2017-03

2015・10・31(土)イルジー・ビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィル

      サントリーホール  6時

 スメタナの「モルダウ」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはダニール・トリフォノフ)、チャイコフスキーの「交響曲第5番」。相も変わらず判で押したような、同じような「名曲」ばかり━━。
 とはいうものの、演奏そのものは、非常にいい。特に自国のチェコものは、文句のつけようのない素晴らしさだ。

 「モルダウ」など、弦の豊かに波打つ厚みのある響きが、なんとも見事である。眼を閉じて聴いていると、月光の下に煌めく美しい流れ、渦巻きつつ岩を噛む激浪の大河といった、この交響詩に描かれている標題通りの光景が瞼に浮かんで来るよう。
 それにアンコールで演奏されたスメタナの「売られた花嫁」序曲と、オスカル・ネトバルの「悲しみのワルツ」の美しさも、特筆すべきものだ。弦のしっとりした豊かな柔らかい音色が、これらの作品にこめられたヒューマンな情感を余すところなく再現してくれる。

 こういった演奏を聴いていると、ビエロフラーヴェクのもとでチェコ・フィルは、紛れもなく往年の━━ターリヒはレコードでしか聴いていないけれども、少なくとも1950~70年代のアンチェル、ノイマン、コシュラーといったような指揮者たちの時代の━━瑞々しいアンサンブルと音色を取り戻しているように感じられる。かつて一世を風靡した「チェコの弦」が、今や完全に甦っているようだ。

 もっとも、チャイコフスキーの「5番」の方は、その強力な弦をさらに強くぴりぴりと弾かせる手法が、何か一種の押しつけがましさを感じさせて、どうも馴染めなかった。もちろん悪い演奏ではないし、音色だけでどうこう言うのではもちろん無いけれども、この「5番」は、しっとりと瑞々しいことは事実だが、翳りに乏しい。

 ラフマニノフの「2番」を弾いたのは、トリフォノフ。演奏も舞台上の挙止も、若々しくて爽快だ。ファツィオリのピアノの澄んだ音色を駆使して、ひたむきな情熱を華麗に噴出させる。素晴らしい魅力を備えた若手ピアニストだ。
 ただ今日は、2階席正面で聴く限りでは、最強奏のテュッティがやたら多い第1楽章ではピアノがオーケストラにマスクされ、ほとんどと言っていいほど聞こえなかった(1階席では聞こえたという)。
 もともと彼のピアノはいわゆる豪快な音ではなく、どちらかと言えば清楚なフレッシュさが売り物だから、これは指揮者に責任があるだろう。だが第2楽章と第3楽章、それにソロ・アンコールでのメトネルの「忘れられた調べ」からの「回想的に」では、彼の清新な音楽の本領が発揮されていた。

 終演は8時35分という長丁場。

2015・10・31(土)福井敬スペシャル・リサイタル

    浜離宮朝日ホール  2時

 熱烈なファンに囲まれた温かい雰囲気のコンサート。満員の聴衆の半分以上は女性だろう。谷池重紬子のピアノとの協演で、前半に山田耕筰、越谷達之助、平井康三郎、中田喜直、木下牧子、武満徹の日本歌曲計9曲。後半に砂川涼子をゲストに迎えて「トスカ」と「オテロ」から各4曲ずつ。アンコールは「乾杯の歌」。

 よく響くこのホールの空気を、さらにびりびりと震わせる強靭な福井の声。どちらかといえばやはりドラマティックかつ悲劇的な曲の方に、彼の凄味が出る。たとえば日本歌曲の中では、武満徹の「死んだ男の残したものは」がそれである。後半のオペラ・プロにおけるカヴァラドッシとオテロはともに優れていたが、今日のプログラミングとしては、歌の性格からして、カヴァラドッシの方が客に受けただろう。

 共演の砂川涼子がまた見事で、「オテロ」の「柳の歌~アヴェ・マリア」も、すでに先日の舞台で歌っていたこともあって感情豊かだった。何でも「トスカ」は初めてだったそうだが、昨年の「死の都」のマリー&マリエッタ同様、彼女の芸域が目覚ましく広がりつつあるのを聴くのは嬉しい。

2015・10・30(金)トゥガン・ソヒエフ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  7時

 シューベルトの「ロザムンデ」序曲、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」(ソリストは神尾真由子)、ベートーヴェンの「交響曲第7番」というプログラム。

 東京文化会館大ホールに比べ残響の長い、よく響くこのホールで聴くと、オーケストラの音色もガラリ違い、余韻と膨らみと重量感がいっそう出る。
 特に低音域の動きに力感が加わるので、「7番」第1楽章と第4楽章のそれぞれ終結部にあるオスティナートも、存在感を以って響いて来るというわけだ。

 今日の「7番」の演奏は、3日前の来日直後の演奏会におけるそれとは違って、見違えるような集中力を感じさせた。やはりあの時は、旅疲れでもしていたのだろうか? いわゆるドイツのオケの音としてわれわれが昔から抱いていたイメージ━━重低音に支えられた芯の強い響きがこのオケに甦っている。マゼールやシャイーやアシュケナージがシェフを務めていた時代には影を潜めていたその音色である。

 ソヒエフは、トゥールーズ・キャピトル国立管を指揮している時もそうだが、そのオケの国のレパートリーを手がける時には、そのお国柄に合わせることが多い。今回のベートーヴェンもその例に入るだろう。
 「7番」第1楽章など、やや遅いテンポを採り、このオケのたっぷりした音を楽しむかのようだ。音色を美しく彫琢することにはさほど興味がないらしいが、内声部を明晰に交錯させ、管弦楽法をいっそう精妙に浮き彫りすることには細心の注意を払っているようである。フレーズの表情づけも、結構細かい。
 これは、「ロザムンデ」序曲の中でも聞かれた特徴である。

 アンコールでは、今日も「フィガロの結婚」序曲が取り上げられたが、これは先日と同じ、大編成のオケを沸騰させたスタイルで、最終個所などは弦楽器群に雪崩のような勢いを持たせた演奏だった。

 メンデルスゾーンの協奏曲での神尾真由子の演奏は不思議な弾き方で、些か納得の行きかねるところがないでもない。冒頭の演奏の不安定さには何か別の理由があったのかもしれないけれども、最初の小節からずっと続いた非常に癖のある音色とフレーズのつくり方は、あまりにも作為的にすぎないだろうか? 
 彼女の演奏は、チャイコフスキー国際コンクール優勝後もかなり数多く聴いて来たが、何かだんだん「物凄く」(?)なって来たような印象を受ける。プロコフィエフや、ショスタコーヴィチや、チャイコフスキーなどの協奏曲を聴いた時には、その強烈な感情移入、癖の強い音色と牙をむくような音楽の構築などがある種の個性を打ち出しているように感じられたが、メンデルスゾーンの協奏曲の場合には、それは少し強引過ぎるのではないか。

 こういうメンデルスゾーンが新鮮で大胆で、伝統破壊的で面白い━━という感じ方もあるだろうが、今の私にはそこまで踏み切れる自信がない。
 ソロ・アンコールでは、シューベルト~エルンスト編の「魔王」を演奏したが、これにもその特徴がいっそう強く現われていた。「Mein Vater! mein Vater!」という子供の絶叫の個所で、今日の彼女の演奏の総決算が成ったようである。
     別稿  音楽の友12月号 演奏会評

2015・10・29(木)ピリスの「パルティトゥーラ・プロジェクト」

     すみだトリフォニーホール  7時

 名ピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスが主宰する、若い世代の演奏家とのコラボレーション。
 ベートーヴェンのピアノ協奏曲を核とした2回シリーズで開催され、今日はその2日目だった。協演はオーギュスタン・デュメイが指揮する新日本フィル。
 なお初日は27日に、ジュリアン・リベールが弾く「第1番」、ナタナエル・グーアンが弾く「第2番」、ピリスが弾く「第3番」━━というプログラムで行なわれている。

 今日は、ピリスが弾く「第4番」、小林海都(かいと)が弾く「第5番《皇帝》」がメインだったが、それに先立ち、デュメイ自身が弾き振りするベートーヴェンの「ロマンス」2曲が演奏された。デュメイが「第1番ト長調」を磊落に、「第2番ヘ長調」をしっとりと弾いたのは、たまたまそうなったのか、それとも2曲を対照的に設計しようという意図だったか。西江辰郎をコンサートマスターとする新日本フィルが、両曲でそのデュメイの音色にそれぞれぴったり合わせた響きを出してみせるのには感心した。

