2017-11

2017・11・21(火)ロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ 「ラ・ボエーム」

     東宝東和試写室  6時

 こちらはロンドンのコヴェントガーデン、ロイヤル・オペラの上映ライヴのシリーズ。10月3日に上演されたプッチーニの「ラ・ボエーム」の映像だ。
 一般公開は11月24日から1週間だが、それに先立ちマスコミ関係者相手の試写会が行われた。

 演出はリチャード・ジョーンズ。ロイヤル・オペラとしては、何と四十数年ぶりの新演出だそうな。
 これもストレートな手法のもので、2組の恋人たち━━ロドルフォとミミ、マルチェッロとムゼッタ━━の描き方も温かいが、それ以上に4人の男たちの深い友情が実に人間味豊かに描かれているのに感銘を受ける。
 ステュアート・レイングの舞台装置も、第3幕の雪の場面はあのゼッフィレッリのそれに劣らず美しく、第2幕でアーケードの光景がレストランの内部に替わって行く舞台装置の移動などで凝った手法を見せてくれる。

 アントニオ・パッパーノの指揮の鮮やかさについては、改めて触れるまでもない。私はこのオペラの音楽について、ある種の好からざる固定観を持っていたけれども、今日はそれを払拭してくれるような演奏だった。

 歌手陣は、ロドルフォをマイケル・ファビアーノ、ミミをニコール・カー、マルチェッロをマリウシュ・クヴィエチェン、ムゼッタをジョイス・エル=コーリー。━━試写室で配布された1枚の紙には、配役はこれだけしか載っていない。
 因みにロイヤル・オペラのサイトを覗いてみると、コリーネをルカ・ティントット、ショナールをフローリアン・セムペイが歌うと載っており、またムゼッタ役にはエル=コーリーでなく、シモーネ・ミハイの名が残っている。そういえば、シネマの案内役の女性が開演直前に「代役は2人、誰々と誰々です」と、それだけをいきなりアナウンスしていたが・・・・。
 結局、正確なところは、エンド・タイトルのクレジットを確認しなければ判らない。しかし、ロイヤル・オペラのサイトともあろうものが、上演済みの日のキャスト一覧表を訂正しないまま放ったらかしているなどということがあるのか? 

 とはいえ東宝東和の資料にしても、松竹のMETのそれと違い、データが極度に乏しい。上演収録日も記載されていない上に、第1幕と第2幕を「第1幕」、第3幕と第4幕を「第2幕」と表示しているところなど、如何なものかと思う。
 またシネマの方も、案内役は美人キャスターだが、そのハイテンションのビンビン響く声は耳につくし、話の脈絡や起承転結が時々曖昧になるのも困る。

 だが、いい面もある。休憩時間枠に挿入されるパッパーノのピアノを弾きながらの解説は、非常に貴重で面白い。これは「METライブビューイング」にはない強みだ。

2017・11・20(月)METライブビューイング 「ノルマ」

    東劇  6時30分

 メトロポリタン・オペラの10月7日上演ライヴ映像によるベルリーニの「ノルマ」。
 デイヴィッド・マクヴィカー演出、カルロ・リッツィ指揮、ソンドラ・ラドヴァノフスキー(ノルマ)、ジョイス・ディドナート(アダルジーザ)、ジョセフ・カレーヤ(ポリオーネ)、マシュー・ローズ(オロヴェーゾ)他の配役。上演時間は3時間27分。

 ストレートな演出だが、演技は非常に微細であり、劇的な迫力は申し分ない。
 METならではの豪華な5面舞台が活用されているという話だが、総じて場面が暗いために、はっきりとは判らない。ロバート・ジョーンズの舞台美術も「神聖な樹」である樫の大木をモティーフにしているという説明があったが、これも暗くて定かではない。
 要するに、そういう神秘性を含んだ重苦しい場面で繰り広げられる人間ドラマだということである。それに、主役歌手3人の演技が抜群に上手いので、緊迫感も充分だ。

 ただし今回は、第2幕の「戦いだ!」の激しい合唱のあとに叙情的な部分が続く版が使用されていたが、これは音楽的には素晴らしい流れとはいえ、カタストロフへの緊迫感の保持という点からみると、さすがのマクヴィカーもちょっと扱いかねていたようにも感じられる。

 ひときわ優れていたのが、ディドナートの演技だ。
 彼女の説明によると、アダルジーザを演じ歌うにあたり、マクヴィカーからフェデリコ・フェリーニ監督の映画「道」を見るように勧められたという。あの主人公ジェルソミーナの「純真さと献身的な心」というコンセプトを、そのままアダルジーザに当てはめて欲しい、と━━。その演出家の意図を鮮やかに具現したディドナートも見事だった。

 カレーヤも結構上手い。ポリオーネという身勝手で無責任な男をこれだけいやらしく、しかも堂々たる風格で演じるとは、たいしたものである。大詰での悔悟の演技も、体格が立派だけに、現実味を感じさせた。そしてもちろん、ラドヴァノフスキーの巧さは言うまでもない。
 この3人、幕間のインタヴュ―では、実に陽気だ。そして役柄の解釈について明るく語ってくれる。オペラの演劇的要素について如何に深く認識しているかの証拠である。

 カルロ・リッツィの指揮は、劇的な面では少々頼りなく、序曲などトロトロしていて、どうなることかと思わせたが、しかし歌手たちに「歌」を美しく歌わせるという点では、やはりうまいものである。主役3人が歌唱面で素晴らしかったこともあるが、特にノルマとアダルジーザの二重唱は、どれも圧巻と言えるほど見事だったのだ。
 (「和解の二重唱」の最後の部分で、ディドナートがスタッカートで歌っていたのに、ラドヴァノフスキーがレガートで歌っていたことだけは、その解釈について詳しい方の意見を伺いたいところだが)。

 総じてこれは、実に聞き応えのある、素晴らしい上演だ。ノルマという役柄には本当に度外れた歌唱力と演劇的感覚が要求されるのだということが、つくづく実感できた演奏であった。

2017・11・19(日)ガッティ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

        ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 マリス・ヤンソンスの後任として、昨秋から首席指揮者に就任しているダニエレ・ガッティ━━ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)が彼とのコンビで来日するのは今回が初めてである。
 このガッティという人、ナマでは私もこれまで数え切れないほど聴いて来たが、オペラにしろコンサートにしろ、どうもピンと来なかった。だからRCOのシェフとしては、あまり期待していなかったのだが、━━今日のマーラーの「第4交響曲」には少々驚き、コンサート・レパートリーにおけるガッティの感性を、俄然見直した次第だ。

 第1部でのハイドンの「チェロ協奏曲第1番ハ長調」では、RCOの首席チェロ奏者になってしまったタチアナ・ワシリエヴァが、少し重かったが濃厚なソロを聴かせてくれた。ここでは、ガッティの指揮も、まず標準的といったところだろう。

 しかし、RCO、ガッティともに個性的だったのは、休憩後のマーラーの「第4交響曲」だ。これほど明晰な構築で演奏された「4番」は、滅多に聴いたことがない。
 チェロやコントラバスのパート各々がまるで一つのソロ楽器のように響く。管楽器の各々がメリハリよく明確に際立ち、粒立って聞こえる。ホルンもクラリネットも、くっきりと浮かび上がって響いて来る。つまり大オーケストラの中の楽器の一つ一つの存在がはっきりと感じ取れるのだが、しかもそれらがアンサンブルとして完璧にバランスよく響いているのである。

 もともとマーラーのこの時期の交響曲━━特に「3番」と「4番」━━のスコアはそのように室内アンサンブルのような精緻さで書かれているのだが、それをこれほど浮き彫りにした演奏は滅多にないだろう。こういう「4番」は、ふんわりした穏やかな円満な感じの演奏の「4番」より、はるかにスリリングで面白く、退屈させられることがない。

 ガッティの設計も、なかなか細かい。第3楽章では陶酔的な主題を美しく歌わせ、思い切り大きな「矯め」をつくりながら神秘的な雰囲気を醸し出し、その緊張をあのフォルテ3つの爆発で解放(ここでソリストが上手ドアからゆっくりと登場して来るのは予想通り)したあと、再び夢のような沈潜に戻って行き、━━そしてクラリネットが楽譜通りのピアノ3つで温かく主題を吹きはじめ、かくて別の世界に入って行くという、このあたりの流れはひときわ素晴らしかった。「鈴のモティーフ」を激情的に奏させ、歌による夢幻的な世界と鋭い対比をつくり出すのも印象的である。
 このマーラーだけを聴いて云々するのは早計だろうが、こういう芸当(?)を見せるガッティであれば、RCOとの共同作業、案外うまく行くかもしれない。

 なお、ソリストのマリン・ビストレムは、ユリア・クライターの代役としての出演だが、声質はソプラノというよりメゾ・ソプラノに近い。これが曲に翳りを生じさせ、不思議な面白さを感じさせた。立ち位置は最後段、ティンパニの上手側横だったが、声楽がオーケストラの奥から響いて来るという音響効果も、これが「声楽曲」でなく、それまでの管弦楽の流れの中に加わった一つの天使の声なのだ、というコンセプトを感じさせるものであった。

2017・11・18(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

       サントリーホール  2時

 メインのプログラムは、ブルックナーの「交響曲第5番」。インキネン=日本フィルのブルックナーとしては、今年1月の「第8交響曲」に続くものだ。

 「8番」の時と同様、テンポを遅く採った演奏である。
 ただしあの「8番」ではトランペットなどが抑制され、どちらかといえば柔らかい感じの演奏になっていたのに対し、今日の「5番」では金管群もティンパニも豪放に轟き、全管弦楽のリズムも非常に鋭角的になり、驚くほど厳めしく、かつ攻撃的な演奏になっていた。第3楽章など、あたかもハンマーで叩きつけるかのような、コンクリートの角材を打ち込むかのような、強靭なリズムで進められていたのには、本当に驚いた。

 第4楽章最後の豪壮なクライマックスでのティンパニは見事なトレモロだったが、最後の変ロ長調の和音を、その前のトレモロから一度切って「独立気味に」叩いたのは指揮者の指示かもしれないけれども、全体の流れからするとやや疑問がある。
 しかし、この終結部は素晴らしい盛り上がりを示していた。コラールの和声的な美しさや陶酔感などには不足するところがあったものの、これは今の段階では仕方のないところだろう。

