2020-01

2020・1・19(日)ジョン・アクセルロッド指揮京都市交響楽団

      京都コンサートホール・大ホール 2時30分

 京都市交響楽団の第641回定期公演で、この4月から同響の首席客演指揮者に就任するジョン・アクセルロッドが指揮。

 ベートーヴェンの「アテネの廃墟」序曲、バーンスタインの「ハリル」、ショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」が演奏された。
 「ハリル」でのフルート・ソロはアンドレアス・ブラウで、アンコールではドビュッシーの「シランクス」を吹いてくれた。コンサートマスターは泉原隆志。

 ジョン・アクセルロッドは、以前はルツェルン響の音楽監督・首席指揮者を務めたこともあり、今は王立セヴィリャ響の音楽監督のポストに在る1966年生まれの指揮者だが、私はもしかしたら今回がじっくり彼の指揮を聴く最初の機会だったかもしれない。

 とりあえず今日の演奏を聴いた印象では、オーケストラをバランスよく纏める術に極めて長けている人のようである。京響の響きは見事なほど均衡を豊かに保っていて美しく、特に「レニングラード」での、叙情的な個所で管楽器が個性的なハーモニーをつくり出すあたりでは、その音色が絶妙なバランスを響かせていた。もちろん、弦のしっとりした響きもいい。

 だが、この指揮者の音楽は、どちらかというと、やはり冷静である。この「レニングラード」の場合でも、デモーニッシュな狂乱はなく、大詰の恐るべき昂揚箇所においてさえ整然たる落ち着きを保ったままであり、忘我的な興奮といったものからは些か距離がある。
 こういった彼の「持って行き方」が、オーケストラの呼吸が合って来れば変わって行く類のものなのかどうか、今の段階では判じ難い。それに、レパートリーによっても異なるだろう。

 いずれにせよ、京響の上手さが強く印象づけられた演奏ではあった。それと、順序が逆になったが、元ベルリン・フィルの首席フルート、アンドレアス・ブラウの音色の美しさも━━。

 少々驚いたのは、この京響定期では、後方正面の上階席に随分熱狂的な人がいるものだな、ということ。まあ、噂に聞いていないわけではなかったが・・・・。

2020・1・15(水)下野竜也指揮 読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 ショスタコーヴィチの「エレジー」、ジョン・アダムズの「サクソフォン協奏曲」、モートン・フェルドマンの「On Time and the Instrumental Factor」、グバイドゥーリナの「ペスト流行時の酒宴」。
 サクソフォン・ソロは上野耕平、コンサートマスターは日下紗矢子。

 物凄い曲ばかり集めたものだ。昔、読響のコンサートのトークで「ゲテモノ担当の下野です」と自己紹介して客を爆笑させた下野竜也の面目躍如のものがある。また、こういうプログラムを定期で組んだ読響にも、聴衆動員に自信たっぷりなものがあるのだろう。
 事実、客席は大体埋まっていた。上野耕平の人気もあったかもしれないが、グバイドゥーリナの作品が終ったあとの拍手の盛り上がりなどは、現代音楽だけのプログラムではあっても、いい演奏ならばそれなりの反応があることを証明していたといえよう。

 物凄い、などとは言ったものの、実際に聴いてみれば、耳あたりは好い。
 ショスタコーヴィチの「エレジー」(1931)は非常に美しい旋律的な小品で、ある個所ではシェーンベルクの「浄夜」の一節などを連想させる。
 上野耕平のスウィングするソロ(身振りも、だったが)で演奏されたジョン・アダムズの「サクソフォン協奏曲」(2013)はジャズの影響を強く受けた曲で、私はマンハッタンの夜の光景などをふと連想してしまったが、ゆっくりした個所ではオーケストラが意外なほどの官能的な表情を聴かせ、サックスがブルース的なモノローグを歌い続けるのが魅力的であった。

 プログラムの後半の2曲はいずれも日本初演である。
 フェルドマンの「On Time and the Instrumental Factor」(1969)は、短い和音が楽器や和声を一つ一つ変えながら、短いパウゼを挟みつつ何度も繰り返されるだけの音楽で、いつ本題に入るかと思わせながら結局そのまま終ってしまう、といったような小品。

 そして最後の「ペスト流行時の酒宴」(2005)は、プーシキンの戯曲を題材にしたものだ。常に何かが起こりそうな予感のようなものを感じさせる音楽が進み、「それが起こった」頂点では、眩いばかりの多彩な音色が刺激的な高音を伴って執拗に続き、ヒステリックな狂乱の趣さえ生み出す。この部分でのいろいろな曲想の交錯が実に面白い。この作品は今夜の演奏会の圧巻ともいうべきものだったろう。さすがは下野、スリリングな演奏で、聴き手に強烈な衝撃を与えた。

 久しぶりに定期を振った下野竜也への、読響の楽員たちが示す親愛の表情が印象的だった。かつての「正指揮者」が、一回りも二回りも大きくなって里帰りして来たのである。

2020・1・13(月)東京音楽コンクール優勝者コンサート

      東京文化会館大ホール  3時

 正確に言うと、「第17回東京音楽コンクール優勝者&最高位入賞者コンサート」というタイトルで、昨年の東京音楽コンクールの覇者3名が出演し━━木管部門第1位となったフルートの瀧本実里がロドリーゴの「パストラル協奏曲」を吹き、声楽部門で1位なしの2位となったテノールの工藤和真がヴェルディの「仮面舞踏会」やプッチーニの「ラ・ボエーム」からのアリアなど4曲を歌い、最後にピアノ部門第1位の秋山紗穂がベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」を弾いた。
 サポートは三ツ橋敬子指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。

 ソリストはみんな若々しく、その演奏に溢れる気魄と勢いが実に快い。
 瀧本は難曲の協奏曲をいとも闊達に、伸びのいい音色で楽々と吹き、工藤はイタリア・オペラ4曲を朗々と情熱的に歌い上げた。そして秋山は未だ東京芸大の4年生(師は伊藤恵)というが、第1楽章のカデンツァなどでは伸縮自在の柔軟な表現を聴かせ、この若さにしては楽譜の読み込みの深い演奏をつくり出していた。

 だが、何とも残念なのはオーケストラの演奏だ。何の感興もない、喜びも哀しみもない、ただ弾くだけ、吹くだけの演奏に終始しており、いかにも頼まれ仕事、やっつけ仕事という感じで━━そんなつもりはないと言われても、こちらにはそうとしか聞こえなかったのだから仕方がない━━ソリストたちの足を引っ張っていた。特にベートーヴェンの協奏曲では、無表情も極まれり、といった演奏だった。

 この次は、もっと真摯な演奏をするオーケストラとの協演で彼らを聴いてあげたいものだが・・・・。
 なお司会はいつもの朝岡聡。こちらは実に巧い。会場は満席。

2020・1・11(土)日本オペラ協会公演 歌劇「紅天女」

     Bunkamuraオーチャードホール  2時

 原作および脚本・美内すずえ、作曲・寺嶋民哉、指揮・園田隆一郎、演出・馬場紀雄、特別演出振付・梅若実玄祥、合唱・日本オペラ協会、管弦楽・東京フィルハーモニー交響楽団、出演・小林沙羅(阿古夜×紅天女)、山本康寛(仏師・一真)他。

 原作は「ガラスの仮面」とのこと。会場で顔を合わせた何人かの業界の女性たちに訊いたら、みんなこれを読んで詳しく知っているという。中には、概要を慌ただしく説明してくれた新聞記者や、ワタシたちにとっては「たしなみ」ですから、と艶然と微笑んだ音大教授もいたくらいだ。
 あいにく私は少女マンガについては全く知らないし、興味もない。ましてや「ガラスの仮面」などという大ベストセラーについては、どこかでその名を目にしたような・・・・程度の認識しかないのが正直なところだ。

 だが、それはまあ、どうでもいい。ここではあくまで、ひとつの新しい創作オペラとして聴き、観るだけである。プログラム冊子に室田尚子さんが寄稿している「オペラと少女マンガの蜜月が始まる」という一文の趣旨も大いに結構であろう。もしかすると、少女マンガの世界は、オペラ化するには絶好の素材なのかもしれない━━。

 しかし今回、実際に第1幕だけを聴いた印象を正直に言わせてもらうなら、ストーリーは別として、失礼ながら音楽が━━美しいけれどもつまらないのだ。言葉にただフシを付けただけでは、民謡的な歌曲ならそれでいいけれども、大きな劇的起伏を必要とするオペラにまで達することはできないだろう。
 3幕構成で、進行表には演奏時間が各50分、60分、70分と発表されていた。

2020・1・8(水)ロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ「ドン・ジョヴァンニ」

      TOHOシネマズ・シャンテ  6時15分

 昨年10月8日のロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)上演ライヴ、カスパー・ホルテン演出、ハルトムート・ヘンヒェン指揮によるモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」。

