2017-02

2017・2・22(水)井上道義指揮大阪フィル東京公演

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 先週の大阪での定期公演と同じプログラム、ショスタコーヴィチの交響曲「第11番」と「第12番」を引っ提げての東京公演。チケットは完売とか。

 今日は浜離宮朝日ホールでマーク・パドモアとティル・フェルナーの「冬の旅」があり、当初はそちらを聴きに行く計画だったのだが、大阪での井上と大フィルとがあまりに入魂の演奏だったので、もう一度聴いてみたくなった、というのが、池袋へ足を向けた所以である。

 フェスティバルホールと、ここ東京芸術劇場とでは、アコースティックが全く異なる。前者に比べ後者は残響が多いので、大阪で聴いた時よりは音に膨らみと余韻が感じられる。 
 ただ━━いつも座る2階席正面で聴いた限りでは━━今日は妙にティンパニの音が鈍重に唸って「回り気味」で、そのためフェスティバルホールで聴いた時のような歯切れの良さや小気味よいダイナミックな衝撃性が、かなり失われた感があったのは惜しい。これは多分、楽器の位置の問題から生じたものではないかと思われる。大阪フィルはこの東京芸術劇場には慣れていないはずだから・・・・。

 だがそうしたことを別にして、井上道義と大阪フィルは、今夜も大熱演を聴かせてくれた。

2017・2・21(火)音楽×ダンス×スイーツ

   Hakuju Hall  7時

 「第4回アート×アート×アート〈音楽×ダンス×スイーツ〉チェンバロと踊る”お菓子“な世界 ~聴覚、視覚、味覚で体験する驚異のコラボレーション」というのがコンサートのタイトル。
 出演は、鈴木優人(チェンバロ)、菊地賢一(パティシェ)、TAKAHIRO(上野隆博)ら計5人のダンサーたち。

 鈴木優人が、バッハの「半音階的幻想曲とフーガ BWV903」、クープランの「神秘的なバリケード」、ラモーの「めんどり」と「未開人の踊り」、武満徹の「夢見る雨」、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」からの「アリア」、マドンナの「ハング・アップ」を弾く。
 同じステージでTAKAHIROら5人のダンサーたちが踊り、上手側では菊地賢一が菓子をつくる。
 そして3人のトークが入る。

 ━━こう書いただけでは何が何だか解らぬ滅茶苦茶なステージのように思えてしまうだろうが、実際にはこれらが不思議な調和を醸し出して、お客を笑わせ愉しませ、演奏をもちゃんと聴かせるというコンサートになるのだから、面白い。
 たとえば、演劇風のダンスが続いていた瞬間に舞台上の全員の動きがストップし、間髪を入れず「ゴルトベルク変奏曲」が始まるというその取り合わせの可笑しさは、実際にそれを見、かつ聴いてみると、実に納得が行くのである。

 その間には、ダンスの「音ハメ」を実験してみせたり、3分間の演奏の中でスイーツを作ってみせたりという余興も入る。ホール内には、最初から美味しそうな香り(チョコレートの香りだとか)が漂う。
 休憩時間にはパティスリー「レザネフォール」による数種類のスイーツがチケット所有者に振舞われ、ホワイエは大混雑だったようだ。私はもう初めから争奪戦参加は諦めて、客席に残っていたのだが、結局最後にマカロンなど2個にありつくことができた。

 一風変わったチェンバロ・コンサートではあるが、このように既存の枠を外した演奏会は出来るものなら何でもやってみるのがいい、と私はふだんから思っている。結果さえ良ければ大いに結構ではないか。
 まあ、今回は、もう少しダンスが積極的に音楽に絡み、もっとスイーツの製作が演奏行為と関連づけられるような手法が欲しかったところではあるが。