 ピリスの演奏は、相変わらず心に迫る。ベートーヴェンを弾く時には、陰翳の濃い音色と骨太で強靭なデュナミークを利かせるのが印象的である。「4番」だけでなく、ソロも聴きたくなるような気分だったが、━━7日にはメネセスとのデュオ・リサイタルがあり、そこではベートーヴェンの第32番のソナタを弾いてくれるはずだから、期待しよう。

 「皇帝」を弾いた小林海都という、今年20歳になる若手は初めて聴いたが、エスプレッシオーネもアゴーギグもなく、ただイン・テンポで音符をなぞるだけの無表情な、機械的な演奏だったのには落胆した。ヤマハ・マスタークラスに在籍したというが、誰がこんな教え方をしたのか? 2年前の東京音楽コンクールで2位になったとは信じられぬ。音楽への取り組み方を、もっと根本的に考えた方がいい。第3楽章では、僅かながらしなやかさと表情が演奏に甦って来てはいたが。

2015・10・27(火)トゥガン・ソヒエフ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 都民劇場の公演。ベートーヴェン・プロで、「エグモント」序曲と、交響曲の「第7番」と「第3番《英雄》」。
 7番と3番を一緒にやるコンサートというのは、あまりないのではないか。

 ところが今日の「序曲」と「7番」の演奏は、不思議なことに、表情がほとんど無い、無機的な演奏に終始した。私のご贔屓指揮者たるソヒエフとは思えないような指揮で━━もしや彼はドイツの交響曲を、ドイツのオケ相手に指揮する時にはこんな風に遠慮してしまうのか、と失望。オーケストラも何となく冴えず、木管にも不安定さが聞かれる。こんなものではなかったはず、と、すっかり落胆してしまったのが第1部。

 だが休憩後の「英雄」では一転して、ソヒエフらしい鋭敏な感性が噴き出して来た。特にテンポを動かしたり、誇張してみせたりするわけではないが、内声部が精緻な織物のように明晰に交錯して、ベートーヴェンの精妙な管弦楽法が見事に浮き彫りにされ、実に多彩な音が響き渡る。スコアに指定されたデュナミークの鋭い対比、ベートーヴェン特有のアクセントの強い音楽が忠実に再現され、ギザギザした緊張感を生み出す。
 これほど面白い「第3交響曲」の演奏を聴いたのは久しぶりのような気がする。ソヒエフとベルリン・ドイツ響の、端倪すべからざる実力を垣間見た感だ。

 アンコールで演奏したモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲もその流れの中にあり、流麗さを排して、このドラマの革命的な性格を強調して描くような演奏になっていた。これがソヒエフの真骨頂だろう。彼らの演奏は、あと2回聴くことになっているが、期待感が沸いて来る。

2015・10・25(日)名古屋二期会 中田直宏:オペラ「宗春」

     愛知県芸術劇場大ホール  2時

 麻創けい子の台本、中田直宏の作曲による創作オペラ「宗春」(全3幕)の2日目。矢澤定明指揮名古屋二期会オペラ管弦楽団と合唱団、西川右近の演出、西川文紀の振付。

 「宗春」とはもちろん、8代将軍吉宗と激しく対立した尾張藩7代藩主・徳川宗春のことである(大河ドラマ「吉宗」では中井貴一が演じた役だ)。吉宗の緊縮財政策に反発し、規制緩和による経済振興を主張して、華やかな商業政策を繰り広げた藩主として知られている。昨年が彼の没後250年にあたっていたという。
 名古屋では地元の殿様として大いに人気があるそうで━━プログラムと一緒に配布されたチラシの中に、「徳川宗春公を大河ドラマに」という署名運動の用紙(NPO法人 宗春ロマン隊主宰)が入っていたのには、何となく驚き、感心した次第である。

 登場人物は非常に多いが、今日の主な配役は、宗春を井原義則、側室・春日野をやまもと かよ、義直の亡霊を安田健、家老・織部を小出隆雄、からくり人形師・庄兵衛を灰塚弘、吉宗を塚本仲彦、その隠密「影の者」を小坂井直美、といった人たちだった。

 これは、今年が創立45周年にあたる名古屋二期会が記念公演作品として委嘱したもので、文字通り同二期会が総力を挙げたプロダクションと言えよう。「愛知芸文フェス」の一環でもある。舞台美術(志水良成)もなかなか手の混んだ日本調で、照明(古川靖)と併せて結構立派なつくりだ。

 だが惜しむらくは━━台本と音楽が、極度に冗長過ぎるのである。
 物語の進行のテンポの遅さは、台本のせいもあるだろう。心中する男女の場面に時間を割き過ぎたり、吉宗の言葉をあとで「影の者」にそっくり繰り返させたりするのも、焦点をぼかせ、冗長さを生む一因だ。音楽についても、その「影の者」が苦悩する場面で何度も長い「間」を取る、という手法も緊張感を失わせる。「緩徐で沈潜」した部分は、「急速で昂揚」した部分との対比があってこそ生きるものなのだ・・・・。

 何より、音楽が平板で、歌詞の流れと含めて「ぶつ切れ」になる傾向があり、しかも各幕に音楽的な「山場」がなく、ただ同じような感じで進んで行く構成なのが、冗長さを感じさせる最大の原因ではなかろうか。私の左隣に座っていた熟年の客(エライ人?)が、第2幕が終った時に、「長いな」と、その隣の人と嘆息していた。
 日本の踊りを入れるのはもちろん良いが、オペラ全体の音楽に何ら新鮮味が感じられないのでは、その民族的感覚も、単なる景気づけのレベルに堕ちてしまう。

 その他、吉宗を単なる権力志向の悪役にしてしまっては、宗春の国家的な「崇高な信念」の意味までがぼやけ、ただの気紛れな藩主といった安っぽい存在に堕してしまうではないか━━という感想などもあるのだけれども、・・・・しかし、私ごときがこんなところで何を息巻こうと役に立つまいから、もう止める。でも、名古屋二期会の折角の45周年記念特別企画なのに残念だった、とは思う。

 15分と20分の各休憩を含め、終演は5時20分。演奏時間は正味2時間45分ということになる。

2015・10・24(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      サントリーホール  2時

 ラザレフの指揮を聴いて、作品の新しい視点を教えられたことは、これまでにもしばしばあった。先年のラフマニノフの「第1交響曲」の演奏などもその好例だったが、今回のショスタコーヴィチの「第9交響曲」の演奏も、大いに納得できるものだった。

 つまりラザレフの指揮は、この曲の軽妙洒脱な作風とか、ベートーヴェン以来の所謂「第9」という特別なイメージにスッポラカシを食わせて当時のソ連当局を激怒させたとかいった「軽い」イメージを、根本的に覆すスタイルなのである。
 そこには、重厚で激烈で、いい意味での凶暴さとグロテスクな躍動があふれる。音楽は猛烈果敢で、激情的なアイロニーを感じさせるものになる。これを聴くと、この「第9」は、ショスタコーヴィチが奇妙な作風の転換を行なったものでは決してなく、まさに「第8交響曲」の延長線上に位置する交響曲だということが解る。

 その前に演奏されたチャイコフスキーの「ロメオとジュリエットの二重唱」が、これまた実に珍しい作品だった。彼はこの曲の「下書きを完成していた」(森田稔氏の解説文による)が、直後に急逝してしまったため、セルゲイ・タネーエフが管弦楽配置を行なったという。
 面白いのは、チャイコフスキーの旧作の幻想序曲「ロメオとジュリエット」の序奏が冒頭に使用され、その後も二重唱の中に同序曲の「愛の場面」の部分が随所に現れ、まさしくオペラ的な雰囲気を醸し出していることだ。しかもそれが、すこぶる美しい。
 こんな珍しい曲は、二度と聴ける機会はないかもしれない。この日は、大槻孝志(ロメオ)、黒澤麻美(ジュリエット)、原彩子(乳母)の3人が歌った。

 そして、プログラムの最初に演奏されたのは、ストラヴィンスキーの「妖精の口づけ」。ショスタコーヴィチの「第9」の激烈な狂乱との対照を為す位置付けというべき、整然とした構築の演奏で、当然ながらこの作曲家の新古典主義作風を浮き彫りにした指揮だった。もちろんラザレフの指揮だから、冷徹明晰な20世紀の現代音楽としての色合いでなく、もっと濃厚な色彩の、層の厚い響きのものになっていたことは言うまでもない。
 チャイコフスキーへのオマージュともいうべき意味合いのこの曲を冒頭に置くあたり、プログラミングの巧さが光る。

