2017-08

2015・7・31(金)日下紗矢子「ヴァイオリンの地平2」

    トッパンホール  7時

 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団第1コンサートマスターと読響コンサートマスターを兼任、ベルリン・コンツェルトハウス室内管弦楽団のリーダーをも務める日下紗矢子のリサイタル。

 協演のピアノはマーティン・ヘルムヘン。
 プログラムは、モーツァルトの「ソナタ ハ長調K303」、ベートーヴェンの「ソナタ第4番イ短調」、パガニーニの「カプリース」から「第9番」と「第24番」、モーツァルトの「ソナタ イ長調K526」、シューベルトの「ロンド ロ短調D895」、という、多彩で起伏の大きな、個性的なものだった。

 前半でも後半でも、古典派の作品からロマン派の作品へ移行するという曲目構成。それも面白いが、そこで聴かせる彼女の多彩な表現の変化、各作品における鮮やかな性格の対比も、また非常に凄いものがあった。同じモーツァルトのソナタでも、9年の間隔を置いて作曲された2曲の性格の違いを、見事に描き出す。

 特に第1部では、モーツァルトからベートーヴェンを経てパガニーニの魔性的な狂乱へと変化させるその表現の精緻さに圧倒される。そして第2部では、再びモーツァルトの世界(このK526のソナタでの演奏が不思議に艶めかしい)に戻ってから入ったシューベルトの「ロンド」の、悪魔的な暗黒の怒涛━━ヘルムヘンの激烈な轟々たるピアノと、それに一歩も引かず屹立し、身を翻すといった自在の演奏。目を閉じて聴いていると、巨大な闇が襲いかかって来るような幻想に引き込まれ、底知れぬ恐怖感に引き込まれたほどである。

 ほっそりした体躯のどこからあのような強靭な音楽が生まれるのか━━。しかも彼女は、いわゆるコンサートマスターにありがちな、アンサンブルのみを重視した模範的で整然とした演奏スタイルなどとは、全く違った弾き方をする人だ。凄い人である。

2015・7・30(木)広上淳一指揮京都市交響楽団 第6回名古屋定期

     愛知県芸術劇場コンサートホール  6時45分

 好調の広上淳一と京都市響の演奏を、その後なかなか聴ける機会がなかったのだが、京都よりは少し東京に近い名古屋で定期演奏会があるのを幸い、日本芸術文化振興会基金の仕事と絡め、トンボ帰りで聴きに行く。
 プログラムは、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」(ソロは清水和音)、ベルリオーズの「幻想交響曲」。

 「パヴァーヌ」でのホルンが見事。その最初の音は、ふつうならしのびやかに開始されるところだが、それが実に明確なアタックで開始されたのには驚き。そういえば以前に聴いて驚嘆した「巨人」でも、広上=京響のアタックは鮮やかだった。
 アンサンブルには室内楽的な精緻さも聴かれる。こういった特徴が近年の広上=京響の身上なのかな、と感心させられる。

 その一方、2階席正面10列(実際は3列目くらい)で聴いたせいもあるのか、演奏は少々硬質で、生々しいものに感じられた。この曲の演奏は優雅典麗で玲瓏たるものであるべきだ、などと決め付けるつもりはないけれども、もう少し幻想的な趣があってもいいのではないか、という気もする。もっともこの類の演奏は、残響の長い、よく響くホールで聴けば、とても良いものに感じられるだろう。

 「幻想交響曲」になると、この小気味よい、切り込むようなアタックと、激烈で鋭角的なサウンドが、鮮やかに生きる。それほど標題的な要素が強調されているわけではない。第2楽章は壮麗な舞踏会の雰囲気とは程遠く、剛直な響きの演奏だ。
 だがその一方、第5楽章での「悪魔に変身した恋人」を描くクラリネットのソロは、極めてグロテスクに、素晴らしく演奏されていた。いずれにせよ、この革命児的な、傍若無人な咆哮が続出する奇怪な交響曲としての性格が、余すところなく発揮された演奏だったことは疑いない。

 それにしても、オケの音は、この曲でも非常にシャープに聞こえる。刺激的に過ぎるかもしれない。だが、打楽器も金管群も、とにかくよく鳴る。いわゆる「日本のオーケストラ」的な穏やかさ、なだらかさ、などとは一線を画したような演奏が面白い。こういう、良い意味でのとげとげしさ、粒立ち、ギザギザした特徴は、「パヴァーヌ」の時と同様、よく響くホールだと更にいい効果を出すだろう。

 第3楽章での、ステージ上のコール・アングレとの掛け合いで遠方から響いて来るオーボエのソロは、今回はオルガンの下の席の中に配置されていた。だがこれは、音像が近すぎて、音がリアルになり過ぎ、どうも賛同できない。
 とはいえ、楽章終り近く、オーボエがコール・アングレの呼びかけにもはや応えぬようになった時、奏者がもういなくなったあとにぽつんと立つ無人の譜面台が、不思議な寂寥感を生み出すという演出効果もあって・・・・しかしこんな感傷は、想像力の豊富な聴き手でなければ持てないものだろう。ふつうなら「譜面台が楽章の終りまで置きっぱなしになっていた」とか思われるのがオチだろうし、それではミもフタもない。

 第5楽章での弔いの鐘も、袖から響くにしては、随分と生々しくリアルに轟いた。広上は、先頃の「惑星」の女声合唱でもそうだったが、遠くから響くべき楽器を、間近で出すという嗜好があるようである(これは大野和士とも共通している)。

 モーツァルトの協奏曲も、かなり生々しい息づかいの演奏だったが、これはソリストの清水和音も同様だった。
 なお彼はアンコールで、「亡き王女のためのパヴァーヌ」のピアノ版を弾いてみせた。これはちょっと長かったものの、「2度おいしい」のクチで、面白いアイディアである。
 また、演奏会の締め括りでのオーケストラのアンコールでは、広上が小林研一郎の口真似をしてスピーチしつつ、小林の定番曲「ダニーボーイ」を演奏した。

 客席は、ほぼ満席状態。京都市響(今夜のコンマスは泉原隆志)の、カーテンコールでの楽員の表情が明るいのが素晴らしい。特に木管の女性奏者の中には、笑顔で楽器を高く掲げてみせる人もいる。いい演奏を聴いて愉しく拍手を贈る聴衆の気持も、いっそう和むというものだ。同じカーテンコールでも、「あんたら、そうやって手を叩いてるけど、こちとら毎日商売でやってるだけよ、クソ面白くも何ともねえんだ」といわんばかりの仏頂面をして立っている東京の多くのオケも━━演奏は、そりゃ上手いだろうけれども━━少しは見習ってほしいものである。

 9時15分終演。楽屋を訪ねてマエストロ広上にハローを言い、一緒にコバケン御大の物真似をしあって盛り上がったのち、急ぎ名古屋駅へ向かい、9時54分の「のぞみ」で帰京。

2015・7・26(日)長崎県オペラ協会 錦かよ子:オペラ「いのち」

      新国立劇場中劇場  2時

 2013年8月31日に長崎で初演された、錦かよ子作曲、星出豊芸術監督の台本・演出・指揮によるオペラ「いのち」。
 あの上演の際には私も誘われたけれども、あいにくバイロイト→松本→ザルツブルクと続いた旅行から帰国する日に当たっていたため、観に行くのを諦めた経緯がある。

 今日は新国立劇場地域招聘による東京公演の2日目。
 指揮は同じく星出豊。原さとみ(中沢夏子)、藤原海考(松尾邦夫)、大石洋史(山田昇)、富永宏美(岩村女医)、村岡恵理子(山田トシ)、高原佐喜子(奈々子)他、九州・東京などの歌手が多数出演していた。管弦楽と合唱はOMURA室内合奏団、長崎県オペラ協会合唱団、同児童合唱団。

 オペラは3幕構成。第2幕は1945年の原爆投下の場面、第3幕が1959年のグラバー邸および病院の場面となり、後者では愛し合う松尾医師と被爆者・中沢夏子との苦悩が描かれる。

