2017-09

2017・9・17(日)キリル・ペトレンコ指揮バイエルン国立管弦楽団

      東京文化会館大ホール  3時

 都民劇場音楽サークル定期公演。
 話題の指揮者キリル・ペトレンコ(ロシア生れ、45歳)が、ついに日本のファンの前にその姿を現した。音楽総監督を務めるバイエルン国立歌劇場引っ越し公演を率いての来日だが、オペラの本番を観る前にシンフォニー・コンサートを聴く機会を得られたのは幸いだった。

 私も、彼のオペラの指揮は、ワグネリアンを沸き立たせたあのバイロイトの「指環」をはじめ、リヨンとウィーンでのチャイコフスキーなど、これまでかなりの数を聴いて来たが、コンサートを聴く機会は、それほど多くなかったのである。
 ただ、ベルリン・フィル首席指揮者就任のきっかけになったとか謂われるあの2012年12月の定期を聴けたことは、まだ彼が世界にほとんど知られていなかった頃━━ベルリン・コーミッシェ・オーパー指揮者時代の「コジ・ファン・トゥッテ」(2005年12月9日)を聴いて括目したことと同じように、ささやかな自慢をしてもいいかもしれぬ。

 今日の公演は、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」と、マーラーの「交響曲第5番」。
 ラフマニノフを弾いたイーゴル(イーゴリ)・レヴィットはロシアのノヴゴロド生まれ。まだ30歳そこそこだというが、何かえらくオジサン的な風貌の青年だ。現代の若い世代のピアニストらしく、遅いフレーズなどではテンポを落し、沈潜して念入りに音楽をつくって行く、というタイプのようで、特にそれが如実に示されたのは、オケとの協演の曲よりも、むしろソロ・アンコールで弾いたワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」の方だろう。うしろの大オーケストラを待たせておいて、独りで音楽に没入し、延々と弾く。その度胸には感心する。

 「5番」の方は、先週の上岡敏之のそれのように細かい表情の変化を極度な形で押し出したような、神経症的なマーラーではない。比較的スタンダートな、滔々たるシンフォニックな流れの裡に力感と叙情を漲らせた演奏、とでも言ったらいいか。
 スコアの指示はかなり巧く生かされてはいるけれども、伸縮自在の動きがありそうで無かった━━というのも変な表現だが、ここでテンポが一瞬動いてまた戻るだろうな、とか、ここで微妙にクレッシェンドしてすぐ弱音に戻るだろうな、とか、スコアの上で予想される個所で、何かそれが徹底せず、動きが中途半端なままで次へ進んでしまう━━というところも少なからず聴かれたのである。
 これはペトレンコの、コンサート指揮者としてのキャリアが未だこれからということや、このバイエルン国立管弦楽団が本来はコンサート・オーケストラでなく歌劇場(バイエルン州立歌劇場)のオーケストラであること、なども影響しているのではないかと思われる。

 そして彼らのマーラーは、ダイナミックな力感には富んでいるけれども、あまり濃厚なものではなく、何処かに淡白な表情が感じられなくもない。それまでは豪快壮大に押しまくりながらも、そのわりに第5楽章最後の頂点は意外にあっさりしていて、だめ押し的な熱狂には今一つ至らなかった、という特徴もあるだろう(ペトレンコがベルリン・フィルとこの曲を演奏したらどんな具合になるか?)。ただしこれは、このホールの音響ゆえの印象もあるかもしれないが。

 とはいえ、指揮者もオーケストラも熱演には違いなく、マーラーの「第5交響曲」の面白さを━━上岡とは違った意味で━━私たちに聴かせてくれたという、聴き応えのある演奏であったことは確かである。
    →別稿 音楽の友11月号 Concert Reviews

2017・9・16(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

    NHKホール  6時

 NHK交響楽団の秋のシーズンの幕開け定期、Aプロの初日。首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィがショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」を振る。客演コンサートマスターはロレンツ・ナストゥリカ・ヘルシュコヴィチ(ミュンヘン・フィル・コンマス)。

 これは実に舌を巻くような見事な演奏で━━と言っただけでは何だか解らないが、これだけ力感に富む咆哮を繰り返しつつ、しかもオーケストラが完璧な均衡を失わなかった、という演奏も稀有ではないか。

 N響は今やパーヴォ・ヤルヴィの「音」に完全にと言っていいほど同化し、特に弦楽器群は、独特の清澄な音色を響かせる。それは第3楽章などで冷徹なほどの透明な美しさを発揮するのはもちろんだが、終楽章のクライマックスにおいてさえ、ステージ後方にずらり並んだ金管楽器の大部隊の咆哮と拮抗して、澄んだ音色を一瞬とも失うことなく最後まで響かせ続けたのだった。
 N響の並外れた巧さもさることながら、パーヴォ・ヤルヴィのオーケストラの構築術の見事さを改めて認識させられた次第だ。

 なりふり構わず怒号するショスタコーヴィチの管弦楽法も、例えば「4番」や「8番」の場合にはそれも一つの魔性的な凄さとなるが、この「レニングラード」の場合には、一歩誤れば作品の中に肉離れを起こさせかねない危険性を孕んでいるだろう。それを実に巧みに解決した一例が、このパーヴォの指揮ではなかったろうか。

2017・9・16(土)ベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ

     フィリアホール  2時

 早朝の新幹線で帰京。

 日下紗矢子をリーダーとするベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラは、もちろん彼女がコンサートマスターを務めているあのベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(旧東独のベルリン交響楽団)のメンバーで構成されている団体である。結成は2009年の由。
 3度目の来日になる今回は、弦は彼女を含め12、チェンバロ1という編成。今日から23日までの間に中新田、西宮、岡崎、福岡、松本で演奏会を開くというスケジュールだ。東京が抜けているというのは残念だが、それはこの演奏を聴けば、日下紗矢子という人が如何に凄いかが判るからである。

 前半にコレッリの「合奏協奏曲ニ長調作品6の4」、ヴィヴァルディの「調和の霊感」から「ホ長調作品3の12」と「イ短調作品3の6」、そして再びコレッリの「クリスマス協奏曲」が演奏された。そのすべてのソロを弾いたのが彼女である。
 後半にはシベリウスの「ヴァイオリンと弦楽のための組曲 作品117」と「アンダンテ・フェスティーヴォ」、最後にグリーグの「ホルベアの時代より」というプログラムで、ここでも彼女がリーダーとして活躍する。
 ステージ上での彼女の挙止そのものはむしろ控えめに見えるが、コンサートマスター及びソリストとしての演奏の上での存在感は厳然たるものだ。

 このホール、席数は500と小ぶりだが、音響は素晴らしく良いのが有名だ。そのため、日下紗矢子のソロと弦楽アンサンブルとが、いっそう美しく映える。
 前半でのコレッリとヴィヴァルディの曲想の対比が明快に示された演奏も見事だったし、彼女のソロも鮮やかだ。そして、ガラリと雰囲気を変えた後半の北欧ものでの陰影に富んだ演奏の味は、更にその上を行く魅力的なものだった。私の好きな「アンダンテ・フェスティーヴォ」が入っていたのは個人的にも嬉しかったし、「ホルベアの時代より」には、先日のSKOの機能的な演奏よりも遥かに「グリーグ的な憂愁美」が感じられたのである。

 アンコールにモーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」の終楽章が飛び行くように演奏され、4時少し前にコンサートは終った。
 次に聴くのは渋谷のNHKホールにおけるN響のショスタコーヴィチの「レニングラード」だが、言っても詮無いことながらこの2つの演奏会、順序を逆にして聴きたいところではあった・・・・。

 フィリアホールに直結する東急田園都市線・青葉台駅からは、急行に乗れば渋谷まで25分程度。

2017・9・15(金)飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団

       ザ・シンフォニーホール  7時

 兵庫県立芸術文化センターの最寄駅である阪急西宮北口駅から特急でたった2駅、15分そこそこで梅田駅に着く。大阪駅でJR環状線に乗り換え、これもたった1駅、福島駅に着く。ザ・シンフォニーホールに行くのは至極簡単だ。

 今日は首席指揮者・飯森範親が指揮、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストはジョージ・ヴァチナーゼ)と、ギア・カンチェリの「ステュクス~ヴィオラと混声合唱と管弦楽のための」が演奏された。コンサートマスターは荒井英治。
 後者は「日本で演奏されるのはこれが3度目」(飯森)とのことだし、しかも彼が一昨年東京響と演奏した際には私は聴けなかったので、これを機にと、PACのマチネーの「虎狩交響曲」と併せて聴きに赴いた次第であった。

 「ステュクス」は、聴き応えのある演奏だった。飯森の丁寧な指揮と、ソロ・ヴィオラを担当した丸山奏(日本センチュリー響首席)の繊細ながら確実な演奏、バッハアカデミー合唱団の透明清澄な歌唱が相まって、素晴らしい出来栄えになった。

 「ステュクス」とは、「三途の川」に当たるもので、ヴィオラのソロはその「渡し守」の役目を果たすという(プログラム掲載、長谷規子さんの解説による)。歌詞はかなり感覚的な色合いのものだが、言わんとすることは明解だ。
 カンチェリ特有の澄んだ、しかも神秘性を備えた響きのうちに、極端なデュナミークの交替が連続し、天国への憧憬と不安とが交錯する音楽が美しい。極度にパウゼの多い曲だが、その休止の中でも緊張感を失わせなかった飯森の指揮が見事。よくぞこういうレパートリーを取り上げたもの。その意欲をも讃えたい。

 前半に置かれたピアノ協奏曲も、ジョージア(グルジア)出身の名手ジョージ(ゲオルギー)・ヴァチナーゼの豪壮で剛直な、しかも色彩的なソロが映え、ダイナミック極まる演奏となった。ラフマニノフのこの曲は、やはりこういう豪快な力感で弾かれた方が気持良い。飯森と日本センチュリー響もすこぶる力演で、全曲の最後も鮮やかに派手に決めた。今日の2曲、すこぶる立派な演奏だったと言っていい。

 こういういい演奏をしているなら、もっとお客さんが入ってもいいような気もするのだが、やはり定期「2日制」というのは規模が過ぎるのか? 終演後に楽員たちが大勢ホワイエに出て、聴きに来ていたお客さんと賑やかに交流していたのは、聴衆との結びつきを大切にするという姿勢の表れで、歓迎されることだろう。

2017・9・15(金)佐渡裕指揮PAC 「トゥーランガリラ交響曲」

       兵庫県立芸術文化センター  3時

 兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)の秋のシーズン開幕定期演奏会、3日公演のうちの初日。メシアンの大作「トゥーランガリラ交響曲」(作曲者の指示によれば「トゥランガリ―ラー」)が、芸術監督・佐渡裕の指揮で演奏された。
 協演のピアノはロジェ・ムラロ、オンド・マルトノは原田節。

 このオーケストラは楽団員の任期に期限がある(つまりオーケストラの楽員を次から次へと育て、送り出して行く)という特別な組織の楽団なので、特にこのような作品の場合、演奏するのが初めてというメンバーが大半だという。今回は編成が大きいので、ケルン放送響やバイエルン放送響などを含む国内外のオーケストラからの応援を得ているが、それでもこの曲の演奏経験を持つ人はあまりいなかったそうだ。

 そういうオーケストラではあったが、佐渡裕はそれを実に巧くまとめていた。技術的にもしっかりしたメンバーが揃っているので、壮烈な力感にも、打楽器群と他の楽器群との微妙な音の交錯にも事欠かない。少なくとも、物理的な音響の面では、見事な演奏だったと言っていいだろう。
 この上に欲しいもの━━本当はそれが最も重要なものなのだが━━といえば、その豪壮華麗な音の渦の中に湛えられるべき詩情、官能、洒脱で洗練されたセンスといった要素だろうが、これらは経験を積んだ固定メンバーによるオーケストラでなければ出せないものだ。まして今日は初日、意に満たないところもあっただろうし、足りないことについて論うのは無意味というものであろう。もしかしたら、3日目には「突き抜けた」演奏になっているかもしれない。

 今日は1階席P列ほぼ中央で聴いたが、ホールのアコースティックの所為もあるのだろうが、舞台前面に配置されたピアノとオンド・マルトノはもちろん、チェレスタなどの楽器の音まで明確に聞こえたのは有難かった。
 この曲、サントリーホールの2階席などで聴いた時には、オーケストラの音がワンワン響いて、ピアノもオンド・マルトノもそれにマスクされてしまうことも、一度ならずあったのである。
 今日のソリスト2人の、豊かな演奏経験に基づく快演は、流石というべきものであった。「トゥーランガリラ」の終了後、ムラロと原田が短いアンコール(メシアンの「未完の音楽帖 オンド・マルトノとピアノのための4つの小品第1曲」)を弾いたが、これもなかなか美しいものであった。

 佐渡が行なったプレトークで、原田がステージに招かれ、オンド・マルトノの楽器について解説したのは、珍しい楽器であるために、お客さんには喜ばれたようである。ただし彼の説明が微に入り細に亘って延々と続いたため、一瞬の隙をついて佐渡が「解りましたッ」と締めに入った時には客席も爆笑。こういうプレトークも愉しい。
 なお、開演前にはホワイエで、この芸術文化センターの開館以来の入場者が600万名に達したというので、その600万人目の客への表彰が行われた。地元の男性とのことである。金管奏者たちがファンファーレを吹き、くす玉が割られ、佐渡が挨拶するという派手なセレモニーだった。「600万人目」ということをどうやって数えたのかは知らないけれども、めでたいことではある。

2017・9・14(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 新日本フィルの新シーズン開幕定期は、音楽監督・上岡敏之の指揮で、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソロはデジュ・ラーンキ)とマーラーの「交響曲第4番」。コンサートマスターは崔文洙。

 コンチェルトでの上岡と新日本フィルの、陰影のあるふわっとした音━━往年のチェリビダッケの音づくりを思い出させるが、もちろん同じではない━━も悪くなかったが、やはり面白かったのは、両者が全力を挙げたと思われるマーラーの「5番」だった。
 これはもう、マーラーがスコアに書き込んだ目まぐるしいばかりの指示を、更に極端なまでに強調した演奏である。デュナミークも、テンポも、音色さえも、いっときたりとも落ち着くことなく、不断に変化する。アクセントさえ聴き手の予想を上回り、時には裏切り(?)、強調される。

 第1楽章など、悠然たる葬送行進曲などでは決してなく、常に不安定な精神を描き出したような演奏だ。ゆっくり話していたかと思うと、突然猛烈な早口になる。終結近くのフォルテ3つの個所など、まさに哀しみの激情が堰を切ってヒステリックに暴発するというイメージの演奏ではなかったか?━━ここは、今日の「上岡のマーラー」の中でも、象徴的な個所だったと思われる。

 とにかくこれは、神経質で、呻吟や歓びや、悲哀や絶叫などが絶えず交替して行くという、あの精神分析的なマーラーの音楽を赤裸々に再現した演奏と言えるだろう。そういうマーラー演奏は、著しく聴き手を刺激し、音楽にのんびり浸っていることを許さない。
 上岡の指揮が個性的であることは、私たちはから以前から心得ているが、そのユニークさが何処から生まれたものであるかをじっくりと考えさせられる好例が、今日の「5番」の演奏ではなかったろうか?

