2017-03

2017・3・20(月)METライブビューイング 「ルサルカ」

      東劇  6時30分

 上野から東銀座まで、ちょうどいい移動距離と移動時間である。

 メトロポリタン・オペラの、去る2月25日の上演ライヴ。メアリー・ジマーマンによる新演出。
 このドヴォルジャークの「ルサルカ」は、つい3年前までオットー・シェンク演出によるメルヘン的なプロダクションが上演されていた(「ライブビューイング」でもルネ・フレミング主演で紹介されたことがある)。それからすぐにまたこの新演出が登場したところを見ると、METでは、このオペラは結構人気があるらしい。

 メアリー・ジマーマンの演出は、ダニエル・オストリングの比較的トラディショナルな舞台美術の中で、極めて精緻な演技を繰り広げるバランスの良い舞台だ。
 9年ほど前にザルツブルクで、ヴィーラー&モラビトが、ルサルカの本拠たる森を「娼婦の館」に読み替えた傑作なプロダクションを上演したことがあり、あれはあれで非常に面白かったが、今回のジマーマン演出はト書きに準拠しつつもルサルカの心理の変化を微細巧妙に描き出すという手法が採られており、これもまた面白い。

 何しろ題名役クリスティーヌ・オポライスの「眼」の演技が巧く、時には憑かれたような凄い目つきを見せて、真剣な恋におちた女性の業とでもいうべき不気味な(?)表現を繰り広げるのが最大の見ものである。
 共演主役陣は、王子をブランドン・ジョヴァノヴィッチ、水の精をエリック・オーウェンズ、イェジババをジェイミー・バートン、外国の王女をカタリーナ・ダライマンという顔ぶれ。この中では、何といっても、魔法使イェジババを歌い演じているバートンが大芝居で秀逸である。

 指揮はマーク・エルダー。予想外に、と言っては失礼だが、ドヴォルジャークの音楽を実に温かく再現しているのに感心した。第2幕での「森番と皿洗いの少年の場面」における音楽を、これほど民族色を感じさせて演奏した指揮者はそう多くないであろう。
 METの管弦楽団が優秀でしっかりしているので、「ルサルカ」というオペラのオーケストラ・パートは、こんなにも表情豊かな民族音楽的な良さを備えているのか、と、改めて魅惑されてしまう。

 休憩時間のドキュメントは、50年前リンカーンセンターにオープンした現在のMETが杮落しに上演したバーバーの「アントニーとクレオパトラ」を取り上げている。舞台装置が故障してエジプトのピラミッドが移動できず、場面がローマに変わったのにまだピラミッドが中央に聳えていた、などという話は、人間味があって面白い。
 その時に主演したレオンティン・プライスが、90歳ながら未だ元気でインタビューに答えているのに感動。はっきり喋って、しかも綺麗な声で軽く歌まで聞かせていたのは御立派である。
 ちなみに、METの現総裁ピーター・ゲルブは、その時、客席案内係をやっていた由。

 休憩2回を含み、上映時間は4時間近く。かなり長い。終映は10時25分頃になった。

2017・3・20(月)東京・春・音楽祭 「禁じられた作曲家たち」

     上野学園 石橋メモリアルホール  3時

 これは意欲的な企画。聴衆の数は多くはなかったが、貴重な演奏会であった。こういう「研究的な」コンサートをいくつか混ぜるところが「東京・春・音楽祭」の面目躍如というものであろう。

 コンサートのタイトルは「東京春祭ディスカヴァリー・シリーズvol.4 忘れられた音楽━━禁じられた作曲家たち~《Cultural Exodus》証言としての音楽」という長いもの。
 ナチスの迫害により故国を去り、あるいは追われ、あるいは投獄された作曲家たちの「知られざる」作品を紹介するのが狙いで、ウィーン国立音大exilarte Centerセンター長ゲロルド・グルーバー氏の解説(通訳・井上裕佳子さん)も入る。

 プログラムは、マリウス・フロトホイス(1914~2001)の「オーバードOp.19a」、ヘルベルト・ツィッパー(1904~97)の「弦楽四重奏のための幻想曲《経験》」、ベラ・バルトーク(1881~1945)の「ハンガリー農民組曲」、ミェチスワフ・ヴァインベルク(1919~96)の「フルートとピアノのための12の小品Op.29」抜粋、ハンス・ガル(1890~1987)の「フルートと弦楽四重奏のためのコンチェルティーノOp.82」。
 演奏はウルリケ・アントン(フルート)、川崎翔子(ピアノ)、プレシャス・カルテット(加藤えりな、古川仁菜、岡さおり、小川和久)。

 これらの作曲家たちの中には、迫害で命を落とした人はいない。そういえばこの演奏会、たしか当初は「亡命作曲家」何とかというタイトルになっていたのでは? 
 そしてバルトークを除けば、みんなつい最近まで生きていて、それぞれいろいろな国で音楽活動をしていた人ばかりだ。

 だが、そのバルトークのもの以外は、こういう機会ででもなければ、滅多に聴けない作品ばかりであろう。前衛的な傾向の作品は見当たらず、どれも今となっては耳当りのいい作品で、特にヴァインベルクやガルの音楽には、フランスのそれにも似た作風さえ聴き取れるし、しかも後者の作品には徹頭徹尾、調性を重んじた優しい(?)曲想があふれかえっている。

2017・3・19(日)東京・春・音楽祭 シャーガー&バイチ

      東京文化会館小ホール  7時

 トリフォニーホールのある錦糸町から上野までは、秋葉原乗換のJRで、ほんのわずかの時間だ。この移動距離なら、ダブルヘッダーも容易い(数年前、川崎━横浜━上野とトリプルをやったことがあったが、あれはさすがに疲れた)。

 恒例の「東京・春・音楽祭」が、この16日から華やかに始まっている。
 これは、テノールのアンドレアス・シャーガーと、ヴァイオリンのリディア・バイチとのデュオ・コンサート。それにマティアス・フレッツベルガー指揮のトウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア(旧称トウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ)が協演するという演奏会である。

 アンドレアス・シャーガーは、最近、人気沸騰中だ。日本でも同様。
 今回も「(プログラムは)何をやるんだか判らなかったけど、シャーガーが出るということでチケットを買った」と言う人もいたくらいで、━━それもあってか、彼の出番ではホールが沸き返る。

 ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」は、未だ陰翳に不足する彼の歌唱と、官能的な雰囲気を欠く指揮者とオーケストラの演奏のために、あまりサマにならぬ結果にとどまったけれども、「魔笛」や「ジプシー男爵」、「ジュディッタ」、「J・シュトラウス2世のテーマ」、アンコールでの「ヴァルキューレ」、「メリー・ウィドウ」などでは彼の闊達なフル・ヴォイス全開で、客席を沸き立たせた。
 聴き手の耳をビリビリいわせる馬力だったが、まあいいだろう。それに例の如く、聴衆にアピールする華やかな、明るいジェスチュアとステージマナーがいい。

 そのシャーガーに対し、いくら美女でもヴァイオリン一挺のリディア・バイチはちょっと分が悪く、拍手の音量もシャーガーに対するそれよりは少し小さめなのは気の毒だったが、しかし、特に第2部でのリストの「ハンガリー狂詩曲第2番」やクライスラーの「ウィーン奇想曲」と「愛の悲しみ」、アンコールでのモンティの「チャールダシュ」、レハールの「ワルツ」などでの演奏は、美しく魅惑的だった。

2017・3・19(日)大友直人指揮群馬交響楽団 東京公演

     すみだトリフォニーホール  3時

 国内のメジャー・オーケストラの中で、充分な実力がありながら音響的に不満足なホールを本拠地にしているもう一つのオーケストラが、この群馬交響楽団である。
 今回は、トリフォニーホールの3階席で聴いてみたが、実に豊かな響きであり、堂々たる風格の音だ。
 プログラムは、千住明のオペラ「滝の白糸」序曲、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは萩原麻未)、ラフマニノフの「交響曲第2番」。コンサートマスターは伊藤文乃。

 圧巻は、やはりラフマニノフの「2番」である。
 この曲はマエストロ大友の定番というか、極め付きの十八番というべき交響曲だ。その演奏に舌を巻いた最初は、もう20年も前のことで、あれは東京交響楽団を指揮して━━たしかCDにもなっていたのではないか? 
 この日の演奏も、非常に密度の濃い快演だった。憂愁と、郷愁と、甘美さと、豪壮さとを兼ね備えたもので、特に全曲の山場たる第3楽章(アダージョ)は、それに相応しい情感の豊かさをもった演奏だった。最後の最弱音が消えて行くあたりも、絶妙である。
 音楽監督・大友直人と群響との協同作業が好調であることを感じさせる演奏といえたであろう。

 第1部での2曲━━チャイコフスキーの協奏曲では、オーケストラと、萩原麻未のダイナミズムと叙情的な優しさとを併せ持つソロとが、アゴーギクの点で必ずしも調和しているとも感じられなかったが、いっぽう「滝の白糸」序曲では、日本的でトラディショナルな、耳当りの好い曲想を丁寧に再現した演奏で、3年前に聴いた全曲舞台上演の際の演奏よりも、遥かに音楽の美しさが感じられた。

 それにしても群響に、日常の定期を音響の良いホールで開催できる時が一日も早く訪れるよう願ってやまない。だが2年ほど経てば、高崎に新しいホールが竣工される由。ただし、客席2千ほどの、パイプオルガンのない大ホールだとか。音響設計が永田音響であることに期待をかけよう。

2017・3・18(土)音楽監督・秋山和慶と広響のファイナル「英雄の生涯」

      広島文化学園HBGホール  3時

 午前中の新幹線━━連休のため全車両満席━━で名古屋から広島へ移動、広島交響楽団の第368回定期を聴く。

 1998年から、最初は首席指揮者兼ミュージックアドバイザー、04年からは音楽監督・常任指揮者として広響をリードして来た秋山和慶が、モーツァルトの「ディヴェルティメント K136」と「クラリネット協奏曲」、R・シュトラウスの「英雄の生涯」というプログラムで在任中最後の定期演奏会を飾る。協奏曲では名手ダニエル・オッテンザマーが協演して花を添えた。コンサートマスターは佐久間聡一。

 モーツァルトの「ディヴェルティメント」は、マエストロ秋山にとっては、桐朋学園での恩師・齋藤秀雄との思い出の曲でもあるはず。それゆえこれは、あたかも彼が恩師から受け継いだ宝物を広響の楽員たちへの置き土産にしようという、心のこもった告別の辞であるかのように感じられたのだった。弦の透明で澄んだ音色の美しいこと。秋山ならではの正確で整然たる音楽だ。
 「クラリネット協奏曲」では、その端整なオーケストラに、最弱音を随所に駆使したオッテンザマーが表情豊かなソロで多彩さを織り込んだ。美しい演奏である。

 任期最後の定期を「英雄の生涯」で締めるとは、なかなか意味深長なものがある。「英雄の業績」と「英雄の引退」━━もちろん秋山さん自身が引退というわけではない━━はいいとして、「英雄の敵たち」と「英雄の戦い」という副題が、勝手な想像と可笑しみを生じさせる。ここでも秋山ならではのきっちりと組み立てられた演奏が印象的だ。

