2018-12

2018・12・12(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 先週土曜日の横浜公演に続いて聴く。今日はモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ヒラリー・ハーンをソリストにしたバッハの「ヴァイオリン協奏曲」の「第1番」と「第2番」、後半はシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」。
 指揮者とオケのシャープな感性をいかんなく発揮した、見事な演奏であった。

 「ドン・ジョヴァンニ」序曲での冒頭は、切り込むような鋭い一撃で開始。もしオペラ上演のピットで、この曲がこういう劇的な演奏で開始されたとしたら、きっと興奮に引き込まれることだろう。遺憾ながら、歌劇場ではなかなかそういう演奏に巡り合えないのだ。
 なお、この曲で今日使用されたエンディングは、「ベーレンライターの演奏会用版」であるとのこと。いかにも付け足し、という感じのものだが、この終結版に関してはいろいろ複雑な問題があることは周知の通り。

 バッハの協奏曲2曲は、今日はこれを目当てに聴きに来た、という人も少なくなかったのではないか。さすがヒラリー・ハーン、一分の隙も無い集中性豊かな構築の裡に、瑞々しい表情で弾いてくれた。先日もムターによる対照的な、流麗この上ない「2番」を聴いたばかりで、あれも一家言ある演奏には違いないが、私の好みは圧倒的にこちらヒラリー・ハーンのようなスタイルにある。
 なお彼女はソロ・アンコールとしてバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」から「ブーレ」と「ルール」を弾いた。「2曲も弾いた」わけだが、こういう演奏であれば2曲でも3曲でもいいだろう、と勝手に決め込む。

 モーツァルトの序曲からバッハの協奏曲へと続く音楽の流れを、パーヴォとドイツ・カンマーが実に見事に形づくっていたのには感心した。これは、プログラミングの巧さの好例であろう。

 「ザ・グレイト」は、横浜での印象と同じ。ただ、アコースティックがみなとみらいホールとは全く異なるので、クレッシェンドなどにおける響きがいっそうリアルに聞こえ、演奏に鋭さと力感がさらに増した印象になった。第4楽章提示部を除いて反復指定個所は全て楽譜通りに守った演奏だったが、テンポが速いので演奏時間はさほど伸びていない。

 アンコールでは、パーヴォとオーケストラは、またまたシベリウスの「悲しきワルツ」を演奏した。これは先週の横浜でも演奏していた曲である。シベリウスが悪いというのではない(私は大のシベリウス愛好者だ)が、曲の性格からして、メイン・プログラムにはどう見ても合わない。こちらの方は、いわばプログラムの流れの悪さの好例であろう。
 ただし、演奏としてはかなり「尖った」ワルツになっていて、ユニークで興味深いものであったことは確かである。

2018・12・11(火)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  7時

 首席客演指揮者のアラン・ギルバートが、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、シューマンの「交響曲第1番《春》」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を指揮した。

 アラン・ギルバートと都響は、7年前(2011年7月17日)の初共演以来、相性がいいようである。彼は先日のNDRエルプ・フィル日本公演でも指揮しているが、今日の都響はそれよりもずっとドイツのオーケストラのイメージを連想させるような、重厚な雰囲気を醸し出していた。「フィンガルの洞窟」も「春の交響曲」も、陰翳の濃い音色で緻密に構築されていた。それは生真面目に過ぎる印象もなくはなかったが、極めて手応えのある演奏であった。

 「春の祭典」の方も、最初は何となく穏健で重々しい指揮に感じられ、ずっとこの調子で行くつもりなのか、と実はヒヤリとしたのだが、そのうちじわじわと力感が加わって行き、「重厚壮大な春の祭典」となって行った。第1部終結近くの「大地への讃仰」で、タムタムをあれだけ大きく叩かせた演奏に出逢ったのは初めてである。それでも全体としては、どちらかといえばやはりアンサンブルを重視して均衡を保たせた音構築の、正攻法による「春の祭典」だったように思う。
 都響も好調。コンサートマスターは矢部達哉。

2018・12・9(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団「フィガロの結婚」

       サントリーホール  1時

 昨年の「ドン・ジョヴァンニ」に続くノット&東京響のモーツァルトのオペラ。一昨日の川崎に続く、今日が2回目の公演。歌手たちがオーケストラの周囲を動き回って繰り広げる演技を含ませた、演奏会形式上演である。

 その歌手の顔ぶれは、マルクス・ヴェルバ(フィガロ)、リディア・トイシャー(スザンナ)、アシュリー・リッチズ(アルマヴィーヴァ伯爵)、ミア・パーション(伯爵夫人)、ジュルジータ・アダモナイト(ケルビーノ)、アラステア・ミルズ(バルトロ&アントニオ)、ジェニファー・ラーモア(マルチェリーナ)、アンジェロ・ポラック(ドン・バジリオ&ドン・クルツィオ)、ローラ・インコ(バルバリーナ)。
 それに新国立劇場合唱団、コンサートマスターは水谷晃、レチタティーヴォのハンマー・フリューゲル演奏はノット自身。演出の監修はアラステア・ミルズ(マイルズ)が担当した、とクレジットされている。

 歌手陣は、マルクス・ヴェルバを筆頭に粒のそろった素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。
 伯爵役のリッチズも、声不調との事前アナウンスがあったものの、声をセーヴしつつ破綻なく謳い上げていた。ジェニファー・ラーモアも、ふだんは省略されるマルチェリーナのアリアを実に鮮やかに歌い上げ、さすが練達の味、という感である。
 これらの優れた歌手たちが均衡豊かなアンサンブルをつくり出していたことも、演奏の成功の一つの大きな要素であったろう。また、必要最低限の演技においても、指揮者ノットをも巻き込んでの表現力豊かなステージを繰り広げてくれたのである。

 そのノットの指揮も、東京響の演奏も、今日はまさに卓越した演奏だった。
 弦が小編成(6-6-4-3-2)のため、2階席最前列正面で聴いた印象では、東京響の音は全体にヴェールのかかったような柔らかいものになり、響きの重心もやや低いところに置かれたように聞こえた。
 だが、ノットの軽快で飛び行くようなテンポは、沸き立つ生命力に富む音楽をつくり出していた。25分の休憩を一度入れての終演は4時25分だったから、テンポの速さもなかなかのものだ。

 音づくりは、予想外になだらかで柔らかいが、メリハリがないということでは決してない。第3幕での娘たちの合唱(第21番)の、グラツィオーゾと指定された序奏での特に第1ヴァイオリンは、スラーの指定に従い、微風が吹くような優しさで奏されたのが印象的だった。 
 総じて、これほど率直で爽快な演奏の「フィガロの結婚」も、そうは多く聴けないだろう。ノットと東京響、絶好調だ。

2018・12・8(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

      横浜みなとみらいホール  3時

 一昨日の教会でのトークを聴いた際に、教会特有の固いベンチに1時間近く座っていた所為か、あるいはそれに冷えが加わった所為か、昨日から腰痛が再発し、昨夜は寝返りも打てぬほどの激痛に悩まされた。そのため今日の昼には、ある素適な会食を棒に振る羽目になったが、午後には少し体調が回復して来たので、頑張って横浜までこの演奏会を聴きに行ってみる。

 パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団)は、最近シューベルトの交響曲の演奏に力を入れ出したそうだ。ただし今回のツアーでは、全曲ツィクルスではなく、「第5番変ロ長調」と、「第8番ハ長調《ザ・グレイト》」が取り上げられた。それが今日のプログラムである。

「従来のロマン派寄りの美化された演奏スタイルではなく、むしろベートーヴェンの側からシューベルトの音楽にアプローチしたいと思っています」というのが、公演チラシに印刷されているパーヴォ・ヤルヴィのコメントであった。
 これは、言葉通りの簡単な解釈で片づけられる類の問題ではないけれども、ともあれ彼のコメントに基づき、例えば古典派音楽の流れを汲む端整な、優れた形式性を重視する厳密な構築が当て嵌められたシューベルトの音楽━━という解釈に立てば、今日の演奏はそのコメントに相応しいものであったろう。
 「第5番」では清楚ですっきりした、まさに端整な美しい演奏が聴かれた。

 一方「ザ・グレイト」では、大きなスケールとエネルギーを備えた、闊達な音の運動といったイメージが感じられた。
 第1楽章冒頭のホルンの主題にせよ、提示部と再現部の終り近くで入って来る3本のトロンボーンによるモティーフにせよ、あるいは第2楽章中ほどでのあのホルンと弦との秘めやかな応答にせよ、夢幻的とか彼岸的とかいった世界とは対極的なイメージで演奏されている。快く流れて行く安定したテンポの中に、時には1小節ごとに、あるいはフレーズごとに、細かいデュナミークの変化が━━漸強と漸弱が繰り返されるなどの変化が付され、また時には内声部が浮き出させられながら多彩に構築される。

 その演奏は、まさにスウィングしているという表現がぴったり来るものだったであろう。私はこの曲に関する限り、あのフルトヴェングラーの夢幻性豊かな指揮に今なお憧れを感じるのだが、その一方で、このパーヴォ・ヤルヴィのようなスタイルにも魅力を感じてしまうのである。
    (別稿)モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews
 この演奏会のあと、本来はサントリーホールへポゴレリチのリサイタルを聴きに行く予定だったのだが、彼のあの演奏を、こんな腰痛の体調のさなかに聴いたらどんなことになることやら。諦めて主催元へ欠席の連絡を入れる━━。

