2017-03

4・30(木)ムジカ・レアーレ~コンセルトヘボウ管メンバーによる室内楽

    浜離宮朝日ホール  1時半

 「ムジカ・レアーレ」は、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のメンバーが室内楽を演奏する際の企画の名称とのこと。
 今回の来日メンバーは、カーステン・マッコール(同楽団首席フルート)、アルノ・ピターズ(同クラリネット)、内藤淳子(同・第1ヴァイオリン)、シルヴィア・フアン(同)、波木井賢(同・第1ソロ・ヴィオラ)、タチヤナ・ヴァシリエヴァ(同・首席チェロ! 2014年からだそうだ)、ピエール・エマニュエル・ド・メストレ(コントラバス、フリー?)という顔ぶれ。

 とにかく、みんな音色の綺麗なこと! コンセルトヘボウ管弦楽団の音色そのままに、ふくよかで豊麗で、温かく多彩である。
 前半に演奏されたフェスカ(1789~1826、ザルツブルク出身)の「フルート四重奏曲ヘ長調Op.40」と、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」での、伸びやかで屈託ない美しさには、うっとりさせられるほどだった。
 それに、拍手に応えるメンバーの笑顔の、なんと素晴らしいこと! 「一緒に楽しんでいただけましたか?」と呼びかけるような表情なのである。

 そこまでは、いい。残念なことに、その「屈託なさ」が、後半のシューベルトの「弦楽五重奏曲」では、どうも裏目に出た感がある。
 シューベルトが死の直前に書いたこの曲は、異様に浄化されたような美しさの中に、しばしば突如として不協和音や烈しい曲想や最強音が割って入り、身の毛のよだつような恐怖感をもたらす作品のはずなのに、今日の演奏では━━あんなに一本調子に坦々と、ただ譜面をなぞるように、綺麗に弾かれてしまっていいものか? 
 スケルツォの終りの個所や、全曲最後の、明るいハ長調で終ると見せて突然不気味な雰囲気の中に聴き手を叩きこむ終結も、至極あっさりと弾かれてしまった。

 だが、演奏者たちの若々しさや、そのあふれるような明るい笑顔などを見ると、そういうものなのかとも、思う。彼らはこの曲をそんなに深刻に感じ取る必要などまったくない年齢にいるのだなと、羨ましい思いも沸いて来る。

 なお今回は、第2チェロをコントラバスに置き換えた演奏で行なわれた。山田治生さんの解説によると、これはド・メストレによる編曲なのだそうな。第2楽章での、第2チェロが弾くはずの長いピッツィカートを弾いたのは、当然そのコントラバスである。その聴き慣れぬ音色と重量感は、面白いと言えば面白いけれども、全曲にわたってしばしば通常よりオクターヴ低い響きが聞こえるとなると、やたらそればかりが目立ってしまう。
 とにかく、この曲における「響きの調和」は、明らかに一変していた。シューベルトが「ピアノ五重奏曲《ます》」では成功させていたからといって、そのコントラバスをこの「弦楽五重奏曲」にも・・・・というのは、私には、俄かに賛成できかねる。

2015・4・29〈水〉飯守泰次郎指揮関西フィル「聖パウロ」

    ザ・シンフォニーホール  2時

 毎年この日にこのホールで4月定期を開催している関西フィルハーモニー管弦楽団(音楽監督オーギュスタン・デュメイ、首席指揮者・藤岡幸夫)の公演。
 今日は、桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎が指揮して、メンデルスゾーンのオラトリオ「聖パウロ」という珍しいプログラムが組まれた。
 こんな曲をナマで聴けるのはこれが最初で最後だろうと、また大阪まで出かけて行く。協演は関西フィルハーモニー合唱団、声楽ソリストは朴瑛実(ソプラノ)谷地畝晶子(アルト)畑儀文(テノール)篠部信宏(バス)という顔ぶれ。

 「聖パウロ」は、メンデルスゾーン27歳、1836年の完成の大作である。
 「パウロの回心」と呼ばれる出来事を題材とした内容で━━キリスト教徒を弾圧する側の人間であったサウロが、囚人護送のさなかに天から聞こえたイエスの声に触れ、回心して真摯なキリスト教徒パウロとなり、迫害を受けながらも布教につとめたという、あのパウロを主人公としたオラトリオだ。2部からなり、演奏時間は正味2時間15分ほど。テキストと歌唱はドイツ語である。

 字幕は、やはり欲しかった。なにせ、なじみのない作品である。いくら音楽が素晴らしくても、やはり歌われている内容が理解できるに如くはない。対訳書は配布されていたものの、字は小さいし、明朝体なので色は薄く、しかも客電は半落としだから暗くて読みにくい。
 とはいえ、字幕製作は、えらく費用がかさむものだ。懐事情の苦しい自主運営オケには大変な負担だということは知っているし、あまり強いことは言えないのだが・・・・。

 音楽は美しい。メンデルスゾーン特有の流麗な叙情が全曲にあふれる。第1部の、伝道者ステファノが天の開示を語るアリアにおける木管のハーモニー、あるいはサウロに反抗するキリスト教徒たちの合唱の個所におけるチェロの旋律など、オーケストラ・パートにはうっとりするような個所が少なくない。
 バッハの「目覚めよと呼ぶ声あり」が序曲や合唱に引用される瞬間も非常に感動的だ。こういうところ、オーケストラは実に美しく演奏して行った。物語の転回点のひとつ、サウロに呼びかけるイエスの声が天の彼方から響いて来る個所などでは、ソプラノ合唱とオーケストラが歌詞にふさわしい響きを聴かせてくれた。

 マエストロ飯守は、全曲を極めて均衡豊かに、しかも温かい情感を滲ませて構築していた。「パウロの回心」のくだりでは、合唱と管弦楽を勝ち誇ったように盛り上がらせたが、全体としては、どちらかというと淡々とした指揮ぶりだ。前出のいくつかの個所など、もう少し良い意味でのハッタリを利かせてもいいのではないかという気もしたが━━しかしこのストレートな良さも彼の持ち味であることはたしかなので、求めるとすれば、むしろ音楽づくりにおけるメリハリ、といったものだろう。

 それには、しかし、声楽陣にも責任がある。特に合唱団の━━健闘していたことは間違いないが━━ドイツ語の発音が甘くて不明瞭なので、これが演奏全体を過剰になだらかに、しばしば平板なものにしてしまっていたようだ。
 なお、この合唱団は、テナーのパートをもう少し整備していただきたい。そして、わずかな出番ながら、ソリの個所は、プロの演奏会としては素人並みの出来だった。

 ソロ歌手陣も健闘していて、特に女声2人は声楽的に好演していたが、ソプラノは第2部にいたって少々精彩を欠いた傾向なきにしもあらず。テノールの畑義文は以前より低音域に力を増したが、その一方、高音域が不安定になっていたのが気になる。

 関西フィル。あまり大きな音を出さずに余裕のある響きを聴かせてくれたが、先日の「4大オケ」での緻密な演奏を聴いたあとでは、また音が「粗く」なってしまった感がある。飯守はもともとアンサンブル形成よりも情感を重んずるタイプだから、合奏力はオーケストラ自体が自主的につくって行くべきものだろう。

 終演は4時40分頃。関西フィルの意欲的なレパートリー開拓の姿勢を称えたい。
 だが最後にもうひとつ、カーテンコールの際、楽員さんたち、お疲れのことは解りますが、もう少し、笑顔の一つも客席に見せていただけませんでしょうか? あんなに不愛想で不機嫌な怖い顔でこちらを睨みつけられては、拍手する手も萎えてしまう。最後に全員が一礼するので、そこでは大いに拍手を送れるのだが・・・・。

2015・4・25(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

    サントリーホール  2時

 これは定期。ブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」(ソロはアンジェラ・ヒューイット)とブルックナーの「交響曲第7番」を組合わせた、長大かつ重量感たっぷりのプログラム。

 5年ほど前、スダーンが東京響を指揮してブルックナーの「8番」を取り上げた時、第1部にショパンの「ピアノ協奏曲第2番」を置いたことがあったが、それに勝るとも劣らぬ量感だ。あの時は「大戦艦と巡洋艦が一緒に来たようなもの」と思ったが、今度は戦艦が2隻一緒にやって来たようなものか。インキネンのテンポは遅めなので、前者は47分、後者は72分の演奏時間を要した。休憩を含めると、優に2時間を20分ほど超える。

 だが、そのインキネンと日本フィルの演奏は、思いがけぬほどに見事だった。先日の「レンミンカイネン」組曲でのくぐもった美しい音色の演奏にも驚嘆させられたが、今日はそれにも増してオーケストラのバランスの良さ、集中力の豊かさに魅了された。日本フィルもついにここまで来たか、と感慨。