 アーウィン・シュロットが歯切れのいいタイトル・ロールを歌い演じ、その他、ロベルト・タリアヴィーニ(レポレッロ)、マリン・ビストローム(ドンナ・アンナ)、ミルト・パパタナシュ(ドンナ・エルヴィーラ)、ダニエル・ペーレ(ドン・オッターヴィオ)、ルイーズ・オールダー(ツェルリーナ)、レオン・コザヴィッチ(マゼット)、ペトルス・マゴウラス(騎士長)が共演している。

 音楽的な面では、指揮もオーケストラも、歌手陣に関しても異論はない。モーツァルトの音楽の、それも木管の使い方の素晴らしさに今日も堪能することができた。

 演出はカスパー・ホルテンだから、また何か面白い新解釈があるのだろうと期待していたが、案の定、面白い着眼点がいくつか見られた。
 最大のポイントは、ドン・ジョヴァンニが自ら手をつけた女性たち━━特にドンナ・エルヴィーラとドンナ・アンナが不幸な境遇に陥り、苦悩する姿を目の当たり見て深刻な後悔に苛まれるあたりだろう。彼はその2人の各々最後のアリアを聴き、大きな打撃を受ける(アンナのアリアがオッターヴィオ相手にでなく、ジョヴァンニに対して歌われるところも新解釈だ)。

 そして最後の宴会の場面は、騎士長の登場を含め、ドン・ジョヴァンニの幻想として描かれているのが新機軸だ。また、地獄落ちの音楽が終るか終らぬかのうちに、いきなり最後のアンサンブルの後半のプレストの部分「悪者の末路はこの通り」が、あたかも天から響く声のように背景から沸き起こり、それがドン・ジョヴァンニを包み込んで行くのも面白い━━モーツァルトがこのプレスト個所をまずドンナ・アンナとドンナ・エルヴィーラの2人で歌い出すように作曲しているのは、やはり意味があったのだろうと思わせる。

 なお、このフィナーレ・アンサンブルの前半(アレグロおよびラルゲットの部分)をカットする方法には、以前にもどこかの上演で出会ったような記憶がある。その時は腹を立てたのだが、今回のホルテン演出版でもそれが行われていたということは、これは案外「市民権」を得ている方法なのかもしれない。ただ、プラハ版やウィーン版の問題に比べ、明確な根拠を示す資料には、私は未だ接していないのだけれども。

 それともうひとつ、見事だったのは、プロジェクション・マッピングの活用だ。背景だけでなく、人物の衣装までを一瞬のうちに変えてしまい、生身の人間を亡霊のような姿にしてしまう。当節の演出は、全く便利な(?)ものだな、と感心させられる。

 上映時間は20分の休憩を含み3時間50分。ただし最初の15分は、延々と所謂CMばかりだ。時間がもったいないような気がして閉口した 試写室で試写を観る方が、よほど効率がいい。

2019・12・27(金)太田弦指揮大阪交響楽団の「第9」

       ザ・シンフォニーホール  7時

 最近注目されている新人指揮者の一人、太田弦(大阪響正指揮者)の指揮を初めて聴く。
 今年25歳、札幌出身で東京芸大に学び、2015年の東京国際音楽コンクールの指揮部門で2位になった人だ。彼は先日、東京で新日本フィルを指揮する演奏会を予定していたが、「原因不明の高熱」のため降板を余儀なくされていた。
 今回はベートーヴェンの「第9」を元気で指揮できたのは祝着。

 これは感動の第九」と題された特別演奏会。共演の合唱は「はばたけ堺!合唱団」と「大阪交響楽団 感動の第九 特別合唱団2019」、声楽ソリストは四方典子、糀谷栄里子、二塚直紀、萩原寛明。コンサートマスターは森下幸路。

 さて、その太田弦の指揮だが、第1楽章序奏の四度と五度の下行モティーフが、昔のワルターの指揮と同じように非常に鋭く奏され、続く第1主題もかなり鋭角的なアクセントを以って演奏されはじめたので、これはなかなか面白いことをやる指揮者だなと思い、この音型が全曲を統一する役目を持っているからには、それを巧く展開してくれるのかと期待したのだが━━。
 残念ながらそのあとは、その鋭いメリハリも薄らぎ、ごく普通のスタイルになって行ってしまったのはどういうわけか。

 少なくとも今日の「第9」を聴いた範囲で言うなら、彼の指揮はどうも譜面上の正確さだけを追い求めることに集中していたような印象がある。音楽が崩れないように、ただきちんと演奏することだけにこだわった指揮のように聞こえてしまったのである。

 経験の少ない若い指揮者が「第9」を指揮した時に、「未だ早い」とか、「深みが足りない」とか言って批判するような気は私にはないし、誰であろうと若いなりの感性による「第9」を演奏する権利があると思うのだが、それならもっと、傍若無人でも大暴れでもいいから、若者らしい気魄、思い切って冒険を試みる精神が欲しいのである。ただ生真面目に、常識的に演奏された「第9」では面白くない。
 魔性的な陰翳を表現するのは無理としても、せめて抑え難い感情の昂揚、熱狂といったものがなければ、「第9」という巨大な世界へのアプローチにはなり得まい。━━ただ、今日の演奏では、第3楽章が清らかな叙情を湛えて、これは良く出来た演奏と言えるものだったと思われる。

 なお「第9」のあとに、アンコールのような形で、声楽を加えた「蛍の光」が演奏された(このオーケストラ編曲はなかなか良かった)。
 合唱団は、かなりの人数ではあったものの、些か粗く、パワーも少々弱い。「第9」では、ほんの1度だけだが、2人か3人、女声で「飛び出し」た人がいたけれども、余程経験のない人たちだったのか。

 声楽ソリストでは、萩原が少し物々しく凝った歌い方だったものの、概して好演だった。
 この声楽ソリストたちはアンコールの「蛍の光」にも参加していたのだが、カーテンコールで指揮者がソリストたちに対して全く「讃え」ず、最後も自らとオーケストラのみの答礼だけで終らせてしまったのには、ステージマナーとして違和感が残った(普通は大トリでもう一度声楽ソリストたちをも呼び戻すものだろう)。

 なお今日は、「第9」の前に、池田洋子をソリストに、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」が演奏された。各楽章それぞれが、こんなにも一定のテンポ、一定のニュアンスのままで演奏されたのを聴いたのは、初めてである。
 9時20分頃終演。

2019・12・22(日)びわ湖ホール声楽アンサンブル
クリスマス・ロビー・コンサート

   びわ湖ホール・ロビー  11時

 午後2時半からの「神々の黄昏」のオペラ入門講座をホール向かい側の「コラボしが21」で担当するので、その前にこのコンサートを覗く。

 因みにこのオペラ講座は、びわ湖ホールで毎年3月に1作ずつ上演している4部作「ニーベルングの指環」に関連したもので、したがってこれで4年目になる。
 160人もの聴講参加者にお見えいただくとは恐縮の至りだ。が、このうち実際に「神々の黄昏」の公演を観る予定の方は4分の1か5分の1に過ぎない由。それゆえあとの方たちは「単なる勉強」として来られるわけなのだろう。見上げたものである。

 公演の方はすでに完売しきっているそうだから、今更チケットを入手できるわけもない。ところが、びわ湖ホールはその救済策としてというのか、関連企画として、以前の「METライブビューイング」で紹介されたあのロバート・カーセン演出の「指環」4部作を、中ホールで上映してみせるそうな。松竹からの売り込みがあったからなのかどうかは知らないけれども、とにかく念の入った「親切な」企画ではある。
 しかも、そのうち「ジークフリート」までの3つの映画を先に上映(2月24日、29日、3月1日)しておき、「神々の黄昏」はオペラ公演の本番(3月7・8日)が終ってから、4月4日に上映するというのだから、これまた何とも凝りに凝った作戦といえよう。

 さて、今日のコンサートのほう。たった30分のコンサートだが、無料ということもあって、たくさんの聴衆を集めていた。大川修司(びわ湖ホール声楽アンサンブル指揮者)の指揮、左成洋子のピアノで、12人のびわ湖ホール声楽アンサンブルがクリスマス・ソング集や「こうもり」(J・シュトラウス)の「シャンパンの歌」などを歌い、最後に「きよしこの夜」を、お客さんと一緒に歌う。

 会場は、テレビでこの合唱団が歌う時にいつも映されるホワイエの臨時特設ステージだ。このホワイエは広いし、明るいし、ガラス戸越しに琵琶湖が広がっているのが見えるし、音もよく響くし、コンサートにも絶好だ。同一平面上にレストランもあり、資料室もあり、それらのどこにいても、程度の差こそあれ、演奏が聞こえるようになっているというわけで、━━全くこのホールは巧く設計されているものだと、足を踏み入れるたびに感心する。

2019・12・20(金)ロイヤル・オペラ・シネマ「ドン・パスクワーレ」

       東宝東和試写室  3時30分

 1月10~16日に東宝東和系映画館で公開される、ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)の10月24日の上演ライヴ映像、ドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」を観る。上映時間は休憩1回を含め、約3時間。

