2017-01

2017・1・14(土)秋山和慶指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 1月定期。メシアンの「忘れられた捧げもの」、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」、フローラン・シュミットの「サロメの悲劇」━━という、非常に意欲的なプログラムが組まれている。
 ジョナサン・ノットの音楽監督就任以来、東京響の定期での曲目編成には、こういう近・現代ものが極度に増えたような印象がある。かつてはアルブレヒト常任時代の読響、次いでアルミンク音楽監督時代の新日本フィルがこういった大胆路線で気を吐いていたものだが、今やそれは東京響に引き継がれたという感だ。
 今日のピアノ・ソロは小菅優、コンサートマスターは水谷晃。

 何を措いても、秋山和慶(桂冠指揮者)の指揮の巧いこと! 
 複雑で多彩な大管弦楽のパートを、見事に均整を保って微塵の隙もなく構築、明晰なサウンドを響かせる。正確過ぎて几帳面で面白味に不足する、という人もいるが━━私も彼のロマン派音楽においては同感な部分もあるが、このような近・現代のレパートリーに関しては、彼の指揮の鮮やかさに脱帽するほかはない。

 今日の演奏会でも、メシアンの作品は、あまりメシアンらしくない端整な佇まいを備えて演奏された。また、「パルジファル」とドビュッシーと、それに「惑星」の先取り?とが入り混じったようなフローラン・シュミットの「サロメの悲劇」は、たしかに端整さが勝ちすぎた演奏という印象はあったけれど、立派な構築であることに変わりはなかった。

 だが、今日のハイライトは何といっても、この2人の作曲家の作品を前後に置いて関連させた、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」ではなかったろうか。小菅優のソロは闊達で素晴らしく、秋山と東京響の演奏も瑞々しく多彩で豊麗で、しかも純な清澄さにあふれていた。

 この曲、公開初演は1967年11月29日の東京文化会館、森正指揮のN響、中村紘子のソロによるもので、私はうろ覚えながら、どうもそれを現場で聴いたような記憶があるのだが━━当時のことだから、あまりピンとはこなかった。
 そもそも、あの頃聴いた日本のオーケストラ曲の多くは、おしなべて音が薄く、小奇麗ではあるが端整過ぎて冷たい、という印象だったのだ。当時録音されたレコードで聴いてもほぼ同じ感がするだろう。

 だがそれが不思議にも、今日のオケによるナマ演奏で改めて聴いてみると、驚くほど豊潤で多彩で、雄弁な音楽となって甦って来る。これは必ずしも私だけの感想ではないだろう。演奏スタイルの変遷か、オーケストラや指揮者のスタイルが変わったのか、などということまで考えてしまう。

 この矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」も同様である。特にそのミステリアスな第2楽章が、恐ろしい緊迫感にあふれ、作曲者の言う通り、悪夢の中をさまようような不気味さで聴き手をぞっとさせることは、昔聞いた印象以上のものだ。この第2楽章ひとつ取ってみても、この曲が日本の作曲史における大エポックなのではなかったか、という気までして来る。
 先日の柴田南雄の作品集と同様、日本の先人作曲家たちの作品を見直すことは、私たちに大きな宝をもたらすことになりそうである。

2017・1・12(木)オーケストラ・アンサンブル金沢 東京公演

     紀尾井ホール  7時

 「ニューイヤーコンサート2017in東京」と題された演奏会で、金沢(8日)、富山(9日)、大阪(11日)と回って今夜が最終日。相変わらずフットワークの軽い足長オーケストラだ。
 今回の指揮は音楽監督の井上道義ではなく、バロック・ヴァイオリンの大家エンリコ・オノフリ。足の長い痩躯を躍動させ、ヴァイオリンに付けた長い房(?)を首に巻きつけたおなじみのスタイルでエネルギッシュに弾き振りする。

 前半にヴィヴァルディの「祝されたセーナ」の「シンフォニア」と「ヴァイオリン協奏曲 作品3の3」、ヘンデルの「時と真理の勝利」からの「神により選ばれた天の使者」および「王宮の花火の音楽」。後半はヴァイオリンを持たず指揮専門で、モーツァルトの「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」および「ハフナー交響曲」というプログラムだった。
 ソプラノ・ソロは森麻季、チェンバロが桒形亜樹子、コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。

 まことに「音楽の新年」らしい爽やかで、品が良くて、快いプログラムだ。特に前半のような曲目を、オーケストラ演奏会で聴ける機会は滅多にない。
 バロック音楽の清澄爽快な響きをそのまま、室内合奏団のようなスタイルでなく、いわゆる「管弦楽団」的なシンフォニックかつスケールの大きな演奏スタイルで聴かせることができるオケは、この「オーケストラ・アンサンブル金沢」を以って国内第一と言うことができるだろう。

 聴き慣れた「調和の幻想」が颯爽と、しかも厚みのある音で始まった時には、何と胸のすくような、気持のいい演奏かと、惚れ惚れしたくらいであった。そして「王宮の花火の音楽」では、金管とティンパニがおそろしく豪快に鳴り渡り、まさにこの作品に相応しい祝典的な雰囲気を醸し出す。エンリコ・オノフリのダイナミズムというか、良い意味でのハッタリというか、こういう解放的で突き抜けた「王宮の花火」は、聴いていて実に痛快なものがある。

 また後半では、チェンバロを加えた「ハフナー交響曲」の演奏もすこぶる表情が大きく、叩きつけるティンパニの鋭さも印象的だが、大仰なリタルダンドの多用(第3楽章)など、自らが愉しみまくっているようなオノフリの指揮が微笑ましい。それは些か荒っぽいタッチではあったけれども、こじんまりしたクソ真面目な演奏よりも、勢い全開のこのようなステージのほうが、なんぼ面白いかと思う。

2017・1・10(火)日下紗矢子、C・ハーゲン&河村尚子

      トッパンホール  7時

 「トッパンホール ニューイヤーコンサート 2017」と銘打たれた演奏会で、プログラムはベートーヴェンの「チェロ・ソナタ第2番」、コダーイの「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」、シューベルトの「ピアノ三重奏曲第2番」。
 いずれ劣らぬ実力者揃い。3人の個性がはっきりと感じられて、実に聴き応えのある演奏会となった。

 ベートーヴェンのソナタでは、河村尚子のピアノが見事な活気を見せてクレメンス・ハーゲンのチェロとわたり合い、コダーイの二重奏曲では日下紗矢子のヴァイオリンがハーゲンと丁々発止の応酬を繰り広げる。
 いずれにおいても、ベテランのハーゲンがむしろ押され気味といった感。日本の2人の女性のパワーを大いに楽しませてもらった。以上が第1部。

 第2部の三重奏曲では多分ハーゲンの逆襲が聴かれるのでは、と予想していたら、案の定。落ちついた風格を全身に漂わせ、アンサンブルをしっかりと支えたのは、さすが千軍万馬の弦楽四重奏曲のメンバーの貫録だ。

 そして日下紗矢子がこれまた見事にぴたりとアンサンブルを合わせたのも、さすがベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団と読響のコンサートマスターだけのことはある。コダーイの時と同様、もうすこし自己主張をみせてもいいのではないかと思ったほどだが、このあたりが、ソロとアンサンブルでスタイルを使い分けるという彼女の方針なのだろう。
 この2人に対し、河村尚子は、やはり「ソリスト」だ。━━生き生きしたピアノではあるものの、第1楽章と第2楽章では、「三重奏曲」のアンサンブルとはどこか違うようなものを感じさせていた。

 ところが第3楽章の中間あたりから、ものの見事に3人のアンサンブルがぴたりと決まって来たのである。第4楽章後半など、これぞトリオの醍醐味、という演奏だったであろう。
 とはいえこれは、途中から呼吸が合って来たということではなく、むしろ作品の構造が大きく作用しているのだろうと思われる。シューベルトは、最初の二つの楽章ではピアノを比較的自由に歌わせていたが、第3楽章以降では、3つの楽器がしっとりと合うような手法を多用しているとも言えるのだから。

 いずれにしても、今夜は良い「ニューイヤーコンサート」であった。9時10分終演。

2017・1・9(月)佐々木典子&大澤一彰デュオ・リサイタル

     東京文化会館小ホール  2時

 佐々木典子(ソプラノ)と大澤一彰(テノール)の華やかなコンサート。
 ヴェルディ、プッチーニ、ベルリーニ、グノー、ワーグナー、コルンゴルト、レハールなどのオペラのアリアから二重唱、滝廉太郎、武満徹ら日本の歌曲にいたるまで、実に大量多彩なプログラミングで構成されていた。ピアノは仲田淳也。

 所用のため演奏会の前半しか聴けなかったけれど、ふくよかで温かいヒューマンな佐々木典子と、高音域を小気味よく爽やかに響かせる大澤一彰の明るい歌唱が映えて、ぎっしりと満席のホールはオペラ歌手のコンサートらしく盛り上がりをみせていた。

2017・1・7(土)飯森範親指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      横浜みなとみらいホール  6時

