2017-05

2015・8・29(土)シュトックハウゼン:「シュティムング」

       サントリーホール・ブルーローズ 7時

 薄暗い電灯の下で、6人の男女が車座になって座り、お経みたいな、呪文みたいなのを延々と唱えるんだぜ━━と、誰だったか、1970年の大阪万博でこの曲を聴いたヤツが言っていたセリフが、突然記憶の中に甦った。45年間もずっと忘れていた言葉を、それも演奏が始まって、音楽に浸った瞬間に、「あ、この曲だったか━━」と思い出した。

 当時の資料をひっくり返してみると、あの大阪万博(3月~9月)の際、「西ドイツ館」では、ツィンマーマン(!)やブラッハーなどの「現代ドイツの電子音楽作品」とともに、シュトックハウゼンの作品も「ツィクルス」「コンタクテ」など多数が「再生」または「演奏」されていたことがわかる。この「シュティムング」も、その一環として演奏されていたのだった。
 その上、若きシュトックハウゼンご本人もほぼ半年近く日本にいて、6月半ばまで毎日、自作の録音テープの再生を自ら担当したり、生演奏に立ち会ったりしていたのである。

 実は私も、大阪万博には仕事を含めて4度ほど足を運んでいたのだが、立ち寄ったのはフェスティバルホール(セルとクリーヴランド管のリハーサル)が1回、あとは武満徹氏が音楽プロデューサーを務めていた「鉄鋼館スペース・シアター」だけだった。
 「西ドイツ館」で行われているコンサートがそういう規模のものだと知っていたら、無理をしてでも立ち寄ったのに、と思う。60年代から草月会館のホールに日参してジョン・ケージを聴き、ベリオやカーゲルやピエール・アンリのレコードに熱中し、とりわけシュトックハウゼンの「コンタクテ」のレコードを自宅で大音量再生して陶酔していた時期の生意気なガキとしては、あの機会を逸したのは、大いに悔やまれることであった。

 もっとも、「西ドイツ館」のPRそのものが、鉄鋼館に比べると、少々地味だったせいもあるだろう。鉄鋼館の方は、1008個のスピーカーと820台のアンプを駆使した精巧緻密な音響(技術・若林駿介氏)を売り物にして、現代音楽祭から雅楽に至る幅広いレパートリーを打ち出し、マスコミでも大きく取り上げられていたのである。

 本題に戻る。
 今回の「シュティムング」の演奏では、小ホールの中央に一段高い小さな舞台を設置、まさに「電灯」が吊り下げられたその舞台の上で、歌手6人が円形の位置に座し、声を会場の四方のスピーカーから増幅して響かせるという形が採られた。
 演奏は、工藤あかね(S)、ユーリア・ミハーイ(S、音楽監督)、太田真紀(A)、金沢青児(T)、山枡信明(T),松平敬(Bs)の歌手たち。それに有馬純寿が音響を担当した。聴衆は、その舞台をぐるりと囲んで聴く。
 歌手たちが演奏するのは、もちろんお経でも呪文でもない。様々な高さや表情を持った声と、ドイツ語の歌詞、口の形を変えて発音する様々な声、などである。

 それらを聴いているうちに、何か理由は判然としないけれども、60~70年代に当時のこの種の現代音楽を聴いた時の感覚が、自分でも呆気にとられるほど鮮明に蘇って来たのだった。作品や演奏のスタイルが旧いという意味ではないのだが、━━というより、あの頃はこういうタイプの曲や演奏を、新鮮な感覚で、随分夢中になって聴いたことがあるな、という記憶のようなものである。ということは、この作品は、やはりシュトックハウゼンとしては、60年代末の作風━━であることを証明しているのかもしれない。

 ではあるものの、それらの声が同時に響き、交錯していく時の微細で複雑なハーモニーは、今聴いても、喩えようもない美しさだ! たった6人の声がこれだけ多彩な倍音効果を生み出すものなのか、と驚嘆させられる。それは言うまでもなく、「七色の声」でおなじみの松平敬さんをはじめ、今日の歌手たちの力量ゆえでもあっただろう。
 正味演奏時間は70分を超すほどだったが、私には全く長く感じられなかった。

 歌手たちの入場と退場もすこぶるセレモニー的だが、これらを含め、やはり何か密教の儀式めいた雰囲気がつきまとうのも、たまらなく面白い。
 そう、60年代の草月会館ホールで、ジョン・ケージが真面目な顔で、長い棒で床をがりがりとこすりながら客席に入って来る「演奏」をしていた時にも「まるで儀式だ」と思ったものだった。━━あの時には、緊張に耐え切れず、ついニヤニヤしてしまったものだったが。

2015・8・28(金)セイジ・オザワ松本フェスティバル
ファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

      キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)  7時

 その「指揮者に人を得た」時のサイトウ・キネン・オーケストラが如何に良い演奏をするかの例を今夜聴くことができたのは、幸いだった。

 昨年に連続して登場したファビオ・ルイージだったが、彼がこれほどオーケストラから熱っぽい演奏を引き出したのは、今までほとんど聴いたことがなかった。言いかえれば、ルイージにこれほど燃え上がる指揮をさせたオーケストラが他にどのくらいあったろうか、ということになるだろう。
 その意味では、ルイージと、このサイトウ・キネン・オーケストラとは、極めて相性のいい関係になっているように感じられる。

 第1部で演奏されたハイドンの「交響曲第82番《熊》」での歯切れのいいリズム、弾力に富んだ活気のある表情は、とかく重い、少し物々しい音を出す傾向にあるこのオーケストラからは滅多に聴けないものであったろう。
 それにしても、ルイージがこんなにダイナミックに弾む楽しげな音楽をつくるとは予想外だった・・・・全曲最後も鮮やかに決まっていた。

 弦は12型だったが、相変わらず雄弁で、演奏全体をリードしていた。
 高所の2階席で聴いていたわれわれ(視力の悪い?)業者たちは、溌剌としてキュートな表情で弾く女性コンサートマスターが最初は誰だかわからず、「見たことのある人だけど・・・・」などと、とぼけたことを囁き合っていたのだが、それがあの竹澤恭子さんと判るや、「そう言われりゃそうだ、でも今日は少し雰囲気が違うな」とびっくりしたり、彼女もこのオケのコンマスをやるんだ、と改めて感動したりした次第だ。
 第2楽章の最後で、まるで不渡手形がやっと決済されたかのように主題の結びの旋律が初めて現れるあたり(私は好きな個所だが)、ここでは彼女の闊達な身振りが醸し出すイメージが、そのままオーケストラに反映して昂揚をもたらしたかのようにさえ聞こえたのだった。

 後半は、コンサートマスターに大御所の豊嶋泰嗣が、トップサイドに矢部達哉が座っての、マーラーの「交響曲第5番」。
 16型の弦は強靭だったし、トランペットにガボール・タルコヴィ、ホルンにラデク・バボラークらを配した金管群も壮烈なソロを繰り広げる。名手揃いのアンサンブルという特色を、余すところなく出した猛烈な演奏であった。このサイトウ・キネン・オーケストラがこれだけ噴火山の如きエネルギーを轟かせたのは、24年間毎年聴いて来た私の知る限りでは、小澤征爾指揮の「幻想交響曲」を除けば、ただ3年前にハーディングを指揮に迎えた「アルプス交響曲」の演奏あるのみだろう。

 もちろん、大きな音を出していたからいいと言っているのではない。第4楽章の「アダージェット」では、吉野直子のハープを加えた弦の音色は実に瑞々しく、空間的な拡がりも併せ持って、見事な叙情の世界を形づくっていたのである。

 ここでも、ルイージがこれほど「燃える」音楽をつくるとは、予想外であった。相手がサイトウ・キネン・オーケストラであったればこそ、こういう演奏を為し得たのかもしれない。
 彼はオケからその良さを引き出し、オケは指揮者からその良さを引き出した。ルイージに対する聴衆の拍手も、熱狂的なものがあった(まあ、マーラーの「5番」という曲のせいもあるだろうとは思うが)。
 いずれにしてもこの相性の良さは注目される。しかも、2年連続しての客演指揮。もしかしたらルイージは、小澤のあとを引き受ける指揮者の━━その最有力候補となり得るか?

2015・8・27(木)セイジ・オザワ松本フェスティバル       
ベルリオーズ:オペラ「ベアトリスとベネディクト」

    まつもと市民芸術館・主ホール  7時

 珍しいオペラをやったものである。
 小澤さんは1964年のタングルウッド音楽祭でこの曲を指揮したことがあるとのこと。若武者の頃の思い出をもう一度ということもあるだろうが、それ以外にも、「なるべくみんながあまりやらないようなオペラを選んでやっているつもり」(「道楽者のなりゆき」上演時の私のインタビューでの発言)という原点回帰の意図があったのかもしれない。

 そういうせっかくの機会だったのに、また怪我のため指揮できなくなったのは、かえすがえすも残念であった。代役として、オペラ・ボストンなどで活躍しているギル・ローズという人が指揮した。

 「ベアトリスとベネディクト」は、オペラ・コミーク・スタイルの作品ゆえにセリフ部分もかなり多いが、フランス語で歌い喋るソロ歌手たち(語り役も含む)は全員が外国人勢とあって、全く違和感なしに進められた。

 配役は、若い将校ベネディクトをジャン=フランソワ・ボラ、その恋人ベアトリスをマリー・ルノルマン、シチリア島守備隊司令官ドン・ペドロをポール・ガイ、副官クラウディオをエドウィン・クロスリー・メルセル、その恋人エローをリディア・テューシェル、彼女の女官ウルスルをカレン・カージル、軍楽長ソマローネをジャン=フィリップ・ラフォン、メッシーナの総督レオナートをクリスチャン・ゴノン、その他。
 ベアトリス役は、初日は歌ったヴィルジニー・ヴェレーズが風邪とかで、今日だけ急遽変更になった。

 特にスター的な人はいないけれども、このフェスティバルにはおなじみのラフォンが愉快な楽士長を演じて舞台に活気をつけ、また2012年に「火刑台上のジャンヌ・ダルク」で僧ドミニクを演じたゴノンも、コメディ・フランセーズ所属俳優の実力を生かした語り役で貫録を示していた。その他の歌手も手堅く歌い演じてくれるといった具合で、比較的まとまりの良い出来だったといえよう。

 一方、群衆役は、日本のOMF合唱団が歌い演じたが、これがまた予想以上によく頑張っていたのが嬉しい。「グロテスクな祝典歌」でのコミカルな発声など見事なもので、フランス人たち主役陣の歌をバックアップして隙がなかったのである。

 演出は、コム・ドゥ・ベルシーズが受け持っていた。だが、これはまた、舞台装置(シゴレーヌ・ドゥ・シャシー)を含め、冗談でやっているのではないかと思えるほどの、今どき珍しい超写実的なスタイルだ。全員が客席正面を向いて直立不動で歌ったり、主役が歌っている時に脇役は背景で佇立したまま動かずという光景があったりするのは、旧き「決まりの型」から一歩も出ていない演出と言わざるを得まい。
 ベルシーズは、3年前の「火刑台上のジャンヌ・ダルク」の時にもどちらかというと保守的な路線を見せていたが、・・・・もしかしたらいずれも、突飛な演出を嫌う総監督小澤の注文だったのか? 