 指揮者のこういう主張を、新日本フィルが今日のように巧く表現できるようになっているというのは、両者の呼吸が合って来た証明であろう。開幕第1弾定期としてそれが示されたのは、ありがたいことであった。
 これでもう少し、アンサンブルが緻密になり、ホルンやトランペットが肝心の聴かせどころでポロリとなることがなければ、文句ないのだが━━。

2017・9・11(月)大野和士指揮東京都交響楽団 ハイドン:「天地創造」

     サントリーホール  7時

 よく知られているけれどもそれほどしばしば演奏されるわけでもないハイドンの大曲「天地創造」が、珍しく、ほとんど間をおかずに高関健と東京シティ・フィル、大野和士指揮東京都響のそれぞれの演奏で競演された。こういう「かち合い」は、示し合わせたわけでもないのに、不思議によく起こるものである。
 前者(8日)は、私は松本へ行っていたため残念ながら聴けなかったが、聴いた人の話によると、非常に良い演奏だったという。

 今日の大野&都響の公演の方は、合唱にスウェーデン放送合唱団(指揮:ペーター・ダイクストラ)が協演したのが、より強みであったろう。この合唱団の透明で澄んだ音色は世界のトップクラスにあるが、あまり多くない人数にもかかわらず、その安定したハーモニーはオーケストラの間を縫って響いて来て、「天地創造」をいっそう美しく聴かせてくれたのだった。

 今回はピーター・ブラウン校訂による「オックスフォード版」が使用されたとのことだが、編成が大きくなく(2管)、オーケストラが厚い音にならなかったため、スウェーデン放送合唱団の音色も損なわれずによく生かされた、とも言えるだろう。
 大野和士は、この曲に含まれている描写音楽的なシャレをよく生かし、しかも過度に劇的な誇張を入れることなく、「オーケストラの編成に相応しいスケール」で柔らかく作品を描き切った。

 冒頭の「天地混沌」の場面があまりに遅いテンポで重々しく演奏されたため、「混沌」よりは「無」というイメージを生み、しかも緊張感に些か不足し、それがディートリヒ・ヘンシェル(バス)のソロにも影響するという感もあったが、幸いにもそのあとは徐々に盛り上がって行った。大野の狙いはおそらく、長いスパンでこの曲を頂点へ持って行く、というところにあったのかもしれない。
 全曲最後の大クライマックスでのアレグロは素晴らしく速いテンポで━━ソロ歌手たち(ほかにソプラノの林正子と、テノールの吉田浩之)や合唱団がよく歌えたなと感心したが、高い個所では音を切って歌っていた人もいたようだから━━目覚ましい頂点を築いた。
 コンサートマスターは矢部達哉。

2017・9・10(日)ヴェルディ:「オテロ」 バッティストーニ指揮

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 今回の「オテロ」では、真鍋大度らの「ライゾマティクスリサーチ」による映像演出が鳴り物入りでPRされていた。
 演奏会形式ではあるが,舞台一杯に映像を投映し、登場人物の心理を視覚的に表現するというのが狙いだったようである。

 だが、歯に衣着せで言えば、この程度のものでは、現代のオペラ演出に一石を投じるとか、総合芸術としてのオペラに新しい風景を誕生させる、などという段階には、ほど遠い。
 抽象的な図柄を舞台一杯に投映し、躍動させるというアイディア自体は大いに結構だ。だが冒頭の嵐の場面でモノクロのさまざまな「模様」のみが乱舞するさまを、たとえば30秒間凝視していると、それだけで「だから何なの?」という心理状態になり、もう先が見えてしまうのである。
 私が唯一効果的だと感じたのは、第3幕の幕切れ、倒れたオテロを嘲笑するイヤーゴの惨忍性を視覚面でも強調するために、魔性的な映像を乱舞させた場面だけだった。

 映像演出は、これからますます大規模にオペラの舞台に取り入れられるだろう。プロジェクション・マッピングしかり、アニメ映像の活用然りである(来年4月にベルリン・コーミッシェ・オーパーが東京・西宮・広島で上演するバリー・コスキー演出の「魔笛」などは、全編これアニメと人間との組み合わせで、それはウィリアム・ケントリッジのドローイング・アニメ映像による演出よりも美しい)。

 今回の「オテロ」での試み自体は積極的に評価したいが、すでに音楽そのものにより心理描写が完璧に行なわれているオペラに視覚効果を加える演出というものは、この程度では残念ながら、とても目の肥えた観客を納得させるわけには行かぬ。いっそうの工夫を願いたい。面白くなる可能性は、充分にある。カーテンコールで、上階席からいくつか飛んだブーイングは、私から見れば、すこぶる正直な意思表明だったと思われる。

 となると、やはり今日の「オテロ」の成功の第一要因は、やはりアンドレア・バッティストー二の指揮である。これは予想通り、直截でスピーディで、胸のすくような「オテロ」の音楽だった。
 もちろん、ただ威勢がいいだけのものではない。丁寧で、神経の行き届いた指揮である。第4幕の「柳の歌~アヴェ・マリア」などではぐっとテンポを落し、絶望に打ちひしがれたデズデーモナの心理を存分に表現し、かつ叙情的な美しさを強調していたのが見事だった。そして、彼に煽られた東京フィルハーモニー交響楽団の演奏も、なかなかに熱っぽかった。

 歌手陣は手堅い。
 題名役のフランチェスコ・アニーレは、澄んだ声を持っていて、声だけ聴くと若々しい気鋭のオテロという雰囲気を感じさせるが、風貌とはだいぶイメージが違う。彼は、先頃のバッティストーニ指揮の「イリス」で、好色な男オーサカを歌い演じた時には実に見事だった(?)ので、推して知るべし。
 イヤーゴのイヴァン・インヴェラルディは大柄の体躯に力のある声で、悪役ぶりを過剰に強調しない表現に徹していた。

 デズデーモナはエレーナ・モシュク、あまりオペラ歌手らしくない容姿で、声も時に音程が明確でなくなるのが気にはなるけれど、可憐なヒロインという役柄には向いているだろう。2008年に上岡敏之の指揮で「椿姫」のヴィオレッタを歌った時など(新国立劇場)、愛らしく真摯な高級娼婦という感だったのである。

 共演は、高橋達也のカッシオ、清水華澄のエミーリアを筆頭に、ジョン・ハオのロドヴィーコ、与儀巧のロデリーゴ、斉木健詞のモンターノなど、実力派を揃えて充実。
 合唱は新国立劇場合唱団と世田谷ジュニア合唱団で、特に前者は最後まで板付きのまま、力と安定感に満ちたコーラスが流石に素晴らしかった。
 なお字幕は、直訳体の文章が随所に見られて意味が解りにくく、流れを掴みにくい傾向があったのが惜しい。

2017・9・9(土)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  4時

 日本フィルの新シーズン開幕第1弾定期演奏会は、正指揮者・山田和樹の指揮。
 ボリス・ブラッハーの「パガニーニの主題による変奏曲」、石井真木の「遭遇Ⅱ番」(協演の雅楽は東京楽所)、イベールの「寄港地」、ドビュッシーの「海」という、極めて意欲的な、新鮮な息吹にあふれた、しかも巧みな構成のプログラムであった。

 ブラッハーのこの曲など、こんな機会でなければ、まずナマで聴けることはないかもしれない。パガニーニの、あの有名な奇想曲の主題が、ソロ・ヴァイオリン(コンサートマスターの扇谷泰朋)によりほぼオリジナルの形で弾かれたかと思うと、分厚い響きのオーケストラが後を引き取って16の変奏を開始する。
 昔レコードで聴いた時にはあまり面白い曲だとは思わなかったが、━━まあ、正直なところ、今回もあまり面白い曲だとも思えなかったが━━次の石井真木の作品への導入のような形で聴けたのは、千載一遇の好機ではあった。

 そのブラッハーの弟子たる石井真木の「遭遇Ⅱ」は、1971年6月に「日本フィルシリーズ」第23回作品としてこのオケが初演した縁のある曲である。今日は東京楽所の10人のメンバーによる雅楽の演奏で始まるヴァージョンが取り上げられた(昨日は別ヴァージョンで演奏されたという話である)。
 この雅楽とオーケストラとの「遭遇」は、今聴いても、すこぶる新鮮に感じられる。初演の際には、私は聴いていない。
 石井真木の豪壮な管弦楽法も、師ブラッハーの作品と並べて聴くと、その由って来たる所以がいっそう理解できるというものだ。こういうプログラミングはいい。日本フィルの企画スタッフと山田和樹のアイディアを讃えたい。

 後半に演奏されたイベールとドビュッシーの作品━━これらでの山田和樹と日本フィルの演奏は、見事の一語に尽きる。山田和樹には、フランスものはやはり合っているようである。
 「海」の頂点などでは、かなり開放的に最強音を響かせる。それが必ずしも清澄な音色でないところは今の日本フィルの限界なのかもしれないが、しかしもしこの両者がたっぷり時間を取って音を練り上げて行けば、改善される可能性は充分にあるはずである。色彩感、しなやかさ、詩情といったものは、すでにこの演奏には備わっていたのだから。

 それになにより今日は、特にフランスもの2曲において、日本フィルの弦も管も快調だった。
 とりわけオーボエの1番(杉原由希子)の音色とエスプレッシーヴォの見事さは、国内の他のオケでも滅多に聴けないほどのものだろう。彼女のソロが、イベールの「寄港地」第2曲の「チュニス━━ナフタ」を素晴らしく魅力的に聴かせてくれたのである。

2017・9・8(金)セイジ・オザワ松本フェスティバル
オーケストラ コンサートC 小澤征爾&内田光子

     キッセイ文化ホール  7時

 ザルツブルクで転倒して腰を痛めたということで、同フェスティバルでの9月4日のリサイタルを中止した内田光子だが、小澤征爾とのピアノ・コンチェルトだけは何とか頑張って弾く、と発表されていた。
 そのため、今日のコンサートで彼女が登場した時には、はたして答礼のお辞儀なんかやって大丈夫なのかな、などという危惧も含め、聴衆はかなりハラハラしながら見守っていたのは事実である。何しろ入場と退場の際は、小澤征爾が彼女をエスコートしながら歩く━━というわけで、かえって小澤さんの元気さの方が目立つ雰囲気だったのだから。

 それはともかく、今回2人がサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)とともに演奏したのは、プログラム第2部における、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」だった。1999年以来18年ぶりの、このフェスティバルでのこの曲の協演である。そして、2人がこの音楽祭で協演したのは2006年の「皇帝」以来だったのだ。

 第1部での2曲が指揮者なしで演奏されていたこともあって、第2部の協奏曲で小澤征爾が指揮を始めた途端━━いや始める前から、場内には息づまるような期待感と緊張感がみなぎっていた。この25年続いて来た松本のフェスティバルは、やはり小澤征爾あってこそのフェスティバルなのだ、ということが、こういうところで否応なしに示されてしまうのである。いいかどうかは別として、彼はここでは半ば神格化された立場にあるといっても、決して過言ではないであろう。

 とにかく、その小澤の指揮のもと、SKOの演奏は恐ろしいほど引き締まって、重量感とスケールに満ち、揺るぎない構築感を以って進んで来る。記憶にある18年前の演奏とは全く違う。あの時よりも小澤の指揮が深みと重みを増し、いっそうの凄みを増しているのである。

 かたや内田光子の演奏は、あの頃よりは柔らかくなったか。体調のせいかもしれないが、18年前のピリピリした、聴き手に並外れた緊張を強いる演奏というイメージはやや薄れ、温かみが加わって来た。
 といっても第1楽章でのカデンツァや第2楽章(ラルゴ)で、ぐっとテンポを落して沈潜の極みに達するのはいつも通り。しかもカデンツァでは、敢えて言えば、いつの間にかオーケストラの存在をすら一瞬だが忘れさせてしまう━━変な言い方だが、まるでソロ・リサイタルを聴きに来ているような、本当にそんな感覚にさせてしまうほどの内田光子の演奏だったのである。
 実に、この2人の協演が実現しただけでも、素晴らしいことというべきだろう。

 演奏会の前半に、SKOが指揮者なしで演奏したのは、グリーグの組曲「ホルベアの時代から」と、R・シュトラウスの「13管楽器のための組曲」。
 前者は豊嶋泰嗣をリーダーとする日本人弦楽奏者たちの演奏で、文字通りかっちりと引き締まって隙のない、技術的にも完璧さを誇った快演だ。先日の、これも豊嶋がリーダーを務めていた水戸室内管弦楽団の演奏よりは多少柔らかい、ふくらみのある音楽だったが、それでも全員が一致して、ただ一点に集中して行く演奏には違いなかった。

 いっぽう、対照的に後者では、ジャック・ズーン(フルート)、フィリップ・トーンドゥル(オーボエ)ら外国人勢が多いSKOの管楽器グループの演奏なので、完璧に音の揃った合奏というより、それぞれがオレがオレがといった調子で自己の存在感を主張しつつ、その上でアンサンブルをつくり上げて行くというタイプの演奏となった。
 これほど、日本人奏者と外国人奏者のアンサンブルに対するスタイルの違いが明確に示された演奏会も珍しいだろう。

