2016-09

2016・9・25(日)ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 懐かしやゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、読響には4年ぶりの登場。85歳だが指揮台に椅子は使わず、足こそ少し不自由になった様子ながら、しっかりした指揮姿である。
 今回は読響を3回指揮するが、何と3日連続で2種のプログラムを振るという不思議なスケジュールだ。今日はチャイコフスキーの「3大バレエ曲」抜粋のプログラム2日目。

 「3大」と言っても、チャイコフスキーはもともと3つしかバレエ曲を書いていないのだからおかしい、などという揚げ足取りは古くから使われて来たこと。とにかく今日は、まず「白鳥の湖」から「序奏」「ワルツ」「4羽の白鳥の踊り」「ハンガリーの踊り」「スペインの踊り」「終曲」。次に「眠りの森の美女」から「ワルツ」「パノラマ」「アダージョ」。そして休憩後に「くるみ割り人形」第2幕全曲━━というプログラムである。
 コンサートマスターは小森谷巧。

 驚かされたのは、全作品が滔々たるゆったりしたテンポで、しかも━━極端に言えばだが━━どの作品も最強奏で轟々と鳴り響いたこと。
 テンポの遅さは際立っており、「くるみ割り人形」の第2幕など、普通ならせいぜい40~45分で演奏されるはずだが、今日は57分かかっていた(それほど曲間に休みをおいたわけではない)。バレエ音楽というより、シンフォニーといった演奏で、あたかも重戦車のごときどっしりした構築であった。

 しかもその音の強大さたるや凄まじく、読響も得意の馬力を全開し、最初から最後まで咆哮した。チャイコフスキーの洗練されたリリシズムなどは木の葉の如く吹き飛ばされ、メルヘン・バレエの音楽というよりは、彼の幻想序曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」のダンテの地獄の場さながらの物凄さになっていた。いかにチャイコフスキー愛好者の私でも、これには些か辟易させられ、へとへとに疲れてしまったというのが本音である━━。

 解釈(?)で興味を惹いたのは、「白鳥の湖」の終曲、ハープと弦楽器が浄化されたような雰囲気で次第に上昇して行く個所で、テンポを半分に落して演奏して行ったこと。これは如何にも物々し過ぎて共感できないけれども、ロジェストヴェンスキーがやっていることだから、もしかしたら何か根拠があるのかもしれない。彼の指揮でだったかどうか忘れたが、昔こういう演奏を一度聴いたような記憶がある。

2016・9・24(土)スダーン指揮東京交響楽団「ファウストの劫罰」

      サントリーホール  6時

 ベルリオーズの名作、劇的物語「ファウストの劫罰」。2週間前の高関健と東京シティ・フィルの演奏に続く「9月の競演」の第2陣、

 桂冠指揮者ユベール・スダーンと東京交響楽団の定期公演。協演は、マイケル・スパイアーズ(ファウスト)、ミハイル・ペトレンコ(メフィストフェレス)、ソフィー・コッシュ(マルグリート)、北川辰彦(ブランデル)、東響コーラス、東京少年少女合唱隊。コンサートマスターは水谷晃。

 演奏時間は、第1部が約59分、第2部が約72分というところだったから、スダーンのテンポはやや遅めだったと言えるだろう。
 だがスダーンらしく、音のつくりは細部まで疎かにしない。彼が音楽監督を務めていた時期のような完璧な音の均衡は弱まってはいるけれど、ベルリオーズの管弦楽法の面白さは、随所で再現されていた。普通なら合唱の中に埋没してしまう管楽器群の細かい動きが、均衡を保った響きの中ではっきりと浮かび上がって聞こえていたのは、私としては初めての体験である。これはもちろん、東響の演奏の良さによるところも大きいのだが。

 スダーンのベルリオーズは、「不意打ちと情熱の爆発」ではなく、この作曲家の叙情的で端整な面に光を当てたものだろう。
 つまり、フランス音楽史上の異端児ではなく、ドイツ・ロマンティシズムの模倣者でもなく、のちにドビュッシーの印象主義へ移り変わって行くフランス・ロマンティシズムの流れの中に、この作曲家を位置づけていたのではなかろうか? マルグリートの2つの歌━━「トゥーレの王」と「ロマンス」でのオーケストラの響きを聴いていると、そういう思いも浮かんで来る。
 こうなると、同じベルリオーズの「キリストの幼時」を、もしスダーンが指揮したらどんなものになるか、聴いてみたい気がする。

 主役歌手陣は好調。ミハイル・ペトレンコは、いつからスキンヘッドになったのかしらん? 昔は舞台での挙止もちょっと陰気な雰囲気だったのに、近年は明るくなり、今日はえらくハイで陽気な感じだった。身をよじらせておどけて歌い、ひとりだけ演技を行い、━━悪魔としてよりも「道化的な案内人」のイメージが先行したか。声質も含め、もう少し悪役的な凄味があったほうがドラマティックになると思うのだが・・・・。

 ファウスト役のスパイアーズは、ソリスト陣の中でただ一人、暗譜で歌っていたところを見ると、この役は得意のレパートリーなのだろう。骨太なテナーだ。だがファウストとしては、失礼ながら、もう少し知的な雰囲気が欲しいのだけれど・・・・。

 コッシュは、実力から言っても充分だ。澄んだ声で美しく、やや抑制気味に歌っていたが、この作品でのマルグリートは、こういう表現が的を射ているだろう。
 ともあれ、この主役3人の粒のそろった歌唱は満足すべきものだった。

 合唱。P席に配置された東響コーラス(安藤常光合唱指揮)が、すべて暗譜で歌っていたのはえらいものである。バランスもいいし、ここのコーラスは昔から水準が高い。また、東京少年少女合唱隊(長谷川久恵合唱指揮)がステージ上の上手側に板付で配置されていたのは好ましい。これを客席に持って来たりすると、最後の浄化された場面で聴衆の注意力を散漫にしてしまうからである。
  音楽の友11月号 Concert Reviews

2016・9・23(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  7時

 名誉音楽監督チョン・ミョンフンが指揮するベートーヴェン・プロ。
 前半にチョ・ソンジンをソリストに迎えて「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」、後半に「田園交響曲」。そしてアンコールに、日曜日のコンサートで演奏する「第7交響曲」の第4楽章。コンサートマスターは三浦章宏。

 チョ・ソンジンの若々しい「皇帝」が、力に満ちて爽やかだ。冒頭のカデンツァからして音色と表情に輝きがある。全曲、充分に躍動的で溌剌として瑞々しい。ただそれでも、どちらかといえば叙情的なイメージを感じさせる演奏━━という印象が残る。
 40年ほど前、小澤征爾の指揮とエッシェンバッハのソロで「皇帝」のレコードが出た時、豪壮さよりも端整さに重点が置かれた演奏が、「皇帝」というより「皇太子」というイメージだ、などと評されたことがあるが、このチョ・ソンジンの演奏も、どちらかというとそれに共通する色合いがあるかもしれない。
 ソロ・アンコールで弾いた「悲愴ソナタ」の第2楽章なども、ベートーヴェンのカンタービレの美しさを愛でるような演奏だった。

 チョン・ミョンフンの指揮も、東京フィルを温かい音色で、流れるように、伸びやかに響かせた。随所でホルンが強調されるのも面白く聴いた。とはいえ、第2楽章の最後、2本のホルンの長い持続音の上にピアノが最弱音で第3楽章の主題を予告する個所で、チョ・ソンジンはテンポを極度に落して音楽の流れを矯めた(これだけテンポを遅くしたピアニストは、私の聴いた範囲では41年前の荒憲一以来である)が、チョン・ミョンフンがその2小節目で公然とホルンに息継ぎさせたのにはちょっと驚いた。これは、このブリッジ・パッセージが本来備えている神秘性を、無惨にも失わせるものではなかったか?

 「田園」は弦14型だったが、ホルンは4本に倍管されていて、この曲でもホルンが強調されていたのが目立つ。アンサンブルはかなり「自由」な趣である。
 第4~5楽章に全体のクライマックスが置かれたが、とりわけ嵐が去り、日の光が雲間から指しはじめるオーボエのフレーズが醸し出す安息感は、今日は実に見事なものがあった。第5楽章の第1ヴァイオリンによる第1主題がこれほどレガートに安息感にあふれて「回復された平和」を歌い上げていた例も稀ではなかろうか。
 第2楽章でソリを受け持つチェロが、スコアに指定された2本でなく4本にされていたのは、14型編成の弦楽器群における音量のバランスを取る方法として的確なものだろう。

2016・9・22(木)横山幸雄のベートーヴェン・ピアノ協奏曲全曲演奏会

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲5曲を、番号順に、「第2番」以降は休憩を20~40分ずつ入れながら演奏。「第3番」以降を聴く。

 こうして並べて聴いてみると、ベートーヴェンのピアノ協奏曲が、作曲時期を追うごとにスケール感を増し、かつヴィルトゥオーゾ性を強めて行った様子が改めて実感できるというものだ。
 それにしても、横山幸雄教授の指の回りの何と速いこと。たとえば「第4番」第1楽章のカデンツァにおけるように、完璧に均一化された音が流麗な曲線を描くさまなど、全く見事なものである。

 ただ、最後の「皇帝」に入ってからは、第1楽章の中ほどで少し集中力が希薄になったのか、思わぬ出来事が起こったりしたが・・・・。
 こういう大プロジェクトでは、最後の曲がえてして鬼門になるものだ。かの大歌手ヘルマン・プライでさえ、かつて東京でシューベルトの歌曲集の大ツィクルス(これは感動的だった!)をすべて暗譜で歌った時、文字通り最後の最後、「白鳥の歌」の最後の1曲、終りまであと数十小節という個所で突然集中力が途切れ、歌が止まってしまったことがあったほどだから。

 協演したのは、「トリトン晴れた海のオーケストラ」(第一生命ホールを拠点とする室内オーケストラ)で、矢部達哉をリーダーとして都響はじめ各楽団の腕利きメンバーが集まった楽団である。その上手いこと、巧いこと。
 コンサートマスター矢部のリードで演奏しているのだが、あるパートの音を漸強で膨らませたり、デュナミークの変化を強調したりといったような精妙な趣向は、誰が指示してつくっているのか、聞きたい気がする。なまじ変な(失礼)指揮者が振るより、楽員がそれぞれ自発性を以って演奏したほうがよほどいい演奏になる、という好例だろう。
 終演は6時半過ぎになった。

2016・9・20(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団 定期B

     サントリーホール  7時

 モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」というシンプルなプログラム。ソリストはオーギュスタン・デュメイ、コンサートマスターは山本友重。
 デュメイを、彼が音楽監督を務める関西フィル以外のオーケストラで、コンチェルトのソリストとして聴くのは久しぶりである。

 そのデュメイは、雲つくような長身を翻しつつ、豪快に弾く。
 演奏の前に、手にしていたハンカチをクシャクシャのまま指揮台の傍に投げ捨て(乱雑!)、第1楽章が終ると無造作に床から拾い上げ、それで慌しく楽器を拭き、ついでに顔まで拭き、また投げ捨て、終ると拾わずに引っ込んでしまう・・・・という具合だ。音楽と関係ないじゃないか、と言われそうだが、実はその行動が演奏の雰囲気と、どういうわけかぴたりと合致していて、笑いを誘われるのである。
 演奏が乱雑だと言っているわけではない。だが、第1楽章の頭など、まさにエイヤと飛び込むような弾き方だったし、全体にかなり野武士的な、骨太な演奏で押し切ったのは確かだろう。

 こういう演奏のモーツァルトはあまり聞いたことがないけれども、この曲を一般に言われるようなギャラント・スタイルから解放し、ヴィヴィッドで剛直でダイナミックな要素を掘り起こしてみせるような演奏も、なかなか面白い。
 もちろんデュメイの演奏はそういう力任せの弾き方だけに終始しているのではない。やや武骨ながらも、美しい「歌」を持っていることには間違いないのである。
 ━━そのデュメイのソロを受けてかどうかは判らないが、インバルと都響の演奏も、いつもに似合わず、出だしからして妙に荒っぽく、オヤオヤと思わせられるものだった。

 しかし、後半のショスタコーヴィチの「8番」は、がっちりと凝縮した音の構築、速めのテンポによる強靭な推進力など、まさにいつものインバルと都響のそれである。
 第1楽章がこれほど求心性の強い演奏で聴かれた例は、それほど多くないだろう。第2楽章は「アレグレット」ではあるが、アジタートの要素がむしろ強い。特徴的だったのは第3楽章で、「アレグロ・ノン・トロッポ」の「ノン・トロッポ」を切り捨てた激しい驀進が息を呑ませる。その猛速の中で、ヴィオラもトランペットも、ぎりぎり踏み止まって闘った。

