2017-04

2・28(土)山田和樹指揮日本フィル マーラー・ツィクルス第3回

     オーチャードホール  3時

 武満徹の「3つの映画音楽」に、マーラーは「交響曲第3番」。後者での協演は栗友会合唱団と杉並児童合唱団、アルトのソロが山下牧子。
 今日も全席完売で、立見席も埋まっていた・・・・そうだ。私の席からは見えなかったが。

 先日の「復活」があまりに見事だったので、今回の「3番」も━━と思っていたが、ちょっと期待が大きすぎたか? 
 もちろん演奏は,ピアニッシモと「間」とを重視した丁寧なつくりだったし、山田和樹が描き出すマーラー像は、若々しく健康で溌剌とした青年の息吹といったイメージをますます強く表しているように感じられた。それはこの「3番」という作品の性格にも照らして、当を得ているだろうと思う。
 日本フィルも大奮闘、ホルン・セクションに若干の乱れがあったことを除けばまず無難だったし、舞台袖の彼方から響いて来るオッタヴィアーノ・クリストーフォリのポストホルン・ソロは、うっとりするほど美しかった。

 ただ、聴いていて感じたのは、この壮大な起伏に富む、並外れて長大な自然詩を感動的に描き出すには、もう少し、しなやかさ、豊麗さ、流れの良さ、快い緊張感━━といったものが演奏にあったらな、ということ。

 「3つの映画音楽」は弦楽合奏のみの作品で、かなり鋭角的な音色と表情で演奏されたが、これも作品の本来の性格に合っているだろう。
 だが、今日の演奏では、この作品での弦の音色がそのままマーラーに引き継がれてしまっていたような感もあって・・・・そのこと自体には賛意を表しかねるけれども、第6楽章では、それがまた別の意味で面白かった。今日のプログラムにおいて、もし第6楽章の弦の主題が、先だって演奏された武満作品の弦楽の世界が浄化されたもの━━という関連性を形づくっていたとしたら・・・・などと勝手なことを想像しつつ聴かせてもらっていた。

2・25(水)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 桂冠名誉指揮者チョン・ミョンフンが指揮するマーラーの交響曲第6番「悲劇的」。
 事務局の談によれば、彼が日本でこの曲を指揮するのは、これが最初だとのこと。
 ステージに登場してくる時の歩き方や姿勢が妙に暗くて重々しいので(そういえば昨夜のティーレマンもずいぶんゆっくりした歩き方になっていたが・・・・)また歯でも痛いのかと心配させられたが、いざ棒を振りはじめればいつものようにきびきびした指揮ぶりなので一安心。

 三浦章宏をコンサートマスターとする今夜の東京フィル、このチョンの棒に応じて、重戦車の進軍の如く大奮戦を繰り広げる。もともとこの曲の演奏は、視覚的にもスペクタクルな光景になるものだが、今夜もなかなかのものだった。
 とはいえ、金管や木管の一部に、曲想が切り替わる瞬間などで粗さが目立ち、それらはかなり気になる瑕疵に感じられたのだが、これは今夜が初日だったせいか━━しかし、これは練習不足とか慣れないとかいうことから来るミスとは思えず、もっと根本的なところから来る、このオーケストラが持つ問題点であろうと思われる。

 メンバーをオペラ(今は「リゴレット」)との2群に分けて活動しているというのは、このオーケストラが意図的にやっていることなのだから、それならそれを完璧にこなせる体制を確立するのが、プロとしての責任であろう。この問題は、もうずいぶん前から広く指摘されていることなのだが、依然として解決されていないのは残念なことだ。
 ふだんは、ステージでの定期での演奏はまとまっているがピットでの演奏が締まらない、という傾向がある東京フィルだが、今回は「リゴレット」での演奏が良かった代わりに、定期でのステージのアンサンブルに隙間ができる、という状態に陥ってしまった。

 もっとも、今日のマーラーでの演奏が、楽章が進むにつれて次第に調子を上げて行ったことには、間違いない。第3楽章(アンダンテ・モデラート)での情感、第4楽章での脇目もふらずに突進するエネルギーなど、それはそれで手応えのあるものに感じられたのである。

