキが読売日響第8代常任指揮者に就任して初の定期。ベートーヴェンの「大フーガ」(弦楽合奏版)と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」が演奏された。

 後者はノーヴァク版と表示されていたが、第4楽章の前半では強打のシンバルを、コーダでは弱音のタムタムを使用するというスクロヴァチェフスキ独自の解釈が加えられたものである。すべて暗譜で指揮し、かつエネルギッシュな音楽を創る。
 読売日響の弦特有の厚みと力感が両曲ともに発揮され、特にブルックナーでは明確で力強いトレモロが壮大感を生み出していた。山岸博のホルン・ソロもいい。

 だが総じてオーケストラの音はガサガサしている。もともとスクロヴァチェフスキは綿密なアンサンブルを要求する人ではなく(ザールブリュッケン放響との演奏でも同様であった)音楽の情感に重点を置く指揮者で、それはそれで実に味があることは事実だが、わずか2週間のうちに前任者ゲルト・アルブレヒトによって築き上げられた精緻さが消え去ってしまっていることには、些かの危惧を抱かずにはいられない。
 だれかほかに、高齢の彼を補う人がいないと読売日響としては危険なことになるだろう。アンサンブルに関する限り、90年代前半までのこのオケに逆戻りしそうな兆候が感じられるのである。

2007・4・16(月)ダニエル・ハーディング指揮ロンドン交響楽団

      東京オペラシティコンサートホール  7時

 今回はアジア・ツアーの一環のようで、日本では東京2日間のみの公演になっている。

 前半は、ラン・ランをソリストにしたモーツァルトの「ピアノ協奏曲第17番」だった。
 彼は先日のザルツブルクでのプロコフィエフと同様、弱音を重要視し、囁くように、軽く来たっては軽く去っていくがごときフレーズの作りで、美しい夢のように作品を語ろうとする。近年の彼はスタイルをさまざまに変えて演奏することが多いが、東洋人たる彼が西洋のクラシック音楽において、一つの様式や型にとらわれずに何か新しいものを模索していこうとする姿勢の表れなら、極めて興味深いことだろう。
 ハーディングも、モーツァルトの交響曲を指揮する時とは全く異なり、ストレートな表情で柔らかくソロを支えた。

 後半はマーラーの「交響曲5番」。
 このホールでのマーラーの交響曲は、音響空間的な容量からいっても少し無理なところがあり、時に音が硬質に聞こえたのはそのためもあろう。
 だが、以前ここで東京フィルを振った時に比べると、ハーディングは明らかにこのホールでのマーラーの響かせ方を解決したように思われる。オーケストラのさまざまな声部がくっきりと明晰に浮かび上がって交錯していく演奏は、アルミンクなどと共通するタイプである。

 オーケストラは強力に統率され、激しく怒号したり忘我的な熱狂を示したりするはずの箇所においても、知的に制御されている。それはまるで、アポロに変身したマーラーといった感もある表現が、この作品の別の側面を新しく発見させてくれる演奏であったことは疑いない。

2007・4・14(土)別府アルゲリッチ音楽祭

    iichikoグランシアター  6時

 第9回別府アルゲリッチ音楽祭の「オーケストラ・コンサート」。

 今年は11~21日の開催だが(必ずしも毎日ではない)、アルゲリッチが出るのはこの日と最終日の「室内楽マラソン・コンサート」のみで、その他は公開マスタークラスが3日間、彼女推薦のネルソン・ゲルナーのリサイタルと大分県出身若手演奏家コンサートが各1日。
 他に関連コンサートが数回あるものの、メイン行事の点では、比較的小規模になったのではないかと思われる。組織が変わって「県の役人」が入って来たり、補助金も少し苦しい状況になったりで、予算縮小に追い込まれた、などという話も聞く。

 この日の出演は、ユーリ・バシュメットが指揮する桐朋学園オーケストラ。少なくとも3年前に聴いた東京芸大の、無気力で覇気の感じられない学生オケよりはずっと良い。アンサンブルも慣れているようだし、活気もある。
 バシュメットが指揮した「ホルベアの時代より」はきれいで丁寧な音楽づくりではあったが、バシュメットらしい最弱音の多用は、ここの大きなホールではあまり生きたとも思えない(もっとも彼はサンクトペテルブルクのフィルハーモニーホールのようなところでさえ、平気で最弱音を多用する人だ)。

 バルトークの「第3ピアノ協奏曲」に至って、アルゲリッチがピアノの前に座っただけで、オーケトラの音色には見違えるような生気ときらきらした光が輝き始めた。彼女の演奏も、光を放射するかのような鮮やかな生気にあふれたものだ。昔のように強烈な力と激した情感を迸らせることはなくなったが、しかしこのバルトークには、明晰さと温かさが二つながら備わっている。