 星出豊の台本は、自然体の会話をも多く取り入れた、人間的な機微に飛んだ感動的なものだ。聴き手にとっては、非常な精神的重圧を受ける内容の物語である。
 だが、それに付けられた錦かよ子の音楽は、むしろ叙情味が濃く━━歯に衣着せで言えば、些か感傷的で、甘い。それゆえ、あたかも一種のホームドラマ的なオペラ、もしくは映画音楽か何かのような印象を受けてしまう。
 「市民オペラ」としての性格に徹底するなら、それも一法かもしれず、それでもいいのかもしれない。だが、それが、原爆投下と原爆症という、あまりに恐ろしい悲劇的な心痛む内容を持ったシリアスなオペラの音楽にふさわしいのかどうか? 保科洋の「はだしのゲン」と、もう一度比較してみたい気もする。

 「グラバー邸の場」では、プッチーニの「蝶々夫人」の音楽がかなり引用されていた。それ自体は、悲劇的な二つの場面の間のインテルメッツォ的な性格をつくり出すものとして、悪くない手法であろう。。

 紗幕を活用した舞台は、なかなか美しい(美術・川口直次、照明・奥畑康夫)。原爆投下後の悲惨な場面における踊り手の使い方も興味深く、幕切れで避難して行く夏子と奈々子を追って、踊り手たちがかぶった大きな白布が動いて行く光景は、不気味で幻想的で、効果的だった(ただ、物陰へ消えないうちに、ダンスを止めて歩き出してしまってはいけない)。夏子の病室の場面は、「椿姫」の影響を受けているように思われる。

 これはご愛嬌だろうが、グラバー邸見物の「観光客」たちが、福砂屋の袋を持ち、「カステラも美味しかった」と歌っているのにはニヤリとさせられた。プログラム冊子をめくってみると、たしかに福砂屋の広告も載っている(福砂屋のカステラは私も大ファンなので━━とりわけあの「五三焼」!)。そういう舞台の光景は、穴弘法寺とか、背景の山々の木々とか、浦上天主堂などとともに、地元の観客の心に響くものだろう。以前、清水脩の「吉四六昇天」を大分で観た時に、私もそういう「ご当地もの」感覚への共感を覚えたこともあるが・・・・。

2015・7・24(金)デニス・ラッセル・デイヴィス指揮読売日本交響楽団

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 先日のオペラ「魔笛」での演奏が良かったので、コンサートをも聴きに行く。
 第1部にブラームスの「二重協奏曲」(ヴァイオリン=ダニエル・ゲーデ、チェロ=グスタフ・リヴィニウス)、第2部にホルストの「惑星」(合唱=長谷川久恵指揮東京少年少女合唱隊)というプログラム。

 とはいえこちらは麹町から新宿までの道路大渋滞にひっかかり、見事に遅刻、1曲目(ブラームス)は、第2楽章以降しか聴けなかった。ドアの外で聴いていた時には、なかなか引き締まった堂々たる演奏だなと感心していたのだが、いざホールの中で聴いてみると、案外大らかな演奏で━━第3楽章最後も意外にあっさりした終結。

 「惑星」は、弦14型に減らした編成ながら、読響の鳴りっぷりの良さゆえに、やはりこのホールには入りきらないだろう。しかし「火星」や「天王星」など、暑気を吹き飛ばすような轟音で、痛快だったのはたしかである。それに読響(コンサートマスター 長原幸太)の音色が華やかだったため、どんな大音響でも耳触りということが全くなかったのは祝着の極み。

 デニス・ラッセル・デイヴィスも、やや遅めのテンポで風格のある演奏をつくり出し、それは少し重々しかったものの、物々しい楽想の個所では力感たっぷりの構築を聴かせて成功していた。
 2階バルコン席の外から聞こえて来た「海王星」での合唱は、バランスもいい。最後に合唱が無限の彼方へ消えて行くように響かせたのも巧みな演出である(時にスパッと切って終りにしてしまう指揮者もいるので・・・・)。

2015・7・20(月)ヴォーカル・アンサンブル カペラ「サルヴェの祈り」

     聖アンセルモ・カトリック目黒教会  4時

 世評に高い「ヴォーカル・アンサンブル カペラ」の定期演奏会を聴きに行く。

 音楽監督・花井哲郎が率いる10人の歌手たち。完璧な均衡を保った声楽アンサンブルだ。日本のアンサンブルらしく、なだらかで柔らかい響きだが、この上なく美しい合唱を聴かせてくれる。教会の豊かな残響を手の内に収めた歌唱は、素晴らしい空間的拡がりをもって響く。

 今回は、第1部を「聖母の晩歌」として、ニコラ・ゴンベールの作品を中心に、第2部を「サルヴェの祈り」として、クレメンス・ノン・パパ、ジャン・リシャフォール、トマ・クレキヨンの作品を、いずれもグレゴリオ聖歌と組み合わせてプログラムを構成している。
 それらの曲の流れも見事で、正味1時間半強のプログラムが短く感じられるほどであった。

 ただひとつ、古い典礼の形を採った演奏とはいえ、祭壇の一隅に大きな大きな譜面台を置き、メンバーがその向こう側に隠れるように顔を寄せて歌う歌唱のスタイルは、300人以上の聴衆を相手とした演奏会としては、何か閉鎖的なイメージにも見えていかがなものか、という印象は、結局最後まで拭いきれない。いっそ眼を閉じて聴いていた方が、コーラスとの一体感を覚えることができる。

 客は満員。歌唱を追って歌詞対訳を正確にめくる人も多く、熱心な定期会員が多いことを示している。
 私は教会の硬い木の椅子に座ると、数年前の坐骨神経痛が一気に再発しかねないので、壁側の折り畳みの補助椅子に腰を下ろすことにした。だが運の悪いことに今日は、前に座った中年女性が演奏中にもかかわらず、ひっきりなしに、無神経なほど大きな咳払いをするのに閉口し━━よほど休憩時間に注意してやろうかと思ったのだが、それがたくましい体格といかつい顔つきの、見るからに強そうなオバサンなので怖気づき、主催者に訳を話して反対側の壁際に椅子ごと移動することを許してもらった(係の某氏は、ニヤリとして快く親切に椅子を運んでくれた)。

 以下も余談だが、この「聖アンセルモ・カトリック目黒教会」を訪れるのは、実に半世紀ぶりだ。といっても私は子供の頃から、この品川区上大崎4丁目に━━今の雅叙苑マンションのある高台の先端にずっと住んでいたことがあるので、目黒駅との往復には、この教会の前を毎日通っていたのである。建てられてから、もう60年くらい経つのでは? 献堂式は1956年だったはず。久しぶりに入ってみて、内部はこんなに大きかったか、と改めてびっくりしたわけだが・・・・。

 この教会の周辺、今は軒並みマンション化してしまったが、私にはそれらの場所に昔あった家の一軒一軒、塀の一つ一つ、道路の形状のすべてに思い出が残っている。
 戦後、教会の斜め向かい側の雅叙園観光ホテル(何年か前まで在った)が進駐軍宿舎となっていて、夜には屋上でグレン・ミラーの曲が演奏され、周辺には「パンパン・ガール」(夜の女)がたむろし、住民から顰蹙を買っていたことを知る人は、もう多くないだろう。その夜の女が、取り締まりの警官に追われて私の家の庭に逃げ込んで来たことさえあった。

 また警官の中には、取り締まり中に女たちに同情し、彼女らが米軍兵士に出すラヴ・レターを英訳してやるアルバイトを内緒でやっているうちに、それが複雑な内容になりすぎたため、私の家に英文の添削を頼みに来るという、おかしな人もいた。
 彼は人柄のいい若い警官で、某大学の夜学に通って勉強していた。子供の私をよく映画や野球に連れて行ってくれ、内緒でピストルの撃ち方を教えてくれたこともある。まだ世の中が大らかだった時代の話である。だが彼は、その一方で何人もの強盗を逮捕し、しばしば警視総監賞をもらっていた立派な警官でもあったのだ。