 今回はダミアーノ・ミキエレットの演出で、全体としては洒落っ気のあるステージだ。 
 ただし大詰の場面は、先日(2019年11月13日)の新国立劇場での演出に輪をかけたエイジ・ハラスメントになっていて、こんなのに盛大な拍手を送る高齢者はどうかしているとしか言いようがないが、まあ人間の出来た寛容なご老人方は、気兼ねなくご覧になるがよろしかろう。

 とにかく、その舞台の美術(パオロ・ファンティン)が、簡素ながら洒落ているのだ。銀色に輝く骨組みだけの屋根、ドアはあっても壁のない部屋のつくりなども悪くないし、悪妻ノリーナの濫費の所為もあって家具や乗用車が━━おまけにメイド(黙役だが味あり)の服装まで━━グレードアップして行くという念の入れようなど、吹き出したくなるような趣向もあることは事実なのである。
 パスクワーレが、ノリーナの落して行った「手紙」を盗み見る場面が、彼女が忘れて行ったスマホを覗き見る設定に変えられているところなどは、当節流行りの手法だ。

 それに、演奏がいい。意外に好人物風に見える設定のドン・パスクワーレを歌い演じたブリン・ターフェルはこの役が初めてだという話だが、悪役ばかりがおれの持ち味ではないぞと言わんばかりの好演が印象に残る。狡猾なマラテスタ役のマルクス・ヴェルバと、豹変するノリーナ役のオリガ・ペレチャッコは、演技はさほどではないが歌唱で聴かせていた。ターフェルとヴェルバの早口の掛け合いの二重唱は見事である。
 エヴェリーノ・ピドの指揮も、いつぞやのROHでの「ホフマン物語」と同様、手慣れたものだ。

2019・12・16(月)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  7時

 首席客演指揮者アラン・ギルバートが登場。日本の聴衆にも大変な人気だ。
 今日はマーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」を指揮したが、拍手も、特に演奏後に浴びせられた歓声もひときわ大きく、ソロ・カーテンコールも繰り返された。
 今日のコンサートマスターは矢部達哉。

 今回はアンダンテ・モデラートの楽章が第2楽章に、スケルツォが第3楽章に置かれ、また第4楽章では、マーラーが改訂の際に削除した「3度目のハンマー」が復活されるという形。
 都響もホルン群を筆頭に各パートが充実、アンサンブルのバランスも最良の部類に属し、熱演と呼んでもいい演奏になっていたと思う。

 それに対しては敬意を表するのだが、半面、あまりにエネルジコ(精力的に力強く)一本で押しまくった感も免れない。その所為もあって、この演奏には「悲劇的」というイメージはほとんど感じられなかった。
 そういった標題音楽的要素に敢えてこだわるつもりはないのだが、たとえば第4楽章などになると、それを無視するわけにも行くまい。

 つまり、何度か音塊が緊張度を高めつつ激しく寄り集まって行き、それらが頂点に達するたびに、ハンマーの強烈な一撃で崩壊する、というこの楽章の構造━━標題音楽的に言えば、「英雄」が力を振り絞って何度か闘いを試みつつも、その都度「運命」たるハンマーにより打撃を受けるという過程が繰り返され、「3度目の打撃」ではついに再起不能の絶望に陥る、というストーリーになるわけだが━━それを描き出すための音楽の大きな起伏と変化が、今回はどうも明確に感じられず、全体がただ力任せの演奏になり過ぎていたのではないか、ということなのである。

2019・12・14(土)ラモー:「ピグマリオン」

     いずみホール  2時

 大阪で、いずみホールの意欲的なシリーズ、故・礒山雅氏の企画・監修による「古楽最前線!」の一環、「いずみホール・オペラ2019」としてのラモーの「ピグマリオン」上演を観る。

 バロック・オペラの上演される機会のあまり多くない日本では、この種の企画は極めて貴重だ。また、中型ホールとしてのほどよい空間性や音響の良さなどの点でも、このいずみホールはバロック・オペラの上演にちょうど手頃な会場と言えるかもしれない。

 今日の第1部は、リュリの「アティス」「町人貴族」「アルミード」からのいくつかの音楽と、2番目にコレッリの「ラ・フォリア」を挟み込んだプログラムで構成され、これらでは演奏の他にバロック・ダンスが織り込まれる。そして第2部ではラモーの「ピグマリオン」全曲が演奏され、ここではコンテンポラリー・ダンスが織り込まれるという具合だ。

 中心となっているのは、寺神戸亮が率いるバロック・オーケストラ、レ・ボレアードだが、北とぴあでの「リナルド」上演からたった2週間ほどしか経っていないというのに、かくも充実した演奏を聴かせてくれるのだから立派なものである。
 また歌手陣には波多野睦美、鈴木美紀子、佐藤裕希恵が出演。バロック・ダンスは松本更紗、コンテンポラリー・ダンスは酒井はな、中川賢。合唱はコルス・ピグマリオーネス。演出が岩田達宗、振付が小尻健太。

 オーケストラは舞台奥の一段高い山台の上に配置され、演技とダンスは舞台前方のスペースをいっぱいに使って行われる。このダンスの挿入は今回の上演の目玉とでもいうべきもので、所謂「オペラ・バレ」のスタイルを応用した舞台の試みであった。
 特に第1部での松本更紗のバロック・ダンスは美しく、アルルカン(道化)の役でも才気ある表現で観客を楽しませた。

 ただ、欲を言えばだが、その折角のダンスも━━若干の照明が加えられていたとはいえ━━それが何も装飾のない裸の舞台上で行われていたため、視覚的に些か殺風景な雰囲気に取り巻かれていたという印象を免れない・・・・つまり、玲瓏たる雰囲気は、あまり感じられなかったのである。
 たとえば、簡単でいいから、カーテンか何か、清涼な背景装置のようなものがあって、それに照明演出が施されたりしていたら、その前で繰り広げられるダンスもさらに洒落たものになるのではないか、という気もするのだが。

 しかし、上演全体としてはすこぶる良かった。いい企画だった。そして何よりもまず、音楽そのものが素晴らしかったのである。

2019・12・13(金)L’espace String Quartet

     旧東京音楽学校奏楽堂  6時30分

 「レスパス」という名の、若手たちの弦楽四重奏団。活動開始は2011年の由。鍵冨弦太郎(第1ヴァイオリン)、小形響(第2ヴァイオリン)、福井萌(ヴィオラ)、湯原拓哉(チェロ)という現在のメンバーになったのは、2014年からだそうである。

 今日のプログラムは、第1部がハイドンの「騎士」とヤナーチェクの「クロイツェル・ソナタ」。第2部がクラリネットの西崎智子を迎えてのブラームスの「クラリネット五重奏曲」というものだった。

 私はこの弦楽四重奏団を、少なくともナマ演奏では初めて聴く。
 冒頭のハイドンは、緊張の所為だったのか、練習不足ででもあったのか、何とも不安定な出来に終始したが、プロの演奏家である以上、こういうことは困る。

 だが、幸いなことにヤナーチェクでは演奏にも陰翳が生じて持ち直し、ブラームスではこの曲に相応しいしっとりした表情が演奏に溢れて行った。
 ただし音楽が高潮する個所では、弦が鳴り過ぎてクラリネットをマスクしてしまうことがしばしばあったのだが、このあたりはゲストのソロ楽器とのバランス━━つまり室内楽のアンサンブルの構築にもっと研鑚を積んでもらいたいところのように思われる。

2019・12・11(水)秋元松代作 長塚圭史演出 「常陸坊海尊」

      KAAT神奈川芸術劇場 ホール  2時

  常陸坊海尊は、源義経の奥州での最後の戦いの前に「帰らずして失せにけり」となったということでさまざまに批判されてきた人物だが、その後何世紀にもわたっていろいろな場所に姿を現すという不思議な伝説の持主でもある由。

 この新作演劇では、その海尊が全ての迷える者たちの罪障を一身に引き受け、精神的な慰めを与える存在として結論づけられているらしい。
 らしい、と書いたのは、3時間以上(10分の休憩2回を含み、終演は5時を過ぎた)経ってからその結論が唐突に出るので、なるほどそうかと思うには多少考えを整理しなければならないからだ。

 とはいえ、それまでの物語には、「本州さいはての地」を舞台に、あふれる東北弁(みんな上手い!)の響きの裡に、イタコの魔力、太平洋戦争中の学童疎開、十数年後の学友の再会など、涙を催させる感動的な場面がいくつもある。
 時代を隔てた3つの幕が、いずれも「海尊さま!」という叫びをキーワードとしているところに、いつの世にも救済を渇望する人々の姿が象徴されているというわけであろう。

 主演は白石加代子(イタコのお婆)、中村ゆり(巫女)、平埜生成(啓太)他。
 白石加代子という人は、あの物々しい喋り方が私には昔から苦手だった。だが、いざ芝居となるとまさに圧倒的な存在感を示すのは、流石というほかはない。今回は魅了された。

