2017-04

3・30(月)METライブビューイング 「イオランタ」「青ひげ公の城」

    東劇  6時45分

 2月14日の上演ライヴ。
 映画監督マウリシュ・トレリンスキが新演出した2本立てというのが第一の話題になっていた。
 チャイコフスキーの「イオランタ」はハッピーエンドのメルヘンとして、バルトークの「青ひげ公の城」は男と女の深刻な心理ドラマとして一般には解されているオペラだから、この2本立ては明と暗の対照的組合せが狙いかと思われがちだが、実はトレリンスキの新解釈は、違う。

 まずチャイコフスキーの「イオランタ」だが、美しく純粋なイオランタ姫が生まれながらにして盲目なのは、父王レネの娘への過度の溺愛がその遠因である━━というのが、トレリンスキの解釈なのだ。
 つまり、愛娘を手離したくないという父親のエゴイズムが悲劇を生んだという設定なのだが、トレリンスキのアイディアが巧妙極まる所以は、父王がそのエゴイズムを、自らは全く意識していない━━という描き方をしていることにあるだろう。父親を悪者にせず、あくまでも娘の幸福な結婚を願い、その眼の治療の成功を祈り、医者の提言通りに娘をして「目が見えるようになりたい」との意欲を持たせるよう仕向ける父親━━として描いているのである。
 もちろんイオランタ姫も、ごく自然に父親から恋人へ関心の対象を移して行く。

 したがって、この演出では、演技と歌詞との間に齟齬を生じることは全くない。彼女を囲む人々は、原作どおりに、だれもが温かい。
 だが最終場面で、視力を得たイオランタを囲んで人々が神への感謝の祈りを高らかに捧げたあと、だれもいなくなった舞台にただ独り立ちつくす孤独な父王の姿を一瞬見せる、という個所に、トレリンスキは、この父親の━━つまり男の複雑な心理を垣間見せるのである。彼のコンセプトは、決して押しつけがましくはないが、明確である。

 こうして「イオランタ」の物語は、男と女の心理ドラマとして、次の「青ひげ公の城」と、完璧に結びつく。
 なおトレリンスキ自身は、インタビューで「2つの作品は、同じ女性の姿を異なった形で描く」と語っているが、それもある意味では当を得たコンセプトであろう。

 バルトークの「青ひげ公の城」では、トレリンスキは、幻想的な映像を駆使して、あたかも映画のような光景を現出させつつ、ストレートに演出している。
 たとえば、青ひげを精神病の患者に、妻ユディットを看護師に仕立てる、などといったような読み替えは、一切行なっていない。また彼は事前のインタビューで、ヒッチコックの映画「レベッカ」に影響を受けたと語っていたが、実際の舞台ではユディットの言動に「青ひげの過去を疑う」という原作のコンセプトをそのまま反映はさせてはいるものの、特に「レベッカ」そのものを再現しているわけではない(強いて言えば、不気味な廊下の光景か?)。

 ただ、原作で重要な役割を果たす「7つの扉」は、この演出では使用されてない(鍵は出て来るが)。場面が次々に変わるだけである。
 冒頭は、暗い森の中にクルマで乗りつけたユディットを、独り煙草を吸いつつ立ちつくして物思いにふける青ひげが迎えるというシーンで開始される。この同じ場面が、「7つ目の扉」のところで再現され、掘り返された土からは、青ひげの昔の妻の死体が見え、彼はそれを抱いて回想に耽る・・・・という幕切れになる。ちょっとやり過ぎのきらいもあるが、まあ、不気味ではあろう。

 さて、今回はワレリー・ゲルギエフが指揮した。「イオランタ」での、姫とヴォデモン伯爵の二重唱場面や、彼女の目の治療が成功する場面、最後の全員の喜びの合唱場面などでの音楽の盛り上げ方の、まあ実に巧いこと。このオペラの音楽がこれほどドラマティックに感じられたのは、私には初めての体験だった。彼のロシア・オペラの指揮は、やはり並のものではない。
 もちろん「青ひげ公の城」での指揮も緊迫感に満ちて見事であり、特にユディットが「青ひげの過去の妻」の仲間入りをして行く個所での悲劇的な昂揚も凄い。

 歌手陣。イオランタはアンナ・ネトレプコ。堂々たる体格になりすぎて、清純な少女という雰囲気も薄くなったが、歌唱の巧さ、演技の巧さなど、やはり得難い存在である。
 だが、ひときわ光っていたのは、騎士ヴォデモン伯爵を歌い演じたピオトル・ベチャワだろう。品のいい舞台姿といい、若々しく張りのある声といい、どこから見てもこの役柄にぴったりである。この人、どのオペラを観てもサマになっている。好調そのものだ。

 プロヴァンス王レネには、予定されていたアレクセイ・タノヴィツキに代わり、イリヤ・バーニクが登場したが、ちょっと悪役的な容貌ながら、意外に好い父親役ぶりを見せ、声にもロシア・オペラらしい迫力を感じさせていた。他にアレクセイ・マルコフ(ロベルト公爵)、イルフィン・アズィゾフ(医師エブン=ハキヤ)らが出演。

 「青ひげ公の城」では、青ひげをミハイル・ペトレンコが、いつもとは全く違う雰囲気のメークで非常に微細な演技を見せ、いつも通りの強靭な声で凄味を出した。彼の声は、10年前にマリインスキーでハーゲン(神々の黄昏)を歌ったころに比べると、ずいぶん太くなり、力にあふれるものになったようだ。
 ユディットには、ドイツ出身のナディア・ミヒャエル(総支配人ゲルブはインタビューで「ミカエル」と発音していた)が登場、愛する夫のすべてを知るまでは一歩も退かぬといった強い性格のユディットを迫力に演じていた。
 2人の登場人物がこれほど緊迫感を保って応酬を続けた演奏は、稀だろう。それもゲルギエフの巧みな指揮によるところが多い、とも言えるのだが。

 照明とビデオ・プロジェクションはすこぶる見事だった。だがこれはやはり、映像で観るより、現場で観ないと、そのスケールの大きさは判らない類のものだろう。

3・29(日)日本オペラ協会 石井歓:「袈裟と盛遠」

   新国立劇場中劇場  3時

 1968年に若杉弘の指揮で初演されて以来、これが6回目の「再演」になる石井歓(1921~2009)の代表作オペラ「袈裟と盛遠」━━私は第2回(1975年上演)と、あともう一つどれかを聴いたはずだが、何か久しぶりのような気がする。

 なかなか気持のいい音楽だなと思いながら、演奏を愉しんだ。叙情的な清澄さにも富んでいるし、打楽器を活用しての迫力も充分だ。といって、石井が影響を受けたあのカール・オルフの作風をなぞるような音楽でもない。それよりもずっと日本的な透明な音色を感じさせる音楽である。

 柴田真郁の指揮するフィルハーモニア東京というオーケストラが、実にバランスのいい演奏を聴かせてくれたし(特に打楽器群は見事な迫力だ)、歌手陣もしっかりした歌唱を繰り広げていたのがよかった。とりわけ歌手たちの日本語の発音が明確なのは好ましく、字幕は使用されていたものの、それを頼りにする必要もないほどの明晰さだった。
 そういうわけで、音楽の面に関するかぎりは、すこぶる手堅い出来の上演と言うことができよう。

 ダブル・キャストの今日は2日目で、歌手の方々の名を刻ませていただくと、遠藤盛遠を豊島雄一、渡辺の渡を小山陽二郎、その妻・袈裟を川越塔子、盛遠の許婚・白菊を山田真里、平清盛を江原実、佐藤義清を川久保博史、呪師を井上白葉、勢至菩薩を望月成美、鬼子母神を西野郁子━━という顔ぶれだ。

 こういう役柄を見れば、すでに物語の内容は見当がつくというものだが、要するに主人公はあの文覚上人の前身たる盛遠で、かつては平清盛の友人、のちに源頼朝を煽って打倒平家の旗揚げをさせた、実在の異色の人物である。ここでの物語は、直情径行型の盛遠が、許婚を持ちながら友人の渡の妻・袈裟に烈しい想いを寄せ、結局誤って彼女を殺める結果を招き、それがもとで出家して行く━━というものだ。台本は山内泰雄。

 しかし問題はやはり、演出(三浦安浩)だ。登場人物が何を考え、何をしようとしているのか、明確でない個所が多すぎる。
 たとえば第2幕冒頭の場面。いつ来るとも判らぬ袈裟を待ち伏せしている盛遠の演技も顔の表情も、とても「恋こそ地獄じゃ」の歌詞にふさわしい心理状態にある男とは見えない。要するに「客席を向いたまま無表情で棒立ち」なのである。
 人の気配を察して身を隠すのも、なんと悠然とした動作か。そしてやっと出会った袈裟御前が、白菊の妨害により走り去ったあとも、やはり悠然と佇立し続け、悠然と姿を消す、という具合だ。

 袈裟が「目の前に現われて通り過ぎて行く」のを「無表情のまま」黙然と見送るシーンは、いちおう幻想場面の設定と思われるが、この場面に限らず、「現実」と「幻影」とが同一の場所━━舞台前面━━で行なわれることが多いのも、イメージを混乱煩雑にしてしまう原因になっているだろう。
 袈裟御前を殺した盛遠の所業を非難する人々や妖怪連中が舞台の両側の袖からその都度ぞろぞろと歩いて来て、ゲラゲラ笑ってはまた引っ込んで行く場面など、何とも学芸会的で間が抜けていて、超自然的な幻影などとは程遠い。その緊迫感のなさたるや、なさけなくなるほどである。