 その後、通りは、「ドレメ通り」となった。学生時代、毎朝目黒駅へ向かう時、駅の方から道一杯に奔流の如く押し寄せて来るドレスメーカー女学院の女子学生軍団の中を、ただ独りで突っ切るのは、本当にしんどかった・・・・。

2015・7・19(日)東京二期会 宮本亜門演出「魔笛」

     東京文化会館大ホール  2時

 東京二期会、久しぶりのメガ・ヒットというべきか。
 リンツ州立劇場との共同制作で、歌唱、オーケストラ、舞台の3拍子そろっての見事な出来だった。

 まず宮本亜門の演出。
 彼らしく機知に富んだ舞台で、スピード感のある楽しさにあふれたものだ。序曲の間に、仕事がうまく行かずに自棄的になった男の家庭が崩壊するさまが「大衆的なスタイル」で描かれるが、その人物たち━━夫がタミーノとなり、妻がパミーナとなり、3人の子供が3人の童子に、祖父が弁者になって、各々が「魔笛」の物語を体験して行くという設定が、直ちに判って来る。

 これはよくあるタイプの手法ではあるけれども、しかしこの「魔笛」の場合には、第2幕冒頭で「僧侶」たちが投げかける「なぜ殊更にタミーノでなければいけないのか?」という問いに応えるザラストロの、「普通の人間が愛に目覚めなくては世界に平和は訪れないのだ」という意味のコンセプトと結びつくのである。いいアイディアだと言えよう。
 ただ、ラストシーンの合唱とともにこの民草の家の居間の光景が再現し、一家が元気と明るさを取り戻すというシーンが初めから見え見えになってしまうという、・・・・要するに手の内が全部見えてしまうという特徴が生じるのは、致し方なかろう。

 今回は、舞台のつくりがいい。物語本体の部分では、プロジェクターの映像が全面的に活用される。舞台装置のボリス・クドルチカ、照明のマルク・ハインツ、映像のバルテク・マシス(マシアス)━━この3人は、先頃METの「青ひげ公の城」の舞台を担当したチームでもある。
 どこまでが大道具で、どこからが映像なのか全く区別がつかぬくらい巧みに組み合わされている舞台で、それはもう見事なものだ。花々が風に揺れたり、壁が一気に崩れ落ちたりするさまも華麗に描かれる。

 この手法だと、場面転換が瞬時に簡単にできることになり、従って「間」が空かなくて済む。これからはこのプロジェクション・マッピングが活用されることがますます多くなるだろう。
 衣装(太田雅公)も、どこやらのSF映画から引っ張って来たような、宇宙人みたいな気持の悪い頭のデザインとか、飛び回る猿軍団とかいったような、シャレを感じさせるものになっている。

 歌手陣。
 タミーノの鈴木准、パミーナの幸田浩子、ザラストロの妻屋秀和、いずれも適役で、文句のつけようがない。とりわけパパゲーノの黒田博とモノスタトスの高橋淳は、派手な芝居巧者のコメディアン役として、前記のシリアスな3人との絶妙な対比をつくり出していた。
 夜の女王役は森谷真理。先日の「リゴレット」のジルダより、こちらの役の方がきっといいだろうと予想していたが、予想通り、久しぶりに「完璧な」夜の女王の歌唱を聴くことができた。ただ、セリフ部分の声があまり通らないのは経験不足ゆえか、前記の5人に比べるとそこだけ迫力を欠いたのは惜しかった。

 一方、弁者役の加賀清孝は、少し声が粗いのが気になり、また3人の侍女(日比野幸、磯地美樹、石井藍)も第1幕で妙にハーモニーのバランスが悪く、旋律性を欠いて曖昧な和声感になったのが残念。
 これに対し、3人の童子(TOKYO FM少年合唱団のメンバー)が予想外に健闘していたのが面白かった。二期会合唱団もいつものように安定。

 指揮は、老練デニス・ラッセル・デイヴィス。いつぞやの「フィガロの結婚」では音楽が重すぎて納得が行かなかったが、今回の「魔笛」では、その堂々たる骨太の落ち着いた音楽づくりが多くの個所で成功していた。
 その風格の音楽を、読売日響ががっしりした芯の強い演奏で仕上げる。かくて、すべてのバランスが整った上演が完成されたというわけである。

 それに加え、観客の入りも、東京二期会の最近の上演には珍しく、立錐の余地もない満席ぶりであった。

2015・7・18(土)山田和樹指揮仙台フィル 「椿姫」演奏会形式上演

      東京エレクトロンホール宮城  3時

 新潟から仙台に移動。バスもあるようだが、やはり一番確実で早いのは新幹線という話を聞いたので、大回りながらも大宮を経由、正味2時間37分(乗り換え待ち32分を含めても3時間9分)で仙台に到着。こちらも小雨、猛烈に蒸し暑い。

 これは仙台フィルの特別演奏会。このオケのミュージック・パートナー、山田和樹の指揮で、ヴェルディの「椿姫」が演奏会形式で上演された。

 ヴィオレッタを歌ったのは安藤赴美子。つい先週、札響とのメンデルスゾーンの「讃歌」に出演していたと思ったら、今日は「出ずっぱりの主役」である。この役は彼女の当たり役になっているのでは? いつものように明るく澄んだ伸びのある美しい声で、しかもピンと張りのある力強さもあって魅力的である。これに、いっそう深い感情表現と陰翳とが加わるようになったら、以前聴いた「タンホイザー」のエリーザベトと同様、今以上に素晴らしいプリマになるだろう。

 アルフレードは西村悟。情熱的な青年という歌唱表現で、劇的な感情表現も充分。激した表現の時の声に芝居気のような誇張が聞かれることがあり、これはあまり過剰にならぬ方がいいのでは━━と素人目には思われるのだが、どうか。だが長身で舞台映えもするし、良いアルフレード歌手だと思う。
 ジョルジョ・ジェルモン役は小森輝彦。歌唱はさすがの貫録、凄みも滋味もあって、父親としての存在感は見事である。ついでにステージ出入りの際、もう少し「横柄な父親」らしく歩いてもらえれば・・・・。

 という具合に、主役3人はベストだったが、共演の歌手陣には、残念ながら少々ムラがあった。ただしその中では、ドゥフォール男爵を歌った金沢平が良かった。
 合唱は熊友会(ユウユウカイと読む)ヴォーカル・アンサンブル(佐々木正利指揮)で、舞台下手側に配置されており、元気いっぱいの歌唱。盛岡の方の団体と聞いたけれども、プログラム冊子にははっきりと書いてない。

 仙台フィル(コンサートマスターは西本幸弘)は、緻密な演奏で好演していた。山田和樹の指揮も丁寧ではあったが、やや器楽的な音楽づくりと言ったらいいか、舞台作品的というよりは「演奏会形式」的な音楽になっていた印象だ。オペラとなれば、演奏にも、もう少し劇的な起伏と煽りが欲しいところである。

 たとえば第2幕、ヴィオレッタが悲痛な激情に駆られ、アルフレードに「Amami、Alfred」と訴える個所は、そこだけが突然昂揚するのではなく、彼女のそれまでの苦悩が次第に激して、ついに弦の壮烈なトレモロを含む全管弦楽の慟哭に爆発して行く・・・・という流れの中で演奏されなければならないだろう。
 また同幕の後半、「賭け事の場面」と、続く「アルフレードとヴィオレッタの激しい口論の場面」では、オーケストラは同じ音型を執拗に繰り返しつつ転調して行くのだから、緊張感が1小節ごとに高まって行くように音楽をつくっていただきたい気がする。

 とまあ、言いたいことをいわせてもらったが、彼はこれからオペラに足を踏み入れて行く指揮者だ。今後何十年、振る作品もどんどん増えて行くだろう。どうか、オペラを、譜面上だけでなく、リアルな舞台ドラマの音楽としてつくる指揮者になっていただきたいと願う。