 まあ、曲が曲だけに、楽しく観せたい、という狙いもあるだろう。だが、四半世紀近くに及ぶ歴史を持つこの音楽祭が、かつては「エディプス王」「ファウストの劫罰」「イェヌーファ」「利口な女狐の物語」「カルメル会修道女の対話」など━━中には共同制作もあったにしても━━日本のオペラ界に新風を吹き込んだ意欲的な舞台を輩出していたことを思うと、最近の保守回帰路線(?)は、このフェスティバルが何かローカルな、前進することを止めてしまった存在に陥るもののように感じられてしまうのが寂しい。

 ところで、指揮者ギル・ローズだが・・・・極めて丁寧ではあるが、やはり生真面目な表現の指揮だ。
 といっても、もともとベルリオーズの本来の作風には、やはり壮大でシリアスな音楽に最高のものを発揮する特徴があるだろう。このような「喜劇」を手がけると、どうしても何か、無理をしているような感を与えてしまう(それゆえ第1幕終曲の二重唱のような曲想の個所では「カルタゴのトロイ人」のディドとアエネイースの二重唱とも共通する美しさが出る)。そういう意味ではこの曲は、かなりの難曲ではないかと思われる。
 ローズにそれが上手くこなせていたとは言い難い━━序曲など、弦(コンサートマスターは矢部達哉)の音色は綺麗で良かったとはいえ、音楽のノリの悪さには心配させられたほどである。幸いにも曲が進むに従い、次第に持ち直した。それにしても、もう少し演奏には、闊達さと、瑞々しさとが欲しかった。

 もっともこれには、サイトウ・キネン・オーケストラにも責任があるだろう。以前にも書いたことだが、このオケは、非常に巧いけれども、指揮者に「気に入った」人を得ない時には、あまり気の乗らない演奏をする癖がある(在京のどこやらのオケによく似ている)。
 これは、このフェスティバルの将来に大きくかかわってくる問題だ。小澤さんに昔日のような活躍が望めなくなった場合、このオーケストラは、本当にフェスティバルの「顔」としてやっていけるのかどうか? それを真剣に考えなくてはいけない状況が、すでにやって来ているからである。

 上演時間は、休憩20分間(実際には30分くらいか)を含め、2時間15分程度を要した。

2015・8・23(日)B・A・ツィンマーマンの「レクイエム」

      サントリーホール  6時

 サントリーホール恒例の「サマーフェスティバル」の2日目。上演されたのは、ベルント・アロイス・ツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」という大曲。
 大野和士の指揮、東京都交響楽団、新国立劇場合唱団、森川栄子(S)、大沼徹(Bs)、長谷川初範&塩田泰久(Nar)、スガダイロー・クインテット(Jazz Combo)が演奏。
 プレトークには、大野和士と、今回の制作プロデューサーの役割を果たした長木誠司が出演して約30分。そのあと休憩15分を挟んで、「レクイエム」(約62分)が演奏された。

 ジャズ・コンボを含めたオーケストラは通常の位置に並び、合唱は2階席の四方に分かれて配置され、それらのほとんどにはPAが使用される。エレクトロニクス担当には有馬純寿が当たっていたが、演奏者と同様、その役割は非常に大きいだろう。

 音楽はほぼ全曲にわたり轟々たる大音響の連続だが、最大の話題となっていたのは、そこに織り込まれたさまざまな素材によるコラージュだ。解説書には、その膨大なリストが載っている。音楽作品としては、たとえばベートーヴェンの「第9」、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」や「神々の黄昏」、ポール・マッカートニーの「ヘイ・ジュード」の断片などが容易く聴き取れるだろう。また言葉の素材としては、ヴィトゲンシュタインやマヤコフスキーの作品の一節、ヒトラーや毛沢東やドプチェク他の演説の断片などが、音源素材やナレーターにより再現される。

 これらは、会場のあちこちに置かれたスピーカーから混然として響きわたり、オーケストラや声楽と一体になって、われわれを音響の坩堝にたたき込む。「言葉」は、オルガンの前に設置された巨大なスクリーンに投映される日本語字幕で読むことができるが、それは4種類が同時に出ることもあり、また凝ったデザインまで施されているとあって、すべて判読するのは至難の業だ。1時間もこの複雑な字幕を見続けるのは、目のいい若い聴衆でないと無理だろう。
 それらの中心となって滔々と流れるのが、「レクイエム」のテキストであることは、言うまでもない。

 コラージュを加えた作品は、古今数々あるだろうが、この「レクイエム」は、その中でもおそらく、ずば抜けた規模を持つものだ。その巨大性、乱雑なように見えてがっちりした構築、そして恐るべき粘着した持続力━━こういうのを聴くと、やはりドイツ人でなくては創り得ない作品だな、という気がする。

 概して第2次世界大戦時から60年代にいたる精神史や政治史からの記録が轟々と流れていくこの「レクイエム」━━ツィンマーマンが、その鋭敏繊細な感受性で受け止めた歴史の重みだ。彼はこの曲で痛切に祈りつつも、その初演の翌年(1970年)には自ら命を絶ってしまった。悲痛な出来事である。
 祈りの歌ではあるものの、聴き方によっては無限の奥行を持つ魔窟に引き込まれる作品。心から感動するとまでは行かなかったが、壮大で凄まじいその気宇には感嘆させられる。企画者と、演奏者には賛辞を捧げたい。

 カーテンコールの中で、スガダイロー・クインテットが、おそらくは大野の誘いで、ほんの1分ほどだが、華やかな演奏を聴かせた。この音の、何とまあ美しかったこと! 私は、一瞬救われたような思いになったが、しかし、「レクイエム」に涙の出るほど感動した聴き手だったら、このコンボの演奏が始まる前に会場を出ていた方が正解だったかもしれぬ・・・・。

2015・8・20(木)ザルツブルク篇(完)「ばらの騎士」

      ザルツブルク祝祭大劇場  6時

 昨年プレミエされ、大方の好評を得たハリー・クプファー演出プロダクションの再演で、今年は4回公演、今夜が初日。ご本人もカーテンコールに出て来た。さすがにブーイングは一つも飛ばない。

 主な配役は以下の通り━━元帥夫人をクラッシミラ・ストヤノーヴァ、オクタヴィアンをソフィー・コッシュ、オックス男爵をギュンター・グロイスベック、ゾフィーをゴルダ・シュルツ、ファーニナルをアドリアン・エレート。そしてフランツ・ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィルとウィーン国立歌劇場合唱団。

 何より、この劇場の広大なピットからあふれ出るR・シュトラウスの壮麗な音楽に酔わされる。やはり来てよかった、としみじみ思うのは、こういう瞬間である。ウェルザー=メストがウィーン・フィルから引き出す音は今夜も密度が濃い。
 聴いた席は1階9列11で、この席で聴く音にしては、管の音がちょっと硬質に聞こえたが、弦の豊麗な音色はやはり比類ないものだ。大詰めの3重唱や2重唱の個所など、まさに法悦の極みといったところである。「フィデリオ」といい、この「ばらの騎士」といい、ウェルザー=メストの最近の好調ぶりは目覚ましい。

 歌手陣も手堅い出来で、粒がそろっている。前述の主役陣5人のうち、4人は昨年に続く出演とあって慣れたものだが、ゾフィー役のシュルツは初顔で、少し緊張していたのか、第2幕最初のオクタヴィアンとの対話の個所では、2か所ほど「落っこちた」ような気がしたのだが━━ただしこちらも、そう言い切れるほどの自信はないが・・・・。

 クプファーの演出は、ストレート系の重厚な風格を持ったものだ。
 そしてこの演出は、ハンス・シェヴァーノッホの、これも重厚な、非常に気品のある舞台装置によって、さらに盛り上げられる。回転舞台で移動する装置の中には、元帥夫人の寝室のドアを象徴する大きな門のようなものがあって・・・・しかし、これが出ていた時、ドアの「向こう側」にあるベッドや、そこで身づくろいをするオクタヴィアンの姿は、反対側の上手側前方客席からは見えたであろうか? 

 また、この舞台ではトーマス・ライマーのビデオデザインが威力を発揮していた。広い舞台の後方壁面いっぱいを飾る鮮明な画像━━建物、緑の公園、霧に包まれた公演の風景などが、実に妙なる奮起を醸し出す。これらは鮮明に過ぎて、時に登場人物の姿を引き立たせなくしてしまうという欠点はあるが、とにかく豪華絢爛たるものであった。

 演技の設定は、クプファーらしく徹底している。音楽の動きにきっかけを合わせた、━━音楽を破壊せず邪魔せず、しかも自由な変化を持たせた、理想的な演出である。
 要所にはト書きをちょっと変えて、面白いニュアンスを持たせた演技を加えている。例えば第2幕、オックス男爵が傷を負う場面は、彼が無理して決闘に応じるのではなく、オクタヴィアンが手渡そうとした剣を逃げ腰になって払い落とそうとした瞬間に誤って手を傷つけてしまうという流れにし、オックスがオッチョコチョイな男であることを暗示した(このあたりのグロイスベックの演技もなかなか秀逸だ)。

 また第3幕の頂点たる、オクタヴィアンと元帥夫人の別れの場面も、ストヤノーヴァの簡単な動作の裡に万感のこもる演技は見事で、心理の機微をよく突いているだろう。とりわけ彼女が、ファーニナルの「若い者はみんなこうなんですかね」と語りかけるのに「Ja,Ja」とだけ答える有名な場面では━━2人は豪華な自動車に乗って舞台を横切って帰って行くのだが、そこで彼女はまっすぐ前を見つめたまま、オクタヴィアンをもはや見ようともしない。全ては終ったという諦めが、端整な悲哀の中に表現される。それは、なまじ表情たっぷりの演技より、はるかに観客の心を打つ。

