2017-04

2015・6・29(月)オレグ・カエターニ指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 1956年生れ、名指揮者イーゴリ・マルケヴィッチの子息━━と言われてみると、その風貌も何となく父君に似ているような、似ていないような。母方の姓を名乗っているとのことだ。

 都響には2009年以来、これが3度目の客演で、かなり評判もいいようだが、私はどういうわけかこれまで聴く機会を逸してばかりいた。今回も彼の得意のショスタコーヴィチの交響曲から、「第11番《1905年》」が取り上げられている。コンサートマスターは矢部達哉。

 カエターニの指揮、父に似て、すこぶる歯切れのいいリズムで、鋭角的なデュナーミクに富む音楽をつくる。一斉射撃の惨劇の描写場面における打楽器群の怒号と、静寂場面における最弱音の対比は強烈で、起伏の鋭い演奏が形づくられていた。
 ただ、第1楽章ではその起伏が少し脈絡に不足していたか・・・・いろいろな場面が断片的に現われては消え、という印象もなくはなかったが、第2楽章以降ではオーケストラとの呼吸も見事に合って行ったようである。

 今日は2階席正面で聴いたのだが、ここは、ステージ最後方の鐘や太鼓の打物陣(?)の音量が異様に大きく聞こえる。オケ全体のバランスを狂わせてしまう。4階席正面で聴いていた知人は、均整の取れたアンサンブルだったと言っていたし、多分そのように聞こえた席の方が多かったかもしれない。

 終楽章の終り近く、哀しい旋律がイングリッシュ・ホルンで静かに吹かれ、それが次第に上昇して行く個所も悪くはなかったが、かつて都響がデプリーストの指揮で演奏した時の、あたかも安息を求めて彷徨い続けるかのような、涙の出るような美しい表情を思い出すと、今一つ荒っぽかったような気もする。

 なお、この日は、前半にブリテンの「ロシアの葬送」(金管と打楽器による編成)、タンスマンの「フレスコバルディの主題による変奏曲」(弦楽合奏)という、大変珍しい作品が演奏された。
 特に「ロシアの葬送」は、その主題にショスタコーヴィチの「第11番」第3楽章に出て来る同じ「同志は倒れぬ」という革命歌を引用しているだけに、プログラミングにおける工夫を感じさせて、意義深いものがあった。

 ついでながらこの「同志は倒れぬ(斃れぬ)」という曲、合唱などで聴くとすこぶる感動的だが、早坂文雄が映画「七人の侍」で使った葬送の音楽━━「同志」の侍のひとり、平八(千秋実)の弔いの場面で流れるあのフシである━━も、もしかしたらこれをモデルにしていたのではないか、などと考えたりする。ちなみに、あの映画の音楽を演奏していたのは関西交響楽団(つまり今の大阪フィル)だったそうな。

2015・6・29(月)新国立劇場 松村禎三:「沈黙」

     新国立劇場オペラパレス  2時

 宮田慶子演出版の3年ぶり再演。指揮も同じく下野竜也。ただし前回は中劇場での上演だったが、今回は大劇場(オペラパレス)に変わった。4回公演の今日は3日目である。

 1993年の日生劇場での初演(若杉弘指揮、鈴木敬介演出)以来、同劇場での再演、新国立劇場や大阪音大ザ・カレッジ・オペラハウスでの上演(ともに中村敬一演出)、そしてこの新国立劇場での宮田慶子演出━━それらを、私もその都度観て来た。何度観ても気の滅入る、しかし数限りない問題について考えさせられるドラマである。

 これについては2012年2月16日の項に書いたから、ここで繰り返すのはもうやめよう。ただ私は、遠藤周作の小説(1966年刊)を原作とするこのオペラを初めて観た時から、ある別の小説に登場する一文のことをずっと連想し続けているのである。それは曽野綾子の「幸福という名の不幸」という、1972年に刊行されてベストセラーになった小説なのだが、その中に、阪之上神父が語るこういう言葉がある━━

 「神は、単純には答えを出さんよ。答えを出さない、というすさまじい答えなんだ。神は逃げるんじゃない。答えが与えられないからこそ、人間は考えるようになる。自分の無力について実感としてわかるようになる。・・・・性懲りもなく、希望をもてばいいんだ。単純で、子供のような人が神を見る、というのはそういうことなんだ。自分が知的だと思っている人は計算をする。そして、その通りにならないと絶望する。・・・・充分に知的で複雑であった上に、そのような単純さに還れたら、本物だね」(講談社刊1973年版、368頁)。

 今日の上演では、下野竜也指揮の東京フィルハーモニー交響楽団が、実に引き締まった劇的な演奏を聴かせてくれた。何度か訪れる衝撃的な場面での、全管弦楽が鋭くたたきつける最強奏は、鬼気迫るほどの効果をつくり出していた。こういう深刻な物語だと、その内容に気を取られ、音楽の方は何気なしに聴いてしまうこともよくあるものだが、今日のような演奏を聴けば、松村禎三のその音楽がいかに劇的なものであるかを、明確に認識させられることだろう。

 今日の歌手陣も素晴らしかった━━小餅谷哲男(ロドリゴ)の体当り的な熱演、黒田博(フェレイラ)の落ち着いた凄味、星野淳(キチジロー)の苦悩の演技、高橋薫子(オハル)の悲劇的な歌唱と演技をはじめとして、成田博之(ヴァリニャーノ)、吉田浩之(モキチ)、島村武男(井上筑後守)、峰茂樹(役人)、その他、脇役の一人一人まで歌もセリフもぴたりと決まっていたのは、さすが日本人の手がける日本のオペラという強みだろう。合唱は新国立劇場合唱団と世田谷ジュニア合唱団である。

 休憩25分を含め、4時50分頃終演。初台から地下鉄で市ヶ谷を経由し、JRで上野に向かう。

2015・6・28(日)関西二期会 ジョルダーノ:「アンドレア・シェニエ」

      メイシアター 吹田市文化会館大ホール  2時

 名古屋から新幹線で大阪に移動。
 JR吹田駅は新大阪駅から2つ目だが、ホールは駅からかなり離れており、阪急電車の吹田駅に近い位置にある。この暑い中を延々と歩くのはとてもたまらないので、時間のあるのを利してわざわざ大阪へ回り、梅田から阪急電車に乗るという、地元の人たちから見ればアホみたいなことをやって目的地へ辿り着く。しかも途中、淡路という駅で北千里行きに乗り換える必要があるなどとは露知らず(直通電車もあるらしいが)・・・・余所者はかように要領が悪い。

 さて、関西二期会の第83回公演、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」は、2回公演の2日目。
 今日のキャストは、藤田卓也(詩人アンドレア・シェニエ)、尾崎比佐子(その恋人マッダレーナ)、油井宏隆(革命の志士ジェラール)、片桐直樹(シェニエの友人ルーシェ)、山田愛子(侍女ベルシ)、安本佳苗(コワニー伯夫人)、井上美和(老女マデロン)、吉田昌樹(フーキエ他)、荻原次己(マテュー)、藤田大輔(密偵他)、服部英生(裁判長、牢番他)。それにダニール・アジマン指揮大阪交響楽団と関西二期会合唱団、演出はデジャン・プロシェフ━━という顔ぶれだ。

 予想をはるかに上回る見事な歌唱を聴かせてくれたのは、主役の歌手陣である。
 藤田卓也の張りのある英雄的な声は熱血詩人にふさわしく、油井宏隆の凄味をもたたえた力強い声は革命の志士役にぴったりとはまっていた。いずれも、以前観た公演に比して格段にスケールの大きさを増していた。尾崎比佐子は、いつものようにヴィブラートの濃さだけはちょっと気になるけれど、その安定感と張りのある歌唱は、特に第4幕の二重唱で、圧倒的な、驚異的な素晴らしさを発揮した。
 さらにベテランの片桐直樹が、出番の少ないルーシェ役ながら第2幕で存在感充分の迫力を聴かせてくれたのだから、━━これはもう、歌唱面では、国内での最高水準に位置する上演だったと言って間違いない。

 脇役だが、マデロン役の井上美和も悲劇的な味を良く出していたし、マテュー役の荻原次己も、牢番役の服部英生も、おのおのの役柄をうまく表現していた。

 だが、この歌手たちの見事な活躍を支えるべきダニエーレ・アジマンの指揮が、劇的緊迫感を全く欠いて、著しくのんびりしていて、活気がないのだから困る。
 そもそもこれはヴェリズモ・オペラなのであり、しかもフランス革命を舞台にした、興奮と不安とに沸騰する激動の音楽のドラマなのである。本来は、こんなに生気のない、だらだらした音楽ではないのだ。指揮者の解釈が根本的に間違っている証拠だろう。このアジマンという指揮者については、昨年の「ドン・カルロ」の時にも、同じようなことを感じたのだが・・・・。

 大阪響はきわめて丁寧に、きれいに演奏していたが、指揮者の所為で、さっぱり盛り上がらない。全曲最後の十数小節での力強い昂揚個所にいたって、やっと欲求不満を解消できたのではないか? 