 なお今回、舞台奥には大きなスクリーンが設置され(黒枠というのが少々気になったが)、そこにいろいろな映像と字幕とが映し出されるという手法が採られていた。
 字幕には、歌詞だけでなく、簡単なト書きも加えられていたが、演奏会形式の場合、私はこれに大賛成である。歌詞だけでは登場人物が何をやっているのか判らないことも多いので━━つまりその歌詞が何を意味しているか解らないことにもなるので━━ト書きが出れば、初めて聴く人にも理解が深まることだろう。
 ただしそれは、必要最小限でいい。今日のは、ちょっと過剰気味だった。いちいち「アルフレード、登場」とまで出さなくても、見ていれば判る。

 5時40分頃終演。いい演奏だった。お客の入りも上々だったようである。東京から聴きに来ていた業界関係者も大勢いた。
 8時半の「こまち/はやぶさ」に乗り帰京、東京駅までわずか92分。
     ⇒別稿 モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2015・7・17(金)ロシア国立響 チャイコフスキー3大交響曲

    りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館コンサートホール 6時30分

 「日本初の快挙、チャイコフスキーの交響曲4番、5番、6番《悲愴》を一挙演奏!」と大々的に謳い、ワレリー・ポリャンスキー指揮するロシア国立交響楽団がツアーを組んでいる。全14回公演のうち、11回がこの3交響曲を並べたプログラムである。

 これはしかし、前代未聞のプログラムだろう。快挙というより怪挙か? 正味約2時間20分、20分ほどの休憩を入れて計約3時間強。
 オペラなら並みの長さだし、続けて聴いてもどうということはないが、各々別個のアクの強い性格を備えた長大な交響曲を3曲続けて聴くとなると、音楽の構成が全く異なるがゆえに、いかに演奏時間が同じとはいえ、かなりの精神的重圧を感じてしまう。
 もっとも、熱烈なチャイコフスキー・ファンなら、平気で愉しめるだろう。私もチャイコフスキーは好きな作曲家だし、現にこの3曲は、自分がクラシック音楽を好きになった頃にはベスト1とか2とかに入れていた曲だから、今でもそれなりに好きではあるけれど、しかし・・・・。

 ロシア国立交響楽団と表記されているが、あのスヴェトラーノフが率いていたオーケストラとは違い、かつてロジェストヴェンスキーが指揮していた「モスクワ・シンフォニック・カペレ」または「ソビエト国立文化省交響楽団」の流れを受け継ぐオーケストラだとのこと。プログラム冊子掲載の英語表記には、State Symphony Capelle of Russiaという名称も見られる。

 さてこの、ロシア流に言えば「ポリャンスキーのオーケストラ」だが、いわゆる爆演を聴かせる面はあるものの、全てを野性的な荒々しさだけで押し切るタイプではない。
 「4番」は、たしかに大きな音だが、演奏の表情自体は意外に抑制されたものだった。あの第4楽章も、往年のソ連の巨匠たちがよくやったような猛烈な速度で演奏されたりはしなかった。
 とはいえ、「5番」第1楽章主部になると、途端に爆演、豪演に近くなる。荒っぽくなるところもある一方、非常に豊麗になる時もある。
 弦の艶は、さすがロシアのオケらしく、見事なものだ。「4番」第3楽章のピッチカートなど、なかなか壮麗なものだった。

 3曲を毎晩演奏するとなると、いかにタフな彼らでも、疲れたり、飽きたりするのではなかろうか。乱暴な演奏も時には現れる。弦の一人だけが突然大きな音を出すなどという奇怪なこともある。しかし、巧いバランスで響かせるなと感心させられるような演奏のところも、結構多い。

 ポリャンスキーが気合を入れると、途端に物凄い演奏になる。「悲愴」第1楽章再現部の、第2主題が出る前までの部分━━全管弦楽が最大級の咆哮を続ける個所など、大音響そのものが一種の魔性を帯びたものになる。まるで手負いの恐竜が最後のあがきを続け、ついに打ち倒れて息絶える(第301~304小節)といったような、猛烈な演奏だ。
 そのわりに第3楽章の行進曲は抑制したテンポを採って、あまり狂乱せずに結ぶ。第4楽章でも思いのほか淡々とした演奏だったのは予想外であった。

 3曲並べてプログラムを構築するからには、「5番」を頂点に持って来るつもりだったのかと思いながら聴いていたが、その第4楽章もごく普通の昂揚程度で結ばれていた。結局ポリャンスキーは、ただ3曲それぞれの特徴を生かしつつ続けて演奏してみせたということになるのだろう。

 「悲愴」終楽章最後のコントラバスの連続する3連音符の個所を、4分の3拍子のリズムをはっきりと保ったまま演奏して結んで行ったが、これは少し違和感がある。
 ともあれ、重量感とエネルギーの点では、やはり桁違いのものだ。オーケストラとしては、本気になれば、かなり高い水準に属する団体だろうと思う。
 9時40分頃終演。

2015・7.16(木)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

    サントリーホール  7時

 ストラヴィンスキーの「管楽器のための交響曲」(1947年版)、バルトークの「ピアノ協奏曲第1番」(ソロはデジュー・ラーンキ)、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」という、ちょっとユニークなプログラム。いかにもノット&東京響の定期らしくて、新鮮だ。

 ストラヴィンスキーの冒頭は、シャープで切れ味鋭く開始された。現代音楽のレパートリーにおけるノットの鮮やかな感性を覗わせ、これを受ける東京響の張り切った良さがわれわれにも伝わって来る。

 ただ、バルトークのコンチェルトに入ると、全管弦楽の音が━━指揮者のすぐ前に配置されたティンパニなど打楽器セクションの音さえもが、ホールの長い残響の中で、そのシャープなリズム感をかなり薄めてしまう傾向があった。2階席正面で聴いていたのだが、あのラーンキの魅力的なソロも、オーケストラに埋没してしまうように思われた。まるで、ピアノのオブリガート付きの交響曲のような感が━━というのは少々オーバーかもしれないが。

 ベートーヴェンの「5番」も同様。実はノットが指揮するからには、もう少し鋭角的で、闘争的な、現代音楽的な演奏になるかと思って期待していたのだが、弦のテュッティなどが意外になだらかに聞こえて拍子抜け。
 たしかに、音の厚みは充分だし、密度の濃い演奏だったし、特に第4楽章コーダなどでは音楽が強固に聳え立って、堂々たる終結に導かれて行ったので、それはそれでよかったのだが━━。演奏自体に不満があったわけではない。

 これらは、ミューザ川崎シンフォニーホールでだったら、もっと違うイメージの演奏に聞こえるだろう。このあたりに、ホールのアコースティックの複雑な問題がある。ホールは楽器の一部である。もしかしたら、このノットと東京響の演奏は、ミューザ川崎の響きの中でこそ、本来の真価を最大限に発揮するのかもしれない。

2015・7・15(水)佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ「椿姫」

      兵庫県立芸術文化センター 2時

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      撮影:飯島隆  提供:兵庫県立芸術文化センター  (中央ドヴァリ)

 兵庫県立芸術文化センター開館10周年記念公演、ヴェルディの「椿姫」。2005年以来11作目にあたる佐渡のオペラ・シリーズの中で、ヴェルディは今回が初めてだとのこと。
 前日14日にフタを開け、土・日を含めすべてマチネーで、26日までの間に計10回の公演が予定される。それが相変わらず完売に近い売れ行きだそうである。完売すれば、計算上では総計2万人近い観客を動員するわけだから、国内オペラ公演としては図抜けた存在だ。

