2017-02

2015・9・30(水)ベルナルド・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 マレイ・ペライアの弾くモーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番」、そのあとに今夜はブルックナーの「交響曲第7番」(ノーヴァク版)。

 豊麗な音響のサントリーホールとは異なり、こちらのホールは響きがクリアーであるため、音の隈取りも一層明確になる。そうしたアコースティックが、演奏に反映することがしばしばある。

 今日のコンチェルトの演奏も、3日前に聴いた印象とはずいぶん異なるものだった。こちらは、明晰な音色、毅然たる佇まい、といった特徴の方が強く感じられる。残響の多いホールではテンポもゆっくり目になることがあるというから、今日の「24番」は、逆にホールの響きに対応して、テンポを少し速めたのだろうか、演奏時間も32分ほどに縮まっていた。だがいずれにしても、3日前のそれと同様、見事なモーツァルトだった。

 一方、ブルックナーの交響曲は、凄愴なほどの演奏だった。今のハイティンクにとって、マーラーよりは「まっすぐな」ブルックナーの音楽の方が、よりぴったり合うのではなかろうか? テンポも、第1楽章などかなり遅いものだったが、それでも正味67分ほどだったから、そう極端に長い演奏だったわけでもない。
 とにかく、ロンドン響の弦の音色の豊かな美しさは見事というほかはなく、それゆえに、久しぶりに濃密壮大なブルックナー・トーンを堪能することができた。

 ただし、唯一気になったのが、トランペットの(特に1番奏者の)異様に鋭く大きな強奏だ。もちろんハイティンクの意図によるものだったのだろうが、特に第1楽章など、しばしばアンサンブル全体の均衡を破る感があり、初めのうちは少々辟易させられた。
 ところが、第2楽章後半の頂点での、全管弦楽の恐るべき昂揚━━ここはクレッシェンドの段階からすでに異様な緊迫感にあふれていた━━は、そのトランペットの轟音をすら呑み込んでしまうほどに凄まじかったのである。

 スケルツォの頂点でも、第4楽章コーダでも同様だったが、それは単なる威嚇的な音響でも、冷徹清澄な昂揚でもない。まさに感情の奥底から湧き上って来るといったフォルティッシモであり、デモーニッシュな力にあふれていたのであった。テンポこそ違うが、先年ザルツブルクで彼がウィーン・フィルを指揮した同じブルックナーの「9番」の第2楽章の、キュッヒルをはじめとする奏者たちが憑かれたように没入して弾いていたあの演奏を、ふと思い出す。

 今回、ハイティンクのブルックナーの「7番」を聴けたのは、本当に幸せだったと思う。

2015・9・29(火)オリヴァー・ナッセン指揮東京都交響楽団B

      サントリーホール  7時

 ナッセン自作の明るく鋭角的でダイナミックな「フローリッシュ・ウィズ・ファイアーワークス」で開始され、一転して重苦しいシェーンベルクの「映画の一場面への伴奏音楽」と移り、次いで豊麗無比な武満徹の「精霊の庭」が演奏されて、第1部を終る。実に巧い選曲配列だ。

 この中で━━私の好みによる結論もあるが━━何といっても卓越した熟成の美しさを備えていたのは、タケミツの作品である。彼が晩年に到達した耽美的な音色は、温かい法悦感を呼び起こす。
 以上3曲、ナッセンが都響から引き出した3種3様の音の流れに酔う。

 休憩を挟んで演奏されたのは、ピーター・ゼルキンをソリストに迎えての、ブラームスのピアノ協奏曲第2番だった。
 タケミツのあとにブラームス、というのは、これまた意味深い組み合わせで━━武満氏が1975年に「僕ね、この頃ブラームスが好きになっちゃって、危険なことだと思うけどしょうがない」と苦笑しながら語ってくれたのを思い出す━━大変面白い流れだ。しかし、これが、少々問題含み。

 ピーター・ゼルキンならではのミーントーン調律(今回は1/8とのこと)のピアノから生まれる透明で清澄な音色と変幻自在な音の流れは素晴らしく、このコンチェルトに、ふだん聴き慣れたものとは全く異なる様相をもたらしてくれた。それはいかにも、すぐ前に演奏された武満作品の世界を、そのまま引き継いだというイメージだった。
 だが皮肉にもそれとは逆に、ナッセンと都響のほうは、第1部から一転して、対照的なドイツ・ロマン派の重厚な響きに入ってしまった。この両者の性格の違いが、何とも形容しがたいアンバランスを生み出したのである。

 もしオーケストラが、ピーター・ゼルキンのピアノと同一歩調を採るのだったら、武満作品で聴かせたあの音を、そのままコンチェルトの演奏にも引き継がせていれば、遥かにすっきりしただろう。もしくは、ナッセンが第1部と第2部を対比させたかったのであれば、協演ピアニストの選定に問題があったことになる・・・・。
 それに、言っては何だが、ナッセンという人は、ピーターのような変幻自在の音楽をつくるソリストと協演するのにはちょっと向いていないのではないか、という気もするのである。

 都響(コンサートマスターは矢部達哉)は相変わらず落ち着きのあるいい音を聴かせてくれたが、唯一の疑問はホルン。1番ホルンは、たとえソロの際にもオーケストラにいつでも溶け込むような姿勢の美しい音だったが、3番ホルンだけは妙に鋭く突出して、アンサンブルから「かけ離れた」(?)ところで音楽しているような感があったのが気になった。これは、こちらの聴いた位置(2階正面)のせいではなかろうと思う。
     別稿 モーストリー・クラシック12月号 公演Reviews

2015・9・28(月)ベルナルド・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団

      サントリーホール  7時

 マレイ・ペライアを迎えてのモーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番」、後半にマーラーの「交響曲第4番」(ソプラノ・ソロはアンナ・ルチア・リヒター)。

 巨匠ハイティンク、テンポがかなり遅くなって来た印象を受ける。
 モーツァルトでの演奏時間は35分前後(ふつうは30~32分程度だ)。ペライアの方は、以前(といっても遥か前だが)イギリス室内管と録音した演奏では、31分くらいで演奏していた。今回は従って、ハイティンクのテンポに合わせたものだろう。

 マーラーの「4番」でも、第1楽章のコーダや第3楽章では、時に止まるのではないかとさえ思うほどの遅いテンポとなることがあって、58分程度かかったようである(ふつうは53~55分といったところだろう)。
 ただこれは、1967年にコンセルトヘボウ管を指揮した録音では53分半という演奏時間で、それと比較すれば非常に遅いテンポだったのは事実だが、92年にベルリン・フィルを指揮した録音では、すでに58分半という演奏時間に変貌していたのだった。結局これが、年輪を加えてからのハイティンクが捉えたマーラーの「4番」の世界なのだろう。

 それにしても、ハイティンクのつくり出す音楽における温かいヒューマンな情感は、独特のものだ。
 モーツァルトのハ短調の響きがゆっくりと始まった瞬間から、私は何か不思議な魔圏に引き込まれて行くような感じを味わった。美しい陰翳と、重々しさと、静寂の中を逍遙するような陶酔感のようなもの。

 ペライアもゆっくりと、そのオーケストラとともに歩み続ける。彼のピアノも、昔の演奏とは比較にならぬくらい豊かさと深みとを増しているから、その精妙な表情も充分に生かされる。これだけ感情の奥底から湧き上って来るようなモーツァルトの演奏は、今日ではなかなか聴けないものだろう。

 「第4交響曲」は━━テンポの話は別として━━死神がどうだとか、苛立たしさとか、不安とか、そういったマーラーの音楽に特有の概念からすでに脱却し、全てを「愛」で包んでしまうような円熟の演奏となっていた。それは常人の及ばない深さと豊かさを持った演奏であることはたしかだったが、その温かい演奏に、時に形容しがたい物足りなさを感じてしまうのは何故だろう? 

