2017-07

2017・7・19(水)レナード・スラットキン指揮デトロイト交響楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 諏訪内晶子が芸術監督を務める「国際音楽祭NIPPON」(第5回)の一環。
 前半の2曲、武満徹の「遠い呼び声の彼方へ!」およびコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」では、彼女がソリストを務めた。後半のプログラムは、チャイコフスキーの「交響曲第4番」だった。

 やはり聴きものは、最初の2曲である。
 とはいっても、「遠い呼び声の彼方へ!」でのオーケストラの無造作なほどの荒っぽさには、少々驚く。武満の静謐な音の美は、荒々しいダイナミズムの中に消え失せた。外国のオケが演奏するタケミツ作品は概してメリハリが強く、造型のしっかりした音楽になることが多く、それはそれで面白くなるのだが、今日のはかなり極端だったのではないか。叙情美を歌う諏訪内のソロさえ、しばしばオーケストラの強音に打ち消されてしまっていた。
 スラットキンは、これまでにも武満作品を少なからず指揮しているし、こんなに荒っぽい演奏をすることはなかったはずなのだが━━。

 その点、次のコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」でのデトロイト響の演奏は、曲想からしても、まったく違和感はない。諏訪内晶子のソロも伸びやかで、スケール感も豊かであり、大きな起伏を以ってオーケストラと拮抗し、快演を聴かせてくれた。このコルンゴルトの協奏曲は、彼女の定番曲となり得るのではないか? それにしても彼女は、特にこの十数年来、本当に素晴らしいヴァイオリニストになっている。

 チャイコフスキーの「4番」は、このホールを揺るがせんばかりの大音響。別に大きな音がいけないと言っているわけではないが、この演奏には、正直言って、少々疲れる。
 アンコールは菅野よう子の「花は咲く」。今回の大編成の管弦楽への編曲はかなり長く、しかも豊麗だ。これを取り上げたのは、彼らなりの精一杯のサービスだろうから、有難く拝聴させていただいたが、どうもある種の違和感がある。
 その点、アンコール2曲目に演奏されたフェリクス・スラットキン(レナードの父君)の「悪魔の夢」とかいう、題名とは裏腹の陽気なウェスタン調の小品の方が、いかにもアメリカのオーケストラが「地」を出したという雰囲気が感じられて、よほど楽しかった。

 ちなみに、レナード・スラットキンは、2008年からこの楽団の音楽監督。また、プログラムにはメンバー表が載っていないのだが、コンサートマスターはヨーンシン・ソンという、韓国出身の女性奏者である。

2017・7・17(月)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 マーラーが続く。今日のプログラムは、前半に「葬礼」、後半に「交響曲《大地の歌》」。「葬礼」は、言うまでもなく「第2交響曲《復活》」の第1楽章の原典版である。

 昨日のノットのマーラーは、あまりに剛直に過ぎて、さながら鋼鉄の如き「復活」というイメージだったが、その点、今日のインバルの指揮するそれは、やはり中庸を得たスタイルに感じられる。感情と形式感とが肉離れを起さずに均衡を保っている、と言ったらいいか。何となく安堵させられる気持になる。
 とはいえ、このインバルのマーラーだって、ある傾向の指揮者のそれに比べれば、随分強面の演奏のはずである。まして、そのかみのワルターやバーンスタイン━━この2人だって、当時はかなり違う傾向と感じられたものだが━━の指揮するマーラーがスタンダードな存在たる時代だったら、インバルのこのようなマーラーは、味も素っ気もない演奏、と言われたに違いない。

 ともあれ、そのインバルが指揮した「葬礼」と「大地の歌」━━都響(コンサートマスター四方恭子)の、これも揺るぎない演奏に反映された2曲は、いずれも見事なものだった。
 「葬礼」は、都響がこれを取り上げるのは、実に1990年の若杉弘の指揮(あの時には、「第2交響曲」の第1楽章として演奏されていた)以来27年ぶりになるが、オーケストラの能力も、あの頃とは桁違いに高くなっている。エンディングでの轟然たる引き締まった下行など、格段に凄味がある。

 「大地の歌」では、ダニエル・キルヒ(T)とアンナ・ラーション(A)がソリストに迎えられていた。
 この曲では、テノール歌手は、全く同情すべき役回りだ。どう上手く歌ったところで、声はオーケストラにマスクされてしまうのだから(マーラーがもし生前に一度でもこの曲を指揮できていたら、必ずやオケ・パートを改訂したであろう)。
 従ってキルヒのことは措くとして、やはりラーションが素晴らしい。「告別」での深みのある歌唱は感動的である。そして最後の、「Ewig・・・・ewig・・・・」という言葉が繰り返されつつ音楽が消えて行く個所━━インバルと都響による情感にあふれた演奏と併せ、美しく浄化された幕切れとなっていた。

2017・7・16(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 細川俊夫の「嘆き」と、マーラーの「第2交響曲《復活》」が演奏された。これは、なかなか機微に富んだ組合せではないかと思う。「嘆き」は、作曲者の意図によれば、津波でわが子を失った母に捧げられた作品であり、「復活」は、改めて言うまでもなく、最終楽章で「死せる者は蘇る」と歌われる交響曲である。

 ただし、「嘆き」で使用されている歌詞は、第1次世界大戦時に世を去った詩人トラーケルのもので、細川はこれを大震災の津波の犠牲者を悼む意味に重ね合わせている。そしてこの曲はザルツブルク音楽祭からの委嘱で、ソプラノと管弦楽のための作品として書かれ、デュトワ指揮N響により2013年に同音楽祭で初演されたが、そののち、藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)のために一部改訂された。今日演奏されたのは、その藤村がソリストを務めた版である。

 だが、彼女が歌ったことで、この作品のイメージは、まさに大きく変わったと言ってもいいのではなかろうか。それは実に並はずれて深みのある、スケールの大きな歌唱であり、そのため、作品全体に身の毛のよだつような凄味があふれる結果となった。彼女の深々と響く声は、時には大編成のオーケストラをさえ圧倒したのである。

 一方、オーケストラはマーラーの「大地の歌」の終楽章冒頭にも似た重々しい響きで開始され、暗く波立ちながら大きな起伏を繰り返す。管楽器による「吹き抜ける風の音」など、細川俊夫特有の語法により進められて行った。その重量感に満ちた慟哭は凄まじく、これは聴き応えのある作品であった。

 後半はマーラーの交響曲「復活」。
 音楽監督ジョナサン・ノットと東京響の最近の充実ぶりを示すように、一分の隙もなく堅固に構築された演奏となった。鋭い強弱の対比や、音響の激烈さは見事なほどだが、その半面、どろどろした情念の爆発や沈潜といったものは一切排除されている。こういうソリッドな演奏は、近年のマーラー演奏の一つの典型的なタイプと言えるのだろう。音響的には極めて立派だが、決して酔うことのないマーラーなのである。
 いや、もっとも、今ではこういうダイナミズム優先のマーラーに陶酔する聴き手も多いようだから、既存の感性だけを基準にしてあれこれ断じてしまうのは、危険かもしれない。

 コンサートマスターは、グレブ・ニキティン。「復活」での声楽ソリストは天羽明惠と藤村実穂子で、指揮者の方に顔を向けて上手側に位置。この配置は、第5楽章では良し悪しを生んだかもしれない。だが第4楽章での藤村のソロはやはり圧倒的であった。そして第5楽章では、天羽の歌い出しが、コーラスの中からゆっくりと浮かび上がって来るようなこの曲本来の効果を巧く再現していた。
 また今回は第5楽章で、ステージ外で奏されるバンダが、その都度あちこち異なる位置から━━多分フロアの位置も変えて━━響いて来るのが、面白い効果を生んでいた。

2017・7・15(土)佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ「フィガロの結婚」

       兵庫県立芸術文化センター  2時

 恒例の「佐渡裕のオペラ」。今年はモーツァルトの「フィガロの結婚」。

 14日から23日までの間に全8回のマチネー公演が行われている。歌手陣はダブルキャストで、5回が外国人中心組、3回が日本人中心組。ただし後者は26日の姫路と29日の篠山の公演でも歌う。指揮がもちろん佐渡裕、演出がまたデイヴィッド・ニース、舞台美術がロバート・パージオラ。

 今日は日本人中心組の初日で、高田智宏(アルマヴィーヴァ伯爵)、並河寿美(伯爵夫人ロジーナ)、町英和(フィガロ)、中村恵理(スザンナ)、ベサニー・ヒックマン(ケルビーノ)、志村文彦(ドン・バルトロ)、清水華澄(マルチェリーナ)、渡辺大(ドン・クルツィオ/ドン・バジリオ)、晴雅彦(アントニオ)、三宅理恵(バルバリーナ)という顔ぶれ。兵庫芸術文化センター管弦楽団、ひょうごプロデュースオペラ合唱団。字幕付き上演。

 外人組の方はどうか知らないけれども、わが日本人組の出来は、なかなか立派なものである。
 中村恵理の才気煥発タイプのスザンナは相変わらず魅力的で、先頃の新国立劇場での同役よりも━━演出の関係もあるが━━開放的で生き生きしており、観ていて楽しく、歌唱も完璧だ。
 また、キール歌劇場専属歌手として活躍している高田智宏も風格のある安定した歌唱で「中庸を得た封建領主」たる伯爵を描き出していた。

 他にも、並河寿美の声の柔らかい美しさ(昔トゥーランドットで凄味を利かせた同じ人とは思えないほどの)は印象的だし、清水華澄の先日のジークリンデとは打って変わったコミカルな温かさもいいし、晴雅彦のいつに変わらぬどぎついアントニオも面白い。ところどころ声が聞こえにくくなるという人も中にはいたけれども、何よりアンサンブルという面で実に良いバランスが構築されていたことは、日本人歌手集団ならではの美点であろう。

 佐渡とオーケストラは、序曲がまず極度にワイルドな演奏だったのには仰天。さながら「フィガロの怒り」とでも喩えたくなる序曲だった。その後は落ち着いたものの、基本的には「激動の一日、嵐の人間ドラマ」といったアプローチというか。
 それがこのオペラの音楽に適しているかどうかは考え方次第だが、私はこの「フィガロの結婚」の音楽の本質は、決して「優雅典麗」なものではなく、生々しい人間ドラマをあからさまに表出したところに在ると思っている。

 だが、デイヴィッド・ニースの演出はいつもの如くで、生々しい人間ドラマとはほど遠く、全くのトラディショナルなスタイルだ。「ここのお客さんには、こういう解り易い演出がよい」というのが、劇場側の本音のようである。ただし、その範囲内では極めて細かく、演技的にも隙なく作ってあり、「解り易さ」という点では申し分なく、ほぼ満席の観客から明るい笑いを誘っていた。