 これ以上、一々不満を述べることの愚は避ける。とにかく昔観た栗山昌良の、日本的な様式感と劇的な変化とを巧みに融合させた風格のあるあの舞台をもう一度━━とまでは言わぬとしても、折角の「第6次再演」だったのだから、いっそ今日的にもっと斬新に鮮烈に、「烈しい恋に生きた男」を描き直してみては如何だったのかな、と思う。
      別稿 音楽の友5月号演奏会評

3・28(土)グスターヴォ・ドゥダメル指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック

     サントリーホール  6時

 香港2回、上海2回、ソウル2回に続く2回の東京公演━━というアジア・ツァーの一環で、今日はその東京第1日。マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」が演奏された。

 ロザンゼルス・フィルは、前回サロネンの指揮で来日した時から、もう7年も経つ。指揮者の個性を反映して音はガラリと変わり、濃密で濃厚で、艶のある、明るくパワフルなものになった。オーケストラは相変わらず上手いし、音は(アメリカのオーケストラらしく)素晴らしく大きいし、それ自体が一種の痛快きわまる魅力を持っていることはたしかである。

 そして、この楽団を制御するドゥダメルの力量も、鮮やかそのものだ。全管弦楽を豪壮に響かせつつ、各パートの均衡を完璧に近いほどに保ち、音色を混濁させるようなこともない。しかも、たとえば咆哮を続けていた音楽が一瞬おさまり、弱音の中で「次に来たるべきもの」を待つ時の緊張感━━といったものをつくり出す手腕にかけても、卓越したものがある。

 とにかくこれは、豊麗で壮大で、威力的でモルト・エネルジーコな「6番」であった。
 敢えて不満といえば、その段階に留まった演奏だったことであろう。特に第4楽章では、立ち直ろうとしては運命に打ちひしがれる「主人公」の苦悩といったような、マーラーがこの作品に籠めた複雑な感情を聴き手に意識させる音楽からは程遠いものになっていた。つまり、咆哮怒号が延々と続くだけの単調な演奏になるという、この曲の危険な罠に陥った演奏だったのである。

 とはいっても、第1楽章での「イ長調」と「イ短調」の対比をはじめとする、そういう光と翳りの交錯を巧みに描き出すには、ドゥダメルは、やはりまだ若い。今後の成長を待たなくてはならない。彼はとてつもない才能を持っている若手だから、(私は聴けないだろうが)20年後に彼が指揮する「悲劇的」は、きっと素晴らしい演奏になっていることだろう。

 なお今回は、「アンダンテ・モデラート」は第2楽章に、スケルツォは第3楽章に置かれていた。私はこの順序はあまり好きではなく、スケルツォのあとではいつも少々疲労感を覚えてしまうので、そのあとにアンダンテが来た時には一種の安堵と陶酔に浸ることができるのだが、スケルツォのあとただちに濃密極まるフィナーレが来ると、些か辟易せざるを得なくなるのである。いつもと違って妙に疲れたのは、そのせいもあったかもしれない。

 第4楽章でのハンマーの台は恐ろしく巨大な、高さが1・5メートル以上もあろうかという箱状の物体で、その上面は下手側P席最前列(3席)よりも高く、ほぼ2列目客席のすぐ目の前に位置していた。そこで叩かれるハンマー2発は、近くに座っていたお客さんにはすごい衝撃だったろう・・・・。

3・28(土)マックス・ポンマー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  2時

 ドイツの大ベテラン指揮者マックス・ポンマー(1936年ライプツィヒ生れ)が客演、バッハの「管弦楽組曲」全4曲を演奏した。

 当初は1、2、3、4番の順に━━と予告されていて、まさかそんな・・・・と思っていたが、案の定、順番は変更になり、3番、2番、休憩後に1番、4番、という演奏順となった。これは賢明であろう。第1楽章の楽想が双子のような「3番」と「4番」を続けて演奏しては、いくら後者の方が少し編成も大きいとはいえ、双方の個性があまり際立たなくなってしまうだろうから。

 「第2番」では、フルート・ソロに白尾彰(新日本フィル首席)が清新で鮮やかな演奏を聴かせてくれた。
 が、オーケストラ全体のまとまりとしては、休憩後の2曲の方が優れていたように思われる。「第1番」での落ち着いた美しさは印象的で、管(2本のオーボエとファゴット)も加わった「メヌエットⅠ」と、弦のみの「メヌエットⅡ」との音色の対比も明確に描き出された。最も編成の大きい「第4番」も━━最初に演奏された「第3番」が何となく落ち着きのない慌ただしさを感じさせたのに比べ━━アンサンブル全体が安定して、堅固かつ壮麗なバッハが蘇った感があった。

 ポンマーの指揮は、やはりベテランらしく滋味あふれる音楽づくりで、下方に重心のかかった厚みのある響きをもっている。いわゆる現代的スタイルのバッハとは全く違い、20世紀半ば以前のスタイルの流れを汲むバッハともいえるが、これはこれでまた面白いのである。
 彼はこの4月から、札幌交響楽団の首席指揮者に就任するが、レパートリーによっては極めてヒューマンな音楽が聴けることだろう。

 次の演奏会場、サントリーホールに移動する。1時間半強の空き時間は、都内の移動にはちょうどいい。

3・27(金)ジェラール・コルステン指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール  7時

 先週の「名曲シリーズ」はモーツァルト・プロだったが、こちら定期はモーツァルトの「劇場支配人」序曲」と「ジュピター交響曲」に加え、後半にR・シュトラウスの「英雄の生涯」を置いたプログラムとなった。

 さすがに今日は定期のせいもあってか、ずっといい演奏になった。
 モーツァルトは豊潤な厚い響きで、歯切れよく力に満ちたティンパニが低音域を支え、スケールの大きな、シンフォニックなサウンドを出す。「劇場支配人」では華麗な音色だった弦が、「ジュピター」では一転して落ち着いた色合いに変貌するという描き分けも興味深い。

 コルステンのテンポは安定しており、その意味ではストレート路線ともいえるが、他方デュナミークの変化という面では、非常に細かく設定が為されている。
 「ジュピター」でも、たとえば第1楽章でも、堂々と始まった第1主題が8分音符の細かい畳み込みを挟んで一段落する個所━━第15小節から第23小節にかけて、各小節または2小節ごとに頻々とクレッシェンドを繰り返し、音楽に起伏を与えていく、という具合なのである。
 今どき珍しい、分厚い響きのモーツァルトだが、それが全く鈍重にならないのは、こういう細かい設計がものを言っているからでもあろう。もちろん、音色の清澄さ、リズムの歯切れのよさが効果を発揮しているのも事実である。

 ともあれ、先週のモーツァルト演奏とはガラリ趣を変えた、引き締まった音楽がここに在った。コルステンについても、読響についても、先週の演奏とは全く異なる良い印象を得られたことはうれしい。

 後半の「英雄の生涯」━━これも、(失礼な言い方ながら)予想外にいい演奏だった。すっきりしていて、爽やかで、率直な「英雄の生涯」である。
 この曲においてもテンポは一定していて、たとえば英雄の勝利とともに「英雄の主題」が再現する直前(第629~630小節)でも殊更大きな「矯め」をつくることもない。
 だがリズム感とデュナミークはここでも明確で、冒頭、「英雄の主題」の中で、間を置きながら8分音符で鋭く突っ込んで来る(第6、8,9小節)6本のホルンとコントラバスのアクセントなどは、なかなかの凄味を感じさせるものだった。

 「英雄の伴侶」のソロ・ヴァイオリンが躍動する下で重厚に響くホルン、トロンボーン、バス・テューバ、ファゴット、コントラファゴットなどのハーモニーも見事に均衡が保たれていて、見事である。長原幸太(コンマス)のそのソロ・ヴァイオリンは、巧いけれどもコンチェルトのカデンツァといった趣で、あまり標題的なものにこだわってはいないという印象だったが━━もっともコルステンの指揮するこの曲全体が、あまり標題音楽的な描写を感じさせず、ひたすら颯爽と快走する大管弦楽というイメージだったことはたしかなのだが。

 なお、このコルステンは、エヴァ・メイの旦那だそうだ。また、かつてはカメラータ・ザルツブルクやヨーロッパ室内管弦楽団のコンサートマスターを務めた人でもある。その指揮ぶりは非常にエネルギッシュで、しばしば指揮台を踏み鳴らすというタイプだが、カーテンコールで各首席奏者や各セクションの楽員を立たせて賞賛を受けさせる手順に関しては、どうもあまり要領がよくないようである?

3・24(火)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢 東京定期公演

     サントリーホール  7時

 最初にまた例の話を一つ。このオーケストラの公演特有の、開演前のロビーにずらりと立つ、あの黒服軍団がまたもや現れた。スポンサーのVIPを迎える関係者たちだろうが、あちこちに群れを為して並び、入って来る客を一斉にじろじろ見つめるそのさまは、いかにも感じが悪い。不安気に立ち止まってしまうお客さんもいる。東京に来る各地のオケの中で、こんなことをやるのは、今はこの金沢のオケだけである。以前、オケの某大スポンサーの社長の一喝で自粛されたはずだが・・・・今回は別のスポンサーか?

