2018-06

2018・6・16(土)キュッヒル・クァルテットのブラームス

     サントリーホール ブルーローズ  7時

 7時からは、同じサントリーホールの、今度は小ホール。「チェンバーミュージック・ガーデン」の一環、キュッヒル・クァルテットの登場だ。
 現在のメンバーは、第1ヴァイオリンがライナー・キュッヒル、第2ヴァイオリンがダニエル・フロシャウアー、ヴィオラがハインリヒ・コル、チェロがロベルト・ノーチ(この人、ハンガリー出身だからナジ、かと思っていた)である。

 今日はブラームス・プロで、最初に「弦楽四重奏曲第2番イ短調」が演奏され、休憩後にはヴィオラの豊嶋泰嗣とチェロの堤剛が加わり、「弦楽六重奏曲第1番変ロ長調」が演奏された。

 おなじみキュッヒル先生は、相変わらず「キュッヒルぶし」全開の演奏だが、今日はいつぞやのベートーヴェン・ツィクルスの時より演奏にコントロールを利かせていたし、また作品もブラームスなので、キュッヒルの「自由な感興にあふれて際立つ」ソロも、むしろロマン的な雰囲気を感じさせてくれるという、いい方に生きていただろう。

 とにかく、このウィーンの4人の演奏には、えもいわれぬ味があるのは周知の通り。昨夜のトリオ・ヴァンダラーの生真面目そのものの演奏に比べると、こちらキュッヒルたちのアンサンブルは、その解放感、明るい闊達さなどもあって、聴いていてずっと楽しい。演奏にあふれるあのウィーン的な情緒を備えた独特の味が、たまらない魅力を感じさせてくれるのだ。

 また、「六重奏曲」で加わった豊嶋も堤も、十全にそのアンサンブルに溶け込み、しっかりと中音域や低音を支え、見事なブラームスの世界をつくり出していた。
 この演奏におけるあたたかい情感は、何といっても良きウィーンの香りそのものであろう。私としては第1楽章を聴きながら、あたかも五感がとろけて行くような、言いようのない陶酔を久しぶりに味わったものである。

 アンコールでは、同曲の第3楽章がもう一度演奏された。私の個人的な好みとしては第2楽章をやってもらいたかったな、という気がするのだが、それでは長くなるだろう。あの映画「恋人たち」とこの第2楽章とを結びつけて感慨に浸るような人は、もうほとんどいなくなっているかもしれない。

2018・6・16(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      サントリーホール  2時

 前半にシューベルトの「《イタリア風序曲》第2番」と、メンデルスゾーンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはサリーム・アシュカール)、後半にメンデルスゾーンの「交響曲第4番《イタリア》」。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 インキネンと、シューベルトやメンデルスゾーンの作品とは━━もちろん作品の曲想にもよるが━━どうやら相性がいいようである。今日の3曲など、明るくてきらきらしていて、色彩的で、しかも軽やかだ。
 「《イタリア風序曲》第2番」の冒頭のふくよかで明るい和声の響き、「イタリア交響曲」の第1楽章冒頭での、木管の柔らかく軽快なリズム感と、開放的で明るい主題の表情━━。

 日本フィルがこれだけ洒落た品のいい演奏を聴かせてくれるとは、10年前のこのオーケストラからは想像もできない変わりようである。あの荒れに荒れていた音をラザレフによって叩き直されたこのオーケストラ、彼がそのシェフの座を退いてからはちょっと方向性が定まらないような傾向もあったが、インキネンがそのポストを引き継いでおよそ2シーズン、今やその成果もはっきりと顕れたように思われる。これなら、来春に予定されているフィンランドや独仏英への演奏旅行も、うまく行くことであろう。

 ピアノのアシュカールは、イスラエル出身とかいう話を聞いたが、ベヒシュタインのピアノを持ち込んでの演奏ということもあったのだろう、実に綺麗な音色と瑞々しい叙情美でメンデルスゾーンの協奏曲を再現した。また、アンコールの「トロイメライ」は、まさに玲瓏たる演奏だった。

 プログラムの演奏時間は短く、3時半には終演になったが、そのあとはホワイエで、それを聞くために残っていた大勢の客を相手に、インキネン氏と、日本フィルの後藤朋俊常務理事・事務長がトークを行なった(通訳は井上裕佳子さん)。インキネン氏の首席指揮者契約期間2年延長と、来春のツアーなどに関する話である。
 指揮者と聴衆のこのような形での交流は好ましいことで、いかにも日本フィルらしい。

2018・6・15(金)トリオ・ヴァンダラー演奏会

   サントリーホール ブルーローズ  7時

 「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」の一環。
 パリ音楽院出身の3人━━ジャン=マルク・フィリップ=ヴァルジャベディアン(ヴァイオリン)、ラファエル・ピドゥ(チェロ)、ヴァンサン・コック(ピアノ)の3人によるトリオで、結成以来31年になる由。

 プログラムは、ベートーヴェンの三重奏曲第4番「街の歌」、アレンスキーの「三重奏曲第1番ニ短調」、シューベルトの「三重奏曲第2番変ホ長調」。アンコールはドヴォルジャークの「三重奏曲第4番《ドゥムキ―》」の第6楽章と、ハイドンの「ハンガリー風ロンド」(三重奏曲ト長調Hob.ⅩⅤ-25の第3楽章)。

 このトリオ・ヴァンダラーというアンサンブル、フランスの演奏家でありながら、演奏にはまるでドイツ人のそれかと思わせるような生真面目さにあふれているのが興味深い。一人一人の演奏は実にしっかりしているし、アンサンブルにもさすがのキャリアを感じさせるので、その演奏は毅然、整然として、全く隙がない。

 だが、シューベルトの第2楽章でピアノが刻むリズムに、まるでユーモアも、軽快さも感じさせず、ただひたすらシリアスな表情で進んで行くのには、聴いていて苦笑させられる。「街の歌」でも、ベートーヴェンがこの曲に籠めた冗談とも本気ともつかぬニュアンスはこの曲の真髄ともいうべきものだが、こう真面目くさった表情で演奏されると、あの俗謡調の主題も、あまり「街の歌」的な雰囲気が無くなって来る。

 3人が演奏する表情もまたクソまじめで、アイ・コンタクト(それもあるかないか)にも微笑ひとつ見せず、聴衆の拍手に応えて答礼する時にさえ、ほとんど笑みを見せないという音楽家たちだ。とはいえ、彼らの演奏には、たとえばベルリン・フィルのメンバーが室内楽をやる時のような堅物的な生真面目さというのではなく、どこかにしなやかな明るさが垣間見えるのが、これまた面白い。

 アレンスキーの三重奏曲の冒頭の主題は、テレビの「暴れん坊将軍」のテーマ曲そっくりなので、昔から何となく愉快な思いで聴いていたのだが、今日の演奏では、もちろんこれもシリアスに聞こえた。

2018・6・14(木)オロスコ=エストラーダ指揮フランクフルト放送響

      サントリーホール  7時

 フランクフルト放送(hr)所属のhr交響楽団「hr sinfonie ochester」ではさすがに解り難いというわけか、国外向けにはまた「Frankfurt Radio Symphony」という名称を使っているようである(オーケストラのサイトによる)。

 今日はラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはチョ・ソンジン)と、マーラーの「交響曲第5番」。
 ほぼ同じ時期に作曲された作品とはいえ、音楽的には極めて異質な2曲である。全く共通性も関連性もない作品だ。およそつりあいの取れないプログラムとは、こういうものを謂うのだろう。
 フランクフルト放送響が来日して演奏するなら、なにもラフマニノフでもあるまいに、と思う(断わっておくが、ラフマニノフの作品が悪いと言っているのではない)。どうせやるなら、このオケのスペシャルをもっとやってもらいたい、ということである。

 アンドレス・オロスコ=エストラーダは日本では未だ知名度が高くないから、チョ・ソンジンの人気で客を集めようという招聘元の目論見だろうし、それはそれでいいだろう。
 だが、マーラーの交響曲と組み合わせるなら、チョ・ソンジンもそろそろモーツァルトかベートーヴェンの協奏曲あたりで勝負に出るということもやってみてはいかがなものか、とも思うのである。まあ、これも勧進元の意向もあるから、簡単には行かないだろうけれども。

 それはそれとして、そのラフマニノフの「協奏曲第2番」は、サントリーホールの正面2階席最前列で聴くと、オーケストラ・パートの方が勝って聞こえて来てしまう、ということが、不思議にこのところ多い。今回も同様だった。
 したがってチョ・ソンジンの素晴らしさは、今日はむしろソロ・アンコールで弾いたドビュッシーの「金色の魚」に聴かれた。この色彩の変化に富んだ演奏は、実に見事なものだった。

 マーラーの「5番」の方は、良くも悪くも、今のオロスコ=エストラーダの指揮の特徴を顕わしたものだろう。
 元気いっぱい、体当たり的な熱演であり、直截なエネルギー感に満ちていて、好感が持てる。推進力も充分なものがある。ただそのいっぽう、各声部の交錯を巧く整理し、音楽に変化のある流れを形づくるという点では未だし、という感がないでもない。ありていに言えば、響きが雑然としてしまうところが多いのだ。

 彼はデュナミークの対比には綿密に気を配る人で、それは概して成功していた。が、第5楽章終結近く、金管群が全力で吹きながら漸弱と漸強を繰り返す聴かせどころ(練習番号【33】以降)━━ここでの「再クレッシェンド」は実に壮大な迫力を生み出すのだが━━では、勢い余ってか、そのあたりの細かいニュアンスが無造作に片づけられてしまっていたのが惜しまれる。

 なお、第3楽章での1番ホルンはステージ前方━━第1ヴァイオリンの第3プルトあたりの前方に出て吹いていたが、これがめっぽう上手い奏者で、しかも前述の席で聴く限り、奥のホルン・セクションとのバランスも非常に良いのにも感心した。

※アンコール記載は挿入ミスでした。「アダージェット」は、レ・シエクルのコンサートの方です。大変失礼。

2018・6・12(火)フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮レ・シエクル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 サントリーホールでのプレトニョフとロシア・ナショナル管の「イオランタ」も聴きたかったのだが、斬新な演奏で最近注目の指揮者とオーケストラということで、敢えてこちらを選ぶ。

 1971年パリ生れの指揮者フランソワ=グザヴィエ・ロトと、フランスのオーケストラ「レ・シエクル Les Siècles」が演奏する、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と「遊戯」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」━━これはもう、ふるいつきたくなるようなプログラムだ。

