2017-04

2015・11・30(月)サッシャ・ゲッツェル指揮神奈川フィル

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 神奈川フィルをミューザ川崎シンフォニーホールで聴くのは、これが最初である。
 首席客演指揮者サッシャ・ゲッツェルが、ブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはゲルハルト・オピッツ)と、コルンゴルトの「シンフォニエッタ」を指揮した。コンサートマスターは崎谷直人。

 ブラームスでは、ゲッツェルはオーケストラをよく引き締めていたが、演奏は些か几帳面に過ぎたのではないか? 演奏の細部に至るまで、もう少し起伏が欲しいところだ。オピッツの風格と滋味に富んだ素晴らしいソロに対し、音楽がいかにも平板に聞こえるのである
折角の「オピッツのブラームス」との協演だったのに、いかにも残念である。但し、第3楽章でのチェロのソロは見事だった。

 一方、コルンゴルトの「シンフォニエッタ」の方は、さすがに力演で、どうやら指揮者もオーケストラも、こちらの曲の方に全力を集中したという感がある。滅多にナマでは聴けない曲だし、こんな珍しい作品を取り上げ、紹介してくれたことは、有難い。意欲的なプログラミングである。

 「シンフォニエッタ」は、コルンゴルト若書きの作品だが、彼特有のドイツ後期ロマン派的なサウンドが横溢、第1楽章にだけは、わずかながら華美な色彩感━━それはのちに彼がハリウッドでの映画音楽で示すことになる特徴と不思議に一致するのだが━━が聴かれる。長大で、少々冗長な部分もあるが、いわゆるコルンゴルト節が早くも全開している作品だ。やはりナマで聴くと面白い。

2015・11・29(日)オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス(終)

      東京オペラシティ コンサートホール  3時
 
最終日。交響曲の「5番」「6番」「7番」。

 ホールはまさに立錐の余地もないほどに満席。当日売りは1枚もなかったという話である。客席には、ヴァンスカをはじめ、フィンランドの関係者も非常に多く見られた。現地の「ラハティ響友の会」なるメンバーも何人か来ていたようである(ロビーでにこやかにグッズを販売していた)。

 今日の演奏の雰囲気は、前2回とは、ガラリ違う。素朴さとか、民族主義的なアプローチとか、そういうものはほとんど前面に現われず、非常に密度の濃い響きで、壮大な気宇に満ちた音楽になっていた。これはすでに前回の「4番」の時にも示されたものだったが、シベリウスの作風が大きく転換したことに即して、アプローチのスタイルをも、忠実にそれに合わせたということだろう。

 「5番」の第1楽章終結個所や、同終楽章最後での巨人的な歩みの豪壮さは、このオーケストラが日本で初めて聴かせた凄さではなかったか。
 「7番」も、あるスタイルの指揮者でよく聞くような「白夜的な清澄さ」だとか「円熟の達観した作風」などといったような雰囲気の演奏とは全く異なり、清澄ではあるけれども重厚で、強靭な構築と密度を備えた交響曲というイメージを感じさせた。終結部のみならず、随所に聞かれる大波のような昂揚も、さすがのものである。

 「6番」は、曲の性格からしてそう重厚な演奏にはならないけれども、それでもスケルツァンドな性格などは一切排された、シリアスなイメージのものに構築されていた。
 もっとも、この3曲におけるこれらの演奏の特徴は、彼らのCD(BIS3枚組 2076)でも充分に聴かれていたものだったが。

 ラハティ響の、自然体の良さは、この日の演奏にもあふれていた。日を追って次第に調子を上げて来たのではないか、とある知人が語っていたが━━それはそうかもしれないが、しかしそれは、やはり彼らの演奏の中に、シベリウスの作品の性格の変遷そのものが如実に反映されて来ていたためではないか、という気もするのである。

 アンコールは、今日も3曲。最初は予想通りの「アンダンテ・フェスティーヴォ」。ここでのカムは、常よりも強弱の変化を綿密に付していた。それまでの各作品におけるアプローチと比較すると、若干の違和感が抱かされたのは確かだが、曲に起伏感が生まれていたことは間違いない。
 2曲目は、「ある情景のための音楽」。

 そして、彼らがそれまでに示して来たサービスぶりから、これはもしかしたら本当に「フィンランディア」を最後にやる気なのじゃあないのか、と、本プロの最中から予感していたのだが・・・・案の定。
 カムは、「この曲だけは曲名を言わなくてもみなさん分かるだろう」とばかり、指揮台の椅子に座るやいなや、いきなり指揮棒を振り出した。
 演奏は、まさに堂々としていた。曲の最後に高鳴るあの有名な主題、またそれに続く終止和音が、まるでこの3日間、熱心に聴いた日本の聴衆へ贈る感謝の挨拶と別れの歓呼のように聞こえてしまい、思わずジンとなってしまったのである。
 選曲の巧さ、演出の巧さ。たいしたものである。

 カーテンコールが、指揮者だけでなくオーケストラに対してもこれだけ長く続いたコンサートは、稀だろう。
           →モーストリー・クラシック2月号 公演Reviews

2015・11・28(土)工藤あかね「Secret Room Vol.2 ━━布と箱」

     トーキョーワンダーサイト本郷  7時30分

 「シベリウスの毒」のあとに、爽やかな毒消しのような、現代音楽のコンサート。

 上下左右、真っ白なスタジオ程度の広さの会場に、純白の衣装をまとったソプラノ歌手がたった独りで歌い、演技し、踊り、ギターを弾く。小道具と言えば、何メートルもある大きな純白の布、いろいろな物が魔法みたいに出て来る白い箱、それに小さなCDラジオのようなもの。白色で統一された場の中に煌めくモノ・オペラ的な「演奏」は、刺激的でフレッシュだ。

 工藤あかねさんのリサイタルといえば、4年前の6月21日にシュトックハウゼンの「ティアクライス」を聴き、その長丁場を歌い踊る「演奏」の華麗さに舌を巻いたことがある。
 今夜、彼女が「演奏」した作品は、ジョン・ケージの「ソネクス2」「花」「4分33秒」、シュトックハウゼンの「一週間の七つの歌」、湯浅譲二の「R・Dレインからの2章」、松平頼暁が彼女のために書いた「Trio for One Player」。
 私の好みからいえば、やはりシュトックハウゼンが最も密度も濃かったように感じられたが、彼女の明晰な日本語の発音と演技ゆえに、特に湯浅譲二の作品における不気味な内容が非常に印象的なものになっていたことも確かだ。

 これは、東京都歴史文化財団トーキョーワンダーサイトが主催する「トーキョー・エクスペリメンタル・フェスティバル(TEF)」の初日公演。2月7日まで開催される由。

2015・11・28(土)オスモ・ヴァンスカ指揮読売日響のシベリウス(2)

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 シベリウス漬けの毎日である。

 しかも、「カレリア」組曲を別とすれば、「ヴァイオリン協奏曲」と「交響曲第1番」とは、つい昨日と一昨日に聴いた曲ばかりだ。食傷気味にはならぬと言えばウソになる。が、その反面、シベリウスならいいか、と思うのが愛好者のおかしなところである。
 しかし、このヴァンスカと読響の演奏は、ラハティ響のそれとはある意味で全く異なったスタイルであるがゆえに、逆にそれぞれが新鮮に感じられるということもある。

 ヴァンスカは、今日も獅子奮迅の指揮ぶりで、金管群を咆哮させ、ティンパニを怒号させ、最弱音と最強音の差を極度に大きく設定して、鋭く攻撃的なアプローチをかける。

 特に「第1交響曲」では激烈さが目立ち、若きシベリウスの凄まじい気魄を想像させる豪壮強烈な演奏となった。第3楽章から第4楽章にかけての、速いテンポによる猛烈なたたみかけの演奏も凄まじい。だが、それあるがゆえに、第4楽章最後の第2主題のテンポをぐっと落した昂揚が生きて来るわけだろう。ここを、センチメンタルな雰囲気を切り落とし、気品高く、壮大に朗々と演奏するところ、ヴァンスカの持って行き方は巧いな、とつくづく感心させられる。読響(コンサートマスター小森谷巧)の力感も、最大限に生きるだろう。
 これもまた、新鮮なアプローチであった。

 「ヴァイオリン協奏曲」のソリストは、今日はアメリカ生まれのフィンランド育ち、エリナ・ヴァハラという、すらりとした美女。白色の光を当てたような、洗練された清楚で明晰な演奏をする人だ。
 これがふだん聴き慣れているスタイルの演奏だな、と思いつつも、なにしろ昨夜、良い意味での民族的で土俗的(?)なスタイルの演奏を聴いたばかりなので、かえって新鮮に感じられるのである。アンコールで弾いたバッハの「サラバンド」も、清楚そのもの、しかし非常に手応えのしっかりした快演であった。

 「カレリア」組曲も、どちらかと言えば荒々しい演奏だ。ヴァンスカは、1曲目の「インテルメッツォ」ティンパニのパートに大きな起伏を持たせ、現行版スコアに指定のないクレッシェンドやフォルティシモを細かく導入している。
 これに限らず彼は、たとえば第2ヴァイオリンのパートをぐっと強調して思わぬ起伏をつくり出すというように、細かい設計を随所で行なっている。つまり、荒々しい演奏でも、それが決して雑なものでなく、綿密に構築されたものであることが判るのである。
 ただそれでも彼は、昔よりも金管や打楽器を強奏させる傾向がある。その結果、音色が混濁してしまうことも 時には━━。

 かつて指揮していたラハティ響が東京でシベリウス・ツィクルスを展開しているのと同じ時期に、ヴァンスカ自身は読響を指揮して同じくシベリウスのツィクルスをやっているのだから、面白いといえば面白いが、双方とも自国の誇る作曲家の名作を掲げているというのは、何とも羨ましい話ではある。
 なお読響のO氏から聞くところによると、今日は演奏会のないラハティ響のメンバーが、カムとともに聴きに来ていて、明日はヴァンスカがラハティ響を聴きに行くとか言っている由。

2015・11・27(金)オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス(2)

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 第2日の今夜は、交響曲の「第3番」と「第4番」、その間に「ヴァイオリン協奏曲」を挟んだプログラムになっている。
 やや渋い選曲のせいか、昨夜は満杯だった客席にも、ほんのわずかだが、空きも見られた。しかし、とにかく熱心なシベリウス愛好家たちが詰めかけているので、うれしくなる。ホール全体が息を呑んで、シベリウスの音楽に集中しているという雰囲気である。

 飾らぬ、素朴な音の素晴らしさ━━という印象は、今夜の演奏でも変わらない。「第3番」での最初のチェロとコントラバスの導入のフレーズに、カムがちょっと表情をつけていたのがむしろ違和感を抱かせたほどで、そのあとのフルート、オーボエ、クラリネットによる主題が、まあ何と鄙びた率直な、しかし温かい民謡調の雰囲気を感じさせたことか。
 シベリウスの音楽は、とかく北欧の大自然を思わせる清涼さ、厳しさ、巨大さなどというイメージで受け取られることが多いけれども、こんなヒューマンな素朴さも備えているのだ、ということを、この演奏は教えてくれる。シベリウスが国民楽派の作曲家であり、民族主義の作曲家であることを主張する演奏、とでも言ったらいいか。