 指揮は、もちろん総帥の佐渡裕。兵庫芸術文化センター管弦楽団と、ひょうごプロデュースオペラ合唱団(合唱指揮 シルヴィア・ロッシ)。
 今日はダブルキャスト第2組の初日で、テオナ・ドヴァリ(ヴィオレッタ)、チャド・シェルトン(アルフレード・ジェルモン)、高田智宏(ジョルジョ・ジェルモン)、ルネ・テータム(フローラ)、渡辺大(ガストン子爵)、久保和範(ドゥフォール男爵)、町英和(ドビニー侯爵)ほかのひとびとが出演した。

 佐渡の指揮するオーケストラが、冒頭の「前奏曲」から明確な造型感をもって響き出したのが印象的だった。全曲を通じて演奏は緻密であり、少し重いところはあるけれど、この作品を暗い悲劇の音楽として丁寧に描き出していたと思われる。
 近年の佐渡裕は、もう昔と違って、ただ力任せに押して行くような指揮者ではない。この「椿姫」での指揮を聴くと、彼は今後、ヴェルディのレパートリーにおいても成功を収めるのではないか、という気がする。
 合唱団も良かった。舞台映えもするし(写真参照)、歌唱も極めて水準が高い。

 声楽ソリストで最も見事だったのは、父親ジェルモンを歌った高田智宏だ。8年前からドイツのキール歌劇場で専属歌手として歌っている人だそうだが、こんな明晰で豊かな、力強い声で堂々とジェルモンを歌う若手の日本人歌手がいるのを、初めて知った。東京にも現われて欲しい人である。

 ヴィオレッタ役のドヴァリは、第1幕ではややノリが悪かったような感もあったが、場面が進むごとに調子を上げて行き、第3幕では実に清澄な表現で、純なヴィオレッタ像を描き出していた。
 一方、アルフレード役のシェルトンは、声そのものは豊かだが、歌い方に少し癖があって、冒頭シーンからしてあまり純朴青年アルフレードという声質でなく、何か世慣れた図々しい男みたいな感の歌唱だったが、・・・・まあ、全体としては悪くなかろう。

 演出はロッコ・モルテッリーティ。基本的には、ごくストレートな路線だ。映画監督でもある彼の演出らしく、今回は映像が多用されていた。また演出助手を、若手演出家の菊池裕美子が務めていたが、伝え聞くところによれば、彼女の働きが実に大きかったとのことである。装置はイタロ・グラッシとクレジットされているものの、実際は背景の巨大スクリーンに投映される映像(マウロ・マッテウッチ)が 舞台装置のすべてと言ってもいい。

 たとえば冒頭、音楽なしで、病の床にあるヴィオレッタと侍女アンニーナ(岩森美里)の対話で始まり、ヴィオレッタが背景の暗黒の中へ遠ざかっていくうちに前奏曲が開始されるのだが、その中でパリの市街の光景や,馬車で夜会に到着する人々の姿が映し出され、音楽が第1幕に入るや、笑い声がさんざめく明るい建物の外観を経て、一気に豪華な邸宅の映像場面になだれこむ━━という具合だ。

 このスクリーンは、分割されて各々異なった映像を映すこともある。登場人物そのものも映し出されるが、舞台上の光景をそのまま拡大し投映するなどといった野暮な方法は採られず、それぞれの心象内容が投映され、音楽や歌詞の意味する心理状態が別の形で表現される・・・・という手法が採られる。
 これらは、METでケントリッジがアニメを利用して試みたものなどと共通する手法だが、極めて効果的だ。行き過ぎると煩わしいものになりかねないが、ここでは必要程度のものにとどめられている。

 第3幕では、明るい映像は影を潜め、ひたすら暗黒の背景の前でひっそりとヴィオレッタの病の床のシーンが進む。そしてラストシーンでは、人々が見守る死の床から抜け出た彼女が、舞台中央で銀色の光を浴び、皆の悲しみを他所にすっくと立つうちに暗転して終るという演出である。かような「哀れっぽくない椿姫」の幕切れは、先日の新国立劇場制作のヴァンサン・プサール演出でも行われた手法だが、私の好みとしては、こういう方がいい。

 2回の休憩を含み、終演は5時頃。舞台・演奏がよくかみ合った成功プロダクションということができよう。
 この「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ」、来年はブリテンの「夏の夜の夢」だという。これまでの路線に比べ、いきなり随分渋いものを持って来るんだな、という感。
      ⇒別稿 音楽の友9月号 演奏会評

2015・7・13(月)野田秀樹作「障子の国のティンカーベル」

    東京芸術劇場シアターウエスト  7時

 これは演劇。野田秀樹の作、マルチェロ・マーニの演出、毬谷友子の一人芝居。95分ほどの長さを持つ。
 ティンカーベルとは、もちろんあの「ピーター・パン」に登場する小妖精だが、ここでは彼女が主人公。日本で繰り広げられる彼女とピーター・パンとの愛と確執のものがたり━━とでもいったお話である。90分間絶叫しっ放しという毬谷も凄いが、パフォーマーとして助演している野口卓磨の演技もなかなか良い。
 東京芸術劇場開館25周年記念の「芸劇フェスティバル」の一環。

2015・7・12(日)東京オペラ・プロデュース アルファーノ:「復活」

     新国立劇場中劇場  3時

 ハーディング&新日本フィルのマーラー「復活」は聴けなかったけれども、フランコ・アルファーノのオペラ「復活」というのをやっていたので観に行く。
 これは東京オペラ・プロデュースの第96回公演だ。このオペラ・カンパニーは、1975年にビゼーの「ミラクル博士」やブリテンの「炉(燃える炉)」で旗揚げして以来、他では演らないような珍しいレパートリーばかり取り上げて来ている。40年にわたるその意欲的な活動には、本当に頭が下がる。

 「復活」は、アルファーノ(1876~1954)が1904年に完成し初演した作品だ。「The VIKING OPERA GUIDE」には小さく載っているが、「新グローヴ・オペラ事典」には載っていない。しかし故・永竹由幸は「オペラ名曲百科」で詳しく取り上げている。

 これはもちろん、トルストイの有名な「復活」をオペラ化したものだ。が、原作における複雑な社会性などは棚上げにされ、見事にラヴ・ロマンスに仕立てられてしまっているのは苦笑させられる。
 音楽の上では、知らずに聴いていれば、これがロシアの物語であることはほとんど感じられないだろう(それはそれでいいだろうが)。唯一、第4幕冒頭にロシア的な旋律が嫋々と奏でられるのが、全体からするとむしろ異質に感じられるくらいだ。

 心血を注いで上演してくれたスタッフや出演者には申し訳ないが、私にはこのオペラは、どうにも興味を惹く音楽ではなかった。
 せめて演出面で、心理劇の要素を浮き彫りにしてくれれば別の興味が沸いたかもしれないが、例のごとく正面(客席)を向いたまま歌い、演技する、というパターンでは、芝居としての面白みも無い。このオペラに接するのは、私は、これが最初で最後だろう。

 演出は馬場紀雄、演奏は飯坂純指揮の東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団と東京オペラ・プロデュース合唱団、歌手陣はダブルキャストの今日は2日目で、垣岡敦子(カチューシャ)、古橋郷平(ディミトリ)、羽山晁生(シモンソン)他。
 古橋が歌唱と演技の面で最も映えていた。

2015・7・11(土)ピノック指揮紀尾井シンフォニエッタ東京「ロ短調ミサ」

      紀尾井ホール  2時

 新千歳空港朝9時発のANA/AIRDOで東京に引返す。このスケジュールは一寸きついが、そのあとで良い演奏を聴けば眠気も吹っ飛ぶ。トレヴァー・ピノックが紀尾井シンフォニエッタ東京を指揮したバッハの「ミサ曲ロ短調」は、私がこれまで聴いたこのオーケストラの演奏の中でも、最も感動的なものだった。

 これは紀尾井ホールと、そのレジデント・オーケストラである紀尾井シンフォニエッタ東京の創立20周年記念特別演奏会。2回公演の今日は2日目。協演は紀尾井バッハコア(実体はバッハ・コレギウム・ジャパンの合唱の由)。コンサートマスターは、客演のフェスコ・エシュケナージ(コンセルトヘボウ管コンマス)が務めていた。