 今回の「春の祭典」のユニークな演奏については、プログラム冊子に掲載された池原舞さんと佐伯茂樹さんの解説が大いに参考になる。
 ロトが復元した初演時の(ものに限りなく近い)スコアに基づき、20世紀初頭のパリで使用されていた楽器を多く使用してのこの演奏は、ふだん私たちが聴いている現行の「改訂版」(複数)で聴くのとは随分異なった、時には仰天するような違いがある。

 一部のデュナミークの逆転や、声部のバランスの変更による意外な響きには、ロトの独自の解釈が全く入っていないとは言えないだろう。だが、「春のロンド」のさなかにおける大きな休止や、「神聖な踊り」の中で突然最弱音になる個所や、カットしたのかと仰天させられるような一、二の個所などが、すべて初演時のスコアに基づくものだったという解説を読むと、ただもう驚くばかりである。

 そしてこの、旧い管楽器による鋭角的な音色で再現されたスコアの響きの、何という強烈さ。
 この曲が、あまりの刺激的な音によってパリの観客の理性を失わせたという噂は、それが「当たり前のように演奏される」ことの多い現代から見れば、いかにも昔話のように感じられてしまうのだが、こういう楽器で、このように演奏されると、「春の祭典」の驚異的な前衛性は、初演から100年を過ぎた今でも、まだまだ衰えていないのだということが実感できるのである。

 「ラ・ヴァルス」も、強烈かつ兇暴(?)な力を噴出させる演奏だった。これは版の問題というより、ロトの解釈とこのオーケストラの独自の音色によるものかもしれないが、この圧倒的な音楽は日頃聴き慣れている「ラ・ヴァルス」とは全く異なり、極めて挑戦的な作品に感じさせる。
 「牧神の午後への前奏曲」も、豊麗で官能的な夢幻の世界を描くような演奏ではなく、はるかに鋭い。「遊戯」に関しても同じようなことが言えよう。
 とはいえ、それらの鋭角的な演奏の中にも、この2人の作曲家がもつ、あの独特の雰囲気が保たれているのは、紛れもない事実なのだが。

 いずれにせよ、このロトとル・シエクルの演奏は、甚だしく刺激的であった。それはちょうど、あのジョン・エリオット・ガーディナーが30年近く前にオルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティークを率い、わが国初のピリオド楽器によるベートーヴェンの交響曲全曲ツィクルスを披露した演奏と同じような衝撃の━━。

アンコールには、ビゼーの「アルルの女」の「アダージェット」が演奏された。終演した時には、9時半になっていた。

※(コメント「なお」様へのお答え)
 1992年に来日し、サントリーホールでベートーヴェン・ツィクルスを演奏したのが、その「オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティーク(ORR)」です。これは、同じくガーディナーが指揮していた「イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(EBS、イギリス・バロック管弦楽団)」とは、「狙いも主張も異なる」別のオーケストラです。ただしORRのその初来日時(66人編成)には、それより3年前に来日した時のEBS(33人編成)のメンバーが12名含まれていました。
 当時は招聘マネージャーにもその2団体の違いが明確に把握できていなかった(あるいはPR戦略上、無視した)ようで、チラシや公演プログラム冊子に両方の名称が載っていたため、みんな混乱させられたものです。「音楽の友」1992年12月号をお持ちでしたら、グラビアの拙稿をお読み下さい。

2018・6・10(日)カザルス弦楽四重奏団

     サントリーホール ブルーローズ  7時

 「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン2018」の一環、カザルス弦楽四重奏団の「ベートーヴェン・サイクル」の第6回(最終回)。
 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲から「第6番Op.18-6」「第16番Op.135」「第15番Op.132」が演奏された。

 カザルス四重奏団という名は━━かつてカザルスホール・カルテットという団体があり、広く愛されながら日本大学に閉鎖されてしまったお茶の水の素晴らしい演奏会場カザルスホールと結びついて、私としては何となく複雑な思いになってしまう名称なのだが━━今回の団体はもちろんそれとは関係なく、1997年に設立されたスペインの弦楽四重奏団だ。
 ヴァイオリンがアベル・トマスとヴェラ・マルティナス・メーラー、ヴィオラがジョナサン・ブラウン、チェロがアルノー・トマス。このうちブラウンだけがシカゴ生れで、他の3人はバルセロナあるいはマドリード生れの由。
 第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが交替で受け持たれるが、こういった例は他にもある。

 スペインの四重奏団だからといって、別にスペイン的な演奏をするわけではないのは、当節なら当たり前のこと。だが、特に先入観念なしに聴いても、このカザルス弦楽四重奏団の美しい音色の、清々しくて明晰な演奏のベートーヴェンからは、ウィーンの団体とも、ドイツの団体とも、もちろん米国や日本の団体とも明らかに違う何か独特の濃厚な音色や表情が感じられる。
 とりわけ第1ヴァイオリンを女性のヴェラが受け持った時には、そういう印象を受ける。彼女は、今日は「135」と「132」でアタマを弾いたが、トマスがそれを受け持った「18-6」に比べると、良い意味での自由さと闊達さが現われていたようである。

 私はもともと、弦楽四重奏の場合には、第1ヴァイオリンはかっちりと「正確に」弾く人の方が好きで、自由奔放に勝手に弾く人は━━有名なヴァイオリニストにもそういう人がいるじゃありませんか、だれとは言いませんが━━苦手だ。
 いや、ヴェラ・マルティナス・メーナーがそうだと言うのでは決してない。しかし、「135」の第2楽章の、あの第1ヴァイオリンが激しく跳躍を繰り返すような個所では、トマスがきっちりと弾いてくれた方がよかったのではないか、と思ったのは確かなのである。
 だが一方、「135」の叙情的な第3楽章、あるいは「132」全般を聴いていると、これはやはりヴェラの時の方が、明らかに演奏が表情も濃く、生き生きしていて面白いな、とも感じるのだった。

 この「132」は、第3楽章をはじめ、深味があってしかも美しく、感動的な演奏だった。

2018・6・8(金) アルテミス・カルテット

     紀尾井ホール  7時

 30年近いキャリアをもつアルテミス・カルテットの現在のメンバーは、ヴィネタ・サレイカ(第1ヴァイオリン)、アンシア・クレストン(第2ヴァイオリン)、グレゴール・ジーゴル(ヴィオラ)、エッカート・ルンゲ(チェロ)。チェロを除き、メンバーが立ったまま演奏することでも知られる弦楽四重奏団である。
 プログラムは、ベートーヴェンの「第3番ニ長調」、ヤナーチェクの「第1番《クロイツェル・ソナタ》」、シューマンの「第3番イ長調」。

 1曲目のベートーヴェンが、もちろん美しく明晰な音だったものの、何か今一つ集中力に不足した感の演奏だったのに比べ、ヤナーチェクの「クロイツェル・ソナタ」はさすがに圧巻で、鋭く激しいモティーフが衝撃的に切り込んで来るところなど、このカルテットの実力を物語っていた。
 1曲目ではごく普通の拍手といった雰囲気にとどまっていたこの日の客席が、「クロイツェル・ソナタ」が終った瞬間には爆発的な拍手に変わったというのも、お客さんがこの演奏をどう受け止めたかということを如実に示しているだろう。

 シューマンの「3番」では、中間2楽章の美しさが傑出していた。均整のとれたアンサンブルの中にも、各声部の動きが実にはっきりと浮かび上がるのが見事だ。とりわけ、ヴィオラとチェロは明晰そのものであった。
 問題はやはり第4楽章のクアジ・トリオの個所で、━━私はいつも首をひねるのだが、どのカルテットも、あそこをどうしてあんなに単調に雑然とした形のまま演奏してしまうのだろうと・・・・。

 私は今でも、ミュンヘン国際コンクール優勝後間もない東京クァルテットが、この曲を1973年5月7日に東京文化会館で演奏した時のことを思い出す。
 彼らはその部分全体を非常に強いアクセントをつけながら演奏し、途中で一度引き締めてから、たたみ込むようなリズムでクレッシェンドして行き、主旋律に戻るという手法を採った。このクアジ・トリオの部分がどれほど変化と緊迫感に富んだものになったかは、言うまでもない。

 45年前のその東京クァルテットの演奏は、私がFM東京時代に収録して「TDKオリジナルコンサート」で放送したが、幸いにも倉庫に眠っていたテープが2004年頃に発掘され、同番組名と同じレーベルでキング・インターナショナルからCDになって発売された。今、手に入るかどうか、甚だ心もとないが、━━好事家の方は是非一度お聴きになってみて下さい。70年代初めの東京クァルテットがいかに凄かったかが、分かる。

2018・6・7(木)シャルル・リシャール=アムラン ピアノ・リサイタル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 クリーヴランド管の「第9」をソデにして、若手のカナダ人ピアニスト、シャルル・リシャール=アムランのリサイタルを聴きに行く。3年前のショパン国際コンクールでチョ・ソンジンに次ぐ2位に入賞した彼がその後どんな成長を重ねているか、と。

 今日のプログラムは、前半がシューマンの「アラベスク ハ長調」と「幻想曲ハ長調」、後半にショパンの「4つのバラード」。

 リシャール=アムランは、ヤマハのピアノから洗練された清澄な音色を弾き出す。この透徹した、しかも不思議な色気も漂わせる感覚の世界は、コンクール入賞者を集めた演奏会で彼が私たちに披露した時から、すでにおなじみだ。ただし、彼がつくる音楽は、決して綺麗ごとに終るものではない。むしろ、唖然とさせられるほど激しく大きな起伏と振幅を備えた演奏なのである。

 精妙な音色の叙情に魅惑されたのは、最初の「アラベスク」のみ。
 「幻想曲」では、シューマンがいつもの翳りのある叙情美をかなぐり捨て、秘めた激情を狂気の如く噴出させたような演奏が、其処此処に感じられた。それは作曲者がこの曲に盛り込んだベートーヴェンへの畏敬を強調した演奏だった━━と言えぬこともないが、それはちょっとこじつけに過ぎるかもしれない。いずれにせよ、その透徹した音色と、激烈極まるフォルティッシモとが、異様な対照を生み出していたのは事実だろう。