 ブラームスでは、重厚で緻密な響きのうちに、透明さと翳りの音色の交錯が絶妙な感覚を生み出す。この洗練された音色は、これまで日本フィルからは━━いや日本のオーケストラからも滅多に聴けなかった類のもので、インキネンの卓越した指導力をうかがわせるだろう。じっくりと構えた遅いテンポが、第1楽章提示部でやや緊張を薄めさせる傾向はあったものの、全曲はむしろ自然体で貫かれ、滔々と進むシンフォニックな推進力が、この長大なコンチェルトを壮大なスケール感で彩る。
 ヒューイットは、気合の入ったジェスチュアでファツィオリのピアノを弾く。時々不安定になるところもないではないが、この人のちょっと官能的な息づかいを感じさせるピアノは、ブラームスのこの力み返った協奏曲を、極めて瑞々しく聴かせてくれるのである。

 ブルックナーの「7番」では、遅いテンポながら、インキネンらしく引き締まって透明な叙情感にあふれた演奏が素晴らしい。第1楽章冒頭のトレモロは、それこそ聞こえるか聞こえないかのぎりぎりの最弱音で開始されたが、その精緻な音づくりこそが、この「7番」全体を象徴するものであったろう。
 音色こそ清澄透明な趣だが、音楽そのものの表情は、明暗の対比が実に鮮やかだ。特に第2楽章での、金管による第1主題と弦による第2主題との対比の明確さ、あるいはコーダでのワーグナーテューバとホルンによるハーモニーの明暗の対比の鮮やかさ、つまり情感の変化。

 ハース版のテンポを基本とした第4楽章は、造型的なバランスの豊かな構築のうちに、巧みにクライマックスへ盛り上げられた。
 なお、ハース版使用ではあるものの、第2楽章にはティンパニ、シンバル、トライアングルも加えられていた。いわゆる「折衷版」である。

 それにしても、インキネンという指揮者、ただものではない。初めて聴いた頃は、すっきりした音楽が身上の若手という程度の人かと思っていたが、これは並外れて凄い才能を持った指揮者である。日本フィルはいい若者を首席客演指揮者に━━来秋からは首席指揮者に━━選んだものである。
      ⇒別稿 音楽の友6月号 演奏会評

2015・4・24(金)ゲッツェル指揮紀尾井シンフォニエッタ東京

    紀尾井ホール  7時

 第1部ではアナ・チュマチェンコをソリストに迎えて、モーツァルトの「2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ」と「ヴァイオリン協奏曲第4番」が演奏され、その1曲目ではコンサートミストレスの玉井菜採もソリストとして加わった。休憩後にはシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」。

 サッシャ・ゲッツェルは、神奈川フィルの首席客演指揮者をも務めていて、アンサンブルを引き締める手腕に長けていると定評のある人だ。今日のモーツァルトとシューベルトも、かっちりと強固に絞められた演奏である。
 名手を集めた特別編成オーケストラの、一筋縄では行かぬこの「紀尾井シンフォニエッタ東京」をまとめるには、どうやらこういうタイプの指揮者の方が合っているような気がする。

 ただ、最初の「コンチェルトーネ」は、たしかに引き締まった演奏ではあったけれども、しなやかな表情に不足し、クソ真面目で、音楽する喜びのようなものが感じられないという傾向もあった。初日の1曲目ということで硬かったのかもしれないが、正直言って、この曲がこんなに面白味のないものに聞こえたのは初めてだった(オーボエのソロは美しかった)。

 2曲目の協奏曲では、アナ・チュマチェンコの、多少不安定なところはあるものの、温かい人間味のあふれるソロが生きて、この曲本来の素晴らしさが甦った。オケも、第1楽章と第2・3楽章での表情にかなりの違いがあったことからすると、途中から漸くノリが出て来たのかもしれない。

 「ザ・グレイト」も、第1楽章の主題提示部反復部分からアンサンブルがまとまって来たという感。ホルンが聴かせどころ(第1楽章冒頭と第2楽章第150~159小節)で不安定だったり、第1楽章主部突入直前のフルートが妙に飛び出したり、ということも気になったが━━引き締まった音づくりを狙った演奏の場合には、そういうところがかえって目立ってしまうのである。
 その代り、第2楽章でのオーボエの良さ、トランペットとホルンの掛け合い(第232小節~)のバランスの妙味など、魅力的な個所もあった。

 ゲッツェルは、シューベルトの交響曲にロマン的な陶酔よりも古典的な造型を求めるという、近年の解釈の主流に乗ったアプローチを行なう指揮者であると思われる。
 そのためにも彼は、オーケストラに緻密なアンサンブルと、厳しい集中性を求めるだろう。そうした傾向の指揮者を招聘するのは、オーケストラを引き締めるためにも好ましい━━「雄風ゲッツェル、新たな息吹をもたらす」と、プログラム冊子の中でものものしく謳われている通りだ。

 だが、そういうタイプの指揮者が、厳しいアンサンブルや凝縮した演奏を求めて来た時、常設のオケではなく名手たちがその都度集まる形態を採るこの「紀尾井シンフォニエッタ東京」が、綿密な合奏力や、真摯な音楽性の面でどう応えられるか。今夜の演奏などを聴くと、そこに些かの不安を感じるのも事実なのである。
 これは、このオーケストラについて回る昔からの課題だろう。「みんな上手いから」とか、「定期会員は充分いるから」ということだけで満足するのなら別だが。

2015・4・22(水)「大阪4大オーケストラの響演」

    フェスティバルホール(大阪)  6時30分

 昨夜の奇怪な、この世のものとも思えぬ外来オケの悪夢を振り払おうと、今日は大阪のオケを聴きに行く。わざわざ行っただけの甲斐はあった。

 これは、大阪の4つの大オーケストラが一堂に会し、同一のステージで順番に演奏するという、実に奇抜なコンサートである。
 大阪では、すでに「大坂秋の陣」「大坂春の陣」(「阪」でなく「坂」がミソ)と題して、飯森範親と藤岡幸夫がそれぞれのオケとともに同一ステージで競演するというのが始まっているが、今回のように4楽団が集合するなどというのは、前代未聞だろう。

 東京なら多分「お遊び」とみられて実現できないであろう企画だが、ここノリのいい関西では、正面切った大イヴェントとして成り立つ。そしてそれは現実に成功を収め、満席となり、真面目に演奏され、真面目に聴かれたのである。これは朝日新聞文化財団の制作で、「第53回大阪国際フェスティバル2015」の一環として開催されたものであった。

 プログラムでは、まず藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団が黛敏郎のバレエ音楽「BUGAKU(舞楽)」を演奏、
 次に飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団がサン=サーンスの「第3交響曲」を、
 休憩を挟み、外山雄三指揮大阪交響楽団がストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲を、
 そして最後に、井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団がベートーヴェンの「第7交響曲」を演奏するというものだった。

 プレトークで4人の指揮者が語ったところによれば、井上がこの企画に真っ先に賛成し、ブラームスの交響曲4曲をそれぞれ1曲ずつ順番にやってはどうだという案を出したところ、飯森と藤岡が「そんなの絶対いやだ」と言ってこういうプログラムになったとか。
 とにかく4楽団とも、それぞれ聴衆をワッと沸かせる性格を持った作品を出して来た。そして、ここを先途と、物凄い気合を入れた演奏を繰り広げた。
 私は4楽団をそれぞれ年に1~3回程度しか聴いていないので口幅ったいことは言えないけれど、いずれもこれほどの大熱演に巡り合ったのは稀である。いつもこういう演奏をしているなら、聴衆の支持も一層高くなり、外部からの「余計な雑音」も撥ね返すことができるはずだが・・・・。

 「4大オケ」の演奏は、はからずも起承転結の構図をつくっていた。藤岡と関西フィルがいつになく凄い気魄で重厚壮大に起すと、飯森とセンチュリー響が体当り的な熱演で承け、一転して外山と大阪響が自然体の落ち着いた演奏を聴かせたあとに、井上と大フィルが文字通り大見得切って結ぶ━━といった具合である。

 もう少し詳しく言うと━━藤岡幸夫と関西フィルは、かつて東京公演におけるシベリウスの交響曲集で、こういう分厚く密度の濃い演奏を聴いたことがある。今回は「民族の力」とでもいったような、大地を揺るがせるような舞踏の力を表出し、手応えのある演奏を聴かせてくれた。こういう場に邦人の作品を取り上げたのも意義あることだろう。選曲の成功である。

 一方、飯森範親と日本センチュリー響は清澄な音色の弦セクションを情熱的に演奏させ、第4楽章での全管弦楽の最初の爆発の個所では、金管とティンパニのクレッシェンドを、実に効果的かつスペクタクルに響かせた。
 ただ、本格的なパイプ・オルガンのないこの会場でこの曲を演奏するのはどうかな、という感は拭えない。この日のオルガンのメカニックな音では、オケを包む宏大な響きは望むべくもなく、クライマックスの肝心な個所でさっぱり響いて来なかったのは致命的である(演奏が良くなかったと言っているのではない)。なお、今夜初めて聴いたコンサートミストレスが、実に表情豊かなステージ姿で弾いていたのが魅力的だった。コンサートには、こういう、視覚という要素も重要なのである・・・・。