 休憩後は、バシュメットが編曲したヴィオラ・ソロと弦楽合奏によるブラームスの(クラリネット)五重奏曲。モスクワ・ソロイスツよりも今回の方が編成も大きいため、第1楽章などは「浄夜」を先取りしているかのように聞こえた。編曲も演奏も悪くないと思う。
 アンコールに武満の「ワルツ」。

2007・4・9(月)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル 「ラインの黄金」

     ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 イースター注目のヴァーグナーの「ニーベルングの指環」がついに発進。
 
 演出と装置とビデオ制作(流行る!)は、シュテファーヌ・ブラウンシュヴァイク。
 舞台は至極シンプルで、小さな窓が一つある牢獄のような空間。奥にセリが多数生じて変化を持たせるが、その他は照明および3面の壁に映写されるビデオで動きを出すのみ。この種の舞台は、近年とみに増えてきたような気がする。今回のビデオは、ライン河の場では水、ヴァルハルの場では雲、ローゲ登場の場では焔が映写される。そして、アルベリヒが化ける場面では大蛇のウロコ、最終場面では雲と山の峰が映される、といったエフェクト的なもので、まあ書き割りより少しはイメージが良いというところだろう。

 ライン河の場面では、奥のセリの段差の間で演技が行なわれる。曲の開始前から椅子に一人の男が寝ているが、これはアルベリヒかと思いきや、ヴォータン(ウィラード・ホワイト)であった。彼は一貫してクール・ビズみたいな背広姿である。ローゲ(ロバート・ギャンビル)は、金ピカのいでたちのホモ男。巨人2人(ファーゾルト=イアイン・パターソンとファーフナー=アルフレッド・ライター)は、きちんとした服装のビジネスマンで、これは債権取り立ての銀行員というところか。
 アルベリヒ(デイル・デューシング)は、最初ホームレスのような格好をしているが、財産を得ると羽振りのいい軍人になる。エルダ(アンナ・ラーソン)はセリの端から歩いて登場し、ヴォータンを愛しげに説く。ニーベルングのこびとたちは、ここでは工員であり、宝物はすべて札束だ。
 大詰では、ヴォータンとフリッカ(リリー・パーシキヴィ)が手を取り合って背景の壁に向かって進むという、ケレンも何もない、あっさりした舞台になっている。こういう傾向の舞台は、費用節減路線か。

 面白くない舞台だね、とぼやいていたら、情報通の知人いわく、共同制作のエクサン・プロヴァンス音楽祭(昨年夏)での上演の際に旧い小さな劇場を使わなければならなかったので(新劇場の竣工が遅れたとか)、舞台上の制約が生じ、それでこういう舞台装置にならざるを得なかったのだ、と。次年の「ヴァルキューレ」に期待するか。

 ラトルの指揮には、実に興味津々たるものがある。冒頭ではコントラバスの持続音にさえ軽いリズムとアクセントが付されており、ラインの乙女たちの歌のオーケストラのモティーフには、弾むような躍動感が与えられていた。最近の彼の録音「ドイツ・レクィエム」でも聴かれた、あの独特のリズム感と共通するだろう。
 しかも、演奏にあふれる叙情性が見事だ。ふっくらと拡がる豊かな柔らかい木管の和声など、惚れぼれするほどの美しさにあふれている(きっと「ヴァルキューレ」第1幕など聴きものになるのではないかと思う)。多くのモティーフはあまり浮き出さずに、きれいに流れる。もともとこの作品では、モティーフが裸で登場するため、ゴツゴツと、かつバラバラな音楽のイメージになりかねないのだが、今回は希有なほどに流れが良い。

 だがその一方、ニーベルハイムへの下降と帰還の音楽や、終結のヴァルハル入城の音楽などでは、まさに総力を揚げた大強奏となる。その凄まじい咆哮は、さすが巨艦ベルリン・フィルだ。テンポは非常に遅く感じられたが、手元の時計では大体2時間35分位ではなかったかと思う。
 総じて、舞台は平凡ながら、演奏は新鮮そのもの、というところ。

 今年のザルツブルク・イースター・フェスティヴァル体験はこれで終了。めずらしく滞在期間中は好天に恵まれた。

2007・4・8(日)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
ベルナルト・ハイティンク指揮ベルリン・フィル

     ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が演奏された。
 冒頭の和音から早くも温かい、心の奥底にまで染み通ってくる音楽が始まる。ラトルやチョンの指揮の時にはどこか一つ充たされなかった心の空白を、流れ出るような暖かさが充たしてくれた。今回のイースターにハイティンクが出演していて良かった、と心底から感じてしまうような演奏会であった。

