2020-07

2020・7・3(金)METライブビューイング「アグリッピーナ」

     東劇  11時

 珍しや、ヘンデルのオペラ「アグリッピーナ」! 
 デイヴィッド・マクヴィカーの新演出で、2月6日にプレミエされ、3月7日までの間に計9回上演されるスケジュールが組まれていた(多分全部上演されたのでは?)。今回上映されたのは2月29日の上演ライヴだ。

 指揮はハリー・ビケット。主要歌手陣はジョイス・ディドナート(ローマ皇妃アグリッピーナ)、マシュー・ローズ(ローマ皇帝クラウディオ)、ケイト・リンジー(アグリッピーナの連れ子ネローネ)、イェスティン・デイヴィーズ(ローマ軍の司令官オットーネ)、ブレンダ・レイ(その恋人ポッペア)、ダンカン・ロック(自由民パッランテ)。

 休憩1回ながら上映時間4時間。おそろしく長いけれども、演出の素晴らしさ、歌手陣の巧さ、ビケットの指揮の颯爽たるテンポと勢いの良さ、そして曲の良さなど、実に鮮やかな出来の上演だ。これはMETの最近のプロダクションの中でも傑作の一つと言っていいのではないかと思われる。

 マクヴィカーの演出は、ローマ帝国時代の物語を完全に現代風の設定に置き換え、権力術数と陰謀の渦巻くどろどろしたストーリーをコメディ風のタッチでカラリと描き出すという見事な技を具現したものだ。ポッペアの「復讐のアリア」を酒場での泥酔シーンと絡ませるアイディア一つとっても、秀抜の極みであろう。

 それに歌手陣の、歌唱から演技から、揃いも揃って巧いのなんの。ジョイス・ディドナートの凄味と迫力のある悪女ぶり、ケイト・リンジーがズボン姿で繰り広げるイカレた若造ぶりなどをはじめ、本当に役者揃いだ。よくあんな猛烈な演技と無理な姿勢の中で、あんな見事な歌を歌えるものだな、と舌を巻かされる。
 そしてビケットの指揮が、些かの緩みもなく息もつかせぬテンポ運びで長い全曲をまとめ上げる。━━METもいいオペラを創るものだ。

2020・7・2(木)新日本フィルも定期公演を公開で再開

      サントリーホール  7時

 当初予定の指揮者ダンカン・ワードに替って下野竜也が客演指揮。
 プログラムも、2曲目のヴォーン・ウィリアムズの「テューバ協奏曲」(ソロは新日本フィルの佐藤和彦)以外は大幅に変更され、1曲目にフィンジの「弦楽オーケストラのための前奏曲」、3曲目にベートーヴェンの「田園交響曲」が組まれた。
 コンサートマスターは豊嶋泰嗣。

 フィンジの曲は「浄夜」そっくりの重厚な出だしも面白く、「テューバ協奏曲」も佐藤和彦の若々しい表情の鮮やかなソロが映えて、いずれもあまり聴ける機会のない作品だけに、公開定期再開第1弾を飾る意欲的なプログラムとなっていた。なお佐藤は、ソロ・アンコールとしてヴォーン・ウィリアムズの「イングランド民謡による6つの習作」から吹いてくれたが、これも良かった。

 「田園」は、弦12型編成で演奏された。かなり念入りに細部まで構築した演奏だったが、下野にしては予想外に濃厚な造りで、この曲にしては不思議にピリピリした表情を感じさせる。音色が硬いのはその所為か、それとも長期間の空白による影響か。
 だが第2楽章最後に鳥の声を描写する木管群はこの上なく明晰で、スコアが眼前に浮かび上がって来るような鮮やかさだった。その一方、この楽章での最弱音のつくり方などは、何となくあの朝比奈隆のそれを思い出させたが・・・・。

 オケのアンコールとして、バッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」が演奏されたが、変わった響きがするのでストコフスキー編曲版かなと思ったら、やはりそうだった。この版、下野が東日本大震災直後に東京都響との演奏会で犠牲者追悼のために演奏したのを聴いたことがある。今回は新型コロナの犠牲者を悼むという意味も含まれていたのか?

 客席はもちろん、ソーシャル・ディスタンス方式というか、市松模様での座席割りだが、入りは目測で700~800人あたりというところか。人混みを恐れて外出を控える高齢者が多い現在の状況から考えれば、このくらいお客が来ていれば御の字といえるだろう。

2020・6・29(月)METライブビューイングも再開 「ポーギーとベス」 

        東劇(銀座)  6時

 しばらく中断していた「METライブビューイング」が再開。新型コロナ蔓延のため途中閉鎖されてしまった2019~2020シーズン・プロの配信作品のうち、制作されていた残りの3作がこれから上映される。
 まずはガーシュウィンの名作オペラ「ポーギーとベス」。上映時間は約3時間40分。

 これは2月1日上演のライヴ映像で、デイヴィッド・ロバートソンの指揮、ジェイムズ・ロビンソンの演出、マイケル・ヤーガン美術によるプロダクションだ。
 主役歌手陣は、エリック・オーウェンズ(ポーギー)、エンジェル・ブルー(ベス)、ゴルダ・シュルツ(クララ)、ラトニア・ムーア(セリナ)、フレデリック・バレンタイン(スポーティング・ライフ)、アルフレッド・ウォーカー(クラウン)、デニース・グレイヴス(マライア)。

 出演は、作品の内容に従い、ソリストと合唱を含めたほぼ全員が黒人で、さすがダイナミックな演技と歌唱ぶりである。実直で素朴な人間像を見せるポーギーのオーウェンズも悪くないが、何度も道を誤る気の弱さを表情に滲ませたベス役のエンジェル・ブルーが素晴らしい。
 そして、「サマータイム」をはじめとするガーシュウィンのお馴染のナンバーとともに、ミュージカルの要素を含んだオペラとしてのこの作品を十全に楽しませる。ここでは未だ、貧しくとも率直な、ヒューマンな精神を垣間見せるアメリカが描かれているだろう。素晴らしいオペラである。

 ただ、ロバートソンの指揮とMETのオーケストラの演奏が穏健で、かなりソフィストケートされているのが私には物足りなく、もう少しジャージーな躍動感と土臭さがあったらな、と思わせたのは事実だ。

 METの客席には、もちろん黒人だけとは限らず、白人も東洋人もいろいろ混じっていたはずだが、この上演ではいつものMETの客層と違い、黒人歌手たちに異様なほどの熱狂的な歓声を上げ続ける客(女?)がいて、特に最後のカーテンコールでは、その騒々しい喚き声に些か辟易させられた。
 第3幕ではポーギーを虐待する暴力的な白人警官たちも現われるのだが、彼らを演じた白人歌手たちにカーテンコールの際に客席からブーイングが浴びせられたのは、ドラマに対する観客の強い共感性の表れだろう。

 「ポーギーとベス」の上演は、METでは30年ぶりとのこと。METはこのプロダクションに力を入れ、昨年9月23日のシーズン開幕公演として取り上げたのみならず、それに関連して、METにおける「アフリカ系アメリカ人」歌手たちに関する歴史展をも開催していたそうだ。「歓迎された歌手、出演を拒否された歌手などを含めて」の大規模な展示会だったという。

 ━━こうした黒人問題と関連する記念展も、新型コロナ蔓延の影響で3月12日にMETが閉鎖されたため終了してしまっただろうが、しかしそれから2か月ほど後に、あの白人警官の黒人青年に対する暴力事件をきっかけにした、アメリカの社会体制を揺るがせる騒動が巻き起こったのだから、皮肉というほかはない。前述の、黒人ポーギーに暴力を振るう白人警官のシーンは、われわれをもぞっとさせる光景であり、まさにアメリカが抱える永遠の課題を象徴するものであったろう。

 なお今シーズンのMETライブビューイングは、このあとにすぐ、ヘンデルの「アグリッピーナ」(2月29日上演ライヴ)と、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」(3月10日上演収録の記録映像による)が続く。ただし、そのあと予定されていた「トスカ」と「マリア・ストゥアルダ」は、本番が中止となったため、それぞれ2年前と7年前の上演映像で代替されるとのこと━━。

2020・6・28(日)東京交響楽団、公開定期の再開2日目

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 東京響は、すでに先週金曜日に、聴衆を招いての定期演奏会をサントリーホールで再開している。

 今日は同一プログラムでの川崎定期だ。曲目は当初の予定通り、ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲と「ピアノ協奏曲第3番」、メンデルスゾーンの「交響曲第3番《スコットランド》」。
 ただし指揮者のユベール・スダーンとピアニストのイノン・バルナタンの来日が不可能になったため、飯守泰次郎と田部京子がそれぞれ見事に代役を務めた。コンサートマスターは水谷晃。

 管楽器奏者たち以外は全員━━指揮者もソリストもマスク着用だが、特にマエストロ飯守は黒マスクをかけての登場で、2CBの遠い席から見ると、何となく厳めしく不気味な迫力を感じさせる。
 そして、その迫力も見かけだけではない。音楽づくりも強烈で、これほどドラマティックな「スコットランド」は聴いたことがない、というほどの演奏になっていたのには度肝を抜かれた。荒々しく鋭角的なアタック、激しいデュナミーク、ティンパニの豪打による強いリズム感など、恰もメンデルスゾーンの交響曲をベートーヴェンの流れを汲む強靭な世界として位置づけるような解釈を、些か戸惑いつつも興味深く聴かせて貰った。

 冒頭の「プロメテウスの創造物」序曲の序奏でも、豪快な音の構築と遅いテンポが見事であり、しかもそれらの和音の間につくられた長い休止が全く緊迫感を失っていない、という演奏にも感服させられたのである。
 この序曲は、あっさり演奏されると拍子抜けさせられるものだが、今日はそれが終った時には爆発的な拍手が巻き起こった。演奏に籠められた並々ならぬ力を、聴衆もまっすぐに享け取ったのだろう。

 続くコンチェルトでも、黒マスクの飯守と東京響はどっしりと構えた演奏を繰り広げた。それに呼応した白マスクの田部京子のピアノは、まるで黒騎士と貴婦人の対話の如き━━飯守の黒色と、田部の輝かしい清純な白色とのコントラストをイメージさせるような音楽を感じさせたのである。久しぶりに聴いた堂々たるベートーヴェンは、実に懐かしく、快かった。