 この2楽団の大熱演のあとに登場した外山雄三と大阪響の演奏が、実に自然体で、すっきりした表情に聞こえたのが面白い。誇張もハッタリもなく、淡々とした音楽づくりで、大ベテランの指揮者らしく滋味ある演奏だったが、いうまでもなく「火の鳥」だから、最後の盛り上がりは充分であった。
 ただ、組曲とはいえ、各曲をアタッカで続けずに1曲ずつ切って、間を置いて演奏したことは━━もちろん間違った方法ではないけれども━━通常のスタイルに比べ、些か生真面目すぎるという感もあるだろう。その生真面目なところも外山の持ち味なのではあるが。

 大トリの井上道義と大フィルによる「ベト7」は、16型の大編成で、まさに老舗の貫録をふりかざしてのダイナミックな演奏となった。第2楽章の後半から弦楽器群の音色が突然しっとりしたものになって行ったのが強い印象を残す。このフェスティバルホールの鳴らし方を一番よく心得ているのが、4団体の中で唯一ここを定期の本拠とする大フィルであろう。終った後の井上と楽員たちの、どうだ、大フィルはやっぱり凄いだろ、と言わんばかりの、自信満々ともとれる表情が微笑ましかった。

 かように、「大阪4大オーケストラ」は、明らかにそれぞれのカラーを出していた。が、これがそのまま4つのオケが各々確立している個性かというと、必ずしもそうとも言えないような気がする。むしろ、そのカラーの違いは、指揮者の個性の違いによるもの、といった方がいいかもしれない。

 オーケストラ自身が独自の個性を持つことは、いわゆるクラシック音楽の新興国では、なかなか難しい━━特に「指揮者に従順」な日本のオーケストラにおいては、国民性から滲み出る「日本的な特徴」を別とすれば、オケごとの個性というものは、余程カリスマ的で独裁者的な指揮者に率いられていない限り形成されにくい、という傾向がある。もっとも、それはそれでいいのかもしれない。あとは、レパートリーに各々の特色を出し、心に籠る演奏をすることが、それぞれのオーケストラに課せられた使命ということになるのだろう。

 なお、今回聴いた範囲では、この新しいフェスティバルホールの鳴りが随分良くなって来たという印象であった。昨年あたり、1階席前の方で聴くと、かなり音が硬く、しかも「散る」印象を得たものだが、今回は意外にそういう感がなく、まとまった響きで聞こえて来たように思う。ホールは生き物で、竣工後数年を経なければ「良い音」にはならぬもの。だがこの分なら、予想外に早く音がまとまるかもしれない。

 終演後の「打ち上げ」の際に小耳に挟んだところによると、この「4大」の企画は、来年もやるそうである。内容については私の知るところではないが、コンクールではないのだから、やはり各オケそれぞれにやりたい曲、得意のレパートリーを出す方が面白いだろう。
 指揮者陣のリーダー格の井上さんは「各オケのメンバーがそれぞれ他のオケの演奏を聴くような方法を講じなくては」と言っていたが、これは正論だ。とはいえ、満席完売ではそれは非常に難しいことだろうが・・・・。

 終演は9時半ころ。オーケストラごと入れ替わる大変なステージ転換は、舞台スタッフの人海戦術と要を得た動きのおかげで思いのほか速く進み、2回とも各5~6分で完了、見守る客をだらけさせなかったのは実に見事。

2015・4・21(火)ニュー・チューリッヒ管弦楽団

    サントリーホール  7時

 1990年結成という、スイスに本拠を置くオーケストラが来日。
 マルティン・シュトゥーダーという人が首席指揮者で、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、ロドリーゴの「田園協奏曲」(フルート・ソロはフィリップ・ユント)、ドップラーの「リゴレット幻想曲」(フルート・ソロはユントおよび佐久間由美子。いずれもゲスト・ソリストである)、チャイコフスキーの「交響曲第5番」というプログラムだった。

 言っちゃ何だが、こんなひどいオーケストラは聴いたことがない(もちろん、ゲスト・ソリスト2人の演奏は別としてである)。アンサンブルが崩壊寸前━━どころの騒ぎでなく、のべつ崩壊状態に陥るのをはじめ、ずれる、はずす、飛び出す、音を抜かす、といった事故も数知れず。ホルン、トランペット、ファゴットの各1番の下手さ加減、いい加減さは、この世のものとは思えぬほどだ。

 ホルンの1番は「フィガロ」からずっと滅茶苦茶さが目立っていたが、チャイコフスキーの第2楽章のあの長いソロだけは何とか最後まで吹き切った━━と思いきや、最後の高音の二つの音符(第28小節)を、何と見事に「省略」してしまった!
 トランペットの1番も同様、立て続けに音をはずす。交響曲の第4楽章クライマックスの最強奏の主題(第550~554小節)では何と息が続かず、最後の下行音がF・Oになってしまうというお粗末さだ。ファゴットの1番も、都合の悪い個所を吹かずに済ます・・・・。他の管も似たようなもの、次の最強奏のフレーズに入る直前の音を最後までちゃんと吹かずに息継ぎすることさえあったほどで・・・・。
 弦も雑然、「フィガロ」で音をはずしたのには唖然とさせられた。それに、そもそも第1ヴァイオリン7人、コントラバス2人・・・・などという編成でチャイコフスキーの交響曲を演奏すること自体が無理だし、しかも情けないほど音が薄い。

 世の中には、信じられないようなオーケストラがあるものだ・・・・。
 オケのプロフィールを読むと、「世界各国の優れた若手が集まり」と書いてあるけれど、正体はいったいどういうオケなのだろうか。
 たとえ下手でも、一所懸命演奏しているならまだ良しとしよう━━だが、音を勝手に抜いたり、いい加減に演奏したりするのは、音楽家として許されるべきことではないでしょう。これは、オーケストラでなく、著しく非良心的で不誠実なグループであった━━指揮者も含めて。

2015・4・20(月)プレトニョフ指揮東京フィルの4月定期中止

 ミハイル・プレトニョフの指揮でグリーグの「ペール・ギュント」(劇音楽版)を演奏するはずだった東京フィルの4月定期公演が、直前に中止となった。プレトニョフの急病による来日中止が理由と発表されている。

 ぎりぎりまで様子を見ていた上での決定発表と思われるし、この曲の指揮は余人をもって替えがたい、他のプログラムと指揮者に変更するには時期が遅い、仮にその別の企画を即席で公演しても聴衆の満足を得られるような水準は保証しがたい━━とか、いろいろ裏の事情があるらしいから、仕方がないと言えば仕方がなかろう。

 とはいうものの、歴史のある大オーケストラが、指揮者が急病になったからというだけで定期演奏会を中止するというのは、前代未聞の珍事ではある。
 定期公演というのはオーケストラにとって最高のステイタスともいうべきイベントであり、それだけは石にかじりついても絶やさずにやるのだ━━というのが、昔からプロの鉄則といわれていたからだ。

 たとえば第2次世界大戦末期の1945年、すでに焼野原となっていた東京で、日本交響楽団(現NHK交響楽団)がぎりぎりまで定期公演を絶やさず必死に続けていたことは、よく知られているだろう(6月公演をもって定期を打ち切ったのは、陸軍の「本土決戦」方針が伝えられはじめたからだったといわれる)。しかし日響は、8月15日の終戦のあと、9月には、廃墟の中で早くも定期を再開したのだ。

 ・・・・今は特に音楽に飢えているわけでもない飽食の時代、たとえステイタスの定期と雖も、そこまでムキになる必要はない━━というのが現代のオケの本音なのかもしれない。どちらが適切であるとは一概に言えないが、時代が変わったことだけは確かであろう。

2015・4・18(土)インキネン指揮日本フィル シベリウス・プロ

     横浜みなとみらいホール  6時

 首席客演指揮者ピエタリ・インキネンによるシベリウス。「カレリア」組曲、「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは三浦文彰)、組曲「レンミンカイネン」(全曲)━━まさに極め付きのプログラムだ。

 インキネンは昨今、首席指揮者ラザレフ、正指揮者・山田和樹とともに、日本フィルの三頭政治の一角として充実した指揮を聴かせる人である。まして今日は彼の十八番のシベリウス。さぞや素晴らしかろう、と期待120%で聴きに行ったのだが・・・・。
 あろうことか最初の「カレリア」では、冒頭のホルンがグラグラしてアンサンブルの精緻さを欠いたのを手始めに、演奏全体に生気も緊迫感も全く感じられぬ状態が続いて行った。これは今日はダメかなと落胆。インキネン指揮下でさえも昔の日本フィルに逆戻りすることが起こり得るのか、とさえ思ったほどである。

