2018-04

2018・4・16(月)METライブビューイング 「セミラーミデ」

     東劇  午前11時

 先月10日のMET上演ライヴ映像。
 ロッシーニの「セミラーミデ」など、滅多に観られるオペラではない。METとしては再演もので、しかもMETのオリジナルものではないプロダクションだが、批判校訂版による楽譜が使用されている点でも、これは貴重であった。

 舞台は、いかにもグランドオペラ的なものだ。マイケル・ステネットの衣装、ジョン・コンクリンの舞台美術ともに、今ではMETくらいしか製作できないような、大掛かりなものである。ジョン・コプリーの演出も、いかにもトラディショナルなスタイルだ。
 ただし今回は、歌手陣が素晴らしさの極みである。

 とりわけ、バビロニア女王セミラーミデを歌うアンジェラ・ミードと、先王ニーノの遺児アルサーチェを歌うエリザベス・ドゥショングの声の輝かしさは圧巻だ。
 強靭でありながらまろやかな高音、巧みな歌唱と性格表現。これらを聴くだけでもこのビューイングの価値がある。

 一方、悪役アッスールを歌ったイルダール・アブドラザコフは━━奇しくも昨日東京でナマを聴いたばかり━━舞台姿は貫録充分だが、先の2人に比べるとロッシーニ特有の声の動きの細やかさを表現するには少々難があり、聴かせどころの墓場のシーンで意外に凄味を欠いたのが期待外れであったろう。他にイドレーノをハヴィエル・カマレナ、オローエをライアン・スピード・グリーン。

 指揮はマウリツィオ・ベニーニで、序曲があまりに低調なのでどうなることかと思ったが、劇的な要所では巧く盛り上げてくれる。まずは当たりはずれのない職人的手腕と言ったところか。上映時間は3時間48分と長い。

2018・4・15(日)東京・春・音楽祭 「スターバト・マーテル」

      東京文化会館大ホール  3時

 1カ月にわたった「東京・春・音楽祭」の、今日は目出度い千秋楽。
 祝典のような演奏会ゆえ、ホワイエに集う客層も、レオンスカヤのリサイタルのような、「好きでたまらず聴きに来た」といった雰囲気の聴衆の集まりとはちょっと違う。

 さて、その華やかな雰囲気の中で演奏されたモーツァルトの「交響曲第25番」と、ロッシーニの「スターバト・マーテル」だが、━━せっかくの良い音楽祭のフィナーレを飾る演奏会だったのに、残念ながら演奏は、著しく低調なものだった。
 第一に、スペランツァ・スカップッチという女性指揮者が力不足だ。彼女が東京都交響楽団から引き出す音楽に、何とも緊迫感がないのである。モーツァルトの交響曲の冒頭からして、都響の演奏には何か「お座敷的」な密度の薄い雰囲気が感じられ、音楽に生きた躍動がほとんど感じられなかったが、これは全く指揮者の責任であろう。

 次の「スターバト・マーテル」に至っては、演奏に緊迫感がさらに希薄なこと、驚くほどである。音楽たるもの、休止符の個所での静寂は、本来は息づまる緊張に満たされるべきなのに、彼女の指揮では、それが死んだような沈黙と化してしまう。つまり音楽の流れがそこで止まってしまい、次に続くべき生きた呼吸が感じられないのである。指揮者自身はパウゼを長く採って愉しみ、自らは頭の中で音楽しているつもりのかもしれないが、それが実際に聴き手に伝わって来なくてはなんにもならない━━。

 都響も生気が感じられない演奏だったが、声楽陣も同様。これも明らかに指揮者の責任である。ソロ歌手陣は、エヴァ・メイ(S)、マリアンナ・ピッツォラート(A)、マルコ・チャポーニ(T)、イルダール・アブドラザコフ(Bs)という顔ぶれだったが、指揮の所為もあってか、歌唱にも燃えるような熱気が不足していた。
 特にテノール歌手には、それ以前の問題がある。歌唱はお世辞にも一流とは言い難い水準で、第2曲(アリア)の歌い方もひどく乱暴なものだった。

 合唱の東京オペラシンガーズ(合唱指揮はマティアス・ブラウアーと宮松重紀)は何とか頑張ったようだ。だがそれも、彼らが最後の第10曲(アーメン)でせっかく熱唱して盛り上げて行っても、終結直前の大きなパウゼで音楽の流れがまたせき止められてしまうのだから、感興が削がれてしまう。

 私はいつも演奏のあとでは、オケが引き上げるまで拍手を送ることを旨としているのだが、今回ばかりは、どうにもその気になれなかった。
 演奏とは関係のない話だが、右側後方ではプログラムを異常にバリバリと音をさせてめくるオヤジがいるし、また私の左隣の男は、1時間に及ぶ「スターバト・マーテル」の間、終始居眠りしていて、やたらこちらに寄りかかって来るし(4度押し返したが全く効果がなかった)、散々である。

2018・4・14(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 マーラーの「交響曲第10番」からの「アダージョ」と、ブルックナーの「交響曲第9番」を組み合わせたプログラム。
 ともに作曲者の最後の交響曲であり、未完成に終った交響曲でもあり、しかもマーラーのアダージョ主題がブルックナー後期の交響曲から影響を受けている、という特徴などを考えると、これはなかなか巧みな選曲であると言えよう。演奏も入魂の世界と謂うに相応しい。

「アダージョ」鋭角的な厳しさを備えたもので、これは優れた演奏に思えた。ノットのマーラーは概して素っ気ないが、このマーラー最後の「20世紀的」な楽想をもった音楽では、それがむしろ成功していたように感じられたのである。

 一方、ブルックナーの「9番」は、新しいコールスの校訂版に拠った演奏だった。ただし今回は、彼(ら)により補訂完成された第4楽章は演奏されず、ブルックナーのオリジナルである第3楽章までが取り上げられていたが、まあそれで充分であろう。
 コールスの最新版については、実は私も不勉強にして、いまだスコアを入手していないという段階にあり、たとえば第1楽章の【M】の直前、第300小節で、ハース版にもノーヴァク版にも無いティンパニが聞こえれば、その聴き慣れぬ響きにギクリとしてオケの事務局に確認の問い合わせをしたり、慌ててラトル&ベルリン・フィルのCDを聴き直して確認したりする程度にとどまっているのが正直なところなのだ。

 それはともかく、この日のノットと東響の演奏では、造型こそ厳格強固に保たせてはいるものの、その内部では、怒りのような激しい感情が沸騰していた。あたかもブルックナーが現実の生涯では顕わせなかった複雑な感情を音楽で爆発させていることを暗示するような、そういう激しさだったのである。

 ノットが指揮したこれまでのブルックナーは、壮麗な大伽藍を思わせる演奏よりも、凝縮した音の大建築という趣を示していたが、今回の「9番」も、基本的には同じ路線上にあるだろう。ただし今回は、著しく凶暴な音楽づくりだった。だがそれは、ブルックナーが最晩年にして初めて牙を剥いた、荒々しい不協和音を取り入れた悪魔的な楽想に富むこの「9番」には、極めて相応しいものだったのである。
 コンサートマスターは水谷晃。

2018・4・14(土)堤剛と仲道郁代のベートーヴェンⅡ

      ミューザ川崎シンフォニーホール  1時30分

 堤剛と仲道郁代が協演、ベートーヴェンの「チェロ・ソナタ」を中心とするプログラムで2回の演奏会を開いた。
 初日(12日、みなとみらいホール)には、仲道の弾くピアノ・ソナタなども加えられていたそうだが、第2日の今日は2人のデュオで4曲。モーツァルトの「《魔笛》の《恋人か女房か》による変奏曲」と、「チェロ・ソナタ」の第3番から第5番までが演奏されていた。

 仲道郁代はピアニストとして今や油の乗った時期だから、エネルギッシュな演奏活動も当然のことだが、堤剛のほうは、もうすぐ70歳代の後半に入る頃で、数え切れぬほど多くの公職を兼ねながらもなお演奏家としての活動を疎かにしていないのは見上げたものだ。そのエネルギーには驚嘆せざるを得ない。

 この巨大な空間を持つミューザ川崎シンフォニーホールで、室内楽の演奏を聴いたのは、もしかしてこれが初めてか? しかし、予想した以上に音はよく響き、客席を不足なく満たす。2階席前方で聴くとインティメートな雰囲気を味わえるが、上階席で聴いても演奏が「遠く」感じられないのには感心した。

