2018-09

2007・8・31(土) サイトウ・キネン・フェスティバル
チャイコフスキー:「スペードの女王」

       まつもと市民芸術館  6時

 小澤征爾の指揮。彼がこのサイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)でとりあげた舞台作品はこれで10本(「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を含め、「グレの歌」と「エリヤ」は含めない)を数えるが、そのうち19世紀のオペラは「ファウストの劫罰」「ファルスタッフ」に次いで3作目になる。

 チャイコフスキーの作品は、小澤には相性のいい存在だ。
 彼はこれまで、「エフゲニー・オネーギン」を、ロイヤル・オペラで74年に、スカラ座で86年に、ウィーン国立歌劇場で88年に、METで92年に指揮している。また「スペードの女王」は、民音オペラで89年に、スカラ座で90年に、ボストン響演奏会形式で91年に、ウィーン国立歌劇場で92年と99年に、それぞれ指揮していた。そしてウィーンの残りの2シーズンにもこの2作品を取り上げ、来年の「東京のオペラの森」でも「オネーギン」を指揮することになっている。

 取り上げる頻度から言えば、他の作品と比較して非常に多いというほどではないが、比較的多い方に属するだろう。しかもそれらが成功を収めてきたのだから、やはり小澤の最も得意とするレパートリーということになろう。
 彼が掛け値のない成功を収めるオペラのテリトリーは、そのほか、フランスと東欧などの作品である。特に近現代の作品なら、一層の強みを発揮する。思えば、サイトウ・キネン・フェスティバルでは彼はこれらのレパートリーで成功を収めてきたのだった。

 こういった作品を指揮している時の小澤征爾は、ウィーンの古典派オペラやドイツのロマン派オペラの時のような堅苦しさから解放され、実にのびのびと音楽を創っているように感じられるのである。
 チャイコフスキーのこのオペラでも、いわゆるロシア的な香りといったものはないが、それを補って余りある音楽的な充実が聴かれるのではなかろうか。第1幕序奏での劇的なアタック、子供たちのマーチの前後の個所での自然なテンポの扱い、第1幕最後の嵐とゲルマンのモノローグでの盛り上がりなど、久しぶりに生き生きとした小澤の音楽を聴いた思いであった。

 ただ、第2幕以降、音楽のヴォルテージが少し下がったように感じられたのは気のせいか。小澤はこの日、非常に体調が悪かったそうだが。

 今回は、合唱(東京オペラシンガーズ)の素晴らしさを第一に挙げなければならない。
 第2幕第1場の舞踏会の場面では、圧倒的な力強さを発揮していた。特に女声の充実が目覚ましい。同第2場の夜の伯爵夫人の部屋における侍女たちの合唱など、このオペラの上演でこれだけの厚みと力と表情のある、しかも整然たる女声合唱は、かつて聴いたことがないほどである。
 一方、男声合唱も、第3幕第3場の賭博場では力を発揮した(演技がもう少し巧ければ文句ないのだが)。
 かつて小澤は、この合唱団の実力に惚れ込み、「ファウストの劫罰」を同音楽祭で取り上げたほどだった。その力量は、今も変わらず見事である。

 歌手では何といっても、3枚のカードの秘密に魅入られた若い士官ゲルマンを歌い演じたウラジーミル・ガルージンがすばらしい。そのやや暗めの色調をもつ声は、この役を歌って最右翼の存在であろう。以前のマリインスキー劇場来日公演におけるゲルマンの時に比べてさえ、声に陰影を増した。演技の上でも、思い詰めた表情に凄味と迫力がある。

 同等にすばらしかったのは、伯爵夫人役のラリッサ・ジャジコーワ(西欧式発音表記ならディアドコーヴァ)で、声楽表現といい演技といい、いかにも気位の高い権柄づくの老夫人にふさわしい。周囲の人間を横柄に睨みつける恐い表情など、さすがの貫禄である。この人は本当に何をやっても巧いが、特にこういう「怖い役」は天下一品だ。
 リーザを歌ったオリガ・グリャコーワは美女で、声もいい。演技と歌唱にはまだ不器用なところもあるけれど、新世代のスターにふさわしい力量を備えたソプラノであることは間違いなかろう。

 新味が全く感じられなかったのは、予想されたとおり、演出だ。
 今回のプロダクションはメトロポリタン・オペラ(MET)のもので、イライジャ・モシンスキーの原演出、マーク・トンプソンの装置と衣装による舞台だが、音楽祭の公式プログラムには、演出担当としてデイヴィッド・ニースの名が最初にクレジットされている。つまり、彼が再構築したということなのだろうが、それならそれで、もう少し彼なりに工夫して新鮮味を出してもらいたいものである。

 いずれにせよこの演出は、ごく無難な、単なる交通整理的なものにとどまっており、ドラマとしての緊迫感にも悲劇性にも不足している。しかも、伯爵夫人の亡霊が地下から床板をバリバリと破って現われ、ベッドに寝ているゲルマンに襲いかかる場面は、METの舞台でもおそろしく趣味の悪い個所だったが、これもニースはそのまま再現してしまっていた。
 「生前」には威厳に満ちていた老伯爵夫人が、亡霊となってからは妙に軽く安っぽい存在と化してしまい、ドラマそのものも安手のオカルト趣味におとしめられてしまうのは、まさにこの場面の演出のゆえである。

 また第3幕で、真夜中に、しかも運河の岸辺にゲルマンを呼び出した当のリーザが、パジャマ同様の薄着にケープを羽織った姿のままでいるのは筋が通るまい。
 以前、マリア・グレギーナが演出家にクレームをつけたというのは、もしかしたらMETのこの演出に対してではなかったかと思う。彼女曰く、リーザがこんな時間に自分から男を呼び出すのなら必死の覚悟があるはずであり、それならパジャマ姿などもってのほか、旅行服に身を固め、旅行鞄の一つも持っているのがふつうだろうが、というわけだ。

 さらに、賭博場へ向おうとするゲルマンと、それを押し止めるリーザとの争いも、ドラマの大転換の瞬間にふさわしく、もっと迫真に富んだものであってもよかったろう(何年か前に白夜祭で観たガルージンとゴルチャコーワの凄まじい演技が今でも忘れられない)。

 ともあれ、小澤がなぜこのようにニースを偏重し、さかんに起用するのか、理解に苦しむところではある。ニースの悪口ばかり並べているようで申し訳ないけれども、彼が日本で制作したたくさんの舞台の中で、これはと思ったものは、せいぜい93年の「ファルスタッフ」と、96年の「ティレジアスの乳房」くらい、それもまあまあの出来、といった程度なので。
(音楽祭プログラムのプロフィール紹介欄には、ニースは「メットの首席演出家」と記載されているが、正しくは「エクゼクティヴ・ステージ・ディレクター=舞台監督」である)。
 
 結論としてこの「スペードの女王」は、プロダクション全体の総合的な出来としては、これまでこの音楽祭で取り上げられた作品の中では「イェヌーファ」(02年)「エディプス王」(92年)「ヴォツェック」(04年)に一歩を譲るが、「道楽者のなりゆき」「カルメル会修道女の対話」と並ぶものといえようか。
 音楽の面についてのみ言えば、これは「イェヌーファ」「エディプス王」「ファウストの劫罰」に並ぶ水準であり、小澤の良さが存分に発揮されたものであることは疑いない。
「グランド・オペラ」2007Autumn

2007・8・30(金)サイトウ・キネン・フェスティバル
広上淳一指揮サイトウ・キネン・オーケストラ 

      長野県松本文化会館  7時

 2階正面最前列で聴いたせいか、金管と弦のバランスが少々粗く、またオーケストラ全体にあまり美しくない響きも感じられたのは事実だが、演奏はすこぶる燃えたものであった。ハイドンの交響曲第60番「うかつ者」でのリズムの歯切れよさと明晰さは、このオーケストラとしては、久しぶりのものではなかろうか。ラフマニノフの「交響曲第2番」も活力にあふれていた。

 しかし結局このオーケストラは、技術は抜群でも、「色」というものに乏しいのが不満を残す。ラフマニノフのほの暗い哀愁などは、彼らには無縁なのだろうか。とはいえ、広上のこのオケへのデビューは、成功したと思われる。

2007・8・25(土)阪哲朗指揮 山形交響楽団定期

       山形県民会館  7時

 阪哲朗が首席客演指揮者に就任して最初の定期。シェーンベルクの「浄夜」、ベートーヴェンの「田園交響曲」、アンコールにヨハン&ヨーゼフ・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」という興味深いプログラムだったが・・・・。

 このホールは、オーケストラにとってなんとも酷いアコースティックだ。音楽の流れを全く生かすことができない。「浄夜」など、阪の遅いテンポが裏目に出て、この曲にこめられた不安な愛の情感や緊迫感を持ち堪えることができなかった。それに響きがないものだから、オケのアラも全部出る。管には、今日はなぜか不安定な演奏が頻発していた。
 最近は好調で、上昇指向の山形響ではあるが、こういう状態で聴くと、まだこれからやるべきことがたくさんあるという気がする。もう一つの定期会場である山形テルサホールで聴けば、もっと潤いのある演奏に聞こえたかもしれない。

 約1500の客席を持つこのホールに、お客の入りは90%近くを示し、拍手も温かく盛大。山形響は、地元の聴衆に強く支えられているようだ。

2007・8・21(火) ザルツブルク音楽祭
 ベルリオーズ:歌劇「ベンヴェヌート・チェルリーニ」

      ザルツブルク祝祭大劇場  7時

 実はこれが今年のお目当てだったのだが、予想に反して大暴落株。これまでザルツブルクで観てきた数十本のオペラの中でも、これは最も騒然・雑然たる演出のプロダクションである。演出と舞台美術はフィリップ・シュテルツル。

 こういう娯楽スペクタクル超大作も一つくらいはあってもいいが、全編にわたって騒々しい舞台では、観る方もだんだんうんざりして来るというものだ。
 謝肉祭の喧騒と乱痴気騒ぎは確かにこのオペラの重要なモティーフであり、それを主要な背景とした意図そのものは、間違いではない。
 ただ、第1幕フィナーレはそれでもいいとしても、第2幕大詰の「ペルセウス像鋳造の場」はもっとシリアスであるべきだろう。せめて出来上がった「像」でも見せればドラマとして引き締まったのではないかと思うがそれも無く、大窯から金属(スモーク)が吹きこぼれ、大群衆が喜び騒ぐだけという、ストーリイをよく知らない人にとっては訳がわからないであろうフィナーレ。ただ大仰な舞台装置と、人々のひしめき合う光景だけが目に残った。

 その装置は、とにかくカネのかかったものだろう。凝った箇所もある。冒頭の屋上テラスの場面では、夜の大都会にネオンが輝き、ヘリが飛び、花火が上がり、大雷雨もあるという映像演出が繰り広げられ、前景の煙突からはのべつ濛々たる煙が吹き出す。大爆発もあり(いくつかはオリジナルの台本にも大砲音や窯の爆発として指定されてはいるものだが)乱闘もある。
 映像上のヘリが屋上に近づき、いったん下へ姿を消すと、入れ替わりに本物のヘリ(にそっくりの装置)が上がって来て、そこからチェルリーニが降りて来るシーンでは、客席からどよめきが起こったほどだった。