 聴衆は700~800人の入りと見えたが、確認したわけではない。定期会員の中にも、未だ外出やホールに集まるのは怖いとかで、欠席する人も居ると聞く。各々両側1席ずつの間隔を置いてのソーシャル・ディスタンス方式着席で、マスクも着用。黙々、粛々も例の如くだが、今日の拍手は、実に強く、そして大きかった。東京響に対する「わが町のオーケストラ」という思いも籠っているような拍手に感じられたのだが、どうだったろう。

 なお、「終演後に通路での密状態を避けるため、何々階のお客様から順番に・・・・何階のお客様はしばらくお待ちを」という意味のアナウンスが為された(先週の東京フィルでもそうだった)が、これは事実上、意味がない。構わず退席して行く人もいるし、それに第一、そんなにうるさく言われなくてもみんな「密」を避けるための心構えは充分に持っており、歩く時には自らちゃんと互いに間隔を取りあっているからである。

 東京響は、ネット配信の多用も含めて、苦しい中でも企画は積極的だ。7月の定期等では、ジョナサン・ノットが映像出演して指揮をするという超風変りの、一種実験的なスタイルで開催されることが、すでに同楽団のサイトに発表されている。

2020・6・27(土)関西フィルも公開で定期演奏会を再開

     ザ・シンフォニーホール  2時

 こちらザ・シンフォニーホールでも、関西フィルハーモニー管弦楽団が当初の予定通り客演指揮の鈴木優人を迎え、聴衆を入れた定期演奏会を再開した。

 ただしプログラムは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲以外は変更され、当初の予定だったブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」と「第2交響曲」の代わりに、モーツァルトの「交響曲第29番」、シューベルトの「交響曲第5番」という小編成の作品が加えられた。弦6型による室内楽団的な編成だったが、これは古典派系プログラムには悪くない規模だ。コンサートマスターは岩谷祐之。

 とはいえ、今日の演奏は心なしか慎重で、オーケストラの表情も重い。それはほぼ4カ月に及んだ活動休止のあとの緊張感の所為か、間隔を空けてのオーケストラ配置になかなか馴染めなかった所為かは判らないけれども、シューベルトの「5番」などはもっと闊達さが欲しく、特に第2楽章ではシューベルト特有の転調の妙味━━明から暗、暗から明への対比という、陰影の明確さが欲しかった。
 最もバランスが良かったのは、モーツァルトの「29番」の演奏だったのではないかと思う。

 また、オーケストラの表情の重さに加え、響きも些か重いように聞こえたのだが、これは私の聴いた席が1階の下手側の壁際で、コントラバスの声部がよく響いて聞こえていたためもあるかもしれない。だが、鈴木優人と関西フィルの相性はなかなか良いようで、ステージの雰囲気や、聴衆の反応などにもそれが感じられる。

 弦の奏者たちはマスクなしで弾く。演奏前に鈴木優人が自らマイクを取り、マスクをしていると気が散って演奏に集中できないと皆が言う、と説明。また、先日東京で行なわれたオケの演奏実験の結果なども含め、普通に演奏した場合、まずは飛沫感染の心配はない、ということをも客に伝え、安心させていた。

 客の側における感染症対策の方法は型通りだが、体温測定の方法が「通行しながら測る」システムではなく、一人ひとり額に非接触検温器を向けての測定だったため、客の入場には些か時間がかかったようで、開演時間ぎりぎりにどうやら全員が間に合った。
 クロークもプレイガイドも、このホールの名物であるティールームなども、全て閉じられている。客たちは黙々と、粛々と入退場。客の入りは、ざっと見たところ500~600人くらいかと思われるが、当節の状況からすれば、結構な入りと言っていいのではなかろうか。

 だが、あれこれ注意を促す場内アナウンスが、他のホールのそれに比べかなり綿密なので、お客たちはいやが上にも重苦しい雰囲気に引きずり込まれてしまう。お役所的コメントで厳しく注意して脅かすのも一法だろうが、もう少しユーモアをも交えた、硬軟両様の場内アナウンスのコメントを考える洒落者はいないものか━━まして吉本の上方なら。
 つい先頃までは当然のように感じられていたコンサート会場の華やぐような雰囲気も、今はもう全く消えた。それが復活するのはいつのことだろうか。だがとりあえず今は演奏会が再開されるようになったことを慶ばなくてはなるまい。今日は珍しく20分の休憩を入れての通常スタイルで、終演は3時45分頃となった。

 大阪4オケでは、このあと日本センチュリー交響響楽団が、6月29日(月)に4月定期の延期分を、7月9日に7月定期を、いずれも秋山和慶の指揮で、客を入れて開催する。この楽団は、去る20日(土)に「ハイドン・マラソン」をいち早く公開で再開していたのである。残る大阪交響楽団は、7月16日(木)に小泉ひろしの指揮で7月定期を公開で再開と聞く。

2020・6・26(金)大阪フィル、公開定期演奏会を再開

      フェスティバルホール  7時~8時15分

 「大阪4オケ」のトップを切って、大阪フィルハーモニー交響楽団が聴衆を入れた定期公演(6月定期)を再開した。指揮には、当初の予定通り、かつての音楽監督で現在は桂冠指揮者となっている大植英次が登場。

 ただし新型コロナ感染予防対策の一環としてオーケストラの編成は縮小され、当初予定されていた「ウェストサイドストーリー」や「ツァラトゥストラはかく語りき」などの大編成作品の替わりに、ベートーヴェンの「第4交響曲」と「第5交響曲《運命》」が休憩なしで演奏されるということになった。とはいえ「4番」は弦12型、「5番」は弦14型という編成を採っての演奏だから、通常公演と同じようなもので、プログラム変更という不満感はそれほど強くはなかろう。

 奏者の配置は、広いフェスティバルホールのステージをいっぱいに使って大きく間隔が取られ、弦の前列は舞台前方ぎりぎりまで迫る。上手側の高いバルコニー席から一望したところでは、オーケストラが異様に広く拡がっているという印象だ。昔、カラヤンの映画でこんな配置を見たような気もするが━━。

 弦楽器奏者とティンパニはマスク着用、「5番」のフィナーレにしか出番のないトロンボーンとコントラファゴットの奏者も、待っている間はマスクをして座っていた。
 指揮者の大植はマスクなしだが、コンサートマスター(須山暢大)らと握手をする時にはその都度白い手袋をはめるという念入りな作業で、場内からは笑いが漏れた。

 一方、客の側はというと、これは例のごとくアルコールでの手洗い消毒と非接触機器による体温測定を経て入場、マスク着用を推奨される。当日売りは行わず、定期会員と招待客のみだったが、入りは見たところ600~700という感か。
 席の変更は先着順とか聞いたが、しかし、間隔を1人ずつ空けての着席案内が上手く出来ていて、バルコニーから見ると綺麗に客席が埋まっているように感じられる。バー・カウンターも開かれていないので、ロビーもだだっ広く感じられる。
 定期公演の際にロビーで行なわれている福山修事務局次長のプレトークも、今回は無し。客は黙々と、粛々と出入りするので、やはり何となく寂し気な雰囲気は拭えないだろう。

 さて、久しぶりに聴いた大植&大阪フィルの演奏。音楽そのものは良いのだが、実は初めのうち━━最弱奏で開始された「4番」の序奏あたり、オケの音色の硬さも含め、響きがステージ中に散らばり、バラバラなアンサンブルに感じられたのには愕然とさせられた。
 こちらの席の位置や、ほぼ3か月間の活動空白のあったオーケストラの傾向などを別にして考えても、これは少々異様だった。ステージいっぱいに音が沸き上がるというよりもむしろ、ステージのあちこちからバラバラと音が聞こえて来る、という感だったのである。あまりに席の間隔を空けてのオーケストラ配置では、このような傾向になってしまうのか・・・・と、オケの配置の重要性を改めて思い、暗然としたものだった。

 ところが、こういった欠点が、驚くべきことに、演奏が進むうちにみるみる解消して行ったのである。「4番」の第4楽章あたりになると、すでにしっとりとまとまったアンサンブルがつくり出されていた。そして、「5番」に至っては十全なバランスと音色でまとめられた━━まとまり過ぎていたと言っていいほどの━━重量感たっぷりの演奏になっていたのだった。

 これは、このような配置にもかかわらず、オケの楽員たちが互いの響きを巧く聴きあって、この場に相応しいアンサンブルをつくって行ったのだろうと思われる。さすがはプロである。また、あまり細かく振らずにオケを制御していた大植の指揮も、好結果を生んだのかもしれない。「5番」終楽章のコーダなどでは、火の出るような推進性と盛り上がりを感じさせたのであった。

 久しぶりに聴いた大植のベートーヴェン、極めて正面切ったストレートな音楽づくりだ。もう少し暴れてもいいのではないかと思われるくらいだったが、━━あるいは明日の2日目の演奏では、もっと自由さが生まれて、面白いことになるかもしれない。

 飛沫感染防止のため、客には「大きな声は出さぬよう」と指示があったものの、しかしオケの熱演に客も拍手だけでは物足りなくなったと見え、ブラヴォーの声も、控えめながら少しは飛ばされたようである。

 終演後に楽屋で会ったマエストロ大植はかなり体型と顔に貫録が増した印象だったが、人づてに聞くところによれば、帰国してすぐ2週間、ホテルに例の「罐詰」状態にされ、毎日カツ丼やら何やら、栄養価の高いものばかり食べていた所為だと。真偽のほどは定かではないが。

2020・6・22(月)東京フィル、公開定期演奏会を再開

      東京オペラシティ コンサートホール  7時~8時

 東京フィルハーモニー交響楽団が、聴衆を入れての定期演奏会を再開。
 昨日オーチャードホールでその初日をやっているので、今夜は第2日となる。因みに第3日は24日にサントリーホールで行われる予定。