 だが、その不安が完璧に払拭されただけでなく、かつて日本のオケでは聴いたことのないほどの見事なシベリウス演奏が立ち現れたのは、「レンミンカイネン」組曲である。第1曲「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」の開始後間もなく、演奏がみるみる密度の濃いものになり、特に後半では、何度か繰り返される息の長いクレッシェンドが、その都度あざやかに決まって行く。

 シベリウスの初期稿の順序に従って第2曲に置かれた「トゥオネラのレンミンカイネン」での、濃い霧の中を彷徨うような不気味な翳りに満ちた音色は流石のものがあった。そして、その霧の彼方から木霊するようなホルンの響きも、今度こそは感動的なものになったのである。
 第3曲に置かれた「トゥオネラの白鳥」も、まさに黄泉の国の暗鬱な河の幻想を想像させる演奏であったろう。

 そして、いっそう舌を巻かされたのは、最後の「レンミンカイネンの帰郷」での演奏だ。この曲を、霧の中を疾走するような、くぐもった音色に響かせるのはなかなか至難の業らしく、ナマのステージでは概して管楽器群がリアルに鳴り過ぎて、やたらエネルギッシュな演奏に陥ってしまうことが多い。
 その意味でも、今日のインキネンと日本フィルの演奏は驚異的な域に達していたといえよう。叙事詩「カレワラ」の一節からイメージされる光景━━レンミンカイネンが霧の中を馬で疾駆、ついに母の待つ故郷に到着するといった模様は、今回のように、管楽器群を前面に押し出さず、ヴェールのかかった音色で押し切ってこそ、劇的に描き出されるのである。

 この「レンミンカイネン」組曲、今回ももちろんすばらしかったが、もう一度やったら、さらに最高度の演奏になるだろう。東京のサントリーホールのアコースティックの中で、東京のシベリウス・ファンのために再演するわけには行かぬものか。
      ⇒別稿 モーストリー・クラシック7月号 公演Reviews

2015・4・18(土)小山実稚恵&大野和士指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  2時

 「小山実稚恵デビュー30周年記念~春~」と題された演奏会で、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」と、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」が組まれた。
 協演した大野和士と東京都交響楽団は、最初にウェーバーの「オイリアンテ」序曲を演奏し、記念コンサートの幕開きを飾っていた。

 大野と小山は、一種の盟友関係ともいうのか、5年前の小山の「デビュー25周年記念」でもブラームスのピアノ協奏曲2曲で協演しており、また2年前にもラフマニノフの「第3協奏曲」で協演している。
 旧きを辿れば、今から31年前(1984年3月15日)、大野和士が東京都響の「ファミリーコンサート」で「指揮者としての公式デビュー」を果たした時、ソリストとしてラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を協演したのが小山実稚恵だった、という因縁がある。

 それは、彼女はチャイコフスキー国際コンクールの第3位に入賞した2年後のことだった。「31年前」では、「デビュー30周年」と数が合わぬではないか、ということにもなるが、彼女は1985年のショパン国際コンクール入賞の年を「公式デビュー」の年━━と位置づけているそうである。したがって、大野・都響の初顔合わせの演奏会での協演は、彼女にとっては「公式デビュー前」ということになるわけだ。

 余談だが、つい先日、ある地方オーケストラのサイトを調べていた私は、そこにゲスト・ソリストとして出演する予定の彼女について、
 ━━小山実稚恵 デビュー40周年━━
と麗々しく書かれていたのを見て、肝をつぶした。慌ててそのオケの広報担当さんに
 「やばいよこれ、ご本人が見たら卒倒するよ」
と連絡、修正してもらうという、マネージャーもどきのことまでする羽目になったのだが。
 何日かたってから当の小山さんにその話をしたら、案の定、飛び上がって驚いていた・・・・。

 さてその演奏だが、これはもう、異様なほどに物凄い気魄のこもったものだった。特にラフマノニフの「3番」。聞こえぬくらいのピアニッシモで開始され、そのままささやくような、控えめな語り口で進められたピアノ・ソロが、やがて凄まじい昂揚に向かって行く。第1楽章半ばのカデンツァの個所など、何か憑かれたような演奏であった。燃える情熱にピアノもろとも己が身を投入するといった雰囲気には、息を呑まされてしまう。
 第1楽章第1主題における抑制された最弱音と、第3楽章クライマックスでの豪快な音とが鮮やかな対比をつくる、その演奏設計の妙━━。

 大野和士と東京都響の演奏が、また素晴らしいものだった。東京文化会館のドライな音響の中では真価を発揮できなかった前2回(8日、12日)の演奏と違い、この残響豊かなサントリーホールでは、3日の定期におけるものと同じような瑞々しい音色、完璧な均衡、弛緩のない推進力、精密なニュアンスなどが、今日の3曲の演奏において、あますところなく甦っていたのである。こういう演奏を聴けば、この大野と都響の組み合わせは、ベストに近いものだということを印象づけられるだろう。

 皇后陛下御臨席の中で繰り広げられたラフマニノフの協奏曲が熱狂的な拍手とブラヴォ―に包まれたあと、小山と大野は、ドビュッシーの「小舟にて」を連弾で演奏した。何となくぎこちない連弾ではあったが、微笑ましい光景であった。

2015・4・17(金)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィル

    すみだトリフォニーホール  7時15分

 Conductor in Residenceインゴ・メッツマッハーの最後の定期の初日。R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」および「死と変容」を前後に置いて、真ん中にエドガー・ヴァレーズの「アメリカ」と「アルカナ」を入れた、実に個性的で意欲的なプログラムで、最後の定期のプログラムを飾る。

 メッツマッハーは、新日本フィルとは、ポストには僅か2年足らずの在任だったが、関係は2010年の客演以来だった。この間、「ヴァルキューレ」第1幕や「アルプス交響曲」、マーラーの「悲劇的」、ツィンマーマンのシリーズなど、重量感のあるプログラムを指揮し、手応え充分な演奏を聴かせてくれたのだった。その功績は実に大なるものがあるといって過言ではない。

 今日の定期も、メッツマッハーの本領が発揮されたもの、といっていいだろう。
 彼の指揮は概して、骨太で荒々しいエネルギー、たっぷりとした厚みのある強靭な音響構築といった持ち味が魅力だから、音楽にそういう特徴が生かされている個所では成功を収めている。

 R・シュトラウスの2曲では、新日本フィルの管の一部に雑な演奏が聞かれたため、骨太な要素と細やかな叙情とが肉離れを起こしていた趣があったけれども、シンフォニックな流れは充分に聴かれていた。
 たとえば「ティル」の後半、主人公の悪戯がクライマックスに達する個所などでは、まるで魔王か怪獣が大暴れしているような悪魔的な力感が演奏いっぱいにあふれていたし、「死と変容」でもテンポの対比が大きく、エネルギッシュな烈しさが死の暴虐を描き出していたのだった。

 ヴァレーズの大オーケストラ曲を2つ並べて聴けるなどというコンサートは、滅多にないだろう。ヴァレーズの作品は、60年代から70年代のはじめにかけ、レコードでは結構もてはやされていたという記憶があるが、近年はなかなかナマでは聴けない。
 「アルカナ」はこれが日本初演と銘打たれており、「そうかなあ?」という気もするが、たしかに私も、ナマで聴くはこれが初めてだと思う。

 2曲とも、良く言えば豪壮な力感、悪く言えば凶暴無比、これでもかとばかり延々と大音響がたたきつけられる、騒々しいことこの上ない曲だ。が、この恐るべき狂乱の音の渦巻には、ある種の不思議な魅力がある。
 「アメリカ」は、破壊的で混沌たる苦悩のアメリカともいうべく、百年近く前に作曲された作品でありながらも、妙に今日的なイメージを感じさせるだろう。こういう曲なら、オーケストラが少しくらい荒れていようがいまいが、構ったことではない。いや、後半で、オスティナート的な動きをするテューバなどが明確に浮かび上がって来るあたり、メッツマッハーの構築設計もなかなか細かいなと感心させられたくらいだ。
 一方、休憩後に置かれた「アルカナ」の方は、秩序をやや取り戻した作品であり、演奏も全体に引き締まったものに感じられた。

 ━━とにかく、面白い演奏会だった。メッツマッハーには改めて感謝。
      別稿 音楽の友5月号 演奏会評

2015・4・14(火)新国立劇場 ヴェルディ:「運命の力」

   新国立劇場オペラパレス  2時

 2006年3月にプレミエされたエミリオ・サージ演出のプロダクション。その時に観たはずの印象がどうも定かでないので、日記をひっくり返してみたら、何と指揮が井上道義で、ドン・アルヴァーロを歌っていたのが何とロバート・ディーン・スミス(!)だった。

 それで━━今回の演奏は、ホセ・ルイス・ゴメスが指揮する東京フィル。
 主役歌手陣は、ドン・アルヴァーロをゾラン・トドロヴィッチ、その恋人レオノーラをイアーノ・タマー、その兄ドン・カルロをマルコ・ディ・フェリーチェ、2人の父カラトラーヴァ侯爵を久保田真澄、ロマの女プレツィオジッラをケテワン・ケモクリーゼ、グァルディーノ神父を松位浩、修道士フラ・メリトーネをマルコ・カマストラという顔ぶれ。