 タイトルロールの、破天荒な性格をもつ親分肌の彫金師ベンヴェヌート・チェルリーニを歌ったのは、ブルクハルト・フリッツ。ニール・シコフがキャンセルしたあと全公演を引き受けたが、力演だ。テレーザ役はマイヤ・コヴァレフスカで、歌は普通だが、すこぶる可愛い。
 仇役ともいうべきフィエラモスカを演じたローラン・ナウリは、ふだんは凄味のあるいかつい顔つきの性格派バスだが、今回は意外な3枚目を熱演。歌も演技もすばらしく達者だったが、客の拍手はそれほどでもないのが解せない。

 教皇クレメンス7世にはミハイル・ペトレンコが出ていたが、これもこの喧騒の舞台では特に存在感を示すことはできなかった。チェルリーニの弟子アスカーニオ(ケート・アルドリッチ)は何とロボットという設定で、ギクシャクと歩き(他にも召使やら軍人やらにロボットが多数登場する)、第2幕ではバラバラにされたあげく、生首の姿でアリアを歌う。当初この役に予定されていたのはヴェッセリーナ・カサロヴァだが、ドタキャンしたそうな。「腰痛のため」と伝えられたが、本当の理由かどうかは知らない。

 指揮はワレリー・ゲルギエフ。序曲では例のごとく大風呂敷を拡げたような演奏だったが、ベルリオーズの場合にはそれも悪くはあるまい。だが、この騒々しい舞台を前にしては、演奏の出来がどうだったかという問題すら吹っ飛んでしまい、どんな美しい箇所さえ雑然たる印象の中に巻き込まれてしまう。

 この翌朝、ザルツブルクの空港で、次の公演までの合間を縫ってロンドンへ行くというゲルギエフに偶然出会った。讃めようがないので、「ずいぶんゴージャスなオペラで」と当たり障りのないことを言ったら、彼は苦笑いして「クレイジー・オペラだ」と呟いた。おそらく指揮しながら、内心いやでたまらなかったのでないかと推測する。客演指揮だと文句も言えないのだから、気の毒だ。以前の「トゥーランドット」の時もそうだったが、どうもゲルギエフはザルツブルクでは、このようなスペクタクルものに引っ張り出されることが多いようである。
       東京新聞9月15日

2007・8・20(月) ザルツブルク音楽祭
 ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィル

     ザルツブルク祝祭大劇場  8時30分

 ウィーン・フィルが、俊英ハーディングの指揮によく合わせている。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」も、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」も、オーケストラの編成は比較的大きいにもかかわらず、まるで室内オーケストラの編成のように、音の粒立ちが強調されていた。
 コンサートマスターのライナー・キュッヒルも、日頃とは違い、妙にガリガリした音色で「4つの最後の歌」のソロを弾いてみせる。プロ根性は偉いが、こういう音でこの曲は聴きたくないものだ。ソロを歌ったルネ・フレミングが、なぜか声が荒れ気味で、細かいヴィブラートが目立つようになってしまった。

 同じくシュトラウスの「死と変容」も、音が硬めで、最強奏の箇所など耳障りな響きに聞こえる部分もある。ふつうなら音が柔らかく聞こえるはずの1階席でこのような響きになるのだから、相当なものだ。その点、ウェーベルンの「6つの小品」が最もハーディングの良さが発揮されたように思うのだが、客席の高齢の聴衆らの反応は低い。

 「牧歌」の最中にケータイが鳴るわ、エンディングのところで場外から女の不気味な悲鳴が聞こえて客席がざわつくわ、なにか落ち着かない演奏会であった。

2007・8・20(月) ザルツブルク音楽祭
 ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」

       モーツァルトハウス  3時

 今回のザルツブルク音楽祭における出色のプロダクションの一つ。

 ファルク・リヒターによるこの新演出では、悪魔ザミエル(イグナツ・キルヒナー)が重要な役割を持ち、手下(助手)2人と共にしばしば舞台に登場して、長いセリフをも喋る。
 ザミエルは、夜の帳が降りればたちまち悪魔の本性を現わす男でありながら、日常は白服でステッキを携えた粋なオヤジの姿で、一般の人々の中に紛れ込んでいる。クーノー(ロランド・ブラハト)の「射撃大会の由来」の説明をさえ、途中で引き取って喋り出すという知恵者でもあるのだ。真の悪役は思いがけず大衆の中に潜んでいるものだ、という現代的な寓話なのであろう。

 しかもこのザミエルは、狂言回し的な役割をも受け持つ。第3幕では突然英語で「それでは皆さん、ドイツ・クラシックが誇る名曲、狩人の合唱をどうぞ!」と派手にアナウンスして観客を笑わせ、終ると「この世の喜びはこれで充分。ではまた少しシリアスなものに戻りますかな」といった調子だ。
 
 ザミエルの手下2人も、同様に通常人の姿で動き回る(うち1人はカッコいいパンク・ファッションで、冒頭からすこぶる目立つ存在だった)。彼らはカスパル(ジョン・レリア)やマックス(ペーター・ザイフェルト)やエンヒェン(アレクサンドラ・クルツァク)に対し、さかんに「悪魔の囁き」を繰り返す。ただしこれは、悪魔に魂を売り渡した人間だけに聞こえるものらしい。
 第1幕最初の場の群衆は、村人でなく、軍隊の射撃大会を見物にきた観光客という設定だ。

 舞台装置はアレックス・ハーブ。序曲の間、舞台はオフィスか病院の待合室みたいな殺風景な光景だったが、実はこれは、内舞台の幕の役目。左右にドアが開いてみると、奥はすこぶる深い。

 深夜の狼谷の場面では、奥の方で、静的なワルプルギスの夜ともいうべき光景が展開される。バーナーで放射される本当の「炎」が終始活用され、7つの弾丸が出来上がるクライマックスの瞬間には、巨大な炎が舞台にあふれる。客席にさえその物凄い熱気が吹きつけてくるほどだから、炎に囲まれて芝居をし続けるカスパルらは、さぞや熱かったのではないかと心配になってくる。

 照明によるマジックは第3幕、少女たちが魔力に襲われる場面などで使われるが、これが実に不気味で、巧妙だ。第3幕第1場では映像も使用され、その中でカスパルの運転するクルマに同乗したマックスが「もう一発タマを俺にくれ」とゴネるシーンなど笑いを誘う。こういう場面での欧州のオペラ歌手の芝居の巧さは、羨ましくなるほどである。

 リヒターにより追加されたセリフは多く長く、こちらはなるべく早く音楽を聴きたいと思うのだが、マルクス・シュテンツの指揮はいつもながらに味も素っ気もない音楽だから善し悪しだ。もっとも、ドイツ・ロマン派の神秘的な雰囲気を一切取り払ったこの演出には合うといえるのかもしれない。
 演奏はロマンティックな性格を極力排除、むしろグロテスクな面を強調している。弦の硬めの音色、ピッコロの強奏などがそれだ。ウィーン・フィルにしては随分・・・・と思わせるような響きも少なからず聴かれるが、もちろんこれは意図的なものであろう。

 主役歌手陣は男声が強力で、ザイフェルトは相変わらず絶好調だし、レリアの悪役ぶりはその演技といい、声の迫力といい、屈指の存在だろう。アガーテ(ペトラ・マリア・シュニッツァー)とエンヒェンは無難な出来だ。4人の少女のうちの一人にウエノ・ヨウコという人がいたが、容姿も歌もよく、踊りも愛らしい。
        東京新聞9月15日

2007・8・19(日) ザルツブルク音楽祭
 チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」

    ザルツブルク祝祭大劇場  7時

 ザルツブルク音楽祭でチェイコフスキーのオペラが、それもバレンボイムの指揮で上演されるという時代になった。このようなレパートリーの拡大は、好ましい現象である。

 今回のプロダクションは、アンドレア・ブレトによる新演出、マルティン・ツェートグルーバーの舞台装置。
 大きな回り舞台を多用し、光景に変化をもたせる。基本的には大邸宅の壁やドアが仕切りになっているが、場面によっては中庭や畑のイメージも付加されている。この廻り舞台により「手紙の場」の後半で場面が中庭に移動したり、第1幕最後の場でオネーギンがタチヤーナを放り出して独り庭を歩く、などという場面を作り出すというわけだが、悪くないアイディアであろう。ただ、オネーギンとレンスキーの決闘の場が、水溜まりがあちこちにあるにせよ、屋内のイメージが強かったのは少々解せないけれども。

 ここでのオネーギンは軽薄で傲慢で、感じの悪い若造として描き出される。
 もともとチャイコフスキーは、音楽の上で彼をあまり好意的に描いておらず、むしろタチヤーナに同情と共感を寄せているくらいだが、ブレトはそれに輪をかけた形でオネーギンの性格設定をしている。もちろん、プーシキンの原作におけるような、ニヒリスティックで悩めるインテリというイメージはどこにもない。この役を演じたペーター・マッテイはすこぶる芝居巧者で、歌唱にも強い個性を示していた。

 タチヤーナ(アンナ・サムイル)は、かなり野暮ったい娘として演じられている。それはいいのだが、第3幕でグレーミン公爵夫人となり着飾ったときにも、やはり野暮ったさが残っているのは少々困る。「あれが、あの田舎娘だったタチヤーナだろうか」とオネーギンを驚倒させる女性からは、どうみてもほど遠いのである。歌手のせいなのか、衣装とメイクのせいなのかは定かでない。ラストシーンでオネーギンが惨めな敗北感と恥辱を味わう場面にいまひとつ迫力が無かったのは、もしかしたらそのためだったか。

 その他の配役では、エンマ・サルキッシアンのフィリッピエヴナばあやが、温かい味を出していた。一方グレーミン公爵は、この演出では、タチヤーナとのべつイチャイチャしている変な老軍人になっている。フェルッチョ・フルラネットが演じていたが、なんかこの役のガラではない。
 
 なお付記すれば、第2幕の舞踏会は、あまりガラのよくない現代のパーティとして設定されている。トリケ(ライランド・デイヴィス、巧い)が、せっかくの讃歌をタチヤーナにうるさがられ、しかも大尉(セルゲイ・コフニール)に口をふさがれてしまうという、ちょっとしたコミックな場面もある。
 第3幕の有名な「ポロネーズ」は、最近の上演でよく行なわれるように「間奏曲」として扱われていたが、そこでも回転舞台が活用され、豪華な宴会の光景を効果的に現出させていた。
 総じて言えば、セルジオ・モラビトがドラマトゥルグを担当していたにしては、そして人物がよく動く割りには、主人公の複雑な心理描写が思ったほど生きていない。きれいに作られてはいるが、あまり印象に残らないというタイプのプロダクションであった。
 
 指揮はダニエル・バレンボイム。ウィーン・フィルともども、この上なく美しい音色を出した。音楽のリリカルな性格をよく浮き彫りにしていただけでなく、ドラマティックな要素を出す面でも申し分ない。少し前にベルリンで聴いた「ボリス・ゴドゥノフ」もそうだったが、バレンボイムはこのところロシアのオペラにもいい味を出している。
        東京新聞9月15日

2007・8・19日(日) ザルツブルク音楽祭
 モーツァルト「劇場支配人」&「バスティアンとバスティエンヌ」

     ザルツブルク・マリオネット劇場  3時

 2つのオペラのプログラムだが、2本立てに非ず。劇場監督(アルフレッド・クラインハインツ)が助手ブフと一緒に大汗をかきながら歌手たち(マリオネット=人形、歌は実際の歌手たち)をまとめ、「バスティアンとバスティエンヌ」のゲネプロをまとめていくという構成で、アイディアとしてもよくできている。指揮はエリザベス・フックス(女性)、演出はトーマス・ラインヒェルト。客には子供も多い。