 チョン・ミョンフンのマーラーは、少なくとも今夜の演奏を聴く範囲では、作品を大づかみに捉え、ストレートに、骨太に音楽を進めて行くタイプのものに思える。そこには標題的要素を浮き彫りにするとか、翳りを強調するとかいう感覚はあまり聞き取れない。
 だがそれも、今のオーケストラの状態との問題があるから、必ずしも一概に断定はできまい。明日のオペラシティで行なわれる2回目の演奏では、また違った特徴が感じられるのではないかと思うが。

 そういえば、今回は、ハンマー(2回)は、女性奏者が叩いていた。凄いものである(何が?)。だが、ハンマーが少し小型なのと、叩き台(?)のつくりとのせいか、音が随分と軽い。チョンの指定なのかどうかわからないけれども、あれではマーラーが考えていた「重々しく鈍い」運命の恐怖の打撃というイメージには遠いだろう。そして、そういう個所をも淡々と進めてしまうところに、良くも悪くも、チョンのマーラーの特徴の一つがあるように思う。
    別稿 音楽の友4月号 演奏会評

2・24(火)クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン

    サントリーホール  7時

 3回公演のうちの、今日は3日目。R・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」とブルックナーの「交響曲第9番」というプログラム。

 「メタモルフォーゼン」は、オリジナル通りに、23の弦楽器編成で演奏された。シュターツカペレ・ドレスデンの弦の音色の美しさが余すところなく発揮されて、これは清楚で清澄な、端整な官能美の世界、というところか。
 ティーレマンはテンポの変化に若干の趣向を凝らして作品に適度な起伏をつくる━━といってもそれは、勝手にテンポを揺らすという意味ではなく、音楽の表情の変化に即した、ごく自然な変化ということである。こういうテンポの調整に関しては、今のティーレマンは、いいセンスを備えている人だ。

 ブルックナーの「9番」では、ティーレマンもさすがにテンポで煽るなどということはしない。イン・テンポで、ストレートに堂々と軍を進めるというタイプの演奏である(この曲の場合、テンポを劇的に変化させて魔性的な迫力を出すことに成功した指揮者は、古今おそらくフルトヴェングラーのみだろう)。

 ただ、誇張や大見得や矯めといったものを一切排した、正面切った演奏という面になると、帝王(?)ティーレマンといえども、どうも未だしの感があるのではないか? ワーグナーやR・シュトラウスの作品ではあれほど見事な効果をあげる指揮者なのに、ことブルックナーの交響曲となると、ティーレマンの指揮では、未だ納得のできる演奏には巡り会えないのである。
 ではティーレマンの指揮は、テンポの演出だけが取り柄だと言うのか、などと突っ込まれると、これまた返答に窮してしまうのだが・・・・。

 だが所詮はこれも、相手が世界超一流だからこそ言える「無いものねだり」のようなものだ。巨大な音響構築の力感、うねる弦楽器群の分厚い響き、緊張の糸が途切れることはない長い総休止など、ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンの演奏が卓越していたことはたしかである。それに演奏の内容だって、第3楽章のコーダで、弦の澄んだ音色とともに浄化されたような雰囲気が次第に増して行くあたり、さすがに見事なものだった。

 誤解されると困るので付記しておくが、ブルックナーの交響曲の場合には、私はテンポを激しく動かすスタイルの指揮は好きではない。

2・23(月)METライブビューイング 「メリー・ウィドウ」

   東劇  7時

 レハールの「メリー・ウィドウ」、1月17日METでの上演ライヴ。これは今シーズンの新演出だった。
 演出と振付は、「プロデューサーズ」や「コンタクト」など、ブロードウェイのミュージカルの演出・振付家として著名なスーザン・ストローマン。指揮がアンドリュー・デイヴィス。
 歌手陣にはルネ・フレミング(ハンナ・グラヴァリ)、ネイサン・ガン(ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵)、ケリー・オハラ(ヴァランシエンヌ)、アレック・シュレイダー(カミーユ・ド・ロジョン)、トーマス・アレン(ツェータ男爵)、カーソン・エルロッド(ニェグシュ)らが出ていた。