 サントリーホールでの演奏会が4時に終ったので、クルマで横浜へ向かう。ガラガラの首都高だから、のんびり定速で走っても、Door to doorで1時間もかからない。
 こちらは日本フィルの横浜定期演奏会のシーズン最終日で、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは神尾真由子)と、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」が演奏された。コンサートマスターは木野雅之。

 神尾真由子のヴァイオリンは、音色といい、表情といい、いつものように濃厚そのものだ。ただしそこには、妖艶とか艶麗とか甘美さとかいったものとは正反対の、もっと攻撃的で激しい、凄愴な陰翳を感じさせるものがある。そういうブラームスを聴くと、初めは少々まごつかざるを得ないが、しかしこれが全曲の終りに近づくまでには、一種の魔性の糸に絡め獲られたような気持になって来るのだから不思議である。
 が、我に返って考えれば、彼女のこういった演奏は、アンコールで弾いたパガニーニの「カプリース」での方にいっそうの良さが発揮されていたと見るのが妥当かもしれない。

 「新世界交響曲」では、飯森範親が、これもかなり念の入った、思い入れの強い指揮を聴かせてくれた。
 第4楽章の再現部に入ったあと、(Poco)meno mossoから大きくテンポを落したのはスコアの指定通りだが、そのあとのTempoⅠの個所に入ってもまだテンポを回復させなかった(ように聞こえた)のは、彼のことだから何か根拠があってやっていたのかもしれないが、私の正直な印象で言えば、このあたりから終結部に入るまでの間では、演奏にやや誇張めいたものが感じられ、その結果、音楽にもやや弛緩が感じられてしまったのだが。

 日本フィルは、今日は、ありていに言えば、まず並みの演奏、という出来であろう。

 終演後、ホワイエで「シーズン・ファイナル・パーティ」が開催された。無料でドリンクがふるまわれる。これは事務局及び楽員と横浜の聴衆との交流を狙いとするもので、シーズンの最終定期のあとに毎年やっている企画だそうである。こういうところが、昔から聴衆との結びつきを重要視している日本フィルの偉いところだ。
 私も1杯のソフト・ドリンクにでもあずかろうかとカウンターへ足を運んだのだが━━お婆さん連中の割り込み、押しのけ、突き飛ばし、ビールのコップをひとにぶつけながら邪魔そうにこちらを睨みつけて通り過ぎる荒々しい行動に怖れをなし、諦めて早々に退散した。あとで聞けば、オーボエ・クァルテットの演奏などの出しものもあったそうである。

 巷では若者たちの礼儀知らずが指摘されていますが、クラシックの会場では若者たちは常に礼儀正しく、むしろ高齢者たちのほうに、横柄で乱暴なのが多いのです。威張る、すぐキレる。
 特にロビーなどでガンと人にぶつかりながら知らん顔をして通り抜けて行く男の高齢者の多いことは、驚くほどですな。私も高齢者のはしくれ(?)ゆえ、気がつかぬうちにやっているかもしれない。自戒しましょう。

2017・1・7(土)吉野直子ハープ・リサイタル

     サントリーホール ブルーローズ  2時

 ハープのリサイタルは、私の好みからすると、新年の最初に聴く演奏会としてはこれ以上のものはない、と言ってもいいほどである。しかも演奏者は吉野直子。

 プログラムは、ブリテンの「組曲 作品83」、クシェネクの「ソナタ 作品150」、ヒンデミットの「ソナタ」、サルツェードの「古代様式の主題による変奏曲」と「シンティレーション」と「バラード 作品28」━━という選曲で、前半3曲のコワモテの雰囲気が、後半のサルツェードで一転解放されるといった具合。
 いかにも「濃い」プログラムではあったが、それを堅苦しい雰囲気に陥ることから救っていたものは、ほかならぬ彼女の、真摯でかつ温かい、ヒューマンな感覚に満ちた演奏であったろう。

 ただし今回は超満席の小ホールとあって、インティメートな空気はあったものの、残響は殆どなく、そのためハープの音色に玲瓏さは薄められ、リアルな存在感が強められた。それがいいという人もいるだろうが、私の好みからすると、もう少し空間的な拡がりをもった会場で聴きたかったところであり・・・・。

2016・12・26(月)ヤクブ・フルシャ指揮東京都響「第9」

     サントリーホール  7時

 12月の都響は首席客演指揮者フルシャの世界。「第9」は3回指揮して、今日はその最終公演。協演は森谷真理、富岡明子、福井敬、甲斐栄次郎、二期会合唱団。コンサートマスターは矢部達哉。

 予想通り、引き締まって瑞々しく、贅肉も誇張も皆無でストレートなフルシャの指揮だ。といって、昨日のタリのような坦々たる音楽づくりとは違い、デュナミークの対比もさらに大きな、豊かな起伏を備えた構築である。
 聴き手がベートーヴェンを古典派の作曲家として捉え、一切の猥雑物を排除してその純粋な精神とのみ対決しよう、というのであれば、この演奏は充分それに応えることのできる存在であろう。呼吸の合った指揮者とオケの演奏は、アンサンブルも個々のソロも、響きのバランスも上々であった。

 プログラムは、この「第9」1曲のみ。気分の上でも集中できるし、早く終るからいい━━などというのはわれわれ仕事で聴きに行く業界人の台詞だが、お金を払って、特に家族連れで「年末の行事」として聴きに行く人々の中には、何かプラス1曲、という好みもあるかもしれない。
 だが今日もほぼ満席、それも入門者というよりは、このフルシャと都響のとにかく「第9」を聴きに来た、というコアなお客さんがかなりの数を占めていたのでは━━とはこちらの勝手な推測だが、演奏終了後の拍手やブラヴォ―の声の質からすると、それも当らずとも遠からず、ではなかろうか。

2016・12・25(日)アヌ・タリ指揮東京フィル「第9」

      BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 エストニアの美人指揮者、アヌ・タリが東京フィルハーモニー交響楽団に客演した「第9」。
 協演は小川里美、向野由美子、宮里直樹、上江隼人、東京オペラシンガーズ。コンサートマスターは三浦章宏。

 リズム感は明晰で、オーケストラをすっきりした音で響かせ、特にホルンやトランペットやティンパニを明快に強調して小気味よいダイナミズムを構築して行く。そのあたりはいいのだが、しかし前半は何とも坦々とした音楽づくりであり、これほど「なにげない」演奏の「第9」もないのではないかとさえ思わせた。

 ところが、第4楽章の「歓喜の主題」がオーケストラでふくれ上がって行く個所のあたりから、演奏の生気がみるみる壮んになりはじめ、それまでの速いテンポでたたみかける推進力も、本来の昂揚感を伴いつつ発揮されて行ったのである。最後の歓喜のクライマックスでは、それに相応しい盛り上がりも聴かれた。

 このアヌ・タリ、現代ものが鮮やかなことでは定評があるが、清澄な美しい音をつくることでも知られている。今回もこの第4楽章で、東京フィルから見事に澄んだ音色を引き出したのには感心させられた。これだけでもたいした才能に違いない。

 第1部には、エストニアの作曲家ヘイノ・エッレルの「夜明け」という作品が置かれていた。1918年に作曲された10分足らずの小品だが、シベリウスとドビュッシーとR・シュトラウスの━━すべてその同時代の作曲家である━━影響も聞かれる美しいロマンティックな作品である。
 この曲、終ったのかどうか判らぬ終わり方をした上に、タリがそれらしいジェスチュアをしないまま立っていたので、客の1人が拍手をしかけてすぐ止めるといった空気の裡に、客席は静まり返ったままだった。すると彼女がちょっと首を曲げて半身のまま客席を振り返り、「終ったんですけど?」という表情を見せたので、場内からは軽い笑とともに拍手が起こるという一幕もあった。

 終演は4時35分。

2016・12・24(土)「浦安音楽ホール」開館プレ・イベント

      浦安市民プラザ Wave101

 JR京葉線の新浦安駅のすぐ傍に、新しく「浦安音楽ホール」が来年4月にオープンするとのこと。「地元に音響の良いコンサートホールが欲しい」という市民の声に応えたものだそうで、室内楽専用の「コンサートホール」(303席、固定席)と「ハーモニーホール」(201席、可動席)および5つのスタジオを含む音楽ホールとなっている。
 現在は未だ工事中だが、写真を見ると、特にコンサートホールは茶色系の内装で、落ち着いた雰囲気が感じられるようだ。

 今回は、プレス担当の長野隆人さん(いわきアリオスの広報グループチーフ)から案内を貰ったので、プレ・イベントだがちょっと覗きに行く。駅前の浦安市民プラザのギャラリーで、ちょうど上野耕平(サックス)と「こばんだウィンズ」が、2時から「くるみ割り人形」や「ルネ王の暖炉」「ディズニー・メドレー」といった曲を演奏、家族連れの客たちが会場を埋めていた。こういうお客さんが、今後もそのままクラシックのコンサートに来てくれるといいのだが━━。
 開館準備・事業のコンサルティング・チームはしっかりしているようだから、新しい音楽拠点を築いてくれることを期待したい。