 だがロンドン交響楽団(リーダーはローマン・サイモヴィッツ)は、しなやかで流動的な表情で、ハイティンクの滋味ある指揮に応えていた。
 ソプラノ・ソロのリヒターは、9頭身か10頭身かというすらりとした美女。素晴らしく声が綺麗で、いかにも曲想に合う純な天使といった趣の歌唱だった。

2015・9・27(日)パトリチア・ピツァラ指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 東京響の「名曲全集」シリーズ。パトリチア・ピツァラというポーランドの女性指揮者が来日したので、どんな音楽をつくる人かと思い、聴きに行ったのだが・・・・。
 演奏されたのは、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソロはアリーナ・イブラギモヴァ)、ベートーヴェンの「交響曲第7番」。

 この指揮者、テンポやデュナミークの変化、アクセントの付与などにはかなり気を遣っているようだったが、やはりそれだけでは、音楽は成り立たつまい。
 「フィンガルの洞窟」ではその細かい設計が裏目に出て、演奏に生気を失わせてしまった。
 「7番」ではリズムを際立たせつつ一気に押しまくり、それは勢いこそよかったものの、やはり些か単調な演奏という印象を免れぬ。しかし東京響(コンサートマスターは大谷康子)はすこぶる豪壮に轟き続けたので、そのパワーに痛快さを感じた人々は、当然ながら沸く。たしかに、そういう良さはあっただろう。

 だがその一方で、協奏曲の冒頭では、なんとも生気のない演奏に愕然とさせられた、ということもあり・・・・。
 イブラギモヴァは、ちょっと土の匂いも残る音色で、個性の強いモーツァルトを聴かせてくれた。いっそ、彼女自身が弾き振りしたほうがよかったのではないかと思うくらいである。

2015・9・26(土)ハーゲン・クァルテット

    ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 ハイドンの「第58番 作品54-2」、モーツァルトの「プロシャ王第1番」、ベートーヴェンの「第14番 作品131」という、極めて魅力的なプログラム。

 今回は「131」を目当てに聴きに行ったようなものだったが、この名門弦楽四重奏団の特色からして、いわゆる魔性とか戦慄とかを感じさせる演奏を期待するわけには行くまい。ともあれ、この巨大な、前衛的な、牙をむくような性格を備えているはずの作品が、彼らの手にかかると、何と叙情的で、いとも柔らかい、なだらかで屈託ない表情の音楽になって流れて行くことだろう。だがそういう音楽づくりが、そこでは実に見事に徹底しており、集中性に富んだものになっていたのである。

 たしかに「快い131」ではあったが・・・・。

2015・9・24(木)オリヴァー・ナッセン指揮東京都交響楽団定期A

     東京文化会館大ホール  7時

 巨体のオリヴァー・ナッセン、未だ63歳と若いが、杖をついて舞台に出入りする。その杖を指揮台の背もたれの枠に引っ掛け、その位置を指差し確認してからおもむろに指揮台へどっしりと上る様子が、痛々しいけれども、若干のユーモアを感じさせる。演奏が終って指揮台から降りる時には、左腕を背後に廻し、見当で杖を手に取るという段取りゆえの指差し確認のようだ。

 今日のプログラムは、ミャスコフスキーの「交響曲第10番」、自作の「ヴァイオリン協奏曲 作品30」、ムソルグスキー~ストコフスキー編曲の「展覧会の絵」。

 「展覧会の絵」のストコフスキー編曲版は、先頃山田和樹も日本フィルを指揮して演奏した。ラヴェルのそれとは違う意味での管弦楽法の面白さを感じさせる版である。「バーバ・ヤガーの小屋」で8本のホルンがいっせいに咆哮するあたりは迫力満点だし、ストコフスキー得意のオルガンのような響きが各所に現われるのも楽しい。

 ストコフスキー自身が指揮したディスクを聴くと、本当に豪華壮麗で、ホルンの凶暴な怒号も物凄く、時には怪奇な味をも湛えた見事な編曲だということが判る。
 だが、今日のナッセンの指揮による演奏は、どちらかというと重く暗く、時に渋く、壮麗さの代りにくすんだ表情が注入されたものだった。作曲家でもあるナッセンの感覚が導入されたのだろうか。特に、あのオルガンのような音色が、もっと再現されていてもよかったように思う。

 ちなみに、フィラデルフィア管のライブラリーには、ストコフスキーが編曲した作品の楽譜が山のように保管されている━━と、音楽監督だった時代のサヴァリッシュから聞かされたことがある。これまで聴いたものはどれもアクが強いオーケストレーションで、ややもたれる感があるけれども、それでもやはり聴いてみたい気がする。

 第1部で演奏されたミャスコフスキーの交響曲は、サンクトペテルブルクに建つピョートル大帝の銅像と、それを呪う貧しい青年エフゲニーとを扱ったプーシキンの「青銅の騎士」を題材にした、17~18分ほどの作品。出だしはさながら怪獣映画の音楽の如き趣で、何となく凄味のあるオーケストレーションの曲だ。
 私の好みからするとあまり面白い曲ではないが、こんな交響曲をナマで聴ける機会はなかなか無いし、私にはこれが最初で最後だろうと思い、熱心に聴いた。都響(コンサートマスターは四方恭子)の演奏も、曲の途中から突然熱気があふれはじめた。
 なおこの交響曲も、アメリカ初演はストコフスキーとフィラデルフィア管だった由。このあたりに関連をもたせたプログラミングも実に巧い。

 もう1曲、ナッセン自作の「ヴァイオリン協奏曲」は、20分ほどの長さで、ヴァイオリンの超絶的な動きが特徴的である。ゲスト・ソリストのリーラ・ジョセフォヴィッツの激しい演奏が聴衆を沸かせる。彼女がアンコールで弾いたスケルツァンドな小品は、サロネンの「学ばざる笑い」という曲だそうだが、これもぴたりと嵌った選曲。

2015・9・22(火)大植英次指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 ブラームスの交響曲「第3番」「第4番」というプログラム。特に「4番」が濃密で凄愴な演奏だった。

 各パートそれぞれに掛留の多い、驚くほど複雑に入り組んだこの「第4交響曲」の内声部を、大植は意図的に浮かび上がらせ、交錯させる。そのため、漫然と聞くと、縦の線が危ういほどずれて響くように感じられかもしれない。だが実はそれがブラームスの恐るべき大胆な管弦楽法に基づくものだということを認識して聴いていれば、この「第4交響曲」への賛嘆が、ますます強くなって来る。これは大変なシンフォニーだ━━と、改めて認識させられるのである。