 それに加え、プロシェフの演出も、これまた何とも平凡で、メリハリも活気も、なさけないほどに皆無である。なお今回の舞台美術デザインと衣装デザインは、そのプロシェフとAssia Stoimenobeとの共同によるもので、徹底したリアリズムの手法によるものだった。

 20分ほどの休憩2回を入れ、4時50分終演。5時にタクシーを頼んでおいたので、新大阪駅に直行、5時半の「のぞみ」に飛び乗る。

2015・6・27(土)秋山和慶指揮中部フィルハーモニー交響楽団

      三井住友海上しらかわホール  2時

 愛知県小牧に本拠を置く中部フィルを、今回初めて聴く。長く秋山和慶の薫陶を受け、今年2月に創立15周年を迎えたオーケストラだ。

 現在の指揮者陣は、アーティスティック・ディレクター&プリンシパル・コンダクターが秋山和慶、プロダクション・アドヴァイザー&レジデンス・コンダクターが堀俊輔。なお堀俊輔は楽団主幹をも兼ねる。日本オーケストラ連盟の準会員で、同連盟発行の年鑑によれば、楽員数は今年1月1日の時点で40名。

 定期公演を小牧だけでなく、名古屋、犬山、松阪など各地で開催しているというユニークなオケだが、創立目的が「中部圏の音楽芸術文化の振興と向上を図る」ことにあるので、それも当然なのかもしれない。
 今日は第47回定期演奏会で、「名古屋公演第8回」の由。客席数約700のホールは、ほぼ満席の入りである。

 秋山和慶の指揮で演奏されたプログラムは、モーツァルトの「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」とマーラーの「交響曲第4番」。
 コンサートマスターは客演の根来由美(関西フィルや東京フィルをはじめ内外のオケの客演コンマスとして活躍、最近は東京響のメンバーとQuartet“Vintage”を結成した人でもある)。2曲でのソプラノ・ソロは小林沙羅。

 オーケストラは、さすが秋山が率いているだけあって、均衡を備えた響きで、まとまりがいい。几帳面で整然とした音楽づくりだが、アンサンブルとしての基礎は明確に叩き込まれているという印象である。
 小編成で演奏されたモーツァルトが、端整で引き締まっていて、このホールの規模にもぴったりという響きになっていた。

 マーラーの「4番」は、もともと彼の交響曲の中では比較的編成の小さい作品ではあるものの、それでもやはり聴く前には、このホールには規模が大きすぎるのでは・・・・という漠然たる危惧もあった。しかし、それもやはり練達のマエストロ秋山、ホールの大きさに適合した響きを構築し、第3楽章最後の打楽器群を含む唯一の爆発点においてさえ、些かも飽和することのない音量を保って、ほどよいエネルギーの解放点をつくり出していた。
 これも、実に端然とした佇まいのマーラーである。そうしたアプローチ自体は、一つの考え方だろう。

 ただ、2曲を聴いた印象で言えば、このオーケストラの演奏には、冷徹なほどに端整で、些か慎重に過ぎる堅苦しささえ感じられた、というのが正直なところだ。もう少し、しなやかな躍動感、寛いだ明るい表情、自然に沸き上がる演奏の楽しさ、といったものが欲しい。だがこれは、たった1回の演奏会を聴いただけであれこれ言える類のものではない。

 つい先日「フィガロの結婚」のスザンナで大活躍した小林沙羅が今日も気を吐いた。モーツァルトは、あまり軽快なスタイルではなく、なだらかな表情で歌われた。マーラーもかなり劇的で、オペラの歌唱のような感もあったけれども、それはオーケストラの演奏が生真面目で、やや生硬であったため、対照的にそう感じられたのかもしれない。
 だがともあれこの「第4交響曲」の第4楽章(フィナーレ)を、「アダージョ」を頂点とした後の「エピローグ」として位置づけるのでなく、文字通り全曲の「大団円」として解釈するなら、彼女が歌ったようなスタイルも説得性があるだろう。事実、秋山の解釈は明らかに全曲の頂点を第4楽章に置いていたように感じられる。

 なお、今日は1階席の後方から2列目、上手寄りの位置で聴いたのだが、ステージ上手側に配置された5本のコントラバスが異様に共鳴して、甚だ聴きにくいものがあった。多分上手側の壁とバルコン席の屋根に反響していたのだろうと思うが・・・・。

2015・6・25(木)飯森範親指揮山形交響楽団 東京公演

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 定例のいわゆる「さくらんぼコンサート」。佐藤錦のさくらんぼが抽選で1箱当る、というアレである。もちろんロビーにはさくらんぼだけでなく、米から菓子から、山形の名産品がずらりと並べられ、即売されている。休憩時間や終演後にロビーがこれだけ客でごった返すオーケストラ演奏会は、他に例がなかろう。

 今日は音楽監督・飯森範親の指揮。ゲスト・ソリストに上原彩子を迎え、モーツァルトの「交響曲第1番」と「第41番《ジュピター》」、その2曲の間にベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」を挟むというプログラムが演奏された。コンサートマスターは高橋和貴。
 ほとんど正規楽員のみ(客員は弦に2人)で演奏するプログラムを持って来たことは、このオケの素顔を知らせる上でも、賢明なことであった。

 飯森と山響のモーツァルトは、これまでにも山形テルサホールや新庄市民文化会館などで聴いたことはある。だが、この東京オペラシティコンサートホールは極めてよく響くホールなので、彼らの演奏も、豊かな残響を伴って瑞々しく響く。山響、良い音を出しているな、という感である。

 もっとも、良い演奏に聞こえるのは、もちろんホールの音響がいいという理由だけではなく、演奏自体がしっかりしているからである。東京での演奏会というと、やはり気合も充分らしく、見事な演奏を聴かせてくれた。初めて山響を聴いた人には、このオケにも昔はいかにもローカル・オケといった鄙びた雰囲気があったことなど、想像もつかないだろう。

 旧いホルンとトランペットを使用し、部分的にノン・ヴィブラート奏法をも取り入れたモーツァルトとベートーヴェン━━それは全体に端整で、生真面目なほどにがっちりと構築された演奏だった。
 「1番」は、非常に厳めしく物々しい。また「ジュピター」も、もう少し遊びのようなものがあってもいいのではないか、と思わせるような演奏ではあった。

 ベートーヴェンのコンチェルトも同様、上原彩子のソロとともに堂々たるつくりだったが、ただフィナーレだけは、ソロもオケも疾風のようなテンポで流麗かつダイナミックに飛ばし、これが結構スリリングな味も出していたのである。上原もこの楽章のみはちょっと面白い弾き方をしていたが、彼女のベートーヴェンがこういう風格を備えたものだったということを久しぶりに認識させてもらった。なお彼女のアンコールはラフマニノフの「前奏曲作品32-5」。

 プレトークでは、新任の西濱秀樹・専務理事兼事務局長が、飯森とともに舞台に現われ、掛け合いで喋った。また、古楽器のホルンとトランペットについて、奏者を舞台に呼んで、吹きながら解説をしてもらうという趣向もあった。
 西濱専務理事は、かつて関西フィルの理事・事務局長として活躍した「関西オケ界の大物」であり、藤岡幸夫との漫才みたいなプレトークも聞かせたこともある面白い人でもある。その如才ないステージぶりに、今夜はちょっと力が入り過ぎていたような雰囲気も感じられたが、━━今後の山響の運営と活動に、大いなる期待が集まる。

 終演後、帰る客に菓子の包みが配られていた。協賛は「おいしい山形推進機構」の由。ロビーでは、買い物客とサイン会に並ぶ客などが、いつまでもひしめき合っていた。

2015・6・24(水)フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場コンサートホール  7時

 近年ひときわ注目されるフランスの指揮者、フランソワ=グザヴィエ・ロトが読響に初客演。ベルリオーズの「ベンヴェヌート・チェッリーニ」序曲と「幻想交響曲」の間にサン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソリストは神尾真由子)を置くというフランス・プログラムを指揮した。

 1971年生れ(44歳)にしては年長に見える風貌のロト(Roth)だが、実に「曲者」的な指揮者だ。
 すでにCDでその個性的な演奏をいくつも聴いてはいるが、ナマで聴くロトの指揮からは、ユニークな音色、感興に富んだテンポの変化など、独特の面白さが味わえる.。いろいろなレパートリーを聴いてみたくなる指揮者である。オーケストラを掌握する手腕も確かなようだ。読響(コンサートマスター 小森谷巧)の熱演と相まって、近来稀なほどの面白い演奏が繰り広げられた。

 「序曲」では、冒頭の豪快な最強奏で、まさにフランスのオーケストラに似たブリリアントな音━━明るい開放的な音色の弦、自己主張の強い躍動感を示す管楽器群、よい意味で自由なアンサンブル━━が響き出した。さすが・・・・と胸躍らせたが、そのあとは最強奏でもその響きに濁りが出て来てしまい、やはりそういう音色は日本のオケと水と油なのかな、と、一時は少々落胆。いくらフランス人指揮者カンブルランをシェフに戴く読響とはいっても、所詮フランスのオケとは国民性が異なるか・・・・と。

 サン=サーンスの協奏曲では、神尾真由子が両端楽章を驚くほど荒々しく弾き、それと対照的に第2楽章を嫋々たる表情で弾くという、これも個性的な演奏構築を示す。私の好みからいうと、この前後2楽章の演奏スタイルはあまり共感できるものではない。とはいえ、今なおグリュミオーのようなスタイルの演奏を求めるわけではないけれども・・・・。

 しかし、「幻想交響曲」にいたると、これはもう、たしかにロトの本領が出た演奏といっていいのだろう。読響も、漸く彼の音に同化していったように思われる。
 第3楽章第151小節以降のヴィオラの音色などをはじめ、フランスのオケのような音色が明確に出て来ていたのが面白い。変な言い方で申し訳ないが、たとえば第1楽章最後のフェルマータのついた終結和音の個所の音色━━あれこそ、今夜の演奏を象徴する美しさといってもいいのではないか? 