 ともあれ、これほど咆哮し怒号しながら、全体に音が濁らなかったのが立派である。これは、日本フィルにとっての新境地だろう。

 「インキネンのブルックナー」に関しては、「8番」の時にも未だ全貌がつかみにくいと書いたが、今日の「5番」を聴いて、ますます彼のコンセプトが把握しにくくなった。
 彼の方針は、ある作曲家の作品群はこのようなスタイルであるべき、という考え方でなく、同じ作曲家のものであっても、作品によっていろいろなスタイルを出して行く、というもののようだが、その基準点、分岐点を何処に置いているのかが解りにくいという意味である。

 とはいうものの今回、日本フィルとしては、過去にほとんど聴いたことのないような整然とした剛直なスケール感を備えた演奏がつくられていたことには間違いない。インキネンが首席指揮者に就任して以来、このような新しい境地が開かれて来ているのは、本当に喜ばしいことである。
 なおこの「5番」に先立ち、「日本フィル共同委嘱作品」として2年前に作曲されたラウタヴァーラの「In the Beginning」という、短い、美しい作品が演奏された。作曲スタイルは全く異なっているにもかかわらず、これはそのあとの大交響曲と調和する。ただしこの2曲は続けて演奏されたわけではなく、ただ「休憩を挟まずに」演奏されただけである。
 コンサートマスターは扇谷泰朋。

2017・11・17(金)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団 「イワン雷帝」

      NHKホール  7時

 このところ3シーズン連続でN響に客演、何となく「首席客演指揮者」のような存在になってしまったトゥガン・ソヒエフ。回を重ねるごとにオーケストラとの呼吸が合い、演奏も鮮やかさを増して来るようである。

 特に今月のC定期、プロコフィエフのオラトリオ「イワン雷帝」(スタセヴィチ編)の演奏は、流石と言えるものだった。
 N響(コンサートマスター・篠崎史紀)が響かせる豊かな音の量感が生み出す壮大なスケール感は、言うまでもない。だがそれ以上に、ソヒエフがN響から引き出したこの日の演奏には、プロコフィエフの音楽が持つ、独特の雰囲気が━━それは旋律や和声の音色などを含んではいるが、それだけではなく、聴き手が一瞬のうちに「プロコフィエフ!」と感じてしまうあのえもいわれぬ独特の個性的な音楽のことなのだが、それが演奏の多くの個所にあふれていたのである。
 異国のオーケストラから、このような特徴を引き出すソヒエフの力量は、やはり卓越したものというべきだろう。

 そしてまた感嘆させられたのは、東京混声合唱団(合唱指揮・松井慶太)と東京少年少女合唱隊(合唱指揮・長谷川久恵)の見事さだ。
 とりわけ、両者がア・カペラで歌う「タタールの草原」━━プロコフィエフが「戦争と平和」でも使っている曲で、私は何故かこの曲がえらく好きなのだが━━での、弱音からクレッシェンドしつつ、低音から高音へと拡がって行くこの合唱の美しかったこと! それはロシアの合唱団が歌う時のような、大地から湧き上がって来るかの如き力強さとは違うけれども、その代り澄んだ透明な音色の響きが祈るように拡がって行くといった神秘性を感じさせたのである。敢えて言うなら、今日はこれを聴けただけで満足したと言ってもいいか。
 因みにこの「イワン雷帝」には、チャイコフスキーが「1812年」に使ったロシア聖歌「主よ汝の民を守り給え」なども出て来て、なかなか楽しいものがある。

 独唱のスヴェトラーナ・シーロヴァ(Ms)とアンドレイ・キマチ(Br)も好演。
 ナレーターとして片岡愛之助が出演、曲の間や曲に乗せる形で、これだけは日本語で非常に劇的な「語り」を展開した。ナレーションがちょっと伸びて、合唱の入りにかぶってしまったところが1カ所だけあったのを除けば、まずうまく行っていただろう。ナレーションが終って演奏に入る時の「間」は、もう少し詰めたい気がするが、外国人指揮者との協同作業となれば、その辺は難しいところだ。

 なおプログラム冊子には、演奏時間69分と記載されていたが、これはソヒエフのCD(語り無し)での数字だ。ナレーションが入った今日の演奏は82分ほどになっていたはず。

2017・11・16(木)オーギュスタン・デュメイ指揮関西フィル

      いずみホール(大阪) 7時

 関西フィルハーモニー管弦楽団の「いずみホール定期」を、音楽監督オーギュスタン・デュメイの指揮で聴く。
 シューマンの「マンフレッド」序曲、同「チェロ協奏曲」(ソリストはアントニオ・メネセス)、シューベルトの「交響曲《ザ・グレイト》」。コンサートマスターは近藤薫。

 デュメイと関西フィルを、シンフォニックなプログラムで聴くのは久しぶりだ。もともと彼の指揮は、ちょっと奔放で、時に荒々しい力ほどの力を噴出させるスタイルだという印象もあったのだが、しかし今日の前半のシューマンの2曲では、極めて翳りのある音色と表情を関西フィルから引き出していたのが、とりわけ印象的だった。
 「マンフレッド」では曲の標題に相応しく、特に後半では激情をこめた緊迫感を漲らせた。「チェロ協奏曲」でも、アントニオ・メネセスの深みのあるソロに対抗してオケから引き出した憂愁感とメリハリの強いリズムは、なかなか「聴かせる」ものであった。

 それにしても、メネセスのヒューマンな演奏は素晴らしい。特に後半にかけての雄弁な昂揚は、シューマンの陰翳に富んだ美しさを余すところなく描き出して、実に強い感銘を与えてくれた。メネセスは、この曲を最近レコーディングしたばかりということもあってなのか、あちこちで演奏しているようである。日本でも、このあと紀尾井ホール室内管とこの曲を協演することになっている。

 「ザ・グレイト」は、このところ妙に演奏会でよく聴く機会があるが、今日のそれは実にユニークなものだった。
 デュメイのテンポは、第1楽章序奏からして相当速い。特に第2楽章などは、スコア指定の「アンダンテ」ではなく、アレグレットか、あるいはそれ以上か。最初の主題では、軽快なリズムで、弾むように演奏していた。

 各楽章の演奏時間は、大雑把な計測だが、13分、13分、13分、10分。第1楽章と第4楽章の各提示部はリピートなし。それでも50分ほどにまで達していたのは、第3楽章のスケルツォ前半とトリオがリピートありだったのと、第4楽章が(速いながらも)比較的通常のテンポに近い速度だったからだろう。

 そういえば昔、ユーディ・メニューインが新日本フィルを指揮した時、リピートは一切なしで、しかも終楽章を前代未聞の速力で驀進させ、全曲を計43分という、あり得ないような演奏時間でやってのけたことがあった。
 今日の演奏の場合、かりにスケルツォとトリオの反復がなければ4分ほど縮まったはずだから、そうすれば45分・・・・。あり得ない数字でもない。考えてみると、メニューインもデュメイもヴァイオリニストだ。ヴァイオリニスト出身の指揮者が振るとそうなるわけでもあるまいに。

 こういう快速テンポで演奏すると、細部が粗っぽくなるのはある程度致し方ない。
 だが想像するに、デュメイとしては、この「ザ・グレイト」を、ロマン派音楽を確立したモニュメントだとか、あるいは古典派音楽の偉大な残照だとかいったイメージで捉えるのではなく、むしろこの曲の中に、「オーストリア人シューベルト」の自由奔放な、軽快な性格を見ていたのかもしれない。
 この演奏を詳細に聴けば、一気呵成に単調に押しまくるのではなく、フレーズごとに、あるいは主題の移行個所で細かくテンポを調整していたし、粗っぽいように見えても、主題に微細な漸弱・漸強を施していたのが判る。

 また第3楽章トリオでは、特に木管の声部のバランスに気を配っていたと思われる。関西フィルがそのデュメイの意図に全面的に応じられたとは言い難かったが、しかし第3楽章トリオでの演奏はことのほか美しく、特にオーボエをはじめ木管群が━━ハーモニーとして動くよりもメロディ・ラインとして交錯するというユニークな構築には、格別な面白さがあった。

 オーケストラのアンコールは、ビゼーの「アルルの女」からの静かな「アダージェット」。これは以前にも聴いた。デュメイはこの曲が好きと見える。

2017・11・15(水)チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ

      サントリーホール  7時

 旧称モスクワ放送交響楽団。芸術監督・首席指揮者はおなじみウラジーミル・フェドセーエフ。チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」とラフマニノフの「第2交響曲」をプログラムに組んだ。これは、今回の来日ツアー最終日の公演だった。

 フェドセーエフも、もう85歳。彼の演奏も、近年はやや淡白な味になって来たことを感じさせる。今日の2つのロシアの作品でも同様の印象だ。
 ラフマニノフの「第2交響曲」など、昔だったらもっと濃厚な色彩感と、轟くような重量感、怒涛の如き推進性、深い陰翳と哀愁、といったものを漲らせていたものだが、今日は━━彼と「モスクワ放送響」にしては━━ずいぶんあっさりした演奏になってしまったな、という感だったのである。
 ただ、今回は弦14型編成の規模での演奏であり、またメンバーもだいぶ若返っている様子なので、いっそうその印象が強くなっていたのかもしれない。

 アンコールでは、フェドセーエフ得意のスヴィリドフの「吹雪」からの「ワルツⅡ」と、チャイコフスキーの「白鳥の湖」からの「スペインの踊り」を演奏したが、打物陣が大活躍する後者で、あの「二刀流タンバリンおじさん」が健在で派手なところを見せていたのには、なんとなくうれしくなった。彼の持芸を知っている聴衆も多いので、拍手も歓声もひときわ大きくなる。

 なおプログラムの第1部におけるチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」では、人気沸騰の三浦文彰がソロを弾いたが━━彼のおかげで満席近くまで切符が売れたということもあるだろうが━━残念ながらオケとは水と油といった感。ただバリバリ弾けばいいというものではない。
 来日オケに日本人ソリストを組み合わせること自体が悪いことだなどと言っているのでは毛頭ないが、その場合はソリストの個性と、オケの伝統的個性と、レパートリーとにおけるそれぞれの相性を、もっと慎重に検討してからにすべきではないか。
 また、それとは別の問題だが、オーケストラが起立したまま、もう引き上げたいという姿勢を示している真中へ割って入り、構わずソロ・アンコールを演奏しはじめるというのもいかがなものだろうか。