 協奏曲でソロを弾いたのはペッテリ・イーヴォネンという大男で、この人のヴァイオリンがまた実に骨太で素朴な味の、しかも深い情感を持った音色と表情を聴かせて面白い。極端な喩え方をすれば、この曲そのものが完全な民謡調の、民族主義音楽の塊ではないか、という気さえ起させる演奏なのだ。

 彼は、第1楽章と第2楽章を、たっぷりと遅いテンポで、深々と弾く。その素朴な歌をじっくりと支えるカムとラハティ響の、しっとりした和音の神秘的な拡がりが素晴らしい。この曲にはこういうスタイルの表現もあるのだと、不思議に感心させられる演奏であった。彼がアンコールで弾いたイザイのソナタ「バラード」も、これまた不思議に民族的な土の匂いを感じさせる音楽に仕上げられていた。

 一方、「第4交響曲」では、カムとラハティ響は、冒頭のチェロとコントラバスのフォルティシモを、強烈な鋭いアタックの演奏で開始する。これは衝撃的だ。そのあとも、全曲は厳しい表情で貫かれた。「3番」までの温かさは、さすがにこの曲では、影も形もなくなる。シベリウスの交響曲の中で、この曲がたしかに異色の存在であることをはっきりと示すカムとラハティ響の演奏であった。

 アンコールは、「悲しきワルツ」、「クリスティアン2世」からの「ミュゼット」、最後に「鶴のいる風景」の計3曲。連夜の大サービスだ。私にとっては、「ミュゼット」がナマで聴けたのが嬉しい。これは本当に愛らしい曲である。
 終演は9時35分になった。昨日と同様、そのあとにはサイン会が行われたはずである。このサービス感覚たるや、見上げたものだ。

2015・11・26(木)オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス(1)

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 「生誕150年記念 シベリウス交響曲サイクル」と題された、東京オペラシティ文化財団主催の3回シリーズの初日。交響曲の「第1番」と「第2番」がそのプログラム。

 ラハティ交響楽団を聴くのは、オスモ・ヴァンスカとの来日以来になる。現・芸術監督兼首席指揮者のオッコ・カムが、どのような音楽をこのオーケストラから引き出すか━━彼らのシベリウスの交響曲全集CDはすでに全曲を聴いたが、やはりナマで一度聴いてみないと、その真価は解り難いだろうと思い、楽しみに待ち構えていた次第だ。

 初日の演奏、素晴らしい。小ぶりながら強靭な意志の持主、といったイメージを感じさせるオーケストラである。一見、素朴で野暮ったいけれど、純粋で真摯な語り口が高貴さを感じさせる、と言ったらいいか。昔、ヴァンスカの指揮の時にも、その素朴で滋味豊かな音楽性に感動したが、今回も同様であった。

 たとえば「第2番」の第3楽章における、2度目の「レント」の個所━━ファゴットとホルンのハーモニーの上に、オーボエとフルートが交錯して響かせる主題が、ふだん聴いている彫琢されたバランスの演奏と違って、ラハティ響の素朴な響きゆえに、まるで民謡か何かのような美しさと温かさで心に迫って来る。飾らぬ美しさ、とはこういうのを謂うのだろう。これを聴くと、小奇麗に化粧された音のバランスなど、いかに無益なものであるかという気さえ起って来る。

 第4楽章で弦楽器群がいっせいに歌う第1主題にしても、管楽器群のハーモニーとの対比がこんなに美しいものだったかを、改めて感じさせてくれる。聴き慣れた、いや聞き飽きた感のあるこの主題がこんなに新鮮に、素朴に、ヒューマンな民謡のように聞こえたのは、初めてかもしれない。
 何十年ぶりかで、この曲を最初に聴いた頃の陶酔が蘇って来た。曖昧で感覚的な言い方になるけれども、とにかく、何だか、何もかもが、すごくいいのである。

 アンコールは、「テンペスト」からの「ミランダ」と、「行列 JS54」と、「ペレアスとメリザンド」からの「間奏曲」の3曲。どれもラハティ響がヴァンスカの指揮でCDにいれていたものばかりだ。
 カムは、演奏前に客席を振り返って曲名を言ってくれるのだが、それが非常に解り難い声と発音なので、「ミランダ」など、会場の人の大部分には「フィンランディア」と聞こえたのではなかろうか。大拍手と歓声まで上がったのがその証拠だ。実は私にも一瞬そう聞こえた。ところが、いざ始まってみたら全く違った静かな曲だったので、客席は拍子抜け。終ったら気抜けしたような(?)拍手が、それでも盛大に起こったというわけである。ラハティ響のメンバーも、日本では「テンペスト」の音楽がそんなに人気があるのか、と驚いたのではなかろうか。

 終演は9時半近くになった。このツィクルスは実に楽しみである。

2015・11・23(月)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 前日のサントリーホール定期と同じく、プログラム・テーマは、「生と死」。

 ステージ上に配置された100個の白いメトロノームの振り子が開場1分前に一斉にスタート、1時半に客席が開かれた時には既にホール内にはカチカチという音があふれている。これがプログラムの1曲目、リゲティの「ポエム・サンフォニック~100台のメトロノームのための」という作品だという。

 ただし本当の開演(2時)までは、そのまま座って音を聴いていろ、というわけでもないらしいので、適当にロビーをぶらつき、知人を見つけて雑談に耽る。
 それにしても、こういう振り子形式のメトロノームは、今はあまり見かけなくなった機械だが、よく100個も集めたものだと感心する━━。

 2時になると、東京響(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)と指揮者ジョナサン・ノットが、静かにステージに入る。
 100台のメトロノームのうち、動き続けているのは、すでに半分以下かもしれない。様々なテンポでずれながら音を刻んでいるそれら「拍節器」が、時々偶然にも全部の音が合致してしまうことがあるのが面白い。

 だがそれよりもむしろ、一つ、また一つ、と順に動きが停止して行く様子が、まるで人間たちが順に生命を終って行くことの象徴のように思えて、その果敢無さ、寂しさに、慄然とさせられる。これがプログラム・テーマに盛られた「生と死」の最初の物語なのか! 
 最後まで残って、ゆっくりと「生」の鼓動を刻み続けていた1台も、ついに2時8分、静かに動きを止めた。

 そして、初めてここで、オーケストラが演奏を始める。曲は、バッハの「甘き死よ来たれ」(ストコフスキー編曲)である。まさに甘美そのものの編曲が、それまでの機械的なリズムに慣れた耳に、安息をもたらしてくれる。
 それが終ると、いつの間にかステージのピアノの前に滑り込んだエマニュエル・アックスが、すぐ続けてR・シュトラウスの「ブルレスケ」を弾き始めるのだった━━。

 休憩後には、ショスタコーヴィチの「交響曲第15番」が演奏された。ノットは、第2楽章でかなり遅めのテンポを採り、全曲を重厚で暗いイメージに構築した。東響もこれに応え、打ち沈んだ曲想を再現して行ったが、室内楽的な精緻な響きという点では、いつものノットとの演奏の時ほどの完璧さには不足していたかもしれない。

 だが、この交響曲の大詰、あたかもショスタコーヴィチがこの世への告別を予感したかのように書いた個所━━オーケストラが弱音で虚空の中に消えて行く謎めいた個所で、打楽器群に繰り返されるリズムは、まさしく今日の最初のメトロノーム群による不思議なリズムに呼応するものだった。
 「生と死」の物語は、こうして完結をみる。実に見事な選曲、というほかはない。

 終演後、不要となったメトロノーム100台を、中学校の吹奏楽部などで使ってもらうための「寄贈式」が、楽屋で行われた。出席した女子生徒は「代表」ということで、4人。
 ノットが手ずからメトロノームを贈呈、生徒代表が緊張気味ながら一所懸命に礼辞を述べるという、温かく微笑ましいセレモニーであった。

2015・11・22(日)信時潔:「海道東征」「海ゆかば」

     ザ・シンフォニーホール(大阪) 2時

 「戦後70年 信時潔没後50年」記念として、信時が1940年(昭和15年)に発表した、合唱と独唱と管弦楽のための大作「海道東征」が演奏された。主催は産経新聞社、共催は大阪フィルハーモニー協会。

 演奏は、北原幸男指揮の大阪フィル(ゲストコンサートマスターは辻井淳)と大阪フィル合唱団、大阪すみよし少年少女合唱団。ソロは幸田浩子、山田愛子、太田尚美、中鉢聡、田中純。
 併せて取り上げられたのが、近衛秀麿改訂によるベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」と、信時潔の「海ゆかば」である。

 前半に演奏された、近衛秀麿改訂によるベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」━━噂に高い「近衛版」で、ホルン6本、トランペット4本・・・・という具合に拡大された編成のオーケストレーション。原典スコアに指定のない個所でも、金管群やティンパニがやたら轟き、聴き慣れぬ厚ぼったくて重い音が盛んに響く。
 一種のゲームとして聞いていれば苦笑するだけで済むが、真面目に聴いていると、いったいベートーヴェンの管弦楽法のどこに不満があるというのだ、何の必要があって、何の権利があって、こんなにスコアを書き換えるのだ、と腹立たしくなる。マーラーがベートーヴェンやシューマンの交響曲に手を加えたのと同様、これは天下の愚行と申すべきものであろう。

 しかも、今日の演奏がまた、聞いたことのないほど平板で、起伏に乏しいものだったから、余計に苛々する。もしやこれは、「変な改訂楽譜をとにかくご紹介するだけはしておきますが、つまらないでしょ?」という、皮肉の演奏だったのかも。

 後半に、信時潔の作品2つ。
 「海道東征」をナマで聴いたことがなかった(2003年のオーケストラ・ニッポニカの演奏会は聞き逃した)私としては、本当に貴重な機会だった。

 これは、神武天皇の日向から大和までの「海道(=うみとつち)の東征を題材にした、北原白秋作詩による50分近い長さの「交声曲」で、1940年(昭和15年)11月26日に日比谷公会堂で初演されている。
 この年は「神武天皇即位」から数えての「皇紀2600年」とされていた年で、R・シュトラウスやイベールなどへの委嘱曲をはじめ、内外の作曲家による多くの奉祝曲が生まれたが、「海道東征」もその一つである。

 皇紀2600年といえば、「紀元はニセ~ンロッピャクネ~ン」という歌とか、同年に正式採用された戦闘機が「2600年」に因んで「零式戦闘機」(いわゆる「ゼロ戦」)と名づけられたこととか、提灯行列が賑やかだったとか、「祭は終った、さあ働かう!」という標語とか、当時の資料を読むと、国を挙げての華やかな祝典だったことが判る。したがって、なるほどその時代だからこそ、「古事記」「日本書紀」で語られる「建国神話」なるものをこういう形で音楽作品化する歴史感覚もあったのだ、ということも理解できる。
 それにしても、古代から存在したこの日本独特の神話伝説が、明治以降、軍国主義に利用される運命を辿ったのは不幸であった。それは、ワーグナーの作品の場合と共通するところもあるだろう━━。