 ただ、その上階席で聴くと、今日はチェロよりもピアノの方がよく響く。仲道郁代もこの大先輩を気遣い、そのソロに寄り添おうとしていることは伝わって来るが、彼女の闊達で勢いのいい発言は、堤剛の落ち着いた語り口を、単に音量的にだけでなく、音楽全体としてもマスクしてしまう傾向があったようである。それゆえ、これらのソナタでは、「ピアノとチェロのためのソナタ」という以上に、「チェロのオブリガート付きのピアノ・ソナタ」という印象が強くなるだろう。

 その端的な例は、特にピアノの発言が強い「第4番」においてである。
 特に第2楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェの第75~85小節では━━チェロが何かを言い始めようとして上昇すると、いち早く割り込んだピアノが同じく上行音型でピシャリとそれを抑えてしまい、チェロが口ごもってしまう、というやりとりが2回繰り返されるのだが、ここを聴いていて私は、年輩の物静かな夫が若く元気のいい妻に口で先を越され、穏やかに笑って引き下がる、とでもいったような光景を何となく連想してしまったのだ。その演奏に、堤のあたたかさと、仲道の明るさとが、相和しながら、時にはしっくりしないままに対話を交わすさまが、はっきりと感じられたのである。

 時間の関係で、アンコールは聴かずに失礼し、東海道線で新橋方向へ向かう。

2018・4・13(金)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 ロシアのバレエ音楽2つ(チャイコフスキーの「くるみ割り人形」とストラヴィンスキーの「春の祭典」)を最初と最後に置き、それらの間にポール・メイエをソリストに迎えてのモーツァルトの「クラリネット協奏曲」とドビュッシーの「クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲」を演奏するという、凝った素晴らしいプログラム。

 カンブルランのバレエ音楽に対するアプローチは━━少なくとも今日の演奏を聴く範囲では━━「踊りの音楽」というよりはむしろ、シンフォニックで色彩的な音響構築に重点を置いているように感じられる。
 「くるみ割り人形」(「行進曲」「花のワルツ」など4曲)は、チャーミングなバレエ音楽というより、壮大で、物々しい。
 一方の「春の祭典」でも、カンブルランはリズムの生き生きした躍動よりも、重厚でシンフォニックな進行と、音色のさまざまな変化を重視しながら曲を進めて行ったように思われる。とにかく、これほど「重々しくて揺るぎのない春の祭典」の演奏というのも、稀有のものではなかったろうか。もちろん、それはそれで面白いアプローチではあるが。

 この2つの巨像の間に挟まれた、クラリネットと管弦楽のための作品2曲は、ポール・メイエの美しいソロとともに、清澄だ。
 モーツァルトは整然として、管弦楽部分は柔らかく、ロマンティックな性格さえ醸し出す。そして、ドビュッシーの「狂詩曲」では、ソロとオーケストラが、「フランスの香り」を滲ませる。思えばこれが、今日の4曲の中で、最も馥郁たる香りを漂わせた演奏であった。

 読響は力演、豪演、好演。コンサートマスターは日下紗矢子。

2018・4・13(金)オッコ・カム指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      すみだトリフォニーホール  2時

 オッコ・カムの指揮を聴くのは久しぶりである。
 私は1975年に彼が新日本フィルを指揮したシベリウスの「カレリア組曲」をFM放送用に録音したことがあるが、そのテープをのちのちまで愛聴していた。首席奏者の峰岸壮一氏が「われわれを『乗せる』のが本当に巧い指揮者だ」と感心していたのが印象に残っている。たしかにあの時の「カレリア行進曲」といったら、他ではちょっと聴けないようなリズムの良さだった。

 それから43年、彼もさすがに齢を取ったようだ。しかし、それに応じて、つくり出す音楽も変貌したように思える。
 今日の後半の曲目だったシベリウスの「第2交響曲」など、昔に比べると随分落ち着いた演奏になったという印象を得たが、第4楽章大詰めのクライマックスでのハーモニーの厚さ(つまり音の均衡の良さということだろう)や、最後の3つの和音の緊密度などは、以前よりも見事なものに感じられた。
 新日本フィルとの定期は今日が初日、それゆえ第1楽章あたりは少しガサガサした演奏だったけれど、後半は尻上がりに調子を出した。多分、明日の演奏はもっと良くなるだろう。

 プログラムの前半は、サッリネンのオペラ「宮殿」序曲と、ニールセンの「フルート協奏曲FS119」。
 前者はシベリウスの「第7交響曲」を思わせる重厚な開始で、なるほどここにも国宝的大作曲家の影が・・・・と感心(?)させられたが、途中からいきなりバーンスタイン調の賑やかな曲想になって驚かされる。ちょっと可笑しな小品であった。一方、後者では白尾彰(新日本フィル首席奏者)がソロを吹き、貴重な佳演を聴かせてくれた。
 この2曲は滅多に聴けないレパートリーだけに、定期における楽団の意欲的な姿勢が窺えるだろう。コンサートマスターは豊嶋泰嗣。

2018・4・12(木)東京・春・音楽祭 レオンスカヤのシューベルトⅤ

      東京文化会館小ホール  7時

 エリーザベト・レオンスカヤのシューベルトのピアノ・ソナタ・ツィクルス、今日は「第7番変ホ長調D568」、「第14番イ短調D784」、「第20番イ長調D959」というプログラム。
 満席とは行かないけれど、熱心な聴衆が詰めかけている。ツィクルスすべてを聴く、という知人も何人かいるようだ。私自身は、結局計3回だけだったけれど。

 さて,━━今回使用されているピアノの音色がどうも私の好みに合わないのだが、それは別として。
 レオンスカヤの場合、その暗い、くぐもった音色の強奏が不思議な緊張感を生み出すことは事実である。「D784」にこれほど強い推進性を感じさせてくれた演奏は、滅多に接したことがない。
 そして、最後期3大ソナタの一つである「D959」は、さらに圧巻だ。第1楽章の展開部の終りのスタッカート音型の跳躍など、異様な緊迫感にあふれていたし、第2楽章中間部にしても、情熱的というよりは何か鬼気迫るような炸裂といった感がある。

 これらがもしスタインウェイあたりの明るく抜けのいい音で演奏されていたら、こうは聞こえなかったであろう。彼女がヤマハを使う狙いも、そこにあったのかもしれない。

2018・4・11(水)東京・春・音楽祭 クラウス・フローリアン・フォークト

      東京文化会館小ホール  7時

 クラウス・フローリアン・フォークトの、今年の音楽祭における2つ目の歌曲リサイタル。会場はほぼ満席である。
 今回は、ソプラノのシルヴィア・クルーガーがゲストのような形で加わり、ピアノは、前回には来られなかったイェンドリック・シュプリンガーが弾いた。

 プログラムは、もちろん前回よりも多彩だ。前半ではブラームスの「日曜日」「眠りの精」「甲斐なきセレナード」など7曲、シューベルトの「美しき水車屋の娘」より3曲、カールマンが1曲歌われ、後半ではモーツァルト、プッチーニ、レハール、それにミュージカル「オペラ座の怪人」や「ウェストサイド・ストーリー」などからも歌われた。

 だがやはり、ベストの演奏は、フォークトが歌った「美しき水車屋の娘」からの3曲だったろう。一昨年のリサイタルで歌った全曲はむろん最高だったが、たとえ3曲だけでも今日のコンサートは聴く甲斐があった、というもの。その他、オペレッタでもミュージカルでも、彼の歌はサマになる。

 協演したシルヴィア・クルーガーは、彼の奥さんということだから、あまりあれこれ言うのは控えておく。声も歌い方もキュートで可愛いけれども、ブラームスの歌曲やプッチーニのオペラ(ジャンニ・スキッキ)を歌うキャラクターではない。オペレッタやミュージカルなら、大変結構だろう。ただひとつ、ブラームスの「ああ、おかあさん、欲しいものがあるの」を、駄々っ子のような身振りを交えつつキュートな表現で歌う━━という解釈そのものは面白く、とかく謹厳に歌われるこの作曲家の歌曲が全く別の様相を呈して立ち現れていたのは興味深かったが・・・・。