2017・11・14(火)大平まゆみ ヴァイオリン・リサイタル

      Hakuju Hall  7時

 札幌交響楽団のコンサートミストレス、大平まゆみさんの「地」の演奏を聴くのは今回が最初━━コンサートマスターとしての演奏はしばしば聴いているけれども、指揮者の意向を汲み取って演奏する時あるいはアンサンブルのリーダーとして演奏する時と、自らのスタイルを自由に押し出せるリサイタルでの演奏とは、明らかに違うはず。そういう意味でも興味津々だったが、果せるかな、予想していたのとは随分イメージが違った。

 プログラムは、第1部がバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」とブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ第2番」。こちらでも随分情熱的な演奏をする人だと感心したが、第2部のサラサーテ特集━━「カルメン幻想曲」「アンダルシアのロマンス」「サパテアード」「ツィゴイネルワイゼン」では、さらに情熱的な演奏になり、豪快奔放なほどの表現になった。
 このホールは「よく響く」ので、音量も、演奏にみなぎる力も、強靭なものになる。深紅のドレスに身を包んで大きな身振りで弾く迫力も、なかなかものだ。にこやかな表情の方だが、パッショネートな音楽家なんだな、という印象。

 もっとも、そのわりにステージ上のトークの声は優しく低く、しかも早口だったので、後方客席からはあまりよく聞き取れなかったが・・・・ともあれ、オーケストラの一員として弾いている時の彼女とは違った面を見ることができて、すこぶる愉しい演奏会であった。

2017・11・12(日)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

        ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 1曲目の、マックス・レーガーの「ベックリンによる4つの音詩」は、つい2日前に上岡敏之指揮新日本フィルの定期でも聴いたばかり。滅多に演奏されない曲が何故か偶然接近して各楽団のプログラムに載るというケースは不思議によくあるものだ。

 しかしこちら、スダーンと東京響の演奏では、4枚の「絵」は、非常に隈取りのはっきりしたイメージで再現されている。第1曲の「ヴァイオリンを弾く隠者」でのソロは、コンサートマスターのグレブ・ニキティン。隠者というよりも、壮年の哲人と言った方がいいようなソロだったが、それはこの作品全体の演奏の性格を象徴していたとも言えよう。
 そのあとに、フランク・ブラレイをソリストに迎えての、ダンディの「フランスの山人による交響曲」が続き、気分は一気に開放的になる。

 休憩後はドヴォルジャークの「新世界交響曲」だったが、これもなかなか聴き応えのある演奏だった。郷愁とか民族音楽的叙情美が蔑ろにされていたわけでは決してないけれども、それよりもむしろ、毅然たる姿勢で屹立する、造型性の豊かな、がっしりと構築された「新世界交響曲」だったのである。これは、いかにもスダーンらしい個性を感じさせる演奏だった。聴き慣れた曲が、実に新鮮に聞こえたのである。東京響の管に、以前ほどの安定感がないのだけが気になるけれども。

2017・11・11(土)ブロムシュテット指揮ゲヴァントハウス管弦楽団

      サントリーホール  3時

 ヘルベルト・ブロムシュテットは90歳。だが相変わらず元気だ。歩行もしっかりしているし、指揮台では椅子など使わない。何より、オーケストラから引き出す音楽が、壮者を凌ぐエネルギーに満ちている。

 休憩後に指揮したシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」では、全ての反復指定を遵守した長丁場を、速めのテンポと、荒々しいほど強靭なデュナミークを駆使して、些かの緩みもなく指揮して行った(リピートをすべて守りながら、全曲の演奏時間が63分にとどまっていたというのは、相当速いテンポだった証拠だろう)。演奏に湛えられた滋味という点ひとつ取ってみても、この人はやはり、ドイツの老舗オーケストラを指揮した時の方が、最も良さを発揮するようである━━というのは、私の独断的な印象なのだが。

 しかし、この日の大きな驚きは、前半に演奏されたブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」である。あの異様に遅く沈潜した、粘ったテンポは、ソリストのレオニダス・カヴァコスの選択か、それともブロムシュテットの意図か。

 カヴァコスのソロは、いつものように骨太で強靭で、しかも陰翳の濃い表情で、この協奏曲をいっそう深みのある、思索的なものにしていたが、今にも停まってしまうかと思えるようなあの遅いテンポ(第1楽章だけで25分、第2楽章10分、第3楽章9分━━正確ではないかもしれないが、大体そんなところだろう。最初の2つの楽章は、CDに入っているケネディとテンシュテットの方がもっと遅いだろうが)は、それが一分の緩みもなかっただけに、凄まじい緊張感で聴き手をねじ伏せる。
 これまでは切れ味のいい、斬り込むような演奏が身上だと思っていたカヴァコスが、こんな沈潜した凄味のある音楽を聴かせてくれるとは、全く予想外であった。だがその演奏が、少しも奇を衒ったものでなく、あくまで真っ向勝負のものだけに、説得力がある。

 しかもブロムシュテットとゲヴァントハウス管弦楽団が、そのカヴァコスの演奏を揺るぎなく、どっしりと、これまた一分の弛みもなく支え、更なる深淵へ煽り立てて行くのだからますます凄い。第1楽章終りでの最強音の和音の反復など、これほど変化に富んで意味深く演奏されていた例を、私は初めて聴いた。

 とにかく、その演奏には完全に引き込まれたが、聴き終った瞬間にはヘトヘトになっていた、というのが正直なところである━━ただし快さのある疲労感ではあったが。
 しかもカヴァコスはそのあとに、バッハの「パルティータ第2番」の「サラバンド」をアンコールとして弾いた。これまた強い、いい意味での粘着力に満ちていた。これで、更にヘトヘトになった。
      別稿 音楽の友新年号 演奏会評

2017・11・10(金)映画「ホリデイ・イン」

     東劇  7時

 1942年のアメリカ映画「スイング・ホテル」(原題はHoliday Inn。ビング・クロスビー、フレッド・アステア他主演。音楽:アーヴィング・バーリン)が、ミュージカル映画になって現われて来た。「アーヴィング・バーリン最新作ミュージカル」という触れ込みだが、彼は1989年に101歳で世を去っているのだから・・・・さながら「フルトヴェングラーの最新録音」と言うが如しか?

 共同脚本と監督がゴードン・グリーンバーグ。ラウンドアバウト・シアター・カンパニーの公演のライヴ収録HDということらしいが、よく解らない。とにかく、あのオリジナルの映画から生まれた名曲「ホワイト・クリスマス」をはじめ、「イースター・パレード」や「ブルー・スカイズ」など、アーヴィング・バーリンの懐かしい音楽が飛び出して来るので、われわれの世代にとっては感無量の趣がある。

 今回の映画は、良き時代のアメリカ━━理想郷アメリカというイメージにあふれていたミュージカル映画の蘇りを感じさせる。こうした映画がまた製作されるようになったということは、非常に興味深い。現代のアメリカにまた何かが起こりつつあるということの表れなのだろうか。
 上演時間は約2時間。オペラと違って短いのは有難い(?)。

2017・11・10(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      すみだトリフォニーホール  2時

 ラフマニノフの「死の島」、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストはカティア・ブニアティシヴィリ)、レーガーの「ベックリンによる4つの音詩」。コンサートマスターは崔文洙。

 これは実に凝った選曲で、しかも意欲的である。
 ラフマニノフの「死の島」はベックリンの画を基にした交響詩であることは周知のとおりだが、レーガーの「音詩」の中にも、「死の島」という曲が含まれている。両者を組み合わせた発想は秀逸だし、われわれ聴き手にとっても、あの不気味な絵画から生まれた2つの曲を比較できるという意味で興味深い。
 間に置かれたチャイコフスキーのコンチェルトはちょっと異質な存在で、当然これは「客寄せ系」とも言えようが、前後の作品の重苦しい雰囲気の中に一篇の明るさを投じるという意味では、存在価値を発揮するだろう。

 上岡と新日本フィルも、ラフマニノフとレーガーの重厚な作品を、濃厚に、しかし滋味豊かに演奏してくれた。
 前者の「死の島」については、レコード評論の大先達あらえびす(別名・野村胡堂)が「凄まじく手の混んだ曲だが、少し鬱陶しい」(「楽聖物語」)と評した一文が今でも頭にこびりついているのだが、今日の演奏は、重々しいけれどもあまり不気味ではなく、むしろ色彩的なものが感じられ、この作曲家の管弦楽法の巧さが印象づけられる結果になっていた。
 レーガーの「4つの音詩」では、「ヴァイオリンを弾く隠者」で崔文洙が濃い表情を聴かせたのが印象に残るけれども、「死の島」に関する限りは、やはりラフマニノフの方が一枚ウワテだったな、という感も。大体、レーガーの音楽は、理屈っぽいのだ。

 チャイコフスキーでは、ブニアティシヴィリと上岡の対決的な演奏が何とも興味深かった。冒頭のホルンは恐ろしいほど濃厚に、粘った遅いテンポで始まったので、この調子でピアニストもやるのだろうか、とギョッとさせられたが、やはり彼女の方は独自の勢いで押し通して行く。とにかく、指揮者とソリストが「合って」いるような、いないような、このせめぎ合いがこれまたスリリングで、聴き手を退屈させない。

 彼女としてはやはり速いテンポで「軽快に」突き進む部分に良さを感じさせたのは、先日のリサイタルでの演奏と同じである。とはいえ、今日ソロ・アンコールで弾いたシューベルト~リスト編の「セレナード」の、翳りのある音色と極度に遅いテンポによる沈潜しきった演奏は、彼女の幅の広さを示すものになっていた。

 「死の島」で始まった今日の重苦しいプログラムは、最後のオーケストラ・アンコールでのワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」で、とどめを刺される。「死の動機」が速いテンポで演奏されたのは、私の好みではないけれども、上岡が今「指環」を指揮したらどんなものになるかを垣間見せてくれたという点で、これも貴重な機会であった。

2017・11・9(木)METライブビューイング モーツァルト:「魔笛」

      東劇  6時30分

 終演後すぐに日比谷の日生劇場を飛び出し、東銀座の東劇へ向かう。同じオペラでも、こちらは映画だ。モーツァルトの「魔笛」で、メトロポリタン・オペラの10月14日上演のライヴ映像。
 今シーズンの「METライブビューイング」の開幕に際し、第1弾となる「ノルマ」に先がけて行われた特別試写会である。