 不愉快な問題はともかくとして、本題に入る。今や健康をすっかり回復したという音楽監督・井上道義の指揮で、演奏された曲は、アルヴォ・ペルトの「フラトレス」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソロは仲道郁代)、シューベルトの交響曲「ザ・グレート」だった。

 マエストロ井上の、あの踊るような指揮姿が「ザ・グレート」の第3楽章で復活し、カーテンコールでも得意の「金沢礼賛節」の演説も昔に変わらぬ声で蘇るというわけで、元気になって良かったね、という雰囲気が聴衆の間に拡がる。「金沢でも《ラ・フォル・ジュルネ》をやります。GWですから、ホテルは多分いっぱいで、取れないでしょう。しかし、日帰りもできるようになりましたから(客席笑)。ぜひ金沢へ・・・・」と、相変わらず盛り上げの巧い井上節であった。

 「フラトレス」では、第1コンサートマスターであるおなじみのアビゲイル・ヤングがコンチェルトのようなスタイルでヴァイオリン・ソロを弾いた。打楽器は上手側の袖の奥から響いて来るという音響設定で、これは極めて美しい効果を生んだ。陶酔的な世界である。

 だがユニークだったのは、やはり「ザ・グレート」だ。
 第1楽章での靄のかかったような音づくりの面白さもさることながら、第3楽章のトリオに入った瞬間、不思議に豊麗な音色が聞こえ始めたのには驚いた。というのは、今回はこのトリオ全体を通し、コントラバスを除く弦楽器のすべてが、原譜のアルコ(弓で弾く奏法)でなく、ピッツィカートで演奏していたからである。

 あとで井上氏に確かめたところでは、彼自身が誰かの指揮で聴いたことのあるこの手法を応用してみたのだ、ということだった。
 まことにこれは、面白い響きであった。あのゆったりと揺れ動くような管楽器の旋律を、弦の柔らかいピッツィカートが包み、コントラバスがアルコで低音を支える。実に妙なる玲瓏たる音の効果である。
 今日のライヴは、いずれCDで出るそうだから、ぜひお聴きありたい。是非はともかく、あのベートーヴェンの「第7交響曲」第2楽章の最後がピッツィカートで演奏される時以上の衝撃を感じるはずである。

3・23(月)小泉和裕指揮東京都交響楽団「ミサ・ソレムニス」

     サントリーホール  7時

 終身名誉指揮者の小泉和裕が指揮して、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を演奏した。プログラムはこれ1曲だったので、8時半には演奏会は終わってしまったが、作品の壮絶な量感と気宇の大きさ、聴き手に与える圧倒的な感動、演奏者にとっての負荷を考えれば、これでもう充分といえるだろう。
 声楽での協演は、吉原圭子(シュレイモバー金城由起子の代役)、山下牧子、小原啓楼、河野克典、栗友会合唱団、武蔵野音楽大学室内合唱団。コンサートマスターは矢部達哉。

 演奏は、いかにも小泉和裕らしい、正面から率直に取り組んだストレートなもの。小細工も誇張もなく、ひたすら作品本来の雄弁な説得力をそのまま再現させて行くという指揮である。
 一方、都響は、全体にやや荒削り。ホルンやトランペットのセクションなどは、インバルの出番の時に比べると、だいぶ表情もサウンドもアンサンブルの緊密度も異なり、洗練さを欠いた印象がなくはなかった━━「アニュス・デイ」のアレグロ・アッサイのトランペットは、大変難しいピアニッシモであることはわかるが、もう少し・・・・。だが「サンクトゥス」での矢部の長いソロは聴き応えがあった。

 声楽陣では、山下牧子(メゾ・ソプラノ)の確信に満ちたソロが映えていた。
 合唱団はP席すべてを埋め尽くす大人数だったが、音量は意外に小さい。総じてよく頑張っていたけれども、たとえば「Kyrie」の「キ」の発音が何度も荒っぽく乱れてしまうあたり、もうちょっとトレーニングするわけには行かなかったのだろうか? なにせ、冒頭の印象的な個所であるがゆえに、聴く方はそこで些か感興を殺がれてしまったのである。

3・22(日)ヴェルディ:「オテロ」(2日目)

   神奈川県民ホール  午後2時

 ダブル・キャストの別組。アントネッロ・パロンビ(オテロ)、安藤赴美子(デズデーモナ)、堀内康雄(イアーゴ)、池田香織(エミーリア)、大槻孝志(カッシオ)、与儀巧(ロデリーゴ)、デニス・ビシュニア(ロドヴィーコ)、青山貴(モンターノ)。その他の人々は、昨日と同じである。

 歌手陣が異なると、沼尻竜典の指揮もアプローチを変えるのか、前日の演奏とは雰囲気を些か異にし、イタリア・オペラらしい伸びやかさと自由さが加わっていたように感じられる。何より、誇張のないテンポに納得がゆく。劇的な起伏も大きく、特に第3幕後半の大アンサンブルでのひた押しに押す力は、昨日の演奏をもしのぐほどだった。彼のこれまでのオペラ指揮の中でも、とりわけ優れたものと言えるだろう。

 神奈川フィルも、さすがに2日目とあって、昨日に比べると格段に演奏が良くなっていた。平土間席の真ん中あたりで聴く限り、オケはあふれんばかりの豊満な量感で鳴り響いていた。いつもこういうヴィヴィッドな感じで鳴ってくれれば、と思う。
 なお第2幕最初の合唱とオケとのバランスは、今日も昨日と全く同様だったから、明らかに指揮者の意図だったということになる━━これだけは、あまり賛意を表しかねるのだが。

 今日の演奏が、いかにもイタリア・オペラ━━という雰囲気になった要因のひとつには、オテロを歌い演じたパロンビの存在があるだろう。
 体格も堂々たるものだし、声もたっぷりとしているから、たとえば冒頭の「オテロの登場」でも、上の「A」の音を楽譜よりは延ばし気味にして、大見得を切る。そしてラストシーンの「オテロの死」の場面では、原譜よりずらして歌ったり、慟哭の声や悲鳴をえらく派手に交えたり、と、いかにも大時代がかったイタリアのテノールという雰囲気をモロに出すのが、何とも可笑しい。「これはオレの舞台だ!主役はオレだ」といった調子なのである。

 ヴェルディの音楽で描かれたオテロは、最後にもう一度「英雄」としての威厳を取り戻し、慟哭の裡にも潔く死を選ぶ━━という姿であるはずだ(ドミンゴは常にそのスタイルでやっていた)が、今日のパロンビは最後まで取り乱し泣きわめく、というオテロ像で、ごくごく人間的な演技解釈といえるかもしれない。
 私の考えでは、これはヴェルディの音楽が描くオテロ像とは違うのではないか━━いわばプッチーニ的なオテロだ━━と言いたいところだが、それゆえ「泣かせる演技」ではあるだろう。現に、上階席で聴いていた知人の話では、泣いていた女性も何人かいた、ということである。

 デズデーモナの安藤赴美子は、第2幕あたりから調子を上げ、第3幕のオテロと劇的な応酬では歌唱も演技も見事な昂揚を示し、その勢いを第4幕の最大の聴かせどころまで保ち続けた。先年の「びわ湖/神奈川」の「タンホイザー」で聴かせたような、あの見事な歌唱を今回も示してくれた、と言って間違いなかろう。

 堀内康雄の演技は、今回はやはりイタリア・オペラ的スタイルに終始したような印象である。声の伸びと量感が昔ほどではなく、そのため凄味に不足したのは残念だったが、第3幕の幕切れでここぞとばかり朗々と大見得を切ったあたりは、さすがベテランの本領というべきか。
 池田香織はエミーリアを手堅く演じたが、少々控えめに過ぎたかもしれない。━━総じて昨日と同様、主役たちは非常に緻密な舞台を演じていた。第1幕のカッシオらの乱闘シーンなど、なかなかの迫力だったと思う。オペラ歌手はアスリートだ・・・・とはよくいったものである。

 カーテンコールでは、パロンビがひとりで仕切りまくっていた。歌手たちの挨拶だけでなく、指揮者をもそろそろ呼びに行かせなさいよ、と客席では思っているのに、彼が真ん中に立って両側の歌手の手をつかみ、それを上げたり下げたりして、率先して延々とカーテンコールを続けている。最後は新婚旅行さながらにデズデーモナを抱き上げて出てきたのには、客席も大爆笑。

 今回の「オテロ」、成功であった。

3・22(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団「モーツァルト・マチネ」

    ミューザ川崎シンフォニーホール  午前11時

 前音楽監督ユベール・スダーンの時代に始まった日曜日の「モーツァルト・マチネ」も、今回で第20回を迎えた。今日は、昨年から音楽監督となったジョナサン・ノットが指揮するので期待充分、横浜の「オテロ」の前に聴いておこうと出かけた次第。
 プログラムは1時間強の長さで、シュニトケの「ハイドン風モーツァルト」、ハイドンの「交響曲第86番」、モーツァルトの「交響曲第31番《パリ》」。

 2階正面最前列(2CA1列)という至近距離で聴いたので、オケの細部まで聞き取れ、なかなか愉しかった。
 シュニトケのこの作品を聴くのはもう何回目かだが、こういう位置で聴くと、弦楽器群が移動しながら弾くその音像の動きや、2人のコンサートマスター(グレブ・ニキティン、水谷晃)がつくり出すパートの対比などが明確に理解できて、その面白さだけは味わえる━━しかし、作品自体は、やはりつまらないものだ。

 ハイドンの「86番」はちょっと重い演奏だったが、やはり圧巻は、モーツァルトの「パリ」であった。ノットが構築する明確なフォルム、歯切れのいいリズム、のびやかな躍動に東京響が鋭敏に応え、きわめて豪壮な演奏となった。まさに「パリ」にふさわしい演奏だ。
 この第1楽章を豪快に押すダイナミックな演奏というのは、不思議に少ないもので、━━ベームがベルリン・フィルを指揮した録音がその唯一の例といってよかったが━━、今回のノット&東京響の「パリ」の第1楽章は、おそらくそれに最も近い出来といってよかったのではなかろうか。

 このジョナサン・ノットという人は、モーツァルト演奏においてもすばらしい感性を発揮する。東京響は、良い指揮者を音楽監督に戴いたものである。
        ⇒別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

3・21(土)ヴェルディ:「オテロ」

    神奈川県民ホール  2時

 恒例のびわ湖ホール、神奈川県民ホール、東京二期会等によるオペラのシリーズ。
 先日のびわ湖ホールでの上演には結石のため欠席したので、今回はこちらでの公演をじっくりと観る。今年の企画・制作・主催団体には上記3つの他、京都市響と神奈川フィル、大分のiichiko総合文化センターが名を連ねている。