 それにしても、日本フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスターは木野雅之)の演奏は鮮やかなものだった。「妖精の口づけ」での均衡の豊かな演奏もさることながら、「9番」での奔放な躍動、怒号しつつもバランスを失わぬ最強奏は、実に見事なものである。第3楽章終り近くのファゴットの長いモノローグも緊迫感にあふれていた。
 ラザレフと日本フィルのロシアものには優れた演奏が多いが、ここにまた一つ特筆すべき快演が刻まれたことは間違いない。
         ⇒別稿 音楽の友12月号 演奏会評

2015・10・23(金)カルミニョーラ&ヴェニス・バロック・オーケストラ

     トッパンホール  7時

 名手ジュリアーノ・カルミニョーラとヴェニス・バロック・オーケストラの顔合わせ。最高の演奏会である。

 プログラムは、ジェミニアーニの「コレッリの《ラ・フォリア》による合奏協奏曲ニ短調」に始まり、その次からカルミニョーラが参加して、ヴィヴァルディの「ホ短調RV277」、バッハの「ホ長調BWV1042」、同「ト短調BWV1056」、同「イ短調BWV1041」、ヴィヴァルディの「ニ短調RV208」という具合。アンコールも数曲演奏されるという盛沢山な、豪華なコンサートだった。

 このホールのキャパシティは、バロック・オーケストラとはよく合う。とはいうものの、ヴェニス・バロックの凄まじいパワーは、ホールを揺るがせるほどである。それは音量の点だけでない。このオケが持つ底知れぬ力、疾風怒濤の推進性にあふれた音楽のなせる業なのだ。

 カルミニョーラのソロもディスクで聴くよりも更に荒々しく激烈だが、これに14人のオーケストラ(リュートとチェンバロ各1を含む)が呼応して燃え上がる。それらを間近で聴くのだから、圧倒されるのも当然といえよう。だがそれが決して刺激的な音色にならず、常に瑞々しい息づかいを感じさせるところが、彼らの素晴らしさである。
 そしてまた、彼らがヴィヴァルディの作品とバッハの作品とに、如何に大きなソノリティの違いを与えているか。これもやはりナマで聴くと、明瞭に解る。

2015・10・22(木)野田秀樹演出「フィガロの結婚」~庭師は見た!~

     東京芸術劇場  6時30分

 野田秀樹が演出、井上道義が指揮するプロダクション。6月17日にミューザ川崎シンフォニーホールで観たのと同一のものである。

 全国10都市で計14公演を行なうという大企画で、今日から「秋の陣」に入る。東京芸術劇場での公演は3回、今日の「追加公演」が「初日」となった。東京のあとは山形、名取、宮崎、熊本と続くことになっている。

 内容は、ラストシーンなど細かいところがいくつか手直しされたようにも思えるが、基本的には変わっていない。「庭師は見た!」という物々しいサブ・タイトルの意味がどれだけ実際に生かされていたのか━━という問題は前回にあれこれ書いたし、今回も印象は全く同じだから、繰り返すのはやめる。

 ただし今回は演奏者の一部が替わり、バルト郎(バルトロ)を妻屋秀和が歌った。また、井上道義が指揮するオーケストラも、今回は読売日本交響楽団(コンサートマスターは日下紗矢子)になった。
 舞台最前面、前方客席をつぶして配置されたこの読響、さすがに馬力充分で、鳴ること、鳴ること。井上道義も、特にクライマックスの個所では、ここを先途とオーケストラを煽る。おかげで、モーツァルトの多彩な管弦楽法が満喫できたことはたしかだが━━その代り、1階席ではどうか知らないが、2階席正面で聴いた範囲でいえば、そのオーケストラに舞台上の歌手たちの声がマスクされ、ほとんど明確には聞こえなかった。

 これは、このホールの、よく響く音響特性によるところも大きいだろう(ミューザ川崎シンフォニーホールでは、声楽パートはもっとはっきりと聞こえていたのだ)。
 だが、このホールでオペラをやればこういう音になることは、これまでのさまざまな上演例で、だれもが予想できたはず。にもかかわらず、その対策が充分に講じられていなかったというのは、甚だ面妖なことである。
 したがって、今日の「好評による追加公演」は、結果的には、いわば公開ゲネプロのような出来だったというべきか。歌手たちのアンサンブルについても、同様のことが言えよう。残る2回の公演(24日、25日)で、どういう方法が講じられるか、といったところだ。

 9時55分終演。

2015・10・20(火)ペーター・ダイクストラ指揮スウェーデン放送合唱団

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 バッハの「主に向かいて新しき歌をうたえ」、ペルトの「トリオディオン」、シェーンベルクの「地には平和を」、ブラームスの「祝辞と格言」、マルタンの「二重合唱のためのミサ曲」が演奏された。

 彼らの合唱を日本で聴くのは2010年、2012年に次いでこれが3度目だと思うが、前回に比して随分雰囲気が変わったのではないかという気がする。あの驚異的に透明で、無限の空間に拡がって行くような浄化された音色が、今回はほとんど聞かれず、アンサンブルの緻密度も含めて、不思議にラフな感になった。
 作品の性格にも因るのではないかとも思われたが、しかし十八番のペルトの作品においても、何だか以前とは違う。ソプラノの最高音など━━かつてはあんな声は出さなかったはずだが・・・・。今回は臨時のメンバーか?

 アンコールで指揮者なしで歌った「ジェリコの戦い」などは確かに上手かったけれども、そういう歌を巧く歌える合唱団は他にもたくさんあるわけで、私がこのスウェーデン放送合唱団に期待していたものは、ちょっと違う。

2015・10・17(土)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 首席客演指揮者ウルバンスキと東京響の演奏はこれまでいくつも聴いたが、そのたびに私は新鮮な面白さを味わって来た。

 1曲目のブラームスの「悲劇的序曲」は猛烈に遅いテンポで進められた。いつだったかブラームスの「第2交響曲」第1楽章でも、このような超遅テンポに驚かされたことがある。
 だがそれは、決して重苦しいものではない。それどころか、その遅いテンポの中に、驚くほど精妙精密な音が繰り広げられる。音楽全体がゆったりと息づくように絶えず揺れ動き続けるのだが、重心が厳然と定まっているために、少しも不安定な印象は受けない。明晰でありながら濃い翳りに満ちた音色は素晴らしく、これはガリガリとした弾き方を排した弦の音色のせいか。
 実にユニークなブラームスであった。

 2曲目は、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番」。ボストン生れのステファン・ジャッキーヴ(30歳)の、細身の張りつめた、しかも瑞々しい音色の美しさは、これまた驚くべきものだ。しかもこれに合わせるウルバンスキと東響(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)の呼吸の、何と絶妙なこと! 

 最後がストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲(1945年版)だったが、ウルバンスキの鋭角的で個性的な音響構築のために、この版がいっそうシャープに響く。1番オーボエの骨太な音色がひときわ映えた。

 ウルバンスキは、今回も非常に主張の強い指揮で端倪すべからざる個性を示した。何とも面白い指揮者である。東響は、彼を断じて手離すべきではない。
 桂冠指揮者スダーン、音楽監督ノット、首席客演指揮者ウルバンスキ━━東響が擁するこの3人の外国人指揮者は、ある意味で共通する個性を備えているが、もし今後もこういった指揮者たちのもとで演奏を続けるなら、東響は凄いオーケストラになるだろう。

2015・10・17(土)三ツ橋敬子指揮東京シティ・フィル

     ティアラこうとう大ホール  2時

 プッチーニの「弦楽四重奏のための《菊》」と大曲「グローリア・ミサ」、その2曲の間にヴェルディの「弦楽四重奏曲ホ短調」(ヘルマン編曲による弦楽合奏版)、という極めてユニークなプログラム。これは三ツ橋敬子自身による選曲だというが、いい企画だ。
 コンサートマスターは戸澤哲夫、協演は東京シティ・フィル・コーア、与儀巧(T)、与那城敬(Br)。