 これはジェイムズ・レヴァインの指揮、ジュリー・テイモアの演出、ゲオルギー・ツィーピンの舞台美術、ドナルド・ホールダーの照明他による実に美しい幻想的な舞台だ。小鳥や熊などの動物や、夜の女王の衣装などが、大勢の黒子によって華麗に舞う。このプロダクションは、以前プレミエされた時、私も現地で観て、その美しさに酔ったものである。

 ただ、その時に最も強く印象に残った夜の女王の衣装のデザインは、今回の上演ではかなり異なっている。あの時は、彼女のアリアの際に、その衣装が真っ暗な舞台の左右いっぱいまで大きな羽根のように拡がり、客席から感嘆の溜息が漏れるほど美しかったものだ。それに比べると今回の衣装はだいぶ小型になってしまっていた。
 また当時、ツィーピンが入れ込んでいたガラスを活用した舞台装置も、今回の舞台ではどうも雰囲気が違う。今回の国内上映用プログラム冊子の解説にそれを重点的に取り上げて書いてしまった手前、少々具合の悪い思いをしている。

 歌手陣は、王子タミーノをチャールズ・カストロノヴォ(台本指定通りの日本の(古代の)狩衣風な衣装とメイクが面白い)、王女パミーナをゴルダ・シュルツ、鳥刺しパパゲーノをマルクス・ヴェルバ(巧い。舞台をさらってしまっていた)、高僧ザラストロをルネ・パーペ(この収録日の公演のみ彼が歌ったそうだ。いつもの彼ほど冴えがないようだったが、貫録は流石のもの)、夜の女王をキャスリン・ルイック、その他。

 上映時間は3時間42分で、10時20分頃に終った。

2017・11・9(木)NISSAY OPERA ドヴォルジャーク:「ルサルカ」

      日生劇場  1時30分

 東京公演はダブルキャストによる計3回公演で、今日は初日。
 田崎尚美(ルサルカ)、樋口達哉(王子)、清水那由太(木の精ヴォドニク)、清水華澄(魔法使の老婆イェジババ)、腰越満美(外国の公女)、森番(デニス・ビシュニヤ)、料理人の少年(小泉詠子)、盛田麻央・郷家暁子・金子美香(森の精)、新海康仁(狩人)の歌手陣に、東京混声合唱団、読売日本交響楽団、山田和樹(指揮)。

 ピットを高めにし、更に木管とホルンを舞台上に配置して、さながらセミ・ステージ上演の趣さえある舞台だったが、これは演出家・宮城聰の意図だと聞いた。しかしこの、あまり大きくない演技空間を使っての演出は、部分的には不満もあったものの、全体としては予想した以上に要を得ていたと思う。

 たとえば第2幕では、赤色系の照明に照らされた華やかな人間界の中で、ルサルカにのみ白色の照明を当て、彼女が疎外されていることを表わしていたが、彼女をずっと上手側に佇立させたまま動かさず、照明のみで他の華やかな登場人物との対照を見せたアイディアは、この狭い舞台をむしろ生かす効果的な結果を生んでいたであろう(照明は沢田祐二、空間構成は木津潤平)。
 ただし欲を言うなら、第3幕で終始舞台上にいて、森の精霊たちの呪詛の対象になっている王子の表情にもっと苦悶のようなものがあれば、と思ったこと、また第3幕でのルサルカの衣装━━というより「着ている洋服」が、何とも世俗風に過ぎて幻想味を失わせていたこと、などだろうか。

 ともあれ今回の上演は、幻想的な物語展開の中に自然と人間の対立や男女の宿命的な悲劇を象徴的に織り込んだ「ルサルカ」という作品を、室内オペラのような形で再現しようとした試み━━と解釈せざるを得ないが、それはその範囲ではかなりの程度まで成功していたと見ていいのだろう。ただ、日生劇場という、それなりの規模を備えた劇場が制作するオペラ・プロダクションとして、このスタイルが適していたかどうかは、別の問題である。

 歌手陣は好演。題名役の田崎尚美は、安定した歌唱を聴かせてくれた。しかも特に第2幕の茫然と佇んでいる場面では、実に悲しそうな雰囲気を全身で表現し、哀れを誘う演技を見せていたところなど、立派なものである。その他、登場した瞬間に華麗な雰囲気を感じさせる腰越満美の見事な存在感、コミカルな味も湛えつつ不気味な雰囲気を出した清水華澄の巧さ、歌と演技を客席で繰り広げたデニス・ビシュニヤと小泉詠子の素朴で温かい味なども印象に残る。

 山田和樹と読響も、魅力的な演奏をしてくれた。大編成のオーケストラが目の前にいながら、その音量の調整がすこぶる巧いので、歌は全くマスクされず、客席によく響いて来たのは有難いことだった。ドヴォルジャークも管弦楽の使い方にもよるのだろうが、山田の「歌とオーケストラ」のバランスの扱いにも鮮やかなものがあるだろう。

2017・11・8(水)ハンヌ・リントゥ指揮東京都響「クレルヴォ交響曲」

       東京文化会館大ホール  7時

 このところ日本で人気急上昇中のフィンランドの指揮者、ハンヌ・リントゥがシベリウスの「クレルヴォ交響曲」を振るとあっては、聞き逃すわけには行かない。しかも合唱にはフィンランド・ポリイテク男声合唱団(指揮:サーラ・アイッタクンプ)、メゾ・ソプラノにニーナ・ケイテル、バリトンにトゥオマス・プルシオ━━と、いずれもフィンランドの演奏家たちを客演に迎えている。コンサートマスターは山本友重。

 満席の東京文化会館とあって音が吸われ、1階席中央で聴く範囲では都響や合唱団の音色に潤いが欠け、演奏も乾いたものに聞こえたのは残念だったが、しかしリントゥの切れの良いリズムでたたみかける強靭な力感、些かの曖昧さも残さぬ明快な表情によって、特に後半にかけては、息もつかせぬほどの迫力で聴き手を巻き込んで行く演奏となった。彼の指揮で聴くと、カレワラの物語に登場するクレルヴォは、森と霧の中から生れ出た悲劇の主人公ではなく、毅然として己が道を貫いた英雄ともいうべきイメージになる。

 アンコールとして、「フィンランディア」が、合唱入りの版で演奏された。あの叙情的でありながら満々たる意志の力を込めた主題が、「フィンランディア讃歌」の合唱で歌われるのは、すこぶる感動的なものである。欲を言えば、最後の個所にも壮大な合唱を入れてくれれば、いっそう感銘深いものになっただろうけれど。

2017・11・7(火)アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団

     サントリーホール  7時

 ボストン交響楽団が音楽監督とともに来日するのは、わが小澤征爾とともに1999年に来日して以来、実に18年ぶりである。
 ボストン側でもそれをかなり意識しているらしく、ボストンのFM放送局が一緒に取材に来ていて、日本ではオザワ=ボストンがどう受け取られていたか、今の日本でボストン響が注目されるとすればどんな点に対してか、などについて、開演前にホワイエの片隅でインタビューを受ける羽目になってしまった。

 今日は日本公演の4日目、ギル・シャハムをソリストに迎えてのチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」と、後半にショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》」。

 またアンコールにはショスタコーヴィチの「モスクワのチェリョムーシカ」からの「ギャロップ」と、バーンスタインの「ディヴェルティメント」からの第2楽章という、これはまた珍しい小品を演奏してくれたが、その演奏が実にヴィヴィッドである。来日オケがありふれた名曲ばかりでなく、もっとこのようにオーケストラの個性と、若い世代の指揮者の個性を生かしたこのようなレパートリーで一夜のプログラムを構成してくれれば、若い世代の聴衆ももっと聴きに来るのではないかと思うのだが━━。

 さて、ギル・シャハムの演奏が、とてつもなく面白い。昔から個性的な演奏をする人だったが、最近は音色にも濃厚な色気のようなものが加わって来て、それが僅かの乱れもないテクニックの裡に完璧に生かされるのだから、演奏は不思議な煌びやかさに満たされる。
 しかも第1楽章など、変な言い方だが、彼は全ての音符の間に全く切れ目を入れず、つまり句読点を意識的に排した文章のように演奏する。といってレガートな演奏というのではなく、どの音符もメリハリよく粒立っているという、この不思議な奏法━━。その結果、音楽が、良くも悪くも非常に饒舌になる印象を与えるのである。チャイコフスキーのこのコンチェルトのイメージを一新させてしまった演奏である。
 彼のソロ・アンコールは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」第3番からの「ガヴォット」だった。

 ショスタコーヴィチの「1905年」は、いかにも「戦争を知らない世代の指揮者の」演奏という感である。ボストン響が巧いし、パワーもあるから、スペクタクルな演奏にはなってはいたが、しかしこの演奏からは、1905年のペテルブルクの「血の日曜日」という歴史的イメージはあまり浮かんで来ないのではないか。ゲルギエフやインバルが指揮した時の、あの悪魔的な凄さが、ちょっと懐かしくなった。

2017・11・6(月)カティア・ブニアティシヴィリ・ピアノ・リサイタル

      サントリーホール  7時

 ジョージア(旧称グルジア)の、未だ30歳ぐらいの若い美女ピアニスト、カティア・ブニアティシヴィリのリサイタル。ホールの使用客席はほぼ埋まり、熱心な歓声が飛ぶ。大変な人気である。

 プログラムは、ベートーヴェンの「熱情ソナタ」に始まり、リストの「ドン・ジョヴァンニの回想」に続き、休憩を挟んでチャイコフスキー~プレトニョフ編の「くるみ割り人形」組曲、ショパンの「バラード第4番」、リストの「スペイン狂詩曲」、リスト~ホロヴィッツ編の「ハンガリー狂詩曲第2番」が演奏された。
 これは一部が変更されたあとのプログラムだが、なかなか良い流れで、それなりに筋が通っているとも言える。