 歌詞は非常に古式床しく、今日では全く耳慣れぬものだが、今日の演奏会では、合唱団とソリストたちの発音が明確で、かつ字幕がオルガン横の壁に投映されていたために、内容がすこぶる解り易かったのはありがたい。
 「大和は國のまほろば、たたなづく青垣山・・・・美し(うるわし)の大和や」(第2章)といった美しい言葉が連続する。これを聴くと、日本の神話には、山や河の美しさへの愛など、「自然」と結びつきの概念が如何に多いかということを再認識させられるだろう。
 もっとも第8章には「八紘一宇(あめのした一ついへ)とぞ」という日本書紀の記述を基にした歌詞も登場するが、これが軍国主義と、それを排斥する人々との両方により、如何に誤って解釈されるかにいたったかは、改めて言うまでもない。

 一方、音楽としても、たとえば「御船出」(第3章)におけるように、日本の多くの歌曲との密接な関連性を感じさせる叙情性にも事欠かない。演奏によってはもう少し起伏が大きく、良い意味で詠嘆的な壮大さも現われるはずだと思うが、とにかく美しい作品であったことはたしかである。
 なお、この作品については、都留文科大教授の新保祐司氏による著書「信時潔」(構想社)の中に、優れたエッセイがある。私も今日、会場で買って読んだが、大いに参考になった。

 だが、プログラムの最後を飾る「海ゆかば」の演奏は、失敗に終った。
 これは、プレトークを行なったその新保教授が、「《海ゆかば》はアンコールでもう一度演奏されるでしょうが、その時には客席の皆さんも一緒に、起立してお歌いください」と呼びかけていたため、高齢者の非常に多い客席には、それを思い違えて、アンコールでない本番の演奏の際にすでに立ち上がってしまった人が多く、結局ほぼ全員が起立して一緒に歌い始めてしまったからである。
 結局、「海ゆかば」は、同じことを2回やる羽目になり、この曲本来の美しい合唱とオーケストラによる演奏はついに全く聴けぬままに終ったのであった。

 なお、新保教授はプレトークの中で「今日の演奏会は、ただ美しい音楽を聴くためだけのものではなく、日本人としての意識を云々」と述べ、結論として「海ゆかば」での斉唱と起立を━━「この曲は座ったまま歌う曲ではないのですから」と、聴衆へ強制同様の形で呼びかけていたが、これはいかがなものか? 
 見方によっては、このコンサート自体が、ある史観の意識発揚イベントのごとき様相を呈してしまいかねないではないか。

 私も人並みに日本を愛しているし、日本人としての誇りをも持っているし、「古事記」や「日本書紀」も文学として読んで日本の建国神話をも心得ているし、「海ゆかば」が極めて立派な音楽作品であることをも認識しているつもりだ。
 しかし今日ここに来たのは、あくまで題材を客観的に見つめ、かつ日本の優れた音楽作品を聴くためだけのこと。こういう形で「共感」を強制され、押し付けられるのは真っ平である。

 前記の教授のスピーチからの私の引用は必ずしも正確なものではないかもしれないが、しかしわれわれが受け取った主旨は、ここに書いた通りだ。現にその「海ゆかば」での客席の反応は、かくの如しである。
 客席を埋めた多くの高齢者たちは嬉々として起立して歌っていた。そう、歌いたい人は、自らの意志で歌えばよい。もし何人かが自然発生的に歌に参加したのなら、私も驚いて、しかし微笑ましく見たかもしれない。だが2度目の演奏の際に、指揮者までがマイクを持って出て来て呼びかけるとは━━。私は起立せず、アンコールの時には、抗議の意味で席を立ってロビーへ出た。私の前の席に座っていた2人の女子学生も、これはとてもついて行けぬと思ったのだろう、私より一足先に、席を蹴って出て行ってしまった。

 主催者側のスタッフに、教授のスピーチのその部分は主催の新聞社の意向なのかと質問したところ、そのような呼びかけを依頼した覚えはない、ただ2日前(初日)の演奏会では、聴衆の一部が自発的に起立して歌に加わるという出来事があっただけだ、という説明であった。つまり、主催者側としては、想定外だったということであろう。
 とはいうものの、こういうことがあった以上、結果的にはやはりそれが主催新聞社の姿勢だったと解釈されても致し方ないかもしれない。同新聞社の普段の論調云々は別の話としても、だ。

 「海道東征」は、今月28日にも、東京藝大の奏楽堂で演奏されるという。だが演奏者も違い、組み合わせる曲目も全く異なり、解説者は片山杜秀さんだというから、今日のようなことにはならないだろう。

2015・11・21(土)東京二期会 ヨハン・シュトラウスⅡ:「ウィーン気質」

     日生劇場  3時

 荻田浩一が演出、阪哲朗が指揮。小貫岩夫(ツェドラウ伯爵)、澤畑恵美(伯爵夫人)、鹿野由之(カーグラー)、三井清夏(フランツィスカ・カリアリ)、高橋唯(ペピ)、児玉和弘(ヨーゼフ)、久保和範(ギンデルバッハ侯爵)他の出演。オーケストラは、こちらも東京フィルだった・・・・。

 今回は珍しく日本語上演だが、特に前半では歌詞がさっぱり聞き取れないことが多く、神経的に疲労した。小貫や澤畑、鹿野らのように発音が明晰な人たちもいるけれども、いずれにせよ、日本語と雖も字幕が必要かもしれない。

 演出には期待していたのだが、特に後半、どうも流れがよろしくない。宝塚歌劇団をやっていた人なのだから、いわゆる「関西のノリ」で押しまくれば、もっと隙間のない盛り上がりの舞台ができるのではないかと思っていたのだが・・・・。

2015・11・20(金)オスモ・ヴァンスカ指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 シベリウス・ツィクルスの1回目だが、「フィンランディア」と「交響曲第2番」の間に、なぜかラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはリーズ・ドゥ・ラ・サール)が入っているプログラム。
 シベリウスにはピアノ協奏曲が無いから仕方がないか、と思ったり、しかし今回のツィクルスには交響曲の第3番と第4番が抜けているのだから、せめてそのうちの「3番」だけでも入れてくれたらいいのに、と思ったり、・・・・でもまあ、リーズ・ドゥ・ラ・サールが弾いてくれるならいいか、とも思ったりしつつ、聴きに行く。

 彼女のピアノ、音色は明晰で清冽だが、強靭な打鍵で骨太なダイナミックスで全曲を貫いて行く。感傷的な思い入れなど一切ない豪壮さは、痛快なほどだ。馬力充分の読響がヴァンスカの手加減のない手綱のもとに弦16型の編成で豪快に鳴らしまくるのに対しても一歩も譲らず、華麗なピアニズムを披露した。
 アンコールは、ドビュッシーの「音と香りは夕べの大気の中に漂う」。テロ犠牲者を悼んで、と自らスピーチを付しての演奏。

 シベリウス2曲は、近年のヴァンスカの指揮の特徴たる、鋭角的でアクセントの強い、剛直な演奏スタイルで展開されて行った。かつてのラハティ響との演奏ではしっとりした味も未だたっぷりと聴かせていた彼だが、今は、ごつごつした攻撃的な姿勢を前面に押し出してシベリウスの音楽に迫っている。といっても、ミネソタ管との最近のCDで聴くそれらよりは、ナマで聴く読響(コンサートマスター・日下紗矢子)の厚みのある響きが、音楽を遥かに巨大に聳え立たせてくれる。
 これは、強靭な意志を持つシベリウス像といった感の演奏。曲の性格によっては素晴らしい効果を生み出す。
      別稿 音楽の友新年号 演奏会評

2015・11・20(金)新国立劇場 プッチーニ:「トスカ」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 今年8月に逝去した名演出家アントネッロ・マダウ=ディアツによるプロダクション。2000年9月21日にプレミエされて以降、02年、03年、09年、12年に上演されて来た。今回が6度目のレパートリー上演になる。
 川口直次によるトラディショナルで写実的な豪華な舞台美術、ピエール・ルチアーノ・カヴァッロッティのこれも写実的な衣装など、見栄えのする舞台だ。新国立劇場としては、大切な定番であろう。

 今回のキャストは、マリア・ホセ・シーリ(歌姫トスカ)、ホルヘ・デ・レオン(画家カヴァラドッシ)、ロベルト・フロンターリ(悪辣な警視総監スカルピア)を軸に、大沼徹(アンジェロッティ)、松浦健(スポレッタ)、大塚博章(シャルローネ)、志村文彦(堂守)、秋本健(看守)、前川依子(羊飼)。エイヴィン・グルベルグ・イェンセン指揮の東京フィル、新国立劇場合唱団とTOKYO FM少年合唱団。

主役の男声2人は、歌唱・演技ともに見事な出来を示していた。フロンターリは第1幕大詰の「テ・デウム」でも大合唱に負けぬ迫力を聞かせていたし、デ・レオンも声に力がある。

 しかし、トスカ役のシーリは、歌唱、演技ともに硬質で、特に演技力が要求されるこの題名役としては、まだまだこれからという段階であろう。
 演技に関しても、たとえ原演出家はいなくても、自分で工夫して精妙さを加えることくらいできるはずだと思うのだが・・・・。
 たとえば第3幕で、拷問のせいで血みどろになっている恋人の顔を痛ましげにハンカチで拭ってやるくらいの演技を考えつかないものだろうか? 血だらけの恋人を前に、スカルピアの赦免通行証を持って明るい顔をしているトスカは、よほど脳天気に見えてしまう。スカルピアを殺そうと心を決めるあたりのナイフを手にするくだりの演技など、もう少し自分でいろいろ考えてやってほしいものだ。見ていて歯がゆい思いに駆られた次第である。

 フロンターリは、さすがに見せ場の第2幕で凄味を利かせていた。薄切りのハムか何かを口に入れながら、右手のナイフをくるくる回してトスカを脅すといった演技は微笑ましいが、これが「ナイフ」の存在を観客に印象づけておくという伏線の演技だったら、立派なものと言わねばなるまい。
 またデ・レオンも第3幕で、あの残忍なスカルピアが本気で通行証を出すはずがない・・・・赦免も見せかけで、死刑執行も本物であろうことをはっきりと心得ながら、それをトスカには言いかねている絶望感を、実に巧みに演技で表現していた。

 その他脇役でも、松浦健(スポレッタ)が、スカルピアからカヴァラドッシの処刑方法を意味あり気に命じられ、心得顔にニタリと笑って出て行く演技の巧さは、印象に残る。
 トスカが城壁から身を投げた時(後ろ向きに落ちて行くのはたいしたものだ)、1人の兵士がそっと帽子をとって十字を切るという演技もいい。こういう細かい演技の積み重ねが、舞台を引き締めるのである。

 エイヴィン・グルベルグ・イェンセンの指揮はダイナミックなもののようだが、これを受ける東京フィルが、何とも音が薄い・・・・。第3幕冒頭、「星も光りぬ」に先立つ弦の演奏など、とても一流のオーケストラとは言い難い。どうしてこのオケは、オペラのピットに入るとこうなるのか。

 外ホワイエ(チケット切りカウンターの手前)に、銘菓「鶴屋𠮷信」が屋台店を出していたのにびっくり、何となく感心。新国立劇場もいよいよ歌舞伎座並みになって来た。粋でいいじゃないですか。

2015・11・19(木)フランクフルト放送交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 前半は昨夜と同じくグリンカとチャイコフスキーだが、後半はブラームスの「交響曲第1番」。アリス=紗良・オットのアンコールはグリーグの「小妖精」、オケのアンコールはまた昨夜と同じ「ハンガリー舞曲第6番」。