2007・8・18(土) ザルツブルク音楽祭
 内田光子リサイタル

      モーツァルト・ハウス  8時

 シェーンベルクの「作品11のピアノ小品」を最初に置き、そのあとにベートーヴェンのソナタの第28番と第29番「ハンマークラヴィーア」で構成したプログラム。

 昨年新装改築されたモーツァルト・ハウス(旧ザルツブルク祝祭小劇場)の2階席ほぼ中央で聴いたが、ピアノの音はびっくりするほど間近にリアルに、大きな音で響く。そのせいもあってか、嵐のような勢いで音楽が迫ってくる。息詰まるほどだ。客席はもちろん満員、熱狂的な客も多い(日本人客ではない)。
 だが、これはこちらだけの問題だが、1日にコンサートとオペラを3つも続けて聴くような真似は、このトシになったらもうあまりやるものじゃない。

 内田光子は、今年のザルツブルク音楽祭では今日と、もう1回、21日にもベートーヴェンの「最後の3つのソナタ」でリサイタルを開く。そちらは聴けないが、彼女の活躍はうれしいことである。

2007・8・18(土) ザルツブルク音楽祭
ハイドン:歌劇「アルミーダ」

     フェルゼンライトシューレ  3時

 前方上手よりの席で聴いたアイヴォー・ボルトンとザルツブルク・モーツァルテウム管の演奏はすばらしく、この曲の響きの豊かさと官能的な美しさを浮き彫りにしていた。アーノンクールのCDなどではゴツゴツした音ばかりが耳につき、やや抵抗感を抱いたものだが、こうしてナマで聴くと、ハイドンらしくしなやかで瑞々しい音楽さが愉しめる。

 歌手ではゼルミーラ役に予定されていたパトリシア・プティボンがモイカ・エルトマンに変更になったが、上演の性格からいって、さほど問題になることではない。十字軍の騎士リナルドは、音楽祭常連のミヒャエル・シャーデ。
 一方、彼を愛するサラセン側の魔女アルミーダはアネッテ・ダッシュで、数メートルもある高さのスロープから物凄い勢いで転げ落ちるような演技もやってのけ、観客の度胆を抜いた。コロラトゥーラの凄味ではバルトリに遠く及ばないが、バルトリだったらこんな演技はできないだろう。彼女に劣らずコーラス(実際には歌わない)も走ったりぶら下ったり転落したりと激しい動きをする。

 舞台装置(ダーク・ベッカー)は、中央やや上手寄りに巨大な材木の山、下手側に巨大なスロープがあるだけのシンプルなもの。衣装(ベッティーナ・ワルター)はすべて現代風で、十字軍兵士は青色、サラセン(シリア)軍兵士は赤色という衣装の色分けである。

 ダマスカスに侵攻した十字軍と、迎え撃つサラセン軍の戦闘を背景に、十字軍兵士たちとサラセンの女性たちとのひそかな愛を描いたこのオペラは、最も今日的な意味合いをもつドラマといえるかもしれない。
 クリストフ・ロイの新演出は、非常に微細な演技をともなう現代演劇風のもので、予想されたとおり現代の戦争に場面を置き換えた設定だ。戦争に圧し潰される個人の感情というものに大きな関心が寄せられ、リナルドが兵士としての意識を次第に失って行く過程も詳しく描かれる。オリジナルのオペラがせいぜい恋人たちの苦悩を描く程度のものであったのに対し、この演出では、戦争の中における個人の悲劇が描かれており、それ自体はすこぶる当を得た、魅力的な解釈ではある。

 だが結局ロイも、その悲劇の根幹をどう解釈するかにおいては、従来の西欧の歴史観から一歩も出ていないようだ。
 シリアの王イドレーノ(ヴィート・プリアンテ)を野卑で暴力的な人物に設定し、拷問された十字軍兵士クロタルコ(バーナード・リヒター)が己れの立場の正しさを誇らしげに歌って死ぬと、彼を愛するサラセンの女ゼルミーラが慟哭して彼に縋りついてイドレーノに非難の目を向け、サラセン軍兵士たちもそのリーダーから離反していくという、お定まりの構図にとどまっているのである。
 こうした欧米的倫理感を批判的に解釈し直してみせるような手法が、そろそろ生まれてこないものか。東洋人の演出家で、それを試みる人はいないだろうか。

 ラストシーンを妙な大団円にせずに、オリジナルの台本に従い、主人公たちの運命を未解決のままにしたのは、賢明な手法であろう。
     東京新聞9月15日

2007・8・18(土)ザルツブルク音楽祭
 ゾルタン・コチシュ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

     ザルツブルク・モーツァルテウム大ホール  11時

 交響曲の第25番と第40番、ピアノ協奏曲のK.453、アイネ・クライネ・ナハトムジークという、要するにト短調とト長調の作品を集めたプログラムだ。
 コチシュは相変わらずイタズラ坊や的な風貌だが、演奏にもその雰囲気が反映されていて、すべて勢いがいい。そのかわり、少々乱暴な演奏でもある。協奏曲は彼自身がソロを弾いているので、この一種ラディカルな演奏が面白いという面もある。ただ冒頭、オーケストラの中にソロアドリブで入ってくる場合、モダン・ピアノの音色ではどうしても違和感が生じるのは致し方ない。
 「アイネ・クライネ」は、いろいろな意味で、特に無くてもよかったろう。

2007・8・17(金)ザルツブルク音楽祭
 マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

     ザルツブルク祝祭大劇場  9時

 3年連続でバイロイト音楽祭に行くのも些か気が重い、というわけで、今年はザルツブルク音楽祭にした。
 ネットの天気予報では連日30度の猛暑晴天とあったので覚悟してやって来たのだが、幸か不幸か大外れ。雨で、寒い。それでも、東京の超猛暑に比べれば申し訳ないほどの過ごしやすい天気である。

 ベートーヴェンの「第9」の前に、オネゲルの第3交響曲「典礼風」が演奏された。近頃のコンサートとしてはヘビーなプログラムだ。聴く方は閑人ばかりだからいいが、演奏する方はたいへんだろう。
 「典礼風」はすこぶる生真面目な演奏で、あたかもヒンデミットの音楽みたいに聞こえる堅固なアプローチだったが、第3楽章はすこぶるスリリングであり、ヤンソンスの音楽のエネルギーの見事さを示していた。

 「第9」は、久しぶりに大編成の良さを味わわせる。分厚い響きが天地を鳴動させるといった感。このような巨大なホールで演奏されるときには、やはりこのようなスタイルの演奏が適しているだろう。ヤンソンスの指揮は特にデモーニッシュではないけれど、その真摯な語り口のために、独特の説得力を感じさせる。
 バイエルン放送合唱団のすばらしさも印象的であった。ソリストはカリッシミラ・ストヤノーヴァ、リオナ・ブラウン、ヨハン・ボータ、トーマス・クヴァストホフ。

2007・8・10(金)大野和士指揮東京フィルハーモニー交響楽団

     東京オペラシティ コンサートホール   7時

 久しぶりの大野和士を迎えて、客席は満員である。
 彼に寄せられる拍手と歓声の大きさは、すでに小澤征爾を凌ぐほどだ。国際的には、彼はいわゆる「実力派」的存在で、かつての小澤のようなアイドル的・スーパースター的な人気指揮者ではないが、今日の演奏などを聴くと、そんなことは大した問題ではないという気持になる。

 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(R・シュトラウス)での、ストーリイの語り口の巧さは、さすがオペラで世界に名を馳せる大野の力量だ。また、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」の冒頭などを聴くと、彼が世界で良いオケを数多く指揮していることが理解できる。あの東フィルが、まるでヨーロッパのオケ(但し地方マイナーオケという雰囲気だが)のように、良い意味でケバ立った響きを出していたのである。
 ベルリオーズの「幻想交響曲」でも、オーケストラは非常に劇的かつ表情豊かに轟いた。この「持って行き方の巧さ」は、明らかにオペラを知っている指揮者のセンスである。

 東フィルは、トランペットの音色にもっと美しさが欲しいところだ。「幻想」ではコルネットのパートが復活されていたが、使われていた楽器はトランペットではなかったろうか。いずれにせよ、舞踏会の華麗な煌めきを描くという音色には些か遠かった。
 ピアノのソロは小山実稚恵。

2007・7・31(火)小澤征爾指揮の「カルメン」

    東京文化会館大ホール  6時30分

 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト第8回「カルメン」。
 予想通りというべきか。音楽塾のオーケストラを制御するのに手いっぱいだったからか。彼の指揮は、またもや四角四面なものに戻ってしまった。テンポに変化がほとんどなく、「カルタの歌」や「ミカエラのアリア」などでは、感情の起伏の平坦さたるや、呆気にとられるほどだ。

 オーケストラが下手で、木管など味も素っ気もない吹き方だから、いっそう音楽に色彩がなくなる。5回目の公演(最終公演)でこれだから、いかに今回のオケのメンバーの水準が低いかといことになろう。
 ジョシー・ペレス(カルメン)は最初のうち生き生きしていたが、次第に声が硬くなっていったのは疲れでもあったのだろうか。ケイティ・ヴァン・クーテン(ミカエラ)は、舞台姿はいいのだが、声に妙なヴィブラートが付くのが気になる。マーカス・ハドックのホセは平凡そのもの。マリウス・キーチェン(エスカミーリョ)は、そう声量はないようだがなんとかサマになっていた。

 装置はジャン=ピエール・ポネル。だがデイヴィッド・ニースの演出の方は相変わらずで、ドラマの心理的な読み込みも通り一辺のものに止まっているのが舞台を退屈にさせた一因でもあろう(もちろん演奏のつまらなさが第一要因だが)。終幕では闘牛士はほとんど出て来ず、群衆だけが熱狂する。この群衆はジプシー連と同じキャストだろうが、恐ろしく人数が多い。
 小澤征爾のオペラは、このところ低調だ。これからどうなるのだろう?

2007・7・28(土)PMF アンドレイ・ボレイコ指揮PMFオーケストラ

    札幌コンサートホールkitara 大ホール  7時

 今年のPMFでの主要指揮者は3人、リッカルド・ムーティ、フィリップ・ジョルダン、そしてこのアンドレイ・ボレイコ。

 超大物が最初に来てしまい、しかも東京公演までやってしまうというのは、スケジュールの問題で止むを得なかったにせよ、フェスティバルの演出効果の上でもアカデミー生たちのメンタルの問題の上でも、あまりいいことではないようだ。何となれば、ムーティとの東京公演で今年のオケの少なからぬ力量をいったん知ってしまった耳には、今夜の演奏は、技術的に破綻があるわけでは全然ないけれど、オーケストラの鳴りや活気を含めてもっと行けるはずではなかったかと感じられてしまうからである。

 これが初日の演奏だったからか、ボレイコの力量ゆえか、楽員たちの士気の問題か、そのすべての理由からかは定かでない。もっとも、ムーティの指揮の場合にも札幌での演奏は思ったほどではなかったという風評だから、あるいはこのボレイコの指揮の場合にも、本番を重ねて名古屋や大阪での公演の時にはもっと向上していることになるのかもしれない。

 プログラムはすべてロシアもの。ボリス・ベレゾフスキーが弾くラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」で開始されたが、演奏全体は意外に抑制されたものだった。特にオケの鳴りの悪さは予想外。
 ベレゾフスキーも日頃の彼の才気があまり感じられない。フィナーレの最後のクライマックスに至って、彼本来の底力がやっと火を噴いたという印象。いずれにせよ欲求不満の演奏である。アンコールでのリャードフの小品が詩的で好ましかった。