 ただ、そういう起伏の激しい演奏であっても、決して所謂「狂気」に陥らず、常に強い自己抑制力と、厳しい形式感を失わないのが、インバルのインバルたるところではなかろうか。全曲冒頭の強靭な低弦の響きから、全曲最後の消え入るような安息の響きまで、交響曲全体の構築上の均衡は、完璧に保たれていた。

2016・9・19(月)あいちトリエンナーレ モーツァルト「魔笛」

    愛知県芸術劇場大ホール  3時

 あいちトリエンナーレ制作になるモーツァルトの「魔笛」(2日目)。勅使川原三郎の演出(美術・衣装・照明を含む)が話題。

 演奏は、ガエターノ・デスピノーザ指揮の名古屋フィルと愛知県芸術劇場合唱団、妻屋秀和(ザラストロ)、高橋維(夜の女王)、鈴木准(タミーノ)、森谷真理(パミーナ)、宮本益光(パパゲーノ)、醍醐園佳(パパゲーナ)、青柳素晴(モノスタトス)、小森輝彦(弁者)ほかという錚々たる顔ぶれ。東京バレエ団および佐藤利穂子(ダンス、ナレーション)も協演していた。

 勅使川原の舞台は予想通り、黒色の背景と白色の照明というシンプルな装置による静的なものだ。もちろんダンスは随所で活用され、大蛇はじめ動物たちも、ダンサーたちにより象徴的に表現される。
 宙に動く3組の「3つの輪」は、演出家によれば「大小さまざまなリング、円という絶対的であり宇宙的でもある完結した造形空間」(演出ノート)だそうだが、しかしそれはもちろん、このオペラの本来の有名なモティーフである「3」とも関連しているのだろう。

 衣装はユニークで、タミーノ、パミーナ、パパゲーノ、パパゲーナを除く魔界(?)の登場者はすべて異形の扮装。こけし人形を模した衣装なども面白い。

 オペラを日本風の舞台にして再創造する手法は、これまでにもいくつか試みられて来ている。大成功を収めた昨年の弥勒忠史演出「メッセニアの神託」はそのベストな例だし、古くは猿之助演出「影のない女」(バイエルン州立歌劇場)、若杉弘制作の「サロメ」(鎌倉芸術館)などもある。
 こういった手法は、ヴォルフガング・ワーグナーやルドルフ・ゼルナーの進言を待つまでもなく、積極的に試みられるべきである。その意味でも、これは有意義な企画だったし、ある部分では成功していた。

 ただ、それがわれわれ観客に舌を巻かせるほど音楽と調和していたかというと、どうも消化不良の感が残っただろう。例えば、ダンスが散発的なものにとどまり、ケレンを求められる「試練の場」ではほとんど活用されず、曖昧なものになっていたのは、もったいない話だ。

 だがそれ以上に、今回はドイツ語の歌唱を採ったものの、台詞をすべてカットし、それに代わるものとして、その都度日本語による説明的ナレーションを入れ、その間、登場人物たちにはパントマイムで演技をやらせたのが、何ともチグハグな結果を生んだことが問題だ。
 このナレーションのスタイルは、私も含め、ラジオ放送が昔よく使った手である。しかしこれは、ラジオでは効果的だが、ナマの舞台の上演では、視覚が伴うだけに、むしろオペラとしての流れが阻害されるような感じになってしまうのである。

 デスピノーザの指揮が何とも坦々としていて、モーツァルトの音楽が持つ強力な流れと、自然な昂揚感を生かせずに終ったのは、あるいはその影響によるのではなかろうか。
 「魔笛」は、音楽━━台詞━━音楽というジンクシュピール(歌芝居)として、全体が有機的な繋がりと流れをもつ構成の作品だ。ところが今回のプロダクションでは、それが日本語ナレーションとパントマイムにより分断されたために、彼のような外国人指揮者はその日本語のテンポをうまく把握できず(しかもそのナレーションが常に同一テンポで進められるものだから)音楽を大きな流れとして盛り上げるまでに行かなかったのではないかと思われる。

 歌手陣はみんなよくやっていた。鈴木准は当たり役だし、宮本益光は「独りで懸命に舞台を盛り上げ」ていた。森谷と高橋は、役柄を入れ替わった方がいいのではないかと思うところも少なくなかったが・・・・。妻屋秀和も貫録の低音で聴かせていた。
 醍醐園佳が溌剌たるところを見せ、聴かせたのが印象に残る。特に彼女と宮本の2人ともが「パパパパパ・・・・」を明晰に、弾むように歌ってくれたのがありがたい。歌い手さんの中には時々、この唇の弾みがままならぬ人もおられるので・・・・。

 台詞がないので、休憩1回を含め、5時50分くらいには演奏が終ってしまった。8時前の新幹線で帰京。名古屋はただの曇だったのに、東京は土砂降りである。

2016・9・17(土)東京二期会「トリスタンとイゾルデ」3日目

    (東京文化会館大ホール 2時)

 ヴィリー・デッカーの演出、ヴォルフガング・グスマンの舞台美術によるこのプロダクションを、はじめライプツィヒ歌劇場での上演記録映像で観た時には、正直、えらく単調で、さっぱり面白くない演出のように思えたものである。だが、空間的な拡がりのあるナマの舞台で観てみると、それなりのまとまりと雰囲気があることがわかる。

 先日のGPで観た時の印象と同様、キーワードは、愛し合う2人にとっての、出口のない世界、孤独で荒涼とした海、2人にとって唯一許された世界であるか細い小舟━━と言っていいだろう。
 特に、頼りない小舟に乗って2人だけの海に漕ぎ出すという光景で表わされる「愛の世界」は、印象的なものがある。


オール
福井敬(トリスタン)と池田香織(イゾルデ)

 ユニークな手法といえば、第2幕の幕切れで2人が自ら短剣で眼を切り、おぞましい「明るい昼」へ永遠の別れを告げるという設定(これは少なからず衝撃的な設定だ)がまずひとつ。

銃
自らの眼を傷つけるトリスタン
写真提供 東京二期会 撮影©三枝近志


 その他、第3幕では、クルヴェナールがマルケ王の前で自ら死を選ぶという設定が採られる。彼が王の軍勢と戦うのは単に彼の幻想に過ぎぬという解釈は、バイロイトのマルターラー演出をはじめ最近は増えているようだが、これも同様の解釈である。
 ただし、ラストシーンの「イゾルデの愛の死」は、すでに彼女の死後の世界での出来事であるという設定だそうだが、どうも前後の流れからして唐突で解り難い。イゾルデの眼がなぜ突然また見えるようになったのか、なぜ彼女が毅然と起き上がり、槍を持ったブリュンヒルデさながらにオールを携えて屹立するのか、などと訝るほうが先に立ってしまうかもしれない。

 今回の歌手陣の中で、驚異的な素晴らしさを示した人は、イゾルデの池田香織である。これまで彼女のイゾルデは断片的にいくつか聞いたことはあったが、それらとは比較にならぬ成長ぶりで、この役のひたむきな性格を見事に表現していた。
 特に(しばらく休んでから再登場した)第3幕後半の場面では、第2幕までよりも声が澄んだような印象があり、「愛の死」の最後までを安定感豊かに歌い切った。歓びと哀しみとを歌い分ける陰翳ある性格表現という点は、これから身について来るものだろう。邦人歌手に優れたイゾルデが出現したことを慶びたい。

 その一方で惜しかったのは、トリスタンの福井敬。先週の第1回上演では最後まで朗々と押し切ったということだが、今日は体調不良とのことで、第2幕の愛の二重唱のあたりからすでに不安を感じさせる出来であり、第3幕の前では大野徹也公演監督が観客に了承を求めるという事態になった(今回のトリスタンは2人とも受難だったことになる)。
 第3幕でもハラハラさせられることが何度かあったが、幸いにもここは「瀕死のトリスタン」役とあって、辛うじて最後までアンダーを立てずに押し切ったのは幸いだった。終演後の楽屋で会った時には、話す声が半ばしわがれていて、ぎょっとさせられたものである。強靭な声の持主にも、たまにはこういうことがあるのか、と。

 ちなみに、トリスタンのアンダーは菅野敦で、彼は先日、もう一つの組のGPで、ブライアン・レジスターが演技のみで歌わなかった時、舞台袖に立って終始トリスタンを歌っていた人だ。なかなかいい歌手とお見受けした。

 今回のデッカ―演出では、題名役のこの2人が比較的動きの少ない演技であるのとは対照的に、脇役たちは終始オタオタし、不必要とまで思われるほどに慌ただしく動き回る、という設定になっていた。ブランゲーネは山下牧子、クルヴェナールは友清崇、マルケ王は小鉄和広が歌い演じ、歌唱面では、もちろん、みんな優れたものを示していた。

 その中で私は、山下牧子の演技に賛辞を贈り、勝手に「最優秀演技賞」を贈呈したい。第1幕の幕切れ、「愛の薬」を飲んだ後のトリスタンとイゾルデを見て、どうしようもないほどおろおろし、取り乱し、やがて絶望感に陥って行く様子をこれだけ見事に、人間味豊かに表現したブランゲーネを、私はこれまで観たことがない。こういう脇役こそが、舞台を引き締める役割を果たすのである。

 指揮とオーケストラは、ヘスス・ロペス=コボス指揮の読売日本交響楽団。日本のオペラ上演としては、あの「パルジファル」での演奏に次ぐ好演である。おそらく今日、ピットに入って最も充実した演奏を聴かせてくれるのは、わが国ではこのオーケストラだといっていいだろう。第3幕前半では少々不安定なところもあったが、全体としては満足できる演奏である。
 なお、第2幕冒頭のホルン(狩の角笛)は、すこぶる快調。遠近感もよく出ていて、遠く音が消えてオーケストラのゆらめきに引き継がれるあたりの音のバランスなど、絶品だった。

 ロペス=コボスは、ワーグナー指揮者として合っているかどうかは一概に言い難く、特に第2幕でのイゾルデのモノローグや二重唱、同幕終結近くの2人の「昼を呪い、夜に憧れる」くだりなどでは、もっと音楽のうねりが欲しかった。だが、少なくとも29年前にこのホールで行われたベルリン・ドイツオペラ公演の「トンネル・リング」で指揮した時よりは、はるかに良かったと言わねばなるまい。

 最後に、字幕。製作としてクレジットされている方をよく存じ上げているので、あまりずけずけ言い難いのだが、文字数も多く、文体も些か不自然で、ワーグナーの音楽の雰囲気と合わぬところが多い。「薬」を「愛の妙薬」という表現も奇怪だろう(ドニゼッティじゃあるまいし、ワグネリアンはこの作品ではそういう言葉は使いません)。

 30分の休憩2回を含み、6時45分終演。
 折角のいい内容だったのから、もう少しお客さんが入って欲しかった。「トリスタンとイゾルデ」は、ワーグナーの最大傑作であり、あらゆるオペラの中でも屈指の名作なのである。

(付)夜のとばり様 そこのクルヴェナールの動き、私も同感でしたよ。何をオタオタしながら見ているんだ、さっさと手助けしてやればいいじゃないか、と。ああいう演出を観ると、ちょっとやきもきしますね。、

2016・9・16(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  7時

 先週のサントリーホール定期でR・シュトラウスの大曲を2曲演奏した上岡と新日本フィル(コンサートマスターは崔文洙)は、こちら本拠地ホールの定期ではがらりと趣向を変えて、モーツァルトの「交響曲第33番」と「ピアノ協奏曲第27番」、ブラームスの原曲をシェーンベルクが管弦楽に編曲した「ピアノ四重奏曲第1番」を演奏した。

 前半での2曲のモーツァルトは、どちらかといえば優雅で繊細な演奏に聞こえたが、これはこの演奏スタイルには、ホールの空間があまりに大きすぎたせいかもしれない。むしろ最弱音もホールの隅々までよく響くサントリーホールで演奏された方が、この緻密で表情に富んだ、しかも軽やかなオーケストラの音色が生きたのではないかと思う。

 協奏曲ではアンヌ・ケフェレックがソロを弾いてくれたが、彼女のピアノについても同様、ささやくような美しさと、音楽を愛でる優しさに富んだ演奏が、それに相応しく充分にホールを満たすことができなかったのは、些か惜しまれる。