 一つ、これはニースのアイディアか、佐渡のアイディアか聞き漏らしたが(※)、第3幕の結婚式の場面で、祝いの歌を歌う「2人の少女」の役を、バルバリーナとケルビーノに受け持たせていたのが注目された。ここではバルバリーナが、「ご機嫌を取っときなさいよ」とばかりケルビーノを煽り、ケルビーノは渋々歌詞カードを見ながら面倒くさそうに歌うという設定らしくて、なかなか面白く、気に入った。
 ※劇場からあとで教えてもらったところによれば、これはニースのアイディアだった由。

 休憩は第2幕のあとに1回のみ。5時30分頃終演。

2017・7・14(金)井上道義指揮大阪フィル バーンスタイン「ミサ」

       フェスティバルホール(大阪) 7時

 1971年にワシントンのケネディ・センター杮落し記念として初演された、レナード・バーンスタインの「歌手、奏者、ダンサーのためのシアターピース」。
 今回は「第55回大阪国際フェスティバル2017」の新制作で、大阪フィルハーモニー交響楽団創立70周年記念としての上演。

 井上道義が総監督・指揮・演出・字幕訳のすべてを自ら行うという、彼としても渾身、入魂のプロダクションだ。演奏会形式やセミステージ形式の上演ならともかく、本格的な舞台上演としては世界でもめったに観られない作品であり、日本でも20年以上前に彼が京都市響を指揮した時以来の上演だという。私はそれも観ていないので、ナマで観るのは実はこれが初めてになる。

 今回の出演と演奏は、大阪フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター崔文洙)、大阪フィルハーモニー合唱団(指揮・福島章恭)、キッズコールOSAKA(指揮・大谷圭介)。
 主役の司祭に大山大輔、少年に込山直樹(ボーイソプラノ)。さらにストリートコーラス(ソロも受け持つ)として小川里美、小林沙羅、鷲尾麻衣、野田千恵子、幣真千子、森山京子、後藤万有美、藤木大地、古橋郷平、鈴木俊介、又吉秀樹、村上公太、加耒徹、久保和範、与那城敬、ジョン・ハオという錚々たる顔ぶれ。

 合唱団は、群衆として動き、あるいはコーラスとして背景に並ぶ。ストリート・コーラスの面々も歌い、踊るが、ふだんオペラで拝見している高貴な歌手の皆さんが、こういうタイプのダンスもおやりになるとは━━まあ、当然のことだろうけれど━━大いに感心した次第だ。小林沙羅さんの言によれば、「いろんなことやるのよ、私たちは」ということになる。ただ、普通の演技に切り替わると、ちょっと緩いところが出る。これは演出の問題だろう。

 主人公の司祭を歌い演じる大山は出ずっぱりで大奮闘、よくやったと称賛したいが、欲を言えばもう少しよい意味でどぎつく、あくどい演技が欲しいところで、今日の段階ではストリート・コーラスの歌手たちとの区別が━━舞台上の存在感の区別がつきにくいというのが、惜しかった。
 ボーイソプラノの込山が素晴らしい。
 なお、ダンスが堀内充バレエプロジェクト、大阪芸大舞台劇術学科舞踊コース。振付は堀内充、美術は倉重光則である。

 バーンスタインの音楽は、伝統的なスタイルのオーケストラ・サウンドや聖歌などはごく僅かで、ほとんどはロックやジャズやブルースなど━━手っ取り早く言えば「ウェストサイド・ストーリー」などのミュージカルで示されたような、彼の独特の音楽スタイルで構築されているものだ。
 これは、ミサ曲という伝統的なジャンルに切り込みつつも、あくまでバーンスタイン自身の「立ち位置」を明確にするという姿勢で、所謂クラシック音楽に阿らない手法として、立派なものであったと思う。その上、和声的にもリズム的にも、すこぶる複雑な性格をも備えた音楽なのだから。

 ピットに大阪フィル、舞台上にロックバンド、ブルースバンド、その他管楽ソリストたちが並び、副指揮者の角田鋼亮まで行進リーダーとして舞台に登場するという趣向が凝らされていた。
 そして御大・井上道義は、ピットの中で文字通り獅子奮迅の指揮。演奏全体は荒削りだったかもしれないが、何せ大規模上演、ここまで行けば立派なものだろうと思う。

 歌はもちろん、器楽にも一部にPA使用。時に過剰なところもあったようだが、何しろ原作では会場のあちこちから響く4チャンネルのテープによる音楽の再生もミックスされることになっているから、この音量バランスの設定は難しかったろう。上手く出来ていた方だと申し上げたい。

 舞台美術と演出。
 字幕が、正面十字架の横板に映写されるというのが洒落ている。宗教関係者はどう言うか知らないが、われわれアウトサイダーから見れば面白い。
 ギターを手に司祭が登場するという幕開きシーンでは、冒頭のテープ再生による音楽をジュークボックスが鳴らすという演出になっていて、このジュークボックスにコインを入れた「普通の男」がいつの間にか司祭の役にされる、という演出になる。

 これはもちろん、オリジナルのト書きにはない演出だが、ラストシーンへの伏線としては理屈に合っているだろう。つまり大詰めでは、ミサや宗教に疑問を持ちはじめた一同の怒号に遭遇した司祭が、ついに「私には無理です」と絶望し、聖杯を床にたたきつけ、祭壇の布を引きちぎり、自ら司祭の衣装を剥いで倒れ、結局は「普通の男」に戻るというストーリーだからである。

 この2時間近い流れの演出の中では、神は本当に存在するのか、敢えて言えば宗教はいったい平和を創れる力があるのか、という疑問まで含むこのドラマトゥルグは、よく出ていたであろう。
 正直言って、時には散漫に見え、思いつきのアイディアのようにも感じられた演出個所も、ないわけではない。しかし、プロの演出家にやらせたら━━といったところで、このキリスト教の宗教劇を、それも時には反宗教性を含んだ舞台劇を、思い切りよく、遠慮会釈なく視覚化できる演出家が、日本にいるかどうか。とすれば、もともと破天荒な、傍若無人なアイディアを持つ井上道義が自ら演出を試みるのが、やはりベストだったのである。

 歌詞は英語、ところどころ日本語訳の歌が入り、それもところどころ関西弁の歌詞になる。これも井上の訳らしいが、なだらかな標準語と違い、関西弁というものが意外に洋楽のリズムに合う「弾み」を持っているものだということを発見した(もっとも、本当の関西弁とはどんなものなのかは、私には判らない)。
 字幕の訳語も井上によるもので、かなりくだけたものにしているのも彼らしいが、あまりくだけすぎると、逆に何だか解り難いところが出る。

 今回の公演では、佐渡裕がバーンスタインの弟子として「ミュージック・パートナー」を務め、昼間の西宮での「フィガロの結婚」の指揮を終えてすぐ、こちらに駆けつけていた。彼自身もおそらく、ゆくゆくは兵庫県立芸術文化センターかどこかで、この恩師の曲を上演したいところだろう。
 明日との2日公演。客席はほぼ満席(明日は満席とか)。20分の休憩1回を入れて演奏終了は9時20分、カーテンコールはそれから15分ほども続いていた。

2017・7・13(木)IL DEVU リサイタル

   HAKUJU Hall  7時

 4人の男声歌手と1人のピアニストによるグループ、「イル・デーヴ」。5人の合計体重が500キロ近いとか、あるいはそれ以上とか。確たることは知らないけれども、とにかく巨漢ぞろいのグループゆえに「デーヴ」と名乗ったという、明るい男たちだ。

 女声歌手のグループでは、とてもこんな明け透けな名前は付けられないだろう。昔、ある大柄な女声歌手4人のグループが出来る時に、グループ名で何かいいのはありませんかと訊かれ、ロッシーニのオペラの題名をもじって「タンクレディース」はどうですか、などといい加減な返事をしたことがあるけれど━━結局そのグループ結成は流れてしまい、それきりになったが・・・・。

 余談はともかく、その「IL DEVU」は、望月哲也(テノール)、大槻孝志(同)、青山貴(バリトン)、山下浩司(バスバリトン)、河原忠之〈ピアノ〉というメンバー。遠くから見ても、巨体であることが判る。最近は大神ヴォータンが当り役の青山貴さんが、何だか一番軽く(?)見えるのだから、推して知るべし。

 このグループ、すでに毎年コンサートを開催し、今回の演奏会も昨年中に完売してしまったというほどの人気の高さである。聴衆には、やはり老若の女性が多い。
 今年のコンサートタイトルは「魂のうた」。冒頭で河原がシューベルトを弾き、次いで4人がそれぞれソロでR・シュトラウス、リスト、メンデルスゾーン、ヴェルディの作品を歌うという、非常に重々しい雰囲気で開始されたが、そのあとは信長貴富、木下牧子、菅野よう子らのオリジナル曲や編曲歌曲を歌うという、愉しいプログラムが続いて行った。久しぶりに聴く日本の合唱曲の数々が、実に美しく感じられる。

 何しろ4人とも朗々たる声だし、しかもこのホールは満席でも素晴らしくよく響くアコースティックなので、最後列で聴いていてさえ、耳にビリビリ来る迫力。2時間は瞬く間に過ぎる。男たちの声も歌もいいが、そのわりにトークが何故かとつとつとして、喋り方があまり論理的でないのも微笑ましい。

2017・7・10(月)マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 ハイドンの「交響曲第102番」と、ブルックナーの「交響曲第3番」(1873年初稿版)。
 インバルの向こうを張ったようなプログラムだ。そういえば今日はインバルもホールに来ていたという話だが、もし客席にいたのなら、どんな顔をして聴いていただろう。

 それにしても今日は━━いや今日も、というか、聴衆はよく入っていた。ほぼ満席といっていい状態だろう。それはめでたい話ではあるが、満席になると音が吸われて、この残響の少ない大ホールが、ますますドライな音響になる。ミンコフスキの指揮する音楽は、本当はもっと響きのたっぷりしたホールで聴きたい類のものであった。コンサートマスターは矢部達哉。

 「102番」の演奏は、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルとの水際立った演奏が頭に残っている聴き手にとっては、どうしても物足りなくなるのは否めまい。
 冒頭のあの弱音から始まって漸強━━漸弱になる全管弦楽の和音は、同オケとの演奏ではあれほど神秘的で不気味でさえあったのに、今日の演奏ではどうしても淡彩で一面的なものになってしまう。第4楽章での木管のリズミカルなエコーが、洒落たエコーとして響いて来ないのも、オーケストラとホールの響きとの双方に原因があるだろう。
 このあたり、都響もよくやっていたには違いないが、たった1回だけの客演指揮者を相手では、やはり呼吸が合うというわけにも行くまい。