2018・12・7(金)沼尻竜典指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 最初にベルクの「ヴォツェック」からの「3つの断章」が、エディット・ハラーのソプラノを交えて演奏され、次いでマーラーの「交響曲第1番《巨人》」が演奏された。コンサートマスターは客員の白井圭。

 この11月下旬から12月中旬にかけて、不思議にこの「巨人」がかち合う。もともとふだんから演奏される機会の多い曲だが、今回もメータとバイエルン放送響が取り上げ、ゲルギエフとミュンヘン・フィルも演奏、更にこのあとにもハーディングとパリ管のが控えているというわけである。

 そうした外国のオケの演奏と比べると、今日の「巨人」は、やはり日本のオケの特色がよく出ている演奏だなと、つくづく思う。すっきりした、アクの抜けた、あまり骨太ではないサウンド。そして少し淡白な表情。アンサンブル重視の演奏。
 だがもちろん、これは別に悪いことではない。比較すればそういう印象になるだけのことである。同じ劇的な昂揚、同じ熱狂の表現にしても、沼尻と日本フィルのそれは、やはり西洋の指揮者やオケとは異なるタイプのものなのであって、そこにお国柄の演奏というものの面白さが生れるのであろう。

 しかし今夜、沼尻と日本フィルの音の美しさが最も見事に発揮されたのは、むしろ「ヴォツェック」からの「3つの断章」においてだったであろう。この作品が、かくも美しく、繊細なオーケストレーションを持つものだったか、透明で清澄な音楽なのだったのかと、今さらのように驚かされた。アルバン・ベルクの音楽の思わぬ一面を引き出してくれたということで、これは実に貴重な体験だった。
 びわ湖ホールやリューベック歌劇場のシェフとしてキャリアを積んで来た沼尻竜典は、今やこういう新鮮なオペラの演奏を聴かせてくれているのである。

 またこの曲では、ソプラノのエディト・ハラーが、マリー役を極めて清純なキャラクターのイメージで再現してくれた(少なくともそう聞こえた)。歌っていない時にも、オーケストラの演奏に合わせて微細な顔の表情の演技を付加し、その音楽の劇的な意味を描き出そうとしていたのも素晴らしかった。
    (別稿)モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2018・12・6(木)松本零士のトーク・イヴェント

    トランクホテル(渋谷) 教会  6時

 そのユニバーサル・ミュージックから、ドイツ・グラモフォンのセレブレーション・イヴェントとして、松本零士の新刊「不滅のアレグレット」(集大成版)などの発売に絡めたトークショウがあるという案内を受け、出向いてみる。

 松本零士といえば、かつて「FMレコパル」というFM週刊誌(隔週発行、小学館)にクラシック演奏家を主人公にしたコミックを連載して評判を取ったほどのクラシック・マニアである。その中のカラヤンを扱った物語(注)などは私も大いに気に入ったものだった。 
 トークのあとには、桐朋の「子どものための音楽教室」に通う小学5年生の伊藤素子の演奏もあった。

(注)カラヤン狂の美女妻と、プラモデル狂の野獣的ダンナが反目し合ううち、カラヤンが日本製の飛行機を買うとか買ったとかいう噂を聞いて仲直りする傑作コミック。「偉大なヘルベルト・フォン・カラヤンはこの小さな部屋にもまた安らぎをもたらした」と結ばれるラストシーンには、1975年の雑誌発売当時、私共大いに(良い意味で)笑ったものだった。今回の新刊にも再録されている。

2018・12・5(水)ドイツ・グラモフォン創立120年スペシャル・ガラ
小澤征爾、ムター、サイトウ・キネン・オーケストラ

     サントリーホール  7時

 小澤征爾が、アンネ=ゾフィー・ムターをソリストにサイトウ・キネン・オーケストラを指揮し、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」を演奏━━3者の協演は、演奏会の最後に置かれたこの1曲だけだったが、それでもこの演奏はこの日のハイライトであり、これだけでも今日の演奏会としては充分とさえ思えるような、豪華な雰囲気をつくり上げていた。

 何しろ、小澤征爾が指揮しはじめるだけで、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏が一瞬にして引き締まり、瑞々しい音色と緊迫感に富む表情に変わってしまう。いや、オケだけでなく、ムターまで顔つきも演奏の精密度も別人のように引き締まってしまうのである。
 ともあれ、小澤さんが元気で指揮してくれていれば、それだけで聴衆は安心する。指揮台に置かれた椅子を時々使い、舞台袖との往復も腰の痛みの後遺症を示す姿ではあったが、時に小走りになってみせる歩き方などは、昔に変わらぬ若々しい気魄を示すものであった。

 なお、ムターが登場したのは演奏会の第2部のみ。自らの弾き振りでバッハの「ヴァイオリン協奏曲第2番」を演奏、次にディエゴ・マテウスの指揮とともにベートーヴェンの「ロマンス第1番ト長調」を演奏した。
 そしてマテウスは、第1部でもチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」と、「交響曲第5番」とを指揮した。彼はこのオケを既に何度か振っている━━今年夏にも指揮しているが、私が聴いたのは2011年のチャイコフスキーの「第4交響曲」以来かも━━けれども、今日はすこぶる情熱的な指揮とはいえど、勢いに任せた演奏という印象がなくもない。

 今日は第2部のみ、天皇・皇后両陛下が臨席されていた。こちらも同じRB席をあてがわれていたので久しぶりで間近に拝見したが、このホールの2階席の階段の段差はかなり大きいので、座席との往復には苦労なさったのではないかと思う。

 この演奏会は、ドイツ・グラモフォン創立120年云々と謳われていた。ただし、主催のグラモフォン(共催はユニバーサル・ミュージックとサイトウ・キネン財団)は、それを一般客に向かってことさら強くアピールする雰囲気はなく、いわゆるお土産袋(?)を配るわけでもなかったようである。
 ただし、パーティに出席する特定の招待客に対しては、かなり手厚いもてなしがなされていたようで、場内アナウンスは何度も「VIPの皆様は・・・・をお受け取り下さい」と繰り返していた。「日頃のご愛顧」についての考え方にもいろいろあるらしく━━。

2018・12・3(月)ロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ「うたかたの恋」

     東宝東和試写室  6時

 英国ロイヤル・オペラ・ハウスで10月15日に上演されたバレエ「うたかたの恋」(原題は《Mayerling》)のライブ映像を観る。

 これは1889年に男爵令嬢マリー・ヴェッツェラと謎の情死を遂げたオーストリア皇太子ルドルフ(いわゆるマイヤーリンク事件)を主人公とした壮絶な物語で、ケネス・マクミランの振付がまた劇的この上ないステージをつくり出している。大怪我を克復して復活したスティーヴン・マックレ―が踊る皇太子の、孤独の苦悩と狂気の演技は、鬼気迫る物凄さだ。

 音楽には全篇でフランツ・リストの作品が使われており、「ファウスト交響曲」の第3楽章「メフィストフェレス」など、意外な効果を上げていて面白い。指揮はおなじみクン・ケセルス。
 都合で第2幕までしか観られなかったが、これは実に凄い舞台であり、私のような、ふだんバレエを観る機会のあまりない者をもエキサイトさせるバレエである。12月7日~13日にTOHOシネマズ系数館で上映とのこと。

 なお、この「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン2018/2019」には11作品が予定されており、そのうちオペラには、キース・ウォーナー演出「ヴァルキューレ」、ステファン・ヘアハイム演出「スペードの女王」、クリストフ・ロイ演出「運命の力」、リチャード・エア演出「椿姫」、デイヴィッド・マクヴィカー演出「ファウスト」(グノー)など、興味津々たるラインナップが見られる。松竹の「METライブビューイング」とはまた一味違うライヴ映像である━━と、別に東宝東和から宣伝を頼まれているわけではないのだが、私好みのものが多いので、ここで御推薦。

2018・12・2(日)ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィル

      サントリーホール  2時

 2日目の今日は、前半にユジャ・ワンとのプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」、後半にブルックナーの「交響曲第9番」。

 プロコフィエフは、今回のツアーのプログラムの中では唯一のロシアもの。ゲルギエフにとっても自家薬籠中のレパートリーだ。弦16型編成でコンチェルトを演奏するのだから音量は凄まじい。野性的な曲想に対するには、ドイツのオーケストラの表情が何とも生真面目すぎて、と微苦笑していた人がいたが、まあそれは当たっているかもしれない。
 だが、そのオケからゲルギエフが引き出す音色の多彩さはさすがに見事だ。第1楽章がアレグロに入った直後、弦楽器群が突風のように閃かせた音型がこれほど表情豊かに、しかも不思議な色気を以って響かせられた例は滅多にないだろう。

 この名技主義性豊かな協奏曲は、ユジャ・ワンにとっても聴かせどころの一つ。若々しい気魄を存分に発揮させていた。
 ソロ・アンコール曲は、今日も2曲。プロコフィエフの「トッカータ作品11」と、モーツァルトの「トルコ行進曲」(ヴォロドス、ファジル・サイ、ユジャ・ワン編曲)とを、これ以上はないほど鮮やかに弾きまくって行く。ゲルギエフは、今日も下手側に立ったまま、じっとその様子を見守っていた。

 後半はブルックナーの「第9交響曲」。ゲルギエフの指揮するこの曲を聴いたのは今回が初めてだ。これほどいろいろな意味で「濃い」ブルックナーは、聴いたことがない。ミュンヘン・フィルの重厚なパワーがものを言っていたのは事実だが、音響的にも並外れて強大である。
 頂点の築き上げには巧みに設計されたクレッシェンドが力を発揮し、その行き着くところでは、間違いなく更に巨大な音響がだめ押しの如く出現するのだ。第1楽章の展開部や終結部、第3楽章で何度も繰り返される起伏の頂点などでは、それらが凄まじい迫力を生み出している。