 「グローリア・ミサ」は若書きの作品で、いわゆるプッチーニ節はほんのわずかしか聞かれない。美しくはあるけれども、未だ先人たちの影響が色濃く、彼らしい個性は表れていないといった曲だ。最後の「アニュス・デイ」の幕切れがあっけないのには面食らうが、ナマで聴くこの曲は、演奏者たちの好演のおかげもあって、なかなかに壮大な趣があった。

 シティ・フィルも、さすがにこの本拠地のホール「ティアラこうとう」のアコースティックを手の内に入れているようで、厚みと重量感のある良い音を聴かせる。
 惜しむらくは、ユニークなプロのためか、客の入りがあまりよろしくない。こういうプログラムは、俗受けはしないけれども、好きなファンはいるはず。ルーティンの演奏会として粛々とやるのもいいけれども、もう少しターゲットを定めたPRをしたら如何なものかしらん・・・・。

2015・10・15(木)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

       サントリーホール  7時

 パーヴォ・ヤルヴィ首席指揮者就任記念の一連の定期、今日はB定期。
 R・シュトラウス・プロで、前半に「ドン・キホーテ」、後半に「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」および「ばらの騎士」組曲という組み合わせ。

 「ドン・キホーテ」では、主人公を表わすチェロのソロを弾いたトルルス・モルクが、例のごとく節度を保ったアプローチなので、何となく生真面目で瞑想的なドン・キホーテ像になった。もっとも、パーヴォの指揮も意外にシリアスな音楽づくりで、後半の悲劇的な個所に焦点を合わせた設計のようにも感じられたが・・・・。
 サンチョ役の佐々木亮(ヴィオラ)も、コンマスの伊藤亮太郎も、好演を聴かせてくれた。

 休憩後の「ティル」になると、パーヴォの繰り出す音楽の表情は一転して変幻自在、しかも極めて激烈になる。特に標題的要素を強調するといった指揮ではないのだが、結果的には、演奏の荒々しさゆえに、主人公ティルの傍若無人な大暴れぶりが浮かび上がる。
 「ばらの騎士」もかなり剛直、豪快な音楽としてそそり立っていた。だが曲の中ほどで、弦楽器群が突如として官能的な響きに変わる個所があり、これにはハッとさせられる。芸が細かい。

 かように作品の性格の対比を明確に強調して浮き彫りにしたのは、パーヴォのねらいだったのかもしれない。ともあれ、この日もN響の実力は遺憾なく発揮された。ホルンを筆頭に、各パートのソロも鮮やかな出来だ。首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィとの滑り出しはすこぶる快調という印象である。

2015・10・13(火)下野竜也指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 ベートーヴェンの「コリオラン」序曲、ヒンデミットの「白鳥を焼く男」、ジョン・アダムズの「ハルモニーレーレ」が演奏された。

 いかにも下野竜也(首席客演指揮者)らしい意欲的で、大胆なプログラムだが、演奏の面白さという面からいえば、「コリオラン」より「白鳥を焼く男」が鮮烈な出来で、さらにそれよりも「ハルモニーレーレ」が、いっそうスリリングで強烈だった。
 そう感じたのは、多分私だけではあるまい。3曲に対する客席のそれぞれの拍手の大きさ、ブラヴォーの多さなどが、それを証明していただろう。

 「白鳥を焼く男」では、ヴィオラ・ソロの鈴木康浩(読響)の演奏が見事の一語に尽きる。この渋い曲がこれだけ生き生きとして躍動的に感じられたのは、稀有のことだ。

 そして「ハルモニーレーレ」は、大編成のオーケストラによる音の坩堝である。ミニマル・ミュージックの要素の濃い構築で、この手法そのものは私も嫌いではないから、延々と続く音の繰り返しに、安んじて━━というか、諦めて、というか━━心身を委ねる。
 第1曲と第2曲には極度に刺激的な大音響も多いが、第3曲に至って、ハーモニーの多彩さ、美しさが全開する。この陶酔的な音は独特のものだ。

 読響(コンサートマスターは小森谷巧)は、特にこの曲で持ち前の馬力を発揮し、豪演を繰り広げた。
 そしてもちろん、最大の功績は下野竜也のものだろう。膨大なスコアを確実に把握しての自信に満ちた指揮で、作品をがっしりと構築して隙がない。ミニマルを機械的な音づくりに陥らせず、一種の情感的なものを内含して、緊迫感を全く失わせずに、強い推進力を以って演奏を進める。立派なものであった。

 かように、渋く馴染みのないものに思えるプログラムも、実際に聴いてみれば実に面白い。今日はこのプログラムのせいか、客足が今一つの場内だったが、最後の拍手の大きさとブラヴォ―の声の多さは、あのスクロヴァチェフスキのブルックナーの時にも劣らぬほどだった。

 こういう特殊な作品の場合、「聴いてみると面白いよ」という情報を、それも文章だけでなく、音や映像を使って、事前にアピールする方法はないものか? 定期の会場ロビーで、次回の定期の案内を投映するとか、あるいはオーケストラのサイトで「次の定期は」として、音や映像を紹介するとかいう具合に・・・・。
 たとえばジャパン・アーツのように、自社のHpで、公演によって動画や写真を公開し紹介しているところもある。これなどは━━劇的な、とまでは行かぬまでも━━ある程度の効果を上げているのではないだろうか?

2015・10・11(日)ブルガリア国立歌劇場 「イーゴリ公」

     東京文化会館大ホール  3時

 ブルガリア国立歌劇場━━以前は「ソフィア国立歌劇場」という名称で知られていた。現在でもそれが正式名称である。
 「ブルガリア」としたのは、「ソフィア」では日本人には分からないから、ということか? 公演スポンサーに「明治ブルガリア・ヨーグルト」がついていることからすれば、尚更・・・・。

 演目は、ボロディンの名作オペラ「イーゴリ公」。
 ボロディンが完成作を残していないために、リムスキー=コルサコフとグラズノフが補作完成した版が、最初のうちは一般に上演されていた。その後、オリジナルから部分的に新しく復活させて取り入れたり、幕の順序を変更したりした、いろいろな版が出始めた。マリインスキー劇場新版のように複雑な構成の版もあれば、先頃METで上演されたような「イーゴリの悔恨」に重点を置く長大なスタイルもある。「イーゴリ公」は、10の上演があれば10の版がある、と言われるゆえんである。

 今回は、ソフィア国立歌劇場の総裁でもあるプラーメン・カルターロフの演出により、彼の考えによる版が使われた。
 場面の順序は、「プロローグ」(プチーヴリの街の広場)━━「ガリツキー公の館」━━「ヤロスラーヴナの館」━━「ポロヴェッツ軍の野営地」━━「荒廃したプチーヴリの街(ここでは墓地)」━━「ポロヴェッツ軍の野営地」という構成。
 そして全曲の最後に、ウラジーミル(イーゴリ公の息子)とコンチャコーヴナ(コンチャク汗の娘)との結婚を祝う設定として「ポロヴェッツ人の踊り」が置かれてクライマックスをつくる。

 だがこの順序は、1990年代初期にボリショイ劇場で、演出家ボリス・ポクロフスキーらが行なったものと、基本的には全く同一である(1995年に日本でも上演されている)。
 人物の動きで大きく異なるのは、カルターロフ演出では、イーゴリがプチーヴリに帰還する場面にスクーラとエローシュカが登場しないことと、脱走したはずのイーゴリ公が最後に突然ポロヴェッツ軍陣地に妻を連れて戻って来て、息子たちの結婚祝宴に立ち会う(!)という奇抜な設定の2点である。
 「ポロヴェッツ人の踊り」を最後に置いて結婚祝宴とし、「対立する世界の和解」を描こうとする手法も、ポクロフスキーが既に試みていたものだった。それゆえ、このカルターロフ演出が、特に目新しい手法だというわけではない。

 衣装も含め、全体にトラディショナルなスタイルの舞台だ。
 が、「プロローグ」で、イーゴリ軍の出征を、民衆が口では「スラーヴァ!(万歳)」と叫びながらも、実際はうんざりしている様子を巧く描き出しているところは面白いだろう。実在のイーゴリ公が実際は無茶な出陣を強行して失敗した人物である、ということは、歴史上の事実だからである。

 だが、最後のポロヴェッツ軍野営地の場面に、イーゴリ夫妻が突然やって来るという設定は、いくらなんでも無理があるのではないか? 幕切れで東西の勇者がしっかと剣(十字架の象徴でもある)の上で和解を誓い合うという場面のためのご都合主義、としか思えないだろう。
 その点、若者たちの結婚にのみ焦点を合わせ、「東西の和解、未来への希望」というテーマを打ち出したポクロフスキー演出版の方が、同じ「今日的なメッセージ」を打ち出すにしても、よほど筋道が立っていたと思う。
 なお、こういう試みに応じ、音楽の構成にも追加、入れ替えなど、さまざまな趣向が加えられていたが、長くなるので省略する。