 だが、この大編成の管弦楽が、大音量で、しかも複雑な音の交錯を響かせるには、音の拡がりも余韻も余情もないこのホールは、いかにもつらい。完売満席で客席もぎっしりと埋まり、残響がいっそう吸われてしまった状態ではなおさらである。
 第1部の「英雄」の個所や、激しい「英雄の戦い」の個所では、音がどうしようもなく痩せてしまう。以前ここで聴いた彼らの演奏による「トゥーランガリラ交響曲」の時よりも、この後期ロマン派の豊麗な作品の場合は、更にそれが目立つ。
 先頃日本各地でオケを聴き歩いたフランスのメルランというジャーナリストが「フィガロ」に寄稿した一文の表現を借りれば「この広島交響楽団には、他の都市のオーケストラと同じように、もっと質の高いホールがあてがわれる資格がある」ということになろう。

 だが見方を変えれば、こんな音響のホールで、これだけまとまった演奏を響かせるのだから、たいしたものというべきかもしれない。事実、「英雄の伴侶」の後半や、「英雄の業績」以降終結にかけての叙情的な、息の長い曲想の部分は、ホールのアコースティックの欠陥を乗り越えて、極めて美しい響きで満たされていたのである。
 こうなると、良いホールでこの曲が演奏されれば、その輝かしさはいかばかりか、と思いが、いよいよ強くなる。

 今日は、この定期を最後に退団する奏者が、オーボエ、ホルン、打楽器に1人ずついて、いずれも大きな花束と、楽員と聴衆とから盛大な拍手が贈られていた。
 そしてもちろん、シェフのマエストロにはさらに大きな拍手と歓声と花束が贈られた。1階客席は半分以上がスタンディング・オヴェーションである。すべてのオーケストラのシェフが、退任に際してこのように温かく送り出されるとは限らない。広島の聴衆は温かい。

 携帯電話機のスイッチ・オフや、非常の場合における注意などを告げる陰アナ(内海雅子さん)は、前回聞いた時と同様に、今日も柔らかく温かい雰囲気のアナウンス。とても感じがいい。
 もう一つ、第1ヴァイオリンの3プルト目の内側に座っていた男性奏者はおそろしく熱狂的に、熱中的に派手な身振りで弾くのが目立って、苦笑させられる。私は奏者が「全身で弾く」姿を見るのは大いに好きなのだが、ただ彼の場合は、独りだけ並外れた規模の大暴れをしているので、少々違和感がないでもない。だがこれは欠点ではないから、あげつらう必要もない。

 終演後はホワイエで、聴衆が自由参加し、指揮者や団員たちを交え、慰労会が行われた。NHKのテレビ取材も入って、まあ賑やかなこと。こちらは舞台袖で秋山さんにお疲れさまを言ってねぎらい、称賛し、間もなくホールを出る。
 6時17分の「のぞみ」で帰京。

2017・3・17(金)小泉和裕指揮名古屋フィル ブルックナー「8番」

      愛知県芸術劇場 コンサートホール  6時45分

 小泉和裕の指揮は、1975年1月23日、カラヤン指揮者コンクール優勝から凱旋した直後の新日本フィル定期以来、数え切れないほど聴いているが、ブルックナーの「交響曲第8番」を指揮する彼を聴くのは、今回が最初である。

 予想通り、いかにも彼らしい均衡豊かな、整然とした「8番」となった。どちらかと言えば遅めの、終始安定したテンポで、全曲をがっしりと構築する。第4楽章半ばでの、あの全管弦楽が行進曲調で轟きわたる個所(【N】)でも、アッチェルランドをかけたりなどしない(あそこで加速する演奏は大嫌いである)。

 オーケストラのバランスも完璧であり、各パートの必要な個所を過不足なく浮き彫りにして各主題を明確に描き出すため、たとえば全曲の最後で3つの主題が同時に高鳴る部分でさえ、すべてがはっきりと聴き取れる。分厚く拡がる弦楽器群を基本に音楽を組み立てるのは、小泉の若い頃からの得意業でもある。

 名フィル(コンサートマスターは後藤龍伸)も渾身の力演だ。ホルンに不安定なところが若干あったが、これは公演を繰り返せば(東京公演を含み3回)、解決されて行く問題だろう。全体に、アンサンブルの美しさと、音の透明さや清澄さといった要素が加わればと思うが、こちらは今後の課題と思われる。
 「シンフォニーをちゃんと演奏できるオーケストラを」という理想を掲げる小泉が、音楽監督として今後、名フィルをどのように引っ張って行くか、である。

 このブルックナーの「8番」という大曲も、名古屋フィル音楽監督に就任して1年、頃合いも良しという時期を選んでのことだろう。
 そういえば、このコンサートホールは今秋から長期間の工事に入る由。他に大規模なオーケストラ演奏会場を持たぬ名古屋であれば、名フィルにとって、ブルックナーの後期交響曲のような巨大な作品を演奏するにはぎりぎりの時期だったということかもしれぬ。

 使用楽譜は、当初のノーヴァク版という予告が変更され、ハース版になった。私はこの曲に関する限り絶対ハース版の方が好きだから、第3楽章と第4楽章では、あのノーヴァク版ではカットされてしまっている美しい個所を、久しぶりに楽しませてもらった。

2017・3・16(木)ぺトル・アルトリヒテル指揮プラハ交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 1934年創立のプラハ交響楽団。現在の首席指揮者はあのピエタリ・インキネン。今回は、90年代に短期間、首席指揮者を務めたペトル・アルトリヒテルとともに来日した。
 プログラムは、スメタナの連作交響詩「わが祖国」全曲。チェコのオケとしては最強のプログラムだろう。

 このオケは、私は最近10年ほどの間には、コウト、マカル、インキネンのそれぞれ指揮で来日公演を聴く機会があったが、良いオケだと思う。
 50年ほど前、当時の首席指揮者スメターチェクの指揮したドヴォルジャークの「第3交響曲」を聴いた時に感じた魅力を、今でもそのまま再現してくれるオケである。いわゆる機能的な楽団ではないけれど、真摯で温かみがあり、最良の意味でのローカル性を今なお持ち続けているオーケストラだ。

 それゆえ、この連作交響詩「わが祖国」も、良い意味での土臭さと、ある種の懐かしさと、民族音楽的な旋律の美しさと、民族舞踏的なリズム感と、━━そういう要素を、これ見よがしではないけれども、随所に感じさせてくれる演奏になっていたのである。

 アルトリヒテル(アルトリフテル?)は、結構大暴れする指揮者で、また答礼する前後には脚をおかしな形に交錯する愛敬のある人だが、つくり出す音楽にはすこぶる良い雰囲気がある。
 第1曲「高い城」では金管を猛烈に響かせるので、この調子で全曲をやられたらとてもたまらないと怖じ気づいたほどだったが、第2曲の「モルダウ(ヴルタヴァ)」では一転して、実に柔らかく豊麗な音で水の流れを描き出してくれたので、いっぺんに魅惑されてしまった。月光の場面など、その夢幻的な音色に陶然とさせられたほどだ。

 第3曲「シャールカ」ではツィティラート軍団の行進や舞踏のリズムも躍動的(この部分はチェコのオーケストラの独壇場である)だし、「ボヘミアの森と草原より」や「ターボル」での、クライマックスへの追い込みも熱っぽく、これらも良い意味での洗練されていない素朴な荒々しさに満ちている。一風変わった指揮者だが、面白い。

 カーテンコールは3回ほどやって、あっさりとお開きになった。ヨーロッパのオケは、日本に来た時は延々とカーテンコールをやることが多いが、ヨーロッパでやる時には、普通は大体この程度の回数のようである。

2017・3・14(火)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団東京公演

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 昨年6月以来、久しぶりに聴く札響。名誉指揮者ラドミル・エリシュカとの今回の東京公演は、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、シューベルトの「交響曲第5番」、ブラームスの「交響曲第1番」というプログラム。

 エリシュカは満85歳だが、元気なこと! 姿勢も良く、歩くのも速いし、指揮姿が活発で、何よりオーケストラから引き出す音楽がエネルギッシュで若々しい。
 シューベルトの「5番」第1楽章での闊達なテンポ、引き締まってアクセントの強いリズム感、ヴィヴィッドな躍動感は、驚くほどである。そしてブラームスの「1番」での、これまた水際立った颯爽たるテンポ感は鮮やかそのものだし、中間2楽章での叙情性をこれだけ瑞々しく浮き彫りにする指揮者は決して多くない、と思わせる。

 全体に真摯で率直な音楽づくりだが、たとえばシンフォニックな構築で滔々と押して行った「フィンガルの洞窟」の幕切れで、突然大きくテンポを落し、終結和音を劇的に繰り返し叩きつけるといった術にも事欠かない。とりわけ、ブラームスの第4楽章の終結で、劇的なアッチェルランドを経てティンパニの壮絶な強打、毅然たる終結和音の反復にいたるまでの昂揚感は卓越したものがあった。
 アンコールで指揮したドヴォルジャークの「ユモレスク」も、不思議な懐かしさを醸し出して、さすがにチェコの名匠の指揮だなと感じさせる。

 札響も、素晴らしい演奏をした。エリシュカのヒューマンな音楽性を、今や完璧にその演奏の中に一体化しているといえるだろう。コンサートマスターには田島高宏、トップサイドには大平まゆみが座る。
 弦の良さは以前からの札響の特徴だが、この日も生き生きとした表情に富んでいた。欲を言えば、メンデルスゾーン、シューベルト、ブラームスの3曲とも、いずれも同じ音色で演奏されていたのには少々疑問があるが━━その音色が最もぴったり曲想と合っていたのは、多分ブラームスに於いてであろう━━それはしかし、今のところはどうでもよい。各都市のオーケストラが真摯に音楽に取り組んでいるさまを視て、聴くのは、大いに喜ばしいことである。

 今月は、この他にも各都市のオケを、名フィル、広響、群響、オーケストラ・アンサンブル金沢、京響、仙台フィル、関西フィルを聴く予定だ。おそらくどれも期待を裏切らないであろう。

 終演後の出口では、いつものようにスポンサーの「ホクレン」から「てんさい糖」100g入りの袋が土産に配られる。これを貰うのが目的で札響東京公演を聴きに行くわけではないけれども、オリゴ糖を多く含んだこの「てんさい糖」は美味しいので、貰えるのはやはり嬉しい。

2017・3・13(月)インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

      すみだトリフォニーホール  7時

 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(旧東独時代のベルリン交響楽団)の現在の首席指揮者はイヴァン・フィッシャーだが、今回は、かつての首席指揮者エリアフ・インバルとの来日だ。プログラムは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデからの「前奏曲と愛の死」、マーラーの「交響曲第5番」。

 日下紗矢子さんのこのオケのコンサートマスターとしての雄姿(?)を見られたのは嬉しいが、残念ながらそれはワーグナーにおいてのみだった。マーラーでは別の男性がコンマスを務め、日下さんはトップサイドで弾いていた。

 で、大いに期待されたこのオケの公演であったが、━━インバルの指揮にしては、意外に音が粗い。「トリスタン」での音の硬さなど、呆気にとられるほどで、「愛の死」の頂点にいたっては、ただ大きな音が雑然と響くだけで、愛の陶酔も何も感じられない。
 聴いた席は22列中央近く。このあたりは、金管が強く響いて来て音が硬く聞こえるというのは、以前にも経験したことだ。上層階━━3階席とか、左右のバルコン席の上部あたりなら、こんなに刺激的な音には聞こえないはず。

 ただいずれにしても、このオーケストラは、アンサンブルを含めての技術的な部分には鷹揚なところがある。ただしそれを、あの巨大な空間を持つベルリンのコンツェルトハウス(旧シャウシュピールハウス)で聴くと、陰翳と大らかさを伴った不思議な味をもって拡がって来るのだが・・・・。
 来週、東京芸術劇場で「巨人」を聴いてみれば、もう少し詳しく判るだろう。

