2017-09

2015・5・31(日)フェドセーエフ指揮チャイコフスキー響

    サントリーホール  6時

 バイロイトでワーグナーばかり聴いていると、むしょうにモーツァルトが聴きたくなることがある。かと思うと、ザルツブルクでモーツァルトやヴェルディのオペラなどに浸っている時に、突然チャイコフスキーが聴きたくなる時がある。
 この3月から5月にかけて、あまりチャイコフスキーに巡り合わなかったので、昨日のテミルカーノフ&読響で「くるみ割り人形」の「パ・ド・ドゥ」を聴いた時には、妙に懐かしく感じられたものであった。

 それで━━今日のトリプル・ヘッダーの最終試合は、名匠ウラジーミル・フェドセーエフが指揮するチャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ、つまり以前はモスクワ放送交響楽団と呼ばれた管弦楽団が演奏するチャイコフスキー・プログラムである。「四季」から、ガウク編曲になる「雪割草」「舟唄」「秋の歌」「クリスマス週」。続いて「くるみ割り人形」組曲。そして後半に「交響曲第5番」が演奏された。

 正直言って、前半の2つの作品における演奏には戸惑った。「四季」の4曲での、美しいけれどもあまり生気の感じられない、今にも倒れ込みそうな演奏、「くるみ割り人形」でのバレエ曲にあるまじき(?)超遅テンポの演奏・・・・。「葦笛の踊り」の中間部など、まるで幽霊の踊りのような薄気味悪ささえ感じさせたくらいだ。

 オーケストラは、弦も管も音色は素晴らしいものの、管の演奏が不思議に粗く、フルートとオーボエの受け渡しの悪さ(「雪割草」)や、このオケらしからぬミスも散見された。指揮者の遅いテンポを持ち堪えられず、アインザッツや音を切る個所での歯止めが利かないことがはっきりと感じ取れるのである。もしかしたら、83歳のフェドセーエフが、もはやオーケストラを完全に掌握できなくなっているのではないか、という不安をも抱かされたのだった。

 だが幸いにも「第5交響曲」にいたって、そういう不安は払拭された。細部の仕上げや全管弦楽の響きのバランスなどに関しては、このコンビがかつてつくり出していた鉄壁の構築こそ失われていたが、今世紀に入ってから顕著となっていた彼らの独特の音色━━輝かしさと陰翳とを同時に響かせるというあの大わざは、嬉しくも健在だった。そして、テンポやニュアンスの精妙な変化など、フェドセーエフの統率力も、見事に健在だったのである。

 厚みと煌めきのある弦を中心に、管楽器群をその彼方からエコーのように響かせるという音のバランスで演奏された第2楽章の美しさと来たら、これまで何十回、何百回と聴いて来たこの曲の演奏の中でも、一、二を争うものだったかもしれない。
 かつてこのコンビは、逞しい力感と豊かな均衡を備えたサウンドで、モスクワのオーケストラの中でも一頭地を抜く存在だったものだが、今ではその力を抜いて、自由な余裕感を愉しむ境地に達しているのかもしれない。

 オーケストラの音色自体は、昔より美しいほどだ。ただし欲を言えば、それでいながら内声部があまりに混然として響くのは、いくらこのコンビのユニークなサウンドづくりの一環といえども、いかがなものか、ということ━━これはまたホールによって、聴く客席の位置によって印象が違って来るから、迂闊に判断はできないことなのだが。

 その問題は、アンコールでの演奏に関して、いっそう大きくなるだろう。2倍のテンポに引き延ばされた不思議な演奏の「パノラマ」(「眠りの森の美女」)はとりあえず別として、「雪娘」からの「道化師の踊り」、「ガイーヌ」からの「レズギンカ」(これだけがハチャトゥリヤン)、「白鳥の湖」からの「スペインの踊り」は、2階正面席で聴く限り、ほとんど音響的カオスともいうべき、轟然、騒然、混然たる演奏だったのである。
 曲中に現われる主題は、知っているから何となく聞こえるものの、ほとんどは打楽器の大音響に打ち消されていただろう。こんな演奏は、このコンビからは、かつて聴いたことはなかった。

 やはり、もはや、かつてのフェドセーエフではない。━━とはいえ、それらの演奏が、放縦なように見えて、どうやらある種の計算づくで行われているのではないか・・・・と思われるフシも、ないことはないのだが。

 それにしても、この最後の3曲で、このオケの名物打楽器奏者━━「二刀流タンバリンおじさん」の大活躍がまたも見られたのは、嬉しいことだった。「道化師の踊り」が始まった時に、「しめた」と思ったのは、私だけではなかろう。一つのタンバリンを膝で叩き、二つのタンバリンを頭上高く翻す、あんな派手な格好で演奏する打楽器奏者は、他のオケではちょっと見られまい(以前とは少しジェスチュアが違うようだったが・・・・別の人ということはないだろう)。「レズギンカ」では、華やかにスネア・ドラムもたたいていた。

 ガシャンガシャンした演奏だったが、とにかく賑やかなアンコールの演奏に、最後は客席も総立ちになった。フェドセーエフはソロ・カーテンコールに3回も呼び出され、そのうちの1回は「二刀流氏」も一緒に出て来て、聴衆を沸かせた。フェドセーエフはステージ前に詰めかけた客たちと握手したりして、ツアーの最終日を締め括った。
     別稿 モーストリー・クラシック8月号 公演Review

2015・5・31(日)芥川也寸志・生誕90年メモリアルコンサート

    きゅりあん大ホール  2時

 品川区立総合区民会館「きゅりあん」の8階にある大ホールは、いわゆる市民会館とか県民会館とかによくあるスタイルのホール。客席は比較的大きいが、ステージはそれに比して狭い方だ。だが音響は、予想外にいい。残響はあまりないけれども、音は豊かに響く。

 ここで開催されたのは、「芥川也寸志 生誕90年」を記念するコンサートだ。
 西耕一の企画とコーディネイトと司会で、今回は芥川の映画・TV音楽を中心とするプログラムである。「赤穂浪士」「八つ墓村」「八甲田山」「鬼畜」などの組曲が取り上げられた他、1950年前後のNHKラジオ番組のテーマ曲、「祝典組曲第3番」、「KAPPA」組曲、「小管弦楽のための組曲」なども演奏された。

 徳永洋明と清道洋一による復元・編曲・構成の手は入っているけれど、音楽は紛れもなく、あの芥川ぶしに満たされたものである。シリアスな作品群と違い、なかなかナマでは聴けない曲ばかりで、これは実に貴重な機会であった。松井慶太が指揮するオーケストラ・トリプティーク(コンサートマスター 三宅政宏)が素晴らしく立派な演奏をしてくれたので、聴き応えのあるメモリアルコンサートとなった。

 4時半終演。次の会場、今度はサントリーホールに向かう。大井町から京浜東北線で新橋へ、地下鉄銀座線に乗り換えて溜池山王へ━━。

2015・5・31(日)モーツァルト・マチネ ウルバンスキ指揮東京響

    ミューザ川崎シンフォニーホール  午前11時

 今日のスケジュールからすると少々きつかったのだが、クシシュトフ・ウルバンスキが指揮するモーツァルトは如何なるものなりや、という興味もあって、聴きに行ってみた。

 彼は「クラリネット協奏曲」と「交響曲第40番」を指揮したのだが、その演奏の端整さに驚く。
 あたかも、敬愛する大作曲家の前に膝まづき、まるで初めてこの作品群を手がけるような敬虔な態度で、一音たりとも疎かにせず、自身の恣意的な解釈は一切控え、全ての音符に注意を払い、丁寧に完璧に仕上げて行こうとする指揮だな━━と、正直、聴きながらずっとそう思っていた(あとで事務局から、ちょっと意外な話を聞いたのだが、ここで明らかにしていいかどうか判断がつかないので、とりあえず省く)。

 だが、こういう率直な演奏は、悪くない。ウルバンスキは、前者では、エマニュエル・ヌヴー(東京響首席クラリネット)のソロを柔らかい音で几帳面にサポート、この曲の透明感に満ちた彼岸的な美しさを率直に再現していた。一方、後者ではノン・ヴィブラート弦の明晰な音色を中心に、かっちりとした音楽をつくり上げていた。

 もっとも、グレブ・ニキティンをコンサートマスターとする今日の東京響ならば、こういった演奏の大部分は、自分でつくれるだろう。いや、本当に、自らつくっていたのかもしれない。
 いずれにせよ、いかに俊英といえども、ウルバンスキのモーツァルトについてあれこれ判断を試みるのは、今日の演奏からだけでは、ちょっと無理だ。

 なお「40番」は、反復個所をすべて忠実に守ったので━━つまり第2楽章だけでなく、第4楽章の「展開部以降」の反復も忠実に行なった━━演奏時間は40分近くに延びた。
 全曲が終ったはずのところで、演奏が再び展開部冒頭に戻った瞬間に、隣の人がチラリと腕時計を見た。「ここも繰り返すのか、こりゃ長くなるぞ」と思ったのだろう。曲を知悉しておられますな。気持は解ります。私は、この曲はモーツァルトの交響曲の中で最も好きな作品だから、「第4楽章を2回聴く」結果になっても、苦にはならないけれど。

 12時半、川崎駅から京浜東北線に乗り、3つ目の大井町駅で降りる。駅に近接して「きゅりあん大ホール」がある。

2015・5・30(土)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

    横浜みなとみらいホール  2時

 ユーリ・テミルカーノフ、久しぶりの客演。リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」と「ダフニスとクロエ」第2組曲、アンコールにはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」からの「パ・ド・ドゥ」が演奏された。
 協奏曲でのソリストは河村尚子、コンサートマスターは日下紗矢子。

 テミルカーノフは、年齢を重ねるにつれ、だんだんテンポが遅くなり、響きには重厚さと壮大さと壮麗さがいっそう増しているように思われる。「シェエラザード」の冒頭は、極度に重々しいテンポで、暗く開始された。それはまるでシャリアール王が、威圧的な暴君としてでなく、疲れて陰鬱な、疑い深い王として姿を現したかのごとくに聞こえる。だがもちろん、作品全体としては、充分に華麗で劇的な表現だ。