 なお、演奏が行われているその同一平面上でダンスが繰り広げられるのは、何か煩わしくなるのではないか、と、見たり聴いたりする前は危惧していたのだが、意外に違和感がない。チェンバロ・コンサートの場合には、バロックだろうと現代音楽だろうと、むしろうまくマッチングするようだ。
 それは鈴木優人さんがステージで語っていたように、チェンバロの「音」の性格によるものなのだろう。ギイ・カシアスやアンドレアス・クリーゲンブルクがワーグナーの「指環」の音楽と舞台にダンスを入れた上演が煩わしさを感じさせた例とは、そこが違うようである。

2017・2・19(日)笈田ヨシ演出、中嶋彰子主演「蝶々夫人」

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 笈田ヨシのオペラ演出を拝見するのはこれが最初なのだが、舞台上の演技や性格描写がかなり細かいのに驚いた。
 未整理に感じられるところはあるとはいえ、コンサートホールという制約の多い舞台で、これだけ細部まで神経を行き届かせ、性格描写に重点を置いた演出をつくり出したのは立派であったと思う。

 たとえば終幕で、ピンカートン(ロレンツォ・デカーロ)に対し、これだけ激しい怒りと軽蔑感を露わにした領事シャープレス(ピーター・サヴィッジ)は稀ではなかろうか。
 ピンカートンの新妻ケート(サラ・マクドナルド)の存在は、旧版スコアから一部が再現されて挿入されることにより、蝶々さんとのやりとりを通じて、明確になった。スズキ(鳥木弥生)は第1幕でピンカートンの揶揄を毅然と撥ねつけ、蝶々さんとの愛を見据えた上で彼女を守ろうとする女性として描かれた。

 そして、蝶々さん(中嶋彰子)自身も、第2幕の最初からピンカートンがもう帰って来ないのではないかという疑いを内心に抱き、不安に脅えているという演出である。「ある晴れた日」を歌い終ってからの後奏の中で、みずからも絶望に近い状況まで落ち込んでしまうという設定など、その一例だろう。

 第1幕で、蝶々さんがピンカートンに伝来の脇差を見せるくだりで、背景の紗幕の奥に、名誉を守って自決した彼女の父親の幻が登場するという場面がある。こういうのは無くもがなという感じがしないでもないが、ただその亡霊(?)が予想通り、彼女が死を決意する場面で再び姿を見せるのは、人は名誉を重んずべきだというコンセプトを暗示することになるので、悪い発想ではないだろう。

 興味深かったのは、第2幕での蝶々さんの家の暮らしが、着ている服を含めて第1幕とは全く異なり、平凡な農家風のものになっていることだった。これは納得の行く手法である。
 また終場面で、彼女はそれまで家の一角に「掲揚」してあった巨大な米国国旗を引き抜き、それを床に打ち捨てる。信じていたアメリカに裏切られた失望と怒りを表わすものとして当を得ているだろう。
 この国旗は周旋人ゴロー(晴雅彦)が第1幕でアメリカ人に卑屈に阿るがごとく打ち振りながら運んで来たものだが、このあたり、私もおぼろげながら記憶している敗戦後の日本の世相を思い出させる。そうなると、蝶々さんが、アメリカでの裁判は正義で公正なのだと言い張る場面にしてからが━━彼女が単なる無邪気で無知な少女ではないという性格づけで描かれているこの演出ゆえになおさら━━アメリカが正義の国だと思い込んでいた戦後の日本の世相を風刺しているかのようではないか。

 ラストシーンは、蝶々さんが脇差を手にして毅然と立つところで物語は終る。鮮血にまみれて子供に手を差し延べるといった演出は採られない。お涙頂戴の幕切れよりも、この方が名誉のために死すというコンセプトが強く感じられるような気がして、私は気に入った。

 歌手陣は、みんな演技も巧いし、歌唱も水準に達していただろう。中嶋彰子の蝶々さんは、所謂イタリアオペラ的なカンタービレを聞かせるというスタイルとは違い、性格派歌手とでもいったニュアンスの濃い表現であり、この演出の目指すところとは一致しているのではないかと思う。