 といって、ただ大きな音で威嚇するのではない。第3楽章の【A】の前など、普通なら弦を際立たせたままクレッシェンドさせる個所で、部分的に金管を強調して音色に変化を持たせるといったこまやかな手法を用いている。また、【B】からの有名なコラールの中で、ヴィオラの小さなモティーフを明確に浮き上がらせてアクセントをつけていたのも印象的だ━━なるほどこの個所では、ヴィオラのみは他の弦楽器群よりも一段階強い音を指定されているのである。

 その他、第2楽章のスケルツォ部分などでは、重戦車が突進するような趣もあり、まるで悪魔が髪振り乱して狂乱するような趣もあった。ブルックナー特有の清澄な偉大さよりも、荒々しい激情を優先した演奏だったと言ってもいいだろう。
 楽屋を訪れての、超多忙なゲルギエフとのほんの十数秒の立ち話の中で、「実にデモーニッシュだった」と誉めたら、彼の方はそう言われたことにはちょっと驚いたらしく「ワオ」と言ったまま1,2秒間考え、頷いて「確かにブルックナーの交響曲の中でこの曲だけは異質だからね」と答えた。

 この2回の演奏会に先立ち、11月30日にPMFの主催でゲルギエフとのプレス懇談会が開かれ、そこで彼は、若いアーティストへの支援の意義について語ったが、その中で━━昔、駆け出しの自分は、カラヤンや多くの大先輩によって引き立てられ、世に出ることが出来た、その恩返しをするべきだと思っている、先輩たちの多くはもういないので、今の若い演奏家たちを全力で応援したい、それが先輩たちへの間接的な恩返しだと思っている、とも語っていた。
 なおPMFでは、2020年に札幌の新しい劇場でモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を舞台上演、自ら指揮する予定だ、とも予告している。
     →(別稿)モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2018・12・1(土)ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィル

     サントリーホール  6時

 バイエルン放送響が帰って行くと、入れ替わりに今度はミュンヘン・フィルがやって来た。いずれもアジア・ツアーの一環の由。

 こちらも負けず劣らず、素晴らしい演奏を披露してくれた。ゲルギエフも今やこのオーケストラを完全に手中に収めてしまったようである。3年前の、首席指揮者就任直後に聴いた時には、演奏にもまだ遠慮がちな雰囲気も残っていたので━━大概のオケならわけなくねじ伏せてしまうゲルギエフも、頑固なドイツのオケだけは、そう簡単に言うことを聞かせるわけには行かなかったらしいのである(ウィーン・フィルを相手の時にも、その微妙なせめぎ合いが面白かった)。

 今日は、前半にユジャ・ワンをソリストにブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」が、後半にはマーラーの「交響曲第1番《巨人》」が演奏された。
 ブラームスでは、たっぷりとした重厚な響きがつくられ、特に弦楽器群にはいかにもドイツのオケらしい、しっとりした音色が溢れていたが、その中にも僅かにゲルギエフらしい艶やかな表情が顔を覗かせている。第3楽章での陶酔的な瞑想を彩った美しいカンタービレなど、彼がオペラの指揮でいつも聴かせるゲルギエフ節ともいうべき歌に似ていたのが興味深い。

 ユジャ・ワンも、今回はブラームスとあって、抑制して几帳面に弾いていたようだが、随所に彼女らしい闊達な躍動、明るい解放感が現われるのが、これまた魅力を感じさせた。この相反する二つの要素が更にうまくバランスが取れるようになった時こそ、彼女のブラームスは独自の存在感を発揮するようになるのではないか。先年のNYフィルとの「1番」に続き、今回は「2番」に取り組んだわけだが、意欲的だ。

 なお彼女はそのあとソロ・アンコールとして、メンデルスゾーンの「無言歌作品67の2」と、ビゼーの「カルメン」の「ジプシーの踊り」(ホロヴィッツ編)を弾いた。ブラームスを50分間弾いたあとでこういう曲をやるというのも凄まじい。彼女にとってはこれも気分的な解放なのか。
 この間、ゲルギエフは袖に引っ込まず、いつものようにステージ下手の隅に立ったままじっと耳を傾けていた。オーケストラ・コンサートでソリストが2曲もソロ・アンコールを弾くのは過ぎたることと思えるが、多分これはゲルギエフが「けしかけた」ことなのだろう。以前、PMFオーケストラの東京公演で、カヴァコスがカーテンコールに出ていた時に、舞台袖でゲルギエフが「何か弾け、弾け」と身振りで煽っていたのを見たことがある。

 後半の「巨人」は、豪壮雄大で骨太な、滔々と流れるストレートな演奏構築。これがいかにもゲルギエフらしい。マーラーの神経症的な「悩める青年」的なイメージよりも、むしろ人生の確信に満ちたおとなの意気のようなものを感じさせる演奏だ。こういう演奏はCDで聴くと面白味に欠けるけれども、ナマで聴くとオーケストラの威力がものを言って、すこぶる迫力に満ちたものに感じられる。

 今回の「巨人」の演奏で印象深かったものの一つは、アッチェルランドの巧さだ。特に前半の二つの楽章では、徐々にテンポを速めつつクライマックスへ持って行くあたりの呼吸が実に見事であった。ゲルギエフのアッチェルランドの巧さには、以前のプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」の「氷上の戦い」で舌を巻いたことがある。そしてもう一つは、音色の多彩さだ。これはもう、彼のお家芸である。
      →(別稿)モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2018・11・30(金)パスカル・ヴェロ指揮神奈川フィル

      横浜みなとみらいホール 大ホール  7時

 パスカル・ヴェロという指揮者は、日本ではどうも地味な存在だが、いい指揮者だ。つい先頃まで仙台フィルの常任指揮者を務め、この楽団の水準を飛躍的に高めたことは周知の事実である。一昨年の東京公演でのベルリオーズの「幻想交響曲」と「レリオ」を組み合わせた演奏会の見事さはそれを証明する一例で、記憶に残る名演だったではないか。東京でも、もう少し高く評価されてもいい存在のはずなのだが━━。

 そのパスカル・ヴェロが、神奈川フィルの定期演奏会に客演した。イベールの「寄港地」、ハイドンの「交響曲第44番《悲しみ》」、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」(ヴィオラ・ソロは大島亮)というプログラムである。コンサートマスターは石田泰尚。

 ヴェロの制御のもと、神奈川フィルは実に綺麗な音で鳴り響いた━━1階席で聴くよりも、2階のバルコニー席で聴いた時の方が、いっそうその感が強くなる━━特に弦の響きは、2階バルコニー席での方が、圧倒的にふくよかに聴こえるようである。
 「イタリアのハロルド」の第2楽章がこれほど憂愁感に満ちて流れ、第3楽章の和声の美しさが浮き彫りにされた演奏は、そうしばしば聴けるものではないだろう。ハイドンの交響曲での演奏も、透明清澄な趣があり、美しかった。

2018・11・28(木)デニス・ラッセル・デイヴィス指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 エマニュエル・パユとマリー=ピエール・ラングラメの協演するモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」を真中に置き、その前後をスクロヴァチェフスキの「ミュージック・アット・ナイト」およびジョン・アダムズの「シティ・ノワール」で固めたプログラム。

 普通の自主運営のオーケストラだったら、客足を慮り、とても実現に踏み切れぬような、豪胆で意欲的な選曲だ。近年、実績を重ねて聴衆動員に自信を増している読響だからこそ、通常の定期公演で思い切りよく実現できたのだろう。
 そして喜ばしいことに、このようなプログラムでも、お客さんは結構な入りを示していたのである。パユとラングラメの美しいモーツァルト、それに2人の洗練されたアンコール曲のイベールの「間奏曲」が終ったあとの休憩で、どうやらそのまま帰って行ったらしい客も散見されたが、それは全体から見ればほんの一部に過ぎない。

 「ミュージック・アット・ナイト」は、日本初演の際の演奏を私は聴いたか聴かなかったか、確たる記憶がない。
 いずれにせよ、スクロヴァ先生には失礼だが、後半のジョン・アダムズの作品が始まってみると、管弦楽の造りはやはりこちらの方が遥かに上手いな、と感じてしまう。この「シティ・ノワール」の「The City and its Double 都市とその分身」の部分など、たとえばアルト・サックスなどが吹くジャズ風のアドリブ的な音型が大管弦楽のアンサンブルとして完璧に構築されているのを聴くと、「ジャズとクラシックの融合」などとイージーに称されながら旗印だけに終っているそこらの作品に比べ、もっと踏み込んだ次元で展開されている手法の面白さを感じることが出来るのではないか。

 アダムズの作品としては、「中国のニクソン」とか「ドクター・アトミック」などにおけるようなミニマル・ミュージック系の手法とは異なり、オーケストラの更なる幅広い表現力や多様な色彩感を求めたものと思われ、その意味でも興味深かった。ただ、終結近く、延々と続く「あくなき咆哮」には、少々しつこさを覚えて、閉口させられたのは事実なのだが。