 後半のブラームス~シェーンベルクは、打楽器を含めた大編成ゆえに、その重量感あふれる演奏はホールに轟き渡った。この編曲版は世評が高いわりに、私はどうも弦の響きに今一つ不満を感じないではいられないのだが━━。それにしても、ブラームスへの敬意を前面に押し出し、自らの嗜好を抑えに抑えていたシェーンベルクが、終楽章に至ってついに本性を現す様子は、何度聴いても面白い。
 上岡と新日本フィルも、渋い音色ながら、この精緻なつくりの作品を躍動的に演奏してくれた。アンサンブルの緻密さの点では本来もう少し徹底したかったのではないかと想像されるが、それは明日(2日目)の演奏で実現される類のものだろう。

 今日もまたアンコールの演奏があり、ブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」が変幻自在な表情で披露されたが、これも前回の「サロメの7つのヴェールの踊り」と同様、メイン・プロで聴かせた芸風についての良き「補足」的存在となった。

2016・9・15(木)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団定期A

      東京文化会館大ホール  7時

 「インバル80歳記念/都響デビュー25周年記念」と銘打たれた9月の3つの定期。先週の「ザ・グレイト」は壮大な倍管編成で独立独歩の芸風を誇示した、という噂だが、それは聴けなかった。

 今日のプログラムは、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはアンナ・ヴィニツカヤ)、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」。コンサートマスターは矢部達哉。

 1曲目は、強面インバルが「ルスラン」を振ればこうなるだろう、と予想した通りの演奏。ヴィオラとチェロ(再現部ではチェロのみ)による第2主題(カンタービレ)の2回目を最弱音に落とすという珍しい解釈を行なった以外は、予想通りコワモテのストレートな指揮である。厳めしくて立派な「ルスランとリュドミラ」序曲ではあったが、面白さはあまり感じられぬ。

 会場を温めてくれたのは、やはり次に登場したアンナ・ヴィニツカヤだった。美しく明晰な、抜けのよい音色で、名人主義的なプロコフィエフのピアノパートを、攻撃的な演奏にならずに、爽やかに聴かせてくれた。
 第1楽章後半の長大極まるカデンツァ━━ここでの作曲者は、一緒にいるオーケストラのことなど完全に忘れてしまったような様子を見せる━━では、彼女の抒情性のある音色と闊達な躍動感がほどよく調和していたように思う。
 休憩で客席から出る時、だれかが後方で「プロコフィエフにしちゃ線が細いよ」と言っている声が聞こえたが、プロコフィエフならいつも野性的で狂暴で猛烈な演奏であるべきだ、ということもなかろう。

 それまでどっしりとした厳格な演奏を続けて来たインバルと都響は、休憩後のバルトークの「管弦楽のための協奏曲」にいたって、まさに彼らの真髄を発揮してくれた。
 全曲をアタッカで演奏して緊張感を持続させ、明晰極まりない音で楽器群の対比を作曲者の狙い通りに浮き彫りにする。原曲の巧みな管弦楽法をこれだけ見事に再現させた演奏をナマで聴けたのは久しぶりだし、この曲がこんなに厳然とした風格を備えているのだということを再認識させる演奏に接したのも久しぶりである。
 インバルと都響、シリアスな作品を手がけた時の演奏は、完全無欠と称してもいいほどだろう。
      ☞モーストリー・クラシック12月号 公演Reviews

2016・9・14(水)「マハゴニー市の興亡」

    KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉 7時

 ベルトルト・ブレヒトとクルト・ヴァイルの有名なオペラだが、今回は歌入りドラマとしての再構成版。
 同劇場芸術監督・白井晃の訳詞・上演台本・演出に、スガダイローの音楽監督とピアノ(編曲も?)、山本耕史、中尾ミエ、上条恒彦、古谷一行、マルシアほかの出演━━という魅力的な顔ぶれによる上演(9月6日~22日)なので、当初予定していたハーゲン・クァルテットの演奏会をもったいなくも棒に振り、横浜まで出かける。

 舞台は大きく手前まで拡げられ、上手と下手の両側には「マハゴニー市民」と称される少なからぬ数の観客が配置される。こういう、緞帳などない演劇の舞台の、何が起こるかと待つ期待感のあふれる劇場の雰囲気が、私はワクワクするほど好きなのだが━━。

 いざ始まってみると、どうも出演者たちのセリフと演技のノリが今一つ。何というか、自然な感興の流れに不足し、台詞回しにしても演技にしてもわざとらしい「つくりもの」のような感じが抜けきれないのである。
 それに加えて閉口したのは、音響の悪さであった。中には本職の歌手(だった人?)もいるにもかかわらず、歌を所謂「咽喉声」で絶叫し、それがひずみのある音のPAで増大される音響の趣味の悪さ。これは、とても耐えきれるものではない。この劇場で観た芝居の中では、何年か前の「スウィニー・トッド」に匹敵する音の酷さとうるささであった。

 それさえなければ、たとえ芝居の出来にあまり満足が行かなくても、終りまでちゃんと楽しませてもらえたであろう。次の機会には、ルフトハンザ機内で貰った耳栓を携えて行き、か弱い耳を守ることにしよう。

2016・9・11(日)愛知祝祭管弦楽団「ラインの黄金」

      愛知県芸術劇場コンサートホール  4時

 1週間前にオーケストラのリハーサルを聴き、本番までには何とかなるだろうと思ったものだが、ここまでになるとは予想していなかった。
 火事場の何とかヂカラ、というけれども、本番になると物凄い力を出すという例は、アマオケにはよくあること。この愛知祝祭管弦楽団も同様で、三澤洋史の指揮のもと、まさに入魂の演奏を聴かせてくれた。

 最大の難所である冒頭の「生成の動機」を吹くホルンが、少し粗かったとはいえ、音を外さずに決まって行ったのが成功の端緒。こうなれば、あとはラインの流れに乗って(?)進むことができるというものだ。
 私の席からは確認できなかったが、弦はもしかして14型基本だったか。しかしコントラバス10本、ハープ6台を揃える本格的な大編成オケを乗せた舞台は、すこぶる壮観である。
 弦(コンサートマスターは高橋広)はあまりガリガリ弾かず、むしろたっぷりと拡がりを感じさせる柔らかい音を豊麗に響かせたのが好ましい。管・打楽器もその均衡の中にあり、ホールを豊かに鳴り響かせるという、スケールの大きな演奏となった。

 三澤洋史の指揮は、坦々としたイン・テンポに徹した感があって、その点ではやや単調に聞こえるところが無くもなかったが、もともと非常に「言葉」の多いこの作品の場合、このようにストレートに、滔々と進む演奏に仕上げた方が聴きやすいかもしれない。「二―ベルハイムへの下降」の場面の音楽など、量感とエネルギー充分なものがあったし、幕切れの「ヴァルハル入城」も、総力を挙げての豪壮な大頂点となっていた。

 それにしても、このアマオケは、なかなか優秀である。
 2005年に「愛知万博祝祭管弦楽団」として発足しマーラーの「5番」を演奏、その後レパートリーによって「マーラープロジェクト名古屋管弦楽団」「ワーグナープロジェクト名古屋管弦楽団」などの名称を使い、2014年に「愛知祝祭管弦楽団」と改称した由。ただし昨年ウィーンのムジークフェラインで演奏会(マーラーの「復活」)をやった際には、「マーラー・フェスティバル・オーケストラ・ジャパン」という名称にしたそうである。
 このうち、「ワーグナープロジェクト」と名乗った2013年に演奏会形式で上演したのが「パルジファル」(私は聴けなかった)で、それがきっかけで「指環」4部作上演の企画が持ち上がり、かくて今回の第1作「ラインの黄金」上演が実現した━━という。
 素晴らしい意欲だ。

 この企画の中心人物は、佐藤悦雄さん。愛知祝祭管弦楽団の団長であり、スタジオ・フォンテーヌ主宰者であり、日本ワーグナー協会員でもある。長身で堂々たる体躯、にこやかで温かい表情、いい低音の声を持っているので、歌い手さん系かと思っていたら、楽器はテューバで、生業は、愛知県警の警部補殿とのこと。何となく感動。そういえば、眼は鋭かった。

 今回の歌手陣は次の通り━━青山貴(ヴォータン)、相可佐代子(フリッカ)、金原聡子(フライア)、滝沢博(ドンナ―)、大久保亮(フロー)、三輪陽子(エルダ)、升島唯博(ローゲ)、長谷川顯(ファーゾルト)、松下雅人(ファーフナー)、大森いちえい(アルベリヒ)、神田豊壽(ミーメ)、大須賀園枝(ヴォークリンデ)、船越亜弥(ヴェルグンデ)、加藤愛(フロスヒルデ)。

 この中では、何といっても青山貴が傑出していた。彼のヴォータンは以前にもびわ湖ホールの「ヴァルキューレ」を堪能させてもらったことがあるが、今回も歌唱の風格と声量は群を抜いた存在だった。
 2人の巨人(長谷川、松下)も貫録を示した。ローゲの升島も、少し線は細かったけれども、演技も含めて、策士たる半神の性格をよく表現していた。
 ただ、女声歌手の中には、現代では流行らないような恐ろしく大きなヴィブラートを使い、物々しく歌う人がいて、その役柄だけが演奏全体の均衡を破る結果になっていたのは惜しまれる。

 演出構成は佐藤美晴。セミ・ステージ形式なので、特に奇抜な手法は使われなかったが、照明(杉浦清数)も含めて基本的に明るく華麗な、「光の子」ヴォータンに相応しい場が創られていた。もちろん、地下の国の場面は光も翳っている。
 オーケストラの後方には、一段高くした舞台が設置され、ソファと譜面台が置かれる。この譜面台は━━私は最近眼鏡が合わないのでよく判らなかったのだが━━古代エッダの宇宙樹をイメージしたデザインだったのか? 
 当然オルガン下の席もステージとして使われ、巨人たちはそこに出没。その両側にはかなり大人数の黒服のグループが終始座っており、彼らはニーベルング族として、ドラマの中で計2回、大きな悲鳴を上げる役割を持つ。

 ラストシーンにおいて巨大なオルガンがヴァルハル城のイメージになることは予想通りだが、ここはもう少しあからさまに照明演出を加えた方が良かったのでは? 美晴さんの言う「宇宙樹ユグドラシル」なり、あるいは「ヴァルハル城」なり「とねりこ」なりのイメージを背景の巨大なオルガンに投影するとか、何かひとつ、ドラマの「核」になるような視覚効果が舞台上に━━オーケストラの他に、である━━欲しかった気もするのだが。
 また、「ヴァルハル入城」の音楽が轟々と鳴り響いているさなかに、ローゲが譜面台を片づけるという動きは、ドラマの意味としては充分理解はできるものの、視覚的にはこの壮大な終結音楽が生み出す興奮を薄めさせるものではなかったろうか。

 ともあれ、アマオケが挑んだ巨作「指環」の第1弾は、華麗な光の中で、大成功を収めた。その意欲と健闘を絶賛したい。来年6月11日には「ヴァルキューレ」を予定しているとのこと。
 「4部作」を始めた以上、4年間これで突進するしかない、というわけで、他の団員さんも「どうなることかと思いますが、こうなった以上は、最後までやるしかありません」と笑っていた。
 大丈夫、やれるでしょう。開演ファンファーレとして今日は「呪いの動機」が吹かれたが(このあたりがいかにもアマオケらしい愉快なシャレである)これが狙い通りのシャレのままでありますように。

 6時40分頃終演。7時49分の「のぞみ」で帰京。往路の新幹線の中で寝冷え(?)したのか、名古屋に着いてからは著しく体調が悪かったが、演奏を聴いているうちに全快してしまった。
     別稿 モーストリー・クラシック12月号

2016・9・10(土)高関健指揮東京シティ・フィル 「ファウストの劫罰」

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が第300回定期公演を迎えた。今日は常任指揮者・高関健の指揮で、ベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」。
 ステージには、西村悟(ファウスト)、福島明也(メフィストフェレス)、林美智子(マルグリート)、北川辰彦(ブランデル)、吉成文乃(天の声)、東京シティ・フィル・コーアと江東少年少女合唱団が並ぶ。コンサートマスターは戸澤哲夫。

「ファウストの劫罰」をナマで聴ける機会は滅多にない。私が聴いたものを振り返ってみても、今世紀になってからは、東京二期会の舞台上演の時のみだ。前世紀(!)には、サイトウ・キネン・フェスティバルでの小澤征爾指揮、ザルツブルク音楽祭でのカンブルラン指揮の、それぞれ舞台上演。その前は━━東京でのレヴァインとMETオーケストラの、遡れば小澤征爾指揮や若杉弘指揮のいずれも演奏会形式上演、という程度だろうか。