 もっと凄まじかったのは、ショパンのバラード集である。「3番」と「4番」は、曲想も叙情味が濃いゆえにそれほど激しい演奏にはならなかったが、「1番」と「2番」は━━とりわけ「1番」では━━あのショパンが、絶叫怒号していた。陰翳、躊躇、沈思などという要素を真っ向から拒否した、こういう「叩きつける」ショパン演奏は、確かにある意味では既存のイメージを突き破る新鮮なものとして、喜ばれるのかもしれない。

 「1番」の演奏が終ると、客席からは熱狂的な拍手と歓声が湧き起こった。「2番」でも同様だった。私はといえば、些か辟易して、疲れ切った。10年前だったら、一緒にエキサイトして快哉を叫んだかもしれないが。

2018・6・5(火)ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団

     サントリーホール  7時

 ベートーヴェン・ツィクルスの今日は第3日、「《コリオラン》序曲」、「交響曲第8番」、「交響曲第5番《運命》」というプログラム。

 先日(初日)の印象を、今日の演奏に関しては全面的に修正しなければならない。
 今日は、ウェルザー=メストの指揮が壮烈な推進力にあふれて隙なく、「8番」の両端楽章での押しに押す気魄も、「5番」での速いテンポでたたみかける呼吸も傑出していた。
 クリーヴランド管弦楽団のサウンドも明晰かつ豊潤で、さすがの鮮やかさだ。3曲とも音に余裕と膨らみを持たせての、しかも均衡豊かに引き締まった音響構築が美しい。初日の演奏とは格段の違いである。

 そして、オーケストラの木管セクションが、今日はとりわけ美しい。
 「8番」第2楽章の、少し長めの音価を持ったスタッカートのリズム、あるいは「5番」第2楽章での第99小節からのフルート、オーボエ、ファゴットが歌い延ばすハーモニーと、続く第107~113小節でのクラリネットとファゴットが弦の彼方から夢の如く響かせる16分音符の音型などを聴くと、やはりこのオケは上手いなと思わせる。

 「5番」での、編成を18型(コントラバスは9)と倍管にしての演奏はすこぶる立派で、この曲が聴き手を鼓舞するエネルギーを満載した交響曲なのだということを改めて認識させてくれる。所謂「運命の動機」を、特別に際立たせることなく楽章全体の流れの中に組み込み、ひたすら精力的に推進させるのは当節の指揮者たちの流行とも言える手法だが、ウェルザー=メストの指揮は、そこでも均整が目だっている。

 第4楽章で提示部のリピートに入った瞬間の第1主題冒頭(C-E-G)は、その前からの流れも影響して、それが楽章の最初に出た時よりも輝かしく力に充ちるものだが、そこも今日はひときわ映えていた。展開部のクライマックスの、特に第513小節以降の演奏では、単に音量的なものを超えて、強靭な意志力をさえ感じさせる。
 ただ、アレグロのテンポが速めに採られているので、コーダのプレストとの対比が明確でなくなることには少々疑問も感じるし、主部が圧倒的だったために、大詰の個所での「締めの力感」が今一つという気もしたのだが、━━まあ、贅沢は言うまい。

 ウェルザー=メストも、クリーヴランド管も、初日と違い、今日は素晴らしかった。

2018・6・4(月)ダニエーレ・ルスティオーニ指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  7時

 モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、ヴォルフ=フェラーリの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」(ソロはフランチェスカ・デゴ)、R・シュトラウスの「交響的幻想曲《イタリアより》」というプログラム。コンサートマスターは当初予定の矢部達哉が急病の由で、神奈川フィルの崎谷直人が代わった。

 ダニエーレ・ルスティオーニというミラノ生れの35歳の指揮者は、4年前に東京二期会の「蝶々夫人」で、同じ都響を振った時に聴いたことがあるが、あの時は歌手の声とのバランスの問題もあったのか、どうも本領発揮とは行かなかったようだ。だが、昨年2月の都響定期演奏会客演(私は聴いていない)などを経て、オケとも呼吸が合って来たのだろう、今日は存分にやったのではないかと思う。

 若々しく大暴れする指揮ぶりで、体当り的な熱演も好ましく、オーケストラをいっぱいに鳴らしながらも、細部にわたってアクセントやリズムに神経を行き届かせており、なかなかの手腕を持った若手と思われる。
 フォルティッシモの時に飛び上がるのは当節では珍しくないが、「イタリアより」の最後の追い込みの際に指揮台上を「摺り足」で第1ヴァイオリンの方へ突進(!)し、続く終結和音をたたきつけた勢いで客席を向くという暴れん坊ぶりは、何とも微笑ましい。若い時にはこのくらいの熱血漢であっていい。

 「フィガロの結婚」序曲は、次の協奏曲と同じニ長調であるがゆえの選曲か。元気な演奏で、都響の音色にも不思議な色気のようなものが漂っていた。この指揮者は何か持っているな、と楽しみを感じるのはこういう時である。
 次の「ヴァイオリン協奏曲」では、容姿端麗なフランチェスカ・デゴが華麗なソロを聴かせてくれたが、この曲、美しいけれども、さほど面白いとも言い難い。終楽章のロンドだけはイタリアの快活さのような雰囲気を感じさせたが━━。

 「イタリアより」は、今日の目玉であろう。これも本来あまり面白い曲ではないが、終曲で「フニクリ・フニクラ」の旋律が分解されて響いて行くあたりは私も好きなところで、今日のルスティオーニと都響はそこをなかなか巧く演奏してくれた。

 聴衆も、この若手指揮者には大拍手と大歓声。ふだんは客席を見ずに「知らん顔をして」(?)立っている不愛想なステージがトレードマークの都響の楽員が、今日はルスティオーニに煽られ、珍しくも全員一斉に客席に向かってお辞儀を━━所謂「日本フィル・スタイル」で━━したのには驚いた。

2018・6・3(日)METライブビューイング マスネ:「サンドリヨン」

     東劇  6時30分

 メトロポリタン・オペラの4月28日上演のライヴ映像、マスネのオペラ「サンドリヨン」。これは何とMETでは初めての上演の由。

 ロラン・ペリーの洒落た演出と衣装、ラウラ・スコッツィの洒落た振付、ベルトラン・ド・ビリーのふくよかな指揮。そしてジョイス・ディドナートのサンドリヨン、アリス・クートのシャルマン王子、キャスリーン・キムの妖精、ステファニー・プライズの母親ド・ラ・アルティーエル夫人、ロラン・ナウリの父親パンドルフ。━━すべてが美しく整った舞台と演奏で、これは成功したプロダクションと言えるだろう。

 歌手陣の中ではズボン役のアリス・クートのメークがあまりサマにならないのが惜しいが、当り役のディドナートとの二重唱は聴き応えがあった。
 キャスリーン・キムは、何年か前の「中国のニクソン」での物凄い迫力の江青夫人のあと、しばらく快調な声を聴く機会が無かったので、もしかしたらあの役で声を潰してしまったのではないかと心配していたのだが、幸いこちらの杞憂だったようで、祝着である。
 そしてロラン・ナウリが相変わらず巧い。私はこの人の大ファンだ。

 「サンドリヨン」というオペラは、各エピソードが短く、しつこくなく、過剰にならず、全体にバランスがよく、それはいかにもフランス的なのである━━と、ド・ビリーがインタヴュ―で語っていた。
 なるほど第1幕と第2幕は、その指摘は当たっているだろう。しかし第3幕と第4幕は必ずしもそうではないようで、やはり長く感じられるし、ストーリーが停滞するきらいがなくもない。
 こういう個所では、「マスネにとって音楽とは楽しい気晴らしであり、バッハやベートーヴェンを支配したあの厳しい神のものではなかった」というドビュッシーの指摘や、「マスネの特質は、砂糖をまぶしたようなある種のエロティシズムである」というハロルド・ショーンバーグの指摘も、なるほどと思わせる。

 なお、この後半の二つの幕では、今回のペリーの演出では、ドラマはかなり幻想的なタッチが採られていた。大団円はなんだか不条理的な感を与えるが、これは誰が演出しても似たり寄ったりになるようである。

 休憩を含めて上映時間は3時間を少し超す。8日までの上映。今シーズンのMETライブビューイングはこれが最終作だ。

2018・6・2(土)ウェルザー=メストとクリーヴランド管弦楽団の
ベートーヴェン交響曲ツィクルス「プロメテウス・プロジェクト」

     サントリーホール  6時

 6月7日までの5回にわたるツィクルスの第1回。
 音楽監督フランツ・ウェルザー=メストも意欲満々、プログラム冊子の交響曲の曲目解説も自分で書き、「プロメテウス・プロジェクト」に関してのエッセイも載せるという力の入れようだ。

 今回は、交響曲全9曲にそれぞれ序曲1曲ずつを組み合わせる━━「第9」(7日)の日のみは序曲だけでなく「大フーガ」━━ほか、4日目(6日)には休憩後の「田園」のあとに「《レオノーレ》序曲第3番」を演奏するというユニークなプログラミングが行なわれている。第1回の今日は、最初に「プロメテウスの創造物」序曲、続いて「第1交響曲」が、休憩後に「英雄交響曲」が演奏された。

 この序曲と「1番」とを組み合わせるのは、先日の尾高忠明と大阪フィルも採った手法だが、今回は明確に「プロメテウス・プロジェクト」というプログラムへの序としての意味が持たせられていたのだろう。
 ただ、それにしては、始まった演奏は余裕たっぷり、力を抜いた柔らかい表情で、どうもこの演奏からは、あの大胆な神、人類に力をもたらした神に因む気魄のイメージは伝わって来ない。

 続く「第1交響曲」も、どちらかというとソフトな組み立てである。いずれも音色は極めて美しく、あたたかい。これがあのクリーヴランド管かと思われるような響きが印象的ではあったが━━しかしこういう演奏は、若きベートーヴェンが満々たる意欲を籠めたその最初の交響曲としての性格を考えると、いかがなものか?

 休憩後の「英雄」では、弦16型・倍管という大編成となり、オーケストラの響きもやや硬質で鋭くなって、演奏の表情も戦闘的に変貌する。作品の性格からしてそれは納得の行くものだ。この曲のみ天皇・皇后両陛下の御臨席があったから、演奏する方もリキが入っていたかもしれない。
 演奏は推進力充分ではあったし、均衡の豊かな響きのうちにも内声部の動きが明確に聴き取れるほど━━特にチェロの明晰な音色が素晴らしい━━見事な音の構築ではあったのだが、さて、すべてを聴き終ったあとに、心には何が残ったか?