 演奏は読売日本交響楽団、指揮はドイツのミヒャエル・バルケという若手。
 歯に衣着せずに言わせてもらえば、オーケストラと歌手の声とが、全く溶け合わない。特に第1幕は、どうしようもない出来であった。
 編成の大きい読響は、今回は舞台手前の客席を潰して設けられたピットの位置に配置され、いつものようによく鳴り響いていた。それは別に悪いことではなく、劇的効果を出すためには、ある程度以上のオケの音量は不可欠である。
 問題は指揮者が、巧く声を浮き出させるようにオケを鳴らすことが出来なかったということにあるだろう。

 以前、準・メルクルが語ってくれたことだが、オペラに長じた指揮者は、例えばあの「ヴァルキューレの騎行」のようにオケが轟々と鳴り響く瞬間にも、オケと声楽のバランスを巧く取り、声楽パートをはっきりと聴かせる「マジック」(メルクルの表現による)を心得ているそうである(どんなマジック?と訊いたら、それは秘密ですよ、と笑っていたが)。
   別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2017・2・18(土)井上道義指揮大阪フィル ショスタコーヴィチ2曲

     フェスティバルホール(大阪)  3時

 第505回定期の2日目。
 ショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》」と「交響曲第12番《1917年》」を一夜のプログラムに組むという、まさに破天荒な定期だ。こんな物凄いプログラムは、私もこれまで聴いたことがない。

 内容としては、前者が「血の日曜日」、後者が「十月革命」で、ロシア革命の通史を描くようなものであり、かつ音楽に双児のような性格の部分が無くもないのだから、一緒にやる理屈は充分に立つ。とはいえ、なんせその音楽的な重量感が凄い。演奏時間も各々65分と40分の長さ。休憩を含め、終演は5時20分、ということになる。いかにも井上道義らしい斬新なプログラミングだ。
 彼はこの日が大阪フィルの首席指揮者としての最後の定期になる。3年前の4月、ショスタコーヴィチの「第4交響曲」で幕を開けた彼の首席指揮者としての活動は、再び得意のショスタコーヴィチの交響曲で幕を閉じるというわけであった。コンサートマスターは崔文洙。

 ところで、今日は初めて、このホールのバルコン席(下手側)に座ってみた。
 ペア席なので、知人の女性新聞記者を━━高所は苦手だと嫌がるのを強引に頼み込んで付き合ってもらったのだが、いざ桟敷席に向かって一歩足を踏み出した瞬間、ワッという感覚。想像していた以上に、高所感が強い。眼下に拡がる客席に目をやった瞬間、くらくらするような感覚になる。
 高所感という点では、他のホールにもこれより強く感じられる場所も数多くあるが、ここフェスティバルホールのバルコンは、席全体が空中に突き出ているので━━空中浮揚感というのか、それがちょっと慄きを呼ぶのである。金属製の手摺がステージへの視覚の上で若干障害になるが、この手摺が無かったらもっと怖いだろう。

 さてこの下手側バルコン席で聴く音だが、ステージを斜め上から見下ろす位置なので、今日の編成の場合は、ヴァイオリン群を上から、チェロやコントラバスなど低弦群を正面から聴くことになる。したがって、弦の響きは素晴らしい。昔好きだった東京文化会館大ホールの4階下手側舞台より最前列の席に似たようなアコースティックである。
 「第11番」第1楽章の弱音の弦など、極めて拡がり豊かに、ミステリオーゾに感じられた。この弦とハープによるアダージョの個所が、これほど静謐な大空間を感じさせ、美しく聴けたのは初めてかもしれない。もちろんそれは、演奏の所為もあっただろう。また「第12番」冒頭の弦も、たっぷりと豊かに聞こえ、豪壮なスリルを味わわせてくれた。