 客は、入り口でアルコールによる手の消毒とサーモによる体温測定。机上からプログラム冊子を自分で手に取る。ホール内ではマスク着用と、左右を1席ずつ空けて着席することを、前以て新規の座席指定チケット(ハガキ)により案内されている。
 このハガキのもぎりは無く、客は非常の場合のための連絡用として氏名と電話番号をそれに書き込み、帰りがけに受付の箱に入れておくという仕組みだ。

 クロークとバー・カウンターは閉じられているので少々寂しいが、まあ大勢に影響はないだろう。
 このような感染防止策を講じた上での公開の演奏会。客席の入りは、最初から欠席の定期会員もいるとのことであり、また当日売りも出ていないだろうから、ざっと見たところでは、まず300~400人というところか。

 事務局スタッフも、全員マスク等の重装備。
 一方オーケストラの楽員たちは、マスクを着用せずの通常スタイル。弦12型の編成と聞いたが、とにかくフル編成による配置で、久しぶりに聴く本格的なオーケストラ・サウンドだ。今回はレジデント・コンダクターの渡邊一正の指揮で、ロッシーニの「セビリャの理髪師」序曲とドヴォルジャークの「新世界交響曲」が演奏された。
 ほぼ3か月に及ぶ活動休止のためにアンサンブルも音色も硬質で粗くなっていたのは、オーケストラの宿命として致し方ない。こういう傾向は9年前の東日本大震災後の一時期、各オーケストラに聞かれたものだ。今回もいずれ立ち直るだろう。

 多くの聴衆が同じ会場でナマ演奏に触れた快感を共有して拍手を贈り、楽員が力いっぱい演奏して聴衆から拍手を享けるという、この素晴らしい自然な交流の儀式が再び甦ったことの幸福感を、たとえ暫くの間だけでも、忘れたくないものである。

2020・6・21(日)阪哲朗&村川千秋指揮山形交響楽団(オンライン視聴)

      やまぎん県民ホール 3時~5時10分

 東京では今日は東京フィルが、在京オケの先陣を切って、オーチャードホールで「公開の」定期演奏会を再開しているはず。私は明日、オペラシティでの公演の方を取材するつもりでいるので、今日は山響の非公開生中継ライヴを視聴することにした。

 先週日曜日の山響ライヴは山形テルサホールからだったが、今回はその隣に竣工した「山形県総合文化芸術館 やまぎん県民ホール」という会場からだ。
 「やまぎん」というと、私など旧世代(?)はどうしても往年の峻烈批評家・山根銀二氏を連想してしまうが、このホールの場合は山形銀行が命名権を取得しているため、このような名称になっていると聞く。

 大ホールの客席数は2001とか。今年3月末にオープンした━━はずだったものの、新型コロナ騒動で公演はすべて中止または延期となっており、実際は来月12日に開催される山形響と仙台フィルの合同演奏会(飯森範親指揮)が事実上の開館初の公開演奏会になるらしい。私も取材に行くつもりでいるが。

 今日は、最初に村川千秋が自ら編曲した山形民謡「最上川舟歌」を指揮、次に常任指揮者・阪哲朗がベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」と「田園交響曲」を指揮した。協奏曲でのソリストは三輪郁で、べヒシュタインのピアノが使用されていた.。いい演奏である。中継の画質・音質とも、パソコンで受信している範囲では上々と思われる。ただし演奏の音がモノーラルというのは・・・・こちら受信側の原因なのか?

 休憩時間には、今回も山形の旅館やら温泉やら、名産やら名物やらの「ご当地紹介」の映像が愉し気に織り込まれていた。これは地方からのインターネット配信プログラムとしては、実にいい企画だと思う。
 例のごとく西濱秀樹専務理事が活躍。進行からCMから、いつもながらの大車輪だ。

2020・6・19(金)兵庫芸術文化センター管のデモ演奏(ライン視聴)

     兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  3時

 「オーケストラ公演の再開に向けてのディスカッションとデモ演奏」と題しての生中継オンライン・ストリーミングで、ほぼ90分にわたるプログラム。非公開で、取材陣と関係者のみを客席に入れての「プレ・イヴェント」と聞く。

 前半45分が佐渡裕・下野竜也および川久保賜紀(ゲスト、ライン出演)の「ディスカッション」。後半がオーケストラ(PAC)のナマ演奏によるベートーヴェンの作品3曲━━下野の指揮で「プロメテウスの創造物」序曲と「ロマンス ヘ長調」(ソロは豊嶋泰嗣)、佐渡の指揮で「コリオラン」序曲。
 各団体それぞれに、オンライン企画にいろいろな趣向を凝らしている。

 ただし、ディスカッションとは言いながらも、今回の場合は佐渡裕が専らモノローグ的に感慨の念を優先して話し続け、下野竜也が時折フォローしてそれを整然とまとめるといったような雰囲気だ。どちらかといえば情緒的な話が先行したような印象もある。
 後半の演奏の途中では、楽員たちがステージでの音の響きに苦労していることを語ってくれたが、この問題は、強い迫真性を感じさせた。こういったオーケストラのアンサンブルのつくり方、ステージでの響きのつくり方などは、感染症防止対策の上で、今後大きな懸案となるだろう。

 そういえば、あの西脇義訓さんがやっている「デア・リング東京オーケストラ」の、パート別の楽器配置という既存のスタイルを根こそぎ変えてしまったオーケストラ配置のアイディアなど━━私は必ずしも賛意を表せないものだが━━今回のコロナ騒動の中では、もしかしたらまた別な意味合いを以って考えられることになるのかもしれない。

2020・6・18(木)東京芸術劇場ナイトタイム・パイプオルガンコンサート

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時30分

 聴衆を入れた演奏会の再開━━といっても、感染拡大防止取組みのために聴衆の数を100名に制限し、その他取材記者、関係者等を含めて客席はソーシャル・ディスタンス方式(?)を採り、間隔を空けて着席、飛沫感染防止のためにブラヴォーなど声を出すことを禁止、全員マスク必携、クローク・売店等は開設せず、などという形を採っての再開だ。
 だがとにかくこれは、まず再開の「第一歩」なのであり、それが踏み出せたことだけでも歓迎すべきものだと言えよう。

 これは東京芸術劇場の「ナイトタイム・パイプオルガンコンサート」シリーズの第32回にあたるもので、今夜は今井奈緒子のソロにより、スウェーリンク、シャイデマン、J・S・バッハ、坂本日菜、モーリス・デュリュフレの作品が演奏された。
 芸劇オルガン名物の2面オルガンを途中で回転させ、「17世紀初頭オランダ・ルネサンスタイプ」「18世紀中部ドイツ・バロックタイプ」「フランス・シンフォニックタイプ」をそれぞれ使い分けて聴かせるいつものスタイルも復活されていたのもいい。

 圧巻はやはりバッハの「幻想曲とフーガ ト短調BWV542」だったが、これは作品の良さにも由るだろう。
 坂本日菜の「九品来迎図」という曲は、2019年に神奈川県民ホールの委嘱により作曲されたもので、浄土宗の経典「感無量寿経」に拠る阿弥陀如来のご利益を、キリスト教の楽器ともいうべきオルガンを使い、しかもグレゴリオ聖歌を用いて描き出すという飛び抜けた発想が面白い。

2020・6・15(月)映画「お名前はアドルフ?」

     シネスイッチ銀座  2時35分

 来日中止になったボン交響楽団もチラリと出ている、と教えられ、ゼーンケ・ヴォルトマン監督のドイツ映画「お名前はアドルフ?」(原題は「DER VORNAME」)を観に行く。

 今度生れる子供には「アドルフ」という名前を付けるつもりだ、と発表した父親を巡り、親族たちが蜂の巣をつついたような騒ぎになるところから始まる映画だ。
 「アドルフという名前は、かの悪名高き独裁者アドルフ・ヒトラーを思い出させるから、断じて避けるべきだ」と諫める親族たちと、「悪名高き独裁者なら歴史上、他にもたくさんいるではないか、なぜアドルフという名だけがいけないのだ」とやり返す父親とが、夕食の席上で大バトルを繰り広げるというストーリーだが、これはなかなか興味深い。

 「アドルフ」という名前など、「フランケンシュタイン」などとは違い(アメリカにフランケンステインという音楽評論家がいたが)ありふれたものだろうに、と思っていたのだが、現代ドイツでは、あのヒトラーのイメージが強すぎるゆえに、男の子にその名は付けぬ傾向があるとか(ブックレットにはそう書いてあった)。
 なるほど、たしかにそういう名前の子供は、学校ではいじめられる━━映画の中にもそういうセリフが出て来た━━かもしれないな、とは思う。

 何となれば、かく言う私自身が小学校低学年の頃、名字のためにどれだけ酷いいじめに遭ったか、それを身に沁みて体験しているからである。
 戦後の短期間、私は長野県の塩尻と、神奈川県鎌倉市の腰越に疎開していたことがあるのだが、そこの小学校での一時期、私はしばしば悪ガキたちに囲まれて戦争犯罪人と野次られる、からかわれる、罵られる、下校途中で石をぶつけられる、学用品を奪われて道路にばらまかれる、という目に遭わされた。だから、私も例に洩れず、登校拒否症に陥った。
 私の家は、あちらとは全く縁戚関係はないのだが、当時の地方の子供たちはそんなことに頓着するはずはない(ただし、いい担任の先生に恵まれてからは、そういう理不尽なことはなくなった。学校でのいじめは、担任教師が厳然たる態度を示すかどうかで、大きく変わるものである)。

 それに加えて具合の悪いことに、この名字に独特の感情を持つ世代は、私と一緒に齢を重ねて行くわけである。そのため、学生時代全てを通じて、私が自己紹介すると、必ずといっていいほどクラスに笑い声が起こるのだった。
 それはずっと続いた。だから私は、この齢になってさえ、自分の名字を声に出して名乗るのは、今でも何となくイヤなのである・・・・。

 余談は措くとして、さっきの映画は、そのアドルフ事件を発端として、まるでドミノ倒しの如くとんでもない方向に拡がって行くのだが、一種のテーブル・バトルのような論戦の連続がこの映画のポイントだろう。名前を当てっこし合う場面で、「ドナルド、では?」という話が出たとたん、この時だけ登場人物たちが顔を見合わせ、異様に長い間ゲラゲラと笑い転げるくだりが、妙に皮肉っぽかった。
 それにしてもドイツ人というのは、本当に理屈っぽくて、議論好きですなあ。