 デニス=ラッセル・デイヴィスは、荒々しい現代音楽にも、端整で洗練されたモーツァルトの作品にも、それぞれの良さを発揮させる巧みな指揮を聴かせてくれた。さすが、ベテランの持ち味というべきであろう。
 読響(コンサートマスターは長原幸太)も相変わらずいい。特にモーツァルトの協奏曲で響かせた気品ある音色は、称賛に値する。

2018・11・27(火)ズービン・メータ指揮バイエルン放送交響楽団

      サントリーホール  7時

 今日が今回の日本ツアー最終公演。エフゲニー・キーシンをソリストにしたリストの「ピアノ協奏曲第1番」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラムだった。

 曲目の演奏時間が短かく、公演の時間を埋めるという理由がたとえあったにしても、コンチェルトのゲスト・ソリストであるキーシンが、指揮者とオーケストラをステージに待たせたままソロ・アンコールを3曲も弾き続けたのには、いささか興醒めした。

 だがそのコンチェルトのオーケストラ・パートといい、「春の祭典」といい、最後のアンコールで演奏したチャイコフスキーの「白鳥の湖」からの「ワルツ」といい、バイエルン放送交響楽団の堂々たる風格に満ちた重厚な演奏は、見事というほかはない。
 そして、椅子に座ったまま最小限の身振りでこの大交響楽団を制御するメータの気魄もまた、壮烈を極めていた。ヤンソンスが来られなかったのは確かに残念ではあったが、一時は再起も危ぶまれるという情報まで流れたメータが、このように復活して力強い指揮を披露してくれたことは、嬉しいことである。
 バイエルン放送響の今回の日本公演、2つの演奏会を聴いたが、悉く感動的であった。

2018・11・26(月)大友直人指揮群馬交響楽団東京公演

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 来年3月で音楽監督の任期が終了するという大友直人指揮による東京公演。今日のが終ると、残すは来年3月17日の公演(トリフォニー)のみとなる。
 今日のプログラムは極めて個性的だ。前半に芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」、團伊玖磨の「管弦楽幻想曲《飛天繚乱》」、黛敏郎の「饗宴(バッカナール)」という、戦後の日本音楽界に新しい息吹をもたらした「3人の会」の巨匠たちの特集である。

 誰かも言っていたことだが、最近の日本のオケは上手いので、昔聴いた時よりも、作品の良さがよく解るようになる、と。私も近年、そういう思いを新たにしているところだ。
 たとえば今日の3曲にしても、如何に精緻で色彩的なオーケストレーションを備えていることか。それが、大友と群響のヴィヴィッドな演奏のおかげで、明確に認識できる。芥川の「交響管弦楽のための音楽」など、1950年代半ばにラジオで聴いた時には、取っ付き易いけれども何だか薄っぺらな音楽だな、という気もしたくらいだが、それは単に当時のオケの鳴りの悪さと、録音の不備などに原因があったからに過ぎず、作品の所為ではなかったのだ、ということを思い知らされるのである。

 後半はガラリと変わって、千住明のオペラ「滝の白糸」からの第3幕(裁判の場面が中心)が、演奏会形式で取り上げられた。この全曲は大友直人みずからが指揮して初演したもので、私も2014年2月16日に新国立劇場中劇場での彼の指揮による東京初演を観たことがある。群響との東京公演では序曲を演奏しただけ(2017年3月19日)だったので、任期満了直前の今、どうしてもせめてひとつの幕だけでも群響と東京で演奏したかったのだろう。

 今日も初演時と同じく、中嶋彰子がヒロインの白糸を、高柳圭が村越欣也を、清水那由太が南京出刃打ちを歌った。ただし、村越欣也の母親役には、今回は金子美香が起用されていた。その他にも、出番は短いものの声楽ソリスト7人、さらに大編成の群馬交響楽団合唱団をも参加させるという、非常に大がかりな東京公演であった。
 声楽陣は脇役に至るまで大いに健闘したが、それぞれの配置の位置の関係や、ホールの豊かな残響の所為もあって、必ずしも歌詞が明確に聴き取れたとは言い難い。むしろ、オーケストラの叙情的な色合いが浮き彫りにされていたことの方が印象に残る。
 群響(コンサートマスターは伊藤文乃)が充実した演奏を聴かせてくれたのは喜ばしい。

2018・11・25(日)東京二期会 モーツァルト:「後宮よりの逃走」

      日生劇場  2時

 22日からの連続4公演で、今日が千穐楽。
 今回はギー・ヨーステンを招いての新演出、ラモン・イヴァルスの舞台美術。

 ハーレムの浴場のシーンや、古代オリエント系のような黄金色の宮殿を見せたりするが、特に読み替えという種のものではなく、服装は現代風に設定。背広姿の太守はハーレムの美女(7人)を従えての闊歩だ。太守の宮殿の番人オスミンは、現代のガードマンの隊長であり、冷酷で無表情な警備隊が彼に従う。冒頭ではオスミン隊長とガードマンたちがベルモンテやペドリッロに殴る蹴るの暴行を繰り返すなど、暴力的な演技も散見される(これはヨーロッパの歌劇場では日常茶飯事のように行われる演出だが、私はこういうのだけは大嫌いである)。

 また、4人の若者が「愛」を知り、考える━━とかいう演出上の触れ込みになっているが、しかしこの舞台からは、それは必ずしも明確に伝わって来るとは言い難い。コンスタンツェとベルモンテはト書き通り愛し合っているようだが、ブロンデのみはこんな騒ぎに巻き込まれて迷惑極まりない(第3幕)という表情を続けていたので、この辺に捻りがあったのかと思われたものの、定かではない。
 いずれにせよこの演出は、このオペラで見慣れていた「異国風の喜劇」といった要素を一切排し、極めてシリアスなドラマとして再構築したものと言えよう。ただし太守が「復讐こそは無意味、大切なのは寛容と愛」と宣言するくだりで客席の照明を明るくし、賛同を誘うような演出が行なわれたが、このテは少々陳腐に感じられる。

 こういった演出に歩調を合わせるように、下野竜也は遅めのテンポを採り、聴き慣れたあの軽快な歌の数々においてさえ、弾むような快さを排除していた。これほど「後宮よりの逃走」の音楽が、所謂「楽しくない」演奏になっていたのを聴いたのは初めてだが、解釈としてはユニークで興味深い手法だと言えるかもしれぬ(マエストロみずからトライアングルを叩きながら走り回っていたネットの広告動画とはかなりイメージが違うようである)。
 とはいえ、音楽の瑞々しさや、モーツァルトが音楽を通じて巧みに表現しているはずの、あの生き生きした人間性表現までが失われた印象になっていたことは、残念である。もっともこれは、歌手たちの歌唱力の所為でもあったろう。

 その歌手陣はダブルキャストで、今日の出演は、安田麻佑子(コンスタンツェ)、宮地江奈(ブロンデ)、山本耕平(ベルモンテ)、北嶋信也(ペドリッロ)、斉木健詞(オスミン)という顔ぶれだった。
 この中では、経験豊かな斉木健詞のみが安定した味を出していたが、その他の若手の歌手たちは未だこれからだ。歯に衣着せで言えば、最近接した日本のオペラ公演の中では、最も歌唱面に不満を残した上演、と断じざるを得ないのである。

 歌わずに、セリフのみ喋るセリム(太守)役は、大和田伸也が全日出演していた。歌詞と台詞はドイツ語だが、セリムのみは日本語とドイツ語をチャンポンに喋る。その是非はともかくとしても、彼の台詞回しが極度にゆっくりで、しかも回りくどいため、第3幕での聞かせどころは著しく間延びしてしまっていたのは事実だろう。
 ただ、彼の台詞の発声がはっきり聞こえていたことには安心した━━実は遥かな昔、1966年にこの日生劇場で「ベルリン・ドイツオペラ」が「後宮よりの逃走」を上演した際、太守役に当時の世界的名優クルト・ユルゲンスが特別出演したのだが、発声の仕方が全く歌手と異なるため、声量が弱く聞こえ、セリムの凄みも何も皆無になって落胆したという経験があったので。

 オーケストラは、東京交響楽団である。考えてみると、このオペラの上演と同じ期間に浜松の国際ピアノコンクールでずっと演奏していたのも同じオケだった。大所帯の東京フィルならともなく、正団員数88名(2018年3月1日時点)の東京響までが2ヵ所に分かれて演奏することもあり得るのか。
 浜松と東京のどちらがどのくらいエキストラを多く入れていたのかは私の知る限りではないが、そういう状況を客観的に見て、両方とも高水準の演奏を保てるということは、俄かに信じ難い。浜松の方は、お世辞にもいい演奏だったとは言い難かった。こちら日生劇場のモーツァルトの方が、演奏もまとまっていたと思う。

2018・11・24(土)浜松国際ピアノコンクール 本選2日目

      アクトシティ浜松 大ホール  2時

 今朝の中日新聞はコンクールの記事を第1面に飾っているが、本選出場の日本人4人の紹介に曰く、愛知県東浦町出身の務川慧悟さん、静岡市葵区出身の安並貴史さん、福島県いわき市出身で名古屋市名東区在住の牛田智大さん、掛川市出身の今田篤さん━━といった具合。
 地元にゆかりの演奏者の活躍を慶ぶという心理は、私も35年前にFM静岡(現K-Mix)開局の際に4年間浜松に居住したことがあり、今でもこの街と人々とに愛着を感じているので、よく解るのだけれども・・・・。