 今回の演奏は、作品の破天荒なアイディアを強引に均衡の中に閉じ込めるのではなく、むしろそれを浮き彫りにしようという姿勢が表れたものともいえるだろう。特に第1楽章と第3楽章においてそれが際立つ。
 演奏も、第1楽章途中から極めて流動性に富むものになり、異様に熱を帯びて来た。特にその終結部は一種の熱狂、狂乱、法悦といった趣を呈していったが、オーケストラに乱れが感られなかったところからすると、これはかなり綿密に準備された演奏だったのではないか・・・・という気がした次第だ。ただしこれは、あくまでこちらの勝手な憶測だけれども。
 ともあれ、こういう指揮を聴くと、大植英次も新たな境地に入りはじめたのではないかという気がする。

 東京フィル(コンサートマスターは三浦章宏)も、この「4番」では壮絶な演奏を聴かせてくれた。
 前半に演奏された「3番」が凡庸な演奏だったというのでは、決してない。しかし、この「4番」のほうが、極めて強烈な印象を残したので・・・・。

 先週木曜日に、フェスティバルホールの舞台袖で会ったマエストロが「東京でのブラームスの4番のアタマに・・・・」とか何とか私に言っていたのが聞こえたが、別れ際だったこともあって、詳しく確認することができなかった。
 しかし、彼のことだから、もしかしたらブラームスが自筆譜の第1楽章のあとの余白に書き加えながら結局使用しなかったという、第1楽章冒頭に付加した3~4小節の導入部分━━シャイーが全集CD(デッカ)に付録として演奏して入れているアレである━━を復元して指揮するつもりなのかと、内心秘かに期待していたわけだが・・・・。残念ながら、通常の出版譜による演奏だった。
 もし予告なしにあの導入小節を入れて演奏が開始されたら、お客さんは腰を抜かすだろう。一度ナマで聴いてみたいものである。

2015・9・21(月)藤岡幸夫指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール 2時

 これは日本フィルの「サンデーコンサートスペシャル」。
 前半にソヌ・イェゴン(2013年仙台国際音楽コンクール優勝)をソリストに迎えての、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」。
 後半に日本フィルハーモニー協会合唱団との協演でグノーの「聖チェチーリアのためのミサ・ソレムニス」。後者でのソリストは半田美和子(S)、鈴木准(T)、浅井隆仁(Br)。コンサートマスターは千葉清加。

 久しぶりに1階席(N列)で聴いたが、この東京芸術劇場ほど、1階席と2階席とでアコースティックが異なるホールは珍しいだろう。2階席ではクリアに聞こえるが、1階席はまるで教会か、大浴場の中のような響きだ。
 しかし、「聖チェチーリアのためのミサ・ソレムニス」などを聴く上では、ある程度は効果的だったかもしれない。細部は混然としているけれども、とにかくワーンと鳴り響く。

 ただ、カンタービレなメロディ、シンプルなハーモニーが織り成す素朴な美しさを味わうには、やはりもう少し明晰さが欲しいところでもあった(2階で聴くべきだったか?)。藤岡は「キリエ」や「グローリア」でやや遅いテンポを採るなど、ミサとしての荘重さを求めていたようだが、この曲の性格からすれば、オーケストラをもっと鳴らし、壮大な盛り上がりをつくり出す余地もあったのではないかという気もする。
 合唱団は凄まじい大人数。無理な力を入れずに歌い上げていた。ソリスト3人も好演。

 前半でのコンチェルトも、この音響のせいで、すこぶる轟然たるイメージの音楽に聞こえた。ソヌ・イェゴンの若々しい気魄、無人の野を行くがごとき鮮やかなスピード感など、この曲の持つ一つの側面を屈託なく発揮させた演奏といえようか。
 彼の演奏を聴くのは久しぶりだったから、ソロ・アンコールがあってもいいかな、と私としては珍しくアテにしたのだが、今日のお客さんはおとなしくて、あっけなく拍手が止んでしまったので、アンコールの演奏までは行かず。

2015・9・20(日)みつなかオペラ ベッリーニ:「ノルマ」

      川西市みつなかホール  2時

 阪急電車宝塚線の川西能勢口駅近くにある「みつなかホール」━━客席数は500人足らず、オケ・ピットが使用された時には440人程度の由。だが入ってみると、ホールも舞台も立派で、意外に大きい感じがする。関西では名の知れた存在だが、私にとっては今回が初めての訪問だ。

 ここで公演されている「みつなかオペラ」(旧・川西市民オペラ)は、1991年に旗揚げし、97年以降は年に1回(2007年と2010年は各2回、2008年は行わず)の割で公演、今年が第24回になる。
 10年ほど前からはイタリア・オペラを取り上げ、「愛の妙薬」「ドン・パスクワーレ」「セビリャの理髪師」「ラ・ボエーム」「椿姫」「アイーダ」「マリア・ストゥアルダ」「ラ・ファヴォチータ」「ランメルモールのルチア」「カプレーティとモンテッキ」「清教徒」といった作品を上演して来ている。

 今回はベッリーニの「ノルマ」だ。
 牧村邦彦指揮ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団とみつなかオペラ合唱団が出演。演出は井原広樹、舞台装置はアントニオ・マストゥロマッティ。ダブルキャストの2日目の今日は、尾崎比佐子(ノルマ)、藤田卓也(ポリオーネ)、木澤佐江子(アダルジーザ)、片桐直樹(オロヴェーゾ)、小林峻(フラヴィーオ)、味岡真紀子(クロティルデ)という配役。

 まず驚いたのは、ピットも小ぶりで、せいぜい30人ほどが納まる程度の広さなのにもかかわらず、序曲の冒頭からオーケストラがたっぷりした音で堂々と鳴り出したこと。
 牧村の鳴らし方も巧みであるに違いないが、管弦楽編成のリダクション(倉橋日出夫)の巧さもあるのだろう。その響きと演奏の見事さには、「これで充分」とさえ思えたくらいである。
 ヨーロッパの地方都市の歌劇場の中には、昔はワーグナーのオペラを第1ヴァイオリン4人という編成で上演していた所もあったとか聞く。量より質━━であることを実証した例の一つが、この「みつなかホール」のオペラ上演スタイルではないかという気がする。

 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団も好演した。牧村の指揮は、今年1月の札幌での「アイーダ」におけると同様、場面ごとの音楽の変化が明確でなく、全体の流れが単調になる傾向があるが、歌手たちを巧く支え、この小さな劇場での音響を聴きやすく構築しているという点では、やはり非凡なものがあるだろう。

 その歌手陣が、また素晴らしい。東京の国内オペラ団体の上演でも、特に最近は、これだけの水準を示した歌唱陣はなかなか聴けないのではないか。
 題名役の尾崎比佐子は、先日の「アンドレア・シェニエ」でも感嘆させられたことだが、実に力のある、温かくてしかも綺麗な声だ。立ち上がりはヴィブラートも強めで、歌唱も少し揺れるところがあるものの、長丁場の中でぐんぐんと調子を上げて行き、最終場面で完璧に決めるという、見事な「持って行き方」である。今回のラストシーンでも、これだけ伸びのある美しい声をよく最後まで些かの瑕疵もなく発揮できたものだと感心した。欲を言えば、ノルマの「怒り」と「優しさ」との描き分けを歌唱でもう少し明確に表現してほしかったところだが、これは今後に期待しよう。

 また、彼女との2重唱も多いアダルジーザ役の木澤佐江子も素晴らしい。第1幕の終り頃から歌にも気魄があふれ始め、二つの2重唱では尾崎と拮抗して全く引けを取らなかっただけでなく、「和解の2重唱」の方ではむしろ安定して聞こえたくらいである━━もっとも、この2重唱では、どのコンビもたいていメゾの方が安定した歌い方になるものだが。