 指揮はもちろん沼尻竜典。びわ湖ホールで指揮して来た彼のオペラは「ばらの騎士」このかた、すべて聴いてきているが、どちらかといえばシンフォニックな音楽の性格の作品の方が成功しているように思える。
 今回も彼は、オーケストラが雄弁な語り口をもつこの「オテロ」を指揮して、豪壮な厚みのある音楽を引き出した。神奈川フィルがこれほど堂々と鳴り響いたのは、彼の指揮の牽引力ゆえであろう。冒頭の嵐の音楽、第2幕の後半、第3幕の後半などでの劇的な昂揚には、目覚ましいものがあった。

 ただ、びわ湖ホールでの上演を聴きに行った人たちが異口同音に言うには、同ホールでの演奏を受け持った京都市響に比べると、神奈川フィルには、かなりの落差を感じざるを得ないという。たしかに、大咆哮する個所はともかくとしても、弱音個所での音の緊迫感という点では、物足りなさが残るのは事実だろう。第4幕冒頭の木管のミスも、そこがもともと非常に感動的な個所であるだけに、聴き手にとっては、あまりに痛かったのである。明日の2日目の公演では改善されることを祈りたい。

 合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブルと二期会合唱団、および赤い靴スタジオ。第1幕の嵐と宴の場面、それに第3幕の壮大なアンサンブルの個所での合唱はすこぶる力強く、沼尻の求める劇的な効果によく応えていた。
 ただ、第2幕最初の合唱はかなり抑制されていて、折角の柔らかいハーモニーの動きや、特に水夫たちの歌謡風の旋律が明確に聞こえてこないのには、疑問が残った。つまり、オケの音の方が━━オーボエの4度で上下し続ける音(スコアではバグパイプ、DOVER版スコアで言えば207頁からの9小節間)のみが、合唱より強くずっと響き続けているので、どうも単調な音楽に聞こえてしまったのである・・・・。

 ソロ歌手陣はダブル・キャスト。今日は福井敬(オテロ)、砂川涼子(デズデーモナ)、黒田博(イアーゴ)、小林由佳(エミーリア)、清水徹太郎(カッシオ)、二塚直紀(ロデリーゴ)、斉木健司(ロドヴィーコ)、松森治(モンターノ)、的場正剛(伝令)の出演だった。

 福井のエネルギー感は相変わらずたいしたもので、主人公オテロを、非常に激情的な人間として描き出した。部分的にはちょっと叫び過ぎかな、という印象もなくはなかったが、長いキャリアにもかかわらずこれだけの声のパワーを維持しているのは立派というほかはない。
 砂川涼子は、びわ湖ホールでの昨年の「死の都」で驚異的にすばらしい歌唱を聴き、彼女の新境地にすっかり惚れ込んでしまったのだが、今回も清純の裡に悲劇のヒロインとしての性格を巧みに籠めて、見事なデズデーモナだったと言えるだろう。

 そして見事といえば、黒田博のイアーゴである。いかにもシェイクスピア役者といった風格を顔の表情に浮かべて、落ち着いた挙止の中に冷然たる悪人ぶりを巧みに表現する。足を引きずり気味に歩き、持った杖を効果的に振り回して凄味を出すという一風変わったイアーゴだったので、これは戦闘で負傷したため今回はトルコ海戦に参加しなかったという論理的設定の演出なのか、なるほど・・・・と感心していたのだが、実は黒田さんは、足の肉離れのため、歩くのもやっとだったのだそうである。

 エミーリアはもともと控えめな役柄ながら、小林由佳の存在感は目立つ。
 カッシオ役の清水徹太郎は澄んだ声が印象的であり、第3幕後半でデズデーモナが酷い目に遭っているのを見て痛ましそうな表情を見せるあたりも、演技がなかなか細かい。

 その演出担当は、粟國淳。基本的にストレート路線だが、今回は極めて精緻な舞台を見せ、細かい演技でドラマを引き締めていた。オテロを単なる嫉妬に狂った人間でなく、自己の理想化に失敗して苦悩する人間として捉えたという今回の演出意図も、理解できる気がする。
 主役たちの演技もすこぶる微細なもので、見応えがあった。ただし、第1幕での合唱団の、宴が始まる前の動きは何か所在なげで、これがオペラ前半の緊迫感を少し弱めたきらいがあったが━━。

 舞台装置と衣装はアレッサンドロ・チャンマルーギ。舞台美術の色彩は非常に暗い。第3幕前半でのその舞台装置は、オテロの衣装の色と同系統で、保護色のように見えるので、オテロが身を隠す場面では、彼が何処にいるのか判らなくなってしまうほどだが、これも狙いの一つか。
 第2幕以降の舞台装置は、やや半円形に拡がる形状で、あたかもバイロイトのシェローの「ヴァルキューレ」の岩山、もしくはベックリンの絵画「死の島」にも似て、死のイメージと、暗い威圧感とを象徴しているようにさえ見える。

3・20(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 こちらは常勝将軍ラザレフのもと、オーケストラは全力投球だ。
 今月の東京定期はショスタコーヴィチ・プログラムで、「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはイワン・ルージン)と「交響曲第11番《1905年》」。

 2回公演の初日だから、いつものように日本フィルの演奏はちょっとばかり粗目だが、こういう体当り的な、作品の持つエネルギーが充分に再現された演奏であれば、少しくらい粗くても何でも、聴き手は満足してホールをあとにすることができるというものである。

 協奏曲を弾いたイワン・ルージンは32歳。グネーシン音楽学校、モスクワ音楽院等に学んだ人だ。思い切りのいい、歯切れのいい演奏を聴かせてくれる。アンコールとして弾いたプロコフィエフの「ソナタ第7番」の第3楽章も含めて、活気にあふれた曲想を最大限に躍動させ、聴衆を沸かせた。
 そして、ここでのラザレフと日本フィルの演奏がまた見事で、あたかも休みなくジャンプするかのような軽快さでソリストを煽り立てる。これほど豪快でダイナミックな「2番」を聴いたことが、これまでにあったかどうか?

 「1905年」での演奏は、このオーケストラの総力をあげた壮烈な絵巻物だ。その怒号の荒々しさ、凄まじさは、ラザレフ&日本フィルのお家芸である。
 第1楽章(「冬の宮殿」前の広場)をはじめ、全曲を通じて最弱音を、ラザレフは非常にはっきりと、やや強い音で響かせるので、神秘性や哀感といった要素は多少薄められたかもしれない。だが、日本フィルの管のソロはいずれも快調で、この曲に含まれている美しさの部分を見事に再現してくれた。

 思えば、ラザレフと日本フィルは、この交響曲を、12年前━━2003年3月13日にも、すばらしく演奏したのだった。その時の日記をここに再録してみる。

 ・・・・圧巻はやはりショスタコーヴィチの「交響曲第11番」だ。きわめて起伏が大きく、標題音楽的なアプローチで、あたかもオペラのようにドラマティックな表現である。最強音の爆発の箇所では、音響的な振幅の大きさと表情の濃厚さも含めて、おそらくは日本のオーケストラによるショスタコーヴィチの交響曲の中で、最も激烈な演奏の一つとなっていたのではなかろうか。
 弱音における叙情的な部分も見事だ。曲の冒頭の弦の和音の響きにも空間的な拡がりがあり、ミステリアスな静寂と、次第に夜が明けてゆくような曲想の変化の呼吸もいい。
 第3楽章の「同志は斃れぬ」の部分でラザレフは、「このすばらしい箇所をよく聴いてください」と言わんばかりの表情で客席の方を向いたまま指揮を続けたが、そこでのヴィオラの弱音の主題は、音色の見事さといい、悲劇的な情感といい、まさに卓越したものであった。
 終結近くのイングリッシュ・ホルンによる哀歌の箇所は(奏者の一部ミスもあって)以前のデプリーストと都響のそれには及ばなかったが、全体の出来からすればそれは取るに足りないものだろう。翌日の演奏も聴いてみたいと思えることは滅多にないが、この日のショスタコーヴィチは、そういう数少ない至福の時間だった。
 日本フィルも、やるときはやるものだ。


 ━━これが12年前の演奏の印象記。これだけ読むと、当時の方が演奏のニュアンスは細かかったのかな、と思わせられるが・・・・。しかし、演奏水準の面から言えば、現在の日本フィルのそれは、当時とは比較にならぬほど高くなっていることは間違いない。

3・19(木)ジェラール・コルステン指揮読売日本交響楽団&エヴァ・メイ

    サントリーホール  7時

 つい最近までロンドン・モーツァルト・プレイヤーズの音楽監督だったジェラール・コルステンを客演指揮に、エヴァ・メイをソリストに招いてのモーツァルト・プロ。

 「プラハ交響曲」と「ハフナー交響曲」を前後におき、中に演奏会用アリアを2曲(「あわれ、ここはいずこ」K.369と「麗しき恋人よ、さようなら」K.528)、「皇帝ティートの慈悲」から序曲と第2幕のヴィッテリアのアリア、「イドメネオ」から第3幕のエレットラのアリア、というプログラム。
 なおエヴァ・メイのアンコールとして、「後宮よりの逃走」からのブロントヒェンの軽快なアリア「何という喜び」が歌われた。

 モーツァルト・プロゆえ、楽しみにしていたのだが、これは些か期待外れ。
 まず何より、オーケストラの演奏に、何故かあまり生気がないのである。最初の「プラハ交響曲」の序奏からして、あの何度も反復される音型の演奏に活気が感じられない。これが読響かと唖然とさせられるほど。指揮者のせいかとも一時は思ったが、必ずしもそうでもないらしいのである。エヴァ・メイの歌を支えるオーケストラ・パートの演奏に入ると、その表情の無さはさらに顕著になってしまった。