2019・12・9(月)ベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ

      東京文化会館小ホール  7時

 ヴァイオリンの日下紗矢子がリーダーを務めるベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ。メンバーはもちろんあのベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(旧東独ベルリン響)に所属する人たちが中心だ。
 今年が結成10周年にあたるが、これが早くも4度目の日本公演になる由。弦12人にチェンバロを加えた計13人編成による来日である。

 この団体の演奏を聴いていると、その音色には、彼らの母体たるオーケストラが、その本拠としている壮麗なベルリンのコンツェルトハウス(昔のシャウシュピールハウス)で響かせる特徴がそのまま映し込まれているような気がする。飾り気のない、剛直で、重厚さを備えた響きだ。イタリア・バロックを演奏する時でさえ、それは変わらない。
 月並みな表現になるけれども、所謂良き時代のドイツのローカル色を未だに残している貴重な個性といっていいかもしれない。こういう独自の個性を持ち、それを守り抜いているオーケストラは、当節では貴重である。

 前半にはコレッリ~ジェミニアーニの「ラ・フォリア」、ヴィヴァルディの「ムガール大帝」、コレッリの「クリスマス協奏曲」といった合奏協奏曲やヴァイオリン協奏曲が演奏され、日下紗矢子が全てのソロを鮮やかに、烈しい気魄を迸らせて弾いた。
 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の第1コンサートマスターとして長年活躍している彼女の実力が、今回も日本のファンにはっきりと示されたであろう。

 後半には弦楽合奏の形で、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」とグリーグの「弦楽四重奏曲ト短調」(日下紗矢子編)、アンコールとしてレスピーギの「《リュートのための古風な舞曲とアリア》第3組曲」からの「イタリアーナ」と、グリーグの「ホルベアの時代から」の「リゴードン」が、これまたいずれも極度に強靭な力感と鋭角的なニュアンスを以って演奏された。

 エネルギーには富んではいる。が、その硬質な響きが、しばしば過剰に攻撃的な色合いを帯びてしまうのは、必ずしもホールのアコースティックの所為だけとも思えないのだが━━。

2019・12・7(土)ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管と藤田真央

      東京文化会館大ホール   6時

 生誕180年を来年に控えての、ゲルギエフの「チャイコフスキー・フェスティヴァル」その最終公演は、「ピアノ協奏曲第2番」と「交響曲第5番」。

 協奏曲は、当初の予定ではセルゲイ・ババヤンがソロを弾くことになっていたが、如何なる事情か「本人の都合により」キャンセル、替わって藤田真央が登場した。
 まあ、ババヤンには悪いが、これはかえって歓迎すべき人選だった。今年のチャイコフスキー国際コンクールで第2位となり、人気の沸騰している藤田真央が━━しかも「1番」でなく「2番」を聴かせてくれるとなれば、これ以上のことはない。

 彼については以前からゲルギエフが絶賛していたので、まるで今回のフェスティヴァルに出演予定の無かった彼をゲルギエフが突然起用するべく秘かに手を回したのではないかとさえ思えたほどだが━━まあ、そんな憶測はともかく、この藤田真央の演奏は予想以上に素晴らしく、煽り立てるゲルギエフとマリインスキー響相手に一歩も退かず、鮮やかで瑞々しいソロを聴かせてくれた。スケール感という点では未だしのところもあるが、準備期間も短かったはずなのに、よくぞあそこまで仕上げたものだと、ただもう感嘆するのみである。

 彼がソロ・アンコールで弾いたグリーグの「愛の歌」も美しかった。このアンコールの間、ステージ下手側の袖近くにゲルギエフが立ったまま聴いていたのは、若手をソリストに起用した時のゲルギエフのいつもの癖である。

 休憩後は「第5交響曲」。弦とクラリネットが暗い音色で主題を演奏し始める冒頭個所を聴くと、ああロシアのオーケストラ!という懐かしさが湧いて来る。
 ただ、そのあとは最近のゲルギエフとマリインスキーの傾向で、あまりロシアの土俗的な香りのしない演奏になってしまっていた。音色に陰翳が希薄で、響きが異様に鋭いのも気にかかる。昔のゲルギエフとマリインスキーの音は、こうではなかった・・・・。

 先日の「悲愴」でもそうだったが、譜面台を置かずに暗譜で指揮をする時のゲルギエフは、音楽のつくりがいっそう自由で、テンポや強弱の変化が大きくなる。
 それ自体は悪くないのだが、今日は、なぜこんな個所でいきなりテンポを落したり音を弱めたりするのかなと訝られるような━━敢えて言えば作為的にさえ感じられるところがいくつかあったのだ。昔のゲルギエフには、こんなことはなかった。変幻自在といえども、もっと自然に流れていた・・・・。

 とはいえ、ここぞという個所での盛り上げが強烈なところは、いつものゲルギエフである━━「第5交響曲」の第4楽章終結部は、その一例だ。
 アンコールは「くるみ割り人形」の「パ・ド・ドゥ」。この曲の演奏にも、これらのことが全て当てはまる。

2019・12・5(木)ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管「悲愴」他

      サントリーホール  7時

 ゲルギエフの「チャイコフスキー・フェスティヴァル」が「交響曲・協奏曲篇」(3日間・計4公演)に入った。
 今日はその初日で、「交響曲第1番《冬の日の幻想》」、「ロココの主題による変奏曲」(チェロのソロはアレクサンドル・ブズロフ)、「交響曲第6番《悲愴》」。

 ただでさえ長いプログラムの上に、ブズロフがソロ・アンコール(バッハの「無伴奏チェロ組曲第3番」からの「サラバンド」)まで弾くものだから、休憩後の「悲愴」に入ったのが何と8時50分。その演奏終了は9時37分頃になった。
 もっとも、そのブズロフ(モスクワ生れの36歳)のチェロの音色は極めて美しく、しかも芯のしっかりした表情を備えていて、「ロココの・・・・」を品のいい、形式感の明快な作品として再現してくれたのは確かである。

 交響曲の方は━━「冬の日の幻想」の演奏には、何かひとつ底の浅さと、力感に頼りすぎたような表現が感じられ、もどかしい思いにさせられたのが正直なところだ。
 だが、「悲愴交響曲」におけるゲルギエフの演奏構築には、いつもながら、実に綿密な設計が聴かれる。

 中間2楽章は極めて速いテンポに設定される。第2楽章は、一般にはしばしばアンダンテかアレグレットのテンポで演奏されることが多いのだが、ゲルギエフは作曲者の指定通り、アレグロのテンポで演奏していた。いっぽう、第3楽章でのスコアの指定はアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェだが、今日のゲルギエフのテンポは、ほとんどプレストというイメージのものだった・・・・。

 今日の演奏で真に感動的だったのは、やはり両端楽章である。第1楽章では再現部に怒涛の如き頂点が置かれ、疲れと諦めのようなコーダへ沈静して行く。その流れがすこぶる見事だった。

 そしてこの曲の原標題「パテティーク」の本来の意味である「感情豊かに」が、最もリアルに表現されたのはやはり第4楽章においてであろう。特に楽章後半、荒れ狂った悲痛な激情がタムタムの一撃により堰き止められ━━ゲルギエフは、この一撃の余韻を、スコア指定よりも長く引き延ばしたが、その長い余韻は、タムタムを本当に運命の暗い一撃のように感じさせたのである。

 それゆえ、そのあとの「poco rallentando」から「quasi Adagio」に至る経過句は、衝撃に打ちのめされたように、間を置いてからゆっくり入って来る。
 そしてそれが消えると、ゲルギエフは、最後のアンダンテの前に、もう一度長い休止を置く。その沈黙は実に感動的な効果を生み、続くアンダンテ━━事実上のアダージョだが━━の個所を、どうしようもないほどの諦めと絶望感に満ちたものにしてしまう。止めどなく沈み込んで行くその音楽は、聴き手を救いようのない深淵に引きずり込んで行くのである。

 こうして闘いは終った・・・・。チャイコフスキーが「この曲にはプログラムがあるが、それはあくまで謎だ」と書き残していた「標題性」が意味するところはまさにそこにあったのだ━━と聴き手に確信させるゲルギエフの指揮であった。

2019・12・4(水)ミカラ・ペトリ リコーダー・リサイタル

      サントリーホール ブルーローズ(小ホール) 7時

 懐かしい。私が放送現場にいて、演奏会を録音した時は、まだ可愛らしい妖精のような美少女だった。

 久しぶりに彼女の演奏会に足を運ぶ。今でも上品で美しく、とろけるような優しい笑顔の素晴らしいひとである。
 今回はギターのラース・ハンニバルとハープの西山まりえとの協演で、バッハの「ソナタBWV1033」に始まり、コレッリの「ラ・フォリア」、ヘンデルの「ソナタHWV377」、グリーグの「スプリング・ダンス」や「つまづき踊り」、マルチェッロの「アダージョ」、作者不詳の「グラウンドによるグリーン・スリーヴス」などのプログラムが演奏されて行った。