 男声陣でも、藤田卓也が前記「アンドレア・シェニエ」におけると同様、胸のすくような声を聴かせてくれた。ただ最初のうちは、どうみても大劇場向けの歌いぶりに過ぎたようだが、後半、ポリオーネの苦悩が増すに従って、女声とのバランスもよくなった。期待のテナーである彼は、12月6日に東京で藤原歌劇団公演の「仮面舞踏会」のリッカルドを歌うことになっている。私は浜松国際ピアノ・コンクール本選の取材があるので、聴けないのが残念だが。

 そして、片桐直樹のオロヴェーゾは、もうベテランの貫録そのもの。「シェニエ」におけると同様、こういう重みのある人がしっかりと脇を固めてくれてこそ、オペラは成功するというものである。

 井原広樹の演出は、衣装(村上まさあき)を含め、今どき珍しい写実的なものだ。とはいえ、兵士たちの動きひとつにしても、音楽の変化に合わせてその都度立ち位置や姿勢を変えるといったように、細かい部分まで気を配った、念の入ったつくりになっていた。主役たちを含め、何もしない棒立ちの姿勢などは一切見られない舞台だ。たとえ現代のオペラ演出の潮流に属さぬものであっても、このように細かい演技が織り込まれていれば、それはそれでいいのである。
 だが、時々現われるダンスだけは、━━なくもがなであろう。「戦いだ!」の合唱場面における背景でのダンスなど、妙に野暮ったくて、舞台の悲劇的緊張感に水をさすものに感じられた。

 しかし全体としては、これは驚異的な水準の上演だった。特に音楽面でこんなに真摯なレベルの高い公演が、大阪の小さな劇場で、しかも関西に本拠を置く歌手を中心に行われていることを知ったら、お高くとまっている東京のオペラ団体も顔色を失うだろう。

 5時終演。往路と同じ阪急宝塚線で梅田へ引き返す。JRに乗り換え、6時半の新幹線に飛び乗って帰京。
          ⇒別稿  音楽の友11月号演奏会評

2015・9・19(土)都民劇場「英国ロイヤル・オペラ特別演奏会」

     東京文化会館大ホール  7時

 来日中のロイヤル・オペラの面々を集めての、一種のガラ・コンサートの趣を呈した演奏会。
 都民劇場(鑑賞団体)には、私も学生時代には会員になっていて、若き栗林義信氏の帰国演奏会(すごい人気だった)の際などは楽屋に並んでサインをもらったこともあったくらいだが━━余談はともかく、今回のものは、なかなか豪華だ。

 演奏は、アントニオ・パッパーノが指揮するロイヤル・オペラハウス管弦楽団と合唱団。
 第1部では、ユリア・レージネヴァ(S)、イルデブランド・ダルカンジェロ(Bs)、アルビナ・シャギムラトヴァ(S)、ロランド・ビリャソン(T)、ジョイス・ディドナート(Ms)によりそれぞれ「演奏会用レチタティーヴォとアリア」が歌われ、後半ではシャギムラトヴァ、ディドナート、サミュエル・サッカー、ダルカンジェロをソリストにモーツァルトの「レクイエム」が演奏されるというプログラム。
 ビリャソンは「レクイエム」にも出演する予定だったが、咽喉の調子が悪いとかで代役サッカーの出演となったもの。

 だが、とにかく第1部と第2部を通じて━━ダルカンジェロの貫録は改めていうまでもないが、何といっても完璧にわれわれを魅了したのは、ジョイス・ディドナートだった。完璧な歌唱も、存在感のある舞台姿も、まさに女王の風格である。

 パッパーノが指揮する「レクイエム」には大いに興味を持っていたのだが、聴き終ってみると、さほどの個性を感じさせる演奏とも言えず、ルーティン的な、ごく並みの出来に止まっていたという印象だけが残る。
 合唱団は60人ほどか。オーケストラの編成に比して、かなり多い方だろう。聴いた位置(1階18列ほぼ中央)のせいか、音量もオーケストラを圧するほどに大きく聞こえ、個所によっては怒鳴り過ぎではないかとさえ感じられたほどである。いくら歌劇場の合唱団でも、演奏会の場合には、宗教曲をもっと柔らかく敬虔に歌うところはある。ダイナミックな合唱ではあったが、「レクイエム」の演奏としては、明らかにアンバランスなものがあった。

2015・9・18(金)新日本フィル「新・クラシックへの扉」第49回

      すみだトリフォニーホール  2時

 マチネーで行われている「名曲コンサート」。コンサートマスターは崔文洙。
 前半に堀米ゆず子をソリストに迎えてのシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」を、後半にバーバーの「弦楽のためのアダージョ」とブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」を置き、アンコールにはヴォ―ン・ウィリアムズの「グリーンスリーヴズの幻想曲」を演奏するというプログラム。

 名曲コンサートでありながらも、ふだんあまり聴く機会のない曲をチラリと入れるあたり、企画のスパイスが感じられる。お客さんがよく入っているのは祝着のきわみ。
 指揮は、先日のバルトーク定期と同様、デリック・イノウエ。

2015・9・17(木)大植英次指揮大阪フィル マーラー「3番」

     フェスティバルホール(大阪)  7時

 つい5日前にジョナサン・ノットと東京響の演奏で聴いたばかりのマーラーの「第3交響曲」を、今度は大阪フィルハーモニー交響楽団と、その前音楽監督・大植英次の指揮で聴く。

 ノットの指揮が、音を精密に構築し、音色を彫琢し、作品を隙なく完璧にまとめたものだったのに対し、大植のそれは作品全体を大づかみにし、さまざまな楽想をぶつけ合わせ、そのまま交錯させるような演奏━━とでも言ったらよいか。
 そのため、音楽はかなり荒々しく、野性的な趣を感じさせるようになる。

 たとえば第1楽章半ばの、いろいろな主題の断片が、脈絡なく勝手にそれぞれ鳴り響いてカオス状態になる個所━━マーラーがどこかの広場で体験した「滅茶苦茶に響きあう音楽の大混乱」を、「これこそポリフォニーってもんだよ!」と面白がった話が引用される個所だが、そこはまさに、それを連想させるような演奏になっていたのである。

 ノットがこの個所をすらも一つの均衡の中にまとめていたのとは対照的に、大植の指揮は、マーラーの乱暴な(?)音楽をありのままに投げ出し、この作曲家の得体の知れぬ情熱をさらけ出して見せるような解釈といえようか。
 いきなり飛び込んで来る小太鼓の行進曲リズムといい、全管弦楽がたたきつける素朴なリズムといい、マーラーという人は、なんとまあ野暮ったいことをあけすけに(「6番」の行進曲リズムだってそうだが)やる作曲家だろう、と改めて苦笑させられる、そういう演奏でもあった。
 もっとも、指揮者に対して意地悪い見方をすれば、これはオケをあまり引き締めない指揮、ということにもなるが━━。

 テンポはむしろ速めだった。正味95分くらいだったろうか。とすれば、一般の演奏に比して、かなり速い方である。大植のマーラーも、あの「5番」の頃とはずいぶん変わったものだと思う(昔に戻った、というべきか)。だが、第6楽章最後の頂点では、テンポを落した、法悦の極みにふさわしい、見事な盛り上がりがつくり出されたのだった。