 前述の、小澤と内田によるコンチェルトのあとのカーテンコールは、客席総立ちのうちに、およそ10分間続いた。
 今年のセイジ・オザワ松本フェスティバルは、明後日・10日に、今日と同じプログラムがもう一度繰り返され、閉幕の運びとなる。
   別項 信濃毎日新聞
   別項 モーストリー・クラシック12月号

2017・9・4(月)大野和士指揮東京都交響楽団のラフマニノフ

      東京文化会館大ホール  7時

 東京都交響楽団が秋のシーズンの幕を開けた。

 大野和士が音楽監督に就任して以来、このオーケストラの定期公演のプログラムには、20世紀の作品が格段に増えたような気がするのだが、それはコンサート・レパートリーの開拓という意味から、大変結構なことであるに違いない。今日のラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」と「交響曲第3番」も、音楽のスタイルは19世紀ロシア音楽のそれを引きずっているとはいえ、とりあえず20世紀音楽のプログラムだ。

 協奏曲でのソリストは、今年27歳のチャン・ハオチェン。澄んで伸びやかな響きを持った演奏が素晴らしい。第1楽章の前半では何となく抑制した演奏で、慎重に出て来たという印象だったが、第3楽章などでは胸のすくようなヴィルトゥオーゾを発揮、鮮やかにエンディングを決めた。おそらく指揮者とともに、このフィナーレに頂点を置くという形で全曲の演奏を設計したのではないかと思われる。

 大野と東京都響も、このエンディングでは猛然と煽り立てるなどの洒落っ気を発揮していたが、ほぼ満席の東京文化会館大ホールでは概して音も吸われ気味で、どれほどオーケストラが瑞々しく歌おうと、全体にドライな━━乾いた音になってしまう。
 こちらの聴いた位置が2階正面最前列の席だったために猶更そのように聞こえたのだと思うが、特に「第3交響曲」では、最強奏の個所が妙に荒々しく響くなどして、作品本来の華麗なオーケストレーションとロシア的な色彩感、あるいは甘美なラフマニノフ節(!)などが薄められて聞こえるのがもどかしかった。別の席で聴けば、またはもっとよく響くホールで聴いたとしたら、この印象はかなり違ったかもしれない。

 聴いたとおりに受け取れば、この演奏は19世紀のロシア音楽の残映というよりも、20世紀のインターナショナルな、かなり鮮烈な近代の音楽というイメージでこの作品を描き出していた、というようにも感じられたのである。

 大野の指揮と都響の演奏が、極めて緻密で精緻だったことは確かだろう。例えば第1楽章の第2主題、チェロが上昇して行くあの美しい主題の2小節目後半からの、イ━嬰ハ━ロと動く個所で、スコアに指示されているイ音のテヌートを生かし、嬰ハ音のあとをちょっと切るようにしながら歌わせて行くあたりなど、随分念入りで細かいな、と感心させられる。もっとオーケストラに近い位置で聴いて見たかったなとも思う。コンサートマスターは山本友重。
   モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

2017・9・3(日)戦前日本のモダニズム~忘れられた作曲家・大澤壽人

     サントリーホール  3時

 サントリーホール恒例の「サマーフェスティバル」、今年は片山杜秀さんのプロデュースで、「日本再発見」と題するシリーズが組まれた。
 今日の演奏会の他にも、4日に「戦後 日本と雅楽」と題して武満徹と黛敏郎の作品、6日には「戦後 日本のアジア主義」と題して芥川也寸志と松村禎三の作品、10日には「戦中 日本のリアリズム」と題して尾高尚忠、山田一雄、伊福部昭、諸井三郎の作品が演奏される。
 これらの作品の中には、単独で聴く機会のあるものも含まれているが、これだけ系統立てて演奏されれば、特別な意味を持つだろう。いい企画だ。全部聴けないのが残念だが。

 今日の大澤壽人の回では、「コントラバス協奏曲」(1934年)、ピアノ協奏曲第3番「神風協奏曲」(1938年)、「交響曲第1番」(1934年)が取り上げられた。演奏は山田和樹指揮の日本フィルハーモニー交響楽団、佐野央子(Cb)、福間洸太朗(pf)。

 このうち、1938年6月24日に作曲者自身の指揮により大阪朝日会館で初演された「神風協奏曲」は、今世紀初めに蘇演されており、CD(NAXOS)でも出ている。だが、他の2曲は、今回の演奏が「世界初演」になるそうである。この作曲家を理解することへの、これが端緒となるだろうか。
 「コントラバス協奏曲」は、ボストンとパリに留学した作曲者があのクーセヴィツキ―に献呈したそうだ(生島美紀子さんのプログラム解説)が、結局演奏してもらえなかったことを思うと、心が痛む。

 「神風協奏曲」(もちろん日本の飛行機史上有名な「神風号」に因んだ作品であって、元寇でも特攻隊でもタクシーでもない)などには、ラヴェルやオネゲルなどフランスの近代音楽の影響も聞かれ、驚くべきことにメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の冒頭を先取りするようなモティーフさえ現れる。
 「第1交響曲」も、分厚い管弦楽法が駆使された、緻密さと野性的な力とを併せ有した、すこぶる重量感に富んだ大曲だ。

 これらを聴くと、日本の作曲家が、80年前にこれだけの音楽を書いていたのか、と誰もが驚嘆するだろう。これら3曲が、音響の良いホールで、山田和樹と日本フィルの丁寧な演奏に寄って聴けたことは、全く幸いなことと言わなくてはならない。
 このところ、下野竜也や山田和樹ら若い世代の指揮者により、日本の先人作曲家たちの作品が演奏される機会が、東京では少しずつ増えて来ているようである。私もいくつかを聴く機会に恵まれているが、それらは驚異的なほど新鮮に感じられる。1960年代に聴いた作品さえもが、今聴くと全く違った様相を帯びて聞こえるのだ。当然、こちらの耳と感性の問題もあると思うが、敢えて言えば、あの頃の日本のオーケストラの演奏と、あの頃のホールのアコースティックにも、責任の一端があったのではないか。いずれにせよ私たちは、もっと日本のかつての作曲家たちの「宝の山」に注意を向けるべきだろうと思う。

2017・9・1(金)サントリーホール・リニューアル記念オープニング

     サントリーホール  6時

 午後に野暮用が飛び込み、当初予定していた松竹ブロードウェイシネマの「ホリデイ・イン」のマスコミ試写会(松竹本社)に行けなかったのは痛恨の一事だが、夜のサントリーホールのリニューアル記念の演奏会には、どうやら間に合った。

 半年に及んだリニューアル工事を終えて開館したサントリーホール。
 客席の椅子の補修とクッション等の張り替え、舞台床面の全面張り替え、オルガンのオーバーホール、客席と舞台の照明の一部LED化、曰く何、曰く何・・・・確かに照明は一段と輝きを増したようだ。
 アコースティックもかなり変わったのではないかと思われるが、これは追々判るだろう。

 そして、われわれのような年代にとって有難いのは、トイレが増設拡大されたことだ。
 1階では、上手側通路の外側(今までは建物の外だった場所)に男女トイレが増設された。また2階では、男子トイレが、今まであった場所から移動されて舞台寄り側に新設され、出入り口は少し狭いけれども、中は少し便利になったか。女子トイレについても広くなったとか何とか言われているが、そちらは知らない。
 とにかく、そういうリニューアルの結果を受け、今日はオープニングの演奏会が華やかな雰囲気のうちに行なわれた、というわけである。

 コンサートは2部に分かれ、前半ではオルガン(kitaraのオルガニスト、ダヴィデ・マリアーノ)と金管アンサンブル(TKWO祝祭アンサンブル、非常に上手い)により、ガブリエリのカンツォーナをはじめ、バッハ、ヴィドール、デュリュフレ、J・シュトラウスの作品が演奏された。
 そして後半では、ジュゼッペ・サッバティーニ指揮の東京交響楽団と東京混声合唱団及びサントリーホールオペラ・アカデミーの合唱、吉田珠代、ソニア・プリーナ、ジョン・健・ヌッツォ、ルベン・アモレッティらの演奏により、ロッシーニの「ミサ・ソレムニス」が演奏された。

 なお「ミサ・ソレムニス」は、ロッシーニ自ら管弦楽に編曲した版の、ダヴィデ・ダオルミ校訂版(2013年出版)による演奏で、この版はこれが日本初演の由。
 そういえば、その2013年1月にエッティンガーと東京フィルが演奏したのは、シピオーニ校訂版(1996年)だった。いずれも、1994年にネヴィル・マリナーが録音したフィリップス盤での演奏とは、かなり違う。

 サッバティーニの指揮のせいか、特に前半の「キリエ」から「グローリア」にかけては、何とも緊張感のない演奏でやきもきさせられたが、後半はそれなりに盛り返した。特に合唱の見事さを特筆しておきたい。

2017・8・31(木)ロイヤル・オペラ・シネマシーズン「オテロ」

      東宝東和試写室  6時

 9月8日から東宝東和の配給により各地の映画館で順次上映が開始される英国ロイヤル・オペラのライヴ映像、ヨナス・カウフマン主演のヴェルディの「オテロ」の試写を観る。今年6月28日に上演されたもの。上映時間3時間26分。

 カウフマンは、オテロ役は今回が初である由。ドイツオペラでなくイタリアオペラの「ヘルデン系」の役柄であり、彼がどんな風にこなすかというのが注目の的だったが、これはなかなかに見事なもので、ドラマティックな力の中にも、非常に細かい心理描写的な歌唱と演技を繰り広げていた。
 彼はインタビューの中で、「パッパーノの指揮だからオテロをやることにした」という意味のことを語っていたけれども、事実、そのアントニオ・パッパーノが、一つ一つの音符から微細な心理の綾を読み解き表現する指揮に徹しているので、カウフマンもそのコラボレーションによりこのようなオテロ像をつくり上げることができたのだろう。

 近年のパッパーノのアプローチは、どんなオペラの指揮においても、オーケストラや歌のパートのすべてから、作曲者が意図した心理表現を再現することを主眼としているように思われる。そういう点でこの「オテロ」は、晩年のヴェルディがついに到達した見事な心理描写的オペラとして、パッパーノの意図が全面的に生きる作品と言えるだろう。

 まあ確かに、これほど念入りにじっくりと演奏された「オテロ」は、稀かもしれない。そのため、随所でテンポは猛烈に遅くなる━━オテロの苦悩が沈潜して歌われる個所や、最後の「オテロの死」などの個所では特にそうだ━━のも当然であろう。これほどテンポを落さなくたって微細な心理表現は可能だろうに、という気もするのだが、それがパッパーノの美学とあれば仕方がない。

 ともあれ、その彼の指揮と、それと同じくらいニュアンスの細かいキース・ウォーナーの演出とに、カウフマンと、ヤーゴ役のマルコ・ヴラトーニは、完璧に近い形で応えていた。
 カウフマンの演技は、ドミンゴのそれに比べ、劇的な激しさは及ばぬものの、微細な性格表現においては勝るとも劣らないものだろう。
 一方ヴラトーニャは、スキンヘッドで凄味を利かせ、眼を不気味に光らせて、幕を追うに従い凶悪な表情を増して行くのがいい。この人は2013年10月に新国立劇場の「リゴレット」の題名役で観たことがあるが、その時は演出━━クリーゲンブルク、あの「ホテルでのリゴレット」だ━━のせいか、もしくは初日だったせいか、舞台に緊迫感が乏しく、いきおい彼にも迫力がなかったが、今回は出色の出来だ。
 デズデーモナはマリア・アグレスタ。演技はまあ並み程度だが、「アヴェ・マリア」などでの歌唱は、聴かせた。

 演出のキース・ウォーナーは、このオペラの黒幕をヤーゴに設定し、全曲の幕をヤーゴの合図で開けるという手法を採り、これは面白いと思わせたが、そのわりには、そのあとはどうということはないままに終った。インタビューでウォーナーは「ヤーゴはそのあとは傍観者に変わる」と言っていたが、そりゃァちょっとウォーナーさん、方便的な謂いようじゃありませんか? 
 しかしとにかく、彼のドラマトゥルグのニュアンスの微細さは、疑うべくもないレベルにある。見慣れたオペラに新しい視点を設定しようと試みる姿勢も、当然のことだが、立派なものだ。

2017・8・28(月)読響「三大協奏曲」 岡本侑也 他

      東京オペラシティ コンサートホール  6時30分

 読売日本交響楽団の「サマーフェスティバル」の一環。日本人の好きな「三大」も今なお健在なようで、1週間ほど前には「三大交響曲」として、「未完成」「運命」「新世界」が鈴木優人の指揮により演奏された。そして今日は「三大協奏曲」として、「メンコン」「ドボコン」「チャイコのピーコン」が演奏されたというわけである。客席はほぼ満杯。

 今回は、3曲の各ソリストに注目の若手演奏家を揃えたのが、企画の特色のようだ。
 メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」を弾いた韓国の女性奏者キム・ボムソリは28歳、仙台国際音楽コンクール入賞(2010年)以来、ミュンヘン、ヴィエニャフスキ、モントリオールの各国際コンクールで2位入賞するという活躍ぶり。
 またドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」を弾いた岡本侑也は23歳、この6月にエリザーベト王妃国際コンクール2位に入賞し、俄然人気が沸騰しはじめた注目のソリストである。実のところ私も、今日のお目当ては彼の演奏にあったのだが。
 そしてチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を弾いたサハリン生れのダニール・ハリトーノフは弱冠19歳というフレッシュな存在である。
 指揮は海老原光、コンサートマスターは長原幸太。

 期待は大きかったのだが、今日もまたオヤオヤという感が否めなかった。ボムソリと岡本侑也の演奏が、妙に慎重で、几帳面で、躍動感にも気宇にも乏しく、面白味がないのである。2人とも、本来は、こんなはずではないだろう。一つには、指揮者のテンポとエスプレッシーヴォが平板で、ソリストとともに燃え上がろうとする気魄がほとんど感じられなかったことも影響しているのではないか。
 その中にあって、19歳のハリトーノフだけは、よく動く指で若者らしく「大暴れ」して気を吐いてみせたが、これもオーケストラとの阿吽の呼吸など全く無く、結局チグハグな雰囲気のままに終始した。

 結局、折角の若武者3人の力量を発揮させるには、今日の演奏会は甚だ不満足なものだったと言わざるを得まい。漏れ聞くところによれば、リハーサルの時間がなく、1回ずつ「合わせた」だけだったとか。これでは、ベストの演奏は無理かと思われる。

2017・8・27(日)びわ湖ホール制作 サリヴァン:「ミカド」

      新国立劇場中劇場  2時

 びわ湖ホールが制作、8月5・6日に上演したサリヴァンのオペラ「ミカド THE MIKADO」が、新国立劇場の「地域招聘オペラ公演」として、昨日と今日、東京でも上演された。
 園田隆一郎指揮の日本センチュリー交響楽団がピットに入り、松森治(ミカド)、二塚直紀(ナンキプー)、迎肇聰(ココ)、竹内直紀(ブーバー)、飯島幸子(ヤムヤム)、吉川秋穗(カティーシャ)他が出演。演出が中村敬一、舞台美術が増田寿子。中村敬一訳詞による日本語歌唱で、英語と日本語の字幕がついた。

 これは、19世紀末に英国で作曲された、日本を舞台にした超荒唐無稽の物語のオペラを、日本人のキャストとスタッフが「バタ臭い」荒唐無稽なスタイルで制作上演したもの、とでも言うか。
 滅多に上演されないオペラをよくやってくれた、びわ湖ホールらしい意欲的な、貴重な企画だった━━と申し上げようと思って観に行ったのだが、期待は悉く打ち砕かれ、何とも落胆して席を立った、という結果となった。

 これを観ていて、私はまるで、昔々接した1950年代の頃の上演にタイム・スリップしたような錯覚に陥ってしまったのである。
 もともと軽快なオペラのはずなのに、演奏のリズムが重くて弾まないし、舞台の演技もセリフも、軽快なリズム感とスピーディな進行に欠ける。演出も、半世紀前のそれを思い出させるような野暮ったいスタイルで、失礼ながら、古色蒼然という印象なのである。もう少し、現代のオペラ演出らしい新機軸が考えられなかったか? 