 シュプリンガーのピアノが、表情豊かでいい。詮無い繰り言ながら、彼が先日のリサイタルでも弾いてくれていたら・・・・。

2018・4・10(火)大野和士指揮東京都交響楽団 マーラー第3交響曲

      サントリーホール  7時

 2回公演の2日目、今日は定期Bシリーズ。協演は新国立劇場合唱団と東京少年少女合唱隊、リリ・・パーシキヴィ(Ms)。コンサートマスターは矢部達哉。

 大野和士の指揮するマーラーの「第3交響曲」を聴くのは、たしか今回が3度目。最初は90年代の東京フィル。次が2011年夏の京都市響だった。いずれも見事な演奏だったのを記憶しているが、今回の都響との演奏も、白熱的な快演と言っていい内容である。それは豊麗雄大というよりむしろ、凝縮された鋭角的な音楽━━と言った方がいいかもしれない。それはテンポやデュナミークなどの面にも反映されている。

 全曲、熱気にあふれて強靭な推進力の漲った演奏で、その頂点はゆっくりしたテンポの第6楽章━━つまり「愛」に置かれるという構築だ。大詰での息の長い昂揚はすこぶる見事で、感動的なものだった。客席からの長い熱狂的な拍手も、それを証明しているだろう。

2018・4・8(日)尾高忠明指揮大阪フィル音楽監督就任記念定期

      フェスティバルホール  3時

 三善晃の「オーケストラのための《ノエシス》」と、ブルックナーの「交響曲第8番」を組み合わせたプログラムで、尾高忠明が大阪フィル第3代音楽監督就任の定期を飾った。昨年3月の井上道義の首席指揮者退任のあと、1年間のミュージック・アドヴァイザーという肩書を経て、この4月の就任、となったものである。因みに尾高は1947年生まれであり、それは奇しくも大阪フィル(当時は関響)の誕生と同年なのだ。

 大阪フィルにおいては、ブルックナーの「第8交響曲」は、シェフだけが指揮することを許される作品だという。━━というと些か物々しいが、これはもちろん、わが国のブルックナーの交響曲指揮で不滅の功績を残した故・朝比奈隆氏への敬意から自然に生まれたしきたりだろう。
 事実、氏のあとで大阪フィルとこの曲を演奏した指揮者は、第2代音楽監督の大植英次と、首席指揮者・井上道義だけであった。楽団にとっては、それは特別な、祝典的な大交響曲なのだ。その「8番」を、尾高忠明は就任最初の定期で取り上げたのである。

 演奏にはハース版が使用された。「8番」のハース版は朝比奈が愛した版だが、尾高もこの曲では常にハース版を演奏する。2010年12月に読響を指揮した時も同様だった。
 朝比奈以来久しぶりに聴くオーソドックスな、均衡を重視した堅固な構築を備えた、壮大志向のスタイルによる演奏である。作為的な手法も外連味もない、不動のテンポによる極めて率直な「8番」だ。こういう演奏で聴くと、やはりこの曲の並はずれた威容が再認識させられるだろう。
 前日の演奏は、初日とあってオーケストラも興奮の極みになってしまい、アンサンブルも・・・・だったというけれども、2日目の今日は予想通り落ち着いた演奏というか、整然とした構築感の裡に進み、全曲最後の3つの下行音も、スコア通りのリタルダンドをもって、揺るぎなく固められて終結した。とはいえやはり、非凡な、入魂の演奏だったことは確かである。

 第1楽章こそやや慎重に構えた印象だったが、演奏は楽章を追うごとに推進性を強めて行った。第2楽章でのスケルツォの終結部分は、ティンパニの豪壮な打ち込みもあって、威力的な昂揚となった━━ここでの「最後の一押し」の力感は、これまで聴いたことがなかったほどのものだった。第3楽章では、例のワーグナー・テューバの高貴な合奏個所(ハース版第67~70小節と第161~164小節)にもう少し緻密さが欲しかったものの、全体にたっぷりとしたテンポの入魂の演奏は見事で、私は昔、カラヤンの最初の全曲LPを聴いた時に連想した深い山の奥の静寂な湖の光景が久しぶりに蘇ったような思いになったくらいである。第4楽章でもそのエネルギーは衰えず、何度か訪れる豪壮な頂点が、それぞれ見事に築かれていた。 
 かように今回の「8番」は、私が最近聴いたこの曲の演奏の中でも、最も率直で雄大な、均整のとれた演奏ということができるだろうと思う。

 最初に演奏された三善晃の作品も、日本的な静謐さと、激烈な爆発点を併せ持つ作品である。打楽器群の怒号が凄まじい頂点での興奮が、チェロの長い持続音のみを残して静まって行き、やがて永遠の静寂の中に消え去って行くかのような終結はこの上なく美しく、感動的である。尾高のこの曲に寄せる愛情と共感を示す快演であった。音楽監督就任定期の1曲目に日本人作曲家の作品を組んだ、という姿勢も、高く評価されるだろう。
 今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。

 近年、大阪フィルのアンサンブルは少々荒れ気味だったが、尾高は多分、それを改善してくれるのではないか。この新シーズンに彼が振る定期は、あとは来年1月しかない━━これはちょっと少なすぎる━━が、しかし5月から12月までの間に、5回に及ぶベートーヴェンの交響曲ツィクルスを指揮することになっている。原点に立ち返っての企画ということで、彼の手腕を信頼したい。
      →別稿 モーストリー・クラシック7月号 公演Reviews

2018・4・7(土)ベルリン・コーミッシェ・オーパーの「魔笛」

      Bunkamuraオーチャードホール  7時

 制作プロデューサーともいうべき鬼才バリー・コスキー(ベルリン・コーミッシェ・オーパー総監督・インテンダント)のもと、スザン・アンドレイドの演出とポール・バリットのアニメ&イラストにより2012年にプレミエされた、モーツァルトの「魔笛」の日本公演を観る。

 これは、全くユニークな舞台だ。精巧精緻を極めたアニメーションが終始舞台全体を支配し、登場人物はそれらの映像と一体化して動く。いや、アニメの中で登場人物が動く━━と言った方が正確かもしれない。オーケストラの演奏と歌はナマだから、指揮者によってはテンポも大幅に変わるだろうに、その演奏にアニメの一つ一つの細かい変化を完璧に同化させてしまうという技術には、私のような素人は、ただもう舌を巻くしかない。

 台詞は大幅に短縮され、要約されているが、それらはナマで語られることはなく、すべて無声映画のように画面に投映される。そのバックには、モーツァルトの「幻想曲」の一部などが流れるという仕組である。

 またこの「魔笛」の舞台には、一般の上演でよく議論されるような、フリー・メイソンとの関わり合いなどの政治的な意味合いとか、深遠な哲学とかを象徴する要素は何も感じられない。登場人物も、大抵は離れ離れに位置して歌い、応酬し、不思議な孤独感を滲ませている。そして最大の特徴は映像の手法にあり、それはプロジェクション・マッピングのような、単に背景を彩るといった役割を遥かに超えて、登場人物そのものとなってドラマを語っているのである。

 これらについてバリー・コスキーは、「我々のアプローチは・・・・演出に特定の方向・意味づけをするのではなく、登場人物の・・・・人間の心の奥底の深遠な感情をありのままに表現する」という意味のことを述べている(プログラム冊子から自由に引用)。
 またポール・バリットも、「夜の女王は夫を喪った上に娘をも奪われ、パパゲーノは愛を求める孤独な男であるといったように、《魔笛》の半分は、人はみな孤独という心情が描かれている」と述べ、そして「劇場で使われるマッピングがすぐ飽きられるのは、その映像と登場人物との間に相互作用交流が無いからだ」とも指摘している(同)。

 このテーマはまことに興味深く、論ずればキリがないが、このブログではそこまでの時間的余裕がないので、ここまでにする。だがいずれにせよこの舞台、すべてがアニメーションと一体化して動くそのさまは見事というほかはなく、同じアニメでも、ウィリアム・ケントリッジのドローイング・アニメのそれとはケタが違う複雑精巧さといっていいだろう。

 ただ、疑問がなくもない。エンディングが少々平凡かな、という感もあるが、それはまあともかくとしても、最後まで観ていると、あまりに細微なアニメーションの躍動ばかりが目について、人間ドラマという世界より、何かメカニックな図形の世界の中に巻き込まれた人間たちの宿命を眺めているような気持になってしまうのは、こちらの観方がずれているのか? 映像に現れるザラストロの叡智の頭脳が、まるでチャップリンの映画「モダン・タイムス」そっくり、発条や歯車で出来ているような感を与えていたのも、ちょっと可笑しかったが。
 まあともあれこれは、「魔笛」を知り尽くした国の人々ならではの発想による、新しい解釈をストーリーの中に見出そうとするよりも、舞台上の再現の手法の裡に新機軸を求めた演出、と割り切ればいいのだろう。