 トドロヴィッチは馬力充分ながら粗っぽく、タマーは弱音部分が不安定・・・・というわけで、恋人役2人には少々不満が残った。
 安定していたのはドン・カルロを歌ったマルコ・ディ・フェリーチェだろう。スキン・ヘッドの精悍な風貌には、父侯爵を殺したアルヴァーロへの執拗な復讐の念に燃える男の役としての陰鬱さはないが、家名にこだわる頑固な貴族としての尊厳は表れていたようである。それと、重厚な声で慈悲深い神父の役柄を表現した松位浩の力量も讃えたい。
 唯一コミカルな役柄で重要な役割を果たすはずのカマストラは、その喜劇的な表現の方はいいとしても、声がすぐひっくり返るのでは困る。

 指揮とオーケストラは、これまでの上演を聴いた人々からは少なからず不満の声が伝わって来ていたけれども、今日(5回目、最終日)の演奏を聴いた限りでは、どうして結構いい線に行ってるじゃないか、という気がした。音楽を丁寧につくっているし、ダイナミックな力にも事欠かない。東京フィルも、先日のバッティストーニ指揮の「リゴレット」に勝るとも劣らぬ出来だったと言えよう。まあ、欲を言えば、テンポの遅い部分での緊張力に少し難があるか、といったところか。

 ローレンス・コルベッラの舞台美術と磯野睦の照明を含めてのサージの演出は、素材としては比較的良く出来ている方だが、例のごとく舞台に熱気と活気が感じられないのが問題だ。
 たとえば、舞台転換の方法が何となく要領の悪さを感じさせること、また群衆の動きが異常なほど緩慢で、何か所在無げに動作をしているようにさえ見える個所が多すぎるということ、ラストシーン(レオノーラの死)の照明と装置がお手軽さを感じさせること━━これらの点だけでも改善すれば、もっと良いプロダクションになるはずである。
 新国立劇場合唱団だって、もっと鋭い動きができるはずだし━━「ピーター・グライムズ」の時のように。

 余談ながら、その9年前の日記をめくってみると、「運命の力」プレミエの直前には、沼尻竜典が名古屋フィルを、高関健が群響を、大山平一郎が大阪シンフォニカー響を率いて東京公演をやっていた。また翌日には、ルカーチ・エルヴィンが日本フィルを指揮しており、ソリストには、今は大ピアニストになっている河村尚子が出ていた。「まだ若いが音楽のスケールが大きく、注目株だ」とメモがある。そういう時代だったのだ。

2015・4・13(月)METライブビューイング「湖上の美人」

   東劇  7時

 3月14日MET上演のライヴ映像、ロッシーニの「湖上の美人」。METではこれが初めての上演だそうだ。

 さほど熱心なロッシーニ・ファンとはいえぬ私でも、これだけの歌手が登場し、揃いも揃って見事な歌唱を聴かせてくれると、理屈抜きにわくわくさせられてしまう。
 主な配役は、ヒロインのエレナにジョイス・ディドナート、ウベルト(スコットランド王)にファン・ディエゴ・フローレス、マルコムにダニエラ・バルチェッローナ。それに、ロドリーゴのジョン・オズボーンを加えた主役歌手陣が、負けじと張り合って素晴らしい歌を聴かせるさまは、まさに壮観である。

 2人のテナー、フローレスとオズボーンがハイ・Cを連発して応酬する決闘場面など、音楽的にも痛快無類そのものだし、これにディドナートが加わった三重唱場面の緊迫感も圧倒的だ。何となく物凄いメークでド迫力を出すバルチェッローナの安定した風格にあふれる歌唱も、さすがというほかはない。

 ミケーレ・マリオッティの指揮は手堅いが、名歌手たちをこれだけ生き生きと歌わせることができるのは、それ自体が立派な力量と評されるべきだろう。
 演出はポール・カラン、舞台装置と衣装デザインはケヴィン・ナイトで、最後のハッピーエンド場面はやや類型的ながら、充分に華麗ではある。その他の戦闘場面などは、この映像収録では比較的狭い範囲の舞台しかとらえられていないが、その範囲で言えばまとまりはいい方だろう(METの広大な舞台枠の中でこれがどの程度のインパクトを出していたのかは判らないが)。

 それにしても、歌、歌、また歌、さらに歌、といった感のあるこのオペラが、同時に、いかに多彩で精妙な管弦楽法にあふれているか、驚異的というほかはない。
 今回の案内役はパトリシア・ラセット。彼女も進行とインタビューが巧い。これが巧い人だと、歌手たちが生き生きと楽し気に喋る。今日もディドナートやフローレスのインタビュー・シーンは、実に楽しい雰囲気だった。

2015・4・12(日)東京・春・音楽祭 ベルリオーズ:「レクイエム」

   東京文化会館大ホール  3時

 自称ベルリオーズ超愛好家としては、演奏されるのがごく稀な「レクイエム」を聞き逃すわけには行かない。
 これは「東京・春・音楽祭」の最終公演だが、「都響新時代へ、大野和士のベルリオーズ」と題されているところは、都響定期のCシリーズみたいな感がある。
 演奏は、その大野=都響に、合唱が東京オペラシンガーズ(合唱指揮 レナート・バルサドンナ)、テノール・ソロがロバート・ディーン・スミス。

 演奏されるのは日本では稀━━と言ったが、それでも1960年代以降、小澤征爾指揮で2回、秋山和慶指揮で1回、シャルル・デュトワで1回、あともう1回か2回・・・・という具合に、聴く機会も皆無ではなかった。
 どの演奏会でも一長一短だったのが、金管のバンダの配置の場所である。

 私の経験の中で、最も聴き易かったのは、小澤征爾が日本フィル(旧)時代にこの同じ東京文化会館大ホールで演奏した時のもので、バンダはそれぞれ5階席に配置されていた。そのため、特に1階席で聴いていると、バンダの金管群のファンファーレは、非常な高みから適度な距離感・遠近感をもって響き、舞台上のオーケストラやコーラスを打ち消すことなく鳴り渡ったのである。
 特に「怒りの日」の大爆発の個所では、8対のティンパニの怒号の上に金管群が左右後方からこだまするように重なって響いて来て、その音の洪水の中に身体が浮き上がるような錯覚に陥ったことを、今でもまざまざと記憶している。

 だが今日のバンダ群は、それよりもはるかに低い2階席に配置されていた。管の本数こそ少し減らされてはいたものの、この位置は、すべての客席にあまりにも近すぎたのではなかろうか。少なくとも1階席の19列目やや下手寄りで聴いていた私には、その刺激的な大音響が耳をつんざき、舞台上のオーケストラの音をすべてかき消してしまい、そのあともオケ本体や合唱の音が甚だ遠いものに感じられてしまったことは、たしかである(左右のファンファーレが明確すぎ、ずれて聞こえるからますます始末に悪い)。

 マエストロ大野は、このようなバンダの音を、至近距離から響かせるのが好きらしい━━いつかの東京芸術劇場での「アルプス交響曲」の時にも、ふつうは舞台裏から遠く響かせる「狩のファンファーレ」を、正面オルガン席の下にずらりと位置させ、オケ本体の音をかき消すほどの大音量で轟かせたことがある。
 「アルプスの大岩壁にこだまするような感じで、いいでしょう?」と、あとでご本人から訊かれて、何と答えていいか、とっさに返事できなかったが・・・・。

 それでなくても、今日は何故か舞台上のオーケストラの音が、いつもよりさらに、客席へストレートに響いて来ないという現象があった。これは、必ずしも私の耳のせいでもなかったような気がするのだが。
 そもそもこの「レクイエム」の最も素晴らしい部分は、大音響の個所ではなく、実はピアニッシモの個所にある。後半の「オッフェルトリウム」しかり、「サンクトゥス」しかり、「アニュス・デイ」しかり。これらの叙情的で神秘的な最弱音が、もっと瑞々しく響くような音響設定がつくり出されていたら、今日の演奏は、もっとずっと感動的なものになっていたのではなかろうか━━。

 舞台の一番奥の高所で「サンクトゥス」のソロを歌ったロバート・ディーン・スミスは、この曲想からしての立ち位置と、その声の響きのバランスはベターだったが、「et terra」の最高音(Bフラット)は、やはりちょっと苦しかったようである。
 この曲の場合、ここは本当に難しいらしい。日本でこれを歌ったテナーのうち、一番声がきれいだったのは、ジョン・健・ヌッツォだった。前出の小澤=日本フィルの時に歌ったテナー(結構有名な人だった)は、2回の公演とも、全部同じ個所で完全にひっくり返っていた━━当時日本フィルのライヴを放送していた文化放送は、たしかやむをえず「サンクトゥス」をカットしたように思う。