 それにまた今回は、本選出場者6人のうち4人が日本人というのは、目出度いことには違いないが、実績ある国際コンクールとしては、果たして本当に歓迎されるべきことだったのか、どうか・・・・。
 かりにチャイコフスキー国際コンクールで本選に残った者の大半がロシア人だったとしたら? ショパン国際コンクールの本選出場者がほとんどポーランドのピアニストばかりという事態が起こったとしたら? いくら偶然そうなった、と言ったところで、外国の楽界からは、やはり色眼鏡で見られてしまうのではないか。 

 ともあれ今日、2日目には、今田篤、イ・ヒョク(韓国)、ジャン・チャクムル(トルコ)が登場して、やっと「国際コンクール」らしい状態になった。
 今田篤は、ヤマハのピアノを使用、チャイコフスキーの「1番」を弾く。力強い音でダイナミックに弾いたが、音楽としては生硬で、何かムキになって弾き過ぎるような感があり、しなやかさと緊迫感にも不足するきらいがある。しかし第1楽章では、テンポの調整などに工夫を凝らしていた。

 次に登場したのが、韓国のイ・ヒョク。ラフマニノフの「3番」を、ヤマハのピアノで弾いた。3次予選の結果から、牛田智大と並ぶ優勝候補として私が最も期待していた18歳だったのだが、不思議なことに今日の協奏曲での演奏は著しく素っ気なく、煌きのない、音色もくぐもったものになってしまっていた。3次での演奏で放射されたあの明るさが、何故かひとかけらも残っていないのだ。よほど体調でも悪かったのだろうか? 
 しかしそれでも音楽的な雄弁さは随所に現れていて、要所では演奏も密度の濃いものになってはいたが。

 最後に弾いたのが、トルコの長身痩躯の20歳、ジャン・チャクムルである。シゲル・カワイのピアノを使用して、リストの「1番」を演奏した。実に伸びやかで、豪快な演奏だ。叙情的な個所にさえも、ブリリアントな音色と表情を散りばめる。
 その演奏における、欧州の伝統的なスタイルとは些か異なる音楽のつくり方が非常に面白く、━━どこがどうという適当な言葉が見つからないのだが、たとえばフレーズの余韻をさっさと切り捨ててしまい、音の一つ一つを流麗に繋げることをせず、おのおのを際立たせながら、それらを目にもとまらぬ勢いで奔流の如く押し流して行く━━とでも言ったらいいのか、どうも訳の解らぬ表現で恐縮なのだが、とにかくそんな感じの演奏なのである。終曲での演奏は、華麗で鮮やかで、圧巻であった。
 私はこの豪快そのものの演奏を聴いて、ツワモノがトルコの刀を振りかざして大暴れしているような光景を連想してしまったのだが━━。

 とにかく、第3次予選では(帰京したため)聞き逃していたこのトルコの青年の大胆不敵な演奏に接して、牛田と優勝を争うのはイ・ヒョクではなく、むしろチャクムルの方ではなかろうか、と考えを変えたのはこの時である。3次での室内楽の演奏が終わった時にブラヴォーの声が飛んでいた、という話を聞いて、ますますその思いを強くした次第であった。

 で、6時から同じ大ホールで行われた結果発表。入賞者は以下の通り。
 第1位:ジャン・チャクムル、第2位:牛田智大、第3位:イ・ヒョク、第4位:今田篤、第5位:務川慧悟、第6位:安並貴史。
 他に各賞として、日本人作品最優秀演奏賞が梅田智也、奨励賞がアンドレイ・イリューシキン、室内楽賞がジャン・チャクムル、聴衆賞が牛田智大。
 小川典子・審査委員長の説明によれば、判定の根拠は、第3次予選(室内楽とソロの各演奏)及び本選(協奏曲の演奏)を併せてのもの、ということであった。とすれば、この順位は、まず妥当なところであろう。

 結果発表と表彰式の時にも、大ホールの客席は一般客で埋められた。それどころか、7時過ぎから行われた記者会見の場にも、少なからぬ数の一般客が詰めかけていたのである。浜松の人たちの、コンクールへの関心の高さを示す一例だろう。

2018・11・23(金)第10回浜松国際ピアノコンクール 本選初日

      アクトシティ浜松 大ホール  6時

 ついに本選。出場者は11月20日の項にある通りだが、初日の今日は、務川慧悟、安並貴史、牛田智大が弾いた。このコンクールの本選での演奏曲目は、すべてコンチェルトである。サポートのオーケストラは、高関健が指揮する東京交響楽団。

 務川慧悟がKAWAIのピアノで弾いたのは、プロコフィエフの「協奏曲第3番」。 
 緊張のためか、出だしは音量も弱く、何となく自信無げな雰囲気に感じられ、聴く方でも気を揉ませられたが、曲がアレグロに入ると次第に活気を取り戻し、第2楽章後半あたりからはエネルギー全開となって行った。
 第3次予選で不満を残していた音色や表情の変化に乏しい点については今日の演奏でも解決されていなかったものの、端整に過ぎて面白味に欠けていたという点については、第3楽章での勢い充分な演奏がそれを帳消しにしてくれたであろう。演奏後の客席では、熱烈なブラヴォ―の声があちこちで湧き上がり、スタンディング・オヴェーションも随所で起こっていた。

 安並貴史は、ブラームスの「協奏曲第2番」を弾き、同じKAWAIのピアノでもこうも音が変わるかと思われるほど、冒頭のソロでは音色が清澄で美しいものになり、期待を持たせたのであった。だがしかし、━━演奏が進むほどに、その音色の淡彩さと、表情の端整さと生真面目さとが、この長大なコンチェルトを著しく単調に感じさせ、曲の長さを意識させてしまうという結果を生んでしまったのである。
 彼が浸る沈潜は、ブラームスの沈潜とは残念ながら異質のもののようだ。この曲を選んだことは、今の彼の音楽性からすると、意欲的ではあったものの、あまり賢明ではなかったように思われる。演奏終了後の客席は拍手に包まれたが、ブラヴォーやスタンディング・オヴェーションはほとんど無かった。

 初日の最後は、牛田智大が弾くラフマニノフの「協奏曲第2番」だった。
 ピアノはヤマハに変わり、そこから弾き出される音楽は、突然、圧倒的に明るくて恰幅のいい、鋭い力に満ちたものになった。といって、決してコンクール的な名技主義に陥る類のものではない。テンポやエスプレッシーヴォの変化も自然で生き生きしており、すべてが輝いているように感じられたのである。オーケストラの轟音にも打ち消されずに彼のソロがはっきりと聞こえていたのは、音量の豊かさゆえだけではなく、その音色の明晰さと、音楽の表情の豊かさとのゆえではなかろうか。
 演奏後の客席は文字通り沸きに沸いた。ともあれ、これは高得点をマークしたことは確実であろう・・・・と思われるのだが。

 明日は、強敵のイ・ヒョクが出る。噂では、第3次予選で私が聴けなかったトルコのジャン・チャクムルも、なかなかの強豪なのだそうだ。

 一言付け加えざるを得ないが、オーケストラは荒っぽくて、猛然と吠え過ぎ、ソリストの音を潰してしまうことがあまりにも多い。特にティンパニは言いようのないほど乱暴で、叩きつけ過ぎる。オケのバランスを取る点では名手と謳われるマエストロ高関の指揮なのに、これはまた、どうしたことだろう?

2018・11・22(木)ズービン・メータ指揮バイエルン放送交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 こんな状況の中、よくぞ来てくれた、マエストロ・メータ━━と書いたのは7年前、あの東日本大震災と原発事故のために外国演奏家たちが次々に来日を中止したさなか、N響とのチャリティコンサート「第9」(4月10日)を指揮するために彼が敢然と東京へ飛んで来た時のことだった。
 そして今回、マリス・ヤンソンス来日中止という事態を受けての代役として、またメータが駆けつけてくれた、ということになる。

 だが、今日舞台袖から現われたズービン・メータは、7年前の颯爽とした姿、かつては「指揮台のマッチョマン」とも呼ばれたエネルギッシュな、堂々たる容姿の彼ではもはやなかった。
 大病をした(イスラエル・フィルとの来日公演も中止になった)のは僅か半年前かそこらのことだ。その病を克服して復活してくれたのは本当に喜ばしいが、私たちが見たのは、ステッキを突きながらゆっくりと歩を進め、付添い人に助けられながら指揮台を上り下りする、いかにも年取ったという感のある彼であった。元気な頃の彼を見慣れていた私たちは、その姿に心を痛めながら拍手を続けたのである。

 しかし、一旦指揮台の椅子に座れば、彼がオーケストラから引き出す音楽は、昔ながらの骨太な力を失っていない。テンポは以前より遅くなり、力強かった構築力もやや緩めになったかと思われるが、身振りよりも、強い精神力と目線とでオーケストラを制御する彼の指揮には、以前よりもあたたかさが増したようにさえ感じられたのだ。
 そして、アンコール曲のタイトルを聴衆に告げた時の彼の声は、昔ながらの低音の利いた、素晴らしく張りのある響きに溢れていたのであった。声が大きいということは、元気である証しである。

 今日演奏されたのは、モーツァルトの「ジュピター交響曲」と、マーラーの「巨人」、アンコールはJ・シュトラウスⅡの「爆発ポルカ」だった。
 「ジュピター」は反復個所をすべて守り、何の外連もなくストレートに構築した演奏である。
 「巨人」では、第1楽章提示部の反復は行なわなかったが、第2楽章には「花の章」を復活挿入、これも悠々たる大河の如く流れ行くストレートな演奏で、第4楽章の頂点はそれに相応しく壮大な歓呼となっていた。
 ━━欲を言えばその全曲の大詰、ティンパニと大太鼓の怒号の上に全管弦楽で終結和音が叩きつけられる個所で、それまでの全管弦楽の咆哮に充ち溢れていた壮絶な力感がふっと抜けてしまったような印象もないではなかったが、そのあたりは、前述のいろいろな状況からして致し方ないところであろう。