 そのレアな「ファウストの劫罰」が、この9月に限っては、東京シティ・フィルのほかに、スダーン指揮東京響(24、25日)でも競演されるという珍しい事態になっている。ここでもまた偶然の「カチ合い」である。不思議なものだ。しかしこの曲は、ベルリオーズの最高傑作だと私は思うし(プレトークで高関さんも同じことを言っていた)昔から好きで好きでたまらない曲だから、何度でも聴きたいほどである。

 さて、その高関健が、精魂こめて取り組んだ「ファウストの劫罰」。彼らしい整然たる構築と、節度と均衡を保ったテンポ及びデュナミークで、極めて密度の高い演奏をつくり出した。シティ・フィルも、文字通り熱演した。冒頭のヴィオラだけはいかにも自信なげで頼りなかったけれど、その個所を除けば、現在のこのオーケストラの100%の力が発揮された演奏ではないかと思う。

 日本勢だけで固めた歌手陣も好演である。ファウストの西村悟は伸びの良い、明るい声で全曲を押し切った。この作品でのファウスト博士は年齢不詳だから、こういう若々しい声でオーケストラの流れの中に身を委ねる解釈も成立するだろう。
 一方、林美智子は、この作品でのマルグリートに相応しく、憂いと悩みとに打ち沈んだ女性の性格を見事に表現していたように感じられる。「トゥーレの王」の最後、言葉が切れ切れになって沈んで行く個所では、あまり「眠り込んでしまう」ように聞こえなかったのだが、これは解釈の違いかもしれない。
 メフィストの福島明也は、後半では凄味を利かせたものの、もう少しこの役柄に相応しい皮肉な闊達さといったものが前面に出せたら、と思う。

 彼らソリストたちに劣らぬ重要な音楽的な演技を必要とされる合唱(東京シティ・フィル・コーア)も力演していた。ただ、第2部の終結個所で2種の主題が組み合わされる部分や、終結近くの悪魔の合唱の部分では、男声パートにもう少し人数が欲しいと感じられたが・・・・。完璧な水準にはかなりの距離があるけれども、曲の良さを失わせぬ出来であったことは確かだろう。

 そして「アーメン・コーラス」では、いかにも酔っぱらった学生たちの野蛮な歌声という性格がよく出ていて、これは上々の出来。ベルリオーズが「なるべく下手糞に、よれよれの声で歌え」と指示したと伝えられるこの個所は、そのいきさつを知らぬ聴き手から「下手な合唱団」と思い込まれるのが嫌ゆえに、崩して歌われることがなかなか無いものだが、今回は敢えてそれに挑んだ勇気を讃えたい(オヤマダアツシさんの解説が、さり気なくそれに触れていた配慮にも感心した)。
 ちなみに、レコードで「思い切り下手に」歌わせているのは、マルケヴィッチ指揮の盤くらいなものだろう。

 東京シティ・フィルの300回記念定期は、このように、熱演を以って成功した。客席もほぼ満杯で、祝着の極みである。今後もこの勢いで続くことを祈りたい。
 なお今回は、抽選(チケットの席番号)で「300回記念のどら焼き」が提供されていた。もちろん、われわれ業者連中が当選するような仕組にはなっていない。

2016・9・9(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 新日本フィルと、この9月から正式に音楽監督となった上岡敏之の定期が、彼の得意とするR・シュトラウスの作品2曲でその幕を開けた。

 演奏されたのは「ツァラトゥストラはかく語りき」と「英雄の生涯」という大曲だが、こういうレパートリーは、上岡独特のサウンドを発揮させるには最適のものだろう。
 事実、その兆しは、曲ごとに、あるいは曲の中で演奏が進むごとに、明確に現われて行った。いわゆる「上岡ぶし」がこの新日本フィルとの演奏において全開するのはもう少し先のことだろうが、今夜の演奏には、明らかにその方向性は示されていただろう。

 「ツァラトゥストラはかく語りき」の劇的な冒頭部分は、思いのほかレガートに、殊更な大芝居的誇張をすることなく開始された。流麗ながら濃厚な、ひとひねりした色合いを備えた響きが、いかにも上岡らしい。全体にゆっくり、たっぷりしたテンポだった点も同様である。
 「科学について」のチェロとコントラバスのピアニッシモが、やっと聞こえるかどうかという最弱音でつくられたのもいつもの彼の流儀だ。ただ、演奏全体という点では、彼としてはむしろストレートな表現の部類に属するものだろう。

 「英雄の生涯」になると、流動性のあるテンポや、長い「間」の採り方、独特のバランスを備えた色彩など、上岡らしい個性が、もう少し強く出て来る。
 ここでも冒頭の「英雄の主題」は、あまり物々しくない流麗さで開始された。一見、穏やかで優しく、ただし一癖ある複雑な性格の「英雄」といったイメージだが、それが徐々に盛り上がり、一つの頂点を築いて行くあたりの呼吸は、すこぶる巧い。

 全曲最大の頂点はもちろん「戦い」とその「勝利」で築かれたが、その爆発点での音色が混濁せず、しかもテンポやデュナミークの昂揚が自然な流れのうちにつくられて行ったのも好ましい。作為的な大芝居は聞かれないにもかかわらず、全体に「濃い」演奏として印象に残ったのは、やはり上岡の巧みなオーケストラ制御と、新日本フィル(コンサートマスターは崔文洙)の柔軟性によるものだろう。

 各パートの奏者を讃えるカーテンコールが長く続いたあと、これで終りと思った途端、何とアンコールが始まり、「サロメ」からの「7つのヴェールの踊り」が演奏された。これが実に見事な演奏だった。いたずらにダイナミズムを誇張して怒号することなく、むしろ怪奇な雰囲気を持った暗い音色で、官能性を濃厚に浮き彫りにする━━。
 上岡独特の個性を自然に出したこの曲での演奏こそ、彼と新日本フィルの今後の方向性を暗示または象徴しているかもしれない。
      音楽の友11月号 Concert Reviews

2016・9・8(木)東京二期会「トリスタンとイゾルデ」GP

     東京文化会館大ホール  2時

 今回もダブルキャストだが、私が観られる本番は17日。したがって10日&18日の組は都合で観られないので、せめてGPだけでもと出かけて行く。

 ブライアン・レジスター(トリスタン)、横山恵子(イゾルデ)、大沼徹(クルヴェナール)、加納悦子(ブランゲーネ)、清水那由太(マルケ王)らが歌う組だ。
 といってもGPだから、ある程度セーブして歌う人もいるし、アンダーに舞台横で歌わせる歌手もいる。

 今回のプロダクションは、ライプツィヒ歌劇場から持って来たウィリー・デッカ―演出のもの。モティーフは、トリスタンとイゾルデが彷徨う、無味乾燥な海、孤独でか細い無力な小舟、出口のない世界━━といったものだろうか。
 動きはあまりない演出だが、第2幕の幕切れでのショッキングな光景は、確かに第3幕での錯乱したトリスタンの最後の一言「光が聞こえるのかな? ああ、その光も消える!」への伏線になる新解釈として理解できるのではないかと思われる。

 ヘスス・ロペス=コボスが指揮する読響が、重量感のある、いい演奏をしていた。第2幕まで観て失礼する。あとは本番を楽しみに。

2016・9・7(水)ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル

  サントリーホール  7時

 プログラム冊子には曲目変更を知らせる紙が挟んであったが、開演前の場内アナウンスで更なる変更が告げられ、しかもいざ本番になったら、予告なしに更に別の曲が追加される、という不思議なリサイタルになった。
 それでも文句は出ないようで。━━若い女性ピアニストなのに、何だかホロヴィッツかリヒテルか、といった神がかり的な雰囲気になって来た。まあ私としては、「ハンマークラヴィーア・ソナタ」さえ弾いてもらえればいいや、という心境だったのだったけれど。

 変更された最初のプログラム、シューマンの「クライスレリアーナ」は、無造作と思えるほど開放的な表情の、きらきらとした音で演奏が開始された。これは、古来語られて来たロマン派の詩人シューマンといったイメージ━━曖昧な表現には違いないが、そのニュアンスはだれにでも解るものだろう━━からは遠く離れて、驚くほど身近でリアルなイメージを感じさせる。
 一つ一つの音が真珠か宝石のごとく煌き、何の屈託もない若々しい躍動に充ちてはいるが、遅いテンポの個所での沈潜ぶりも目立つ。
 シューマンの音楽からこのような、全く異なった世界を見つけ出してみせる彼女の感性は、驚くべきものだ。欧州の伝統に囚われずに済む東洋人ピアニストならではの強みかもしれない。

 第1部の演奏曲目はこれしかアナウンスされなかったので、当初の発表プロ(スクリャービン、ショパン、グラナドス)より随分少ないなと訝っていたら、彼女は今度はタブレットの楽譜を持って出て来て、カプースチンの「変奏曲作品41」を弾き始めた。これはまさしく身も心も躍動するといった演奏で、ホール内はいっぺんに活気づく。

 だが私が今夜本当に心を打たれたのは、そのあとに演奏されたショパンの「バラード第1番」である。
 打って変わって翳りの濃い音色と、沈潜した表情で弾き始められたこのバラードは、鋭く引き締まっているが柔軟で、一つのフレーズから次のフレーズに移行する僅かの瞬間にさえ、「来たるべきもの」への強い期待を抱かせてしまうといった、強い集中力にあふれた演奏だったのである。こんなに若いピアニストなのに、こんなにも凄い音楽をつくり出すとは、何という人なのだろう?

 ただし、第2部での「ハンマークラヴィーア・ソナタ」は、こちらの期待が大きすぎたか、という感。明るく、すべての音符が透けて見えるような、開放感にあふれた音楽になっていて、それはそれで興味深かったが━━ベートーヴェンの音楽から隙のない構築性や巨人的な風格と緊迫性、強靭な意志力などの特性が完全に拭い去られてしまった時、そこに残るものは・・・・などと考えさせられたのである。

 あとはアンコール。シューベルト~リストの「糸を紡ぐグレートヒェン」が素晴らしく陰影に富んでいた。そのあとには、プロコフィエフの第7ソナタの「プレチピタート」、ホロヴィッツ編の「カルメン変奏曲」、ヴォロドス&サイ編の「トルコ行進曲」(モーツァルトの方)、カプースチンの「トッカティーナ」と、延々と続いたが、威勢のいい曲と演奏では途端にスタンディング・オヴェーションになる客席の沸騰振りに少々疲れ、最前のシューベルトやショパンの残像を失いたくなかったので、そこで失礼することにした。あとで聞けば、そのあとにラフマニノフやグルックの静かな曲を2曲演奏してくれていたそうだが・・・・。

2016・9・6(火)山田和樹指揮東京混声合唱団  「日本の歌」

      神奈川県立音楽堂  2時

 「音楽堂アフタヌーン・コンサート」の一環。東京混声合唱団と、その音楽監督・山田和樹が、「里の秋」「春の小川」「夏は来ぬ」「みかんの花咲く丘」「リンゴの歌」「おもちゃのチャチャチャ」といったおなじみの歌曲から、上田真樹の「夢の意味」、柴田南雄の「萬歳流し」などシリアスな作品までを取り上げた。

 「軽い名曲」も悪くはなかったが、私がやはり最も興味を覚えたのは、柴田南雄の「萬歳流し」だった。
 これは、「秋田県横手萬歳によるシアターピース」という副題をもつ、1975年の作品である。

 門付(かどづけ)と呼ばれる、大道芸人が家々の門を回って芸を行ない、お布施を貰うという古来の芸があるそうだが、それに基づきこの曲の「御門開き」の部分では、合唱団員がそれぞれ「太夫」と「才蔵」のコンビを組み、「鶴は千年、亀は万劫、君は栄えておわします、御殿造りの結構は・・・・」と威勢よく唱えながら客席を回り続ける。
 お客からお布施(御祝儀)が出れば有難く頂戴してよろしいという決まりもあるらしく、前の方で何か渡していたおばちゃんもいたようだ。