 ウェルザー=メストといえば、一昨年のザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを振った、それはもう見事なほど毅然として感情も豊かな「フィデリオ」を聴いて、この人もついに凄い指揮者になったか━━と、聴いていた知人と一緒に喜び合った(?)ことがあるのだが、演奏会の指揮者としては、どうも以前とさほど変わっていないような気がする・・・・。

2018・6・1(金)河村尚子のベートーヴェン・ピアノ・ソナタ・プロジェクト

     紀尾井ホール  7時

 河村尚子がついにベートーヴェンのピアノ・ソナタの連続演奏会を開始した。
 来年秋までの全4回というから、全曲のツィクルスではないけれど、今の彼女の実力と感性を考えると、これは実に聴きものである。
 今日の第1回は、前半に「第4番」「第8番《悲愴》」、後半に「第7番」「第14番《月光》」という、やや意表を衝いたプログラミング。期待にそぐわぬ演奏が聴けた。

 低音域に確固とした重心を置き、和声感を豊かに、瑞々しいが骨太な響きを以って音楽全体を構築する。彼女がこういうベートーヴェンを組み立てるとはあまり予想していなかったが、先頃リリースされたショパン・アルバム(ソニー SICC-19009)でも、いくつかの個所で強い低音を基盤にして構築し、和声感を強調するという傾向が聴かれたから、これが最近の彼女の志向なのかもしれない。

 前半の2曲のそれぞれ第1楽章における「アレグロ・コン・ブリオ」は、その指定に相応しく強靭な力に充ち、しかも爽快だ。最後の「月光」の終楽章における「プレスト・アジタート」における力感性も、この曲をプログラムの最後に置くという珍しいアイディアの意味を聴き手に納得させるものだった。
 音色全体にはふくよかな香りがあふれている。これが、彼女の演奏が常にヒューマンなあたたかさを感じさせるゆえんだろう。

 その演奏には、不自然な恣意性も小細工もない。
 ただし「悲愴」の冒頭で、ふつうの演奏なら最初の4分音符をフォルテで弾き、それを自然に「減衰」させ、次の16分音符からpで弾くという形(必ずしも正確な言い方でないことはご了承願いたい)になるところを、今日の彼女は、4分音符の頭のみを楽譜通りのfpで極度に鋭く弾いたあと瞬時に弱音に変えてそのまま引き延ばし、デュナミークの対比を明確にするというユニークな手法を採っていた。

 この手法は、昔、だれだったかの演奏でも聴いたような気がするが、今日の彼女の弾き方は、それとは比較にならぬほど鮮やかだったと思う。この出だしのために、「悲愴」の序奏には、ぴりりと引き締まった、非常に濃い陰翳が生じていたのである。ここでの演奏一つとっても、河村尚子という人が並々ならぬ感性を備えたピアニストであることが証明されるだろう。

 次はどんな新しい発見をさせてくれるだろう、と楽しみになるツィクルスは、何ものにも換え難い。

2018・5・30(水)イラン・ヴォルコフ指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 イスラエル出身の指揮者イラン・ヴォルコフは、ちょうど10年前、彼が未だ32歳の時に東京都響に客演し「トゥーランガリラ交響曲」を振ったのを聴き、その激しい表現に驚嘆したことがあるが━━「星の血の喜び」などは「星の血の狂乱」という感だった━━それ以降は、あまり聴く機会を得なかった。

 今回、久しぶりに聴いて、オーケストラを朗々と響かせる熱狂的なエネルギーの健在ぶりを確かめることができたが、それと同時に、オーケストラから引き出す響きにバランスの良さが増し、また音色の構築にも巧さが増したという印象をも受ける。

 今日のプログラムは、プロコフィエフの「アメリカ序曲」、バーンスタインの「第2交響曲《不安の時代》」、ショスタコーヴィチの「第5交響曲」というものだったが、それらの音色にはある種の透明感があふれていて、「不安の時代」でのクライマックスの個所など実に美しく、しかも白々とした不思議な虚無感を滲ませているように思えたのである。
 これは個性的な「若手指揮者」だ。近・現代音楽には極めて主張の濃い指揮を聴かせる指揮者だと思うが、この人がウィーン古典派のレパートリーを振ったらどんなイメージになるか、「ナマで」(録音では絶対判らないだろう)聴いてみたい気もして来る。

 読響(コンサートマスターは長原幸太)は、その「不安の時代」や、ショスタコーヴィチの第3楽章などで見事な透明感を打ち出し、かつ後者の終楽章では「天地も鳴動する」(?)大音響で盛り上げた━━本当に大きな音を出すオーケストラである。

 プロコフィエフの「アメリカ序曲」というのは、私はナマでは初めて聴いた。この作曲家にしては精一杯の明るさを狙った曲だが、1920年代の彼の作風においては、こういう御機嫌取り的なスタイルは、やはり似合わなかっただろう。ウケなかったのも無理はない、と思わせるような小品である。

 「不安の時代」は、昨夜のロイヤル・バレエの上演映像に続き、奇しくも2日続けて聴く巡り合わせになったが、河村尚子の清澄透明な爽やかさに富んだ魅力的なソロを含め、今日の演奏の方が圧倒的に感銘度も高い。だが、演奏を聴きながら、昨夜観たバレエの光景が盛んに頭の中をよぎったのは確かである。

 ショスタコーヴィチの「第5交響曲」は、正直に言うと、私には大変苦手な曲だ。

2018・5・29(火)ロイヤル・オペラ・ハウスのシネマシーズン
ロイヤル・バレエ「バーンスタイン・センテナリー」

    東宝東和試写室  6時

 レナード・バーンスタインの生誕100年を記念する公演の一つ、彼の演奏会用作品3曲をバレエに仕立てたトリプルビルで、去る3月27日の上演ライヴ映像。

 最初にウェイン・マクレガー振付、クン・ケセルス指揮で、「チチェスター詩篇」をもとにした「幽玄YUGEN」、
 次にリアム・スカーレット振付、バリー・ワーズワースの指揮とロバート・クラークのピアノで「交響曲第2番《不安の時代》」、
 最後にクリストファー・ウィールドン振付、ケン・ケセルス指揮、セルゲイ・レヴィティンのヴァイオリン・ソロで、「セレナード」の音楽による「コリュバンテスの遊戯」。

 特定のストーリーを新しく当て嵌めた「幽玄」、オーデンの原作からエピソードを抜粋構成して振り付けた「不安の時代」、ストーリーなしの抽象的なバレエによる「コリュバンテスの遊戯」━━いずれも見応え、聴き応えのあるバレエだ。
 上映時間約3時間、6月8日~14日一般上映の由。

2018・5・26(土)飯森範親指揮東京交響楽団 「白いバラ」日本初演

      サントリーホール  6時

 ハンス・ヴェルナー=ヘンツェ(1926~2012)の「交響的侵略~マラトンの墓の上で」と、ウド・ツィンマーマンの歌劇「白いバラ」(日本初演)とを組み合わせた意欲的なプログラム。
 正指揮者・飯森範親が入魂の指揮。後者での協演は角田祐子(S)とクリスティアン・ミードル(Br)。東京響は「フィデリオ」の間を縫っての定期での力演である。コンサートマスターは水谷晃。

 ヘンツェの「交響的侵略 Scorribanda Sinfonica」は、打楽器群が大活躍するダイナミックな、リズミカルな、15分ほどの作品である。
 プログラム冊子掲載の沼野雄司さんの解説によれば、原曲は1957年の演劇「ダンスのマラソン」のためのもので、これを2001年に改作したものである由(同冊子の曲目一覧表には「2004年改訂版」とある)。
 ヘンツェにしては随分賑やかで親しみやすい曲だが、次の「白いバラ Weisse Rose」の暗い衝撃的な内容に先立つプログラムとしても、これは適切な選曲だったと思う。

 「白いバラ」は、飯森さんのプレトークによれば「一部カット」を施しているとのことだったが、ほぼ1時間に及んだ今回の演奏会形式上演は、彼と東京響の鋭く切り裂くような演奏と、2人の声楽ソリストたちの好演とによって、充分すぎるほど強烈な印象を残してくれた。素材だけでなく、音楽そのものに雄弁な力が備わっているがゆえの印象だ。

 「白いバラ」とは、第2次大戦中のナチスの圧政下におけるドイツの学生たちの反戦運動の由で、このオペラはその運動の中で逮捕処刑されたハンスとゾフィーの兄妹を主人公とし、彼らの対話やモノローグにオーケストラが絡む形で進められる。
 内容からして、ドイツでは今なお現実味を帯びた身につまされるドラマとして衝撃的に受け取られるだろうが、日本での受容の仕方は、それとはちょっと異なるものがあるかもしれない。

 それはともかくとしても、例えば全曲の大詰の個所━━第16曲「もう黙っていてはだめだ」などは、聴いていても慄然とするほどで、ヘンデルの「私を泣かせて下さい」が暗く引用(これがまた不気味だ)されたのち、暴力的な行進曲が威圧的にクレッシェンドを重ねて行き、それがフッと途切れると、兄妹の短い言葉が重苦しい静寂の中に響き━━ゾフィーの「私たちは絞首刑にされるの? それともギロチンで?」の言葉とともに突然終結するという、物凄い形が採られる。その台詞の直後に舞台を一瞬にして暗転させるという今回の演出も効果的だったであろう。

 今月の東京のオーケストラ界には、大作の「日本初演」がいくつか連続した。意欲的な姿勢を讃えたい。

2018・5・26(土)新日本フィルの生オケ・シネマ「黄金狂時代」

      すみだトリフォニーホール  1時

 映画上映と、それに合わせたオーケストラの生演奏というのは最近人気を呼んでいるらしい。
 新日本フィルハーモニー交響楽団が毎年開催しているチャップリンの無声映画シリーズも、「モダン・タイムス」「街の灯」に続く今年は第3弾で、「チャップリンの黄金狂時代 THE GOLD RUSH」である。人気も定着したらしく、なかなかの客の入りだ。昼夜2回上映の、その昼の部を観る。

 舞台後方一面にセットされた巨大なスクリーンの下前方で新日本フィルが演奏し、オリジナルの音楽からスコアを再構成したティモシー・ブロックが、前回同様にみずから指揮も執る。

 このサイレント映画が公開されたのは1925年で、当時はもちろんチャップリンの原案による簡単な音楽が上映に合わせて演奏されるだけだった。が、のち1942年に彼みずから音楽を大規模なものに作曲しなおし、MGM社のマックス・テールによるオーケストレーションなどの協力を得た新しいスコアをつくり、サイレント映画用の字幕の代わりに自らのナレーションを入れた映画として上映した。
 但し、今回上映されたのは、1925年版のサイレント映画スタイルの字幕を復活させ、それに1942年版の音楽を組み合わせたものだとのことである(この部分、映画のクレジットおよびプログラム冊子掲載の片桐卓也さんの解説による)。

 ストーリーはアラスカのゴールドラッシュの時代を背景としたコメディで、感銘度から言えば昨年上映の「街の灯」に遠く及ばないけれども、チャップリンの巧みな演技から生まれるユーモアとペーソスは、やはり並のものではない。
 そしてまた、映像と音楽とが実によく合っており、場面の細かい変化にも合わせた音楽の表情の動きの巧みさには、全く感嘆するほかはない。映像と音楽の切り替わりのタイミングがちょっとずれるというところもなくはなかったが、しかしティモシー・ブロックは実に巧く映像に合わせて指揮をする。

 約90分間、切れ目なく続く音楽を当然のことのように聴きつつ映像に魅惑されていたが、ふと気がつけば、舞台では新日本フィルがずっと続けて演奏していたわけで、━━本当にお疲れさまでした。
 昨年同様、指揮者とオケにも絶大な拍手が贈られたが、サイレント映画時代には「楽士たち」にもこのように大きな拍手が贈られたかしらん?