 後半はリャードフの「キキモラ」で開始。怪奇なスケルツォという性格は、この生気のない、流れの悪い演奏からは全く感じられない。同「魔法にかけられた湖」も弦の響きの薄さは致命的で、いやしくも18型の弦なら、たとえ弱音においてももっとふくよかに豊かな音で鳴ってほしいものである。
 最後のスクリャービンの「法悦の詩」では、トランペットも全管弦楽も頑張ったが、ボレイコのパウゼの長さと、そのパウゼが生きた緊迫感を生み出していなかったことが、波打ちながら法悦の極致に導くはずの曲想を生かすことができなかった。

 アンコールで演奏されたリャードフの「バーバ・ヤガー」が、比較的解放感をもって、響きも潤沢になってきていたところから思えば、多分このあと何回かの公演では全体が改善されることになるだろうと思われる。

2007・7・27(金)PMF PMFインターナショナル・プリンシパルズ

   札幌コンサートホールkitara 大ホール 7時

 アメリカのオーケストラ系の錚々たる演奏家を集めての室内楽。後半のラインベルガーの「九重奏曲」がなんといっても聴きもの。アンコールでのショスタコーヴィチの「ポルカ」も見事。こういう演奏会が折々間に挟まれるというのがPMFの豪華さだろう。

2007・7・26(木)PMF ヴィリ作品集

    札幌コンサートホールkitara 小ホール  7時

 羽田13時発のANA65便で札幌に飛ぶ。

 小ホールとはいえ、現代音楽とはいえ、予想外に客が入っているのは喜ばしい。ただしこのような演奏会もアカデミー生の教材という位置付けで行なわれているとすれば、もっと彼らアカデミー生の数は、客席に多く見られなければならないだろう。
 作品自体はさほど面白いものではない。プログラムに書いてあること━━作曲者自身があれこれ述べている能書きはかなり綿密なものだが、何か手慣れた手法を操っているだけのものにも感じられる。特に現代音楽としての注目すべき発言というほどのものではない。

 むしろ作曲コースの弟子の一人ミンショウ・イェン(台湾出身の若い女性)の「悽之美」(クラリネットと弦楽四重奏のための)が、未熟な手法とはいえ生気を感じさせ、好感を抱かせた。

2007・7・24(火)UBSヴェルビエ・フェスティバル室内オーケストラ

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ヴェンゲーロフの来日中止で、オーケストラ公演の方も流れたのかと思っていたら、サラ・チャンをソリストに復活した。スポンサー関係の顧客を大幅に動員したのか、ほとんど満席の入り。われわれジャーナリストたちは、1階席後方2~3列に押し込められた。

 指揮者なしの演奏で、前半のモーツァルトのディヴェルティメント2曲のはずが、いつのまにか1曲になってしまっていた。演奏は達者で、音色もきれいだが、それだけはモーツァルトの音楽は単調に終始してしまう。その一方、ショスタコーヴィチの「室内交響曲」は、やはり生き生きしたエネルギー感に満たされていた。
 後半はサラ・チャンのソロによる「四季」だが、特に目新しい何かもなく、平凡な演奏。「四季」は1曲終るたびに拍手が起こるという、そういう客席。

2007・7・21(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

    横浜みなとみらいホール  7時

 引き続きベートーヴェン・ツィクルス。「エグモント」序曲に「交響曲2番」、真中にイアン・ファンテン(pf)クリスティアン・ポルテーラ(vc)諏訪内晶子をソロに三重協奏曲。
 曲の性格もあって、この日が一番演奏が丁寧であり、音楽が壊れずに済み、バランスが良かったと思われる。アンコールには前夜と同様「悲しきワルツ」、最後にもう1曲「1番」のフィナーレ。ガシャガシャでも速いテンポで威勢よくやればお客は喜ぶらしい。

2007・7・21(土)下野竜也指揮紀尾井シンフォニエッタ東京

     紀尾井ホール  3時

 活躍めざましい下野竜也が客演。
 冒頭のベートーヴェンの《レオノーレ》序曲第1番はいかにも下野らしく強固な演奏で、小編成ながらオーケストラの音のスケールも大きい。
 ヒンデミットの《白鳥を焼く男》には清水直子(ベルリン・フィルのソロ・ヴィオラ奏者)がソリストとして登場、よく鳴る明るい音色で明快にこの渋い曲を演奏した。中世の楽士が宴会で弾いて聴かせる光景をモデルにしたものという、作品本来の意味を思い出させる演奏である。

 メンデルスゾーンの《スコットランド交響曲》は当日の圧巻で、特に第1楽章後半の「嵐」に先立つ箇所や第2楽章の後半のようにクライマックスに追い込んで行く部分で、下野とオーケストラが聴かせた緊迫感には息を呑まされるほどの強烈なものがあった。各楽器が絡み合い高揚していくシンフォニックな個所の扱いにおける下野の手腕は実に見事である。
 終楽章のコーダでは一部の管が不安定だったため演奏に画竜点睛を欠く趣もあったが、このホールでこれだけの最強奏を響かせながら音に濁りがなく、しかも躍動感にあふれた快演だったことは、紀尾井シンフォニエッタの最近の快調さを示すものだろう。今日のコンマスは豊嶋泰嗣。

2007・7・20(金)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

     横浜みなとみらいホール  7時

 「コリオラン」序曲に「交響曲4番」と「第7番」。
 「4番」が安定していてよかったが、「7番」は快速楽章に音の鮮明さが欠け、ほとんど騒然たる響きだ。だがこの勢いだけといってもいい演奏に、お客は熱狂の極み。躍るようなベートーヴェンだと感想を述べた女性がいた。

2007・7・18(水)マスネ:「ドン・キショット」

     新国立劇場中劇場  6時30分

 以前新国立劇場で上演されたピエロ・ファッジョーニ演出のプロダクションが、今回はラ・ヴォーチェ主催により再演された。第2幕のあとに休憩1回、ただし舞台転換にはかなり手間取っていたようである。

 題名役はロベルト・スカンディウッツィ。
 前回のルッジェーロ・ライモンディとは一長一短だが、音程のさほど明確でないところは両者同じ。しかしもともとこの役は「ボリス・ゴドゥノフ」の影響を受けていることが明らかで(かつてはチャンガロヴィッチなどが名唱を聴かせてきた)それゆえ音程を少しずらしながら歌うという手法も歌手たちの中には意識されている部分もあるはずである。

 サンチョはアラン・ヴェルヌ、大ベテランの味は出ているが、前回のミシェル・トランポンに比べると、あの豪快な迫力に欠ける。第4幕最後の聴かせどころでは、最後の言葉がオーケストラに消されて画竜点睛を欠いた。
 ドゥルシネはケイト・オールドリッチ、声量はさほどでもないが踊りは上手く雰囲気がある。アラン・ギンガルの指揮は前回同様、劇的な盛り上がりに著しく不足する。オケは前回が新星日響、今回が東フィルだが、どちらもフニャフニャの演奏で、物足りない。

 それにしても、第4幕の幕切れ場面は、相変わらず泣かせる。幕が降りたあとの真っ暗な中で、拍手が長く続いたのは前回と同様。心暖まるオペラというのはこういうものを言うのだろう。字幕の訳がもっと文学的であればいっそう客を泣かせたのではなかろうか。

2007・7・16(月)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

    東京オペラシティ コンサートホール  4時

 ベートーヴェン・ツィクルス(抜粋)初日。諏訪内晶子が出たせいもあるのか、超満員である。ヤルヴィの先鋭的なベートーヴェンが理解されたとすればめでたいことなのだが。

 編成は8型、ホルンをはじめモダン楽器を使用しているが、トランペットのみは古い形のものを使っていた。1曲目は「プロメテウスの創造物」序曲。実に強烈な、見事なスフォルツァンド。これでこそ面白い。
 ヴァイオリン協奏曲では、オーケストラとは別に、諏訪内晶子が自己のスタイルであるヴィブラート奏法を貫いた。その範囲での彼女の演奏はきわめてスケールが大きく、深みを増していた。以前にも感じたことだが、この2、3年来の彼女の成長は疑いない。

 後半は「英雄」。ベートーヴェンのラディカルな音楽の組立が如実に感じられる面白さの反面、速いテンポのために弾き飛ばす彼らの演奏が細部を疎かにすることへの不満もついて回る。面白いけれど、もう少しきちんとやってくれないか、とも思う。
 アンコールは「8番」第2楽章。木管を突然強奏させるところなど、パーヴォらしくて興味深い。

2007・7・15(日)チョン・ミョンフン指揮東フィルハーモニー交響楽団

    Bunkamuraオーチャードホール  3時

 演奏会形式によるモーツァルトの「イドメネオ」。
 事務局が内紛でゴタゴタした直後だけに演奏に悪影響が出はしないかと心配だったが、さすがチョン、実に見事に全曲をまとめた。オーケストラは小編成で瑞々しい響きを創った。

 歌手陣には、少々問題がなくもない。エレットラを歌ったカルメラ・レミージョは最後のアリアで少々不安定なところがなくもなかったが、役柄に個性を感じさせたところが一頭地を抜いている。林美智子(イダマンテ)と臼木あい(イリア)には、もっと個性を強く打ち出してほしいところだ。だが何といっても、頼みの福井敬(イドメネオ)が何故か声の荒れを感じさせたのは今後に不安を残す。東京オペラシンガーズは安定。

2007・7・12(木)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 あれから10年以上も経つだろうか、このコンビによるあの「オックスフォード」の快演は今も耳に残っている。その演奏が久しぶりに蘇ったような思いだ。
 前半のハイドンの「ロンドン」、モーツァルトの「プラハ」。前者は瑞々しく活気があり、後者は少し重くなり覇気も少し薄れたが、広上の張りのある音楽が躍動して快い時間を作り出してくれた。
 ただし日本フィルの弦の音色はあまりきれいとは言えないし、「プラハ」でのティンパニの音色にももう少し品格といったものが欲しい。

 だが後半のプロコフィエフの「交響協奏曲」になると、途端に何か解放されたような音がオーケストラから沸き上がって来る。慣れた奏法に戻ったと言わんばかりの雰囲気だ。この3ヵ月ばかり定期を続けて聴いた印象を整理すると、やはり日本フィルには古典ものよりも、このあたりのレパートリーが合っているといえるのかもしれない。

 広上はソロを巧く浮きださせる。趙静の音楽は相変わらずヴィヴィッドであり、その演奏は、驀進する凄味というよりは明るい光に照射された若々しい躍動といったものを感じさせる。クライマックスへ追い込んで行く緊迫感のすばらしさも特徴である。好い演奏会であった。
 日本フィルも先月とは格段に違う演奏の出来である。ラザレフが首席指揮者に決定(来秋から)したことがいい影響を及ぼしているのであろうか。

2007・7・11(水)リッカルド・ムーティ指揮PMFオーケストラ

    Bunkamuraオーチャードホール  7時

 恒例のPMFフェスティバルだが、いつもは大トリに置かれている東京公演が、フェスティバルの前半で、しかも一番手の指揮者で行なわれるケースは、この十数年来、初めてのことではなかろうか。だがたしかにこの時期なら、またウイーン・フィルの教授陣も首席として演奏に加われるという利点もある。

 大ムーティ将軍は、このアカデミー生のオーケストラを、実に美しい音色に創り上げた。ヴェルディの「運命の力」序曲も、シューベルトの「ザ・グレイト」も、アンコールでのヨーゼフ・シュトラウスの「天体の音楽」も、大編成ながらもクリームのように柔かい豊麗無比な響きで、きわめて屈託なく鳴り響く。その壮大な美しさは、今日の演奏からはほとんど聴けなくなっていたものだ。快いことは事実だが、聴いているうちに、何かそれ以上の刺激が欲しくなって来る。