 曲では、11月7日に山田和樹が日本フィルと演奏する柴田南雄の「ゆく河の流れは絶えずして」と同様、客席のあちこちから聞こえる声が対比し調和し、不思議な音場をつくり出すのが面白く、さらにそれらが、ステージ上に位置した女声合唱の保持する一つの髙音と木魂し合い、神秘的なハーモニーでホール全体を満たすという音響効果が、何とも素晴らしいものだったのである。
 山田は今年、柴田南雄(生誕100年、没後20年)の作品を集中的に取り上げているが、この作曲家の美点を再認識させるよい企画と言えよう。

 なお今日は、ピアノに、いわゆる合唱団付のピアニストではなく、ソリストの小林有沙が招かれ協演していた。合唱に影の如く寄り添うといったピアノでなく、むしろコンチェルトのような意味合いを感じさせる演奏だったのが興味深い。「夢の意味」の第3曲「歩いて」での不気味な音色の一撃など、ソリストでなければ出せないような強烈さにあふれていた。

 山田和樹はこの演奏会でも、指揮だけでなくプレトークから演奏会のMCまで、八面六臂の大活躍。聴衆を巻き込むその話の巧いこと。

2016・9・4(日)名古屋の「ラインの黄金」リハーサルと講演会

 アマオケの愛知祝祭管弦楽団が、4年がかりでワーグナーの「ニーベルングの指環」に挑む。その第1弾「ラインの黄金」を、今月11日に愛知県芸術劇場で上演する。三澤洋史の指揮、青山貴(ヴォータン)他の出演、佐藤美晴の演出構成、という布陣だ。

 そのリハーサルが、東海道線の大府駅近く、大府市役所の多目的ホールで行われるというので、大阪からの帰りに立ち寄る。もう通し練習に入っている。今日は3時から4時半まで、第3場と第4場の全曲のリハーサルだった。

 そのあと、名古屋に戻り、6時半から、駅近くの「ウィンクあいち」の会議室における日本ワーグナー協会の名古屋地区例会、三澤氏による「ラインの黄金」講演を拝聴する。聴衆は協会員、出演者、会員以外の人々など百人以上、満席の盛況。

 3年前には「ヴァルキューレ」があちこちで競演され、「ヴァルキューレ戦争」の様相を呈していたが、今年から来年にかけては「ラインの黄金」が各所で演奏または上演されるという現象が生まれることになる。
 この愛知祝祭管弦楽団に続いては、サントリーホールでのティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデン(11月)、来年はびわ湖ホールの舞台上演(3月)、インキネンと日本フィル定期(5月)など━━。
 打ち合わせたわけでもないのに、かち合う時には妙にかち合うのが、この世界の不思議な傾向だ。

2016・9・3(土)いずみホールオペラ「ドン・ジョヴァンニ」

     いずみホール(大阪) 4時

 残響の長いこの演奏会用ホールが、河原忠之の指揮するザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団を豊麗に響かせる。モーツァルトの雄弁かつ多彩なオーケストレーションが、まるで声楽付きのシンフォニーにように鳴り渡る。

 一切の小細工を配し、滔々と音楽を進めるのが彼の指揮の特徴で、それは骨太な迫力を持ってはいるが、登場人物の心理的な動きを描き出すためには、もう少し演奏に細かいニュアンスの変化があってもいいのではないか。第1幕前半など、一本調子で単調になるきらいがあった。

 ただし、この大河のような音楽づくりが、第1幕の終結や、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの場面、あるいはいくつかのアリアの個所などで、スケールの大きな力感に転じるのだから、その点では面白い。ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の好演も、モーツァルトの音楽の素晴らしさをわれわれに伝えてくれる。

 歌手陣も良かった。ドン・ジョヴァンニの黒田博は貫録十二分の舞台姿と歌唱力だし、レポレッロの西尾岳史は張りのある声でエネルギッシュな従者ぶり。
 ドン・オッターヴィオの清水徹太郎は体調不良だったということをあとで聞いたが、そんなことを感じさせぬ安定した舞台を示してくれていた。ただ、第2幕でのアリアが、アンダンテ・グラツィオーソにしては速いテンポだった上にブレスも多かったので、どういう解釈なのかなと訝っていたのは事実なのだが・・・・。

 また澤畑恵美は、見事な大人の女性ドンナ・エルヴィラといった雰囲気で、この役が唯一純粋な、ひたすらジョヴァンニに愛を捧げることに徹してブレることのない性格であることを再認識させてくれる見事な演技と歌唱の表現だった。
 一方、石橋栄美のドンナ・アンナは、美しい声(第2幕では声がフラット気味になったが)ではあったものの、もう少しこの役柄に相応しい複雑な心理表現が欲しいところ。老田裕子のツェルリーナは、第1幕での方が闊達で洒落ていた。
 ジョン・ハオの騎士長、東平聞のマゼットも好演。合唱にはザ・カレッジ・オペラハウス合唱団が登場していた。

 演出は粟国淳。コンサートホールのステージを巧く活用して、過不足なく物語を描き出した。たとえオペラハウスでの本格的上演であっても、妙に見え透いた小細工を弄する演出(誰とは言いませんが、今年のザルツブルクのプロダクションのごとき)を見せられる今日この頃、このようなセミ・ステージ的スタイルで音楽の良さに没頭できる上演の方が、よほど好ましい。
 ただし、「地獄落ち」では舞台手前から黒子たちが引き出す深紅の巨大な布がステージを覆い、ジョヴァンニを包み込んで舞台下手に退くという手法が採られたが━━セリがないホールだから仕方がないにしても━━もう少し何か、洒落たテはなかったものでしょうか。

 まとまりのいいこのホールのオペラのシリーズ。さて、来年は何だろう?
       ⇒モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

2016・9・2(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 柴田南雄の「コンソート・オブ・オーケストラ」、R・シュトラウスの{4つの最後の歌}(ソロは清水華澄)、エルガーの「交響曲第1番」というプログラム。かなり個性的な選曲である。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 柴田南雄の「コンソート・オブ・オーケストラ」は、昔━━それが公開初演の渡邊暁雄と都響の演奏会(1973年)の時だったかどうかはよく覚えていないのだが━━聴いたことがあった。
 当時の私の感覚では、クラスターの手法など明確に認識できなかったし、何か冷い感じの巨大な音塊が押し寄せて来るような印象だけが残って、あまり面白くなかったという記憶がある。もちろん、当時の私の耳が幼かったのは確かだが━━といって、今だって怪しいものだが━━しかし他にも、会場のアコースティックや、オーケストラの技量なども影響していたのではないか、という気がしないでもない。

 いま、山田和樹と日本フィルの演奏で改めて聴いてみると、こんなにも豊かな響きの曲だったのかと、ただ驚くばかりだ。あたかもオーケストラのためのコンチェルト・グロッソともいうべく、各楽器群の呼びかけと応答とが実に精妙につくられている。
 ある個所では、弦楽器群の動きが木管群に移り、次いで金管群が主役を演じたかと思うと、それが打楽器群に引き継がれて行く━━という具合に、いわばステージの手前から奥へ音が移動して行く面白さもはっきりわかる。また、上手側に並ぶ低音楽器群から下手側へ音が流れ移って行くといったような、管弦楽法の細やかさが散りばめられていることも理解できるというものである。
 当時の日本の作曲家がこれだけのことをやっていたのだということ、それを、良い演奏によって再認識できたのがうれしい。

 山田和樹と日本フィルは、11月7日にも柴田南雄の作品を集めた演奏会をやることになっている。そこではあの「ゆく河の流れは絶えずして」も演奏される。合唱団が客席に散開し、聴衆一人一人の顔を見つめながら行う「口説」が、今どのように感じられるか楽しみである。

 「4つの最後の歌」では、日本フィルはいつもより随分「優しい」演奏をしていたが、もう少し柔らかい音が出れば、もっとこの曲の耽美的な良さが出たのではないか。もっとも、過度な耽美性に陥るのを指揮者自ら避けていたのならまた別だが━━。
 ただ、第4曲「夕映えの中で」で、山田がこの曲に耽美性の頂点を置こうとしていた意図が感じられ、方向性は読み取れたので、明日(2日目)の演奏は、全体にいっそう美しくなるだろうという気がする。
 ソリストの清水華澄も、この曲への初挑戦だった由。彼女らしい豊麗な声でロマン的な味をたっぷり出したが、オケとの呼吸は今一つか。あまり「歌い」過ぎない方が、この曲の彼岸的な世界を描き出せると思うのだが。

 エルガーでは、出だしはかなり野性的だったが、第2楽章以降の詩的な美しさを聴くと、これも明日の演奏ではもっと・・・・という気が。
 日本フィルの定期での演奏は、初日は(良く言えば)ダイナミックで、2日目になるとしっとりするのは周知の通り。
        ⇒モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

2016・8・28(日)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(終)Gig

       キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 5時

 このフェスティバルにおける唯一の「クラシックとジャズ」の合体スタイルによる演奏会「Gig」。2013年に始められたものだが、昨年は行われなかったので、今回が第3回になる。
 常連のマーカス・ロバーツ・トリオと、小澤征爾および村上寿昭(指揮)、サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)がステージに上るという豪華な顔ぶれだ。

 プログラムは、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」からの抜粋、フェスティバル委嘱作の世界初演になるロバーツの「Rhapsody in D」、イベールの「ディヴェルティスマン」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」の計4曲。
 演奏は、プロコフィエフとイベールを村上寿昭とSKO、委嘱新作をマーカス・ロバーツ・トリオと村上指揮SKO。最後のガーシュウィンで、小澤とSKOおよびマーカス・ロバーツ・トリオが勢ぞろいする、という具合である。

 トリオ(ピアノがマーカス・ロバーツ、ベースがロドニー・ジョーダン、ドラムスがジェイソン・マルサリス)の演奏が前評判を呼んでいたのはもちろんだが、人気の的はやはり最後のガーシュウィンだったであろう。一つは、元気を取り戻した小澤征爾の指揮であるということ、もう一つは、「ラプソディ・イン・ブルー」がマーカス・ロバーツ・トリオの参加によってどのような新しいスタイルで再現されるかということ━━。

 その「ラプソディ・イン・ブルー」は、3人のインプロヴィゼーションがもっと盛大に行われるのでは、と期待していたのだが、オーケストラのスコアがあるとそうも行かないのだろう、やや規模の大きいカデンツァという感じにとどまり、演奏時間も予想より短く、20分に達しない長さで終った。
 なにしろ小澤征爾が指揮台に上り、矢部達哉がコンサートマスターを務め、大編成で臨んだSKOのパワーも凄まじかったので、主導権はやはりオケが堅持したという印象である。ともあれ質感、量感ともにたっぷりの「ラプソディ・イン・ブルー」の演奏であったことは間違いない。

 満席の聴衆の熱狂のうちに3回ほど繰り返されたカーテンコールでも、総監督小澤は活気充分の様子で、ロバーツたちを含め、全員をリードしていた。彼が姿を現わし、指揮してくれれば、それだけでフェスティバルには明るい雰囲気が満ちあふれるのだから、その個性は実に偉大である。

 以前は、このフェスティバルでは、小澤征爾がオペラやコンサートでどのような音楽を聴かせるか、その内容がどんなものであるかが話題の焦点だったが、今では、指揮する曲が何であろうと、どんな演奏内容であろうと、とにかく彼がステージに姿を現わしてさえくれれば、それだけでわれわれは安心する、という状況になってしまっているのである。彼がこの数年、大病に苦しんでいたことを思えば、それは当然のことであろう。
 とはいえ、音楽祭の本質に立ち返って考えれば、それはやはり本来の姿とは違うものである、と言わねばならない。

 いずれにせよ、小澤総監督の体調が回復に向かっているのは嬉しいことだ。だが年齢を考えれば、もう無理は避けた方がいい。
 彼に今必要なのは、確実な協力者と、協力体制であろう。彼とともに音楽祭全体を取り仕切るべき強力なインテンダントの存在と、しっかりした事務局体制、確実な首席指揮者、フェスティバルの核を成すサイトウ・キネン・オーケストラの楽員の自覚━━。
 そして何より肝要なのは、このフェスティバルの確固とした「理念」であろう。
     別稿 モーストリー・クラシック11月号

2016・8・26(金)武満徹&タン・ドゥン

   サントリーホール  7時

 サントリーホール30周年を記念する、「国際作曲委嘱作品再演シリーズ」と銘打たれた演奏会。
 タン・ドゥンが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮し、第1部では、今年が没後20年になる武満徹へのオマージュとして「ジェモ―」(同シリーズ第1回委嘱作品)を演奏、また第2部ではタン・ドゥン自身の「オーケストラル・シアターⅡ:Re」(同第17回委嘱作品)を演奏した。
 そして、それぞれ2人の指揮者を必要とするこの2曲では、三ツ橋敬子も参加して大活躍していた。