 大阪フィル(コンサートマスターは田野倉雅秋)の弦楽セクションは、特に第6楽章前半において、空間的な拡がりを豊かに感じさせるソフトで美しい響きが映えた。ホルン群、トロンボーンのソロ、舞台外からのポストホルンなども好演だった。
 しかし一方、第3楽章での2番トランペットの入りの大ミスは・・・・理由はともかく、結果としては数え間違いということになるが、今どき珍しい派手な事故だろう。

 それを含めて今日の演奏は、全体としてアンサンブルには難があり、特に後半、管の粗さが目立って行った。もともと朝比奈時代から「野武士的」といわれ、荒っぽいところがあったオケではあったが、それはあくまでも演奏のフィーリングの話であって、技術的に荒っぽいというのでは困る。他の地方オケの水準が年々目覚ましく向上している今日、それらの後塵を拝するようになっては、「関西オーケストラ界の雄」のブランドが泣くだろう。2日目の公演では、多分改善されているだろうと思うが。

 協演は、大阪フィル合唱団及び大阪すみよし少年少女合唱団と、ナタリー・シュトゥッツマン(アルト・ソロ)。シュトゥッツマンの声が、昔より軽くなって来たなという印象。

2015・9・15(火)ロイヤル・オペラ ヴェルディ:「マクベス」

     東京文化会館大ホール  3時

 フィリダ・ロイド演出、アントニオ・パッパーノ指揮ロイヤル・オペラハウス管弦楽団&合唱団。サイモン・キーンリイサイド(マクベス)、リュドミラ・モナスティルスカ(マクベス夫人)、ライモンド・アチェト(バンクォー)、テオドール・イリンカイ(マクダフ)、サミュエル・サッカー(マルコム)他。

 演出は02年6月にプレミエされたもの。
 今回の再演監督ダニエル・ドーナーがどの程度プラスマイナス(?)に関わっているのかは定かでないが、登場人物の演技や群衆の動きなど、何処といって大きな問題はないにせよ、必ずしも緊迫感のある舞台とは言い難い。長年再演を重ねているうちにだんだんタガが緩んで来るのはどんなプロダクションにも見られる現象だから、ある程度は仕方がないかもしれない。
 とにかく、全体に、あまり燃えない舞台なのである。

 だが、亡霊や人物が突然出現したり姿を消したりするくだりなど、特に外連を使うわけでもなく、シンプルながら巧みな手法で処理しているあたり、いかにも演劇の舞台といった雰囲気で、これはこれで悪くない。

 魔女たちがマクベスの運命を操るという設定は、先頃のペーター・コンヴィチュニー演出でも見られた手法だが、このロイド演出でも、1人の魔女がバンクォーの息子を逃がしてやったり、あるいは魔女集団がマクベス夫妻に可愛い子供たちのいる温かい家庭生活を夢見させて苦悩させたり、といった光景も現われる。
 凝った演出と言えば言えようが、その反面、バンクォーの亡霊を妙にリアルな姿で出現させるといったピンと来ない手法もあったりして・・・・。
 アンソニー・ワードの舞台美術も比較的シンプルだが、王冠/王位/黄金色系と、犯罪/魔術/暗黒系との対比を鮮やかに出したところは解り易い。

 パッパーノは、個所によってテンポを非常に遅く採り、悲劇性をじっくりと強調して描き出すという指揮だったが、これがオペラ全体を打ち沈んだものにし、部分的に緊迫感を失わせる、という結果を招いたのは否定できまい。

 今回は1865年のパリ改訂版でなく、1847年のフィレンツェ初演版が使われたが━━部分的には折衷版のような個所もあったような気もするのだが、のんびりと聴いていたので、たしかなことは言えない━━プログラム冊子にそれが明確にクレジットされていなかったのは、やはり不親切である。「見どころ聴きどころ」(筆者不明)では、2版の違いというより、まるで演出の所為でカットされたり復活されたりしたかのような記述が為されているが、これでは困る。

 題名役を歌い演じたキーンリイサイドは、ウィーン国立歌劇場で観たマクベス(2009年12月21日、ネミロヴァのパロディ的な酷い演出)よりは的を絞った歌唱と演技で締めていた。だが、線の細さはどこかに影を落としており、この役は本当に難役だということを改めて感じさせてしまう。
 マクベス夫人役のモナスティルスカは、残念ながら、表現力の点で、この複雑怪奇な女性の役にはあまり向いていないようだ━━たとえばプレミエ時のマリア・グレギーナのような歌手が歌い演じてくれれば、もっと鬼気迫る舞台になるはずだが。

 6時終演。

2015・9・13(日)カンブルラン指揮読売日響「トリスタンとイゾルデ」

      サントリーホール  3時

 シルヴァン・カンブルラン指揮による読売日本交響楽団の新シーズン最大の呼びもの、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」演奏会形式ノーカット上演。
 配役と演奏は、エリン・ケイヴス(トリスタン)、レイチェル・ニコルズ(イゾルデ)、アッティラ・ユン(マルケ王)、クラウディア・マーンケ(ブランゲーネ)、石野繁生(クルヴェナール)、アンドレ・モルシュ(メーロト)、与儀巧(水夫、舵手、牧童)、新国立劇場合唱団。コンサートマスターは長原幸太。

 これは、やはり大変な音楽だ。
 久しぶりに涙してしまった。昔、フルトヴェングラーの全曲レコードが出た時にすぐ買い込み、毎日のように聴いてしびれるような感動を味わったこの曲だが、近年は舞台で観ても、ゴタゴタした演出に煩わされるあまり、「涙」から遠ざかっていた。
 だが今回は演奏会形式ゆえに、音楽だけに全神経を集中できる。音楽そのものが持つ底知れぬ魔力に、久しぶりに、身も心も引き込まれた次第であった。

 詩と音楽との完璧な結合に酔いしれたのも、ここしばらくなかったことである。これも、詩の内容とは全く無関係な光景が繰り広げられる昨今の舞台演出から解放されていたゆえだろう。
 それに、劇的展開の技術の、ワーグナーの何という巧さ。イゾルデの船が沖合に見えて来て、角笛がそれを告げる瞬間、そして船が危険な岩陰に姿を消し、トリスタンとクルヴェナールが不安のどん底に叩き落されたあと、再び安全を告げる角笛の音が高らかに響きはじめるといったあたり、ワーグナーは本当に巧みな「音楽演出」家だといった感慨を深くする。

 カンブルランのつくる音楽は、いかにもフランス人指揮者らしく、粘り気のない、すっきりしたワーグナーだ。物々しい「指環」と違って、精妙極まりない「トリスタン」の音楽の場合には、これはこれで説得性はあるだろう。
 ただし第1幕で、ワーグナーが粋を尽くしたモティーフの微細な絡みの、特に低音部のパート(「死の動機」など)が明確に浮かび上がって来ない恨みがあるのは、作品解釈の根元に関わる問題ではあるけれども。

 それにまた、ホルンを妙に不必要に強調させる時があるのは、納得が行かない。それは第2幕冒頭の狩のファンファーレの個所、第2幕最後のトリスタンとイゾルデのそれぞれの歌の一部の、計3か所である。特にイゾルデが歌う「dein Erbe mir zu zeigen」の部分など、楽譜にはppのドルチェと指示されているはずのホルンが異様に強く出るので、そこでの管弦楽の陰鬱で絶望的で深淵のような曲想を、何か落ち着かないものにしてしまう。