 制作費も潤沢とは思えぬ歌劇場としては、精一杯やっているな、という印象だ。
 歌い手にも国際的に有名な人がいるわけでもなく、技術的な水準の高くない歌手も混じっている。合唱も、テノール・パートはかなり雑で、1960年代には西欧に名を轟かせたこの劇場の合唱団の片鱗もないのは寂しい。だがとにかく、舞台もそれなりにまとまっているのは事実である。

 惜しむらくは、指揮者グリゴール・パリカロフが、劇的感覚を欠いているとしか思えぬような、生気のない、緊張感の全くない演奏しかつくれなかったということだろう。オーケストラが少したるんだ演奏をしていたのも、指揮者の責任ではないか。もし引き締まった指揮でオケや歌手を率いていたなら、もっと全曲の流れも良くなったはずである。

 主な配役は、イーゴリ公をスタニスラフ・トリフォノフ、ヤロスラーヴナをガブリエラ・ゲオルギエヴァ、ガリツキー公をアレクサンデル・ノスィコフ、コンチャク汗をアンゲル・フリストフ。2幕制で、休憩1回を含み、6時終演。

2015・10・10(土)シベリウス生誕150年 ハンヌ・リントゥ指揮

      すみだトリフォニーホール  6時

 フィンランドの指揮者ハンヌ・リントゥが、新日本フィル及びフィンランド放送響を振って展開中の「シベリウス生誕150年記念 交響曲全曲連続演奏会」の第2回。
 交響詩「大洋の女神」、「交響曲第6番」「交響曲第1番」が演奏された。

 客の入りが思ったほどよくない。先頃のシティ・フィルのシベリウス定期の時といい、今日といい、シベリウスの音楽はそんなにファンが少ないのか? 私などはシベリウスの名を聞いただけで特別な感慨を受けるし、あの息の長い独特の音楽をたとえ数秒間でも聞いただけで、陶酔の境地に引き込まれてしまうほどなのに━━。

 ところで、ハンヌ・リントゥの指揮するシベリウスは、4年前の都響との演奏でも感じたとおり、剛直で豪快、凄まじい力感を備えたスタイルだ。ティンパニは重厚に轟き、金管群も壮烈に咆哮する。この骨太で率直なシベリウス表現は、レコードで聴く昔のロベルト・カヤヌスやシクステン・エールリンクのそれにも共通しているだろう。
 私はチマチマしたシベリウスよりも、こういう毅然たるシベリウス像の方を愛する。

 「第1交響曲」第1楽章などでは、リントゥのその豪壮な表現が存分に生きるだろう。
 また第2楽章の最後、あの愁いを含んだ主題(※)が静かに奏される個所で、ハープの刻む2分音符のリズムがこれほど明解に聞こえ、主題がある種の明確な意思を以って再現されているように感じられたのは、今回が初めてであった。

 ただし、第3・4楽章になると、演奏は過度に荒っぽくなる。フィナーレの中間あたりでは、猛烈にテンポが速められ、すべてが極度に狂暴化する。とはいえ、第2主題が堂々と情感豊かに奏されて結ばれる全曲大詰は、さすがリントゥ、持って行き方は万全だ。
 そうした一方で、たとえばクラリネットの最弱音の念入りな響かせ方など、見事な細やかさを聴かせるのもリントゥのセンスであろう。

 そしてまた、第1楽章最後の小節における弦のピッチカートとハープによる4分音符が、フォルテでありながら、不思議な長い余韻を引いて消えて行ったのは、意図的なものか、それとも偶然のものか? いずれにせよ、ここは極めて印象的であった。

 新日本フィル(コンサートマスターは崔文洙)は猛烈にダイナミックに鳴り響いた。が、その分、少し粗いところはある。━━そのなりふり構わぬ荒さと粗さがリントゥの意図的なものなのかどうかは、彼が首席指揮者を務めるフィンランド放送響とのシベリウス(11月2日)と聴き比べればはっきりするだろう。

※「もういくつ寝るとお正月」の旋律、あるいはディミトリ・ティオムキンの「GIANT」のテーマ(後半)にそっくりなので、聞くたびに可笑しくなる。

2015・10・10(土)早坂文雄没後60年 大友直人指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 早坂文雄の作品を集めた「現代日本音楽の夕べシリーズ第18回」。映画「羅生門」からの「真砂の証言の場面のボレロ」、交響的童話「ムクの木の話」、交響的組曲「ユーカラ」が演奏された。

 このうち「ムクの木の話」は、オルガン前に吊り下げられた巨大なスクリーンに、この音楽が付けられたオリジナルのアニメ映画の映像が映写され、それに合わせてナマの演奏が行われた。なかなか凝った企画であり、その試みは成功を収めていたといえるだろう。
 映画は1946年製作というだけあって、見るからに時代物という印象だが、敗戦直後の混乱期の日本においてこれだけのものが作られていたというのは驚きだ。

 名誉客演指揮者・大友直人の指揮する東京響(コンサートマスターは客員の荒井英治!)の演奏は、しっかりとまとまっており、極めて聴き易かった。
 ━━と、そこまではいいのだが、肝心の演奏の中味は? 

 綺麗にまとまっているだけでは、早坂文雄の音楽の真髄は伝わって来ないのではないか。「ボレロ」の演奏には、あの「羅生門」の映画での鬼気迫る雰囲気はある程度出ていたけれど、大作「ユーカラ」の演奏には、死を前にした早坂の音楽の凄みのようなものが、さっぱり感じられなかった。あたかも蒸留水の如く、淡白なものに留まっていたようである。
 冒頭のクラリネット・ソロは、暗黒となった場内に、奏者に真紅のスポットを当てて奏される━━という趣向もあったけれども、そういう形だけのものではない何かが欲しかった。貴重な演奏会であったことは疑うべくもないが。

2015・10・9(金)プレトニョフ指揮東京フィル「不死身のカッシェイ」

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 リムスキー=コルサコフのオペラ「不死身のカッシェイ」が演奏会形式で上演された。実に珍しいオペラを紹介してくれたものである。

 私も彼のオペラはこれまで「五月の夜」「雪娘」「サトコ」「モーツァルトとサリエリ」「皇帝の花嫁」「皇帝サルタンの物語」「見えざる街キーテジと聖女フェヴローニャの物語」「金鶏」などをボリショイ劇場(来日公演)やマリインスキー劇場(現場、リヨン歌劇場(同)などで結構観たり聴いたりして来たつもりだが、この「不死身のカッシェイ」は今回が初体験だ。
(と書いたあとで思い出したのだが、7年前の8月、アシュケナージがEUユースオーケストラの来日公演で指揮した演奏会形式上演を聴いていた。だが全く印象に残っていなかったところからすると・・・・)

 75分弱の上演時間で、この作曲家の音楽特有の華麗な色彩感はやや抑制され、その代りに20世紀初頭の近代音楽的手法もある程度取りこまれている。門下生だったストラヴィンスキーがのちに同じ題材により書いた「火の鳥」には及ばずとも、リムスキー=コルサコフのオペラとしては、決して忘れ去られるべき存在ではないように感じられる。

 なお日本ではこれまで「不死身のカスチェイ」と表記されて来ているが、今回字幕も担当した一柳富美子さんによれば、「カッシェイ」が正しいとのこと。なるほど、ロシアの歌手が歌っているのを聴くと、まさしく「カッシェイ」と発音している。というわけで東京フィルも「カッシェイ」を採用した由(ちなみに「ホヴァーンシチナ」も「ホヴァーンシナ」が正しいという)。

 ミハイル・プレトニョフが、味のある指揮を聴かせてくれた。東京フィルも、ステージ上で演奏する時には、オペラをもたっぷりした音で響かせてくれる(いつもこうだといいのだが・・・・)。
 ミハイル・グブスキー(カッシェイ)、クセーニャ・ヴャズニコヴァ(その娘)、アナスタシア・モスクヴィナ(王女)、ボリス・デャコフ(イヴァン王子)ら、ロシア勢歌手の歌唱はさすがのものがあり、特にモスクヴィナの声のパワーは物凄く、オーケストラを圧して美声が轟き渡った。日本からは大塚博章が「嵐の勇士」役で共演した。
 合唱が新国立劇場合唱団。東京フィルのコンサートマスターは三浦章宏。