 ブルックナーの方は、先入観なしに聴いたし、だいいち曲が曲(?)だから、もう少し別の視点から聴くことができる。
 ミンコフスキはかなり速めのテンポでたたみかけており、演奏時間も何と60分を切っていたようだが、残響の少ないホールでは、このくらいのテンポ(総休止の間の長さを含む)の方がむしろ望ましいかもしれない。

 先年の都響とのブルックナーの「0番」では、極めて精緻に彫琢された演奏を聴かせてくれたので、今回も同様の手法によるものかと思っていたら、思いのほか剛直で力感の豊かな音づくりだった。全管弦楽の最強奏の個所などでの咆哮ぶりは凄まじく、さながら仁王のようなブルックナー。

 これ見よがしの手練手管や誇張など一切感じられないにもかかわらず、聴き慣れたブルックナーの和声的な響きが、突然ギョッとさせられるような異様なバランスの音色で響きわたることがある。それゆえ、もともと粗削りなこの初稿版が、いっそう刺激的で劇的な色合いを以って聞こえて来て、ミンコフスキの一筋縄では行かぬ感性に舌を巻かされる、ということになるだろう。

 ともあれ、この初稿版は、のちの第2稿や第3稿に比べると、荒っぽくて、あちこちヘンなところがたくさんあるのだが、それがまた独特の面白さを感じさせる。第2楽章での「タンホイザー」の巡礼の合唱の引用など、ブルックナーがワーグナーに心酔していた時期の佳き里程標でもあるのに、何故のちにカットして書き換えてしまったのか。

 ━━同じ曲を何度も大幅に書き直すのは、必ずしもいい趣味とは思えないけれども、しかし私たちはそのおかげで、ブルックナーのシンフォニーを、付けられた番号以上の数で愉しめる、という恩恵に浴することができるわけである。

2017・7・9(日)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 コンサートを聴きに行くのも億劫になるくらいの壮烈な猛暑。着いた時には、暑さのために、既に眠気に襲われていて━━。

 だが広上淳一の指揮はやはり魔術的で、モーツァルトの「魔笛」序曲の最初の和音が響きはじめた途端、その豊かな拡がりと深みを感じさせる濃密な音の素晴らしさに、眠気もいっぺんに吹き飛んでしまう。
 今日は、そのあとのラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」でも、第2部でのR・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」でも、広上は日本フィルから、極めてブリリアントな音を引き出していた。

 特に「ツァラトゥストラ」など、かつての佳き時代の英デッカの録音で捉えられたオーケストラのそれにも似た、きらきらと光り輝く音色が随所にちりばめられた━━私にはそのように感じられた演奏だったのである。日本フィルがこんな音を出したのは、珍しい。
 終演後の楽屋で、マエストロ広上に「いい音を出しましたね」と称賛したら、「このオケ、いいね。このところ大曲の演奏ばかり続いて疲れてるはずなのに、ここまでやるんだからね」と、日本フィルを絶賛。要するに、両者ともに素晴らしいということになる。

 ただ、どういうわけか今日の演奏には、出だしのアインザッツが合わぬところが、一度ならずも二度三度、やたら多かったのには、首をひねらされた。日本フィルが広上の指揮に慣れていないはずもないだろうし、しかも今日は定期の「2日目」なのに、である。
 一方、各パートのソロは、いずれも快調であった。コンサートマスターは千葉清加。

 ラヴェルを弾いたピアノのゲスト・ソリストは、ジャン=エフラム・バヴゼJean-Efflam BAVOUZETである。彼も実に良いピアニストだ。一つ一つの音に耀きがあって、しかも洗練された個性を持っている。最後の長いソロなど、この上なく華麗で、魅力的であった。ソロ・アンコールでのドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」や、ピエルネの「演奏会用練習曲 作品13」も、さすがお見事。
 シンフォニー・コンサートにゲストで出るソリストがソロ・アンコールを延々とやることには、私は反対論者なのだが、今日は全体のプログラムが短めだったこともあるし、こういう演奏をする人なら、フランスものであれば更に1、2曲ほどやってくれても構わないのに、と思ったほどである。

2017・7・7(金)飯守泰次郎指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 前半では、ネルソン・フレイレをソリストにブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」が演奏され、後半ではワーグナーの「パルジファル」からの「第1幕前奏曲」と「聖金曜日の音楽」、「ヴァルキューレの騎行」、「タンホイザー」序曲が演奏された。コンサートマスターは長原幸太。

 フレイレがブラームスの協奏曲を弾くのを聴く機会は、私としてはこれまであまりなかったような気がする。が、今日の「2番は、フレイレ特有の明晰で清澄な音色と、予想外に激しい起伏をもった強靭な力感とが均衡を保っていて、壮大な快演。。
 飯守と読響の演奏も、かなり劇的である。この曲でここまで闘争的にならずとも━━と思わないでもなかったが、ブラームスの情熱を浮き彫りにしようという狙いがあったのなら、それはそれで一つの考え方であろう。
 第3楽章では、ソロ・チェロの遠藤真理が、絶妙な美しい演奏を聴かせてくれた。

 フレイレはソロ・アンコールに、グルックの「精霊の踊り」を弾いたが、これがまたロマンティックで情感豊かなこと。

 後半は、飯守の十八番たるワーグナー集。読響を威力充分、轟々と響かせて大見得を切る(この分なら、秋の「神々の黄昏」は絶対大丈夫だろう)。
 ただ私の好みからすれば、落ち着いた美しい演奏の「聖金曜日の音楽」の、特に後半が強く印象に残る。。

 なお、「ヴァルキューレの騎行」では、いつもの演奏会用編曲版が使用されていたにもかかわらず、ハープ(ただし2台)が加えられていたのは意外であった。
 全曲版楽譜では6台のハープが加わっているのは事実だが、それらが全面的に省かれているコンサート版にも、2台のみにせよ(しかもほんのちょっと弾くだけなのに)パートを復活させているとは、何ともゴージャスなこと。さすがは読響、というか。
 ただ、ハープのパートが加えられている演奏会用編曲版「ヴァルキューレの騎行」スコアが別に存在するのなら、この件は御放念いただきたいが。

2017・7・6(金)オペラ「鑑真東渡」日本公演

     Bunkamuraオーチャードホール  7時

 中国の新作オペラで、昨年12月に東京で初演された由。今回は日中国交正常化45周年記念事業の一環としての再演という。
 作曲は唐建平、指揮は程曄、管弦楽は江蘇省演芸集団交響楽団、合唱と演舞は江蘇省演芸集団歌劇舞劇院。声楽はPA使用。

 鑑真とは、8世紀の昔に日本を訪れ、唐招提寺を建立したあの有名な唐の高僧のことだ。
 ここでは、彼が日本の遣唐僧・栄叡らの要請を受け、使命感に燃えて粒粒辛苦の末、自らも視力を失いながら、やっと6度目にして日本への渡航(東渡)に成功するまでのさまざまなエピソードが描かれている。その一部には、井上靖の「天平の甍」と共通した内容もある。

 2幕構成で、休憩15分を含め2時間15分前後の上映時間。音楽は打楽器を駆使した劇的な要素と、西欧的な管弦楽法を使用した叙情的な要素がバランスよく組み合わされているが、いわゆる西欧的なオペラのスタイルとは一線を画す、独自の形式によるものと言えるだろう。
 構成的には後半、やや冗長で流れも単調になる部分があるが、音楽そのものは耳あたりが好い。舞台装置は比較的シンプルではあるものの、目を奪うほど色彩的で美しい。

 最終場面で、膝まづく日本の民衆の前に唐僧・鑑真が偉大な存在として君臨する、という演出は少々鼻につく感がなくもないが、彼が東大寺大仏殿に戒壇を築いて聖武上皇以下400名に授戒した、などという歴史的事実があるからには、ご尤もでございます、と言うしかあるまい。
 ただ、鑑真がドラマの中で歌う歌詞の中には、仏教徒でない私にも非常に魅力を感じる言葉がいくつかあって━━例えば彼が弟子との別れに際し語る「すべては縁、汝とここまで来られたのも縁、汝にここで去られるのもまた縁」といったような━━キリスト教のある種の強引さとは全く異なる思想に強く感動させられたのは確かである。

 鑑真を歌い演じたのは、田浩江という堂々たる風格のバス歌手。最近は漢字で書かれると逆によく解らない時代になってしまったが、彼はティエン・ハオジャンといい、METのプログラムではHao Jiang Tian(ハオ=ジャン・ティアン)」と表記され、同歌劇場で「ルチア」のライモンドとか、「アイーダ」のエジプト王とかで重厚なバスを聴かせた常連でもあった。

2017・7・6(木)パスカル・ロジェ×束芋

     浜離宮朝日ホール  1時30分

 そう度々は行なわれない、珍しいタイプの演奏会が開催された。
 ピアノのパスカル・ロジェと、現代美術作家の束芋(Tabaimo)のコラボレーション━━音楽と映像美術の「協演」である。
 といってもこれは、2012年に開催されたことがある由。今回は再演とのことだ。

 手っ取り早く言えば、パスカル・ロジェが舞台上で、ドビュッシー、サティ、ラヴェル、吉松隆の小品を多数演奏する。音楽のイメージの基調は、フランス印象派のそれである。その背景、舞台いっぱいに吊り下げられた巨大スクリーンに、束芋によるさまざまな映像━━アニメーションが、プロジェクターで投映される。

 面白い試みだし、こういう演奏会は盛んにプロデュースされていいと思うのだが、何というか・・・・音楽と視覚映像とがこのように同時に展開されることによって、そこにどういう感動が体験できたか、ということになると、何とも言いかねる。

 私自身も、たとえば日本の陶器の画集を見ていた時に、ラジオから偶然聞こえて来た武満徹の音楽が視覚と合致して、形容し難いほどの陶酔に誘われたことはある。また、クルマで人気のない海岸を走っていた時、岩にぶつかる白い波頭の上に無数の海鳥が夕陽を浴びて舞っている光景と、偶然カーラジオから聞こえて来たシベリウスの「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」とがあまりに鮮やかに一致して、陶然としたことはある。