2016・12・23(金)シュトックハウゼン「グルッペン」京都市響

      京都市勧業館みやこめっせ第3展示場  2時

 京都市響の創立60周年記念特別演奏会と銘打たれた大イヴェント。

 京響の3人の指揮者たち━━広上淳一、高関健、下野竜也が3群の小オーケストラをそれぞれ同時に指揮して演奏するシュトックハウゼンの「グルッペン」が、今日のメイン・プロである。
 この演奏は2回繰り返され、その間の休憩時間に聴衆は気に入った席に自由に移動して、異なった位置から聴き直すことができる。今回はさらにジョン・ケージの「5つのオーケストラのための30の小品」も加えられたので、甚だ前衛的な(?)演奏会になった。

 会場は「みやこめっせ」の広大な第3展示場。奥の下手側・中央・上手側に1グループずつのオーケストラが配置された。
 そのそれぞれを指揮する広上、高関、下野がアイ・コンタクトを交わしつつ、互いに呼吸を図りながら指揮する光景も面白いが、何より3方向から響くオケの音塊が互いにぶつかったり調和したりしながら巨大な音場をつくるさまは、ナマの演奏でこそ味わえる醍醐味である。

 前回聴いたサントリーホールでの演奏(2009年8月31日、マルッキ他の指揮、N響)では、残響の多いアコースティックのために3群の音が調和し、管弦楽のテクスチュアの緻密さが印象づけられたものだが、今回は会場の音響がデッドなこともあって、音がそれぞれ分離し、調和というよりは対立の魅力という印象の方が強くなっていたかもしれない。
 そのため、3群のオケの音がそれぞれ「点」としての性格を強め、それらが結び合されるとしても一本の太い「流れ」にならないところが、ちょっと物足りなかったともいえよう。

 これは、会場の後方で聴いた第1回の演奏の際にも、両翼のオケに挟まれる前方で聴いた第2回の演奏でも同様だった。
 ただ後半で、打楽器陣が最強奏で呼応して行く個所だけは、「力の連鎖」とでもいうべき迫力を感じさせてくれただろう。

 いっぽう、ジョン・ケージの「5つのオーケストラのための30の小品」では、指揮に水戸博之、大谷麻由美という2人の若手も参加する。前述の3つのオーケストラに加え、後方両翼にそれぞれ1群ずつ配置されたオケと合わせての、5つの音源から交錯して響いて来る音は、すこぶるスリリングなものだった。
 ただし問題は、音楽と同時に響く「ラジオの音」である。今回は「ヴェニスの商人」のラジオ・ドラマとその解説(対談)が流されていたが、それがあまりにリアルな印象を与えるので、耳がそれを追いかけてしまい、結局、音楽を聴くには非常に煩わしく、気が散って音楽の印象さえ薄れてしまうという、逆効果を生み出してしまったのである。

 そういえば、初演(1993年8月24日サントリーホール 高関健、佐藤聡明、西村朗、松下功、細川俊夫、東京響)の際にも、「ラジオ」の部分では、あるニュースのナレーションが流れて、その内容がどぎつすぎて、音楽への注意力を逸らしてしまったのではなかったっけ? 

 とはいえ、関西でこれだけの選曲、これだけの企画を実現した関係者の熱意と努力には、大いなる賛辞を贈りたい。そもそもの「言い出しっぺ」は下野竜也だそうだが、近年絶好調の京都市響の意欲も立派なものであった。

 会場には1700の椅子が並べられたそうで、その大半が埋まっていたのだから、1600人くらいは入っていたことになるか。私は正直なところ、お客さんの3分の1くらいは休憩時間に帰ってしまうのではないか、と他人事ながら危惧していたのだが、案に相違して、ほとんどの聴衆が最後まで残って聴いていた。
 それだけに「グルッペン」の2回目の演奏の前の「席獲り合戦」は熾烈を極め、前方の席は押し合いへし合いの様相を呈した。

 こういう争奪戦がからきし苦手な私などは、とても前方の席は獲れまいと諦めていたのだが━━7年前の時には、移動の途中で名刺を出して挨拶される人とかち合ったりして、見事に失敗していた━━何と幸いにも、理想的な位置に近い席に座ることができた。というのは、この種の行動に関しては千軍万馬の強者たる元新聞記者の女性が、実に素早く中心部に進入し、他の2人の女性記者の分と合わせて4つの席を鮮やかに確保してくれたからであった。
 終演は4時35分。
    モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2016・12・21(水)「没後20年 武満徹の映画音楽」

    BUNKAMURA オーチャードホール  7時

 「不良少年」「伊豆の踊子」「どですかでん」「日本の青春」「太平洋ひとりぼっち」「ホゼー・トレス」「狂った果実」「最後の審判」「他人の顔」「写楽」など、懐かしい名前がずらり並んだプログラムだったが、演奏者は渡辺香津美、鈴木大介、Coba、ヤヒロトモヒロといった人たちなので、所謂クラシック系現代音楽(?)のスタイルではない。

 しかし、さすがに名手たちの演奏だから、それはもう、見事なものである。アコーディオンのPAの音響が時に大きすぎて「武満的」でなかったことを除けば、良いコンサートだった。カルメン・マキが歌った「死んだ男の残したものは」や、渡辺香津美とヤヒロが即興で演奏した「Tribute to Toru」もいい。

 同一の作品の場合でも編曲などにより、クラシック系のジャンルのみならず、ジャズのジャンルにおいても存在を確立しているというのが、武満徹の音楽の面白いところだろう。
 「ホゼー・トレス」や「他人の顔」などには、オーケストラ版で聴くのとは全く別の作品になったかのような趣もある。

 ただ、こうしたコンサートは貴重だが、欲を言えば、この2150席のホールは、あまりにも大きすぎた。せめてオペラシティ(1600席程度)くらいの大きさのホールで、それもPAなしで聴きたいところだった。

 それにしても、武満徹の記念年だった今年、日本の音楽界は、この大作曲家に対して些か冷たかったようである。オーケストラ作品による大特集演奏会としては、来年1月26日、井上道義と新日本フィルの定期を待つしかない。

2016・12・19(月)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 定期演奏会Aシリーズで、フルシャがマルティヌーの「交響曲第5番」とショスタコーヴィチの「交響曲第10番」を指揮。コンサートマスターは四方恭子。

 フルシャのショスタコーヴィチの「10番」は、つい先ごろ、大阪フィルとの演奏で聴いたばかり。
 つまり今日は彼が手がける「二度目の《タコ10》」にあたるわけだが、前回と全く同じように、隙なくがっしりと組み立てた演奏が強い印象を残す。大阪フィルよりは気心が知れた都響とのステージであるだけに、いろいろな意味での呼吸もぴったり合って、ほぼ完璧な演奏(これ自体が曖昧な言い方だが)になっていたと言えるのではないか。

 ただ、極めて生真面目で几帳面な指揮のために、作品に込められたアイロニー感といったものは、あまり伝わって来ない。全曲最後の、作曲者の名を詠み込んだモティーフによる熱狂の終結個所が、全く羽目を外さぬエンディングになっていたのも大阪フィルとの演奏の時と同じで、あまり面白味が無い。

 こういうきっちりとした演奏でやられた時のこの「タコ10」は━━それはそれで作品のある面を浮き彫りにしているのは確かだが━━特に第1楽章など、えらく長々しく聞こえてしまい、私にはどうにもピンと来なくなるのだ。
 いや、そんなことを思うのは、今年この「10番」をたくさん聴き過ぎたせいもあるのかもしれない。

 今夜の演奏会では、従ってむしろ、マルティヌーの「第5交響曲」の方が、はるかに強い印象を残してくれた。
 フルシャのマルティヌーと言えば、6年前の12月20日、所も同じこの東京文化会館で、この都響を指揮した「第3交響曲」の見事な演奏がいまだに忘れ難いが、今日の「5番」も、それに劣らず感銘深い名演である。マルティヌーのミニマリズム的な曲想がこれほど快く陶酔的に聴けた「5番」の演奏は、私には初めての体験だった。

2016・12・18(日)静岡交響楽団第69回定期演奏会

      静岡市清水文化会館マリナートホール  2時

 前日、びわ湖ホールで「ラインの黄金」(来年3月上演)の入門講座を一席喋ったあと、清水に立ち寄って静岡交響楽団の定期演奏会「ベートーヴェン・シリーズ4 県民参加による《歓喜の歌》第九コンサート」を聴く。
 この会場を訪れるのはこれが2回目。東海道線清水駅に回廊で直結したホールで、目の前には富士山と駿河湾が見える。風光明美な点では全国でも指折りのロケーションといえるだろう。

 プログラムの第1部を指揮したのは、何と、静岡県の川勝平太知事だ。
 ベートーヴェンの「第7交響曲」第1楽章を、静岡響と静響ジュニアオーケストラ、常葉大学短期大学部音楽科による合同オーケストラとともに演奏した。
 川勝知事は、もともと早稲田大学経済学部教授や静岡文化芸術大学学長などを歴任した学者さんで、ヴァイオリンも弾き、高校時代はオケもやっていた由。指揮姿もすこぶる堂に入ったものである。