 だが、「ザ・グレイト」第2楽章での内声部のトランペットをエコーのごとく遠近感を持たせつつ明確に響かせるくだりなどは、すばらしかった。
 これらの他に、マルティン・ガブリエルが甘い音色でモーツァルトのオーボエ協奏曲を吹いた。オケは人数を減らしていたが、それでも普通よりはよほど多い。ここでも羽毛のような弦の響きが聴けた。

2007・7・8(日)エクサン・プロヴァンス音楽祭 ワーグナー:「ヴァルキューレ」

      エクサン・プロヴァンス大劇場  5時30分

 当初、このプロダクションは、共同制作であるザルツブルク・イースター音楽祭での来年3月の上演のときに観に行くつもりだった。でも、それに先んじて、新しくできた劇場で観ておくのも悪くない。 

 竣工が予定より1年遅れ、昨年の「ラインの黄金」に間に合わなかったという曰くつきのこの新しい劇場は、噴水広場(ロトンド)の西側に直結した再開発ニュータウンの一角にある。外構や道路などはまだ工事中である。
 ホワイエは明るく広いが、客席への通路は相変わらず狭くて効率が悪い。新国立劇場中劇場に似た構造で、客席が階段状になったその下方に舞台があるという作りだから、通路も狭くなる。火事でも起こった日には、1階席の客の7割は絶望的だろう。
 今回入手できたのは前から2列目のほぼ中央、オーケストラを至近距離で聴ける席であった。

 それにしても、サイモン・ラトルとベルリン・フィルが創る音楽は、この1、2年来、なんと成長してきていることだろうか。特にロマン派の作品を演奏する際の、昔のような刺々しさは、もはや完全に影を潜めた。
 たとえば第1幕終結近く、ジークムントがトネリコから抜き取った剣をかざし、ジークリンデに向かい「ヴェルゼの子、このジークムントをごらん!」と歌うくだり、弦の分散和音に彩られつつ6連音符を刻んで行く木管群の響きに漂う形容しがたいエロティシズムのすばらしさ。これは、かつてのフルトヴェングラー=ウィーン・フィルの録音で聴くそれに勝るとも劣らぬものであった。

 また第3幕での、「ヴォータンの告別」頂点を創るクレッシェンドも、決して力まず怒号せず、管と弦とに驚異的なほど絶妙な調和を持たせつつ、非常に温かい音色で盛り上げて行く。しかもこの個所でのヴォータンの演技には、父親としての情愛がきわめて色濃く顕れており(現代の読み替え演出によくあるような父と娘の妙な関係ではなく、非常に自然な親子の関係である)、音楽と完璧に合致して、胸を衝かれるような思いにさせられるのである。

 全般的に言えば、ラトルのアプローチはシンフォニックなスタイルである。オーケストラの最強音の上に声を浮かび上がらせるようなテクニックからいえば、歌劇場を本拠にする指揮者に一歩を譲るかもしれないが、オペラを声つきのシンフォニーのようにオーケストラ主導で描きだす手法においては成功している。特にワーグナーの作品においては、それが完璧に生きる。
 それに、何といっても強力無比で雄弁な音楽を創るベルリン・フィルである。劇的な個所にしろ叙情的な個所にしろ、ここぞというところで彼らが響かせる音楽は圧倒的なものがある。今回の演奏の中にも、息を呑ませられる瞬間がいくつもあった。

 主役の歌手たちは、いずれも優れた歌唱と演技を示していた。
 ウィラード・ホワイト(ヴォータン)は、神々の長としての威風よりも父親としての苦悩と愛情の表現に卓越していた。
 エヴァ・ヨハンソン(ブリュンヒルデ)も、愛らしい娘としての役を演じ、サロメやマリア(平和の日)などでの女傑ぶりとは異なるヒューマンな役柄表現をうまくこなしている。つまり2人とも、大神と戦乙女の関係というより、情愛こもる父と娘とを浮き彫りにしていたのである。

 ロバート・ギャンビル(ジークムント)はいつもどおりの安定感だ。エファ=マリア・ウェストブレイク(ジークリンデ)がひたむきで愛らしく、少し色っぽいところもあって好演。この人も本当にいいソプラノになった。
 ミハイル・ペトレンコ(フンディング)が黒づくめの服装に暗い顔立ちで、秘密警察みたいなイメージの役柄を演じていた。彼のバスは、フンディングにしては重くないのだが、なかなか良い。リリー・パーシキヴィ(フリッカ)も安定感であろう。
 かように、音楽面ではきわめて優れた水準を示した上演だったのだが・・・・。

 演出と舞台美術は、このチクルスをすべて担当しているステファーヌ・ブランシュヴァイク。
 第1幕はプレハブ的な建物の内部で、「春の訪れ」の箇所では大扉は開かないけれども照明の変化で効果を出すという趣向があり、それはなかなかに美しく、この瞬間には新劇場でのニュー・プロダクションとしての舞台に大いなる期待感をもたせた。だが、第2幕と第3幕では、前作の「ラインの黄金」の舞台をほぼそのまま使い、もしくは応用するという程度で、新鮮さを急激に失わせてしまう。

 特に第2幕大詰、ジークムントらによる戦闘の場も、奥のセリの上で様式的な演技が行なわれるのみで、それぞれの人物の心理描写などは皆無だ。
 第3幕の「ヴァルキューレの騎行」では、女たちが死体(人形)をスロープ上に引っ張り上げつつ歌う。魔の炎に包まれるはずのブリュンヒルデは、ここでは椅子の上に寝る(また椅子だ!)。炎は映像が投影されるきわめて簡単な手法で、見せ場としては面白みがない。スペクタクルとしての舞台作りは、センスがないのか、あるいはカネが無いのか、なんとも拍子抜けさせられる結果となっている。

 そういえば、今春のザルツブルク・イースターでの前作「ラインの黄金」の舞台が不評だった際に、「共同制作であるエクスの舞台構造の制限もあったからああなった」と一所懸命に弁護する人がいたようだが、ここエクスの新劇場で上演されたこの「ヴァルキューレ」を観ると、どうもそうではないように思える。「もともとこの程度」なのではなかろうか。
 ただその反面、演技の細部はよく整えられている。ヴォータンの不安な目付き、ブリュンヒルデの無邪気な表情など、なかなかいい。ただしこれは2列目で観たからこそわかるというものだ。

 総じて言えば、音楽的には期待以上のすばらしさではあったものの、舞台としては、この程度のものをわざわざ高い金を払って観にきたのか、という印象が本音である。
 来年春のザルツブルク・イースター・フェスティバルでの上演までに、どのくらい手直しがなされるか、だ。

2007・7・7(土)エクサン・プロヴァンス音楽祭 モーツァルト:「フィガロの結婚」

      アルシェヴェーシェ劇場  9時30分

 もともと予定はなかったのだが、たまたまチケットが2日分だけ手に入ったので、急遽訪れた次第。マルセーユの空港に降り立つと、南欧の目に染みるほどの青空が実に美しい。そのかわり、日差しの強さは目も眩むほどで、ホテルから会場まで歩くにはすこぶる忍耐を要する。

 アルシェヴェーシェ劇場は、昨年まではメインの大会場として使用されていた半野外劇場。建物の中庭に設けられており、客席の前方は星空を望み、後方は2階席スタンドに覆われる。オーケストラの響きはあまり良いとは言えない。こんな室内オペラ的な会場でありながら、昨年はよくぞあのような大編成オケによる「ラインの黄金」を演奏できたものだと感心する。

 ダニエル・ハーディングが指揮するマーラー・チェンバー・オーケストラが、例の尖ったスタイルで演奏する。残響の豊かな、もっと小さなホールで聴いたなら、これは至高の音楽ともなるだろう。
 問題は、その響きよりも、テンポである。アーノンクールの指揮にも言えることだが、このテンポと「間(ま)」の設定には、私はいつも苛々させられるのだ。もっとストレートなテンポを保って進められないものかとさえ思うのだが、しかしそのくどい「間」やリタルダンドに演技がぴたりと合っているという作りだから、ドラマとして立派に成立していることは認めなければならぬ。

 その演出は、ヴァンサン・ブッサール。ルクセンブルク大劇場との共同制作によるエクサン・プロヴァンス音楽祭の新制作プロダクション。
 舞台上の小道具といえばマットレスと椅子だけというシンプルなもの。人間相関図にはあまり妙な深読みとかこじつけはなく、オリジナル通りのストレートな設定が行なわれているが、各人物の性格表現にはすこぶる微細な動きがあり、ドラマとしても愉しい。

 歌手陣ではネイサン・グン(伯爵)とマリー・マクローリン(マルチェリーナ)に存在感があり、ジョルジョ・カオドゥーロ(フィガロ)は比較的無難、マリン・クリステンソン(スザンナ)は柔らかい声だが、声そのものにはシンが不足してこのスタイルの中ではやや異質だろう。
 
 夜9時半開演だったので、終演は深夜1時15分。南欧の連中はどういう感覚でこんなスケジュールを組むのやら。
 しかもお喋りをしつつ、のんびりと(だらだらと、という感じか)歩く欧州の爺さま婆さまたちのおかげで、会場を出るだけで10分以上も時間がかかる。足早に歩くであろう若い観客が少ないのには驚かされる。この観客の年代構成は、由々しき問題ではなかろうか。

2007・7・4(水)エリアフ・インバル指揮フィルハーモニア管弦楽団

    東京芸術劇場コンサートホール  7時

 今回はマーラー撰集チクルス。初日の今日は第10番の「アダージョ」と「巨人」。
 ツァー前にどのくらい練習したのかわからないけれど、かなり粗っぽい。ただ経験のみで押して行くといった演奏に聞こえる。

2007・7・2(月)パレルモ・マッシモ劇場「シチリア島の夕べの祈り」

   Bunkamuraオーチャードホール  6時

 ステファノ・ランザーニが指揮。さすがに彼のイタリア・オペラは堂に入っている。オーケストラも鳴ること鳴ること、有名な序曲からして轟然たる演奏で、これだけ劇的でパワフルな音楽が始まると、あとのオペラ本篇が楽しみになるものだ(新国立劇場に出るオーケストラも少し見習ってほしいものである)。

 歌手陣も歌唱面および演技面で手堅い実力を示していた。アレクサンドル・アガーケ(モンフォルテ)とカルロ・ヴェンドレ(アッリーゴ)が強力な声で父子の葛藤を充分に表現、オルリン・アナスターソフ(プローチダ)も憂国の志士としての粘りの感情を出し、アマリッリ・ニッツァ(エレナ)は少し細身の声ながら、恋人の裏切りを理解し許す牢獄の場などでは巧味を示していた。
 ニコラ・ジョエルの演出は大まかで、特に悲劇的な大詰場面に向けての追込みと、鐘の音を合図の殺戮場面へという一連の舞台構図の流れには緊迫感が欠け、いかにイタリア・オペラといえど、ドラマの舞台としては甚だ締まらない。
 ただ,それを別とすれば、これはきわめて水準の高い上演であり、この歌劇場の実力を垣間見せるにふさわしいものであったことは確かである。

2007・6・30(土)パッパーノ指揮ローマ・サンタ・チェチーリア国立アカデミー管

     東京オペラシティ コンサートホール  6時

 アントニオ・パッパーノが、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団を指揮して、「イタリア系」の曲を指揮。実に豊麗艶麗、開放的な明るい音色で活気あふれる見事な演奏を披露した。これまで聴いた中で、今回が最も水を得た魚のような演奏になっていたのではなかろうか。

 ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」の冒頭から、艶のある弦がはじけて魅了する。吹き上げる金管の痛快なこと、なるほどこれはローマの雰囲気そのものの曲だと初めて認識した次第。

 続くはパガニーニの「ヴァイオリン協奏曲第1番」。これほど活気のあるオーケストラ・パートの演奏は滅多に聴けまい。
 このオーケストラのパワーに対し、庄司紗矢香が一歩も退かず応戦して大拍手を浴びた。このところ日本のオーケストラとの協演では妙にバリバリ弾きまくるような印象を与えていた彼女だったが、それがこのアクセントの強い華麗な音色のオーケストラとの演奏になってみると、実に自己主張の明確な、生々しい感情の迸り出る音楽となって聞こえるのには驚嘆した。
 これだけダイナミックに躍動しながらも、その演奏は決して粗く弾き飛ばしていない。どの音符もきちんと整理され、寸分の隙もない。彼女は本当にすばらしいヴァイオリニストになったものだと思う。第1楽章があまりに鮮やかだった反面、第3楽章では若干音量が下がって音楽にパワーが不足した感があったのが惜しいか。

 パッパーノはその第2楽章のあと譜面をめくり、フィナーレに入る直前に間を取るようなジェスチュアを示したために聴衆が一息入れてざわついてしまい、この結果第3楽章冒頭のピチカートの軽快なリズムと、庄司が弾き出した弾む弱音がはっきり印象づけられなかったのも残念である。

 後半は、レスピーギの「ローマの噴水」と「ローマの松」。
 前者の「真昼のトレヴィの噴水」での全合奏の豊麗な音色、後者の「カタコンブの松」での弦の厚みのある壮麗な音色、いずれもこのオーケストラが卓越した存在であることを印象づけた。3方のバルコン席に配置された金管群も含めて、「アッピア街道の松」がこれほどバランスよく演奏された例は日本では稀かもしれない。危惧されたこのホールの音響上の制約に対しても、彼らは実にうまく対応していた。
 アンコールには、プッチーニの「マノン・レスコー」間奏曲と、更にロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲からの「スイス軍隊の行進」。

2007・6・26(木)若杉弘指揮読売日本交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  7時

 若杉が読響を振るのは、実にほぼ30年ぶりのことだという。彼がかつて常任指揮者を務めた時代、いろいろ対立があったことはもう一般には記憶が薄れているが、オーケストラ内部には、「若杉には金輪際うちのオケの指揮はさせん」と言い張っていた楽員が、つい最近までいたという話も聞いた。
 
 まあ、そういう内情はともかく、今日のコンサートに関する限り、メシアンの「われらの主イエス・キリストの変容」の演奏は、きわめて立派なものだった。特に金管を中心とする豊麗なハーモニーが強い印象を残す。曲自体はちっとも面白いものでも感動的なものでもないが、この2時間近い大曲をスケール大きく描きだした指揮者とオケのコラボレーションは讃えられてよい。

 ただ問題は合唱(新国立劇場合唱団)のラテン語の発音の曖昧さで、子音の響きが全然聞こえず、台本を読みながら聴いていてもどこを歌っているのかさっぱり判らぬというお粗末な状態。
 今月のプログラムに、60~70年代の若杉=読響の輝かしかった活動について一文を寄せる。

2007・6・26(火)パレルモ・マッシモ劇場

   「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「道化師」
     Bunkamuraオーチャードホール  7時

 おなじみ二本立て。失礼ながらイタリアのローカル・オペラだからどうせ旧態依然の舞台だろうと勝手に思い込んでいたら、どうしてなかなかのモダンな雰囲気の舞台装置。
 前者はトラディショナルな地方色の衣装と演技だったが、後者はかなり現代的な衣装だった。ただし、ロレンツォ・マリアーニという人の演出にはさほどの新味はなく、どちらかといえば前者の方がまとまっている。後者は、現実と芝居とが混同されていく過程の描き方が全く平凡で、息詰まるスリルなど皆無、甚だ退屈な舞台だった。
 歌手陣は概してあまりぴったり来ないルックスの人ばかりで、歌唱はまず無難といった程度か。指揮のマウリツィオ・アレーナはじっくりと歌わせる。オーケストラが立派なのには感心した。

2007・6・25(月)MMCKオーケストラ

    かずさアカデミアホール・メインロビー  6時

 大友直人とアラン・ギルバートが「創設芸術監督」をつとめる Music Master Course in KAZUSA を初めて訪れる。アクアライン経由で行くと、東京からほぼ1時間で着く。
 今年が第7回。PRの薄さもあって、東京のジャーナリストにも聴衆にもほとんど知られていないアカデミーだ。講師と受講生(今年は27人)には外国人も多い。2週間と少しの開催期間中、東京での室内楽とオーケストラ各1回の演奏会を含む公開演奏会もいくつかやっているという。

 会場は千葉県上総の田園の中にある「かずさ・アカデミー・パーク」のアカデミアホールだ。千葉県も援助して維持されている恐ろしく立派な建物である。近くにはホテルオークラもある。だが、立派なメインホールは音響の悪さで音楽会には使えず、ロビーの仮設ステージを利用しなければならないという制限があり、わずか200人足らずの椅子しかない。
 演奏会の質やロケーションなども含めて考えると、PMFなどと違って街のイヴェントという要素に乏しい。少数の地元の客を吸収するのがせいぜいというのも致し方ないだろう。

 大友はしかし、涙ぐましいほど一所懸命やっている。彼は外国には行かない反面、日本にアカデミー生を招いて日本の音楽界を世界の重要な教育起点にしたいという理想を持っているようである。それにしても今年で7回目とは、よく続いているものだ。サマー・スクールという面では、もっと知られて然るべき存在だろう。

 今日のオーケストラコンサートは、大友の指揮でベートーヴェンの「交響曲第7番」、アラン・ギルバートの指揮でシューマンの「交響曲第1番《春》」。

2007・6・23(土)第3回仙台国際音楽コンクール本選2日目(最終日)

    仙台市青年文化センター・コンサートホール  4時

 協演はパスカル・ヴェロが指揮する仙台フィルハーモニー管弦楽団。
 チャイコフスキーを弾いたイリヤ・オフチニコフ(ロシア、1983年生)は、所々雑な部分もあるが、輝きのある音色の、自国の作品への共感を備えた活気のある演奏が好感を呼んだ。
 次いでベートーヴェンの「4番」を弾いたヴャーチェスラフ・グリャーズノフ(ロシア、1982年生)は、16分音符をすべてトレモロのようになだらかに演奏するという変わったアプローチ。

 同じ曲を最後に弾いた津田裕也(1982年生)は冒頭をきわめて風格のある演奏で開始、その後も安定した演奏を続けたが、全体としてはやはり日本人らしく、きちんとしてとりこぼしはないものの強い個性には不足するという印象に終始した。

 だが結果としてはその津田が優勝。2位は前日にショパンの「1番」を弾いたルー・イチュ(台湾、82生)、3位は前日ブラームス「1番」を弾いたオクサナ・シェフチェンコ(ロシア、87生)、4位がオフチニコフ、5位が前日ベートーヴェンの「4番」を弾いたリー・カリン・コリーン(中国、80生)6位がグリャーズノフ。

 講評は、記者会見席上で質問されても、審査委員長(野島稔)も副委員長(植田克巳)も答えられず、僅かにペーター・レーゼル(同)が「協奏曲に経験を積んだ者でないと不可能なコンクールという特徴」について語ったにとどまるというお粗末さ。前回と同様である。こんな調子で、一体どのような審議が行なわれたのであろうか。

 ヴェロと仙台フィルは、物凄い音量で、しばしばソリストの音を打ち消したのは疑問。特にチャイコフスキーは騒々しすぎた。たしかに仙台フィルの音色は明るくなり、演奏に活気が出るようになったのはいいことだが、定期公演ではないのだし、コンクールでコンチェルトを演奏する時の心得としては如何なものか。まあ、ソリストを煽り立てて勢いづかせるという利点はあったかもしれない。

2007・6・20(水)マルティン・シュタットフェルト・リサイタル

    すみだトリフォニーホール  7時

 このホールでは、いかに何でも大きすぎるという気がする。が、昨年の「ゴルトベルク」が大変な人気を呼んだ(小生は確か不在のためだったと思うが、聴いていない)人にしては、
半分程度という今日の客の入りは寂しい。

 しかし演奏は、予想通り素晴らしい。モーツァルトの「ソナタK.333」と「K.310」、その間にシェーンベルクの「6つの小品」を挟んだ前半のプログラム、そしてベルクの「ソナタ」と、シューベルトの「ソナタ第21番」による後半のプログラム、いずれも彼らしい明晰で端正で、しかも表情豊かな演奏である。
 特に印象的だったのは、シューベルトのソナタだ。恰もバッハを聴いているような画然とした造型と、和声的構造を些かも揺るがせにしない構築など、古典派から見たシューベルトといったアプローチで、かつ瑞々しい息吹を以て聴かせてくれた。

2007・6・19(火)ラファウ・ブレハッチ・ピアノ・リサイタル

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 バッハの「イタリア協奏曲」と、リストの「演奏会用練習曲」3曲、ドビュッシーの「版画」、と配列された前半のプログラムでは、ある程度端正な様式が保たれており、キラキラ光る音色が随所に散りばめられた演奏が実に瑞々しく、彼の成長を感じさせた。

 後半はショパンだが、「舟歌」は激しく叩きつけられるような演奏で、まるでコンクリートの護岸をガラガラと走るかのようなイメージを得てしまった。そのあとの作品62の2曲の夜想曲と「前奏曲集」13~24番も概ね元気一杯というか、既存のイメージに敢えて叛旗を翻して荒っぽい口調で話してみせるショパンといった印象。
 現代ポーランドの若い演奏家は、巨人ショパンの存在をこのように描きたくなるのだろうか。まあ、理解できるような気もするが。

2007・6・15(金)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル

    すみだトリフォニーホール  7時15分

 アルミンクが実に多彩な表情をオケから引き出した。ベートーヴェンの「皇帝」には、切れ味のいい、小気味よく引き締まった快さがあり、これがティル・フェルナーの細身でしなやかなソロと調和する。
 昔、エッシェンバッハと小澤がこのような演奏のレコードを出した時には、「皇帝というより皇太子」とか言われたものだが、今日ではむしろ、そういう演奏スタイルの方が主流になっている傾向がなくもないだろう。

 しかしアルミンクは、シューマンの「第1交響曲《春》」では一転、緻密なアンサンブルには拘泥せず、開放的な響きで豪壮に突き進む。こういう演奏は作品の構成上の弱さを露呈させかねないが、作曲者が意図した以上の生気と躍動を注入するのには成功しているだろう。全曲大詰での熱狂を聴くと、アルミンクは結局ここへ話を持って来たかったのかと、それまでの伏線も納得行くような気にさせられてしまう。第2楽章終結部での陰影の濃さも見事。

 1965年ルクセンブルク生れのレンツの《ミステリウム》第7曲《星(2000)》は、大編成ながら静謐な曲想で、叙情的な美しさに満ちている。とはいえ、作曲者が聴き手に希望しているという「満天の星空を思い浮べる感情」が呼び覚まされたとも言いがたい。