 オーケストラは、コーミッシェ・オーパーの管弦楽団だ。本拠の歌劇場のピットで聴くこのオケの音とは大違いだが、それでもなお、このオーチャードホールのピットにおける日本のオーケストラとは(残念ながら)格段の差を感じさせ、彼ら独特の色気のようなものが伝わって来る。指揮者はジョーダン・デ・スーザという人で、リズムやアクセントを含めた音楽の表情は歯切れがよくて、なかなかいい。昨秋この歌劇場のカペルマイスターに就任したという、30歳の新鋭である。
 歌手陣は、アーロン・ブレイク(タミーノ)、ヴェラ=ロッテ・ベッカー(パミーナ)、トム・エリク・リー(パパゲーノ)、アナ・ドゥルロフスキ(夜の女王)、リアン・リ(ザラストロ)他という顔ぶれ。歌唱はまず手堅いところとしておくが、この種のムジークテアタ―系の上演は歌手のスター性を求める場ではないから、これで充分であろう。

 休憩25分を含め、9時45分に終演。こんなに短いのは、前述のようにセリフ部分が大幅に短縮されているためである。

2018・4・7(土)川瀬賢太郎指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

     横浜みなとみらいホール  2時

 レナード・バーンスタイン生誕100年記念のプログラム。
 「ウェストサイド・ストーリー」の「シンフォニック・ダンス」は、まあ客寄せという意味合いもあるだろうが、それを挟んで最初に「スラヴァ!(政治的序曲)」を置き、後半に「交響曲第1番《エレミア》」を配した選曲は、なかなかに意欲的である。コンサートマスターは石田泰尚。

 「スラヴァ!」は、1977年、ロストロポーヴィチ(彼の愛称がスラヴァだった)のワシントン・ナショナル響音楽監督就任を記念して書かれた曲とのこと。私はこれをナマで聴くのは初めてである。何ともけたたましい、躁状態的な小品だが、最近とみに鳴りっぷりのよくなった神奈川フィルは、川瀬の獅子奮迅の指揮に応じ、賑やかに演奏していた。もっとも、正直なところ、何が何だか判然としないような騒々しさのうちに終ってしまったという感がなくもないのだが・・・・。

 そのあとで「シンフォニック・ダンス」を聴くと、こちらはやはり叙情的な部分と狂乱的な部分の対比が巧みに構築された作品であることを再認識させられるだろう。川瀬と神奈川フィルの演奏は、最初のうちは、枠からはみ出さぬように気をつける、といったような、ややおとなしい印象も受けたものの、やがて申し分なく盛り上がって行った。そして最終部分の弦の叙情的な美しさは絶品であった。

 「エレミア交響曲」をナマで聴ける機会を得たのは、本当に嬉しい。第1楽章にメシアンやヤナーチェクなどの影響が見え隠れすることに初めて気づかされたのは、川瀬と神奈川フィルの演奏が丁寧なものだったからかもしれない。それは音の構成を明確に照らし出した、しかもすっきりした響きの構築なのだが、同時に線の細い綺麗ごとに終らぬ堅固さも持ち合わせた演奏でもあったのである。
 また第3楽章の「哀歌」では、福原寿美枝が実に深々とした厳しい悲劇的な絶唱を聴かせてくれた。これまで、オペラの舞台における彼女の「怖い」役柄表現には何度も感服した経験があるが、今日の歌唱で、また彼女の新たなる凄味の魅力を知った次第であった。

 川瀬と神奈川フィルは、この沈鬱な音楽の感動に浸った状態のままで演奏会を終るという形は採らなかった。アンコールでは、「マンボ!」の部分を、聴衆をも巻き込んで演奏したが、ここではオーケストラは、先ほどの本番の時よりも一段と解放されたような雰囲気で、賑やかに鳴りわたった。おとなしく物静かな、拍手もほとんどしないで座っている高年齢層の聴衆━━特に1階席前方に多い━━をすら、一緒に盛り上げてしまう川瀬のエンターテインメント性は、見上げたものである。

 終演後、渋谷のオーチャードホールへ移動。

2018・4・6(金)東京・春・音楽祭 レオンスカヤのシューベルトⅡ

      東京文化会館小ホール  7時

 エリーザベト・レオンスカヤのシューベルト・ピアノ・ソナタ・ツィクルス、第2日。
 今日は「第9番ロ長調D575」、「第15番ハ長調D840《レリーク》」、「第18番ト長調D894《幻想》」の3曲。

 特に「D894」では、低音の力強さが印象的だ。それは音量のことではなく、厚い和音の響きの中で、演奏全体を支える低音の存在感が強いということである。
 彼女の演奏では、多くの場合、和音が均等に堂々と響く。腰の据わった揺るぎのない音の組み立てが見事である。このような響きをつくり出すピアニストはもちろん他にも多くいるが、彼女の場合、音が一種の翳りを帯びながら、それでいて決して重苦しくならず、力強く進んで行くのが特徴と言えるだろう。

 そういえば、彼女の師であった巨匠リヒテルがそういう感じの演奏をしていたなと思い出してしまうのだが、といってレオンスカヤがリヒテルの亜流だなどと言うつもりは全くない。リヒテルは圧倒的に屹立する巨人のように、時には近づき難いほどの厳しさを見せていたのに対し、レオンスカヤの音楽は、むしろ私たちを包み込むようなあたたかさを感じさせる。そしてその演奏は、ある意味では素朴で武骨なほど率直で、恣意的な小細工など一切排した自然さにあふれているところが、たまらない魅力なのである。

 アンコール曲の演奏がまた素晴らしい。第1日には「即興曲 作品90」第4曲が流麗に演奏されたが、今日は「3つの小品D946」の第1曲が嵐のように演奏された。

2018・4・5(木)東京・春・音楽祭 ワーグナー:「ローエングリン」

      東京文化会館大ホール  5時

 東京・春・音楽祭の目玉上演ともいうべき、演奏会形式によるワーグナー・シリーズの9回目。この「ローエングリン」は、7年前にいったん予定されながら、あの大震災のため上演が中止されていた企画である。

 指揮はウルフ・シルマー。以前の東京での「フィガロの結婚」や「ばらの騎士」、このシリーズの第1弾「パルジファル」などに於けると同様、速いテンポで、時には素っ気ないほどの勢いで押す指揮だ。だが「ローエングリン」というオペラの音楽の性格上、それは良い方に生きるだろう。少なくとも、しんねりむっつり、持って回ったテンポで長々と演奏されるより遥かにいい。

 おなじみライナー・キュッヒルをゲストコンサートマスターとするNHK交響楽団も、勢いのいい演奏を示した。もっとも、N響にしては、今日の演奏は少々荒っぽく、就中トランペット・セクションには、布告官がエルザに代わって戦う騎士を呼ぶ個所の最後で早く飛び出してしまった(スコアでは2番トランペット)のをはじめ、妙に粗いところが多い。
 一方、ホルンなどの音がまっすぐ客席に来ないのは、反響板の問題もあっただろうと思う。ついでながらバンダは3階客席の正面と左右両翼に配置されていたが、特に正面のバンダはステージへの「はね返り」音を生み出し、「王のファンファーレ」では一つの音符が二つに聞えてしまうなど、甚だ難しいものがあったようだ。

 そんなわけで、多少ガサガサしたローエングリンという感もあったのだが、ステージ前方に並ぶ歌手陣は、なかなか聴き応えがある。
 まず何と言っても、題名役を歌ったクラウス・フローリアン・フォークト。強靭な最強音から、よく声の通るソットヴォ―チェまでを効果的に駆使し、非常に表情の大きなローエングリンを歌う。指揮者との打ち合わせで、かなり自由な表現を行なうことも許されていたのかもしれないが、自らの名を明らかにする個所で、あれほど派手に大見得を切った歌い方をした歌手は聴いたことがない。ここは指揮者シルマーも物々しく大きな矯めをつくっていたので、ニヤリとさせられるような面白い「名乗り」の場面の演奏になった。

 次いでオルトルート役のぺトラ・ラング。フォークトと同様、暗譜で歌い、イメージ的な演技も加えて凄味のある悪役ぶりを披露。流石に先日の歌曲リサイタルとは比較にならぬ、別人のような劇的な歌唱である。
 その他、フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵を歌ったエギルス・シリンス、ハインリヒ王を歌ったアイン・アンガー、王の布告官を歌った甲斐栄次郎も見事。 