 歌詞はジェレミー・サムズ翻訳になる英語版だが、標準的に上演されるドイツ語版に比べ、内容が一部変更されている。ただ、DVD(OPUS ARTE)で出ているサンフランシスコ歌劇場上演版で使用されている英語歌詞などに比べると、たとえば「とかく女というものは」の個所など、よほど歌のリズムに合っているように感じられるのだが。

 ジュリアン・クローチによる舞台美術、ポーリー・コンスタブルによる照明を含め、非常に華麗ではあるけれどもどこかくすんだ色合いが感じられるのは、映像の具合かもしれない(ナマの舞台と収録映像とでは、往々にして印象が異なるものである)。スーザン・ストローマンの演出も、こういった色合いの舞台の中では、単なる豪華絢爛というイメージとは少し違って来るようである。
 しかし、登場人物の演技は極めて忙しく変化に富んでおり、カンカンなどのダンスも猛烈な動きだ。第3幕のマキシム(ふうの)場面になると、さすがMETともいうべき豪壮な光景が繰り広げられる。

 フレミングは相変わらず華のある舞台姿だが、声はやはり峠を越しているという印象は拭えまい。今や、巧さと味とで観客を惹きつけるという境地に達して来たようだ。
 また、ケリー・オハラはミュージカル畑の人だそうで、これがMETデビューということだが、ミュージカル歌手といってもケタが違う。「夜の女王」も歌えるというし、歌は並みのオペラ歌手よりもはるかに上手い。アチラのミュージカルの歌手の歌のうまさは定評がある。わが国の劇団四季のミュージカルなど、たとえ爪の垢程度でも、少しは見習ってもらいたいものです。

 休憩1回を含め、終映は10時前。

2・22(日)山田和樹指揮日本フィル マーラー・ツィクルス第2回

     オーチャードホール  3時

 天井近くの立ち見用バルコン席にいたるまでぎっしり詰まった完売満席のホール。物凄い人気だ。長時間の演奏の間さえ、すべての聴衆が息をつめて音楽に集中し、会場全体が並外れた緊張に包まれている━━といった雰囲気である。

 第2回の今日は、交響曲第2番「復活」。
 前回の「巨人」の時とは比較にならぬほどの充実した演奏であった。日本フィルも前回の緊張から解放されたのか、極めて密度の濃い演奏を聴かせてくれた。何度も繰り返される怒号絶叫の個所においてさえ、各パートの楽器の均衡は全く失われず、音色も混濁することがない。
 ここぞという演奏会でこれだけの演奏を可能にするのだから、日本フィルの好調さは、やはり紛れもないと言えるだろう。

 それにしても、オーケストラをここまで制御してみせる山田和樹の力量は、まさに並々ならぬものだ。音楽の宏大な拡がり、納得のゆく安定したテンポ、演奏にあふれる緊迫感など、見事なものである。第1楽章冒頭、トレモロの下にチェロとコントラバスがモティーフを断続しながら荒々しく反復する個所━━そこからもう生きた「間」が感じられて、鋭い緊張感が生まれ、聴き手をとりこにしてしまう。

 彼が求めるマーラー像も、今回はある程度明確に感じとれたような気がする━━といってもこれは、あくまで私なりの受け取り方にすぎないが、それは、いかにも若々しい、未来への希望を燃える純粋な青年の活力、といったマーラーだろうか? 
 この「復活」を作曲した頃のマーラーは未だ若かったし、「青年作曲家が問いかける生の意味」としての、こういう健康なマーラー像があってもいいだろう。