 大小さまざまのリコーダーを頻繁に持ち替え、時にはユーモラスに多彩な音色を披露、この上なくあたたかい雰囲気で私たちを包んでくれた。

2019・12・2(月)ゲルギエフ&マリインスキー 「マゼッパ」(演奏会形式)

      サントリーホール  6時

 冒頭、11月30日に帰天したマリス・ヤンソンスを偲び、今日の演奏会を彼に捧げることと、全員で黙祷したいというゲルギエフの提案が場内アナウンスにより紹介された。

 チャイコフスキーのオペラ「マゼッパ」は、今回が日本初演か? ほとんど知られていないオペラなのに、しかも舞台上演でなく演奏会形式上演なのに、予想以上に客席が埋まっていた。お客さんの熱心さには、心を打たれる。

 幸いにして私はこれまで、MET、リヨン歌劇場、ベルリン・コーミッシェ・オーパーなどで計3回、舞台上演を観る機会を得た。ゲルギエフやキリル・ペトレンコが指揮していたそれらの公演はいずれも見事なものだったが、しかしチャイコフスキーの音楽そのものに心底から没頭できたのは、今回が初めてである。
 それは何よりも演奏会形式という、表現力豊かな大編成のオーケストラを舞台上に上げての、しかも妙な(?)演出に気を取られることなく音楽に集中できる形で上演されたことのおかげだろうと思う。

 今回の上演では、30分足らずの休憩を1回のみ、第2幕第1場(牢獄の場)の後に入れての演奏となった。これは作品全体のバランスを考えれば、賢明な方法だろう。
 弦14型編成のマリインスキー響は、ステージ上に大規模な山台を置いて配置され、ゲルギエフの劇的で緊迫感に富む指揮のもと、実にたっぷりと豪壮に、しかも切れのいいシャープな響きで鳴り渡る。
 かつてのこのオケが持っていたロシアの装飾品の色彩を思わせる翳りのある音色ではなく、明晰でインターナショナルな音色で響いて来るのは、「スペードの女王」の時と同じである。

 一方、歌手たちはオーケストラの前で非常に詳細な演技を行いつつ、暗譜で歌う。この演技が堂に入っているのは、歌手たちがほぼ全員、すでに最近マリインスキー劇場での舞台上演で演じていたからにほかならない。若い世代の人が多いが、だれもかれも、揃いも揃って声が力強い。

 その歌手陣は次の通り━━ウラディスラフ・スリムスキー(ウクライナの統領マゼッパ)、ミハイル・コレリシヴィリ(その配下オルリク)、スタニスラフ・トロフィモフ(ウクライナの大地主コチュベイ)、アンナ・キクナーゼ(その妻リュボフ)、マリヤ・バヤンキナ(その娘、マゼッパの妻となるマリヤ)、エフゲニー・アキーモフ(マリヤを愛する青年アンドレイ)、アレクサンドル・トロフィモフ(コチュベイの同志イスクラ)、アントン・ハランスキー(泥酔したコサックの男)。

 ゲルギエフはマリインスキー・カンパニーを引き連れて日本公演をやるたびに、あとからあとから、次々と新世代の優秀な歌手たちを連れて来ているが、その歌手の層の厚さにはいつもながら驚くばかりだ。
 もう一つ、合唱の凄さも忘れてはならない。P席中央に配置されたマリインスキー劇場の合唱団は、わずか60人の編成ながら、そのパワーはオーケストラを圧するほどの強靭なものであった。

 総帥ゲルギエフの、音楽上の演出力、持って行き方の巧さは格別だ。このオペラをこれほど纏まりよく、スリリングに、退屈させずに聴かせてくれる指揮者は、彼を措いてそうはいないだろう。
 ゲルギエフは、やはりロシア・オペラを指揮する時が最高だ。

 なおこれは━━批判として言うのではないが、今日は正面オルガンの下のやや下手側に配置されていた金管のバンダの音が、「ポルタワの戦い」で一緒に行進曲を演奏する時に、何分の1秒か遅れて響いて来るのが、えらく気になった。2階席最前列で聴いていてさえこうだから、さらに距離の遠い2階席最後方では、もっとずれて聞えるのではないかしらん。ファンファーレならともかく、細かいリズムでオケ本体と一緒に演奏する際には、この「音の伝達速度」は難しい問題だ。
 以前、東京文化会館でヴェルディの「レクイエム」を演奏した某オケの楽員さんが、5階席てっぺんで演奏している「トゥーバ・ミルム」のラッパがステージ上の自分たちの音とずれて聞えるのでやりにくくって・・・・とぼやいていたのを思い出す。

2019・12・1(日)ヘンデル:オペラ「リナルド」

      北とぴあ さくらホール  2時

 「北とぴあ国際音楽祭2019」の最終日、ヘンデルの「リナルド」の2日目を観る。有名なアリア「私を泣かせて下さい」を第2幕に含むオペラである。

 寺神戸亮のヴァイオリンと指揮、レ・ボレアードの演奏、佐藤美晴の演出。
 歌手陣は、布施奈緒子(キリスト教徒軍総司令官ゴッフレード)、フランチェスカ・ロンバルディ・マッズーリ(その娘アルミレーナ)、クリント・ファン・デア・リンデ(キリスト教徒軍の将軍リナルド)、フルヴィオ・ベッティーニ(エルサレムの王アルガンテ)、湯川亜矢子(ダマスカスの女王で魔法使のアルミーダ)ほか。
 オーケストラをステージに載せ、歌手たちはその前で演技を繰り広げる形で、ほぼセミステージ形式上演と言ってもいい。

 オペラは十字軍時代、キリスト教徒軍の英雄リナルドを主人公に、最後にキリスト教徒軍が大勝利を収め、敗れたエルサレム王アルガンテとダマスカス女王アルミーダが前非を悔いて改宗する━━という内容。当時のオペラによく見られる、いかにも西欧のキリスト教徒側に都合のいい物語だ。
 ただこちら「リナルド」には、ハイドンの「アルミーダ」などとは違い、異教徒の指導者たちを単に残虐な者たちとしては描いていないという特徴がある。いずれにせよ、キリスト教とイスラム教の対立がますます深刻な問題となりつつある今日からすれば、これまでとは異なった解釈が加えられても然るべきドラマではあろう。

 ただし今回の上演は、特にそういう政治的なところには的を置かずに、ストレートに取り扱い、登場人物の性格、男女の心理の機微などを浮き彫りにすることを狙ったようだ。アルミーダとアルミレーナを1人の女性の両面を表わす存在として解釈したのは、あの「タンホイザー」でのエリーザベトとヴェーヌスの解釈にも似て興味深い。
 ともあれ、この小さな演技空間では、ドラマとしてあれこれ解釈を織り込むのは、どだい無理と申すものであろう。

 歌手の中では、アルミーダ役の湯川亜矢子が発音の明晰さ、イタリア語歌唱のメリハリの良さ、妖艶な演技表現などで際立っていた。彼女は昨年の「ウリッセの帰還」でもペネローペを歌って素晴らしかったという記憶がある。

 1995年以来のほぼ毎年、時にはモーツァルトのオペラなども含みつつ、バロック・オペラを集中して取り上げて来たこの音楽祭━━特にレ・ボレアードを率いる寺神戸亮の努力と実績は、偉とするに足る。

2019・11・30(土)ゲルギエフ&マリインスキー:「スペードの女王」

       東京文化会館大ホール  3時

 チャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」━━全曲冒頭、あの「第5交響曲」第1楽章第1主題と全く同じリズム動機を持つ愁いを含んだ序奏を聴くと、初めて真冬にロシアに行った時に見た光景が美しく蘇って来る。
 深い雪に包まれた街路、訪れた音楽団体の事務所に暖かく置かれていた優美で豪華な姿のサモワール・・・・。
 その雰囲気を一番気持快く思い出させてくれるのが、ワレリー・ゲルギエフとマリインスキー劇場管弦楽団の演奏なのだ。

 そのゲルギエフとマリインスキー管、今回は練習不足だったのか、アンサンブルがずれたり、金管が時々飛び出したりすることはあったけれど、全体としてはきれいな音を出した(聴いた席は1階19列)。
 1992年暮に初めて現地で聴いた時のような暗い色合いの音は既に全く失われ、今や透明で澄んだ音色が主体のオーケストラになっている。それも時代の変遷を物語るものだろう。何より、ゲルギエフ自身の音楽そのものが昔とは変貌しているのである。

 ところでこの「スペードの女王」は、マリインスキーが日本に持って来たプロダクションとしては、3つ目のものだ。最初はテミルカーノフの演出版(1993年の来日公演)、次がアレクサンドル・ガリービンの演出版(2000年の来日公演)。
 今回のは、2015年に制作されたアレクセイ・ステパニュクの演出になる舞台である。衣装(イリーナ・チェレドニコワ)こそロシア皇朝時代の華麗なものだが、その他の写実的な要素は一切排除し、どちらかと言えば象徴的なスタイルを採る。