 第1部(ミサ)のあとに、20分ほどの休憩がおかれた。これは特に珍しいことではないが、この大曲の成立過程を考えると、このように第2部(「クレド」)以降を切り離すことは、たしかに筋は通るし、むしろその方が好ましいこととも言えるだろう。
 ピノックの指揮も、見事にそれにふさわしい構築になっていた。

 「キリエ」の出だしを聴いた時には、演奏全体に少し散漫な感がないでもなかったが、第1部の「グローリア」の最後は、実に光彩陸離たる趣を持つ演奏で閉じられた。輝かしく壮大なヴィヴァーチェが終ると、オペラに喩えればそこで第1幕が終って、休憩が入って当然という気持になるほどの、素晴らしい盛り上げなのだった。
 こういう持って行き方、ピノックは本当に巧いものだなと感心する。殊更の誇張も演出もなく、ただ率直に自然に、真摯に歌い上げて行くという指揮なのだが、それが実に心に染み入って来るのである。

 後半での、「サンクトゥス」や「ホザンナ」も輝かしく、沈潜した合唱から次の明るい讃歌へ移る呼吸も巧い。

 紀尾井シンフォニエッタ東京は、国内オーケストラやフリーの腕利きの名手たちにより編成されているのは周知の通りだが、今日の曲のようにソロが目立ち、かつ指揮者が完璧にオケを掌握している場合には、その長所が最大限に生きる。トランペット群(岡崎耕二、古田俊博、杉本峯夫)、チェロ(河野文昭、林俊昭他)、コントラバス(河原泰則他)、ホルン(丸山勉)他、弦・管など、みんな鮮やかなものだった。
 声楽ソリストを含むコーラスも、時に美しいハーモニー。
    別稿 音楽の友9月号演奏会評

2015・7・10(金)マックス・ポンマー指揮札幌交響楽団

     札幌コンサートホールKitara 7時

 札幌交響楽団が、尾高忠明の後任として、1936年ライプツィヒ生まれの指揮者マックス・ポンマーを首席指揮者に迎えている。
 今日はその就任記念定期(2回公演)の初日で、シューマンの「交響曲第4番」とメンデルスゾーンの「交響曲第2番《讃歌》」が演奏された。協演は札響合唱団、安藤赴美子と針生美智子(ソプラノ)、櫻田亮(テノール)。今日のコンサートマスターは田島高宏。なお、声楽ソリスト3人はいずれも北海道出身だそうである。

 シューマンの「4番」では、まるで昔の良き時代の東ドイツのオーケストラのような音が━━たとえば往年のスウィトナーとシュターツカペレ・ベルリンが響かせていたような、渋い、柔らかい、しっとりした音色が甦った。今はドイツのメジャー・オーケストラからも全く失われてしまった音である。
 ただしドイツのオケなら、もう少しギザギザしたアクセントの強い音になるだろう。だが今日は、なだらかな、優しい音である。これは日本のオーケストラの個性が反映したものともいえようが、しかし、ポンマーの指揮そのものも、やはり穏健で、温厚なスタイルのように感じられる。

 第4楽章冒頭のクレッシェンドにしても、ポンマーは、弦のトレモロを最初のうち抑制気味にして、管楽器の和音の方を主体にしつつ、柔らかく響かせて行く。そして、深淵から何か巨大なものがゆっくりと立ち上がって来るといったような物々しさは一切なく、比較的あっさりと流したまま主部に入る、という具合である。
 老匠ポンマーの指揮から劇的なスリルを求めてはならない・・・・とは思うものの、聴いていると、もう少し音楽的に起伏があってもいいような気もして来る。

 メンデルスゾーンの「讃歌」も、実に滋味豊かで、温かい演奏だ。この、何か労働歌みたいなフシの主題が中心モティーフになる交響曲を私はこれまであまり好きではなかったのだが、しかし今日ほど柔らかく穏やかな、ヒューマニズムをあふれさせた、かつ起承転結が明確に示された構築の演奏で聴いたのは、ライヴでは初めてのことである。これは、札響が極めて緻密に演奏してくれたおかげでもあるだろう。これほどふわりとして美しい、しかも陰影に富む音で鳴り響いた札響を聴いたことは、滅多にない。このオーケストラの多様な順応性を再認識させられた思いである。

 合唱は、人数の割にはあまり音量が出ないのが残念。ソプラノ・パートは美しかったけれども、男声━━特にバスのパートにはもう少し量感が欲しいところだ。
 ソリストでは、安藤がきれいな伸びのあるソプラノで映えた。櫻田は、あたかも受難曲のエヴァンゲリスト(福音史家)みたいな雰囲気の歌唱だったが、この曲の宗教性を浮き出させるのに一役買っていたといえようか。

  今夜の演奏を聴く範囲では、新・首席指揮者ポンマーは、今後はドイツ・オーストリア系のレパートリーで、強みを発揮して行くことになるだろう。「旧き良き時代」の東独の名匠の味を、21世紀の札幌に甦らせてくれるだろう。
 ただその一方、彼の、良く言えば落ち着いた、スリリングな要素の少ない、決して暴れることのない、酸いも甘いもかみ分けたようなおとなの音楽が、年輩の聴衆にはある種の懐かしさを以って聴かれるにしても、若い聴衆にどのように受け入れられて行くだろうか? 

 言うまでもなく、今日のオーケストラは、シェフひとりの色に染められることは、まず無い。だが、札響の今シーズンの定期の指揮者陣を見ると、あまりにも平均年齢が高く━━この79歳のポンマーをはじめ、名誉指揮者エリシュカが84歳、名誉音楽監督・尾高忠明が68歳、客演指揮者ではアシュケナージが78歳、ハインツ・ホリガーが76歳、マティアス・バーメルトが73歳で、57歳の広上淳一が最年少というわけであり・・・・。
 こうなると、札響が重いオケになってしまわないかという気がしないでもないのである。

 なお、この定期は、ポンマー就任記念であると同時に「ライプツィヒ1000年」を記念すると銘打たれていた。ポンマーの出身地だから、それにも因んだのかもしれない。だがライプツィヒでは、ちょうど同じ7月10日と11日の野外演奏会で、シャイーとゲヴァントハウス管弦楽団がこの「讃歌」を演奏しているという偶然さもあった。といって、この曲を選んだのはポンマーでなく、札響側だとのことである。シューマンの「4番」はポンマーの提案だそうだ。

 さらに、これは今年のPMFの「プレ・コンサート」とも位置づけられていた。オケの定期が別の音楽祭に組み入れられることは普通ありえないことだが、PMFの初日が7月12日なので、PMFのホストシティオーケストラとして協力関係にある札響との相乗り・・・・ということになったらしい。詳しい経緯は、関係者に尋ねても、あまりはっきりしたことは判らない。客席にはPMF参加のアカデミー生も、何人か聴きに来ていた。

 開演前のロビーコンサートではバッハの「ブランデンブルク協奏曲第4番」第1楽章が演奏されたが、ロビコンにしては豪華な選曲である。演奏もなかなかのものであった。

 ノボテル札幌に宿泊。今は観光客が多く、市内のホテルはどこも取り難い。しかも高い。
     別稿 北海道新聞

2015・7・8(水)レオシュ・スワロフスキー指揮スロヴァキア・フィル

      サントリーホール  7時

 ヴァーツラフ・ターリヒにより1949年に創立されたオーケストラ。70年代後半にコシュラーの指揮で録音したドヴォルジャークの交響曲全集(オーパス)を、私も愛聴したものである。

 現在の首席指揮者は、スロヴァキアの民族色とは全く毛色の違う傾向のエマニュエル・ヴィヨームだが、今回はチェコの指揮者レオシュ・スワロフスキーの客演による来日となった。
 今夜はチャイコフスキー・プロで、「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」、「ヴァイオリン協奏曲」、「交響曲第5番」。