 ただし本職ではないから、イメージ的に振るのは当然だ。それゆえ、棒に頼らなくては弾けないようなレベルの弦楽器奏者の何人かが「飛び出す」ヘマをやる。こんなのは、コンサートマスターか首席奏者を見て出れば合うはずなのだが・・・・。
 知事は、慎重に振ったために、終始イン・テンポになり、盛り上がりを欠いたのは惜しい。次の機会にはもっと図々しく構えて、テンポを速めたり煽り立てたりする指揮も試みられたい。いずれにせよ、県知事がオーケストラの指揮をするなどというのは、非常に結構なことである。

 さて本来の「第9」の方を指揮したのは、静岡響常任指揮者の篠崎靖男であった。
 几帳面に音楽をまとめ、オーケストラをしっかりと構築する。この演奏に、さらに自由な感興を加え、もっと聴き手の心を揺り動かしてほしいところだ。演奏の骨格がしっかりしているのは、コンサートマスターの高木和弘をはじめ、各パートの首席に、白土文雄(コントラバス)ら、名だたる奏者を招聘しているからでもあろう。
 ソリストは西尾舞衣子、永井和子、五十嵐修、桝貴志。「県民参加による合唱団」も大いに健闘していた。

 演奏終了後には客席から「日本一!」という掛け声(これは知事が振ったあとにも聞こえたが)が飛ぶなど、微笑ましい雰囲気もあった。なお開演前には「ロビーコンサート」として、ホワイエの一角で、静響メンバーを加えた静岡ジュニアオーケストラの面々が篠崎の指揮でルロイ・アンダーソンの「そりすべり」を演奏していたが、若い人たちの真剣な演奏態度は、視る者に強い感銘を残した。
 演奏会は、4時前に終る。だれでも参加していいというティーパーティなどもあったが、些か疲労を覚えたのでそのまま失礼する。清水から静岡まではJRでたった10分。静岡駅4時37分の「ひかり」に乗る。

2016・12・13(火)カエターニ指揮読響&ポゴレリッチ

   サントリーホール  7時

 読響の定期演奏会ではあるけれど、イーヴォ・ポゴレリッチが客演ソリストとしてラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を弾く、というのがやはり話題の中心だろう。
 あの超個性的な「わが道を往く」ピアニストであるポゴレリッチがコンチェルトを演奏すれば、また天下の奇演・奇観になるのではないかという期待(?)が、どうしても湧いて来てしまう。

 彼が先年(2010年4月28日)、デュトワ&フィラデルフィア管と東京で協演、ショパンの「2番」で、指揮者とオケを無視するがごとき演奏を悠々と展開した時の━━演奏終了後の拍手に応えてポゴレリッチがいくら誘っても、デュトワは一切応じずに「いや、どうぞどうぞ、貴殿おひとりでどうぞ」という身振りをしたまま知らん顔をして指揮台に立っていたこと、楽員たちもコンマスら2,3人を除いてポゴレリッチに拍手もせず、ソッポを向いたまま座っていたこと、などの光景は、未だに記憶に新しい。
 さて今回はどうなるか、と。

 そのポゴレリッチ、冒頭のソロは意外に普通のテンポでスタートしたが、その和音が3つ目あたりから早くも暗い翳りを帯び、凶暴なほどの激しい表情に変わり始めたのには慄然とさせられた。
 この曲がいくら豪壮な力強さを備えているといっても、このポゴレリッチの演奏ほど、悪魔的な物凄さを感じさせたものはない。

 ほぼ全曲がこの調子であった。その度外れた強靱さには、聴いているこちらの精神が威嚇され、鞭打たれるような思いにさえなって来る。
 しかしそれでも、第2楽章の終結の個所や、第3楽章の大詰めなどにおける暗い和音の、毅然たる剛直な響きは、圧倒的な力に満ち、襟を正す思いにさせてしまう。実に不思議な演奏だ。つまり、たじろがされるけれども、やはり凄い、と思わせる演奏なのである。

 ポゴレリッチは、作曲者ラフマニノフ本人でさえ想像しなかったイメージで、この曲を演奏したのだった。この大胆不敵で、作曲者をも畏れぬ感性は、激しく攻撃されて然るべきだが、しかし、それと同じ数の称賛を受けても然るべきだと思う。
 アンコールには第2楽章が演奏されたが、この時は少し落ち着いた演奏という印象を受けたのは、あるいはこちらの受容の気分が、彼の世界に少し慣れたせいなのかもしれぬ。

 それにしても、客演指揮者のオレグ・カエターニは、このコンチェルトでは、読響を異様なほどにガンガン鳴らし過ぎた。少なくとも、RC席で聴いていると、そう感じられた。これは指揮者の意向か、それともポゴレリッチの注文によるものか?

 以上は第2部での演奏である。第1部もロシア・プロだったが、こちらはカエターニの猛烈なエネルギーを持った指揮が生きていた。
 ムソルグスキーのオペラ「ホヴァーンシチナ」からの「ペルシャの女奴隷の踊り」は、さほどのインパクトはない曲だから━━「前奏曲《モスクワ河の夜明け》」をやってもらった方がずっとよかったのに━━どうということはないが、次のボロディンの「交響曲第2番」のほうは、聴き応えがあった。粗暴なほどに荒々しいタッチながら、この曲の野性的な力強さがよく再現されていた。ここでの読響は力感たっぷり。コンサートマスターは小森谷巧。

2016・12・11(日)ノット指揮東京交響楽団 「コジ・ファン・トゥッテ」

     東京芸術劇場 コンサートホール  3時

 ジョナサン・ノットのモーツァルトのオペラはいいだろうと思っていたが、予想通り。
 引き締まって歯切れのいい速めのテンポで、小気味よく進む指揮である。
 ある傾向の人々がやるような、ことさらテンポをいじって矯めをつくるような小細工など弄しないのがいい。

 序曲が非常に速いテンポで演奏されたのに続き、そのテンポに乗ってアレック・シュレイダー(士官フェルランド)、マルクス・ヴェルバ(士官グリエルモ)、トマス・アレン(老哲学者ドン・アルフォンソ)が歌い出す3重唱の、なんと爽快なこと。息もつかせぬ快速で歌われて行く第1場の3つの3重唱とレチタティーヴォに心身を委ねていると、その快さに、風邪などどこかへ飛んでしまう。

 特に、マルクス・ヴェルバのナマが聴けたのは嬉しい。彼の歌唱も演技も、実によく決まっている。トマス・アレンは久しぶりに聴いたが、往年の馬力はもう望むべくもないものの、この老哲学者役としてはそれなりに風格も味も出て、文句のないステージであったろう。

 今回はそのトマス・アレンが舞台監督も受け持ち、ステージ前方で演技を行わせながら進行させるという上演だった。特別な衣装も小道具もない舞台ながらも、各役柄の表情は実に生き生きとして雄弁だ。ドラマに必要なものは、これだけで全てそろっている、と言ってもいい舞台であった。

 女声陣も、もちろん手堅く達者だ。私としては、フィオルディリージに最初予定されていたミア・パーションが聴けなかったのは残念だったが、代わりに登場したヴィクトリヤ・カミンスカイテも輝かしく歌っていた。マイテ・ボーモン(妹ドラベッラ)、ヴァレンティナ・ファルカス(女中デスピーナ)も闊達な歌唱と演技で、特にファルカスのデスピーナは愛らしい。
 なお合唱は新国立劇場合唱団。アルフォンソに雇われてインチキ芝居に一役買ったという設定の「人々」の雰囲気をそれなりに出していただろう。

 ノットと東響は、モーツァルトの魅力を充分に再現する躍動的な快演。
 ただ、そのノットの指揮だが━━前述のとおり快調であることは疑いのないことなのだが、ずっと聴いていると、もう少し音楽に色合いの変化というか、登場人物の心理の変化に即したニュアンスの変化が、演奏にだんだん欲しくなって来る。
 ただしこれは、デュナミークやテンポをもっと変化させればいいという意味ではない。そういう小細工をせずとも音楽に表情の変化を生れさせる芸の幅━━それを彼が持つようになる時期を待つことにしよう。
 6時40分終演。

2016・12・10(土)広上淳一指揮東京シティ・フィルハーモニック

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 大阪から早朝の新幹線で帰京。まだ咳が残るのだが、マスクをしてホールに出かける。演奏中に咳を堪えるこの辛さは、本人でないと解らない。危ない時には、フォルティッシモをひたすら必死に待ちわびるということになる。ピアノのリサイタルだったら、行くのを止めなければならぬ。

 広上淳一が客演指揮。ベルリオーズの序曲「海賊」と交響曲「イタリアのハロルド」、およびその2曲の間にプーランクのバレエ組曲「牝鹿」(めじか)を置くという洒落たプログラムである。「ハロルド」のソロは川本嘉子、コンサートマスターは松野弘明。

 チラシにはたしか「ベルリオーズの失恋劇場その2、男の刹那な最期」とかいう、解ったような解らないようなキャッチがついていたはずだが、とにかくこれは先月定期の下野竜也指揮の「幻想交響曲」に続く「失恋劇場」第2弾であり、ベルリオーズ・ツィクルスとしては9月の高関健指揮による「ファウストの劫罰」に続く第3回ということになる。

 この広上・下野・高関の3マエストロが、いずれも京都市響の重鎮━━それぞれ京都市響の常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザー、常任客演指揮者、常任首席客演指揮者というポストに在る人たちであることが面白い(3本の矢、と言っているんだって?)。
 とにかく、この3回とも掛け値なしの見事な演奏で、もっと多くの人が来て聴いてあげて欲しかったと思うのだが・・・・。

 広上淳一が振ると、オーケストラが躍動し、スウィングする。「海賊」のコーダなど、音楽の昂揚とともに、舞台全体が沸き立っているような感があった。オケが燃えている時でも、ぴりぴりとした雰囲気でなく、楽員たちが音楽を愉しんでいる、という雰囲気が客席に伝わって来るのである。
 こういう指揮者は、稀有の存在だろう。京都市交響楽団をあの水準まで引き上げた実績は驚異的だし、今やそれが彼の絶対の自信の基となっているのではないだろうか? 