 協演の合唱は、東京混声合唱団と武蔵野合唱団。伸びの良い明晰なコーラスで、好感が持てた。
 声楽ソロは林正子(ソプラノ)と清水華澄(メゾ・ソプラノ)。実は今日の演奏で唯一残念だったのは、このソプラノ・ソロである。第5楽章でソロが最初に入る個所━━ここは合唱の中から清らかな息吹が立ちのぼってくるかのように、ソプラノ・ソロが柔らかくスーッと浮かび上がるように歌われるべきはずなのに、彼女が妙に乱暴に入って来たので、音楽がそこだけガクンと乱れてしまったのである。林正子ともあろう人が、どうしたはずみか。また歌唱の最中に、オペラでもないのにやたら両手を拡げたり上げたりするのは、聴いている方では気が散って仕方がない。
 その点、じっくりと落ち着いて、コンサートらしく安定した歌唱と立ち姿で決めた清水華澄は好かった。

 ところで、マーラーの前に演奏される武満徹の作品は、今日は無伴奏の混声合唱曲5曲だった。東京混声合唱団が歌う「小さな部屋で」「○(マル)と△(サンカク)の歌」「死んだ男の残したものは」などである。
 いろいろな指揮者によるマーラー・ツィクルスでは、これまでさまざまな作品が組み合わされてきたものだが、それらはたいていオーケストラ曲であって、今回のような無伴奏の混声合唱曲というのは、珍しい例ではなかろうか。東京混声合唱団の音楽監督が山田和樹であることから生まれた企画であろう。美しい合唱曲である。

 なお、最後の「小さな空」の終り近く、合唱の上に、だれかが下手くそな口笛で、同じメロディを吹いてかぶせていた。終演後に武満さんのご家族にたしかめたら、「あれ、ナマの演奏の時にはよくやってるわよ。ああやってもいいんじゃない?って徹さんが言ったらしいわ」だそうである。
 私は実は初めてその「口笛共演版」を聴いたのだが、甚だ気に入らない。あれでは、折角の綺麗なメロディとハーモニーが台無しだ。・・・・上手い口笛だったら、もう少しマシかもしれないが。失礼、あれは合唱団の中の方がお吹きになっていたそうで。

2・20(金)ジャン=クリストフ・スピノジ指揮新日本フィル

     サントリーホール  7時15分

 スピノジ、黒いスーツに真紅のネクタイで登場。なるほどフランス人、といったような、洒落っ気のある雰囲気である。
 プログラムはロッシーニの「チェネレントラ」序曲、シューベルトの「交響曲第3番」、サン=サーンスの「交響曲第3番」という、ちょっとユニークな選曲だが、この演奏スタイルもなかなか洒落っ気のあるものだった。

 最も面白かったのは、やはり「チェネレントラ」だ。茶目っ気を効かせた木管のやりとり(ファゴットの1番が上手い)、ものものしいけれども軽快なクレッシェンドの入りなど、いかにもロッシーニのユーモアを強調して浮き彫りにしたような音楽のつくり。
 並みの演奏で聴くとあまり特徴なく感じられるこの曲が、おそろしく一筋縄では行かぬ、癖の強い音楽となって立ち現れるから面白い。

 いじりすぎて自然さに欠ける、という人もいるだろうが、作品にこめられたあらゆる要素を見直し、新鮮さを打ち出そうという演奏姿勢は、貴重だ。もちろん、策に溺れて演奏がつまらなくなっていたらどうしようもないが、今日の新日本フィルはこのスピノジの音楽によくついて行っており、すこぶるアクの強い演奏をつくり上げていた。

 シューベルトの「3番」も、一つのモティーフを繰り返すたびごとにデュナミークにちょっとした趣向を施すといったような、随所にひねりを効かせた演奏だが、極度に遅いテンポでものものしく開始した第1楽章の序奏をはじめ、ふだんは闊達に聞こえるこの交響曲が、妙に翳りを帯びて薄暗い音楽に感じられたところが、これまた面白かった。
 それでも第4楽章は颯爽たるもので、特に後半、コーダにかけて追い込んで行く押しの強さ、エネルギーの物凄さは、「持って行き方」の巧い指揮者だな、と感心させられる。

 これらに比べると、サン=サーンスの「3番」は、ピアニッシモの個所を強調してミステリオーゾな気分を出した個所が多かったものの、全体から言えば、むしろ正攻法で押したスタイルだろう。
 最強音の個所では、オーケストラを鋭く硬質な音色で、ダイナミックに咆哮させる。2階C席も上手側の端で聴いたせいか、舞台上手に配置されたコントラバスの低音があまりよく聞こえないという傾向はあったけれども、もともと音楽の重心が低くないスピノジの指揮だから、第4楽章などやや刺激的な音響になっていたのは仕方ないだろう。新日本フィルもよくついて行ったが、そういう個所では、ちょっと粗さが目立つ。