 なお今日は、第3幕の牧笛のイングリッシュ・ホルンおよび「ホルツトランペット」なるもの、および「警告」場面でのブランゲーネと、水夫と舵手と牧童役の歌手とは、それぞれオルガンの下に配置されていた。正面の席にいたわれわれにはいい距離感ではあったが、P席やLA、LB席の聴衆にはバランスの悪い音だったであろう。
 特に「ブランゲーネの警告」は、マーンケの明晰な歌唱もあって、「夢の中から響いて来るような」ものにならず、リアルなものになり過ぎていた。こういうところからも、カンブルランの解釈は、どうもあまり「哲学的」ではないように感じられる━━。

 また「ホルツトランペット」なるものの使用は、歌劇場上演での舞台外から響いて来る設定の場合には良いだろうが、このようによく響く演奏会用ホールでの場合には、同一舞台上で吹かれると音量が大きすぎて、演奏全体のバランスを壊す。(譜面通りの)イングリッシュ・ホルンだけで、音量的にも、劇的効果の上でも、充分だったろう。

 歌手陣が素晴らしかった。ケイヴスは咽喉が本調子でなかったのか、水を摂りながらの歌唱で何とか最後まで持って行った状態だったものの、当初予定のクリスティアーネ・イーヴェンの代役として登場したレイチェル・ニコルズ(アメリカの女優とは別人)が声も歌唱表現も役柄に合致して見事なイゾルデを聴かせ、文字通りトリスタンを「救済した」。この人、バッハのカンタータなども歌うソプラノだが、「愛の死」まで澄んだ声が少しも衰えなかったのは立派である。

 マルケ王役のアッティラ・ユンは、バイロイトで主役を張るだけあって、貫録の歌唱。「悩めるマルケ王」というより、裏切った2人に対し憤怒を顕わにするといった表現ながら、その骨太で重厚で強靭な声はさすがのものだ。
 一方、ハイ・バリトンのよく通る素晴らしい声で第3幕前半を緊迫感豊かに飾ったのが、クルヴェナールの石野繁生である。バイロイトでフリッカを歌ったクラウディア・マーンケの安定したブランゲーネも、申し分ない。残る2人も、しっかりと脇を固めた。このように脇役が万全の態勢を取っていると、演奏全体が引き締まるものである。

 読響の好演については、改めてつけ加えるまでもない。これまで何十回、百何十回聴いたかと思う「トリスタン」だが、とにかくワーグナーの音楽の凄さに改めて打ちのめされたのが、今日の演奏会だった。

2015・9・12(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 マーラーの「交響曲第3番」。

 音楽監督の任期が2025/26シーズンまで延長されることが発表されたばかりのジョナサン・ノットの指揮。今日はその披露定期のような趣を呈したが、演奏もそれにふさわしい卓越したものになった。ノットと東響、また一つ「最高の」演奏をつくったと言えよう。
 コンサートマスターは大谷康子。協演は藤村実穂子(Ms)、東響コーラス、東京少年少女合唱隊。

 先頃の「9番」や「8番」と同じく、引き締まった、完全な均衡を備えた演奏である。緻密に練り上げられ、強固に構築された演奏であり、しかもその響きの明晰さゆえに、意志の強い、健康的なマーラー像といったものが描き出される。ノットのマーラーの、それが持ち味だろう。

 終楽章での、弦楽器群が織り成すふくらみのある、空間的な拡がりを感じさせる響きは、今日の演奏の中でも、とりわけ卓越したものであった。いわゆる情緒的な甘さではなく、澄み切った純な精神が歌う美しい陶酔の世界とでもいうか。
 トランペットやホルンの交錯の扱い方が、実に巧い。何度も起伏を繰り返しつつ、じわじわと頂点へ盛り上げていくその持って行き方にも、舌を巻いた。総力をあげた東響の演奏の充実ぶりも特筆すべきもので、聴いていてうれしくなったのは私だけではなかろう。

 藤村実穂子の深みのある、スケールの大きな歌唱はいつ聴いても素晴らしい。いつかも書いたが、近年の彼女の歌には、温かい情感がいっぱいにあふれるようになった。見事な存在感である。
 子供の合唱は正面2階席の上手寄り通路に配置されたが、これはあまり感心できない。そもそも客席にバンダなどを配置するのは多くの指揮者が好んでやるテだが、そうした音響でいい気持になれるのは、せいぜい指揮者自身と、ホールの1階の真ん中の席に座っている聴衆くらいなものである。その他の場所にいる聴衆にしてみれば、聴感上のバランスが崩れ、演奏に対する注意力を散漫にさせられるというマイナス点だけが残る。

 ノットは、ソロ・カーテンコールでも、聴衆から熱狂的な拍手と歓呼を贈られた。向こう10年間、これなら安泰か。
          ⇒別稿 モーストリー・クラシック12月号 公演Reviews

2015・9・12(土)尾高忠明指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 尾高忠明の客演指揮で、彼の十八番たるシベリウス・プロ。組曲「恋人たち」、「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはドン=スク・カン)、「4つの伝説曲(レンミンカイネン組曲」)。コンサートマスターは松野弘明。

 良い企画だし、シベリウス・マニアには魅力的なプログラムのはずなのに、客の入りが寂しかったのは残念。だが第2部での「レンミンカイネン組曲」は、さすが尾高、素晴らしい盛り上がりを聴かせてくれた。彼のシベリウスは、極めて陰翳に富んだスタイルのもので、これがまた一つの魅力だろう。

 尾高の指揮するこの「レンミンカイネン組曲(4つの伝説曲)」を聴いたのは、近年ではこれが3回目だ。札響(2010年11月13日)、N響(2014年2月9日、戦後3番目という大雪の日)、そして今日━━というわけだが、演奏は順を追って充実して来たように思う。
 N響とシティ・フィルとを比較すれば、オケの腕前に些か差があるのは仕方がないけれども、今日の「レンミンカイネン組曲」での演奏にこめられた気魄と推進力、昂揚感などに関して言えば、こちらシティ・フィルの方に軍配が上がったのではないか。

 「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」での巨浪のごとき起伏と押しの強さ、「トゥオネラの白鳥」および「トゥオネラのレンミンカイネン」での暗い蠢動、「レンミンカイネンの帰郷」での最後の頂点での鮮やかな転調と熱狂。━━とりわけこの最後のものは、私がこれまでナマで聴いた演奏のうちの最高ランクに属するものだったといっても、過言ではないように思う。

 シティ・フィルも、ソロの一部には不満もあったが、とにかく総力をあげた演奏には違いなく、その燃焼度は聴き応え充分のものがあった。これで、打楽器セクションがもう少し綺麗な音色であればよかったのだが・・・・。
     別稿 音楽の友11月号 演奏会評

2015・9・11(金)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ヴェルディの「運命の力」序曲、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソロは反田恭平)、ムソルグスキー~ラヴェルの「展覧会の絵」というプログラム。
 昨日のサントリーホールでの定期とは、真ん中の1曲だけが異なる。コンサートマスターは三浦章宏。