 そんなわけで、「トリスタン」はすこぶる落ち着かない印象に終始したが、19列で聴いた(この移動は、許可を得ての業務上のものです。念の為)マーラーの「5番」では、弦楽器群がもう少し強く浮かび上がって、オーケストラの音にも奥行感が生じ、内声部もかなり明確に聴き取れて、演奏も多彩なものに感じられるようになった。
 第3楽章でのホルンの活躍も劇的に味わえたし、第4楽章の「アダージェット」でも柔らかい空間的な拡がりが堪能できる。

 特に第2楽章からあとは、インバル特有の剛直な音楽づくりが冴え、実に見事な演奏になった。フィナーレのコーダ近く、これでそのまま頂点へ━━と思わせておきながら、突然勢いが落ちて行く例の個所(第581小節から)では、凡庸な指揮者の手にかかると「未だ終らないのかよ」などという印象を生んでしまうものだが、さすがインバルはそのあたりの設計が巧い。少しも緊張感を失わせず、再び最後の昂揚へ全軍を率いて突き進んで行った。
 このように、ひたすらクライマックスへ追い上げて行くインバルの指揮には、相変わらず凄味が漲っている。コンツェルトハウス管弦楽団も、鮮やかにそれに応えていた。

※コメントにつき☞前日の項

※この件に関するコメントが次第に荒れて来たので、本意ではありませんが、19日正午以降のご投稿分6通を削除させていただき、「以上」といたします。議論には節度を。

3・12(日)ウルバンスキ指揮NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 北ドイツ放送響が、今年からNDR(=北ドイツ放送)エルプフィルハーモニー管弦楽団という名称になった由。
 要するに、ハンブルクに今年1月開館したエルプフィルハーモニーという名のホール(音響設計者は永田音響の豊田氏)を本拠とするようになったので、オケもこの名称に変えたのだとか。

 首席指揮者はトーマス・ヘンゲルブロックだが、今回は首席客演指揮者のクシシュトフ・ウルバンスキとともに来日した。
 プログラムは、ベートーヴェンの「《レオノーレ》序曲第3番」と「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストはアリス=紗良・オット)、R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。なお、アリスのアンコールはまたグリーグの「山の魔王の宮殿にて」、オーケストラのアンコールはワーグナーの「《ローエングリン》第3幕前奏曲」。

 若手の鬼才ウルバンスキの指揮は、彼が東京響の客演指揮者を務めていた時代に聴いて、舌を巻いたことも一度や二度ではない。そうした気鋭の指揮者が、ドイツの強豪オーケストラと一緒にどんな音楽をやるか━━それが興味の的だった。

 その共同作業は、今回たった一度聴いただけだが、なかなか面白い。ウルバンスキは、前半のベートーヴェンの2曲において、あたかも偉大なドイツ魂といったものを尊重し、併せてこのドイツのオーケストラへの敬意を表すかのように、重厚壮大な音楽をつくり出した。奇を衒わず、真摯に、時には沈思するような表情をもって作品と相対するといった感である(以前、東京響とモーツァルトの「交響曲第40番」を初めて演奏した際、ちょうどこういう音楽づくりだったのを思い出す)。

 そしてそのあと、後半の「ツァラトゥストラはかく語りき」に入るや否や、今度はオレの流儀でやらせてもらうと言わんばかりに、音色、バランス、テンポなどにじっくりと趣向を凝らし、一癖も二癖もある演奏をつくり上げる。こういうところがウルバンスキの面白さだろう。

 特にその前半では、彼は極度に遅いテンポを採った。彼のテンポの遅さは今に始まったことではなく、東京響とのブラームスなどでも何度か驚かされたものだったが、今回の「ツァラ」でのテンポ解釈もかなり極端で、えらく長い曲に思えたほどである。
 といって楽曲が崩壊するなどといった演奏では全くなく、その表情の濃密さと、オーケストラから引き出した色彩感と、荒々しいデュナミークのスリリングな対比は、明確に保たれていたのだ━━今回私が聴いた4階席からの印象では、そうだった(2階席あたりで聴くと、だいぶ印象も違ったらしいが)。

 かつてはシュミット=イッセルシュテットやヴァントら、ドイツの巨匠たちに育まれたこのオーケストラも、最近はヘンゲルブロックや、このウルバンスキという鼻っ柱の強い若者らを指揮者陣に迎えて、かなり変貌して来たと聞く。
 だが、例えば今日のベートーヴェンの作品などを聴くと、そこにはちゃんとドイツのオーケストラならではの強靭な個性が保たれているように感じられる。そこがこのオーケストラのプライドというか、土性骨というか、立派なところなのだろう。

※コメントにつき、「仲裁したらどうですか」という別メールを頂戴しましたが、私はそんな徳のある人間ではないので、仲裁はしません。特に口汚いコメントは削除しておりますが、大体は「なるほど、そういう見方もあるか」と、興味深く読ませていただいております。議論大歓迎、です。
 ただ、単語の一つだけにこだわったり、言葉尻をつかんだりして議論していると、肝心な大筋を見誤るおそれがありますので、そのあたりにはご注意を。

2017・3・11(土)上岡敏之指揮新日本フィル マーラーの第6交響曲

       すみだトリフォニーホール  6時

 「すみだトリフォニーホール開館20周年記念」に「すみだ平和祈念コンサート2017」を組み合わせた演奏会の一環。2011年3月11日の「東日本大震災」と、下町方面で10万人の死者を出した1945年3月10日未明の所謂「東京大空襲」の犠牲者を追悼する演奏会のひとつ。

 予定されたプログラムは、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」。コンサートマスターは崔文洙。
 上岡敏之が指揮するマーラーは、例のごとく一風変わった演奏だが、作品に新しい視点を提示してくれるという意味からも興味津々たるものがある。

 今回も予想通り、かなり個性的な演奏になった。
 冒頭の弦楽器群による荒々しい行進からして、普通の演奏に聞かれるような闘争的な、攻撃的な表情ではない。重心はしっかりしているけれども、極端に言えば一種の浮遊感さえ漂わせる不思議な軽いリズムだ。また、例のイ長調からイ短調へ一瞬のうちに移行する第57~60小節の個所でのティンパニも、狂暴な音量ではない。
 ━━というような特徴から、ちょっと拍子抜けのような感を与えられる。だが、スコアには、これらの個所はいずれもffやfff ではなく、単に「フォルテ」と記されているのであり、そこだけは上岡の指揮もスコアに忠実だったと言えるだろう。

 とはいえ、概してその他の個所では、上岡らしいテンポの自在な伸縮や変化が聞かれる。
 問題は、それらの個所で━━特に第1楽章においては、オーケストラがそのテンポの変化に応じられず、戸惑いつつ慌ててテンポを変えるというような演奏が、明らかに聞こえたのである。練習不足だったのか、それとも指揮者の即興だったのか? 
 ただしそのあと、両者の呼吸も次第に合って来たらしく、第4楽章ではそれなりのまとまりも聴かせてくれた。

 今日の演奏を聴いて、概して感じられることは、上岡の指揮は如何にも彼ならではの柔軟な自在さを保っているが、新日本フィルのほうが━━と言っては酷かもしれないから、両者の呼吸が、と言い直しておこうか━━昨年、彼との協同作業が始まった時期よりも、逆に「合わなくなって来た」のではないか、という点だ。
 歯に衣着せずに言えば、このところの新日本フィルの「音」は、アルミンクにより建て直される以前の、1990年代に逆戻りしたような印象がなくもないのだ。

 思えば、1972年の創立以来、小澤征爾、小泉和裕、井上道義、少し飛んでアルミンク━━といったような傾向の人たちをシェフに置いて来た新日本フィルは、今回、上岡敏之という、全く異なる指揮のスタイルをする人を迎えている。それゆえ、今のオケの粗さは、その変化への過渡期の単なる一時的な産物に過ぎないとも言えるだろう。いや、そうとでも思わなければ、創立以来このオケを聴き続けて来た者としては、やりきれない。

 この曲だけで今日は当然終りだと思い込んでいたら、意表を衝いてアンコール。マーラーの「第5交響曲」からの「アダージェット」が演奏された。これは、周知のように、6年前の「あの日」に、このオーケストラがハーディングの指揮で演奏した交響曲からのものだ。

 この「5番」のほうは、13日にインバルとベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団が全曲をこのホールで演奏することになっているが、新日本フィルがそれを一部先取りしたのは、「トリフォニーのあるじ」としての意地か挨拶か、それとも犠牲者への追悼の意味を含めてか。
 とにかく、遅いテンポによる矯めをいっぱいに保持しての弦とハープの沈潜した叙情的な演奏はこの上なく美しく、これこそが今日の演奏会における白眉であった。━━こういう、息の合った演奏だって、可能なのである。

※楽章順序が「マーラー協会版」であることは重々承知しておりましたが、うっかり書き間違えてしまいました。みっともない話ですね。ご指摘下さった方にお礼を申し上げます。

2017・3・9(木)「不信━━彼女が嘘をつく理由」

      東京芸術劇場シアターイースト  7時

 マチネーの終演後、そのまま東京芸術劇場の建物の中にとどまり、パソコンで仕事をしながら、夜の演劇上演の開始を待つ。

 「株式会社パルコ」の企画制作による、三谷幸喜の作・演出のドラマだ。舞台が中央に設置され、その両側を満員の観客がぎっしりと埋める。
 出演は段田安則、優香、栗原英雄、戸田恵子の4人のみ。隣同士に暮らす2組の夫婦━━妻は2人とも嘘をつく。1人は不倫を隠し、1人は万引き嗜好の性格を隠す。自らも不倫を隠していた前者の夫は妻を許し、清廉寛容だった夫は、異常性格の妻を殺す。

 大雑把に言ってしまえばそれだけのストーリーだが、その中に三谷幸喜らしいユーモアと皮肉が織り込まれているのが見ものだ。
 主婦のお節介としつこい好奇心が他人の家庭に要らざる悲劇を生じせしむ━━というのはTVドラマにもよくある設定で、私はうんざりするので見るのも嫌なのだが、今回の三谷ドラマはそれをサラリとコミカルに描いていたし、役者さんも巧いので、ある程度我慢でき、芝居としては充分に愉しむこともできた。正味2時間ほどの上演時間。

2017・3・9(木)飯守泰次郎指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 これは定期演奏会のCシリーズ。
 最近東京でも増えて来た平日マチネーの定期は好評のようで、客の入りもなかなか良い。年輩の客ももちろん多いが、まだ現役のように見える中年の客も結構来ているようで、━━拍手はやはり温和しい。大きな音で手を叩かないタイプのお客さんが大半か。ただし今日は、飯守ファンもかなり詰めかけていたようで、そういう人たちがブラヴォーを叫んで客席を盛り上げていた。

 プログラムは、前半がベートーヴェンで、「《レオノーレ》序曲第3番」と、「交響曲第8番」。後半がワーグナーで、「《さまよえるオランダ人》序曲」、「《ローエングリン》第1幕前奏曲」、「《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕前奏曲」、アンコールに「《ローエングリン》第3幕前奏曲」。コンサートマスターは四方恭子。