 そして幕切れ、黒人の子供が元帥夫人の忘れたハンカチを探しにちょこちょこと出て来る場面━━私はどうもここは、それまでの感動の気分が殺がれて好きではないのだが━━は、今回は子供ではなく、夫人の召使の一人が探しに来て拾う。そしてそれを夫人に届けようと、ちょうど滑り出て来たあの「寝室のドア」の前に立ち━━思いつめたようにそれを愛しげに顔に当て、主人へのやるせない憧憬を表現する、という演出なのである・・・・これは素晴らしい光景だった。

 かようにクプファーの演出には、ト書きとはちょっと違う形で、実にうまく心理の機微を衝いている個所が少なくない。
 特に今回、私が最も感心したのはオクタヴィアンの性格表現だ。非常に細かく、ウィットに富んでいる。コッシュの演技の巧さにも舌を巻いた。
 例えば、オックス男爵に対する嫌悪と揶揄とを綯い交ぜにした態度。第2幕で、「いいですか、このお嬢さん(ゾフィー)はあなたが大嫌いなんですよ」と告げながら、威嚇か嘲弄か茶目か、ことさらに自分の顔をオックスの顔の前に突き出してみせるという演技。

 こうした気の利いた芝居のあとに、オクタヴィアンが終幕で、ゾフィーと元帥夫人との狭間にあって悩み、それが元帥夫人への申し訳なさと感謝とが綯い交ぜになる感情に変って行くという、あの場面が展開されるのである。このあたりでのコッシュの微細で表情豊かな演技は、もう一流の役者であった。
 一般の演出では、ドラマの主役は元帥夫人に設定されることが多いが、このクプファー演出では、主役はまさにオクタヴィアン(つまり「ばらの騎士」だが)に置かれていることが感じられる。それは、ただこのコッシュのような卓越した演技力を持つ歌手によってのみ、実現されるものであろう。

 全曲のクライマックスにおけるこうした感動的な光景。そして演奏の良さ。これ以上何を求める要があるだろう?

 終演は10時半過ぎ。小雨になった。今回のザルツブルク取材は、これで完了。ホテルで荷造り15分、翌日午後の便で帰国予定。
        ザルツブルク編別稿 モーストリークラシック11月号

2015・8・19(水)ザルツブルク篇(6)「トーリドのイフィジェニー」

     モーツァルトの家  7時

 今回最も楽しみにしていた演目、グルックのオペラ「トーリドのイフィジェニー(タウリスのイピゲネイア)」。
 モーシェ・レイゼルとパトリス・コーリエのコンビによる新演出5回公演の、今日がプレミエ。

 配役と演奏は、アガメムノン王の娘イフィジェニーをチェチーリア・バルトリ、その兄オレスト(オレステス)をクリストファー・マルトマン、その親友ピラド(ピュラデス)をロランド・ビリャソン、スキタイの残虐な王トーア(トアス)をミヒャエル・クラウス、女神ディアーヌ(ディアーナ)をレベッカ・オルヴェラ、その他。ディエゴ・ファソリス指揮のイ・バロッキスティとスイス放送合唱団。

 2階正面最前列中央で聴く。イ・バロッキスティの音は必ずしも大きくないが、グルックの多彩な管弦楽法、特にレチタティーヴォとアリア等の密接な関連による劇的な起伏などは充分に再現されており、この作曲家のオペラの素晴らしさを堪能することができる。
 ファソリスの指揮も、予想したよりはドラマティックな動きがあって良いが━━ただしその指揮がレチタティーヴォとアリアの不離の流れに忠実であるがゆえに、個所によっては、ここはもう少しアリアが際立つように演奏してくれた方がいいのに、という感がないでもない。
 だが昨夜のヘンゲルブロックが指揮したバルタザール・ノイマン・アンサンブルと同様、ピリオド楽器オーケストラの美しい音色は、この音楽祭のマッチョな響きのオーケストラ群の中にあって、ひときわ清涼な印象を与えてくれる。

 歌手陣。役者はそろっていて聴きものだが、ただ、多少アンバランスな印象がなくもない。
 バルトリは、このジャンルでは、常に「決め」てくれる。彼女に関しては、文句の付けどころが無い。
 だがマルトマンは、ピリオド楽器のオーケストラ相手に、どうも吠え過ぎではなかろうか。情熱的でパワフルなオレストとしては面白いけれども、特にビリャソンとの声量的なバランスが、悪いのである。

 そのビリャソンは、もちろん十数年前に「彗星のごとく現れた」頃の輝かしさに比べると物足りない面もあるが、しかしこれならもう大丈夫だろう、と思わせる出来だ。だがそれにしても、彼もピリオド楽器オケに合わせる様式の声じゃない。
 またクラウスは、声の物凄さと荒々しい勢いとで随一で、いかにも「蛮族の王」(といってもネクタイに背広姿だが)にふさわしいものの、これもイ・バロッキスティの音に対しては怒鳴り過ぎだろう。

 結局、この3人の男声は、むしろ昔、プレートルがモダン・オケを指揮したレコードのような、超ダイナミックな演奏には素晴らしく合うだろう。━━というわけで、4人の主役の声はやや調和を欠くきらいはある。しかしこれはやはり、ぜいたくな話だろう。劇的で情熱的な歌唱の面白さ、と申し上げて締め括っておこう。

 演出は、何から何まで「例の如し」。
 圧迫感のある冷徹な部屋ですべてのドラマが展開、拘束された人々の生活が浮き彫りにされるが、ラストシーンでオレステスが解放される場面に至って、初めて舞台奥の壁が開け、自由な空気が流れ込んで来るという流れだ。
 全体に舞台は薄汚く乱雑で、オリジナルのト書きにあるディアーナの神殿前の雰囲気などとは全く違い、女たちの溜り部屋のような光景である。バルトリたち「尼僧」もジーンズ姿のカジュアルな服装だから、ギリシャ神話の高貴な世界とは完全に一線を画す舞台だが、まあ、それはそれでいいだろう。

 だが━━これは最近の欧州のオペラ演出の流行だから案の定という感だが━━トーア軍の兵士たちが、囚人(オレストとピラド)の頭から黒い布をかぶせ、殴る蹴るの暴行を加え、挙句の果ては小便をかけるといったような演技は、私は大嫌いだ。ましてや、オレストが処刑されかかるシーンで、全裸のマルトマンが手で前を隠しながら歌う光景など、おぞましくて見たくもねえよ、という気にもなる。
 今夜はプレミエゆえ演出チームもカーテンコールに現れたが、かなりブーイングもあったのがその場面の所為かどうかは判らない。

 ただしこういう演出は最近受けるらしく、先年エクサン・プロヴァンスでの「リゴレット」(カーセン演出)では、マントヴァ公爵がジルダを手籠めにしようと部屋へ向かう際にガウンを脱ぎ捨てて全裸になると、客席の中年女性客たちから笑い声と歓声と拍手が起こるというケースに出会った。私の世代から見ると、変な世の中になったものである。

 演技は、全体に詳細なものだ。「文明と野蛮、高貴な精神ないしは苦悶する魂と野卑な心といった対立」(エルンスト・クラウゼ、石井宏訳)を現代の市民の中に持ち込もうとする演出は、前出のいくつかの点を除けば成功しており、また共感できるものだろう。

 ただし、全曲の大詰めシーンは、何となく盛り上がりを欠いた。演奏もあっさりしていた上に、イフィジェニーがオレストの妹であるということが判明したため、オレストの無二の親友であり唯一の味方であることを自負していたピラドは気が抜けたのか、がっくりして「やる気をなくした」ようにも見えた。オレストもイフィジェニーも、尼僧たちも兵士たちも、すっかり疲れ切っているように見えた。
 ただ一人御機嫌なのは、突然現れて一同を強引に鎮めてしまった女神ディアーナである。己が所業に得意満面、といった表情だ。

 このラストシーンにおける人間たちの態度は、自分たちの「正義の闘争」に都合のいい時だけ干渉して来て、いかにも自分が生殺与奪の全権を握っているかのようなドヤ顔をしている「女神」なるものに、内心では反発していることの表われかもしれない。━━などというのは、舞台を見ていたこちらの勝手な印象である。

 終演は9時20分頃になった。劇場から出ると、折しも隣の祝祭大劇場での「フィデリオ」(最終公演)の休憩時間。ワイングラスを片手に寛ぐ人たちで、劇場前の広場は猛烈な雑踏だ。欧州の音楽会場での外人さんたち(いや、「外人」はこっちの方か)の牛歩状態にはうんざりするのだが、最近はその中を巧くすり抜けるテクニックも身に付いた。
 知人たちともはぐれたので、また「ナガノ」に入り、なじみの女将(彼女は中国人か?)たちと談笑しつつ、寿司とうどんの夕食を摂る。

2015・8・18(火)ザルツブルク篇(5)「フィガロの結婚」

      モーツァルトの家(旧祝祭小劇場) 8時

 ダン・エッティンガーが、ウィーン・フィルを穏やかな表情で指揮。1階前方3列目で聴くウィーン・フィルの柔らかい音色に、モーツァルトの色彩的なオーケストレーションが愉しめる。

 歌手陣には、ルカ・ピサローニ(アルマヴィーヴァ伯爵)、アネット・フリッチュ(伯爵夫人)、アダム・プラシェトカ(フィガロ)、マルティーナ・ヤンコーヴァ(スザンナ)、マルガリータ・グリツコーヴァ(ケルビーノ)、アン・マレイ(マルチェリーナ)、カルロス・ショーソン(ドン・バルトロ)、パウル・シュヴァイネスター(ドン・バジリオ)、クリスティーナ・ガンシュ(バルバリーナ)、エリック・アンスティーネ(アントニオ)、フランツ・スッパー(ドン・クルツィオ)といった人たち。
 スヴェン=エリック・ベヒトルフが演出し、アレックス・アールスが舞台美術を担当した。

 歌手陣には有名無名の顔ぶれを配しているが、みんないい。フィガロとバルトロのマッチョな雰囲気には驚かされるけれども、ピサローニは歌唱・演技ともに巧くて申し分ないし、フリッチュも柔らかい声で温かく、ヤンコーヴァは一昨年ここで観たデスピーナにも劣らぬ軽快さで、いずれも安定した出来である。
 特に、マルチェリーナ役としてアン・マレイが登場していたのが懐かしい。彼女は今でも美しく、気品があり、歌唱も確かだ。これほど「フィガロの優しいお母さん」の雰囲気を出した品のいいマルチェリーナも珍しいのではないかという気がする。