2018・5・24(木)新国立劇場 ベートーヴェン:「フィデリオ」(2日目)

      新国立劇場オペラパレス  2時

 バイロイト祝祭総監督のカタリーナ・ワーグナーによる新演出。
 今日は2日目のためご本人はいないので、ブラヴォーもブーイングもそこそこの量だったが、初日は演出家へのブーイングが大爆発したとのこと、その反応の大きさに、彼女も「してやったり」という表情でご満悦だったという。
 欧州のオペラ界では、ブーイングは演出家の勲章と言われる。観客が賛同とともに不賛同をも熱心かつ明確に(音として表わさなければ判らない)表明してくれることは、その演出が真剣に受容され、喧々諤々の議論の対象となった証明だからである。

 ともあれこの「フィデリオ」は、新国立劇場としては異例の、非常に刺激的なプロダクションであり、欧州オペラ界の動向を一つの具体例としてわが国に示すという意味でも、意欲的な上演だったと言い切って間違いはない。

 マルク・レーラーによる舞台装置は、およそ3層に分けられた構造で、最上層はマルツェリーネやヤキーノが仕事をしている普通の階(但しドン・ピツァロの居間のような中2階もある)で、その下にフロレスタンの幽閉されている地下牢があり、それは第1幕からずっと見えている。その他多くの囚人たちがいる最下層は必要に応じエレベーターで上下する仕組だ(「危険囚」フロレスタンよりも一般囚人たちが深い地下牢に入っているというのもおかしいが)。

 さて、この舞台で展開されるドラマだが━━開演前にプログラム冊子に掲載されているダニエル・ウェーバーの「ドラマトゥルグ」を読めば、世界のオペラ上演に詳しい愛好家であれば、どんな演出になるか大体見当がつくというものである。
 第1幕では、フロレスタンが地下牢で妻レオノーレ=救済の女性の絵を壁に書き続けていることや、ドン・ピツァロの部下の兵士たちが著しく暴力的であることなどを除けば、一般の演出とそれほど大きく異なるものではない。

 だが第2幕では、原作の台本と全く異なった様相を呈する。ロッコが、フィデリオが女性であり、フロレスタンが壁に書いていた女性に酷似していることにいち早く気づいてしまうのはともかくとして、悪役ドン・ピツァロがフロレスタンとレオノーレを刺殺し、彼らを地下に埋めてしまうだけでなく、大臣ドン・フェルナンド(多分本物の大臣ではない)と手を結び、自ら亡きフロレスタンに化け、素性の知れぬ女(ピツァロの情婦か?)を偽物のレオノーレに仕立て、一同の前で釈放されるふりをする━━というのだから、話は甚だややこしい。

 恋人フィデリオの奇怪な変貌に疑念の目を向けるのはマルツェリーネのみだが、そんなことには誰も頓着しない。
 そもそも、フィデリオの素顔(レオノーレ)など、誰も知らないのだ。また、フロレスタンの顔を知っているのは妻レオノーレと大臣だけである。その妻が既に殺されており、大臣が偽物だったら、あるいは大臣が本物だったとしても、長い幽閉生活のため変わってしまったであろうフロレスタンの顔が識別できなかったら・・・・?

 しかも幕切れ寸前、「偽フロレスタン」と「偽レオノーレ」が本性を顕わして一同を再び地下牢に閉じ込めてしまうとなると、これはもう「救済」など全て果敢ない幻影に過ぎず、「自由」も「解放」も「正義」すらも、現実にはすべて見せかけのものであることを痛烈に問題提起したドラマということになるだろう。解放者として出現したはずの人物が、実は仮面をかぶった新たな抑圧者だった━━という例は、歴史的にも数限りないからだ。
 レオノーレが男フィデリオに仮装して登場したからには、今度はドン・ピツァロがフロレスタンに仮装する。このオペラは畢竟、一つの仮面劇だ━━という発想が、前出の「ドラマトゥルク」からも、もちろんカタリーナの舞台からも伝わって来る。

 セリフも後半では一部変更されたり、新たに付加されたりしているけれども、音楽そのものは、あくまで不動だ。
 レオノーレと、重傷を負ったフロレスタンとの二重唱のあと、場面転換で演奏された「《レオノーレ》序曲第3番」は、音楽の起伏と絡めて有効に使われている。序奏の間にレオノーレはピツァロに束縛されて刺され(その瞬間のフォルテ3つの最強奏は衝撃的だ)、主部の前半では、喘ぐ2人の前にコンクリート・ブロックが積み上げられ、冷徹な死の壁が出現する。
 従ってフィナーレで聞こえる「本物の」フロレスタンとレオノーレの声は、人々から遠く離れた場所━━別の世界から響いて来ることになる。2人は死して救済された・・・・ということになるのだろう。
 何とも気の滅入る「フィデリオ」ではある。

 歌手陣は充実していた。フロレスタンがシュテファン・グールド、フィデリオ(レオノーレ)がリカルダ・メルベート、ロッコを妻屋秀和、マルツェリーネが石橋栄美、ドン・ピツァロがミヒャエル・クプファー=ラデツキー、ドン・フェルナンドが黒田博、ヤキーノが鈴木准、囚人1が片寄純也、囚人2が大沼徹という配役。新国立劇場合唱団も強力だった。

 そして、これが新国立劇場オペラ部門芸術監督としての最後の指揮になる飯守泰次郎は、東京交響楽団を指揮して、引き締まった「フィデリオ」をつくり上げた。彼が東京響と組んでの演奏はこれまでにもいくつか聴いて来たが、その中では、今日はベストの出来と言っていいだろう。
 これは、彼の任期の締め括りを飾る指揮に相応しい出しものであった。彼は劇場芸術監督としての最初のシーズンを、クプファーの斬新な演出による「パルジファル」を指揮して開始していたが、この最後のシーズンの、その最後の指揮にあたり再びこのような先鋭的で斬新なプロダクションを選んだことは、彼がプロデューサーとして本来抱いていた意欲的な姿勢を如実に示すものであったと言えるだろう。

 上演時間は、休憩30分を挟み、計3時間弱。6月2日までの間にあと3回上演される。
      →別稿 モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

2018・5・23(水)ロイヤル・オペラのシネマシーズン 「マクベス」

     日本シネ・アーツ社試写室  1時

 東宝東和が配給している英国ロイヤル・オペラのライヴ映像上映シリーズのひとつ、ヴェルディの「マクベス」の試写会を観る。

 去る4月4日に上演されたもので、フィリダ・ロイドの演出、アントニオ・パッパーノの指揮。ジェリコ・ルチッチ(マクベス)、アンナ・ネトレプコ(マクベス夫人)、イルデブランド・ダルカンジェロ(バンクォー)という豪華主演陣に、ユシフ・エイヴァゾフ(マクダフ)、キム・コヌ(マルコム)らが協演している。

 映画監督ロイドによる演出は、伝統的なオペラ的手法によるスタイルで、演劇的な面白さはあまりないけれども、ドラマの展開のすべてを魔女たちが操っているという設定に最大の特徴がある━━という具合の、どこかで観たことのある舞台だと思ったら、これは3年前にロイヤル・オペラが来日した際に上演したのと同じプロダクションだった(2015年9月15日の項参照)。
 しかし、今回の現地上演映像で観られるものは、あの日本公演とは全く桁違いに豪華で緊密な上演内容である。

 まず歌手陣が、あの時とは比較にならない。ルチッチは堂々たるマクベスであり(ただし「芝居」はあまり細かくない)、ネトレプコは鬼気迫るマクベス夫人で、かつ低音域の声に迫力を増した見事な歌唱(上手くなった!)を聴かせる。
 そしてパッパーノが指揮するオーケストラと合唱の重厚でありながら鋭いアクセントを持った演奏は、当時のヴェルディの気魄を表現して余すところがない。宣伝を頼まれたわけではないが、これは、大いに見る価値のあるライヴだろうと思う。

 なおこの上演、案内役の女性は「改訂版による上演」と言っていたが、それは周知の如く、そう簡単に片付けられるものでもない。例えば全曲大詰の場面では、マクベスの最後のモノローグと、戦勝の讃歌とのいずれもが演奏されている(先年の日本上演では、たしか初演版による上演だったか?)。

 幕間の時間には、パッパーノがピアノ(ヤマハ!)を弾きながら、作品の特徴を解説するコーナーがあって、これが毎度のことながら非常に面白い。「人々の茫然たる驚きを表わすために休止符がどのように活用されているか」などという話など、彼が語ると実に説得性があるのだ。
 上映時間は約3時間半で、6月15日~21日にTOHOシネマズ系の映画館で上映の由。

 このロイヤル・オペラのシリーズは、松竹がやっている「METライブビューイング」と違い、PRもかなり控えめだし、各映画館での上映スケジュールもちょっと判り難いのが残念だが、上映ラインナップは年々少しずつ充実して行っているように感じられる。
 今秋からのシーズンにはヘアハイム演出による「チャイコフスキーの生涯とオーヴァーラップさせた」という「スペードの女王」や、あのキース・ウォーナーの演出による「ヴァルキューレ」などが予定されているというから、私は期待しているのだが。