 唯一の問題は、エルザを歌ったレジーネ・ハングラーだろう。声はいいのだが、音程に不安定なところが多い。しかも第1幕では「夢を見ているようなエルザ」を異様にリアルに歌ってしまうし、その後のイメージ的な演技(軽い身振り)にも、何かこのドラマにおけるエルザの性格をまるきり理解していないような雰囲気がしばしば見られたのである。
 なお、出番は少ないが、ブラバントの4人の貴族に大槻孝志、高梨英次郎、青山貴、狩野賢一、4人の小姓たちに今野沙知恵、中須美喜、杉山由紀、中山茉莉が出演。合唱は東京オペラ・シンガーズが好演。付記すれば、第2幕での布告官の場面での合唱は珍しくカット無し。ただし第3幕では相変わらず慣習的なカットが行われていた。

 いつも通り映像付だが、担当は今回、田村吾郎に交替した。投映された映像は、やはり概してイメージ的なものにとどまっている。
 30分の休憩2回を含み、上演時間は4時間25分。

2018・4・4(水)東京・春・音楽祭 レオンスカヤのシューベルトⅠ

      東京文化会館小ホール  7時

 エリーザベト・レオンスカヤの、6回にわたるシューベルトのピアノ・ソナタ連続演奏。「さすらい人幻想曲」を含む、全曲完成されたソナタ等19曲がプログラムに組まれている。
 今日はその初日で「第1番ホ長調D157」「第4番イ短調D537」「第17番ニ長調D850」。

 初期のソナタにも、それなりの活気と親しみやすさはある。だがそれらの作品では、ヤマハのピアノを使った、やや重く翳りのある音色で覆われた演奏が何かひとつ、ヴェールを剥ぎ取りたくなるようなもどかしさを感じさせてしまうのだ。

 しかし後期のソナタ「D850」に至ると、作品自体の風格の大きさもあって、最初の音が響きはじめた瞬間から、もうその魅力のとりこにさせられてしまう。それに今日のレオンスカヤの演奏も、この「D850」が圧巻だった。
 お年のせいか、時にほんの僅か、舌がもつれるような感じで音がもつれる瞬間があるのは否定できないにしても、それをも情感の深さでカバーしてしまうのが、彼女の演奏なのである。

 その音楽は、何ともあたたかい。長い人生を送って来た女性のもつ温かさとでもいったような表情に充ち溢れている。その一方で、まるでベートーヴェンのソナタを聴くかのような、音楽をひたすら前へ推し進める嵐のような力と、芯の強い毅然たる意志力も、この「D850」の演奏には備わっていたのだった。

 このレオンスカヤのシューベルト・ツィクルスは、聴きものだ。全部は聴けないけれど、せめてあと二つくらいは聴きに行きたいものである。

2018・4・3(火)METライブビューイング 「ラ・ボエーム」

      東劇  6時30分

 METの定番、フランコ・ゼッフィレッリ演出の豪華な舞台、プッチーニの「ラ・ボエーム」。2月24日の上演ライヴ映像。
 第3幕での雪の光景の美しさもさることながら、第2幕(カフェ・モミュスの場)での人海戦術と、舞台前方を横切って行進して行く軍楽隊など、METならではの壮観な光景が見ものだ。
 同じゼッフィレッリ演出とはいっても、パリの屋根裏部屋での気のいい仲間たちの陽気な応酬場面では、80年代に映像で出たものとも、あるいは私が最近現地のMETで観たものとも少し違った演技が行われているが、こういうのも歌手同士で相談しながらいろいろ工夫してやっているというケースなのだろう。

 今回はマルコ・アルミリアートの、良い意味での手慣れた指揮と、ミミを歌い演じたソニア・ヨンチェヴァの表情豊かで可憐な表現が特に印象に残る。
 他にマイケル・ファビアーノ(ロドルフォ)、スザンナ・フィリップス(ムゼッタ)、ルーカス・ミーチャム(マルチェッロ)、アレクセイ・ラヴロフ(ショナール)、マシュー・ローズ(コッリーネ)らが出演。若い世代が多いせいか、ラストシーンでの悲しみの演技は、みんな今一つといったところ。
 なお、ベテランのポール・プリシュカが、家主ベノワとアルチンドロの2役で滋味豊かなところを見せていたのは懐かしかった。

 METでは1981年にプレミエされたこのフランコ・ゼッフィレッリ演出のプロダクション、今なお人気衰えず。上映時間は計3時間7分。

2018・3・31(土)飯守泰次郎指揮関西フィルのブルックナー8番

      ザ・シンフォニーホール  2時

 関西フィルと、その桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎とのブルックナー交響曲ツィクルス。
 「第1番」から毎年1曲ずつ手掛けて、今年が8年目ということになる。私はこのコンビの演奏を、ワーグナーの各幕上演は欠かさず聴きに出かけていたのだが、ブルックナーのほうは、どうも今回が初めてだったかもしれない。
 客席はほぼ85%~90%の入り、飯守にはブラヴォーの声も飛んでいた。もっとも、私の視るところ、飯守泰次郎の人気は、大阪よりもやはり東京の方が遥かに高いようだけれど。

 ノーヴァク版を使用しての今回のブルックナーの「交響曲第8番」。この上なく激烈な演奏の「8番」であった。
 楽章間を含めた演奏時間は77分、かなり速いテンポの、エネルギッシュな飯守の指揮である。彼は、オーケストラを全力で鳴らす。弦は14型だから、どうしても金管群が弦を圧してしまうが、飯守は一切妥協せず、全管弦楽を力の限り演奏させる。大きくないホールだし、金管の音色もあまり綺麗とは言えないので、それはしばしば耳を劈くような荒々しい、刺激的な、乱暴な音になってしまうのだが、まあこれは、渾身の熱演という良い面だけを評価することにしよう。

 全曲の頂点は第4楽章に置かれ、そこでは関西フィルも音量を更に上げ、怒涛の進撃を展開する。速いテンポで金管が咆哮怒号し、ティンパニも楽章半ばの行進曲調の個所(【N】)で、あの伝説的名手ペーター・ザードロに迫ろうという豪快な「打撃」を繰り広げてみせた。作品に備わっているエネルギーがすべて解放された感のある第4楽章の演奏といえようか。「情熱と気魄のブルックナー」がまさしくこれ。飯守の真骨頂ここにあり、であろう。
 コンサートマスターは岩谷祐之。

2018・3・30(金)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 シューベルトの「未完成交響曲」と、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」という2大名曲プログラム。コンサートマスターは矢部達哉。客席は、ほぼ満杯だ。

 インバルの創る演奏は、「未完成」のような作品では彼の持ち味たる剛毅で引き締まった構築を示すのに対し、「悲愴」のように感情の露出の激しい交響曲では、近年ますますその激烈さの度合いを増して行っているように見える。
 今日の「悲愴」の演奏など、その原題「パテティーク」という名称に━━その語の本来の意味たる「感情豊かな、激しい感情の動き」という題名に、これほど相応しい演奏は、そう多くはなかっただろう。

 都響もそれに応えて、時には狂気のような沸騰を示した。たとえば、第1楽章再現部における息の長い昂揚個所(第277小節以降)で弦楽器群が響かせた魔性的な音の坩堝、あるいは第3楽章の第2部の後半(第283小節以降)からコーダにかけての狂おしい興奮、そして第4楽章後半(第108小節以降)での自暴自棄的な嘆きの告白、といったように━━。

 しかもその昂揚も沈潜も、率直な力に満ちている。といって、ただ一気呵成に突き進むだけという演奏でないことはもちろんである。たとえば第1楽章再現部に入る直前(第244小節あたり)から大きくテンポを落し、フォルテ3つで再現する第1主題を極端に際立たせる、というような手法は、使われている。だが、基本的に所謂ストレートな演奏の範疇に入ることは、言うまでもない。

 世の中には、殊更に管弦楽のパートのバランスをユニークなものにしてみたり、テンポを作為的にいじったりする演奏もしばしば見受けられる。
 断わっておくが、そういう演奏は非難されるべきだなどと言っているわけではない。だが今の私には、このインバルと都響のような演奏の方が、よほどチャイコフスキーの管弦楽構築の巧みさを堪能させてくれるし、その音楽の並はずれた推進性の凄さをも味わわせてくれるように感じられるのである。
 というわけで、私は実に久しぶりに、この曲から強い感銘を受けることができたのだった。