 ホールが異なれば、響く音も違い、オーケストラの特徴も━━根本的にではないにしても━━違って聞こえる。
 こちら東京芸術劇場の2階席正面中央近辺で聴くと、昨夜のサントリーホールでは柔らかく豊麗に聞こえた弦などの音色が、かなり引き締まってリアルに、生々しく響く。そうなると、演奏にも毅然とした表情が強く浮かび上がって来る。オーケストラのみならず、指揮者がつくる音楽の特徴にも、やや硬質な切れ味のよさ、といった性格も感じられるようになるだろう。
 それに、どちらのホールでも、席の位置によってまた印象が変わる。そこが面白いところだ。どれが正しいという問題ではない

 「ルスランとリュドミラ」序曲は、昨夜の演奏よりもさらに几帳面に聞こえたが、これはサントリーホールでのアコースティックの、少し「色づけされた」響きによるものの方が、まだ少しは面白かったかもしれない・・・・。

 「ピアノ協奏曲第1番」は、ホールの響き云々は別にしても、今夜の方がさらに瑞々しく、活力と精妙さとが見事に解け合った演奏に聞こえた。
 私は実はこの曲はあまり好きではないのだが、それにもかかわらず、特に第2楽章は美しい歌に満ちているようで、聴いていて非常に快かったのである。それは、アンドレス・オロスコ=エストラーダの豊かなカンタービレが十全に生きて、この楽章が持つ美しい叙情性を呼び覚ましたからでもあろうし、またアリス=紗良の演奏が、爽快な明るさ、屈託のないチャイコフスキー像の生成、といったような性格を備えていたからでもあろう。

 そして、ブラームスの「第1交響曲」。ドイツのオーケストラが抱く同国の作曲家への共感と、指揮者の若い個性が、程よく合致した演奏だったというべきか。重くはないが落ち着いた響きの裡に、弾むようなティンパニの歯切れのいいリズムが加味されて、誠実な演奏に仕上げられていた。
 スコアにはない強弱の変化もかなり加えられていたが、さほど作為的なものを感じさせなかったのは、テンポ感のよさのゆえか。

 この指揮者とオーケストラのコンビ、今回初めて聴いたわけだが、予想していたよりはいい線を行っているようである。ただし、音楽の深みは━━すべてこれからだ。

2015・11・18(水)フランクフルト放送交響楽団

     サントリーホ―ル  7時

 ヘッセン放送(hr)所属のオケになったため、10年ほど前からの正式名称は「hr交響楽団」。
 だが日本では、これじゃ何だか判らんというわけで(せめて「ヘッセン放送交響楽団」ならともかく)、おなじみの旧称「フランクフルト放送交響楽団」がそのまま使われている。
 今回一緒に来日した指揮者は、コロンビア出身の若手アンドレス・オロスコ=エストラーダ。2014/15年のシーズンからの音楽監督だ(その前の5年ほどは、ウィーン・トーンキュンストラ―管の首席指揮者だった)。

 今日のプログラムは、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソロはアリス=紗良・オット)、ベルリオーズの「幻想交響曲」。
 アンコールは、アリス=紗良がシューマンの「詩人は語る」、オーケストラがブラームスの「ハンガリー舞曲第6番」。

 オロスコ=エストラーダという指揮者、元気のいい指揮で、明確に音楽を構築する人だ。オーケストラをバランスよく響かせ、生き生きとした表情を引き出している。構築にも起伏があり、クライマックスでは音楽をぐいと一押し盛り上げる術にも長けていて、劇的な演出感覚も充分なようである。
 ただ、━━ドラマティックな個所ではなかなか迫力も聞かせるのだが、ピアニッシモの個所や、テンポを遅くする個所に入ると、何か音楽の流れが滞るような、緊張力が突然薄まる傾向があるのがちょっと気になるところだ。とはいえ彼の場合、オケから引き出す音色は綺麗だし、良いカンタービレを利かせる美点もあるから、演奏に生気が失われるところまでは行かないのが幸いである。

 アリス=紗良・オットがチャイコフスキーの「1番」を弾いたのを、私は聴いたことがあったかどうか・・・・少し線が細いかなという感がないでもないが、清冽な音色と瑞々しい表情で、この猛烈な協奏曲を洗練された姿に変えて蘇らせるところ、聴いていても気持がいい。スピーディな演奏と、それに劣らずスピーディな身のこなし。ピアノと下手側袖との間を素早く行き来して拍手に応える時には、山台に軽々と飛び乗る爽やかさ(彼女、舞台では最近いつもハダシだから)。

2015・11・18(水)METライブビューイング ヴェルディ:「オテロ」

     東劇  2時

 去る10月17日のMETにおける上演のライヴ映像。今シーズンの新制作プロダクションによる「オテロ」。

 新演出はバートレット・シャー(シェア)。以前のモシンスキーによるトラディショナルな舞台とは違い、かなり「今風」のものになっている。
 中間の2つの幕では、いくつかのガラスの建物(演出者は「ガラスの牢獄」と表現)を縦横に動かす手法が採られていて、これは特に第3幕、イヤーゴとカッシオの「内緒話」を聞き取ろうと必死に追いすがりながら果たせないオテロの焦りを描く場面で、巧みな効果を発揮していた(舞台美術はエス・デヴリン)。
 冒頭の「嵐の場面」と「オテロの凱旋」ではまるでセミステージのような群衆の配置だったので、まさかこの調子でずっと・・・・?と不安になったが、喧嘩の場面あたりからは、ダイナミックかつ微細な演技と舞台が繰り広げられて行った。

 ヤニック・ネゼ=セガンの指揮が素晴らしい。
 「嵐の場面」では不思議に抑制した演奏になっているので、もしや叙情性を基本にした音楽的解釈なのかなと思ったが━━もちろん叙情的な個所では良いカンタービレをつくり出してくれたが━━ネゼ=セガンはむしろ、そのような外面的なスペクタクル性ではなく、オテロの心理的な「嵐」の表現に重点を置いていたのではないかと思われる。その証拠に、第3幕では、オテロの苦悩と絶望を中心とする大アンサンブルにおいて、この上なくドラマティックな、激情的な演奏をつくり出していた。いい指揮者だ。

 オテロは、アレクサンドルス・アントネンコ。歌唱力は文句なし。顔つきにちょっと愛嬌があるので、あまり凄みはないが、幕切れの「オテロの死」では見事に英雄的な表情の演技を見せた。この場面一つとっても、彼が現代屈指のオテロ歌手であることが証明されたであろう。

 デズデーモナはソニア・ヨンチェーヴァ。歌唱力も演技も素晴らしく、特に第4幕の「柳の歌」での演技は卓越していた。イヤーゴのジェリコ・ルチッチも、落ち着いた風貌と挙止の裡に悪役ぶりを垣間見せ、これも良かった。他に、カッシオをディミトリー・ピタス。

 今日は、平日午後の上映。お客さんが随分入っている。夜よりも昼間は、主婦のお客さんが来やすいのだとか。

2015・11・17(火)「エル・システマ」
テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ

    東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 日本大通り駅から池袋まで、とにかく急行に乗れば座ったまま行けるのは有難い。その代わり55分もかかる。

 ベネズエラの有名な青少年音楽教育システム「エル・システマ」創立40年の今年、「テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ」が、音楽監督クリスティアン・バスケスとともに来日。あの有名な「シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ」の後継オケの一つだ。
 ステージを埋め尽くした大編成の楽員たちは、みんな若く、エネルギーを舞台から猛然と噴出させている。

 プログラムは、R・シュトラウスの「ドン・ファン」と「英雄の生涯」、その間にラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を置いての構成だった。
 ラフマニノフでは、小曽根真がソリストを務めたが、適宜カデンツァを含めての鮮やかな演奏。カーテンコールでの若い楽員たちとの呼応も微笑ましく、オケとソリストの性格や雰囲気がぴったり合ったケースと言えるだろう。

 「ドン・ファン」では、第1ヴァイオリンは21~22人くらいいたろうか。コントラバスは12人。かような超大編成で、演奏も勢いのいいこと。音量も凄まじく、今日の昼間に観たミュージカルのPAの音量よりも更に大きい。しかもその勢いで猛烈に弾き、吹き、叩くという演奏だから、それこそ耳を劈くほどの鋭い音になる。
 元気がいいのはたいへん結構だが・・・・しかしこういう音と音楽は、私には苦手だ。

2015・11・17(火)ミュージカル「ヘッズ・アップ!」

     KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉 1時

 朝7時18分の「のぞみ」で広島を発ち、新横浜から菊名を経て、地下鉄・日本大通り駅へ回る。

 こちらはKAAT神奈川芸術劇場プロデュースによる「ヘッズ・アップ!」という新作ミュージカルの上演である。原案・作詞・演出がラサール石井、セリフ脚本が倉持裕、作曲・音楽監督が玉麻尚一、振付が川崎悦子。出演は哀川翔、青木さやか、滝幸男、大空祐飛、今拓哉、相葉裕樹、ほか━━といった人たちだ。

 ストーリーは、劇場での仕込みからバラシまでに至る演劇上演の裏方たちのドラマを描くものだが、ただそれだけではなく、その中に、劇場哲学、ショウ・ビジネスの喜怒哀楽、舞台監督の悩み、舞台裏のゴタゴタ、スタッフと俳優の人間模様、などといった要素のほか、パロディなども織り込まれる。
 何より、みんな芝居が上手く、テンポがスピーディで歯切れのいい進行なのが魅力だ。ただし第2幕は、やや無理伸ばしという印象もなくはないが。

 私も昔放送現場にいたせいもあって、劇場は好きだから━━まだ準備前の人気のない劇場やホールに入ると、独特の空気の匂いがして、あれがまた何とも言えない魅惑の世界なのだった━━この芝居、愉しんだ。
 会場はもちろん満員で、特に天井席をぎっしり埋めた若い観客は、セリフや演技への反応も早く、よく笑って芝居を盛り上げていた。こういう雰囲気はいいですね。
 ただ、いろいろなパロディに素早く反応する彼らも、「雨に唄えば」の1シーンのパロディには全く無反応だった。やはり世代の違いですな。

 3時55分終演。

2015・11・16(月)広島交響楽団「2つの交響曲HIROSHIMA」

     JMSアステールプラザ大ホール(広島) 7時

 広島市文化財団アステールプラザや中国新聞社他が主催する被爆70周年記念事業「ヒロシマの追憶と飛翔~二つの交響曲HIROSHIMA」と題された演奏会。
 エルッキ・アールトネンの「交響曲第2番 HIROSHIMA」と、團伊玖磨の「交響曲第6番 HIROSHIMA」が演奏された。ともに、滅多に聴く機会のない交響曲である。
 演奏は、高関健指揮の広島交響楽団(コンサートマスター・佐久間聡一)。後者での協演は、並河寿美(ソプラノ)と赤尾三千子(横笛)。