 ダンスも、もっと音楽に合わせたものだって出来るだろう。1982年のカナダのストラトフォード・フェスティバル上演の映像があるが、あそこでは扇子を開いたり閉じたりするそのリズムさえ、音楽と見事にぴったり合わせていたではないか。
 それにまた、流行の品のないギャグを、TVのバラエティさながら、けたたましい声で入れて笑わせようとするなど、陳腐極まるアイディアだ。喜歌劇なら、もっとピリリと皮肉の利いた、洒落た風刺を散りばめるべきではないのか。

 歌手たちは、「びわ湖ホール4大テナー」のうちの2人、竹内直紀と二塚直紀を中心に、健闘していた。
 しかしその一方、女声歌手たちが━━特にヤムヤム役の歌手がそうだったが━━セリフを、相変わらず声を頭のてっぺんから出すような甲高い、歌うようなファルセットで喋る旧態依然のスタイルを続けていることには、全くなさけなくなった。もともと日本のオペラ歌手、特に女性歌手たちには昔からこういう癖が絶えないのだが、今の時代、もういい加減に普通の喋り方に戻して、台詞にも劇的な演劇的表現を生かすようにしたらどうかと思うのだけれど、音楽学校の教え方のせいなのか、こればかりはどうしても修正できないらしい。かつて日本のある若い演出家が、それに困り果て、嘆き、ついにサジを投げてしまったのを知っている。

 そんなことをあれこれ含め、結局、日本の(この種の)オペラ上演のスタイルは、60年前も今も、基本的には全然進歩していないのだな、という感を抱かされてしまったのだ・・・・。
 進歩したものがあるとすれば、背景に浅草雷門から清水寺から、はてはグリコから串カツまで、脈絡なしに投映できるプロジェクション・マッピングの活用くらいかもしれない。
      別項 モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

2017・8・26(土)セイジ・オザワ松本フェスティバル
「ふれあいコンサートⅡ」

    ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール) 4時

 JR松本駅から大糸線で2駅目、島内駅の傍にあるザ・ハーモニーホール。木立に囲まれた美しい環境の中にある落ち着いたホールだ。
 ここで行なわれる室内楽プログラム「ふれあいコンサート」は今年も3回あるが、どれも興味深いラインナップで、考えようによっては「オーケストラ コンサート」よりも面白いと言えるかもしれない。

 今日は前半がジャック・ズーン(フルート)の編曲による、彼が中心になった演奏で3曲。バッハの「フルート・ソナタ ハ長調BWV.1033」(チェロはイズー・シュア、ハープ吉野直子)、ラフマニノフの「悲しみの三重奏曲第1番」及びドヴォルジャークの「ピアノ三重奏曲第3番」(チェロはイズー・シェア、ピアノ江口玲)。後半は、ヴェリタス弦楽四重奏団が演奏するシューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」━━というプログラムだった。

 素晴らしい音響で有名なこのホールで聴く室内楽の演奏会は、まさに至福のひとときといえるだろう。フルート、ハープ、チェロがふくよかな音色で開始するバッハの作品など、これぞ「高原の音楽会」という雰囲気を感じさせて、ここまで聴きに来た甲斐があったという気分にさせてくれる。
 ジャック・ズーンも、自分が編曲したのだから当然だろうが、いかにも軽々と、気持よさそうに吹きまくっていた。特にドヴォルジャークのトリオでの演奏は、3人の感興が盛り上がっていたようで、圧巻だった。

 「死と乙女」は、ヴェリタス弦楽四重奏団という名の、サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーでもある4人の演奏が、何しろおそろしく巧い。
 ヴァイオリンが岩崎潤(ナッシュビル響コンマス)と島田真千子(セントラル愛知響ソロ・コンマス)、ヴィオラが小倉幸子(フィルハーモニア管首席)、工藤すみれ(ニューヨーク・フィル所属)という顔ぶれで、2015年の結成とのことである。
 もちろん常設のカルテットではないわけだが、しかしその見事なテクニックによる完璧な音の均衡は比類ない。音色は明るく洗練され、切れ味のよいリズム感と瑞々しい歌に富み、その弛緩のない推進性は驚異的である。

 ただ、その鮮やかな躍動感に比して、陰翳が著しく不足しているのも、また事実と言わなくてはなるまい。作品に籠められているはずの、デモーニッシュな要素は、ほとんど聴き取れない。それよりも、若々しいエネルギーと、スピーディなスポーツ的快感が発揮された演奏である。まあこれは、彼らの若さと、常設でない四重奏団ゆえの、止むを得ざる特徴と言うべきだろう。だが、そういう快活さを愉しむ聴衆も多いのは確かだ。客席は沸きに沸いていた。
 6時20分終演。

 このホールは、これまでタクシーとか、自分のクルマとか、知人のクルマで行ってばかりいた。今回、初めて大糸線(単線)に乗って行ってみたのだが、午後2時台や3時台は1時間に1本という過疎運行なので、コンサートに行くには注意が必要だ。帰りの松本行きは、午後6時台だけは幸いにも3本運転されている。但し、もし6時51分のに乗り損なったら、次は7時台の遅い時間の電車しかなく、午後8時松本発の最終の「スーパーあずさ」に乗るには甚だ危ないという状況になってしまう。
 それにしても、島内駅から見た夕暮れの北アルプスの山々のシルエットとたなびく白い雲、残照に赤く輝く空の雲の美しさといったら、何に喩えたらいいか。いい室内楽と、素晴らしい山々の眺めと、爽やかな大気。これ以上、何を望むことがあろう。
      →別項 モーストリー・クラシック12月号    
      →別項 信濃毎日新聞

2017・8・25(金)セイジ・オザワ松本フェスティバル
「オーケストラコンサートB」

      キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 7時

 松本の人たちは蒸し暑いと言っているけれど、それでも30度をずっと下回る。東京の36度(実際はもっとあるだろう)の焦熱に比べればどれだけマシか知れぬ。

 今年の「オーケストラコンサート」のうち、「A」は18日と20日に開催され、ファビオ・ルイージの指揮で、マーラーの「第9交響曲」が演奏されたはずだが、私はバイロイトに行っていたので残念ながら聴けなかった。大いに盛り上がったという話である。
 今日は「B」の初日で、最初に小澤征爾がベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番だけを指揮し、そのあとはナタリー・シュトゥッツマンが指揮して、マーラーの歌曲数曲(ソプラノ・ソロはリディア・トイシャー)とドヴォルジャークの「第7交響曲」を指揮するというプログラムだった。渋い。

 小澤の「レオノーレ」は、今回はかなり重厚な演奏になった。サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)は、矢部達哉がコンサートマスターを務める時には、以前ならすっきりと贅肉を落した演奏になっていたものだ(例えば「英雄交響曲」など)が、今ではもうどっしりした音を響かせるようになった。コーダの終り近くでのフォルテ3つの個所など、実に豪壮な構築である。
 その一方、序奏のあとで、主部のアレグロに入った直後のトランペットを中心としたクレッシェンドには、小澤が若い頃に聴かせたあの勢いの良さが蘇っていた。いずれにせよ、この演奏では、彼の健在ぶりが感じられたのは確かである。

 彼の指揮がこれ1曲だけとは残念。
 カーテンコールでは、久しぶりに彼が袖から走って出て来る姿を見た。だが指揮台の傍に、おそらくテレビ収録か何かのケーブルが散在していたのだろうか、彼が何度かそれに足を引っかけ、躓きそうになったのにはヒヤリとさせられた。とすれば、彼の体調や動き方を考慮に入れなかった収録スタッフのミスだろう。
 それに、どこの放送局か知らぬが、この曲のあとで舞台セット替えをする際に、オケや聴衆を待たせたままマイクのセッティングに延々と時間をかけていたのは、放送局の風上にも置けぬ仕事ぶりだ。昔、私どもがオーケストラ演奏会の収録をしていた頃には、楽器の配置転換と同じペースでマイクのセッティングをやったものである(そうしなければ、あの伝説的なステマネの「マーちゃん」こと宮崎隆男氏から怒声を浴びせられただろう)。

 後半はナタリー・シュトゥッツマンの指揮。マーラーの歌曲集は、「少年の魔法の角笛」から「ラインの伝説」「浮き世の生活」「天国の生活」(第4交響曲の終楽章)、「この歌を作ったのはだれ」「トランペットが美しく鳴り響くところ」「不幸な時の慰め」の6曲と、アンコールとして「リュッケルトの歌曲集」から「美しさのゆえに愛して下さるのなら」。
 リディア・トイシャーの声は初々しく可憐で美しかったが、こちらの席が1階19列という上手隅に近い位置だったせいか、オケにマスクされることが多く、もっと指揮台の前に出て歌って欲しかったところだ。というより、指揮者がもう少し歌をよく響かせるようにオーケストラのバランスを調整するべきだったのではなかろうか。

 ドヴォルジャークの「7番」は、かなり豪壮に鳴っていたけれども、それだけでは何にもならない。その頂点と頂点との間の沈潜した部分に、次なる昂揚への期待を抱かせるような緊張感が不可欠なのであり、そうでなければ曲の形式感が曖昧になってしまう。
 とはいえ、さすがに歌手らしく、第2楽章のようなカンタービレの多い個所では、ここぞとばかり大きな表情でオーケストラを歌わせていた。
 9時15分演奏終了。
      →別項 モーストリー・クラシック12月号
      →別項 信濃毎日新聞

2017・8・24(木)「」の会コンサート「神々の黄昏」ハイライト

      北とぴあ つつじホール  7時

 時差ボケと気温差ボケに堪えつつ、日本のワーグナーを聴きに出かける。

 「」の会━━の「わ」とは、ワーグナーの「ワ」、「指環」の「環」、メンバーの「和」。日本のワーグナー上演で活躍している歌手たちが集まり、ワーグナーの作品を「手軽な形で紹介」するという狙いのコンサート。これが第4回になる。
 今日は「神々の黄昏」の抜粋が演奏された。選曲されたのは、前半に、序幕の「二重唱」から第1幕の「ギービヒ家の場」までと、後半に「ジークフリートの回想」から全幕大詰めまで。

 出演は、池田香織(ブリュンヒルデ)、片寄純也(ジークフリート)、大塚博章(ハーゲン)、友清崇(グンター)、小林厚子(グートルーネ)という顔ぶれに、ギービヒ家の家臣役として宮之原良平、寺西一真、櫻井航、松澤佑海。ピアノが木下志寿子。会の代表でもある城谷正博が流石の暗譜指揮だった━━彼は「ジークフリートのラインへの旅」と「ジークフリートの葬送行進曲」の部分で、木下と4手でピアノをも弾いていた。

 木下志寿子のピアノはいつも雄弁で、この種の演奏会には欠かせなくなった存在だろう。今日も、例えばジークフリート暗殺の個所で、最強音とパウゼが交替するあたりの緊迫感など、見事なものであった。
 ただ、オペラのオーケストラ・パートのピアノ編曲版の演奏でありがちなことだが、内声部を含めたすべての音符の動きが均等な強さで弾かれてしまい、曲が雑然とした感じになってしまうことがある(例えば「ブリュンヒルデの自己犠牲」の序奏個所など)。オーケストラの場合には、主力となるモティーフが常に浮き出して聞こえるだろう。そのイメージで弾いてもらえれば、と愚考するのだが如何?