 ベートーヴェンの2曲は、比較的大きな編成で、どっしりとした響きの裡に、風格を湛えて演奏された。「レオノーレ」ではやや遅いテンポが採られ、「8番」に入ると演奏もその作品の性格にふさわしく闊達に変化するものの、ここでもやはり、良き時代のドイツの指揮者のスタイルの流れを曳くような、重心豊かな、毅然とした音楽が続く。

 そして後半のワーグナーの作品に入るや否や、オーケストラの音量は突如として2倍ほど増大し、金管群の咆哮が壮烈に轟きわたる。これで弦のトレモロなどにもう少し分厚い力と陰翳が加われば文句ないのだが━━。いずれにせよ、この鳴りっぷりの良さには、特に「さまよえるオランダ人」など、久しぶりに昔、フランツ・コンヴィチュニー指揮の全曲盤を聴いて興奮した時の感覚が蘇ったくらいである。
 ベートーヴェンにしても、このワーグナーにしてもそうだが、いずれも飯守の個性が発揮されている。そこには、己の指揮スタイルを頑固に貫き続ける彼の信念が感じられる。

 演奏を聴いていると、どうも飯守と都響との相性は必ずしも良いとは感じられない。彼はもともとアンサンブルをぴたりと整えるタイプの指揮者ではないから、それはある程度オーケストラ側の自主性に任されることになろう。
 ただ、都響のアンサンブルは、今日はかなりガサガサしていて、とりわけ最強奏になると音が非常に硬くなり、美しさの片鱗も無くなってしまっていた。あのインバルから鍛えられて強固な均衡をつくり出したはずの都響も、いったん指揮者が変われば、こうもすべてが粗っぽくなってしまうのかと、些か落胆する。
 楽員の腕は相変わらず確かであることは感じられるし、マチネーだからと言って手を抜いているわけではないだろうけれども━━。
      ☞別稿 音楽の友5月号 Concert Reviews

2017・3・5(日)ワーグナー「ラインの黄金」2日目

       滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時

 今日は別キャスト。
 ヴォータンを青山貴、フリッカを谷口睦美、ドンナ―を黒田博、フローを福井敬、フライアを森谷真理、エルダを池田香織、ローゲを清水徹太郎、ファフナーをジョン・ハオ、ファゾルトを片桐直樹、アルベリヒを志村文彦、ミーメを高橋淳、ラインの乙女たちを小川里美、森季子、中島郁子。
 いい配役だ。

 青山貴は、前日のヴォータンよりもはるかに立派な神々の長としての風格と声を備えていた。彼のヴォータンを聴いたのはこれが3度目くらいになるが、いよいよこの役柄を完全に手中にしたようである。
 また黒田博も、前日の頼りない声のドンナ―とは桁違いに、力のある雷神として雲と稲妻を呼集していた。

 前日に可憐なイメージで歌い演じた砂川涼子と対照的に、森谷真理が芯の強い声と感情の動きの激しい演技で美の女神フライアを闊達に表現し、存在感を出していたのも興味深い。谷口睦美も上品な奥様然とした女神フリッカを歌い演じ、前日の小山由美とは全く違ったタイプの「ヴォータンの妻」を表現している。

 ミーメの高橋淳は、ベテランの巧さというべきか。この哀れっぽくヒステリックな、しかし腹に一物あるような表現は、もし彼が再来年の「ジークフリート」にも出るようであれば、非常に面白いキャラになるかもしれない。
 そしてローゲは━━今日の清水徹太郎も、昨日の西村悟に肉薄するキャラクター表現で注目を浴びた。演技と歌唱にもう少し皮肉とワルの表情が増せば、立派なローゲになれるだろう。
 それにしても、この3人といい、昨日の与儀巧といい、性格派テナーに良い歌手が揃っているのは頼もしい。

 ハンペの演出については、職業上、2日連続して詳細に観たわけだが、所謂ドラマトゥルギーが無く、単純なト書きのなぞりにとどまるため、「考えさせられる」要素が皆無なので━━正直言って、2回観ると、失礼ながら、少々飽きる。
 とはいえ、この演出スタイルが無意味だとか言うつもりは、全くない。むしろ、これで「ラインの黄金」の内容が広い層に理解され、「指環」の続きを来年以降も観に来ようというファンが増えてくれればと、そちらの方に期待を繋ぐ次第である。
 東京・横浜以外で「指環」が舞台上演されるのは、もしやこのツィクルスが史上初か? そうであればなおさらのことだ。少なくとも、以前ここでジョエル・ローウェルズが手がけた「策士、策に溺る」的な、捻り過ぎた演出の「ヴァルキューレ」のような路線は、西日本地区初の「指環」には適さないだろう。

 そのハンペの、今回唯一の(?)新機軸で話題になったのが、あの「剣」をエルダがヴォータンに与える、という設定だ。地下から半身を現したエルダが、ローエングリンさながらに剣を体の前に立てているのには微苦笑させられる。そして彼女は、剣をヴォータンに直接手渡すのではなく、それを掲げたまま姿を消してしまう。そのあと、ヴォータンのモノローグのさなかに、地下から剣の柄だけがスルスルと姿を現す━━という不思議な新解釈なのだ。

 だがこの設定には、大きな疑問がある。
 第一に、ドラマ全体から考えても、智の女神エルダと「剣」とは、どうしても結びつくまい。彼女の地下の世界で、こんな「剣」がなぜ作れるのか? 
 しかも、「呪いの指環の危険から逃れよ」と警告しに来たエルダが、その指環を奪還するための象徴たる「剣」(のちのノートゥング)をヴォータンに提供するはずがないではないか。単なる「お守り」にどうぞ、という意味なら、冗談が過ぎるだろう。

 第二に、あそこで管弦楽に輝かしく登場する「剣の動機」は、あくまでヴォータンの胸に浮かんだ「ある素晴らしい考え」を、歌詞抜きに音楽だけが暗示するという、ワーグナーの巧みな「ライトモティーフ手法」なのである。その「考え」とは、次の「ヴァルキューレ」において初めて具体的に説明されるものであり、「ラインの黄金」では未だ「謎━━」にとどめておく、というのがワーグナーの狙いのはずではなかったか?

 昨年の「さまよえるオランダ人」のラストシーンで「すべては舵手の夢でした」として、「愛による救済」というワーグナー生涯の思想を無慚にも吹っ飛ばしてしまった解釈といい、どうも最近のハンペの「新解釈」は、単なる思い付き程度の水準のものに終わるものが多いようである。いっそ、何から何まで「ト書き遵法主義」に徹したほうが、よほど本来のハンペらしくて良いのではないか。

 京都市交響楽団。細かいところでは、昨日の方が一段良かったかな、と思うところもないではなく、金管群、特にホルンなど、今日は少し慎重になったか、あるいは意識し過ぎたか、と感じられる個所もあったのは事実だが、しかしやはり、卓越した演奏には違いなかった。立派なオーケストラである。

 そして何より、このオーケストラおよび歌手たちを見事にまとめた沼尻竜典の指揮を讃えたい。ある意味で散漫なこの「ラインの黄金」のスコアを、極めて精緻に丁寧に構築した彼の音楽づくりは、「指環」のこのあとの作品で、特に濃密な叙情美においていっそうの良さを発揮することになるだろう。びわ湖ホールの芸術監督としての彼の努力と成功にも、賛辞を捧げよう。
 またその賛辞は、この大プロジェクトに踏み切ったびわ湖ホールにも贈りたい。

2017・3・4(土)ワーグナー「ラインの黄金」初日

       滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時

 びわ湖ホール(芸術監督・沼尻竜典)の「ニーベルングの指環」が、ついに幕を開けた。4年がかりの上演で、今年は「ラインの黄金」(2回公演)である。
 沼尻竜典が京都市交響楽団を指揮してピットに入り、演出はミヒャエル・ハンぺ、舞台美術と衣装はヘニング・フォン・ギールケ、映像はヒビノのCOSMICLABが担当している。

 ハンぺの演出は、この人らしく極めてストレートで、昔ながらの写実的な手法で統一されている。昨年の「さまよえるオランダ人」同様に映像を多用し、紗幕を効果的に使って幻想的な効果を出す。
 ライン河底の場面はすべて映像による「水」の躍動で彩られ、紗幕の向こう側に乙女たちとアルベリヒがおぼろげに見える。その動きにシンクロして映像の「乙女たち」が軽やかに泳ぎ回る(これが魚に見たいに見える)という具合。

 山上の場では、背景に拡がる巨大な山脈と、その一角にそびえる「石の高層建築物」的なヴァルハル城の光景が、すこぶる写実的だ。
 二―ベルハイムの場は予想外にシンプルだが、大蛇と蛙は実に面白く出来ているだろう。 
 ヴァルハル入城の場では虹がかかり、神々が実際にその虹の橋を渡って行くような光景がつくり出されて、この辺はギールケも上手くやっているという印象である。

 まあこの舞台の印象は、早い話が、METで以前やっていたオットー・シェンクの演出に映像を加えたようなスタイル、とでも言ったらいいか。
 思想的な新解釈や、革新的な表現とかいった要素は無いものの、昨年の「さまよえるオランダ人」と同様、ここまで徹底してト書きに忠実に「解り易く」構築されれば、それはそれで一つの存在意義があるだろう。暴走した破壊的な演出も多い当世、この写実的な演出でやっとこのドラマの内容が解ったという観客も多いだろうから、一概に保守的だとか陳腐だとか非難するのは無意味である。

 なおこの演出では、剣(のちのノートゥング)を、エルダがヴォータンのために地上に残して行く、という解釈が行われていた。剣の出所についてはワーグナーも台本で触れておらず、謎になっていたので、これだけは興味深い新解釈と言えるだろう。

 沼尻竜典の指揮は、予想外にテンポが遅い。演奏時間は、多分2時間30分前後ではなかろうか。レヴァインやメータ、ケント・ナガノ、飯守泰次郎らが指揮した、2時間35分とか2時間40分という数字に比べれば決して遅いものではないとはいえ、他の多くの指揮者が2時間25分前後、もしくは2時間20分ほどでやっているのに比べれば、やはり遅く聞こえる。
 非常に丁寧に、じっくりと音楽を構築して聴かせるという指揮である。劇的なたたみかけとか、ドラマの推移の上での迫真力━━という点では、特に前半、少し緊迫感が薄れたという印象がなくもないが、精緻な音楽づくりがそれを補って充分なものがあった。

 それにしても、京都市交響楽団の演奏は、絶賛に値する。濃密で厚みのある、些かの揺るぎもない響きは、まさに卓越した素晴らしさだ。
 冒頭のホルン群や弦のざわめきの美しさをはじめ、「二―ベルハイム下降」での豪壮さ、「ファゾルトの死」での金管とティンパニの壮烈さ、「神々のヴァルハル入城」での総力を挙げた全管弦楽の均衡美豊かな昂揚など、わが国でこれだけ「ラインの黄金」を美しく力に満ちて完璧に演奏したオーケストラを、私は初めて聴いた。
 もちろん沼尻の優れた制御もあってのことではあるが、とにかく、こういうオーケストラをピットに入れて「指環」を上演できるびわ湖ホールは幸せではなかろうか。新国立劇場のピットに、一度来てもらいたいほどだ。東京のオケも顔色を失うだろう。

 歌手陣はダブルキャストで、今日の配役は、ヴォータンをロッド・ジルフリー、フリッカを小山由美、ドンナ―をヴィタリ・ユシュマノフ、フローを村上俊明、フライアを砂川涼子、エルダを竹本節子、ローゲを西村悟、ファフナーを斉木健詞、ファゾルトをデニス・ビシュニア、アルベリヒをカルステン・メーヴェス、ミーメを与儀巧、ラインの乙女たちを小川里美、小野和歌子、梅津貴子。