 休憩を挟んで序曲が始まった時には、やっと活気が戻ったかと一瞬思ったが・・・・。
 普通、ヨーロッパ公演から戻った直後のオーケストラというのは、演奏に一段とメリハリと活気があふれているものなのだが━━今日は手をお抜きになったか? 
 来週の定期(「ジュピター」「英雄の生涯」など)を聴けばはっきりするだろう。

 エヴァ・メイも、声そのものは美しいが、今夜は不思議にリズム感が甘く、旋律線の崩れる傾向がなくもない。また、ヴィッテリアのアリアでの低音域は、この人にはやはりちょっと苦しいかも。

3・18(水)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

  東京文化会館大ホール  7時

 桂冠指揮者となった今も、インバルの人気は相変わらず高い。
 今日はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」(ノーヴァク版1878/80)というプログラム、客席は緊張と熱気に包まれていた。

 「トリスタン」は、予想通り、いわゆる官能性や情念のかけらもない、ひたすら厳格な構築に徹した演奏だ。最後のイゾルデの法悦の絶頂感の個所など、かなり素っ気ない表現である。
 だが、「前奏曲」で、網の目のように入り組むモティーフ群が明晰に浮かび上がるところなどは、さすがに見事だ。インバルの腕の冴えだろう。

 こういう鮮やかなモティーフ群の扱いは、1999年に彼が演奏会形式で指揮した「ヴァルキューレ」全曲の時と同様だが、今の都響の音は、あの頃とは比較にならぬほど緻密である。陶酔感こそないが、しかし完璧な演奏━━と言ってもいいだろう。ただ、それが決して無機的な演奏ではなかったことは付け加えておかなくてはなるまい。

 ブルックナーの「4番」は、これもまた恐ろしいほど厳しい力感を備えた演奏だ。
 そもそもインバルの指揮でこの「ノーヴァク版1878/80」のナマ演奏を聴いたのは、私はこれが最初だと思う(なにせインバルは「4番」でも「8番」でも初稿版をやってくれることが多いので)。流れの良いこの版では、インバルのわずかな隙もない完璧な楽曲構築の威力が、いっそう強く印象づけられる。

 今回、2階正面1列目で聴いた印象で言えば、それは実にたくましい筋肉質の、きわめて硬質で生々しい響きに満たされた演奏だった。「ロマンティック」などという副題とは、およそ無縁なタイプの演奏だ。だが、それは指揮者の解釈の問題だから、それはそれで良い。
 私としては、ブルックナーの交響曲の場合には、こういう凝縮した鋭さよりも、もっと宇宙的な拡がりをもった世界を求めたいところだが、それも所詮は好みの問題だから、インバルのこのアプローチに異論を唱えるつもりはない。

 とはいっても、都響の演奏が、最強奏個所では金管群がびりびりとした鋭さを伴って響き、強力ではあるけれども異様に刺激的な音だったのが気になったのだが・・・・。そこでの音色は、どう贔屓目に見ても、奇麗とは言えないだろう。不満が残ったのは、その点だけである。

 とにかく、インバルと都響の演奏は、驚異的なほど厳格で、強靭だ。スケルツォの結尾部や、フィナーレのコーダなど、圧倒されるほど猛烈なエネルギー感である。オケの各パートの均衡という点でも、特筆すべきものがある。こういう見事な演奏で聴くと、この「4番」は、つくづく凄い骨相をもった作品だという気がする。

3・16(月)マレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団

   サントリーホール  7時

 24日までの計8回公演の2日目。ブラームスもしくはブルックナーの交響曲でプログラムが組まれた今回の日本公演のうち、今日だけがウェーバーの「オベロン」序曲と、フランク・ペーター・ツィンマーマンをソリストに迎えてのシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」が加えられた演奏会である。
 しかも、それら2曲の演奏が、とてつもなく素晴らしく、面白かった。

 特にシベリウス! ツィンマーマンが百花繚乱、千変万化の表情で展開するソロの、まあ何というスリリングなシベリウスだったことか。
 冒頭からして、ざわめく弦の弱音の上に、ヴィブラートなしのまま弾き続けて行くソロの不思議な響き。さながら荒漠たる原野に遠く近く響いて来る角笛のような━━などと言っては突拍子もないイメージに過ぎるかもしれないが、とにかくこのコンチェルトの出だしがこんなにユニークな姿で現れて来たのを聴いたのは、これが初めてである。

 全体に、非常にアクの強い、粘り気のあるソロで、デュナミークの激烈さ、推進性の強烈さも群を抜く。つまり、シベリウスの音楽を北欧の透明清澄な世界から引き離し、強引に己の深い魔性の世界に曳きこんでしまった演奏━━とでも言ったらいいか。
 また、これに対峙するヤノフスキとベルリン放送響の、重い翳りをもった巨浪のごとき起伏の演奏が物凄い。ティンパニを伴った最強奏での怒号など、まさに劇的そのものだ。シベリウスの協奏曲に内在する、思ってもみなかった様相を抉り出されたような気がして、これは度肝を抜かれた演奏だった。

 なおツィンマーマンは、ソロ・アンコールとして、バッハの「無伴奏ソナタ第2番」の第4楽章(アレグロ)を弾いたが、これまたデュナミークの振幅の大きい、非常に大きな表情の劇的なバッハとなった。聴衆だけでなく、オーケストラの楽員からも猛烈な拍手をあびたツィンマーマン、今回はこれ1回のみの日本公演らしいが、更に続けて聴きたくなるといった感のソロであった。

 ウェーバーの「オベロン」序曲の演奏の特徴は、第2部で演奏されたブラームスの「第1交響曲」、およびアンコールで演奏された「第3交響曲」第3楽章とも共通する良さである。
 久しぶりに、良き時代のドイツのオーケストラの伝統を継承した━━とでもいうべき演奏を聴いた気がする。もちろんそれは、古色蒼然としたものではなく、現代の機能的なオケの能力が加味されたものではあるけれども、このしっとりとした、内面に向かって凝縮して行くような、しかも強靭な筋金入りの、そして柔らかく温かみを感じさせるドイツ音楽の演奏は、今やドイツのメジャーなオーケストラからは殆ど聴かれなくなった個性である。
 これがマレク・ヤノフスキという指揮者の個性がつくり出した演奏であることはたしかだが、やはりこのオーケストラ自体にそのような「良き伝統」の香りが引き継がれているからこそ生まれた演奏なのであろう。

 「オベロン」序曲では、がっちりした構築の中に、いかにも妖精の世界にふさわしい軽やかさも滲み出ていた。またブラームスの「1番」は、第1楽章の提示部は反復されたにもかかわらず、全体の演奏時間は40分を少し超えた程度という、かなりの快速テンポで進められていた。ヤノフスキの指揮、すこぶる鮮やかである。

 なにかしら懐かしさと、安堵感を味わわせてくれるウェーバーとブラームスであった。

3・15(日)山形交響楽団ユアタウンコンサート

   新庄市民文化会館  4時

 新庄は山形新幹線の終点である。東京から3時間半、山形駅からでも45分かかる。
 天気予報では、山形は連日のように雪と表示されていたので、びくびくしながら出かけたが、案に相違して山形市あたりは雪のユの字もなく、新庄市でも雪は道端に積み上げられて残るのみ。無風快晴、実に爽やかな天候であった。

 新庄市民文化会館は座席数1034。今日は満席というほどではなかったが、お客さんたちは熱心で、温かい。
 山形交響楽団は、山形市内だけでなく、米沢をはじめ県内各地で定例的に演奏会を行なっているが、新庄でのコンサートもその一環。主催者山形交響楽協会と、山響ユアタウンコンサート新庄公演実行委員会だ。私の方は例のごとく、地方都市でオーケストラがどのように活動し、地域の人々がどのようにそれを愉しんでいるかを視ることに個人的な興味があったわけだが、今回はその他に文化庁系の芸術文化振興基金助成の事後調査報告という仕事もあった。

 今日は、音楽監督の飯森範親によるモーツァルト・プロ。「交響曲第17番」、「ホルン協奏曲第1番」(ソロは東京響首席の大野雄太)、「交響曲第41番《ジュピター》」。
 これは、飯森と山響が8年かけて取り組み、先ごろ完結した「モーツァルト全交響曲ツィクルス」のエコーであり、アンコール・コンサートの一環とでもいうべきものだろう。

 飯森の自信満々の指揮と形容してもいい雰囲気が感じられるステージだったが、ただ山響の方は、「第17番」にしても「協奏曲」にしても、何か重く、ノリの不充分な演奏に聞こえた・・・・前者の第2楽章など、本来は指揮者もオケも、もっと流れのいい、流麗な中にも躍動感のあるアンダンテを演奏するつもりだったのではなかろうか。

 残念ながらこのホールの音響がドライで、しかも管楽器の音がまるで「ラッパ吹込みのSPレコード」の音のように聞こえるというハンデを負っているので、演奏に瑞々しさが欠けた印象になってしまうのもそのためだろう。
 とはいえこれも、指揮台の上で聴くのと、客席前方、または(私の席の位置のような)客席後方で聴くのとでは、アコースティックも違うだろうし、印象も違ってくるかもしれない。「ジュピター交響曲」になると、音楽自体に強靭なエネルギーがあるので、その絶え間ない推進性がホールの音響の不備をさえ克服する・・・・となったのは確かだったが。

 終演後、ホワイエでは、ファンが飯森と大野を囲んでの交流会、サイン会などが開かれていた。地方都市オーケストラには、こういうイベントを定例化しているところがいくつかある。群馬交響楽団も、たしか今でもやっているはずである。
 地方取材の時には大体とんぼ返りというケースが多いのだが、せっかく3時間半かけてここまで来たからにはと、初めて天童温泉に立ち寄り、一泊することにした。温泉にでも浸かれば体調も回復するだろう、と。