 細かい演技を見せるのは、極端に言えば士官ゲルマン(ミハイル・ヴェクワ)と恋人リーザ(イリーナ・チュリロワ)のみだ。老伯爵夫人(アンナ・キクナーゼ)も、ゲルマンの友人たちのトムスキー伯爵(ウラディスラフ・スリムスキー)やエレツキー公爵(ロマン・プルデンコ)らも、みんな影のように動く。まして街路を歩く群衆や、パーティの客人たちや、賭博場で騒ぐ連中などは、全て背景の舞台装置の一環のようにしか設定されていない。

 さらに注目すべきは舞台装置(アレクサンドル・オルローフ)の一つ、12本ほどの大きな円柱で、これは頻繁に舞台全体を移動し、巧みに場面を構築する。例えばリーザとゲルマンが初めて愛を交わし合う場面では、音楽の高まりとともに、邸宅の居間を構築していたこの円柱群が激しく移動して視界から消え、2人が広い空間に解放されたことが表わされる。良いアイディアであろう。

 もう一つのポイントは、冒頭の序奏の間に1人の少年がカードで組み立てた城のようなものを弄び、1人の女性から3枚のカード(3、7、エース)を与えられるというシーンがあり、そしてラストシーンでは賭けに敗れた後に舞台前方に蹲るゲルマンの目を少年が優しく閉じてやる━━もしくは執念から解き放ってやる━━というシーンが設定されていることである。
 これは、さながらこの物語が、少年の一場の夢か、あるいはゲルマンの果敢ない幻想に過ぎないものだったのか、と疑わせるような効果を生み出していたのではないか。

 ゲルマンがト書きのように「自殺」しなかった設定は、あるいはプーシキンの原作をイメージしたのかもしれない(原作では、ゲルマンは精神病院に入る)。そういえば、この演出ではリーザもト書きのように運河に身投げする設定ではなかった(原作では、リーザはのちに幸せな結婚をすることになる)。

 全体として、よくまとまったプロダクションということが出来よう。前回のガリービン演出版よりは、完成度が高いと思われる。

2019・11・29(金)トマーシュ・ネトピル指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール 7時

 こちらは定期とあって、物凄い(?)プログラム━━モーツァルトの「皇帝ティートの慈悲」序曲、リゲティの「無伴奏チェロ・ソナタ」と「チェロ協奏曲」(チェロのソロはジャン=ギアン・ケラス)、第2部にスークの「アスラエル交響曲」。
 ゲスト・コンサートマスターは白井圭。

 オーケストラの定期演奏会のプログラムの中に無伴奏の作品と演奏を入れるというのは珍しいやり方だが、先頃ジョナサン・ノットと東響も似たようなことをやっていたから、最近の秘かな新手の流行アイディアなのかしらん。次の作品との有機的関連を示し、作曲家の肖像を多角的に描くという観点からすれば、そう悪いアイディアではない。もっとも、オケの側が、プログラムの足りぬ分はソリストにやってもらって━━ということであればチトずるいけれども。

 それにしても、ジャン=ギアン・ケラスのリゲティは、流石に聴きものだ。ソロでもコンチェルトでも、ピンと張りつめた凝縮力に富む演奏で、リゲティの陰翳を私たちに突きつけて来る。アンコールでの、バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」からの「サラバンド」が、これもまた圧巻だった。

 後半のスークの「アスラエル」は滅多に聴けぬ曲だが、ここではネトピルと読響が本領発揮の快演を繰り広げてくれた。
 この物々しい、長大な交響曲の裡に備わる雄弁な語り口、多彩な表情は、やはりナマで聴いた方が面白く味わえる。今日の演奏はいっそう物々しく剛直で、巌のような力強さに満ちていて、この曲をこれほどスリリングに聴けたのは私にとって初めての体験であった。

 ネトピル、今回の2つの演奏会では、その最も得意とする、絶対失敗しないレパートリーで日本の聴衆に己が存在を主張して見せた。あの「さまよえるオランダ人」からちょうど7年、かくて「救済は実現された」。

2019・11・25(月)マレク・ヤノフスキ指揮ケルン放送交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 これは都民劇場サークルの公演。
 チョ・ソンジンをソリストにしたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」と、シューベルトの「交響曲第8番《ザ・グレイト》」というプログラム。

 協奏曲では、冒頭のチョ・ソンジンの落ち着いたソロと、ケルン放響の弦の柔かな響きの拡がりが良かったが、その後の演奏には、どうも両者の呼吸に齟齬があったように━━特に第3楽章━━思われるので、触れるのはここまでにしておこう。

 シンフォニーの方は、ある意味で面白い演奏だったと言っていいが、とにかく恐ろしく攻撃的な「ザ・グレイト」だった。
 ティンパニの豪打はその象徴的なものだろう。ベートーヴェンの「5番」のような曲ならそれもいいが、ここではまるでボクシングをやっているシューベルトみたいに思えて、私は少々辟易した。

 いわば奔放な「ザ・グレイト」というか、アンサンブルも管のソロも、あちこち粗い。第1楽章冒頭のホルンのデュオは何とも自信無げだったし、第2楽章でのトランペットも何となく軍隊ラッパ的な、乱暴な吹き方だ━━特にあのホルンの天国的なエコーを通り過ぎて主題が戻って来たあと、フォルティッシモになる直前(第176~181小節、つまり【F]の前】)でのトランペットを、あんな風に荒っぽく吹かせ、「変なメロディ」(失礼)を前面に飛び出させた演奏は初めて聞いたし、驚いた。
 もっとも、乱暴でない個所では、時に浮かび上がる内声部の「本来は目立たぬ旋律」が、すこぶる新鮮な効果を生んでいて、そういった個所も少なからずあったのは事実なのである。

 ヤノフスキのテンポは非常に速い。第1楽章と第3楽章の反復指定はすべて遵守(但し第4楽章提示部の反復は無かった)していたにもかかわらず演奏時間は55分を切っていたから、相当速い方だろう。弦の奏者たちが大きな音を立てて物凄い勢いで譜面をめくることが何度かあった━━いいことではない━━が、これもそのテンポのせいだろう。

 しかしエネルギー感は、特に第4楽章では強力だった。コーダのクライマックス、コンサートマスターはじめ弦の奏者たちが全身を大きく揺らせながら2分音符を繰り返し弾いて行くさまは、何か一種の魔性的な祭典の中で踊る人々のような凄味を感じさせたし、もちろんその演奏も並外れた力を噴出させていた。ともあれ、良くも悪くも騒々しい「ザ・グレイト」だったが、その分、ナマ演奏ならではの面白さもあったのである。

2019・11・24(日)トマーシュ・ネトピル指揮読売日本交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 チェコ出身のトマーシュ・ネトピル(1975年生れ、エッセン歌劇場音楽総監督)が読響に初客演した。

 私は2008年7月7日にバイエルン州立劇場で彼がブゾーニの「ファウスト博士」を指揮するのを聴き、これは素晴らしい若手だ、と喜んで触れ回ったのだが、2012年3月14日に新国立劇場で「さまよえるオランダ人」を指揮した時には、オケとの相性が余程悪かったと見え、意外にもガタガタの演奏になってしまい、こんな指揮者ではないはずなのに、とがっかりした覚えがある。

 今回はそれ以来の7年ぶりの来日ということになるようだ。プログラムは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲と、「交響曲第38番《プラハ》」、プーランクの「ピアノ協奏曲」(ソリストはアレクサンドル・タロー)、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。コンサートマスターは長原幸太。

 「ドン・ジョヴァンニ」序曲が、轟くティンパニとともに猛烈なフォルティッシモで爆発した時には、ネトピル、やってくれたわ━━と溜飲を下げた思い。読響の鳴りもいい。この活気ある劇的な一撃で、前記7年前の不本意な演奏に対する充分な名誉挽回となったように思うのだが、如何であろうか。
 今回は読響との初顔合わせとあってか、その後はやや慎重な安全運転となっていたようだが、まずは意気込みのある演奏を聴かせてくれた。今週末にはもう一つ読響との演奏会があるので、更なる快演を期待したい。

 ただし今日のプーランクの協奏曲は、彼の指揮も読響も、いかにも素朴というか、洒落っ気の皆無の演奏で、苦笑させられたが━━。
 そのプーランクを弾いたアレクサンドル・タローも、オケに拮抗してか、いつもよりは力んだ演奏になっていたようだ。このコンチェルトは私の好きな曲なのだが、今日は何となく勝手が違ったという感。
 なお、そのタローはソロ・アンコールとして、ラモーの「優雅なインドの国々」の「未開人の踊り」を弾いた。このピアノ編曲版は初めて聴いたが、やはりオペラのオリジナルの方がリズミカルで、好い。