 バイエルン放送響も、今日は各楽器のソロ・パートにいつものような完璧さをやや欠いていたようだが、これもこのオケがドイツで一、二を争う名楽団だからこそ言いたくなるような程度のことに過ぎぬ。やはり、素晴らしいオーケストラである。

 ともあれ、この演奏を聴いたあとには、当初予定されていたマーラーの「第7交響曲《夜の歌》」が変更されてしまったことへの不満も、ほぼ綺麗に吹き飛んでしまった、というのが私としては正直なところだが、他のお客さんはどうだったろうか? 
 オケが引き上げてしまった後、足が悪いから呼び出すのはどうかな、という遠慮もあって少なめに続いていた聴衆の拍手は、しかし次第に大きくなり、ついにメータは車椅子に乗って再びステージに登場し、熱狂的な拍手に嬉しそうに応えていた。演奏への称賛、大病からの回復を喜ぶ気持、7年前のあの日のこと━━聴衆のさまざまな想いがそこには交錯していたことであろう。

2018・11・21(水)ミヒャエル・ザンデルリンク指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 「北とぴあ」のある王子駅から京浜東北線に乗り、上野までは15分程度か。こういうハシゴ取材の時には、いずれのホールも駅近接の位置というのが有難い。
 こちらは都響の定期演奏会Aシリーズ。ミヒャエル・ザンデルリンクの客演で、クルト・ワイルの「交響曲第2番」、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第1番」(ソロは河村尚子)、ショスタコーヴィチの「交響曲第6番」が演奏された。コンサートマスターは山本友重。

 渋いプログラムだが、それでも客席はあらかた埋まっている。都響は客をしっかりつかんでいるな、と、ロビーで誰かが言った。年間のプログラムのコンセプトが解り易く、演奏がしっかりしているオーケストラには、客はちゃんと来るものである。
 今日の演奏では、ワイルのシンフォニーが、引き締まった構築の裡に主題と和声の変化の過程が明確に浮き彫りにされていて、私は最も気に入った。この曲、このように演奏されると、あの「七つの大罪」にも盛り込まれているワイル独特の一種の頽廃的なニュアンスの音楽が、非常にシリアスに表情を変えた容で出て来るのが解って面白い。

 プロコフィエフの「1番」では、ザンデルリンクはかなり猛烈な勢いを持った演奏だったが、河村尚子も闊達に対抗し、時にオケとの呼吸が合わぬところが無くなかったものの、聴き応えは充分。
 ショスタコーヴィチの「6番」では前半のたっぷりしたテンポで逍遥する個所での低弦の響きが力強く美しく、都響の好調さの一端を窺わせていたと言えよう。

2018・11・21(水)北とぴあ国際音楽祭「ウリッセの帰還」G.P.

      北とぴあ さくらホール  3時30分

 23日と25日に公演が行われる北とぴあ国際音楽祭のオペラ、モンテヴェルディの「ウリッセの帰還」のゲネプロを観る。
 この音楽祭は、1995年の「ダイドーとエネアス」以来、数々のバロック・オペラや古典オペラを制作して来た。近年はセミ・ステージ形式によるものが多いが、その実績は立派なものである。今回もステージにオーケストラを配置、シンプルながら演技のための空間をも設置して、ダンスも取り入れた上演としていた。

 演出は小野寺修二。オーケストラはおなじみ、寺神戸亮(指揮とヴァイオリン)の率いるレ・ボレアードだが、通奏低音を強化した演奏も毅然として美しく、モンテヴェルディの素晴らしい音楽を再現して聴き応え充分である。エミリアーノ・ボンザレス=トロ(ウリッセ)、湯川亜也子(ペネーロペ)、クリスティーナ・ファネッリ(運命/ミネルヴァ)、フルヴィオ・ベッティーニ(イーロ)らの歌唱も立派なものであり、その他の多数の内外歌手陣も充実していた。
 時間の都合で第2幕までしか観られなかったのが残念なほどだった。いい本番になるだろう。

2018・11・20(火)ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィル

     サントリーホール  7時

 モーツァルトの「魔笛」序曲、同「ピアノ協奏曲第24番」(ソリストはラン・ラン)、ブラームスの「交響曲第2番」というプログラム。

 先週の川崎での演奏会よりは復調して安定した演奏になっていたが、しかし、ブラームスの「2番」でのヴァイオリン群の音の響きの鋭さといい、その第1楽章終結近くのホルン・ソロの表情の硬さといい、今年来たウィーン・フィルは、何となくいつもと違う。かつての━━いや、今でも良い時のウィーン・フィルは、このオケならではの馥郁たる香りを演奏のどこかに漂わせているものだが・・・・。

 今回の響きは、当然ウェルザー=メストによって引き出されていたものだろう。それでもかつてのウィーン・フィルなら、指揮者が誰であろうと、それに合わせると見せながらも、常に己の良き個性を頑固に守り抜いていたものだった(ゲルギエフとの丁々発止の勝負はその一つの例だった)。今のこのオケは、もう、指揮者に忠実になってしまったのか。
 それでも、川崎でのブラームスの「二重協奏曲」と同様、ガリガリ弾かずに済むモーツァルトのピアノ協奏曲では、ウィーン・フィルのしっとりした味が少しは蘇る。そしてアンコールでの、J・シュトラウスⅡの「南国のばら」と、E・シュトラウスの「テープは切られた」では、これは誰が何と言おうとおれたちの音楽、と言わんばかりの姿勢に戻っていたのだった。

 ラン・ランのモーツァルトがナマで聴けたのは幸いであった。彼はこのところ、ピアニッシモによる表現に凝っていると見える。ソロ・アンコールで弾いたシューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」からの一節にも、その姿勢のようなものが聴かれていた。

2018・11・20(火)浜松国際ピアノコンクール第3次予選第2日

      アクトシティ浜松中ホール  10時

 2日目の出場者は、アンドレイ・イリューシキン(露)、今田篤(日)、イ・ヒョク(韓)、梅田智也(日)、ブライアン・ルー(米)、ジャン・チャクムル(土)の6人。

 最初のイリューシキンは、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲第1番」ではむしろ優美な表現を狙っており(特に第3楽章など)それは好ましかったが、ブラームスの「6つの小品」やスクリャービンの「幻想ソナタ」では沈潜しきって遅いテンポに浸りきり、曲想の性格もあって著しく沈潜した雰囲気。
 プログラムの演奏時間ももともと長く、このまま演奏が続けば15分近くの時間超過は確実と思われた切れ目のところで、審査委員長からベル(チリンチリンという鈴)を鳴らされてしまった。ただし聞くところによれば、かりにベルを鳴らされても、審査には影響しないとのこと。

 続く今田篤は、他の人よりは速いテンポで爽やかにモーツァルトの「1番」を開始、それまでのホール内の重苦しい(?)空気を解放したという良さはあったが、反面、演奏にコクのない感も。シューベルトの「楽興の時」にしてもプロコフィエフの「ソナタ第7番」にしても、きれいに仕上がっているものの淡白で控えめで、どことなく平板に感じられてしまうという、いかにも日本人的な特徴の演奏ではあった━━。このシューベルト、自己陶酔のままに終ったようである。

 昼休みの休憩を取った午後の一番手は、韓国のイ・ヒョク。こちらは対照的に、煌く音の持主だ。モーツァルトの「第2番」ではアンサンブルのつくりも優れ、弦への受け渡しも流れよく(特に第1楽章)、ふくよかな響きが聴き手を惹き付ける。「くるみ割り人形」(プレトニョフ編)とアルカンの作品でも輝かしい音色で躍動した。18歳の若さながら、これは有望株だろう。ただし持ち時間を6分オーバー、未だ曲は続くはずだったので、これもベルを鳴らされてしまった。

 4番手の梅田智也のモーツァルト(第1番)を聴いたところまでで、とりあえず「第3次予選」は失礼した。浜松4時11分発の「ひかり」で東京に引き返し、サントリーホールへ向かう。

※夜になって、3次予選通過者(本選出場者)6人の名がコンクールのサイトに公開されていた。本選出場は、務川慧悟、安並貴史、牛田智大、今田篤、イ・ヒョク、ジャン・チャクムルの由。日本人が4人も残るのは、このコンクールとしては初めてではないか? 本選は今週金曜と土曜に行なわれる。
 ジャン・チャクムルの演奏は聴いていないので何とも言えないけれど、私が聴いた範囲で言えば、牛田とイ・ヒョクのどちらかが優勝候補、続くのが安並━━ではないかと予想するのだが、さて当るや否や。

2018・11・19(月)浜松国際ピアノコンクール第3次予選第1日

      アクトシティ浜松中ホール  12時30分

 ガヴリリュク(第4回)、ブレハッチ(第5回)、チョ・ソンジン(第7回)など錚々たる優勝者を輩出してきた浜松国際ピアノコンクール、今年は第10回。
 地元での人気もすこぶる高く、本選など完売の日も多いとのこと。さすが、あの「蜜蜂と遠雷」(恩田陸著)の効果抜群、とも言われてはいるが、コンクール事務局の現場としてはそう言われるのは些かシャクなようで、「やはり10回の実績」の結果なのだと主張していた。