 さて、今年から登場したスヴェン=エリック・ベヒトルフによる演出━━あのクラウス・グートの演出に替わるこの新プロダクションは、まるで時代が四半世紀も戻ったような・・・・そう、そのアン・マレイが素敵なスザンナを歌っていた時代の頃のような、ストレートそのものの舞台だ。演技も設定もトラディショナルで、拍子抜けするくらいである。

 ベヒトルフの舞台は、一昨年ここで観た「コジ・ファン・トゥッテ」でもストレートな設定だった。「ザルツブルクのモーツァルト」も、クラウス・グートのあとは、ついに保守回帰といったところか。
 第4幕の「庭園」の舞台装置もガラス張りで、見たところは「庭の温室」という感じ。どこかで見たような光景だと思ったら、その「コジ」の舞台装置を小型にしたようなものだった。

 ただ舞台装置は、第3幕まではしばしば上下2層あるいは左右2,3室に区切られ、そこで同時に芝居が展開するという手法が採られているので、変化は感じられる。
 例えば第1幕では、バルトロとマルチェリーネの対話や、マルチェリーネとスザンナとの応酬などは、フィガロたちの寝室ではなく、上階の廊下その他で演じられる(これは理に適っている)。第2幕は伯爵夫人の部屋と、下手側の浴室とに区切られているため、伯爵と夫人との応酬および隣の浴室に逃げ込んだケルビーノやスザンナの演技とが並行して見られるという面白さもあるだろう。

 演技はコミックな要素もかなり多いが、非常にリアルで生き生きしており、スタンダードなものであるため解りやすい。久しぶりに安心して、のんびり楽しめる演出であったことだけは確かだ。だがそれゆえに、スレッカラシの観客(私もどうやらその一人だろうが)にとってはスリルがなくて、━━時差ぼけの影響が思わぬところで出て来るのも事実なのである。

 オリジナルではハッピーエンドのラストシーンで、何か一ひねりした演出が見られるだろうと思っていたが、案の定、伯爵夫人が不機嫌な顔で独り舞台前方に佇みながら歌い、やがて独り立ち去ろうとする様子が見られた。
 まあ「コジ」と同様、いったんこじれた関係はもはや二度と・・・・という意味だろうと見たが、そのあと、伯爵が彼女を強引に連れ戻し、演奏がすべて終ったあとに続く出演者たちのどんちゃん騒ぎの祝杯のパーティに引き込み、夫人も陽気に盃を傾けるという流れに変わったのは意外。これは今夜が最終公演だったためなのか? 他の日の映像を見たいところだ。

 終演は11時35分。今夜も爽やかな気候。ホテルまで15分ほど、歩いて帰るにはちょうどいい。

2015・8・18(火)ザルツブルク篇(4)「ダイドーとエネアス」

      フェルゼンライトシューレ  5時30分

 トーマス・ヘンゲルブロックが指揮したヘンリー・パーセルのオペラ「ダイドー(ディド)とエネアス」(英語版上演)。演奏会形式と銘打たれていたが、事実上のセミ・ステージ形式上演である。

 たった1回の上演だが、これはまことに素晴らしい。
 指揮だけでなく、演出及び「コンセプト」もトーマス・ヘンゲルブロックが受け持っている。演奏はバルタザール・ノイマン・アンサンブルと同合唱団、歌手陣はケート・リンジー(ダイドー)、ベネディクト・ネルソン(エネアス)、カティア・シュテューバー(ベリンダ)、ヨハンナ・ヴォーカレック(魔法使い)、ヘルマン・オズヴァルド〈水夫〉その他。フローレンス・フォン・ゲルカンが舞台装置(何もないが)と衣装を担当している。

 オケはピットに入り、舞台上ではソリストたちと同合唱団が簡素な衣装を着け、簡にして要を得た演技をしながら歌う。
 合唱団は定石通りコロスの役割を担うわけであり、第1幕ではカルタゴのダイドー女王の臣民として演じ歌い、雷鳴とともに闇に転じた第2幕ではその衣装の裾を頭からかぶって魔女たちの集団となり、第3幕では前半に魔女集団の役を演じ、後半にはピットの中に降りる。納得の行く流れの演出だ。彼らの歌も演技も実に美しく素晴らしい。

 今回は魔法使い役の女性歌手ヴォーカレックが、特別に付加されたセリフを素または音楽入りで語るが、このセリフはジョヴァンニ・フランチェスコ・ブセネッロの「ディドーネ」と、ヴェルギリウスの「アエーネイス」から自由に抜粋して編まれたものの由。またセリフに付随する音楽は、フランチェスコ・カヴァッリのオペラ「ディドーネ」からの引用であるとのこと。
 ヴォーカレックは、ナレーターとしては清澄で明瞭なドイツ語を響かせ、オペラ本編における魔法使い役としては不気味な声で凄みを利かせた原語歌唱に転じるのが、何とも見事だった。もちろん、他の歌手たちも良かった! 

 ダイドーの死を暗示するラストシーンでは、闇に閉ざされ、オケも合唱も暗黒の中で演奏し、舞台奥に燃えるいくつかの火だけが残り、やがてそれも消えて行く。
 余韻を感じさせる神秘的な終結だが、ザルツブルクに多いフライング拍手やブラヴォーがそれを断ち切る。だが、清楚な印象を残した、優れた上演であった。

 とにかく、パーセルの音楽の新鮮な美しさ! ヘンゲルブロックは、やはりマーラーなどを振るより、こうした古楽のレパートリーを指揮する時の方が、ずっといい。

 音楽だけなら1時間くらいの長さだが、セリフが入ったので、終演は6時45分になった。8時からの「フィガロの結婚」の前に食事をする時間はどうみてもないので、「ナガノ」に飛び込んで「何か一口」と頼む。3分で寿司セットをつくってくれた。

2015・8・17(月)ザルツブルク篇(3)ネトレプコの「トロヴァトーレ」

    ザルツブルク祝祭大劇場  8時

 ネトレプコのことばかりお騒ぎでないよ、と言いたくなるけれども、やはり彼女の存在が圧倒的なのだから致し方ない。第4幕前半など、ほとんど彼女の独り舞台のような趣を呈していた。とはいえその他の歌手陣も、ノセダ指揮のウィーン・フィルとともに素晴らしい演奏だったことは確かである。だが、演出は・・・・策に溺れた感あり。

 今年の「イル・トロヴァトーレ」再演のキャスト・スタッフは以下の通り。マンリーコをフランチェスコ・メーリ、レオノーラをアンナ・ネトレプコ、ルーナ伯爵をアルトゥール・ルシンスキ、アズチェーナをエカテリーナ・セメンチュク、フェランドをアドリアン・センペトゥレアン、イネスをディアナ・ハラー。ジャナンドレア・ノセダ指揮ウィーン・フィル、ウィーン国立歌劇場合唱団。演出と舞台美術はアルヴィス・ヘルマニス、衣装はエーファ・デッセッカー。

 御承知のように、舞台は、絵画美術館に設定されている。
 オリジナルの筋書では、フェランドが兵士たちに悲劇の事件の発端について語り聞かせるところだが、この演出では、美術館のガイドが見物客に肖像画を示しながら、それにまつわる不気味な話を説明し、怖がらせて面白がる、という設定になった。

 そのあと、ドアの傍に不愛想な顔で座っていた番人のオバチャンが、その制服のままイネスの役に変わり、同じく制服姿で眼鏡をかけた「見るからに堅物」風の女性スタッフ(何とネトレプコ!)が出て来てそのままレオノーラ役に、同じく制服姿の男がルーナ伯爵役と化す。そして彼らは、次第に衣装を変えて、物語の中の主要人物に同化して行く、という設定だ。
 ただしマンリーコとアズチェーナはどういうわけか、最初に現れた時から扮装している。

 このあたりを観た範囲では、フム、劇中劇の手法か、そう来たか、と、その時には納得させられるのだが━━。
 そして、その後もドラマの中には、ラフな服装をした美術館見物客もそのまま交じるシーンもあり、また第4幕のレオノーラのアリアの前で、美術館の絵画のレイアウトを変更すべく大勢のスタッフが働いており、倒れているレオノーラを制服姿のイネスが確認したりなどというシーンもある。
 こういう、異次元の世界を同一平面上で共存させる設定は、バイロイトで以前上演されたドルスト演出の「指環」と共通するところもある。だが、あそこまでは徹底していないな、などと思いを巡らせるのだが━━。

 とにかく、こういう設定なら、ラストシーンでは旧の美術館と、そのスタッフの姿に戻るんだろうな、と予想もしたが、さすがにそんな見え透いた手法は採られなかった。最後は、物語の扮装のままでマンリーコはフェランドに咽喉をかき切られて殺され、アズチェーナはルーナ伯爵を呪って勝利の凱歌を上げるという流れになる。
 結局これは、美術館のスタッフが物語の登場人物に同化して架空のドラマを演じるというより、元々スタッフ同士間にあった恋の鞘当や恨みつらみが、演じているうちに暴発した━━レオンカヴァッロの「道化師」のように━━と解釈せざるを得まい。だがそれならそれで、制服のまま、「ある絵画美術館での出来事」として最後まで押し通せばいいではないか、ということにもなるのだが・・・・。

 第3幕の幕が開いたところで、「一般見物人たち」が衣装を変えて兵士たちやジプシーに扮装する場面を見せたりするのだが、こういうことをやるから、紛らわしくなる。
 いずれにしても、あまり洗練された演出ではない。小細工を利かせた野暮ったい演出である。飾られた大きな絵画だけが豪華に見える、という舞台である。

 歌手陣。
 ネトレプコの歌唱と存在はいよいよ重みを増した。90年代後半のマリインスキー時代から彼女を聴き続けて来た者にとっては、もはや別人のような感を抱かされる。第4幕の「恋はばら色の翼に乗って」のソット・ヴォーチェの見事さなど、昔のネトレプコにはなかったものだ。低音域にも、凄味のようなものが加わった。カヴァティーナが終ってからもしばし拍手は鳴りやまなかったほどである。
 名札を付けた制服に眼鏡をかけた扮装のネトレプコなんてのは滅多にお目にかかれるものではなく、結構野暮ったいオバチャンに見えるのもご愛嬌だろう。

 マンリーコのメーリは、「恐ろしき炎を見よ」の最高音だけはちょっと苦しかったとはいえ、それ以外での声の伸びは素晴らしく、快調な出来であった。
 ルーナ伯爵のルシンスキも、悪役的な迫力を利かせて、上々の歌唱である。当初予定されていたドミンゴだったら、こういう陰惨な表現はちょっと無理だったろう。セメンチュクが歌うアズチェーナも、堂に入ったものだ。