2018・3・29(木)川瀬賢太郎指揮東京混声合唱団

     よみうり大手町ホール  7時

 川瀬賢太郎が東京混声合唱団定期に登場するのはこれが初の由。

 前半には、マーラーの歌曲等をゴットヴァルトが無伴奏合唱曲に編曲した「思い出」「美しいラッパの鳴るところ」「青い双の眼」「原光」「われはこの世に忘れられ」「3人の天使が歌う」、そして「アダージェット」を編曲した「夕映えの中で」が歌われた。
 そして後半には、無伴奏でバーバーの「アニュス・デイ」(「弦楽のためのアダージョ」の編曲版)、津田裕也のピアノが加わって村松崇継の「あなたへ」(委嘱曲、初演)と、三善晃の「五つの童画」というプログラムが歌われた。

 面白いプログラムだったが、しかし最初のマーラーの作品集の演奏には、大いに疑問がある。編曲がそうなっているのか、それともすべて演奏のせいなのか、とにかく平板で、メリハリが皆無なのだ。歌詞にも、旋律にも、リズムにも、生きた表情の変化というものが感じられない。歌詞の意味が全く伝わって来ないのである。

 たとえば「美しいラッパの鳴るところ」。原曲ではこの世ならざるところから遠く響いて来るラッパの神秘的な旋律に、この編曲では「ラタプラン」という歌詞が当てられ、原曲とは全く異なったイメージの合唱曲に換えられている━━ということらしい。・・・・とすれば、それ自体が怪しからぬ話だが、たとえそうにしても、その部分と、歌詞本体とのニュアンスの違いは、一本調子にではなく、もっと明確にコントラストを付けて歌われるべきではないのか。

 「青い双の眼」でも━━これは「さすらう若人の歌」第4曲の「愛しい彼女の青い眼が」のことだが━━主人公の心の裡が次第に変化して行くように歌われるべき歌詞が、殆ど表情に変化のない、単調な歌い方で最後まで行ってしまったのだ。つまり、歌詞が、歌詞として歌われていない、ということなのである。これは、指揮者に第一の責任があるだろうと思う。

 第2部の方は、息の長いハーモニーを持った「アニュス・デイ」と、それに日本語の歌だから、東混としてはお手のものだろうし、事実、まことに結構な演奏であった。曲の出だしのアインザッツが合わないというケースが一度ならずあったけれども、これは指揮者との呼吸の問題であろう。
 日本の歌曲で参加したピアノの津田裕也がなかなかいい。

2018・3・27(火)「二人三番叟」「雙生隅田川」

      KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ  2時

 これはKAATの「若手舞踊公演《SUGATA》」のシリーズで、2015年から始まったものの最終公演とのことである。

 第1部の15分が、中村鷹之資と中村玉太郎による舞踊の「二人三番雙(ににんさんばそう)」。
 第2部の120分が通し狂言「雙生隅田川(ふたごすみだがわ)」で、中村鷹之資(吉田少将行房、他)、中村玉太郎(小布施主税)、中村種之助(惣太女房唐糸、鯉魚の精)、尾上菊之丞(惣太、七郎、他)、藤間勘十郎(班女御前、演出・振付)他が出演。
 後者は、歌舞伎座の大舞台でやるような華やかな書割など無い簡素な舞台だが、大天狗もちゃんと登場するし、客席通路を使っての立ち廻りも、また単純なものだったが宙乗りも出て来て、愉しめるものではあった。

 鷹之資も玉太郎も未だ10代後半の由で、重みはないけれども、体当り的な熱演が好ましい。だが舞台としては、やはり菊之丞の声と演技の強烈さ、発音の明晰さが、特に七郎役において際立つ結果となったであろう。

 「大向う」の担当は、客席最後部の関係者席(?)にちゃんと居て、「天王寺屋!」(鷹之資)などと要領よく掛け声を飛ばしていたが、この種のものはオペラにおけるサクラのブラヴォー屋とは違い、芝居の見せ場や台詞と一心同体になっているから、関係者席から飛んだとて違和感はない。
 ただ、その同じ席から、掛け声の間に時々同じ質の声でゲホゲホと咳が聞こえて来るのはちょっとサマにならぬ。お大事に。

2018・3・26(月)東京・春・音楽祭 クラウス・フローリアン・フォークト

      東京文化会館小ホール  7時

 さすが人気のフローリアン・フォークト、今日は結構な客の入りで、ほぼ満席に近い。歌われたのは、ハイドンが「すこぶる平凡な話」など6曲、ブラームスが「甲斐なきセレナーデ」など5曲、マーラーは「さすらう若人の歌」(4曲)、R・シュトラウスは「献呈」など5曲━━というプログラムだ。

 フォークト、いつもながらの明るい、爽やかな声である。最高音を強声で延ばしたその声の耳当りの好い美しさ。フォルティッシモからソット・ヴォーチェに至る幅広い声が楽々と響いて来て、実に快い。
 前半のハイドンとブラームスでは、どちらかといえば楽観的な曲想のものが多かったのに対し、休憩後は一転して、マーラーでは打ち沈んだ、なにか自棄的な憂鬱さを感じさせる表現になる。そしてR・シュトラウスでの劇的な昂揚に続く。いずれも若者の純な喜びや哀しみの情感にあふれて、未来への希望を感じさせる歌唱表現だ。

 こうした素晴らしい歌唱ではあったのだが、どこかひとつ座りが悪いリート━━というもどかしさがついて回ったのは、フォークトのせいではなく、ピアノが、なんか歌としっくり合わなかったせいだろう。これが本当に惜しかった。

 そういえばこの協演ピアニストは、当初はイェンドリック・シュプリンガーの予定だったのが、右手を負傷したとかでバート・バーレイというハンブルク州立歌劇場の声楽指導監督を務めるピアニストに代わったのだった。
 この人は、ちゃんと弾くことは弾くが、音楽が如何にも平板で、表情に乏しい。「さすらう若人の歌」第4曲の大詰、主人公の感情が一転する個所でのピアノが、殆ど機械的とも言えるような単調さで進んで行った時には、これではとても音楽にならないと思えたくらいである。シュトラウスの「献呈」の最後で感情が大きく昂揚する個所でも、さっぱり盛り上がらぬ。
 本当に惜しかった。もしピアノが名手だったら、このリサイタルはさらに感銘深いものになったであろうに。

2018・3・25(日)東京・春・音楽祭 ロッシーニ・マラソン

     東京文化会館小ホール  午前11時、午後1時、3時、5時

 生誕150年記念のロッシーニを中心に据えた、5部からなるマラソン・コンサート。その中から、第1部「悲喜こもごものロッシーニ劇場」、第2部「辣腕興行師バルバイヤとの出会い」、第3部「ロッシーニ・フィーバーの諸相」、第4部「英雄ウィリアム・テルの変容」を聴く。

 これはロッシーニの作品ばかりをやる演奏会ではなく、彼と同時代の作曲家の作品群をも併せて、ロッシーニの立ち位置、歴史的背景、革命と動乱の時代との関わりなどを、小宮正安氏の企画構成と解説により、生演奏で解明して行くという興味深いシリーズである。選曲もよく考え抜かれていて、企画としては非常に秀逸なものであったと思う。

 私は特に、同一の戯曲を素材にした、ロッシーニと他の作曲家のオペラとの比較に興味があったので、たとえば第1部での、「セビリャの理髪師」の「フィガロの登場のアリア」を、それぞれロッシーニとパイジェッロが作曲したもので比較するというのも面白かった。
 とりわけ第4部で特集された、「3人の作曲家によるそれぞれのウィリアム・テルの音楽」を聴き比べるという企画に至っては、私の最も関心を寄せるところである。ここでは、グレトリ(1741~1813)の「ギョーム・テル」、ベルンハルト・アンゼルム・ウェーバー(1764~1821)の「ヴィルヘルム・テル」、ロッシーニの「ギョーム・テル」から数曲ずつが演奏され、最後にそのロッシーニの序曲がリストのピアノ編曲版で全曲演奏されるという内容だった。

 その他のさまざまな選曲も楽しませていただいた。大いに有益な演奏会であった。
 が、惜しむらくは━━演奏の水準に問題がある。
 歌手の中には、この小ホールで、高音を咽喉も裂けよと絶叫してみせる人もいたり、また弦楽器奏者の中には、ヴィルトゥオーゾ的な小品を正確に弾けない人もいたり、あるいは合唱も素人のレベルを感じさせたり、という具合に、せっかくの好企画に水を差すケースも少なくなかったのである。
 だがさしあたりここでは、おおぜいの出演者の中から、ロッシーニやグレトリの序曲を弾いたピアノの岡田将、アリアのサポートで安定した演奏を聴かせてくれたピアノの朴令鈴、「タンクレディ」からのアリアを力強く聴かせてくれたメゾ・ソプラノの富岡明子の3人に賛辞を捧げておきたい。