 とにかくスピノジ、魅力的な個性を満載した指揮者だ。また聴きたいものである。

2・19(木)東京二期会 ヴェルディ:「リゴレット」初日

   東京文化会館大ホール  6時30分

 「都民芸術フェスティバル」参加公演。パルマ王立歌劇場のプロダクションによる上演で、演出はピエール・ルイジ・サマリターニとエリザベッタ・ブルーサ、今回の演出助手は菊池裕美子とクレジットされている。
 アンドレア・バッティストーニが東京フィルを指揮。初日のAキャストは、上江隼人(リゴレット)、佐藤優子(ジルダ)、古橋郷平(マントヴァ公爵)、ジョン・ハオ(スパラフチーレ)、谷口睦美(マッダレーナ)その他の人々。

 舞台はいかにも「古式ゆかしき」もので、サマリターニの美術ともども、博物館から引っ張り出して来たような舞台である。
 日本人の容貌や体型に合わない泰西のこういう衣装をそのまま使うことに、最近私は疑問を強く感じるようになっているのだが━━まあ、それはまた論が複雑になるから、ここでは措くとして━━それとは別に、21世紀のわれわれが取り組むオペラ上演であれば、いくら何でも、もう少し演劇的なコンセプトを導入してもらいたいものだと思わずにはいられない。

 結局、今回の上演の最大の目玉は、バッティストーニの指揮ということになる。期待通り獅子奮迅といった指揮ぶりだ。特に冒頭の前奏曲では、東京フィルがピットでこれだけ雄大かつ劇的な音楽を響かせたのも珍しいと思われたほどである。
 だが、オケが立派になればなったで、今度は歌手陣の力量が問題になって来る。つまり・・・・声が聞こえないのだ。そのためにバッティストーニはオケの音量を落したのか、本編に入ると、音楽の力感がやや低下したように感じられた。
 それでも、快速なテンポで煽り立て、追い上げ、各幕のエンディングではここぞとばかり劇的に盛り上げる彼の指揮は素晴らしい。以前の「ナブッコ」と同様、今回も彼が引き出した音楽は、力に満ちて鮮やかであった。

 若手の多い歌手陣はよく頑張っていたとは思うが、些か不満が残るところもある。
 率直に言わせていただくと、古橋郷平は、女たらし丸出しの嫌味なマントヴァ公爵という表現を強調する狙いだったのか、おそろしく粘った歌い方で、旋律線とリズムとを崩していたのが気になった。「女心の歌」をあんなにねちっこく歌われては、いくら名曲でも辟易させられる。声もあるし、舞台映えもする人なのだから、もう少し爽やかなマントヴァ公を演じてもよかったのではないか? 

 上江隼人も骨太で重い雰囲気のリゴレット役だったが、それは不運な父親としてはサマになっていても、悪辣さと悲劇性を共に含んだ道化師役としては、更に鋭い歌唱と演技があったらと思う。
 佐藤優子は、最初のうち声が伸びずに心配させられたものの、次第に調子を上げ、第3幕では清純なひたむきさを巧く表現していた。
 その他の人々の中では、谷口睦美がやはり光った。彼女はいつかの「ナブッコ」のフェネーナで感心させられた記憶があるが、今回はあの時ほどではなかったにしても、歌唱と演技はやはり耳目を惹きつけるものがあるだろう。

 結論として、今回の「リゴレット」は、バッティストーニの劇的な勢いのいい指揮と、古色蒼然たる演出との乖離が目立った上演といえようか。終演は9時半頃。

2・18(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団B定期

   サントリーホール  7時

 今秋から首席指揮者になるパーヴォ・ヤルヴィとの注目の定期。
 R・シュトラウスの「ドン・ファン」と「英雄の生涯」を前後に置き、中をモーツァルトの「ピアノ協奏曲第25番」(ソリストはピオトル・アンデルジェフスキ)で固めたプログラムは魅力的だ。