 何より、コンマスの日下紗矢子の表情豊かなソロが素晴らしい。シェエラザード姫の意志の強い、雄弁な説得力を表現するような語り口なのである。これは、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団第1コンサートマスターをも兼任する彼女の本領が発揮された演奏と言えるだろう。

 続く「左手のための協奏曲」は、これは当然、河村尚子のスケールの大きな、風格と色彩の変化に富んだ演奏が聞きものだった。何故かこの曲では、テミルカーノフも読響も、演奏の密度という点で、若干物足りないものがあったのである。
 しかし、そのあとの「ダフニス」の演奏は、指揮者とオケの相性の良さが最良の形で表出された例の一つではなかろうか。そしてもちろん、チャイコフスキーは、さすがの味だ。この2つの作品では、読響の強靭な実力がものを言った。

 テミルカーノフ、今回の客演では、マーラーの「3番」やショスタコーヴィチの「10番」を指揮することになっている。期待できそう。

2015・5・29(金)トーマス・ダウスゴー指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 前日オペラシティでサーリアホのオペラが日本初演されたのに続いて、今日は都響がサーリアホの「クラリネット協奏曲」を日本初演。しかも、彼女のプレトークをも織り込んだ。見事な連携プレイというべきか。
 後半には、ニールセンの「交響曲第3番《拡がりの交響曲》」が演奏された。指揮はトーマス・ダウスゴー、コンサートマスターは山本友重。

 サーリアホの「クラリネット協奏曲」は、解説によれば、中世フランスのタペストリー(壁掛け)に描かれている、6点からなる連作「貴婦人と一角獣」にインスピレーションを受けて作曲されたとのこと。
 詳細は省くが、もちろんその絵の中にさまざまな寓意が含まれていることは周知の通り。もっとも、サーリアホ自身はプレトークで、「何か特別なものを描写しようと思って作曲したのではない」と語っていた。

 全曲は切れ目なく演奏される6つの部分から成り、演奏時間も35分以上に及ぶ長大なコンチェルトである。ソロ・クラリネット(カリ・クリーク)は客席の何処とも判らぬ暗闇の中で、あるいは客席やステージのあちこちを彷徨いつつ、時にはオケの楽員に向かって語りかけるように吹く。スポット照明により壁に浮き上がる彼のシルエット(ダンスのような身振りも含む)さえも、一つの演出効果になる。

 そのクラリネット・ソロも、ありとあらゆる音色を駆使し、時にはリードミスのごとき物凄い音響をも発するという超絶技巧的奏法だ。第1部でのソロなど、それが一角獣の鳴き声を模していたと解釈されても不思議はなかろう(サーリアホは、「一角獣の鳴き声はどんな音だったのだろうということも考えた」と語っていた)。

 そのシャープで刺激的な奏法と音色は、オーケストラの叙情的で色彩的な、柔らかく神秘的な音色と激しい対照を為す。それはあたかも、一角獣と貴婦人との対比、動物たちとそれらを支える静的なタペストリーの対比、あるいは━━これが最も適切ではないかと思われるが━━「感性と理性との対立もしくは調和」を象徴しているかのようである。

 そしてオーケストラの楽員もまた、時に起立してソロ・クラリネット奏者の方を向いて応えるように演奏したりする。最後はヴァイオリン奏者たちが演奏しながら暗い客席の中へ散って行く、という演出も採られていた。
 カリ・クリークの見事な演奏もさることながら、ダウスゴーの明晰な指揮、都響の緻密な演奏も素晴らしい。

 後半のニールセンの「3番」では、そのダウスゴー(暗譜で指揮していた)の明晰怜悧な音楽づくりと、都響のブリリアントで精妙な演奏が、さらに最高度に生きた快演となった。都響はまさに絶好調の水準にある(これがいつまでも続くように願わずにはいられない)。
 エピソードのように挟まれる声楽ソロは、半田美和子(ソプラノ)と加耒徹(バリトン)。P席最後方、オルガンの下に位置して歌い、遥か彼方からエコーのように聞こえて来る人間の声━━といった雰囲気を出していた。

 ニールセン・ファンも多かったのだろうが、聴衆は沸きに沸いた。ちょっと尖ったプログラムながら、これだけの客の入りを見せるというのは、最近の都響への評価が高まっているためだろう。

2015・5・28(木)サーリアホ:「遥かなる愛」演奏会形式日本初演

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 フィンランドの現代作曲家カイヤ・サーリアホのオペラ「遥かなる愛」の日本初演。

 演奏会形式ではあるものの、正面オルガン前に大きなスクリーンが設置され、歌手の顔や波や雲などをコラージュした映像演出(ジャン=バティスト・バリエール)が付加されていた。3人のソロ歌手━━与那城敬(詩人、ブライユの領主ジョフレ・リュデル)、林正子(トリポリの女伯クレマンス)、池田香織(巡礼)は舞台前面に、合唱(東京混声合唱団)はオルガン下の席に位置。エルネスト・マルティネス=イスキエルド指揮の東京交響楽団が演奏する。
 1階客席には音声と映像の調整卓が置かれ、スピーカーが1階席と3階席に多数、2階席にも1対配置されていた(3階席には客を入れていない)。

 これらのスピーカーの乱立(?)を開演前に見た時は、まさかあの「マッチ売りの少女」みたいなことをやるのではなかろうな、「遥かなる愛」の曲想からしてそんな騒々しい手法は必要ないはずだが・・・・と不安になったが、さすがにそんなことは行われなかった。たしかにPAは一部で使われていたものの、あまりおしつけがましいものではなかった。
 このホールはもともとよく音が響くため、打楽器などにPAが使われると、むしろ音響が混濁してしまう。今回程度の使用なら、まあ悪くはないかなと・・・・だが、無くても構わなかったかな、という感じである。

 東京交響楽団(コンマスはグレブ・ニキーティン)が、いい演奏をしてくれた。耳慣れぬ名のこの指揮者(左手に指揮棒を持つ)も初めて聴いたが、作品の叙情性と、稀に挿入される劇的な昂揚とを、適切に再現してくれた。おかげで、このサーリアホの幻想的な音楽を、あますところなく堪能できた次第である。昔、ザルツブルクで聴いた時と同じように、ハープの柔らかい音色がこの上なく美しく感じられる。

 声楽ソロを彼方からエコーのように包む合唱の澄んだ響きもすばらしく、この手法などはいかにも北欧の作曲家だなと思わせる作風だが、今日は東混がこれを実に巧く響かせていた。
 歌手3人も━━フランス語の発音はともかくとして━━音楽的には好演である。愛と憧憬の感情を情熱的に歌った与那城と林も良かったが、その間に立って、深みと落ち着きと力のある歌唱を聴かせた池田も素晴らしい。
 一方、映像は・・・・2時間半の上演(休憩20分を含む)を「もたせる」には役立っていたかもしれない(まあ、その程度のものか)。 
 ━━しかしとにかく、今回のオペラシティの上演、演奏会形式ながら充実したものだった。

 話は15年前に遡る。この「遥かなる愛」が、舞台上演として世界初演されたのは、2000年8月15日、ザルツブルク音楽祭のフェルゼンライトシューレでのことだった。私は幸いにも、その場に居合わせた。ケント・ナガノが指揮、ピーター・セラーズが演出、ドウェイン・クロフト、ドーン・アプショウらの主演、ゲオルギー・ツィーピンの舞台美術による上演である。

 その舞台では、詩人ジョフレ・リュデルの住むフランスの館は下手側に、トリポリの女伯クレマンスの館は上手側に、それぞれ透明な円柱の建物で設置されていた。前者ではジョフレがエレベーターで上下、後者ではクレマンスが螺旋階段を歩いて上下する。
 その間の「海」には、実際に水がなみなみとたたえられ、巡礼とジョフレを乗せた舟がトリポリ目指して進んで行く。詩人が死んだ後、巡礼はうなだれてまた舟に乗り、その舟は暗闇の中へ消えて行く・・・・といった舞台だ。

 アプショウはタラップを駆け上がったり駆け下りたり、最後は水中に倒れてずぶ濡れになるという大奮闘だったが、その濡れた姿のままカーテンコールに出て来るというプロ根性で、観ているこちらは、風邪でもひきはしないかと、ハラハラしたものである。
 カーテンコールでは、サーリアホは控えめに拍手に応えていた(15年後の今夜もそうだったが)。だがセラーズがひとりではしゃぎまくり、本来は指揮者ケントがやるべき指示である合唱やオケへの起立のサインを勝手に出したり、観客に拍手を送ってその反応を讃えたりと、ちょっと出すぎるよキミ、と言いたくなるような光景だったが・・・・。
 あの時は、5幕全曲2時間10分、休みなしの上演で、さすがに少々疲れたのを覚えている。

 思えば、あの2000年のザルツブルク音楽祭で、そのほかに観たオペラは、「トーリドのイフィジェニー」(ボルトン指揮/グート演出)、「トロイ人たち」(カンブルラン/ヴェルニケ)、「コジ・ファン・トゥッテ」(ツァグロゼク/ノイエンフェルス)、「ドン・ジョヴァンニ」(ゲルギエフ/ロンコーニ)、「トリスタンとイゾルデ」(マゼール/グリューバー)などで━━それはジェラール・モルティエがプロデューサーとして采配を振るっていた時代だった。
 刺激的なプログラムが並び、選曲も、上演スケジュールも、巧く組み合わせて出来ていたものだ。今とは格段の差である。

2015・5・27(水)OMURA室内合奏団東京公演

    紀尾井ホール  7時

 「長崎県初のプロオーケストラ」と銘打ち、大村市の「シーハットおおむら」に本拠を置く「OMURA室内合奏団」が東京に乗り込んで来た。

 プログラムには何故かオーケストラの沿革などプロフィールが記載されていないので、演奏会予告チラシの裏面を見るしかないが、2003年に「お披露目コンサートを開き」、04年に(正式に)「結成」されたとある。
 今日モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番」を弾いた迫昭嘉のところに、チラシには「初代音楽監督」と記されているが、いつからいつまで務めたのか? それもプログラムには記載されていない。初めて東京に打って出たオケとしては、少々手際が悪かろう。