 なお開演前に朝岡聡がストーリーを10分ほど解説、全く知られていないオペラゆえに、このくだけたスタイルのトークと紹介は的確であった。8時半終演。

2015・10・8(木)紀尾井ホール ペルゴレージ:「オリンピーアデ」

     紀尾井ホール  6時30分

 5日にGPを観た「紀尾井ホール開館20周年記念」のオペラ「オリンピーアデ」の、本番2日目。

 河原忠之指揮の特別編成による紀尾井オペラ・アンサンブルが、活気にあふれた見事な演奏。技術的にも完璧なほどに整っているので、ペルゴレージの闊達な美しい音楽がたっぷりと楽しめる。
 粟国淳の巧みな演出も、ややこしい人物構図をきわめて解り易いものにしてくれた。舞台(横田あつみ)はシンプルながら、このホールの構造から言えばこれで充分である。

 特に、7人の歌手陣がみんな競うようにいい歌唱を聴かせてくれていたことは、音楽的にも胸のすくような快感が味わえた大きな要因である。
 ズボン役(女声歌手が演じる男性役)を、今回は澤畑恵美(王子リーチダ)と向野由美子(親友メガークレ)が受け持ち、実に見事に格好良く颯爽たる演技を繰り広げ、この舞台を成功に導いていた。

 いつもはズボン役をやることの多い林美智子は、今日は女性(アルジェーネ)役を演じ、もう1人のお嬢様的な役柄の女性(アリステーア)の幸田浩子と対照的な、毅然とした女性を表現した。ただどうも、今回の演出では、このアルジェーネという女性の存在が今一つ明確に描かれなかったうらみもあるだろう。

 この女声2人ずつの衣装の色を、各々対比させたこと━━リーチダが紺色系の服装、メガークレが赤色系のガウンのようなもの、そしてアルジェーネが濃紺の服、アリステーアが濃赤の服━━は、観客にも解り易く、極めて良いアイディアだったと思う(衣装は増田恵美)。
 男声歌手の吉田浩之、望月哲也、弥勒忠史ももちろん好演、特に弥勒は第3幕のアリアで絶賛さるべき快唱を披露した。

 今回の上演ではカット部分も多かったが、それはそれで一つの考え方だろう。
 ただ、━━物語と人物相関は話が混み入るから省くが━━リーチダがなぜ親友のメガークレに、わざわざ自分の身代わりにオリンピアヘの競技出場を頼むのかがさっぱりわからない、という声も耳にした。
 たしかにこれは、第1幕第1場で、後見役アミンタがリーチダに「王子の剣の使い方は、この地の対戦相手には役に立たない。武器も違えば訓練も違う。若気の至りを後悔することになるであろう」と忠告し、試合出場を思いとどまらせるくだりの歌詞がカットされていたためである。「身代わり」はこのドラマの重要なポイントだから、この部分は伏線として生かしておいた方がいいのではなかろうか。
 同じくカットされていた、メガークレがこの地の競技にかつて優勝した実績があるという話(第1幕第3場)も、リーチダが彼を恃みとした裏付けとして必要だろうと思う。
 それと、解説書には「あらすじ」を掲載しておいてもらいたい、という声も聞いた。

 20分の休憩を含み、演奏は9時半に終った。いい上演であった。再演に値するプロダクションだと思われる。

2015・10・7(水)児玉宏指揮大阪交響楽団 東京公演

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 文化庁芸術祭執行委員会の主催による「アジア・オーケストラ・ウィーク」の第3日。今年は他に、中国国家交響楽団と、デジョン・フィルハーモニック管弦楽団とが参加している。

 児玉宏は、大阪響の音楽監督・首席指揮者のポストを今シーズンで退任する。斬新かつ大胆なプログラミングでオーケストラ界に新風を吹き込んだ彼の功績は、極めて大きいと言えよう。
 今回のプログラムも、後半にブルックナーの「第9交響曲」を置き、前半にはリストの交響詩「オルフェウス」と、ワーグナーの「ファウスト」序曲を配すという、ユニークなものだ。特に「ファウスト」には、ブルックナーの「9番」の第3楽章冒頭主題の先取りが現われるという点でも、組み合わせの意味があるというものだろう。

 叙情的な「オルフェウス」は別として、そのワーグナーとブルックナーでは、児玉はかなり激烈な音楽づくりを採った。
 「9番」第2楽章などはワイルドと言ってもいいような演奏で、ブルックナーの音楽が持つデモーニッシュな側面を浮き彫りにしていた。金管群のパワーを全開させ、弦楽器群のトレモロを強く響かせ、全体に最弱音を底上げして明確に鳴らす、といった手法は、やはり長年ドイツで指揮していた人だなという印象を与える。

 もっとも、その指揮にオーケストラが完璧に応え得ていたとは、残念ながら言い難い。
 正規楽員数43名の楽団(今年1月1日時点、「日本のプロフェッショナル・オーケストラ年鑑2014」による)ゆえ、ブルックナーの場合にはどこまでが楽員で、どこからがトラなのかは判らないけれども、アンサンブルの密度をはじめ、個々の技量についても、もう少し頑張っていただかなければなるまい。

 とにかく、全体に、非常に音が粗いのである。ほんの一例だが、全曲最後のホルン、ワーグナー・テューバ、トロンボーンなどによる浄化された和音の個所で、一部の金管がその神秘的な響きを完全に濁らせてしまったことなど、かえすがえすも残念であった。
 過日の「大阪4大オーケストラ競演」のステージでは、あれほど引き締まった演奏を聴かせたオケなのに・・・・。

 なお児玉宏と大阪響は、来年2月24日の定期で、児玉自身が編曲した「ニーベルングの指環」の接続曲━━デ・フリーハーやマゼールが編んだものとは全く異なる、独特の巧みな繋ぎ方をしている━━と、大ワーグナーの子ジークフリート・ワーグナーの交響詩「憧れ」を演奏する。ワグネリアンにはこたえられないプロだろう。

2015・10・5(月)ベルナルド・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 このコンビの演奏を、今回は結局3公演聴いたことになる。だがどれも、聴いて良かったと思える素晴らしい演奏ばかりだった。
 今日は都民劇場音楽サークルのコンサートで、プログラムはパーセル~スタッキー編の「メアリー女王のための葬送音楽」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソロはマレイ・ペライア)、ブラームスの「交響曲第1番」。

 特に第2部、ブラームスのあの堂々たる第1楽章序奏が開始された瞬間の、東京文化会館大ホールを揺るがさんばかりのたっぷりとした重厚壮大で濃密な演奏には、驚嘆させられた。とかく満席になるとドライな音響になり、オーケストラを乾いた音にしてしまうこのホールも、ひとたび立派な指揮者とオーケストラの手にかかれば、かくも宏壮な響きで満たされるのだということ━━久しぶりの体験である。

 演奏の瑞々しさにも、充分なものがあった。ただ、第4楽章後半から最後の頂点にいたる音楽の密度はやや薄らいだように感じられたけれども━━しかしやはり、心に染み入って来る音楽だった。
 高齢にして円熟したハイティンクは、決して肩を怒らせて何かを主張するといった指揮でなく、全く誇張のない、真摯な指揮を続けているだけに見えるのだが、それでも第4楽章でのあの有名な主題が、かすかな漸強と漸弱を繰り返しつつ揺れるように流れて行くあたりの絶妙な呼吸には、この指揮者の巧まざるカリスマ性のようなものが強く感じられて来る。

 コンチェルトは、今日はベートーヴェンの「4番」。モーツァルトの演奏の時には見え隠れしていたハイティンクとペライアの「厳しさ」といったものが、この曲の演奏では、前面に姿を現す。
 そしてパーセルの作品は、弦なし、管楽器・打楽器・ピアノ・ハープによる編成の編曲での演奏。悲壮雄大な美しい音楽ではあるが、ティンパニと大太鼓が間をおいて打ち鳴らす轟音は、一種異様な恐怖感を呼び起こす。

2015・10・5(月)紀尾井ホール「オリンピーアデ」GP

   紀尾井ホール  5時

 6日と8日に上演される「紀尾井ホール20周年記念」の公演、ペルゴレージのオペラ「オリンピーアデ」(日本初演)のGP(総練習)を観る。
 最初の1時間足らずしか観られなかったけれど、音楽の素晴らしさ、演奏水準の高さなどから言って、これは大いに期待できそうだ。