 パーヴォ・ヤルヴィは、組む相手のオケによって音楽のスタイルを変える指揮者であることは周知のとおり。したがってN響をどう引っ張って行くかが、われわれの第一の関心事だ。

 ただし、今日の演奏を聴いた限りでは、それが明快に示されていたとは言いがたい。特にシュトラウスの2曲は、比較的ストレートなアプローチで、エネルギッシュな活力に富んでいたことはたしかだが、パーヴォならではというような強い主張は、私には未だ感じられなかった。疾風怒濤のごとき「英雄の生涯」は、N響の技術的な巧さもあって、それなりにスリリングなものだったが、「英雄の戦い」の部分などは、勢いに任せた、単なる怒号狂乱だけに留まっているという印象も受けたのである。

 その点、面白かったのは、むしろモーツァルトだった。オーケストラの音色には、N響にしては珍しいほどの不思議な透明さと軽やかさが聞かれ、アンデルジェフスキの鮮明清澄な、鋭い感性に研ぎ澄まされたソロとともに、新鮮な印象を与えてくれた。
 そういえば、20年近く前、未だパーヴォが今ほど有名でなかった時代━━90年代半ばだったか、彼を客演指揮者に迎えた東京交響楽団が、素晴らしく切れ味鋭いピリオド楽器スタイルのモーツァルトのシンフォニーを演奏していたことを思い出す。
 日本のオケは、モーツァルトなど古典の音楽を手がけた時には、指揮者のスタイルに柔軟な順応性を示すのかもしれない。

 まあ、いずれにせよ、いろいろなレパートリーにおけるパーヴォとN響の本当にイキの合った演奏が聴けるのは、これからだろう。とにかく今日の演奏は、N響としては久しぶりに「きらきらと輝く」ものであったことはたしかで、それさえあれば、まず第1弾としては充分であると思われる。

2・17(火)尾高忠明指揮札幌交響楽団 東京公演

  サントリーホール  7時

 この3月で、11年に及んだ札響音楽監督としての務めを全うする尾高忠明━━その任期中最後の定期公演(2月)で演奏したシベリウスの交響曲「第5番」「第6番」「第7番」を引っ提げての東京公演だ。

 「シベリウス生誕150年記念」と銘打たれてはいるが、3年がかりで展開したシベリウス交響曲ツィクルスの最終回をここに持って来て合わせた、ともいえよう。また、尾高が英国音楽とともに最も得意とするレパートリー、シベリウスの交響曲をもって音楽監督の任期を閉じる、というねらいもあっただろう。

 とにかく、札幌の定期で2回演奏して来たこれらの交響曲、尾高も札響も自信満々といった様子がステージから伝わって来る。札響の数多い東京公演の中でも、これは最高水準に属する演奏であった。尾高の時代に札響が同団史上最高のレベルに達したということは、いろいろな面から見ても事実といえようが、今日の演奏を聴けば、まさにそれが納得できるのではあるまいか。

 「5番」第1楽章コーダにおける劇的な追い込みと昂揚の素晴らしさをはじめ、終楽章終結での轟くような歓呼は、札響としては稀有なほどの底力のあるエネルギーを感じさせた。「6番」第1楽章冒頭での弦楽器群の澄み切った音色は見事だったし、「7番」における豊麗な音の構築も強く印象に刻まれる。

 「5番」と「7番」を分厚い構築の音で、中に挟んだ「6番」をシャープで攻撃的なアプローチで━━という設定は、もちろん作品の性格にも因ったものではあろうが、同時に、この3曲を並べたプログラムにおける尾高の巧みな性格づけの設計でもあるのではないか、という気もする。
 そして何より見事だったのは、この3曲の演奏で、音楽がわずかでも弛緩した個所は、ただの一か所も無かった、ということであった。