 だが、このように演奏会場に来て、椅子に身動きもせずきちんと座って、ピアノがあり、スクリーンがあり、・・・・さあどうぞ、この音楽と、同時に映されるアニメーションをご覧下さい━━とお膳立てされ、なかば強制されると、途端に構えてしまって、すべてを客観的に見てしまうのである。

 もっとも、だからといって、感動するのが音楽と視覚とが偶然に一致した時だけかというと、そうでもなく、場面と音楽とが巧みに一致するよう設計されたオペラや映画などでは、それなりにうっとりさせられるのだから、勝手なものである。
 所詮、異質なもの同士が完璧に合致して感動を生ましめるかどうかは、受け手のその時の感性による、ということなのだろう。いや、そもそもそんなことを、観ながら、聴きながら考えてしまうのだから、余計いけない━━。

 いずれにせよ、暗いステージから響いて来るパスカル・ロジェのドビュッシーやラヴェルは、素晴らしく気持よかった。もちろん映像も美しかったし、それらがフランス印象派の音楽と一脈通じる要素も、こちらなりに感じられた。ただ時々、眼を閉じてしまって、ドビュッシーの音楽だけに集中してしまう、という瞬間もあったのだが・・・・。
 70分の長さ、と予告されていたが、実際はもう少し長かったのでは? 
 いいコンサートで、興味深い企画だった、ということだけは、繰り返し申し上げておきたい。

2017・7・5(水)エチェバリア指揮 関西フィルハーモニー管弦楽団

    ザ・シンフォニーホール  7時

 ベルリン・フィルの首席ホルン奏者シュテファン・ドールが、モーツァルトの「3番」とR・シュトラウスの「2番」の協奏曲を吹く。
 指揮は2年前の東京国際音楽コンクールで優勝したディエゴ・マルティン・エチェバリアで、第2部ではシューマンの「第2交響曲」をも指揮した。

 ドールの名手ぶりは、改めて言うまでもない。豊麗な、かつ強靱な音で朗々と吹きまくる彼のソロを聴いていると、胸のすくような快感に満たされる。彼の場合、それが決して放漫にならず、どんなスケルツァンドな曲想の個所でも、どこかに一種の生真面目さを湛えた演奏になるのだが、それがまた、いかにもドイツの名手だなという印象を生むのである。
 モーツァルトでは何か不思議に慎重な演奏という感を与えたが━━今日はNHK-FMの収録が入っていたので、それを意識していたのかもしれない━━R・シュトラウスでは曲想に相応しい豪快さを発揮した。そしてソロ・アンコールにはメシアンの「峡谷から星たちへ」の一節を超絶技巧的に吹き、聴衆の度肝を抜き、大いに沸かせたのだった。

 一方、エチェバリアの指揮は、私は先頃のコンクールの時の演奏を聴いていなかったので、今回が初めてである。曲によっては、なかなか巧いまとめ方をする人だと思われる。
 今日は、正直言って、協奏曲では「合わせもの」には未だしという感じだったし、シューマンの交響曲でも第1楽章の味も素っ気もない演奏には不安を覚えたのだが、楽章を追うに従い、みるみる中味が濃くなって行った。特に第3楽章ではシューマンの叙情美が充分に再現されており、第4楽章には勢いのいい追い込みが聴かれて、エンディングなどではすこぶる見事な昂揚がつくり出されていた。

 今日は2階席中央の3列目で聴いたが、このあたりはオーケストラから適度の距離感があって聴きやすい。もっとも、ホルンのソロは、よく響き過ぎて、どこで吹いているのか分からないくらい定位感が曖昧になってしまうことがある。

 それにしても今日は、関西フィルのアンサンブルが、なかなか良かった。音楽監督デュメイの薫陶もあってか、弦のまとまりがいいのに感心する。今日は近藤薫がコンサートマスターを務め、チェロのトップには荒庸子が座っていた。もちろん、木管のソリもいい。
 このところ関西フィルの演奏は、飯守泰次郎の指揮でばかり聴いていたが、彼はアンサンブルの細部よりも音楽の精神的な内容の方を重視する人だ。関西フィルもその気になればこんなに精密な音を創れるようになっていたとは知らなかった。不明の至りである。

 ついでながら、このシンフォニーホールの2階のバー・コーナーの売り子さんは、何故あんな金切声で絶叫しながら応対するのだろう? これは全国のホールの中でも最悪の部類である。

2017・7・3(月)ハーゲン・クアルテット

    トッパンホール  7時

 「ハーゲン・プロジェクト2017」と題し、ショスタコーヴィチとシューベルトの弦楽四重奏曲を組み合わせたプログラムで3夜の演奏会が組まれている。今日はその初日。ショスタコーヴィチは「第3番」、シューベルトは「第13番《ロザムンデ》」が取り上げられた。

 ハーゲン・クアルテット、演奏の「内容が薄い」などと言われたのは昔の話。技術的には確かに昔の方が冴えていたかもしれないが、今では音楽そのものに、聴き手の心に直接訴えかけて来る情感が増している。
 ショスタコーヴィチの「3番」が━━これは私だけの印象かもしれないし、聴いた位置によるのかもしれないが━━今日は常ならず温かさにあふれたものに感じられてしまったのである。

 もちろん「ロザムンデ」は言うを俟たない。第1楽章の出だしなど、その手法をブルックナーが「第3交響曲」で見事に応用しているのを思い出しては微笑ましくなる個所だが、ハーゲン一族(?)の演奏、昔はこんなに哀感を漂わせていたかな、という印象を得た。
 なんだか独りよがりの印象だが、今日は個人的にも物事を少し感傷的に受け入れたくなる状態にあったので、その所為なのかもしれない。
 アンコールには同じくシューベルトの「第10番」からの第3楽章が演奏されたが、これまた心に沁みる演奏。

2017・7・2(日)ベルリーニ:「ノルマ」

    日生劇場  2時

 日本オペラ振興会制作の新プロダクション。日生劇場、びわ湖ホール、川崎市スポーツ・文化総合センター、藤原歌劇団、東京フィルの共同制作公演として、またシリーズとしては藤原オペラと日生オペラの合同━━という、入り組んだシステムになっている。要するに中味は藤原オペラで、たくさんの関係団体あり、ということだ。

 ダブルキャストによる公演だが、マリエッラ・デヴィーアがノルマを歌う組は秋のびわ湖ホール公演でも観られるから、今回は全て日本勢が歌う組の方を観ることにした。その方が、今の日本のオペラ界の趨勢が判って面白い。
 有名外国人歌手だけ観てどうのこうのと言うのは、趣味としてはそれでもいいかもしれないが、仕事としては充分な姿勢ではない。それに今回は、ノルマを小川里美、ポリオーネを藤田卓也が歌い、アダルジーザに米谷朋子、オロヴェーゾに田中大揮、といった、いい歌手陣である。

 小川里美は、ノルマはこれが初役だという話だが、歌唱といい、気品と威厳に満ちた長身の舞台姿といい、実に良いノルマだと思う。今回のようにたった1回の舞台ではなく、場数を踏めば、どこへ出ても立派なノルマになれる人だろう。
 ただ今回の舞台では、この役の崇高さはよく出ていたものの、銅鑼を鳴らす場面で爆発する「怒り」の表現が、どうも不充分である。これは、演出に原因があるだろう。

 残念ながらこの日の登場人物たちの描写は、どれも一面的で、性格に裏や襞といったものが感じられない。
 演出は粟国淳だが、彼はプログラム・ノートに「ベルリーニの音楽は、兵士たちが戦の合唱で気勢を上げる個所でさえ、ヴェルディのそれと違って激さず、むしろ静謐な音の中へ云々」と書き、演技に関しては「むしろ日本の能のような・・・・」という趣旨のことも指摘している。なるほど、そう言われればこの日の舞台の演技は、極めて抑制されていた印象が強い。
 だが、それらは確かに実績ある優秀な演出家としての彼の一つの見解であるには違いないが、その音楽の解釈と、そこから生まれる演技表現は、私には全く賛意を表しかねる類のものである。

 フランチェスコ・ランツィロッタという人の指揮は今回初めて聴いたが、まあ何とも平板で鈍重で、緊迫感も皆無で、生気が感じられぬ。東京フィルも最近では珍しいような古色蒼然たる音を出し、ベルリーニの音楽から熱気と緊張感を失わせていた。

 結局、今日の「ノルマ」を盛り上げていたのは、歌手たちの「歌唱」である。
 前述の小川里美の他、注目の藤田卓也は期待通りの伸びのある声で、力強いポリオーネを歌っていた。オロヴェーゾの田中大揮は、巨躯から響かせる底力ある声で、全ての点でこの役に相応しかった。アダルジーザの米谷朋子も、細かいヴィブラートがちょっと気になり、またノルマとの声の対比があまり際立っていない、という問題もあろうが、清純な声質である。他にクロティルデに但馬由香、フラーヴィオに小笠原一規。

2017・7・1(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

    NHKホール  3時

 先週末のデュティユー、サン=サーンス、ラヴェルというプログラム(A定期)が聴けなかったのは痛恨の極みだが、しかし今日のC定期━━シューマンの「ゲノヴェーヴァ」序曲と「チェロ協奏曲」(ソロはターニャ・テツラフ)、シューベルトの交響曲「ザ・グレイト」も、最近のパーヴォとN響の呼吸を聞き知るには丁度いいものだった。

 特に「ザ・グレイト」は、指揮者がストレートにやればそれなりに快く響き、あれこれ趣向を凝らせばそれなりに面白く聴けるという交響曲だから、楽しみも増す。
 パーヴォの今回の指揮はもちろん後者に近いものだが、ただし予想していたよりも荒々しいエネルギー性を浮き彫りにした解釈で、しかもこれも予想していたより細部の彫琢には拘泥せぬ演奏だったので、残響のほとんどないこのホールの2階6列目で聴いた範囲では、かなり乾いた、素っ気ない演奏に感じられたのが正直なところである。

 第1楽章序奏冒頭のホルンなど、これがN響かとびっくりするような吹き方だったが━━これで些か興を削がれたのは、私だけではなかったのではないか。とはいえ後半2楽章、とりわけフィナーレでの猛烈な追い込みは迫力があった。

 前半のシューマンでは、協奏曲でのターニャ・テツラフの伸びやかな、気宇の大きいソロがひときわ聳え立つ、という感。

2017・6・29(木)小山実稚恵さんを祝う会

      ホテルオークラ東京 アスコットホール  6時

 平成28年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞したピアニスト・小山実稚恵さんを祝う会が盛大に催された。主役たる彼女が、全く気取った表情を見せず、いつものように笑い転げながら人々と歓談する光景が強い印象を残す。
 更なる素晴らしい体験は、彼女と、大野和士、広上淳一の3人による前代未聞の傑作な爆演(珍演?)が聴けたこと。