 このバルコン席、大編成の管弦楽のあらゆる楽器が明晰に聞こえて来るのは、もちろんそれはそれでいいのだが、その一方、どの楽器も音量的に均等に聞こえてしまい、楽器群に距離感や奥行き感といったものが薄れてしまうという傾向もある。
 特にそれが最強奏で轟く瞬間になると、拡がる弦よりも咆哮する金管が強く聞こえ、更にそれよりも絶叫するピッコロなど高音の木管群が強く聞こえ、なおそれよりも怒号する打楽器群の方が強く耳に入って来る結果となる。

 しかし、この日の井上と大阪フィルの演奏は見事だった。
 「11番」では、特に第1楽章 の形式感が明晰に整理され、刻々と変わる色合いが浮き彫りにされて、些かも長さを感じさせない。血の修羅場を描く個所は壮絶であり、斃れた同士を悼む革命の歌も情感に富んでいる。
 ただ、第4楽章終り近くでのコール・アングレの長い歌は、スコアの指定では「p」が基本だが、かなり強くリアルに、武骨に感じられた。これは、必ずしも席の位置による印象とは言えないようである。もう少し哀調を籠めた挽歌として歌われれば、感動もひとしおだったのではなかろうか。

 これ1曲だけでもういいんじゃないか、と思えるような重量感のある演奏だったが、さらに20分の休憩を挟んで「12番」が始まると、これまた実に密度の濃い演奏だったので、一気に引き込まれてしまう。
 オーケストラのまとまりとしてはこちらの方が良かったように思えるが、それは作品の性格の所為もあっただろう。ショスタコーヴィチの作曲技法が明らかに円熟に向かいつつあるということが、この2曲を「ナマ演奏で」続けて聴いてみると、まざまざと感じられて来るのである。

 最後の頂点での井上の指揮はまさに入魂というべきもので、管弦楽の響きはいっそう濃密になり、調和のハーモニー、均整の坩堝、豪快な熱狂に満たされた。彼の大阪フィルとの活動の総決算に相応しい昂揚の瞬間であった。

 その大阪フィルの演奏も、2曲を通じてアンサンブルも濃密、金管のソリも良く、ティンパニは張りのある響きで強い存在感を示していた。あらゆる意味で、大阪フィルの底力を示した演奏会であったろう。

 井上は、こうして、首席指揮者としての最後の定期公演を本領発揮で飾った。彼と大阪フィルの演奏を全部聴いたわけではもちろんないけれども、今日のそれは、おそらく彼の大阪フィル時代における最高の演奏だったのではないか、と想像する。さすがショスタコーヴィチの交響曲に愛情と熱意を注いでいる井上ならではの指揮だ。
 彼の大阪フィルの首席指揮者としての期間はわずか3シーズンと短く、しかもその最初の年は闘病のためほとんど振れなかったので、不本意なことが多かったろう。オケの側からしても同様だったと思う。だが、今回の定期で、彼の名は大阪フィルの歴史に刻まれるだろう。

 今後ももちろん、井上の大阪フィルへの客演はある。22日には同一プログラムで東京公演があるし、次のシーズンの定期への客演は18年3月にもある(やはりショスタコーヴィチで、「2番」と「3番」だ)。定期以外にも、ブルックナーの「5番」やバーンスタインの「ミサ」を指揮するコンサートがある。

 何度かのカーテンコールの最後に、井上は指揮台の上から客席に向かって答礼した姿のまま、長いあいだ動かなかった。それからゆっくり指揮台を降り、今度はオーケストラに向かって静かに頭を下げたのち、ステージを去って行った。
       別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2015・2・11(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

    NHKホール  6時

 A定期。
 ペルトの「シルエット━━ギュスターヴ・エッフェルへのオマージュ」(日本初演)、トゥールの「アコーディオンと管弦楽のための《プロフェシー》」(同、ソロはクセニア・シドロヴァ)、シベリウスの「交響曲第2番」というプログラム。