2007・4・8(日)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
チョン・ミョンフン指揮グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ

     ザルツブルク祝祭大劇場   午前11時

 ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」でのオーケストラの音色もなかなかに渋く厚みがあり、聴きごたえがあったが、何といってもルノー・カピュソンとゴーティエ・カピュソンの若々しく張りのある、胸のすくようなソリが圧巻であった。若く優秀なソリストとオーケストラの性格が完全に一致し、しかもチョンの指揮が情熱的であるということになれば、ブラームスの音楽は見事な説得力にあふれたものとなる。
 後半はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」。若い腕利きの集団らしく、唖然とさせられるほどのヴィルトゥオージぶりだ。ただ、20型(と思われる)の大編成のため、音はかなり厚ぼったく、明晰さは間引きされてしまう。

2007・4・7(土)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル 

     ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 1曲目、ショスタコーヴィチの組曲「黄金時代」のユーモアを覗かせる曲想に、客席から軽い笑いも漏れる。演奏もそれにふさわしく明るかったが、そこがベルリン・フィル、何か一つまじめくさった表情が残っていて、冗談と皮肉を自分では一所懸命愉快そうに話してみせるのだけれども・・・・という感じだ。ロシア人の音楽家が演奏するときのような、一種の粗野なユーモアのようなものは微塵もない。そこがまた微笑ましいのだが。

 イェフィム・ブロンフマンがラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を弾く。これも出だしは意外に几帳面な表情で、しかも彼の音がオーケストラの豊麗な主題の響き(特にヴィオラが見事だった!)に埋没してしまう状態だったから、どうなることかと思わせたのだが、そのうちに己れのペースを取り戻したようだ。ラトルの「もって行き方」も実に巧い。フィナーレ最後の「決め」でのハッタリをかませた鮮やかさたるや、ベルリン・フィルの巧さも加わって、かのゲルギエフとマリインスキー管の演奏をも凌ぐほどであった。とは言っても、こういう時だけ瞬時にして総立ちの熱狂を示すというのは、ザルツブルク・イースターに来る欧米人客のレベルも落ちたものである。

 最後のブラームスの「第4交響曲」では、ラトルとベルリン・フィルの目覚ましい進化が示されたと思われる。ラトルの神経の行き届いた音楽の構築、ベルリン・フィルの超絶的な巧さとの結合が生み出す、艶やかな弦の音色と緻密に交錯する声部の美しさには舌を巻くほどであった。ドイツのオーケストラらしくないブラームスであり、また陰影のほとんどないブラームスではあるが、ラトルが最近よく口にしている「リニューアル」なるものは、ここでも達成されていると思ってよかろう。
 このオーケストラは、見事に巨艦として蘇った・・・・と私は思ったのだが、客の拍手は通り一辺のものである。2階席で聴いていた知人たちには、全く正反対の、硬くケバ立った耳障りな音に聞こえたという。この劇場の、席による音の違いは今に始まったものではないけれども・・・・。

2007・4・7(土)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
ラトルとベルリン・フィルの公開GP

    サルツブルク祝祭大劇場  午前11時30分

 今夜のプログラムから練習して聴かせたが、常にサービス満点のラトルのこと、それだけでは面白くなかろうと考えたのか、愛妻マグダレナ・コジェナーをわざわざ登場させ、マーラーの歌曲を2曲歌わせた。これがまさに絶品で、オーケストラの最弱音は実に豊かで美しく、ラトルの感性豊かな叙情性を垣間見せた。

2007・4・6(金)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル

       ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 昨年に続きザルツブルク・イースター・フェスティヴァルの第2ツィクルスに。天気予報が外れ、快晴となっているのはありがたい。
 プログラムは、ドヴォルジャークの「金の紡ぎ車」、プロコフィエフの「第3ピアノ協奏曲」にヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。

 このような作品を演奏する際に、ベルリン・フィルが再び柔らかい響きを出せるようになっているのがうれしい。一頃のような「力み」がなくなっているのかもしれない。弦は驚くほどふくよかで、力強い音を出す際にも全く威圧的にならない。この演奏で唯一物足りない点があるとすれば、演奏の音色に陰影というものが備わっていないことであろう。それはまるで、再開発が進む現代都市ベルリンのインターナショナルな雰囲気を反映しているかのようである。

 最も拍手を浴びたのはラン・ラン。やや線の細いピアニズムであり、時にオーケストラに埋没する向きも少なくなかったが、これは聴く席の位置により異なった印象を得るのではないかと思う。彼の人気はすばらしい。最後の和音が終ると同時に、ブラヴォーと拍手が爆発、1階はスタンディング・オヴェーションと化した。

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