3・14(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

   サントリーホール  6時

 ベルクの「抒情組曲」から3つの小品(弦楽合奏版)と、ワーグナーの「パルジファル」抜粋(第1幕前奏曲、第2幕からパルジファルとクンドリの場面、第3幕から「聖金曜日の音楽」)というプログラム。
 これはもう、ノットと東京響の相性の良さが、存分に発揮された演奏であった。

 ベルクでは、グレブ・ニキティンをコンサートマスターとする東京響の弦の音色に清澄で透明な美しさがいっぱいにあふれ、その白々とした冷徹さがむしろ瑞々しい官能性を感じさせていたほどである。

 一方、ワーグナーは━━昨年12月の「ジークフリート牧歌」が意外にのびやかでふくらみのある演奏だったこともあり、ロマン派音楽に対するノットのアプローチのスタイルも判って、これならやってくれそうだと期待していたのだが、それを裏切らぬ見事な演奏となった。
 極めて明快な音色のワーグナーだが、その響きには厚みも重量感も充分に備わっており、音楽が壮大な流れとなって進んで行く。無数のモティーフが交錯するさまが、実に明晰に、鮮やかに浮き彫りにされつつも、無機的で冷たい響きに陥ることは全くない。
 情感たっぷりの神秘的なワーグナーも、それはそれで魅力はあるが、白色の光と翳にいろどられたこのノットのようなワーグナーにも、一種の爽快な良さがあるだろう。

 東京響もこれに応え、すばらしく引き締まった演奏を聴かせてくれた。先日の新国立劇場での「さまよえるオランダ人」では何とも頼りない演奏をしていたこのオケだが、今日は名誉回復をしてさらにおつりが来る、と言ってもいいほどの快演だった。

 なお、第2幕からの場面では、クリスティアン・エルスナー(パルジファル)とアレックス・ペンダ(クンドリ)が協演して好演していた。
 アレックス・ペンダは、男みたいな名前だが、本名はアレクサンドリアナ・ペンダチャンスカという由。ブルガリアはソフィア出身のソプラノで、DVDの「サロメ」などを観てもなかなか鋭い歌唱と演技を披露している。注目株だろう。

 第2幕の中から演奏されたのは、パルジファルが花の乙女たちの中に登場した場面の最後の個所から同幕の終りまでの長い部分である。花の乙女たちの合唱とクリングゾルの声楽パートは割愛されていたが、ワーグナーの音楽は、声楽の一つや二つ抜いてもオーケストラだけで何とかサマになるもので、━━であれば、どうせなら「聖金曜日の音楽」で終らせるのでなく、合唱抜きで全曲最後のパルジファルの「ただ一つの武器」と終曲をもやってもらいたかったという気がしないでもない。
      別稿 音楽の友5月号演奏会評

3・14(土)神戸市室内合奏団

    紀尾井ホール  2時

 1981年、神戸市により設立された合奏団で、一時はゲルハルト・ボッセが音楽監督を務めたこともある。現在の音楽監督は岡山潔(ベートーヴェン・ハレ管弦楽団コンマス、読響コンマスを歴任)である。
 以前から評判はよく聞いていたのだが、ナマで聴くのは、実は今回が初めてだ。

 今日はシューマン・プロで、「メッシーナの花嫁」序曲、「ヴァイオリン協奏曲」、「交響曲第2番」という大編成。
 本来は弦楽主体のオーケストラだというから、今日のメンバーのどこまでが正規団員なのかは判らないけれども、とにかく白井圭をコンサートマスターとする弦楽セクションはよくまとまっている━━ということは、管楽器セクションがかなり粗いという意味にもなるのだが。

 指揮は、今年30歳の石川星太郎(せいたろう)。東京藝大出身で、今はデュッセルドルフで修行中とのこと。序曲と協奏曲ではどうということはない指揮だったが、交響曲になると俄然、羊が狼になったような趣を呈し、力とエネルギーの噴出する指揮で、この交響曲の劇的な要素を引き出してみせた。
 先頃読響を指揮した時(TV用演奏会など)の関係者の評判も至極よかったようなので、これから注目されてしかるべき指揮者だろう。

 協奏曲のソロは、岡山潔。老練、風格の語り口。名手は健在である。

3・13(金)河村尚子ピアノ・リサイタル

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 デビュー10周年だそうだが、このリサイタルがその記念演奏会というわけではない。
 プログラムは、バッハ~ブゾーニの「シャコンヌ」に始まり、ショパンの「ワルツ 作品42」「マズルカ 作品17の4」「夜想曲 作品27の2」「舟唄」が続く。第2部はラフマノニフの「前奏曲作品23」から「第10番」「第7番」、プロコフィエフの「ソナタ第6番」。アンコールはシューマンの「献呈」、ショパンの「英雄ポロネーズ」「夜想曲嬰ハ短調(遺作)」と続いた。

 彼女のソロ・リサイタルを聴いたのは、久しぶりのように思う。まろやかな音色の裡にきりりと引き締まった芯の強い音楽を響かせるのが彼女の個性の一つだ。今夜はバッハにおける明晰さ、ショパンにおける豊麗さ、ロシアの2人の作曲家における豪壮さ、シューマンにおける温かさ、といったような、さまざまなニュアンスを聴かせてくれた。
 プロコフィエフのソナタが、ダイナミックな躍動を続けながらも、単なる力任せの野性味に陥ることが全くなく、一種の優しさをさえ感じさせる音楽になっていたのが面白い。

 ━━だが今夜の演奏は、全体に何か寛いだ雰囲気を感じさせた・・・・。

3・12(木)バーシェ・トリオ

    東京文化会館小ホール  7時

 「バーシェ」とはロシア語で「あなたの」という意味だそうな。

 メンバーはヴァイオリンが小森谷巧(読響コンサートマスター)、チェロが古川展生(東京都響首席)だが、ピアノの反田(そりた)恭平は、モスクワ音楽院に学ぶ20歳の俊英だ。この若者を中心に、その才能に惚れ込んだ2人のベテラン奏者が集まって室内楽を━━というねらいで、ロシア語のグループ名をつけたと聞く。

 今回が公式演奏会の第1回ということだし、まあ、三重奏団とは言っても臨時編成、いつまで一緒にやるかどうかは判らぬ・・・・と言ってはミもフタもないが、名手たちによる一期一会の室内楽演奏会は、それはそれで聴きごたえがあるし、楽しいものだ。実際にこれは、すこぶる気持のいいコンサートだった。

 何より、この反田恭平という青年の演奏が、著しく個性的で自己主張が強く、つくり出す音楽が尖っていて、一音たりともイージーに聞き流すことを許さない、という勢いを持っているのである。若々しいとか、瑞々しいとかいったイメージではない。制作マネージャーは「ある意味でふてぶてしい感じ」と評したが、これは穿った指摘だろう。
 桐朋出身とはいえ、モスクワ音楽院で勉強しているがゆえに、こういうアクの強い演奏を身につけられたのかもしれない。願わくば、この強い自己主張を、いつまでも失わぬようにしていただきたいものだ。

 この日のプログラムは、ハイドンの「三重奏曲ト長調Hob.ⅩⅤ-25」、久石譲の「おくりびと」(東日本大震災犠牲者を悼み、とのこと)、ラフマニノフの「2つの小品 作品2」、ヴィエニアフスキの「伝説曲」、チャイコフスキーの「ワルツ・スケルツォ」、メンデルスゾーンの「三重奏曲第1番」、アンコールとしてピアソラの「ブエノスアイレスの冬」とリストの「愛の夢第3番」、といったように、トリオ、デュオ、ソロを織り混ぜたものだった。

 若い反田の勢いに、2人のお父さんたちも煽られて、というか、最後までよく面倒を見てやったというか、特にメンデルスゾーンでは3人それぞれの━━イキの合った、とまでは言わぬが━━白熱の演奏が繰り広げられ、満席に近い聴衆を沸かせた。
 反田の演奏には、荒っぽいところもあり、傍若無人なところもあるものの、アンファン・テリブル的な才能を感じさせて面白い。だがたとえば「伝説曲」におけるように、大先輩・小森谷の劇的なヴァイオリン・ソロを盛り立て、自分はソフトな音で控えめな伴奏に徹するといったような、心得た幅の広い芸風をも聴かせるのである。

 もっとも、最後にソロで弾いたリストの「愛の夢」では、テンポを極度に落とし、一つ一つの音を際立たせながら自己沈潜的に演奏して、なんだか恐ろしく長い曲にしてしまう・・・・などというところは、やはり、今どきのピアニストの流行に乗っているんだな、と思わせる。

 なお、この日使用されたピアノは、1887年製のスタインウェイで━━1925年までニューヨークのスタインウェイの貸出用ピアノとして活躍、その後日本に渡り、一時期キャピトル東急に所蔵されており(あれか?)、1986年にホロヴィッツがこれを見つけて弾いたとかいう、いろいろ由来のある楽器だそうである。ローズウッドの色が美しく、音色もあの時代ならではの独特の個性を持っている。
 この楽器の音色が、反田恭平のこの演奏スタイルに合っていたかどうかは、ちょっと微妙なところもあるが・・・・。

3・10(火)METライブビューイング オッフェンバック:「ホフマン物語」

    東劇  6時45分

 1月31日MET上演のライヴ。
 2009年にプレミエされたバートレット・シェア(案内役デボラ・ヴォイトが発音していた呼び方に由る)演出のプロダクションで、2010年1月にライブビューイングで上演されたことがある。その時の指揮はジェイムズ・レヴァインだったが、今回はイヴ・アベル。録音で聴く範囲では、アベルの指揮は瑞々しい演奏で、各幕の最後に置かれているクライマックスへの盛り上げ方もすこぶる巧い。