 パーヴォ・ヤルヴィが首席指揮者になって以降━━デュトワ音楽監督時代以来久しぶりに、と言おうか━━N響定期にもこのような斬新なプログラミングが現われるようになったのは歓迎すべきことであろう。
 エストニアの2人の作曲家による2つの現代曲も、いずれも透き通るような清澄さを湛えた美しい作品だし、所謂「現代音楽嫌い」のお客さんにもストレートに受け入れられたのではないかと思う。
 エストニアとフィンランドの音楽が好きな私も━━この2つの国の名だけを並べて挙げても、特に見当外れと言われることはあるまい━━今日のプログラムは大変心に響くものであった。

 とはいえ、後半には、本当はニールセンの交響曲でもやってもらいたかった、というのが本音なのだが、独特の好みを持った聴衆で固められているN響の定期としては、そこまでの選曲は無理なのであろう。
 しかし、今日のシベリウスの「第2交響曲」は、パーヴォ・ヤルヴィとN響が、もう完全に良きコンビとして固い絆を結ぶのに成功した、ということを示す演奏ではなかったか? 

 響きのドライなこのNHKホールで、これだけ翳りの濃い、重厚でありながら鈍重なところは少しも無い音を響かせたのは、たいしたものだと思う。特に終楽章のコーダで、全管弦楽が一体となって、あたかも深い霧の奥から響いて来るようなくぐもった音色で頂点を築いたのは、見事なものだった。
 いかなるスペクタクルな、力感で押し切った演奏よりも、このような陰翳豊かなシベリウスのほうが、心に響く。

2017・2・6(月)METライブ・ビューイング ヴェルディ:「ナブッコ」

    東劇  6時30分

 今年1月7日の上演ライヴ。ジェイムズ・レヴァインの指揮、エライジャ・モシンスキーの演出。
 主役歌手陣は、プラシド・ドミンゴ(ナブッコ)、リュドミラ・モナスティルスカ(アビガイッレ)、ディミトリ・ベロセルスキー(ザッカーリア)、ジェイミー・バートン(フェネーナ)、ラッセル・トーマス(イズマエーレ)。

 このプロダクションはおそらく、現在METで上演されているものの中では、最も古いものの一つではないか。
 ジョン・ネイピアの舞台装置こそ豪壮だが、合唱はほぼ全部にわたって「直立して客席を向き」だし、登場人物たちも演技というよりは曖昧な動作しかしていないという舞台で、すこぶる保守的なものである。要するに立派な舞台装置を使ったセミ・ステージ上演に近いものと言っていいだろう。

 私はどういうわけか、これをMETの現場で2回観ている。最初はプレミエのシーズンの2003年3月22日、次が2011年11月5日のことだった。
 特に2003年の時は、アメリカがイラク戦争を開始した3日後(NY時間)という、マンハッタンも穏やかならざる雰囲気に包まれているさなかのことだったのである。その時には、ナブッコ王率いるバビロニア軍が侵入して来るシーンで、巨大な戦闘用の「棒」が門をバリバリと破壊しながら突っ込んで来るという物凄い演出があって、折も折とて不気味な思いに駆られたものであった。

 だがその演出設定は、その後消えてしまい、ただナブッコが歩いて入って来るという、どうということもない演出に変えられてしまった。今回もそういう形である。いちいちぶっ壊していては修理が大変で、制作費がかかり過ぎるということなのか、それともあの棒が何か別のことを連想させるとかいうクレームでも出たのか?
 大詰近くの偶像破壊のシーンも、最初観た時にはもっと何かあったはずだと思うが、二度目に観た時も、今回も、何も行なわれていなかった。

 だが、もちろんヴェルディの音楽はいいし、レヴァインの指揮もいい。病から復帰したあとのレヴァインの音楽は、昔とは全く違って、一種ハートフルな温か味と、猛烈な熱気といったものを感じさせることは、既に書いたとおりである。