 この第4部は、当初の予定では5~6時の公演ということになっていた。従って、終ってすぐ飛び出せば、池袋の「あうるすぽっと」で6時半から始まる日本ワーグナー協会例会の「ぺトラ・ラング講演会」に15分ほどの遅刻で間に合うだろうと踏んでいたのだが、第3部でルドルフ大公作曲の長大な「ロッシーニ変奏曲」を吹いたクラリネットのコハーン・イシュトヴァーンが、「抜粋演奏」という打合せにもかかわらず、何故か全曲を延々と演奏してしまったので━━多分打合せが徹底していなかったのだろうと推察するが━━終了が20分押してしまい、そのため第4部の開始が5時半頃、終演が6時半になってしまったのだ。
 私としてはこの第4部はどうしても全部聴きたかったので、━━結局ぺトラ・ラング女史の講演は諦めざるを得なかった、というわけである(無理して行った人もいたようだが)。

 それにしても、「ワーグナーを聴きに行こうとしたら、ロッシーニに妨げられた」というのは、何か時代を超えた因縁話というか、ワーグナーにさんざん悪口を言われたロッシーニが、今ここで逆襲したかのようで・・・・。

2018・3・24(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  2時

 レスピーギの「ローマの噴水」、ボッテシーニ(1821~89)の「コントラバス協奏曲第2番ロ短調」、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」。

 所謂「上岡ぶし」が最も成功していたのは、「ローマの噴水」ではなかったろうか。
 「ローマ3部作」の中では、いちばん清澄で、美しい幻想的な音色に満たされたこの「ローマの噴水」━━ここでは、上岡が新日本フィルから引き出す陰翳のある響きが生きる。
 「真昼のトレヴィの泉」以外の3つの部分では、あまり「噴水」というイメージのない、くぐもったような表情の演奏になっていたが、それはそれで興味深い。
 その「トレヴィの泉」でも、シンバルの響きが如何にも激しい水飛沫という感を出していたものの、トランペットなど金管群は極度に抑制され、弦楽器群を前面に出したバランスがつくられていた。こういう演奏は、「海神ネプチューンの壮大な行進」というイメージからはおよそ遠いものだろう。しかしまあ、それなりに面白いといえば面白い。

 だが期待していた「悲愴交響曲」では、その凝りに凝った音のバランスが、私にはあまりに神経質なものに感じられ、些か閉口させられた。まるで偏執狂的で冷酷な精神分析医によって、こちらの心の奥底までをバラバラにされるような━━などと言ってはイメージが過ぎようが、早い話が、チャイコフスキーが哀愁の中にも毅然として失わなかった威厳と風格をもすべて破壊するようなこの解釈を聴いていると、疲れ、苛々して来る。
 それにこの演奏では、新日本フィルも、上岡の細かい音づくりに追いついて行けなかったような印象を得たのだが。

 ボッテシーニのコントラバス協奏曲では、新日本フィルの首席コントラバス奏者、渡邉玲雄がソロを弾いた。まるでチェロのような流麗な音色が見事だ。珍しい曲を聴かせてもらった。コンサートマスターは崔文洙。

2018・3・23(金)東京・春・音楽祭 ぺトラ・ラング

       東京文化会館小ホール  7時

 ブラームスはアンコールの「子守歌」を含め6曲、マーラーは「リュッケルトの詩による5つの歌曲」、ヨーゼフ・マルクス(1882~1964)5曲、R・シュトラウスはアンコールの「献呈」など3曲を含め10曲が歌われた。ピアノはエイドリアン・バイアヌ。

 彼女の歌うワーグナーの舞台作品はこれまで何度も聴いて来たので、リートの場合は如何なりや、と興味津々で聴きに行ったのだが、━━残念ながら、屈指のドラマティック・ソプラノ歌手、必ずしも最良のリート歌手ならず、といった印象を抱かざるを得なかったのは━━リートを歌う時に彼女が聴かせるあの独特の、癖の強い歌い方が私の好みに合わないという点は別としてもだが━━どの歌も同じような表情で歌われていて、精緻なニュアンスの変化に乏しい、という理由からでもある。

 今夜の彼女の歌唱の中で最も彼女の個性に合っていたのは、R・シュトラウスの作品群ではなかったろうか。こうして聴いてみると、この作曲家の歌曲には、如何にオペラ的な精神があふれているかということを改めて認識させられる。
 といってもそれは、R・シュトラウスの歌曲には精緻なニュアンスなどなくてもよい、ということではない。他の3人の歌手に比較して、シュトラウスのドラマティックな作風は群を抜いており、その素晴らしさがラングの個性を呑み込んでいた、とでも言ったらいいのだろうか? また彼女も、このリサイタルでは、どちらかといえばそういう劇的な歌を多く選んでいた。

 音楽とは別の話だが、前半ではホール内にずっと連続して響いていた金属性の発振音に悩まされた。特別な照明とか、TVカメラとか、そんなものに関連する回転音のような音である。多くの人が気にしていて、幕間では事務局も動いたのか、休憩後は、高音域のノイズだけはとりあえず消えていた。

2018・3・22(木)大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

     ザ・シンフォニーホール  7時

 大阪フィルの創立70周年とザ・シンフォニーホールの開館35周年を記念する演奏会。
 同楽団桂冠指揮者・大植英次が登場、ベートーヴェンの「英雄交響曲」とR・シュトラウスの「アルプス交響曲」という重量級のシンフォニー・プログラムを演奏した。「英雄、アルプスに登る」というわけか。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 大植英次の指揮を大阪フィルとの演奏で聴くのは、昨年4月25日の「カルミナ・ブラーナ」以来、1年ぶりだ。
 彼の指揮のスタイルは、ある時期ごとに、あるいはレパートリーごとにさまざまに変わるので、些か把握し難いところがあるが、今日の「英雄交響曲」の演奏などを聴くと、その音楽のつくり方に、20年前のミネソタ管弦楽団音楽監督時代のような、すっきりした率直な推進性が少し戻って来たような感がある。
 もちろんこれは、ベートーヴェンの交響曲だからでもあろう。それに、あの頃よりも表情が濃くなっていることは、間違いない。

 「アルプス交響曲」も、エネルギッシュで、起伏に富んだ演奏だった。
 長い全曲の中に於ける「日の出」、「頂上」、「嵐」という3つのクライマックスの築き方、そこへの持って行き方も、大植英次は相変わらず巧い。これらの個所では大阪フィルのパワーも目覚ましく、ホールを揺るがせる全管弦楽の咆哮が、全く刺激的な音にならずに響くところも好ましい。「日の出」での輝かしい音色と威力的な演奏など、見事なものだと思った。

 欲を言えば、そのあとの登山以降、パノラマのように移り変わって行くさまざまなモティーフがもう少し明確に浮き彫りになってくれていたらと思う。嵐の中を下山する場面での音楽の流れが暴風雨の描写一辺倒になっては、主題再現部としての意味が曖昧になろう。トランペット群のアインザッツにはもっとデリカシーが欲しい一方、弦は随所で美しさを示した。

 大植は、カーテンコールでは相変わらずパフォーマンス的な仕種を見せた。だが、聴衆とオーケストラからは、懐かしさを持って迎えられていたように感じられた。
    →別稿 モーストリー・クラシック 6月号 公演Reviews

2018・3・21(水)ソヒエフ指揮トゥ―ルーズ・キャピトル国立管弦楽団

       サントリーホール  2時

 トゥガン・ソヒエフとそのオーケストラ━━そう言ってもいいほど、ぴったり呼吸の合ったトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団との今回の日本ツアーは、今日が最終公演。
 プログラムはグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは諏訪内晶子)、ドビュッシーの交響的素描「海」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」(1919年版)。

 諏訪内晶子のソロも、アンコール曲(バッハの「無伴奏ソナタ第3番」の「ラルゴ」)を含め、極めて清澄で、しかもしなやかさがあって聴きものだった。しかし、今日の圧巻はやはり第2部でのドビュッシーとストラヴィンスキーだったであろう。