 ともあれ、現在の芸術監督・村嶋寿深子(以前カザルスホールの制作スタッフだったあの人)が、03年に大村市体育文化センター館長に就任した際に、設立にとりかかったとのことである。コンサートマスターは、09年よりアーティスティック・アドヴァイザーを務める松原勝也。楽員数は、チラシによれば32人。ただし今夜の公演では、ヴィオラに柳瀬省太、ホルンに日高剛といった人々の他、チェロ、コントラバス、ティンパニに各1人の客員奏者が入っていた。

 プログラムは、前出のコンチェルトを挟んで、エルガーの「弦楽のためのセレナード」とベートーヴェンの「交響曲第7番」が組まれていた。
 一聴させていただいたところ、この合奏団は、弦楽セクションが━━松原勝也がリーダーを務めるだけあって━━充実しており、1曲目に弦楽セレナードを選んだことは、その意味では賢明であった。ただし、ベートーヴェンで露呈した管の不備━━特にオーボエとトランペットには強化が必須である。もっとも、ホルン・セクションは、今夜はすこぶる強力であった。

 大村市の音楽的環境がいかなるものか、同市を訪れたことのない私は全く承知していないが、その中で結成僅か10年強の室内オケがここまでの演奏水準に達していることは、ある意味では驚異的であろうかと思う。
 この演奏に、ただ「合わせる」だけでなく、感興の変化、微細なニュアンスの多彩な表現、もっと大きな起伏とテンポの流動性などが付加される日を待ちたい。「7番」の第1楽章提示部で、反復された部分の方が演奏に伸び伸びした雰囲気が加わっていたところからすると、やはり最初は緊張があったのかもしれない。

 客席はほぼ満員だったが、ロビーの雰囲気には、何となく長崎県人会のようなもの(それと、旧カザルスホールの同窓会も、だが)が感じられなくもなかった・・・・。

2015・5・25(月)METライブビューイング
     「カヴァレリア・ルスティカーナ」「道化師」

   東劇  7時

 4月25日MET上演の、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」とレオンカヴァッロの「道化師」2本立て。ファビオ・ルイージの指揮、デイヴィッド・マクヴィカーの新演出。
 これは今シーズンの「METライブビューイング」シリーズの最終演目でもあった。

 今回の2本立ての呼び物は、人気テナーのマルセロ・アルバレスが両者の主役を務めていたことだろう。
 「カヴァレリア・ルスティカーナ」のトゥリッドゥ役では、いつもの彼のイメージとやや違い、神経質で怒りっぽい、暗い感じの青年を見事に表現していたのが興味深い。また「道化師」では、人の良い、少し気の弱い夫という雰囲気の座長カニオという表現で、哀感を滲ませていた。まことに巧い演じ分けである。
 歌唱の点では、「カヴァレリア」の方がぴたりと嵌っていたかもしれないが、「道化師」の方も、その役柄表現の範囲内では見事なものだったと思う。

 その他の歌手たちでは、「カヴァレリア」でのサントゥッツァを歌い演じたエヴァ=マリア・ウェストブロックが、やはりずば抜けた存在感である。彼女のヴェリズモ・オペラは、私は実は初めて観たのだが、ジークリンデほどのはまり役とは言えないまでも、悩める女性を重々しく歌い演じて、巧いものだった。

 馬車屋アルフィオは、METのシーズンブックや日本版解説書の配役表ではジェリコ・ルジッチとなっていたので、これはオールスターキャスト上演だと思って楽しみにしていたのだが、ジョージ・ギャグニッザに変更になっていた。ま、それなりに演じ、歌ってくれてはいた。
 一方「道化師」の方では、パトリシア・ラセットがネッダで大熱演。トニオ役は、これはギャグニッザが歌うことが当初から発表されていて━━つまり前口上も彼が歌ったわけだが、どうも少し大味なのが気になる。本来この前口上は、情感をたっぷりこめて劇的に歌われれば、人生の悲哀を物語る感動的な歌になるはずなのだが・・・・。

 マクヴィカーの演出は、ヴェリズモ・オペラでの舞台としては珍しく、2作ともに回り舞台を効果的に使っていたのが面白い(初めはカメラが移動しているのかと思った)。特に「カヴァレリア」では、その舞台回転により、登場人物それぞれの悲哀を、変化を持たせながら浮き彫りにして行くという手法が効果を発揮していたのである。

2015・5・24(日)ヘンデル「ジューリオ・チェーザレ」

   新国立劇場中劇場  2時

 東京二期会の「二期会ニューウェーブ・オペラ劇場」、ヘンデルの「ジューリオ・チェーザレ」(エジプトのジュリアス・シーザー)の本番2日目。
 こちらの組の配役は、チェーザレを成田伊美、クレオパトラを高橋維、セストを田川聡美、コルネリアを土屋優子、トロメーオを小林紗季子、アキッラを加耒徹、クーリオを白岩洵、ニレーノを濱野奈津美。演奏は鈴木秀美指揮ニューウェーブ・バロック・オーケストラ・トウキョウ、二期会合唱団。演出は菅尾友。装置を二村周作、照明を原田保、衣装を十川ヒロコ。

 二期会ニューウェーブの「ジューリオ・チェーザレ」は、10年ぶりの新制作である。前作(北とぴあで上演)は鈴木雅明指揮、平尾力哉演出による、比較的ストレートな舞台だったことを記憶しているが、今回の菅尾演出では、コミック(漫画)スタイルの舞台というか、バービー人形のような衣装も登場して、華やかで賑やかな、少々けたたましい舞台が創られていた。これはこれで一つの方法だろう。

 舞台装置を頻繁に回転させて場面を目まぐるしく変化させ、登場人物を休みなく移動させる手法もよく行われるテだが、この━━オペラ・ファンにはともかく、一般にはなじみの薄いバロック・オペラを愉しく見せるには絶好のものだろう。殺人場面をすべて主人公たちの「空想」の中に織り込んで描いているのも悪くない。
 冒頭、ベルばらの騎士か何かのような人形の格好をしたシーザーが抱えられて登場した時には、単なるお笑い的なアイディアかと思ったが、活躍した主要登場人物全員がラストシーンで「人形」に戻って片付けられて行く場面を観た時には、なるほどこのドラマをこういう風に解釈したのかと納得させられた。

 概して未整理で、若干ガタピシしていて、演技もどことなく素人芝居くさい舞台だったのは難点だが━━「壁ドン」も2回ほど出て来たけれども、あまり効果的な演技ではなかったようだ━━こういう所謂「若い」舞台のオペラ上演を創る試みそれ自体は、決して悪くはない。そもそも日本のオペラ界には、格式だとか様式だとかを重んじる風潮が強すぎて、こういう自由な試みによる上演が、少なすぎるのである。

 このプロダクションだって、どうせお固い批評家先生方やガチガチの愛好家からは文句を言われるだろうが、構うことはない。それより、ふだんオペラを観たことがない若者層にどうアピールできたかどうかの方が先決だ。高品質の浅草オペラのようなジャンルがあれば、日本のオペラももっと層が拡がるのではなかろうか。

 ただし、水準はあくまで高いものでなくてはいけない。みんな一所懸命やっていたことは判るけれども、前述のような演技の生硬さは、やはり困る。それに何より、歌唱のレベルがもっと上がることが求められよう。主役の女声歌手はおしなべて、ソット・ヴォーチェになると、声がよく聞き取れないのである。どちらかといえば脇役の男声歌手陣の方が勢いも良かったようだ。

 オーケストラにも、もっと量感のある音が欲しいところだったが、これは比較的前方の席で聴いていたせいか? 先日のGPの時には1階最後部の高所の席に座っていたためか、もう少しよく聞こえていたように思う。だがいずれにせよ、ガサガサした音でなく、もっと密度の濃い響きが聞きたいところであった。

1左

※前方左より トロメーオ(小林紗季子)クレオパトラ(高橋維) 


2中
※中央チェーザレ(成田伊美)
          
※写真提供 公益財団法人東京二期会  撮影 三枝近志


 3幕構成で、15~20分の休憩2回を含め、終演は6時近く。客の入りはすこぶる良く、なかなかの盛況だった。歌手陣は若手ばかりなので、その知り合いのお客さんも多いように見える。

2015・5・23(土)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 一昨年4月から首席客演指揮者を務めているクシシュトフ・ウルバンスキが、昨年10月に続き登場。今日はルトスワフスキの「交響曲第4番」、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」(ソロはタチヤナ・ヴァシリエヴァ)、スメタナの「わが祖国」から「高い城」「ヴルタヴァ(モルダウ)」、「シャールカ」を指揮した。

 ウルバンスキは東響との演奏でこれまでにもルトスワフスキの作品を盛んに取り上げているが、今日も圧巻は、その「第4交響曲」だった。あたかも霧の中か深海の底を彷徨うような神秘的な響きを持った冒頭から、早くもこの作品と演奏の素晴らしさに魅了されてしまう。演奏時間19分ほど、多数の打楽器とピアノを交えた、多彩な音色の変化が魅惑的だ。
 プログラムの1曲目にこういう作品を持って来たところが、ウルバンスキの演奏会らしくて面白い━━たしか前回も、キラルの作品を最初に置いていたのではなかったか?