 「牝鹿」はやや正面切ったシリアスな表情の演奏で、少し重くもあったが、シンフォニックな良さもあり、こちらも楽しく聴けた。
 そして「イタリアのハロルド」では、オケが派手に炸裂、豊麗かつ色彩的なサウンドで、胸のすくような演奏を聴かせてくれた。アンサンブルも、管のソリも快調だし、音のスケール感も重量感も充分、何より音楽が燃えたぎっているのがいい。シティ・フィル、このところ確かに好調である。

 ハロルド役を象徴するヴィオラ・ソロの川本嘉子もふくよかな演奏を繰り広げたが、ベルリオーズの責任で出番のなくなった第4楽章後半では、椅子にかけてみんなの演奏を聴くという段取り。それでも最後にソロに復帰したあとは、そのままオケと盛り上がり、ついに一緒にエンディングまで弾いてしまった。
 前回、どこかで彼女がこれを弾いた時にも、やはり最後までオケと一緒に弾いていたので、「死んだはずのハロルドが山賊になって大騒ぎじゃ、ストーリー的におかしいじゃない?」とご本人に突っ込んだところ、「どうしても最後まで一緒に弾きたくなっちゃうのよ」と宣うておられたが、今回も楽屋を訪ね、その話で大笑いした次第。

 真摯で、いい演奏だった。しかし、この客の入りでは、いくら何でもちょっと可哀想だ。みなさん、何とか聴いてあげて下さい。
       音楽の友2月号 Concert Reviews

2016・12・9(金)ヤクブ・フルシャ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

     フェスティバルホール(大阪) 7時

 一泊して、さらにもう一つ、大阪のオケを聴く。大阪フィルの定期の2日目だ。ヤクブ・フルシャが客演しての、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソリストは河村尚子)、ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」というプログラムである。コンサートマスターは田野倉雅明。

 今日の大フィルは、端整で、正確で、精密なアンサンブルが映え、凝縮した密度の濃い音楽を響かせてくれた。久しぶりに聴く大フィルの「完璧に近い」音である。隙のない、画然たる演奏である。
 しかしこうなると、先日のインバルが客演した際のあのモーツァルトや、マーラーの「5番」第1楽章でのしまりのない演奏は、一体何だったのかと思ってしまうのだが━━。

 ま、過ぎた話はともかく、老舗の大フィルが、いざその気になればこういう精密な演奏を聴かせることができる、ということを確認できただけでも嬉しい。昨夜の大阪響の熱演と併せ、大阪まで聴きに来た甲斐があるというものである。

 フルシャは、意外にも、この「10番」を指揮するのは今回が初めてなのだそうだ。プログラム冊子にも、自らそう書いている。
 実際の演奏では、第1楽章では曲の形式感を確立するまでには行かない印象があったとはいえ、第2楽章と第4楽章ではエネルギー性も過不足なかったし、第3楽章での「作曲者自身」と「秘かな恋人エルミーラ」の二つのモティーフの対比と絡みも、それなりに巧く出していただろう。フルシャらしく贅肉のない、ストレートな表情で押し切った演奏だった。第3楽章でのホルンのソロの良さも、特筆すべきものであった。

 だが、フルシャの端整な音楽づくりの良さが発揮されていたのは、実はむしろ第1部でのベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」の方だろう。
 ここでは、フルシャの引き締まった音楽と、河村尚子の清澄でスケールの大きな音楽とが、素晴らしい組み合わせを形づくっていた。とりわけ第2楽章などでは、オーケストラの冷徹で歯切れよいフォルテのスタッカートと、ピアノのモノローグ的な最弱音による歌(いずれもまさにスコアの指定通りである!)が絶妙な対比を為し、いっぽう前後の楽章では、オーケストラの端整な進行と、ピアノの毅然たる表情とが、これまた見事な対話を繰り広げていたのである。

 河村尚子も、一段とスケール感を増した。堂々たる演奏である。
 素晴らしいなと思ったのは、例えば第1楽章の第204~215小節で、8分音符がマルカートで上行を繰り返して行く個所。このリズムを、彼女は決然と強調し、音楽に凛とした力強さを加えていたのだが、その豪快さは、他になかなか聴けないようなものであった。

 また第1楽章冒頭、ピアノのソロの最後の音(第5小節)を、彼女は驚くほど、スパッと切った。まるでオーケストラ(弦合奏)に向かい、「私はこう音楽を始めた。で、あなたには何が出来る?」と鋭い問いを投げかけるかのように。
 これは、あまりにも挑戦的な弾き方に聞こえたが、実はそれは、この第5小節のピアノの最後の音がスコアでは8分音符であることを、私たちに改めて認識させてくれたのである。
 多くのピアニストは、この音を4分音符か、時には付点4分音符くらいの長さで、じっくりと余韻をこめて優しく弾く。だが彼女は、はっきりとこれをスコア通りに弾き、この協奏曲が、ふつう考えられているような単なる叙情的な性格のものではないことを、聴き手に気づかせたのだった。
      ☞モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2016・12・8(木)寺岡清高指揮大阪交響楽団

     ザ・シンフォニーホール(大阪)  7時

 常任指揮者・寺岡清高による、コルンゴルトとツェムリンスキーを組み合わせたプロ。
 コルンゴルト~ツェムリンスキー編の「雪だるま」前奏曲とセレナード、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは小林美樹)、ツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」。

 東京のオケでも最近はあまり見られなくなってしまったような、意欲的なプログラムだ。決しておなじみとは言えない曲ばかりなので、お客さんがどのくらい来るかとちょっと心配だったが、実際には80%近く入っていたのではなかろうか。コンサートマスターは森下幸路。

 この3曲の中では、何といっても「人魚姫」が圧倒的に快演だった。予想を上回る見事さと讃えていいだろう。幻想的な味を湛えた分厚いオーケストレーションが、均衡を保ちながらも豊かな色合いを以って再現され、起伏感と緊張感も素晴らしいものがある。特に全曲幕切れで音楽が浄化されて行く個所での美しさは印象的だった。
 おそらく、指揮者もオケも、今回はこの「人魚姫」に全力を傾注していたのではないか、と想像するのだが・・・・。

 もちろん、他の2曲の演奏が手抜きだったなどという意味ではない。コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」では、ソロの小林美樹が力のこもった演奏を繰り広げていた。ただ、オーケストラは━━第3楽章結尾の決め手であるホルン群にもう少し昂然たる気魄がみなぎっていてもよかったような気もするし、全体にいわゆる「コルンゴルト節」がもっと濃く浮き出ていてもよかったのでは、と思うのである。
 結局やはり、「人魚姫」での色彩感に富んだ演奏が、この日の印象を独り占めにしてしまった、ということか。

 寺岡清高と大阪響の演奏を聴いたのは、考えてみると、ハンス・ロット特集の定期以来のことのようだ。あの時に比べると、今夜の演奏は極めてまとまりが良い。1度や2度の演奏を聴いただけで云々するのは早計かと思うけれども、大阪響の音のバランスは、このところ良くなっているような気がする。

2016・12・7〈水〉川端康成/クリス・デフォート:「眠れる美女」

       東京文化会館大ホール、通しリハーサル  7時

 1961年に刊行された川端康成の「眠れる美女」をオペラ化した「House of Sleeping Beauties」。こういうオペラがあるということを不勉強にして知らなかった私としては目から鱗ともいうべきものである。
 本番は10日と11日だが、あいにく予定が合わず観に行けぬとあって、せめて衣装付き、オーケストラ付きの「通しリハーサル」でもと思い、主催者に頼みこんで覗かせてもらう。

 休憩なしの3場からなる約1時間半、なかなか面白い。
 物語は、性機能をすでに失っている老人男性を、睡眠薬で眠らされている若い裸の女性と一夜を過ごさせる宿を経営している謎めいた女将━━その2人の対話で始まる。女というものに対する男の複雑な心理が幻想的に、しかも実に美しく展開されて行くもので、これは官能的な心理劇だ。

 長塚京三(丹前姿で出ずっぱりの江口老人)と原田美枝子(女将)の、日本語による現実めいた「芝居」の部分と、各同役をオマール・エイブライムとカトリン・バルツが歌い演じる夢か現かの「オペラ」の部分を組み合わせた構成で進められ、伊藤郁女のダンス、原千裕・林よう子・吉村恵・塩崎めぐみのヴォーカルが夢幻的に絡む。