 それに今回は、ドミンゴの存在が大きい。バリトンのパートをテナーの音色で歌うという形である。声のパンチに不足しているのは仕方ないけれども、やはり巧い。零落した失意のナブッコと、それが正気を取り戻し、威厳を蘇らせた瞬間の歌と演技の表現などは、さすがの味があった。
 それにしても、70歳代半ばという年齢で、あれだけ歌えて演技が出来るのだから、全く驚異的である。

 その他の4人の主役たちが、揃いも揃って「偉大な体格」というのは、最近のオペラの舞台ではむしろ珍しいだろう。
 その中でも、アビガイッレ役のモナスティルスカは、強靭な声と馬力で、圧倒的な勢いだった。特に第2幕のあの有名なアリアで、ライヴの上演ではどの歌手ですら声の負担を避けてカットしてしまう個所をも、完全にノーカットで高らかに歌い切ったパワーは、もう見事というほかはなかった。

 休憩1回を含み、9時半少し過ぎ終映。

2017・2・5(日)ウラジーミル・フェドセーエフ指揮NHK交響楽団

      いわき芸術文化交流館アリオス 大ホール  3時

 JR常磐線のいわき駅から徒歩15分ほどの距離、いわゆる「いわきアリオス」のホールを初めて訪問。

 この会館は、大ホール(客席数1705)、中劇場(687~517席)、小劇場(233席)、音楽小ホール(200席)を擁する大規模な施設だ。クラシック音楽から演劇まで、多種多様な催事が行なわれている。
 今日コンサートを聴いた大ホールは、ステージの天井が高く、ちょっとオーチャードホールに似た構造で、客席は4階まである。客席の壁がちょっと変わった造りで、彫刻刀で彫り込んだような感じのデザインの板が上下何層にもわたって並んでいるのが眼を引く。私はつい、海産物を並べて干してある漁村の光景を連想してしまったのだが・・・・。

 演奏会は「第6回NHK交響楽団いわき定期演奏会」と題されている。おなじみフェドセーエフの指揮で、ムソルグスキーの「禿山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編曲版)、ハチャトゥリヤンの「仮面舞踏会」組曲、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」及び「1812年」というロシア名曲プロ。
 「1812年」では、東京混声合唱団と、いわき市立高坂小学校合唱部、いわき市立平第三小学校合唱部が協演していた。なかなか賑やかな演奏会である。コンサートマスターは伊藤亮太郎。

 音響は永田音響設計の手によるものだという。1階席ほぼ中央で聴いた範囲では、音の分離が極めてよく、明晰な響きに聞こえる。ステージに奥行きがあるので、金管など距離感があって、平べったい響きにならず、クラシック音楽のオーケストラに適したアコースティックになっているのがいい。ただ、明快過ぎるあまりに、音のふくらみには少々不足し、所謂重厚壮大なオーケストラ・サウンドを味わいたいという向きには、やや物足りないかもしれない。

 休憩後に「ロメオとジュリエット」が始まると、さすがにその前の2作品に比べるとよく出来ているという気がして来る。だがそれは、フェドセーエフとN響の演奏が、この曲から突然引き締まって来た所為もあるかもしれない。特に弦のカンタービレが美しい。フェドセーエフの指揮には、若い頃とはもう大きく違い、テンポやデュナミークにも老巨匠のそれらしい落ち着きがあふれている。

 「1812年」でも、フェドセーエフの「もって行き方」はさすがに巧いなという気がする。演奏によっては騒々しいだけの陳腐な作品というイメージに陥りかねないこの曲を、彼は巧妙な演出により、変化に富んだ表情で聴かせてくれた。
 特に今回は、合唱と、最後にバンダ(ステージ前方の上手側と下手側)を入れたのが効果的だったであろう。合唱としては、東混が冒頭部分と大詰めの個所で歌い、前記の少年少女合唱が、中ほどの民族舞踊のような個所を歌ったほか、大詰めの部分でも参加した。
 男声のみの東混がおそろしく雑然とした合唱だったのに比べ、後者の子どもたちは、この日のために一所懸命練習を重ねたというだけあって、出番は全部で僅か1分足らずだが、見事に澄んだ爽やかな声を聴かせてくれた。さすが、「合唱の福島県」と謂われるだけのことはある。