 技術的にはあまり上手いオーケストラではなく、ホルンは1番も3番も頼りないところ(「5番」第2楽章)があり、しかも金管と弦とがずれることも2、3回あったけれども、しかし、不思議な郷愁を感じさせる音、渋い音色のしっとりした味などは、やはり「旧チェコスロヴァキア」のオケならではの良さがある。

 スワロフスキーの指揮は、身振りは大きいものの、オケから引き出される音楽は、比較的抑制されたものだ。「ポロネーズ」冒頭など、一般の演奏とは違い、トランペットなどの金管をぐっと抑え気味にした渋い雰囲気で開始され、中間部のテンポも音量も抑えられていた。つまり、大夜会の舞踏の幕開きとはとても思えぬほどの落ち着いた音楽になっていたのである。
 「第5交響曲」も、過度の思い入れを排した率直な音楽づくりだったが、こちらはそれでも第2楽章後半など、テンポを急激に速めて感情を高めて行くあたり、心を揺り動かされるところもあった。

 アンコールは、これだけ何故かブラームスだったが、「ハンガリー舞曲第5番」が変幻自在、鮮やかな演奏で聴衆を沸かせていた。
 実直な指揮と、民族的な味で聴かせるオーケストラ━━こういうローカル色は、今の時代、貴重である。

 「ヴァイオリン協奏曲」を弾いたのは、Y・Mという日本人女性奏者で、私は初めて聴いたのだが、何とも粗雑で、デリカシーに欠けた、単調な演奏をするのには驚いた。フォルテとピアノとに差がほとんどないのも不思議だが、特に第2楽章など、オーケストラの弱音の歌に溶け込もうという気など全く無いかのように、大きな音で勝手にバリバリ弾いて行くのには、呆気にとられてしまう。もう一度謙虚にスコアと向かい合った方がいいのではないか。

2015・7・7(火)ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団

     文京シビックホール  7時

 プレトニョフとロシア・ナショナル管の演奏を、3年ぶりに聴く。
 結成されてからもう25年も経つのかと、うたた感ありだ。ペレストロイカ後の「ニュー・ロシア」を象徴するオーケストラ、所謂ロシア的な泥臭さを排したインターナショナルな響き、エリツィン大統領も客席に来た披露演奏会、颯爽たるテンポで演奏されたブラームスの「第1交響曲」、━━沸き立つような雰囲気に満たされたあの創立時のいろいろなエピソードが、感慨深く甦る。

 今夜のプログラムは、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソロは牛田智大)、ラフマニノフの「交響曲第2番」、アンコールにはハチャトゥリヤンの「仮面舞踏会」からの「ワルツ」。
 この数年来の演奏と同様、すこぶる豪壮華麗な趣だ。坦々としたイン・テンポで、量感と力感で押して行く。ラフマニノフの交響曲でも壮麗さが前面に押し出されており、音響的な快感という点だけでいえば、文句のない演奏と言えたであろう。

 牛田のチャイコフスキーの協奏曲は、彼の持ち味たる透明で清澄な音色を生かして叙情的な要素を強く加味したスタイルで、これはこれで面白い。だが、それをオケの方が相変わらず豪華な色彩を誇示するような演奏なので、一種アンバランスな感が生じて来る。

 伊熊よし子さんのレポート(プログラム記載)によれば、牛田にこのコンセプトを教えたのはほかならぬプレトニョフ自身であり、「自己を主張し過ぎるな、技巧を見せびらかすな」と指導したというから、・・・・そうなるとこのオケの鳴らし方には、少々解せぬものがある。

 それに、こちらの席(1階18列中央やや右寄り)のせいかどうなのか、ピアノの音が妙に軽く薄く、特に中高域は痩せた響きに聞こえる傾向があった。それゆえ、どうもこのコンチェルトはしっくり来なかった、というのが正直なところである。
 むしろ彼がアンコールで弾いたチャイコフスキーの「ノクターン 作品19の4」の方が、透き通った音色の美しさで成功していただろう。

 終演は9時半を過ぎた。このホールの椅子、私にとっては、妙に座り心地が悪い。

2015・7・6(月)下野竜也指揮九州交響楽団「平和への祈り」

    アクロス福岡シンフォニーホール  7時

 第1部に三善晃の「夏の散乱」「焉歌・波摘み」およびバッハ~レーガーの「おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け」が切れ目なしに演奏され、第2部にシュニトケのオラトリオ「長崎」が演奏された。
 「長崎」での協演は池田香織(アルト)と九響合唱団。コンサートマスターは扇谷泰朋(ソロコンサートマスター。当初予定されていた首席客演コンマスの近藤薫の急病のため、ぎりぎり直前に引き受けたという)。

 第2次大戦末期の悲劇に縁のある作品を組み合わせるのは、アイディアに富むプログラミングで、下野竜也と九響の意欲的な姿勢を示すものだ。といっても、東京のオケさえ定期ではやらないであろうこの選曲は、やはり客の入りには影響するようである・・・・しかし、熱心な聴き手には、言い尽くせぬ感動を与えたであろう。演奏後の拍手がそれを物語っていた。

 三善晃の「夏の散乱」(1995年作曲)は、広島・長崎への原爆投下と「空襲」とのイメージを持つ作品である。
 また「焉歌・波摘み」は、有名な「対馬丸事件」━━1944年8月22日、沖縄から長崎へ向かう途中で米軍潜水艦に撃沈された「対馬丸」のことで、沖縄からの疎開児童775名(乗船していた児童の実に95%)を含む1476名が海に沈められた、あの痛ましい悲劇を題材にしている。

 ともに激烈な曲想を持った、聴く者に極度の重圧を感じさせる作品だ。特に後者で、阿鼻叫喚の曲想の間に見え隠れする「子守歌」の旋律━━「坊やは良い子だ、寝んねしな」のフシなど━━は、どうしようもないほど胸を締めつけて来る。家族を切り裂く戦争の無慈悲さを痛切に訴える音楽である。

 今夜のプログラムでは、この2曲が続けて演奏され、そのあとに続けてバッハの祈りのコラールが、これまた静かに、しかも痛切に響きはじめたのだが、この選曲は下野竜也のアイディアだろうか? 実に見事に考え抜かれた、卓越した構成というべきだろう。

 この前半の音楽の流れがあまりに圧倒的で、気分的にも打ちのめされたため、シュニトケの「長崎」が始まった時には、開始部の旋律からして、ある意味でえらく「俗っぽい」ものに聞こえてしまい、自分でもどうしようもなかった。
 それに歌詞も━━「長崎よ 悲しみ深き町よ・・・・原爆による廃墟の町よ」(第1曲)はともなく、「太陽は・・・・力強く呼びかける・・・・その呼びかけは人々を労働へ奮い立たせ・・・・」(第2曲)、あるいは「肩を組み 隊列を組んで・・・・平和と労働を守るため立ち上がろう」(第5曲)というあたり、いかにも当時の「モスクワ放送」や「ソ同盟」の思潮を物語るようで、苦笑させられる。ほかならぬ自分が世代的に体験した「うたごえ運動」まで思い出してしまうというわけである(田辺佐保子訳の歌詞より自由に引用)。

 ただ、そうはいっても、原爆の悲劇を克服し、「明日に希望を持つ」歌詞内容と曲想で結ばれるこのオラトリオを貶める気は毛頭ない。救いと受け取るか、悲劇を抉り出す徹底さを欠いたとみるかは一概に言い難いが、いかに「ソ連」くささがあろうとも、当時その国で生きていたシュニトケが、学生なりの信条や主張をこめて持っていたことには間違いなかろう。

 2009年11月にロジェストヴェンスキーが読響を指揮して日本初演したのを聴いた時には、あまり印象に残らなかったが、今夜は下野竜也と九響、合唱団、池田香織の真摯な演奏のおかげで、その良いところを認識することができた。ただし、いろいろなことも考えさせられた、というのが正直なところである。