 もう一つ、「ドン・ジョヴァンニ」の序曲では、ふだんあまり聴き慣れぬ版が使われていた。あとで、もしかして昨年パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルが日本公演で演奏した(2018年12月12日の項)のと同じベーレンライターの演奏会用編曲版だったかな、と思い出し、読響事務局に問い合わせたところ、やはりそれだったとのこと。

2019・11・23(土)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  2時

 これは定期ではなく、「プロムナードコンサート」。ショスタコーヴィチの「祝典序曲」、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソリストはサスキア・ジョルジーニ)、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」および「1812年」。
 コンサートマスターは四方恭子。

 前2回の演奏会が硬派のプログラムだったのに対し、こちらは昔で言う「ポップス・コンサート」的な選曲だが、しかし指揮するのがインバルとなれば、シリアスな、手抜きの一切ない、がっちりとまとめられた演奏になる。
 特に堂々たる風格で聳え立っていたのは、「ロメオとジュリエット」だった。

 そして更に舌を巻いたのが、「1812年」の中で、「ラ・マルセイエーズ」を轟かせつつフランス軍が遠ざかり、音楽がロシア民謡に変わる(これは2個所ある)ところの各2小節の移行部分━━ホルンと木管群が順に音を重ねつつ転調して行く個所における、目くるめくような音色の変化の妙であった。この計4小節における都響の木管は、ずば抜けて素晴らしかった。

2019・11・22(金)ケンショウ・ワタナベ指揮東京フィル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 一度聴いてみたいと思っていた指揮者だ。彼は昨年夏の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」で指揮したことがある(私はその演奏会は聴けなかった)。
 日本では未だほとんど知られていないが、今春まで3シーズンにわたり、音楽監督ヤニク・ネゼ=セガンの下でフィラデルフィア管弦楽団のアシスタント指揮者を務めていた若手(32歳)だ。今年1月31日~2月2日の同楽団定期演奏会に起用され、チャイコフスキー・プロ(第1交響曲「冬の日の幻想」他)を指揮している。

 聞くところによれば、彼は日本人の両親を持つ人で、名前の日本語表記は渡辺健翔なる由。
 それがわざわざケンショウ・ワタナベとなっているのは、きざな芸名というわけではなく、マネージャーがアメリカの団体だからだとか、「セイジ・オザワ松本フェス」デビューの際にそういう表記だったから今回もそうなった、とか、子供の時から米国暮らしだったから、とか、いろいろな話を聞いたが、自分で確かめたわけではないから、真相は知らない。とにかく、今夜の演奏会が所謂「東京デビュー」になる、とのことである。

 指揮した曲は、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」(ソリストは舘野泉)と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」。
 とにかく若手らしく勢いのいい指揮をする人であり、小気味よい運びの音楽をつくる。長身痩躯、指揮棒を持たずに全身を躍動させてオケをリードする。

 ただ、最初の「ピアノ協奏曲」では、少々面食らったのは確かだ。冒頭個所など、普通の演奏なら、低音が神秘的に蠢き、それが夜明けのように光を帯びはじめる━━とでも言ったイメージになるものだが、今日の演奏ではそこが何とも荒々しく武骨に響きはじめたのである。
 そしてオーケストラを轟くばかりに鳴らすのだが、これがピアノと全く異質である。舘野泉さんも、もう昔のような水際立った爽やかなピアノではなく、むしろ翳りのある音色で、落ち着いた音楽を聴かせるというタイプの演奏家になっているだろう。ピアノの音がオーケストラの怒号にかき消されることが多かった。
 コンチェルトではソリストを立てる指揮のテクニックは未だしだな、と、私も途中で諦めてしまった。

 なお舘野さんは、ソロ・アンコールでスクリャービンの「夜想曲 作品9の2」(左手のための)を弾いてくれたが、これが実にあたたかく、聴き手の心にしみじみと食い入って来る演奏だった。

 だが予想通り、第2部の「巨人」では、ケンショウ・ワタナベの指揮の長所が一気に花開く。
 まず、音楽の流れがいい。第1楽章で「さすらう若人の歌」にも出て来るあの歌謡主題を支えるチェロのピッツィカートが、何とまあ快く爽やかなリズムとテンポで進められること。第3楽章を除く3つの楽章で、頂点へ向けて盛り上げる個所では、躊躇うことなくテンポを速めて一気に持って行くあたりも、若者らしくて好ましい。

 音を明確に響かせ、普通なら内声部に隠れて目立たぬモティーフをも、時にはっきりと浮き立たせるので、作品に新鮮感を生み出させる。エンディングの音をアクセント豊かに決然と叩きつけるところは昔のトスカニーニばりの強烈さだ。曲の前半ではオケの細部に粗さもあったが、次第にオケとの呼吸も合って来たようで、第4楽章では絶妙のピアニッシモをも聴かせていたのだった。
 いずれにせよこの人は、面白い指揮者だ。期待しよう。

 東京フィル(コンサートマスターは近藤薫)も、特に後半、よくこの若手を盛り立てていたようだ。

2019・11・21(木)東京二期会 オッフェンバック:「天国と地獄」

    日生劇場  6時30分

 東京二期会が「天国と地獄」を取り上げるのは、1981年の第1回(立川清登、島田祐子らが出演)以来、これが4度目になる。今回は大植英次の指揮、鵜山仁の演出、東京フィルの演奏だ。

 初日の今日の配役は、ジュピターを大川博、プルートを上原正敏、オルフェを又吉秀樹、ユリディスを愛もも胡、ジョン・スティクスを吉田連、ジュノーを醍醐園佳、他といった顔ぶれ。私がこれまであまり聴いたことの無かった人も多いが、しっかりした歌唱を聴かせる人もいるし、舞台映えする人もいるので、今後を楽しみにしたい。

 日本語字幕付日本語歌詞上演で、訳語には必ずしもいい趣味と思えぬところもあるものの、取って付けたように流行語を入れたりすることを「概して」避け、むしろ旧き芝居調の台詞を活用したりしていたことは、物語の内容とのバランスから言っても賢明だったろう。
 それに今回の台詞回しは、前回(2007年)の時の上演に比べ、格段に聞き取りやすい。ジュピターとプルートの台詞の応酬など、なかなかテンポが良かった。ただし、全員がそうだったとは言い難い。演出にはドタバタ調のところもあるが、これが本当のノリにつながっていたかどうかも、一口には言い難い。

 テンポの善し悪しということでは、むしろ大植の指揮に、僅かだが疑問をいだいたところがある。彼が一つ一つのナンバーをこの上なく丁寧につくっていたことは充分認めるのだが、ドラマが昂揚点に向かうべき場面で、時にテンポを不自然に落すのは、どうも納得が行かない。第1幕第2場(天国)で、神々がジュピターを囲んでいびるクープレの中ほどの部分とか、全曲のフィナーレにおけるカン・カンの出だしの部分などは、その例である。
 じっくりとやるのも結構だが、こういう賑やかなオペラなのだから、もう少し一気に押しまくって盛り上げて行ってくれたらなあ、と思う。そういうところが、何ヵ所かあった。

2019・11・20(水)METライブビューイング「トゥーランドット」

    東劇  3時

 新シーズンのMETライブビューイングが始まった。
 上映予定作品は10本で、ベルクの「ヴォツェック」、ガーシュウィンの「ポーギーとベス」、フィリップ・グラスの「アクナーテン」、ヘンデルの「アグリッピーナ」、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」など、私好みの作品も含まれている。特に「オランダ人」(ゲルギエフ指揮)では藤村実穂子さんがマリー役でMETデビューすることになっているので━━脇役なのが残念だが━━とりあえずは楽しみだ。

 第1弾はプッチーニの「トゥーランドット」(アルファーノ補作版)。
 これはあのフランコ・ゼッフィレッリ演出&舞台装置による、プレミエ以来30年以上になる豪華絢爛たるプロダクションだ。日本でも1988年にスカラ座が持って来て上演したことがある(指揮はマゼールだった)が、今ではこんなカネのかかる舞台を制作できるのはMETくらいしかなかろう。それにやはりMETのような巨大な空間を持つ舞台でないと、本領を発揮し難い舞台だ。

 今回は指揮がヤニック・ネゼ=セガン、トゥーランドットをクリスティーン・ガーキー、カラフをユシフ・エイヴァゾフ、リューをエレオノーラ・ブラット、ティムールをジェイムズ・モリスといった顔ぶれ。
 ネゼ=セガンは、インタヴュ―でも話していたが、この音楽に含まれる優しさ、叙情的な美しさをも重視した解釈を採っているように感じられる。METのオーケストラの演奏も、それをよく反映したものになっていただろう。

 但し問題は、主役の2人である。
 ガーキーは可愛らしい雰囲気や柔らかい声質などから言って優しい感じのトゥーランドットだったが、しかしたとえ「脅えながらも愛に憧れる女性」(ネゼ=セガンのコメント)などと贔屓目に解釈してやるにしても、求婚者を「軽蔑しながら」30人近くも殺してしまった惨酷極まる業の咎を負うべき皇女の役柄表現としては、それが相応しいかどうか。