 2曲目は、ヴァシリエヴァの弾くドヴォルジャークの協奏曲。彼女の温かく恰幅のいい、実に深みのあるソロに、これまた魅惑されてしまう。ウルバンスキは何となく殊勝に合わせていた感じだったが、全曲最後のオーケストラだけの個所で突然巻き返しに出て、おそろしくスケールの大きな終結へ持って行ったのが微笑ましい。

 「わが祖国」からは、最初の3曲だけ演奏したところがミソ。いかにも「後半3曲はいずれ・・・・」と言わんばかりのプログラミングだが、しかし、これはなかなか個性的な演奏だった。
 比較的遅めのテンポで、念入りに音を組み立てる。普段はあまり聞こえないような内声部までくっきりと浮かび上がって来るにもかかわらず、全体の音色にはちょっと翳りのようなものがある。このあたり、東京響の演奏も芸が細かかった(コンサートマスター 大谷康子)。

 そして、リズムがいい。「モルダウ」での、舞曲が次第に遠ざかって行く個所でのリズム感とアクセントは面白かったし、「シャールカ」での軍団が酔い潰れて行く場面でのリズムも小気味よかった━━ここでは「鼾」が異様に強調されていた。
 ともあれ、こういう凝った演奏は、もう一度やると、もっと完璧になり、更に個性的な味が出るという類のものだろう。

 ポーランド生まれの33歳、ウルバンスキ。端倪すべからざる才能の持主である。

2015・5・22(金)渡辺玲子&ルケシーニ デュオ・リサイタル

    サントリーホール ブルーローズ(小ホール) 7時

 渡辺玲子とアンドレア・ルケシーニが協演。ベートーヴェンとシューベルトの作品で2夜連続のコンサートを開いている。
 今日は2日目で、前半にベートーヴェンの「ソナタ第10番」、シューベルトの「即興曲 作品90の3」(ピアノ・ソロ)と「華麗なるロンド」、後半にベートーヴェンの「ソナタ第8番」「同第9番《クロイツェル》」という、重量感のある長大なプログラムだった。

 渡辺玲子の明晰で鋭角的な音色の演奏には緊張を強いられるものがあるが、それを包み込むようなルケシーニの雄弁な表情のピアノと相まって、シューベルトの「ロンド」では素晴らしい昂揚感がつくり出されていた。ここに現われたシューベルトの音楽は、あの大ベートーヴェンにもひけをとらぬほどの毅然たる力強さ、気魄に満ちた情熱━━だったのである。

 もちろん、ベートーヴェンのソナタ集でもその力は発揮されていた。最初の「第10番」では、ルケシーニの流れるようなピアノに、やや生硬な渡辺のヴァイオリンが乗りにくいような感があり、音楽の密度に隙間が多いように思えたが、休憩後の2曲ではまず充分だっただろう。もっとも、「クロイツェル・ソナタ」の第3楽章の最後が何となく妙にあっさりと終ってしまったのには━━「決め」が少々軽かったか━━ちょっと肩透かしを食らわされた気分だったが。

 この小ホールで聴くピアノの音は、これまであまり良いと思ったことはなかったのだが、ルケシーニは、予想外に美しい音で楽器を響かせてくれた。鳴らし方を巧く心得ているのかもしれない。休憩後、「第8番」に入った時の彼の、自信満々、何かを語りはじめたようなピアノには、思わず居ずまいを正したくなるような気持にさせられたほどであった。

 唯一、私が反発したくなったのは、ルケシーニがソロで弾いた「即興曲」だ。アンダンテのテンポをアダージェットに落とし、また1小節ごとに最後の部分にリタルダンドを施すような弾き方(最近のピアニストたちがよくやるテだ)は、これも気にしだすと、我慢がならなくなる。好みの問題だが。

2015・5・21(木)バッティストーニ指揮東京フィル イタリア・プロ

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 「トゥーランドット」で聴衆を熱狂させた首席客演指揮者アンドレア・バッティストーニが、今度はロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニ、レスピーギというイタリアの大作曲家の系譜によるプログラムを指揮した。

 今日も彼は、オーケストラをよく鳴らす。東京フィル(コンサートマスター 依田真宣)も、実に小気味よく鳴り渡った。大きな音を出すからいいと言っているわけではない。が、こういうブリリアントで開放的なオーケストラ・サウンドは、南国イタリアの音楽が持つ生命感を余すところなく再現するだろう。そういうサウンドは、これまで日本のオーケストラからは、なかなか聴かれなかったものなのである。そしてバッティストーニは、東京フィルを、存分に鳴らしながらも、極めて引き締まった、均衡を保った音で響かせたのだった。

 1曲目は、ロッシーニの「コリントの包囲」序曲。ナマでは滅多に聴けぬ曲だ。ロッシーニの作品としては珍しく、どっしりとした重厚な響きが魅力的だが、これをコーダまで巧く劇的に盛り上げるのは、どんな指揮者にとっても至難の業らしい。かつてのトスカニーニ=NBCのような、巨大な山脈の起伏のような演奏は、なかなか聴けないものである。

 2曲目にはヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」からの舞曲が演奏された。これも極めてバランスのいい響きの演奏で、特に後半での弾むような躍動的な迫力は見事というほかはない。曲としては至極つまらないものだが、演奏は鮮やかだった。

 休憩後、プッチーニの作品から「交響的前奏曲」。トランペット群の輝かしい音色が映える一方、バッティストーニのイタリア人らしいカンタービレも発揮されたコーダの美しさが強い印象を残す。
 最後は、レスピーギの組曲「シバの女王ベルキス」。吹奏楽の方面ではともかく、オーケストラの演奏会ではほとんど取り上げられないレパートリーだろう。これまた大スペクタクルな音の饗宴で、聴衆を湧かせるには充分の演奏であった。これを聴くと、レスピーギがいかに1940~50年代のハリウッドの史劇映画音楽に大きな影響を与えた作曲家であるかということが判る。

 東京フィルは、いい指揮者を見つけたものだ。

2015・5・21(木)「ジューリオ・チェーザレ」GP

   新国立劇場中劇場  4時

 池袋から、新宿は初台に移動。
 23日と24日の本番を控えた東京二期会によるヘンデルのオペラ「ジューリオ・チェーザレ」(エジプトのジュリアス・シーザー)のゲネプロを観る。今日は23日の出演組で、杉山由紀(シーザー)、田崎美香(クレオパトラ)、今野絵理香(セスト)、池端歩(コルネリア)、福間章子(トロメーオ)、勝村大城(アキッラ)ほかの配役。鈴木秀美指揮ニューウェーブ・バロック・オーケストラ・トウキョウ、二期会合唱団。演出は菅尾友。

 時間の都合で、第1幕(約75分)と、第2幕の最初までを観る。
 ネタバレになるといけないから、詳細は省く。舞台装置や衣装は特に現代的なものではないものの、回転舞台を活用し、舞台に変化を持たせている。登場人物たちは、実によく動く。通常のオペラ、バロック・オペラとは趣を異にし、小規模な演劇を観に行ったような印象を得るかもしれない。逆に言えば、バロック・オペラだからこそ、こういう手法が使えるのであろう。

 いずれにせよ、若手の演出家や歌手たちが、日本のオペラ界をひっかき回して既存の定型をぶち壊し、新しい道を模索することには、大いに声援を送りたい。なお、この上演を観るには、予めストーリーと、人物関係をよく頭に入れておいた方がよさそうだ。

 次は隣の東京オペラシティに移動。近いので、便利だ。

2015・5・21(木)ランチタイム・パイプオルガンコンサート

    東京芸術劇場コンサートホール  午後0時15分

 東京芸術劇場定例の「ランチタイム・パイプオルガンコンサート」を初めて聴く。2カ月に1回の割で開催されている30分の自由席コンサートで、入場料は500円。
 今日は第112回、吉村怜子の演奏で、ニコラウス・ブルーンスの「プレリューディウム ト長調」、ブクステフーデの「安らぎと喜びもて我は今逝く」、バッハの同名曲「BWV616」と「トッカータとフーガ ドリア調BWV538」というプログラム。実に快い時間である。

 30分の長さの演奏会では、いくらチケット代が500円と雖も、そのためだけに遠くからわざわざ聴きに来るという人は必ずしも多くなかろうが、固定ファンはかなりいるらしく、思いのほか多くのお客さんが入っているのは喜ばしいことだった。買い物ついでに寄って耳をかたむけるという習慣でも生まれれば、もっとお客も増えるだろうが、それには開催の回数とか、PRの仕方に工夫を凝らさなくてはなるまい。

 なお、噂に聞く3台のオルガンと2面のケースを回して見せるデモンストレーションも見られるのかと思ったが、ランチタイムの部ではやっていない由。また今日は、演奏者のリハーサル・スケジュールの都合のため、レジストレーションの紹介(音のレシピ)は省略(と、プログラムに断り書きがあった)。

 ちなみに今日使用されたのは、この劇場に内蔵する3種のオルガンのうち、バロックタイプのもの(A=415)だった。試みに1階席真ん中下手側で聴いてみたが、このオルガンの場合には音が明晰で、オーケストラをこの位置で聴いた時のような長い残響は伴わない。

2015・5・19(火)アリス=紗良・オット ピアノ・リサイタル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 妖精のような雰囲気を漂わせる、清楚で美しい容姿のアリス=紗良・オットは、近年の成長著しい人で、日本でも非常に高い人気を誇るピアニストである。
 今回の日本ツアーは、5月11日から25日まで、北は仙台から南は霧島まで計11回のリサイタル。ベートーヴェンのソナタ「テンペスト」、バッハの「幻想曲とフーガ イ短調BWV944」とブゾーニ編の「シャコンヌ」、リストの「愛の夢」第2,3番および「パガニーニ大練習曲」から第1、2、6、4、5、3番。━━プログラムはこの1種類のようだ。

 一部のピアニストがよくやるような、妙に小細工を利かせたり、自分勝手に沈潜しきってみせたりするのとは正反対の、極めて率直な演奏を聴かせてくれるのが好ましい。今回のリサイタルでも、特にバッハとリストの作品では、極めてスケールの大きな演奏を聴かせてくれた。

 私がちょっと戸惑ったのは、「テンペスト」での演奏。美しいが、多分この作品に込められているはずのデモーニッシュな要素がほとんど浮き彫りにされず、その代わりにあたかも妖精の世界のような軽やかさをたたえた幻想的な世界がつくられていたのだ━━もっともこれは私がそう勝手に感じただけかもしれない。

 だが、こういう考え方もあるだろう。ベートーヴェンがこのソナタの内容を人から訊かれて「シェイクスピアの《テンペスト》を読め」と答えたその言葉がかりに本意だとして、その中にはあの作品の妖精的な幻想の世界という意味も含まれていた場合、アリス=紗良が、もしそちらの方のイメージを強く浮き彫りにしてみせたのだとしたら?