 セテラ・インターナショナルの配給で、6日から公開されている。上映時間約90分。
  この予告編、ご覧ありたし。特にワグネリアンには受けそう。
  http://www.cetera.co.jp/adolf/

2020・6・13(土)山形交響楽団 無観客演奏ライヴ配信

     山形テルサホール  7時

 山形交響楽団は3月定期(14日)をも無観客で生中継ライヴ配信していたそうだが、私はその情報を知らなかったので、後日アーカイヴ映像で視たにとどまった。
 今回は事前に山響のサイトで生中継があると知り得たおかげで、じっくりと拝見させていただいた次第。

 しかし、折角こんないい企画を実施するなら、山響ファン相手だけでなく、もっと日本全国のオーケストラ・ファンに大々的なPRをして、日フィルや東響や京響や大フィル以外にも━━東北のオケもこのように頑張っているのだぞということを知らしめればいいのにと思うのだが・・・・。

 この日のネット配信のための非公開ライヴのプログラムは、当初の定期で予定されていたものからは変更され、第1部は管・打楽器で、ジョン・ウィリアムズの「(ロサンゼルス)・オリンピック・ファンファーレ」、ブルックナーの「正しき者の唇は知恵を語る」、H・リンドバーガー編の「セルからモースへの結婚行進曲」と「悪魔のギャロップ」、R・シュトラウスの「管楽器のためのセレナード」、第2部は弦楽器でチャイコフスキーの「弦楽セレナード」とシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」というものになっていた。

 指揮は常任指揮者の阪哲朗。ただし「アンダンテ・フェスティーヴォ」のみは創立名誉指揮者の村川千秋が振った━━私としては2009年11月22日の記念演奏会以来、久しぶりに村川氏の懐かしい姿を見たわけだが、87歳の高齢ながら、驚くほど矍鑠たる指揮で、しかも得意のシベリウスを聴かせてくれたのは嬉しかった。

 プレトーク等にはマエストロ阪哲朗と、恒例の如くオケの西濱秀樹専務理事が登場して切り回す。
 ステージには山形名産のバラの花が綺麗に飾られ、休憩時間にも山形の名所等の映像がたくさん紹介されるというアイディアは、いかにも地方のオーケストラの配信らしくて、素晴らしい。「食と温泉の国のオーケストラ」と自ら名乗るヤマキョウだけのことはある(だからこそ全国的にPRしての展開ならそれが更に生きて来るのだ)。

 配信は先頃大阪フィルや京響の生中継を担当したライブストリーミングサービスと同じ「CURTAIN CALL」で、映像は綺麗だ。但し惜しむらくは、先日の京響の際(3月28日)と同じく、会場でのトーク部分の音声のバランスが甚だよろしくない。事前のマイク・テストくらいはちゃんとやっておいてもらいたいものだ。
 それと、案内イメージ(?)役の女性は、変に素人ファンぶった、作為的にのろのろした甘い口調(そのくせゲストを紹介する時には突然甲高く張り切った早口になるのだから不自然極まりない)で喋ったりせずに、もっと平均して明晰な口調で話した方が、番組が引き締まるはず。

 因みにこの山響のライヴ配信第2弾は6月21日(日)午後3時からも行なわれるそうで、その時にはまた阪・村川両氏が分担して指揮を執る予定と発表されている。

2020・6・12(金)東京都響の「コロナ影響下の公演再開に備えた試演」

      東京文化会館大ホール  1時45分

 東京都交響楽団が東京文化会館との協力で行なった「新型コロナウイルス感染症影響下における公演再開に備えた試演」の今日は2日目。
 オーケストラおよび声楽の演奏を行ない、エアロゾル、飛沫等の実際の問題に関し専門家の立会いのもと、実験と測定を行うという興味深い試みだった。

 最初に金管楽器のアンサンブルだけでデュカスの「ラ・ペリ」の「ファンファーレ」、次に木管のアンサンブルでブラームスの「第1交響曲」の第4楽章の主題、次にオーケストラでモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲と「ジュピター交響曲」の第1楽章、最後に谷原めぐみと妻屋秀和がそれぞれ協演してヴェルディの「椿姫」の「花より花へ」の後半とモーツァルトの「フィガロの結婚」からの「もう飛ぶまいぞこの蝶々」━━といった曲目を演奏。

 オペラの歌とオーケストラをナマで聴くのも、随分久しぶりだという気がする。開放的で、いいものだ。それに、空間たっぷりに響くモーツァルトのオペラのオーケストラの、何とハーモニーの美しいこと!
 それはともかく、このうち、管のアンサンブルでは奏者間の距離などを含めた演奏のテストとエアロゾルの実験が、また最後の声楽では当然ながら飛沫のテストなどが行なわれた。指揮は音楽監督・大野和士。オケの作品では、久しぶりのステージ上の演奏の練習が狙いだったような雰囲気も感じられたが・・・・。

 実験の結果は、いずれ分析の上、(どういう形でかはともかく)まとめて公表されるとのことである。ステージの上からは、金管も木管も危惧されたほど飛沫の問題はなさそうだとか、従って「弦の人たち」はマスクをしなくてもいい(したければしていてもいい)だろうとか、声楽はやはり「言葉」と「発音」によって飛沫の度合いが━━とかいう「専門家」の声が漏れ聞こえて来たけれども、なんせ遥か彼方で耳に挟んだ言葉とあって曖昧甚だしきがゆえ、迂闊に報告するのは慎みたい。

 いずれにせよそれらは、今後の「ウィズ・コロナ」の時代のオーケストラ活動やオペラ・リサイタル活動に大きな影響を与えることばかりだ。結果発表が大いに注目されるところではある。

2020・6・10(水)広上淳一指揮日本フィル(非公開演奏、配信用)

       サントリーホール  2時

 日本フィルが広上淳一を客演指揮に迎え、無観客での演奏をネットで生中継配信。
 プログラムは、グリーグの「ホルベアの時代」前奏曲、エルガーの「愛の挨拶」、ドヴォルジャークの「ユモレスク」、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」、最後にシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」。
 今回は弦楽器21名からなる編成のオーケストラで、コンサートマスターは田野倉雅秋。奏者たちも互いに1・5m~2mの間隔を置いての舞台配置。進行役は高坂はる香が務めていた。私はホールの現場で聴いた。

 これは、日本フィルが「とっておきアフタヌーン」シリーズの一環として予定していた公演が中止に追い込まれたため、その代替策としてサントリーホールと協力して実施した、無観客によるネット生中継のための企画であった。指揮も、当初予定されていた沖澤のどかがドイツから帰国できなくなったので、ベテランの広上が登場した、ということだそうだ。プログラムもオーケストラ編成も、大幅に変更されている。

 日本フィルがステージで演奏するのは2月19日以来ほぼ4か月ぶりとのこと。広上もステージで指揮するのは3月末の京都市響定期以来2か月半ぶりといい、またサントリーホールもほぼ2か月間休館状態にあった。何もかもが「久しぶり」ということになる。
 だが、マエストロ広上はじめ楽団関係者たちは、かくも長いブランクを強いられたことにより、むしろステージで演奏できることがいかに素晴らしいことであるかを改めて痛感し、作曲家や音楽に対する感謝と謙虚さの念をいっそう強く持つに至った、という意味のことを語っていた。もっともなことだと思う。
 そして日本フィルは、今日の企画を、公開演奏会再開への確実な第1歩としている。

 今回は非公開ではあるものの、2階客席には僅かながら記者陣の入場も認められていたので、私も取材として現場に立ち会うことができた。従って私も、3月21日に東響の演奏会を聴いて以来、ナマのオーケストラの音を聴くのはほぼ3か月ぶりになるわけである。この長いブランクが、ナマ演奏への憧れをいよいよ強く掻き立てる結果を生んだことはいうまでもない。

 久しぶりにナマで聴いた弦の音の何と美しいこと。それがサントリーホールのふくよかなアコースティックと相まって夢のような気分に誘ってくれる。
 ふだんならどうということもなく聞き流してしまうであろう「ユモレスク」が、何とまあ懐かしい音楽に聞こえたことか、そして好きな「アンダンテ・フェスティーヴォ」が何と心に強く染み入って来たことか。
 眼前で今この瞬間に生れて来るナマの音楽の生命力の素晴らしさはやはりかけがえのないものだ。この想いを一日も早く、大勢の愛好家たちとホールで共有したいものである。

 オンラインでの生中継に関しては、ご覧になった人も多いだろう。私は客席にいたため、それを視ていないが、多くのコメントが寄せられていたそうだ。
 感動を共有できるのはやはり同時性=生中継が一番だと私は思う。ただしオン・デマンドとしても、今月25日の深夜までは日本フィルのサイトを通して視ることができるはず。
 それらを有料にしたのは、寄付を募るためでもあるという。演奏会をやらなければ収入の道とてない自主運営のオーケストラが頼る縁として、それは当然の方法だろう。

2020・5・24(日)まだ番外編

 16年前、2004年4月のコンサート日記を引っ張り出してみました。
 ラトル時代のザルツブルク・イースター、ドレスデンの「ヴァルキューレ」、エイジ・オブ・エイジ時代の大阪フィル、びわ湖ホール芸術監督就任前の沼尻竜典の指揮など。
 追加:2004年5月

2020年5月4日(火)番外篇 その2

 2005年8月の日記をアーカイヴの続きとして復刻しました。中心はバイロイト日記で、猛烈な悪評を浴びたシュリンゲンジーフ演出の「パルジファル」、惜しい結果に終った大植英次のバイロイト・デビューなど。

2020・4・18(土)番外篇

 新しいネタの代わりと言っては何ですが、本ブログ開始以前の日記を織り込み中です。青文字、またはカテゴリー欄のArchivesからお入り下さい。
 2005年3月(ベルリン、パリ、ザルツブルク・イースター)
 2005年12月(シュトゥットガルト&ベルリン日記)
 2006年3月(メトロポリタン・オペラ)
 2006年4月(ベルリン・フェストターゲ、ザルツブルク・イースター)
 2006年8月(バイロイト ドルスト演出「指環」)
 