 フィンランドの作曲家エルッキ・アールトネン(1910~90)のこの交響曲は、1955年8月15日の「終戦10周年記念特別演奏会」で朝比奈隆指揮関西交響楽団により日本初演されたもの。同年、同じ朝比奈と関響により、京都でも1度演奏されたとか。
 これは1949年に作曲され、朝比奈隆が1953年12月にヘルシンキを訪れた際に、アールトネンから直接スコアを手渡されたのだという。広島の悲劇を大管弦楽の作品とした例としては、おそらく世界最初のものとのこと。

 このスコアはその後、長年にわたり大阪フィルの倉庫に眠っていたらしいが、ある時「ヒロシマと音楽」委員会委員長の能登原由美さんの照会で、大阪フィル顧問の小野寺昭爾さんが倉庫を調査、そのスコアを発見して、今回の再演が実現した由。したがって、60年ぶりの再演━━というのが話題になっている。
 演奏時間は約30分。作風はトラディショナルなものだが、シベリウスの影響が前半のいくつかの個所に聞かれるあたり、やはりフィンランドの作曲家ならではの特徴だろう。中国風の曲想もちらりと顔を覗かせるけれども、これはまあご愛嬌という程度のものである。

 故あって先日、フィンランドのオーケストラが最近演奏したというこの曲のライヴ録音を送ってもらい、聴くことができた。そこではシベリウスの「4つの伝説曲」や「第4交響曲」などからの影響を含め、いかにもフィンランドの音楽らしく陰翳に富んだ音楽だ、という印象を得たのだが・・・・。
 ところがどういうわけか、今日の演奏では、全く印象が違った。作曲者が「火の爆風」とか、「裡にみなぎる根源的な力の反映」(能登原訳)と表現した楽想も、あまりそれらしく聞こえて来ない。━━どうも指揮者とオーケストラは、この曲よりも、後半の團伊玖磨の交響曲の方に強く共感しているので、今夜はそちらの方に全力を傾注したい・・・・という魂胆が見え隠れするような演奏だったのである。些か苦笑を抑えきれなかった。

 で、予想通り、後半の團伊玖磨の「第6交響曲HIROSHIMA」は、この上なく立派な演奏になった。
 こちらは原爆の悲劇を直接描いたものではなく、広島のエネルギーを象徴させた大交響曲である。今日の演奏時間はちょうど50分。作曲者がウィーン響を指揮して録音した演奏(1989年)より3分以上も短い。それだけテンポも速めだったが、主題構築の明快さ、起伏の大きさ、響きの緻密さなどを含め、作品の性格をよく再現した高関の指揮であった。

 広響の演奏も、第1部でのガサガサした感じの演奏からは一転した。弦の音色の良さと、張り切った活力は、現在の広響の演奏水準を如実に示したものといって間違いない。
 横笛の赤尾三千子は、この曲が1985年10月4日に作曲者指揮の広響により初演された時も、ウィーン響とのレコーディングの時にも協演していた人だ。彼女にとってこれは、自家薬籠中の作品であろう。

 また終楽章で並河寿美により歌われた詩は、エドマンド・ブランデンが日本で詠んだ「ヒロシマ、1949年8月6日に寄せる歌」というもの。アールトネンが前述の交響曲を作曲したのが偶然にもこの年だったということは、今日の広島を題材にした2つの交響曲同士の、不思議な因縁を感じさせる。

 演奏の前には、能登原さんによるプレトークがあり、アールトネンと、彼の「第2交響曲」の広島初演にまつわる話などが紹介された。「被爆十年後の広島公演をめぐって」という彼女の論文はネットでも読むことができるが、非常に興味深い内容で、大いに参考になる。
 なお井上道義と大阪フィルも、このアールトネンの「第2交響曲」を、来月・12月5日に西宮で、6日に広島の三原で演奏することが決まっている。
 ホテル・グランヴィアに宿泊。ここは新幹線駅直結なので楽だ。
           ⇒モーストリー・クラシック2月号 公演Reviews

2015・11・15(日)内田光子ピアノ・リサイタル

    サントリーホール  7時

 日生劇場でのオペラが5時半に終り、楽屋を訪ねて何人かのアーティストにハローを言い、それからゆっくり出ても、比較的近距離に在るサントリーホールに着くにはちょうどいい時間だ。

 「ドン・ジョヴァンニ」と同様、こちら内田光子のリサイタルも満員の盛況。今日は2回シリーズの演奏会の2日目で、シューベルトの「4つの即興曲 作品142(D935)」と、ベートーヴェンの「ディアベリの主題による33の変奏曲」が演奏された。

 内田光子の演奏は、風格とスケール感をいっそう増している。そして、以前よりもやや端整さをも増したろうか。「即興曲集」ではフレーズごとに、また「変奏曲」では変奏の一つ一つに画然たる構築が為され、音楽に隙というものが全く無い。驚くべきものである。「変奏曲」の後半にはテンポを落し、独特の深い沈潜に没頭する演奏も聴かれたが、どんな場合にも常に厳しい緊張感を溢れさせているのが凄い。

 アンコールは、もちろんなかった。全神経の集中を強いられる演奏2曲、これで充分。

2015・11・15(日)NISSAY OPERA 「ドン・ジョヴァンニ」

    日生劇場  2時

 演出は菅尾友。先頃の東京二期会の「エジプトのジュリオ・チェーザレ」では、かなり奇抜な演出を行なった人だ。このモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でも、かなり趣向を凝らしている。

 全場面を通じて、舞台一杯に設置した大きな、入り組んだ階段を効果的に回転させ(美術・杉山至)、通路を繋いだり食い違いを作ったりする。登場人物たちは、その通路を乗り移ったり、くぐったり、飛び越えたりするといった具合に、頻繁に動く。
 これは、人間模様や相関関係を暗示させるものだろうし、たとえば、第2幕終り近くのアリアで、ドン・オッターヴィオがどんなに焦ってあちこち動いてもドンナ・アンナの傍へたどり着けない━━という場面などでは、非常に効果を上げるだろう。

 ただ、その他の場面では、その意味がさほど具体的に感じ取れるほどではない。騎士長の亡霊が舞台を彷徨している光景も、さほどインパクトが感じられないのが残念だ。ウィーン版から挿入した「ツェルリーナのレポレッロ拷問」の歌のあと、レポレッロが亡霊を見るシーンがあったが、それもあまり意味をなさずに終ってしまった。
 ラストシーンで、ドン・ジョヴァンニ不滅を暗示する演出は、少なからず使われる手法だが、ただしここでは、彼が再び「金」を撒き散らしながら背景の高所を風の如く駆け抜けるという仕組になっている。
 ともあれ、この菅尾友という演出家、これからもいろいろ新規なことをやってくれそうである。期待したい。

 配役と演奏は、ドン・ジョヴァンニを池内響、レポレッロを青山貴、ドンナ・アンナを宮澤直子、ドンナ・エルヴィラを柳原由香、ドン・オッターヴィオを望月哲也、騎士長を峰茂樹、ツェルリーナを鈴木江美、マゼットを金子亮平。合唱がC.ヴィレッジシンガーズ。広上淳一指揮読売日本交響楽団。

 みんな好演だったが、特にタイトル・ロールを歌った若手バリトン、池内響は、伸びの良い声と闊達な演技で、胸のすくような勢いのドン・ジョヴァンニ像を演じた。これを練達の青山貴がレポレッロ役で支えるのだが、このコンビは何か不思議な良い味がある。

 それにしても、日本人歌手も演技としてよく動き、走るようになった。男声歌手も女声歌手も、長い階段を猛烈なスピードで駆け上がり駆け下りる。池内などは階段の手すりを飛び越えたり、地獄堕ちの場面で階段を転げ落ちたりという派手わざを披露していたが、若い人は運動神経があるので、華やかでいいですね。
 だが、歌手たちの中には高い場所で、時には階段の先頭の場所、前に何も無いところで何にも掴まらずに立って歌う場合もあるのだから、高所恐怖症の人は怖かったろう。

 歌手たちの衣装(堂本教子)とメイクもそれなりに凝っていたものらしいが、遠くから見ると、何かゾンビたちが野良着みたいなのを着て動きまくっているような感がしないでもない。

 広上は、オーケストラを明快に、かつ強力に響かせ、特にドン・ジョヴァンニの地獄堕ちの場面では悪魔的に咆哮させて、このオペラが並外れて劇的な要素を持つ作品であることを浮き彫りにしていた。
 しかも、今日は歌手たちの声が消えることは、全くと言っていいほどなかった。これは舞台装置の関係で、歌手たちが高い位置で歌っていた所為もあるだろう。そもそもオペラ上演では、オーケストラがこのくらい雄弁に語らなければダメなのである。劇場の機構さえちゃんとしていれば、オケが鳴っても声は聞こえるものなのだ(先日の東京芸術劇場での例は、例外である)。

 読響もいい演奏をした。どうも当今の東京では、オペラの演奏において、このオケが一番上手いような気がする。
 終演は5時半少し過ぎ。

2015・11・14(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      神奈川県民ホール  6時

 いつもはみなとみらいホールで行われている日本フィルハーモニー交響楽団の横浜定期、今月だけはホールの都合とかで神奈川県民ホールで開催。

 次期首席指揮者インキネンが指揮しての今日は、シベリウスの「歴史的情景」第2番、バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」、チャイコフスキーの「交響曲第5番」。アンコールにシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」。

 このうちバッハの協奏曲は、コンサートマスターの扇谷泰朋とともに、インキネン自らヴァイオリンを弾いての演奏だ。インキネンは、透明清澄な音色で、優雅だが芯の強いソロを聴かせてくれる。普通のオーケストラの定期でこの種の曲が取り上げられるのは意外に稀だろう。一陣の清風、颯々と吹き抜ける、という雰囲気。

 シベリウスは、これはもう2曲とも非の打ちどころない演奏━━シベリウス・マニアの私としては、とにかく至福の瞬間である。ステージの奥から木魂して来るホルン、いつ果てるともなく刻まれる弦のリズム、すべてに陶酔してしまうのだから仕方がない。
 「アンダンテ・フェスティーヴォ」は速めのテンポで━━しかし最近ではこれが普通のようだ━━終結もあっさりした仕上がりだったものの、日本フィルの引き締まった弦の音色が爽やかに拡がり、美しい演奏になっていた。

 予想外だったのは、チャイコフスキーの「5番」の演奏である。冒頭の序奏は、重々しいけれどもすっきりした叙情性にあふれ、かつて見た物憂げな白夜の朝の光景を連想してしまうほどで、なるほどやはりインキネンのチャイコフスキーはこう来るのか━━と一瞬は思ったのだが、いざ主部に入ってみると、驚くほど激しく荒々しく、攻撃的な鋭さを備えた音楽が出現した。端整清澄なチャイコフスキーを予想したのは、こちらの飛んだ認識不足であった。

 第4楽章の第1主題や、第120小節前後の経過句、展開部などでは、ティンパニ(エリック・パケラ)がペーター・ザードロばりのダイナミックな身振りで叩きまくって演奏を盛り上げ(見ていると楽しい)、インキネンの激烈なエネルギーに応える。
 クラリネットの1番(芳賀史徳)も、第1楽章序奏をはじめ、随所で好演してくれた。ホルンの1番は客演だったそうだが、第2楽章の有名なソロなど、正確で上手かったけれどもやや素っ気ない演奏だったのは、インキネンの注文だったのか? 
 その他各ソリもいい演奏を聴かせてくれたが、オーボエは少し粗い。だがインキネンの音楽構築は非常に緻密であり、これに応えた日本フィルも見事だった。
 このコンビはいよいよ快調で、将来に期待をもたせてくれる。