 なかなか大がかりな抜粋上演で、歌手たちもいつも通り、本格的な歌唱と力演を示して、聴き応えがあった。特に「ブリュンヒルデの自己犠牲」を歌った池田香織の力と風格に富んだ明晰な表現は傑出していた。昨年、東京二期会公演でのイゾルデで聴衆の舌を巻かせた彼女は、いよいよ日本の代表的なワーグナー歌手に成長して来ているようである。

 この「」の会公演で、以前使われたHAKUJU HALLや、すみだトリフォニーの小ホールは残響が長かったので、耳がビリビリするほど声が響いていたものだったが、今日のつつじホールは、意外に声が客席に響いて来ない。そのためか、今日の歌手陣、歌唱全体に空間的拡がりと色合いが不足気味になり、しかも声のちょっとした粗い個所ももろに露呈されてしまっていたのは、残念であった。

 簡単な演技も加えられていた。が、セミステージというものは、それを本格的な舞台上演に近づけようとすればするほど━━つまりあまり演技を具体的にしたり、小道具を使い過ぎたりすると逆に中途半端な舞台という感が強くなり、詩情を損なうことになりかねないものだ。そこそこシンプルに、抽象的に、イメージをかき立てる程度にとどめておいた方が無難であろう。最後のジークフリートの火葬場面などでは、特にそういう感を強くさせた。

 字幕は吉田真。簡素で解り易い。彼自身も最後に黒い帽子と黒いコートを着け、ヴォータン役として登場、クプファーの演出ばりに折れた槍を持って出て来て、それをジークフリートの火葬壇に投げ込むというシーンを演じた。
 ヴァルハルにいるはずのヴォータンがこんな場所に出て来るというのはチト不思議だが、まあそれはよかろう。彼は長身だし、舞台姿も結構サマになっていたが、しかし何となく、ヴォータンというよりは「魔弾の射手」に出て来る悪魔ザミエルみたいに見えて━━。
      →別項 音楽の友10月号 Concert Reviews

2017・8・21(月)バイロイト音楽祭(終)ワーグナー:「パルジファル」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 昨年プレミエされたプロダクション。ウーヴェ・エリック・ラウフェンベルクの演出、ハルトムート・ヘンヒェンの指揮。

 ヘンヒェンの評判は、オーケストラにはともかく、大方にはすこぶるよろしいようだ。たしかに誇張なく、しかもオーケストラを自然体に歌わせ、この曲の美しさを余すところなく出している。その意味で、これほど肩の力を入れずに聴ける「パルジファル」の演奏は、そう多くないと言えるだろう。

 だが彼の指揮でたった一つ、それも極めて大きな不満は、この作品に不可欠な、デモーニッシュな雰囲気がほとんど感じられない、ということだ。
 たとえば第1幕の場面転換の音楽、第2幕の序奏、第3幕の場面転換の音楽、あるいは全曲終了の1分半ほど前に突如出現する謎めいた暗い和音━━クリングゾルの影━━などといった個所は、真摯なワグネリアンだったら、その魔性的な音楽に、ぞっとさせられるような感覚を抑えきれないのではないか? このヘンヒェンの指揮は、そういう個所をさえ、いとも無造作に、何気ない調子で通り過ぎてしまうのである。

 しかし、そうではあっても、このバイロイトのオーケストラの素晴らしさは唯一無二のものだ。そして一昨日の「マイスタージンガー」の項では書き落してしまったが、バイロイトの合唱(合唱指揮はエバーハルト・フリードリヒ)の見事さは比類ない。それらをこのバイロイトの独特のアコースティックを持った劇場で聴くだけでも、幸せと言わなければならない。今日も昨日と同様、前から3列目で聴いたが、これはまさに至福の音響であった!

 一方、ラウフェンベルクの演出も、結構評判がいいようだ。が、本当にその賛辞に相応しいものか? 
 第1幕での「聖杯守護城の森」の場面は、今回は小さなドーム状の建物の中。銃を構えた現代の兵士たちが駐屯し、クンドリ(エレーナ・パンクラトーヴァ)がイスラムの女性の服装をしている。そういう光景を見れば、この演出に、一つの方向性が予感できるというものだろう。

 だが、━━それが実際には、その後どうなるか。第2幕では魔人クリングゾル(デレク・ウェルトン)が十字架を蒐集して満悦なのはいいとしても、彼の魔城は、アラビアン・ナイト風の半裸の美女がひしめく、ハーレムの浴場である。その美女たちが、迷彩色の軍服を着て押し入って来たパルジファル(アンドレアス・シャーガー)を囲み、服を脱がせて風呂に入れ、弄ぶ。
 最後は、彼がクリングゾルから十字架を奪い取る(これがのちに聖槍になる)と同時にクリングゾルは打ち倒され、背景では多くの十字架が落下し、幕が締まる。━━と、それだけのことである。

 これでは、結局西洋とアラブ社会との関係を、やはり単に対立状態として━━それもかなり低次元のレベルで、もしくは昔ながらのお伽噺のような次元で━━描いただけの話ではないのか。まして、イスラム思想の問題や、テロリズムの問題をこのストーリーに適用するには、この程度の演出では、遥かに及ぶまい。ラウフェンベルクの狙いをあれこれ拡大解釈して絶賛するのはそれぞれの評者の勝手だが、少なくとも私には、正確には掴みきれなかった。

 それよりも第1幕で、グルネマンツ(ゲオルク・ツェッペンフェルト)が「ここでは時間が空間になるのだ」とパルジファルに語り、場面転換の音楽になるところで投映される大規模な映像の方が、より多くを語っているように感じられた。
 ここでは中近東のある場所━━しかとは判らなかったが、トルコとアラブ諸国との国境に近い場所か?━━にある建物からカメラが一気に宇宙の高さまで引いて行き、太陽系、大宇宙を横断した挙句、再び地球の同一の場所へ戻って来る。まるで、この大宇宙に比べれば、このような宗教的な対立などにどれほどの意味があるのだ、と問いかけるような効果を生み出しているように思われる。

 なお第1幕では、ティトゥレル老王(カール=ハインツ・レーナー)が現実の姿で現われ、聖杯の儀式に参加するという手法が採られる。
 アムフォルタス王(ライアン・マッキンニー)はキリストに擬せられるが、これはまた随分格上げされたものである。聖杯の儀式も、オリジナルの台本にあるような、聖杯を掲げて祈るスタイルではない。キリストの姿に模されたアムフォルタスが恐怖に震えつつナイフで身体を傷つけられ、血を流し、その流れる血を一同が盃に受けて飲むという儀式だ(互いに血を呑みあうという儀式は多いらしいが、私はこういうのを視ると怖気が立つ)。

 そのアムフォルタスを、第2幕のクリングゾルの城にも登場させるという発想は、今日の演出の中でも、最も興味深い例のひとつだろう。もともとアムフォルタスは、クンドリの誘惑に陥った隙にクリングゾルに襲われ、重傷を負わされた不注意な王である━━ということは、事実上クリングゾルの囚人に等しいからだ。
 アムフォルタスは、最初は拘束衣のようなものを着せられ悄然としているが、そのあとの場面では、彼は幽鬼の如く動き回り、クンドリとの情事を舞台上で現実に視覚化し再現する。これが、パルジファルがクンドリの口づけを受けた瞬間に、悲劇の全てを知り、「アムフォルタス!」と絶叫する場面の説明となっていることは、言うまでもない。
 こういう、説明過剰とも取れる演出は必ずしも珍しくはないが、発想としては興味深い。

 第3幕は、長い月日が過ぎたあとの物語だから、グルネマンツが老齢化するのは解るが、クンドリ―まで穏やかな、しかも認知症的な雰囲気のおばあさんになってしまうとは。
 「聖金曜日の音楽」の場面では、建物の向こう側に明るい陽光が拡がり、かつ強い雨が降り、その中で美しい少女たちが水浴を繰り広げる。それはいかにも、束の間の平和なひとときであり、この「聖金曜日の音楽」がいかにもその優しい光景に合致している性格を秘めていたものだったかを、改めて気づかされる思いだった。
 クンドリもその雨を浴びるのだが、そのあとの彼女は皆に愛され労わられ、車椅子に乗せられて、すっかり穏やかな表情になってしまう。こうした「救済」は、彼女に相応しいものだろうか? 
 いずれにせよ、それらの光景は美しくはあるものの、それにより観客の注意力が、この有名な音楽から逸らされかねないとはいえまい。

 歌手の中では、何といっても、ツェッペンフェルトが抜群の存在だった。この人の声はグルネマンツにしては若々し過ぎる気もするが、胸のすくような歌唱を聴かせてくれる。特に第1幕と第3幕の各前半では、底力のある、豊かで明晰な表現で、演奏全体を支配していた感がある。
 シャーガーは、ベルリンでは既に「パルジファル」を歌っているものの、バイロイトでは今年が初めてということで注目されていたが、なかなか良い。冒頭の登場シーンは、「全くその場に相応しくない異質な青年」であり、かつ所謂「ワーグナーのオペラっぽくない親しみやすい青年」という雰囲気があって、しかも「救済者」となるべき最終場面にいたっても全然「神々しくならない」感があったが、これはこれで一つの表現なのだろう(DVDで観る限りはベルリンでの方がドラマティックだった)。歌唱もやや粗いところがあるにしても、初年度にしてはよくやったと称賛されよう。特に第2幕、ドラマの大転機となる彼の「アムフォルタス!」という絶叫の場面は、迫力満点であった。今後が楽しみである。

 10時演奏終了、10時10分カーテンコール終了。外はかなり涼しく、快適な気候だ。これで、今年のバイロイト旅行を終る。
 昔に比べると、日本人客がかなり減っているようである。日本レストラン「誠」の女将さんに言わせると、「良い上演をやっていないと、皆さんいらっしゃらないですよね」とのこと。「指環」のことを言っていると思われるが、女将さんにそう批判されるようでは、バイロイトも立つ瀬があるまい。

2017・8・20(日)バイロイト音楽祭(2)
ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」

      バイロイト祝祭劇場  4時

 2015年にプレミエされたもので、今年が3度目の上演になるが、私はナマで観るのは今回が最初。カタリーナ・ワーグナーが演出、フランク・フィリップ・シュレスマンとマティアス・リッペルトが舞台装置を担当したプロダクションで、指揮は引き続きクリスティアン・ティーレマンである。

 ティーレマンの指揮する「トリスタン」を聴いたのは久しぶりだが、まさに嵐のような演奏だ。それは激動の「トリスタン」とでもいうべく、テンポの動かし方も大きく、クライマックスで煽りに煽りつつ盛り上げて行く呼吸の見事さも、いかにもティーレマンらしい。
 第1幕の終結近く、トリスタンとイゾルデの感情が激し、いよいよ「媚薬」を飲もうという(実際には飲まない)頂点に向けての音楽の昂揚感は息詰まるほどだ。
 第2幕の「愛の二重唱」の頂点に向けての追い上げも凄まじい。オーケストラも2人の歌手も、怒涛の勢いで突き進んで行く。熱狂的で忘我的なエクスタシーの境地とは、まさにこういうものを謂うのではないか。第3幕で、トリスタンがイゾルデの幻を見つつ忘我の陶酔に浸る場面の、2つの高潮部分でも同じことが言えよう。

 今回も、ワーグナーの音楽の魔性的な物凄さを改めて感じる次第となった。そしてそのティーレマンの指揮のもと、奔放自在に、荒波のように流動するバイロイトのオーケストラ(これがまた凄い)の上に乗る歌唱のパートは、従ってオーケストラとの「縦の線」など合わないことも多いが、そんなことは些末な問題にしか思えないほど、圧倒的な演奏なのであった。

 カタリーナ・ワーグナーの演出は、バイロイトではこれが2作目。だが言っちゃ何だが、前作「マイスタージンガー」に比較すると、どうも期待したほどの冴えが感じられない。どこがどうの、とまでは言い難いが、単なる印象として、この程度の舞台だったら、「聖地バイロイト」でなくても、どこの歌劇場でも見られるじゃないか、と言いたくなる気もするのである━━。

 とにかく、覚えを書いておこう。
 第1幕は、威圧感を与える金属製の、何層にも及ぶ巨大な櫓のようなものが舞台一杯に聳える。主人公たちを囲む、無機的で冷酷で、閉塞感に満ちた世界の象徴か。
 トリスタン(シュテファン・グールド)、イゾルデ(ペトラ・ラング)、従者クルヴェナル(イアン・パターソン)、侍女ブランゲーネ(クリスタ・マイヤー)がこの櫓内の離れた場所に点在しているが、多くの階段があるにもかかわらず、目的の人物の傍にはなかなか行けぬという迷路のような仕組みだ。これは実に納得の行く設定である。

 この第1幕での演出のポイントを挙げるとすれば、ひとつは、クルヴェナルとブランゲーネの2人に需要な役割を与えたことだろう。2人は、主人たちが接近して「間違いを犯す」ことを懸命に押しとどめようと、無益な努力を重ねる。結局それが失敗し、今や総てが取り返しのつかぬ状態に至った時、コーンウォール港に着いたことを知らせるクルヴェナルは、忠実な部下の精神を取り戻し、敬愛する主人に直立不動で敬礼を送る。その模様は、ちょっとしたことだが印象深いものであった。

 もう一つは、トリスタンとイゾルデが「媚薬」を飲まず、それをこぼすように捨ててしまうことだ。「媚薬」は単なる引き金としての重要性に過ぎず、それよりも重要なのは「薬」を飲んで死のうとする2人の決意なのだ━━という解釈は古来から在るところであり、この演出もその解釈の一環であるともいえる。
 とはいえ、この場面での演出は、どちらかといえば、その真の劇的な要素はむしろ音楽そのものに委ねられていると言っているかのような印象を受けたのだが。

 第2幕は、夏の庭ではなく、暗黒の牢獄か、収容所といった雰囲気の場面。出口なしの世界に幽閉されたトリスタン、イゾルデ、クルヴェナル、ブランゲーネ。4人が終始同一平面上にいるという第2幕の設定は珍しいだろう。後者の2人は、閉塞感に苛々して脱出を図ろうと暴れ回るが、失敗する。「愛の二重唱」は、監視のサーチライトを避けて2人が作った大きな布製のテントの中で歌われる。

 現れたマルケ王(ルネ・パーペ)は、かなり暴力的な性格を示す。部下のメロート(ライムント・ノルテ)もまた超サディスト的な行動でトリスタンとイゾルデに対する。
 最後にマルケはイゾルデを強引に引っ張って去り、その際にナイフをメロートに渡し、「トリスタンを殺したければ殺すがいい」と言わんばかりの投げやりな表情。メロートは突然押し付けられた役割に困惑の体で、トリスタンの「この男は私の友人だった」の言葉に良心をかき立てられた様子だったが、続くトリスタンの挑発的な言葉を聞き、ついに決心して彼を背後から刺す。ふつうはあまり注目されないメロートという人物の心理の動きを、こんなに微細に表現した演出としては、これは珍しく、面白いものであった。

 とはいえ、この第2幕全体の演出となると、ちょっと理解しがたいところもある。トリスタンは、何故、最初から囚人扱いにされているのか。不倫がバレたからということか? こういう、ややこしくて圧迫感のある舞台を見ると、やはりこの「トリスタン」は、演奏会形式で聴いた方がより感動するな、と思ってしまうのである。