 ロトは、すべての総休止を長く採り、テンポを細かく伸縮させ、流動的な音楽をつくる。また、しばしばホルンを強奏させて衝撃的な和音を響かせる。第3楽章第139~141小節の管の和音など最たるものだろう。
 第3楽章の牧笛の旋律を、はっきりしたリズムで珍しい吹き方をさせるのは驚いたが、これはあまりに明快すぎるメリハリで、幻想的な詩情を失わせた感がないでもない━━たしかに、各音符についている「>」をアクセントとして強調すれば、今回のような演奏になることは理解できるけれども。

 第4楽章でのデュナーミクの変化の細かさは印象的だ。行進曲の個所で、輝かしく開放的に鳴り響く金管群を厚みのある弦で包み、全体を徒に騒々しい響きに仕上げなかったところは、巧みな設計というものだろう。

 とにかくこれは、最近ナマで聴いた幻想交響曲の中では最も興味深い演奏だった。70年代以降生れの指揮者の活躍が目覚ましい昨今だが、そのひとり、ロトもたしかに一癖も二癖もある指揮者である。7月1日のブーレーズ、ベルク、ハイドンというプログラムは、どんな演奏になるだろう?

2015.6.22(月)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

     石川県立音楽堂コンサートホール  7時

 先ごろ開通した北陸新幹線は、石川県立音楽堂のすぐ隣に到着する。ホールは、JR金沢駅にほぼ隣接して建っているのである。
 「かがやき」で約2時間半。東京から聴きに行く者にとっては、実にありがたい。以前のように、空港からバスやタクシーで延々と時間をかける必要もなくなった。金沢駅もすっかりきれいに整備されていた。
 ただ、駅構内の案内表示には、不親切な部分がないでもない。「県立音楽堂はこっち」くらいの案内は、出してくれてもいいではないか、と思う。

 この壮麗なホールを訪れるのは、4年ぶりだ。実に響きのいいホールである。
 今夜は1階席15列目の右端近くに座ったが、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音はたっぷりと美しく響き、小編成であることすら意識させなかった。「OEKの音」は、このホールを基盤として創られていることが、改めて納得できる。だれかが「石川県立音楽堂で聴くOEKには、独特のものがあるよ」と言っていたが、至言であろう。

 聴いたのは、OEKの6月定期、フィルハーモニー・シリーズ。ロッシーニの「チェネレントラ」序曲、シューマンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは五嶋みどり)、ブラームスの「交響曲第2番」というプログラムだ。コンサートマスターはサイモン・ブランディス。

 病から回復したあとの井上道義の指揮には、何かしら重みと深みがいっそう増したように感じられる。
 ブラームスの「第2交響曲」では、第1楽章からしてかなりゆっくりしたテンポで開始されたが、その密度の濃い演奏には、昔の井上にはなかったような温かい情感さえ感じられた。特に第2楽章は極めて心のこもった、滋味豊かな演奏で、これは最近聴いた内外の指揮者とオーケストラによる演奏の中でも、出色の出来ではなかったかと思う。
 第3楽章も温かく、優しい。

 これらを受けるなら、第4楽章はもっと闊達であってもいいと思ったのだが、意外に音楽の勢いに滞りがあり、音の力感も薄いように感じられたのは、オーケストラの小編成のゆえか、あるいは練習不足でもあったか? 
 だがコーダには昂揚感があり、あくまで音楽の形を崩さずに盛り上げる井上のねらいは成功していただろう。管の一部には乱れが出た個所もあったけれども、第3楽章までの演奏の良さで、このブラームスは、すべて好し━━ということに。

 もうひとつ、圧倒的な印象を得たのは、五嶋みどりをソリストに迎えたシューマンの協奏曲だった。滅多にナマで聴く機会がない曲だが、その憂鬱な美しさには素晴らしいものがある。
 第1楽章の遅いテンポにも驚いたが、第2楽章はさらに遅く、沈潜したテンポで、何か作曲者の異常な精神状態を再現するような、鬼気迫るような没入といったものが聴き取れたのだった。この遅いテンポを微細に精妙に流動させながら、緊張感を完全に保ったまま最後まで押し切る五嶋みどりの集中力は、何とも物凄く、卓越していた。それを支えて音楽の憂鬱さをじっくりと再現して行った井上とOEKの演奏にも、賛辞を贈りたい。

 冒頭のロッシーニは(前述の席で聴いた範囲では)予想外に分厚い、シンフォニックな響きの演奏。ドイツ・ロマン派の重厚な2作に対してちょっと異質なプログラミングではないかな、と思っていた私も、そのロッシーニがそういう演奏をされたことをあとから振り返ってみて、なるほどあの序曲は、たしかにあとの2曲への、ある意味での「導入的存在」━━というよりは「予告」でもあったのか、と勝手に何となく納得してしまった次第。

 というわけでこれは、北陸新幹線に乗って遠路遥々聴きに行った甲斐のあるコンサートだった。彼らはこのプログラムで、23日に長野、24日に新潟、と巡演する予定と聞く。それらの演奏がどうなるか、見届けたいような思いになる。
     ⇒別稿 音楽の友8月号 演奏会評

2015・6・20(土)アラン・ブリバエフ指揮日本センチュリー交響楽団

     ザ・シンフォニーホール(大阪)  3時

 新幹線の都合で、少し早めに着いてしまったが、この会場は欧米の多くのホールや歌劇場と同じように、開場が早く、1時間も前からホワイエで軽食や飲み物を楽しみつつ過ごせるのがいい。
 東京のホールでも、客を開演30分前まで外で待たせるのでなく、早めにロビー開場だけでもできないものか、そうすればバー・コーナーも儲かるだろうに、と以前から思っているのだが━━。
 もっとも東京のホールは概して狭い敷地にギチギチで建てられているから、ホワイエが狭く、どうしようもないのかもしれない。サントリーホールなど、ロビー開場をしても、たちまち外まで客の行列ができて、むしろ混乱するだろう。東京文化会館や新国立劇場だったら、可能だろうと思うが・・・・。

 本題。
 昨年4月から日本センチュリー響の首席客演指揮者を務めているのが、カザフスタン出身の若手、アラン・ブリバエフ。彼とこのオケの演奏は、昨年7月の就任記念定期の時にも聴きに来たことがある。今回は、彼による「ロシア音楽シリーズ」の「初動回」でもあり、どんな指揮をするだろうか、と思い━━。

 プログラムは、ムソルグスキー~ショスタコーヴィチ編の「ホヴァーンシチナ」前奏曲「モスクワ川の夜明け」、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソロはヨシフ・イワノフ)、ムソルグスキー~ラヴェル編の「展覧会の絵」。
 昨年7月の「鳥」プロと同様、今回も選曲に工夫を凝らしている。しかも、「モスクワ川の夜明け」は、前日はリムスキー=コルサコフの編曲版、今日はショスタコーヴィチ編曲版で演奏するという趣向だ。小さな趣向ではあるが、なかなか凝った丁寧な企画で、好感が持てる。

 ブリバエフは、ストレートで生真面目なアプローチで、筋肉質の音楽を組み立てる。「展覧会の絵」では、この編曲版の華麗さや、洗練された管弦楽法、などといった要素は措き、むしろ無骨なほど素朴な力感に重点を置いて作品を構築している(ように感じられる)。
 これに応える日本センチュリー響(コンサートマスターはゲストのジェームズ・カドフォード)も、力演だった。トランペット・ソロは元気よく活躍し、テューバは完璧とは言えないまでも力一杯吹いた。演奏全体には、しなやかさやユーモアはなかったけれども、ひたむきさが感じられたことはたしかである。

 1階席15列で聴いた範囲では、オーケストラの音には均衡が保たれていたが、テュッティの個所では弦が金管にマスクされ、響きも薄くなって、もう少し鳴って欲しい感もあった・・・・ただこれは、上階席で聴けば、もっと違う印象も得られたかもしれない。「バーバ・ヤガーの小屋」から「キエフの大門」にかけての盛り上げは、なかなかのものがあった。

 協奏曲では、野性的で骨太で、無骨で強靭なソロを弾くイワノフが気を吐いており、オケもそれに応じてもう少し闘争的になれば、さらに白熱的な演奏になったことだろう。
 「モスクワ川の夜明け」では、管のソロに今一つ物足りないものがあったが、これは昨年聴いたレスピーギの「鳥」と同様で、こういうニュアンスの細かい演奏になると、このオーケストラにはもっと頑張ってもらいたいなという気がしてしまう。