2007・6・14(木)マルティン・ジークハルト指揮日本フィル

     東京オペラシティコンサートホール  7時

 2階正面上手寄りの席からは舞台下手側に配置されたコントラバス群がよく響いて聞こえるため、低音を基盤に構築された音楽というイメージになる。
 問題は、日本フィルの演奏が粗いことだ。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」は冒頭のみ温かさが感じられたものの、その後は手探り的で生硬な演奏。小編成ゆえにそれがいっそう露呈してしまう。

 モーツァルトの「交響曲第39番」も、ベートーヴェンの「田園交響曲」も、音楽本来の柔軟さに追い付きそうで追い付かぬもどかしさを感じさせる。特に「田園」第2楽章など、木管群のバランスの悪さ、アンサンブルとしてのまとまりの悪さが、美しい曲想を害なってしまった。音楽が主調に解決する時や主題が回帰する時など、音楽形式の上で重要なその最初の音符を無造作に弾く弦楽器群にも落胆させられた。

 これらは本来、オーケストラが自主的に創るべき音楽ではないのか。しっかりした音楽監督を据えて、もう一度根本から解決を計って欲しいものだ。

2007・6・13(水)新国立劇場 ヴェルディ:「ファルスタッフ」

    新国立劇場  6時30分

 3年ぶりの再演だが、前回より舞台が引き締まっていて演技も細かく、見応えがあったという印象である。ジョナサン・ミラーが「ばらの騎士」演出のため来日していたため幸いした(それを狙った?)こともあったらしい。

 ファルスタッフは前回同様、さほど太った男でなく、野卑でもない。その点、終場面での大見得は生きてくるし、周囲の人間よりもよほど存在感のある男として浮かび上がる。その反面、全員が彼を苛める必然性がほとんど感じられないのは事実だ。しかし、全体にはいい舞台といえるだろう。

 主役陣も、アラン・タイタス(ファルスタッフ)とヴォルガング・ブレンデル(フォード)が好演し、前回のベルント・ヴァイクルとウラディーミル・チェルノフを遥かに凌ぐ。カラン・アームストロング(クイックリー夫人)もいい。
 ナンネッタを歌ったのは中村恵理で、大オーケストラに対しては少し声が細い気もするが、しかし森の場面での歌は好い声だ。表現力に関しては、まだかなり修業してもらわねばならぬ。

 ダン・エッティンガーの指揮は悪くないけれど、そう傑出していたという程でもなく、東京フィルをよく鳴らしたということが評価される。ただしアンサンブルは粗っぽく、緻密で引き締まったこのオペラの洒落っ気を出すには程遠かった。
 東京フィルは、それでも「ばらの騎士」の時よりは余程マシだ。東フィルは本当にムラが多い。今日はコンマスが荒井英治だが、さりとてコンマスに左右されるわけでもないのがこれまでの状況である。とにかく、オーケストラのレベルなどは、ノボラツスキーに責任を押付けるより、むしろオケ側で自ら改善するべきものである。

2007・6・9(土)ラモン・ガンバ指揮東京交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  6時

 ラモン・ガンバ━━長身の巨体が大暴れ。猛烈な熱演型の指揮者だ。賑やかでダイナミックだが、チト騒々しいし、オケは音が汚くなる。チャイコフスキーの「5番」など、華やかではあるけれども、叙情的要素はかなり犠牲にされている。盛り上げること自体はいいとしても、ノベツマクナシ吠えられては閉口だ。

 マルコム・アーノルドの序曲「ピータールー」はリリカルな主題の中に打楽器の行進曲のリズムが強引に割り込んでくるなどの発想が面白いが、このホールで、割れんばかりの大音響で演奏されると、何が何だか解らない曲になってしまう。

2007・6・9(土)下野竜也指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場コンサートホール  2時

 下野のがっちりした指揮。緻密で揺るぎのない音楽を創る。ドヴォルジャークの「6番」がこれほど構築性を備えた作品として再現されたことは稀ではないかとさえ思われる。作品のバランス構築も卓越したものだし、これは大変な才能ではなかろうか。第3楽章最後のストレッタなど、もしかしたらあのシノーポリのシューマンに拮抗できるかもしれない。

 ただ、そのような正面切ったアプローチに耐えられぬ曲もあるわけで、同じドヴォルジャークの「スケルツォ・カプリチオーソ」などでは、その生真面目さが裏目に出るだろう。
 といって、いい加減な演奏をすれば映えるという意味ではない。いっそ、どんなつまらない曲でもサマにしてみせるトスカニーニの芸風を目指してもらいたいものだ。

 この2曲の間には、今月で定年を迎えた菅原淳のソロでテーリヒェンの「ティンパニ協奏曲」が演奏された。しかし、菅原さんには悪いが、これは面白くない曲だが、珍しさと、菅原の熱演とで保った。

6・8(金)第3回 目白バ・ロック音楽祭 チェンバロ・デュオ

    自由学園明日館  7時

 西山まりえが、師の一人であるニコラウ・ド・フィゲイレドと組んでデュオ演奏会を行なった。ブランデンブルク協奏曲第6番、モーツァルトの4手のためのソナタK.381、ソレールの協奏曲第3番と第2番、ボッケリーニのファンダンゴ。

 フィゲイレイドの豊かな顔の表情を見ながら聴いていると、たとえばモーツァルトのソナタは本当に「会話」なのだという気がしてくる。機嫌を悪くしたり、相手を窺ったり、冗談に笑い合ったり、同意し合ったり。そういういう瞬間が、次から次へと入れ替わるのである。
 この曲に限らず、演奏はすべてその「音楽での会話」だ。チェンバロ2台で弾かれるブランデンブルク協奏曲は快い調和、ファンダンゴは疾走する喜び。至福の体験の夜であった。

2007・6・6(水)新国立劇場 R・シュトラウス:「ばらの騎士」

   新国立劇場  5時

 今年の「バラ戦争」初弾は新国立劇場、ノヴォラツスキー芸術監督最後の新プロダクションで放たれた。

 しかし、オーケストラが相も変らずお粗末。冒頭のホルンを中心とする主題の立ち上がりから唖然とさせられるほどのか細い音、第1幕は最後まで乾いた無表情な、全く色彩というもののない演奏が続いた。第3幕の最後の三重唱あたりはある程度改善されていたが、近年好調の練達の指揮者ペーター・シュナイダーを招いておきながら、なおこんな状態の東京フィルなのである。救い様が無い。

 演出は、いかにもジョナサン・ミラーらしく、派手さはないもののかっちりまとまった舞台だ。演技の細かさは主役のみならず脇役・端役にいたるまで徹底しており、それだけでもドラマとしての面白さが出て、全体が引き締まる。
 おなじみ原純も髪結師の役で登場しており、テノール歌手の声をうるさがりながら髪を結うなど、例のごとくマメな動きを見せていた。そのあとにオックスもテノールに苛々して書類を床に叩きつけるという演技を見せるだけに、意味のある動きといえよう。

 そのオックス男爵(ペーター・ローゼ、さすがに役者だった)が過剰に野卑に描かれておらず、単に山から出てきたような素朴な農夫といった具合に演じられていたのは好ましい。 マルシャリン(カミッラ・ニールント、長身で容姿も好い。この秋のサロメが楽しみだ)はある面でかなり激しい気性をもった女として描かれ、第1幕ベッドシーンでの美しさとは対照的に、第3幕でオクタヴィアンを思い切る前後では、愛した男を断念する悲しみどころか、あとで復讐でもしかねないような目付きをしていた。恐ろしい。

 そのオクタヴィアン(エレナ・ツィトコーワ)は、水も滴る美少年というわけにも行かぬ風貌と容姿(なんか老人の男みたいだ)のメイクなので、洒落た雰囲気に乏しくなる。ゾフィー(オフェリア・サラ)のメイクにいたっては全くの老け顔で、可憐な少女というイメージには程遠い。だが歌唱の面では、みんなしっかりしている。第2幕最後でのローゼのバスは見事に響いていた。

 美術と衣装はイザベラ・バイウォーター。脇廊下も活用しての、ややくすんだ色を基調とした舞台装置。豪華な雰囲気ではなく、むしろ地味で、しかも不思議に白けた寒々しいものを感じさせるのだが、これがジョナサン・ミラーのいう時代の移ろい、暗雲立ち篭める時代の雰囲気なのだろうか。
 ただし第1幕最初など、オーケストラの惨さも手伝って、何とも乗らない白々しさが舞台を蔽っていたが、これはもちろん、演出のねらいとは別の次元の問題である。
 なお、第1幕最後で窓に打ち付ける雨は非常に効果的で、タバコを手に窓外を見やるマルシャリンの孤独な姿と相俟って、人生の変転を描くような印象的な場面を作り出していた。

 それにしても、ノヴォラツスキー芸術監督には、些かの同情を禁じ得ない。音楽的にも最後を飾るために、ベテランのペーター・シュナイダーを招いたのであろう。にもかかわらず、オーケストラの非力がそれをフイにしてしまった。新国立劇場最大の弱みはオーケストラにある。それは10年経っても、ついに全く改善されないのである。

2007・6・5(火)プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 オケの来日は6年ぶりだが、「指揮者」ミハイル・プレトニョフに率いられての来日は、9年ぶりになる。
 彼の指揮は、近年の東フィルへの客演がすこぶる個性的になって来ているため、「大胆なキャラクター復活への期待」などと提灯記事を書いたのだが、幸いな(?)ことに、一頃よりはアクの強さが戻ってきたようである。

 チャイコフスキーの「交響曲5番」第1楽章序奏は異様に遅いテンポだし、それに反して第4楽章では提示部後半のあのデクレッシェンドからいよいよテンポは速まり、アレグロ・ヴィヴァーチェよりむしろプレストで突進する勢いになる(以前のCDではこのような演奏ではなかった)。
 もともとプレトニョフは、ステージ演奏ではタテの線などに頓着するタイプではないが、今日の第4楽章主部は、細部が全く判然としないほど飛ばしに飛ばす演奏だった。管もやや粗いが、そういう部分を丁寧に磨き上げるようなタイプの指揮者ではないのだから、芸風と割り切って受け取るしかない。ただし第2楽章での弦は、実に艶やかで美しい。

 その一方、アンコールでの「眠りの森の美女」のワルツの方は、意外に整然としていて驚く。こういう、極端に対照的な表現を一つのコンサートで聴かせるところが、またプレトニョフらしいとも言えるだろう。
 なお、冒頭にはシベリウスの「フィンランディア」。これは恐ろしく重厚で、大地を踏み鳴らすような、おどろおどろしい演奏だった。2曲目は樫本大進のソロでシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」。

2007・5・30(水)仲道郁代のベートーヴェン・ツィクルス

    JTアートホール  7時

 チェロとのソナタのシリーズ第2回、協演は趙静。
 プログラムは、ソナタの第1番、第4番、第5番、および「魔笛の主題による7つの変奏曲》と、アンコールに《ユダス・マカベウスによる変奏曲》。

 ソナタ集は快演に満たされた。《第1番》では作品の性格からしてピアノの雄弁さも際立ち、長年にわたりベートーヴェンに取り組んできた仲道の満々たる自信と気迫を余すところなく押し出したが、チェロが発言力を増す《4番》以降では、趙の恰幅のいいソロが小気味よい反撃を開始した。
 特に《5番》のアダージョでは、小節を追うに従い深みを増していく叙情の見事さが印象的だったし、続くアレグロでは音楽の巨大な歩みが展開されてすばらしいクライマックスが形成された。