 クリス・デフォート(台本・作曲)の音楽は繊細で、静中の動、動中の静とでもいうか。ギイ・カシアス(演出・台本)も、あの「指環」でのような煩わしい動きを導入することなく、ただ背景の高所で幻想的なダンスを見せるのみだが、これもいい。東京藝大シンフォニエッタが、パトリック・ダヴァンの指揮で演奏している。
 ━━川端康成の清澄な官能美の世界だ。本番が見られないのは残念。

2016・12・6(火)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 1カ月以上の間、1日も休みなしでコンサートやオペラに通い続けたのが祟ったか、風邪気味になって咽喉が痛み、咳が出る。
 午後に予定していた東劇での「METライブビューイング」の「ドン・ジョヴァンニ」は、残念ながら松竹へ欠席のお詫び連絡をし、自宅で吸入や薬やうがいで闘咳(?)。何とか辛うじて少し治まったようなので、夜はとにかくサントリーホールへ出かける。

 上岡と新日本フィルの演奏による、ストラヴィンスキーの「プルチネッラ」組曲、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」組曲、プロコフィエフの「第5交響曲」という、「上岡のロシア・プログラム」だ。コンサートマスターは崔文洙。

 こういう芳しからざる体調の時は、あまり適切な感覚で音楽を受容できないことが多いものだが(まともな体調の時だって、怪しいものだが)今夜の上岡&新日本フィル、先頃の定期での演奏に比べると、何かちょっと散漫なように感じられたのは、こちらのコンディションの所為か?

 特に「プルチネッラ」と「くるみ割り人形」は、━━どうも上岡と新日本フィルは、こういう「軽い、洒落た」曲を手がけると、いつぞやの川崎での名曲コンサートでもそうだったが、何となく茫漠として掴みどころのない演奏になってしまう。自由なアンサンブルによる空間的なふくらみのある音を求める上岡の指揮と、それに呼吸が未だ合わぬ新日本フィルとのギャップが、「瀟洒で颯爽とした」曲想の作品では目立ってしまうのか? 
 ただし「プルチネッラ」では、手触りの少し温かい、柔らかい響きが━━新古典主義的作品における普通の演奏とはだいぶ違うとはいえ━━それはそれで面白かったけれど。

 プロコフィエフの「5番」の方は、もともと物々しい曲想の交響曲ゆえに、上岡と新日本フィルの演奏にもシリアスな量感が生まれ、正面から迫って来るエネルギーを感じさせる。
 最強奏における音色に濁りが生じる上に、オケとしての機能的な完璧さがこのところ薄れ気味なのが気になるとはいえ、速めのテンポで押し切ったこの演奏は、それなりに面白いものがあった。

 私が最も気に入ったのは、第4楽章の幕切れ直前の個所だ。そこまで「こけつまろびつ」突進して来た音楽の中に、突然別の世界から混入して来たように色合いの異なる響きが生まれる瞬間。
 指揮者によっては統一感を乱さぬためにさりげなくやってしまう人もいるが、それではプロコフィエフが意地を見せたアイロニー感が生きなくなる。その点、そこでの上岡の指揮は、かなりの段階までその「サプライズ感」を生かしたものだった。

 アンコールは、「くるみ割り人形」からの「パ・ドゥ・ドゥ」。定期でもアンコールをやるという珍しい癖を持つのが上岡である。

2016・12・5(月)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

      東京オペラシティ コンサートホール 7時

 ドイツ・カンマーフィル・ブレーメン(ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団)の今回の日本ツアーは8公演で、今夜が最終日。ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは樫本大進)、シューマンの「交響曲第3番《ライン》」

 パーヴォ・ヤルヴィは、やはり大編成のオーケストラよりも、こういうドイツ・カンマーフィルのような中規模の、それも斬新な感覚で沸き立っている「ヒッピー楽団」(4年前のパーヴォの発言、朝日新聞から)を指揮する時の方が、はるかにいい。骨の髄まで彼らしい、大胆不敵な、急進的でラディカルな個性が、存分に発揮できる。

 その最たるものは、今日のプログラムの中では、シューマンの交響曲「ライン」における演奏だ。これは4年前の来日の際にも「シューマン交響曲ツィクルス」の一環として演奏したことがあるけれど、これほどスリリングで面白い《ライン》の演奏は他に例を見ない。
 一つ一つの音符が、あらゆるフレーズが、際立ち毛羽立ち、鋭角的で闘争的な形になる。全曲にわたって予想外のリズム処理が為され、思いがけぬパートが浮き彫りにされる。聴き慣れたこの交響曲が全く違った様相で立ち現れて来る。

 シューマンはオーケストレーションが不器用だ━━などという古来の先入観など何処へやら、むしろ前衛的で斬新極まりない管弦楽法のイメージを以って響きわたるのである。快速テンポで、ほとんどの楽章をアタッカで有機的に接続し、緊迫感を保ち続けて指揮して行くパーヴォの気魄も見事だし、それに応えるオーケストラも巧い。実に荒々しく激しい、しかし痛快極まる「ライン」であった。

 「ハイドンの主題による変奏曲」にしても同様である。冒頭の管楽器による古式ゆかしいコラールが、骨太で強面に響きはじめる瞬間から、今日の演奏が何か並みのものとは違うものになりそうだという、不思議な期待感を持たせてくれる。コンサートに行って、最初からこういう感覚に浸れる時は、幸せである。そして、パーヴォとドイツ・カンマ―の実際の演奏は、その期待通りになるのである。

 ベートーヴェンの協奏曲でも、オーケストラの沸騰するようなエネルギーが、この曲をドラマティックな様相に仕立て上げる。樫本大進のソロは、コンサートマスターのポストにあるヴァイオリニストらしく、整然としたものだが、それでも今日は、精一杯の自由さを志向した演奏だったと言えようか。それがパーヴォとオケの激しい波浪のような演奏と、微妙なバランスを以って対峙する。

 オーケストラのアンコールは、ブラームスの「ハンガリー舞曲」からの「第3番」と「第1番」。これまた、曲をデフォルメ寸前にまで追い込むユニークな演奏である。
       ⇒音楽の友2月号 Concert Reviews

2016・12・4(日)京響プレミアム 岸田繁の「交響曲第1番」初演

     ロームシアター京都メインホール  4時

 ロックバンド「くるり」のシンガーソングライター、ギタリストとして人気のある岸田繁が、クラシック音楽の世界に挑んだ力作が2曲。
 最初に演奏時間20分前後の長さの「Quruliの主題による狂詩曲」(岸田繁自身も第4曲で歌唱)、休憩後に、50分以上を要する長大な「交響曲第1番」(初演)。なお後者は三浦秀秋のオーケストレーションとコメントされているが・・・・。

 演奏は広上淳一指揮の京都市交響楽団。
 
 岸田氏に提案したい。自己の立派なテリトリーをあくまで大切にしていただきたい。クラシック音楽におもねる必要などない。まず何よりも自己の独自の、最も得意とする語法を堂々と振りかざして、クラシック音楽に正面から斬り込んで来てもらいたい。

2016・12・3(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 定期公演。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の第1幕前奏曲、デュティユーの「チェロ協奏曲《遥かなる遠い国へ》」(ソリストはヨハネス・モーザー)、シューマンの「交響曲第2番」というプログラム。
 ちょっと渋めだが、いかにも「ノット&東響」らしい意欲的なプログラミングだ。コンサートマスターは水谷晃。

 「トリスタン」と「遥かなる遠い国へ」は、切れ目なしに続けて演奏された。これは、すこぶる秀逸なアイディアである。
 しかもヨハネス・モーザーは、「トリスタン」から演奏に参加し、ソリストの台の上でチェロのパートを一緒に弾く。おかげで、この曲のチェロのパートがいつもよりずっと目立ったのは当然だろう。

 その「トリスタン」も、ノットの指揮は濃厚なものではなく、デュティユーの透明で清澄な世界へ直結したような表現を採っているので、この2曲が続けて演奏される意味も明確になる。またデュティユーの協奏曲の方にも、「トリスタン」の世界からの浄化━━といった趣が加わって来る。
 2つの作品に、それぞれ単独で聴いた時とは全く異なった意味合いが付与される結果を生む━━これこそがまさにプログラミングの妙味といえるものであろう。

 休憩後のシューマンの「第2交響曲」は、先の2曲とは全く異なった色合いの、大胆かつ力動的な演奏となった。
 第1、2、4楽章は、それこそ一刻の休みも無しに動き回る世界だ。これは闊達というよりも、落ち着きのない躁状態と言った方がいいような表現ではないだろうか? かつてシノーポリがこの曲を精神病理学的に解釈し演奏してわれわれを驚かせたことがあったが、今夜のノットの指揮は、それと同じとまでは言わぬまでも、何かそれを連想させるものがある。

 そう思わせる理由は他にも、テンポの速さと、オーケストラの音色にあるだろう。この演奏は、明るく澄んだ音色ではなく、弦楽器全体が終始トレモロで震えているような響きに聞こえ、それが異常な緊張をつくり出しているように感じられたのである。