 なお、日本センチュリー響は、この4月から、定期演奏会を年10回から8回に減らし、その代り各回を2日公演にした由。これに、いずみホールでの「ハイドン・マラソン」と「四季コンサート」各3回ずつのシリーズを併せたものが年間活動の柱だそうだ。
 したがって定期は、今シーズンは4月に続くこれが2回目ということになるが、2日制になった公演の客席を充分に埋めるには、未だ時間を要するだろう。演奏水準をいっそう高めることが、何より必要と思われる。

2015・6・18(木)東京芸術劇場ナイトタイム・パイプオルガンコンサート

     東京芸術劇場コンサートホール  7時30分

 東京芸術劇場が主催する大ホールでのパイプオルガンのコンサート。「ナイトタイム」はこれが第10回の由。

 今夜はアメリカのオルガニストで、立教大学文学部キリスト教学科教授や同大学教会音楽研究所長なども務めるスコット・ショウが、モダンタイプオルガンを弾く。
 ウィリアム・ラッセル、ウィリアム・ヘンリー・ハリス、ジョージ・ダイソン、トマス・ターシャス・ノーブル、パーシー・ウィットロック、ヘンリー・コールマンなどの作品が演奏され、宗教曲では立教学院諸聖徒礼拝堂聖歌隊も参加して、綺麗な合唱をオルガンとともに聴かせてくれた。

 ちょうど1時間のプログラム、いい雰囲気である。照明演出も加えられている。曲名が舞台に字幕のように投映され、歌詞の対訳も配布されるという具合で、すこぶる丁寧な、良心的なコンサートだ。
 私はこのシリーズは初めて聴きに来たのだが、随分お客さんが多く━━もちろん大ホールだから、それなりに、ではあるけれども━━入っているのには感心した。固定客のファンも非常に多いようである。

2015・6・18(木)フンパーディンク:「ヘンゼルとグレーテル」

     日生劇場  2時

 「ニッセイ名作シリーズ」の一つで、主催は日生劇場【ニッセイ文化振興財団】。青少年(中・高生)を対象とした無料鑑賞公演である。
 今日は女子生徒たちが1階席と2階席をいっぱいに元気よく埋め、若干のジャーナリストや招待客などの年寄たちがグランドサークルにひっそりと座る、という具合だ。

 今日のキャストは、小泉詠子(ヘンゼル)、鵜木絵里(グレーテル)、藤澤眞里(父親)、穴澤ゆう子(母親)、角田和弘(魔女)、鷲尾麻衣(眠りの精・露の精)。時任康文指揮のトウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ、広崎うらん演出、二村周作の装置・・・・という顔ぶれである。

 青少年相手の公演ではあっても、音楽も舞台も、それなりにきちんとつくってあるところが好ましい。こどもたちを退屈させないために、ダンスを含む動きのある舞台を導入しているのも良いアイディアだろう。オーケストラは、やや平板でおとなしい演奏ではあったが、きっちりと音楽をこなしていた。

 歌手陣も良く歌っていたが、グレーテルの鵜木絵里は、あれほど無理にわざとらしく子供っぽい声を出して跳ねまわる必要もないと思われる。しかし一方、魔女役は男声歌手が受け持ち、マツコ・デラックス的なオネエ言葉の大男の魔女という可笑しさで、大いに受けていた。最後にお菓子から甦った子供たちを歌い演じたバビーコーラスグループが可愛く、しかも極めて上手い。
 ただし、全曲の最後、音楽が終結したあとに付加されたパントマイムは、画竜点睛を欠く、といった感。4時終演。

2015・6・17(水)野田秀樹演出「フィガロの結婚」~庭師は見た!~

     ミューザ川崎シンフォニーホール  6時30分

 井上道義の総監督&指揮、野田秀樹新演出のセミ・ステージ形式上演。5月から11月末まで全国10か所を巡演する。今日は、金沢・大阪(2回)・西宮(2回)・高松に続く5都市目、7回目の上演。

 配役と演奏は、ナターレ・デ・カロリス(アルマヴィーヴァ伯爵)、テオドラ・ゲオルギュー(伯爵夫人)、マルテン・エンゲルチェズ(ケルビーノ)、大山大輔(フィガ郎)、小林沙織(スザ女)、森山京子(マルチェ里奈)、森雅史(バルト郎)、牧川修一(走り男)、三浦大喜(狂っちゃ男)、コロン・えりか(バルバ里奈)、廣川三憲(庭師アントニ男)。東京交響楽団および新国立劇場合唱団。

 役名からもわかるように、話を少々ひねくってある。舞台を幕末の長崎に移し、最初の3人はヨーロッパ人で、あとは全員が日本人という設定。イタリア語と日本語が交錯するが、日本人は全員がイタリア語を話せることになっている(すごい)。
 「欧日混合」の設定は、先頃の「こうもり」などでも行われて成功した読み替え的な演出だが、今回のこれも、アイディアそのものは面白いと言えよう。

 ただ、私が拍子抜けしたのは、━━これはあくまでこちらが勝手に期待していたにすぎないのだが━━「庭師は見た!」というタイトルのことだ。
 「見た!」という言葉には、あの有名なTVドラマ「家政婦は見た!」(ミタの方ではない)と同じく、何か見てはいけない一家の秘密を覗き見る、というイメージが強いのではなかろうか。したがって私も、今回は庭師アントニオを中心人物に据え、その目から見た伯爵家の知られざる秘密を浮き彫りにし、このドラマをこれまでと全く違った角度から描くというような、一種の読み替え演出を期待してしまっていたのである。

 この、原作オペラではあまり冴えない人物を中心に持って来て、ドラマの解釈を変えるという演出には、先例もある。たとえば先年エクサン・プロヴァンス音楽祭で上演されたチェルニャコフ演出の「ドン・ジョヴァンニ」では、原作では昼行燈のようなドン・オッターヴィオが、実は権謀術数の黒幕的存在であり、すべては彼が仕組んだ筋書きで、最後は彼が騎士長の一家を乗っ取る、というドラマに仕立て、すこぶる面白い効果を出していたのだ。
 それゆえ、野田秀樹がやるからには、きっと何か変わったことを━━と楽しみにしていたのだが、何のことはない、今回の「庭師」は、ストーリーをただ進行させる役割を受け持つだけだった・・・・。

 まあ、これは前述のように、私の勝手な思い込みだったから仕方がない。
 だが、せっかく野田秀樹が演出するのであれば、もっと思い切った、日本のオペラ界をあっと言わせるような画期的な、新鮮な解釈を取り入れることはできなかったのかな、と思う。在日アルマヴィーヴァ伯爵家の「使用人たち」に日本人の格好をさせ、日本的な舞台構成を試みたことは悪くないが、これも特に目新しい手法というほどでもなかろう。
 「日本人」を活躍させるからには、「日本的なおもてなしの感覚」がラストシーンで西欧人たちを納得させる、という方向にでも持って行くのかな、と思ったが、そうでもなかった。

 辛うじて、伯爵と夫人が本当に仲直りをしたわけでもなかったらしい━━ということは汲み取れるラストシーンにはなっていたが、それもあまり明確ではない身振りに終っていた。結局、設定は凝っていたものの、そのわりに何ということはないドラマ展開だったのである。

 庭師役の廣川三憲は、要所に登場してセリフでストーリーを語る。演劇畑の人だが、歌も歌う。
 またレチタティーヴォ・セッコの一部も登場人物たちのセリフに置き換えられたり、省略されたりする。歌詞には日本語とイタリア語が混在するが、これは耳慣れぬものの、それほどの違和感はないだろう。すべて字幕付きである。
 今回のミューザ川崎での上演では、通常のステージの位置に大きな舞台を設え、背後を巨大な幕で覆い、オーケストラを客席の前方に配置していた。2階席正面(CA)で聴いた範囲では、音響のバランスはなかなかよく、セリフが反響して聞こえにくいということもなかった。

 歌手陣。
 ほとんど出ずっぱりで大熱演したスザンナ役の小林沙羅には、賛辞が贈られてしかるべきであろう。
 だが、その他の人々には疑問がある。伯爵役のデ・カロリスは、第3幕冒頭のアリアで気概のあるところを示したが、全体としては意外に冴えない。また、伯爵夫人の硬い高音と、ケルビーノ役のカウンターテナー(新機軸ではあるが)の不安定な声は、いずれもモーツァルトの柔らかく美しい管弦楽とのハーモニーを形づくるのに失敗していた。

 日本人歌手たちも、日本語での歌唱に「慣れない」ためでもなかろうが、意外に精彩に欠けるところがある。演技の面では、日本人グループだけは、比較的細かい芝居を見せていた。なお、歌手たちとは別に、踊ったりポーズを作ったりする「演劇アンサンブル」の存在が、なかなか良かった。

 井上道義の指揮するモーツァルトが、比較的テンポが遅めで、音楽にも重さを感じさせたのは予想外であった。彼のモーツァルトは、以前はもう少し洒落っ気を感じさせる、きびきびした演奏だったのでは? 
 しかも、東京交響楽団(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)の演奏にも、何となくしまりがない。定期公演などの演奏会ではあれほど傑出した演奏を聴かせるこのオーケストラが、いったんオペラのピットに入ると、どうしてこんなに緩んだ演奏になるのか、理解しかねるところである。