 今回は37か国1地域から382人が応募、うち男226人、女156人。日本国籍130人、外国籍252人(韓国70人、中国47人、ロシア35人、アメリカ13人━━以下略)。
 出場承認者は95人(男67人、女28人。国籍は日本25、韓国18、ロシア14、中国13、アメリカ4━━の順)で、このうちコンクール本番までに7人ほどが出場を辞退、実際の出場者は88人であった。

 そこで今日と明日が第3次予選というわけだが、残っていた12人の中に女性が1人もいないのには少々驚いた。国籍別では日本が5人(異例に多い)、韓国が2人、ロシアが2人、中国が1人、アメリカ・トルコ各1人、という具合に例年とは少々雰囲気が違うようである。

 コンペティターはそれぞれ70分の時間を与えられ、その中で、最初に室内楽としてモーツァルトの「ピアノ四重奏曲」の「第1番」もしくは「第2番」を演奏、それから得意のレパートリーを何曲か弾くことになる。
 室内楽での協演は例年のように錚々たる顔ぶれで、漆原啓子、川久保賜紀、鈴木康浩、松実健太、向山佳絵子、長谷川陽子。

 今日、初日の出場者は、演奏順にアンドレア・ゼーニン(露)、務川慧悟(日)、安並貴史(日)、牛田智大(日)、キム・ソンヒョン(韓)、ザン・シャオルー(中)。
 この中では、今春の「野島稔・よこすかピアノコンクール」で優勝した安並貴史(26歳)と、既に一般の演奏会で人気を得ている牛田智大(19歳)が出ているのが話題となっている。(因みに安並は静岡県出身者だそうで、翌日の静岡新聞は彼の演奏のことだけを大きく報道していた。やっぱりね、という感)。

 その安並は、第3次ではコンクールにありがちなテクニックを誇示するような作品ではなく、シューベルトの「即興曲作品90の1」やベートーヴェンの「ソナタ第31番」など、正面切った、落ち着いた曲を選んでいたのが注目された。これらの作品では端整で整然とした演奏を聴かせていたが、もう少し表情に多彩さがあればと思う。室内楽(第1番)では、細かいニュアンスの変化を示していた。

 一方、牛田は、シューベルトの「即興曲作品90の3」ではたっぷりした厚みのある和音を響かせ、転調の際のエスプレッシーヴォやテンポの調整でも表情の細やかさを聴かせた。おとなのシューベルト、という感である。一転してリストのソナタでは、ダイナミックだが威圧的でない、どちらかと言えば軽やかで淡彩な性格を持った演奏、といった印象を得る。
 しかし、弱冠19歳にしてこれだけの音楽を聴かせるというのは、やはり抜きんでた才能と言うべきである。ステージマナーも流石に物慣れていて、答礼の仕方も決まっているし、室内楽(第1番)の演奏後には奏者ひとりひとりと握手を交わすなど、既にプロとしての雰囲気を示していた。

 彼のあとに登場したキム・ソンヒョンも、シチェドリンの小品2曲のあとにショパンの「24の前奏曲」という、コンクールとしては「静謐な趣き」の作品を取り上げていたのが興味深い。多少地味な印象になったのは致し方なかろう。それでもやはり最強奏の個所では、多少「コンクール向き」の演奏になったようだが。

 今回の審査員は以下の通り━━小川典子(審査委員長)以下、迫昭嘉(副審査委員長)、ロナン・オホラ(同、英)、ポール・ヒューズ(英)、ヤン・イラーチェク・フォン・アルニン(独)、アレクサンダー・コプリン(米/露)、ムーン・イクチュー(韓)、エリソ・ヴィルサラーゼ(露)、ウタ・ヴェヤント(独)、ウー・イン(中)、ディーナ・ヨッフェ(イスラエル/独)。

2018・11・18(日)バッティストーニ指揮東京フィル「メフィストーフェレ」

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 アリゴ・ボーイトのオペラ「メフィストーフェレ」の演奏会形式上演。アンドレア・バッティストーニがこの秋に日本で指揮した、「アイーダ」「カヴァレリア・ルスティカーナ」に続く3つ目のオペラである。

 出演は、マルコ・スポッティ(メフィストーフェレ)、アントネッロ・パロンビ(ファウスト)、マリア・テレーザ・レーヴァ(マルゲリータ/エレーナ)、清水華澄(マルタ/パンターリス)、与儀巧(ヴァグネル/ネレーオ)、新国立劇場合唱団、世田谷ジュニア合唱団。東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターは依田真宣。

 もともとスペクタクル的な音楽が、バッティストーニの熱烈な指揮によって、まあ鳴ること、鳴ること。だがそれが、ただ大音響で鳴りわたるだけではなく、雄大な音楽ドラマとしての必然的な起伏性に裏打ちされた演奏なので、合唱とオーケストラの咆哮が一種の魔性的な力を以って襲いかかって来る。
 東京フィルも快演だったが、それにも増して合唱団の豊かな力感は見事だった━━「プロローグ」でのクライマックスから早くも聴衆に一発ぶちかます、といったボーイトのハッタリ(?)も鮮やかなのだが、それを轟々と構築したバッティストーニ、それに応えたオケと合唱をも讃えたいところだ。
 それにまた、ソロ歌手陣の充実も目覚ましい。特にマリア・テレーザ・レーヴァの力強い声とドラマティックな表現は素晴らしかった。

 その歌手たちは、今回はステージ前面で、動き回りつつ暗譜で歌う。
 助演の古賀豊はダンサーとしての動きで、マルゲリータに死刑執行人として刃を擬したり、魔王として背景の高所に出現したりする役割を負う。
 その他、若干の照明演出が加えられたり、後方反響板の上部にはスクリーンが設置されて、「悪魔除けの護符」などを含むイメージ的な映像が映し出されたりしたが、これらはさほど効果を上げていたというほどではない。

 それにしてもバッティストーニのオペラにおける指揮は、パワフルでスピーディで、すこぶる魅力的である。彼と東京フィルのオペラのシリーズは、立派な看板になるだろう。

2018・11・16(金)METライブビューイング 「サムソンとダリラ」

     東劇  6時30分

 「デリラ」(日本の標準表記)か「ダリラ」(歌詞の発音)か相変わらず迷うが、やはり後者を採っておく。サムソンが「ダリラ!」と歌っているところに字幕が「デリラ」と出ると、やはり違和感があるので━━。

 これは10月20日上演のライヴ映像。新プロダクションで、ダルコ・トレズニャックの演出、アレクサンダー・ドッジの舞台美術によるもの。色彩的で大がかりな舞台だが、特に時代背景を感じさせるものではない。METの前プロダクションだったモシンスキー演出、リチャード・ハドソン装置の舞台(2001年に日本公演も行われた)に比べれば、より細密で豪華で見映えのするものに思える。

 今回のサムソンはロベルト・アラーニャ。彼の個性からして、あまり古今無双の英雄といった存在には見えないが、わざわざ彼を起用したところからすると、サムソンを神経が細かく、性格にも弱さがある男として描くねらいがあったのかもしれない。この日は、声の調子も少々良くなかったように感じられた。

 一方のダリラを歌い演じたエリーナ・ガランチャは文句なく素晴らしい。気品と美しさと、演技の細やかさと歌唱の良さで、最高のダリラのひとりだと言っていいだろう。
 今回の演出のポイントの一つは━━彼女自身も語っていたが━━サムソンへの憎悪の一方で愛をも捨てきれぬダリラが描かれる点にあり、事実、第3幕では、嘲笑に晒されるサムソンを見るに忍びないといった彼女の演技をしばしば観ることが出来た。

 但しこの日の映像ディレクターは、どうやらそういう演出の主旨や重要な演技には全く関心が無いらしく、専らスペクタクルな舞台の景観を捉えるのに熱心であり、それがこの舞台を単なる派手物と思わせてしまいかねない結果を招いていたのが、なさけないことではあった。
 もっとも演出そのものからして、第3幕の「バッカナール」にも、そのあとの大アンサンブルの場面にも、異教徒の儀式といった演劇的な性格を与えず、単なるバレエ/ダンスとしてのみ扱うという、娯楽性にとどまるものだったのだが・・・・。

 他に大祭司をロラン・ナウリ、太守アビメレクをイルヒン・アズィゾフ、ヘブライの長老をディミトリ・ベロセルスキー。
 指揮はマーク・エルダー。この人、以前(2000年9月)にMETでこの旧プロダクションを観た時にも指揮しており、至極メリハリのない演奏だったのだが、今回は多少改善され、上手くなったようである。

2018・11・15(木)ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィル

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 恒例のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の秋の日本公演。1956年以来、これが第34回になるというから、大したものだ。24日まで行われる7回の公演(うち1回は室内楽演奏会)の、今日は初日である。今回の指揮者はフランツ・ウェルザ=メストで、彼が日本公演で振るのは2010年以来2度目。

 プログラムは、ドヴォルジャークの「序曲《謝肉祭》」、ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」(ソロはフォルクハルト・シュトイデ、ペーテル・ソモダリ)、ワーグナーの「神々の黄昏」抜粋(「夜明けとジークフリートのラインへの旅」、「ジークフリートの死と葬送行進曲」、「ブリュンヒルデの自己犠牲」の後半)。

 「神々の黄昏」での豪壮な大音量での力感はなかなか凄かったものの、ウィーン・フィルにしては些かラフな━━つまり「ウィーン国立歌劇場管弦楽団」としてのルーティン公演のような雰囲気がなくもない演奏であった。ホルンの不調や、金管群と木管群のアンサンブルの悪さは、単なる練習不足ともいえない、何か他の原因によるものではないか?