 演出は粟国淳、舞台上にシンプルながら丁寧に作った装置を配し、河原忠之指揮の「紀尾井オペラ・アンサンブル」(特別編成、リーダーは石田泰尚)が客席最前方に設けられた臨時のピットに入る。
 歌手陣は幸田浩子、林美智子、澤畑恵美、向野由美子、吉田浩之、望月哲也、弥勒忠史らの人々。澤畑恵美さんのズボン役は初めて拝見したが、すこぶるカッコいい。

 こういうオペラの常として、人物関係が入り組んでいるので、開演前にプログラム(対訳入り)の解説をよく読んで予習しておくことが必要だろう。判ってしまえば簡単だが、判るまでがややこしい。
 取材の際に資料として「人物相関図」をもらったけれども、これも「必ずしも解りやすいとは言い難い」ようにも見える。

 もっと聴きたかったが、あとは本番で、ということにして、四ツ谷駅からJRで上野へ向かい、東京文化会館に入る。

2015・10・4(日)クリストフ・エッシェンバッハ指揮ウィーン・フィル

      サントリーホール  4時

 恒例の「ウィーン・フィルハーモニー ウィーク イン ジャパン」、今日は東京初日公演で、ハイドンの交響曲「オックスフォード」、モーツァルトの「協奏交響曲K297b」、ベートーヴェンの「交響曲第1番」、アンコールは同じく「プロメテウスの創造物」序曲。コンサートマスターはおなじみ、ライナー・キュッヒル。

 エッシェンバッハという人は、もう何十年か聴いているけれども、個性が那辺にあるのか、未だによく掴めない指揮者だ。
 それでもやはりウィーン・フィルはウィーン・フィル、独特の芳香にあふれる音楽を聴かせてくれる。特に「協奏交響曲」では、同団の名手たち━━クレメンス・ホラーク(Ob)、エルンスト・オッテンザマー(Cl)、ロナルド・ヤネシッツ(hn)、ハラルド・ミュラー(Fg)が洒落た演奏を披露。第2楽章と第3楽章は、まさにウィーンの演奏家ならではの味だろう。
 しかしエッシェンバッハも、ベートーヴェンの「1番」の後半2楽章および「序曲」で、猛速のテンポと強いアクセントを駆使、意外に激しいところを聴かせてくれたのはたしかである。

 なお、私は取材に行かなかったけれど、今日は昼のゲネプロのあとに、ウィーン・フィルによる小澤征爾さんの80歳の誕生日を祝うセレモニーが行われ、小澤さん自身もベートーヴェンの「エグモント」序曲を指揮した。
 聴いた人の話によると、その演奏は「物凄かった」そうである。「ウィーン・フィルがあんなに燃え上がって演奏していたのをこれまで聴いたことがない。エッシェンバッハ相手とは大違いだった」とのこと。
 であれば、たいへん結構な話だ。そういう私的な「誕生日コンサート」だけでなく、公的なコンサートをも予告通りに指揮できるよう、復帰を祈りたいものである。


※多くの熱いコメント、ありがとうございました。あつく御礼申し上げます。ただ、せっかく頂戴したのに申し訳ないのですが、5通ほどは削除させていただきました。私の意見への反論、反駁を含め、お客さま同士の議論も大いに結構なので、出来るだけ公開させていただいておりますが、人格などへの非難や罵倒を含めた、過度の表現によるコメントは削除させていただいております。御了承下さいますよう。今後ともご愛読下されば幸甚に存じます。

2015・10・3(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

   NHKホール  6時

 首席指揮者就任を記念する一連の定期の、その初日公演。マーラーの第2交響曲「復活」が演奏された。コンサートマスターは篠崎史紀、声楽ソリストはエリン・ウォール(S)とリリ・パーシキヴィ(A)、合唱は東京音楽大学。
 まさに注目のコンビの本格スタートにふさわしく、ホール内には強烈な期待感が漲る。

 パーヴォ・ヤルヴィのマーラーは、例のごとく鋭角的で、切り込むようなリズム感と、怜悧な旋律線を備えた音楽づくりだ。その一方、「間」をゆっくり採り、楽曲の細部まで精妙に神経を行き届かせる。宏大壮麗というよりは冷徹峻厳なマーラー像のイメージだが、残響のないこのホールのドライなアコースティックが、そういう特徴をいっそう際立たせるだろう。
 ただし1階席中央後方で聴いていると、そのアコースティックゆえに、音の潤いの無さ、余韻余情の無さは、如何ともし難い。もしサントリーホールで聴けば、その印象もかなり異なるだろうが。

 それにしても、N響の、特に金管群の上手いこと。今日は全身ハリネズミの如く毛を逆立てた演奏だったが、本気になった時のN響の燃焼度の見事さというものが、充分に感じられた。今春の協演の際よりも、指揮者の意図と、それを承けるオーケストラの姿勢とが、より明確に表れて来ているような気がする。
 聴衆のパーヴォに対する拍手と歓呼も、いっそう盛んであった。

 ともあれ、パーヴォの就任は、N響の歴史に面白い局面をもたらすだろう。今シーズンの定期のラインナップには、ドイツ系の重厚な音楽をつくる指揮者が全くと言っていいほど入っておらず、またプログラミングにも、レパートリーを少し拡げた斬新的な色合いが感じられる。こういった姿勢が、たまたま今シーズンだけのものかどうかは判らないけれども、いずれにせよこれらが、いろいろな意味での「N響の若返り」をもたらすかどうか、大いに注目されるところだ。

2015・10・3(土)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

       東京オペラシティ コンサートホール  2時

 伊藤恵をソリストに迎えての、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番」。後半にショスタコーヴィチの「交響曲第10番」。コンサートマスターは戸澤哲夫。
 常任指揮者・高関健の指揮でシティ・フィルを聴いたのは、今春の「わが祖国」以来だが、今回も非常な大熱演だった。

 協奏曲では、冒頭からオーケストラが厚みのある音でたっぷりと響きはじめ、高関のモーツァルトへのアプローチのスタイルを明確に語る。伊藤恵のソロも、先日のペライアとは全く異なるタイプの、清冽でしかも温かいモーツァルト像を描く。

 後半のショスタコーヴィチの「10番」も、第1楽章での明晰な低弦の蠢きが醸し出す不安感、第2楽章以降の嵐のごとき激情など、なかなかの演奏が聴かれた。ただこちらは、オーケストラのアンサンブルも少し粗く、それがショスタコーヴィチの魔性のような音楽を再現するには一種のもどかしさを感じさせる。最強奏の音色にも、もっと美しさが欲しい・・・・とは先月の定期でも感じたことだが、まあこれは、今後を待つことにしよう。

 客の入りは、前月の定期よりは、かなり良くなっていた。拍手や歓呼も盛んだったし、聴衆の高関健への支持も高いようである。
 それでもやはりオケとしては、もう少し定期会員を増やしたいところであろう。PRの作戦をもっと練り、かつ演奏水準を向上させれば、それは決して不可能ではあるまい。あの日本フィルがラザレフの猛特訓により変貌し、今や定期の2日間の客席が埋まって来ているという例もある。

 演奏水準の面では、かつて群響の実力を飛躍的に高めた高関健のこと、数年かかってもそれを可能にしてくれるのではないか。
 ただし、日本フィルの場合には、以前から楽員たち自身が聴衆との交流に熱心だったので、それが演奏水準向上との相乗効果となって実を結んで行ったとも言えるのだが・・・・その点、シティ・フィルの方は、楽員の舞台外での聴衆へのアピール活動は未だ見えて来ない。

2015・10・2(金)東京二期会 R・シュトラウス:「ダナエの愛」

      東京文化会館大ホール  6時30分

 新国立劇場開幕公演のワーグナーにぶつけるかのように、二期会がR・シュトラウスの「ダナエの愛」を上演。これが舞台日本初演とのこと。
 近年の東京二期会の上演の中では出色のものではないかと思われる。準・メルクルが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮した演奏がすこぶる良く、映画監督の深作健太の演出も、予想をはるかに上回る出来を示していた。