 歌手陣も、当然のことながら大部分入れ替わっている。
 題名役ホフマンは、今回はヴィットーリオ・グリゴーロ。歌唱自体はいいが、明るく陽気な雰囲気のキャラだから、悩める詩人ホフマンという姿はどう見ても浮き上がって来ず、前回上演の際にシェアが語っていた「疎外された男」のイメージからもほど遠いことだけが問題だろう。ただ、そういうコンセプトを考えずに、愛すべき青年ホフマンという役柄だけで観れば、いい舞台であろうと思われる。

 ダッペルトゥットやミラクル博士など4人のいわゆる「悪役」は、今回はトーマス・ハンプソンである。この人もベテランだから、悪くはないが、悪役としての凄味に少々不足、それゆえ舞台をぐっと強く引き締める大黒柱のような存在にならないという恨みがあるだろう。
 言っても詮無いことながら、METの配役表を見ると、3月の上演では個性派ロラン・ナウリが歌うことになっており、彼は演技の巧さではもう図抜けた存在だから、きっと不気味きわまりない悪役を演じてくれたろうに━━。

 ホフマンの恋人たる4人の女性は、まず人形オランピアをエリン・モーリーが予想通り好演。これに対しジュリエッタのクリスティン・ライスは役柄上あまり目立たぬ存在なので分が悪くなるのは致し方ない。
 ステラとアントニアを歌ったのはヒブラ・ゲルズマーワで━━彼女は21年前のチャイコフスキー国際コンクールの際に取材して以降、結構聴く機会があったのだが━━歌の面では最近とみに柔らかさと風格を増したと思われるが、演技が相変わらず、さっぱり上手くなっていない。前回同役を歌ったネトレプコと比べるのは酷としても、それでもアントニア役は何とか歌の力で切り抜けたが、ステラの方は、何をやっているのか判然としない舞台になってしまった。

 結局、前回に続き同じ役を歌ったニクラウス役のケイト・リンジーが、今回はさらに存在感を発揮して、映えていたのではなかろうか。親友ホフマンと表裏一体、時にはその自己破壊的な精神面を具現したような表現━━その最たるものは、第3幕でミラクル博士の片棒を担ぐような形でアントニアに「歌わせてしまう」(=死に追いやってしまう)役割を演じてしまうこと━━を採らせるこの演出のねらいが、今回ははっきりと読み取れたような気がする。

 案内役は、前回と同様、デボラ・ヴォイト。彼女の進行は本当に巧い。体重の話を持ち出したグリゴーロの危険な冗談を変顔で受け流し、彼の果てしなく続く早口のお喋りを巧みに切り上げ、4人の悪役の特徴を説明するハンプソンには「どの役が演技?」(全部あなたの「地」なんじゃないの?)と軽やかに突っ込むというように、・・・・まずは見事な司会者、といえるだろう。
 終映は10時20分頃になった。

3・9(月)田中祐子指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   東京芸術劇場コンサートホール  7時

 本来なら、5日には東京でキット・アームストロングのリサイタルを、6日には名古屋でスワロフスキー指揮のセントラル愛知響の演奏会を、また7日と8日にはびわ湖ホールで「オテロ」を━━という予定だったのだが、持病(?)の尿管結石が来たりしたこともあって、全て棒に振ってしまった。
 この結石というやつは、やったことのある人なら、その名を聞いただけで顔をしかめるはずだが、痛みが30分以上も続いて一段落するまでは、ただもう脂汗を流して七転八倒するしかない、というシロモノなのだ。これまでの何度かの経験から、痛みが始まったらすぐに水をガブガブ飲むと多少は楽(石が少しは動くのか? どうでしょう、この手は?)という素人療法を自己開発していたので、今回は三転四倒?程度で、辛うじて食い止めた。が、事後2、3日は気をつけなければならぬという経験則で、自粛していたというわけである。

 それで━━本題だが、今日はやっと池袋まで出かける。「都民芸術フェスティバル」参加公演で、主催は日本演奏連盟。満席の盛況。

 田中祐子の指揮を聴くのは、私は実は今回が初めてである。
 東京音大と東京藝大に学び、数年前のブザンソンとショルティの各国際指揮者コンクールでセミ・ファイナリストになった経歴を持つ人だ。お歳を言っては失礼ながら、ご本人の公式サイトではすでに公開されているので━━30代半ばの美女である。
 動作はきびきびしていて、ステージでの雰囲気は、いかにも若い女性らしく明るい。小柄に見えるけれども、オーケストラから引き出す音は、すこぶる骨太で力強く、しかも開放的なエネルギーを備えている。

 今日演奏されたのは、プロコフィエフの「古典交響曲」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第26番《戴冠式》」(ソリストは横山幸雄)および「交響曲第40番」。アンコールには、同じモーツァルトの「交響曲第1番」からの第3楽章(フィナーレ)が演奏された。
 プロコフィエフでは、ホルンにちょっとアクセントをつけたりクレッシェンドさせたりするなど、デュナミークの構築に神経を行き届かせた指揮で、これはなかなかやるなと思わせたが、そのあとのモーツァルトは、むしろ正確なテンポを守り、極めて率直な音楽のつくりで、最後まで押し切った。
 ただそれが、決して単調なものにならず、特に「第40番」ではフォルテとピアノとを際立たせ、デュナミークの対比を明確にして、音楽にメリハリを生じさせていたのは、好ましい特徴だろう。

 どの曲でも低音域をしっかりと響かせ、かなり重心のある演奏をつくっていたが、その「40番」では柔らかく厚みのある響きというスタイルのアプローチを試みていたのも印象に残った。
 弦を前面に引き出し、管はその彼方から多少エコー的に━━あまり明晰な音にせぬままに━━響かせるというのも、彼女の音づくりの癖なのだろうか。師事した先生が尾高、広上、高関、汐澤といった人たちだから、モーツァルトをピリオド楽器スタイルで演奏するという方法を採らないのも、当然かもしれない。それはそれでいいだろう。

 とにかく、今日の彼女の指揮を聴いた範囲では、その演奏は、極めて調和が取れ、まとまりが良い。日本人の国民性を具現したような指揮とも言うべきか。
 しかし、欲を言えば、今一つ個性的な何か━━聴き手の心をもう一つ強く掴み取るものが欲しいところだ。アクの強さなども、あっていいのではと思う。間もなく藤原歌劇団の「椿姫」を振ってオペラ・デビューをするというから、期待しよう。

3・4(水)エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

    サントリーホール  7時

 ヒラリー・ハーンの弾くブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」を中に挟み、前後をシベリウスの「トゥオネラの白鳥」と「交響曲第5番」で固めたプログラム。

 何より、ヒラリー・ハーンのソロが、いつもながら豊かで強靭そのものだ。実に気宇壮大で、凛として逞しく、しかも緻密で精妙なニュアンスを完璧に備えている。
 彼女の弾くブラームス像には、所謂哲人的な、地味で堅実な面影はあまり感じられない。むしろ、明快な口調で語りかける開放的な人物といった趣がある。が、しかしそのきりりと引き締まった演奏の表情は、強烈な自信と深い滋味を兼ね備えたこの作曲家の精神を浮き彫りにしているだろう。

 彼女のその演奏に呼応して、サロネンとフィルハーモニア管が躍動する。どちらかというと重心の低くない音づくりだが、力があって美しい。
 第3楽章の第90小節前後の個所を、サロネンは、ホルンを先頭に、管とティンパニを咆哮させて猛烈に煽った。さすが、やってくれたわ、という感。かつてここを煽った演奏では、いずれも録音だが、ケネディと協演したテンシュテットの指揮と、ハイフェッツと協演したライナーの指揮が印象深かった。今日の演奏は、そこまでは行っていなかったものの、漲る気魄が充分で、これも面白かった。

 シベリウスの方は、サロネンのお国ものだから、悪いはずはない。「トゥオネラの白鳥」の重く沈潜した陰鬱な響きと気分には、さすがのものがあった。
 「第5交響曲」ももちろん同様である。ただ、ちょっと持って回った演奏という感がなくもない。いつも聴き慣れたこの曲が、常よりも重厚長大な交響曲に感じられたのだが・・・・。

 このサロネンの「5番」における指揮で、たった一つ納得が行かなかったのは、第1楽章コーダの【Q】以降、プレストに入ってからの個所だ。
 サロネンはホルンを強奏させ、トランペットの動きを全合奏の中に埋没させてしまったので、専らホルンの同一音型の反復ばかりが浮き立つ結果になってしまい、トランペットによる主題のモティーフが全く聞き取れなくなってしまっていたのである。ここは、サロネンがこの楽章の主題の扱いをどのように解釈していたのか、尋ねてみたいところだ。

 この3カ月ほどの間に、このシベリウスの「5番」のナマを、東京都響と札響の演奏と併せ、これで3回聴く機会があったわけだが、フィルハーモニア管弦楽団は、シャクだけれども、やはり上手い。音量もスケールも大きいし、響きも豊かで、空間的な拡がりを充分に備えている。
 もっとも、緻密さと凝縮力においては、日本のこの二つのオーケストラだって、決して引けは取らないだろうが。

 オーケストラのアンコールは、予想通りのシベリウスの「悲しきワルツ」。またこれか、という感もあったが、演奏自体はすてきだった。なお、ハーンのアンコールは、バッハの「無伴奏パルティータ第3番」の「ジーグ」。時間さえ許せば、このまま全曲を聴いてもいいな、と思わせたほど。