2017・6・28(水)モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」

      東京カテドラル聖マリア大聖堂  7時

 私はクリスチャンではないので、教会に行くことは滅多にないが、あの豊かな長い残響をもった会場で音楽を聴くことだけは、好きだ。それゆえ仕事とは別に、ちょっと教会を訪れ、オルガンの響きに浸ることは、たまにある。

 この日はアントネッロが主催する「クラウディオ・モンテヴェルディ生誕400年記念公演」。大作「聖母マリアの夕べの祈り」の上演である。
 古楽アンサンブルのアントネッロの代表でもある濱田芳通が指揮、西山まりえ(アルバ・ドッピア他)らアントネッロの器楽演奏に、鈴木美登里(ソプラノ)らラ・フォンテヴェルデが歌い上げた。

 両者の演奏の深みのある清澄な素晴らしさはもちろん、あの大教会の空間いっぱいにこだまする壮大な響きの美しさは、筆舌に尽くし難い。
 通常の一般祈禱席と、特設されたパイプ椅子の席は全て埋め尽くされたため━━使用席数は600というが、聴衆の数は1千人近くにさえ見えた━━空席時は7秒といわれる残響時間はかなり短くなっていたが、尾を引いて消えて行く微細な音たちの美しさは、ふつうのコンサートホールではとても味わえぬものである。
 それはまさに、永遠の至福の瞬間だ。第1部だけで70分以上になったが、それも全く時間の長さを感じさせないものだった。

 だが、私の勝手な都合で残念だったのは、翌朝早くからの芸術文化振興基金の助成金交付公演の事後評価会議に備えての準備のために、終演予定時刻(9時15分とか聞いた)まで会場に居られなかったことである。涙を呑んで、陶酔の第1部のあとの休憩の間に失礼しなければならなかった。

2017・6・25(日)山田和樹・日本フィル マーラー・ツィクルス(完)

       Bunkamuraオーチャードホール  3時

 2015年1月に開始されたマーラーの番号付交響曲のツィクルスも、早いもので、あっという間に完結になってしまった。
 今日、最終回は、「交響曲第9番」。そして、組み合わされて来た武満徹の作品は、「弦楽のためのレクイエム」である。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 武満徹の作品は、このシリーズの中で、ある方面からは「添え物」「前座」とでもいう目で見られてきたようだが、これだけ彼の作品がシリーズとして取り上げられた例は稀である。その意味では、極めて有意義な企画だったと言うべきだ。9つの作品の演奏には多少のムラもあったが、演奏はすべて真摯であった。
 今日の「弦楽のためのレクイエム」は、満を持して代表作が登場したといった感である。だがこの曲が、マーラーの「9番」の終楽章と、いかに見事な「対」を為していたか、両者を真剣に聴いた聴き手には納得できたはずである。良い組み合わせの選曲であった。

 「9番」の方は、山田和樹のこれまでのマーラーにおける演奏構築と同様、明快で、どんなに沈潜した個所においても、陰鬱な翳りをあまり感じさせない。
 それは特に、全曲の頂点たる第4楽章で際立っていたのではないかと思う。ふつう聴かれる演奏よりも、レガートな性格がさらに薄くなり、主題のフレーズがメリハリに富み、リズム感も明快だったことや、重厚な和声感よりも各パートの旋律性が重要視され、浮き彫りにされていたことなどもその原因であろう。

 例えば第49~50小節の朗々たるホルンのソロの、活力にあふれた歌。ふつうならこのソロは、弱音の弦の上にフォルテでふっくらと浮かび上がるように、弦との和声感を保ったまま吹かれ、瞑想の中に光明を見出したような感じを生むものだが、今日はフォルティシモで朗々と、屈託なく吹かれて行った。このあたり、山田和樹も若々しいな、という気がする。

 一方、弦で言えば、冒頭3小節目以降の、あるいは第56小節以降の弦楽器群の動きなどで、分厚いハーモニーの凄絶な力感というより、各パート間の明るい対話といったような特徴が聴かれた。従ってそこでは、弦の轟々たる厚い響きが、深みへ、深みへと下降して行くような、「不安の交じった安息」は得られない。それゆえ、重々しく深刻な世界には陥らなかったようである。やはり山田和樹は、いい意味で、青年なのである。

 それにしても、このスコアの最後の1ページほど、物凄い音楽はないだろう。マーラーは大変な音楽を書いたものだ、とつくづく思う。
 今日の山田和樹が指揮した演奏のように、極限までテンポが落され、主題が原形をとどめないほどまでにばらばらになり、虚空の中に溶解して行く、というのは多くの指揮者も強調している手法だ。それもまた一つの美しい浄化の凄みを感じさせるだろう。

 だがその対極的なものとして、昨年のマリス・ヤンソンスが指揮した演奏のように、あまりテンポは落されず、しかも最後まで和声的な響きを保ったまま結ばれて行く、という演奏もあった。
 それはまるで、最後まで端然とした容を崩さずに、安らかに生を終って行く、というようなことを感じさせて、私は心の底から震撼させられたものである。

 マエストロ山田は、終演後の楽屋で私に、そして打ち上げパーティの席上でも来客たちに、「あの最後のところをやってみたら、死ぬのが怖くなくなったような気がして来た」と語っていた。
 私も同じことを考えていたのだが、ただそれは、若い時における感じ方と、年齢を重ねてからの感じ方とでは、おそらく全然違うはずである。━━聴き手が齢を取るに従い、あの最後のページは、ますます強烈な凄さを感じさせるようになるだろう。
      別稿 音楽の友8月号 Concert Reviews

2017・6・24(土)シモーネ・ヤング指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場コンサートホール  6時

 シモーネ・ヤングの指揮は、CDで聴くよりも、ナマで聴く方が生き生きとして感じられる。ハンブルクで聴いた彼女の「指環」など、どれも引き締まった演奏だった。
 ただ、彼女が日本に来て指揮したいくつかのオペラやコンサートは、日本のオーケストラとの相性の問題も関係しているのか、ハンブルクでの演奏に比べ、何かちょっと中途半端なところがあって、もどかしい思いをして来たものである。

 だが、今回の読響との協演は、うまく行った部類だろう。彼女の歯切れのいい、エネルギッシュな音楽が、もともと馬力豊富な読響と程良くマッチして、すこぶる熱気に富んだ、胸のすくような勢いの演奏が生まれていた。

 今日のプログラムは、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはウズベキスタン出身のベフゾド・アブドゥライモフ)と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」である。コンサートマスターは長原幸太。

 協奏曲でも、彼女の「持って行き方」は巧い。盛り上がったピアノ・ソロを包み込むようにしながら、更にオーケストラの音量をぐーんと上げて高揚させて行くあたり、見事なものだ。
 第3楽章では、あの「越後獅子」を基にした主題を、アブドゥライモフのソロともども愉し気に躍動させつつ、オーケストラを最後のクライマックスに向けて滔々と豪快に押して行く。ラザレフのような野性的で荒々しい演奏ではなく、咆哮の中にも均衡を失わず━━と言ったらいいか、凄まじいエネルギー感が満ちあふれる音楽づくりだ。
 ピアノも激しい盛り上がりを聴かせて、一気に曲を結んで行った。

 「アルプス交響曲」の方も、前半の登山の場面でのテンポは、かなり速い。さまざまなエピソードをじっくりと描き出すという手法でなく、大きな流れとして場面をスピーディに切り替えて行く、というスタイルの演奏だ。
 この「登山者」は、足腰の滅法強い男らしく、岩も崖も楽々と踏み越え、疾風のごとく頂上目指して登って行く。「平家物語」の悪僧・祐慶さながら、「さしもさがしき東坂、平地を行くが如き也」といったところか。

 だが、頂上での感動と歓喜の場面は実にたっぷりとして雄大だし、「嵐の中の下山」も読響のパワーが本領を発揮してなかなか凄まじい。終結近く、夕陽に燦然と輝く山の光景と、日没から夜にかけての描写はテンポを落してじっくりと壮大に描く。
 かように通して聴いて来ると、ヤングの演奏の組み立て方は、本当に巧いな、と感心する。ハンブルク・オペラのGMD(音楽総監督)として10年のキャリアを誇った彼女ならではの手腕であろう。読響も壮烈な演奏を聴かせて、これまた好調である。
     別稿 音楽の友8月号 Concert Reviews

2017・6・24(土)下野竜也指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 シティ・フィルは━━制作費の関係もあるのだろうが━━定期公演の客演指揮者には、邦人指揮者のみを招いてラインナップを組んでいる。だが、これはこれで一つの見識である。
 今日は、広響音楽総監督の下野竜也が客演した。プログラムは、フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」前奏曲、ワーグナー~ヘンツェ編の「ヴェーゼンドンク歌曲集」、ドヴォルジャークの「交響曲第6番」。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 下野とシティ・フィルの演奏はもちろん良かったけれども、私が今日、最も心を打たれたのは、「ヴェーゼンドンク歌曲集」における池田香織の歌唱だった。
 ドイツの現代作曲家ハンス・ヴェルナー=ヘンツェがオーケストレーションを施したこの版は、モットルらが編曲した版に比べて短3度低くなっている。この低い音群を、池田香織は、素晴らしく深みのある声で歌って聴かせてくれた。第1曲の「天使」の冒頭、力のある陰翳を帯びた声が響き始めた時の衝撃は筆舌に尽くし難い。これが、昨年イゾルデを歌った同じ人の声なのかと━━。
 音域の広いことでは以前から定評のあった彼女だが、今回またもや彼女の素晴らしさを更に認識させられた。さながら、日本のワルトラウト・マイヤーといったところだろう。

 さて、下野とシティ・フィルの方も、すこぶる厚みのある音で、壮大な演奏を繰り広げていた。
 下野のドヴォルジャークの交響曲は、以前にも読響との演奏でいくつか聴いたことがある。その時と同様、今回も正面からシリアスに取り組んでいた。形式と構築に些かまとまりを欠くきらいのあるこの交響曲にさえ、がっちりとした形式性を与えてしまう感があるのが、下野の指揮である。
 これは、どういう秘策によるものか判らないけれども、要するに俗な言葉で言えば、彼の「まとめ方」がうまいということになるのだろう。