 第3幕は全て暗黒の舞台で展開する。トリスタンの幻覚に応じ、暗黒の舞台のあちこちにイゾルデの幻が出現しては消え、という手法は印象的だ。といって、この場面が全てトリスタンの幻覚として扱われるわけではない。
 最後の場面には、マルケ王の一行も登場し、クルヴェナルはメロートを殺害するが、彼も、彼の仲間たちも、全て王軍に斃される。あたりは死屍累々だ。
 イゾルデはトリスタンの亡骸を抱いて「愛の死」を歌うが、そのあとはまたマルケ王に腕をつかまれ、今度はさほどの抵抗の様子もなく、まるで葬儀から退席する人のように姿を消して行く。その場に残り、トリスタンの遺骸をいたましげに見守るただひとりの人は、ブランゲーネだった━━。

 結局、今日の「トリスタン」は、ティーレマンとオーケストラ、それに歌手たちがすべてである。そして、ワーグナーの音楽の抗しがたい魔力に、またもや打ちのめされる結果となったのが正直なところだ。
 9時55分演奏終了、10時10分頃カーテンコール終了。

2017・8・19(土)バイロイト音楽祭(1)
ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

      バイロイト祝祭劇場  4時

 4年ぶりのバイロイト。
 カストルフ演出の「指環」は2013年のプレミエで観て、2度と見る気はしないので(かなり改良されたという話だが、どうせ焼け石に水だろう)今年はそれ以降に新制作された「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「トリスタンとイゾルデ」「パルジファル」の3作のみを観る。

 今日は、今年の新制作、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。指揮はフィリップ・ヨルダン(ジョルダン)だが、それよりもバリー・コスキーの演出が評判を呼んでいた。
 確かにこれは、最近の傑作かもしれぬ。また、大きな読み替えをしているにもかかわらず、近年のドイツでの流行の所謂「自虐的」な演出を採らず、むしろ「マイスタージンガー/ドイツの芸術」を正面から弁護したものという意味で、画期的なものかもしれなかった。

●ワーグナー一家の劇中劇からドラマ本編へ
 前奏曲の第1音と同時にドラマが始まるのだが、場面は何と、1875年のバイロイトのヴァーンフリート━━つまりワーグナー家の居間である。そこに集うのは、ワーグナー自身と、妻コージマ、岳父リスト、ワーグナーの信奉者でユダヤ人指揮者のヘルマン・レヴィたちだ。
 「ワーグナー本人」は、いかにもワーグナーそのもののイメージである。大きなベレー帽をかぶり、せかせかと慌ただしく動き回り、愛想のいい態度で一同の中心的存在となっている。その他の人々も、すべて歴史に見る通りの実際のイメージそっくりである。

 この実在した人物たちが、それぞれこのドラマの主人公たちを、ワーグナーの采配により劇中劇として演じつつ、それがいつしか本物の「マイスタージンガー」のドラマになって行くという設定が、今回のバリー・コスキーのおおわざである。
 「ワーグナー本人」はハンス・ザックス親方(ミヒャエル・フォレ)となり、「コージマ」はもちろんエファ(アンネ・シュヴァンネヴィルムス)となり、「リスト」は、彼女の父であるファイト・ポーグナー親方(ギュンター・グロイスベック)となる。
 そして、ポーグナーが招いた若い客ヴァルター(クラウス・フローリアン・フォークト)が、もちろん若き日のワーグナー自身となり、それは特に第3幕でベレー帽をかぶったミニ・ワーグナーの扮装として仕上げられる。

●ユダヤ人問題
 だが何よりも最大のポイントは、ユダヤ人指揮者ヘルマン・レヴィが、書記ベックメッサー(ヨハネス・マルティン・クレンツル)に変わることだ。
 もしこのベックメッサーが、あの音楽評論家ハンスリックという設定だったら、アイディアも平凡で底が知れる、ということになるだろう。だが、そうしなかったところが、バリー・コスキーの巧さだろう。
 ユダヤ人たるレヴィは、第1幕冒頭の祈りにも加わらないといった具合に、悉くキリスト教徒のワーグナー家の人々とは異なる行動をとるが、たった一つ、ワーグナー相手には、卑屈なほど従順な態度を示す。これはワーグナーの伝記が示す通りである。

 ベックメッサーという役柄は、もともと「ユダヤ人」的性格を秘めているといわれる。
 ユダヤ人の描写というのは、ヒステリックな、キーキーいう声でまくしたてるのがその典型的な例で、たとえばR・シュトラウスの「サロメ」に出て来る騒々しいユダヤ人たち、あるいは「展覧会の絵」の「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」に出て来るユダヤ人などにその特徴が聴かれるのは周知の通りだ。
 そしてこのベックメッサーにも、そうした性格がある。ユダヤ人嫌いのワーグナーが意図的にそうしたのだ、というのは、公然たる秘密である。だが、それをそのまま、ここまではっきりと出した演出は珍しいだろう。

 しかも第2幕最後では、ベックメッサーは群衆から「ユダヤ人的な顔」のマスクをかぶせられる。うずくまった彼の頭上に、舞台上部からぶら下げられた巨大な物体が風船のように広がると、それがどぎつい「ユダヤ人的な顔」となり、かつその頭の上には「ダビデの星」のデザインが施されているという念の入った設定だ。
 このユダヤ人ベックメッサーが、第3幕で復権されるのかと思いきや、オリジナル台本通りに一同から嘲笑され、挙句の果てはエファの前に見苦しく土下座して哀願するという醜態を演じ、ついに全員からその場を追い出される。「ユダヤ人」ベックメッサーは、結局ここでも罵られ、疎外されてしまうのだ。

 これは、どう解釈されるべきか? コスキーがかりに反ユダヤ主義を皮肉っているとしても、最後までそれを否定せずに終らせるという演出なのだから、もはや単なる皮肉には止まらないだろう。もちろん、反ユダヤ主義を断罪しているのとは、全く違う。
 そもそもバリー・コスキー自身がユダヤ系の人なのだから、その方がよほど思い切った皮肉とでも言わなければなるまい。

●ワーグナーへの弁護
 その一方、この演出では、ワーグナーへの弁護は徹底して行われている。
 第3幕の舞台装置は、ニュルンベルク裁判の法廷の容を採ったつくりである。ここでザックスが独りで「迷いだ、すべて迷いだ」を歌うのは理に適っていると思われるが、ヴァルターが自作の詩を披露したり、ダーヴィト(ダニエル・ベーレ)の徒弟昇格の儀式が行われたり、マクダレーネ(ヴィープケ・レームクール)やエファら5人が集うのは、少し不自然かもしれない。これから法廷で弁明を行う立場にあるザックスの遺言━━とでも解釈すればそれはそれでいいのかもしれないが。

 だが、その「法廷」になだれ込むのは、陽気な市民たちや、幟をおし立てた徒弟たちや親方たちである。「ニュルンベルク裁判」は、完全におちょくられたようである。
 この歌合戦の場は、非常にコミカルなタッチで賑やかに進められる。ホモの親方にしがみつかれたヴァルターが嫌な顔をするくだりでは、客席からも爆笑が起こった。この、若い時期のワーグナーともいうべきヴァルターが、「朝はばら色の」を自作の歌であると「証言」し、一同が歓呼して享けるあたりは、オリジナル通りだ。

 しかし、そのヴァルターが「親方昇格」を拒否した瞬間に、親方たちがヴァルターともども舞台から姿を消すあたりから、コスキー独自の解釈が始まる。
 つまり、ザックスが一同から離反されるのは、あの「大演説」にこめられた政治的な理由からではなく、ヴァルターの扱いに関する仕切りの悪さを非難されてのこと、という設定なのである。

 誰もいなくなった舞台に独り立ち、マイスタージンガーの「ドイツ芸術」の価値を見直すよう、観客に向かって必死に訴えるザックスの姿は、孤独で悲壮感にあふれている。オリジナルの台本におけるような「高い目線からの温かいお説教」ではないので、なおさら印象深いものになる。
 だが彼は、ザックスであると同時に、ワーグナーその人でもあった。とすれば、彼は決して孤独ではなく、勝利者であるはずなのだ。
 ザックスの演説が終りかけると、舞台奥から小さなステージに乗ったオーケストラと合唱団が滑り出して来て、ザックス(ワーグナー)は、懸命に、しかも誇り高くそれを指揮する。それらがまた奥へ移動して行き、部屋の壁が幕代わりに降りて、━━それで全曲が終る。

 こうして、ワーグナーとザックスは、力強く信念を主張した。しかも何と、「ニュルンベルク裁判の法廷」という場で、堂々と弁明したのである! これはドイツにとり、一種の象徴的な行動ではなかったろうか。
 ここバイロイトでブーイングが一切出て来ない新作の上演に接したのは、少なくとも私は初めての体験である。

 このザックスを歌い演じたミヒャエル・フォレの、何と巧いこと! 
 彼はバイロイトの前作「マイスタージンガー」では、堅物から前衛芸術家に変貌するベックメッサーを見事に演じていた。また2013年のザルツブルクでのヘアハイム演出による「マイスタージンガー」では「気の弱いザックス」をこれまた巧みに演じていた人だ。今回のこのザックスは、特にラストシーンの悲壮な絶叫ともいうべき大演説を頂点として、実に精緻微細に演じられたのであった。

 彼だけではない。クレンツルも、レヴィそのままの顎髭を生やした顔で、卑屈なほど従順なワーグナー信奉者レヴィと、ザックスに盾突くベックメッサーとを、巧みに演じ分けていた。フォークトも前作に続いての同役での登場だが、もちろん演技はいい。彼としてはちょっと声が完全ではなかったようだが、それでもやはり非凡なものであった。

 今回座った席が5列目やや下手側ということもあって、この劇場独特のオーケストラの響きは、ひときわ素晴らしく聞こえた。特に弦楽器群の瑞々しい音色は、第2幕以降は、まるでピットの上から舞台前方にまで爽やかな音の絨毯が拡がっているようなイメージに感じられたのである。「マイスタージンガー」で、これほどオーケストラが美しく、その雄弁さと巨大な存在感を印象づけられたことはこれまでなかった。
 フィリップ・ヨルダン(ジョルダン)の指揮は、どちらかといえば軽量タイプに感じられるものの、若々しく清廉で、悪くないだろう。粗っぽく雑然とした演奏のところも少なくなかったが、美しいところは並外れて美しかった。

 10時30分終演、10時40分カーテンコール終了。大いに満足して席を立つ。

2017・8・11(金)中村恵理ソプラノ・リサイタル

    よこすか芸術劇場  3時

 昨日昼の0時15分にLH716便で羽田に着いたが、荷物が出て来たのがやっと1時頃。それから自宅に戻ると、夕方に別の用事が入っていた場合には、例の秘密兵器「時差ボケ解消のための昼寝2時間」が、事実上難しくなる。以前よく使っていた早朝7時頃成田着の便だったら、「2時間」は充分取れたのに━━。
 ただし今回は、プレエコ席を往復買っていたのだが、帰りはLH側がビジネスクラスにアップグレードしてくれたので、睡眠時間が少し多く取れ、その分、体力温存には僅かながら役だったともいえるが・・・・。

 とにかく、かような具合で時差ボケ解消は不完全ながら、今日は横須賀まで行く。この「よこすか芸術劇場」のある京急線の汐入駅は、急行が停まらないので、横浜駅から乗った快特を金沢八景駅で降り、普通に乗り換えねばならないと来ている。自宅からはdoor to doorで1時間半もかかった。

 大ホールで行われた中村恵理さんのリサイタルは、「横須賀芸術劇場リサイタル・シリーズ50」としての開催だ。
 最初に「浜辺の歌」など日本歌曲3曲が歌われたあと、ベッリーニの「6つのアリエッタ」から3曲、モーツァルトの「フィガロの結婚」と「コジ・ファン・トゥッテ」から各1曲が歌われた。そして第2部はオペラのアリア集で、グノーの「ロメオとジュリエット」、ヴェルディの「椿姫」、ビゼーの「カルメン」、プッチーニの「マノン・レスコー」と「蝶々夫人」から各1曲が歌われた。ピアノは木下志寿子。

 中村恵理の歌は、バイエルン国立歌劇場以来、最近のスザンナ役まで、もう何度も聴いているが、非常に魅力的なものである。私の主観で言えば、この日の歌唱の中では、やはりモーツァルトのそれが、声の雰囲気といい、心理描写の襞の細やかさといい、巧いものだという印象が強い。
 客席の反応も、最初の日本歌曲では何となくお座なりなものが感じられたが、オペラのアリアになると、途端に湧きはじめたのであった。

 ━━というのは、これが面白いところなのだが、日本の歌では彼女の歌唱そのものが何か物足りなさを感じさせていたのに、いったんオペラになると、彼女の声は、見事に小気味よく、この広大な大ホールを揺るがせんばかりに朗々と響きわたって行くのである。
 こういう歌を聴いていると、もちろん発声法にもよるのだろうが、なるほど優れたオペラ歌手は、やはりオペラを歌った時にこそ、歌劇場(大ホール)にその声を充分響かせることができるのだな━━と、そんな当たり前のことに改めて感心してしまうのだ。何を今さら、と言われそうだが。

 そうすると、声の出し方が異なる日本の歌曲は、歌劇場で歌われても、必ずしも最良の結果を得るとは限らない、ということになるのか? このあたりは、声楽の専門家のご意見を伺いたいところだ。だが、それも曲次第かもしれない。アンコールで歌った「椰子の実」(島崎藤村/大中寅二)では、彼女は発声をまた完全に変えていたが、これはホールいっぱいに、しっとりと浸みわたって行ったのだった・・・・。

2017・8・8(火)ザルツブルク音楽祭(終)ベルク「ヴォツェック」

    モーツァルト・ハウス  8時

 最終日に至って、やっと刺激的なオペラの舞台に出逢う。
 ウィリアム・ケントリッジの演出、マティアス・ゲルネの題名役。予想通りユニークなプロダクションであった。今日がプレミエで、このあと27日までの間に4回上演されることになっている。METとカナダ・オペラ協会、オーストラリア・オペラとの共同制作の由。