3・3(火)川瀬賢太郎指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

   神奈川県民ホール  7時

 今日はチャイコフスキー・プロで、前半に郷古廉をソリストに迎えた「ヴァイオリン協奏曲」、後半に「交響曲第5番」。

 神奈川フィルの音が、きれいになったように思う。常任指揮者・川瀬賢太郎の個性も反映しているのだろう。特に、ゆっくりした個所での弦の響きには、彼がたとえば細川俊夫の作品を指揮した時につくった、あの澄んだ抒情的な音色が聴かれたような気がした。

 川瀬の最近の指揮ぶりは、文字通りの大奮戦だ。振り上げる腕は天を衝き、連続して数回も跳躍し、指揮台狭しと暴れ回る。まさに全身全霊を込めてオーケストラに彼自身の音楽を伝え、それを具現するための闘いを繰り広げているかのよう。彼のこういう指揮姿は、以前はほとんど見たことはなかった。若いうちは、このくらいのオーバー・アクションも好いだろう。

 たとえば、交響曲の第1楽章でのフォルテ3つの個所━━198~199小節、202~203小節、および455~456小節、459~460小節におけるたたきつけるリズム感の激しさは驚くほどだし、第4楽章主部での突進する凄まじいエネルギー感は、若手指揮者らしい体当り的な気魄を物語る。その一方、協奏曲での第1楽章冒頭や第2楽章での瑞々しい清らかな叙情感も見事だ。

 アンコールで演奏したチャイコフスキーの「第4交響曲」第3楽章の最後の音を茶目っ気たっぷりに振り終えるなどというステージ姿も、以前の彼には見られなかったものだろう。彼は、神奈川フィルを指揮する時には、思い切り自由に、愉しんで振っているように見える━━内情はどうか知らないけれども、とにかく客席からは、そう見える。
 これでオーケストラ側の方でも、管の不安定さが是正され、弦のトゥッティを含めた全体のアンサンブルが整えられる時が来れば問題ないのだが、そこに行き着くまでには、だれかオケを厳しくしごき上げるトレーナー的指揮者が必要だろう。特別客演指揮者・小泉和裕、首席客演指揮者サッシャ・ゲッツェルとの3頭体制で、これがどう改善されるか待ちたい。

 なおヴァイオリン・ソロを弾いた郷古廉━━この若手も凄い。技術もさることながら、演奏に満ちる緊迫感と力、瑞々しくしなやかな躍動感、そして何より、良い曲だなと思わせる音楽性が素晴らしい。川瀬指揮する神奈川フィルもこれに呼応して、音量はやや不足気味だが、美しいコンチェルトを聴かせてくれた。全曲最後での、川瀬の勢いあふれる「振り終え姿」も決まっていた。

3・2(月)トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 何年も前から私の贔屓のこの若手指揮者トゥガン・ソヒエフ。
 近年はこのトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の音楽監督の他、ベルリン・ドイツ交響楽団の首席指揮者、モスクワのボリショイ劇場の音楽監督・首席指揮者を兼任するという、超売れっ子となっている。
 今日の公演は、今回のツアー最終日で、ユリアンナ・アウデーエワをソリストに迎えてのショパンの「ピアノ協奏曲第1番」と、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」というプログラム。

 「シェエラザード」は、前回来日(2012年12月)の際にもやった曲だ。あの時は豪華絢爛、縦横無尽、変幻自在、大胆不敵・・・・といった感の、えらく面白い演奏だったという記憶があるが、今回の演奏を聴くと、そういう大暴れ的な解釈は、ちょっと影をひそめてしまったようである。
 もちろんオケは上手いし、特に管はさすがに鮮やかだし、華麗な「シェエラザード」だったことはたしかだが、何かまっとうな演奏になってしまって、私としては少々拍子抜けであった。

 まっとうで何が悪い、と言われるかもしれないが、もともとこの曲は、極端に言えば同じ主題を楽器を変えて繰り返すのが取り柄みたいな曲だから、華麗な色彩感という良さはあるものの、それだけではだんだん飽きて来る。何かハッタリでも効かせてくれないと━━というのが、この「シェエラザード」への私の個人的嗜好なのだ。
 ただ、二つほどの個所で、コントラバスあるいはホルンの低音を、それぞれスコアの指定よりも強調し、長く引き延ばして、音楽に不安で劇的なアクセントをつけていたあたりは、さすがソヒエフ━━という感である。

 アンコールで演奏したのが、ビゼーの「カルメン」の第3幕の前の間奏曲、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」からの「トレパック」、再び「カルメン」の第1幕前奏曲(前半のみ)。・・・・「カルメン」は前回、前々回の来日の時にもアンコールで演奏していて、したがって前回「他にやるものはないのかね」と書いた記憶があるが、まあいい。

 ショパンの協奏曲の方が楽しめた。ソヒエフとオーケストラが、あっさり開始されることの多い冒頭の主題を、驚くほど堂々と威容に満ちて演奏しはじめた。まさにスコアの指定通りの「マエストーゾ」であり、こういうちょっとした個所にも、ソヒエフの楽譜読み込みの巧みさが聞き取れるだろう。
 だが何より、アウデーエワの演奏の明晰で明快で、しかも瑞々しい美しさが、たとえようもない。ショパンの音楽をこれだけ歯切れよく、かつ流れの良い澄みとおった情感をもって弾くピアニストは、そう多くはいないだろう。フィナーレのコーダで、いよいよ終結に追い込んで行くというあたりの持って行き方も、実に巧い。
 アンコールでは、ショパンの「華麗なる大円舞曲作品42」を弾いたが、これまた単なるワルツ以上に躍動的で、凛とした演奏だった。
      ⇒別稿 モーストリー・クラシック 5月号 公演Reviews 

3・1(日)ヴィヴァルディ:オペラ「メッセニアの神託」

    神奈川県立音楽堂  3時

 神奈川県立音楽堂が開館60年を記念して企画主催した「音楽堂バロック・オペラ」、今回のヴィヴァルディの「メッセニアの神託」は大成功。

 名匠ファビオ・ビオンディが、いわゆる「ウィーン上演版」(1742年)を再構成してまとめたものだそうだが、ヴィヴァルディの音楽が持つドラマティックな迫真性、リアルで巧みな標題的描写力は物凄く、正味3時間近くになる長大な3幕オペラが、息もつかせぬ迫力で蘇っていた。
 もちろん、いわゆる「パスティッチョ・スタイル」━━他人の曲も一部取り込んでの構成によるオペラだが、しかし編曲や、前後の曲との結合などの構築は、ヴィヴァルディならではの手法が使われているはずである。

 ビオンディ自らヴァイオリンを弾きつつ指揮するエウローパ・ガランテの演奏も、実に生き生きして張りがあって、ヴィヴァルディのオーケストラの雄弁な表情を、余すところなく再現してくれる。まさに胸のすくような、鮮やかな演奏だ。

 それにまた、今回の出演の歌手たちの、巧いことといったら! 男声歌手は暴君ポリフォンテ役のマグヌス・スタヴランのみで、あとは男役を含め、すべてメゾ・ソプラノ歌手━━マリアンヌ・キーランド、ヴィヴィカ・ジュノー、マリーナ・デ・リソ、ユリア・レージネヴァ、フランツィスカ・ゴットヴァルト、マルティナ・ベッリといった人たちだ。こういう見事な演奏で蘇ったバロック・オペラ━━ヴィヴァルディのオペラがいかに凄いものか、一言では言い尽くせない。

 また今回は、弥勒忠史の演出が成功していた。美術(松岡泉)と衣装(萩野緑)も凝っていて、能舞台をイメージした舞台美術には石庭や屏風が使われ、衣装も洋風と日本風(?)を役柄ごとに使い分けての設定である。
 演技の中では、特に能との関連は強調されていないが、しかし暴君ポリフォンテを歌い演じたスタヴランは、持った扇を巧みに使い、なかなか派手な見得を切っていた。この人、上背もあり、屹立すると頭が何処にあるのか判らないほどの小顔(?)なので、結構な迫力がある。聞けば、歌手たちは全員、自分たちでもいろいろ演技を工夫しながら舞台に臨んでいたのだとか。

 音楽は泰西ものだが、日本で制作した舞台は日本ならではのアイディアに充ちたもの━━これは、日本発のオペラとして考えれば、理想的な形態ではなかろうか。
 かつてヴォルフガング・ワーグナー(バイロイト祝祭総監督)やグスタフ・ルドルフ・ゼルナー(ベルリン・ドイツオペラ総監督)は、日本での二期会の「ニーベルングの指環」上演に関し、指揮していた若杉弘に「日本には歌舞伎というすばらしい舞台芸術があるじゃないか、なぜそれを応用してみたいと思わないのか」と奨めたそうだ。日本人なのだから、何から何まで西洋の物まねをする必要はないではないか、と、西洋人から逆に提案されたようなものである。W・ワーグナーは、「《ジークフリート》なんか、歌舞伎の手法を取り入れたら合うと思うよ、僕にもしテクニックがあったら、むしろ自分でやってみたいくらいだ」とも言ったという(このあたりの話は、若杉氏から直接聞いたものだ。以前にも書いた)。

 その後、若杉弘は、鎌倉芸術館での「サロメ」上演にその手法を取り入れた。私も観てすばらしいと思ったが、残念ながら、あまり話題にならずに終った。
 一方、ヴォルフガング・サヴァリッシュも、バイエルン州立歌劇場総監督の時代に市川猿之助と組んで「影のない女」を制作し、日本でも上演した。27年前のあの時、私は大感激したものである。一般のお客さんにも結構受けたようだった。が、・・・・本場嗜好の評論家からは「オリジナルの様式に合わぬ」とか、「解釈が浅薄だ」とか、酷評を蒙っていたことを記憶している。

 日本の良さが見直されはじめている今日━━今回の「メッセニアの神託」をワン・ステップとして、こういう形のプロダクションを、もっと前進させて行ってもいいのではなかろうか。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」