 一方エイヴァゾフは、カラフにしては声が細身だ。3年前だったか、ネトレプコと東京でデュオ・コンサートをやった時にも感じたことだったが、いわゆる英雄的テナーではないから、謎解きの場面などではどうしてもパワーが不足することになる。それに、芝居があまりにも下手だ。リューが自らを犠牲にして彼を救った場面での、彼の演技の無表情さと言ったら・・・・。

 惨酷で我儘な皇女、身勝手な異国の王子━━ストーリーは随分いい加減なものだが、プッチーニの音楽は、やはり素晴らしい。特に第1幕の音楽は、彼の最後の輝きだろう。
 ただその一方、ネゼ=セガンは、前記インタヴュ―の中で「・・・・しかし音楽には、ちょっと脆いところがある。おそらく彼は、自らの最期を意識していたのではないか」と語っている。第2幕中盤以降の音楽に関して言うなら、私も同意見だ。

2019・11・19(火)ズービン・メータ指揮ベルリン・フィル

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 こちらベルリン・フィルも、シェフのキリル・ペトレンコとではなく、客演のメータとの日本ツアー。

 メータは昨年のバイエルン放送響の日本公演でヤンソンスの助っ人として急遽来日した時には、介添人に支えられつつ歩いていたが、今回はステッキこそ使用していたものの、独りでゆっくりと歩みを進めてステージへ出入りしていた。
 そして、ステッキを指揮台の背後の手摺に無造作に引っ掛け、椅子に座るが早いか、そのステッキの揺れが未だ治まらぬうちに、断固たる勢いでオーケストラを率いて演奏に突き入る。その気魄は、相変わらず若々しい。

 8回公演の今日は5日目で、R・シュトラウスの「ドン・キホーテ」と、ベートーヴェンの「英雄交響曲」がプログラムだった。

 回ってきた席が2階正面2列目の最右翼という、初めて体験する位置だったので、音のバランスを判断するのには少々難しかったものの、ベルリン・フィルの巧さと力感を明確に受容することはできる。とはいえ「ドン・キホーテ」では、作品の性格から言って、各楽器のパートが室内楽的に絡み合う面白さは味わえたものの、ただそれだけにとどまったというのが正直なところだ。

 このオーケストラの実力を堪能できたのは、やはり「英雄交響曲」においてだった。
 ベルリン・フィルがベートーヴェンを演奏すると、一種の嵐のような激しさというか、巨濤が荒れ狂うような物凄さというか、そういったものが常に噴出して来る。第1楽章で弦楽器群が大きく波打ちながら主題を展開して行く個所など、まさに壮烈な趣だったし、第2楽章でミノーレに戻ってからの音楽が、ホルンのあの主題(スコア通りに3番奏者が独りで吹いていたが、結構なパワーだった)などを経て一段、また一段と力を強めて行くあたりも、いかにもベルリン・フィルらしい力感だったろう。

 更に感心させられたのは第4楽章後半で、ここがこれだけ堂々たる威容を以って演奏された例は決して多くは無いだろう。メータも、病を克服してからは、もう昔のメータとは違い、何か一種のカリスマ的な力を備えた指揮者になったような趣がある。

2019・11・18(月)パーヴォ・ヤルヴィ指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

   サントリーホール  7時

 5回公演の初日。「タンホイザー」序曲と、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはラン・ラン)、ブラームスの「交響曲第4番」が演奏された。

 ダニエレ・ガッティの辞任により、首席指揮者のポストが空席となっているRCO。今回はパーヴォ・ヤルヴィが客演指揮者として同行して来たが、この顔合わせは、なかなか面白かった。

 まず、RCOの音だ。しっとりした美音、瑞々しくて厚みのある弦を中心とした上品なサウンド━━ハイティンク時代に私を魅了したあの「コンセルトヘボウの音」は、その後のシェフたるマリス・ヤンソンスやガッティの下では、ほとんど失われていたのではなかったか? それが今回、客演のパーヴォの下では、それがかなりの程度まで蘇っていたのである。
 また彼の方でも、N響やドイツ・カンマーフィルなどを指揮する時とは異なり、老舗RCOの伝統を尊重し、その固有の気品ある音を再現させようとしていた様子がありありと感じられたのだった。

 たとえば、ブラームスの「4番」━━その冒頭、主題をゆっくりと奏しはじめた弦楽器群の、驚くほど柔らかい、羽毛のような響きの素晴らしさ。
 あるいは第2楽章で、弦があの幅広い主題をdolceで奏し始める個所(第41小節から)での、まるで空中を漂う雲のような、軽やかな美しさ。
 RCOの弦は、昔ながらのものだった。とかくガリガリと、攻撃的な強さで演奏する指揮者とオーケストラの多い当節、このRCOの弦の音色は、私には、久しぶりに巡り合ったオアシスのように感じられた。老舗オケからこういう音を引き出すことのできるパーヴォ・ヤルヴィは、やはり並みの指揮者ではない。

 また彼は、「タンホイザー」序曲では、RCO相手の他人行儀の挨拶の如く坦々とした指揮ぶりだったのに対し、ブラームスの「4番」では一転して、第1楽章終結部や第4楽章コーダなどで、テンポを速めて猛烈に追い上げる劇的な昂揚感を生み出した。そこではもう遠慮などをかなぐり捨て、オケに真剣勝負を挑んで行くといったような姿勢が感じられ、これも面白かった。
 しかも彼はRCOを壮大に響かせながらも、常にその音には明晰さを保たせ、決して汚れた絶叫にはしないのである。パーヴォの本領ここにあり、か。

 協奏曲を弾いたラン・ランは、もうすっかり「大人の演奏」をするピアニストになった。この曲の叙情的な特徴を前面に押し出し、第2楽章の最後などでは音楽が止まるかと思われるほどの沈潜した演奏を聴かせる。彼のソロに備わっている瑞々しさと爽やかさを認めるのに吝かではないが、それにしても随分「難しい曲」を選んだものである。ソロ・アンコールにはメンデルスゾーンの「紡ぎ歌」を弾いた。

 オケのアンコールは、またブラームスの「ハンガリー舞曲」(今日は「3番」と「1番」)だった。彼の交響曲のあとのアンコールというと、必ず出て来るこの舞曲集。何か他に新機軸はないものだろうか。

 なお一つ、このオケには、安藤智洋という人が首席ティンパニ奏者として活躍している。今日も見事な演奏を聴かせてくれたのは嬉しい。

2019・11・16(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 音楽監督ジョナサン・ノットの指揮。ベルクの「管弦楽のための3つの小品」と、マーラーの「交響曲第7番《夜の歌》」が演奏された。コンサートマスターは水谷晃。

 統一の取れたコンセプトによる良いプログラムだ。私の(多分皆さんも同様だろうが)お目当てはもちろん「夜の歌」だったけれども、今日の印象では、緻密に演奏されたベルクの作品の方に大きな充実感があった。

 マーラーの方では、ノットの獅子奮迅の指揮により体当り的な熱演が生れていたものの、金管の一部に些か不安定なところがあったのと、アンサンブル全体に力任せのような粗さが聞かれたことなどで、全面的に賛辞を贈るまでには行かなかった、というのが正直なところである。

 この「夜の歌」におけるノットの解釈は、先立つ4つの楽章をも、すべて終楽章の躁的な熱狂に至る過程として位置づけ、それによりこの交響曲を「散漫な構成」という批判から救い、全曲を統一された流れに構築することを図っている━━という印象を得たのだが、それがうまく行ったかどうか。
 むしろ、先立つ4つの楽章の特徴である━━それがまた最大の魅力となっているはずなのだが━━怪奇でミステリアスな世界がどこかへ押しやられ、全てにおいてマーラーの「躁」の部分だけが強調される結果を生んでしまったのではないかという気もするのである。

2019・11・16(土)「音楽のある展覧会」

       ホテルオークラ東京別館

 サントリーホールでのノット=東響=マーラーを聴く前に、インバル=都響=ショスタコーヴィチの強烈な「毒気」(?)を冷やそうと思い、ホテルオークラ別館地下2階のアスコットホールで開かれている「ウィーン楽友協会アルヒーフ展《19世紀末ウィーンと日本》~日本・オーストリア友好150周年記念~」へ立ち寄る。これはサントリーホールの主催で、ウィーン・フィルの来日に合わせた行事だ。

 R・シュトラウスらの自筆楽譜、昔のウィーン帝室歌劇場や楽友協会大ホールの絵なども目を惹くが、「ウィーン万国博の日本庭園を行く皇帝フランツ・ヨーゼフと皇后エリーザベト」の木版画は、私の祖父が万国博覧会事務官兼伊墺国公使館在勤書記生として関与した関連もあって、個人的に感銘が深かった。
 ついでながら祖父はのち1880年代に墺国公使館書記官になり、年俸英貨580ポンドを下賜されたというが、これは現在の相場だと、いくらくらいになるのかしらん。

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