 なお、既に載せた
 2006年7月(モンゴル国立歌劇場、シュトゥットガルト日記)
 2007年3月(ドレスデン・シュトラウス・ターゲ)
 2007年4月(ザルツブルク・イースター)、
 2007年5月(パリ、ウィーン、ドレスデン日記)
 2007年7月(エクサン・プロヴァンス音楽祭)
 2007年8月(ザルツブルク音楽祭)
なども、何かのご参考になるかと思いますので、併せてどうぞ。

※YSさん、コメントをありがとうございました。思ってもみなかったお話なので、びっくりしました。これは非常に難しい問題ですが、わくわくするくらい興味深い問題でもありますね。暫し考えてみたいと思います。ですが、答はもしかしたら永久に出ないかもしれません。

2020・3・28(土)広上淳一指揮京響のライヴ・ストリーミング

     京都コンサートホール  2時30分

 新型コロナウィルス感染数が急激に増加し始めた東京では、大ホールにおけるコンサートやオペラはほとんど全部が中止されている。
 私が期待していた今日午後の鈴木優人と東京響の「マタイ受難曲」も延期となっていたが、もっともこれは合唱団の問題が大きかったからだと聞く━━岐阜で発生した「合唱での感染」は、合唱をやっている人たちに非常な衝撃を与えているようだ。4月に大規模な合唱曲をプログラムに組んでいた某オーケストラの定期公演にも変更を生じさせたという情報も入って来たほどである。

 そこで、外出自粛の件もあったことだし、今日は自宅のパソコンの前で京都市交響楽団の非公開演奏によるネットのライヴ・ストリーミングを視聴させてもらうことにする。
 指揮は常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザー(4月からは常任指揮者兼芸術顧問)の広上淳一で、プログラムは、シューベルトの「交響曲第5番」とマーラーの「交響曲第4番」、アンコールはシューベルトの「ロザムンデ」間奏曲。マーラーでのソプラノ・ソロは森谷真理。

 完璧な収録用セッティングではないと思われるバランスのマイクを通して聴く演奏だから、厳密なことは言えないけれども、広上のもとで西日本随一の、いや国内でもベストのグループに入る存在となっている京響の演奏の見事さは、充分に堪能することができたと思う。特にシューベルトの2つの作品における弦の瑞々しい表情が印象に残る。このプログラム、ナマで聴きたかった。

 ただ、これは演奏者の責任では全くないが、音が映像とほんの僅かずれて聞こえて来ることが気になった━━それがインターネット固有の問題なのかどうかは、私には判らない。
 そしてもうひとつ、マーラーの第4楽章で、ソプラノのソロの声を拾うべきブースターマイクが立てられていなかったため、森谷真理の声が直接音で捉えられず、非常に遠く聞こえてしまい、折角のいい演奏が肝心の中継の段階で滅茶滅茶にされてしまう結果を招いたのは、かえすがえすも残念なことであった。
 後者は、収録の基本を心得ていない技術スタッフの、取り返しのつかぬ大失態である。放送局の生中継だったら、ディレクターとエンジニアのクビが飛ぶことは間違いない。

 また、マーラーが終ったあとでいろいろあった舞台上でのゲストのスピーチも、ハンドマイクの音声が中継のラインに接続されていなかったらしく、ただ場内PAの音を拾うだけだったため、ワンワン響いて明確に聞き取りにくい結果を生んだことも、技術上の大失態である。

 それらの点を別とすれば、広上=京響の最新のライヴ演奏を全国に生中継で伝えた企画そのものは素晴らしく、成功を収めたといえよう。
 一方、話は違うが、関西フィルハーモニー管弦楽団も、31日に高関健の指揮でウェーバーの「クラリネット協奏曲第1番」(ソロはカルボナーレ、来日中止)と、ショスタコーヴィチの「第8交響曲」を演奏する定期を組んでいた。これも残念ながら(私も聴きに行くつもりでいた)公演中止となったが、聞くところによると、無観客生中継の案も検討されたらしい。しかし、楽員や事務局から「せっかくタコ8を演奏するなら、やはりお客の目の前でやりたい、機会を改めてやることにしようよ」という声が出て、ストリーミングは見送られたという話である。それぞれの考え方がある。

2020・3・25(水)上原彩子ピアノ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 久しぶりに上原彩子のリサイタルを聴く。モーツァルトとチャイコフスキーを組み合わせたプログラムで、かなり力を入れた取り組みだったであろう。あいにくこういう世の中で、お客の入りは必ずしも多くなかったけれど、演奏も力のこもったものだった。

 プログラムは、第1部がモーツァルトの「キラキラ星変奏曲」に始まり、チャイコフスキーの「主題と変奏Op.19-6」および「四季」からの「ひばりの歌」と「舟歌」、モーツァルトの「ソナタK.332」。第2部がモーツァルトの「ソナタK.282」とチャイコフスキーの「グランド・ソナタ」。

 第1部では、チャイコフスキーの「変奏」のあとで客席の一部から拍手が起こり、第2部でもモーツァルトのあとで拍手が起こったが、彼女の真の狙いは第1部でも第2部でもそれぞれ切れ目なしに演奏するつもりではなかったのかと思うのだが━━拍手の都度立ち上がって答礼していたところからすると、真偽のほどは判らないけれど。

 しかし、「この2人の作曲家の違いを明確にする」(プログラム冊子での彼女のコメント)にせよ、私が感じたような「チャイコフスキーのモーツァルトに対する愛情と畏敬の念が浮き彫りにされる」にせよ、これらは各々切れ目なしに演奏された方が、いっそう効果的になったのではないかと思うのだが━━拍手の雰囲気からすると、お客さんの大多数もそう感じていたのではないだろうか。

 ともあれ、「キラキラ星」からチャイコフスキーに移るところなど、今回のように続けて演奏された場合、まるでいつどこで2人の作曲家が入れ替わったのか判らないくらいの近接性が証明されたようで、大いに面白かった。今更言うまでもないが、チャイコフスキーが「スペードの女王」の夜会の場にモーツァルト風の音楽を取り入れたり、また「モーツァルティアーナ」という曲を作曲したり、如何にこの作曲家を愛していたかは周知のことである。今日のプログラムは、それを改めて証明するに絶好のものだった。

 逆に第2部では、2つの個性の際立った違いが浮き彫りにされて、これはこれで面白い。もし「K.282」から切れ目なしに「グランド・ソナタ」に飛び込んでいたら、凄まじい衝撃を聴き手に与えたかもしれなかった。
 しかも彼女の演奏がこの第2部に入ると「乘って」来たように感じられたし。一般的なイメージなら、モーツァルトの明るさとチャイコフスキーの憂愁との対比━━となるところだろうが、今日の演奏ではモーツァルトの落ち着きに対してチャイコフスキーのそれは愁眉を開いたようなイメージを感じさせて、これまた興味深かった。
 それにしてもこの「K.282」での軽やかだが思索的な表情を滲ませた演奏、「グランド・ソナタ」の豪壮な構築の演奏は見事で、この2曲で彼女の本領が発揮されたと言っていいだろう。

 アンコールではチャイコフスキーの歌曲「なぜ Op.6-5」(彼女自身のピアノ編曲版)、モーツァルトの「トルコ行進曲付きソナタ」の第1楽章(第3楽章ではないところがニクイ)、チャイコフスキーの「悲歌Op.72-14」の3曲。これらも良かった。
 終演は9時半頃になった。

2020・3・21(土)東京・春・音楽祭 鈴木大介のシューベルト

      東京文化会館小ホール  6時

 新宿からクルマで上野へ回る。首都高の環状線内回りは空いていて、制限速度で走っても20分とはかからなかったが、上野駅南側の中央通りから公園口(つまり東京文化会館前)に通じる道路が昨日から通り抜け不可に変更され、公園口前のロータリーでUターンさせられて元の交差点に戻らされるというシステムになり、しかもその旨の明確な表示が何もないため、変更になったことを知らないたくさんのクルマが次々に袋小路に迷い込んで空前の大渋滞、坂下の駐車場に入るまでに実に30分を要した。
 それにしても、変更を知らずに入り込んだクルマこそ気の毒の極みだ。中央通りへ出る交差点の青信号は僅か15秒以下。戻るまでにはまず1時間はかかるだろう。周知徹底を判り易い方法で行なわぬ道路行政の不親切さが招いた弊害である。

 さて、演奏会。正式名称は「シューベルトの室内楽Ⅰ~鈴木大介(ギター)と仲間たち」。彼を中心に豊嶋泰嗣(vn)、上村昇(vc)、梶川真歩(fl)、アリスター・シェルトン・スミス(Br)が集い、シューベルトの作品を演奏した。

 プログラムは、ヴァイオリンとギターによる「ソナチネ ニ長調D384」(鈴木大介編)、チェロとギターによる「アルペジョーネ・ソナタ」(同)、フルートと弦とギターによる「ギター四重奏曲D96」、声楽とギターによる歌曲集、ギターのみによる歌曲集(ヨーゼフ・カスパル・メルツ編)といったように、すこぶる多彩である。

 ギターと他のソロ楽器との音色のバランスが難しい所為なのか、あるいは協演したソリストの一部(誰とは申しませんが)の技術の問題なのか、聴いていて何となく座り心地の悪い演奏もあったけれど、最後の「ギター四重奏曲」などは滅多にナマで聴けない曲だし、しかもフルートが入ったことにより、ステージの雰囲気も演奏もぱっと明るくなった感があって、楽しめた━━ただし曲がチト長く、特に終楽章は変奏の一つ一つに連続性が感じられず、少々だれた感もあったが。
 15分の休憩2回を含め、終演は8時50分になった。

 昨日の旧東京音楽学校奏楽堂での演奏会でもそうだったが、開演前の会場入り口では体表温度検知カメラも設定され、感染予防にいろいろな手が尽くされている。客の方も、聴きに行ったからには、互いに協力し合う義務がある。私もマスク着用、ロビーに置いてあるアルコールで念入りに手洗い。