 休憩1回を含み、終演は10時頃で、上演時間からいってもかなり長かったことは事実だが、もし演奏がもっと歯切れよく、引き締まったものであれば、実際に長さを感じさせずに済んだかもしれなかった。

2015・6・16(火)読響アンサンブル・シリーズ 川瀬賢太郎指揮

     よみうり大手町ホール  7時30分

 池袋から大手町までは、地下鉄丸ノ内線でわずか15分足らず。ただし、両駅とも地下の連絡通路を相当の距離を歩かなくてはならず、これで結構時間を要する。

 先頃、渡邉暁雄音楽基金賞音楽賞を受賞した川瀬賢太郎が読響(コンサートマスター:小森谷巧)に客演、モーツァルトに挑む。「フィガロの結婚」序曲、「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソリストはアレクサンダー・シトコヴェツキー)、「ジュピター交響曲」というプログラムで、1時間半のコンサートだ。

 マエストロ川瀬は、プレトークで、なかなかいい話をしていた。
 「フィガロの結婚」序曲について、冒頭がピアニッシモで開始されることを指摘、オペラの中では登場人物が何か秘密の相談をしている個所でやはり最弱音が使われることとの関連から、序曲の最初も「ひそひそ声で何かを企むように」演奏したいということを語っていた。なるほど、面白い解釈である。

 ただ、実際の演奏ではあまり「ひそひそ声の」ピアニッシモには感じられなかったが、これはこのホールが小ぶりで、全ての音がリアルに聞こえる所為もあるだろう。そのあと音楽が木管のピアノになり、次いで全管弦楽がフォルティッシモで爆発する━━という一連のデュナーミクの変化を体験すると、相対的に、冒頭は確かにピアニッシモであったことに気がつくというわけである。

 その最強音をはじめ、序曲と交響曲の強音の個所では、ティンパニは硬い音で強打され、非常にアクセントの鋭い、パンチの効いたメリハリの強い響きで演奏された。音楽には激しさと活気が生じ、強い意志力さえも感じさせた。若い指揮者のアプローチとしては、極めて好ましいといえよう。「川瀬のモーツァルト」はこういうものなのか、と思わせる。

 だが、それ自体はいいのだが、こういうタイプの音づくりは、もう少し大きな、よく響くホールでの演奏でないと、その真価を見誤らせる恐れがあろう。この残響の少ない、室内楽規模のキャパシティのホールでは、そのたたきつけられるティンパニと・・・・いや、その鋭いアクセントそのものが、些か飽和状態の音になり、刺激的になってしまうのである。

 ドライな音響のホールで聴くと、内声部の動きも明確に聞こえる半面、アラもすべて聞こえてしまうのが良し悪しだ。「少し荒れ気味の読響」に戻ってしまったとまでは言わないが、どうもこれは、「アンサンブル・シリーズ」と銘打っているわりには、どのくらい練習したのかなという気もするアンサンブルであった。

2015・6・16(火)「蜜柑とユウウツ」

     東京芸術劇場シアターイースト  2時

 これは演劇。
 「グループる・ばる」による第22回公演で、「茨木のり子異聞」という副題がある。長田育恵作、マキノノゾミ演出。松金よね子、小林隆、岡本麗、田岡美也子、木野花、野添義弘、岡田達也の出演。

 主人公は、実在の詩人で、同人誌「櫂」の創刊にも携わった茨木のり子(1926~2006)だが、彼女自身は登場するような、しないような・・・・彼女の幽霊ともつかぬ、象徴的再現分身ともつかぬ、ノリコ・紀子・典子という不思議な3人の女性がのり子に代わって出て来る。「若い時代の谷川俊太郎」も登場する。
 舞台(演出)については、あまり私の好みではなかったので省く。松金よね子と小林隆が、おなじみのいい味を出していた。

2015・6・15(月)エルサレム弦楽四重奏団

    紀尾井ホール  7時

 1996年デビューという。第1ヴァイオリンがアレクサンダー・パヴロフスキー、第2ヴァイオリンがセルゲイ・ブレスラー、ヴィオラがオリ・カム、チェロがキリル・ズロトニコフ。「イスラエル出身」のクァルテットだが、メンバーの名前だけ見れば、まるで北国系のクァルテットのような・・・・。

 プログラムは、モーツァルトの「第14番ト長調K387」、スメタナの「わが生涯より」、シューベルトの「死と乙女」というもの。何だか日本公演向けの名曲プログラムのような気もするし、これらが彼らの本当に得意のレパートリーなのかどうかわからないけれども、とにかく演奏は明快で、力強さがある。デュナーミクには極めて細かい設計を施しているようで、モーツァルトの冒頭からフレーズごとに強弱の変化が聴かれ、音楽に起伏がつくられている。

 ただ、そのわりに全曲を通して聴くと、何か単調な印象を免れないのは、演奏における音色と表情にあまり変化がないからではないだろうか? 
 「死と乙女」など、なかなかダイナミックな演奏だが、最初から最後まで単彩な表情に終始した感がある。特に第2楽章の主題の変奏では、ひとつの変奏ごとにもっと感情の変化がこめられていてもいいのではなかろうか。

 また「わが生涯より」の最終部分━━つまり作曲者が聴覚を失った後を描いた個所だが━━でのトレモロはすこぶる物凄かったが、そのあとの空虚感、遠い思い出、絶望感といったものを表出するには、未だしの感がある。それは、メンバーが若いから、ということもあるかもしれないが、あるいは彼らの感性から、そういう部分にのめり込むことを最初から拒否しているのかもしれない・・・・。

2015・6・13(土)テミルカーノフ指揮読響のショスタコーヴィチ10番

    東京芸術劇場  2時

 読売日本交響楽団の名誉指揮者に推されたユーリ・テミルカーノフ、今回の客演の最終公演はプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」とショスタコーヴィチの「交響曲第10番」。

 前半はプロコフィエフ。ソリストのデニス・マツーエフの爆演が壮烈を極めた。昔よりもさらに一段と凄みを増したかもしれない。この「3番」ではこのところ、やや透明気味のスタイルの演奏を聴くことが多かったから、こういう巨熊のような豪演に接すると、何か胸のすくような思いになる。
 テミルカーノフが指揮する読響もまた濃い演奏で、特にフィナーレの結尾めざして追い上げて行く個所では、ただリズムだけでたたみ込んで行くのではなく、管楽器群を強奏させ、一種の音響の坩堝をつくり出したが、これはすこぶる迫力充分であった。鮮やかなものである。

 最後の和音を猛然とたたきつけるが早いか立ち上がってしまったマツーエフ。巨躯で舞台を圧しつつ答礼し、あっという間にアンコールを2曲も弾く。シベリウスの「練習曲作品76の2」とスクリャービンの「練習曲作品8の12」。後者は、かのラザール・ベルマンをもしのぐ豪壮猛烈な演奏だった。ピアノが小さく見える。

 後半はショスタコーヴィチ。昨夜「8番」の豪演を聴いたばかりなのに、今日も「10番」の快演を聴くことができるとは、有り難いものだ。
 私としては、ショスタコーヴィチはとりわけご贔屓という作曲家ではないのだが、こういった重量感あふれるサウンドで演奏された時には、快く聴きつつ、彼の生涯や音楽についてさまざまな思いをめぐらすことができるというものである。

 それにしても、テミルカーノフが最小限の身振りでオーケストラを自在に制御して行くさまは、見事の一語に尽きる。第1楽章での大きな起伏、第2楽章での目まぐるしい突進。
 この第2楽章がスターリンの暴虐を表わすとか何とかいうヴォルコフ的な解釈はナンセンスだが、今日のテミルカーノフの指揮による激しい演奏を聴いていると、なるほどそういう「連想」も時にあり得るのかもしれないな、と一瞬思わされたほどである。

 ショスタコーヴィチ自身の私小説的な内容を持った後半2楽章も、緻密な構築による演奏だった。ただ欲を言えば、幕切れでティンパニだけでなく他の声部にも現われる「D-Es-C-H」(ドミトリー・ショスタコーヴィチの名のモノグラム)が、もう少し明確に浮き彫りにされれば・・・・と思ったのだが。

 読響(コンマスは小森谷巧)は、見事に「復活」していた。先日のマーラーの「3番」での不満は、これで完全に「帳消し」だ。アンコールは、この指揮者の十八番であるエルガーの「ニムロッド」。
 私の方も休憩時間にはなぜか体調がおかしくなり、貧血気味になっていたのだが、演奏を聴き終った頃にはすっきりと治っていた。

2015・6・12(金)ラザレフ指揮日本フィルのショスタコーヴィチ「8番」

     サントリーホール  7時

 ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」が最初に演奏される。
 ラザレフの指揮が剛直で力感たっぷり、仁王のようなブルッフとなったが、ソリストの堀米ゆず子もシンの強い音で、少し荒いけれども豪快に弾くから、その意味ではいい組み合わせかもしれない。しかし、堀米の流動的なテンポによる細かいニュアンスを支えるには、「斧で一刀両断」的なラザレフの指揮は、あまり合わぬかもしれない。
 いずれにせよ、熱気は充分で、集中性に富み、ソロ・オケともに迫力のある演奏ではあった。