 首席客演指揮者バッティストーニ、今日も相変わらず元気のいい指揮をする。
 「運命の力」では冒頭の金管のモティーフをホールも吹き飛ぶような勢いで開始させ、「展覧会の絵」でも、縦横無尽に切りまくり、当るを幸いなぎ倒す・・・・といった小気味のいい指揮ぶりで音楽を突進させる。

 でありながらも、それらが決して粗雑にならず、デュナミークの起伏もきちんとつくられているところがいい。東京フィルも、今やこの指揮者とぴったり呼吸が合って来ているようだ。
 もっとも、いくら気鋭の若手指揮者と雖も、元気一本で押しまくればいいというものではない。「展覧会の絵」の大詰の打楽器群など、もう少し節度を弁えたバランスが欲しいものである。

 反田恭平は、先日の東京文化会館小ホールでの演奏がちょっと日本人離れした個性で面白かったので、コンチェルトは如何に、と関心を持っていた。
 実際に聴いてみると、誰かも言っていたように、オケとの合わせの呼吸を会得するのは、まだこれからのようだ。独りでどんどん弾いて行くといった感がある。まずこれも、21歳の若者としては仕方のないところだろう。

 彼が今日使用したピアノは、ホロヴィッツが愛用したヴィンテージ・ニューヨーク・スタインウェイの由。これは実に透明清澄な美しい音色のピアノではあるものの、バッティストーニと東京フィルが繰り出す大音響と応酬するのは少し無理な楽器のようである。
 ソロ・アンコールで彼が弾いたのは、ホロヴィッツ編曲「《カルメン》の主題による変奏曲」だったが、猛然たるテンポで叩きまくり、名人芸を誇示するという気負いにあふれた演奏でありながらも、清澄な音色を失わないところが見事だ。だがやはりこのピアノは、こういう弾き方にふさわしい楽器とは思えない。

 とにかく、破天荒な個性を持った日本人ピアニストが出て来たものだ。これから大いに注目されるだろう。だが、くれぐれも、周囲の浮かれた取巻き連から担ぎ上げられて変な方向に行くことのないよう、正道をまっすぐ進んでくれるよう、祈りたい。

2015・9・8(火)山田和樹指揮日本フィル&尾上右近
「歌舞伎×オーケストラ」

      サントリーホール  1時

 「日本フィル&サントリーホール とっておき アフタヌーン Vol.2 歌舞伎×オーケストラ」と長いタイトルが付されたコンサート。
 チャイコフスキーの「花のワルツ」と「ロメオとジュリエット」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」が演奏される。コンサートマスターは扇谷泰朋。最後の曲には、尾上菊之丞振付による尾上右近の舞踊が加わって、これが今日の最大の売りもの。

 プロ野球では、2ケタ得点の大差で勝ったチームは、翌日の試合は大味になる・・・・と言われる。日本フィルも、3日前の定期があまりに突き詰めた緊張のある演奏だったので、その反動で今日はもしや「定期、お疲れ様でした・・・・」となるのではないかという気がしていたが、やはりアンサンブルは大味になり、管のソロにも、相当雑なところが聞かれた。

 山田&日本フィルにしても、いつもの演奏に似合わず、細かいニュアンスを欠いて、全体に一本調子の演奏に終始した印象は拭えない。特に「花のワルツ」での殺風景で単調な表情は、このコンビとは思えぬようなものであった。

 「春の祭典」は流石に大熱演で、そのパワーもエネルギー感も猛烈を極めたが、それでもひたすら力を恃んで一気呵成に押しまくっただけの演奏になっていたのは、このコンビだからこそ求められる最高水準の演奏という基準に照らせば、かなり物足りない。
 ただし、同じ大音響による怒号咆哮でも、山田和樹が日本フィルから引き出したそれは、ラザレフが指揮した時の野性的な響きとは全く異なる、極めて豊麗な、ふくらみのある音色に彩られていた。それが救いだった。

 さて、問題の舞踊。「春の祭典」の物語を歌舞伎の舞踊で表現し、それを音楽と合致あるいは対比させるという試みは、実に面白いアイディアだ。先ごろ東京文化会館が制作した泰西名曲と日本舞踊の合体(2012年12月7日)に勝るとも劣らぬ斬新な好企画だと思う。
 ただ、━━実際の出来はどうだったか? 押し寄せる大管弦楽に対する、たった1人の舞。激動と静厳。躍動と静歩。この対比は、予想以上に難しいものだと、いろいろ考えさせられた。ただ一緒にやったからといって、巧くイメージが合うものでもない。

 だが貴重な機会だったことは、いうまでもない。
 まだほかにも、いろいろな手法があるだろう。日本の芸術の粋たる歌舞伎と、ヨーロッパの音楽━━器楽、オペラ、バレエを含めて━━との出会いには、無限の可能性があるような気がする。

2015・9・6(日)首都オペラ プッチーニ:「トゥーランドット」

    神奈川県民ホール  2時

 佐藤美晴の演出、岩村力指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団と首都オペラ合唱団。福田祥子(トゥーランドット)、内山信吾(カラフ)、陰山雅代(リュウ)、佐藤泰弘(ティムール)他の出演。

 トゥーランドットが愛に目覚めるとともに民衆は支配者による束縛から解放され、明るい自由と和解の歓びに浸り、皇妃の衣装を脱ぎ捨てた彼女もカラフとともに民衆の中に入って行く。そこでは、老皇帝ももはや登場せず、「宮殿」(もともとシンプルで象徴的な装置だったが)も姿を消している。
 ━━今回のこの幕切れの演出は、特に今日、すこぶる意味深いものがあるだろう。そして、それまでの「夜」のような暗い舞台や、民衆の硬直した動作などの理由も、ここで理解されるはず。とはいえ、そこにいたるまでの「圧政下の」群衆の演技に、もう少し明確で解りやすい動きが付与されていれば、この対照はもっと際立っただろうと思う。

 歌手陣では内山、陰山、佐藤が声も安定して好演していた。岩村は神奈川フィルをいっぱいに鳴らし、グランドオペラとしての音楽の豪壮さを強調していたが、欧州の歌劇場ではこのくらいオーケストラを轟々と鳴らすことが多いのだから、むしろ好ましい姿勢と言えるだろう。

 なお首都オペラの公演は、これが第24回にあたっていた。1989年に「オテロ」で旗揚げして以来、ほとんど新演出のみで通して来たその意欲は、限りない称賛に値する。

2015・9・5(土)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

       サントリーホール  2時

 シーズン幕開きの定期は、正指揮者・山田和樹の指揮。ミヨーの「世界の創造」、ベートーヴェンの「第1交響曲」、イベールの「アルト・サクソフォンと11の楽器のための室内協奏曲」、別宮貞雄の「第1交響曲」(日本フィル・シリーズ作品の再演)という、極めてスリリングな、清新なプログラムでふたを開けた。

 プレトークは後半しか聞けなかったが、マエストロ山田も、随分弁舌爽やかになり、話の持って行き方も鮮やかになった。
 だが鮮やかなのは話だけではない。今日の日本フィルとの演奏を聴くと、山田和樹という指揮者は、本当に「大変な指揮者」になって来たな、という感を受ける。作品に対するアプローチの姿勢も強靭で、自信満々の意気が伝わって来る。正面切った表現も、大胆で実験的な解釈も、自己のやりたいことを明確に主張し、しかもオーケストラをその狙い通りに制御してしまう。