2015・11・13(金)グスターヴォ・ヒメノ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

    サントリーホール 7時

 今回の来日ツアー最終公演。プログラムはチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第2番」と、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」だったが、アンコールが多く、終演は9時40分になった。

 ユジャ・ワンが弾いたのは、シューベルト~リスト編「糸を紡ぐグレートヒェン」、ヴィンセント・ユーマンス~アート・テイタム編「2人でお茶を」、モーツァルト~ヴォロドス~サイ~ユジャ・ワン編「トルコ行進曲」、グルックの「メロディ」。
 一方、オーケストラのアンコールは、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲と、リゲティの「ルーマニア協奏曲(コンチェルト・ロマネスク)」の第4楽章。

 ユジャ・ワンの演奏は、もちろん昨夜と同様、この曲の一種の「躁」的な特徴を爽快なスタイルで表出したものだが、今日の方が、安定度においてはやや上回っていたかもしれない。とにかく、気持のいいほど、若々しい活力を漲らせた演奏である。
 ただしアンコールは━━選曲そのものは実に多彩だったけれども、オーケストラ演奏会でソロ・アンコールを4曲も弾くのは、いくら何でもやり過ぎだ。コンマスがなかなか席を立とうとしないから拍手も延々と続き、彼女も何度も出て来て答礼し、結局「もう1曲弾く」ことになる。とにかく、このアンコールのパートだけで、20分もの時間を要した。

 ヒメノの指揮は、協奏曲では、昨夜は何か無茶苦茶に煽り立てていたような感があったが、今日は少し落ち着いたか。だが総じて彼は、オーケストラの音を彫琢し、声部のバランスを精密につくり上げるテクニックには、まだ不足しているようである。
 また「シェエラザード」では、オケの仲間━━たとえばクラリネットやオーボエの1番奏者がソロを繰り広げる際に、その名人芸を親し気に盛り立てることが先行して、作品全体のバランス構築や劇的展開の呼吸を整えることが二の次になっていた感もあった。それにこの「シェラザード」という作品は、もっと幻想味なり、色彩感なりが全篇に備わっていないと、本来の良さが出て来ないのである。

 いずれにせよ、今回のコンセルトヘボウ管の演奏には、ごくわずかな個所を除いて、われわれが昔からこのオケのイメージとして抱いていたような、しっとりした美音は聞かれなかった。この名門オケでさえ、指揮者によっては「並みのオーケストラ」に一変してしまうという見本か。
 アムステルダムでのルーティンの演奏会でなら、こういう若手が起用されての演奏を聴くのも大いに楽しい。が、われわれが日本でこのオケを聴くとなると、それはやはりスペシャルな機会なのであり、したがって、欧州3大オーケストラの一つにふさわしい、常勝将軍的な演奏を期待してしまう傾向があるだろう。そこが難しいところだ。
         ⇒別稿 音楽の友新年号 演奏会評

2015・11・12(木)グスターヴォ・ヒメノ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

    東京芸術劇場コンサートホール  7時

 チャイコフスキー・プロで、最初に「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはユジャ・ワン)、後半に「悲愴交響曲」。

 なお、ユジャ・ワンが弾いたソロ・アンコールは、スクリャービンの「左手のための小品 作品9の1」とチャイコフスキーの「白鳥の湖」からの「4羽の白鳥の踊り」。
 オーケストラのアンコールは、シューベルトの「ロザムンデ」からのアンダンティーノの間奏曲と、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」。
 盛り沢山の演奏会で、終演は9時半になった。

 ヒメノは先頃、都響などに客演していたはずである。私は予定が合わず聞けなかったが、その演奏の噂はいろいろ耳にしていた。だがともかく、若手指揮者としての彼が、かつて打楽器奏者として在籍していた名門アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管を指揮して、どんな音楽をつくるのか━━という興味は、大いにあった。

 今日の演奏を聴くと、とにかく若さに任せて突っ走るという指揮が良くも悪くも身上で、それをかつての同僚たちが、温かく、楽し気に支えて盛り上げている・・・・という雰囲気は感じられる。だが、それ以上のこと━━つまり彼の音楽の個性が那辺にあるのか、もう少しいろいろ聴いてみないと、私には掴み難い。

 とにかく、今日の演奏では、過去半世紀にわたりレコードで、あるいはナマで聴いて来たあのコンセルトヘボウ管弦楽団とは、信じられぬほどというか、予想通りというか、随分違った音になっていたのはたしかであろう。
 だが「ロザムンデ」の叙情的なアンダンティーノになって、何かしら昔ながらのコンセルトヘボウのしっとりした音色が聞こえて来たような気もした。そういえば、私が昔この曲に初めて出会ってうっとりさせられたのは、夜明けの霧が立ち籠める庭を眺めながら聴いていたラジオから流れて来る。ベイヌム指揮によるコンセルトヘボウ管弦楽団の、品のいい演奏だった・・・・。

 ユジャ・ワンの演奏は、相変わらず天馬空を行く勢いの、壮烈華麗なものだ。
 「1番」でなく「2番」を選んでくれたのが嬉しい。「1番」に比べて格別に優れている曲とは言えないかもしれないが、劣っているわけでもない。が、むしろ率直さと伸びやかさにおいては一日の長があるだろう。主催者も感想を漏らしていたことだが、これは本当にユジャ・ワンにぴったり、という感のある協奏曲である。

 先日気になったこのホールの空調の音、今日は正常に戻っていて、全くノイズは聞こえなかった。

 ところで、これは不愉快な話だが、毎回のように演奏開始ぎりぎりになって大きな荷物を携えて1階最前列の席に入って来る人の行動は、目に余る。
 今夜のように、オーケストラが既にテューニングを始めているにもかかわらず、悠々と当然のようにその前を歩いて席につくなどという態度は、演奏家に対する敬意を著しく欠いているだろう。
 先日のトリフォニーホールでも、メネセスがバッハを弾くために出て来てお辞儀をしているその前を横切って歩いていたが、言語道断、演奏者に対して無礼も甚だしい。猛省を促したい━━といっても、彼がこんなブログを読んでいるわけはないだろうから、ここで何を言おうと詮無いことであろう。見たところ、客席前方に知人もよくいるようだから、だれかまず知り合いの人が注意したら如何なものか。

2015・11・8(日)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィル

      サントリーホール  2時

 Music Partner of NJPのダニエル・ハーディングが指揮。
 前半に名トランペット奏者ホーカン・ハーデンベルガーを迎え、オーストラリアの作曲家ブレット・ディーン(1961年生れ)の「ドラマティス・ペルソネ」(13年)の日本初演。後半にはブルックナーの「第7交響曲」(コールス版、これが日本初演の由)。

 「ドラマティス・ペルソネ」は、解説によれば、3つの楽章はそれぞれ「スーパーヒーローの転落」「独白」「偶発的革命」と題され、ソロ・トランペットが各々のキャラクターを表現する形になっているとのこと。

 第1楽章最初の部分で内声部に現われる金管のパートが何となくメシアン的なので、この楽章はもしや彼への皮肉か・・・・などと早トチリしてしまったほどだが、とにかく分厚く細密で、しかも色彩的な管弦楽法が目立つ作品だ。ハーデンベルガーの多彩な演奏にはいつもながら感嘆のほかはないが、そのソロを囲むオーケストラ全体が極めて雄弁な性格を備えている。
 全曲最後に出現する騒々しい行進曲は、何ともアイロニーに富んで愉快である。最後を締めくくる「鞭の一打」(プログラム解説)は、下手側第1ヴァイオリンの前列最後尾の奏者2人により叩かれたが、もう少し強烈さが欲しいところではあった。

 ブルックナーの「7番」は、不勉強にして最新のコールス版のスコアを未だ見たことがないので詳細は分からないけれど、ハース版とノーヴァク版のみならず、所謂「改訂版」も等閑にしないという姿勢で校訂されたと聞く。
 第1楽章冒頭、第1主題が2度目に登場して確保される個所で、ホルンが一足先に入って来るのを聴けば、あの「改訂版」の存在はもう一目瞭然だ(魅力的ではあるが、これを「正規版」として出していいのかねえ、という気がしないでもない━━「改訂版」にはうさん臭さが付きまとうとの概念で長年聴いて来た者の性かもしれない)。

 その他、ふだん聴き慣れているものとは少し違うところもいくつかあったが、それがハーディングの解釈ゆえかどうかの判別は俄かにつき難く、全てはスコアを見てからのこと。

 この2曲におけるハーディングの指揮の冴えは、彼の近年の成長を物語るものではなかろうか。音楽のスケール、緊張力、複雑な声部の明晰な構築など、何か以前の彼にはなかったような圧倒的な力が加わって来た感じさえある。「ドラマティス・ペルソネ」の行進曲の個所といい、「7番」のコーダ最終個所といい、既に昂揚している音楽を、更にいっそうの力を加え、ぐいと引き上げるその牽引力も見事なものだ。
 今日の新日本フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター・崔文沫)も力感、質感ともに充実した好演。ハーディングとの呼吸も絶好調のよう。

2015・11・7(土)マリア・ジョアン・ピリス&アントニオ・メネセス

      すみだトリフォニーホール  7時

 マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)とアントニオ・メネセス(チェロ)の美しい協演。
 ベートーヴェンの「ピアノとチェロのためのソナタ」の「第2番」と「第3番」が最初と最後に演奏され、その間にベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第32番」と、バッハの「無伴奏チェロ組曲第2番」が置かれるという、バランスのいいプログラム。

 円熟の名手2人の温かい音楽に心を満たされる。ピリスのきりりと引き締まった爽やかな表情の演奏に対し、メネセスは柔らかい音色で丸みのあるイメージの演奏を繰り広げる。この2種の音色がデュオを繰り広げると、聴く位置によっては、メネセスの音が抜けきらず、あまりよく聞き取り難いという状況になるようだ。だが完全にバランスが取れる位置で聴いた時には、まさに至高の瞬間となるのだった。

 あれこれ言うも意味ないほどの良いコンサートだったが━━2人の演奏には、このホールはどうも巨大すぎたのでは。

2015・11・7(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

     サントリーホール  2時

 首席客演指揮者で、次期首席指揮者のインキネンが振る「シベリウス&マーラー」のシリーズの一環。前半にシベリウスの「歴史的情景第1番」と「組曲《ベルシャザールの饗宴》」、後半に「交響曲《大地の歌》」。

 シベリウスのこれらの作品が、ナマで聴ける機会は希少だ。
 《ベルシャザールの饗宴》は、あまりシベリウスらしからぬ東洋的な雰囲気をもった曲で、その中の「夜想曲」を先日フィンランド放送響がアンコールで演奏していたが、今日はその組曲(4曲)全部をナマで聴けたのが嬉しい。あの美しいフルートのソロも好演であった。

 ただし今日のインキネンが指揮したシベリウスは、隈取りの極めて明確な、鋭角的な響きが先行したアプローチというか。音色はやや刺激的で、あまり美しいものではなかった。
 彼がこれまで日本で披露したシベリウス作品の演奏の特徴は、陰翳を豊かに持ったものと、荒々しいエネルギー性を優先したものとに、極端に分かれるようである。その分岐点の基準が何処にあるのか、私には未だつかみきれぬところがある。