2018・5・22(火)下野竜也指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 Bシリーズの定期で、前半にメンデルスゾーンの「交響曲第3番《スコットランド》」が演奏され、後半ではジョン・コリリアーノ(1938~)の「ミスター・タンブリンマン~ボブ・ディランの7つの詩」(ソプラノ・ソロはヒラ・プリットマン)という珍しい作品が日本初演された。コンサートマスターは矢部達哉。いかにも下野らしいプログラムである。

 「スコットランド」はかなり分厚い音で、ものものしいほど大がかりな演奏であり、終楽章のコーダなど、ここぞとばかりに盛り上げたスペクタクルなものであった。それはもちろん好演ではあったが━━しかし、今夜のハイライトはやはり次のコリリアーノの作品だったであろう。

 この作品で興味深かったものの一つは、ボブ・ディランの詩を題材にしていること。
 使用された詩は、「ミスター・タンブリンマン」「物干し」「風に吹かれて」「戦争の親玉」「見張塔からずっと」「自由の鐘」「いつまでも若く」(以上プログラム冊子掲載の曲目一覧による表記)の七つ。
 詩はほぼ原作通りと思われるが、音楽の方は、フォークの原曲からは想像もできないような「クラシックの現代音楽」的な手法のものに移されていて、歌のパートはシュプレヒ・ゲザングに近いスタイルで進められる。

 コリリアーノは「ディランの曲を全く聴いたことがなかった」そうで(同前の作曲者自身の解説による)、それがかえって良かったのであろう。また彼は「ポップスやロックを書くことに挑戦するつもりはない」とも述べている(同前)が、それもまた賢明なことだったと思う。
 ともあれここでは、コリリアーノの感性が独自に受け止めたボブ・ディランの詩が、コリリアーノなりの音楽で、激烈に、しかも美しく表出されているのである。

 全曲は、第4曲「戦争の親玉」でのオーケストラの激怒のような咆哮・絶叫が凄まじく、これを全曲のピークとして、終曲(第7曲、後奏曲)の「Forever Young」の安らかな終結に向かって行くという構成が採られる。
 特にこの終曲の美しさは、息を呑ませるほどのものであった。そこでのヴォーカルは大部分がア・カペラだが、時にオーケストラも夢幻的な響きで加わり、それはあのバーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」の終曲の「Somewhere」を連想させる安息の祈りのような音楽になる。

 全曲が終ったあと、下野と都響に向けられた拍手も盛大だったが、ヒラ・プリットマンに贈られた拍手と歓声は更に大きく、いつまでも続き、ついにソロ・カーテンコールまで行われるほどだった。彼女のヴォーカルは、作曲者の指定通り(同前)PAを使用してのもので、音質はあまり良いとは言えなかったものの、それにもかかわらず聴衆の歓呼を浴びたのは、ひとえに彼女の表現力の豊かさゆえだったであろう。

2018・5・21(月)METライブビューイング 「ルイザ・ミラー」

     東劇  6時30分

 ヴェルディの「ルイザ・ミラー」、去る4月14日、MET上演のライヴ映像。

 ベルトラン・ド・ビリーの指揮(ジェイムズ・レヴァインから変更)とエライジャ・モシンスキーの演出。
 歌手陣は、ソニア・ヨンチェヴァ(村娘ルイザ・ミラー)、プラシド・ドミンゴ(父親ミラー)、ピョートル・ベチャワ(ルイザの恋人ロドルフォ)、アレクサンダー・ヴィノグラドフ(ロドルフォの父・領主ヴァルテル伯爵)、ディミトリ・ベロセルスキー(ルイザに横恋慕する男ヴルム)、オレシャ・ペトロワ(公爵夫人フェデリカ)他。

 ストーリーはいかにもイタリア・オペラ的な・・・・すぐカッと来て裏切られたと思い込み、その言い分もよく聞かずに恋人を罵りまくる男、事情をはっきり説明せずに嘆きの言葉ばかり歌っている女━━という、観ていてやきもきさせられる台本だが、音楽は素晴らしくドラマティックで、第1幕は未だ先人の影響が残っているものの、第2・3幕ではヴェルディの感情表現力がいよいよ巧みさを増して来た感がある。

 演奏もいい。ベルトラン・ド・ビリーの指揮が今回は異様に力感を備えたもので、特に第2幕と第3幕ではMETのオーケストラから素晴らしい緊迫の演奏を引き出していた。
 歌手陣も充実して、これも聴きものであった。ヨンチェヴァは、ブレスが少し気になるものの、声も演技も見事だし、ベチャワの輝かしい声と舞台姿と情熱的な表現は、まさにスターに相応しい。

 何よりうれしいのは、ドミンゴの健在ぶりだ。声はもうバリトンそのものだが、第3幕の決め所での歌唱の劇的な気魄力の凄さはさすがの貫録であり、それは他の歌手を圧して舞台を独り占めにするほどの強烈な存在感である。METの観客が彼に贈る熱狂的な拍手と歓声も、観ているだけで感動的だ。

 上映時間は約3時間20分、10時前に終る。

2018・5・19(土)沼尻竜典指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

     横浜みなとみらいホール  2時

 マーラーの「交響曲第9番」。神奈川フィルも入魂の演奏を繰り広げた。

 第4楽章における弦楽器群の、あの大波のような起伏と巨大な拡がりを備えた分厚い響きは、各オーケストラの弦楽セクションの腕の見せどころだが、今日の演奏では━━少なくとも1階中央あたりの席で聴いた印象では━━弦5部のそれぞれのパートが、豊麗というよりもむしろくっきりと鋭く浮かび上がり、良くも悪くも室内楽的なイメージの響きになっていて、こういう神経過敏なマーラーの「第9」もあり得るのか、と考えさせられた。
 好き嫌いは別として、これは極めてユニークな第4楽章である。

 このぴりぴりとした神経質な、鋭角的な響きは他の3つの楽章にも顕れていたように感じられたが、ただ━━このホールは、聴く席の位置により、かなり印象が異なるようで、上階席で聴いていた知人は、前述のものとは違った、むしろ正反対なイメージを得たという。しかし、同じ上階席でも、違う位置で聴いていた別の知人は、やはり私と同じような印象を得たというから、これは何とも複雑な問題だ。

 そういえば、私も以前、別の国内オーケストラをこのホールで聴いた時に、上階のバルコニー席とも言える位置では、1階中央席とは全く違うバランスと音色で聞こえ、そのオケに対するイメージが一変してしまった経験がある━━。

2018・5・18(金)ラザレフ指揮 日本フィル第700回東京定期演奏会

      サントリーホール  7時

 桂冠指揮者兼芸術顧問のアレクサンドル・ラザレフが指揮した「日本フィルハーモニー交響楽団第700回特別記念東京定期演奏会」は、プロコフィエフの「交響的協奏曲ホ短調」と、ストラヴィンスキーの「ペルセフォーヌ」(日本初演)という意欲的なプログラム。
 前者でのチェロのソロが辻本玲、コンサートマスターが扇谷泰朋。
 後者での協演は、ポール・グローヴス(T)、ドルオニク綾乃(ペルセフォーヌ)、晋友会合唱団、東京少年少女合唱隊。こちらのコンサートマスターは木野雅之が務めた。

 協奏曲では、日本フィルのソロ・チェロである辻本玲が豊麗な演奏を聴かせてくれた。それは、ロストロポーヴィチやゲリンガスのような豪快なスタイルとは異なり、むしろ叙情的な曲想において魅力を発揮するというタイプの演奏といえたかもしれない。しかし、第2楽章あたりからは演奏がみるみる緊迫度を増して行き、確実な技術に支えられたソロは長大なカデンツァにおいて劇的な凄味さえ感じさせたのである。
 この曲のあと、ソロ・アンコールとしてカザルス編の「鳥の歌」が弾かれたが、圧倒的な交響的協奏曲の演奏の余韻を聴衆に印象づけたまま出番を終っていた方が効果的だったのではないか?

 「ペルセフォーヌ」は、ギリシャ神話のペルセポネー(父は大神ゼウス、母はデメテル)をヒロインとした物語。ストラヴィンスキーが、その新古典主義作風の時代━━1934年に初演した、演奏時間50分ほどに及ぶ大作だ。
 大規模な管弦楽編成でありながら響きは簡素で、清澄透明な音色がこの上なく美しい。魅力的な作品であり、ストラヴィンスキーのこの時期における練達の作曲技法が、存分に堪能できる。

 ラザレフの、端整な構築の裡にも官能的な雰囲気と、時には濃厚な色合いをも垣間見せる指揮は、ストラヴィンスキーがやはりロシアにルーツを置く作曲家であることを思い出させるかのようだ。また、日本フィルの爽やかな演奏、二つの合唱団の好演も特筆される。ポール・グローヴスも、こういう近代作品を歌わせると相変わらず巧い味を出してくれる人である。

 ただ一つ、どうしようもなく残念だったのは、ペルセフォーヌ役のドルニオク綾乃のナレーションであった━━と言っても、これは彼女の責任ではない。問題は、彼女の声に使われたPAである。舞台上のスピーカーでなく、場内PAでも使ったのか? 音はどこからともなくワーンと響いて来て、ぼやけて明晰さを欠き、聞き苦しいこと夥しい。あたら清澄な美しさで進んでいる演奏を、このPAはその都度ぶち壊した。彼女の愛らしいナレーションもこれでは台無しだったし、折角の見事な演奏に、大きな瑕疵を付ける結果ともなってしまった。

 それはともかく、この曲、今回が日本初演とは、少々意外であった。だが、経営が楽ではない自主運営オーケストラがよくこれだけの企画を実施したものである。その意欲的な姿勢は高く評価されよう。

2018・5・17(木)尾高忠明指揮大阪フィルのベートーヴェン

     フェスティバルホール  7時

 また大阪へ。
 第3代音楽監督・尾高忠明が就任早々開始したベートーヴェンの交響曲ツィクルスの第1回を聴きに行く。4月の就任披露定期(ブルックナーの「8番」)が好調だったこともあり、大阪フィルの今後を占う意味でもこのツィクルスは重要である、と認識しているゆえに。