 そして、ジャナンドレア・ノセダの指揮。かなり柔らかく叙情味が濃い演奏のように感じられたのだが、これは1階席右側11列47番という、ほとんど右端の席で聴いたせいか。中央後方、あるいは2階席で聴いたら、もう少し異なった印象を得るかもしれない。
 しかし、彼の指揮は瑞々しく温かく、押しつけがましい扇情的な劇的誇張がないのが特色である。ウィーン・フィルの豊麗な音色も印象に残った。

 このプロダクションは、今夏は4回公演。今夜が最終公演であるだけに、カーテンコールでは例のごとくネトレプコが大はしゃぎ。この明るさとヒョウキンさも、彼女の魅力なのである。その他の歌手たちも、大いに華やいでいた。

 終演はちょうど11時。外は霧雨、やや寒い。

2015・8・16(日)ザルツブルク篇(2)カウフマンの「フィデリオ」

     ザルツブルク祝祭大劇場  午後7時

 ヨナス・カウフマンがフロレスタン役で出るので、大変な人気を集めている新プロダクションである。が、なにしろクラウス・グートのこの演出では・・・・。
 その代わり、フランツ・ウェルザー=メストの指揮が予想外に(?)素晴らしい。カーテンコールで大ブラヴォーと足踏みが贈られたのは、唯一このオーケストラの演奏に対してだった。

 配役と演奏は、フロレスタンがヨナス・カウフマン、レオノーレがアドリエンヌ・ピエチョンカ、ロッコがハンス=ペーター・ケーニヒ、ドン・ピツァロがトマシュ・コニェチュニー、マルツェリーネがオリガ・ベズメルトナ、ヤキーノがノルベルト・エルンスト、大臣ドン・フェルナンドがセバスティアン・ホレチェック。それにウィーン・フィルとウィーン国立歌劇場合唱団、指揮がフランツ。ウェルザー=メスト。演出がクラウス・グート、舞台美術と衣装がクリスティアン・シュミット。

 舞台は2幕を通じて、整然たる大広間調。中央に巨大な黒い縦の長方形の箱のようなものがあり、これが回転して人物の登場と退場を仕切る役目を果たす。「2001年宇宙の旅」の「TMA-1」を連想させるような物体である。小道具は、短剣とピストルくらいなものか。とにかくシンプルな舞台だ。

 そしてセリフは、以前ラトルが指揮した上演と同じように、カットされている。オーケストラに乗った個所は別だが、セリフが素で出て来る場面━━墓堀りの場、ピツァロガ手紙を読む場面、大臣到着をヤキーノが知らせる場面におけるような、音楽と一体化したセリフもすべてカットされている。

 その代わり、アリアや重唱などのナンバーの間には、電子音や息づかいなどがPAで流され、その間、舞台上の巨大な箱のようなものが回転し、登場人物の演技はそのまま続けられる━━しかし、これが1回か2回ならまだいいのだが、ナンバーの間にすべてこれ(それも30秒くらいかそれ以上、相当長く感じられる)が入るという手法の延々繰り返しなので、だんだんこちらもうんざりして来て、またかという気分になってしまう。もう分かったから、さっさと音楽に入ってくれないかね、という気持になるのだ。
 このオペラをオリジナルのジンクシュピール形式から脱却させてみるという意図そのものには敢えて反対するつもりはないが、それにしてもこれは、あまりに能がない手法ではないか。

 また今回の演出では、ヒロインとピツァロに、それぞれ二律背反的な「分身」(黙役)を登場させる。前者はもちろん、男装した主人公「フィデリオ」に対する、もとの女性としての「レオノーレ」である。後者は「気弱な」ピツァロ自身に対する、「悪」を象徴する分身ともいうべきものだろう。その二つの存在の葛藤である。
 この手法は別に珍しいものではないし、試みとしては面白い。

 だが、煩わしさの極みなのが、「レオノーレ役」(ナディア・キヒラー)に「手話」のようなジェスチュアをやらせることだ。
 私は手話については全くの門外漢だし、これがもし「手話」でなく、全く他の表現だったとしたらご勘弁願いたいのだが━━黙役の「レオノーレ」が歌手の「フィデリオ」に語りかける(?)その手の動きの慌しさは、場面を追うごとに激しさを増して来る。ラストシーンなど、正規の登場人物たちが背景に概ね静止している中で、陰コーラスとオーケストラがいよいよ盛り上がって行く中で、前面に独り立つ「レオノーレ」の、ボクシングのごとき手と全身の動作たるや、もはや狂乱状態、それはあの悪名高いギイ・カシアス演出の「指環」でのダンスをも凌ぐ視覚的騒々しさであった。

 これはもう、本当に・・・・気を散らされること夥しく、私はうんざりして、目を覆いたくなったほどだ。最後はそれを見ないように努めてはいたのだが・・・・。モーツァルトのオペラではあれだけ冴えたところを見せたグートが、これはまた、何たるセンスのない演出をやったのだろう。

 役柄表現の中では、フロレスタンが「政敵と闘い、毅然として投獄生活に耐えた」英雄ではなく、ヨレヨレの男として描かれていたのが注目された。長い地下牢生活で精神を破壊されたか、それとも(ピツァロの演技の表現から類推されるように)もともと大して力のない、弱い男だったのか? 
 折角彼を救い出したレオノーレ(いや、フィデリオ)が、「どうしたの、この人は? だれか彼を・・・・」と言わんばかりに再三周囲を見回し、助けを求めるような表情をしたのも印象に残る。
 結局、この物語には、昔のような「英雄」は存在せず、また何が本当の正義であるかは明解にされないというのが、グートの演出の骨子なのかもしれない。それならそれで、そのコンセプト自体はいいだろうが━━。

 こうした演出ではあったものの、音楽面での圧倒的な素晴らしさが、この上演の印象を救ってくれた。正直、あのウェルザー=メストが、こんなに毅然として緊迫感を湛えたベートーヴェンを指揮するとは、予想もしていなかった。ウィーン国立歌劇場と喧嘩別れをしてからの彼は、人が変わったのかしらん? 

 音楽は密度が濃く、表情も豊かである。登場人物の心理の変化が精妙に描写されることも多かったのには、感心させられる。
 音楽のエネルギーも強靭で、序曲のコーダからして並々ならぬ迫力を漲らせていた。特に、第2幕の場面転換の前に幕を下ろして演奏された「レオノーレ序曲第3番」の壮烈さは驚異的で、観客は沸きに沸き、ウェルザー=メストとオーケストラは答礼を2回も繰り返さなくてはならなかったほどである。もちろん、フィナーレでの昂揚感も、他に多く例を見ないほどの見事なものだった。
 ライナー・ホーネックをコンサートマスターとするウィーン・フィルも━━ホルンだけが少々不安定ではあったが━━引き締まって瑞々しく弾力に富み、このオケの凄さを余すところなく示してくれた。

 歌手陣。カウフマンは期待にたがわず絶好調、第2幕冒頭のアリアの最初では声を朗々と延ばして歌ったが、その小気味よい歌唱は、まさに人気にふさわしい。
 一方、ピエチョンカも出来はいいのだが、レオノーレ=フィデリオのキャラクターが持つ凛然とした人妻の強靭さとは、少しニュアンスが異なるようにも感じられる。
 コニェチュニーのアクの強い歌唱は、悪役ピツァロにはこの上ない適役だろう。

 大臣役には、当初リュドヴィック・テジエの名が出ていたので楽しみにしていたのだが落胆、しかしホレチェックも声が良く伸びて悪くなく、これは掘り出し物的存在かもしれぬ。
 カーテンコールでは、手話姉さんのナディア・キヒラーも元気よく出て来たが、いくら目障りな存在だったとはいえ、それは彼女の責任ではないので、仕方なく拍手を送る。一方、痩せたタモリみたいなピツァロの分身役パウル・ローレンガーは、あまり目立つ存在ではなかったので、拍手も並みのもので、ちょっと気の毒だった。

 9時50分終演。雨は降っていないが涼しく、快適な気候だ。

2015・8・16(日)ザルツブルク篇(1)ムーティ指揮ウィーン・フィル

      ザルツブルク祝祭大劇場  午前11時

 2年ぶりのザルツブルク。
 昨夜から突然涼しくなったそうである。灼熱の東京から来た人間にとっては、この爽快な空気は天国のようなもの。時々小雨がぱらつくが、傘をさすほどではない。

 午前11時から、恒例のウィーン・フィルのマチネー公演。リッカルド・ムーティの指揮で、同一プログラム3回公演の、今日は3日目だ。前半がアンネ=ゾフィー・ムターのソロでチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」、後半がブラームスの「交響曲第2番」。

 今回は、入手できた席が「D-15」という・・・・このホールにこんな席があるなどとは全く知らなかったが、現場に行ってみたら、これはオーケストラ・ピットを上げた位置に設定された補助席の、前から4列目だった。補助椅子だから座り心地の悪いことこの上なく、こんなオケに近い位置で聴くのも私の好みではないのだが、致し方ない。
 しかし、どこで聴こうと、音の素晴らしいのがウィーン・フィルだ。この位置だと、コンサートマスターのライナー・キュッヒルの音が一番先に聞こえて来る(さすがである)感があったものの、それでもオーケストラの量感は凄まじい。

 ブラームスの第4楽章大詰めの個所など、単なる音量だけでなく、音楽そのものの意志が猛然と沸き起こり、こちらに襲いかかって来るような思いに誘われる。キュッヒルのサイドにはライナー・ホーネックも座っていた。この2人のコンマスを先頭としたウィーン・フィルの物凄さが、これなのだろう。
 それにしても、このブラームスでのムーティのテンポの遅さ━━というより、ゆったり、たっぷりとした音楽づくりはユニークだ。熱血漢ムーティのイメージは、もはや昔の話。

 一方チャイコフスキーでは、ムターの相変わらず「濃い」表情の演奏がすべてであろう。嫋々たる歌と、情熱的に突進するエネルギーは、やはり今の彼女の魅力だ。これに呼応するムーティとウィーン・フィルの演奏もまた、壮烈であった。

 ピットの補助席からは、出口が両サイドしかなく、出るのに大変な時間がかかる。

2015・8・11(火)アルゲリッチ&秋山=広響「平和の夕べ」東京公演

    サントリーホール  7時

 8月5日に広島で聴いたコンサートの東京公演。マルタ・アルゲリッチ、秋山和慶指揮の広島交響楽団、そして朗読者2人。曲目もすべて5日と同じ。
 ただし曲の順序は変更され、第1部に「エグモント」序曲と「世界の調和」、第2部に「ピアノ協奏曲第1番」が置かれた。