 「6番」は、「3番」「4番」とともに、ドヴォルジャークの交響曲の中では私の好きな曲だ。ゆったりと弾むように始まる、あの「七里ヶ浜の哀歌」(真白き富士の嶺)そっくりの主題からして快い。今日は、その主題をはじめとして、壮大で密度の濃い演奏が繰り広げられた。
 第1楽章の提示部をスコアの指定通り、几帳面に反復するのも彼らしい。以前、小さい子供相手のコンサートで、騒がしくなる場内をも気にせず、モーツァルトの交響曲をすべて反復指定通りに長々と演奏し、「こういう時はリピート無しでいいんじゃないの?」と疑問を呈した私に、「いや、(オリジナルの)ちゃんとした形で聴かせないと」と言い張った彼を思い出して、フッと可笑しくなった。

 シティ・フィルも堂々とした演奏だし、アンサンブルもソロもしっかりしている。本番のみならず、開演前のロビー・コンサートでの若手3人の演奏も、熱のこもったものだった。
 これだけいい演奏をしているにもかかわらず、このオケの定期は、お客の入りがいまだに不満足な状態にある、というのがなんとも残念である。フォローするファンはもちろん多いようだが、その数がもっと増えないと・・・・せめて毎回平均7割の入りまで持って行きたいところである。私がやきもきしてどうにかなるというわけではないけれども━━。

2017・6・23(金)ロジェ・ムラロ・ピアノ・リサイタル

    トッパンホール  7時

 フランスのピアニスト、ムラロのリサイタル。
 プログラムは、シューマンの「森の情景」、メシアン~ムラロの「エローに棲まうムシクイたち」、ワーグナー~リストの「紡ぎ歌」と「イゾルデの愛の死」、ドビュッシーの「練習曲集」第1集。アンコールにショパンの「夜想曲第20番嬰ハ短調」。

 ムラロらしいユニークな音づくりで、彼の感性にかかると、シューマンもワーグナーも現代音楽のような趣になる。
 ドビュッシーの「練習曲」は、もともと既に19世紀の枠から飛び出したような音楽だから、ムラロの表現主義的な演奏(誤解を恐れずに言えば、だが)で聴くと、いっそう面白い。
 しかも、「トリスタン」の音楽にある未来派的な特性が、リストの豪放な編曲を通じて表現主義に足を踏み入れたような姿で立ち現れ、それが荒々しい音響のドビュッシーの「練習曲」に繋がって行く、というコンサートの流れも興味深い。

 ムラロの激烈な演奏が、その流れをいっそう強く印象づける。そうしたプログラミングと演奏の組み合わせの巧みさが、ムラロの真髄というべきものだろう。

 なお、メシアンの「エローに棲まうムシクイたち」は、彼が1962年に初来日(小澤征爾とN響の「トゥーランガリラ交響曲」日本初演の時だろう)した時まで書きかけていて、その後未完に終ったピアノ協奏曲のピアノ・パートを、ムラロ自身が編纂した作品とのことである。この日の演奏が世界初演になるとか。
 カデンツァ風の激しい動きを伴う曲だが、今日のムラロの演奏の中では、これが最も無限の拡がりを感じさせ、印象に残るものとなった。

 それにしても、ムラロが演奏した「練習曲集」での荒々しい音響は、このホールには納まりきれぬほどだ。彼だけでなくこのホールで聴くピアニストの音は、みんなこうなる。トッパンホールは素晴らしい会場なのだが、このピアノの大音響だけは・・・・どうも苦手だ。

2017・6・22(木)飯森範親指揮山形交響楽団 東京公演

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 山響恒例の、おなじみ「さくらんぼコンサート」、ほぼ満席に近い盛況。
 今日は、音楽監督・飯森範親の指揮で、サリエリの歌劇「ファルスタッフ」序曲、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」(ソロは横山幸雄)、モーツァルトの「交響曲第40番」。アンコールはモーツァルトの「交響曲第31番《パリ》」終楽章。コンサートマスターは高橋和貴。

 先日オクタヴィア・レコードから出た飯森&山響のモーツァルト交響曲全集CDが予想を上回る見事な出来だったので(13枚組の大部とあって、未だ半分しか聴けていないのだが)、ナマ演奏では如何と期待していたのが、この「40番」。
 これも、予想をはるかに超える充実の演奏だった。アタックとアクセントが強く、鋭角的な構築で、この曲のもつ厳しい表情を浮き彫りにする。

 全集CDに入っている「40番」と違い、今回使用した楽譜は、クラリネットを加えた版である。だが、響きはまろやかになるどころか、むしろ良い意味での鋭さを増していたようだ━━山形テルサでの録音による「40番」はエコー成分が豊かであり、また弦楽器群が大編成並みに分厚く前面に出たバランスで響いているので、どちらかというと温厚な、落ち着いたクラシカルな演奏に感じられるのである。

 それに比べ、今夜聴いたナマの演奏では、管楽器群がより明晰に響き、特にナチュラル・ホルンの鋭いアタックが、アンサンブル全体を威嚇し支配するかのような強い存在感を示しているので、演奏全体が鋭角的になっていたのだ。私としてはこちらの方が先鋭的に感じられて、好みに合う。特に前半2楽章は隙のない、優れた演奏であった。

 反復個所をすべて忠実に履行しているので、演奏時間も長くなる。それかあらぬか、第3楽章以降ではその緊迫度がやや薄れたような気がしないでもなかった。特に第4楽章では全体に少しテンションが落ちたようにも感じられたが、こちらの気の所為かもしれない。

 その前に演奏された「皇帝」も、ホルンの独特の音色が目立ち、リズムも明晰なので、オーケストラ・パートもかなり角張って聞こえる。内声部の響きもはっきりしているため、普通の演奏では聞こえないような各パートの交錯が楽しめる。ただこうなると、横山幸雄の力感に富んだオーソドックスなソロとは、必ずしも調和していたとは言い難いような気もするのだが・・・・。

 ところで、サリエリの小品は・・・・。珍しいものを聴かせてもらった、と感謝はするが、作品そのものは、言っちゃ何だが、見事なほどつまらなかった。
 コンサートは、クラリネットを使った「パリ交響曲」の第3楽章が華やかに演奏されて閉じられた。

 プレトークでは、西濱秀樹専務理事・事務局長が飯森範親とともにステージに登場。締め括りに協賛社の名前を「提供クレジット」として口頭で発表するのは、彼の関西フィル事務局長だった時代からの慣行である。

 ホワイエには、CDの即売コーナーだけでなく、例のごとく山形県の物産がずらりと並んで、お米、さくらんぼ、佃煮、豆、菓子など、壮観を極める。その横には「手荷物預かり所」というデスクがあって、お客さんたちが買った土産物の袋を客席内に持ち込まぬためにという、細かい気配りも。
 今年も例年のように抽選で佐藤錦のさくらんぼを贈呈するというシステムになっており、プログラムの最後の方の頁に、モーツァルトの切手のようなシールが張ってあれば当選という形だ。私も入口の「もぎり」のところでプログラムを貰い、知人と話しながら開いて見たら、それが貼ってあったのに仰天。しかしこれは、公明正大に(?)受け取ったもので、あくまで偶然の結果だから、遠慮なく頂戴することにした。ついでに終演後、山形の特産品をいくつか買い込む。山形駅の売店でもなかなか見当たらぬような珍しいものがある。

2017・6・21(水)大野和士指揮東京都交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 平日マチネーの定期は、東京でもどうやら定着したらしい。結構な客の入りだ。音楽監督・大野和士の指揮となれば尚更だろう。大雨・強風の悪天候の中でも、これだけ集まって来る。その熱心さには心を打たれる。
 今日のプログラムは、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」(ソリストはロジェ・ムラロ)、ベートーヴェンの「田園交響曲」。コンサートマスターは四方恭子。

 作品の持つ標題性のみならず、曲想の点から言っても、これは一貫性のあるプログラミングで、いかにも大野と都響らしい企画である。演奏も引き締まって、近年の都響の快調ぶりを示していた。
 もっとも、管のソロには2つ3つの危ないところもあったが━━人間のやることだから間違いはつきものだし、普段は私もこんなことには触れぬクチなのだが、何しろ今日のは、オヤこんなこともあるのかと呆気にとられるような事例だったので、つい、━━しかし都響の演奏は、全体としては極めて鮮やかで、胸のすくような出来であった。そして、その奏者も、そのあとは見事なソロを繰り広げてくれたのである。

 「牧神の午後━━」は、官能的とか夢幻的とかいった柔らかい雰囲気とは違い、もっと輪郭の明晰な表情に満ちたものだが、ドビュッシーの音楽はそんなことで揺らぐような世界ではない。
 「フランスの山人━━」は最初のイングリッシュ・ホルンの歌があまりに豊麗で朗々としていて見事なのにハッとさせられ、これで演奏の印象が決まる。ピアノはオーケストラの中央に配置され、コンチェルト・スタイルでなく、オケの楽器の一つとしての位置づけだった。ロジェ・ムラロの清澄な演奏をリサイタルに先立って聴けたのは嬉しかったが、オケは、最強奏になると、音色が粗っぽくなる。

 だが後半の「田園」になると、演奏は、実に緻密になる。この曲だけ念入りに練習したのかと思わせるような━━。本当に、驚くほど楽々と演奏されて行く、という感じである。
 このように割り切った活気のある演奏は、気持がいい。といって、勢いに任せて細部が疎かになることは決してない。それどころか、和声的にも旋律的にも、そしてデュナミークの対比の点でも、この上なく丁寧に組み立てられた「田園交響曲」というべきだろう。
 第1楽章展開部で、主題の音型が転調を重ねながらいつ果てるともなく反復されて行く個所など、大野と都響がスピーディに、かつ正確に表情を変えて行くその鮮やかさには魅了される。

 第2楽章でも、その転調の美しさにはうっとりさせられたが、━━最も美しい最弱音に陶酔しているさなかに、固い物が床に落ちる音や、2階席前方のすぐ傍から無遠慮な大きな咳が轟くとギクリとさせられてしまい、感興が削がれること夥しい。
 が、そんなことは措いて、この「田園」は、明晰で率直で、精妙さと剛直さがうまく合体した快演だったと申し上げてよいだろう。音量的にも感興的にも、全曲のクライマックスが第5楽章に置かれて効果を上げていた。
      音楽の友8月号 Concert Reviews

2017・6・19(月)読響アンサンブル・シリーズ

     よみうり大手町ホール  7時30分

 「日下紗矢子リーダーによる室内合奏団」と題し、ショスターヴィチ~バルシャイ編の「室内交響曲」(弦楽四重奏曲第3番」による)と、シューベルト~マーラー編の「死と乙女」という、重量感に富むプログラムが組まれた。