 編成が複雑なので、ステージ転換にも時間がかかるが、プログラムはこの2曲だけではない。そのあとには、武満徹の「ウォーター・ドリーミング」(1987)と、タン・ドゥンの「3つの音符の交響詩」(2010)も演奏されたのである。演奏終了は9時半になった。

 「ジェモ―(双子座)」は、初演の時に聴いた記憶があるが、それ以降、聴く機会が、あったか、なかったか? とにかくステージ上に2組のオーケストラを必要とするので、そうそう簡単にプログラムに乗せられる作品ではない。
 開始と同時に、あの独特の陶酔的な武満トーンがいっぱいに拡がりはじめる。ドビュッシーにそっくりなフレーズが突如飛び出して来るのに愕然とした記憶も、今日そこを聴いて思い出した。
 ただ、こんなに長い曲だったかな、という気もして━━初演の時にはたしか30分くらいだったという記憶もあるのだが、今回はそれよりさらに5~6分長かったのではないか? 素晴らしく魅力的な曲ではあるが、なぜか今日は、この長さを受け止めるのが難しかった。

 一方、タン・ドゥンの大作「オーケストラル・シアターⅡ:Re」は、聴衆に「ホン・ミ・ラ・ガ・イ・ゴ」と唱えさせるアレだということを、解説を読んだ時に思い出した。ただ、今日のようにバス(スティーヴン・ブライアント)の他、メインの指揮台で正確に振っていた三ツ橋敬子と、上手の指揮台で象徴的な身振りをしていたタン・ドゥンの2人ともに大声を出す作品だったということまでは覚えていなかったのだが・・・・。

 今日は、2階席に点在した管楽器奏者たちが響かせる特殊な音と、客席の聴衆(特に2階席後方の、気取らないタイプの人たち)がハミングで響かせる「レ」音、及び前出の呟きの声が、非常に美しい。それらが大音響のバンダでなく、静かな弱音であるがゆえになおさらである。これをRC席という「客観的な位置」から聴いていると、タン・ドゥンが試みた「空間的な響き」のアイディアは、たしかに効果的なものだった、と改めて認識させられる。

 最後の「3つの音符の交響詩」でも、大オーケストラを単に楽器集団である以上に人間の集団ととらえ、演奏させるだけでなくハミングさせ、歌わせ、叫ばせ、足踏みさせるという手法が採られる。曲自体が面白いかどうかは別だが、手法は注目されるだろう。
 しかし、オケの楽員さんたちも、歌ったり喚いたりと、大変だ━━東京フィルもよくやった。これは、あの「ウェストサイド・ストーリー」の「マンボ!!」どころではない。

 それにしても、武満徹とタン・ドゥン━━これほど感性の正反対な作品が、一つのステージで2曲ずつ交互に演奏されるという試みは、こういう機会でなければ起こりえないだろう。聴く方も疲れたが、実に興味深い演奏会である。
 だが、どちらが好きか、と問われれば、私はもう一も二もなく、武満に左袒する。

2016・8・24(水)山田和樹指揮日本フィル&尾上右近
歌舞伎×オーケストラ

     サントリーホール  午後1時

 山田和樹が日本フィルを指揮し、第1部ではレハールの「金と銀」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」および「ラ・ヴァルス」を、第2部でベルリオーズの「ローマの謝肉祭」、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲、レスピーギの「ローマの松」を演奏。コンサートマスターは千葉清加。

 「歌舞伎×オーケストラ」とはいっても、オケに合わせて舞台上で歌舞伎が上演されるわけではない。これは、「オーケストラの演奏」と「舞踊」の組み合わせである。前記のプログラムのうち、「ラ・ヴァルス」と「ローマの松」で、尾上右近の舞踊(尾上菊之丞振付)が協演する、という趣向だ。日本フィルとサントリーホールの共催による「とっておき アフタヌーン」なるシリーズの一環で、昨年の9月8日にも、同じ顔触れの協演で「春の祭典」が演奏されていた。

 舞踊の形は、原曲の内容を直接的に表わすものではなく、音楽の動きをただイメージ的に歌舞伎の舞踊に置き換えるものだが、今回は、音楽と、舞台上の舞踊の視覚的な効果とが比較的巧く合致していた。ゆえに、昨年のように演奏と舞踊とのギャップを感じさせずに済んだようである。
 移り変わる曲想は、照明の変化や、及び尾上右近のP席からステージ、あるいは平土間にまで立ち位置を変えながら舞踊を繰り広げる多彩な趣向に反映されていた。また、「ラ・ヴァルス」の終結部や「アッピア街道の松」のクライマックスでは、荒事も取り入れた舞踊で迫力が生み出され、音楽に相応しい効果が発揮されていた。

 今日のプログラムは、何か関連性がありそうで無さそうな、実際に聴いてみるとあまり釈然としないような選曲ではあったものの、とにかく山田和樹と日本フィルの演奏は、やはり「ラ・ヴァルス」と「ローマの松」が最も充実していたようである。
 とりわけ後者はすこぶる豊麗で幻想味に富み、「アッピア街道の松」では2階C席中央及びRC席及びLC席の階段のところに配置されたバンダがオケ本体と均衡を保ち、熱狂的な終結部を形づくった。
 足を豪快に踏み鳴らす尾上右近の舞踊もそれなりに迫力はあったが、このフィナーレではどうやら山田と日本フィルの豪壮華麗な演奏が歌舞伎の舞を圧倒してしまったような━━。

2016・8・22(月)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(4)
小澤征爾&ファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

      キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 7時

 前半にファビオ・ルイージがオネゲルの「交響曲第3番《典礼風》」を指揮。
 後半には、予定通り、小澤征爾がベートーヴェンの「交響曲第7番」を指揮した。
 コンサートマスターは、オネゲルが小森谷巧、ベートーヴェンが豊嶋泰嗣。

 いつものように、オケの楽員に交じってステージに登場した小澤さんは、客席から見たかぎりでは元気そう。指揮台に上る動作には些かも不自然さはないし、指揮する姿も、いつもの彼だ。
 指揮台にはもちろん椅子が置かれており、演奏が流れに乗っている時にはそれに腰を下ろして指揮するが、楽章の開始や、ここぞという個所では、さっと立ち上がってオーケストラを制御する。ただ、一つの楽章が終るたびに指揮台を降り、上手側ヴィオラの前に置かれた椅子に腰を下ろして何か飲料を摂るのが、わずか1~2分の休息とはいえ、少し痛々しい。

 しかし、暫時の休息後、指揮台に戻る時には、全身に「さあやろう」という勢いの雰囲気が甦る。「7番」第1楽章の長い提示部をリピートしはじめた時には、むしろ聴いているこちらの方が「何もそこまで・・・・」と、彼の体力の消耗を心配してしまったが、後半2楽章では反復個所なしで進められた。こちらが気をもんでも仕方がないことだが、とりあえずは安心した次第である。

 スケルツォ楽章はほぼ座ったままで指揮したが、しかしそのあとは休憩を取ることなく、すっくと立ち上がるや、全軍を率いて第4楽章に突入した。このあたりの気魄たるや、最近の彼の体調を知る者にとっては、何か凄まじいものを感じさせる。クライマックスのコーダでは、もはや腰を下ろすことなく、オーケストラを昂揚させて行く。そこでの身のこなし、指揮の姿などは、まさに以前の小澤征爾そのままだった。

 小澤とSKOは、この「7番」を、このフェスティバルの第2回━━1993年に演奏したことがある(9月4日)。徳永二男と加藤知子がトップに並んで弾き、工藤重典、ローター・コッホ、カール・ライスター、エヴァレット・ファースらが名を連ねていた当時のSKOとの「7番」は、まさに火のような勢いの、嵐のようなクレッシェンドの迫力を利かせた演奏だったことを記憶している。
 今夜の演奏を、それと比較するのは意味のないことだ。ただ、今夜のそれは、部分的には往年の演奏を彷彿とさせる個所もなくはないものの、やはり緊迫感や集中力、音楽の構築の緊密度などにおいて、かなり違った出来になっていたのは仕方のないことだろう。

 またSKOの方も、敬愛する小澤のもとでの入魂の大熱演だったことは確かだが、そのわりにフルート・ソロが粗っぽかったり、第2楽章最初のヴィオラとチェロによるリズム主題でのアンサンブルの音色が濁ったりと、名手ぞろいの集団にしては腑に落ちぬ個所も時に聞かれたのである。しかし第2楽章の中盤以降をはじめ、各所に温かくヒューマンな感性が聴かれたことは、現在の小澤征爾とSKOの変わらぬ絆をうかがわせるものとして、得難い至福のひと時と言えるものであった。

 客席総立ちの拍手と歓声の中、3回に及ぶオーケストラ全員を含めたカーテンコールでは、小澤さんもあの「休憩」などどこかへ吹き飛んだような雰囲気。Tシャツに着換えてしまっているルイージまでステージへ引っ張り出しての賑やかさだった(とはいえ、かなり疲れたのではないかという気もするのだが・・・・)。

 そのルイージが、前半で指揮したオネゲルの交響曲「典礼風」も、ややドライな音色と激しい力感に富んだシャープな演奏で、SKOのパワーを発揮させる快演だったことを忘れてはならない。

(付)午後には雲も拡がったものの、雨らしい雨は降らず。結局この3日間は台風とは全く無縁の松本だった。午前中はまた快晴だったので、松本美術館で今日から始まっている「グラミー賞特別展」を観に行く。これは2013年に小澤征爾指揮で上演されたラヴェルの「子どもと魔法」が、グラミー賞の「最優秀オペラ録音賞」を受賞したのを記念する展示である。レプリカは小型だが、ラッパ式蓄音機を模した黄金色に輝くたいへん美しいものだ。

 今年のOMFでは、もう一つ、「Gig」(28日)を聴きに行くことにしている。
      ⇒別稿 モーストリー・クラシック11月号

2016・8・21(日)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(3)
ファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ「復活」

       キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)  4時

 「オーケストラコンサート Bプログラム」は、マーラーの「第2交響曲《復活》」。
 ファビオ・ルイージが、昨年のマーラーの「第5交響曲」に続き、今年も登場して指揮。合唱がOMF合唱団と東京オペラシンガーズ、声楽ソロは三宅理恵(ソプラノ)と藤村実穂子(アルト)。コンサートマスターは矢部達哉。

 席が1階前方右端という、「仕事」には全く適さぬ位置だったので、演奏全体の特徴を厳密かつ客観的に判断するには少し無理があるけれども、とりあえずこの位置で聴いた印象では、これは実に鮮烈な演奏であった。
 冒頭、弦のトレモロの中に低弦が割って入る瞬間からして、切り込むような鋭い力が炸裂する。全曲にわたり鋭角的なリズムを基盤にした、冷徹で明晰な音の構築が続く。
 ロマン的で忘我的な熱狂というタイプの演奏ではなく、どこかに醒めた理性を感じさせる演奏であり、そのへんが感動の度合いの分かれ目になるかもしれない。だが、みなぎる強靭な力感はただものではない。

 昨年の「5番」と同様、このサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を指揮する時のルイージは、ふだんとは全く違った峻烈な音楽の容貌(かたち)を見せる。
 彼は本来、そんなにデモーニッシュな演奏をつくる人ではない。例えばMETで「ジークフリート」を聴いた時など、そのレガートな音づくりには不満さえ感じたものだった。だがその彼が、このSKOを指揮すると、全く正反対の、熾烈で尖った音楽を聴かせるのである。こういうルイージは、私の経験の範囲では、SKOと組んだ演奏でしか聴けないように思う。

 一方SKOも━━この30年間私が聴き続けて来た経験では、このオケがこれほどエキサイティングな演奏で応える指揮者は、小澤征爾以外では、彼ルイージあるのみだ(強いて挙げれば、他にハーディングか)。
 つまり、指揮者とオーケストラの双方が、ふだんは出せないような力を出し切る。これは、まさに相性の良さ、と言えるのではないか。

 ともあれ、ルイージはこれで、3年連続の当フェスティバル出演となった。彼に対するオーケストラの反応、および客席のスタンディング・オヴェーションなど、どうやらすべてが上々のように見える。