 アルゲリッチをトリに持って来たのは、彼女の出番が第1部で終ってしまうと、ヒンデミットを聴かずに帰ってしまう人もいるかもしれないから━━という理由かと思ったらそうでもなく、天皇・皇后両陛下がアルゲリッチを聴きに見えるから━━という理由だったらしい(確かめたわけではない)。
 それにしても、第2部の始まる直前、最近体調不良を伝えられていた皇后陛下が元気に天皇陛下と一緒に2階席に登場されたのだから、ホール中から歓声と拍手が沸き上がったのは無理もないことだろう。

 さて、アルゲリッチの演奏。今回は広島の時と違ってピアノも好調だったせいもあるのか、いっそうしなやかで変幻自在な動きに満ち、のびのびとして豊麗な表情にあふれていたように感じられた。
 最初のうちは、広島での演奏よりかなり穏やかだった。が、第1楽章再現部あたりから俄然、張り詰めた鋭さがみなぎりはじめた。テンポを極度に落して━━文字通り、スコアに指定されている「ラルゴ」にふさわしい━━神秘的なほど沈潜の極みを示した第2楽章は絶品で、これは今夜の演奏の頂点だったといってもいい。
 第3楽章も感興自在、「スケルツァンド」の指定通りだったが、このテンポに秋山和慶が見事にぴたりとつけて、広響ともども、素晴らしい起伏に富んだ演奏を聴かせたのだった。

 こういった要素を兼ね備えたベートーヴェンは、当代、なかなか聴けぬ類いのものであろう。全曲が終ったあとには、アルゲリッチのソロ・アンコールこそなかったけれども、その代り、オケと一緒に第3楽章をもう一度全部演奏してくれるという豪華なアンコールがついた。

 この協奏曲での広響の演奏が、前回よりもさらに柔軟性に富んで見事だったことは特筆されるべきだろう。もちろん「エグモント」も「世界の調和」も、アコースティックの良いこのサントリーホールでは、豊かな音に響いた。チケットが完売になったのがアルゲリッチのおかげだったとしても、秋山と広響の真価が東京の音楽ファンに強く印象づけられた演奏会となったことも確かなのである。

 朗読については前回と同じ。曲の順序が変更になったため、「ホロコースト」から「世界の調和」へ、「鎮魂歌」から「協奏曲」へ、という流れになったが、これは、5日の組み合わせより成功していただろう。それゆえにこそ、チューニングなど入れずに、朗読から切れ目なしに演奏へ移るという形が実現されていればどんなにか感動的だったろうと思うと、残念でならない。
 終演は9時半を回った。
        ⇒別稿 音楽の友10月号演奏会評

2015・8・10(月)沼尻竜典 オペラ指揮者セミナー 初日

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール  1時

 数年にわたり、その方面に熱心な人たちには熱狂的に受け入れられたペーター・コンヴィチュニーの演出セミナーが終了すると、今度はこの劇場の芸術監督・沼尻竜典による「オペラ指揮者セミナー」が開始された。
 これは初代芸術監督・若杉弘氏とその夫人・長野羊奈子氏から贈られた「若杉・長野音楽基金」を事業費の一部として開催されたものの由。

 今回は、「フィガロの結婚」を教材に、3日間のコース。びわ湖ホール声楽アンサンブルの歌手他が協力している。今日はピアノ2台による楽曲分析と指揮法。あとの2日は大阪交響楽団が演奏するという、なかなか大規模なセミナーである。
 舞台には大きなスクリーン2つが設置され、受講者の指揮姿が正面と下手側から映し出され、200人近く集まった客席の聴講者たちにも詳細が良く分かるようになっている。

 受講者は、粟辻聡、鬼原良尚、熊倉優、榊真由、松川智哉、道端大輝の6人である。いつの日か、彼らの名が演奏会のプログラムを飾るだろう━━。

 沼尻の講義は、ユーモアにあふれ、話しぶりも明快だ。しかも言葉が文末まではっきりと語られる(?)ので、非常に解りやすい。聴いていると、モーツァルトの音楽の一つ一つの音符の意味あいまで解って来る。オペラ講座としての面白みも抜群だ。
 講座は5時くらいまで続いたはず。こちらは所用のため最初の休憩時間(2時半頃)を機に辞し、帰京。

2015・8・9(日)沼尻竜典作曲 歌劇「竹取物語」

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 中ホール  2時

 あの有名な「竹取物語」のオペラ化。作曲だけでなく、台本も沼尻竜典自身による。
 かぐや姫を幸田浩子、竹取の翁を清水良一、媼を永井和子、帝を与那城敬、その他の歌手陣。沼尻竜典指揮の日本センチュリー交響楽団、びわ湖ホール声楽アンサンブルが演奏。演出を栗山昌良、装置を鈴木俊朗、照明を原中治美、衣装を岸井克己、振付を小井戸秀宅が担当している。

 このオペラ、これまで部分的に聴いた範囲では、あまりよくわからなかったけれども、こうして舞台上演に接してみると、予想外に面白い。
 作曲者・沼尻竜典は、所謂「ゲンダイオンガク」的ではない手法を採り、耳あたりの極めて良い、親しみやすい音楽のスタイルで90分強を押し通した。三善晃門下でもある彼の管弦楽法も、思いのほか━━と言っては失礼だが、なにしろこれまでは指揮者としての彼しか存じ上げなかったので━━なかなかに見事なものであった。
 プログラム冊子に載っている彼のエッセイによれば、彼は「現代音楽調」でなく「帰りに口ずさめるオペラ」を狙ったという。「覚えたフシを子供が踊りながら歌っていた」と知らされた時には大喜びしたそうである。

 そして作曲者は、「昭和の歌謡曲全盛時代に自分が親しんだ様々な種類の音楽と、古典のクラシック音楽のスタイルが混在する」と述べている。
 それゆえこのオペラは、シリアスな要素およびウィット、ジョーク、パロディの要素を併せ持った音楽になるわけだが、実際には、いやもう、その洒落っ気たるや立派なものだ。クラシック音楽からミュージカル、歌謡曲、往年のコントなどの音楽のパロディまで出て来る。

 阿倍御主人(宮本益光)が唐の国から仕入れた「火鼠の皮衣」が燃え上がる場面では、「ワルキューレ」の「魔の炎の音楽」の傑作なパロディが出現する。
 また、大伴御行(晴雅彦)が、かぐや姫を生意気な女だと罵る歌は、多分あの植木等の「ハイそれまでヨ」のもじりかと思うが、この歌では、晴が派手にそれっぽく歌って観客を爆笑させていた。こういうところの晴の巧さは、抜群である。

 その他、プッチーニの引用みたいなところもある。更にかぐや姫が自らについて語る場面の音楽には、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の、冒頭場面の弦のモティーフが引用されていたようにも聞きとれたが、もしそうなら、メリザンドとかぐや姫の共通点━━つまり遠い謎の過去━━をいみじくも指摘したようなもので、面白い解釈だ。

 もっともこのあたりは、作曲者ご本人に確かめたわけではない。こちらの思い込みかもしれないので━━たとえば、帝から姫への求愛があることを翁が媼に知らせる個所では、「君が代」的なフシが顔をのぞかせる。そのため、次の「帝のアリア」の最初の部分が昔の「天長節」(「今日の良き日は」)の出だしにそっくりだったのに、なるほどそう来たか、と感心して・・・・それをマエストロご本人に確認したら、意外にも「へえ、似てる?」と逆に訊き返されてしまった。

 こういう沼尻の作曲について、プログラム冊子に、池辺晉一郎さんが、例のごとく面白いエッセイを載せている━━三善晃門下の後輩生としての沼尻のこの作品を「見事なエンタテインメントを構築してくれた」と評し、彼が自己の作品で矜持を保たなければならない「作曲家」でなかったことが幸いし、自由に飛翔できた、という意味のことを指摘している。
 それは褒めているのか、皮肉を言っているのか、その両方なのかは判らないが、まあ、良かれ悪しかれ、その通りだろう。ここには、沼尻の良き人柄を感じさせるものがある。つまり、ジョークとアイロニーがしばしば一体化して顕在する、といった点だ(あの人は照れ症だからね、といった人もいた)。

 一方、台本もなかなか凝ったつくりだ。ただ、最後に月の使者が現れるくだりは、迎え撃とうとする帝の軍隊が力を失って退散する個所を含め、やや唐突な進行にも思えるが?。

 こういう洒落っ気のオペラを、演出の栗山昌良は、まさしくシリアスに仕上げてしまった。
 大ベテラン、栗山の日本ものは、確かに良い。様式的に成功している例が多い。この舞台も、いつもの彼のスタイルにまとめられている。翁と媼は、前半ではまるで対のこけし人形のようで、これまたサマになっている。高所に配置された合唱が、仰々しく見台においた楽譜(?)をめくりながら歌ってみせるという、人形浄瑠璃か何かのパロディも良いだろう。

 だが、一列に並んで客席を向き、直立不動に近い姿勢で歌う例のスタイルは━━これだけパロディを大量に含んだ音楽としてつくられているオペラとしては、この演出はあまりに真面目で、面白みがない。
 それに、完璧に論理的かというと、そうでもない。最後に全員が富士山(不死の山)を讃え、日本の弥栄を讃える場面(あからさまで、照れ臭くなるが)で、姫を月に奪われて悲しみに沈んでいるはずの翁と媼も一緒に一列に並んで歌うなどというのは、ドラマとしては不自然だ。

 歌手たちは、脇役に至るまでみんな良い。セリフも歌も、発音が明確であることは賞賛されていい。もっともこれは、沼尻のスコアの書き方の良さにも起因しているだろう。

 今回は字幕も出たが、英語の字幕(Bamboo Princess)も追加されていた。これは、日本のオペラを在日・滞日外国人にも楽しんでもらおうという意味では、意義があるのではないか。ただし字幕制作にはカネがかかるので、特別な助成でもない限りは簡単にできるものではないのだが。

 ともかくこの「竹取物語」、ゲンダイオンガクの大先生たちには褒められないだろうけれども、ムキにならなければ楽しめるオペラである。これは、びわ湖ホールの卓越した定番「沼尻竜典オペラセレクション」のシリーズの中の「インテルメッツォ」たる役割を果たすことだろう。

 20分ほどの休憩時間を挟み、4時終演。

2015・8・7(金)「原爆小景」 東京混声合唱団「八月のまつり」

     第一生命ホール  7時

 東京混声合唱団(音楽監督・山田和樹)が、寺嶋陸也の指揮とピアノで、恒例の「八月のまつり」と題する特別定期演奏会を開催。今年は第36回になる。

 プログラムは、林光の名作「原爆小景」(4曲版)、寺嶋の「予兆」(委嘱作品初演)と「花筐(はながたみ)」、最後に山田耕筰(没後50年)のいくつかの名曲を林光が編曲したもの。「林光メモリアル 戦後70年によせて」という副題もついている。