 アンコールには、彼女はショパンの「雨だれ」の前奏曲と、グリーグの「小さな妖精 作品71の3」を演奏した。この最後の曲は、なんだか象徴的である━━これも私が勝手に描いたイメージに過ぎないが。

2015・5・18(月)バッティストーニ指揮東京フィル「トゥーランドット」

    サントリーホール  7時

 2日続けて2種類の演奏会形式による「トゥーランドット」上演を聴くという珍しいケースに巡り合ったが、私はプッチーニのオペラの中ではこの曲が一番好きなので、大いに楽しんだ(他のは、嫌いではないものの苦手だ━━特に「ラ・ボエーム」)。

 これは東京フィルハーモニー交響楽団の定期公演で、首席客演指揮者アンドレア・バッティストーニが指揮した。彼は日本の聴衆にお目見えしてからまだそれほど年月は経っていないが、歯切れの良い情熱的な指揮で、すっかりファンの心を捉えてしまっている。

 昨日の宮崎でのそれと同様、熱狂的な演奏の「トゥーランドット」だが、こちらは更に鋭く、激烈で、息もつかせぬほどのダイナミックな力を噴出させた演奏である。たたきつけるフォルティシモはホールを揺るがせんばかり。快速テンポの裡に、切れの鋭いリズムでアッチェルランドを加え、追い込み、盛り上げる。「トゥーランドット」はこんなに激しいオペラだったか?と、呆気にとられるような演奏でもあった。
 打楽器の音量も物凄いが、それはエキゾティズムを強調するがゆえでなく、音楽のダイナミズムをこれでもかと強調するためのものであったことは明らかである。

 バッティストーニは、総じて歌手の声も打ち消すほどの大音量でオーケストラをドライヴしていたが、これは管弦楽が単なる歌の伴奏者に留まるのではなく、それ自体がドラマを物語る性格のものであると認識しての指揮であろう。このオペラでは、それは正しい。
 もちろん、3人の廷臣たちが故郷を想って慨嘆しあう場面とか、リューの歌、あるいはトゥーランドットが愛に目覚める場面など、叙情的な美しい個所も、それなりに生きた演奏ではあった。ただ、聴いたあとでは、どちらかというと大音響場面の方が印象に残っている、といった演奏だったのは事実である。

 非常に興味深かったのは、昨日の広上淳一と、今日のバッティストーニの指揮とで、音楽に盛り込まれた「中国風」旋律の演奏が、全く異なることであった。
 広上の指揮では、全曲に散りばめられたその中国風の旋律が、実に見事に、それらしく浮かび上がっていた。プッチーニが、いかに中国的な主題を巧く取り入れていたかがはっきりと判る演奏だったのだ。一方バッティストーニの指揮では、それらは単なるモティーフとして、全曲の滔々たる流れの中に、組み込まれてしまう。
 それは、東洋人指揮者と西欧人指揮者との感性の違い、ということもあるかもしれないが、それだけでは解明できない問題だろう。かつて「蝶々夫人」での日本の旋律を、日本人指揮者以上に、日本的に浮き彫りにして演奏してみせたシノーポリのような指揮者もいたのだから。

 東京フィルも弦14型だったかの編成で、ピットに入っている時とは比較にならぬほどの強靭な演奏を聴かせてくれた。コンサートマスターは荒井英治である。勢いで演奏している、という雰囲気もなくはなかったが、それはともかく━━ピットでもいつもこういうドラマティックでシンフォニックな演奏をしてくれればいいのだが・・・・。
 P席に位置した合唱は、新国立劇場合唱団と東京少年少女合唱隊で、これはもう昨日とは違い、プロの水準にある━━とはいえ、前者はちょっと粗いところが散見したのが気になる。

 歌手陣。トゥーランドットは、ティツィアーナ・カルーソー。それほどドラマティックな声質ではなく、「氷のような姫君」のイメージの表現でもないが、張りのある声で大音量のオーケストラと拮抗し、題名役としての責任を果たしていた。
 一方、カラフを歌ったカルロ・ヴェントレは、今日はどうも本調子ではなかったらしい。新国立劇場の「アイーダ」での時のようなパワーが、全く聴かれなかったのは残念である。とはいえ、「だれも寝てはならぬ」だけは、ここぞ聴かせどころとばかり頑張った。バッティストーニも最後の和音で音楽を中断し、テノールが万雷の拍手を受けられるようにしていた。

 リューは浜田理恵、この人なら、「可憐なリュー」の表現は完璧である。
 韃靼の前老王ティムールの斉木健詞も重々しい歌い方で役柄を適切に演じ、アルトゥムの伊達英二は、高齢の中国皇帝役にしてはちょっと力強すぎる向きもあったものの、P席後方の高所で朗々と歌っていた。
 ピン&パン&ポンは荻原潤・大川信之・児玉和弘が好演。官使(布告役人)は久保和範がP席で歌い、これは第1幕の方が良かった。ただ一声の役ペルシャ王子は、合唱団の中の真野郁夫が歌ったが、断末魔の叫び声であるからには、もう少し芝居気が欲しい。だがいずれにせよ、脇役までバランスよく整えられていたところが、昨日の宮崎との違いである。

 いわゆる演奏会形式上演だったが、照明演出(喜多村貴)を加えて、多少の劇的感覚が付与されている。つまり、全曲冒頭では、通常の舞台照明で演奏を開始しつつ、次の衝撃的な和音で照明を突然変化させ、オルガンを血のような赤色で染める、といった具合である。
 また、それぞれダンサーが演じるペルシャの王子(和田京三)を舞台前面に、また首切り役人(古賀豊、いかにもそれらしいいでたち!)をP席高所に何度か登場させるという趣向も凝らされていた。

 特に首切り役人の派手な演技は、「処刑」のイメージを出す点で、至極効果的だったと言えよう。終場面で、トゥーランドットが王子の名を明らかにするくだりで、この首切り役人がまたも登場し、王子を処刑せんものと待ち構える身振りをするものの、彼女が「その名は愛!」と告げ、群衆が歓呼するやいなや、がっくりとして消えて行く演技などは、ご愛嬌で秀逸であった。
 演出者の名はクレジットされていないが、石丸楽団長に聞いたところによると、大部分はバッティストーニと歌手たちが打ち合わせて行っていたとのことである。

 休憩は第2幕の後に20分ほどの1回のみ。終演は9時半頃になった。聴衆は沸き返っていた。まさに、大スペクタクルであった。

2015・5・17(日)宮崎国際音楽祭最終日 「トゥーランドット」

   メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)
   アイザックスターンホール  3時

 やっと晴れた。日差しは強いが、南国の空気は爽やかだ。
 4月29日から始まった「第20回宮崎国際音楽祭」も今日が最終日。プッチーニの「トゥーランドット」が演奏会形式で上演された。字幕付原語上演。

 広上淳一が宮崎国際音楽祭管弦楽団(コンサートマスターはこの日も徳永二男)を指揮、題名役トゥーランドット姫をシューイン・リー、韃靼の王子カラフを福井敬、奴隷娘リューを岡田昌子、旧韃靼王ティムールを伊藤純、ピン&パン&ポンを迎肇聡・清水徹太郎・二塚直紀。合唱が浅井隆仁指揮の宮崎国際音楽祭合唱団(宮崎県合唱連盟有志)という顔ぶれである。
 プログラムには、中国皇帝アルトゥム、布告役人、ペルシャ王子のソロ歌手の名がクレジットされていない。皇帝役は合唱指揮者が歌っていたという話も聞いたけれども、出番は少ないとはいえ重要なソロであるだけに、名前は出してあげた方がいいのではないか。

 ともあれ、恐るべき勢いを持った、「炎のトゥーランドット」とでもいうべき大熱演だった。
 スケジュール上の制約から、リハーサル時間は非常に短かったらしいが、オーケストラはなんせ国内各楽団に所属する首席級の奏者が中心であり、オペラ経験は少ないもののアンサンブルづくりの力量は充分の名手たちゆえに、それなりにサマになった演奏を聴かせてくれた。
 もちろん、厳密な意味でのアンサンブル構築、正確緻密な演奏、といった性格のものではない。だが、広上淳一がオーケストラと合唱を情熱的に煽りたて、巧みに盛り上げる。それゆえ演奏に充ち溢れる勢いと熱気たるや、まさにただものではなくなり、それが聴衆をとりこにしてしまうのである。

 歌唱面では、カラフ役の福井敬が例のごとく物凄い馬力で歌手陣全体をリードした。彼の華やかな存在も、この上演を成功させた所以の一つである。
 トゥーランドットのシューイン・リーもよく頑張ったが、「氷のような姫君」たるべきこの役柄にしては、少し声が柔らかいのではないかという気もする。彼女は蝶々夫人役で定評のある人だというから、やはりドラマティック・ソプラノとはいえないだろう。

 むしろリュー役の岡田昌子の方が激しく強い歌い方で、それは極めて意志の強い女性としてはいいかもしれないが、可憐な少女リューのイメージからは些か遠く、こちらがトゥーランドットを歌った方がよかったのではないか、という気もしないではなかった。実は彼女はすでにトウーランドットやアビガイッレを歌い、成功しているということだが、私はその公演は聞き逃している。ピンと張った強靭な声には迫力がある。

 合唱は、ステージの両側と正面のそれぞれバルコン席に配置されていた。メンバーは学生━━高校生と中学生を中心にした編成とのこと。大健闘、よくやったと激賞しておこう。
 個々のパート単独の歌唱では技術的な弱味が露呈するし、プロのオペラ上演のレベルからは遥かに遠いものだが、広上淳一の指揮に応えて管弦楽とともに絶唱するその体当り的な熱演は、なまじプロ合唱団が小奇麗に歌うよりも、よほど聴衆の心を捉えるだろう。
 事実、この合唱と、オーケストラと、ソロ歌手陣が一体となった劇的な場面━━たとえば第2幕でカラフが謎を解き終った場面、第2幕の幕切れ、第3幕の幕切れなどでの演奏には、われ知らずジンとさせられてしまったほどである。

 史上最後のグランドオペラと呼ばれる「トゥーランドット」━━それ自体が並外れてスペクタクルな性格を備えているオペラだ。それがかくのごとく熱気にあふれて演奏された時は、多少の瑕疵を超えて、聴衆を熱狂させる。
 演奏が終った瞬間、客席は文字通りスタンディング・オヴェーションの嵐と化した。そのあと、アンコールとして、第3幕最後の部分がもう一度演奏された。

 この上演が、大規模なオペラの演奏を聴く機会の少ない宮崎のお客さんに喜ばれたことは疑いない。第20回記念の音楽祭の幕切れを飾るものとして、これほどぴったりした光景はあり得ないだろう。それは、この音楽祭を創立以来20年にわたり血のにじむような努力で牽引し、今年勇退した青木賢児総監督を送る賛歌としてもふさわしいものだったのである。