 概ね粒が揃っているけれど、今日は特に、女声陣が優勢という印象だ。落ち着きと貫禄のフリッカの小山由美を筆頭に、愛らしく清純なイメージのフライアの砂川涼子、地下から出現して凄味を利かせたエルダの竹本節子、それに紗幕の彼方で安定したアンサンブルを聴かせてくれた小川らラインの乙女3人━━がいずれも映えた。

 男声陣では、初役の西村悟が驚異的な出来栄えを示して大拍手を浴び、われわれ業界関係者の話題をも集めた。
 ローゲとしての歌唱はもちろん、赤い髪の軽薄なワルといったメイクにより、皮肉っぽい表情で立ち回る演技は極めて微細なものがあり、ジルフリーやメーヴェスを相手に、些かも引けを取らぬ芝居を見せていた。西村悟のオペラ出演では、これまで高関健指揮の「ファウストの劫罰」のファウスト、山田和樹指揮の「椿姫」のアルフレードなどを聴き、若々しく伸びのいい声が印象に残っていたが、今回のローゲは大収穫である。今後が楽しみだ。

 他に、ミーメの与儀巧もいい。
 外国人勢では、アルベリヒ役のメーヴェスが、「ライン河底」の紗幕の向こう側ではやや手抜き的演技だったが、「二―ベルハイムの場」以降では本領を発揮。ジルフリーは、ヴォータンを歌ったのは今日が初めてとのこと。ドン・ジョヴァンニなどでの爽快な歌唱が素晴らしかった彼としてはやや線が細い感もあったが、「ラインの黄金」での若いヴォータンとしては、まあ悪くもないか。
 概して外国人勢よりも日本人歌手陣の方が、聴き応えがあった。

2017・2・27(月)METライブビューイング
   グノー:「ロメオとジュリエット」

      東劇  7時

 メトロポリタン・オペラ、今年1月21日の上演ライヴ映像。
 バートレット・シャー(シェア)による新演出で、指揮はジャナンドレア・ノセダ。

 出演はヴィットーリオ・グリゴーロ(ロメオ)、ディアナ・ダムラウ(ジュリエット)、ミハイル・ペトレンコ(ローラン神父)、ロラン・ナウリ(キャピュレット)、エリオット・マドール(マキューシオ)、ヴィルジニー・ヴェレーズ(ステファーノ)他。
 ティバルト役はMETのシーズンブックにも歌手名が載っておらず、スクリーンのクレジットも見逃したので、とりあえず不明。

 シャー(シェア)の新演出は、舞台装置(マイケル・ヤーガン)とともにストレートかつ基本的にトラディショナルなスタイルだが、細部はかなり綿密かつ演劇的につくり上げられていて、舞台転換の場面などもなかなか巧く考えられているので、まず過不足ない出来と言っていいだろう。
 ノセダの指揮もすこぶる壮大であり、グノーの音楽がシンフォニックに、劇的描写の巧みなものに聞こえる。

 主役の2人の歌唱が実に素晴らしく、演技も動きが激しく情熱的なので、他の脇役たちの物足りなさを補って余りある。METの前プロダクション(ガイ・ヨーステン演出)での、ライブビューイングでも紹介されたアラーニャ&ネトレプコのコンビに勝るとも劣らぬステージであろう。
 上映時間は休憩1回を含めて約3時間15分ほど。進行を担当したのはアイリーン・ペレス(ソプラノ)だが、彼女はMETデビュー自体がほんの2年前(ミカエラ役)というから、随分早く進行役に抜擢されたものである。

 なお、マキューシオ、ティバルト、ロメオらが決闘する場面は、今回は剣を使ったかなり派手なものになっていたが、欧米の歌手たちの大立ち回りの上手さにはいつも感心させられる。
 METの前プロダクションにおけるヨーステン演出の時にも、ジョン・健・ヌッツォがティバルト役で出ていて、彼もまた白刃を振りかざして凄い立ち回りをやっており、私はそれを現地でナマで観て、よくまあ怪我しないものだ、と冷や冷やした記憶がある。
 歌手たちも、そういう訓練をやるのである。昔マリインスキー劇場のリハーサル室で、剣を使っての決闘シーンの練習をやっていたのを見学したことがあるが、それはもう凄まじく迫真的なものだった。うっかり傍に近づくと、こちらが怪我しかねない迫力。なるほどさもありなん、と舌を巻いたものであった。

 因みに、あのヨーステン演出を私がMETで観た時には、主役の2人はラモン・ヴァルガスとナタリー・デセイだったが、第4幕では2人の「ベッド」が空中高く上がって行き、背景と舞台中に星がいっぱいに煌めき、しかもベッドから垂れ下がっているレースが風にはためき続けている━━という、非常に幻想的な仕掛けだった。
 もっとも私が観たあとの何回目かの上演では、舞台機構が故障してそのベッドが降りなくなって大騒ぎになった、ということもあったそうだが。

2017・2・26(日)新垣隆の室内楽コンサート

    Hakuju Hall  7時

 「音楽との出会いⅡ 室内楽の愉しみ ~作曲家・ピアニスト 新垣隆とともに~」というのがコンサートのタイトル。
 ドビュッシー~ウェブスター編の「小組曲」、ドビュッシーの「クラリネットとピアノのための第1狂詩曲」、プーランクの「城への招待」、ラヴェルの「ツィガーヌ」、新垣隆の自作「楽興の時」と「メロディー」、バルトークの「コントラスツ」。
 協演はクラリネットの西尾郁子とヴァイオリンの浜野考史(各ニューシティ管弦楽団の奏者・客員コンサートマスター)。

 新垣隆のピアノの才能は夙に知られているところだが、私は聴いたのが実は今日が初めて。野太い音色と強靭なタッチでフランス音楽を弾く。なかなかの腕前だ。━━ただし、トークは全然上手くない(?)。テレビで拝見したり、ラジオで聞いたりした時には、もっと上手いと思っていたのだが・・・・。
 今日は彼のソロはなかった。ジャズ的なアドリブを入れたりするのが巧いとの噂だから、次はそういうのを聴いてみたいものだ。

2017・2・26(日)ファウスト、ケラス&メルニコフ

    神奈川県立音楽堂  2時

 イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)、ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)、アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)がトリオを組んでの演奏会。現代の名手たちの三重奏とあって、「音楽堂ヴィルトゥオーゾ・シリーズ17」には満員に近い聴衆が詰めかけた。
 プログラムは、シューマンの「ピアノ三重奏曲第3番」、エリオット・カーターの「エピグラム」、シューベルトの「ピアノ三重奏曲第1番」と、これまた魅力的なものだった。

 最大のスリリングな体験は、やはりカーターの「エピグラム」だったであろう。3年前にピエール=ロラン・エマールらによって日本に紹介された時の演奏は聴いていなかったので、今日は興味津々であった。
 驚くべき作品である。鋭い音たちが断続しつつ、強い緊迫感をもって織り成して行く時間は、一瞬の安息をも与えてくれない。3人の演奏も凄いが、そもそもこの作品が103歳の高齢の作曲家によって書かれたということ自体に、信じられぬような、空恐ろしいような気がする(カーターは2012年に満103歳で亡くなっている)。

 一方、シューベルトのトリオは、私が好きな曲だし、これを目当てに聴きに行ったようなものだから、大いに堪能できた。ロマン派的な流麗な演奏とはほど遠い、一つ一つのフレーズを明晰にクローズアップするようなスタイルで演奏されるので、全体にごつごつした厳しい造型感が浮き彫りにされる。それだけに、シューベルト特有の絶え間ない転調がはっきりと印象づけられるが、これがまたこたえられない素晴らしさなのだ。

 天気が良く、春の近づきを感じさせる日だったからよかったものの、桜木町駅から音楽堂に向かう途中のあの「紅葉坂」だけは、やはり難所だ。たいした勾配ではないにもかかわらず、どうしてあそこは、いつもあんなにきつい坂に感じられるのだろう? 帰りはそこを矢のように(?)下って、京浜東北線、東急東横線、地下鉄半蔵門線、地下鉄千代田線と乗り継ぎ、代々木公園駅近くのHakuju Hallへ向かう。

2017・2・24(金)川瀬賢太郎指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団

      愛知県芸術劇場コンサートホール  6時45分

 第443回定期公演で、ショスタコーヴィチの交響詩「十月革命」、ハチャトゥリヤンの「フルート協奏曲」(ソロは上野星矢)、プロコフィエフのカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」(合唱はグリーン・エコー、アルト・ソロは福原寿美枝)。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 すこぶる意欲的なプログラムだ。重量感からいっても、先頃の井上&大阪フィルのショスタコーヴィチ2曲に勝るとも劣らないだろう。
 川瀬賢太郎のつくる音楽がスケールも大きく、風格もある。若い指揮者の成長ぶりを目のあたりにするのは、うれしいことだ。

 「十月革命」は、冒頭でのオーケストラの確信に満ちた音の拡がりからして立派である。名古屋フィルと、その「指揮者」のポストに在る川瀬との呼吸も、充分に合っているように感じられた。
 「アレクサンドル・ネフスキー」も、前半の、特に叙情的な部分では、重厚でありながら色彩感も湛えた情感豊かな演奏に心を打たれる。第5曲「氷上の戦い」の冒頭など、不気味な緊迫感に満ちて見事だったし、また後半の弦の叙情的な部分は、この上なく美しかった。

 ただし、ステージ下手側手前に配置された打楽器群は、異様に音が大きすぎた。「十月革命」の終結といい、「ネフスキー」のクライマックス個所といい、打楽器群が爆発すると、もう他の楽器が何も聞こえなくなり、音楽全体が混濁して、すべてが騒々しい混沌の状態になってしまうのはいけない。シンバルなど、ただ強引にぶっ叩くといった雰囲気で、バランスへの配慮も何もないように感じられる。
 特に「氷上の戦い」では、小太鼓が走り過ぎるのか、それとも低弦や合唱が遅れるのか、とにかくステージの下手側と上手側の楽器のリズムが全く合っていなかったのはどういうことか? 