 「海」は、オケにとって自国の作品だから、悪かろうはずがない。
 「波の戯れ」後半など、昔のハイティンクとコンセルトヘボウ管弦楽団(東京公演)での演奏にも引けを取らないほどの快いノリだったが、ソヒエフとトゥールーズのそれは、コンセルトヘボウのような彫琢された音の躍動美ではなく、むしろ自由な感興にあふれた、生々しい音による華麗な昂揚━━とでも言ったらいいか。
 「風と海との対話」の結尾にしても、如何にも気鋭の指揮者が若々しい気魄で劇的に盛り上げるといった感があって、微笑ましい。この「海」の演奏は、私がこれまで聴いたソヒエフとトゥールーズの演奏の中でも、特に優れた演奏のひとつに挙げられよう。

 「火の鳥」も、色彩感という点では卓越したものがあったし、その終曲の最後の数小節でも、怒涛の一押しが聴かれたことはもちろんである。
 このように、エンディングでいっそうの力感を導入して聴衆を巻き込むという、最良の意味での芝居気は、これまでのソヒエフにはあまりなかったような気がするのだが・・・・。

 アンコールは2曲で、またもや「カルメン」からの間奏曲と前奏曲。彼らは第1回の来日の時から、こればかりやっている。(以前にも書いたことながら)サービスは有難いけれども、たまには他に何かないでしょうか?
    →別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

2018・3・20(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 桂冠指揮者エリアフ・インバルが指揮。久しぶりに懐かしい人が帰って来たという感がする。プログラムはショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」のみだが、客席は文字通り埋め尽くされ、演奏が終った時には、これまた久しぶりに上階席から一斉にブラヴォーの声が湧き起こったのであった。

 とにかく、凄まじい演奏だった。全曲にわたり快速なテンポが維持され、嵐のように激しく音楽が展開し、嵐のように轟々と結ばれて行く。
 インバルが指揮すると、都響はやはり引き締まる。演奏の密度も目覚ましく上昇する。ピリリとした緊張感がステージに感じられ、それは当然演奏にも顕れ、私たち聴き手にも伝わって来る。

 第1楽章の「戦争の主題」など、あれだけ速いテンポを維持したまま、かつ全管弦楽のバランスを完璧に保ちつつ、ホールを揺るがせんばかりの大音量を極限まで推し進めて行くというのは驚異的だし、しかもこの間アンサンブルには少しの乱れも生じさせないという凄さだったのである。弦の奏者たちが、何かに取り憑かれたような表情で弾いていた光景が印象的であった。コンサートマスターは山本友重。

2018・3・20(火)狂言風オペラ「フィガロの結婚」 

      観世能楽堂  3時

 銀座にある「二十五世観世左近記念・観世能楽堂」で上演されたのは、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」を狂言風に仕立てた出しもの。

 オペラからは、管楽八重奏に編曲した12曲ほどを抜粋、これをルツェルン音大の教授陣のアンサンブルという「クラングアート・アンサンブル」(管楽八重奏&コントラバス)が橋掛りに並んで演奏した(失礼ながらこれは、お上手だったとは言い難い)。

 さて、本舞台で演じられたのは、藤田六郎兵衛の脚本演出により、能と狂言に仕立てられた「フィガロの結婚」の縮小ストーリー版である。
 登場人物は、好色な中将・在原業平ならぬ「在原平平(アリハラノヒラヒラ)」(アルマヴィーヴァ伯爵)は人形だが、「北の方・橋の上」(ロジーナ、奥方様)は赤松禎友、「随身家路」(フィガロ、太郎)は野村又三郎、「女房梅が枝」(スザンナ、お花)は茂山茂、「小舎人童光丸」(ケルビーノ、蘭丸)は山本善之、樋洗童春菜「バルバリーナ、おあき」を茂山あきらがそれぞれ演じていた。
 邦楽部分の演奏は、太夫を豊竹呂太夫および三味線を鶴澤友之助。芸術監督は大槻文藏、音楽監修は木村俊光。

 アイディアは秀逸である。大いに推進していただきたいとは思う。
 とはいえこの種の試みの場合、泰西の原作と日本風アレンジとの兼ね合いは、常に議論の対象になるだろう。今日の上演を見ても、かなり練り上げていることは解るけれども、それでも両者の融合までには、もう一つ未だ距離があるような気がするのだが・・・・。

 今回はこの観世能楽堂での2日間の昼夜2回公演のあと、京都(けいはんなホール)と大阪(いずみホール)で1回ずつ上演の由。
 4時50分頃終演。地下鉄銀座線で上野に向かう。

2018・3・19(月)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

      サントリーホール  7時

 2日前に金沢で音楽監督在任最後の定期公演を指揮した井上道義。そして、同じプログラムによる本日の東京公演が、音楽監督としてこのオケを指揮する最後のステージである。
 演奏されたのは、プーランクの協奏曲「オーバード(朝の歌)」(ピアノ・ソロは反田恭平)、ハイドンの交響曲第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「夜」。アンコールは武満徹の「他人の顔」の「ワルツ」だった。コンサートマスターはおなじみ、アビゲイル・ヤング。

 ハイドンの交響曲では、各パートのソロの部分が多いが、井上道義の指揮でこれを演奏するOEKの弦の各パートの首席奏者のソロが、また実に見事である。井上もまた、彼ら奏者たちを全面的に信頼し、楽しみつつ指揮しているかのように見えた。

 ステージにあふれたその雰囲気は、2007年1月以来11年におよんだ彼とOEKの共同作業の締め括りとして、実に相応しいものであったと言えよう。それは、昨年2月、僅か3年で首席指揮者のポストに終止符を打った大阪フィルとの最後のステージでの光景とは、まさに格段の違いがあった。今日の井上は、OEKとの温かい告別を東京の聴衆の前で存分にアピールしつつ、演奏会を終えて行ったのである。

 なお、反田恭平のソロ・アンコールはシューマン~リストの「献呈」だったが、この音色の澄んだ美しさは絶品であった。

2018・3・18(日)大友直人指揮群馬交響楽団東京公演

     すみだトリフォニーホール  3時

 同時間帯にサントリーホールでは、小泉和裕と名古屋フィルが東京公演をやっている。
 時間がずれていれば、両方聴けたものを。せっかくそれぞれのオーケストラが腕に縒りをかけて、年に一度の東京公演をやるという貴重な機会なのに、もったいない話ではある。
 私も最初は名古屋フィルを聴きに行くことにしていたのを、「音楽の友」から演奏会評を依頼されたため群響に転換したわけだが、出来れば両方聴きたかったところなのだ。
 もっともこれは、オーケストラを責めても始まらない。スケジュールを決めたのは1年も2年も前のことだろうし、その時点で他のオケの動向などを調査するのは、まず不可能な業だからである。

 ともあれ、こちら群響の方は、プログラムが珍しい。
 エルガーの序曲「コケイン」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロは小川典子)、ヴォーン・ウィリアムズの「ロンドン交響曲」、という選曲。
 英国作品は、音楽監督・大友直人の得意のレパートリーである。期待に違わず、見事な演奏だった。

 大友は、ロンドン市街の雑多な光景を描く序曲「コケイン」と「ロンドン交響曲」で、時に雑然と入り乱れるさまざまな主題や楽想や音型を鮮やかに整理し、「雑踏と混乱の都ロンドン」に陥らせることなく、むしろヒューマンで生き生きした都というイメージさえ感じさせる演奏につくり上げていた。このあたりの音構築の巧みさは、彼のお家芸であろう。
 「コケイン」での、ホルン群がいっせいに咆哮し始めるあたりにかけての演奏の流れの良さは、聴いていて快くなるほどだったし、「ロンドン交響曲」でも「ビッグ・ベン」の音型や、それに続いて「オペラ座の怪人」のテーマを先取りするような物々しいモティーフなどが流れて行くくだりのパノラマ風の音の流れなど、実にいい。
 そして群響も、演奏水準の髙さを引き続き保っているのが嬉しい。コンサートマスターは伊藤文乃。

 ラヴェルの協奏曲では、その群響の豊麗な響きの中を、小川典子の毅然とした意志に貫かれた明晰な生々しいソロが切り裂くように進んで行くさまが、これも実にスリリングだった。彼女の演奏は、ある意味では硬質な鋭さを持っているが、無機的なところは全くなく、透明な明るさにあふれて、しかもスケールが大きい。このピアノ・ソロとオーケストラとのせめぎ合いの面白さも、今日のラヴェルでの聴きものの一つだったであろう。
   別稿 音楽の友5月号 演奏会評

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