2015・4・12(日)広上淳一指揮の「ドイツ・レクイエム」GP

     東京芸術劇場コンサートホール  午前11時

 広上淳一と日本フィルがブラームスの「ドイツ・レクイエム」を、大野和士と都響がベルリオーズの「レクエイム」を、それぞれ東京芸術劇場と東京文化会館で、午後のほぼ同じ時間に演奏する。

 ちなみに今日は、メッツマッハーと新日本フィル、カンブルランと読響、ヴァイグレとN響、秋山和慶と東響もほぼ同時間帯にそれぞれのホールで公演している。東京・川崎のオーケストラ界も大したものだ、というべきかもしれないが、・・・・同じ時間帯にぶつかっていては、ダブルヘッダーで聴こうとしてもままならぬ。各オケとも集客しやすい時間帯を狙うわけだから仕方のないことかもしれないが━━。

 そこで、「ドイツ・レクイエム」の方は、ゲネプロを取材に行く。これは日本フィルハーモニー交響楽団の「サンデーコンサート」で、協演は中嶋彰子(ソプラノ)、河野克典(バリトン)、パイオニア合唱団、長井浩美(オルガン)、物集女純子(ゲスト・コンサートマスター)という顔ぶれだ。

 リハーサルだから、演奏についての意見は差し控えるが、広上の流れのいい指揮のおかげで、この曲が久しぶりに活気のある壮大な音楽として胸に染み入って来た。1階席前方はただでさえオケの音がよく響く場所で、ましてや客の入っていないホール空間。まるで教会の大伽藍の中で演奏されているのを聴くような思いであった。作品の性格からいっても、それがいっそう感動的だったのはいうまでもない。

 本番は午後2時から行われたはずだが、私は失礼して、次の会場、ベルリオーズの「レクイエム」へ━━。

2015・4・11(土)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

     東京オペラシティコンサートホール  2時

 新しいシェフを4月に迎えて沸き立っているのは、東京都響だけではない。今年が創立40周年にあたる東京シティ・フィルも、新しい常任指揮者に4月から高関健を迎えた。
 今日がその新体制による最初の定期公演である。プログラムは、スメタナの連作交響詩「わが祖国」全6曲だった。

 私は━━特にこの数年は━━シティ・フィルの定期にそう多く通っていたほうではないから、口幅ったいことは言えないけれども、このシティ・フィルがこれだけ燃え立ち、怒涛の演奏を繰り広げたことは、そう多くなかったのではないかという気がする。

 1曲目の「高い城」から強烈なデュナミークの対比と表情豊かな音の起伏が聴かれたし、続く「モルダウ」の後半の「激流」部分では、まるで怒りの爆発のような激しさに驚かされた。「シャールカ」では前半の叙情的な美しさと後半の劇的な昂揚の対比に、高関の設計の巧さが感じられただろう。
 そして、休憩後の「ボヘミアの森と草原から」での緊迫感あふれる奔流のような演奏は、私が聴いたこの曲の演奏の中でも、最も優れたものの一つと言っていいほどだった。

 「ターボル」「ブラニーク」も、速めのテンポと激烈なデュナミークで追い上げ、息もつかせぬほどの迫力をつくり出す。実に見事な演奏だった。
 ただし欲を言えば、「ブラニーク」中途までの盛り上がりがあまりに烈しかったので、最後のダメ押しの頂点たるべき個所が、それらを上回るまでには・・・・ということか。
 とはいえ、最後のトランペットの跳躍と、全管弦楽がたたきつける和音とが応酬する個所での、高関さんの劇的な左腕の動きには息をのまされた・・・・というのが正直なところである。

 マエストロ高関のオーケストラ・ビルダーとしての手腕と、アンサンブルづくりの巧さには、絶対的な定評がある。かつては群馬交響楽団を見事な水準にまで高めた人だ。彼なら、このシティ・フィルを再び強固なオーケストラに高めてくれるだろう。久しぶりに、東京での彼の本領発揮の場面が出て来たようである。シティ・フィルの新たな活動にも期待したい。
       ☞別稿 モーストリー・クラシック 7月号 公演Reviews

2015・4・10(金)シルヴァン・カンブラン指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 常任指揮者シルヴァン・カンブルランが、リームの「厳粛な歌」(日本初演)と、ブルックナーの「交響曲第7番」(ノーヴァク版)を指揮した定期。面白い組合わせのプログラムである。

 リームの「厳粛な歌」をナマで聴いたのは初めてだったが、ヴァイオリン、フルート、オーボエなど高音域の楽器群を欠いた編成のオーケストラが響かせる重々しく暗鬱な音色、空間的な拡がりのある不気味な響きは、形容しがたい美しさにも富んでいた。これは録音ではなかなか捉えにくい類の音楽だろう。
 しかもバリトン・ソロを歌った小森輝彦の自信に満ちた歌唱、微細な音程の変化を鮮やかに再現する技術的な完璧さも加わって、非常に印象深い演奏となっていたのである。

 この暗く重いリームの作品のあと、休憩をはさんで演奏されたブルックナーの「第7交響曲」が、それゆえ実に清澄な音楽に聞こえたのは当然だろう。
 第1楽章冒頭から、弦楽器群の澄み切った響きが流れ出す。もともと綺麗な曲だが、今日はとりわけ清涼な美しさが胸にしみた。プログラミングの妙と謂うべきだが、フランス生れの指揮者カンブルランの個性によるところも大きいだろう。

 粘着質の重厚な大伽藍的ブルックナーではなく、爽やかで透き通ったブルックナーだ。第1楽章のコーダなど、クレッシェンドとともにみるみるテンポを速めて行き、最後の和音を軽くスポッと短く切る、というスタイルなのである。ここをこんなふうに終らせる指揮者は、滅多にいないだろう━━ふつうなら、重々しくどっしりと終らせる個所だ。

 演奏時間は、ふつうなら65分程度のところを、楽章間を入れてわずか57分。カットがあったわけではない。それに、全体にそれほど飛ばしているという感もなかった。だが、実に気持のいい演奏だった。

2015・4・8(水)大野和士指揮東京都響 音楽監督就任記念公演Ⅱ

    東京文化会館大ホール  7時

 定期Aシリーズ。曲はマーラーの交響曲第7番「夜の歌」。これ1曲のみだが、作品の重量感を考えればこれで充分とも言える。

 6時半から、今回も大野和士のプレトークがあった(約20分)。身振り手振りも賑やかに舞台をあちこち動き回り、自らテーマを口三味線で歌ったりしながらの陽気なトーク。
 ふつう、東京のオケのコンサートでは、プレトークの時には客はチラホラ、多くても200~300人程度がいいところだが、今日は最初から相当な人の入り、6時40分頃にはあらかた人で埋まった感があった。新音楽監督の圧倒的な人気を物語るものだろう。

 マエストロ大野が、2回の就任記念定期のプログラムにおいて、ベートーヴェン━━マーラー━━シュニトケという3人の作曲家を一つのラインとして捉えていることは前回にも触れた。
 この日のプレトークでも彼は「シュニトケがマーラーの影響を大きく受けた」ことに言及していたが、そういう話を聞くと、なるほど「第7交響曲《夜の歌》」には、「シュニトケ的作風」を先取りしたような特徴が多く現われているのに改めて気づかされる。
 その最たるものは、一見全く関連性のない曲想が入り乱れる第5楽章(フィナーレ、ロンド)である。雑多な曲想、意外性、アイロニー、そして━━この交響曲全体に流れる怪奇性などといった特徴がシュニトケの作品群の中に遠いエコーとなって蘇っているという見方は、たしかに成り立つだろう。

 この「雑多な」要素を実に巧みに整理して、いかにも一つの論理的な集合体のごとくバランスのいい、完璧な構築に仕上げてしまったのが、数年前のインバル=都響の演奏である。一方、雑多な曲想をそのままに押しながら、最後の最後に安堵感を生む大団円(第1楽章主題の再現)をつくり出したのが、その同じ頃にハーディングが新日本フィルを指揮した演奏だった。
 そして今日の大野=都響は━━その入り乱れる曲想を丁寧に拾い集めながらも、あるがままに並べ直し、シュニトケへの関連性を再認識させる・・・・といった手法に喩えられようか。

 いや、それはただ私が勝手に憶測しただけの話であって、マエストロがそう考えていたのかどうかまでは定かでない(それどころか、全く違うかもしれない)。
 ただ、この3人の作曲家による3つの作品を聴いて、私がこれまであまり深く考えたことのなかった問題について興味を持てたことについては、感謝したい。

2015・4・7(火)東京・春・音楽祭「ヴァルキューレ」(演奏会形式)

    東京文化会館大ホール  3時

 昨年の「ラインの黄金」に続く「ニーベルングの指環」演奏会形式ツィクルスの2年目。充実した上演だった。

 まず、指揮者のマレク・ヤノフスキである。坦々としたイン・テンポを主体とし、誇張やハッタリも皆無で、ただ作品の力を信じてひたすら真摯に演奏を進めるといったタイプの指揮だ。ワーグナーの音楽が持つ力は、そうした率直な演奏の方が生きるだろう。
 第3幕でブリュンヒルデがジークリンデに向かい、初めて「ジークフリート」の名を口にするドラマの歴史的転換の個所でさえも、ヤノフスキは、テンポをほんのわずか引き締めるだけである。