 素晴らしく指のよく回る人だ。それゆえにリストの作品における鮮やかさは見事なもので、いや、「熱情ソナタ」の終楽章だってそういう意味では鮮やかだったが、半面、遅いテンポで叙情的に歌うべき個所では緊迫度が下がってしまい、不思議なほど音の流れにスムースさが失われてしまうあたりが、未だこれからということだろうか。
 アンコールにはドビュッシーの「月の光」など4曲を演奏したが(サントリーホールはアンコール曲の曲名を同ホールのサイトに掲載してくれているから有難い)、それらにおいてもやはり同じような特徴が聴かれた。

2017・11・5(日)ザ・カレッジ・オペラのモーツァルト:「偽の女庭師」

      ザ・カレッジ・オペラハウス(大阪音楽大学) 2時

 大阪音楽大学のオペラ公演もこれが第53回。見事な実績である。今回はモーツァルトの、日本では滅多に上演されないオペラ「偽の女庭師」が取り上げられた。今日は2回公演の2日目。

 指揮は牧村邦彦、演出は井原広樹。あの「みつなかオペラ」のコンビでもある。イキも完全に合っているとお見受けした。
 演技はかなり細かく組み立てられ、それが音楽の動きと完全に合致している。逆に言えば、指揮も演出にぴたりと合わせていると言ってもいいのかもしれない。モーツァルトのこの若い時代のオペラの中に、後年の「ドン・ジョヴァンニ」や「フィガロの結婚」の音楽を少し紛れ込ませるというシャレも二つ三つ見られたが、そういう際にも演奏と舞台上の表現とが完全にマッチしていたのである。
 なお今回の井原の演出は、登場人物の喜怒哀楽をかなり派手に表現させ、モーツァルトのオペラの中に甚だ賑やかな喜劇的性格を導入していたが、このあたりが関西のノリというべきか。大阪で観るとこれがぴったり来るのだから、面白いものである。

 毎回のことだが、ここの劇場の舞台の構築の仕方は、いつもながら巧みだ。今回も、小編成のオーケストラ(ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団)を舞台に乗せ、背景に二重の奥舞台を高く設置、その両側から手前へも囲むように演技空間を設置して、フルに舞台を使う(舞台美術は増田寿子)。ホールの響きが良いため、声は充分に客席へ届いて快い。
 牧村邦彦の指揮も率直で流れが良いので、オーケストラもモーツァルトの屈託ない音楽を伸び伸びと響かせていた。初めのうちは弦が少し粗く、ティンパニの音も重く、音楽が鈍い印象になっていたが、演奏自体は尻上がりに充実して行った。

 歌手陣もいい。サンドリーナ(ヴィオランテ)を尾崎比佐子、市長ドン・アンキーゼを清原邦仁、ベルフィオーレ伯爵を中川正崇、アルミンダを南さゆり、騎士ラミーロを橘知加子、セルベッタを石橋栄美、ロベルトを迎肇聡。みんな、勢いのいい熱演である。
 尾崎比佐子は、モーツァルトの若書きのオペラを歌うにしては少し物々しい歌唱にも思えたが、それでもいつものように尻上がりに迫力を出して、結局は題名役としての存在感を確立してしまう。それがベテランの魅力的な味というものだろう。

 闊達で明るい雰囲気をコミカルに切れ味よく発揮していたのは、石橋栄美と迎肇聡だ。石橋は聴く機会が極めて多い。迎(むかい)は3年前にびわ湖ホールの「死の都」でフリッツを歌ったのを聴いて感心し、「竹取物語」のロビーコンサートで聴いた時にも「これから注目される存在になるだろう」と書いた記憶がある。

 7人の主役たちの中には、例の細かい声の動きにあまり慣れていないような人もいて、時にもどかしい感を与えることもあったとはいえ、闊達な歌唱がモーツァルトの初期のオペラの世界を快く盛り上げていた。
 20分程度の休憩1回を含み、終演は5時半過ぎ。

 なお今年の上演は、ザ・カレッジ・オペラハウスの新しいシリーズである「ディレクターズチョイス」の第1弾である由。これは、大阪音大の客員教授でもある演出家の井原広樹、粟国淳、岩田達宗が、ザ・カレッジ・オペラハウス館長の中村孝義(大阪音大理事長)と打ち合わせつつ、毎年交替で「やりたいオペラ」を演出して行く、というシリーズだという。来年は粟国淳が演出を担当し、メノッティの「電話」と「泥棒とオールドミス」を上演する予定とか。面白そう。

2017・11・4(土)イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出「オセロー」

      東京芸術劇場プレイハウス  1時

 「オセロー」というからには、もちろんオペラでなく、オリジナルのシェイクスピアの芝居のこと。オランダの演出家イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出、劇団「トネールグループ・アムステルダム」メンバーの出演。オランダ語による上演で、日本語字幕がつく。

 上演台本はモロッコ系オランダ人のハフィッド・ブアッザという人によるものの由。シェイクスピアの長大な戯曲から、部分的に入れ替えるなどして要領よく抜粋し、登場人物もわずか9人に絞り(群衆はいない)、全体を各80分と60分の2幕構成にしている。このため物語は、良くも悪くも「家庭内悲劇」の様相を呈するが、それも演出の狙いなのであろう。

 原作の前半部分はかなり短縮されているけれども、しかし後半部分への伏線として最も重要な、デズデモーナの父ブラバンショーがオセローに叩きつける捨てゼリフ━━「父親を欺いたほどの娘だ、今に貴様をも裏切るかもしれんぞ」がちゃんと生かされているのはいい(この伏線場面はボーイト/ヴェルディのオペラにはないので、オテロが短絡的で単純な性格の人間というイメージが強くなってしまう)。

 ドラマはもちろん現代設定で、シェイクスピアの原作にある「人種差別意識」を浮き彫りにしているのが最大のポイントだ。といっても、オペラでのように、オテロの顔を黒人的にするなどということはやられていない。もっぱらセリフの中で描き出されているような、アラブ人に対するヨーロッパ人の差別意識と、それに対するオセローの焦燥感とのせめぎ合いにより、現代でもなお繰り返されている人種問題や、欧州とアラブとの確執がクローズアップされるという仕組みである。登場する男たちが、もちろんオセローを含めて欧州の軍服を着ていることも、現代の政治的状況を鋭く描くのに役立っているだろう。

 オセローを演じていたのはハンス・ケスティングという人。なかなかの風格である。イアーゴーはルーラント・フェルンハウツという人だったが、こちらはあまり個性的な存在を感じさせない。

 最初から最後まで緊迫感に満ちた、素晴らしい上演だった。私などはふだんのテリトリーの関係から、どうしてもオペラと比較しつつ観てしまうのだが、今回の舞台は、オペラの演出でも名の知られているヴァン・ホーヴェらしく、これをこのままオペラの舞台に持って行っても成り立つだろうと思えるくらい、演技の進行のリズムがいい。
 効果音の使い方にも同様のことが言える。台詞の背景に微かな音量で交じって来るシンセ的な音響の中に、オセローの心に嫉妬の疑いが兆す時、あるいは殺意が漲って来る時などに、それぞれ特定のリズムを含む響きが関連づけられ、まるでオペラにおけるライトモティーフのような作用をしているのが面白かった。

 これは2003年にアムステルダムで初演され、世界各地で上演されているプロダクションとのこと。今回は日本初演になり、この3、4、5日の3回のみの上演である。
 彼に日本で、思い切った演劇的演出によりオペラの舞台を手がけてもらえたら、さぞ素晴らしいだろう。

2017・11・3(金)ペルゴレージ:オペラ「オリンピーアデ」再演

      紀尾井ホール 3時

 2年前に好評を得た(2015年10月8日の項)、粟国淳演出の「オリンピーアデ」の再演を観る。
 オーケストラがこのホールのレジデント・オケ「紀尾井ホール室内管弦楽団」に替わったほかは、全て前回と同じキャスト。 河原忠之(指揮)、澤畑恵美(リーチダ)、向野由美子(メガークレ)、幸田浩子(アリステーア)、林美智子(アルジェーネ)、クリステーネ(吉田浩之)、望月哲也(アミンタ)、弥勒忠史(アルカンドロ)といった人たち。

 前回もそうだったが、今回も歌手陣が絶賛に値する。
 ズボン役の2人━━澤畑と向野は歌唱も舞台姿も演技も魅力満点で、申し分なく完璧である。
 女性役2人━━幸田と林も歌唱はいいが、ただ、あのオデコ丸出しの鳥の巣みたいな髪型は、中世のどこかの国のファッションのようで、何となく薄気味悪い。ホールのスタッフの説明によれば、「女性の焦燥を表わし、髪が逆立っているという演出の狙い」だというのだけれども・・・・。
 男性歌手3人も素晴らしく、弥勒は前回同様に卓越した完璧なカウンターテナーを聴かせ、望月も吉田も非常に迫力ある男声テナーを披露していた。

 粟国の演出については前回も書いたが、このややこしいストーリーをすこぶる解り易く視覚化していたと思う。たとえば台本の上では甚だ身勝手で横柄に見えるリチーダに、苦悩する青年としてとしての温かい表現を与えたのは成功であろう。これは更に、澤畑の微細な演技によって、同情すべき主人公として非常に印象深く描き出されていたのであった。
 一方、河原の指揮も安定、オペラにはあまり慣れていないであろう紀尾井ホール室内管弦楽団を巧みに制御していたという印象。

 今度の上演では、前回カットされていた「物語の伏線」の歌詞が、部分的ではあるけれども復元されていたため、ドラマの経緯が以前よりは解りやすくなっていたと思う。アリアもいくつか復活させられたと聞くが、これは前回の記憶がそこまでは定かでないので、何とも言い難い。ただ、前回の印象と比較して、舞台の流れが非常に良くなり、全てが明快・明解になっていたことはたしかだろう。「再演」ということの意義は充分である。
 ホールの規模にぴたりと合った作品の選定という意味をも含め、全てが理想的なバランスで構築されたオペラ制作と讃えてもいい。
 全3幕、休憩2回を含め、上演時間は3時間30分強。これは5日にも2回目の上演がある。

2017・10・30(月)作曲家の個展 一柳慧×湯浅譲二

    サントリーホール  7時

 ホール開館以来もう30年以上続けられている「作曲家の個展」のシリーズ。
 これまで「委嘱作品集」と銘打った何回かを除き、基本的には毎年1人の作曲家の個展が開催されて来たが、2人が一緒に組まれたのは、昨年の「西村朗と野平一郎」に続いて2度目ではないかと思う。だが、今回の一柳慧と湯浅譲二の組み合わせは、なかなか面白い。少なくとも今日演奏された作品に現われている2人の個性とその変貌が、すこぶる対称の妙を成しているように感じられるからである。