 「原爆小景」の第1曲「水ヲ下サイ」が作曲されたのは、原爆投下からまだ13年しか経っていなかった頃だった。私がそれを初めて聴いた頃は、演奏にもまだ生々しい怒りや哀しみがこめられていたが・・・・。少なくとも、われわれの受け取り方はそうだった。
 だが、今日の東混の、あまりに完璧で美しい合唱は、もはや、そういうどろどろしたものを拭い去っていた。ステージから聞こえるのは、まさに「卓越した日本の合唱曲」そのものなのである・・・・。

 第2曲と第3曲が書かれたのは第1曲のほぼ13年後。そして、第4曲の「永遠のみどり」にいたっては、第1曲から実に43年後である。これだけの作曲時期の開きがあれば、その作風が全く違って来るのは当然だろう。東混の練り上げられた和声の豊かさは、それらの音楽がもつ素晴らしさを、完璧に描き出してくれていた。

 寺嶋の作品でも同様である。プログラム冊子に掲載されていた寺嶋陸也のメッセージには、かなり政治的な表現も含まれていたが、実際の演奏は、どの曲も、鮮やかに昇華されていた。すべてが極度に美しい響きなのだ。━━だがこれは、天下の「東混」の定期演奏会である。合唱は美しく、巧くなければならないのだ・・・・。

 最後の山田耕筰の歌曲集にいたって、作品と演奏とのギャップは埋められ、一種の解放感のようなものを滲ませていた。
 今回のステージには、立川直也による美しい照明演出も加えられていた。

2015・8・5(水)アルゲリッチ&秋山=広響 「平和の夕べ」コンサート

      広島文化学園HBGホール  6時45分

 秋山和慶が広島交響楽団を指揮、マルタ・アルゲリッチをゲスト・ソリストに迎え、プログラムは前半にベートーヴェンの「エグモント」序曲と「ピアノ協奏曲第1番」、後半にヒンデミットの交響曲「世界の調和」。
 これに、アニー・デュトワと平野啓一郎が、協奏曲の前に「ホロコースト」(チャールズ・レズニーコフ)からの一節を、また交響曲の前に原民喜の詩「鎮魂歌」からの一節を朗読するという趣向が織り込まれる。

 アルゲリッチは、今なお素晴らしい。なによりも、その演奏に張りつめる鮮烈な緊迫感である。アクセントの強烈さも、昔より増したのではないか。しかも今はそれに、一種の魔性的な凄味のようなものが加わっていた。
 第1楽章のカデンツァあたりの演奏には、その前に朗読された「ホロコースト」を聴いての彼女の衝撃が反映していたのではないかと思えるくらい、異様な鋭さ━━怒りのような激しさが漲っていたのである。

 音色に翳りが異様に濃かったのはピアノのせいかもしれない・・・・ピアノが必ずしも完璧な状態ではなかったという話も聞いた。
 ソロ・アンコールにはシューマンの「夢のもつれ」を演奏したが、これがまた絶品である。今日はさすがに、1曲しか弾かなかった。オケの演奏会でソリストがソロ・アンコールを2曲やるのは多すぎる、と先日は書いたが、それも演奏次第かなと、都合よく考えてしまう。アルゲリッチのような演奏だったら、2曲、いや3曲、4曲弾いたとしても文句は言うまい。

 今日も、拍手は止まらない。アルゲリッチが「もうこれでいいわ」と言ったかどうかは知らないが、彼女と何事か話しながら袖へ引き上げて行く秋山和慶が、コンサートマスター(佐久間聡一)に「もう引っ込みなさい」という身振りをしてみせ、それでようやく聴衆も拍手を諦めたという具合だった。

 その広島交響楽団も、今日の演奏には、凄まじいほどリキが入っていた。このオケの演奏は、私は年に1度か2度しか聴ける機会がないけれども、これまで聴いたいかなる演奏にも増して充実したものだった。秋山の指揮も巧いことは事実だが、広響も見事な底力である。

 冒頭の「エグモント」序曲から骨太で密度の濃い響きがあふれ出た。秋山の指揮だから熱狂陶酔といったタイプの演奏にはならず、あくまで均整と節度とを守ったものではあったが、それでも、どの曲にも、堂々たる力感が漲っていた。ヒンデミットの交響曲は・・・・私は彼の作品には極度に相性の悪いクチなので、「曲はつまらないけど演奏は良かった」という下世話極まりない表現をお許し願おうか。

 朗読の個所では、オケはもちろん板付き状態で、指揮者もソリストもすでにステージにいる。朗読が終ると、読み手2人は退場するが、すぐに演奏が始まるのではなく、おもむろにチューニングが行なわれ、その間に指揮者が座っていた椅子を(野暮ったいことに)スタッフが片づける・・・・といった進行だった。
 このように「言葉」と「音楽」を全く切り離してしまう演出は、あまりに演奏会の「型」にこだわりすぎたものではなかろうか。せっかく全員がステージにいるのだから、ナレーションのあとにすぐ演奏を開始させ、言葉の内容の持つ恐ろしさと、音楽の持つ気高さとを、もっと積極的に合体させたらいかがなものだったろうか。

 身の毛のよだつようなドキュメントの「ホロコースト」では、2人の淡々たる表情の朗読が、むしろ効果を発揮していた。これを芝居気たっぷりに読まれたりしたら、聴く方はたまったものではない。
 ただ、平野啓一郎の発音が明晰さに不足していたため、特に最後の衝撃的な一言が明確に聞こえなかったことが、聴き手へのインパクトを弱める結果となったのは惜しい。

 一方、「鎮魂歌」のように、同じ単語を何度も繰り返す「詩」の場合には、さすが一語ごとにニュアンスを変えて読んで行くアニー・デュトワ(英語)の朗読がプロらしく見事であったが、それに対し読み手のプロではない平野の朗読は、単調平板に言葉を繰り返すだけなので、同じ言葉の羅列がくどく冗長に感じられる結果を生み、成功とは言えなかった。
 これは、アルゲリッチ、秋山、広響という名演奏家を配した、シリアスな演奏会だったはず。そういう場で音楽と言葉の完璧な融合を図るならば、朗読陣もやはりそれなりのプロで固めるべきだろう。

 この「平和の夕べ」演奏会は、11日に東京でも行われる。私も聴く予定だ。しかし、これを、まず━━たとえ芸術文化振興基金調査の仕事が絡んでいたとしても━━広島で聴くことが、自分にとっても意味があるだろうと思った。

2015・8・4(火)PMFオーケストラ 東京公演

    サントリーホール  7時

 プログラムは前日と同じ。
 マスレエフのアンコールも━━順序は逆だったが━━前日の演奏会の時と同じ2曲。結局、チャイコフスキーの「トレパークへの誘い」は4日連続して弾いたことになる。彼、ほかに持ちネタはないのかしらん? だがそのソロの音色に関して言えば、使用ピアノのせいか、札幌での初日と同じような清々しさを取り戻していた。

 ショスタコーヴィチの「10番」は、少なくとも聴いた感じでは、前日の演奏からそれほど大きく変わったという印象は受けない。とはいえ、それなりに仕上がった演奏であったことは確かであろう。
 これに対し「ウィリアム・テル」序曲は・・・・相変わらず、もう少しはじけてくれないと、ロッシーニの洒脱さは出て来ないな、という感だ。

 オケに自主性が欲しいのはもちろんだが、ゲルギエフの指揮からして、この選曲はやはり適切ではなかったのではないか。というのは、彼の指揮は、ショスタコーヴィチの交響曲でなら、ピアニッシモや緩徐個所での緊張感をたっぷり保持し、しかもそれがクライマックスへ向かう際のクレッシェンドやアッチェルランドも実に見事に、音楽全体を鳴動させつつ盛り上げて行くという大技をあれほど発揮するのにもかかわらず、「ウィリアム・テル」序曲では、その勢いをさっぱり感じさせないからである。

 それにしても、今年のPMFオーケストラの演奏は、よくいえば生真面目で几帳面、でなければ、自主的なひらめきに乏しいものではなかったろうか。
 いつものゲルギエフだったら、もう少し音楽に色彩感と熱狂性があり、最後も音楽を轟然と響かせて締め括るという派手な演出をやるものだが、今回はそれらがほとんど聴かれなかった。

 アカデミー生にそんなことを要求しても無駄だと? いや、先にも書いたが、何年か前にゲルギエフがPMFに来て、チャイコフスキーの「第5交響曲」やショスタコーヴィチの「交響曲《1905年》」を演奏した時には、その年のアカデミー生のオーケストラは、プロをもしのぐ出来栄えを示していたではないか。
 ゲルギエフだけではない、一昨年、準・メルクルが「幻想交響曲」を指揮した際にも、オケは湧き立つ演奏を聴かせたのではなかったか? 
 それらを考え合わせると、今年のPMFオーケストラの水準には、残念ながらかなり問題があったとしか言いようがない。芸術監督の滞日日数とその練習時間などを含めて、来年の改善が望まれるところだろう。

2015・8・3(月)PMFオーケストラ横浜公演

    横浜みなとみらいホール  7時

 ある理由で今回は、芸術監督ワレリー・ゲルギエフの指揮するPMFオーケストラの公演を、4回全部聴くことになっている。プログラムと、コンチェルトのソリストは同一。
 ただしそのディミトリー・マスレエフはソロ・アンコールに、メンデルスゾーン~ラフマニノフ編の「スケルツォ」(「夏の夜の夢」の)と、チャイコフスキーの「トレパークへの誘い」の2曲を弾いた(オケの演奏会で2曲はやりすぎだが、しかしなかなか良い演奏だった)。

 「ウィリアム・テル」序曲は、初日に比べると、演奏にかなり細かいニュアンスが生かされるようになっていた。ただ、相変わらず緻密さと色彩感に不足するのが問題だ。今回は直前にこの曲が加えられたとのことだが、いっそ、ほかの曲を選んだ方がよかったのではないか? ホルンと木管のソロには、やはり不安定さが続く。しかし、冒頭のチェロは、この3日間を通じて、すこぶる優秀であった。