 このような特殊で見事な音色と楽器のバランスは━━これとは少し異質な、もっと柔らかいものだったけれども━━前音楽監督スダーンも、この東響との演奏でつくり出したことがある。ただ、スダーンの時には、曲の後半でオケが普通の状態に戻ってしまうことがあり、そしてこのノットの場合には、最強奏の際に音色が濁ってしまう傾向がある。今後の課題かもしれない。

 いずれにせよ、ノットが指揮する東響の演奏会には、退屈というものが無い。

2016・12・1(木)アルベルト・ゼッダ米寿記念コンサート

      BUNKAMURAオーチャードホール  7時

 イタリアの名指揮者アルベルト・ゼッダの88歳を記念して、彼がしばしば客演している藤原歌劇団(日本オペラ振興会)が祝いの演奏会を開催。彼の指揮で、ロッシーニのカンタータ「テーティとペレーオの結婚」と、「スターバト・マーテル」が演奏された。

 前者では佐藤美枝子、中井亮一、光岡暁恵、鳥木弥生、角田和弘が、後者では砂川涼子、向野由美子、村上敏明、伊藤貴之がソロを歌った。合唱と管弦楽は、藤原歌劇団合唱部と東京フィルハーモニー交響楽団。

 人間味あふれる温かい情感に富んだ指揮で、日本でも圧倒的な人気を得ている名匠アルベルト・ゼッダ。今夜もこの2曲で、ロッシーニの作品の良さをホールいっぱいにあふれさせた。米寿の高齢でありながら、彼が演奏者から引き出す音楽は、素晴らしく生き生きしていて、若々しい。
 2曲とも指揮台上に立ったままで、エネルギッシュに指揮、袖との往復の歩き方も速い。

 カーテンコールの締め括りには、折江忠道・藤原歌劇団総監督のリードで、マエストロに黄金色の帽子とちゃんちゃんこ?を着させ、全員でイタリア語の「ハッピー・バースデイ」を歌うという趣向もあった。心温まる演奏会である。

2016・11・30(水)「三代目、りちゃあど」

      東京芸術劇場 シアターウェスト  7時

 野田秀樹作、オン・ケンセン演出による、日本・シンガポール・インドネシア共同制作の演劇。3カ国の出演者も登場して、日本語と英語とインドネシア語の台詞により上演され、英語と日本語の字幕がつく。

 三代目のりちゃあど━━とは、もちろん、あのリチャード3世をさす。シェイクスピアの戯曲では稀代の悪王として描かれ、半世紀前にはローレンス・オリヴィエの鬼気迫る演技による映画で、更に広く知られるようになったあの英国王のことだ。

 このドラマでは、そのリチャードを身体に障害を持つ殺人鬼として描いたのはシェイクスピアのでっち上げではないのか━━などという問題を中心として裁判が行われ、りちゃあど(中村壱太郎)、シェイクスピア(茂山童司)、シャイロク(ジャニス・コー)、カイロプラクティック/シンリ―〈真理〉(江本純子)、裁判長/家元など(久世星佳)らが丁々発止の火花を散らす。シェイクスピアの原作にある台詞や設定も、いくつか引用される。
 最後にはシャイロクがある賭けの代償として、シェイクスピアに足の肉1ポンドを(逆さ吊りにして血の気のなくなった足の先を切れば血は出ないという論理で)要求するというオチもつくのだが・・・・。

 こう書くと、何かドタバタの単純劇みたいになるが、実際はすこぶる複雑だ。「歴史的事実」と「戯曲作家」との闘いがパロディで描かれるのも、そこに含まれたテーマの一つだろう。話が目まぐるしく変わる上に、日本語や英語やインドネシア語が弾丸の如き早口で飛び交うセリフ構成で進められるのだから、字幕を見たり見なかったり、時にこちらの集中力が追い付かぬこともある。

 結局、りちゃあどがどう騒いだところで、シェイクスピアが圧倒的に優勢であることは、野田秀樹が「作家」としての立場で書いた芝居であることからも、想像がつくというものだろう。
 戯曲作家という存在の絶対の権力、恐ろしさ、敢えて言えば傲慢さというものを思い知らされたようなドラマではあったが、それでいながらわれわれは、戯曲作家には絶対の信頼と敬意を抱いてしまうのだから、どうしようもない。

 舞台には、前述の3カ国の言葉の他にも、歌舞伎や狂言の台詞回しや演技、宝塚のミュージカル的要素(これは久世星佳の独壇場)、バリ島の人形(?)の影絵などが同時に交錯して、これが不思議な面白さを出す。
 演出家は、現代日本の多様性・複雑性を舞台化したいというコメントをプログラム冊子に載せていた。昨日のトリフォニーホールでの「歌舞伎とシェイクスピア」は、その多様性各々にお互いが敬意を払い過ぎて中途半端に終わる結果を招いたが、今日の演出家オン・ケンセンは、それらを遠慮会釈なく一つの舞台に投げ込み掻き混ぜて、多様性に相応しいコラボをつくり出していたのであった。

 余談だが、追い詰められたリチャード3世が叫ぶ有名な台詞「A horse! A horse! My kingdom for a horse!(馬をもて! 馬をもて! 馬を持って来た者にはわしの王国をやるぞ!)」が、昔の名画「スタア誕生」(ジュディ・ガーランド、ジェイムズ・メイスン主演)の「英和対訳シナリオシリーズ」(国際出版社刊)で、「馬だ、傾国の名馬だ」という、とんでもない誤訳がされていたのを思い出す。こんなことを覚えているのは、そのあとに観たオリヴィエ監督・主演の映画「リチャード3世」に、あまりに強烈な印象を与えられたせいもあるだろう。

2016・11・30(水)ロイヤル・オペラ・シネマ ベルリーニ「ノルマ」

     TOHOシネマズ六本木ヒルズ  午前10時

 朝っぱらから映画を観るというのは、学生時代以来絶えてなかったことだが、東宝東和の試写会にはスケジュールが合わず行き損ねたので、一般上映を観に行く。

 松竹が大々的に展開している「METライブビューイング」だけでなく、東宝東和も英国ロイヤル・オペラの上演ライヴ映像を各地の系列館に配給してくれるようになったのは大変ありがたいことだが、ただこちらの方は、上映スケジュールがおそろしく解り難い。
 PRがあまり行われていないし、東宝東和のサイトで調べても、2日くらい前にならないと、何時から上映するのか、チケットはいくらか、ということが判明しないのである(その上映時間も、日によりまちまちのようだ)。内容についての資料も、現場では全然見当たらないのも困る。

 しかし、内容は良質だ。
 このベルリーニのオペラ「ノルマ」は、去る9月26日上演のライヴである由。ソーニャ・ヨンチェーヴァ(ノルマ)、ジョセフ・カレヤ(ポリオーネ)、ソニア・グラッシ(アダルジーザ)、ブリンドレイ・シェラット(オロヴェーゾ)らが歌い、アントニオ・パッパーノが指揮している。
 ヨンチェーヴァの演技が素晴らしく、特に終幕でポリオーネと対決するシーンでは、鬼気迫るものがあった。また、彼女とグラッシの「和解の二重唱」も、演技を続けながらの歌の中にハーモニーがぴったり合って、絶妙な出来。

 演出は、アレクス・オレである。現代風の舞台設定で、ドルイド教徒の集団がキリスト教徒の軍団に読み替えられているように見える。ラストシーンで、ポリオーネと一緒に火刑台に向かうはずのノルマが━━ネタバレになっては申し訳ないので、ここには書かないが━━突然アレになるのは、ちょっと小細工が過ぎるという印象だが。

 上映時間は3時間半。最初の10分は他の映画の予告編だ。本篇の演奏が開始されるのは10時30分近くになってから。「METライブ」は比較的すぐに上演に入るが、こちらはアタマにインタヴューや解説がかなり長く入る。本篇に入るまでに待ちくたびれてしまう、という感が無くもない。

2016・11・29(火)尾上菊之助の「歌舞伎とシェイクスピアの音楽」

      すみだトリフォニーホール  7時

 「歌舞伎とシェイクスピアの音楽」と題され、プロコフィエフのバレエ曲「ロメオとジュリエット」が演奏されるというので、二つの芸術の面白いコラボが何か試みられるのではないか、と期待していたのだが、何のことはない、第1部は尾上菊之助が演じ舞う歌舞伎のハイライト、第2部は角田鋼亮指揮する新日本フィルが「ロメジュリ」抜粋を演奏して菊之助がちょっとしたナレーションを入れる━━という程度のものにとどまった。期待外れである。

 とはいえ第1部での尾上菊之助の舞台は、歌舞伎には素人の私にとっては面白い。
 河竹黙阿弥の「白浪五人男」からの「浜松屋の場」での「弁天小僧菊之助の台詞」なんかは私でも知っているが━━「知らざあ言って聞かせやしょう」に始まって「弁天小僧菊之助たあ、おれのことだぁ」までを、大見得を交えて演じてもらえば、「これですよね」とニヤリとせざるを得ない。
 大向う(このホールには無いが)から盛んに掛け声も飛んで、なかなかいいものであった。今日の客席はさすがに、歌舞伎ファンのほうが多いと見える。