 前半に演奏された、一柳慧の「ピアノ協奏曲第3番《分水嶺》」は1991年の、湯浅譲二の「コンチェルティーノ」は1994年の、いずれもオーケストラ・アンサンブル金沢の委嘱作品だ。
 後半には2人の最新の「サントリー芸術財団委嘱作品」が予定されていたものの、一柳慧の「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」は完成されて予定通り演奏されたが、湯浅譲二の方は体調不良の時期があったため、「オーケストラのための軌跡」という作品が未完成で、今回はその最初(?)の2分ほどの長さの部分のみ演奏され、そのあとに、代わりとして1999年の「国際作曲委嘱シリーズ」での初演曲「クロノプラスティクⅡ~エドガー・ヴァレーズ讃」が再演された、というわけである。

 この「クロノプラスティクⅡ」は、湯浅がこの日のプログラム冊子に、「(初演の時の)演奏に満足していなくて、再演を望んでいた」と書いていたが、今回の杉山洋一指揮東京都交響楽団の演奏は、氏のお気に召したのであろうか(因みに初演の時の演奏は、岩城宏之指揮の東京交響楽団だった)。
 それにしても、湯浅の最新作の断片が非常に激しく鋭角的な曲想になっているのには驚かざるを得ず、彼の作風がもし大きく変貌しつつあるのなら、その完成版を期待して待ちたいところだ。

 なお今日は、「分水嶺」のピアノ・ソロは木村かをり、「ピアノ・コンチェルティーノ」のソロは児玉桃、「二重協奏曲」のソロは成田達輝と堤剛が受け持っていた。とりわけ児玉桃の清澄な音色の演奏は、「コンチェルティーノ」の曲想に見事に合致し、曲の美しさをいっそう鮮やかに再現させていた。

2017・10・29(日)河瀨直美演出 プッチーニ:「トスカ」

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 映画監督の河瀨直美が「トスカ」を演出するというのが、最大の興味だ。演出補として菅尾友の名が入っているものの、他分野の演出家がオペラの舞台を手がけるという試みは大いに歓迎したい。
 但し、オペラの慣習に妥協せず、自らの手法を徹底的に貫ければ━━だが。そこにちょっとでも遠慮があれば、それは途端に中途半端なイメージになって露呈するものなのである。

 今回の「トスカ」は、物語の場面を、古代日本に置き換えた。
 ステージには、社をかたどった大きな装置(柴田隆弘、重松象平)が置かれ、背景に富士山が浮かび上がり、堂守がそれに向かって、神道の儀式「二礼二拍一礼」を繰り返す。
 字幕にも「神官」とか「神々」といった訳語が現われる。複数の「神々」は、唯一絶対の神のキリスト教思想にはなく、ギリシャ神話か古代ゲルマン神話、日本の「八百万の神」思想などのものであることは周知のとおり。従って今回の舞台は、教会でなく「神殿」になる。
 悪役スカルピアは、警視総監ではなく、「新勢力の親衛隊長」と称され、圧迫される人々は「シャーマン」であり、トスカは「村娘」であるという。

 登場人物の名も、日本名を組み合わせたものになっている━━トス香(トスカ、ルイザ・アルブレヒトヴァ)、カバラ導師・万里生(マリオ・カヴァラドッシ、アレクサンドル・バディア)、須賀ルピオ(スカルピア、三戸大久)、アンジェロッ太(アンジェロッティ、森雅史)、堂森(堂守、三浦克次)、スポレッ太(スポレッタ、与儀巧)、シャル郎(シャルローネ、高橋洋介)・・・・といった具合。

 これは先頃の「フィガロの結婚」でも採られた命名法でもあるが、あのユーモア性の強いオペラと違い、何しろ「トスカ」は生々しいシリアスなヴェリズモのオペラである。緊迫したドラマが繰り広げられているさなかに、「カバラ導師を連れて来い」とか「行け、スポレッ太!」(正確な引用ではないかもしれないが)などという字幕が出ると、何だかずっこけてしまう。
 ローマを「牢魔」、アッタヴァンティを「熱田ヴァンティ」などとしながら、「ファルネーゼ宮殿」をそのままにしてあるのも中途半端だ。
 どうせ歌唱はオリジナル通りイタリア語でやるのだし、それなら名前もやはり全部オリジナルのままでやった方が、よほどすっきりするのではないか。二番煎じはうまく行かぬものだ。

 当然ながら、映像も使用される。第2幕で、スカルピアの残虐な想念が渦巻く瞬間には怒涛と水の動きが投映されるが、切り裂くように割って入るその映像は、ところによっては効果的だ。だが、悲劇の瞬間における華麗な花火は、どうみてもイメージ的に納得が行かぬ。
 最終場面では、音楽が暫時止まり、オリジナルに無い短い歌が挿入され、紗幕の向こう側にトスカが太陽に向かって飛び去って行く━━というより、のんびりと遊泳して行くような━━という映像に変わる。ここで物語は一気に幻想の世界に転じることになるのだが、その手法自体はともかく、ヴェリズモ・オペラをファンタジーで結ぶというのは、唐突過ぎて些か腑に落ちない。その前にさまざまな「幻想的な」伏線が置かれていたのなら、まだ説明がつくだろうが。

 演技は、第1幕ではオペラの様式的なパターンが見られ、映画監督らしい手法が発揮されていないのに不満が残ったが、それでも第2幕では、映画らしい「手荒な」演技も見られた。また、「須賀ルピオ」にパワハラされて反感を抱く「スポレッ太」が、「トス香」と「カバラ導師」に同情的な行動をとるとか、「歌に生き、愛に生き」に聞き入っていた「須賀ルピオ」が一瞬だが心を動かされるとかいった解釈は面白いだろう。だが総じて演技の面では、さほどの目新しい特色は見られない。

 結局、河瀨直美の演出は、このヴェリズモ・オペラを、シリアスなドラマとして捉えるのか、あるいは最終場面に象徴されるファンタジーの世界として捉えるのかが━━舞台装置などからすれば、どちらかといえば後者に近いような印象だが━━未だ何か手探り状態にあるように思われる。もうひとつ徹底したものが欲しい、といった印象なのである。
 場面状況の読み替えにしても、名前を変えたりするような小細工ではなく、もっと基本的な面での、画期的な発想が欲しかった。たとえば、「ノルマ」の舞台を、反乱軍のアジトの教会に置き換えたような大胆な発想(シュトゥットガルト上演)があれば、良かれ悪しかれ、もっと話題を呼ぶオペラ上演ができたであろうに、と思う。

 演奏は、広上淳一指揮東京フィルハーモニー交響楽団に東邦音楽大学合唱団、TOKYO FM少年合唱団。舞台手前の特設オケ・ピットにずらり並んだ大編成のオーケストラを、広上は極めて劇的にごうごうと響かせたが、2階席で聴いた範囲では、歌とのバランスは全く無理だ。オケの音が大きすぎるという意味ではない(そもそもオペラは、このくらいオケが鳴らなければダメだ)。
 問題はやはり、このホールで上演する作品の選定にあるのではないか。さまざまな作品を手がけたいという意欲は解るが、オケ・ピットの問題を含むホールの特質に合ったオペラを選ぶことも肝要ではないかと思う。もしくは、かつてパリ・オペラ座が「ボリス・ゴドゥノフ」の時に試みたように、オーケストラをステージ奥に持って行くといった手法を考えるか、だ。

 これは「東京芸術劇場コンサートオペラ」のシリーズではなく、「平成29年度全国共同制作プロジェクト」と題されたもの。既に新潟での上演を終り、このあと12月にかけて金沢、富山県魚津、沖縄でも上演される。東京と金沢公演は広上淳一が指揮し、その他の地では大勝秀也が指揮する。オーケストラと合唱団には、一部を除き、それぞれ地元の団体が起用される。

2017・10・28(土)ラドミル・エリシュカ、最後の日本公演

      札幌コンサートホールKitara  2時

 札幌交響楽団第604回定期公演、その2日目。この日がエリシュカの、正真正銘の告別公演である。
 ホワイエでは昨日からエリシュカのドキュメント写真集が展示され、またファンのエリシュカへの寄せ書きが行われている。さしものKitaraの広いホワイエも、昨日と今日は聴衆がひしめき合い、横切って行くのにも人をかき分けて歩かなくてはならないという大混雑ぶりである。

 プログラムは、もちろん前日と全く同じ。札響も、昨日よりは気分がほぐれたのかもしれない。「売られた花嫁」序曲では、昨日の硬さがなくなり、躍動感がぐっと増したように感じられた。とはいえ、このような軽い序曲においてもがっしりとした構築が為されているところが、エリシュカがただ温かさ、懐かしさだけで聴かせる指揮者ではないという一つの証明とも言えよう。

 その堂々たる構築の最たるものは、最後の曲目となった「シェエラザード」である。昨日の演奏にも増して重厚かつ壮大な演奏となり、アンサンブルのバランスも、完璧と言っていいほどのものとなった。
 遅いテンポで矯められた重厚なエネルギーを、最終楽章に至って全面的に解放するというのがエリシュカの「シェエラザード」の設計。クライマックスで全てのエネルギーを最強奏のシャリアール王の主題(Allegro non troppo e maestoso)に集結させた瞬間の演奏の豪壮さは、昨日のそれをはるかに上回る。

 音響の大きさや重量感や華やかさなどという点に限って言えば、この札響のそれを凌ぐものは世界にゴマンとあるだろう。だが、情感の豊かさや、演奏の真摯さという点では、今日のエリシュカと札響に勝る演奏がそうあるとは思えない。
 あらゆる意味で、私はこれほど誠実な演奏の「シェエラザード」を聴いたことがない。これこそが過去11年間、エリシュカと札響が相互の強い信頼のもとに音楽を紡いできた、その完結の演奏だったのである。

 とかく海外の指揮者や批評家から「合わせることには秀でていても、情感的な意味での共感に乏しい」と評されることの多い日本のオーケストラ━━遠い国の作品を演奏するのだから、ある意味ではやむを得ないことなのだが━━にとり、このように滋味豊かな音楽をつくり出す指揮者エリシュカは、実にかけがえのない存在であった。