 「大地の歌」では、西村悟(テノール)と河野克典(バリトン)が歌った。
 この曲のテノール・ソロのパートは、生の演奏会では強い管弦楽に消されるところが多いため、歌手には非常に損な役回りなのだが、今日の西村の声は比較的よくオケを貫いて聞こえた方だろう。指揮者とオーケストラがきめ細かく配慮すれば、更によく聞こえるのではないかと思われるが━━しかしその責任はやはりマーラー自身にあるだろう。

 一方、普通はアルトが歌うパートを今日はバリトンが歌った。出演を予定していたアルト歌手が出産のため来日不可能になったからだという。
 河野の歌唱そのものは良かったけれども、バリトンの声の音色からして、たとえば全曲最後の「Ewig・・・・ewig…」の個所など、やはり管弦楽の音色と同化してしまい、聞こえにくくなるのではないかという気もする。
 いずれにせよ、ナマの演奏会は、マイクでバランスをとって録音されたレコードとは違う。それゆえ、歌手に責任を押しつけるのは酷というものである。

 インキネンは、叙情的な個所では日本フィル(コンサートマスター・千葉清加)を極めて巧みに美しく響かせたが、最強奏の個所では怒号させ過ぎたような感もある。若い指揮者ゆえに、マーラーの痛切な哀感も肯定的に捉え、闊達に音楽をつくったのかもしれないが、それだけでは必ずしも感動的なものにならぬところが、「大地の歌」の複雑なところだろう。
 日本フィルの演奏は、特に木管群の見事なソロに賛辞を贈りたい。

2015・11・6(金)藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル「二つの田園」

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 創立40周年を迎えている東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の11月定期。
 藤岡幸夫が客演、「二つの《田園》」を指揮した。ベートーヴェンの「交響曲第6番《田園》」と、ヴォーン・ウィリアムズの「交響曲第3番《田園交響曲》」の組み合わせである。面白いプログラミングだ。

 わが国では、エルガーの交響曲は━━もちろんそうたびたびではないが━━演奏される機会も少なくはない。だが同じ英国の大作曲家でも、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲となると、果たして年に何回演奏されるか? 
 全部が全部面白い曲とは言えないかもしれないし、仮にどこかのオケがヴォーン・ウィリアムズの交響曲全9曲ツィクルスなんかをやったとして、果たしてお客さんが来るかどうかわからないけれども、せめそのうちのいくつか、もう少し演奏されてもよさそうなものだ。
 藤岡幸夫は、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲が好きとのことで、関西フィルではいくつか取り上げたと聞くけれど、そうしばしば大阪まで聴きに行くこともできない━━。

 さて、今日の定期。前半の大ベートーヴェンの「田園」の方は、オケもふだん演奏し慣れているだろうし、あるいはそれが裏目に出たか、むしろちょっと荒っぽい感もあった。

 が、ヴォーン・ウィリアムズの方は、なかなか力の入った演奏だった。全4楽章を通じてプレストが出て来るのは第3楽章の一部のみで、その他は「マエストーゾ」や「レント」や「ペザンテ」といった指定ばかり。ベートーヴェンのそれとは「田園」のイメージが全く違い、むしろ憂いに満たされた光景の「田園」という色合いが強い。それは、作曲の経緯からいっても、当然のことだろう。

 藤岡は、その沈んだ美しさの「田園交響曲」を、その本来の曲想を充分に生かしつつ、やや剛直なタッチで指揮し、この作曲家のシンの強い作風を再現していたと思う。シティ・フィルも厚みのある音で好演、コンサートマスターの戸澤哲夫をはじめ、ヴィオラや木管、金管の1番奏者たちも力の入ったソロを聴かせてくれた(わずかな音外しは無視しよう)。
 ソプラノの半田美和子は、第4楽章のヴォカリーズを、3階席上手バルコニーで━━最初は客席内で歌い、終結のそれはドアの外で遠いエコーのように歌い、いずれも美しい効果を上げていた。

 客の入りは相変わらずだが、こういう良い企画のPRを繰り返し、良い演奏を続けて定期会員と当日売りを増やして行くほかはあるまい。

2015・11・5(木)小山実稚恵デビュー30周年記念~秋~

      サントリーホール  7時

 4月18日の「春」に続く「秋」編。協演は、春の大野和士指揮都響から替わって、今回は広上淳一指揮のNHK交響楽団(コンサートマスター 伊藤亮太郎)である。

 プログラムも、あの時はショパンの「ピアノ協奏曲第2番」とラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」だったが、今回はショパンの「1番」とラフマニノフの「2番」となった。
 会場は文字通りの満席。これだけ吸引力を持つ日本人ピアニストは、決して多くはないだろう。

 演奏については、これまでもう何度も書いて来たことだが、見事の一語に尽きる。心より出でて心に入る、という演奏の一例だろう。ショパンでは優しく、ラフマニノフでは豪壮に、いずれも真摯な音楽がつくられる。それは、彼女が30年以上にわたりじっくりと積み上げて来た、作品との全身的な対話なのである。

 アンコールでは、最初に広上との連弾で、ブラームスのワルツが2曲。そういえば春の時にも大野との連弾(「小舟にて」)があったが、今回は広上と・・・・そういう趣向だったらしい。
 その次に、広上指揮するオケが協演しての、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の第18変奏。

 彼女には、花束が聴衆から捧げられ、またN響からも贈られた。
 広上にも聴衆から花束が捧げられ、「ボクに・・・・?」と仰天する広上の姿に温かい笑い声が起きる。
 笑顔を絶やさない彼女に、指揮者も、N響の楽員たちも、満員の聴衆も、最後まで惜しみない拍手を贈る。これほど愛されるピアニストは、そうはいない。

2015・11・4(水)ハンヌ・リントゥ指揮フィンランド放送交響楽団

     サントリーホール  7時

 2013年8月からこのオケの首席指揮者の地位にあるというハンヌ・リントゥ。このコンビの公演は、東京では既に一昨日行われていたが、私が聴いたのは今日が最初である。
 今夜はシベリウス・プロの「名曲編」というべき、「フィンランディア」と、「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは諏訪内晶子)と、「交響曲第2番」。客席はほぼ満員だ。

 リントゥの指揮は、先日の新日本フィルとの演奏の時には、どちらかというと豪快に押しまくるという印象が強かったが、こちらフィンランド放送響の場合には、やはり普段から振り慣れているオケであるせいか、音楽の表情がさらに多彩になる。
 「フィンランディア」では、漸強と漸弱を、スコアで指定されていない個所にも多用し、特に後半のあの有名な主題ではテンポを落してロマンティックに歌い上げた。ただ、何か作為的な粘っこさを感じさせないこともない・・・・。

 協奏曲でも同様、非常に念入りに情感をこめた指揮だ。諏訪内晶子の演奏も、以前他の指揮者との協演で聴いた時には、もっと鋭い力で押して行くものだったように思えるのだが、今日のそれは、指揮者に合わせたのか? 少々持って回ったような演奏に感じられてしまう。それでも、瑞々しくも骨太でスケールの大きな彼女の演奏は、おとなの音楽を感じさせる。くっきりした構成感を失わないのが素晴らしい。

 しかし、リントゥの指揮も、「2番」では一転して、速めのテンポによる壮烈な演奏になった。
 そしてアンコールの「ベルシャザールの饗宴」の第3曲「夜想曲」では、首席フルートの小山裕畿が深々とした圧巻のソロを聴かせた。これは、彼の凱旋公演の趣さえ呈したほどである。

 アンコールの2曲目は「レンミンカイネンの帰郷」で、稀なほどのエネルギッシュな演奏だった。
 だが、この曲の演奏が始まったとたんに、シンバル奏者が慌ててステージに駆け込んで来たり、2番フルート奏者が大急ぎで袖からピッコロを持って走って来て小山に手渡したりと、何ともドタバタ騒ぎの大らかなオケであった。だが、フィンランドからのゲスト・オケとなると、聴衆は不思議に温かく赦してしまう(日本のオケがこんなことをやったら大変だろう)。最後は全員が客席に一礼するという「日本フィル・スタイル」で、客席は大いに沸いた。

 ━━ハンヌ・リントゥの指揮、これまで都響や新日本フィルと行なった演奏では、剛直で毅然とした音楽づくりが大変好いと思っていたのだが、このフィンランド放送響を振った演奏では、何か一種の作為的なものばかりが気になってしまい、あまり共感できぬまま終ってしまったのは・・・・何故だろう?

2015・11・3(火)トゥガン・ソヒエフ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団

     サントリーホール  2時

 今回はこのコンビを、それぞれ異なるホールで計3回聴いたことになる。だがホールの音響の違いもあるために、演奏もそのたびに違ったイメージで立ち現れるのが興味深い。
 今日は、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはユリアンナ・アヴデーエワ)、ブラームスの「交響曲第1番」というプログラム。アンコールは、グリーグの「過ぎし春」と、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲だった。

 この3回とも、1曲目の序曲は、すべて慎重でクソ真面目な演奏になっていて、あまり面白くなかったのが、不思議千万である━━やはり、メインのシンフォニーでの演奏がいい。
 今日のブラームスでも、第1楽章序奏の冒頭、コントラバス群が、まさにスコア指定通りのpesante(重く)で、どっしりと響き出した。久しぶりにブラームスの交響曲を、こういう重く陰翳の濃い音で聴いたような気がする。北国の曇り空を連想させる演奏だ。しかし、全曲大詰の頂点はすこぶるエネルギー感に富んでいた。
 ソヒエフがドイツ音楽のレパートリーにおいてこのオーケストラから引き出す音はやはりこういうものなのだ、ということが、ここでまた確認できたわけである。

 このオケの弦はなかなかの活力を備えているが、それをさらに完璧に生かしたのが、アンコールでの「過ぎし春」だった。これまた北欧の鄙びた、しかし温かい雰囲気を感じさせる。
 「フィガロ」はこれで3回目。16型編成の弦を唸らせた演奏で、巨大な森林が揺らぐような猛烈なモーツァルトだったが、これはこれで一つのありようだろう。

 ソヒエフはこのオケを完全に掌握しているようだが、彼は2017年春で音楽監督を退任するという。後任はロビン・ティチアーティだそうだ。何とまあ、全く正反対の個性を備えた指揮者を迎えるものである。このオケの個性もガラリ異なって来るだろう。

 協奏曲では、アヴデーエワが毅然としたベートーヴェンを聴かせた。ソヒエフと彼女は、春のトゥールーズ・キャピトル国立管との来日公演でも協演していたから、気の合ったコンビなのだろう。彼女の凛然として瑞々しい演奏は、実に魅力的だ。この日、彼女がアンコールで弾いた「雨だれ」の前奏曲では、文字通り客席が息を止めて聴き入った感があった。

2015・11・2(月)大野和士指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 B定期で、指揮は音楽監督・大野和士。
 ラヴェルの「スペイン狂詩曲」に始まり、ワディム・レーピンを迎えてプロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」が演奏され、休憩後には、細川俊夫が都響創立50周年記念委嘱作品として書いた「嵐のあとに」が2人のソプラノ(スザンヌ・エルマーク、イルゼ・エーレンス)をソリストに世界初演され、最後にドビュッシーの「海」が演奏されるというプログラム。