 プログラムは、ちょっと珍しい構成で、「《プロメテウスの創造物》序曲」、「交響曲第1番」、「《エグモント》序曲」、「交響曲第2番」という配列。
 ベートーヴェンの交響曲ツィクルスの場合、序曲を含めるというスタイルはあまり多くない。今回のツィクルスでも、この第1回のみに見られるプログラミングである。しかし、「第1交響曲」の前に「《プロメテウスの創造物》序曲」を置いたのは実に卓抜な発想であった。

 交響曲を番号順に演奏して行く試みの初回として、「1番」と「2番」だけでは(いろいろな意味で)サマにならない、ということもあるだろう。
 だが、この序曲と「第1交響曲」には、主調が同じハ長調であり、しかも導入部に属七の和音などを繰り返しつつ、回り道しながらやっと主調に入って行く━━という特徴が共通していることは周知の通り。

 事実、「プロメテウス」のハ長調の和音が叩きつけられる終結を聴いたあとに、続けて「第1交響曲」を聴くと、その冒頭━━へ長調からイ短調、ト長調と、属七の和音を伴ったりしながら迂回し、やっとハ長調の主和音が登場するまでの「捻りに捻った」流れが、よりスリリングな表情を帯びて感じられるのだから面白い。
 「1番」を単独で聴けば「初めてハ長調に辿り着いた」という感覚になるところを、序曲のあとに続けて聴くと、「またハ長調に帰って行く」という、不思議な安心感が湧いて来る、という所為もあろうか。

 いずれにせよ今日は、「序曲」でも「第1交響曲」でも、演奏に籠められた気魄が物凄く、そのエネルギーは極めて強靱なものだった。
 前者では、冒頭の強烈なアタックと、それに続く強い推進力に富んだ展開が印象的で、とかく軽いというこの曲のイメージを払拭して力感充分、強調して吹かれるとえらく単調に聞こえる管のファンファーレ的モティーフも、今日は弦とのバランスの変化で多彩さを出していた。
 また後者では、鋭いティンパニのアタックをはじめ切れ味の良さが目立っていた。鋭いデュナミークの対比はベートーヴェンのお家芸だが、今日はとりわけそれが目覚ましかったのである。

 「第2交響曲」も同様、第1楽章の終結近く(第318小節以降)、あるいは第4楽章の終結近く(第372小節以降)で爆発する最強奏個所での演奏の強烈さと鋭さは、若きベートーヴェンの気魄を見事に再現するものであった。今日の演奏は、まさにベートーヴェンがスコアに指定した通りの「アレグロ・コン・ブリオ」だったのだ。

 近年、些か荒れ気味の様相を呈していた大阪フィルのアンサンブルも、今日は予想通り整備されていた。尾高の就任は好結果をもたらすだろう。彼の指揮は、派手さはないけれども、確実な結果を出すタイプである。
 このツィクルスも、期待充分だ。次回の「英雄」なども聴いてみたい気もするけれども、新幹線も宿泊も結構費用が掛かるので、そうたびたび大阪まで来るわけにも行かぬ。

 なお、今日使用されたスコアは、ブライトコップの新版だった。弦14型による演奏で、コンサートマスターは崔文洙。

2018・5・13(日)宮崎国際音楽祭最終日 プッチーニ:「蝶々夫人」

      宮崎県立芸術劇場アイザックスターンホール  3時

 「第23回宮崎国際音楽祭」のフィナーレを飾る、プッチーニの「蝶々夫人」の演奏会形式上演。
 出演は、中村恵理(蝶々夫人)、福井敬(ピンカートン)、甲斐栄次郎(シャープレス)、山下牧子(スズキ)、竹内直紀(ゴロー)、砂場拓也(ボンゾ)、晴雅彦(ヤマドリ、役人)、中原ちふみ(ケート)、他。
 宮崎国際音楽祭合唱団、宮崎国際音楽祭管弦楽団(コンサートマスター・三浦章宏)、広上淳一(指揮)。

 この上演で最も注目を集めていたのは、初めて題名役を歌う中村恵理である。
 期待に応え、こちらのプリマは絶好調。伸びのある強靭な声でオーケストラを圧し、悲劇のヒロインを見事に歌い上げ、聴衆を沸かせた。
 彼女が歌う蝶々夫人は、単なる「可愛い」蝶々さんでもなく、愛のみに生きるだけの女性でもない。もちろん、絶望と悲しみに打ちひしがれて死ぬような、可哀想な蝶々さんのイメージでもない。むしろ、自己の信ずる道をひたすら強い意志力で突き進み、私の愛は正しかったのだと全ての人に対し最後の瞬間まで主張しつづけた━━そういう日本女性のイメージが、彼女の芯の強い声と激しい感情表現に富む歌唱、それに必要最小限に付加された演技の表情などから伝わって来るのである。

 日本人歌手による蝶々さん役は、これまでにも多くの個性的な役柄表現があったが、この「中村恵理の蝶々夫人」も、間違いなく超一流のものだろう。新しいマダム・バタフライの登場を慶びたい。

 そしてまた、今回の共演者たちが実に素晴らしかった。
 福井敬も今日は絶好調で馬力全開、第1幕最後の二重唱は中村恵理の情熱的迫力と拮抗して圧巻の盛り上がりを聴かせた。先頃のトリスタン役が体調不良のため意に満たぬものだっただけに、今日の猛烈パワーの歌唱を聴いて、一安心というところである。

 そして相変わらず見事だったのが、スズキ役の山下牧子だ。この人の安定した歌唱と役柄表現の巧さは、全く群を抜いている。「トリスタンとイゾルデ」のブランゲーネといい、「死の都」のブリギッタといい、ヒーローとヒロインを支えるこのような脇役を演じたら、世界に誇れる存在なのではなかろうか。演奏会形式上演ではあったが、譜面台を前にしての簡単な演技には、蝶々さんへの同情の悲しみをこらえる表情が実に雄弁に表現されていた。

 またもう一人、シャープレスを歌った甲斐栄次郎。彼もこのところ引っ張りだこだが、この「蝶々夫人」のドラマに重みを添える役柄としての存在感は大きい。先頃の「真珠採り」でのズルガや、「サムソンとデリラ」の大司教などとは違い、今日は「おとな」の役なのでかなり抑制された表現が採られており、第3幕ではもう少しピンカートンを圧倒する家父長的な凄味があってもいいのではないかと思ったが、しかしこれは役柄解釈の領域の問題である。

 宮崎県合唱連盟有志で構成されている宮崎国際音楽祭合唱団(浅井隆仁指揮)もなかなかの出来。特に例の「ハミングコーラス」はすこぶる感動的だった。
 広上のプッチーニも、2015年の「トゥーランドット」と同様、素晴らしい。宮崎国際音楽祭管弦楽団は、国内のソリストやコンマスや首席奏者級の奏者を集めた腕利きのオーケストラであり、これも流石に上手い。全管弦楽による最強奏の際の音色はあまり美しいとは言い難いが、広上の劇的な力感にあふれた指揮に応えての、雄弁な表現力と強靭な推進力に富む演奏は、ブリリアントで聴き応えがある。

 音楽祭最終日とあって、ホールは華やいだ雰囲気に満たされる。グッズ売り場は2ヵ所あるが、中央の売り場に、先頃出版されたばかりの、萩谷由喜子著「『蝶々夫人』と日露戦争 大山久子の知られざる生涯」(中央公論新社刊)が並んでいるのが目についた。この本、私もいち早く読ませていただいたが、歴史上のさまざまな物事の不思議な関わりを、よくまあ細かく調べたものだと舌を巻く。日本海海戦のくだりのように、話が拡がり過ぎた感もなくはないが、外交官の妻だった大山久子がプッチーニに日本の音楽素材を提供して行ったとされるエピソードなど、明治の人々の国際的な活動が如何に盛んであったかを再認識させられた次第である。

 休憩2回を含み、6時過ぎ終演。ANA最終便(8時10分、遅れて8時57分フライト)で帰京。
     →モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

2018・5・12(土)ロッシーニ:「チェネレントラ」

   フェスティバルホール  2時

 大阪国際フェスティバル公演。主催は朝日新聞文化財団、朝日新聞、大阪国際フェスティバル協会、フェスティバルホール、日本オペラ振興会、日本センチュリー交響楽団。

 フランチェスコ・ベッロット演出と園田隆一郎指揮によるこのプロダクションは、既に4月末、藤原歌劇団の公演として昭和音大のテアトロ・ジーリオ・ショウワで上演されている。それを今回、わざわざ大阪での上演を観に行ったのは、最近イタリアで大活躍の話題のメゾ・ソプラノ脇園彩が、大阪公演のみ、この題名役を歌うからである。

 だが、お目当てのその脇園彩が、この数日間、体調を崩しているとかで、今日は絶好調ではなかったのが残念至極。
 歌手の場合には、こういうことは誰でも起こり得ることなので、仕方がない。また別の機会に、あの素晴らしい歌唱を聴かせてもらえればと思うしかない。
 今日は、彼女はかなり声をセーヴして、それゆえ輝かしさや力感などはなかったものの、一応は破綻なく歌っていた。しかしその本調子ではなかった歌唱の中にさえも、明るく温かい声、安定した歌い方、声のふくらみなどをはじめ、プリマとしての特徴や雰囲気をはっきりと感じさせていたのは、やはり彼女が卓越した歌手であることを充分にうかがわせるものといえるだろう。

 プリマが本調子でなかった分、共演の歌手たちが、好演した。
 クロリンダ役の光岡暁恵は、もともと主役の張れるソプラノだが、第2幕終り近くのアリアで気を吐き、灰かぶり娘チェネレントラ何するものぞと気負う意地悪姉妹の姉の「意地」を見事に歌い上げていた。
 また王子ドン・ラミーロ役の小堀勇介は、第2幕のアリアでブリリアントな最高音を颯爽と披露して大拍手を浴びた。意地悪オヤジの男爵ドン・マニフィコ役の谷友博もいつもながらの味のある歌唱を聴かせていた。
 その他、従者ダンディーニの押川浩士、意地悪姉妹の妹の方のティズベの米谷明子、王子の家庭教師アリドーロの伊藤貴之が、手堅い歌唱。

 園田隆一郎は、日本センチュリー響を指揮して、ロッシーニへの共感に満たされた演奏をつくり出していた。この人のイタリア・オペラは、実にいい。
 ただ今日は、脇園彩の声の調子をカバーするためか、音楽全体を抑制していたのだろうか? 特に第1幕では演奏に沸き立つような躍動が感じられず、ロッシーニのオペラとは思えないような静かな雰囲気になってしまっていた。
 もっともこれは、このフェスティバルホールの空間がこのオペラの規模にはあまりにも広大すぎ、演奏全体のつかみどころを失わせかねない状況だったことにも、一因があろう。

 フォルテピアノは園田自身が受け持っており、演出のイメージに関連させて、ディズニー映画{シンデレラ}からの「ビビディ・バビディ・ブ」の一節を引用したりする手法は気が利いていた。一瞬ながら「命短し恋せよ乙女」のようなフシも聞こえたのは、こちらの空耳だったか?