 まず東京フィル。昨日新国立劇場で「ラインの黄金」を演奏したばかりで、4日には両公演がダブるはず。つまり同じオケとはいっても別々のチームだろうし、メンバーの割り振りがどうなっているのかは詳しく知らない。
 だが、こちら「ダナエの愛」の東京フィルは、昨日の「ラインの黄金」のチームに比べると、格段に密度が濃く、量感も充分で、聴き応えがあった。こういう東京フィルなら、文句も言うまい。ただ敢えて言えば、やや硬質な音で、もう少しシュトラウスらしい豊麗な音色が欲しいところではあったが━━。

 準・メルクルの指揮が素晴らしかった。この人、日本のオーケストラを指揮すると、そのオケとの相性もあるのか、かなりムラがあるのだが、やはりオペラを指揮した時は佳い。それにR・シュトラウスの作品を手がけた時も好い。そして、この数年、また彼自身の音楽が上昇線を辿って来ているようでもある。
 今回の「ダナエの愛」でも、前出のように、響きには少し硬さもあったとはいえ、シュトラウス晩年の音楽の芳香をこれだけ再現してくれれば、私にとっては御の字である。特に第2幕以降の、シュトラウス独特の豊満な官能美━━。

 深作健太の演出は、物語の舞台を証券会社に置き換えるとかいった誰やらの演出とは違い、極めてオーソドックスなストレート路線ではあったが、演技も精妙で、過不足のない、安定した舞台をつくり出していた。日本舞台初演としては、絶好のものであったろう。照明の変化で黄金の色をつくり出す場面も成功していた(照明担当は喜多村貴)。ただし稲妻は、ちょっと要領の悪いところもあったが・・・・。

 第3幕では舞台が一転して廃墟となり、「黄金崇拝」から脱却した人間の世界として、貧しくも愛に充たされた生活を享受するダナエとミダスの生活を描くという設定は面白い(舞台美術は松井るみ)。
 ここにやって来たユピテルが、ダナエの心がミダスに移っているのを知り、失意のうちに去って行く場面で、小森輝彦(ユピテル)が見事な後ろ姿の絶望の演技を見せていたのが印象的だった。なお、このユピテルは、大きな黒い帽子をかぶり、槍を携え、その槍で大地を突いて稲妻を閃かせるという具合で、さながら「指環」のさすらい人ヴォータンのパロディといった感。

 歌手陣は、ダブルキャストの初日・3日目組だ。
 ダナエ役の林正子は、特に第1幕では絶叫し過ぎの感があったものの、この役のパートの声楽的負荷からすれば、全体によく頑張ってくれたと申し上げたい。ユピテル役の小森輝彦は、最初の登場場面では何故か彼らしくない不安定な立ち上がりだったが、尻上がりにいつもの巧みな滋味を出し、存在感も充分。
 ミダス王の福井敬の張りのある情熱的な歌唱はいつに変わらず、その声のパワーが常に力感性を保っていることには驚きの念さえ抱かされる。
 他に児玉和弘(メルクール)、村上公太(ポルクス)、平井香織(クサンテ)、山口清子(ゼメレ)、澤村翔子(オイローパ)、磯地美樹(アルクメーネ)、与田朝子(レダ)たちが好演。

 休憩2回を挟み、終演は10時近く。
 これは東京二期会の成功作。再演に堪えるプロダクションである。

2015・10・1(木)新国立劇場 新演出「ラインの黄金」

    新国立劇場  7時

 新シーズン開幕初日は、芸術監督・飯守泰次郎の指揮でワーグナーの「ラインの黄金」。これは同劇場にとっての「指環」新プロダクションの幕開きになる。

 新国立劇場の「指環」は、2001年に新制作されたキース・ウォーナー演出(2009年再演)以来だ。今回は故ゲッツ・フリードリヒの演出(1996年フィンランド国立劇場制作)が取り上げられている。
 前者があれこれ謎解き話題の豊富な演出だったのに比べ、今回のそれは、設定、舞台装置、演技などを含め、極めてシンプルなものである。つまり、全くストレスを生み出さぬ演出といえようか。それゆえ、ワグネリアンたちから見れば、あまり手応えのない舞台である。しかし一方、白紙の状態で「指環」に接する観客にとっては安心して観ていられる類の舞台であろう。

 劇場側としてはおそらく、前作のウォーナー演出があまりに尖っていたので、今回は解りやすい舞台で━━と、日本の観客のオペラ体験や好みを考慮した上での選択だったのだろう。それはそれで、劇場としての一つの選択肢だ。
 だが、昨年新制作されたあのクプファー演出の「パルジファル」が、東西の宗教の融合などといった興味深い問題を多く含んだ、いろいろなことを考えさせた意欲的な舞台だったのを思い起こすと、今回のまるで時計の針を逆行させたようなフリードリヒ演出が選ばれたことは、新国立劇場の姿勢にやはり一抹の不安と寂しさを感じないではいられないのである。

 ちなみに今回の彼の演出は、30年近く前にベルリン・ドイツオペラで制作した別ヴァージョン(日本でも1987年に引越上演され、われわれに大きな衝撃を与えた)とはもちろん異なっており、舞台奥にトンネルなどはない。だがラストシーンで、神々がヴァルハルに入城して行く際の「前進━━後退」を繰り返すステップは、やはり採用されていた。フリードリヒは、よほどこのテが気に入っていたらしい。
 なお今回の演出補(再現演出)はイェレ・エルッキラ。美術と衣装はゴットフリート・ピルツ、照明はキンモ・ルスケラだった。

 演奏は、飯守泰次郎指揮の東京フィルハーモニー交響楽団である。飯守のワーグナーには、私はこれまで悉く賛辞を呈して来たが、今回の「ラインの黄金」におけるテンポの遅さにだけは・・・・些か共感を抱きかねた。
 上演時間も、多分2時間半を超しただろう。2時間35分くらいは行っていたかもしれない。これは、メータや、一頃のレヴァインのテンポに匹敵する遅さであろう。
 遅いだけならまだいいけれども、この日の演奏は、随所で緊張力が弛緩していた。飯守としては、これまで例を見ないことではなかったろうか? 

 東京フィルは、今回は何とか14年前の汚名を雪いだともいえる演奏だったが、ただ第1場(ライン河底の場面)では、やはりどうも頼りなくて冷や冷やさせられる。特に「黄金」が姿を現す場面での3本のホルンのバランスの悪さには、啞然とさせられた。なにしろ、「黄金の動機」の主旋律が浮かび上がって来ないという状態だったのである。
 こんなことは、多分初日だけの問題だろうと思う。しかしやはり、シーズン開幕日にこんな状態では困るのだ。オペラのピットに入った時の東京フィルの弱体ぶりは、未だに解決されていない。

 歌手陣。
 最も映えたのは、やはり火の神ローゲのスティーヴン(シュテファン)・グールドである。成金男風の扮装で、赤いコートと赤い縁の眼鏡をかけ、「陰の主人公」としてのこの役を見事に歌い演じた。こういう「恰幅のいい」ローゲというのは、比較的珍しいのではなかろうか。
 ニーベルング族の長アルベリヒのトーマス・ガゼリも、少し騒々しい表現ではあったものの、物語のキーマンとしての性格を荒々しく的確に描き出していた。もう1人のキーマン、大神ヴォータンのユッカ・ラジライネンは、三角形の眼帯という変わったメークで大見得だったが、今日は少し声が粗かったか? 

 その妻フリッカのシモーネ・シュレーダーは声が綺麗であり、智の神エルダのクリスタ・マイヤーも、あまりおどろおどろしくない透明な声で映えた。この2人の女声歌手はバイロイトの常連だし、ツボを心得た歌唱を聴かせてくれる。
 小人ミーメのアンドレアス・コンラッドも安定している。巨人族の2人━━ファーゾルトの妻屋秀和とファフナーのクリスティアン・ヒューブナーは、上げ底の靴を履いて巨体をいっそう目立たせ、宇宙服のようないでたちでのし歩いていたが、歌唱と演技には、もう少し凄味があってもいいだろう。

 その巨人たちを最初は憎からず想っていたのに結局凌辱されて酷い目に遭う女神フライアを、安藤赴美子が清純な声で歌い演じた。ボクサーを気取る雷神ドンナーの黒田博は、もう少し演奏のテンポが速ければ、終場の聴かせどころで(早く出すぎるようなこともなく)もっと朗々たる見得を披露できたのではないか。フローの片寄純也、ラインの乙女役の増田のり子、池田香織、清水華澄ら、いずれも好演だった。

 幕が下りたのは9時45分頃。

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