 だが時には、劇的効果を強める手法を採ることもある。たとえば、ヴォータンがブリュンヒルデに屈辱的な引導を渡す「炉辺に座って糸でも紡げ、物笑いの種になれ」のあと、全管弦楽より1拍早く出るティンパニのフォルティシモの冒頭にダイナミックなアクセントをつける方法など、まさにこの神々の長の異常な怒りの恐ろしさを如実に描き、ドラマを見守るわれわれにも強烈な衝撃を与える手法ではなかろうか。
 全曲にわたり、弛緩を感じさせない演奏は、見事なものであった。特に第2幕後半、「死の告知」から幕切れにいたるまでの緊張感は素晴らしい。骨太で滋味のある表現の指揮だから、ここはとりわけ印象的な演奏になっていた。

 これを受けるNHK交響楽団も、見事な演奏をした。かつて「タンホイザー」や「マイスタージンガー」の頃には、整ってはいるけれども味も素っ気もない演奏をして、われわれを失望させていたものだが、昨年からの「指環」では、俄然演奏の密度が濃くなり、情感的な味も加わって、ワーグナーの滔々と押し流れる音楽を感動的に再現してくれるようになった。
 コンサートマスターには、昨年に続きライナー・キュッヒルが客演で来ていたが、彼の存在も大きかったのではないかと思われる(プログラム冊子に彼の名のクレジットもプロフィール紹介も記載されていなかったのはどういうわけか?)。

 オーケストラの音がまっすぐ客席に押し寄せて来なかったのは、スクリーンその他の設置のために反響板が正常な形で置かれていなかったからと思われるが、これは舞台前面に位置する歌手たちの声とのバランスを思えば、まず過不足はないだろう。

 また、1階席24列で聴いた限りでは、木管の動きがかなり明晰に聴き取れた。第3幕の、ヴォータンが「もはやそのあどけない口にわしがキスしてやることはない」という歌詞の背後に、怒りの陰に隠された大神の哀しさを描いてオーボエが上昇して行き、イングリッシュホルンがそれを追い、それらが管楽器群の柔らかい悲痛なハーモニーに包まれて行くくだり、ヤノフスキのさり気ないが神経の行き届いた指揮によって、N響は素晴らしい音色を響かせてくれたのである。

 歌手陣。
 ヴォータンはエギルス・シリンス。昨年に続く出演。若々しい張りのある声で、この大役を明快に表現して聴き応えがある。未だ血の気の多いリーダーといった雰囲気のヴォータン像は、この作品においては悪くないだろう。
 ブリュンヒルデはキャサリン・フォスター。第2幕冒頭の「戦の雄叫び」を聴いた時、この人はこんなに柔らかい声だったかと思ったが、数年前に聴いたハンブルクでの「指環」、飯守泰次郎指揮のオーチャードホール演奏会で歌った「ヴァルキューレ」での同役に比べれば、さすがにその後バイロイトで同役を歌った経験もあって、格段の出来を感じさせた。猛女的、女傑的でないブリュンヒルデ像は、この作品の場合、むしろ好ましいだろう。

 ジークムントはロバート・ディーン・スミス、良い歌手だが、颯爽としたものがないために損をしている部分がある。ちょっと少年っぽい、一途で純真な青年ジークムントといった表現としては好いだろう。
 フリッカのエリーザベト・クールマンもいい。きりりと引き締まって、夫ヴォータンを説得する知的な女神としての役柄を素晴らしく表現してくれた。別れ際にブリュンヒルデへの捨てゼリフを歌う時、歌唱にちょっとひねりを効かせて嫌味を表現するその巧さ。出番は少なくても、強烈な印象を残す歌手である。

 ジークリンデは、ワルトラウト・マイヤーだ。たしかに声には往年の輝きが薄れたとはいえ、それを補って余りある歌唱表現の巧味は、今回の主役陣の中でも随一である。
 第3幕での彼女の最後の歌詞の冒頭、「おお、いとも高貴なる奇蹟!」は、全管弦楽の高鳴りの中で歌われる音楽だが、十数年前にベルリン州立歌劇場の「指環」(バレンボイムの指揮)でここを歌った彼女の、オーケストラの上に美しく浮き上がる神々しいばかりの感動の表現の素晴らしさには、涙がにじむほどだった。今はその時の声は望むべくもないけれど、その法悦的な感動を巧みに表現することにおいては、当時と全く変わっていない。この「救済の動機」が初めて響く個所でのマイヤーの歌唱は、今回の「ヴァルキューレ」の演奏全体を象徴したものであったろう。

 フンディングはシム・インスン、力のあるバスの声は安定感がある。主役歌手の中で彼だけが譜面を見ながらの歌唱だった。
 8人のヴァルキューレたちは佐藤路子、小川里美、藤谷佳奈枝、秋本悠希、小林紗季子、山下未紗、塩崎めぐみ、金子美香。下手の茶色の反響板の前で、譜面台を前に1列に並んで歌った。彼女たちのパートのみ、少しPAを効かせたのだろうか?

 演奏会形式ながら、主役たちは必要最小限の身振りでドラマを表現する。欧米の歌手たちは、これが実に巧い。簡にして要を得た演技をするのである。
 特にワルトラウト・マイヤーは、歌っていない時の演技ですらが、素晴らしい。第1幕でジークムントの歌を黙って聞いている時もそうだったし、あるいは第2幕の「死の告知」の場面で、椅子に腰を下ろしたままの「眠っている演技」でありながら、夢か現か、悲劇的な運命に打ちひしがれた女性の姿を全身で表現しているその「動かぬ演技」は、驚異的でさえあった。真のオペラ歌手とはかくあるべきであろう。この場面が視覚的に引き締まり、劇的な緊張感を最後まで失わせなかったのは、彼女の凄まじい存在感のためもあったと言って過言ではあるまい。

 ディーン・スミス(ジークムント)が斃されて退場する場面は、あれで精一杯の演出であろうが、まず妥当だった。それだけにインスン(フンディング)がヴォータンの一喝で斃され、退場する際に、ただ譜面を持って台を降りて行くだけの工夫のない動作は、この見事な場面を完全にぶち壊してしまい、痛恨の幕切れにしてしまった。
 なお第3幕、ヴォータンが「遠方」から「待て、ブリュンヒルデ!」と凄みを利かせる個所で、彼が一旦舞台に現われてそれを歌い、また姿を消し、再び出て来て娘たちを威嚇するというのは、ここだけは明らかに不自然な舞台であった。最初の一声は袖から歌わせても、充分効果はあげられたであろう。ワーグナー自身がここのオーケストラのパートを、それに配慮して書いていることだし。

 背景の巨大スクリーン(映像は田尾下哲)は、ほぼ昨年同様の演出だ。
 第1幕では歪んだトネリコの幹が立つ室内の光景(壁面は別荘みたいな感)。第2幕と第3幕は岩山と、微かに動く雲。全体にほぼ静止画に近い構成だが、大詰では、高くそびえる岩山の頂上に炎が燃え上がる光景となった。やや取ってつけたような細工に感じられたが、まあそれも一法だろう。中途半端だとか、無くてもよかった、などと言う人も少なくなかったけれども・・・・。
 それにしても、毎年このスクリーン演出には苦心していることがありありと判るのだが、そのわりにさっぱり評判がよくならず、むしろ悪口の方を多く聞く状態になっているのは、プロデューサーや映像担当に気の毒でならない。━━だが結局、どうやっても悪口を言われるなら、最後までこのまま突っ走るしかなかろう。

 字幕は昨年同様、舞台の左右やや高い位置にそれぞれ設置されていた。1階席の最前方あたりではどうか判らないが、少なくとも私の席からは至極見やすかった。
 字幕の担当者名がクレジットされていないが、文章は解りやすい。ものものしく厳めしい表現(ブリュンヒルデがジークムントに「おまえは死ぬのだ」)と、俗語的表現(ヴォータンが自分を「わし」でなく「俺」と)とが混合しているのは、昨年以上だろう。

 「ヴォータンの告別」の冒頭の訳文は、昔は「さらば、大胆な雄々しい娘よ」(西野茂雄訳)、「さらば、勇ある輝かしき子よ!」(渡辺護訳)など格調を重んじたものだったが、日本ワーグナー協会が「今生の別れだ、あっぱれな戦乙女!」(山崎太郎他共訳)という訳を出してからは、くだけた訳文が主流になって行くらしい。前出の「俺」も含め、神の存在が絶対的なものでなくなった現代を象徴すると言えるかもしれない。今回の字幕文は、この「さらば」が、ついに「達者で(に?)暮らせ」になった。