 第2部は、ショスタコーヴィチの「第8交響曲」。日本フィルの定期では、だいたい1日目の演奏は少し荒くて未完成の傾向あり、ということが多いものだが、今日はなかなかまとまりの良い演奏だった。
 第1楽章冒頭から、弦楽器群のしっとりした音色(落ち着き過ぎていたかなという印象もある)が響き出す。管も、おなじみトランペットの1番が第3楽章の聴かせどころで少々暴れ気味の傾向がなくもなかったけれど、トロンボーン・セクションやイングリッシュホルンの活躍をはじめ、充分に熱っぽい演奏を聴かせてくれた。

 日本フィル(コンサートマスターは扇谷泰朋)は、怒号、狂乱、絶叫の大熱演である。だがその咆哮は、もはや乱れたり濁ったりすることもなく、響きにも均衡が保たれている。これが、ラザレフに鍛えられたこの楽団の成果の一つだろう。楽想が暗から明へ移って行く瞬間などでのニュアンスも、明確に描き出されていた。

 唯一、第3楽章でトランペットを中心に全管弦楽が潮の引くようにデクレッシェンドして行くあの印象的な個所で、スネア・ドラムだけがフォルティシモのままずっと叩き続けられていた━━つまり、これでは他の楽器の「漸弱」が意味をなさない━━ことには疑問が残ったが。

 だがとにかく今日の演奏は、ラザレフ&日本フィルのショスタコーヴィチ・ツィクルスの中でも、上位に置かれるべき演奏ではなかったかと思う。若き日に、この作曲家と同じ時代を過ごしたことのあるラザレフには、音符の一つ一つに一種の共感を抱くことができるのだろう。少なくとも、そういうことを感じさせてくれる指揮だったのである。

 全曲の大詰では、ラザレフはまた無音の中でずっと指揮を続けていた。あたかも、このあとも音楽は無限に続いて行くのだ、ということを意味するかのように。そのため、長い静寂は保たれた。水を打ったような静寂ではなかったものの、ここで咳を必死に堪え、抑えていた人たちは、さぞや辛かったろうと同情する。
 昔、ラザレフがボリショイ響と来日してこのホールで「8番」を指揮した時、P席に座っていた1人の客が、未だピアニッシモで演奏が続いているにもかかわらず拍手を始め、周囲の制止をも聞き入れず延々と手を叩いていたため、客席が非常に険悪な雰囲気になったことがあるが、それに比べれば今日の咳などは・・・・。

 演奏後、アフタートークがあった。「ラザレフ、おおいに語る」と題されていたが、本当に30分以上、大いに語ってくれた。来シーズンに演奏するショスタコーヴィチの交響曲(6番、9番、15番)の話が中心で、「15番」の初演時のリハーサルでの出来事などの面白いエピソードも披露され、会場にも何度か笑いが起こり、ラザレフも楽しそうに話を続けていた。小賀明子さんの明晰な通訳にも助けられた。

2015・6・11(木)ミロ・クァルテットのベートーヴェン第2夜

     サントリーホール ブルーローズ  7時

 恒例の「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」、今年の開催期間は6月6日~21日。
 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲を演奏するのは、今年はミロ・クァルテットである。創立は1995年。メンバーは第1ヴァイオリンがダニエル・チン、第2ヴァイオリンがウィリアム・フェドケンホイヤー、ヴィオラがジョン・ラジェス、チェロがジョシュア・ジンデル。このうち第1ヴァイオリンとチェロが創設時からのメンバーの由。

 今日の第2夜は、第7番から第9番まで、つまり「ラズモフスキー」の第1番、第2番、第3番というプログラムだ。
 演奏にあふれるエネルギー感と推進性が、実に見事である。フレーズや和声も強靭な力感で構築されており、たたきつけるような激しいアクセントが演奏全体に充ち溢れる。ベートーヴェンの中期の作品特有の「精神の爆発」が、若々しい表情をもって、鮮やかに再現された演奏、と言っていいだろう。

 この明るい、満々たる意志力に富んだ骨太な「ミロ・クァルテットのベートーヴェン」が、先行き、後期の作品群においてはどのような展開を見せるのか━━つまり、変貌して行くのか、それとも違和感が生じることになるのか、ということだが━━すこぶる興味深いが、残念ながら今回彼らの演奏を聴けるのは、今夜だけ。

 いずれにせよ、テクニックもしっかりしているので、昨年出演した欧州の名門楽団メンバーによる四重奏団とは全く違う意味での小気味よさ、痛快さが演奏に感じられるだろう。 
 チェロが殊更によく響き、そのため内声部に厚みが増し、中低音に力強さが感じられるというバランスに聞き取れたが、これは聴いた位置の関係があるかもしれないから、この四重奏団の特徴と即断するわけには行かない。

 演奏開始直前に、客席でまたひと騒ぎあった。ひとりの高齢の御仁が、大声でホールのスタッフを呼び、隣の席に座っている(これも初老の)男が足を引っ込めてくれないのだがどうしたらいいんだ、とわめき出した。呼ばれたレセプショニストは「ちょっとお待ち下さい」と言ったまま去ったが、その直後に演奏者が登場して演奏開始。結局、ホールとしては「放置」という形になったわけだが、正解だろう。そもそも、こんなガキみたいな喧嘩は、放っておくに限る。まあ、その御仁にも、せっかくチケットを買って、楽しみにして聴きに来たであろうのに、と同情はするけれども・・・・。

 それにしても最近、すぐキレて怒鳴りはじめるなど、騒ぎを起こす高齢者の男が異様に多くなった。先日もここの大ホールのP席で開演前にゴタゴタやっている光景が見えたし、きゅりあん大ホールでの芥川也寸志作品演奏会(5月31日)では、プレトークのさなかに、「ホールの係が案内してくれないから自分の席が何処だかわからないじゃないか」と、相手もあろうに舞台上の解説者に向かって怒鳴りはじめた男の老人がいた。
 クラシックの演奏会でトラブルを起こすのは、たいていが男の中年以上、その大部分が高齢者だ。なさけないことである。分別あるはずの世代がやることかと思う。━━そういうお前は、そんな偉そうなことを言っていて大丈夫なのか、と皮肉を言われることは判っているから、これは同世代としての憂慮自省の意味で書いているわけだが。

2015・6・9(火)庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ デュオ

     サントリーホール  7時

 庄司紗矢香(ヴァイオリン)とジャンルカ・カシオーリ(ピアノ)のデュオ・リサイタル。日本で聴くのはこれが3度目。聴くたびに、その演奏スタイルが変貌して行く。
 前回(2012年10月30日)の演奏は、彼女の音色といい、ピアノとのバランスといい、どうも腑に落ちないところがあったが、今回はその前の2010年(11月8日)のスタイルにまた近くなったともいえようか。

 今日のプログラムは、モーツァルトの「ト長調K.379」とベートーヴェンの「第6番イ長調」のソナタ、ストラヴィンスキーの「イタリア組曲」とラヴェルの「ソナタ ト長調」。ちなみにアンコールは、シュニトケの「祝賀ロンド」とシルベストロフの「ポスト・スクリプトゥム」第2楽章という曲だった。

 モーツァルトも、ベートーヴェンも、それはそれで卓越した演奏ではあったが、私がいっそう心を打たれたのは、「イタリア組曲」だ。
 その演奏の、変幻自在な表情、官能的なほどの色彩感などは、ストラヴィンスキーの所謂新古典主義のスタイルを完全に脱却した大胆なアプローチではないか。5曲目の「スケルツィーノ」は、もはやベートーヴェン風の荒々しいスケルツォと化し、しかも、何とも人を食ったような表情を示すにいたる。
 こういう読み替え的な演奏を、実に美しく鮮やかに、確信に満ちた音楽づくりで展開し、聴き手を納得させてしまうのだから、庄司もカシオーリも、本当に凄いものである。

2015・6・8(月)ラドミル・エリシュカ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
ドヴォルジャーク:「スターバト・マーテル」

       フェスティバルホール  7時

 西日本は雨と聞いていたが、フェスティバルホールは地下鉄の肥後橋駅直結だから大丈夫のはず、と傘を持たずに行ったら、なんと肝心の連絡通路は「バリアフリー工事」のため(向こう2年間)閉鎖されており、地上に出て雨中の交差点を渡らなくてはいけないことになっていた。他国者はつらい。

 コンサートは、大阪フィルハーモニー交響楽団の6月定期。チェコの人気指揮者ラドミル・エリシュカが客演指揮、ドヴォルジャークの大曲「スターバト・マーテル」を振る。
 協演は福島章恭指揮の大阪フィルハーモニー合唱団、声楽ソロは半田美和子(S)手嶋眞佐子(A),望月哲也(T),青山貴(Bs)。コンサートマスターは崔文洙。