 それにしても、プログラムの目玉だったはずのシュニトケの曲より、組み合わされた三善晃とバッハの作品の方が遥かに「大きく」感じられたというのは、演奏会としては何とも皮肉な結果で、・・・・「庇を貸して母屋を奪られた」の類か。

2015・7・4(土)ロッシーニ:「ランスへの旅」2日目

    日生劇場  2時

 先ごろ大阪でも上演されたアルベルト・ゼッダ指揮、松本重孝演出の新プロダクション。
 共同制作として、藤原歌劇団、日生劇場、東京フィル、大阪国際フェスティバル、フェスティバルホール、ザ・カレッジ・オペラ・ハウス━━が名を連ねているが、東京公演プログラム冊子に見る雰囲気は、藤原歌劇団/日本オペラ振興会の主導だ。

 荒田良の舞台美術、前岡直子の衣装とともに、松本重孝の演出は、きわめてトラディショナルなスタイルだ。エンディングでも国王の戴冠式行列を客席から出すなどというお遊びもなく、ストレートに進めている。
 ただし演技はかなり細部まで神経が行き届いている。主役歌手はその都度正面を向いて歌うけれども、脇役や助演者は背後でいろいろ細かい芝居を繰り広げているという舞台構築は、なかなか良い。

 それになんといっても、この日生劇場の空間が実に手頃で、━━私がこの劇場が好きな理由は、アプローチとホワイエのいかにも劇場的な品のいい雰囲気と、舞台と客席のほど良い空間的広さにあるのだが、━━このロッシーニのオペラなどでは、劇場の適度な規模が十二分に生きる。

 音楽面では、87歳のゼッダが相変わらず元気で指揮をし、東京フィルも引き締まった演奏を聴かせてくれた。
 トリプル・キャストの今日の配役は、コリンナを砂川涼子、メリベアー侯爵夫人を向野由美子、フォルヴィル伯爵夫人を清水理恵、コルテーゼ夫人を平野雅世、ベルフィオーレを中井亮一、リーベンスコフ伯爵を岡坂弘毅、ドン・プロフォンドを安東玄人、トロンボノク男爵を森口賢二、ドン・アルヴァーロを谷友博、・・・・書き切れないのでここまでで失礼するが、みんな自分の出番はここぞとばかり張り切って歌うさまが面白い。特に砂川と中井の二重唱は、客席を大いに沸かせた。
 5時頃終演。

(この日のパンフレットに挟みこまれていた「配役変更」は、実は別の日についての「お知らせ」でした。そそっかしくも・・・・。リーベンスコフ伯爵役は当初の予定通り、岡坂さんです。最後の部分は、削除しました。お知らせ下さったⅰさん、御礼申し上げます)

2015・7・3(金)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィル

     サントリーホール  7時15分

 そのハーディングが指揮する新日本フィルのサントリーホール・シリーズ、ブラームスの作品を集めて、「悲劇的序曲」、「ハイドンの主題による変奏曲」、休憩後に「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはラルス・フォークト)というプログラム。

 彼の任期も残り半年。オーケストラともども再び気合が入って来たのか、かなり熱気のあるブラームスが繰り広げられ、面白かった。
 「悲劇的序曲」の前半(アレグロ)での激しい攻撃的な響きと、テンポ・プリモに入ってからの個所(第264小節以降)での極度にテンポを落して沈潜させた表現との対比は印象的であった。このあたりは、久しぶりのハーディング・スタイルかなと思わせる。

 「ハイドン・ヴァリエーション」では、冒頭のハイドンの主題を、単に旋律だけでなくハーモニーをも分厚く響かせ、要所で入るトランペットをも明確に響かせて、いかにもコラール的な性格を浮き彫りにしていたのも面白い。
 この曲、私はずっと昔に、ローゼンストックがN響を指揮した演奏を当時の大手町のサンケイホールで初めて聴いて、その主題の素敵な響きをはじめ、曲の美しさにすっかり夢中になってしまった思い出があるのだが、最近ではむしろその時の呪縛から抜け出せるような演奏を求めたくなる気持の方が強くなっていた。その意味では、今日の演奏は、かなり刺激的なものだったことはたしかである。

 ラルス・フォークトを迎えての「第2協奏曲」も、なかなかエネルギッシュで推進力にあふれたものだった。
 この曲、しんねりむっつりやられたら閉口である。今夜の演奏では全曲ほぼ45分だったから、テンポも速い方だ。特に第2楽章など飛ばすこと、飛ばすこと、スコアの「アレグロ・アパッショナート」の指示をこれほど生かした演奏も少ないだろう。

 私の聴いていたRC最後部の席からはオーケストラがかなり強く聞こえ、全曲がまるでピアノのオブリガート付きのシンフォニーのようなイメージになっていたが、もちろんフォークトのピアノの瑞々しさは充分に伝わって来た。ハーディングの快速テンポと闊達な表情と併せ、実に爽やかなブラームスだったと思う。
 新日本フィル(コンサートマスターは豊嶋泰嗣)も、今夜は充実。第3楽章でのチェロのソロも美しい。

 来週のマーラー「復活」は、札響の新任首席指揮者マックス・ポンマーを聴きに行くのと、翌日帰京してピノック指揮紀尾井シンフォニエッタの「ロ短調ミサ」を聴く予定のためにパスしなくてはならないのが残念である。

2015・7・1(水)フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 ブーレーズの「ノタシオン」から5曲(第1、7、4、3、2番)、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》」(ソリストは郷古廉)、ハイドンの「十字架上の最後の7つの言葉」。わが国のオーケストラの定期としてはかなり「先鋭的」なプログラムだ。

 膨大な編成の「ノタシオン」から、次第に楽器編成が小さくなって行き、ハイドンでは8型2管という室内オケの規模になる、という配列も面白い。
 このプログラムを聴いていると、管弦楽作品の内容の充実度というのは楽器編成の大小には全く関係ないのだということが痛感できるが━━いや、そんなことを言っては、見事な演奏をしたロトと読響(コンサートマスターは長原幸太)に申し訳ない。

 とにかく、「ノタシオン」を、これだけカラフルな音色で、ブーレーズの管弦楽法が鮮やかな形で蘇る演奏で聴けたのは久しぶりのことだった。
 ベルクの協奏曲では、郷古廉のいつもながらの颯爽としたソロに惹きつけられる。この22歳の若者の演奏を聴いていると、「恐れを知らぬジークフリート」という言葉をふと連想してしまうのだが、もちろん彼は力任せに無頓着に弾いているわけではない。だが私は、この屈託ない、確信に満ちた瑞々しい息吹にあふれるソロに、微妙な感情の襞が織り込まれるようになった時、どんな立派な演奏になることだろうか、という期待を感じるのである。

 ハイドンの「十字架上の最後の7つの言葉」も、これほど重厚で凄味のある演奏で聴けたのは、もしかしたら初めてかもしれない。「序奏」など、まるでグルックのオペラ・セリアの一部を聴いているような趣だったし、最後の「地震」も、怒りの感情を噴出させるような演奏だった。
 そしてこの陰影に富んだ演奏の中にも、弦や管の響きには、先日のベルリオーズにおけると同様、まるでフランスのオーケストラが響かせるような、一種のブリリアントな音色が漂っている。読響がこのようなスタイルの演奏を、嬉々として繰り広げているさまも、素晴らしく感じられた。ロトと読響の相性は、最高と思われる。

 卓越した演奏だったにもかかわらず、入りが今一つだったというのは、プログラムの渋いイメージによるものだろう。残念だったが、拍手の熱烈さは、熱心な聴衆が集まっていたことを証明するものだった。

 ちょうど新日本フィルを指揮するため来日しているハーディングが聴きに来ていて、読響の事務局のスタッフと親密に話をしていた。彼は新日本フィルを指揮する時には、最近はすっかり「まっとうな」スタイルに徹してしまったが、もしこの読響を指揮したら、オケの柔軟な演奏対応力を利用して、欧州でやっているような大胆なスタイルを試みるのではないか、という気もする。

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