 30分の休憩2回をはさみ、終演は8時近く。

2015・4・4(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

   東京芸術劇場  2時

 バルトークの「管弦楽のための協奏曲」が演奏される第2部、コンサートマスター(小森谷巧)までがすでに着席してホール内は静まり返っているというのに、舞台奥の金管セクションの席は延々とガラ空きのまま。さては金管奏者たちが組合ストでも起こしたか、ポーカーでもやっていて「出」を忘れたか・・・・? 
 天下の読響ともあろうものが何たること、お客さんに対して非礼な・・・・と、ホール内に異様な雰囲気が立ち込めはじめる中で、待つこと約2分(これは長すぎる!)。やっとトランペットやトロンボーン奏者たちが出て来て━━。

 あとで事務局に訊くと、トロンボーン奏者の1人の楽器が故障し、予備の楽器を地下の駐車場のクルマまで取りに行って、それで・・・・ということだったとか。
 それなら仕方がないが、そういうことなら、せめて事務局の責任者が舞台に出て来て、事情をシャレのめして説明するとか、遅れた奏者たちが入って来る時に愛想よく客席にお辞儀をしてみせるとか、そのくらいのユーモアがあったら、むしろ客席を和ませ、コンサートの雰囲気さえ明るくさせたであろう。奏者たちが出て来れば、拍手で迎えられたに違いない。こういうところ、もっとやり方をスマートにしたらいいのに、と思う。
 あるいは、それをステージマネージャーに早く連絡して、いっそ全員の「出」をもっと遅らせるかだ。

 実は昨夜も、大野和士がプレトークを始めた時、PAがほとんど効かず、しばらく彼はナマ声で一所懸命喋っていた。
 やがてマネージャーが出て来て彼に近寄り、おもむろに何かを手で教えると、大野は照れ臭そうに「マイクをサカサマに持ってました」と釈明、「もう一回やり直し」とかやった。これで聴衆は爆笑、客席の雰囲気はいっぺんに明るくなった━━といういきさつがあったのである。

 ことほど左様に、何かあった時には、率直に説明すれば、客は怒るどころか、むしろ面白がって寛容な態度を取るものである。変に取り繕ったり、知らん顔をしていると、雰囲気は悪くなってしまうものなのである。幸いに、今日はマチネーシリーズだったためか、お客さんたちはおとなしかったが、クレームがなかったからいいということでもなかろう。

 で、今日の本題。演奏そのものは、実に聴き応えがあった。
 最初がグルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」から「序曲」「精霊の踊り」「復讐の女神たちの踊り」━━こんなのは、演奏会では滅多に取り上げられないプログラムだが、今日のように切れ味鋭いリズムの引き締まった演奏で聴くと、カンブルランと読響には、このあたりのレパートリーをもっと数多くやってもらいたいなという気持がいっそう強くなって来る。
 「序曲」での澄んだ音色と切れ味のよさ、「復讐の女神たちの踊り」でのダイナミックで荒々しく鋭い弦の躍動。ただし後者では、音を割ったホルンの咆哮が終始浮き彫りにされ過ぎて、弦がマスクされ、音楽の形式性を曖昧にする傾向が無きにしも非ず・・・・ということはあったろう。

 2曲目のハイドンの「交響曲第94番《驚愕》」も引き締まった精悍な表現で、この作曲家のウィットを躍動的に再現してくれた演奏であった。第2楽章でのあの「一発」のところで、私の隣に座っていたオバサンがビクッとなさったのは何とも可笑しく、現代でもまだあの「衝撃」は通用する余地があるのだなと、ちょっと愉快な気持になる。

 最後のバルトークの「管弦楽のための協奏曲」は、濃密に構築されたシリアスな演奏。管に些かの揺れがあった以外は、すこぶる立派な演奏だった。特に第4楽章での弦楽器群の音色は透き通って空間的な拡がりがあり、幻想的な趣さえ感じさせたのである。カンブルランと読響、相変わらず快調だ。

2015・4・3(金)大野和士指揮東京都響 音楽監督就任記念公演Ⅰ

    サントリーホール  7時

 都響における第5代音楽監督・大野和士の時代が成功裡に幕を開けた。
 シュニトケの「合奏協奏曲第4番=交響曲第5番」と、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」という超個性的なプログラムが、その最初の定期演奏会を飾る。

 古典交響曲の雄であり、かつ永遠の生命を誇るベートーヴェンの「5番」と、バロックの協奏曲様式と交響曲形式とを合体させて新しい試みを行なったシュニトケの「5番」━━これに来週のマーラーの「7番」を併せて、都響の歴史と未来とを象徴させる・・・・というのが、大野音楽監督の2つの就任記念定期のコンセプトなのだそうである。この3曲の初演年が、ベートーヴェン(1808年)マーラー(1908年)シュニトケ(1988年)と、「8づくし」なのは、隠しテーマか?。

 シュニトケの「5番」は、1990年に井上道義がこの都響を指揮して日本初演した曲である。最初の2つの楽章がコンチェルト・グロッソ形式、後半の2楽章がシンフォニーという具合に、聴感上では何か木に竹を接いだ作品のような感がしないでもなく、協奏曲部分はかなり尖った響きだが、交響曲の方はすこぶる豊麗、色彩的な音色で耳当りも好い。かように、斬新には違いないけれども、かなり風変りな作風を備えた、大編成の作品だ。

 第4楽章は混沌とした音調のうちに暗く消えて行く、という終結を持つのだが、この悲劇を、強い意志を以って救い、希望の確信に導くのが、ベートーヴェンの「5番」なのだ━━というわけだろうか。
 こちらの方は弦16型、木管は倍管という編成で、全ての力を結集し、凄まじいエネルギーで驀進する演奏になった。大野の第4楽章におけるテンポは、スコア指定の「アレグロ」を上回るモルト・アレグロともいうべく、しかもコン・ブリオ的だ。コーダは「プレスト」をしのぐ「プレスティシモ」といってもいいほどのテンポで、急ブレーキなどかけずに、そのまま煽りに煽った熱狂の裡に曲を結んで行く。
 提示部がリピートされはじめたところでの昂揚感も圧倒的だった。

 尖った響きではなく、むしろなだらかで、完璧な均衡を備えた響きだったが、全曲にわたり強靭な意志力と推進性を感じさせる演奏だった━━まさに、日本のオーケストラそのものである。
 今夜の客席には、オランダの音楽ジャーナリストらしき人々をはじめ、外国人の姿もかなり多く見えたが、彼らにはこれらの特徴が正確に読み取れたろうか? 

 それにしてもこのベートーヴェンの「第5交響曲」は、やはり、超弩級のエキサイティングな交響曲である。そして、ベートーヴェンの「3番」以降の交響曲には、やはり「大編成」がよく似合う。
        ⇒別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

2015・4・2(木)中村恵理ソプラノ・リサイタル

   紀尾井ホール  7時

 バイエルン州立歌劇場で彼女のクロリンダ(ロッシーニの「チェネレントラ」)やヴォークリンデ(ワーグナーの「指環」)を観て聴いて、その素晴らしさに驚嘆したのがもう3年前のこと。

 以降、日本で何度かオケとの協演のステージを聴く機会があり、そのたびに、この人のオペラの舞台を日本のファンが観られないのは大損失だと思ったものである(かなり以前には新国立劇場での「ドン・ジョヴァンニ」のツェルリーナなどを歌っていたはずだが)。
 紀尾井ホールでの前回のリサイタルは、私の方が(チラシの推薦文を書いていたにもかかわらず)当日は旅行中で聴けなかったので、今回は私にとっては待望のコンサート。

 協演したピアニストはデイヴィッド・ガウランド、テナーはエマヌエーレ・ダグアンノ。
 彼女が歌ったのは、中田喜直、ティリンデッリ、レスピーギ、サントリクイドの歌曲集と、ドニゼッティの「愛の妙薬」やグノーの「ロメオとジュリエット」からのアリアや二重唱、アンコールでヴェルディの「椿姫」の「乾杯の歌」、プッチーニの「ラ・ボエーム」からの「ミミの別れの歌」、トスティの「暁は光から」というものだった。

 ホールいっぱいに響く声の、強く張りのある、しかも澄んだ美しさはたとえようもない。レスピーギの「霧」という歌曲で、一音ずつ踏みしめながら次第に高く昇って行く個所での安定感をみなぎらせた強靭な声の見事さ。この揺るぎのない、かつ表情豊かな歌唱こそ、彼女がミュンヘンであれほど活躍しているゆえんなのであろう。
 歌唱のスケール感、ステージでの風格と存在感も、以前よりいっそう増しているように感じられた。

 ご本人は「咽喉が今日はおかしくって・・・・」と語っていたが、われわれにしてみれば、俄かに信じられぬ思いである。
 それより、協演のテノール殿のほうが、ちょっと・・・・。リートとアリアと二重唱をいくつか歌ったが、第2部でのオペラの方がまだしもマシだった。ソット・ヴォーチェが苦手な人のようである。

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