 休憩2回をはさみ、5時40分頃終演。7時50分宮崎空港発のANA(25分遅れ)で帰京。この便で帰京する演奏者たちもかなり多い。福井さんとも、搭乗口でばったり。

2015・5・16(土)宮崎国際音楽祭「チャイコフスキー 激情のシンフォニー」

   メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)
   アイザックスターンホール  3時

 ピンカス・ズーカーマンが宮崎国際音楽祭管弦楽団を指揮して、チャイコフスキーの作品を演奏。「メロディ 作品42の3」「アンダンテ・カンタービレ」「ノクターン 作品19の4」、「交響曲第5番」というプログラム。

 「メロディ」ではズーカーマン自ら弾き振りをしたが、何故か少々不安定。続く2曲ではアマンダ・フォーサイスがチェロのソロを弾いたが、これまたおそろしくふらついたソロで━━というわけで、前半はどう贔屓目に見てもあまり冴えない出来だったと言わざるを得ない。

 交響曲の方は、ズーカーマンが指揮に専念しての演奏である。実は私は、彼が大オーケストラを指揮するのをナマで聴いたのは今回が初めてなので、彼の指揮者としての力量について云々するほどの材料を持ち合わせていないのだが、この日の演奏だけに即して言えば、良く言えば作品にひたすら忠実に、あくまで生真面目に音楽をつくって行く指揮だということになるか。反面、歯に衣着せずに言えば、あえて何にも手を加えずに単に演奏して行くだけの指揮、ということかもしれない。

 いずれにせよ、「激情のシンフォニー」とはどう見ても言い難い「5番」の演奏だった。この程度の指揮なら、この宮崎国際音楽祭管弦楽団のような、国内の首席奏者級あるいはソリスト級の楽員が中心となって構成されているオーケストラなら、指揮に頼らずとも自ら音楽をつくって行けるだろう。
 オケのメンバー・リストには、例えばヴァイオリン・セクションならコンサートマスターの徳永二男を先頭に、礒絵里子、漆原朝子、漆原啓子、川田知子、扇谷泰朋、小森谷巧、佐分利恭子、三浦章宏、松浦奈々ほかといったような、錚々たる顔触れが並ぶ。こういうオケなら、なおさらだろう。
 それに今日のトランペット━━高橋敦と中山隆崇(都響)と田中敏雄(読響)が、流れるように美しい起伏をつけて吹いた第4楽章最後の頂点の見事なこと。この辺りは指揮者の注文なのかもしれないが、演奏者の巧さが指揮者の存在を忘れさせるといった現象でもあった。

 最後はズーカーマンが奏者の楽器を借りて「子守歌」を弾き、場内の客がハミングで和するという、音楽祭ならではの一幕もあってお開きとなる。

2015・5・15(金)宮崎国際音楽祭 ガラ・コンサート

   メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)
   アイザックスターンホール  6時

 13時05分発のANAで、宮崎に入る。こちらは曇天で、かなりの蒸し暑さだ。今回は「第20回宮崎国際音楽祭」の取材。

 1996年にアイザック・スターンを迎えて発足した宮崎国際音楽祭の、「20周年記念ガラ・コンサート」。9時半近くまでかかった演奏会は、さすがに20回記念のそれにふさわしく、豪華な顔ぶれの饗宴となった。

 オーケストラは広上淳一指揮の宮崎国際音楽祭管弦楽団(コンサートマスターは音楽監督・徳永二男)で、プログラムを記録しておくと━━最初にピンカス・ズーカーマンとジュリアン・ラクリンがバッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」を弾き、以下、横山幸雄がラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」第1楽章を、三浦文彰がハチャトゥリヤンの「ヴァイオリン協奏曲」第1楽章を演奏、福井敬が「妙なる調和」と「女心の歌」を歌い、諏訪内晶子がシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」第3楽章を弾く。

 20分の休憩を置いての後半は、漆原朝子と漆原啓子がシュポアの「2つのヴァイオリンのための二重奏曲」を、アマンダ・フォーサイスとアンジェラ・チェンがシューマンの「アダージョとアレグロ」を演奏した後、再びオケとの協演に戻り、ボリス・ベルキンがラヴェルの「ツィガーヌ」を、吉野直子と高木綾子がモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」第1楽章を、徳永二男がサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリツィオーソ」を弾き、大トリにはミッシャ・マイスキーとリリー&サーシャ・マイスキーがベートーヴェンの「ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲」第1楽章を演奏する、という具合であった。

 演奏の合間に、宮崎県知事から音楽監督・徳永二男への感謝状が贈呈され、また全体のアンコールではソリスト全員も登場し、手拍子のうちにJ・シュトラウスⅠの「ラデツキー行進曲」が演奏され、賑やかに結ばれた。曲によっては一部を端折ったものもあったが、広上淳一のテンポの良い指揮に加え、朝岡聡の進行もステージ・セット変えの手順も要領よく、演奏会全体はすこぶる快適に進められていた。

 第一流のソリストたちが入れ替わり立ち替わり登場し、腕によりをかけて演奏するのがガラの面白さだが、その中でも、さすがに歌手はエンターテイナー性を発揮できる存在である。福井敬は「女心の歌」を、客席を歩き回りながら朗々と歌ってみせ、一気に聴衆の気持を和ませ、コンサートを盛り上げた(こんな芸当は、当然ながら、ピアニストやチェリストには絶対真似出来ないものだ)。

 一方、諏訪内晶子は、ふだんよりもラプソディックな演奏でわれわれを驚かせた━━ちょっと暴れすぎてオケと合わなくなるという面もあったようだが。
 高木綾子と吉野直子は昨夜スダーン指揮東京響の定期で同じ曲を演奏したばかりだが、たった1日のうちに、全く雰囲気の違う、開放的な感じのする演奏に変わっていたのも面白い━━吉野の方は、両日とも変わらぬ泰然とした演奏だったものの、高木の方は、昨夜は譜面を横に置きながら、スダーンの決めた枠に合わせた少々堅苦しい演奏をしていたように感じられたが、今日は全身をスウィングさせつつ、愉しそうに吹いていたのが印象的だった。

 ズーカーマンの風格充分な演奏も見事。それに宮崎国際音楽祭管弦楽団そのものも、一騎当千の名手たちが中心になった編成だから、アンサンブルはともかくとしても、強いアピール性と華やかさで映える。

 これだけの顔ぶれをそろえた演奏会であれば、さぞやお客の入りも・・・・と思ったのだが、上階席とバルコン席には空席も見られたのは残念だ。一番街にさえ音楽祭のフラッグが軒並み掲げられているくらい、PRには力も入れているように見えたのだが。

2015・5・14(木)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

   サントリーホール  7時

 久しぶり、スダーン=東響の音が蘇った。
 この日のプログラムは、モーツァルトの「交響曲第31番ニ長調《パリ》」、「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」(ソロは高木綾子と吉野直子)、フランクの「交響曲ニ短調」。がっしりと引き締まった造型、厳しく隙のない構築性は、以前と少しも変わらぬスダーン独特の音楽である。

 「パリ」はつい先ごろ、川崎での「モーツァルト・マチネ」でもノットの指揮で演奏された曲だが、こちらスダーンの指揮では、いっそう筋肉質の音楽になる。そして、バロック・トランペットを使用しての明るい音色が、祭典的な雰囲気を出す。歯切れよくひた押しに押す演奏が素晴らしい。

 一方、ふつうなら華麗な雰囲気を漂わせるこの「協奏曲」では、スダーンらしく確然たる構築が前面に出て、至極シリアスな音楽となっていた。2人のソリストも生真面目に演奏して、あまり寛ぎのない音楽になっていたのは・・・・良し悪しか。

 フランクの交響曲では、強靭な骨格を備えた壮大なつくりの、激しいデュナーミクの対比が際立つ。ブリリアントでありながら、強面でもある。豪演である。
 第1楽章は細密な設計が念入りになり過ぎて、多少緊張感の薄らぐ時もあったが、第2楽章ではスダーン特有の明確で鋭いリズムが、弦の響きを粒立たせ、ミステリアスな効果さえ生んでいた。第3楽章も壮大な起伏に富んだものだが、それは曲線を描いて起伏をつくるのではなく、ごつごつした強弱の対比が、いっそう厳しい姿の山脈の威容を見せるといった演奏なのである。
 いずれにせよ、ここに現れたセザール・フランク像は、滋味で渋い作曲家であるどころか、毅然たる精神力をみなぎらせて屹立する巨人の風格を感じさせるだろう。

 こういうフランクを聴くと、スダーンの指揮で再現される19世紀のフランス系の作品は、結構面白そうだ、という気がして来る。それもダイナミックな、劇的な作品が良さそうだ━━ベルリオーズあたりをやってくれたら、往年の名指揮者マルケヴィッチが響かせたような、小気味よいリズムで畳み込む躍動的なベルリオーズが聴けるかもしれない・・・・。
     ⇒別稿 音楽の友7月号 演奏会評

2015・5・13(水)エイヴィン・グルベルグ・イェンセン指揮読売日響

    サントリーホール  7時

 ノルウェー出身の43歳の指揮者、エイヴィン・グルベルグ・イェンセンが読響に初客演。
 彼は2012年にPMFへ登場したというが、私は聴いていなかったので、今回初めてナマで聴くことになる。今夜彼が指揮したのは、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第17番」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」だった。

 コンチェルトでは、ソリストのアンドレアス・シュタイアーに合わせて慎重に、しかし柔軟に読響を響かせたイェンセンだったが、「7番」に入ると、今度はおれの領分とばかり、俄かに伸び伸びと指揮しはじめたような感。
 しかし、たいていの場合は物々しく劇的に開始されるこの「レニングラード交響曲」の第1楽章が、これほどすっきりした淡白な表情と音色とリズムとで始められた演奏を、私はかつて聴いたことがない。濃厚なロシア的色彩感覚とは一線を画したショスタコーヴィチで、これはこれで極めて興味をそそられるスタイルである。