 SKOの機能的な力量も、また並はずれたものだろう。ただ、以前とは違った状況も気にならないではない。前述のように、聴いた席が楽員の最前列しか見えない位置なので、カーテンコールの時に初めて、ルイージから次々と起立させられて讃えられる管楽器セクションの首席奏者たちが軒並み外国人勢であることを知った。まるでPMFオーケストラみたいだ、と驚いた次第だ。楽員も随分代替わりしたものだとは思うけれども、管に日本人首席奏者はいないのか、と心配にもなって来る。

 声楽陣では、だれよりも藤村実穂子が傑出していた。完璧なドイツ語の発音、揺るがぬ音程とリズム、厳しく求道的な「復活」への歌━━。アルトのパートが毅然として屹立するさまは、彼女ならではの凄さである。
 これに対しソプラノの三宅理恵は、藤村とは対照的に感情過多の歌唱という気もするが、惜しかったのは、ソプラノ合唱の中から柔らかく浮き上がるはずの最初の個所が少々不安定で、合唱とのハーモニーにほんの僅かだが乱れを感じさせたことだった。
 6時40分終演。
       ⇒別稿 モーストリー・クラシック 11月号

2016・8・21(日)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(2)
吹奏楽パレード

 「サイトウ・キネン・フェスティバル」第1回以来の名物となっている、市内外のブラス・バンドを集めてのパレード。

 実は私は、このフェスティバルに25年間連続して通いながら、これを観るのは今回初めてなのである。たまたま泊まった場所が伊勢町交差点にあるリッチモンド・ホテルで、吹奏楽パレードはその伊勢町通りの「Mウィング」前からスタートするため、これ幸いと見物しに行った次第。

 快晴の中、午前9時30分に開始されたパレードには、市内や長野県近郊の小中学校のバンド部から、信州大学吹奏楽団、社会人バンドにいたる計53団体2700余名が参加。全部が通り抜けるには1時間10分かかる。

 各々の団体がそれぞれの曲を演奏しながらの行進だが、一番威勢が良かった松本市消防団ラッパ隊は別として、辰野中学校吹奏楽部や伊那市立東部中学校吹奏楽部のように活気のあるまとまった演奏を繰り広げつつ進んで行くのもあれば、演奏や行進の姿勢に何となく元気のない団体もある。そういうテンションの低い行進と演奏になる原因は、おしなべて選曲と編曲にあると思うのだが如何? これは先生の責任ではなかろうか。

 パレードは、伊勢町通りから本町通りと大名町通りを抜け、松本城公園に入る。
 ここで11時から、参加団体からの抜粋メンバー1600名の合同演奏となる段取りだ。お城の公園で演奏されたのは、「ラデツキー行進曲」と、県歌「信濃の国」。
 ━━その「県歌」は、「長野県人なら誰もが知っているこの曲。第1回の合同演奏から定番となっています・・・・ぜひ一緒に歌いましょう」と、チラシにある。第1連は「信濃の国は十州に 堺連ぬる国にして・・・・」と始まり、「海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき」と結ぶ。随分、難しい言葉を使うものである。
 猛暑で日差しも強烈なので、全部は聴かずに失礼した。

 パレードが去ったあとの街路で、1人の警官(!)に声をかけられた。
 以前は朝比奈隆のファンだったそうで、今でも東京までよく演奏会を聴きに来られるという、熱烈な音楽ファンの方である。「昔はオーケストラのメンバーもパレードに加わったものですが、今はそういう余裕もなくなったらしい・・・・あの頃は、お城での合同演奏で時々小澤さんも指揮してくれて。そうするとバンドの音が見事にガラッと変わってしまったものですよ」と、懐かしそうに話してくれた。
 諸行無常というほど大袈裟でもなかろうが、フェスティバルの雰囲気も、25年も経つと変貌して来る。残念だが、仕方のないことかもしれぬ。

 だが、パレードでは、各団体の各々間に、「SEIJI OZAWA MATSUMOTO FESTIVAL」のロゴの入ったフラッグを掲げた旗手たちがそれぞれ3~4人ずつ行進し、沿道に設置されたスピーカーから流れる紹介のアナウンスの中でもその名称が繰り返し出て来る。
 同じロゴのフラッグは、主要道路のすべての電柱にも、はためいている。
 沿道を埋め尽くした見物人の目と耳に入るのは、以前は「サイトウ・キネン」だったが、今では「セイジ・オザワ」の名だ。彼の名は今まで以上に松本の街に浸透することになるだろう。
       ⇒別稿 モーストリー・クラシック11月号

2016・8・20(土)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(1)
ふれあいコンサート1

      ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール) 4時

 朝の東京は土砂降りで閉口したが、幸いにこちら松本は薄晴。ホテルに荷物を置いてから、JR島内駅近くにあるザ・ハーモニーホールまで、傘も使わず無事に着けたのは有難い。
 緑の木立に囲まれ、いかにも高原の音楽会場という美しい風情を備えたこのホールは、私のお気に入りだ。座席数693、満席時の残響2秒とのことで、ここで聴く室内楽の響きは、まさに絶品である。

 今日は、ミケランジェロ弦楽四重奏団(ヴァイオリンがミハエラ・マルティンとダニエル・アウストリッヒ、ヴィオラが今井信子、チェロがフランス・ヘルメルソン)を中心にした室内楽コンサートだ。
 2曲目に彼らだけで演奏されたバルトークの「弦楽四重奏曲第3番」が流石に見事な均衡と凝縮力を発揮し、瑞々しい音を交錯させて、この日のプログラムのうちでも最高の演奏となっていた。

 これに対し1曲目の、ボッケリーニの「弦楽五重奏曲ハ長調G310」では、もう1本のチェロに趙静(チョウ・チン)が加わっての演奏となったが、彼女の日頃のヴィヴィッドで張りのある、瞬発力のあるソロは周知の通りで、あたかも物静かな家族の中へ元気で明るい若い女性客が割り込み、その闊達な語り口に、一家もにこやかに座談に興じる━━といった雰囲気の五重奏曲となった。
 ただそれだけに、厳密なアンサンブルという点では、少々難点があったことは否めないだろう。

 だが、第2部でのブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」では、趙静も完全にミケランジェロ弦楽四重奏団の音色に溶け込み、もう1本のヴィオラとして参加した佐々木亮とともに、緻密なアンサンブルを構築して行った。

 この6人によるブラームスは、しっとりとした音色に富む美しいものだが、前半2楽章など、随分落ち着いたレガートな表情に聞こえて、意外な感に打たれる。よく響くホールの音響が生む距離感のせいでもないだろうと思う。
 こんなに穏健で安息感に浸ったブラームスもありなのかな、と、若干物足りなく感じたものの、後半2楽章では、その落ち着いた音なりに躍動的なエネルギー感も生まれて、室内楽演奏会特有の歓びを客席に与えてくれたのは確かであった。

 なかなか鳴りやまぬ拍手に応えて、ブラームスの第3楽章がもう一度演奏され、コンサートは6時5分頃に終った。
 休憩時間の頃には驟雨もあったようだが、終演時にはもう雨も上がって、しのぎやすい気候になっている。東京とは桁違いの空気である。
       ⇒別稿 モーストリー・クラシック11月号

2016・8・18(木)鼓童&下野竜也指揮新日本フィル

    サントリーホール  6時30分

 「太鼓芸能集団 鼓童」の、「創立35周年記念コンサート」と銘打たれた3回の演奏会の一つ。
 この日は、オーケストラの協演によるプログラムのみで構成されている。演奏されたのは、伊佐治直の「浮島神楽」(世界初演)、猿谷紀郎の「紺碧の彼方」(同)、石井真木の「モノプリズム」(1976年作品)、富田勲の「宇宙の歌」(1994年作品)の4曲だった。

 最も長大な「モノプリズム」を3曲目に置き、序破急とでもいうべき流れで音響的かつ重量感的な頂点を築いておいて、最後に寛いだ曲想の小品「宇宙の歌」を演奏して結ぶところ、なかなか巧い選曲である。
 猿谷紀郎の「紺碧の彼方」は管弦楽パートに極めて多様な色彩が聴かれ、石井真木の「モノプリズム」は前半に管弦楽の発言のみが続く━━という曲想ではあるものの、どの曲においても鼓童の「日本魂」が炸裂する、胸のすくような音の饗宴に彩られた作品であった。

 このような日本太鼓と洋楽器のオケが同一ステージで激突した場合、日本のホールではどうしても太鼓が音量の上で勝ってしまい、オケが霞みがちになるのは致し方ないだろう。
 ただこれが、欧米のホールで演奏した場合には、空気の違いというのか、洋楽器の響きがぐっと大きくなり、太鼓と対等に聞こえるという不思議なケースになるものである━━これは1974年秋に、小澤征爾と新日本フィルが甲州太鼓のチームと組んで欧米演奏旅行(国連デー参加を含む)した際に私が直接体験したことなのだが。

 それにしても、鼓童のメンバーの、鍛え抜かれた肉体から生まれるあの視覚的な美と、音楽的な力の美との調和は、形容しがたいほど素晴らしい。巧くは言えないが、これこそまさに日本の芸術の根源的な力の一つなのだろう。
 オーケストラとの協演は、鼓童の幅広い活動のほんの一部でしかないが、その分野でもこのような無限の可能性を感じさせる音楽を創れるということが、わくわくするような感動を私たちに与えてくれる。

 新日本フィルを制御した下野竜也の指揮も、すこぶる見事だったと思う。彼はプログラムに、鼓童との協演が決まった時には「僕もマラソンしなければならないのか?」と不安になった、というエッセイを載せているが、いかにも彼らしいユーモアである。

 ちょうど40年前に作曲された「モノプリズム」が、今でも生命を失っていないことを改めて認識できたのもうれしい。
 この曲には、私も特別な思い出がある。作品の世界初演は、小澤征爾がタングルウッド音楽祭で行なったが、日本初演はその1976年の12月、東京文化会館における新日本フィルの定期演奏会で、やはり小澤征爾が指揮して行なったのだった。その頃、FM東京では新日本フィルのライヴ番組をレギュラーで編成していたので、当然私たちもその演奏を録音したのだが━━。

 鼓童の前身「鬼太鼓座」の、その太鼓の大音響たるや、当時としては驚天動地の物凄いものに感じられたものだ。家鳴り震動、ホールの天井からゴミがバラバラと落ちて来るほどだから、マイクで太鼓とオーケストラのバランスを取るのは、当時のワンポイント録音システムでは至難の業。
 小澤さんが心配して「ほんとに凄い音がするんだよ、大丈夫?」と事前に私に声をかけてくれたが━━こういう時、いつも小澤さんはこまかく気を使ってくれた━━こちらも「ウーン、やるしかありません」と答えるしかなく、確かに実際の録音は、どう贔屓目に見ても、あまり芳しいものとは言えなかった。

 それでも、とにかく放送はした。困ったのはその直後、NHKが、「尾高賞の審査でみんなが聴きたいと言ってるんで、テープを貸してくれ」と頼んで来たことだった。
 その前年にFM東京が芸術祭大賞を獲った「カトレーン」(武満徹)の録音は自信満々だったから、喜んでNHKにも貸した(で、尾高賞を取った)が、この「モノプリズム」の録音は、大NHKに聴かせるには、少々心許ない。「録音バランスがいいとは言えないし、お聞かせするにはとても」と、一度は丁重に断ったのだが、是非にと言われ、仕方なく貸した。
 結局、「モノプリズム」は、めでたく尾高賞を受賞した。

2016・8・15(月)ザルツブルク音楽祭(終)
R・シュトラウス:「ダナエの愛」

     ザルツブルク祝祭大劇場  7時

 オペラのプログラムに載っている当該作品の上演史「CHRONIK」を見ていると、歴史の流れが感じられ、興味深い。
 この「ダナエの愛」については、1944年8月16日の総練習(戦況悪化のため本番上演は出来なかった)では、クレメンス・クラウス指揮、ルドルフ・ハルトマン演出に加え、ユピテルをハンス・ホッター、ダナエをヴィオリカ・ウルズレアクが歌っていたという記録が見える。そういう時代だったのか、と感慨が起こる。
 なお同祝祭での初演は1952年、同じ指揮者と演出家で行われていた。

 そして、私がこのザルツブルクで見た2002年の上演は、実にこの祝祭での50年ぶりのものだったことも分かる。
 あれはファビオ・ルイージの指揮、ギュンター・クレーマー演出で、たしか株の暴落と大恐慌を題材にした舞台だった記憶がある。ダナエ(デボラ・ヴォイトだった!)がラストシーンで大神ユピテルの誘惑を振り切り、貧しくとも愛のある生活を求めて、雨の中に傘を広げて去って行く光景が実に印象的だった(ただし共同制作のザクセン・ドレスデン州立歌劇場で観た時は、最後の場面は大きく変えられていたが)。