 名匠エリシュカが大阪フィルから引き出す音楽の、なんという温かさ、柔らかく慈しむような音。これは彼ならではのものだ。
 今回は2階席下手寄りで聴いたが、大阪フィルの弦が柔らかく膨らみのある音で響いており、しっとりした音色が堪能できた。宏大な空間を持つフェスティバルホールでは、2階で聴くと、オーケストラの音はやや遠く聞こえる。それが演奏の印象にも影響しているのかもしれない。

 エリシュカは、以前にも札響を指揮してこの曲を演奏したことがあり、あれもヒューマンな香りに満ちた、「心より出でて心に入る」といったような名演だったが、今回の大阪フィルとの演奏も、それに勝るとも劣らぬ素晴らしいものであった。ドヴォルジャークが、わずか2年の間に幼い長女、長男、次男を相次いで喪った悲しみを投影させたこの「スターバト・マーテル」━━エリシュカの滋味あふれる指揮で聴くと、わざわざ遠くまで行っただけのことはある、と思うようになる。

 声楽ソリストのうち、テナーの望月の力み返った癖のある歌い方は、なだらかな管弦楽の表情と全く異質のように思える。その一方、バスの青山が力のあるストレートな歌唱で気を吐き、女声2人も健闘した。
 だが何といっても、今夜の演奏でオーケストラとともに光ったのは、合唱団だろう。120人以上の大編成だが、きわめてバランスの良い響きで、ふくらみがある。テナーの高音にちょっと粗いところはあったものの、それはほんのわずかの瑕疵に過ぎない。

 8時40分、演奏終了。9時10分新大阪発の新幹線で帰京。帰宅は11時45分。

2015・6・6(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

   サントリーホール  6時

 R・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」と、ブルックナーの「交響曲第7番」(ノーヴァク版)とを組み合わせた定期。
 今日の演奏は、ノットと東京響がこれまで私たちに聴かせて来た数々の快演のうちでも、最も緻密で、精巧なものであった。

 「メタモルフォーゼン」は、明らかにブルックナーのアダージョに呼応する存在として取り上げられたのだろう。
 ベートーヴェン、シェーンベルク、ワーグナー、ブルックナーなどのエコーも響く、ドイツ音楽への挽歌ともいうべきR・シュトラウスのアダージョ━━23の弦楽器が精妙に交錯するこの作品を、ノットは陰鬱な葬送行進曲には仕立てず、明晰かつ詩的に、未来への希望を滲ませるかのような大きな起伏をもたせて指揮して行った。
 大谷康子をコンサートマスターとする東京響の弦が、実に美しい。この曲をこれほど「気持よく」聴けたのは、久しぶりのことである。

 ブルックナーの「7番」もまた、スコアに書かれている音符を、一音たりとも疎かにしない演奏だ。これほど精密な演奏の「7番」は、滅多に聴けないものだろう。東京響はかつてスダーンの指揮で「完璧な7番」を演奏したことがあるが(録音もある)それが受け継がれているのかもしれない。

 しかし、ノットが東京響から引き出した音楽は、スダーンほどには厳格でなく、もう少し伸びやかなもので、しかも音色は明るい。弱音の弦の柔らかい美しさは絶妙だし、ホルンやワーグナー・テューバをはじめ管楽器群も実に丁寧な演奏をしてくれた。内声部が明確にくっきりと浮かび上がり、美しく交錯する。
 遅いテンポ進められた前半の2つの楽章では、あたかも静寂の中にひれ伏し、祈るかのような演奏となっていた。

 かように、ノットの指揮は非常に念入りで精緻なのだが、欲を言えば、この曲の第4楽章に、もっと明確な形式感といったものが導入できていたら━━と思う。もちろんこれは、もともと曲自体に形式性が不足しているからでもあるが・・・・。
 俗な言葉で言えば、たとえばコーダへの追い込みの個所では、「いよいよ今度こそ最後のクライマックスへ━━」と感じさせる構築が欲しかったかな、ということである。同じようなことを繰り返しているうちに、いつの間にか終りに来てしまった・・・・という感じになってしまうと、何か肩透かしの感になるということだ。

 だが、第1楽章の最後といい、ここといい、彼のクレッシェンドは、なかなか巧い。そしてこの第4楽章のコーダには、目覚ましい昂揚感があった。全管弦楽がフォルテ3つで高鳴る最後の9小節も、見事な均衡を示していた━━ちょうど昨年の「千人の交響曲」の最後の個所と同じように。
 ノットと東京響、ますます快調のようである。

2015・6・5(金)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日響のマーラー「3番」

    サントリーホール  7時

 今日もマーラー。「交響曲第3番」。新国立劇場合唱団(女声)とNHK東京児童合唱団、小山由美(メゾ・ソプラノ)が協演。

 テミルカーノフの指揮━━彼がレニングラード・フィルのシェフを引き継いだ直後の来日公演で指揮した「巨人」のことを、ふと思い出した。それは当時としてはおそろしく先鋭的な、随所に誇張・強調を施した個性的な解釈のマーラーだった。今は彼の音楽も、良くも悪くも円熟し、かなり温厚になったような気がする。

 今日の「3番」も、骨太な音楽づくりで、ストレートに滔々と押して行く演奏だ。第1楽章は予想以上にテンポが遅く、これは相当長くなるぞと覚悟をしたのだが、その後は中庸を得たテンポとなり、特に第6楽章はかなり速いテンポで盛り上げられて行った。
 この第6楽章では、悠然とした「平安」や「安息」などでなく、むしろ前楽章から引き継いだ歓びの感情を抑えがたく、その昂揚感に身を委ねて行く、といった表現がテミルカーノフの解釈であるように思える。

 小山由美は、いつものように深みのある歌唱。合唱はP席に配置され、児童合唱団はやや硬質の声で元気よくリズミカルに歌い、その背後から響いて来る女声合唱と面白い対比をつくり出していた。
 読響(コンサートマスター・日下紗矢子)は最終楽章で弦が情熱的に昂揚した。だが第1楽章では、管が遅いテンポを保ち切れなかったような印象がないでもない。

 今日の演奏は、読売日本交響楽団にしては完璧な出来とは言い難い。あちこち少なからず、いろいろなことがあった。カンブルランが指揮した4月上旬の頃までは良かったのに、このところ読響はちょっと荒れて来ているようである・・・・。

2015・6・4(木)トーマス・ヘンゲルブロック指揮北ドイツ放送交響楽団

     サントリーホール  7時

 首都高が幸い空いていたので、6時過ぎには都心に着く。

 「アドルフに告ぐ」の内容が、深刻な「ナチスとユダヤ人」の問題。そのあとに行ったハンブルク北ドイツ放送響の来日演奏会のプログラムもユダヤ系の作曲家━━メンデルスゾーン(ヴァイオリン協奏曲ホ短調)とマーラー(「第1交響曲《巨人》」のハンブルク稿)とは、偶然とはいえ出来過ぎた話。
 しかもその締め括りに、なんとワーグナー(「ローエングリン」第3幕前奏曲、アンコール曲)が出て来て、・・・・まあ、しかし、政治絡みのこういう話はやめておこう。

 協奏曲では、アラベラ・美歩・シュタインバッハーがソリストとして協演。毅然たるものを感じさせる音楽づくりの裡に、濃厚で情熱的な表情で自己を主張する演奏は、いつもの彼女と同じだ。時に嫋々として表情過多になる傾向もあるが、彼女はベートーヴェンの協奏曲などでもえらく甘美なカンタービレを利かせることもある人だから・・・・。ソロ・アンコールで弾いたプロコフィエフの「ソナタ 作品115」第1楽章の音色の、なんと洗練された美しさ。

 「巨人」は、このところ話題になっている「ハンブルク稿」による演奏だ。
 ハンブルクに本拠を置くオケだからハンブルク稿を━━というわけでもあるまいが、ヘンゲルブロックはこの曲をCDにも入れている。もっとも、同じハンブルク稿とはいいながらも、これはハンブルク初演後に改訂した楽譜を基にした演奏だろう。かなり現行版に近くなっている稿である。
 それにしても、これを聴きに来たファンも多いはずだから、プログラム冊子にも、もう少し「1893年ハンブルク版」なるスコアと現行版との違いについて、ある程度までは詳しい解説を掲載してもらったほうがよかったのではないか。

 今回は「花の章」でのソロ・トランペットを、下手側ヴァイオリン群の後ろに移動させて立たせ、演奏させたが、「5番」のソロ・ホルンと違ってそれほど際立たぬソロだけに、大して効果的な方法とも思えない。
 ヘンゲルブロックの指揮は、微に入り細にわたって神経を行き届かせたもので、緩徐個所のテンポも極度に遅い。ただしそのわりに、オーケストラの爆発部分における演奏は、あまり精緻でない。特にトランペットとホルンの一部にこのオケらしからぬ乱れも散見されたのは、意外だった。

 「ローエングリン」では、原譜では4本となっているホルンのパートを、ステージ上にいた7本のホルン全員で演奏、これはすこぶる壮烈だ。この威圧的なほどの音楽の力は(話を蒸し返すことになるが)やはり「ドイツの」物凄さ、というか・・・・。