 アンコールでは、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の旋律が始まったが、それなら当然一緒に歌うのだろうと思っていた合唱は入らず、オーケストラだけの演奏のあの曲で終ってしまったのには拍子抜け。折角合唱団が並んでいたのにもったいない。練習する時間が無かったのだろう。

 お客さんは、初めのうちはややおとなしい感じではあったが、「ロメオとジュリエット」のあとでは演奏の出来に敏感に反応し、急に拍手も大きくなり、上階からはブラヴォーも飛び始めた。なかなか耳が鋭い。━━「1812年」では、地元の子どもたちに人気が集まった感で、登場した時から私の隣の女性は舞台に向かって手を振っているという具合であった。

 品川━いわき間は、特急「ひたち」で(「スーパーひたち」はもう無い)約2時間半強。水戸から先の停まる駅の多さも含め、中央本線の「スーバーあずさ」といい勝負か。ただし車両は「ひたち」の方が遥かに良い。
    モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2017・2・3(金)山田和樹指揮の「カルメン」

     東京文化会館大ホール  6時30分

 日本オペラ振興会の制作によるビゼーの「カルメン」。
 ダブルキャストで、初日の今日はミリヤーナ・ニコリッチ(カルメン)、笛田博昭(ドン・ホセ)、須藤慎吾(エスカミーリョ)、小林沙羅(ミカエラ)、伊藤貴之(スニガ)、平野雅世(フラスキータ)、米谷朋子(メルセデス)、安東玄人(ダンカイロ)、狩野武(レメンダード)、押川浩士(モラレス)。
 そして藤原歌劇団合唱部と東京少年少女合唱隊、平富恵スペイン舞踊団、日本フィル、山田和樹(指揮)、岩田達宗(演出)という顔ぶれである。

 今回の「カルメン」で、最も注目を集めていたのは、山田和樹の指揮だったろう。
 ピットでの指揮経験が少ないにもかかわらず、神経の行き届いた指揮で、かつ情熱的にオーケストラを構築、劇的な盛り上がりと緊迫感をも打ち出していた。聴いていて、ビゼーの音楽の美しさを堪能できた個所もいくつかあったのは確かである。オペラの指揮としては、特に歌との微妙な絡み合いの点で未だ練れていない部分があるのも事実だけれど、それは今後に期待すべきこと。とにかく、彼の新たな快進撃は嬉しい。

 オーケストラは、これもオペラのピットに入るのが久しぶりという日本フィル。思いのほか━━と言っては悪いが、大熱演がうまく「決まって」いた。細かいところはともかく、その沸騰した熱っぽい演奏は賞賛されてよい。ピットで無気力なパワーのない演奏をするオケほど、オペラをつまらなくするものはないのだから。

 かようにオケ・ピットは満足すべき水準にあったのだが━━この日の歌手陣には、どうも問題が多いようだ。それはやはり、最終的には指揮者が責任を負わなくてはならないことなのだが。

 先ずタイトルロールのミリヤーナ・ニコリッチ。
 長身で、財前直見と木の実ナナを合わせたような顔をしていて、可愛いし、演技もそれなりに悪くないのだが、肝心の歌がいけない。音程が非常に粗雑であるだけでなく、声が所謂「ぶら下がり」状態になってしまい、曲がまるで違う旋律のように聞こえたことも一度や二度ではなかった。
 昨年東京芸術劇場で「サムソンとダリラ」のダリラを歌った時には、曲想の違いもあるのだろうが、こんなに気にならなかったのだが━━いったいどうしたことか。