 声楽部分では、第6曲「死せる野」で歌った福原の深みのある、暗い音色のアルトは、まさにこの曲にぴったりだろう。彼女はこういう厳しい曲想の音楽に関しては、最高のはまり役だ。
 一方、コーラスは何語で歌っているのか判然とせず、ほとんどロシア語のようには聞こえなかったが、これはまあ仕方がないだろう。

 この2曲の間に演奏された「協奏曲」は、私はやはり原曲の「ヴァイオリン協奏曲」の方がハチャトゥリヤンらしく野性美も豊富だし、音量的にもバランスが取れているので好きなのだが、しかし今日のフルート協奏曲編曲版における上野星矢のヴィヴィッドな演奏は、愉しめた。
 8時50分頃終演。新幹線で引き返す。

2017・2・23(木)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフが聴かせてくれたのは、ストラヴィンスキーの「ロシア風スケルツォ」と「火の鳥」組曲(1945年版)と、その2曲の間にプロコフィエフの「交響的協奏曲(チェロ協奏曲第2番)」。
 チェロのソリストがアンドレイ・イオニーツァ、コンサートマスターは近藤薫。

 「ロシア風スケルツォ」が、異様に遅いテンポで演奏されたのにまず驚く。
 多くの指揮者が採るような軍楽調の元気のいいテンポだって、あまりスケルツォ的な雰囲気にはならないと思うけれども、こんな重々しく揺れ動くような演奏では、ますますスケルツォのイメージから遠くなる。
 「ロシア風」という題名ゆえに、もしやロシアではこういうスタイルが基準になっているのかと気になり、あとで二、三のCDを調べてみたが、どうもそうでもなさそうだ。やはりプレトニョフ独自の解釈なのだろう。

 「火の鳥」も遅めのテンポでじっくりと進め、特に大詰の個所では悠然と間を取りながら締め括った。
 それは些か劇的効果を薄めていたのは事実だが、近年のプレトニョフの指揮には、昔の颯爽とした音楽運びを売り物にしていた時代にはなかったような不思議な「色合い」と「味」が備わるようになっており、それが全てを救っていたことは事実だろう。

 ただし、今の彼は、かつてのような、きりりと引き締まったアンサンブルを東京フィルに求める気はないようで、それが今日の演奏では、必ずしもいい効果を生んでいなかったようである。曲の終り近く、オケが揃って分厚い和音を響かせるくだりで、初めてアンサンブルの威力が発揮されたという感であった。

 「チェロ協奏曲」では、何しろソリストのアンドレイ・イオニーツァ(ブカレスト生れ、今年23歳)が痛快無類の演奏である。2015年のチャイコフスキー国際コンクール優勝者の本領ここにあり、という快演だ。曲がまた豪快で物凄いから、演奏もまたラフ・ファイトのごとく、オーケストラにつかみかからんばかりの勢いになる。その一方、叙情的な個所での瑞々しさも光っていた。実に面白い。
           ☞別稿 音楽の友4月号  Concert Reviews

2017・2・22(水)井上道義指揮大阪フィル東京公演

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 先週の大阪での定期公演と同じプログラム、ショスタコーヴィチの交響曲「第11番」と「第12番」を引っ提げての東京公演。チケットは完売とか。

 今日は浜離宮朝日ホールでマーク・パドモアとティル・フェルナーの「冬の旅」があり、当初はそちらを聴きに行く計画だったのだが、大阪での井上と大フィルとがあまりに入魂の演奏だったので、もう一度聴いてみたくなった、というのが、池袋へ足を向けた所以である。

 フェスティバルホールと、ここ東京芸術劇場とでは、アコースティックが全く異なる。前者に比べ後者は残響が多いので、大阪で聴いた時よりは音に膨らみと余韻が感じられる。 
 ただ━━いつも座る2階席正面で聴いた限りでは━━今日は妙にティンパニの音が鈍重に唸って「回り気味」で、そのためフェスティバルホールで聴いた時のような歯切れの良さや小気味よいダイナミックな衝撃性が、かなり失われた感があったのは惜しい。これは多分、楽器の位置の問題から生じたものではないかと思われる。大阪フィルはこの東京芸術劇場には慣れていないはずだから・・・・。

 だがそうしたことを別にして、井上道義と大阪フィルは、今夜も大熱演を聴かせてくれた。

2017・2・21(火)音楽×ダンス×スイーツ

   Hakuju Hall  7時

 「第4回アート×アート×アート〈音楽×ダンス×スイーツ〉チェンバロと踊る”お菓子“な世界 ~聴覚、視覚、味覚で体験する驚異のコラボレーション」というのがコンサートのタイトル。
 出演は、鈴木優人(チェンバロ)、菊地賢一(パティシェ)、TAKAHIRO(上野隆博)ら計5人のダンサーたち。

 鈴木優人が、バッハの「半音階的幻想曲とフーガ BWV903」、クープランの「神秘的なバリケード」、ラモーの「めんどり」と「未開人の踊り」、武満徹の「夢見る雨」、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」からの「アリア」、マドンナの「ハング・アップ」を弾く。
 同じステージでTAKAHIROら5人のダンサーたちが踊り、上手側では菊地賢一が菓子をつくる。
 そして3人のトークが入る。

 ━━こう書いただけでは何が何だか解らぬ滅茶苦茶なステージのように思えてしまうだろうが、実際にはこれらが不思議な調和を醸し出して、お客を笑わせ愉しませ、演奏をもちゃんと聴かせるというコンサートになるのだから、面白い。
 たとえば、演劇風のダンスが続いていた瞬間に舞台上の全員の動きがストップし、間髪を入れず「ゴルトベルク変奏曲」が始まるというその取り合わせの可笑しさは、実際にそれを見、かつ聴いてみると、実に納得が行くのである。

 その間には、ダンスの「音ハメ」を実験してみせたり、3分間の演奏の中でスイーツを作ってみせたりという余興も入る。ホール内には、最初から美味しそうな香り(チョコレートの香りだとか)が漂う。
 休憩時間にはパティスリー「レザネフォール」による数種類のスイーツがチケット所有者に振舞われ、ホワイエは大混雑だったようだ。私はもう初めから争奪戦参加は諦めて、客席に残っていたのだが、結局最後にマカロンなど2個にありつくことができた。

 一風変わったチェンバロ・コンサートではあるが、このように既存の枠を外した演奏会は出来るものなら何でもやってみるのがいい、と私はふだんから思っている。結果さえ良ければ大いに結構ではないか。
 まあ、今回は、もう少しダンスが積極的に音楽に絡み、もっとスイーツの製作が演奏行為と関連づけられるような手法が欲しかったところではあるが。

 なお、演奏が行われているその同一平面上でダンスが繰り広げられるのは、何か煩わしくなるのではないか、と、見たり聴いたりする前は危惧していたのだが、意外に違和感がない。チェンバロ・コンサートの場合には、バロックだろうと現代音楽だろうと、むしろうまくマッチングするようだ。
 それは鈴木優人さんがステージで語っていたように、チェンバロの「音」の性格によるものなのだろう。ギイ・カシアスやアンドレアス・クリーゲンブルクがワーグナーの「指環」の音楽と舞台にダンスを入れた上演が煩わしさを感じさせた例とは、そこが違うようである。

2017・2・19(日)笈田ヨシ演出、中嶋彰子主演「蝶々夫人」

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 笈田ヨシのオペラ演出を拝見するのはこれが最初なのだが、舞台上の演技や性格描写がかなり細かいのに驚いた。
 未整理に感じられるところはあるとはいえ、コンサートホールという制約の多い舞台で、これだけ細部まで神経を行き届かせ、性格描写に重点を置いた演出をつくり出したのは立派であったと思う。

 たとえば終幕で、ピンカートン(ロレンツォ・デカーロ)に対し、これだけ激しい怒りと軽蔑感を露わにした領事シャープレス(ピーター・サヴィッジ)は稀ではなかろうか。
 ピンカートンの新妻ケート(サラ・マクドナルド)の存在は、旧版スコアから一部が再現されて挿入されることにより、蝶々さんとのやりとりを通じて、明確になった。スズキ(鳥木弥生)は第1幕でピンカートンの揶揄を毅然と撥ねつけ、蝶々さんとの愛を見据えた上で彼女を守ろうとする女性として描かれた。

 そして、蝶々さん(中嶋彰子)自身も、第2幕の最初からピンカートンがもう帰って来ないのではないかという疑いを内心に抱き、不安に脅えているという演出である。「ある晴れた日」を歌い終ってからの後奏の中で、みずからも絶望に近い状況まで落ち込んでしまうという設定など、その一例だろう。

 第1幕で、蝶々さんがピンカートンに伝来の脇差を見せるくだりで、背景の紗幕の奥に、名誉を守って自決した彼女の父親の幻が登場するという場面がある。こういうのは無くもがなという感じがしないでもないが、ただその亡霊(?)が予想通り、彼女が死を決意する場面で再び姿を見せるのは、人は名誉を重んずべきだというコンセプトを暗示することになるので、悪い発想ではないだろう。

 興味深かったのは、第2幕での蝶々さんの家の暮らしが、着ている服を含めて第1幕とは全く異なり、平凡な農家風のものになっていることだった。これは納得の行く手法である。
 また終場面で、彼女はそれまで家の一角に「掲揚」してあった巨大な米国国旗を引き抜き、それを床に打ち捨てる。信じていたアメリカに裏切られた失望と怒りを表わすものとして当を得ているだろう。
 この国旗は周旋人ゴロー(晴雅彦)が第1幕でアメリカ人に卑屈に阿るがごとく打ち振りながら運んで来たものだが、このあたり、私もおぼろげながら記憶している敗戦後の日本の世相を思い出させる。そうなると、蝶々さんが、アメリカでの裁判は正義で公正なのだと言い張る場面にしてからが━━彼女が単なる無邪気で無知な少女ではないという性格づけで描かれているこの演出ゆえになおさら━━アメリカが正義の国だと思い込んでいた戦後の日本の世相を風刺しているかのようではないか。

 ラストシーンは、蝶々さんが脇差を手にして毅然と立つところで物語は終る。鮮血にまみれて子供に手を差し延べるといった演出は採られない。お涙頂戴の幕切れよりも、この方が名誉のために死すというコンセプトが強く感じられるような気がして、私は気に入った。

 歌手陣は、みんな演技も巧いし、歌唱も水準に達していただろう。中嶋彰子の蝶々さんは、所謂イタリアオペラ的なカンタービレを聞かせるというスタイルとは違い、性格派歌手とでもいったニュアンスの濃い表現であり、この演出の目指すところとは一致しているのではないかと思う。

 演奏は読売日本交響楽団、指揮はドイツのミヒャエル・バルケという若手。
 歯に衣着せずに言わせてもらえば、オーケストラと歌手の声とが、全く溶け合わない。特に第1幕は、どうしようもない出来であった。
 編成の大きい読響は、今回は舞台手前の客席を潰して設けられたピットの位置に配置され、いつものようによく鳴り響いていた。それは別に悪いことではなく、劇的効果を出すためには、ある程度以上のオケの音量は不可欠である。
 問題は指揮者が、巧く声を浮き出させるようにオケを鳴らすことが出来なかったということにあるだろう。

 以前、準・メルクルが語ってくれたことだが、オペラに長じた指揮者は、例えばあの「ヴァルキューレの騎行」のようにオケが轟々と鳴り響く瞬間にも、オケと声楽のバランスを巧く取り、声楽パートをはっきりと聴かせる「マジック」(メルクルの表現による)を心得ているそうである(どんなマジック?と訊いたら、それは秘密ですよ、と笑っていたが)。
   別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2017・2・18(土)井上道義指揮大阪フィル ショスタコーヴィチ2曲

     フェスティバルホール(大阪)  3時

 第505回定期の2日目。
 ショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》」と「交響曲第12番《1917年》」を一夜のプログラムに組むという、まさに破天荒な定期だ。こんな物凄いプログラムは、私もこれまで聴いたことがない。

 内容としては、前者が「血の日曜日」、後者が「十月革命」で、ロシア革命の通史を描くようなものであり、かつ音楽に双児のような性格の部分が無くもないのだから、一緒にやる理屈は充分に立つ。とはいえ、なんせその音楽的な重量感が凄い。演奏時間も各々65分と40分の長さ。休憩を含め、終演は5時20分、ということになる。いかにも井上道義らしい斬新なプログラミングだ。
 彼はこの日が大阪フィルの首席指揮者としての最後の定期になる。3年前の4月、ショスタコーヴィチの「第4交響曲」で幕を開けた彼の首席指揮者としての活動は、再び得意のショスタコーヴィチの交響曲で幕を閉じるというわけであった。コンサートマスターは崔文洙。