2020・3・21(土)飯森範親指揮東京交響楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 在京オーケストラの中では唯一、いくつかの自主公演を再開している東京交響楽団。今日のこれは「オペラシティシリーズ」だが、28日のサントリーホールでの定期公演も公開で実施すると予告している(※)。
 ロビーには、こまごまとした感染予防のためのブリーフ。ホール側も事前に会場内を除染、準備怠りない様子。聴衆の入りは目測したところ7割程度か。

 今日のプログラムは、第1部にラヴェルの「ラ・ヴァルス」と、ファジル・サイの新作「11月の夜想曲~チェロと管弦楽のために」の初演(チェロのソロは新倉瞳)。第2部はラヴェルの作品のみで、「道化師の朝の歌」「スペイン狂詩曲」「ボレロ」。

 トルコ出身のファジル・サイ(ファズール・サイというのが正しいのだとかトルコの人から聞いた)のこの新作は、新倉瞳の委嘱によるものという。
 彼女の明晰で切れの良い、表情豊かなソロで初めて聴いたこの「11月の夜想曲」が、非常に感情の動きの激しい、何か心の奥底に秘めた焦燥感のようなものを噴出させ、訴える音楽のように感じられてしまったのは、たまたま聴く側が疫病蔓延による不穏な世相に神経を苛立たされているがゆえだろうか。もう一度じっくり聴き返してみたいところである。

 ラヴェル3曲は、飯森範親の解釈によるものだろうが、打楽器の強打がいつにも増して物凄く、恰も溜まった鬱憤を一度に吐き出すかのような演奏になった。ラヴェルの作品にしてはあまりに荒々しいが、この御時世、一種「痛快」かもしれない。「ボレロ」の最後は、コロナなど吹き飛ばせといった勢いの全管弦楽のフォルティッシモ、そしてひときわ高いトランペットの歓呼。
 客席は、マスクをしているとブラヴォーも叫びにくいらしく、拍手のみ。

※24日午後、延期(8月13日 於ミューザ川崎)と発表された。

2020・3・20(金)東京・春・音楽祭 ベートーヴェンのピアノ三重奏曲Ⅱ

       旧東京音楽学校奏楽堂  6時

 昨日の続き、第2回。「第2番」「第4番《街の歌》」「第6番」および「カカドゥ変奏曲」がプログラムに組まれた。

 昨日と同様、良かったことに変わりはないが、欲を言えば、ピアノが極度に几帳面で、アンサンブルを「合わせる」ことのみに徹しているのが不満を残す。ベートーヴェンの作品の場合は、ピアノがもっとスケールも大きく、闊達に音楽全体を仕切って行く役割を果たしてくれないと、面白味が出ない。
 例えば今日の「2番」や「カカドゥ変奏曲」でも、特に緩徐個所でピアノが主導権を握る時に、その演奏に表情が不足して単調になり、音楽に「色」が感じられなくなってしまうのである。
 ただ、プログラムの最後の曲の演奏が見事に盛り上がるというのは、昨日と同様だ。今日の「第6番」も、特に終盤での猛烈な追い込みが功を奏して、聴き応え充分の裡に締め括られていた。

 昨日よりもかなり客が入っている。
 そういえば、昨日も、先頃のシフの時にもそうだったが、不思議なほど客席から咳が全く聞こえなかった。演奏中はもちろん、楽章間でも同様である。うっかり咳をすると周囲から疑われるからという警戒心ゆえだろう。
 ふだん、あの楽章間で堰を切ったようにゴホンゴホンと始まる咳も、そのつもりになればしないでも済むものなのだ、ということが図らずも証明されたようである。ただその代わり、場内ピリピリと押し黙って、静かすぎて少々堅苦しい雰囲気にはなっているが。

2020・3・19(木)東京・春・音楽祭 ベートーヴェンのピアノ三重奏曲Ⅰ

      旧東京音楽学校奏楽堂  6時30分

 「新型コロナ」のため、「東京・春・音楽祭」でも大看板のムーティ指揮「マクベス」、ヤノフスキ指揮「トリスタンとイゾルデ」をはじめ、「ミサ・ソレムニス」「プッチーニ3部作」、その他外来アーティスト絡みの公演の大部分、そして博物館・美術館で開催する予定だった演奏会の大半も公演中止に追い込まれるという大きな打撃を蒙っているが、それでも国内アーティストたちは頑張っていくつか演奏会を続けている。
 主催者も会場も、感染予防のための事前除菌作業など、考えられる限りの必要な手段を講じた上での開催決断だ。

 公式プログラム冊子だけは、例年と同じように分厚く立派に作られている。それを手に取ると一種の寂しさに襲われてしまうが、それでもとにかく実施できた演奏会があるのを有難いと思わなくてはなるまい。こういう時だからこそアーティストたちも、それぞれの一生をかけた仕事を果たすべく演奏に臨むだろう。それゆえ、私たちも真剣にそれを受容すべきであろうと思う。

 今日開催されたのは、Trio Accord━━白井圭(vn)、門脇大樹(vc)、津田裕也(pf)による「ベートーヴェン ピアノ三重奏曲全曲演奏会」の第1回。
 「変ホ長調WoO.38」、「第1番変ホ長調」、「アレグレット変ロ長調WoO.39」、「第5番ニ長調《幽霊》」の4曲が演奏された。
 出だしこそわずかに演奏に硬さが感じられたが、進むにしたがって密度を増し、特に最後の「第5番」などは稀に聴くほど緊迫感のある見事な演奏に高められて行った。白井圭のリーダーシップの良さも印象に残る。ベートーヴェンの「ピアノ三重奏曲」がこれほど心に染み入って来た演奏会も久しぶりのような気がする。

2020・3・14(土)3つのライヴ・ストリーミング

 「東京・春・音楽祭」でも3月の多くの演奏会を中止したが、今日の午後の二つの演奏会は、非公開で行ない、それをネット配信すると発表していた。
 一つは3時からの旧東京音楽学校奏楽堂における林美智子・与儀巧・河原忠之による「にほんの歌を集めて」、もう一つは6時からの東京文化会館小ホールにおける「The Ninth Wave-Ode to Nature 耳で聴き、目で視る『ベートーヴェン』」という演奏会である。

 いずれも興味深く視せていただいた━━いや、歌曲演奏会の方は支障なく視聴できたものの、「ベートーヴェン」の方は受信状態が悪かったのか、あるいは他の原因によるトラブルだったのか、音声がしばしば途切れるわ、無音になるわ、そのうち映像まで消えるわ、全く駄目で、2台のパソコンで比較受信しつつ1時間ほど頑張ってみたが、ついに諦めた。
 この「ベートーヴェン」は彼の音楽を基に安田芙充央が作曲し、ノイズ・アートやパフォーマンスや映像などを組合せた、部分的に聴いてさえすこぶる面白い演奏会だったのに、残念至極だった。

 そう言えば、私が異状なく受信できていたリサイタルの方でも、「前半で音が切れて聴けなかったという人がいらっしゃるそうなので、前半のみもう一度ストリーミングいたします」とかいうことを演奏後に林さんが言っていたところからすると、やはり各々のネット環境の問題なのか。キカイに弱い私には原因は全く分からない。ネットによる中継は新時代のメディアの華だと思ったのだが、未だもう少し時間が必要なのだろうか。

 夜8時からのKAJIMOTOのオーガナイズによる「アンドラーシュ・シフ」の方は、YouTubeを使っているためなのか、全く支障もなく、いい音と映像で入って来た。塩川悠子さんをゲストに(といっても通訳だけにとどまったが)シフが語り、ピアノを弾く。彼の温かい雰囲気の人柄が番組全体に満ち溢れ、バッハやバルトークやブラームスやベートーヴェン(4大B!)の作品の演奏のヒューマンな滋味が私たちを魅了した。もう少したくさん弾いて欲しかったな、とも思う。

 ネットでのストリーミング、俄然増えて来たようだ。大阪フィルも、19日に定期の非公開演奏を配信すると予告している。

2020・3・12(木)アンドラーシュ・シフ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 どの団体のサイトにも公演中止、中止の字が並ぶ。日本だけではない、スカラ座も4月初頭までの全公演が中止、METも今月いっぱい中止、パリ・オペラ座も4月半ばまでの公演が中止━━そのような惨憺たる状況の中、KAJIMOTOが敢えて予定通り実施したアンドラーシュ・シフのピアノ・リサイタルは、ナマのコンサートがいかに生命感に溢れて尊いものであるかを、われわれに改めて教えてくれるものとなった。

 思えば第2次大戦後、それも1950年代の半ば頃まで、良いクラシックのコンサートやオペラに飢えていた人々が会場に詰め掛け、立ち見まで出るほどだったことを私も少しだが記憶している。今日の状況はそれとは全く異なるにしても、とにかくナマの演奏会の「有難味」を今一度認識させられるきっかけとなったことは事実かもしれない。

 この公演も、主催者側は漫然と開催したのではなく、専門家の力を借り、このホールの空調換気の能力を確認し、ホール内のすべての場所を除菌するなど、万全の処置をした上で客入れした由。開演前に場内スピーカーを通して梶本社長が挨拶すると、客席から拍手が湧いた。続いてステージに置かれたスクリーンを通してシフもスピーチ、これも拍手を浴びた。

 もっとも、制約も少なからずあり、例えば「接触」を避けるためにプログラム冊子は配布せず、チケットもぎりも行なわず、カフェ・バーは営業せず(つまり水も飲めない)、ロビーでの客同士の歓談も「なるべく御遠慮下さい」、もちろん手の消毒とマスクの推奨━━等々、というわけだが、シフの演奏を聴きに来た人々には、そのくらいは大して気にならぬことだろう。

 今日のシフのリサイタルのプログラムは、メンデルスゾーンの「スコットランド・ソナタ」、ベートーヴェンの「ソナタ《テレーゼ》」、ブラームスの「8つの小品」と「7つの幻想曲」、バッハの「イギリス組曲第6番」というものだったが、しかしそのあとにアンコールをやることやること、バッハの「イタリア協奏曲」、ベートーヴェンの「葬送ソナタ」第1楽章、メンデルスゾーンの「甘き思い出」と「紡ぎ歌」、ブラームスの「インテルメッツォ」op.118-2、シューベルトの「ハンガリー風のメロディ」と続き、終演はついに9時40分頃になった。

 メンデルスゾーンの温かさ、ベートーヴェンの豪快なユーモア、ブラームスの滋味・・・・さしあたりこんな常套的な形容句しか出て来ないのをお許し願いたいが、とにかくそれらの多彩な性格を備えた音楽が、最後に厳しく巨大な、しかもしなやかなバッハの組曲に流れ込んで行くといった感の演奏の見事さには、心を打たれずにはいられなかった。このバッハこそは、今夜の圧巻、白眉だったろうと思う。
 ただその代わり、たくさんの━━古くはワイセンベルク、近年ではキーシンの如きか━━アンコールには些か疲労を感じてしまったのだが、しかし満員に近いお客さんたちは熱狂していた。

2020・3・8(日)びわ湖ホール「神々の黄昏」ライブストリーム 第2日
東京交響楽団 Live from Muza!