 アンコールには、待望の━━といっても、私が勝手にそう思っていただけの話だが、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」が演奏された。弦楽器群がシンの強い音で旋律を進めて行く。尾高の指揮するこの曲は、以前にも聴いて大いに気に入っていたので、世間並みの「悲しきワルツ」なんかより、これをアンコール曲の定番にすればいいのに・・・・と書いたことがある。私ごときが言ったからどうこうということではもちろんないだろうが、最後にこれが聴けたことは、幸いだった。これもいい演奏だった。シベリウス愛好家としては、至極満足の演奏会であった。

 「7番」の快演が終った瞬間、上手側席あたりから「よっしゃ」といったような声がかかったのは、聞き違いか? 「ブラーヴォ」を日本語訳で叫ぶ国産愛用主義者というか、国粋主義者(?)には時たま出会う━━私がこれまでに聞いたものには、「よーし」「素晴らしい」「ありがとう」「ご苦労さん」「いやァお疲れさん」などがあるが、「よっしゃ」というのは初めてである・・・・。また今日はあのフェルマータ付きの、どこからともなく響いて来る「ブラヴォ━━ォ」も久しぶりに聞けた。

 もうひとつ、今日はカーテンコールの際に、尾高が立たせて答礼させた奏者は「7番」のあとでのトロンボーン奏者のみ、その他はすべてテュッティでの答礼にさせていた。彼がいつからこういうスタイルを採るようになったのかは知らないし、またこのへんの「ウラの事情」について云々するのは当コラムでは御法度にしているから省くが、マエストロ尾高のステージとしては、あまり見ない光景であったことはたしかだろう。
    ⇒別稿 音楽の友4月号演奏会評

2・16(月)藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)

    サントリーホール  7時

 藤村実穂子の第44回サントリー音楽賞受賞記念コンサート。クリストフ・ウルリヒ・マイヤー指揮の新日本フィルが協演。

 彼女が歌った曲は、バッハのカンタータ第170番「満ち足れる安らい」から第1曲(アリア)、シューベルト~ベルリオーズ編の「魔王」、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」、チャイコフスキーの「オルレアンの少女」から「神が望んでいる」、サン=サーンスの「サムソンとダリラ」から「君がみ声にわが心開く」、ワーグナーの「ヴァルキューレ」第2幕からの「フリッカの怒り」。アンコールがビゼーの「カルメン」からの「ジプシーの踊り」。

 バイロイト祝祭劇場の空気をびりびりと震わせた藤村さんの、あの凄まじい冷徹な緊張感をもった歌唱表現が、最近は少し変わって来て━━温かい優しさのようなものが以前より多く歌にあふれるようになって来たかな、と感じたのは昨年3月のリサイタル(紀尾井ホール)の時。それは彼女の芸域がいっそう拡がり、硬軟取り混ぜの表現に秀でて来たことを意味するのではないかと思う。
 今日のダリラの歌など、2012年のNHKニューイヤーコンサートで歌った時に比べ、明らかに柔らかい、官能的なニュアンスに富むものになっていたのではないか。「カルメン」にしても同様である。

 フリッカでは、厳しい倫理的な女神としての表現は以前と同様だが、それに加え、一種の温かい情感が滲み出る歌い方になった━━特に最後の、義娘ブリュンヒルデに声をかける個所などにそれを感じる。ヴェーゼンドンク歌曲集における柔らかいゆったりした情感も見事だ。

 そしてとりわけ、本当に巧い表現だな━━と舌を巻かされたのは、「魔王」である。この歌曲は、これだけで1曲のオペラに匹敵するほどの雄弁な起伏と劇的迫力を備えているのだが、それがさらに彼女の歌唱にかかると、まさしく悲劇のドラマという性格をもって浮かび上がって来る。今回のように管弦楽編曲版をバックに歌われた場合には、その印象がいっそう強くなるだろう。何しろ「魔王」の冒頭個所は、まさにあのワーグナーの「ヴァルキューレ」第1幕の最初の部分を先取りした音楽なのだし・・・・。