2015・6・4(木)「アドルフに告ぐ」

   KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉 2時

 手塚治虫の名作が、栗山民也の演出と木内宏昌の脚本で、14日まで上演されている。2日目公演のマチネーを観に行く。
 演劇はもともと好きだから、昔は劇団「雲」の公演などに結構通い詰めたものだけれど、近年はトンとご無沙汰。多部未華子主演の「サロメ」など、二つか三つを観たのみである。したがってこの方面には、全く明るくない。だがとにかく、面白かった。

 周知の通りこれは、3人のアドルフ━━ドイツ国籍の在日ユダヤ人少年アドルフ・カミル、その親友でナチ党員の父と日本人の母を持つドイツ人少年アドルフ・カウフマン、そしてアドルフ・ヒトラー総統━━を中心に、ヒトラーの出自に関する秘密書類をめぐって神戸とベルリンを舞台に展開する物語である。
 ドイツに戻って熱烈なナチ党員となり、ユダヤ人粛清の先鋒となったカウフマンが、再び1945年の日本でユダヤ人カミルと対決、28年後のパレスチナ紛争でそれが終止符を打たれるまでの舞台は、まさに死屍累々の凄まじさだ。

 第1幕70分、第2幕95分の長丁場だったが、全く長さを感じなかったのは、第一に栗山民也のテンポの良い、歯切れのよい演出のためだろう。
 成河(アドルフ・カウフマン)、松下洗平(アドルフ・カミル)、高橋洋(アドルフ・ヒトラー)ら、みんな好演だったと思うが、とりわけドラマの核になる峠草平を演じた鶴見辰吾が舞台を引き締め、存在感を示していたことも大きい。

 最初と最後に挿入された登場人物たちの合唱がドラマをセンチメンタルなものに陥らせる傾向があったことと、本多大佐役の谷田歩以外の軍人たちが膝をまっすぐに伸ばさない、たるんだ歩き方だったことの2点を除けば、━━いい上演だったと思う。
 時たま流れるワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と、ベートーヴェンの「第9」の第3楽章が、ふだんより強く、心に染み入った。

 5時10分終演。

2015・6・3(水)飯守泰次郎指揮東京都交響楽団

    東京文化会館大ホール  7時

 東京文化会館の「響きの森」シリーズの第36回。「ドイツ・ロマンの森」と題され、ワーグナーの「タンホイザー」序曲と、「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」、ブラームスの「交響曲第4番」が演奏された。

 飯守泰次郎の都響客演は、実に久しぶりという。もともと、綿密精巧なアンサンブルを要求する人ではないが、どんな音楽を求めているかを明確に示す人だから、オケもそういう演奏になる。
 今回はリハーサルを大ホールで━━つまり本番と同一会場で2日間も行なうことができたそうで、このホールのアコースティックを完璧に掌握した中で彼の求める音楽の響きを最大限につくることが可能になったのだろう。弦は14型だったが、音は分厚く、ハーモニーの豊かさが充分に出た(コンサートマスターは山本友重)。

 最高だったのは「トリスタン」である。独特の和声がうねりながら進んで行くような音楽は飯守の得意とするところで、前奏曲と「愛の死」におけるそれぞれのクライマックス個所での高潮感、それらが潮を引くように崩壊して行く瞬間の法悦感は見事だった。特に「愛の死」での頂点、歌詞で言えば「Welt-Atems」の2小節目と「All-」に相当する個所でのチェロとヴィオラの下行音がはっきりと聞こえたことは、音楽の官能性を一層高める上でも効果的だったと思われる。

 日本のオケが内外のいろいろな指揮者のもとで演奏した「前奏曲と愛の死」の中でも、これは最も情感にあふれた演奏と言えたであろう。私には、飯守の「トリスタン」を聴くと、昔フルトヴェングラーの指揮したレコードでこの作品に陶酔した頃の感覚が戻って来るのである。

 ブラームスの「第4交響曲」も、同じような意味で、第2楽章が出色の出来だった。
     別稿 モーストリー・クラシック8月号 公演Review

2015・6・2(火)メゾソプラノ庄司祐美リサイタル2015

   北とぴあ つつじホール  7時

 初台から地下鉄を乗り継いで王子へ移動。開演には間に合わなかったが、途中から聴く。
 プログラムの前半にシューベルトの歌曲を9曲、後半にファリャの「7つのスペイン民謡」とラヴェルの「5つのギリシャ民謡」、最後にマスネの「ウェルテル」第3幕から2曲を歌うという重量級構成だ。

 このところ毎年定例的に開催されている彼女のリサイタルは、以前にも聴いたことがある。豊富な知識を駆使してプログラム冊子の膨大な解説から訳詞まで、すべてやってのけるというエネルギーの持主である。ピアノは川口成彦。

 シュトゥットガルト音大でも学んでいた庄司さんは、そのキャリアにふさわしく、ドイツ語の発音は流石のもの。その点では、シューベルトの作品での歌唱の方に長所が聴かれただろう。シューベルトの「若い尼僧」で、主人公の感情を不安よりも平安に━━外の嵐よりも内面の精神に重点をおいて解釈する手法には、なるほどと納得させられた。ただ、ファリャやラヴェルの作品も含め、その大きなヴィブラートには、少々疑問もあるが・・・・。

 最近はカスタネットに凝っているという話を仄聞していたので、アンコールでは「カルメン」か、フラメンコでもやってくれるかと秘かに期待していたのだが、これはアテがはずれた。

2015・6・2(火)新国立劇場 R・シュトラウス:「ばらの騎士」

   新国立劇場オペラパレス  2時

 5月24日から行われている5回公演の4日目。
 ジョナサン・ミラー演出、イザベラ・バイウォーター美術・衣装によるこのプロダクションは、2007年6月6日、ノヴォラツスキー芸術監督最後の新制作としてプレミエされたものだった。そのあと、2011年4月に再演され(この時は東日本大震災の余波でアルミンクはじめ歌手も何人かキャンセルして大騒ぎだったが)今回が3度目のレパートリー上演になる。

 プレミエの時の私の日記には━━「いかにもジョナサン・ミラーの演出らしく、派手さはないもののかっちりとまとまった舞台で、演技の細かさは主役のみならず・脇役・端役にいたるまで徹底しており、それだけでもドラマとしての面白さが出て、全体が引き締まる」とある。
 しかしどうも、再演を重ねるに従い、舞台のタガが緩んで来るのはよくあることで、これは全く「再演演出担当」演出家の責任によるものだが、今回も第2幕と第3幕のいくつかの個所では、人物の動きに明解さが不足する結果を招いていた。

 脇役だけでなく、主役の動きにも辻褄の合わぬところがいくつかある━━第3幕での、オックス男爵が「いっぱい食わされた」顛末に気づくあたりなどがそうだ。また、元帥夫人がオクタヴィアンとの「別れ」に際し、彼から手にキスを受けて動揺する場面での演技は、もともとあんなにあっさりしていたものだったか? 

 舞台全体は極めて美しいものだったが、今回の上演が人間のドラマとしての深みに欠けた印象だったのは、こういう精密な演技性に不足していたからであろう。
 このプロダクションがプレミエされた際のシーズン・テーマは「運命、希望ある別れ」であり、ミラーもそのコンセプトに沿って演出を考えていたはずだった。その演出意図は、8年後の今回にも、引き継がれていてもよかったのではなかろうか。

 今回の主役歌手陣は、アンネ・シュヴァーネウィルムス(元帥夫人)、ユルゲン・リン(オックス男爵)、ステファニー・アタナソフ(オクタヴィアン)、クレメンス・ウンターライナー(ファーニナル)、アンケ・ブリーゲル(ゾフィー)。
 その他、田中三佐代(マリアンネ)、大野光彦(ヴァルツァッキ)、加納悦子(アンニーナ)、妻屋秀和(警部)、水口聡(テノール歌手)、晴雅彦(公証人)らが脇役を務め、原純も理髪師(黙役)の助演で活躍していた。

 リンの底力ある声はいつもながら素晴らしく、オックスの怪物的な迫力をよく出していただろう。警部役の妻屋秀和も、巨体と風格ある声で、オックスと渡り合っていた。
 だがゾフィーのブリーゲルは声質が生硬で、第2幕のオクタヴィアンとの2重唱をはじめ、第3幕最後の3重唱や2重唱でも、オーケストラのあの夢のように美しい響きに声がまったく溶け込まない。これだけは本当に残念だったが、音楽的な弱点となってしまった。

 指揮のシュテファン・ショルテスは、今回はさほどテンポは速くない指揮だったが、東京フィルをよく引き締めた。アンサンブルの点では、東京フィルは今回も良いレベルに在ったといえよう。
 惜しむらくは、オーケストラの音に、色気と、ユーモアと、洒落っ気が不足していること。しかしこれはまあ、ショルテスの指揮のいつもの癖でもあるから、仕方なかろう。8年前のプレミエの初日の━━せっかく指揮にシュナイダーを招いていたのに━━あのよれよれのホルンや、ガタピシしたアンサンブルに比べれば、はるかに良かった。事実、今日の2重唱や3重唱の部分でのオケの演奏は、なかなかに美しく、あの「シュトラウスぶし」を充分に再現していたのである。
 終演は6時。

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