 さて、それに対して今回のアルヴィス・ヘルマニスの新演出は、まるでアラビアン・ナイトかなにかのような衣装による舞台の、一種のお伽話的なプロダクションになった。
 ミダス王の世界は、高価なペルシャ絨毯(?)をはじめ、舞台全体が煌めく黄金色に彩られる。そして彼が黄金を失って質素な生活に陥る世界は、一面の白色の世界(但し明るい)。ダナエがいずれを選ぶか迷う「黄金の豊かな世界」と「貧しいが愛のある世界」の対比がそれである。彼らの衣装もその対比の中に変化する。

 こうして、黄金を捨て、愛のみに生きる決意を固めたダナエは、ユピテルを見向きもせず、一心に絨毯を織る仕事に没頭し、ユピテルはそれを見て寂しく立ち去るという終結になるわけだ。
 いろいろな場面に登場する、黄金色あるいは白色の衣装をまとったダンサーたちの動きが美しい。またユピテルの最初の登場場面には大きな白い象のセットが現われたり、貧しくなったミダスの世界には本物のロバが出て来たり、といった余興も含まれる。

 かような、いわば「娯楽的な」要素を強めた演出は、おそらくR・シュトラウスのマニアたち━━ホフマンスタールやグレゴールのそれも含めて━━からは、甚だ顰蹙を買い、好まれざるものであるかもしれない。
 ただ、舞台はこのようにお伽話的で、コミカルな要素の強いものではあっても、ユピテルやミダス王の演技には一応それなりの心理表現が備わっていて、単なるアラビアン・ナイト的物語だけでは終らせないものがあったことは、見逃してはなるまい。

 主役歌手陣━━ダナエにクラッシミラ・ストヤノーヴァ、大神ユピテルにトマシュ・コニェチュニー、ミダス王にゲルハルト・ジーゲル、メルキュールにノルベルト・エルンスト、といった顔ぶれにも、見応え、聴き応えがあった。何といってもコニェチュニーの、コミカルな味と、やくざのボスのような凄味とを綯い交ぜにした存在感が映えていた。

 だが、これぞさすがと舌を巻かされたのは━━そして誰よりも拍手と歓声を熱烈に浴びたのは━━指揮のウェルザー=メストと、ウィーン・フィルである。
 ウェルザー=メストは、昨年の「フィデリオ」や「ばらの騎士」での指揮の見事さに続き、今年もこの祝祭で瑞々しい音楽を引き出してくれた。
 そしてウィーン・フィル━━何と言ったらいいか、R・シュトラウスの、特に中後期の作品を演奏する時に彼らが聴かせる独特の官能的な香りは、他のいかなるオケも及ばぬ境地のものである。この演奏を聴けただけでも、ザルツブルクまで来た価値があったと思えるほどだ。
 合唱はウィーン国立歌劇場の合唱団を中心とした編成で、今日は声量も凄まじく、アンサンブルも甚だ強力なものであった。

 今日は1階の最前列の席(1-20)。
 目の前のすぐ左手には、ウェルザー=メストが背中から上を見せて指揮している。彼は右手の指揮棒を時に後方にまで振り回すので、一度など指揮棒の先端が私の顔の前をかすめるといった具合で、迂闊にオケ・ピットを覗けるような状態ではない。
 私の席の左側には、オバチャンを含めた3~4人の日本人客が座っており、こんなレアなオペラなのに、プログラムも持たず、字幕も見ずに泰然としていたが━━第3幕が始まった時には、いつの間にかみんな消え失せていた。勿体ない話だ。私の後ろにいたロシア人客4人もいなくなり、私の周辺だけはどういうわけかガランとしてしまった。

 終演は10時20分。この3日間の滞在で同業者としては初めて出逢ったIさんと、シュテルンブロイでソーセージやウィーナー・シュニッツェルを食べながら深夜まで雑談。イケメン嗜好の彼女の見立てでは、今日のミダス王は、ダナエが一目惚れするにふさわしい相手ではない、とのことであった。

(付)翌日のザルツブルク発ルフトハンザLH1595/OS0265、およびフランクフルト発羽田行LH716で帰国したが、折しも東日本は台風が通過中のはず。どのように避けるのかと思っていたら━━普通ならシベリア上空を一路東進、ウラジオストクあたりを通って新潟の方へ南下するルートを採るものだが、今回はモンゴル上空から中国へ、北京、天津、渤海、黄海、ソウル南方を飛んで朝鮮半島を横切り、金沢上空から日本に入るという、意外なルートが選ばれていた。ルフトハンザでもこんなルートを通ることがあるのかと驚いたり、感心したり。
 しかしそのルートの所為でもあるまいが、とにかくのべつ猛烈に揺れること、揺れること。お茶も味噌汁もジャブジャブ躍って、お椀から飛び出しかける。こぼれては勿体ないので、慌てて飲む。
 こういう時、日本の航空機だったら、すぐに「機長の指示により客室乗務員も着席いたします」とか、切羽詰まったような声で言い、サービスを止めてしまうところだが、ルフトハンザの客室乗務員は、どんなに機が揺れようと、平然たる態度で食事を出し続け、サービスを止めることはない。そこが凄いところだ。
 そして、これだけ例外的なルートを飛びながら、羽田にはほぼ定刻(17日12時20分)にぴたりと着陸したのだから、飛行機というのは、本気になると偉いものである・・・・。

2016・8・14(日)ザルツブルク音楽祭(4)グノー:「ファウスト」

       ザルツブルク祝祭大劇場  7時30分

 ザルツブルク音楽祭がグノーのオペラ「ファウスト」を上演したことは、これまでにあったのか、なかったのか。プログラムに上演史が載っていなかったところを見ると、初めてなのかもしれない。

 この演出と装置及び衣装を担当したのが、ラインハルト・フォン・デア・タンネン。装置は写実的なものではなく、極めてシンプルな景観ながら、この大劇場の左右に広い舞台をいっぱいに使った大規模なものである。
 冒頭、老齢のファウストが独り悩んでいる場面には、彼が歌いだす最初の言葉でもある「RIEN」(無)という大きな字が、空に浮かんでいる。この文字は最終場面、マルグリートが「死ぬ」場面にも再現する。彼女も真の救済を受けることなく、「無」の中に陥ったか。

 この最終場面で、ファウストがト書き通り、メフィストに操られるような形で舞台から姿を消したあと、彼女の最期を取り囲むのは、メフィストフェレスの精霊とでもいうべき、奇怪な異形をした者たちだ。彼らは、彼女が宝石の歌を歌っている場面でも、すでに彼女が悪魔の手中に落ちていたことを示すように、彼女の周辺で蠢いている。ちょうどあのフリーマン演出の「炎の天使」に登場した白い悪霊のような役割を、彼らは果たしているわけだろう。

 悪霊だけでなく、この舞台に出て来る群衆、兵士などはみんな黄色の服を着け、グロテスクかつ喜劇的な顔をしていて、一種の象徴的な存在として扱われている。兵士たちの凱旋の行進曲の場面で、上から巨大な骸骨が降りて来て行進のような動きをするという「余興」もある。

 ただこのように、装置と衣装には、つまりデザイン方面には目を惹くものがあるのだが━━肝心の演出となると、やや茫漠たる感を抑え切れぬ。登場人物たちは、白い大きな世界の中で夢のように浮遊しているという、そんな雰囲気が最後まで続くのだ。
 それゆえ、人間ドラマが何処にあったかというと、どうもはっきりしない。結局、観終った後には、これといったような感動的な印象が何も残らない・・・・そういった舞台なのだった。

 しかし、配役はいい。ファウストをピオトル・ベチャワ、メフィストフェレスをイルダール・アブドラザコフ、マルグリートをマリア・アグレスタ、ヴァランタンをアレクセイ・マルコフ━━この4人は聴きものと言えた。

 アグレスタだけは、ちょっとマルグリートのイメージとは違うなという感もあったが、多分これは演出のせいで、「舞台上で何をやっていたらいいのか解らない」立場に追い込まれ、それが歌唱にも影響していたのではないかという気もする・・・・つまりこの演出家が、もともと演劇的な演技を歌手に要求していなかったのではないかと思われるのである。

 しかしその点、舞台上で独特の雰囲気を放出できるベチャワとアブドラザコフの2人は、ただ居るだけでサマになっていた。またマルコフは、力強い声で存在感を主張していた。他に、シーベルをタラ・エラウト、ワーグナーをパオロ・ルメッツ、マルテをマリー・アンジェ・トドロヴィチという人たち。

 合唱はウィーン・フィルハーモニア合唱団という団体だったが、これはウィーン国立歌劇場の合唱団とは違うので、演技も少し素人っぽく、人数が多い割には、思いのほか声が来ないし、特に女声がか細く聞こえるのは不思議だ。1階席前方列(2列12)という位置で聴いたせいかもしれないのだが。

 アレホ・ペレスの指揮するウィーン・フィルが、瑞々しく透明で爽やかな演奏をしてくれた。近年売り出し中のこのペレスという人、私はなかなかいい指揮者だと思うのだが、客席の反応は今一つ。
 それにしてもウィーン・フィルは、相変わらずいい音だ! コンマスは今夜もライナー・キュッヒル。彼はマチネーのムーティ指揮のマチネーでも3日間アタマを弾いており、そのあとにこの長大なオペラのコンマスをも・・・・いつもながらエネルギッシュな人である。

 休憩が2回入って、終演は夜11時15分くらいになった。ちょうど時差ボケの余波が出て来る時期だから、こういうのはチト辛い。せめて7時から始めてくれればいいものを。公演日によっては8時開演の時もあるらしい。それにぶつからなくてよかった。
 なお今回、知人に頼んで入手した席は、1階1~3列ばかりという、不思議に前方の席ばかりだったが、昨日も今日も見渡したところ、前の方には日本人客がやたらに大勢いる。この辺りをまとめて流すルートでもあったのか。

(付記)この日、オケ・ピットでは、終演後にキュッヒルが指揮者から讃えられていた。ソロがあったせいかと思ったが、翌15日のムーティとウィーン・フィルの最終公演を聴いた人の話では、カーテンコールでキュッヒルがムーティから特別に起立させられ、讃えられていたとのことだった。キュッヒルも目を潤ませていたそうである。となると、やはりそれが彼のコンマスとしての「公式の最終演奏」だったのだろうか?

2016・8・14(日)ザルツブルク音楽祭(3)
アイヴォー・ボルトン指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

       モーツァルテウム大ホール  11時

 「モーツァルト・マチネー」の一つ。
 このおなじみシリーズでは、モーツァルト以外の作品もプログラムに組まれることがあるけれども、今日は純正モーツァルト・プロである。「交響曲第28番」、「木管のための協奏交響曲旧K.297b」、「交響曲第32番」「交響曲第36番《リンツ》」という、かなり濃い選曲が為されていた。

 典雅な内装のホールでモーツァルトを満喫するのは、それ自体がもう至福のひとときだ。ホールの座席の椅子が木製で硬いことと、会場内の換気が悪くて何となく暑いことさえ意識しなければ、あとはモーツァルト三昧の世界。

 「協奏交響曲」第3楽章では、ソリスト4人がアイ・コンタクトを交わし、ニコニコ笑いながら、時には踊るような身振りをしながら吹いて行く。ボルトンも楽しげに指揮。こういう雰囲気がオケに伝わらぬはずはない。この第3楽章を、こんなにもノリのいい演奏で聴いたのは、ナマでは初めてである。

 ボルトンは、休憩後の2つのシンフォニーでは、いかにも彼らしいパンチの利いたリズム感で、ダイナミックに畳みかけた。
 特に「リンツ」が、熱気があって生き生きしていて、モーツァルトの円熟ぶりを浮き彫りにする演奏だった。ただし、反復指定のある個所はすべてリピートするから、演奏時間も優に30分を超す。
 第4楽章のコーダではどんな指揮者もオケを煽り立て、力感を強調して結ぶもので、それを展開部からもう一度繰り返すというのは、私はどうもあまり好きになれぬ。だがそこはさすがボルトン、2度目の演奏では、最初の演奏の時よりもさらに猛烈に煽り、轟然と盛り上げて行った。これで聴衆は沸き返る。

 1時10分終演。外は快晴で、目も眩むばかりの日差し。だが湿気が少ないので、ネクタイとジャケットをつけていても暑さは感じない。本当に爽やかなザルツブルクである。

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