 ドローイング・アニメの大家ケントリッジのオペラ演出は、これまでにもMET制作によるショスタコーヴィチの「鼻」と、ベルクの「ルル」(前者は2010年と2013年に現地で、後者は2015年上演のライブビューイングで)を観たことがあるが、それに比べこの「ヴォツェック」でのアニメの投映は、更に複雑になっている。「ルル」以上に、どこまでがアニメの投映で、どこからが実際の大道具だか、その区別さえ判然としないほどに精緻で大がかりである。近年大流行のプロジェクション・マッピングと軌を一にするものだろう。

 今回の舞台美術(ザビーネ・テウニッセン)は、この劇場の舞台いっぱいに、雑多で薄汚い、ゴミ屋敷の如き光景を展開する。さながら荒廃した世界か、廃墟かといったところで、その雑然たるさまはカストルフ演出の「指環」の舞台装置のそれを上回る。
 雑多な光景の多くはアニメの投映だが、それは旧い家具の処理場という感もあり、特に手前には椅子のガラクタが無数に転がっている。そういえばアンドレスが椅子の残骸を背負っていた━━。

 軍楽隊はアニメで投映されるが、気がつくと鼓手長が独りで下手高所に立っている。かように、舞台の光景があまりに混然としているために、登場人物が何処から現れるか、見当がつかないのである。廃墟と人物との見分けがつかぬことも多く、人物は廃墟の中からうっすらと現れ、いつの間にかまたその中へじりじりと溶け込んで行く、といった具合。

 その最も象徴的な場面は、ヴォツェックが「池にはまって」死ぬところであろう。彼は舞台中央にい続けるのだが、その姿はそのまますっと背景の廃墟と一体化するように消えてしまい、彼が存在したという痕跡すら定かでなくなる。
 彼に殺されたマリーにしても同様だ。彼女は、大きなオペラグラスで観ると、そのままずっと舞台上に倒れたままであることが判るが、肉眼で見る限り、その姿は完全に廃墟と同化してしまっている。
 オペラの冒頭でヴォツェックが口走っていたように、それが底辺に生きる人間の宿命なのか。荒廃した世界の廃墟で生き、そこで死んで行く・・・・。 

 子供たちがガスマスクのようなものを顔につけているのも不気味だが、とりわけマリーの子供が身体を侵されており、それは病院の看護師に介抱されている不気味な異形の人形で表現される、というのがショッキングな光景だ。
 ラストシーンでの子供の声は、すべて陰歌になる。2人の看護師と、その腕に抱かれた「子供」だけが残って溶暗する終結は、何とも重苦しい。

 ケントリッジの演出は、この作品で、社会派的な方向へ、また大きな一歩を踏み出したようである。演出には、「共同」として、Luc De Witの名がクレジットされていたが、その分担の範囲については、私には判らない。ただ、「ルル」より手が混んでいた分、未整理の部分も多いのではないかという気もするのだが━━。
 いずれにせよ、この演出に比べると、ケントリッジがMETで初めて手掛けた「鼻」は、随分シンプルでプリミティヴなものだったな、という感慨を禁じ得ない。

 マティアス・ゲルネの題名役は、2004年のサイトウ・キネン・フェスティバルにおける上演で日本のファンにもおなじみだが、これはもう彼の定番というか、当たり役であろう。
 マリーを歌ったアスミック・グリゴリアンは、えらく少女っぽい見かけに仕立てられ、演技の上では地味だが、歌唱は手堅い。
 歌手陣にはその他、ジョン・ダスザック(鼓手長)、ゲルハルト・ジーゲル(大尉)、イェンス・ラルセン(医者)、マウロ・ペテル(アンドレス)らが顔を揃えていた。

 ピットにはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が入り、バンダはウィーン・フィル・アンゲリカ=プロコップ夏期アカデミーが担当、合唱はウィーン国立歌劇場合唱団のメンバー。
 指揮はウラディーミル・ユロフスキだったが、彼の指揮には、少々腑に落ちないところが多い。初日だったせいもあるのだろうが、冒頭は歌もろとも、どうしたのかと思われるような出だし。全曲にわたり、オーケストラの表情は生硬で活気に乏しく、モティーフの交錯にも躍動感と精密さが不足していたようである。この一筋縄では行かぬ「ヴォツェック」の音楽は、彼にはちょっと手が余るのではないか? 
 まあ、天下のウィーン・フィルのことだし、2日目以降には自分たちで何とかするだろう。
 全2幕休憩なしの上演で、終演は9時35分頃。

 ところで、昨日聴いたのは、夜の「ハーゲン・クァルテット」だけだったが、今日も夜の「ヴォツェック」だけと相成った。ザルツブルク音楽祭に初めて来て以来、もう40年になるが、こんなに効率の悪い聴き方しかできない年は、かつてなかった。
 そもそも他にめぼしい演奏会といえば、昨日はネルソンス指揮ウィーン・フィルの2日目の公演しかなかったのだし、今日もマリアンヌ・クレバッサのリサイタルのみなのだ。こんなに開催公演の少ない日が続くのは、かつての黄金時代━━特にカラヤン時代やモルティエ時代にはまずなかったのではないか。
 しかもこのそれぞれが、全く同じ時間帯に組まれているという不親切さだ。両方を順番に聴く、などということができないのである。今週の開催スケジュールには、そういうケースが多い。

 先週末の「モーツァルト・マチネー」の際に出会った知人に、私より少し年上の、今は独り身になっている元気な「お金持の」音楽愛好家の女性がいる。毎夏このザルツブルクに来て、カラヤン広場にある「ゴルデナーヒルシュ」とか「ブラウエガンス」などの有名な由緒ある小さなホテルに2、3週間ほど滞在し、コンサートには1日に1回だけ、時には2日に1回だけ聴きに行く、というペースで、悠々と過ごしているそうな。
 そういう方にとっては、ガツガツ聴きまくる私のような者が持つ不満など、縁がない存在だろう。とはいえ、貧乏性の人間にとっては、高いカネを払って外国まで聴きに行くのだから、そうでもしなければ割に合わないという裏事情もあるわけで━━。

2017・8・7(月)ザルツブルク音楽祭(6)ハーゲン・クァルテット

     モーツァルテウム大ホール  7時30分

 ハーゲン・クァルテットなんて、高い金をかけてザルツブルクまで行かなくても、東京でだっていつでも聴けるじゃないか━━という見方もあろうが、そこはそれ、空気の違いが大きい。つまり、楽器の「鳴り」が、湿度の高い日本とは全く違うのだ。

 日本で聴き慣れたハーゲン・クァルテットが、まるで別の団体のように聞こえると言ったら誇張が過ぎようが、とにかくルーカス、ヴェロニカ、クレメンスのハーゲン3人に、ライナー・シュミットを加えた4人のそれぞれの演奏が、驚異的なほど瑞々しい表情の語り口を以って、ステージから響いて来るのである。

 プログラムもいい。最初にバッハの「フーガの技法」からの「コントラプンクトゥスⅠ-Ⅳ」が置かれ、次にショスタコーヴィチの「弦楽四重奏曲第8番」がある、というプログラムを見た時に、オヤこれはもしや・・・・と思ったのだが、案の定、この2つの作品はアタッカで演奏された。つまり、バッハの曲が突然前衛的な動きをし始めたように感じた瞬間に、曲はいつの間にかショスタコーヴィチの作品に変わっていた、ということになるのだ。
 この接続は、あまりに見事な効果を生んでいて、なるほどと思わされたくらいである。200年を隔てた二つの作品がかくも違和感なく結合していたこと━━これには、深い感動を覚える。

 もちろん、演奏も凄まじい。世界の終りを物語るような、神秘的で緊迫感に満ちた演奏で開始された「フーガの技法」━━しかしその弦の動きのしなやかで陶酔的な美しさ、パウゼでの息を呑む緊張感。そして、まるでそれに触発されたように蠢きはじめるショスタコーヴィチのラルゴの曲想。
 後者は、しばしば聞かれるようなヒステリックな表情の音楽でも、刺々しい闘争的な音楽でもない。バッハをそのまま受け継いだかのような、厚い声部の交錯が、一種の柔らかいヒューマンな温かさを感じさせつつ続いて行く、といった感なのだ。

 前半のこの2曲の印象があまりに強烈なものだったために、お目当てだった後半のシューベルトの「弦楽五重奏曲ハ長調」が、多少影が薄くなってしまったきらいは、なくもない。極度に沈潜した演奏だった第1楽章のあと、まるで長い緊張に耐え切れなくなったような雰囲気が、客席にも拡がった。

 だがもちろん、チェロのソル・ガベッタが加わったこの豪華な演奏は、聴きものであった。
 真髄は第2楽章か。弦の移り変わるハーモニーと、ガベッタがゆっくりと奏するピッツィカートとが絶妙に呼吸を合わせるさまは、今更感言うのは何だけれど、やはり巧いものだな、とつくづく感心させられる。1時間にわたる長い全曲の最後に突然出現する暗い和音の揺れは━━ここはもっと不気味であっていいといつも思うのだが、今日もさほど深刻にならぬ程度のまま、終った。

 9時30分終演。聴衆も最後には熱狂して、スタンディング・オヴェイションとなったが、このホールは終演後の客の出口への動線が最悪なので、なるべく早く廊下に近づこうという魂胆が感じられなくもない。
 今日は1日中、快晴の爽やかな気候で、まさにこれぞザルツブルク、といった空気である。まだ暑くならない午前中、ザルツァッハ河畔の木陰のベンチに腰を下ろし、澄んだ空気を味わいながら本を読む。最高の気分だ。

2017・8・6(日)ザルツブルク音楽祭(5)「室内楽コンサート」

     モーツァルテウム大ホール  7時30分

 ウィーン・フィルのコンサートマスターの1人、ライナー・ホーネックをリーダーとするウィーン・フィルのメンバーによる室内楽演奏会。
 プログラムは、R・シュトラウスの「カプリッチョ」からの「六重奏」、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの「弦楽六重奏のための幻想曲《テルレスの青春》(若きテルレス)」、最後にメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」。

 今夜は、この同じ時間帯に、川向こうの祝祭大劇場では、ムーティの指揮で、アンナ・ネトレプコを題名役とする「アイーダ」の初日公演(これもウィーン・フィルだが)が行われているはずであった。例のごとく手配の出足が遅かった私は、そのチケットを取り損なったというわけだが━━。

 しかし、このモーツァルテウムの美しいホールで、ウィーン・フィルの「別の」メンバーが演奏する、夢のように美しいR・シュトラウスの「六重奏曲」や、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」を聴いていると、ムーティもネトレプコも何にかはせむ、という心境になって来る。これは、負け惜しみではなく、本当である。

 1曲目のシュトラウスの「カプリッチョ」の六重奏が始まった瞬間など、こんな魔術のような音楽があろうか、と息を呑み、心も体もとろけるほどうっとりさせられてしまったほどだ。かように、ウィーン・フィルの弦は、この世のものならざる夢幻的な音色をつくり出していたのである。

 モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」を吹いたのは、首席奏者ダニエル・オッテンザマーだった。有名な父君エルンスト氏が先月急逝したばかり。プログラム冊子にも、その追悼文が掲載されており、聴衆もそれを知っていた。そうした思いも含め、子息の流麗で温かいソロに、ひときわ高い多くのブラヴォーが飛んだのも当然であろう。

 ヘンツェの「テルレスの青春」(若きテルレス)は、15分ほどの作品で、もともとは映画のための音楽のはず。ナマで聴いたのは今回が初めてなのだが、ホーネックらウィーン・フィルのメンバーの手にかかると、あのヘンツェの作品すらが、すこぶる温かい穏やかな音楽に聞こえてしまうから不思議なものだ。

 そして最後がメンデルスゾーンのオクテットだが、「1人のソリストと7人のメンバーのためのコンチェルト」(故ルイ・グレーラー)という見方さえあるこの曲で、ホーネックのリーダーとしての存在が明確にされつつも、あくまで完璧な均整を備えた8人のアンサンブル━━となっていたのが、この日の演奏なのであった。その音の柔らかい溶け合いは、他に例を見ないだろう。第1楽章での流れの良さと、限りなく昂揚して行く演奏は、ここでもう拍手を贈りたくなるくらい、圧巻であった。

 ただ、こんな勢いで第1楽章から飛ばしていては、フィナーレなど、さてどうかな、と思ったが・・・・案の定、第3楽章以降は━━もちろん第1楽章と比べればのことだが、少々精彩を欠いたような気がする。第4楽章の中ほど、8人が先を争って突進するかのような激しい曲想の個所など、今一つエネルギー感が薄れていたような。

 超満員だったこのホール、換気が悪くて、空気がこもって来る。まさか奏者たちも、それで疲れたわけでもあるまいが━━昨日のマチネーでもそうだったが、私はこういう空気には弱いので、先に疲れてしまう。
 9時40分頃終演。昼間降っていた強い雨もすでに上がり、かなり涼しくなっていたが、新鮮な大気に触れて安堵する。この会場は、ホテルに比較的近いので楽だ。

2017・8・6(日)ザルツブルク音楽祭(4)ネルソンス指揮ウィーン・フィル

       ザルツブルク祝祭大劇場  11時

 アンドリス・ネルソンスが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはダニール・トリフォノフ)と、ショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」を演奏した。

 この2年ばかり、昼のウィーン・フィル・シリーズを選ぶと、不思議にムーティの指揮ばかりに当たっていたが、今回はちょっと珍しい組み合わせとなった。ネルソンスが振るのは、別に珍しくはないけれども、ショスタコーヴィチの「7番」をこのザルツブルクで聴くというのが、そもそも稀有のことだろう。

 だが、1階中央の7列という席は、いかにもステージに近すぎて、この大編成で怒号する演奏の全貌を把握するには難がある。もっと離れた席から、バンダを含めた全管弦楽の溶け合った響きを聴き、ホール全体を鳴動させるスリリングな全音圧に浸りたいところではあったが、残念ながら各パートの生々しい動きが眼前に展開し、個々の楽器の音圧がこちらに飛んで来るだけのような状態にとどまった━━その代わり、叙情的な部分では、ウィーン・フィルの弦の瑞々しい歌が、直接の手触りのような雰囲気で、存分に楽しめたが。