 ところで、今日は初めて、このホールのバルコン席(下手側)に座ってみた。
 ペア席なので、知人の女性新聞記者を━━高所は苦手だと嫌がるのを強引に頼み込んで付き合ってもらったのだが、いざ桟敷席に向かって一歩足を踏み出した瞬間、ワッという感覚。想像していた以上に、高所感が強い。眼下に拡がる客席に目をやった瞬間、くらくらするような感覚になる。
 高所感という点では、他のホールにもこれより強く感じられる場所も数多くあるが、ここフェスティバルホールのバルコンは、席全体が空中に突き出ているので━━空中浮揚感というのか、それがちょっと慄きを呼ぶのである。金属製の手摺がステージへの視覚の上で若干障害になるが、この手摺が無かったらもっと怖いだろう。

 さてこの下手側バルコン席で聴く音だが、ステージを斜め上から見下ろす位置なので、今日の編成の場合は、ヴァイオリン群を上から、チェロやコントラバスなど低弦群を正面から聴くことになる。したがって、弦の響きは素晴らしい。昔好きだった東京文化会館大ホールの4階下手側舞台より最前列の席に似たようなアコースティックである。
 「第11番」第1楽章の弱音の弦など、極めて拡がり豊かに、ミステリオーゾに感じられた。この弦とハープによるアダージョの個所が、これほど静謐な大空間を感じさせ、美しく聴けたのは初めてかもしれない。もちろんそれは、演奏の所為もあっただろう。また「第12番」冒頭の弦も、たっぷりと豊かに聞こえ、豪壮なスリルを味わわせてくれた。

 このバルコン席、大編成の管弦楽のあらゆる楽器が明晰に聞こえて来るのは、もちろんそれはそれでいいのだが、その一方、どの楽器も音量的に均等に聞こえてしまい、楽器群に距離感や奥行き感といったものが薄れてしまうという傾向もある。
 特にそれが最強奏で轟く瞬間になると、拡がる弦よりも咆哮する金管が強く聞こえ、更にそれよりも絶叫するピッコロなど高音の木管群が強く聞こえ、なおそれよりも怒号する打楽器群の方が強く耳に入って来る結果となる。

 しかし、この日の井上と大阪フィルの演奏は見事だった。
 「11番」では、特に第1楽章 の形式感が明晰に整理され、刻々と変わる色合いが浮き彫りにされて、些かも長さを感じさせない。血の修羅場を描く個所は壮絶であり、斃れた同士を悼む革命の歌も情感に富んでいる。
 ただ、第4楽章終り近くでのコール・アングレの長い歌は、スコアの指定では「p」が基本だが、かなり強くリアルに、武骨に感じられた。これは、必ずしも席の位置による印象とは言えないようである。もう少し哀調を籠めた挽歌として歌われれば、感動もひとしおだったのではなかろうか。

 これ1曲だけでもういいんじゃないか、と思えるような重量感のある演奏だったが、さらに20分の休憩を挟んで「12番」が始まると、これまた実に密度の濃い演奏だったので、一気に引き込まれてしまう。
 オーケストラのまとまりとしてはこちらの方が良かったように思えるが、それは作品の性格の所為もあっただろう。ショスタコーヴィチの作曲技法が明らかに円熟に向かいつつあるということが、この2曲を「ナマ演奏で」続けて聴いてみると、まざまざと感じられて来るのである。

 最後の頂点での井上の指揮はまさに入魂というべきもので、管弦楽の響きはいっそう濃密になり、調和のハーモニー、均整の坩堝、豪快な熱狂に満たされた。彼の大阪フィルとの活動の総決算に相応しい昂揚の瞬間であった。

 その大阪フィルの演奏も、2曲を通じてアンサンブルも濃密、金管のソリも良く、ティンパニは張りのある響きで強い存在感を示していた。あらゆる意味で、大阪フィルの底力を示した演奏会であったろう。

 井上は、こうして、首席指揮者としての最後の定期公演を本領発揮で飾った。彼と大阪フィルの演奏を全部聴いたわけではもちろんないけれども、今日のそれは、おそらく彼の大阪フィル時代における最高の演奏だったのではないか、と想像する。さすがショスタコーヴィチの交響曲に愛情と熱意を注いでいる井上ならではの指揮だ。
 彼の大阪フィルの首席指揮者としての期間はわずか3シーズンと短く、しかもその最初の年は闘病のためほとんど振れなかったので、不本意なことが多かったろう。オケの側からしても同様だったと思う。だが、今回の定期で、彼の名は大阪フィルの歴史に刻まれるだろう。

 今後ももちろん、井上の大阪フィルへの客演はある。22日には同一プログラムで東京公演があるし、次のシーズンの定期への客演は18年3月にもある(やはりショスタコーヴィチで、「2番」と「3番」だ)。定期以外にも、ブルックナーの「5番」やバーンスタインの「ミサ」を指揮するコンサートがある。

 何度かのカーテンコールの最後に、井上は指揮台の上から客席に向かって答礼した姿のまま、長いあいだ動かなかった。それからゆっくり指揮台を降り、今度はオーケストラに向かって静かに頭を下げたのち、ステージを去って行った。
       別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2015・2・11(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

    NHKホール  6時

 A定期。
 ペルトの「シルエット━━ギュスターヴ・エッフェルへのオマージュ」(日本初演)、トゥールの「アコーディオンと管弦楽のための《プロフェシー》」(同、ソロはクセニア・シドロヴァ)、シベリウスの「交響曲第2番」というプログラム。

 パーヴォ・ヤルヴィが首席指揮者になって以降━━デュトワ音楽監督時代以来久しぶりに、と言おうか━━N響定期にもこのような斬新なプログラミングが現われるようになったのは歓迎すべきことであろう。
 エストニアの2人の作曲家による2つの現代曲も、いずれも透き通るような清澄さを湛えた美しい作品だし、所謂「現代音楽嫌い」のお客さんにもストレートに受け入れられたのではないかと思う。
 エストニアとフィンランドの音楽が好きな私も━━この2つの国の名だけを並べて挙げても、特に見当外れと言われることはあるまい━━今日のプログラムは大変心に響くものであった。

 とはいえ、後半には、本当はニールセンの交響曲でもやってもらいたかった、というのが本音なのだが、独特の好みを持った聴衆で固められているN響の定期としては、そこまでの選曲は無理なのであろう。
 しかし、今日のシベリウスの「第2交響曲」は、パーヴォ・ヤルヴィとN響が、もう完全に良きコンビとして固い絆を結ぶのに成功した、ということを示す演奏ではなかったか? 

 響きのドライなこのNHKホールで、これだけ翳りの濃い、重厚でありながら鈍重なところは少しも無い音を響かせたのは、たいしたものだと思う。特に終楽章のコーダで、全管弦楽が一体となって、あたかも深い霧の奥から響いて来るようなくぐもった音色で頂点を築いたのは、見事なものだった。
 いかなるスペクタクルな、力感で押し切った演奏よりも、このような陰翳豊かなシベリウスのほうが、心に響く。

2017・2・6(月)METライブ・ビューイング ヴェルディ:「ナブッコ」

    東劇  6時30分

 今年1月7日の上演ライヴ。ジェイムズ・レヴァインの指揮、エライジャ・モシンスキーの演出。
 主役歌手陣は、プラシド・ドミンゴ(ナブッコ)、リュドミラ・モナスティルスカ(アビガイッレ)、ディミトリ・ベロセルスキー(ザッカーリア)、ジェイミー・バートン(フェネーナ)、ラッセル・トーマス(イズマエーレ)。

 このプロダクションはおそらく、現在METで上演されているものの中では、最も古いものの一つではないか。
 ジョン・ネイピアの舞台装置こそ豪壮だが、合唱はほぼ全部にわたって「直立して客席を向き」だし、登場人物たちも演技というよりは曖昧な動作しかしていないという舞台で、すこぶる保守的なものである。要するに立派な舞台装置を使ったセミ・ステージ上演に近いものと言っていいだろう。

 私はどういうわけか、これをMETの現場で2回観ている。最初はプレミエのシーズンの2003年3月22日、次が2011年11月5日のことだった。
 特に2003年の時は、アメリカがイラク戦争を開始した3日後(NY時間)という、マンハッタンも穏やかならざる雰囲気に包まれているさなかのことだったのである。その時には、ナブッコ王率いるバビロニア軍が侵入して来るシーンで、巨大な戦闘用の「棒」が門をバリバリと破壊しながら突っ込んで来るという物凄い演出があって、折も折とて不気味な思いに駆られたものであった。

 だがその演出設定は、その後消えてしまい、ただナブッコが歩いて入って来るという、どうということもない演出に変えられてしまった。今回もそういう形である。いちいちぶっ壊していては修理が大変で、制作費がかかり過ぎるということなのか、それともあの棒が何か別のことを連想させるとかいうクレームでも出たのか?
 大詰近くの偶像破壊のシーンも、最初観た時にはもっと何かあったはずだと思うが、二度目に観た時も、今回も、何も行なわれていなかった。

 だが、もちろんヴェルディの音楽はいいし、レヴァインの指揮もいい。病から復帰したあとのレヴァインの音楽は、昔とは全く違って、一種ハートフルな温か味と、猛烈な熱気といったものを感じさせることは、既に書いたとおりである。

 それに今回は、ドミンゴの存在が大きい。バリトンのパートをテナーの音色で歌うという形である。声のパンチに不足しているのは仕方ないけれども、やはり巧い。零落した失意のナブッコと、それが正気を取り戻し、威厳を蘇らせた瞬間の歌と演技の表現などは、さすがの味があった。
 それにしても、70歳代半ばという年齢で、あれだけ歌えて演技が出来るのだから、全く驚異的である。

 その他の4人の主役たちが、揃いも揃って「偉大な体格」というのは、最近のオペラの舞台ではむしろ珍しいだろう。
 その中でも、アビガイッレ役のモナスティルスカは、強靭な声と馬力で、圧倒的な勢いだった。特に第2幕のあの有名なアリアで、ライヴの上演ではどの歌手ですら声の負担を避けてカットしてしまう個所をも、完全にノーカットで高らかに歌い切ったパワーは、もう見事というほかはなかった。

 休憩1回を含み、9時半少し過ぎ終映。

2017・2・5(日)ウラジーミル・フェドセーエフ指揮NHK交響楽団

      いわき芸術文化交流館アリオス 大ホール  3時

 JR常磐線のいわき駅から徒歩15分ほどの距離、いわゆる「いわきアリオス」のホールを初めて訪問。

 この会館は、大ホール(客席数1705)、中劇場(687~517席)、小劇場(233席)、音楽小ホール(200席)を擁する大規模な施設だ。クラシック音楽から演劇まで、多種多様な催事が行なわれている。
 今日コンサートを聴いた大ホールは、ステージの天井が高く、ちょっとオーチャードホールに似た構造で、客席は4階まである。客席の壁がちょっと変わった造りで、彫刻刀で彫り込んだような感じのデザインの板が上下何層にもわたって並んでいるのが眼を引く。私はつい、海産物を並べて干してある漁村の光景を連想してしまったのだが・・・・。

 演奏会は「第6回NHK交響楽団いわき定期演奏会」と題されている。おなじみフェドセーエフの指揮で、ムソルグスキーの「禿山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編曲版)、ハチャトゥリヤンの「仮面舞踏会」組曲、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」及び「1812年」というロシア名曲プロ。
 「1812年」では、東京混声合唱団と、いわき市立高坂小学校合唱部、いわき市立平第三小学校合唱部が協演していた。なかなか賑やかな演奏会である。コンサートマスターは伊藤亮太郎。