 2年前か3年前までだったら、無理しても現場へ取材に行っただろう。だが今回は、せめてストリーミングを全部観て、演奏者たちとスタッフの熱意と努力にありったけの讃辞を贈ることで埋め合わせをするのが精いっぱいというところだ。

 今日はダブルキャストの第2日。エリン・ケイヴス(ジークフリート)、池田香織(ブリュンヒルデ)、高田智宏(グンター)、斉木健詞(ハーゲン)、森谷真理(グートルーネ)、大山大輔(アルベリヒ)、中島郁子(ワルトラウテ)、砂川涼子・向野由美子・松浦麗(ラインの乙女)、八木寿子・斉藤純子・田崎尚美(ノルン)という顔ぶれ。

 池田香織が何といっても素晴らしい。強靭でスケール感の豊かな声と表現力は、以前のイゾルデ役に匹敵するだろう。
 ケイヴスは、声と雰囲気はあるのだが、昨日のフランツ同様、たとえば第2幕後半での「はしゃぐジークフリート」を表す細かく跳躍する音符をあまり正確に歌わずに勢いよく飛ばして行くといった、ややいい加減なところがある。

 これに比べると池田香織をはじめ、大多数の日本人歌手たちはやはり正確そのもの、きちんと楽譜通りに歌う。この演奏が端整な感を与えていたとすれば、それは日本人歌手たちのこのような歌唱スタイルのせいもあるのではなかろうか。
 高田智宏も斉木健詞も、正確で立派な異父兄弟といった歌いぶりだし、大山大輔も魔人アルベリヒというよりは一本気な父親という雰囲気の歌唱。

 森谷真理は進境目覚ましいが、ワーグナーものの場合には歌い方を少しものものしくするのか、しかし第2幕最初でジークフリートにブリュンヒルデとの出来事について心配そうに念押しするあたりの歌唱表現は巧かったし、第3幕で兄がハーゲンに殺される場面と、死せるジークフリートが腕を高々と上げてハーゲンを拒否するさまに動転する場面の演技などは、心理的表現にも富み、劇的迫力も充分であった。
 砂川・向野・松浦の「ラインの乙女たち」も、ジークフリートを揶揄う時と、真面目に警告する時との表情の違いを見事に歌い分けていた。

 沼尻と京響も、昨日よりは呼吸が合い、余裕も出て来たのだろう、例えば第2幕後半でブリュンヒルデが戸惑いと苦悩の感情に揺れるあたりのテンポの変化など、昨日より細かいニュアンスに満ちていたように感じられたのだが。

 とにかく、びわ湖ホールは、あらゆる危機的状況を克服し、みんな見事に「神々の黄昏」を仕上げた。日本人演奏家とスタッフによる「指環」4部作の舞台上演は、これまでに東京二期会が1回、新国立劇場が2回完成させたに過ぎなかったのだから、これは何処から見ても偉業である。

 今日の視聴者数の表示は、最大で12,215だったか? 幕切れでライン河があふれて来るあたりから何故か数字が急激に上昇し、「救済の動機」が流れはじめて未だ曲が終らぬうちからまた急激に十数件ばかり減少して行ったのは、もしや舞台関係スタッフのアクセスだったか?

 なお、午後2時からは別のストリームで、大友直人が指揮する東京交響楽団の演奏が、ミューザ川崎シンフォニーホールから生中継されていた。これも「無観客」演奏会である。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロは黒沼香恋)、サンサーンスの「交響曲第3番」というプログラムだ。
 とりあえず仕事として、別のパソコンを使って視聴したが、こちらも素晴らしい熱演であった。このストリーミングでは視聴者からの膨大なコメントが出る(消すこともできる)が、びわ湖ホールと掛け持ちで・・・・という、私と同じ穴のムジナも少なからずいるのが判って可笑しかった。

 なおこちらの視聴者数(らしきもの)は、ただ増加して行くだけで減ることはなかったので、「延べ人数」ということなのか。最後には5万強と表示されていた数字はやはり驚異的なもので、ネットでの無料配信がいかに強力なものであるかが、如実に証明されているだろう。コメントには感動の言葉から「今度必ず聴きに行く」というものまで出ていた。これはクラシック・ファンを増やすための有効な手段である。

2020・3・7(土)びわ湖ホール「神々の黄昏」ライブストリーミング

 新型コロナウィルスの所為で「神々の黄昏」の公演中止を余儀なくされたびわ湖ホールは、予想通りこれを無観客の非公開上演に切り替え、you tubeで生中継配信する作戦に出た。午後1時から6時半過ぎまで、途中に30分ずつの休憩を取りながら上演するという、公開上演と同一の形を採っている。

 私もいくつかの事前講座を担当した関係もあって、この非公開上演を観に行くつもりでいたのだが、自分のトシを考えて、とりあえずは自粛してしまった次第だ。
 だが、パソコンを見ながら、こういう世の中の状況にもかかわらず、いまあそこでは指揮者が、オケが、歌手たちが、多くのスタッフが、みんな一所懸命に「神々の黄昏」を上演しているんだな、と思うと、胸の熱くなるのを抑えきれぬ。

 誰も観ていない、聴いていないのだったら、やる方も張り合いがないだろうが、ストリームが始まる前には約1500人が「待機中」、開始された時にはほぼ9700人が「視聴中」で、 やがてそれが1万人を超え、全曲にわたり11,600人あたりをキープしていたとなれば━━この視聴者数が途中で増えても減っても刻々と表示されるのは何となく面白いが━━しかも「ブリュンヒルデの自己犠牲」の後半あたりから数字は急激に増え、最高11,950前後に達して行ったのである。
 たとえ公開で上演したとしても観客は2日間で3600人止まりであることを思えば、それよりは多くのワグネリアンたちの目に触れたことになり、手応えも上々ということになるだろう。

 このストリーム、概して音響のバランスもよく、しかもあの暗い舞台が予想外に細部まで鮮明に写されていたのには感心した。
 固定カメラなのと、字幕がない━━これらは予め予告されていた━━のは残念だが、こういう点を改善して行けば、インターネットを使ってのこの手法は、新しいメディア展開の代表的な存在になるであろうことは疑いない。これからは平時においても、もっと活用されるべきだろう。
 何しろ今日では、放送局は頼みにならぬ。それにネットは、全国で視聴できるという強みがある。

 なお今回、原稿書きなどの都合もあって、2台のパソコンを交互に使っていたのだが、ラインで受信していたパソコンに比べ、Wifiで受信していたパソコンの方は、映像も音も20秒ばかり遅れて来る、という不思議な現象に面食らった。キカイに素人の私にはさっぱり解らないことが多い。

 演奏は、沼尻竜典指揮の京都市交響楽団。びわ湖ホール声楽アンサンブル、新国立劇場合唱団。
 歌手陣はクリスティアン・フランツ(ジークフリート)、ステファニー・ミュター(ブリュンヒルデ)、石野繁生(グンター)、妻屋秀和(ハーゲン)、志村文彦(アルベリヒ)、安藤赴美子(グートルーネ)、谷口睦美(ヴァルトラウテ)、𠮷川日奈子・杉山由紀・小林紗季子(ラインの乙女)、竹本節子・金子美香・高橋絵里(ノルン)。
 フランツがどうも本調子ではなかったらしいのを除けば、本当にみんな見事だった。とりわけミュターの馬力は素晴らしく、安藤赴美子も清純な歌唱を聴かせた。京響の頑張りと好演は特筆すべきものだろう。
 就中これらをまとめて来た沼尻竜典の情熱と力量は、絶賛に値する。

 ミヒャエル・ハンぺの演出と、それに基づくヘニング・フォン・ギールケの舞台美術が、所謂旧いスタイルのものであることは、今更どうのこうの言っても仕方がない。
 「こういう演出をする人はもう他にいないから、今のうちにみんなに観てもらおう」との沼尻総監督の明確な意図で採用されたのだから、それはそれで悦んで受容することにしよう。なお「ジークフリートの葬送行進曲」で、葬列と、それから離れて折れた槍を手にさすらい行く失意のヴォータンの姿とをシルエットの映像で見せたアイディアは感動的であった━━特に終りの方の遠景となった場面が。

 映像も、以前の「さまよえるオランダ人」でも証明されたように、すこぶる精妙で、特に第3幕でのライン河と3人の乙女たちや、ヴォータンの使いの2羽の鴉の描き方など、悪くない。もっとも大詰のカタストローフの場面の映像は、やはりナマで観ないと、その真価は解らないだろうと思う。

 カーテンコールをも型通り行なって見せたのは、ストリームミングが手応えあったことへの満足感の表れか。少しおいて京響のメンバーも登場し、このへんから舞台の雰囲気は少し賑やかになった。最後は幕の向こう側で、お疲れ様の歓声と大拍手。よくやってくれた。