 カーテンコールは昨日より長く、20分以上も続いた。菅野猛とエリシュカの2人への花束贈呈も昨日と同様に行なわれる。
 エリシュカへの花束は、トップサイドに座っていたもう一人のコンサートマスター、大平まゆみが、涙に咽びつつ捧げる。エリシュカと彼女の温かい抱擁に、客席の拍手が大きく揺れる。女性楽員の何人かも涙を拭いている。
 客席は、今やほとんどが総立ち。今日が本当のお別れとあって━━われわれ聴衆にとっては、多分これがエリシュカとの「今生の別れ」になるのだ━━拍手と歓声はなお止まない。楽員たちが引き上げた後にも、エリシュカは独りステージに呼び戻される。ブラヴォーの歓声の中で、エリシュカも胸に両手を当て、時に顔を覆って涙をこらえるといった様子で、ステージを取り囲む客席のあちこちに向かい、答礼を長いあいだ繰り返す。

 やがてエリシュカは、手を振りながら次第に下手側袖に歩みを進めて行き、なおも名残惜し気に何度か立ち止まっては、繰り返し聴衆に手を振り続けた。そしてついにその姿は、ゆっくりと扉の彼方に消えて行った。
     →別稿 モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

2017・10・27(金)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団

     札幌コンサートホールKitara  7時

 チェコの名指揮者ラドミル・エリシュカの、これが日本お別れ公演。11年前に初めて客演し、それが日本での超人気のきっかけとなったという意味でゆかりの深い札幌交響楽団との最後の定期公演である。2回公演の、今日が初日だ。

 プログラムは、スメタナの「売られた花嫁」序曲、ドヴォルジャークの「チェコ組曲」、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。
 ちなみに後半のプログラムは、当初はベートーヴェンの「英雄交響曲」の予定だったが、これが告別公演となったため、エリシュカの希望で、最初の客演(2006年12月1日)で指揮したゆかりの曲「シェエラザード」に変更されたと聞く。

 「売られた花嫁」序曲は、緊張感のせいか、なにか異様に肩肘張った感のある演奏で、ユーモアの全くない「売られた花嫁」になってしまっていたが、「チェコ組曲」の第2曲(ポルカ)あたりから、温かさ、優しさ、懐かしさといった、エリシュカの指揮するドヴォルジャークならではのカラーが蘇って来る。第4曲(ロマンス)と第5曲(フリアント)では、その良き特徴は存分に発揮されていた。日本のオーケストラからこれだけの郷愁美を引き出せる指揮者は、エリシュカを措いて他にいないのではないか、とさえ思わせた情感豊かな演奏である。

 「シェエラザード」では、エリシュカは緩徐個所で非常にテンポを遅く取り、じっくりとオーケストラを歌わせた。
 冒頭の「シャリアール王の主題」でさえ、威嚇的で荒々しい王の姿というより、何か満たされぬ苦悩に打ちひしがれている王を描くかのように、重々しくゆっくりと演奏される。続くシェエラザードの主題も、ソロ・ヴァイオリンが極めて遅いテンポで歌う。これもまるで、艶めかしく王をなだめるというより、共に憂いに沈みつつ語りかけるシェエラザードといった雰囲気だ。あの華麗な交響組曲が、まるで抒情的な交響詩のような趣を呈していたところもある。
 だが、いったん劇的な場面━━たとえば第4楽章の嵐と難破のくだりなどになると、海の嵐の音楽が煽りに煽られ、ついにシャリアール王の主題による大頂点に達するまでの推進力が凄まじい。見事なものだ。

 札響も渾身の演奏を聴かせてくれた。コンサートマスターの田島高宏をはじめ、チェロ、ヴィオラ、木管、金管など、各パートのソリ陣が冴えた。トゥッティにおけるアンサンブルのバランスの良さも、特筆されて然るべきだろう。

 カーテンコールの中では、32年8カ月にわたりホルン奏者を務めて定年退職するというホルン奏者の菅野猛に花束が贈られるというセレモニーもあった。札響の定期会員はそのあたりのことをよく知っているわけだろう、彼に対してもエリシュカへのそれに劣らぬ大きな拍手を贈っていたのが印象的である。そのあとで今度はコンサートマスターの田島が劇的(?)な身振りでエリシュカに花束を捧げるというセレモニー。カーテンコールは実に15分近く続き、客席のあちこちでスタンディング・オヴェーションが起こっていた。
       →別稿 モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

2017・10・23(月)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 特別客演指揮者プレトニョフが指揮する東京フィルハーモニー交響楽団のサントリー定期。

 プログラムがユニークだ。前半に、グリンカの「カマリーンスカヤ」、「幻想的ワルツ」、「皇帝に捧げし命」より「クラコヴィアク」、ボロディンの「中央アジアの草原にて」、リャードフの「魔法にかけられた湖」「バーバ・ヤガー」「キキーモラ」。
 後半はリムスキー=コルサコフの作品で、「雪娘」組曲、「見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語」組曲、「皇帝サルタンの物語」組曲。
 ━━ロシア音楽を集めた演奏会は数々あるが、こういう選曲で行なわれたものは、少なくともわが国では例がないのではないか。その意味でも、これは非常に意欲的な企画である。

 そしてまた、プレトニョフの音づくりの巧さにも舌を巻かされた。
 たとえば後半だが、リムスキー=コルサコフの管弦楽法の鮮やかさは常々承知しているけれども、巧みな指揮者の手にかかると、それがいっそう浮き彫りになる。特に「キーテジ」では、華やかな色彩と、その上にヴェールがかけられたような翳りとが共に描き出された。こういう「魔術的な」演奏は滅多に聴けるものではない。
 眼を閉じて聴いていたら、かなり前にマリインスキー劇場で観た上演(ゲルギエフ指揮)での、紗幕の向こう側にキーテジの街が幻想的に現われたり消えて行ったりしたあの舞台の夢のような美しさが、まざまざと脳裏に蘇って来たのだった!

 東京フィルが、そういう色彩感を、また実に見事に再現していた。これまで数限りなく聴いて来たこのオケの演奏の中でも、これは卓越したものと言っていいだろう(これだけステージの上でオペラの音楽を素晴らしく演奏できるオケが、何故ピットの中でも同じように出来ないのか、いまだに解けぬ謎である)。
 アンコールには、「皇帝サルタンの物語」からの演奏会用組曲には含まれていない有名な「熊蜂の飛行」が演奏された。これまた軽やかで急速な、素適な演奏だった。
     ☞別稿 モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

20017・10・22(日)山田和樹指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

     仙台銀行ホール イズミティ21・大ホール  3時

 早朝に衆院選の投票を済ませ、仙台へ。当初の予定ではゆっくり1泊する計画だったが、台風が来るとあって、早々に逃げ帰る。
 聴きに行ったのは、山田和樹指揮、仙台フィルの特別演奏会だ。プログラムは、シベリウスの「カレリア」組曲と「交響曲第2番」、その間にグリーグの「ピアノ協奏曲」がキム・ヒョンジュンのソロで演奏された。コンサートマスターは神谷未穂。

 このホール、前回行った時にも書いたが、残響がほとんどないので、オーケストラの音色に潤いも余情も感じられなくなるという傾向がある。オーケストラだけではない、ピアノも同様だ。
 今日はピアノの位置が影響していたのかどうかは分からないけれども、音は非常に綺麗ではあるが、細くてふくらみがなく、しかも客席中央で聴いた範囲では、音がまっすぐこちらに来ず、オーケストラの中に埋もれてしまうという結果になっていて、首をひねった。

 このキム・ヒョンジュンという未だ20代半ばの女性は━━昨年の仙台国際コンクールで優勝した時には残念ながら聴いていないが、素晴らしい演奏だったという評判だし、CDで聴いてもすこぶる魅力的な演奏をする人なのに、今日は楽器の問題でもあったのか。アンコールに弾いたチャイコフスキーの「秋の歌」でも、音の透明な美しさと感性の瑞々しさは充分に伝わって来たけれども、いまいち何か「遠い」。いずれにせよ今日の演奏における印象は、彼女の本領を理解するには適さなかったようである。

 しかし、山田和樹と仙台フィルのほうは、そうしたこのホールの不備なアコースティックを解決するべきテクニックを心得ているらしく、巧みに音のバランスを取って演奏していた。「カレリア」の「間奏曲」の弦の刻みなど、かなり強調されてはいたが、面白い。
 また、アンコールでのシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」での弦の瑞々しく力強い響きは、聴き応えがあった(アンコールに、「悲しきワルツ」などでなくこの曲を、しかも「アンダンテ」のテンポで演奏してくれたことは有難い)。

 「第2交響曲」ではかなり激しい感情の吐露が聴かれたが、これもこのホールの音響的不備を補って余りある見事な演奏だったと思われる。
 ただ、こういう響かないホールでは、ピアニッシモは、少し大きく演奏してくれないと、聞こえなくなるものだ。第3楽章でのティンパニのパウゼを挟んでの一打、あるいは第2楽章初めの低弦のピッツィカートなどがその例である(このピッツィカート、チェロ・セクションには些か不満が残る)。

 山田和樹のプレ・トークは、相変わらず客への語りかけが巧く、見事だ。しかも終演後には自らホワイエに出て来て聴衆との交流を図るという、サービス精神満点の活躍。彼は今年春でミュージック・パートナーのポストを辞しており(2017年3月28日の項)、今後しばらくは客演の機会がないかもしれないということで、このようなお別れの挨拶になったのだろうと思われる。彼は、オーケストラとの間に温かい雰囲気をつくり出すことのできる数少ない指揮者のひとりであると聞く。

 9時4分の「はやぶさ」で帰京。仙台も雨足が強かったが、東京はすでに豪雨の台風状態。

2017・10・21(土)佐渡裕指揮ケルン放送交響楽団

     兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  2時

 東京公演はスケジュールが合わず聴けないので、当面の佐渡裕の本拠地ともいうべき、西宮のホールで聴くことにした。日本ツアー(8回)の初日である。
 プログラムは、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」、シューベルトの「未完成交響曲」、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」。今回の日本ツアー(休み1日を含め9日間)は、全てこの同じプログラムで行なわれる。

 演奏は、いかにも佐渡裕の指揮の特徴が出ていて、ある意味ではダイナミックなものと言えよう。「5番」ではそれが効果を発揮していたが、しかし必ずしも力任せというのではなく、第1楽章など、彼が演奏の構築を野放図なものにせず、造型性を重んじて指揮していることがはっきり解る。このあたりも、昔の彼とは変わって来ている点であろう。