 イェンセンは、最弱音を重視し、弦楽器群にも澄んだ叙情的な表情を与えつつ、第1楽章を進めて行く。
 いわゆる「戦争の主題」も、ピアニッシモでの演奏が延々と続き、なかなか姿をはっきりと現わさない、といった演奏なのだ。やっと頂点に達した時の最強奏はなかなかの音量と力感だが、しかしそれも、決して強圧的な印象を与えない。怒号していても、どこかに叙情的な色合いを保っているのである。イェンセンの指揮は、そういう特徴なのか? 
 終楽章最後の壮大な頂点にしても、これでもかと言わんばかりの濃密な音の響層と熱狂的昂揚感がつくられるのではなく、どこかに一陣の風が吹き抜けるような空間を秘めた、一種の冷めた感覚が残っているようにも思われる。

 全曲を通じての読響の音のバランスの良さは実に見事鮮なもので、最近のこのオーケストラの好調ぶりを今回も示していた。コンサートマスターは長原幸太。弦の緻密さは注目に値するが、もちろん管楽セクションもいい。特に今日のファゴットの1番は、その音色の美しさで光っていた。

 アンドレアス・シュタイアーは、モダン・ピアノを、まるでフォルテピアノのような音で弾いた。一つ一つの音符が生き生きと自らを語る。こういうモーツァルトは、本当に魅力的だ。
 だが遅いテンポのところ、特に第2楽章では、アンダンテがさらにアダージョくらいのテンポに落とされ、「間」も長く採られ、オーケストラもろとも自分の沈潜の世界へ引き込んでしまおうという演奏になる。近年は、名手たちも、そうでない人も、挙ってこういう演奏をしたがるようだが、私は時々、その唯我独尊的な演奏スタイルに苛々してしまうことがある━━。
 ソロ・アンコールはモーツァルトの「ソナタK330」の第2楽章、アンダンテ・カンタービレ」だが、これも「アダージョ」のテンポでの演奏。だが陰翳が濃い。

2015・5・10(日)新国立劇場 新制作「椿姫」初日

    新国立劇場オペラパレス  2時

 新国立劇場の今シーズンの新プロダクションの一つ、ヴァンサン・プサール演出によるヴェルディの「椿姫」がプレミエされた。指揮はイヴ・アベル、舞台美術はヴァンサン・ルメール、照明はグイド・レヴィ。

 プサールの演出は、基本的にはストレートな解釈だ。但し第3幕のみは、死に臨んだヴィオレッタの幻想場面として構築されている(よくあるテだが)。
 これを彩るルメールの舞台美術は、シンプルだが、かなり凝ったつくりである。
 第1幕と第2幕で使用されるのは、ピアノと、巨大で豪華なシャンデリアと、舞台下手側を斜めに切る巨大な鏡面だ。この鏡は、たとえば舞台上の現実に対する「幻想」、舞台上の具体的な時代に対する「抽象的な時代」、あるいは主観に対峙する「客観的な視覚」━━などといった、いろいろな解釈を可能にするだろう。この舞台に冷徹な照明が浴びせられ、「煌びやかではあるが翳りのある」世界をつくり出す。

 第3幕ではこうした光景は影を潜め、舞台前面のヴィオレッタとピアノの背後は大きな紗幕で仕切られ、彼女以外の、アンニーナや医師グランヴィルをも含む登場人物はすべて紗幕の向こう側に幻の如く浮かぶにすぎない━━つまりそれらすべてがヴィオレッタの見た幻であることが示される。
 続けて上演されていた第2幕の幕切れで、ヴィオレッタだけが群衆から離れて舞台前面に立ち、その背後に幕が下りるという構成が採られていたが、その瞬間、彼女はすでに、この世の現実から離れた存在になったのだろう。
 第3幕の幕切れ、「息を引き取った」彼女は倒れずに幕の前に立ち、真紅の光を浴びて、再び往時の「誇り高き高級娼婦」の栄光を取り戻す━━。

 プサールの演出は、全体のコンセプトは比較的明確だが、ただし、ヴェルディのスコアが指し示す細微なドラマとしての「演技」については、ほとんど注意を向けていないように思われる。つまり主役たちの演技は、どちらかというと大雑把に近い。
 アルフレード(アントニオ・ポーリ)は、もともと天下泰平な性格の役柄だからともかくとしても、ヴィオレッタ(ベルナルダ・ボブロ)とジョルジョ・ジェルモン(アルフレード・ダザ)には、もっと感情の動きを表現する演技を求めたかった。
 今日の舞台が、美術は映えても、ドラマとしての感銘が薄いものとなっていたのは、そのためである。
 むしろ夜会の客たち(新国立劇場合唱団)の方が、よほど細かい演技をしていたと言えるかもしれない。

 今回のソロ歌手陣は、そうした演技の面だけでなく、歌唱面においても、どうもムラが目立った。ヴィオレッタのボブロは、第1幕での頼りない声と不安定さにはハラハラさせられたが、第2幕以降は何とか持ち直した感。第3幕ではかなり調子を上げて来たから、この分なら上演を追って良くなるのかな、とも思う。

 収穫は、やはりイヴ・アベルの指揮だ。良いテンポで、追い込みや煽りも程よく効果的につくり上げ、ドラマティックな起伏を構築し、オーケストラを引き締めて演奏を盛り上げた。
 東京フィルもこのところ、ピットでのイタリア・オペラの演奏が上向いて来たかな、という気がする。今日のコンサートマスターは渡辺美穂(以前大阪フィルのコンマスを短期間ながら務めた人のはずである)で、いい演奏を聴かせてくれていた。

 第2幕の夜会場面の前に置かれた1回の休憩をはさんで、終演は4時40分頃。
 初日に行ったのは久しぶりである。ホワイエの雰囲気は流石に華やかだった。上品な和服の女性方がえらく多かったのは、よく知らないけれども、何かそちらの会の方たちが大勢来られていたからだとのこと。
 日本女性の和服姿は最高に美しいから、歓迎すべきものではあるが、たった一つ具合の悪いことがある。着物の構造からして、背が椅子の背もたれに着かないので、やや「身を乗り出す」ような姿勢になってしまうこと。そうすると後ろの席の客は・・・・。でもまあ、1階席でのことですから、いいでしょう。

2015・5・9(土)阪哲朗指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   横浜みなとみらいホール  6時

 日本フィルの横浜定期。
 ドイツのレーゲンスブルク歌劇場の音楽総監督を務める阪哲朗が客演、シューマンの「交響曲第1番《春》」とブラームスの「交響曲第3番」を指揮した。彼の指揮を聴いたのは、1月の東京フィルとの演奏以来だが、今回はあの時よりずっとまとまりの良い出来だったと思う。

 2階上手側バルコン席RCで聴いた印象によれば━━私はこのホールのこの席で聴いたのは初めてなのだが━━コントラバス群の正面という位置のせいもあってか、低音域がよく響き、音楽の重心が低く、安定した音の構築をもった演奏に感じられた。
 といって、重々しい響きというのとは違う。低音はしっかりしているが、響きはむしろ柔らかく、どちらかといえば軽い。高音域の弦楽器群も落ち着いた音色を出していた。

 要するにそれは、ドイツのオーケストラの━━それも未だあまり機能的なものに毒されていない、良き時代の伝統を今に残す、素朴な真摯さを感じさせるローカル・オーケストラが聴かせるそれと共通した響き━━とでも言ったらいいか。阪哲朗もドイツのオーケストラを指揮し慣れている人になっているのだな、ということは以前にも書いたような気がするが、今夜のこのシューマンとブラームスの交響曲での指揮を聴いて、いっそうその感を強くした次第だ。

 日本フィルも、そうした彼の指揮によく反応し、渋く落ち着いた、しかも躍動的な演奏を聴かせてくれた。前日の杉並公会堂のコンサートではアンサンブルに些か問題があったという話を知人から聞いていたけれども、今日の演奏では、それは解決されていたように思われる。今日聴いた席が、オーケストラに近い、細部まで聞き取れる位置だったから、まず間違いはないだろう。とにかく、一見地味な演奏に聞こえるけれども、中味は手堅く、充分なものがあった。

 アンコールには、シューマンの「トロイメライ」が演奏された。この曲、日本フィルは以前にもこの横浜で、別の指揮者により演奏したことがあったのでは? その時より今日はずっと息づきの良い演奏だった。コンサートマスターは千葉清加。

2015・5・9(土)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル

    東京オペラシティ コンサートホール  2時

 桂冠名誉指揮者の飯守泰次郎が指揮。ブルックナーの「第8交響曲」(ノーヴァク版第2稿)で、シティ・フィルともども、見事な演奏を聴かせてくれた。

 飯守のブルックナーは、以前より更に深みを増したように思う。音楽に無味乾燥なところなど一切なく、ヒューマンな温かい情感がいっそう濃くなった。時に急激なアッチェルランドがかけられることがあったり、突然ごつごつした力感が強調されることもあったりして、激しい感情の迸りを感じさせるところも多いが、全体に流れがよく、演奏全体は明確な均衡を備えている。

 第4楽章、【N】のところ、あの全管弦楽が突然爆発して、ティンパニがB-下のF-Bー上のFと豪快に連打する個所は、25年前のペーター・ザードロ(ミュンヘン・フィル)もかくやの破壊的なパンチで開始されたが(今日のティンパニは客演の菅原淳さんで、大ベテランの名手の風格も豊かに、相変わらず堂々たる演奏だった)ここもいい流れで進んでいた。だが、やはり出色の出来は、アダージョ楽章(第3楽章)であったろう。
 全曲総計80分、速めの、引き締まったテンポによる演奏であった。

 シティ・フィルは、先月定期での新・常任指揮者の高関健との「わが祖国」と同様、今日も気合充分の快演を披露した。戸澤哲夫をリーダーとする弦楽セクションの健闘も目覚ましい。
 だが残念なことに、ホルンとワーグナー・テューバは、第3楽章コーダの聴かせどころをはじめ、肝心な個所で何度も不安定さを露呈し、せっかくの力演に水を差したことが惜しまれる。トランペットにも、ほんの僅かではあったが、不安定さが聞かれた。

 ━━とはいえ、もともと楽員数の多くないこのシティ・フィルゆえ、「ブル8」のような大編成の交響曲となれば、他楽団からの応援も・・・・つまりトラ(エキストラの業界用語である)も多数入っていたので、良い点にしても悪い点にしても、一概にどうこう言うわけには行くまい。結局、常任高関と事務局と運営委員たちの努力により、優秀な楽員を補充し、演奏水準を安定させて、「いつも話題になるオーケストラ」としての存在を取り戻してほしいと願うしかない。
    別稿 音楽の友7月号 演奏会評