 日下紗矢子はもちろんベルリン・コンツェルトハウス管の第1コンマスであり、また兼任する読響の方は過去4年間ほどコンマスだったが、今年4月からは特別客演コンマスの肩書となっている。
 今回の弦楽アンサンブルには、瀧村依里(ヴァイオリン)や鈴木康浩(ヴィオラ)らも加わり、「室内交響曲」での管楽パートには蠣崎耕三(オーボエ)らも顔を揃えていた。

 演奏も重量級で、聴き応え充分である。どこかのアンサンブルのように、腕は確かで合奏力も完璧ながら音楽がメカニックで温かみが感じられない、などというのとは全く違い、演奏に聴き手の心を揺り動かす一種の魔性のようなものが漂っている。

 「死と乙女」など、これまで私はこの弦楽合奏版の演奏に一度も感動したことがなく、聴くたびにオリジナルの弦楽四重奏曲版の良さを懐かしく思うということの繰り返しだったのだが、今回の「日下紗矢子リーダーによる室内合奏団」の演奏に限っては、冒頭の一撃からして、そのデモーニッシュな力に愕然とさせられ、音楽に巻き込まれて行ったほどだった。
 プレトークで日下さんが話していたけれども、今回の演奏には、オリジナルの弦楽四重奏曲の楽譜にあるニュアンスをも多く取り入れていた由。

2017・6・16(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      東京文化会館大ホール  7時

 陽気な鬼将軍ラザレフは、首席指揮者を退いた現在では、桂冠指揮者兼芸術顧問の肩書を贈られている。
 相変わらず賑やかで慌しいステージでの挙止の親しみやすさもさることながら、彼が振ると日本フィルのアドレナリンもひときわ上昇するようで、その演奏は常に熱っぽくなるから、聴いていても楽しい。しかも、トレーナーとしても優れた手腕を持つラザレフである。彼の存在は、日本フィルにとって、今なお貴重だ。

 今日の定期は、「ラザレフが刻むロシアの魂」シリーズの一環。前半には、グラズノフのバレエ音楽「お嬢様女中」が演奏された。
 これはまた、珍しい曲をやってくれたものである。ナマで聴くのは、私も今回が初めてである。1898年に作曲された50分近い長さの作品で、まあ正直言ってさほど━━翌年作曲された「四季」ほどには出来のいい曲とも思えないけれども、ラザレフが日本フィル(コンサートマスター扇谷泰朋)から引き出した表情豊かな、躍動的な演奏は、実に多彩で、面白かった。
 こういうレパートリーを取り上げ、紹介した指揮者とオケの意欲的な姿勢は、見上げたものである。

 第2部はプロコフィエフで、「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは若林顕)と「スキタイ組曲《アラとローリー》」が演奏された。この二つも、日本の演奏会で取り上げられる機会は、意外に少ないものだろう。
 いずれも作曲者の20歳代前半、野心的で熱烈で、奔放な精神にあふれた曲想だから、ナマで聴くとすこぶる痛快である。だが、それにしても、この2曲における演奏は、良くも悪くも、かなり荒っぽいものだった。

 コンチェルトは、アシュケナージの入れたCDなどを聴くと、もう少し流れるような美しさもある曲なのだが、今日はピアノとオーケストラの猛然たる決闘の如き凄まじさを感じさせた。
 「スキタイ組曲」のほうは、もともと凶暴極まる作風であることは、ゲルギエフのCDで先刻承知だ。が、これも演奏はかなり粗っぽいところがある。なりふり構わず、遮二無二怒号咆哮しつつ突進する、という具合で━━。

 ともあれ、明日の演奏では、もう少しバランスも良くなるだろう。いつも初日の演奏が、熱意が先行してアンサンブルも粗っぽくなるのは、日本フィルのお家芸(?)だ。しかしその中でも、叙情的な個所での弱音の個所などでは、ハッとさせられるほど美しいものがあったことは確かである。

2017・6・14(水)井上道義指揮大阪フィルのマチネ・シンフォニー

      ザ・シンフォニーホール  2時

 これは文化庁関連・芸術文化振興基金の助成事後調査の仕事。コンサートを聴いて、演奏内容はどうだったか、企画の意図は達成されていたか、助成金申請の内容にふさわしいものだったか、予算に合致した内容だったか、客の入りはどのくらいだったか、などについて報告書を書く仕事だ。毎月聴く多くのコンサートの中で、平均4~6公演については、この仕事を兼ねている。

 今日は、「平日午後の名曲セレクション マチネ・シンフォニー」と題されるシリーズの第17回。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはハオチェン・チャン)と、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 マチネーの名曲だからと言って演奏に手を抜くことをしないのは、立派なものだ。「シェエラザード」では各楽器のソロも安定して、リムスキー=コルサコフの華麗なオーケストレーションを見事に再現していたし、とりわけチェロ・セクション(トップは近藤浩志)の音色の美しさは傑出していた。
 井上道義が多分狙っていたであろう「アラビアン・ナイトの艶麗な世界」が完璧に表出されるところまでは行かなかったかもしれないが、この「シェエラザード」がやはり良く出来た作品であり、リムスキー=コルサコフの「もって行き方」はやはり巧妙である、ということをはっきりと感じさせる井上の指揮と大フィルの演奏であったことは疑いない。

 協奏曲では、井上がすべてをリードしていたという感。どっしりとしたテンポ感で、シンフォニックに押し通す。そのため、ハオチェン・チャンのピアノが、最初は妙に端整で几帳面な雰囲気にとどまり、優等生的なコンチェルトもしくはピアノのオブリガート付きシンフォニーといった感の演奏だったが、第1楽章も展開部あたりからは、やっと闊達なヴィルトゥオーゾ的性格を発揮し始めた。

 井上と大フィルも、いくつかの個所では極度にアジタートにもなり、ソリストも猛然と燃え上がる。それでもやはり全体としては、ハオチェン・チャンは、忠実に、礼儀正しく指揮者に合わせていたような━━という印象は残るだろう。
 この曲で、このくらいオーケストラが大きく聳えまくって(?)いた演奏は初めて聴いたような気がするのだが・・・・。

 チャンは、アンコールでモーツァルトの「ソナタ第10番」の第2楽章を弾いたが、これはなかなか情感のこもった演奏であった。なお、最後に演奏されたオーケストラ側のアンコールの曲は、グリーグの「ペール・ギュント」からの「朝」。これもいい演奏だった。今日の大フィルは、弦をはじめ、音色がいい。

2017・6・13(火)METライブビューイング「ばらの騎士」

     東劇  6時

 5時半少し前に会場に着いたが、折しも昼の部の上映が終り、お客さんがゾロゾロ出て来るところ。このオペラで、こんなに大勢お客が入っていたのか、とびっくりする。初期の頃とは比較にならぬ盛況ぶりだ。すっかり人気も定着したのだろう。慶賀の至りである。

 このR・シュトラウスの「ばらの騎士」は、5月13日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴだ。METライブビューイングとしては、これが今シーズン最後のプログラムになる。掉尾を飾るにふさわしい上演内容と言っていいだろう。

 ロバート・カーセンの新演出と、ポール・スタインバーグの装置が洒落ていて、美しい。20世紀初頭のハプスブルク時代末期のウィーンという設定で、舞台装置も壁の色から床の色まですべてが濃厚な色彩にあふれているが、しかしそこはカーセンらしく、どこかにすっきりした雰囲気が舞台全体を貫いている。
 演技が微細で隙が無いのはもちろんだが、第3幕のエンディングには工夫が凝らされ、オリジナルのト書きとはかなり異なった光景が出現する。ロングの映像であり、しかも今日はかなり後ろの方の席で観ていたので、細部はよく判らなかったけれど、とにかく意表を衝いた幕切れの光景だったのは確かだ。

 元帥夫人を歌い演じたルネ・フレミングと、オクタヴィアンを歌い演じたエリーナ・ガランチャは、ともに今回のプロダクションが、この役をやる最後であるとのこと。
 圧倒的な人気はルネ・フレミングで、METの女王とか称されるにふさわしく、カーテンコールでは歓声は飛ぶわ、ビラは降るわで、凄い熱狂だ。確かに彼女は、独特の雰囲気と魅力を備えてはいる。

 しかし、歌手としての圧倒的な存在感は、やはりエリーナ・ガランチャのものである。出番が多いということからだけではない。歌唱の安定感と演技の巧みさが傑出している。オクタヴィアンというのは、女性歌手がズボン役を演じ、それが更に「女に化ける」という演技をやる複雑な役柄だが、そのどれもが実に微細で巧いのである。彼女のオクタヴィアンが観られなくなるとは、残念なことである。

 オックス男爵はギュンター・グロイスベック。無神経で無遠慮ながら決して下品ではない、という設定は、R・シュトラウスが求めたこの役柄の表現にぴったり合っているだろう。他に、ゾフィーをエリン・モーリー、ファーニナルをマーカス・ブリュック。この日の案内役と「テノール歌手」をマシュー・ポレンザーニが兼任、本人もそれをネタに司会し、他の歌手からも盛んに持ち上げられていた。

 指揮はセバスティアン・ヴァイグレ。この人、これまでナマで聴いたオペラでは、創る音楽がどうも殺風景なのが気になっていたのだが、この「ばらの騎士」は、録音で聴く範囲では安定していて、劇的な追い込みの部分ではなかなか優れたものがあった。10時25分終映。

 今シーズンのMETライブビューイングは、これで打ち止め。来シーズンのプログラムはすでに発表されているが、全10作品の中に、モーツァルトの「魔笛」以外、所謂ドイツ・オペラが一つも入っていないとは何たること。

2017・6.12(月)深井順子プロデュース「愛死に」

      東京芸術劇場 シアターイースト  7時

 作・演出・音楽が糸井幸之介。出演は深井順子ら計14人。
 深夜の池袋、とある劇場に12人の亡霊が現われ、愛とセックスを題材に、踊り、語り、歌う。ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」第2楽章が、イメージ的モティーフとして循環主題的に流れる。

 賑やかさとブラックユーモア性とが併せ備わった、よく出来た発想の芝居だとは思うが、反面、出演者たちがいわゆる咽喉声でセリフや歌を絶叫しまくるのは、正直言って聞き苦しい。特に狂言回し的な「劇場に闖入した若者」役の2人の不必要な金切声のうるささには耳を覆いたくなり、途中で帰ろうかと何度思ったことか。

 しかしこの芝居は、最後の最後まで観ないと━━つまり、騒々しかった亡霊たちが静かに棺桶の中に戻って行き、「劇場内に誰もいなくなった」場面まで観ないと、タイトルの意味を真に受容体験することはできない。
 そしてそこまで観てしまえば、人生を早送りで体験したかのような、何とも形容し難い寂寥感に打ちひしがれるとともに、芝居を観終った満足感に浸ることもできるというわけなのである。
 8時50分終演。