 「未完成」も、ロマンティックな表現を排し、剛直に構築する。第1楽章最後の音をディミニュエンドにせず、最強音のまま決然と閉じるという、例の版を使用しての演奏だから、いっそうその印象が強くなる。
 ただ、彼はプログラム冊子掲載のコラムで、「できるだけ室内楽的に演奏したい」と述べているのだが、実際の演奏は、どう聴いても室内楽的には感じられないのである。第1楽章には、むしろ豪刀を振るって切りまくるような印象も無いではなかった。それでも、最弱音による叙情的効果には極めて神経を行き届かせていたことは理解できた。

 なお、全曲を支配する神秘性の象徴ともいうべき冒頭の低弦のニュアンスが、遅れて入場して来た女性客の靴音に妨げられ、明確に聴き取れなかったのは、返す返すも残念である。ただしこれは、演奏がすでに始まっているにもかかわらず、その客を1階最前列まで延々と誘導して行った女性レセプショニストに責任があるだろう。非常識の極みである。

 アンコールは、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲。いつぞやのオペラ上演の時と同じく、大波のような演奏。
 ケルン放送響の演奏は、今回は些か粗っぽい。メンバーリストは冊子に掲載されていない。
 6時前の新幹線で帰京。

2017:10・20(金)ラドミル・エリシュカ指揮大阪フィル

     フェスティバルホール(大阪)  7時

 チェコの名匠、ラドミル・エリシュカ最後の来日。大阪フィルへの最後の客演、2回公演のうちの最終日。
 ドヴォルジャーク・プログラムで、「伝説曲」から最初の4曲、「テ・デウム」、「交響曲第6番」。
 「テ・デウム」での合唱は大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指揮は福島章恭)、声楽ソリストは木下美穂子と青山貴。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 エリシュカが指揮棒を振り始めると、「伝説曲」の第1音からもう、ドヴォルジャーク独特の郷愁の音楽が、大阪フィルからあふれ出て来る。どこからこういう魔術が生まれて来るのだろう。大阪フィルの演奏会は最近しばしば聴いているが、これほど温かい演奏は滅多に聴いたことがない。音色には全体としてもう少し美しさを期待したいが、メンタルな音楽という意味では、今日は完璧ともいえるほどの演奏だった。
 「第6交響曲」の第3楽章のトリオなど、こんなに懐かしさを感じさせる曲想だったかと━━。「テ・デウム」の大合唱も、2人の独唱者も、みんなヒューマンな感情に満たされつつ歌っていたように感じられる。

 しかもその一方では、その第3楽章(スケルツォ)の終結でテンポを速めて追いあげて行く呼吸といい、フィナーレ後半でみるみる感情が激して行くかのように昂揚を重ねて行くエネルギーの凄まじさといい、並みのものではない。この「6番」、こんなに迫力のある曲だったかと━━。

 こういう温かさと気魄とを併せ持つ演奏を聴かせてくれる指揮者は、今日、ほかにいるかどうか。その意味でもラドミル・エリシュカは、当節では卓越した存在と言って過言ではない。
 終始立ったままで指揮、その身振りも壮者をしのぐ活発さだ。86歳とは思えぬようなパワーである。事務局から聞いた話では、「テ・デウム」の練習の時など、指示を出すその大声は、轟々と鳴るオケを突き抜けてコーラスにまで届いていたとか。今日のカーテンコールの際にも、ステージの袖から走って登場するといった、すばらしく元気な様子を誇示していた。とてもこれが、高齢の指揮者のお別れ公演には見えない。
 エリシュカが医者から禁じられたのは、演奏活動ではなく、飛行機の長旅だけだそうである。だが彼は、もう一度だけ日本でお別れ公演をしたいという自らの想い止みがたく、指揮回数をある程度制限した上で、今回の「最後の日本客演」を敢行したのだという。

 フェスティバルホールの聴衆は意外におとなしかったが、それでも最後には総立ちの拍手でエリシュカを見送った。どちらかといえば、会場ではオーケストラの楽員よりも客席のほうがエリシュカを惜しんでいたような印象だったが・・・・。
 今週末には札響との演奏会がある。エリシュカとは最も結びつきの強い札響だから、きっと感動的な光景になるのでは。

2017・10・19(木)飯森範親指揮東京シティ・フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 飯森範親が客演してのチャイコフスキー・プログラム。「イタリア奇想曲」、「ロココ風の主題による変奏曲」(チェロは岡本侑也)、「交響曲第4番」。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 「イタリア奇想曲」では、本来は非常に闊達なはずの曲が、特に前半は何か流れが悪くて重く、パウゼにも生きた緊張が感じられず、ノリが悪かったのは不思議。

 しかし交響曲になると、飯森は予想通り、東京シティ・フィルを思い切り解放的に、ダイナミックなパワーを弾き出して響かせた。シティ・フィルも、いつもとはやや趣を変え、元気いっぱいに鳴り渡った。
 それ自体はいいのだけれど、その一方、しばしば音が濁り気味になり、しかも金管の一部にミスが続出するとあっては、何だか力任せで乱暴な演奏という印象の方が強くなってしまうのである。折角の熱演も、あだ花になるだろう。

 それに、これは意図的なのかどうかわからないが、第1楽章では弦の主題よりも背景を彩る管楽器群の動きが妙に強く演奏されるところが2個所ばかり、目立った。私はもともと、そういう手法は大いに楽しむクチなのだが、ただ今回に限っては、そこの音楽が何とも混沌たる響きしか生まなかったことに、腑に落ちぬものを感じた次第である。

 そんなこともあって、残念ながら私には、今日の演奏は、飯森範親にとっても、シティ・フィルにとっても、必ずしも成功とは思えなかった。今の段階では、このオケには、やはり丁寧に手堅く演奏させる指揮者が合っているのではないかという気がする(その意味では、高関健を常任指揮者に迎えていることは、最良の方法だったと思われる)。

 なお、「ロココ風の主題による変奏曲」では、先頃エリザベート王妃国際コンクールチェロ部門で第2位になり、俄然注目を集め始めた新鋭、岡本侑也の演奏が見事。清澄で端整で気品のあるソロは、とても23歳の若者とは思えぬくらいだ。逆に言えば、その若さでありながら、あまりに整い過ぎた演奏を聴かせる「完成度の高さ」にはやや戸惑いを覚えてしまうし、先日の読響と協演したドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」における「真面目一方」の演奏とも共通する一種の物足りなさを感じてしまうのだが━━しかしいずれにせよ、前途に大きな期待を抱かせる若手であることには、疑う余地はない。
 それにアンコールでは、バッハなどを弾くありきたりのアンコールでなく(バッハの組曲が悪いというのでは毛頭ないが)、ジョヴァンニ・ソッリマの「ラメンタチオ」という、部分的に自らのヴォーカルを交えつつ演奏する傑作な作品を取り上げるあたり、若者らしくて頼もしい。

2017・10・18(水)「リチャード3世」

      東京芸術劇場 プレイハウス  6時30分

 「リチャード1世」を主人公にしたオペラはヘンデルが書いているが、稀代の悪王といわれる(ではないという説もある)リチャード3世を主人公にしたオペラなんてあるのかしら? 少なくとも「VIKING OPERA GUIDE」には載っていないようで。

 然り、これはシェイクスピアの有名な戯曲の方で、木下順二翻訳台本に基づく日本語上演である。今回はシルヴィウ・プルカレーテによる台本が使用され、彼自身の演出により上演されている。舞台美術と衣装はドラゴッシュ・ブハジャール、音楽がヴァシル・シリー。
 今月30日まで東京芸術劇場で、そのあと大阪、盛岡、名古屋でも上演されるとのこと。前日のプレビュー公演を経て、今日が初日だった。

 キャストはすべて日本人。リチャード3世を佐々木蔵之介が演じ、妻アンを手塚とおる、ヘンリー6世夫人マーガレットを今井朋彦、エドワード4世夫人エリザベスを植本純米、クラレンス公を長谷川朝晴、バッキンガム公を山中崇、ほか・・・・と、つまりオールメール━━男が女の役もやる、という例のスタイルだ。紅一点として、「代書人」という「陰の切り回し役」に渡辺美佐子が出演している。

 佐々木蔵之介はTVドラマでおなじみの人だから、彼がこういう物々しい悪役をどのように演じるか大いに興味があったが、この舞台では、ごく普通の青年がいつの間にか「王」になっているという感で、つまり抜きん出た存在にはなっていないところが、物足りないというか、何というか・・・・。
 それが演出の狙いだというなら、この「リチャード3世」は、かなり軽いものに感じられるのだが、このへん、演劇批評は私の及ぶところではないから、やめておく。

 シェイクスピアによる台詞をほぼそのままに、シチュエーションを全く変えると、オペラの読み替えと同じように、舞台は16世紀のイングランドから離れて、現代風になる。
 歌とダンスも入る。冒頭のリチャードのモノローグ「漸く不愉快な冬が去り、ヨークの太陽に輝く夏が来た・・・・」の場面や、終り近く亡霊たちが彼を脅かす場面では、ミュージカルのような趣になる。それはそれで面白い。

 リチャードが王位に就いてから以降は次第に彼のモノローグが中心になるのは、彼の「孤独」を表わすためだろうか。ただ、そのあたりからは少し台詞が聴き取りにくくなるのは、PAの使い方の問題か。そしてまた、舞台に少し緊張感が希薄になって来る。
 有名な「馬を持って来た者には王国をやるぞ!」の場面は、戦闘シーンが全くないので、すべてリチャードのモノローグの中に含まれるのだが、彼がいきなり剣を片手に「馬を・・・・馬を・・・・」と言いはじめるあたりはあまりに唐突だし、言葉もはっきりしないので最初は何を言っているのか判らなかったが、「王国なんかくれてやる」という言葉が入って、初めて例の名セリフの場面に入っているのかと理解できた次第だ。映画のローレンス・オリヴィエのような大芝居ではなく、演出もあまりそこには重きを置いていないのかもしれない。
 リチャードがピストルを頭に擬したところで幕が下り、暗黒の中で銃声が聞こえて終りとなる。
 休憩15分程度を挟み、9時15分終演。

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