2020・2・28(金)METライブビューイング「ヴォツェック」

     東劇  6時30分

 新型コロナ・ウィルスの所為で、29日に聴きに行こうと思っていたアルミンク指揮群響のマーラーの「復活」も、1日の神奈川県立音楽堂の「シッラ」も中止。そのあとも、ワシントン・ナショナル響をはじめ、国内各オーケストラの演奏会が軒並み中止。その上、この春これだけはと期待していたびわ湖ホールの「神々の黄昏」も、東京・春・音楽祭のムーティ指揮の「マクベス」も・・・・。
 われわれも落胆の極みだが、何年もかけて懸命に準備して来たであろう主催者たちの苦衷は、察するに余りある。

 そんな中、東劇でのオペラのライブビューイングは予定通りやっているということなので、観に行く。
 これは今年1月11日のMET上演のライヴ映像で、ウィリアム・ケントリッジの演出、ヤニック・ネゼ=セガンの指揮による注目のプロダクションだ。歌手陣はペーター・マッテイ(ヴォツェック)、エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー(マリー)、クリストファー・ヴェントリス(鼓手長)、ゲルハルト・ジーゲル(大尉)、クリスチャン・ヴァン・ホーン(医者)他という顔ぶれ。

 このプロダクションに関しては、共同制作だったザルツブルク音楽祭での上演(☞2017年8月8日)の際に書いたので、委細は省略する。
 ここでの本当の主役はヴォツェックよりも、ドローイング・アニメの巨匠ケントリッジの━━それも「演出」というより舞台の景観なのではないか、と私には思われるのだが、「共同演出」としてLuc de Wit、舞台美術としてザビーネ・テウニッセンが名を連ねているので、どこまでが実際にケントリッジの手が及んだ部分なのかは判然としない。

 だがとにかく、このケントリッジの舞台は、どれが装置で、どれが映像なのか区別がつかぬほど混然としていて、それが刻々と変化するあたりのつくりの巧さは格別である。そしてこの混然たる舞台が、荒廃した世相や人物たちの精神を見事に象徴し、貧しい者たちを惨酷なまでに無造作に呑み込んで行く様子を描く。マリーの子供が異形の人形で描かれるところなど、あまりに無情過ぎるという感を抑えきれないが。

 ネゼ=セガンの指揮が素晴らしい。実のところ、彼がドイツの近代オペラを手がけてこれほどの演奏を聴かせてくれるとは予想していなかった。
 それは所謂表現主義的な鋭角的で激烈な音楽づくりではなく、むしろ叙情性を主としたものといっていいかもしれない。例えば、全体が刺激的な演奏ではないので、幕切れ近くヴォツェックが命を絶った後に現われるあの間奏曲が、「ニ短調という調性が突然現われて衝撃を与える」ほどでもなく聞こえる━━のである。このあたりが、もはや「調性」だの「無調」だのが議論された時代から遠く隔たった世代の指揮者の特徴なのかもしれない。

 歌手では、ペーター・マッテイが熱演だ。特に後半では、破滅に向かうヴォツェックに哀れを誘われてしまうほどの表現力を見せてくれる。
 上映時間は2時間弱。なお上映の最後に、「さまよえるオランダ人」で乳母マリーを歌う藤村実穂子が日本のファンに送るメッセージの映像が挿入されていた。

2020・2・23(日)チョン・ミョンフン指揮東京フィル「カルメン」

     Bunkamuraオーチャードホール  3時

 チョン・ミョンフンと東京フィルのオペラ演奏会形式上演の一環。
 マリーナ・コンパラート(カルメン)、キム・アルフレード(ドン・ホセ)、チェ・ビョンヒョク(エスカミーリョ)、アンドレア・キャロル(ミカエラ)、上江隼人(ダンカイロ)、清水徹太郎(レメンダード)、伊藤晴(フラスキータ)、山下牧子(メルセデス)、青山貴(モラレス)、伊藤貴之(スニガ)の出演。合唱が新国立劇場合唱団と杉並児童合唱団。

 主役4人が伊・韓で、わが日本人は脇役ばかりというのは少々不甲斐ないが、世界のオペラ界における実績という面からみれば、日本人歌手は韓国人歌手群に圧倒的に水をあけられているのは、残念ながら争えぬ事実である。但し今日の歌手陣は、脇役すべてに至るまで、全員が力強く、素晴らしい出来だった。
 欲を言えば、エスカミーリョ役の歌手にもう少し安定感が欲しいということだろうか。強く印象に残ったのは、ホセ役のキム・アルフレードの強靭な声と、ミカエラ役のアンドレア・キャロルの愛らしい表現力。

 チョン・ミョンフンの指揮は、例の如くスピーディで切れがよく、強い推進力にあふれたものだ。全曲を緩みなく引き締め、厳格なバランス感を生み出すところも、近年の彼のオペラにおける指揮に共通している。その意味では、極めて立派な演奏だったと言っていいだろう。
 ただその一方、第1幕から第4幕まで、すべて緊張度の高い演奏で固められているため、オペラ全体に「山場感」というのか、「クライマックス感」というのか、それが些かぼやけたような印象を与えたことは否めまい。

 また、全曲が強いエネルギー性を以って、一気呵成の速めのテンポで演奏されて行くので、音楽作品としては充実感を生んだかもしれないが、登場人物の感情の襞が充分に描かれなかったという恨みを残すだろう━━これは、以前に彼が東京フィルを指揮した「トリスタンとイゾルデ」(☞2013年11月23日の項)でも私が強く感じたことなのである。今回の主人公たちもまた、疾風のようにこの世を生き、走り抜けて行ったというわけか・・・・。

 東京フィルの演奏は、ピットでの演奏とは比較にならぬほど豊かな音だった。コンサートマスターは三浦章宏。

 蛇足だろうけれども、私にとっては大問題なので、最後に一言。
 今回の上演では「アルコア版」楽譜が使用されるという情報を受けていたので、依頼された東京フィルのWebの事前解説には、ギロー版とアルコア版との楽譜の違い、前者のレチタティーヴォと後者のセリフにおける人物像(特にドン・ホセ)の描き方の違いなどについて、その面白さと期待などを書いた。
 ところが実際は、セリフはほとんどカットされ、しかもあろうことかドン・ホセとエスカミーリョが決闘するシーンの音楽も、極度に短縮されたギロー版で演奏されてしまっていたのである。セリフをまともに入れれば長大なものになるので、大半はカットされるだろうとは思っていたが、まさかほとんどナンバーのみの連続の形になるとは。それにまた「折衷版」の演奏になるとは・・・・。
 東京フィルのWebの記事をお読みいただいた方には、とりあえず私からお詫び申し上げたい。

2020・2・22(土)全国共同制作オペラ「ラ・トラヴィアータ」

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 ヴェルディの「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」を白河文化交流館コミネス大ホール(2月9日)、金沢歌劇座(2月16日)、およびここ東京芸術劇場で上演するという企画。

 合唱団は地区それぞれで異なるが、オーケストラは金沢と白河がオーケストラ・アンサンブル金沢、東京が読売日本交響楽団━━という分担だった。指揮はヘンリク・シェーファー、演出と振付が矢内原美邦。
 歌手陣はエカテリーナ・バカノヴァ(ヴィオレッタ)、宮里直樹(アルフレード・ジェルモン)、三浦克次(ジョルジョ・ジェルモン)、三戸大久(ドゥフォール男爵)、古橋郷平(ガストーネ)、高橋洋介(ドゥビニー)、森山京子(アンニーナ)、醍醐園佳(フローラ)他。

 注目すべきは、矢内原美邦のきわめて個性的な、ユニークな試みの演出である。
 スマホとコスプレの時代の「トラヴィアータ」とでも言ったらいいか。連絡はスマホで取り合い、パーティでの関心事にはすべてスマホを向け━━2012年にミュンヘンでプレミエされたクリーゲンブルク演出の「神々の黄昏」でもこのテが使われていた━━、ヴィオレッタは処分財産リストをタブレットでジェルモンに見せるといった具合で、これにはニヤリとさせられる。

 衣装も極彩色でアクの強いものばかり。ダンスには多分主人公たちの心の動きを象徴するような性格が付されているのだろう。・・・・といったように、日本での「トラヴィアータ」の舞台としては、かなり思い切った大胆な試みを注入した舞台となっていた。

 群衆の騒々しいはしゃぎぶりや、しつこい疾走の反復(特に「プロヴァンスの海と陸」の場面━━これにはうんざりさせられた)など、いろいろ「うざい」ところはあったものの、とにかく「オペラ演出家」なら躊躇うであろう手法が大胆に臆面もなく(?)投入されていたことは、アウトジャンルの演出家を起用した意義は充分にあったと言えよう。
 「オリジナルを尊重する」とか、「手を加えず、あるがままに」などと、自己のアイディア不足をすり替えて尤もらしく理由づけて何にもしない演出家よりも、たとえ賛否両論起ころうとも独自のコンセプトを遠慮なく押し出して来る演出家の方がはるかに立派である。

 それに今回、第3幕をヴィオレッタの葬儀場面にし━━と解釈したが━━ジェルモン親子ら参列客とヴィオレッタとの幻想的対話として設定したことは、面白いアイディアであった。参列客たちが手に持っていたものは私の席からはよく判別できなかったが、スマホでもなく、十字架でもなく・・・・関係者に尋ねたら、「砂時計」だったそうな。ウィリー・デッカ―の演出の逆手を行った、ということか。
 最後にヴィオレッタが起き上がり、永遠の生を主張するのは、これはよく見られる手法だが。

 歌手陣の声は、ホールの特性のゆえもあって、(1人を除いて)猛烈によく響く。
 バカノヴァという人はロシア生まれで、非常に強靭な声を持ち、必ずしも洗練されているとは言えぬものの明快な歌唱で、意志の強いヴィオレッタを表現していた。三浦、宮里の父子コンビも強力な歌唱だ。
 合唱も含めてちょっと怒鳴り過ぎ、という印象もなくはなかったし、オーケストラもえらく怒号していたが、「ひ弱」で物静かな演奏よりはマシだろう。それにしてもこのシェーファーという人は、随分きっちりと振る人だ。

 字幕は、上段に英語、下段に日本語という方法。今回の日本語字幕は解りやすい。
 一言申し上げたいのは、プログラム冊子ですね。あの字のフォントの小ささと言ったらまァ、よほど目のいい人が作ったんでしょうな。無料配布では文句も言い難いけれど。

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