 音響は永田音響設計の手によるものだという。1階席ほぼ中央で聴いた範囲では、音の分離が極めてよく、明晰な響きに聞こえる。ステージに奥行きがあるので、金管など距離感があって、平べったい響きにならず、クラシック音楽のオーケストラに適したアコースティックになっているのがいい。ただ、明快過ぎるあまりに、音のふくらみには少々不足し、所謂重厚壮大なオーケストラ・サウンドを味わいたいという向きには、やや物足りないかもしれない。

 休憩後に「ロメオとジュリエット」が始まると、さすがにその前の2作品に比べるとよく出来ているという気がして来る。だがそれは、フェドセーエフとN響の演奏が、この曲から突然引き締まって来た所為もあるかもしれない。特に弦のカンタービレが美しい。フェドセーエフの指揮には、若い頃とはもう大きく違い、テンポやデュナミークにも老巨匠のそれらしい落ち着きがあふれている。

 「1812年」でも、フェドセーエフの「もって行き方」はさすがに巧いなという気がする。演奏によっては騒々しいだけの陳腐な作品というイメージに陥りかねないこの曲を、彼は巧妙な演出により、変化に富んだ表情で聴かせてくれた。
 特に今回は、合唱と、最後にバンダ(ステージ前方の上手側と下手側)を入れたのが効果的だったであろう。合唱としては、東混が冒頭部分と大詰めの個所で歌い、前記の少年少女合唱が、中ほどの民族舞踊のような個所を歌ったほか、大詰めの部分でも参加した。
 男声のみの東混がおそろしく雑然とした合唱だったのに比べ、後者の子どもたちは、この日のために一所懸命練習を重ねたというだけあって、出番は全部で僅か1分足らずだが、見事に澄んだ爽やかな声を聴かせてくれた。さすが、「合唱の福島県」と謂われるだけのことはある。

 アンコールでは、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の旋律が始まったが、それなら当然一緒に歌うのだろうと思っていた合唱は入らず、オーケストラだけの演奏のあの曲で終ってしまったのには拍子抜け。折角合唱団が並んでいたのにもったいない。練習する時間が無かったのだろう。

 お客さんは、初めのうちはややおとなしい感じではあったが、「ロメオとジュリエット」のあとでは演奏の出来に敏感に反応し、急に拍手も大きくなり、上階からはブラヴォーも飛び始めた。なかなか耳が鋭い。━━「1812年」では、地元の子どもたちに人気が集まった感で、登場した時から私の隣の女性は舞台に向かって手を振っているという具合であった。

 品川━いわき間は、特急「ひたち」で(「スーパーひたち」はもう無い)約2時間半強。水戸から先の停まる駅の多さも含め、中央本線の「スーバーあずさ」といい勝負か。ただし車両は「ひたち」の方が遥かに良い。
    モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2017・2・3(金)山田和樹指揮の「カルメン」

     東京文化会館大ホール  6時30分

 日本オペラ振興会の制作によるビゼーの「カルメン」。
 ダブルキャストで、初日の今日はミリヤーナ・ニコリッチ(カルメン)、笛田博昭(ドン・ホセ)、須藤慎吾(エスカミーリョ)、小林沙羅(ミカエラ)、伊藤貴之(スニガ)、平野雅世(フラスキータ)、米谷朋子(メルセデス)、安東玄人(ダンカイロ)、狩野武(レメンダード)、押川浩士(モラレス)。
 そして藤原歌劇団合唱部と東京少年少女合唱隊、平富恵スペイン舞踊団、日本フィル、山田和樹(指揮)、岩田達宗(演出)という顔ぶれである。

 今回の「カルメン」で、最も注目を集めていたのは、山田和樹の指揮だったろう。
 ピットでの指揮経験が少ないにもかかわらず、神経の行き届いた指揮で、かつ情熱的にオーケストラを構築、劇的な盛り上がりと緊迫感をも打ち出していた。聴いていて、ビゼーの音楽の美しさを堪能できた個所もいくつかあったのは確かである。オペラの指揮としては、特に歌との微妙な絡み合いの点で未だ練れていない部分があるのも事実だけれど、それは今後に期待すべきこと。とにかく、彼の新たな快進撃は嬉しい。

 オーケストラは、これもオペラのピットに入るのが久しぶりという日本フィル。思いのほか━━と言っては悪いが、大熱演がうまく「決まって」いた。細かいところはともかく、その沸騰した熱っぽい演奏は賞賛されてよい。ピットで無気力なパワーのない演奏をするオケほど、オペラをつまらなくするものはないのだから。

 かようにオケ・ピットは満足すべき水準にあったのだが━━この日の歌手陣には、どうも問題が多いようだ。それはやはり、最終的には指揮者が責任を負わなくてはならないことなのだが。

 先ずタイトルロールのミリヤーナ・ニコリッチ。
 長身で、財前直見と木の実ナナを合わせたような顔をしていて、可愛いし、演技もそれなりに悪くないのだが、肝心の歌がいけない。音程が非常に粗雑であるだけでなく、声が所謂「ぶら下がり」状態になってしまい、曲がまるで違う旋律のように聞こえたことも一度や二度ではなかった。
 昨年東京芸術劇場で「サムソンとダリラ」のダリラを歌った時には、曲想の違いもあるのだろうが、こんなに気にならなかったのだが━━いったいどうしたことか。

 自分勝手に崩して歌っていいということになっていたのなら、指揮者とどのような打ち合わせになっていたのか? とにかく、「セギディリア」以降、幕を追うごとに音程が崩れて行くのだから、聴いていて落ち着かぬことこの上ない。
 しかしこれは、エスカミ-リョも似たようなものだったろう。聴かせどころの「闘牛士の歌」からして、いくらなんでも、今の時代には、もう少し正確に歌って欲しいものである。

 だがそういった中で、ドン・ホセの笛田博昭は、歌唱面ではもちろん、演技の面でもよく健闘していた。軍人ホセとしては稀勢の里さながらの不愛想な顔付で押し、第3幕以降で失意に陥って行くあたりの表情は船越英一郎が顔を顰めたような顔になって、すこぶる人間的で良かった。

 演出は岩田達宗。スケール感を備えた舞台である。第3幕の幕切れで、ホセがいつまでも慟哭しているという演出は少々凝り過ぎかとは思ったが、第2幕冒頭のジプシーの舞踊場面は豪華絢爛として、このオペラに相応しい光景であった。
 そしてまた、煙草工場の女工たちやジプシーたちが生き生きと熱っぽく演技し、兵士たちを除く脇役・端役たち(合唱団)が舞台を引き締めていたことにも触れておきたい。
 第4幕幕切れでは、斃れたカルメンの周囲に血の輪が大きく拡がり、また背景の「血のような赤い色をした月」がいよいよ巨大に迫って来るという光景もいいだろう。

 主人公たちの演技にも、かなり細かい設定がなされていたのがいい。
 第1幕幕切れ、ホセがカルメンを逃がすことを決心するくだりでは、彼が「大切な」はずの母親の手紙を握り潰してしまう、という細かい演出も目を引く。
 また、第3幕終結近く、ホセがカルメンの首を絞めるなど常軌を逸した行動に出、これがカルメンをしてエスカミーリョに気持を走らせてしまい(ちょうど遠くから闘牛士の歌声が聞こえて来る)、あるいは第4幕でも、ホセがカルメンの顔を何度も殴打するという設定があり、これが僅かに残っていたであろう彼女のホセへの同情の念を完全に失わせてしまう、といったような、━━つまりカルメンがホセを棄てたのは、カルメンの移り気の所為だけではなく、ホセの行動にもその原因があったのだ、という解釈が行われていたような気がして、大変興味深い。

 もう一つ、ホセとエスカミーリョの決闘場面(第3幕)でも、アルコア版のような長さをもたぬギロー編曲版を巧くカバーし、闘牛士がホセを一度は打倒しながら逆襲されるという設定にして、そのあとの闘牛士の「勝負は互角だな」という歌詞に矛盾を生まぬよう描き出すという演出は、実に当を得たアイディアだったと思う。

 こうした演技を、カルメンも、ホセも、エスカミーリョも、見事にこなしていたのは確かである。ただ一つ、ミカエラのみ、要所で「アリアを歌う」類型的なポーズを取ってしまうのが、演技のバランスを壊す結果を招いているような印象があって、少々気になる。

 今回は前出のように、ギロー編曲による旧慣用版が使用されていたが、細部では、特に第2幕などでいくつかカットがあったようである。第4幕は間奏曲のあと、「物売り」の場面を省略し、いきなり闘牛士たちの入場場面から始められたが、これは意外に不自然さを感じさせない手法だったようだ。
 とにかく、話題豊富な「カルメン」だった。

2017・2・3(金)ユッカ=ペッカ・サラステ指揮新日本フィル

      すみだトリフォニーホール  2時

 これは「アフタヌーン・コンサート・シリーズ」のひとつ。
 平日午後のコンサートが結構多くの聴衆を集めているというのは最近の傾向だが、この日もメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」とチャイコフスキーの「交響曲第4番」という「名曲プログラム」であることも手伝って、なかなかの入りであった。もっとも、天下の名指揮者サラステの初客演が、2回(土・日)公演とはいえ、平日マチネーでは、ちょっともったいないような気がしないでもない。

 協奏曲では、レイ・チェンが例のごとく元気のいい、勢いにあふれたソロを聴かせてくれた。今年28歳、勢いに任せた荒っぽい演奏ではあるが、若者ゆえの気魄は気持がいいものだ。
 サラステもまた、オーケストラをかなり勢いよく鳴らす。チャイコフスキーではそれがエネルギッシュな力を生んでいたが、━━新日本フィル、このところ少し荒れ気味ではないか? 例えば冒頭のファンファーレなど、かつての好調時と、どこか違う。
         別稿 音楽の友3月号 Concert Reviews

2017・2・1(水)野田秀樹演出「足跡姫~時代錯誤冬幽霊」

     東京芸術劇場プレイハウス  2時

 野田秀樹作・演出による演劇、「NODA MAP」第21回公演で、「時代錯誤冬幽霊」には「ときあやまってふゆのゆうれい」とルビがふってある。
 1月18日にフタを開け、3月12日まで、昼夜2回公演も少なからずあり、休演日は僅か8日を数えるのみというから凄い。

 出演者は、宮沢りえ(三、四代目出雲阿国)、妻夫木聡(淋しがり屋サルワカ)、古田新太(売れない幽霊小説家)、佐藤隆太(戯〈たわ〉けもの)、鈴木杏(踊子ヤワハダ)、池谷のぶえ(万歳三唱太夫)、中村扇雀(伊達の十役人)、野田秀樹(腑分けもの)といった人々。

 ヒロインの名を見れば、これが1600年代初頭に出現した「女歌舞伎」に関連のある物語だということはすぐ判るが、さりとて歴史を「理有」(りある)に描いたドラマではもちろんない。
 野田秀樹らしい、いつもの「言葉の遊び」が横溢した芝居だ。「売れない幽霊小説家(売れないゆうれいしょうせつか)」が「うれない」━━つまり「う」と「れ」が無いのであれば、「由比正雪か?」と誰何される立場となって、将軍暗殺を狙うテロリストに早変わりするといった具合で━━。

 芝居運びの巧さと、宮沢りえや妻夫木聡ら、出演者全員の早口台詞の明快さと芝居達者に感嘆したひととき。15分の休憩1回を含み、4時40分終演。

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