 「謝肉祭」に至っては、このくらいの演奏なら、他のオーケストラだって━━と思えるような出来だったのである。結局、ブラームスの「二重協奏曲」が最もまとまりのいい、瑞々しさと落ち着きとを蘇らせた演奏だったと言えるだろうか。アンコールではJ・シュトラウスⅡの「レモンの花咲くところ」と「浮気心」を演奏したが、この2曲で面目を保った。
 来週はサントリーホールで別のプログラムを聴く予定。それまでには、彼らもウィーン・フィルの本領を取り戻しているだろうと思いたい。

2018・11・14(水)エフゲニー・キーシン・ピアノ・リサイタル

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 マチネーの演劇を観たあと、そのまま東京芸術劇場に居座り━━といっても近くの店でコーヒーを飲みつつパソコンに向かい、仕事をしていたのだが━━頃合いを見て夜のキーシン・リサイタルに向かう。
 プログラムが変更になって、最初に発表された「ハンマークラヴィーア・ソナタ」などが消え去ったのが残念だ。彼はすでに欧米でこの曲を弾き、好評を得たはずだから、東京でも弾いて欲しかったところだ。
 結局今回の日本でのプログラムは、第1部がショパンの「夜想曲」の「作品55の1」と「62の2」、シューマンの「ソナタ第3番」、第2部がラフマニノフの「10の前奏曲 作品23」からの第1~7番、「13の前奏曲 作品32」からの第10、12、13番となった。

 前回の来日の際に弾いたシューベルトとスクリャービンでもそうだったが、今回の演奏でも、やはりお国もの━━ロシアものの方が、どうしても強いインパクトを残してしまう。ショパンとシューマンでの演奏が意外に淡白に感じられたこともあってか、ラフマニノフの「前奏曲集」での力感に溢れた演奏がいっそう目立つ結果になる。

 ショパンのリリシズムと、ベートーヴェンの豪快なスケルツォの精神とを併せ受け継いだようなこの作品群で、キーシンが聴かせたソロは━━これも以前に比べればやや淡白な印象ではあったのだが━━やはり魅力を感じさせた。豪快な音の奔流の裡に、一つ一つの音が翻り躍って煌めき、素晴らしいアクセントをつける。「作品23の5」の中ほど、哀愁の歌から豪壮な躍動に戻りはじめるあたりの呼吸の巧みなこと!

 アンコールはまたたくさん弾くのではと警戒し、シューマンの「トロイメライ」と、彼の自作の何とかいう「タンゴ」を聴かせてもらったところでこちらは撤退してしまったのだが、そのあとはショパンのポロネーズが弾かれただけであっさり終ったらしい(6日のサントリーホール公演と同じだったのか?)。なんせ去ぬる年には、10時10分までアンコールを弾き続けたこともあった彼なので・・・・(最後まで聴いたが)。キーシンも、そういう面でも淡白になったのか?

2018・11・14(水)野田秀樹作・演出「贋作 桜の森の満開の下」

      東京芸術劇場プレイハウス  1時30分

 1989年に初演された「贋作 桜の森の満開の下」(昨年創られた歌舞伎仕様の「野田版 桜の森の満開の下」とは異なるものの由、私は観ていない)が17年ぶり、3回目(?)の再演。

 野田秀樹自身(ヒダの王)を含め、妻夫木聡(耳男)、深津絵里(夜長姫)、天海祐希(オオアマ)、古田新太(マナコ)、藤井隆(赤名人)ら人気俳優たちが出演する舞台とあって、客席は超満員である。
 今回は9月1日からの東京公演を皮切りに、9月末~10月初のパリ公演を挟み、大阪、北九州と公演して、11月30日から25日まで(休演日あり)、総計59回の公演というから凄いものだ。

 桜の花一色に彩られた舞台(堀尾幸男美術)で、野田秀樹特有の「言葉の遊び」を交えたセリフが猛烈なスピードと大音声で展開される。
 テレビでしか知らなかった深津絵里が、よくまああんなに絶叫と地声とを交互に聞かせる幅広い発声を続けられるものだとか、舞台俳優というものは、本当に咽喉を鍛えているんだなとか、私のような素人ファンは、ただもう感心するばかりである。

 桜吹雪の中に浮かび上がる鬼の顔(面)は、まさに日本独特の素晴らしい「絵」であった。そして、喜劇の裡に正義と権力と鬼性との軋轢が描かれて行くさまも、すこぶる見事だった。4時半頃終演。

2018・11・13(火)サンクトペテルブルク・フィルの「イワン雷帝」

      サントリーホール  7時

 芸術監督・首席指揮者のテミルカーノフが健康を害し、突然来日が中止になったのは痛恨の極みだったが、今回の注目プログラム━━プロコフィエフのオラトリオ「イワン雷帝」(スタセヴィチ編)は、同団の指揮者ニコライ・アレクセーエフにより、当初の予定通り演奏された。

 アレクセーエフは、10年前の新日本フィル客演の際(当時はエストニア国立響のシェフだった)に聴いた時には、かなり豪放な演奏を創る人だという印象を得ていたのだが、今回はまるで別人の如く控えめに、正確に、手堅く、生真面目にこの曲をまとめ上げていたのは意外である。
 曲の中ほど、主人公イワン4世が貴族たちに懇願する場面などではミステリアスな緊迫感を聴かせていたけれども、全体としてはやや平板な演奏になっていたという印象は否定できぬ。御大テミルカーノフだったら、もっとデモーニッシュな雰囲気を創っただろうと思うのだが・・・・。

 しかしとにかく、オーケストラはいい。平板な演奏と雖も、ロシアのオケならではの色彩感と、作品に寄せる共感とがあふれ出ていて、これだけは絶対の強みがある。
 それに今回はニコライ・ブロフによるロシア語のナレーションが付いていたことが、作品の迫力を倍加させていた。このロシア語の語りは、ゲルギエフのCDにもソフィエフのCDにも入っていない(先頃のソヒエフとN響の演奏会ではナレーションが入っていたが、日本語だった)ので、私も今回初めて聴く機会を得たのだが、これが入ると物語が解り易くなり、前述の「貴族への懇願」以降のくだりも含め、音楽だけではあまりピンと来ないところでも、劇的な面白さを味わうことができる。大変有難かった。

 合唱には、東京音楽大学合唱団が出演した。大編成にもかかわらず、クライマックス個所などでは、ロシアの大オーケストラの咆哮に対抗するには、いかにも華奢で繊細な感を免れまい。だが、有名なア・カペラの合唱「タタールの大草原」(「戦争と平和」でも使われた旋律。私の大好きな曲だ)や、終り近くに現われる聖歌「神よ汝の民を守り給え」(チャイコフスキーが「1812年」で使った)などでは、弱音の美しさをよく出していた。これはこれで大健闘だったと思うのだが。

 今回は「フョードルの歌」は浅井隆仁(Bs)により歌われたが、一方アルト・ソロで歌われる「大海原」などを含め、いくつかのカットがあった。また、同じスタセヴィチ版を使用しながらも、指揮者によって曲順も少し異なるようで、今日演奏された曲順は、ソヒエフの指揮したCDより、ゲルギエフが指揮したCDでのそれに近いようであった。

2018・11・12(月)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 サントリーホールでのサンクトペテルブルク・フィルも聴きたかったが、先日(11月3日)にバッティストーニが九州交響楽団を指揮したロッシーニの序曲集とマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」があまりに面白かったので、今日の東京フィルのロッシーニ序曲集とシューベルトの「ザ・グレイト」は如何にと思い、こちらを選ぶ。

 今日演奏されたロッシーニの序曲は、「アルジェのイタリア女」と、「チェネレントラ」と、「セビリャの理髪師」。
 こちらの期待が大きすぎたか、1曲目と2曲目は予想したほど熱狂度が高くなく、アンサンブルの点でも、このオケがオペラのピットで演奏する時のような例の癖が露呈していたのには、少々落胆。練習時間が少なかったか? 
 いつも演奏し慣れているであろう「セビリャの理髪師」序曲に至って、漸くこのコンビらしい熱気と追い込みの良い演奏で、盛り上がりを見せた。

 第2部での「交響曲第8番《ザ・グレイト》」は、この曲のリズミカルな躍動と、溢れるカンタービレとを、あたかもロッシーニの洒脱な活気に溢れた音楽の延長線上に位置づけたような解釈の演奏━━とでも喩えたらいいだろうか。
 もっともこれは、公開GPかどこかでバッティストーニがロッシーニと「ザ・グレイト」との関連性について語っていた、という話を聞いたことから私が解釈したことである。
 シューベルトの交響曲におけるロッシーニ的なものは、「第6番」に最もよく現われているように思うのだが、なるほどこの「ザ・グレイト」においても、特に第4楽章には「リズムに乗ったクレッシェンド」の手法が感じられなくもない。

 バッティストーニは躍動するような快速テンポで、この長大な交響曲をひたすら煽り立て、常にクレッシェンドする音楽━━絶え間ない上昇志向の音楽とでもいうべきものに構築して行った。演奏時間もなんと47分(両端楽章の提示部反復は無し)という短さで、テンポが如何に速かったかを証明しているだろう。
 表情の変化は、主としてデュナミークの頻繁な変化━━細かい漸強と漸弱によって付けられる。これはどうやらバッティストーニの得意技のようである。
 コンサートマスターは近藤薫。

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