 第1部はこのあと、「京鹿子娘道成寺」からの「鞠歌」と「恋の手習」が、三味線や唄とともに、菊之助により舞われた。なおこのパートでは、長谷部浩(演劇評論家)の解説が入ったが、些か教養講座的な雰囲気にもなった。

 期待外れたぁ、第2部のことだ。プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」からの何曲かが演奏され、その間に尾上菊之助が、坪内逍遙の訳による台詞を中心としたナレーションを入れたのだが、それは最初に1回、中に4回のみ。結局、主体はオーケストラの演奏で、それに菊之助が少し朗読を添えたという程度なのである。

 「歌舞伎と・・・・」と銘打つなら、たとえば、菊之助がプロコフィエフの音楽に合わせて演技をするなり舞うなり、舞台としての合体ができなかったのか? それに、どうせ彼が喋るなら、坪内逍遙の訳を朗読するより、彼のテリトリーである歌舞伎調の台詞ででもやってもらった方が面白かったのではないか。
 どうも今回は、歌舞伎側がクラシック音楽側に遠慮したような気がする。こういう場合、クラシック音楽を尊重するあまり、「ここはやはりちゃんと音楽を聴かせましょう」ということになると、たいてい「普通の演奏会」になってしまい、特別企画としては流れが悪くなり、結局中途半端なものに終ってしまうものなのである。

2016・11・28(月)大野和士指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 これは定期Cシリーズ(失礼、Aシリーズでした)。
 ベルクの「アルテンベルク歌曲集」、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」、マーラーの「交響曲第4番」。意欲的なプログラムである。ソプラノは天羽明惠、ピアノはピエール=ロラン・エマール。コンサートマスターは矢部達哉。

 このところ連日連夜、よく響く音響のホールで、米・独・仏の大オーケストラの壮大な演奏に浸っていたあとに、われらの日本のオーケストラを、この残響の少ない、音が裸で聞こえるホールで聴くと、些か戸惑いを感じる。曰く、細身のサウンド、室内楽的な精緻さを持った几帳面なアンサンブル、指揮者に従順な演奏スタイル、おとなしさ、淡彩な音色━━という言葉が、どうしても実感を以って浮かび上がって来てしまうのだ。

 これがよくも悪くも、日本のオーケストラの個性なのだな、と考えながら聴く。
 また先年、欧米の音楽評論家を招聘して行われたシンポジウムで、日本側パネラーを務めた時に力説したようなこと━━この日本のオケの個性を世界の楽壇において強い発言権を持たせるにはどうしたらいいか、などとも考えながら聴く。

 もちろん、大野のマーラーにも、他の外国人指揮者とは異なる独自の立派な主張が備わっているし、都響の演奏もまた、極めてまとまりの良いものだ。特に後半の2つの楽章での演奏は、充実していた。この演奏を、もっと豊潤な響きのあるホールで聴いたなら、おそらく全く異なった印象になるだろう。
 なお、声楽ソロの天羽明惠は、マーラーの第4楽章で好演を聴かせてくれた。ピアノのピエール=ロラン・エマールは豪壮で鮮やかなラヴェル。そしてソロ・アンコールで弾いたブーレーズの「ノタシオン」の1曲が極め付きの快演。

2016・11・27(日)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

       サントリーホール  2時

 マーラーの「交響曲第9番」1曲というプログラム。満席のホール。

 この曲でも、マリス・ヤンソンスの指揮は、温かさに満ちている。第1楽章も、陰翳は濃いが、決して深い憂鬱に陥らず、絶望的な気分をもたらす演奏にならない。どこかに優しい希望と慰めの情感を湛えているような演奏なのだ。
 第3楽章なども、演奏の形としては充分に荒々しいものだが、そこにマーラー特有のヒステリックな騒がしさとか、形容し難い躁状態━━他の多くの指揮者はそれらを強調して表現する━━のようなものが感じられるかというと、そうでもない。

 それゆえ、第3楽章を聴き終って、過去と決別するかのような別世界の第4楽章に入った時に、その2つの楽章の対比をかみしめようとすれば、ちょっと戸惑いを感じるものがある。
 少なくともこのヤンソンスとバイエルン放送響の演奏では、第4楽章の弦の幅広い主題が、前楽章までの世界との違いを衝撃的に感じさせるという効果は生まなかったのだ。

 だがそれはヤンソンスの失敗ということでは決してないはずで、おそらく彼は当初から、この交響曲を死への道程とは解釈せず、憂鬱―苦悩―未来―希望といったような解釈を考えていたのではないか。だからこそ、第4楽章のあの圧倒的な量感の弦を、それほど濃厚かつ強烈に響かせず、そこでもむしろ温かみのある優しさを以って主題をつらぬいて行ったのではないかと思われる。
 いわゆる激烈な感情にあふれたこの曲の演奏を聴き慣れていた私としては、今回の演奏には正直なところ、ちょっと戸惑ったのは事実だ。だがそれを理解し、いったんそれに心身を投じてしまうと、ヤンソンスのヒューマニズムは、この上なく魅力的なものになる。

 第4楽章の中盤以降は、まさにその表れだ。
 どの小節においても演奏に均整美を失わないヤンソンスとバイエルン放送響は、スコアの最後の40小節ほどを、見事な構築性と形式感を以って演奏して行った。最後の第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる最弱音を、これほどはっきりとした和声感を意識して聴くことができた演奏は、初めて体験するものだった。

 それゆえに、すべては安息に包まれて「完結した」という印象がいっそう強くなる。しかもその終結の、何と柔らかく、美しく、快いこと。そう、どんなに幸せだろう、こういう音楽のように、こういう演奏のように生を終えることができたなら━━。

 最後の音が消えたあとも、満席のホール内には物音一つ、息づかい一つ聞こえず、静寂が保たれていた。やがてヤンソンスが僅かに身体を動かし、弦楽器奏者が高くあげたままの弓を静かに下ろし終ると、会場全体から微かな吐息が漏れ、それから拍手がおもむろに巻き起こり、急激に熱狂的に高潮し、ブラヴォーの歓声が交じって行った。作品と演奏に対する聴衆のこの集中力は、近来稀なほど素晴らしいものだった。

2016・11・26(土)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 結局今週は、米・東独・仏・墺・南独の大小のオーケストラを連続して聴き比べるという僥倖に恵まれたわけで━━。
 さてこのおなじみのコンビの、今回の日本公演は全5回。今日は3日目である。ハイドンの「交響曲第100番《軍隊》」と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」というプログラム。

 ゆったりと開始されたハイドンの交響曲での、完璧な均衡を備えた、落ち着きのあるふくよかなオーケストラの響きを何に喩えよう。スケールの大きな、しかも密度の濃い演奏だ。マリスらしく誠実で丁寧な指揮が快い。
 第2楽章でのトランペットのファンファーレは、ステージ上の奏者でなく、下手の袖の内側でバンダが吹くという方法が採られた。

 またこの第2楽章で打物陣を務めた奏者たちが、この楽章が終ると皆退場してしまったので、第4楽章の打楽器パートはまたバンダ扱いかと思っていたら、何と下手側客席のドアから、巨大なシェレンバウム(トルコ軍楽隊が使う「鳴り響く房」の大杖クレスントをドイツ風に改造した飾りもの)を振りかざした奏者を先頭に、3人の奏者がそれぞれ大太鼓とシンバルとトライアングルを叩きながら行進して来て、客席最前方を練り歩く、という愉しい趣向が披露されたのである。

 休憩後の「アルプス交響曲」は、はからずも今週はティーレマン=シュターツカペレ・ドレスデンとの競合となった。
 私にとってはこの曲、部分的に好きな主題はあるが、全体としてはそう熱狂的に聞き惚れるほどの作品ではない。ただ、そのスペクタクルな音楽ゆえに、そして作品の甚だまとまりの無い構造ゆえに、指揮者とオーケストラの力量を窺うにはちょうどいい作品ではある。

 そこで今回の2人の名指揮者、ドイツの名門オケ2団体の競演だが━━各々素晴らしい特徴があったが、こちらヤンソンスとバイエルン放送響は、緻密で隙の無い響きの魅力があるだろう。マリスはここでも、堅固に、生真面目に陰翳の濃い音楽を組み立てるが、しかし音楽はのびやかで自然体のスケール感を誇る。
 もう一つ、シュターツカペレ・ドレスデンもそうだったが、いかに大音響で咆哮しようと、音に少しの濁りも生じないところが素晴らしい。

 そして、あれほど「嵐」に荒れ狂った管弦楽が次第に落ち着きを取り戻し、「日没」から「夜」にかけて重々しく沈んで行く個所を通じての色合いの変化と、全管弦楽の均整の取れた響きの美しさは、さすが世界屈指のオーケストラに相応しい演奏、と言えるものだった。マリス・ヤンソンスも、かく見事な制御を示す。いよいよ円熟の名人芸の域に到達しているようである。
   音楽の友新年号 Concert Reviews

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