 今回が初協演という2人の個性のぶつかりあいが前面に出た感があり、ベートーヴェンのソナタは、こういう演奏でこそ、いっそう面白くなる。
 ただ客席最後部下手側で聴いた場合、ピアノもチェロもかなり響いて定位感が失われ、大味なイメージになってしまう。演奏全体に凝縮力が不足しているようにも感じられたのは、多分そのためだろう。

2007・5・26(土)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場コンサートホール  2時

 チャイコフスキー・プロで、「胡桃割人形」第2幕のハイライトと第4交響曲。こういうレパートリーは、流石にテミルカーノフの本領発揮だ。
 前者でのチャイコフスキーのオーケストレーションは実に名人芸の域に達していると思うが、それをテミルカーノフは実に見事に響かせている。冒頭部分など、まさにこれこそがロシアの華麗な色彩に満たされた音楽だとうっとりさせられたほどである。

 「4番」では、ファンファーレの中の一つの音符を少し引きずるようにして変化を持たせており、単調な音の繰り返しを避けているところなど、流石の練達の業である。第3楽章での各セクションの対比の際立たせ方もさすがの手腕。フィナーレは壮烈に速いテンポで押した。読売日響の第1ヴァイオリンの鳴りは、とりわけ見事。うしろのプルトの方が強大な音を出しているような感もあったが━━。

2007・5・25(金)下野竜也指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    すみだトリフォニーホール  7時15分

 珍しいプログラムが組まれた。オッフェンバック(実際にはカール・ビンダー編曲の)「天国と地獄」序曲は、その性格からして定期公演で取り上げられるのが珍しい。物凄く音が厚く、あたかもグランドオペラの快活な序曲といった調子で演奏されたが、それが3階バルコン席で聴いたためなのかどうか。
 ラインベルガーの「オルガン協奏曲第2番」(ソロは小林英之)もきわめて重厚に聞こえた。休憩後のラフの交響曲は異なる印象を得たから、それらの音の厚さは意図されたものだったと思うことにしよう。なお、後者はあまり面白くない曲だ。

 ヨアヒム・ラフの交響曲第5番「レノーレ」(全曲は日本初演)は聴きものであった。
 1872年の作といわれるが、作風からすると前期ロマン派のカラーが著しく、ウェーバーやメンデルスゾーンの影響がそこここに感じられる。ただ、旋律は豊富にあるが、どれもそれほど耳を惹きつけるほどのものではない。第2楽章の旋律もはなはだ不器用なものだろう。
 第3楽章の行進曲は軽やかで面白いが、中間部には「夏の夜の夢」を思い出させる箇所もある。第4楽章には怪奇な、幻想的な迫力がある。

 この一見とらえどころのない長大な作品(50分以上かかる)をうまくまとめた下野の力量はなかなかのものだ。行進曲での漸弱の呼吸は見事だし、第4楽章でのメリハリも充分。最後のコラールに入る前、もう少し絶望に突き進むような激しい盛り上がりがあればもっと劇的だろうし、最後の和音で木管のピッチが合っていればもう少し感動的になったろう。

2007・5・20(日)コンヴィチュニー演出の「タンホイザー」

   ザクセン・ドレスデン州立歌劇場  6時

 パリからミュンヘンを経て、昼頃ドレスデンに入る。
 貰ったプレス席が1RANG(2階)2列目20という甚だ見易い位置で、しかも後が壁で右側には少し柱が飛び出しており、身動きも自由というありがたい状況だったため、前夜のような疲れは全く感じずに楽しめた。

 指揮はクリストフ・プリックという人、あまり要領の良くない、面白くない指揮者だったが、オーケストラをあれだけバランスよく、しかも豊かな音を保って鳴らしていたのは、やはり力量もある人なのだろう。
 ここのオーケストラは、指揮者がだれだろうと味のある音楽を演奏できるというのは先刻承知だが、しかしシュトラウス・ターゲの時には、結構うるさい音になっていた時もあったのである。それにしても今日は━━なんというオーケストラの美しさ。和音とその響きは、陶酔的な美しさと温かさだ。

 ドレスデン・オペラが、「タンホイザー」を「ドレスデン版」でなく「パリ版」で上演するなどということがあったらお笑いだろうな、と思って観始めたら、何と本当にそのパリ版だった。第2幕、第3幕も同様である。ただし第2幕ではワルターの歌が復活されていた(これはおそらく演出上の要求によるものではないかと思う)。パリ版基本、一部ドレスデン版使用、というところだ。

 演出はペーター・コンヴィチュニーだが、10年前のものなので、比較的音楽を重要視しているタイプのように見える。ガタガタしている部分も少なくないが、本人が現場にいない所為もあるだろう。
 「バッカナール」の部分は「パルジファル」の花園の場の先取りのような形で、従ってタンホイザーはパルジファルに成り損なった男ということになるか。
 第1幕での羊飼いは羽を生やした天使。歌手たちはタンホイザーが帰還したことを実に単純に素直に喜び、踊り出すほどで、このあたり少々コミカルなタッチだ。
 彼らは第2幕でも領主から救済策を告げられるとそれに同調し、むしろタンホイザーを激励するのである。領主自身も、怒りを覚えながらもカタンホイザーに深い友情を示すのを隠さない。めずらしい解釈だろう。

 特筆すべきは、ヴォルフラムが並み外れて重要な存在になっていることだ。これは、ほどんどタンホイザー━━エリーザベト━━ヴォルフラムという、三角関係の人物ドラマといってもいい。
 ヴォルフラムは、第1幕でエリーザベトのことを語る時からすでに内心の感情を外に表してしまう。また第3幕ではエリーザベトを抱きかかえ、その死を看取りながら「夕星の歌」を歌うのである。後者はかなり衝撃的だが、しかし音楽を少しも邪魔していないので感動も一入だ。
 第2幕最初の二重唱の中に「ヴォルフラムの落胆のことば」を復活させているのは、その点でも全く当を得ていることであり、我が意を得たという思いである。
 ただ問題は、ここでのヴォルフラムの演技には高貴さよりも人間的な苦悩が浮き彫りにされており、したがって少々優柔不断な男に見えてしまうことだろう。

 歌合戦はむしろ賑やかなパーティだ。歌手が歌う時、周囲の女性たちが手を彼に向かって高くかざして支持を表明するのが美しい。この辺りはレジー・テアター系演出家と思えぬほどである。群衆の演技は、非常に細かい。
 アンサンブルでは、タンホイザーのパートはほぼノーカットで歌われるが、合唱の一部は省略されて、彼のパートを浮き出させるようにしてある。しかし題名役のジョン・フレデリック・ウェストの化物のような声量を以てすれば、その必要は全くないように思えた。
 最後のアンサンブルは、珍しくほぼノーカットで演奏されている。

 第3幕では、ヴェーヌスはボトル片手にグデングデンになって出現、最後には彼女がエリーザベトの亡骸を抱き、タンホイザーと3人で舞台中央に動かなくなる。合唱とともに背景の空がブルーに染まるのはいいが、突然下手舞台上方に大きなヒマワリの花が出現するのは何ともいただけなく、観客にも失笑が起こるし、折角の感動的な幕切れで画竜点睛を欠くといったものだ。最後に逃げを打つコンヴィチュニーの悪い癖が、ここでも出てしまっている。

 ヴェーヌスはガブリエーレ・シュナウト、声は勿論充分だがその動きの鈍い体躯はヴェーヌスとは思えぬ。エリーザベトのアンネ・シュヴァンネヴィルムスは清純な雰囲気ではあるものの、性格表現に今一つ。ただし、裏切られて大人になるあたりの変化には見るべきものがあった。ヴォルフラムはマーカス・バッター、領主はラインハルト・ドルン。
 総じて、この作品に新しいものを見出だせるには充分の上演であったといえよう。これで、疲れも見事に吹き飛んだ。

2007・5・19(土)ゲルギエフ指揮の「ローエングリン」

   パリ・バスティーユ・オペラ  7時

 ウィーンからフランクフルトを経て、パリに午後入る。時差ボケは未だ全く解消できず、しかも早起きせねば移動できぬとあって、転戦の苦しさがこの日クライマックス。しかも7時開演が30分も遅れ(おそらくまたゲルギエフの所為だろう)終演が0時を過ぎるという状態だから、踏んだり蹴ったりである。

 こちらのコンディションが悪い所為だけでもなかろうと思うが、ゲルギエフの指揮がどうもワーグナーの音楽としてのフォーカスの定まらないものに感じられる。
 第1幕と第2幕のそれぞれ最後の盛り上げ方も力感充分だったし、あえて欠点と言うべきものはないのだが、何か全貌を掴みかねる大きな壁画を見ているような感覚になってしまうのである。この作品から新しいものを発見できるという水準には程遠かった。版は慣習的なカットを大量に含んだもので、これも新味がない。

 しかし、歌手陣は粒が揃っていた。題名役のベン・ヘップナーが大音声を聴かせて白鳥の騎士の威力を誇示する一方、オルトルート役のヴァルトラウト・マイヤーは声こそ往年の力を失っているものの、見事な性格表現を聴かせた。
 また、エルザのミレイユ・ドルンシュは安定しており、テルラムントのジャン=フィリップ・ラフォンも渋い表現。伝令にエフゲニー・ニキーチンが出て、これは儲け役でもあるが、大きな拍手を浴びていた。

 演出はロバート・カーセン。これは、ポール・スタインバーグの舞台装置とともに、予想外にストレート路線を採っていた。「タンホイザー」のような読み替えもなく、ローエングリンはまさしく騎士の姿で白鳥と一緒に登場する。それだけが超自然的な存在で、他の人物は現代人の姿で登場する。
 休憩時間を含めて幕は開いたまま。廃墟となった建物の内部でドラマが進行する。奥の大きな門は最初のうちは開いていて、そこからこれも荒廃した港のような光景が見える。
 すべてはモノクロームの冷たく暗い色に支配されているが、その中にたった2回だけ美しい色彩が現われるのは、奥の大扉が開いてローエングリンと白鳥が登場する時と、騎士が去って行く時だ。そこでは黄金色に輝く花園や林や小川が見えるのだが、かなりお伽話的なイメージであり、むしろパロディ的にも見える。

 ブラバントの群衆は打ち拉がれた難民という体で、それでも何かを待ち続けている様子。前奏曲の「グラールの動機」の箇所で、動かぬ彼らに黄金色の光が当てられる瞬間はかなりドラマティックだ。
 この無気力な連中が第3幕では隠してあった武器を取り出して戦の支度をするわけだが、それはまるで「七人の侍」の農民の立場を思い出させた。ザクセン軍側は国王と伝令を含めて数人程度、軍服に身を固めている。

 第2幕終り近く、ローエングリンが「エルザ!」と叫んで必死に辺りを見回し、群衆がぱっと割れると、奥の大扉に助けを呼ぶようにすがっているエルザの姿が浮かび上がる。音楽がここで突然暗くなるのと併せ、普通の演出よりも劇的な衝撃を観客に与えるだろう。この場面を中心に、主人公4人の構図はすこぶる巧妙で、ト書よりもはるかに劇的だ。
 ただし幕切れの「禁問の動機」が轟く瞬間に両側のバルコニー(それも壊れかけた)にそれぞれオルトルートとエルザが対峙するのは、あまり効果的とは思えぬ。

 第3幕、テルラムントが剣をかざして乗り込んでくる場面は、おそろしく間の抜けたタイミングで、ここは明らかに手違いだろう。白鳥が少年に変わる場面は一度大戸が閉じ、それから少し隙間が開いて少年が入ってくるという、あまり劇的感のない手法だ。
 観客の拍手が最も大きかったのは、やはりマイヤーに対してである。ニキーチンもなかなかの好評のようだ。

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