 一方、協奏曲では、オーケストラにもかなりの改善が認められた。マスレエフのソロも、Kitaraでの時よりも明晰に浮き出して響いており、おそらく今日は彼の特徴がはっきりと聴きとれたのではないかと思う。初々しい気負いと自信、鋭利で澄んだ翳りのないピアニズム、直截なエネルギー感などに満たされた演奏が、強く印象に残る。ただ、コンチェルトを弾く時の呼吸のようなものは、これからだろう。響きは軽く、音色も明るいが、これらは楽器とホールのアコースティックにも拠るだろう。明日のサントリーホールと聴き比べてみたい。

 ショスタコーヴィチの「第10交響曲」では、コンサートマスターは、前半2曲と同じ━━つまり初日の前半2曲とも同じ、ケネス・リャオという東洋系アメリカ人の青年が務めていた。ステージ上の挙止がすこぶるコンマスらしくないのは、オケを昂揚させる役割を持つリーダーとしては、疑問がある。しかし、ソロ個所では骨太の力強い音を聴かせて、音楽的には良いものを持っている人のようである。

 キュッヒル不在の「10番」には一抹の不安を抱いていたのだけれど、演奏全体は、初日と比較すれば格段の進歩を遂げていたように思われ、安心した。さすがゲルギエフ、何とか確実に若者たちを引っ張っているようだ。
 金管と木管は力強く、弦も後半2楽章にいたって精緻なアンサンブルをつくり出した。そしてほんの一瞬だが、第3楽章のある個所では、弦の合奏に一種の清涼な艶が生じていて━━それはゲルギエフが、マリインスキー響の若手奏者から引き出す音によく似ていて、ハッとさせられたのだった。

 ただし初日に及ばないところは、オーケストラの音全体に、輝かしい色彩感といったものがほとんど感じられず、地味で淡彩で几帳面で、「アジアのオーケストラ」そのものといったイメージに聞こえた点だろう。これは明らかに、コンサートマスターの違いによるところも大きいはずである。
 まあ、そんなことも含めて、ステージの雰囲気は、昔のPMFオーケストラのアカデミー生たちに比べると、やはり随分おとなしくて、真面目だ。

2015・8・2(日)PMF ピクニック・コンサート

     札幌芸術の森・野外ステージ  12時

 PMF恒例のフィナーレ・コンサートで、「レナード・バーンスタイン・メモリアル・コンサート」と題されている。
 晴天に恵まれ、日差しは強く暑いが、それでも空気の爽やかさゆえに、東京と比べれば天国のようなもの。

 この野外演奏会の会場は、一応マックス5千人となっているそうだが、今日は途中の入れ替わりを含めると延べ8千人を超すのではないか、というのが主催者側の観測。昔と同様、家族連れは多い。ただ、キャンプ用の簡易テントを持ち込んで日除けを試みるグループが増えていたのは、昔は見られなかった光景だろう。
 とにかく、札幌のPMFならではの楽しい雰囲気である。日頃クラシックの演奏会などに来ない人々にとって、これがクラシック音楽に親しみを感じるための良いきっかけとなり、素敵な思い出になりますように。

 今日のプログラムは、昨日と基本的に同一のものだが、その中に、北星学園大学付属高校吹奏楽部が演奏する「キャンディード」序曲と、ボロディンの「ポロヴェッツ人の踊り」と、「ダフニスとクロエ」のバレエ曲2曲とが追加され、またPMFオーケストラ・メンバーの演奏による「ます」第4楽章、マルティヌーの「九重奏曲」第2番も追加された。ヴォーカル・アカデミー生たちによる「リゴレット」の四重唱も加えられた。

 第1部では、昨日と同様に天羽明惠が奮戦、「PMF讃歌」では聴衆の大合唱をリード。野外演奏という解放感もあって、客席は昨日よりもはるかに盛り上がっていた。ただしこの「讃歌」でのオーケストラは昨日と同様、ゲルギエフ御大が振っているにもかかわらず、何でそうなるの? と思うような演奏に終始。

 今日は午後1時半から札幌市内のパークホテルでゲルギエフの記者会見があり、私もそれに出席していたので、ピクニック・コンサートの方は3時過ぎあたりから飛び飛びに聴くという状態にとどまった。
 第2部のゲルギエフ指揮PMFオーケストラの演奏会は、4時半過ぎから開始された。冒頭の「ウィリアム・テル」序曲は、昨日よりは演奏に活気が出ていたように感じられたが、PAを通した音なので、詳細は判別しがたい。後半のショスタコーヴィチの「第10交響曲」でのコンサートマスターは、ライナー・キュッヒルではなかった。

 さて、明日からの横浜と東京での公演で、このオケはどんな演奏を聴かせてくれるだろうか? それに期待することにして、私は6時頃に辞し、空港へ向かう。爽やかな大気の中でのコンサートは、おそらく6時半過ぎ、7時近くまで続いていただろう。

 なお、昼間の記者会見で、ゲルギエフがこう言っていたのは注目される━━「自分が若い音楽家に対していつも求めるのは、われわれがいかに作曲家の楽想に近づくかということだ。ショスタコーヴィチに関しては、この作曲家が持っている楽想がいかに巨大なものであるかを、私は説明する。楽器を弾く時の技術についてよりも、その作曲家の楽想を理解することに重点を置いて説明するのだ」。

2015・8・1(土)PMF GALAコンサート

     札幌コンサートホールkitara  3時

 数年ぶりに、札幌のPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)を、現地へ聴きに行く。

 7月12日に開幕した第26回PMFも、大詰めに近づいている。今日はその締めくくり公演の一つ、「ガラ・コンサート」だ。第1部が室内楽や声楽、第2部がワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラの演奏、という構成である。各20分ほどの休憩3回を含み、実に5時間を要する長尺ものとなった。

 第1部では、天羽明惠が進行役を務めた。
 まずPMFアメリカ・ブラス・メンバーとPMFオーケストラ・ブラス・メンバーで、デュカスの「ラ・ペリ」のファンファーレで開始されたが、これはあっけない。
 続いて天羽自身が「ホフマン物語」の「オランピアのアリア」を演技込みで歌い、聴衆を面白がらせた(ダニエル・マツカワ指揮PMFオーケストラが協演)。この時「人形にネジを巻く」役として一緒に登場した芝居気たっぷりの紳士は、PMF理事長と紹介された━━ということは、上田文雄さん(前・札幌市長)にほかならない。こんな茶目な方とは知らなかったし、何年もお会いしていなかったので、すぐ氏とは判らなかった。

 続いてPMFアメリカ(METオケ、フィラデルフィア管、シカゴ響などの首席指揮者たちからなる教授陣)が中心となり、プーランクの「六重奏曲」を快演、ただし、音楽の味よりも見事な腕前の方が印象に残るといった演奏だったかもしれない。入れ替わりにPMFのヴォーカル・アカデミー生5人がオペラのアリアを披露したが、その際、われわれの世代には実に懐かしいソプラノ、ガブリエラ・トゥッチが教授として元気な姿を見せ、陽気にスピーチをしてくれたのは、思いがけない喜びだった。

 そのあとにPMFオーケストラの弦楽セクションが、ライナー・キュッヒルをリーダーにモーツァルトの「ディヴェルティメントK334」からの3つの楽章を演奏、実はこれが第1部の中では最も聴きごたえのあった演奏と言ってよかったようである。
 そして最後が、PMFオーケストラによる近年の定番、田中カレン編曲の「PMF讃歌」━━ホルストの「木星」(ジュピター)に歌詞をつけた曲だ━━をゲルギエフが指揮、天羽が聴衆を指導して一緒に歌わせるという趣向だった。ただし、オケの後ろに並んだPMF祝祭合唱団〈北大の合唱団との由〉は声量がなくて全然聞こえないし、またぶっつけ本番同様の演奏とあって、単にお祭り的なものに終始した。
 これが終ったのが、ちょうど5時半。

 第2部が、横浜(3日)と東京(4日)でも行われる、ゲルギエフとPMFオーケストラのシリアスな演奏会である。
 だが、率直に言うと、前半で演奏されたロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲と、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」は、過去のPMFオーケストラのいかなる水準に照らしても、もう少し頑張ってもらわねば困るという類のものだった。弦の響きは薄く、金管はホルンをはじめ不安定である。何より、オーケストラの演奏に張りも昂揚も生気も自主性も不足しており、いったいこれが1カ月もの間研鑽を積んだ若者のオーケストラの仕上げ公演なのか、と疑いたくなる気持になったほどだ。最終の東京公演までには何とかまとまるのかな、という危惧を抱いたまま聴き続けたのが正直なところである。

 しかし、ソリストとして登場した今年のチャイコフスキー国際コンクール優勝者であるディミトリー・マスレエフは、第2楽章後半のカデンツァあたりから、ノリの悪いオケのサウンドの中から抜け出し、澄んだ音色と、見事な緊張感を備えた「間」の取り方を発揮して、本領を垣間見せたように思う。ソロ・アンコールで弾いたチャイコフスキーの「トレパークへの誘い」が若々しく清涼で、聴きものだった。

 後半のショスタコーヴィチの「交響曲第10番」で、御大ライナー・キュッヒルがコンサートマスターの椅子に座り、その他各パートのトップに教授陣がずらりと顔をそろえるに及んで━━オーケストラは、生気を取り戻す。
 ゲルギエフの指揮もここでは緊迫度を増し、彼らしい巨大な起伏感を発揮するにいたった。ショスタコーヴィチの名のモノグラム(D-Es-C-H)や、恋人エルミーラのモティーフをこれほど明確に浮き彫りにし、この交響曲の中心テーマを強調するように演奏した例は、そう多くはないだろう。これなら、この曲での演奏は日を追って更に練り上げられ、一つの完成の段階にまで達することができるのではないかと思われる。

 もっとも、かつてゲルギエフがPMFで指揮したショスタコーヴィチの「交響曲第11番」や、チャイコフスキーの「交響曲第5番」が、札幌での公演の時からすでに完成段階に達していたことを思えば、今日の「第10番」は、未だ物足りないところが多いと言わざるを得まい。
 これは、ゲルギエフとオーケストラの事前の練習時間の少なさも影響しているかもしれない。だがそれよりむしろ、オーケストラ自体に、昔のアカデミー生が持っていたような若々しさや熱狂度が,些か薄れているのではないかという危惧を、ステージ上の光景から感じてしまうのだ。前半の2曲における、ある弦楽首席奏者の、気乗りのしないような表情と動作もその一例。とりわけ、すでにチューニングが始まろうとする頃になっても楽員が遅れてバラバラとステージに入って来るなどというのは、オーケストラとしての規律がなさすぎるだろう。

 ホールは、ゲルギエフ指揮の第2部になった頃には、文字通り満席になっていた。8時終演。

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