 コンサートマスターも、「スペイン狂詩曲」と「海」では四方恭子が(トップサイドに矢部達哉)、協奏曲と「嵐のあとに」では山本友重が務めるという、すこぶる賑やかな定期だった。
 都響は今月半ばに欧州演奏旅行を控えているし、この演奏会のあとには創立50周年記念のパーティも行なわれ、帰りがけには分厚い「都響50年史」も配布されたほどだから、今年の大イベントだったといってもよかったであろう。

 大野和士と都響━━今日の演奏は、今年4月の就任記念定期における演奏の時よりも、肩の力を抜いた、豊かな拡がりを感じさせるものだった。
 特に「海」は、この数年来、目覚ましく豊麗となった都響の音色を象徴したものであったろう。それはフランス音楽ゆえの音色かもしれないが、すこぶる美しい。大野音楽監督が就任発表記者会見で示した「広角打法」の成功例のひとつと言えようか。「風と海との対話」終結でのシンフォニックな昂揚は、大野と都響との今後の音楽活動を予測させるかのようでさえあった。
 レーピンを迎えたプロコフィエフの協奏曲も、ソロとともに、これまた鮮やかな演奏だった。

 細川の新作「嵐のあとに」は、彼の管弦楽作品の中では比較的珍しい、鋭い荒々しさが前面に出た曲だ。特に前半の部分では、「ヒロシマ・声なき声」でのそれを思わせる金管の咆哮が印象的である。
 私などは、彼の「海からの風」や「回帰」、「空の風景」、「星のない夜」、「旅人」、あるいは不気味な起伏が繰り返される「循環する海」などでのような夢幻的な作風が好きなのだが、━━しかし、「東日本大震災以降、私の音楽は根本的な変貌を遂げようとしている」(プログラム冊子掲載の作曲者のコメント)ということであり、かつてはあれほど美しく描かれていた風や海や自然全体が、すでに姿を変えて立ち現れて来ていることが、その音楽から解る。

 だが、希望は捨てられていない。荒々しい嵐のあとには、2人のソプラノがヘルマン・ヘッセの詩「嵐のあとの花」を歌い、「嵐を体験した花が少しずつ静かな光の世界を取り戻すさまが描かれる」(作曲者)ということになる。以前の「月夜の蓮」における静かな開花よりは、女声が入っているだけあって、もう少し違ったイメージになる。
 彼の作風の「変貌」なるものが、今後どんな作品を生み出して行くのか? 来年早々、ハンブルクで初演される最新作オペラ「静かなる海」もいっそう楽しみである。

 ━━それにしても、その「嵐のあとに」のあとにドビュッシーの「海」が・・・・「波の戯れ」や「風と海との対話」といった音楽が、劇的に、かつ美しく演奏されたのだから、皮肉というか、あるいはプログラミングの妙というか。
     別稿 モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

2015・11・2(月)METライブビューイング「イル・トロヴァトーレ」

     東劇  午前11時

 新シーズン第1弾、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」は、10月3日MET上演のライヴ映像。
 アンナ・ネトレプコ(レオノーラ)、ディミトリ・ホヴォロストフスキー(ルーナ伯爵)、ヨンフン・リー(マンリーコ)、ドローラ・ザジック(アズチェーナ)、ステファン・コツァン(フェルランド)他、という配役に、デイヴィッド・マクヴィカー演出、マルコ・アルミリアート指揮。

 これは、新演出ではなく、2010~11年シーズンにも上演されていたものだ(11年6月3日に東劇で観た)。回り舞台を使った見栄えのいいプロダクションである。

 今回はやはりアンナ・ネトレプコが大変な人気だ。夏のザルツブルク音楽祭でのプロダクション(アルヴィス・ヘルマニス演出)のように絵画美術館のスタッフとして眼鏡をかけて出て来るようなものとは違い、あくまでセミ・トラディショナルなスタイルのヒロインである。
 あの時にも感じたことでもあるが、彼女は本当に歌唱が巧くなった。一頃は、「オペラ女優」と言われるほど演技力はずば抜けているものの、歌唱表現が今一つ単調で・・・・という人だったが、今は全然違う。文字通りの大ソプラノである。

 ヨンフン・リー(韓国出身)は、私が前回観たのは、2011年のMET来日公演での「ドン・カルロ」の題名役だった。あの時は、大震災と原発事故の風評でカウフマンが来られなくなった時の代役として来日したためもあり、われわれのイメージも今一つだったけれども、今や歌も演技も、飛躍的に素晴らしくなっている。
 ドローラ・ザジックはもう定評がある。ちょっと怪奇なメークで凄味を出す。

 ホヴォロストフスキー(ライブビューイングでの松竹の表記はこうなった)が夏に脳腫瘍を公表したというのは、私は迂闊にして知らなかったが、これは本当に心配だ。詳細は不明ながら、もう良くなったと本人がインタヴューで語っていたから・・・・。とにかく、大事ないことを祈る。この日の上演でも、彼が最初に登場した瞬間に割れんばかりの拍手が巻き起こり、演奏もストップしてしまったほどだったのは、観客も彼の病のことを知っていたからだろう。
 演技はいつものように風格充分、威風辺りを払うものだったが、声の方はしかし、全盛期の彼のそれとは、気のせいか、やはり少し違う。心配になる。第4幕でのネトレプコとの二重唱の時に彼の声が一部マイクを通したようなこもった音色になってしまったのは、何かあったのか?

2015・11・1(日)ジョワ・ド・ヴィーヴル 第2部「希望と愛」

      東京芸術劇場コンサートホール  5時30分

 第2部は定石通り、オーソドックスなコンサート・スタイルである。これもすべて鈴木優人が指揮した。

 前半が「芸劇ウインド・オーケストラ」(2014年9月新設)の演奏だったのは、ホールとしても当然の企画だろう。演奏されたのは、小出雅子の新作、「ウィンド・アンサンブルのための《玉虫ノスタルジア》」(バリトン・サクソフォン版の世界初演)と、アールズ編曲によるストラヴィンスキーの「火の鳥」吹奏楽版。
 私は吹奏楽に関しては暗いから、ただ楽しんだ。ただ、どちらかと言えば、前者の新作の方が新鮮な感覚があって、面白かった(何人かの知人もそう言っていた)。

 後半は、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」だった。東京交響楽団が演奏、児玉桃(ピアノ)と原田節(オンド・マルトゥノ)が協演した。
 記念演奏会の類で、こういう近・現代の大交響曲を取り上げること自体は、非常に良い。なにかというと「第9」だの「復活」だのを取り上げる当節、それは極めて新鮮な企画センスである。
 ただしかし、━━天下の難曲をもって鳴るこの「トゥーランガリラ交響曲」が、この若手指揮者に合っていたかどうかは、また別の問題だろう。

 ゆったりと(テンポが、という意味ではない)押して行く印象を与える彼の指揮では、第4,6、9楽章などにおけるように、大らかな美しさを生んでいるところもあったのはたしかだ。だが、全10楽章を通しての起伏や、緊張と弛緩との対比による構築などという点になると、どうも今回の演奏は、成功とは言い難かったのである。

 もっともその反面、かなり自主性を発揮して演奏したであろう東響(コンサートマスター・水谷晃)の音はいつになく伸び伸びとして豊満で、特に金管群の音色の豊かさは滅多に聞けない類のものだった。児玉桃も楽々と弾いていた(というように見えた)。原田節のオンド・マルトゥノも、いつもより大きな音量で鳴り渡っていたように感じられた。
 指揮者にあまり締め付けられない時の方が、いい演奏を生む場合も稀にはあるようで━━。

 終演は8時半近くだったか? 客席には若い人たちが多く見られたが、それが吹奏楽関係のお客さんだったとしても、彼らが「トゥーランガリラ交響曲」にどんな印象を得たか、訊いてみたいところだった。先年、札響がこの曲を定期で取り上げた時、若いカップルがホールを出る時に「チョー面白かった」と言い合っているのを小耳に挟んだこともあるので・・・・。

 それとは話が別だが、このコンサートホール、このところ急に空調の音が大きくなったように思えるのだけれども・・・・。

2015・11・1(日)ジョワ・ド・ヴィーヴル 第1部「祈り」

    東京芸術劇場コンサートホール  3時

 東京芸術劇場の開館25周年記念として企画されたコンサート。「ジョワ・ド・ヴィーヴル」とは「生きる喜び」という意味。

 今回は若手の注目株、鈴木優人がアーティスティック・ディレクターとして采配を振り、自ら指揮し、ポジティフ・オルガンを弾く、という八面六臂の活躍を示した。彼はプログラム冊子の冒頭にも━━食材も調理法も今までにまったくないコンセプトで・・・・オードブルが「祈り」、お魚が「希望」、お肉が「愛」で、といったような挨拶を自ら書くという洒落っ気ぶりである。

 ホールの「何とか記念」というと、普通は上層部のハンコをたくさん捺したような、公共性を重んじたようなお堅い(?)雰囲気の企画が多いものだが、今回のようにフレッシュな若手音楽家一人に企画と構成を任せ(もちろんホールの事業担当との協同作業にはなろうが)、その個性で全体をまとめ上げるというイメージの試みは、非常に有意義で面白い。
 放送にしても雑誌にしても、新聞にしても、大きな組織でなく、1人のプロデューサーなり編集者なりが責任を持ち、独自の個性に基づいて企画を展開するという方法を採るシステムが、一番面白くなるのである(アメリカのFM局にもこの形態を採るものが多い)。
 しかも今回のこの企画が、私立のホールでなく、なんと「東京都」の生活文化局に属する東京芸術劇場で行われたというのも、これまた興味深い。

 さてその演奏会だが、第1部は「人の声と、3種類のオルガン、そしてダンサーの身体が形成する『祈り』の空間」(プログラム冊子による)というコンセプトで、全14曲がほぼ1時間、切れ目なしに演奏されるという内容だった。グリニー、ギョーム・ド・マショー、リゲティ、ペルト、アラン、モーツァルト、バッハ、スウェーリンク、ラングなどの作品に、鈴木優人の自作や即興演奏を織り交ぜるというプログラムである。

 鈴木は舞台上でポジティフ・オルガンを弾きつつ指揮をし、それを時には円形に取り囲むように立つバッハ・コレギウム・ジャパンの合唱が、薄明の光の下で素晴らしく清澄な、深々としたハーモニーを聴かせる。終結近く、デイヴィッド・ラングの「愛は強いから」での、無限に反復される音型(バス)の上に木魂する女声のフレーズでは、陶酔的な感覚に引き込まれた。

 上方のオルガン席では石丸由佳が演奏し、しかもこの劇場の売りものである2種のオルガンを反転させるデモンストレーションまで織り込まれる(転回の際にガタピシとノイズが少し混じるのが問題だが)。
 そして、ダンサーの小尻健太が視覚に彩りを添える。合唱の際に字幕が投映されたのも、歌詞の内容を理解するのに役立っていた。

 照明演出を加えて舞台に変化を出した1時間、ダンスを交えつつ切れ目なく続いた演奏は、実にユニークで見事な企画であった。演奏内容の点でも、大成功と言えるだろう。

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