2017・6・11(日)愛知祝祭管弦楽団「ヴァルキューレ」

      愛知県芸術劇場 コンサートホール  3時

 アマチュア・オーケストラの愛知祝祭管弦楽団(団長・佐藤悦雄)が挑む、昨年9月11日の「ラインの黄金」に続く「指環ツィクルス」第2回。
 昨年同様セミ・ステージ形式上演で、ハープ6台を加えたフル編成の本格的な演奏である。コンサートマスターは高橋広(副団長)。

 音楽監督・三澤洋史が、今年も彼らプレイヤーたちを見事に巧くまとめた。音楽的には、素っ気ないほどイン・テンポで畳み込む指揮だが、ワーグナーのオペラに必要な緊迫感や情感は充分に備わっている。特に第2幕後半における劇的感覚には優れたものがあった。

 東京ではかつて「あらかわバイロイト」の例があったにしても、アマ・オケが「指環」全曲上演を試みること自体、大変な偉業に違いない。だがアマ・オケ特有の熱気で、「火事場のナントカ」というのか、いざ本番となると体当たり的な快演を聴かせるのが立派だ。請負仕事でオペラをやるプロのオケなどよりも、遥かに勢いのある演奏を聴かせてくれる。
 第1幕冒頭の嵐の音楽から、重厚な弦の響きが凄い勢いで噴き出して来て、これはいける、という雰囲気に聴衆を巻き込んでしまうのである。

 もちろん、勢いに乗って力任せになり過ぎるところ(第3幕)もあるし、もう少し練習すれば何とかなるだろうになあ、と思わせるところも、ないでもない。
 「ラインの黄金」とは比較にならぬほど精緻複雑なオーケストレーションをもつ「ヴァルキューレ」の音楽であれば、オケ全体のバランスやアンサンブル、管のソロなどには、いろいろ問題も目立って来る。特に第3幕では、金管の重要なモティーフが全く浮き出て来ない個所も少なからずあった。

 一例をあげれば、ヴォータンに一喝されてヴァルキューレたちが逃走して行く場面でホルンやトランペットなどが吹く、ばらばらになって遠ざかって行くはずの「ヴァルキューレの動機」がほとんど明確に聞こえなかった、という類だ。
 また、気負いのせいか、モティーフやフレーズが前のめりになって、何分の1拍か先に出てしまう━━ように聞こえる━━個所が数多くあり、したがってリズム感が曖昧になるということも多かった。

 こういう点、アマ・オケといえど、おカネを取って聴かせるからには、演奏には責任があるだろう。
 ━━とはいえ、心情的には、前述のように演奏の熱気が並大抵のものではないため、微笑ましく聴いてしまうのは事実だが。

 全体の中では、第2幕が最も優れた演奏だった。特に後半の「死の告知」がこれだけ美しく、しかも心の籠った演奏に感じられた例は、私の聴いた範囲では、決して多くない。たとえ他の個所の演奏にあれこれ問題があったとしても、この「死の告知」の場面ひとつで、今回の公演を「成功」と断言したくなる。

 今回の歌手陣は次の通り━━ジークムントを片寄純也、ジークムントを清水華澄、フンディングを長谷川顯、ヴォータンを青山貴、ブリュンヒルデを基村昌代、フリッカを相可佐代子。そしてヴァルキューレたちを大須賀園枝、西畑佳澄、上井雅子、船越亜弥、森季子、山際きみ佳、三輪陽子、加藤愛。以上のうち7人が、昨年の「ラインの黄金」に続いての登場である。

 清水華澄の豊麗な声と豊かな情感は、第1幕後半をリードして圧巻であった。片寄純也は前述の「死の告知」の場面での歌唱が際立ち、特に「ヴァルハルへは行かぬ!」と宣言するあたりの迫真力にはずば抜けていた。
 青山貴のヴォータンは、もう今では当たり役である。

 ブリュンヒルデの基村昌代は名古屋二期会会員としてキャリアのある人だが、私はもしかしたら今回初めて聴いたかもしれない。
 第2幕冒頭の「ホー・ヨー・ト・ホー」を聴いた時には、綺麗な声だなと思ったものの、ブリュンヒルデとしてはちょっと声が軽すぎるかな、と思わないでもなかった。だがどうして、第2幕中盤以降は立派なもので、「ヴォータンの愛娘にして初々しい年頃の勇敢なヴァルキューレ」としてのブリュンヒルデを完璧に歌ってくれたのであった。東京の舞台でも聴きたい人である。

 フンディングの長谷川顯は重厚な声で、昨年のファーゾルト役と同様に凄味のある歌唱。第2幕最後にヴォータンの罵声を浴びた挙句、フリッカの前に大音響を立てて倒れ死ぬ演技は、この場面の劇的効果を一層高めたものとして、休憩時のホワイエでも話題となっていた。
 相可佐代子は、昨年も同じように感じたのだが、強いヴィブラートが違和感を覚えさせるし、声がまっすぐに飛んで来ないのが気になる。そしてヴァルキューレたちはオルガンの下の高所で歌っていたが、しかし、あのオーケストラの気負った猛烈な咆哮の中では、聞こえろというほうが無理だろう。

 演出は、昨年に続き佐藤美晴である。オーケストラの後方に小型の舞台を設置し、さらにオルガン前の席をも活用した舞台構成だ。
 ただ、先頃の日本フィルのセミ・ステージ形式上演「ラインの黄金」でも、簡にして要を得た演技空間を鮮やかにまとめた彼女の本領は、今回はなぜか、残念ながらほとんど発揮されていなかった。ジークムントがとねりこの樹から霊剣ノートゥングを引き抜くはずの劇的な場面も、後ろに置いてあった小道具を取り上げるといった演技で、これでは「山場」にならない。僅かに加えられていた照明演出も、操作は概ねスムースではなかった。練習(か打合せか)の時間が不足だったとみえる。

 だが、第2幕の幕切れに、フリッカ1人を最後まで舞台に残したのは、この悲劇的な幕全体がフリッカの影に覆われているというドラマトゥルグを明確に象徴したものとして、良いアイディアだと思う。第3幕でヴァルキューレたちがヴォータンに一喝されて逃散する場面で、単に演奏会形式的にオルガン横のドアから退場するというのではなく、暗いバルコニー席の中をあたふたと逃げて行く━━というユーモアは秀逸であった。

 20分の休憩2回を含み、8時終演。
 来年の「ジークフリート」は9月2日の由。この愛知県芸術劇場が工事のため休館期間に入るので、御園座という会場を使うとのこと。オーケストラの演奏会場ではないのがちょっと気になるけれども、引続き頑張っていただきたい。

2017・6・9(金)N響 MUSIC TOMORROW 2017

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ローレンス・レネスが指揮するNHK交響楽団が演奏した今回のプログラムは、岸野末利加の「オーケストラのための《シェイズ・オブ・オーカーShades of ochre》」(N響委嘱作品、日本初演)、マーク・アントニー・ターネジの「ピアノ協奏曲」(日本初演)、一柳慧の「交響曲第10番さまざまなー思い出の中に―岩城宏之の追憶に」(今年の尾高賞受賞作品)、池辺晋一郎の「シンフォニーⅩ(=第10番)《次の時代のために》」(同)という力作ぞろい。協奏曲でのソロは反田恭平。

 岸野末利加(きしの まりか)は、かつてIRCAM研究員を務めたこともある女性で、今年完成されたこの「シェイズ・オブ・オーカー」は、大きな流れの中に鋭く短い起伏が連続する強靭な力を持った曲だ。
 あたかも火星かどこかの地表に、尖った石があちこちに転がっている、といった光景を連想させるような荒々しさ。だが、これが実にカラフルな多彩さを感じさせ、すこぶる魅力的なのである。プログラムに載っている彼女自身のメモを読んで、オーカー(オークル)は南仏などにある赤土、黄土であることを教えられ、なるほどと思った次第。「オークルの陰翳」とは、言い得て妙である。そして「時間のカンバスに顔料を飛び散らせ、塗り付け、垂らす・・・・」という彼女の文章の中の表現も、まさにそれにぴったり合ったイメージの曲だなと感心した。

 実は今夜演奏された4曲の中で、私にはこれが一番面白かったのだが・・・・。
 ただ、これは演奏のせいだったかもしれないが、楽曲の構成において、そういう音景の連続が、次第に少し単調に感じられて来るきらいも、なくもなかった。もしくは、楽曲の構成上の問題かもしれない。

 英国の作曲家ターネジは、今夜の演奏会ではゲスト作曲家とでもいう存在か。
 荒々しく力動的な両端楽章には、時たまガーシュウィンの亡霊が出没するといった感もある。ほとんど出ずっぱりのピアノ・ソロはエネルギッシュだ。その中にあって、ヘンツェへの追悼曲でもある第2楽章は、叙情的で美しい。

 一柳慧の新作では、「打楽器奏者でもあった岩城宏之さんのイメージも組み込まれている」との表現(ブックレット掲載の自身の解説)どおり、ティンパニをはじめとする打楽器が活躍するのが、何となく微笑ましい。
 曲自体からは、故・岩城さんの顔や雰囲気は私にはあまり浮かんで来ないけれども、厳めしい序奏(フランクの「交響変奏曲」の冒頭を思い出させた)と、極めて闊達な主部との対比が際立っており、その主部におけるちょっとスケルツァンドな雰囲気の曲想が、敢えて言えば岩城氏の・・・・。
 なおこれは昨年作曲されたものとのこと。1933年生れの一柳氏が今なお失わない音楽のエネルギーは、まったくたいしたものである。

 池辺晋一郎の新作交響曲は、今日の各作品の中で、最大の音量で轟いた。明るさを失わぬ分厚い響層の音楽は、彼ならではのものである。
 終結近く、壮烈なクレッシェンドで最強奏に達したあとに鳴り渡る鐘の音が、彼の言う「次の時代のため」の響きなのだろう。それにしても、現代に在って、こういうヒューマニズムを、衒わず、躊躇わず、率直に語る彼のような作曲家の存在は、むしろ貴重ではあるまいか。
 これは仙台フィルからの委嘱作品で、武満徹作品の演奏会(昨年1月19日)で一緒に演奏されたものの由。武満徹へのオマージュを兼ねているとのことである。

 ローレンス・レネスという人は初めてナマで聴いたが、なかなかいい指揮者だ。オランダ出身で、今年47歳という。

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