 演出は、「ペローの童話を読み終えた想像力豊かな若者が弟たちにその物語を紹介するような」というベッロットのイメージに基づき、舞台(アンジェロ・サーラの舞台美術)には「ピノキオ」や「ピーター・パン」など書物を模った大きなセットが多数置かれ、その中の「チェネレントラ」という背表紙のある本から主要人物が現れて来るという設定。
 ラストシーンでは王子やチェネレントラが本の中に愉しく戻って行くのとは対照的に、最後まで彼女への嫉妬を露骨に見せていた意地悪な父娘3人が外に取り残され、がっくりして立ちすくむという光景で終結するのは面白いシャレだ。和解の手を差しのべる相手に怨念で応えるような者にはバチがあたる、ということか。

 演技は━━顔の表情は比較的細かかったが━━身振りを含めた演技全体はごく類型的なもので、いわゆる演劇的な要素は期待できない類のもの。登場人物たちが時に所在無げに立ち尽くす(そう見えた)ところもあったりして、舞台に生き生きした表情が今一つ不足気味だった原因は、このあたりにもあったのではないかと思われる。

 5時過ぎ終演。伊丹空港から7時50分のANAで宮崎に飛ぶ。
     →(別稿)モーストリークラシック8月号 公演Reviews

2018・5・9(水)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 「新シーズン最初の定期の初めにヘンな曲を二つ置きました」と、常任指揮者・高関健みずからプレトークで語ったその2曲とは、ムソルグスキーの「禿山の一夜」の原典版と、ニールセンの「交響曲第6番《素朴な交響曲》」。

 「ヘンな曲」というのはもちろん言葉の綾だが、「禿山の一夜」のムソルグスキーのオリジナル版は確かにヘンな曲だ。こんなに雑然とした凶暴な音楽は、ムソルグスキーとしても珍しいものだろう。
 だが、現在一般に演奏されるリムスキー=コルサコフ編曲版の、あまりに整理された、それゆえ同じモティーフ群の繰り返しばかりが目に付く結果となってしまった版(最後の夜明けの個所だけは傑作だと思うが)に飽きた耳には、この原典版は面白い。但し、何度も聴こうと思えるような曲ではない。その意味では、やはり変な曲である。

 ニールセンの「第6交響曲」も、わが国ではナマで聴ける機会は滅多にない。私は彼の交響曲の中では「5番」が最も好きなのだが、この「6番」も、不思議な魅力の感じられる曲だ。
 しかしまあ、この曲の、ワルツの中に突如軍楽風マーチが割り込んで来るような突飛なコラージュ的手法の響きが、何と先ほどの「禿山の一夜」原典版の響きと、見事な対を為していることか。この2曲を組み合わせた高関のセンスは抜群と言わねばならない。

 休憩後には、清水和音をソリストに迎えて、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」が演奏された。これはもう、清水の聴かせどころである。高関も第3楽章では煽ること、煽ること。猛烈なテンポで、先を争ってコーダへ突進するかのような清水と高関=シティ・フィルの対決は、すこぶるスリリングで、愉しいものだった。
 コンサートマスターは戸澤哲夫。

2018・5・8(火)チョン・ミョンフン指揮東京フィル 「フィデリオ」

      サントリーホール  7時

 チョン・ミョンフン(名誉音楽監督)の指揮する5月定期、3回公演の2日目。
 出演は、マヌエラ・ウール(レオノーレ)、ペーター・ザイフェルト(フロレスタン)、ルカ・ピサローニ(ドン・ピツァロ)、フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(ロッコ)、シルヴィア・シュヴァルツ(マルツェリーネ)、大槻孝志(ヤキーノ)、ドン・フェルナンド(小森輝彦)。東京オペラ・シンガーズ。コンサートマスターは近藤薫。

 序曲は、所謂「フィデリオ」序曲でなく、「レオノーレ」序曲第3番が演奏された。チョン・ミョンフンがコメント(プログラム冊子に掲載)しているように、4つの序曲の中でこの「第3番」こそがオペラの内容を最も適切にすべて物語っているゆえに━━という意図は充分納得が行く。
 彼はこの序曲の序奏を極度に遅いテンポで重々しく演奏したが、それは彼がその個所を第2幕冒頭(地下牢の場)導入の音楽と明確に関連づけていることを感じさせる。
 これと対照的に、終曲は極度に速いテンポで演奏されていた。苦悩と歓喜との対比が激しいコントラストで描かれているというわけだ。

 また、チョンがこれまで演奏会形式で指揮したオペラは、いずれもすべて速いテンポで一気呵成に演奏されていた(「トリスタン」などはその最たる例だった)が、この「フィデリオ」を聴くと、彼もさすがにその呼吸を巧みに使い分けていることが解る。
 ただ今日は、彼は東京フィルをかなりダイナミックに響かせており、歌手の声はしばしば打ち消されていた。今回は3回の上演がその都度異なるホールで行われていたため、もしかしたらそのバランス調整が万全でなかったのかもしれないが。

 歌手陣にはいい顔ぶれがそろっていたが、たった一人、スターのペーター・ザイフェルトだけがえらく自由な歌い方をして、チョンのリズムと合わず、また他の歌手とのバランスを欠いていたことだけが気になった。彼はもともと、あんな崩れた歌い方をする人ではなかったはずなのだが━━。
 なおセリフは、メロドラマの一部と素の部分の一部を除き、すべてカットされていた。

 演奏前に、現代演劇の女形で知られる俳優がストーリーを紹介する試みがあった。その試み自体は大変結構だが、彼のナヨナヨとした口調は、ベートーヴェンの音楽やドラマの性格とはおよそ不釣り合いなものだ。わざわざ「《レオノーレ》序曲第3番」を冒頭序曲に置くほど徹底したコンセプトを持った「フィデリオ」の上演なのに、ナレーションのスタイルには注意を払わなかったのか? 
 だれか苛々したらしい客が途中で「早く演奏しろ」とかなんとか怒鳴っていたが、その俳優を罵るのは酷だし、意味がない。責任は、そういうナレーターを起用したプロデューサー的な立場の人にあるだろう。

2018・5・7(月)METライブビューイング「コジ・ファン・トゥッテ」

      東劇  6時30分

 フェリム・マクダーモット新演出による、コニーアイランドを舞台に設定した「コジ・ファン・トゥッテ」だというので、期待していた。

 実にカラフルな舞台で、遊園地の景観満載、蛇使いから火呑み師まで登場する。
 それがこのオペラの本質とどんな関係があるのだ、とうるさい人たちは言うかもしれないが、それを言っちゃ、ミもフタもなかろう。見慣れたオペラを新しい趣向で観るのも悪くないではないか。
 設定がよく出来ていて、かつ面白ければ、初めてオペラを観に来た人を引き付けることができる。オペラに詳しいと自信のある人なら、その演技と演奏の中から、ドラマと音楽の真髄を自分で自由に読み取ることができるはずである。

 今回の出演は、デイヴィッド・ロバートソン(指揮)、アマンダ・マジェフスキ(フィオルディリージ)、セレーナ・マルフィ(ドラベッラ)、ベン・ブリス(フェランド)、アダム・プラヘトカ(グリエルモ)、ケリー・オハラ(デスピーナ)、クリストファー・マルトマン(ドン・アルフォンゾ)。
 この顔ぶれを見ると、かなり世代も入れ替わり始めたなという感がある。

 ミュージカルで活躍するケリー・オハラを軽快な役柄デスピーナに起用しているのが注目されるが、ブロードウェイの「良い」歌手たちが、演技はもちろん、歌もそこらのオペラ歌手よりは遥かに上手いというのは現地でミュージカルを観た人なら周知の通り。見事なものであった(但し、雰囲気が少し違うのは仕方がない)。

 コニ―アイランドの光景が、この複雑な心理の変化を描く恋愛劇にどのような影響を及ぼしているかという面では、しかし残念ながらこれは単なる発想に留まり、具体的には描き切れていないようである。
 その点では、先年制作された、ラスヴェガスを舞台に設定したマイケル・メイヤー演出「リゴレット」(2013年2月16日参照)の方がよく出来ていたのではないかと思う。こちら「コジ」の方はさしあたり、本来が荒唐無稽で現実にはあり得ないような恋愛劇ゆえに、遊園地の玩具のように論理的ならざる夢のようなイメージを背景にした設定もまた一法である、と解釈しておけばよかろう。

 しかし、ロバートソンの指揮をはじめ、METのオーケストラの演奏も実にしっかりしており、モーツァルトの音楽の素晴らしさを存分に再現してくれる。このオペラ、今では彼の「4大オペラ」の中では、私にとっては最も魅力的な存在である。

2018・5・4(金)ラ・フォル・ジュルネ(4) 林英哲と英哲風雲の会

      東京国際フォーラム ホールC  9時15分

 オケのなさけない演奏に接して疲労困憊していたものの、この林英哲の太鼓と、太鼓ユニットの英哲風雲の会による迫真力満点の公演を聴いて、完全に元気を回復した。ユニットは、上田秀一郎、はせみきた、田代誠、辻祐の4人。うち1人がマリンバを担当している。

 演奏されたのは組曲「レオナール われに羽賜べ」という曲。レオナールとはレオナール・ツグハル・フジタ━━あの藤田嗣治画伯(今年が没後50年に当る)のこと。
 作曲・演出・振付は林英哲。これは、全力でぶつかって来る真摯で完璧な演奏だ。

※5月6日のBS朝日でナントのラ・フォル・ジュルネの模様が放送されているのを偶然視たが、林英哲氏が66歳になられたということを改めて思い出した。活躍の長さからすればそのくらいには━━と思いつつも、その年齢で45分間とか1時間とかの長尺を休みなしに叩き続けることのできる体力と精神力の凄さには、今さらのように感じ入った次第である。

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