2015・5・8(金)ジャン=クロード・ペヌティエ フォーレの「夜想曲」

    トッパンホール  7時

 フランスの人気ピアニスト、ペヌティエが、十八番のフォーレを弾く。

 この何年か、ナントや東京での「ラ・フォル・ジュルネ」で、彼の演奏するリストやフォーレの作品を聴く機会が多かった。sその「ラ・フォル・ジュルネ」で一昨年だったか、彼はフォーレの「夜想曲」の全曲(13曲)を2回に分けて弾いた。その時には第1回だけ聴いたが、会場の関係でピアノの響きも悪く、あまり楽しめなかった記憶がある。
 このトッパンホールも、私の主観では、いつもピアノの響きがちょっと圧迫されたような、ヌケの悪いアコースティックを感じさせるのが気になるのだが、まあとりあえず今回は、彼の本領も全開されていただろう。

 今日は全曲を、番号順でなく━━5、4、1、2、10、9、3、8、7、6、11、12、13番という順番で、ほぼ1時間20分にわたり、休憩を入れずに弾いた。休憩を入れたりしたら、聴き手の気持はかえって散漫になってしまうだろうから、今回の方法は適切だったと思う。そして、ペヌティエの思索的な演奏は、フォーレの叙情美を充分に再現し、夢のような80分間を私たちに与えてくれたのである。

 アンコールで弾いたフォーレの「レクイエム」からの「ピエ・イエス」のピアノ版は、実に美しい曲だった・・・・ただし、演奏の方は、なぜかちょっと・・・・。ペヌティエは、「夜想曲」全曲はもちろん暗譜で弾いたが、このアンコールだけは譜面を見ながら弾いていた。

2015・5・8(金)リクライニング・コンサート 吉川健一バリトン・リサイタル

    HAKUJU HALL  3時

 久しぶりでHAKUJU HALL(原宿の白寿生化学研究所)の「スーパー・リクライニング・コンサート」を聴きに行く。
 このシリーズのコンサートは、椅子の背がリクライニングになり、「聴きながら眠ってもいい」ことになっているのが売り物だ。

 とはいえ、「寝てもいい」と言われると、かえって寝られなくなるのが人間の心理である。それにこのホールは、声もピアノもよく響き、かなりの音圧が客席に押し寄せて来るので、居眠りするどころではない。
 そういえば以前、テノールの福井敬さんがこの「リクライニング・コンサート」に出演した際、最初に「トゥーランドット」の「だれも寝てはならぬ」を歌って聴衆を威嚇(?)したという話があるが・・・・。

 今日の主役、吉川健一は、二期会所属のバリトン。すでに「魔笛」のパパゲーノ、「ファルスタッフ」の題名役、「ピーター・グライムズ」のネッド・キーンなど、幅広く活躍中の人だが、私は彼の歌をじっくりと聴かせてもらったのは今回が初めてである。
 最初のリストの「ペトラルカのソネット」からの「平和は見出せず」では、咽喉をちょっとつめたような声に聞こえるのが気になったが、武満徹の「小さな空」、レオンカヴァッロの「マッティナータ」、モーツァルトのパパゲーノやアルマヴィーヴァ伯爵のアリアなどでは、表情豊かで豪快な歌いぶりが愉しめた。歌の間に織り込むトークもさすがに上手いものである。トークが親しみやすい雰囲気を生むというのも、このシリーズの人気の一因のようだ━━今回が第104回である。
 協演のピアノの石野真穂も、雄弁なサポートぶりであった。

2015・5・4(月)軽井沢大賀ホール開館10周年
   チョン・ミョンフンのモーツァルト弾き振り

  軽井沢大賀ホール  3時30分

 GWの軽井沢。若い頃だったらクルマで、渋滞をかいくぐって巧みに裏道を抜けるか、もしくは真夜中にぶっ飛ばして行ったものだが、最近はもう新幹線で駅弁と窓外の景色と居眠りとを堪能しつつ、のんびりと向かう。昔と違い、新幹線は50分~1時間。クルマよりはるかに早い。
 各駅停車の長野行「あさま」で行ったら、乗客の大半が軽井沢駅で降りてしまったのには驚いた。いやもう、大変な人混みである。周辺道路も大渋滞、駅前の18号線でもクルマの列が並んだきり、動かない。まあ、30年前もそうだったけれども。

 本題。駅近くの池の傍に聳える五角形の音楽会場、軽井沢大賀ホールが開館10周年を迎えた。
 毎年GWには、東京フィルやオーケストラ・アンサンブル金沢などが出演して音楽祭が開かれているが、今年4~5月には東京フィルがバッティストーニやチョン・ミョンフンの指揮で計2回の演奏会を行なった他、井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢、ウィーン少年合唱団、アリス=紗良・オット、谷村新司らも出る。

 今日は、チョン・ミョンフンが東京フィルと協演して、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」を弾き振り、ベートーヴェンの「第7交響曲」を指揮するというプログラムだった。
 チョン・ミョンフン、体調はだいぶ回復したようだが、それでも舞台姿には、どことなく病人っぽい雰囲気がある。左の肩だか腕だかの具合が、未だ悪いと聞く。そんな状態でピアノを弾くのは、おそろしく辛いに違いない。

 彼はまず、独りで出て来てモーツァルトの「きらきら星の主題による変奏曲」を弾き、次に東京フィルとモーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」を演奏した。だがその第1楽章途中でいきなり演奏を中断、「ごめんなさい、そこからもう一度やり直させて下さい」と言って弾き直し(正直なこと!)、全曲が終ったあとで「指がよく動かないのでみっともないことをしてしまいました。お詫びにこれを」と言ってシューマンの「アラベスク」を弾き、さらに「これはミスター・オーガへの小さな愛のメッセージ」と、ベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾いた。

 ━━正直言って、今日の彼の演奏からは、かつてモスクワのチャイコフスキー国際コンクール第2位に入賞したピアニスト(注)の面影は、残念ながらほとんど感じられなかった。
 だがとにかく彼は、このホールを寄贈した大賀典雄のために、満員の聴衆のために、渾身の力で一所懸命弾いていたことはたしかである。公演後、プリンスホテル(旧晴山ホテル)で開かれたレセプションで彼は、「今度は体調のいい時に、もう一度ピアノをお聞かせしたい。でも今日は、大賀さんへの愛の手紙である《エリーゼのために》だけは、本当に気持よく弾けました」と挨拶して拍手を浴びていた。

 コンサートの第2部では、彼はベートーヴェンの「交響曲第7番」を指揮した。第1楽章主題提示部の反復をも忠実に行なうという、念入りの演奏である。風格の豊かな、堂々たる「7番」だった。
 この大賀ホールは、大オーケストラには些か無理のあるキャパシティだが、東京フィルも今やこのホールの鳴らし方を心得て来ているのだろう、フォルティッシモにしても、昔と違って無理のない響きを出せるようになっているようだ。フルートに再三雑な演奏が聞かれたのだけは惜しかったが、全体としてはなかなか気持よく聴ける演奏になっていたことは事実である。

(注)チョン・ミョンフンのチャイコフスキー国際コンクール第2位入賞は1974年(優勝はアンドレイ・ガヴリーロフ)。公式日本デビューはピアニスト(日本語表記はミュン・フン・チョン)として、1975年秋のプレヴィン指揮ロンドン響との同行来日だった。その時にはチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を弾き、私もその演奏会をFM東京で東京厚生年金会館から生中継したはずだが、番組放送時間とプログラムの短さの問題で招聘元とゴタゴタしていたため、彼のピアノについては、どうもはっきりした記憶がない。
 1978年には読響と協演してサン=サーンスの「ピアノ協奏曲第2番」を弾いた(表記はミュンフム・チョン)。その時の指揮は、初来日のスクロヴァチェフスキだった。のちにスクロヴァチェフスキは、こう語っていた。「彼のピアノには聞き惚れてしまいましたよ。でも、彼が今日のような大マエストロになるとは、当時は彼自身さえ知らなかったのではないでしょうか」(筆者のインタヴュー、読響パンフレット掲載)。

2015・5・3(日)ラ・フォル・ジュルネ デュッセルドルフ交響楽団

    東京国際フォーラムA〈デカルト〉  11時30分

 「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2015」の2日目。
 アジス・ショハキモフ指揮デュッセルドルフ交響楽団の「恋する作曲家たち~ロマン派の”愛のパシオンの悩み!」と題されたプログラムで、マーラーの「交響曲第5番」の「アダージェット」、ワーグナーの「ローエングリン」から第1幕と第3幕の前奏曲および「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」が演奏された。

 演奏自体は決して悪くなかったと思われるが、なにせ5000席の大ホールでPAをも使ったコンサートでは、演奏者の真価の全貌を聴きとるのは困難である。

 デュッセルドルフ響は、2013年5月27日にデュッセルドルフのトーンハレで、沼尻竜典が武満と「第9」を指揮したのを聴いたことがある。今回はお祭りイヴェント出演のための来日だから、楽員の構成がどうなっているのかは定かでないが、一応まとまった演奏は聴かせてくれていた。
 アジス・ショハキモフというウズベキスタン出身の27歳の若手指揮者は、私は今回初めて聴いた(昨年日本センチュリー響や山形響に客演した時には聞いていない)が、今日のマーラーやワーグナーでは、自然体の指揮で音楽を手堅くバランスよくつくり上げていたようである。

 だがこのコンサート、5000人収容のホールでLFJのお客さんを相手に聴かせるには、選曲はいかがなものか。「第3幕前奏曲」を除けば、すべてピアニッシモ中心の、非常に遅いテンポの曲ばかり。滅多に聴けぬクラシックのオーケストラを・・・・と思ってやって来た家族連れに楽しんでもらえたのだろうか? 「聞いたことのあるフシ」は、おそらくひとつも出て来まい。こういう時と所でワーグナーをやるなら、せめて「マイスタージンガー」前奏曲とか、「タンホイザー」序曲とか━━。

 好天の休日、会場は結構な盛況だ。チケット購入窓口には長い行列ができていたが、ソムリエに聞いた話では、これはと思われるコンサートはどれも売り切れ続出とか。たまにはクラシックでも・・・・という親子連れの人たちにとって、心から愉しめるものであってくれればいいけれども。

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