 前夜の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の演奏でもそうだったけれど、ウィーン・フィルがショスタコーヴィチの交響曲を演奏すると、日本を含む何処の国のオーケストラとも異なる、一種の温かい豊麗さを感じさせる。
 ましてロシアのオーケストラが噴出させるような、あのピンと張り詰めた厳しさや攻撃的な鋭さ、威圧的な重量感などとは大違い。それが面白くもあり、時には物足りなさをも感じさせるところだろう。

 第1楽章での「戦争の主題」の頂点はさすがにウィーン・フィルの威力を感じさせたが、第4楽章最後の昂揚は意外にあっさりしたものだった。
 ネルソンスは入魂の指揮で、下手側奥に位置するバンダを含めた金管群の音量を、あくまで弦や木管とのバランスを重視しながら響かせ、刺激的な咆哮までには至らせることなく、調和のうちに、この壮大な交響曲の演奏を完成させたのである。

 プロコフィエフの協奏曲の方は、若いトリフォノフの元気のいい演奏にもかかわらず、何となく前座の雰囲気を免れなかったのは、客席の雰囲気の所為か。特に前方客席の。

2017・8・5(土)ザルツブルク音楽祭(3)「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

      ザルツブルク祝祭大劇場  7時30分

 今年のザルツブルク祝祭では、ショスタコーヴィチに一つのテーマが与えられている。公式プログラムで見るところ、少なくとも10種の公演で、彼の交響曲、協奏曲、室内楽曲、オペラが取り上げられている。

 このオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」もその一環.。マリス・ヤンソンス指揮ウィーン・フィル、ウィーン国立歌劇場合唱団のメンバー、演出がアンドレアス・クリーゲンブルク、舞台装置がヘラルド・B・トール、カテリーナ・イズマイロワを歌うのがニーナ・ステンメだから、これは注目公演と呼ばれるに相応しいだろう。。
 去る2日にプレミエされ、21日までに計5回上演されることになっている。共同制作のクレジットは、特に見当たらない。

 舞台装置は、すこぶる大がかりなものである。日本式に言えば、5~6階(までは見える)以上の高さのある巨大な古いマンション(社員宿舎という設定か?)の中庭のような場所がドラマの主たる舞台。そして、下手側からは、第1~2幕ではカテリーナの新居(これはすこぶる贅沢な部屋)が、第4幕では監獄が突き出して来たり、引っ込んだりする。上手側からはイズマイロフ家の事務所、あるいは第3幕では警察署のセットが移動し突き出して来る。
 かように、祝祭大劇場の幅広の舞台をいっぱいに使った、すこぶる重量感と威圧感のある,静的な中にもスペクタクル性を含んだ舞台装置だ。

 時代設定は、少なくとも原作よりは現代に近い時代だ。人物の動きは激しい。登場人物にはそれぞれ際立った性格が与えられている。
 ヒロインのカテリーナ・イズマイロワは、最初のうちは少し従順な、欲求不満を裡に押し隠した、おとなし目に見える「新嫁」だが、それが次第に、感情の動きの激しい、所謂「マクベス夫人的」な女性に変貌して行く。この過程を、ニーナ・ステンメが実に見事に演じ切っているのには、舌を巻いた。長いドラマの中で、ほとんど出ずっぱりの奮闘だが、終盤に向けてますますパワーを増して行くそのエネルギーは、立派なものである。

 その夫セルゲイは、父親の会社に勤める、全くの役立たずの事務員で、それをマキシム・パスターが気の毒に見えるくらいのダメ男ぶりで見事に演じ歌っていた。
 一方、その父親のボリス・イズマイロフは、いつもスーツに身を包んだ堂々たる恰幅の、厳しく横柄な社長で、しかも好色な舅ぶり。これを歌い演じたディミトリ・ユリアノフが貫録充分、ドラマの前半を引き締めた。

 ただ惜しむらくは、カテリーナの愛人━━のちに夫━━たるセルゲイを歌い演じたブランドン・ジョヴァノヴィッチが、何となく影が薄いことだろう。
 もしそれが苦労知らずのボンボンとして描かれ、カテリーナの愛に応えられる男ではなかったという、否定的な設定だったのなら、それはそれでいいのだろうが、ドラマとしては弱い。
 他に、ジノーヴィの死体を発見して大騒ぎする「ぼろを着た男」をアンドレイ・ポポフ〈彼はこういう役は巧い〉、牧師をスタニスラフ・トロフィモフら、大勢の出演者たち。みんな快調だ。演技は微細で、大型の舞台にもかかわらず、ドラマとしても見ごたえがある。

 第4幕のオリジナルにおける「河」のモティーフは、やはり今回も放棄されていた。下手側から突き出している「監獄」と、その他は最初から使われている装置がそのまま活用される。
 ラストシーンでカテリーナは、恋敵ソニェートカを川に突き落として自分も飛び込むというオリジナルのト書きとは異なり、相手の首に綱を巻きつけて階段の上へ引っ張って行き、手摺越しに彼女を突き落としつつ自らも一緒に首をくくって飛び降りる━━という設定になった。2人の女が、背中合わせの形で宙吊りになる。ただ、その2つの吊られた「人形」に、どう見ても、凄味も不気味さも感じられないのが問題だろう。

 さらにオリジナルの台本と異なるのは、カテリーナから耳打ちされて頼まれた獄吏の1人が、ソニェートカを助けに行こうとするセルゲイを刺殺してしまう、という設定である。
 このあたり、ひしめき合う「流刑囚」たちの中にあって、彼ら中心となる数人のキャラクターの存在があまり明確にならず、所謂「群衆の中の悲劇の一つ」としてしか描かれないのが、少々物足りない。クリーゲンブルクの演出には、時たまこういうのがみられる。

 ピットに入ったマリス・ヤンソンスとウィーン・フィルは、この桁外れのどろどろした「凄い話」のオペラを演奏するには、ちょっと品が良すぎるかもしれない。
 あの「ぼろを着た男」が、こけつまろびつ、警察へご注進にすっ飛んで行く場面の有名な間奏曲などは野性味に不足する感があったし、セルゲイの裏切りを目の前にしてカテリーナの絶望感が爆発する凄愴なクレッシェンドの個所も、おとなしすぎたきらいがある。
 ただ、演奏そのものには非常に風格があり、ウィーン・フィルの底力の凄さといったものは、充分に伝わって来たのだった。マリス・ヤンソンスの人気も、相変わらず盛んなものがある。

 休憩1回を挟み、10時50分頃演奏終了。

2017・8・5(土)ザルツブルク音楽祭(2)モーツァルト・マチネー

      モーツァルテウム大ホール  11時
 
 お馴染みモーツァルト・マチネーの一環で、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団が出演、指揮はジョヴァンニ・アントニーニ、ゲスト・ソリストはクリスティアン・ベズイデンホウトという面白い顔ぶれである。
 プログラムは、モーツァルトの「交響曲第29番イ長調」と「ピアノ協奏曲第24番ハ短調」、後半がシューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」というもの。アントニーニがモーツァルトやシューベルトを指揮するのはナマではなかなか聴ける機会が無いので、これは楽しみにしていた。

 アントニーニは、この系統のレパートリーにおいても、非常に強烈なデュナミークを多用する。そのフォルティシモは、1階席の、のんびり聞いていたらしい1人の高齢の女性を一瞬飛び上がらせたほど、激しい。叩きつける最強音と、歯切れのいい明晰な響きが際立つ。もちろん、弦はノン・ヴィブラート奏法だが、金管には特にピリオド楽器は使われていなかったようである。

 冒頭の「イ長調」の出だしでは、アンサンブルもアタックも何故か粗くてガタピシしていたのには冷や冷やさせられたが、どうやらこれは呼吸が合わなかった所為らしい。提示部がリピートに入ったところから、俄然、音楽が引き締まって来た。
 とにかく、これだけ鋭角的なサウンドで再現された「第29番」も、珍しいだろう。反復個所は忠実に守られているので、演奏時間も長くなる。

 これらは、後半でのシューベルトの「悲劇的」でも同様だ。全曲にわたり強弱の対比が激烈に強調されるため、この曲が、これまで聴いたことのないほど荒々しい劇的な様相を帯びる。特に第4楽章など、こんなに牙をむいたようなシューベルトは、恐怖感さえ覚えさせるではないか。
 ユニークなアプローチもあるものだ、と感心する。聴き慣れた作品からこういう新しい側面を出してくれる演奏にぶつかると、聴きに来てよかった、と心から思うものだ。

 協奏曲では、ベズイデンホウトが、珍しくモダン・ピアノで弾いた。これがまた面白い。何しろこの曲でも、アントニーニが、緩やかではあるがしばしば戦闘的に仕掛けるのに対し、その音楽をベズイデンホウトが、我が道を往く、とばかりに落ち着きはらって悠然と受ける、という対照を生むからである。彼のピアノでうっとりさせられるような美しさを感じたのは、やはり第2楽章であった。

 このモーツァルテウム大ホールの2階席は、換気が悪い。休憩や終演になってドアが開け放たれると、外の空気が流れ込んで来て、ほっとさせられる。とはいえ、街はまだ暑い。

2017・8・4(金)ザルツブルク音楽祭(1)モーツァルト「皇帝ティトの慈悲」

      フェルゼンライトシューレ 7時

 前夜遅くザルツブルクに入る。1年ぶり。

 夏のザルツブルク音楽祭も、以前とは随分様変わりした。かつてのように熱心な聴衆が集まって沸騰するという雰囲気も、だいぶ薄れてしまったようである。
 演目も昔よりだいぶ地味になっているし、出演者にも、所謂大物の数が少なくなった。レパートリー編成もやや散漫な感になって来ている。しかも近年は具合の悪いことに、複数のめぼしい上演が同時間帯に組まれていたり、公演の種類が少なくなっていたりするため、「うまく組み合わせて1日に2,3公演」という方法が採りにくくなっているという傾向がある。

 ある毒舌家の、マニア向けの旅行エージェントの言によれば、「今や夏のザルツに行くのは金持かバカ」なんだそうだ。私は金持ではないから、そうするとバカということになるか。
 ただ、それでも唯一捨てがたいのは、この山間の町の空気である。こればかりは独特の爽やかさがある━━といっても、今日のような蒸し暑さでは、その唯一の魅力も半減してしまうが。とにかく今日も、この劇場周辺、観光客が多いという雰囲気が横溢。音楽マニアで沸き立つという雰囲気はほとんど感じられなかった・・・・。

 それはともかく、折角観に来たのだから、というわけで。
 モーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」。今回は7月27日から8月21日までの間に7回上演されている。今夜が3回目の上演。
 今をときめく注目の指揮者テオドール・クルレンツィスがムジカエテルナ(musicAeterna)の管弦楽団と合唱を率いて登場し、ピーター・セラーズが演出、ゲオルギー・ツィーピンが舞台装置を担当━━というから期待していたのだが、しかしどうもこれは、満足できかねる類のものであった。

 クルレンツィスは、CDでダ・ポンテ3部作などを聴くと、ニュアンスも細かく、颯爽としたテンポ運びの演奏で大いに魅力的に感じられるのだが、今回は、主人公が━━それは主にセストのアリアの部分でだが━━苦悩と迷いに陥る個所では極度にテンポを落し、フレーズごとに長い長い間をあける(こういうテを使う指揮者はアーノンクールの亜流に結構多い)ことが目立つ。特に第2幕前半ではそれが多用され、音楽の流れが停滞することも多くなり、些か苛々させられた。

 ただ、追い込みなどでのテンポと勢いの良さは、彼ならではのものがある。
 それに今回の上演では、原曲の中にモーツァルトの他の作品が挿入されることが多く、これが少なからぬ面白い効果を出していた。たとえば、第1幕終り近く、テロを決意したセストが仲間と爆弾を装備する場面(パントマイム)では「アダージョとフーガ」の抜粋が演奏される。また「皇帝ティトがセストに撃たれて重傷を負い、群衆がその快癒を祈る」という読み替え設定の第2幕冒頭では、「ハ短調ミサ」の「キリエ」が挿入されて歌われる。あるいは、最終場面で「ティトが死去」すると、原曲が完奏されたあと、「フリーメイソンのための葬送行進曲」の主題と合唱が付加されて演奏され、そして暗転して終る━━といった具合である。
 おかげで上演時間はかなり長くなったが、それ自体は、巧いアイディアだったと思う。

 ピーター・セラーズの演出は、何とも期待外れだ。セリで上がり降りする若干の物体だけのゲオルギー・ツィーピンの舞台装置も同様である。このフェルゼンライトシューレの広い舞台は、全く活用されていない。どこか小さな劇場でやれば、もっとまとまりもよく見えたろう、と思えるような構図なのであった。ちなみにこのプロダクションは、ベルリン・ドイツオペラ及びアムステルダム・ナショナル・オペラとの共同制作である由。

 また、セラーズであれば、原作の台本に見られる身勝手なヴィッテリアと、ただ彼女への恋のために皇帝暗殺まで図ろうとする愚かなセスト━━という構図の中に、もう少しいろいろな高貴なコンセプトを━━たとえばセストにブルータスの役割を与えるとかいったような━━注入させてくれるかと思ったのだが、これは、期待する方が悪かったようだ。

 かつての才人セラーズはどこへ行ったのか。演技的にはいつものように、非常に精緻微細な動きを見せてくれるが、それでも登場人物がやたらハグを繰り返すのみでごく月並みなものに留まっていた。カーテンコールには彼も現れたが、すこぶる御機嫌なようで、例の通りはしゃぎまくっていた・・・・。

 歌手陣は手堅い。最も映えたのは、セストを歌い演じたマリアンヌ・クレバッサで、完璧なズボン役を披露、歌唱と演技も充分なものがある。
 その他の人々は、ラッセル・トーマス(皇帝ティト)、ゴルダ・シュルツ(先帝の娘ヴィッテリア)、クリスティーナ・ガンシュ(セストの妹セルヴィリア)、ジャニーヌ・ビック(セストの友人アンニオ)、ウィラード・ホワイト(護衛隊長官)といった顔ぶれ。
 なお、第1幕終り近くのセストのアリアで、オブリガートのバセットホルンを舞台上で演奏しただけでなく、セストとともに演技し、時には倒れた格好のまま吹いてみせていた奏者の「快演」を讃えたい。

 10時15分演奏終了。ホール内も、戸外も、蒸し暑い。

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