 新日本フィルを指揮して協演したクリストフ・ウルリヒ・マイヤーは、一昨年秋だったかにも藤村実穂子のコンサートに出演して指揮した人だ。ゆるキャラというか、ゆるフンというか、とにかく引き締まらない演奏をつくる人で、昔のレオポルト・ルートヴィヒという指揮者に何となく似たタイプである。ただし、つくり出す音楽には、それなりの「雰囲気」もなくはない。
 今夜は、オーケストラだけの曲としては、ベートーヴェンの序曲「献堂式」と、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲を指揮したが、後者には「おれの聴かせどころ」というようなリキも感じられた。だが、彼の指揮はどの曲においても、金管などの声部の組み立てのバランスが風変わりで、腑に落ちないところがある。

2・13(金)ヘンデル:オード「アレグザンダーの饗宴」

     浜離宮朝日ホール  6時30分

 ヘンデル生誕330年にあたる今年━━「ヘンデル・フェスティバル・ジャパン」の第12回として演奏された大作「アレグザンダーの饗宴」。

 咳はまだ少し残るものの、これを逃したらもう多分ナマで聴く機会は二度とないだろうと思い、出かけて行く。
 期待は充分に満たされた。ヘンデルのオラトリオ・世俗合唱曲の壮大さと劇的な推進性の魅力、リズムの素晴らしさなどが、空間的な拡がりの裡に、存分に満喫できたコンサートであった。とかく同年生れの大バッハの陰に隠れて分の悪いヘンデルだけれど、いくら何でも、もう少し人気が出て然るべきではなかろうか? 

 今日は、演奏も満足すべきものだった。指揮の三澤寿喜と、川久保洋子をコンサートマスターとするキャノンズ・コンサート室内管弦楽団の引き締まった良さ、それに同合唱団の━━少し粗いところはあるけれど━━明快な力強さ。声楽ソリストは広瀬奈緒(ソプラノ)、辻裕久(テノール)、牧野正人(バス)で、特に広瀬の美しい声は聴衆を魅了した。

 なお、今回の演奏では、有名な変ロ長調のハープ・コンチェルトと、作品4の1のオルガン・コンチェルトが挿入され、また最後に「ハミルトンによる追加の合唱」も演奏された。これで、演奏時間は正味2時間と10分ほど、といったところ。

2・5(木)ヤクブ・フルシャ指揮プラハ・フィルハーモニア

    東京芸術劇場コンサートホール  7時

 大雪が来るぞ、都心にも積もるぞ、と天気予報が大々的に脅していたわりには、昼間少々白いものが散らついただけ、あとは雨に終った今日の東京(当たらないにもほどがある)。雪にならなかったので、ほっとしてやって来たお客さんも多かったのだろう、都民劇場音楽サークル定期公演の今夜の演奏会は、満員の盛況だった。

 プラハ・フィルハーモニア━━フルシャが2008年秋のシーズンから音楽監督・首席指揮者を務めているこのオーケストラを聴くのは、2012年3月の来日の際に続いてこれが2度目。しかし、彼はこの春で同ポストを早くも退くそうだから、この顔合わせが聴けるのはこれが最後になるかもしれない。

 曲はスメタナの連作交響詩「わが祖国」全曲。
 ダイナミックでごつごつした響きの、硬質のつくりを持った「わが祖国」だ。それはそれでいいのだけれど、些か粗い演奏で、あまり練習しておらず(実際にはどうだったか判らないが)、日頃のルーティン的な「慣れ」だけで演奏していたような雰囲気も感じられたのである。
 前回来日の時にもチラリと思ったことだが、どうやらフルシャにとっては、このフィルハーモニア・プラハよりも、東京都響(首席客演指揮者)の方が、相性がいいのではないか? 

 後半の「ボヘミアの森と草原から」から「シャールカ」にかけてのエネルギッシュな追い込みにはさすがのものがあったが、「ブラニーク」の全曲最後の頂点では柔軟なテンポの動きを欠き、一本調子で単調な終結となった。
 このあたり、フルシャもやはり未だ若いなと思わせるゆえんだが、しかし、都響との演奏だったら、おそらくもっとはるかにしなやかな表情が音楽に生まれるのでは、という気がしてならぬ。
 アンコールは、スメタナの「売られた花嫁」からの「道化師の踊り」。

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