 日本フィル(コンサートマスター 扇谷泰朋)もよくこれに応えている。昨年9月のR・シュトラウスの作品のころからすでに山田と日本フィルは新しいステップを踏み出したと感じられたが、オケの演奏水準の目覚ましい向上もあって、今日のような濃密な演奏に到達できたのだろう。日本フィルは、十数年前までの「暗い」雰囲気を、今や跡形もないまでに吹き飛ばしてしまった。

 特にベートーヴェンの「第1交響曲」。16型の倍管編成という、最近の流行には逆行する手法だが、私は常々、現代のホールと2千人の聴衆を相手の演奏なら、この編成は当然のことだと思っている。
 そして、演奏スタイルも、現代の欧州の指揮者がよくやるタイプのもので、━━これはやはり「誇張」ではなく「強調」と表現すべきかと思うのだが━━第2楽章冒頭の弦をソリに変えたり、第4楽章冒頭のフェルマータを普通の演奏の数倍に引き延ばしたり、そのあとの主題に入るまでの弦の上行個所に手を変え品を変え趣向を凝らしたり、という具合なのだが、それが全く畸形にならず、全体のバランスの中にぴたりと納められているところが、山田和樹の見事な所だろう。

 第2楽章における音色の構築は、木管をはじめ、実に綿密で、秀逸だった。大編成のオケを咆哮躍動させた演奏だったが、この「第1番」が、これほどいい意味での「怪物的」なイメージで聞こえたのも初めての経験だった。

 いっぽう、別宮貞雄の「交響曲第1番」をナマで聴いたのは実に53年ぶり、「日本フィル・シリーズ」における初演以来かもしれない。といってもあの頃は私もこの曲を理解できるほどの感性は持ち合わせていなかった(今だって怪しいものだが)。とにかくその時には、よく解らないながらも、分厚い音の構築ながらも透き通った、いかにも「フランス系」の爽やかな曲だな、というイメージを感じたのを記憶している。が、今日山田和樹の指揮で聴いてみると、まるで後期ロマン派の作品のように濃厚で、しかも激しく沸騰する音楽に聞こえたのには、驚いた。
 もちろんこれは、指揮者の個性にもよるところが大きいだろう。それにしても別宮貞雄という人の音楽が、半世紀を経てこのように異なったイメージで再現されること自体が非常に興味深い現象だ。

 別宮貞雄は周知のようにダリウス・ミヨーに師事し、メシアンに共感した人である。そのミヨーの「世界の創造」を冒頭に持って来て、トリの別宮作品と対を成さしめるというプログラミングの心憎さ。企画担当者は相当な腕利きのクセモノだろう。
 しかも、同じフランス近代のジャック・イベールの協奏曲をも加えた。ここでソリストとして登場し、文字通り颯爽とした演奏を聴かせたのは、サクソフォンの若きスター、上野耕平である。

 若いパワーと「第1番」、それにフランス、といったキーワードが炸裂した今日のコンサート。爽やかで、鮮やかだった。

2015・9・4(金)デリック・イノウエ指揮新日本フィル

       すみだトリフォニーホール  7時15分

 新シーズンの定期はバルトーク特集で始められ、指揮には客演のデリック・イノウエが迎えられていた。

 第1部の「ピアノ協奏曲第3番」では、小菅優のソロが冒頭から拡がりをもって響きはじめ、バルトークのコンチェルトを弾くのはこれが初めてとはとても思えないほどの爽やかな演奏を聴かせたが、D・イノウエの指揮が何とも平板に過ぎる。
 この調子では第2部の「青ひげ公の城」はどうなることか、と思わないでもなかったが、━━幸いにもオペラの方では新日本フィル(コンサートマスターは崔文洙)が頑張り、大きな起伏を持ったシンフォニックな演奏になった。もっともそれも、開幕後しばらくしてから調子に乗ったかという感であり、また全曲を通じて心理的なニュアンスの表出には不足気味の演奏ではあったのだが・・・・。

 ともあれ、音楽自体に強烈な力があるので、演奏会形式で聴くと、オーケストラが持つ多彩な色合いがストレートに伝わって来るという良さはある。
 声楽ソリストはアルフレッド・ウォーカー(青ひげ公)とミカエラ・マーテンス(ユディット)。特に前者は、剛毅さと脆さとを二つながら併せ持った青ひげ公という性格を打ち出した見事な歌唱を聴かせてくれた。

 なお今回は演奏会形式と銘打たれてはいたが、事実上セミ・ステージ形式に近いスタイルの上演である。歌手はオーケストラ後方の舞台上で簡単な演技を行なう。
 しかしその舞台に、イスとテーブルを置き、その白いテーブルクロスの上に明るい花を飾るというのは、このオペラのイメージからはあまりにかけ離れていないか? 
 「血」のモティーフが響くたびにオルガンに赤色の光を投映するというのも、他に照明演出らしきものがないので、少々唐突な感を与える。

 また第5の扉の場面でバンダを1階客席後方に配置するのはともかく、客席の明かりまで上げる必要は無かろう。何となく白けてしまうし、演奏への集中度を失わせる。最終場面で舞台の照明を落し「闇」とするのはいいけれども、客席が半明りのままでは、何にもならない。思いつきで中途半端に演出するくらい雰囲気を壊すものはない。
 また字幕は、以前井上道義指揮の上演の時にも使われたのと多分同じもので、本来の意味とはちょっと違うところが多々ある。英訳の対訳からでも訳したのだろうか?

2015・9・2(水)下野竜也指揮東京都交響楽団

    東京文化会館大ホール  7時

 秋のシーズン開幕。第792回定期Aシリーズは下野竜也の客演で、コダーイの「夏の夕べ」、グリーグの組曲「ホルベアの時代から」、ドヴォルジャークの「第4交響曲」というプログラム。あまりなじみのある曲ではないにもかかわらず、客席はほぼ満員。最近の都響の人気を物語るだろう。

 今夜の圧巻は予想通り、ドヴォルジャークの「4番」だった。
 この曲、下野は以前に読響を指揮して素晴らしい演奏を聴かせたことがあるが、今回はさらにデュナミークの対比が強烈になり、いっそう鋭い起伏の生じた演奏になった。
 残響の少ないこのホールは、音を極度に明晰なものにしてしまうので、その特徴がひときわ目立ったのかもしれない。
 素朴な民族舞踊のような第3楽章さえも、強弱の対比を鮮烈にした荒々しいエネルギーに満たされた。終楽章の弾むようなモティーフ(何度聴いても「サン・サン・サントリー」と聞こえて仕方がない)も、リズミカルに際立つ。

 こういったメリハリの強靭さは日本の指揮者とオケにしてはむしろ珍しい部類に入るもので、━━「力み過ぎ」と言う人もいるかもしれないが━━むしろ非常に面白いものがあるだろう。
 ただその終楽章では、前回あれほど「大団円」的な雰囲気を突然つくり出して感動的だった叙情的なドヴォルジャーク節の主題が、今回は意外に際立たず、楽章全体を力で押し切ったかのような印象を生んだことだけがちょっと惜しいか。
 とはいうものの、大詰の盛り上げは、下野は相変わらず巧い。彼の創る音楽はますます逞しくなった感がある。

 都響(コンサートマスターは山本友重)は、特にこの「4番」の第1楽章中盤あたりからアンサンブルの見事さを発揮していった。

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