 自分勝手に崩して歌っていいということになっていたのなら、指揮者とどのような打ち合わせになっていたのか? とにかく、「セギディリア」以降、幕を追うごとに音程が崩れて行くのだから、聴いていて落ち着かぬことこの上ない。
 しかしこれは、エスカミ-リョも似たようなものだったろう。聴かせどころの「闘牛士の歌」からして、いくらなんでも、今の時代には、もう少し正確に歌って欲しいものである。

 だがそういった中で、ドン・ホセの笛田博昭は、歌唱面ではもちろん、演技の面でもよく健闘していた。軍人ホセとしては稀勢の里さながらの不愛想な顔付で押し、第3幕以降で失意に陥って行くあたりの表情は船越英一郎が顔を顰めたような顔になって、すこぶる人間的で良かった。

 演出は岩田達宗。スケール感を備えた舞台である。第3幕の幕切れで、ホセがいつまでも慟哭しているという演出は少々凝り過ぎかとは思ったが、第2幕冒頭のジプシーの舞踊場面は豪華絢爛として、このオペラに相応しい光景であった。
 そしてまた、煙草工場の女工たちやジプシーたちが生き生きと熱っぽく演技し、兵士たちを除く脇役・端役たち(合唱団)が舞台を引き締めていたことにも触れておきたい。
 第4幕幕切れでは、斃れたカルメンの周囲に血の輪が大きく拡がり、また背景の「血のような赤い色をした月」がいよいよ巨大に迫って来るという光景もいいだろう。

 主人公たちの演技にも、かなり細かい設定がなされていたのがいい。
 第1幕幕切れ、ホセがカルメンを逃がすことを決心するくだりでは、彼が「大切な」はずの母親の手紙を握り潰してしまう、という細かい演出も目を引く。
 また、第3幕終結近く、ホセがカルメンの首を絞めるなど常軌を逸した行動に出、これがカルメンをしてエスカミーリョに気持を走らせてしまい(ちょうど遠くから闘牛士の歌声が聞こえて来る)、あるいは第4幕でも、ホセがカルメンの顔を何度も殴打するという設定があり、これが僅かに残っていたであろう彼女のホセへの同情の念を完全に失わせてしまう、といったような、━━つまりカルメンがホセを棄てたのは、カルメンの移り気の所為だけではなく、ホセの行動にもその原因があったのだ、という解釈が行われていたような気がして、大変興味深い。

 もう一つ、ホセとエスカミーリョの決闘場面(第3幕)でも、アルコア版のような長さをもたぬギロー編曲版を巧くカバーし、闘牛士がホセを一度は打倒しながら逆襲されるという設定にして、そのあとの闘牛士の「勝負は互角だな」という歌詞に矛盾を生まぬよう描き出すという演出は、実に当を得たアイディアだったと思う。

 こうした演技を、カルメンも、ホセも、エスカミーリョも、見事にこなしていたのは確かである。ただ一つ、ミカエラのみ、要所で「アリアを歌う」類型的なポーズを取ってしまうのが、演技のバランスを壊す結果を招いているような印象があって、少々気になる。

 今回は前出のように、ギロー編曲による旧慣用版が使用されていたが、細部では、特に第2幕などでいくつかカットがあったようである。第4幕は間奏曲のあと、「物売り」の場面を省略し、いきなり闘牛士たちの入場場面から始められたが、これは意外に不自然さを感じさせない手法だったようだ。
 とにかく、話題豊富な「カルメン」だった。

2017・2・3(金)ユッカ=ペッカ・サラステ指揮新日本フィル

      すみだトリフォニーホール  2時

 これは「アフタヌーン・コンサート・シリーズ」のひとつ。
 平日午後のコンサートが結構多くの聴衆を集めているというのは最近の傾向だが、この日もメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」とチャイコフスキーの「交響曲第4番」という「名曲プログラム」であることも手伝って、なかなかの入りであった。もっとも、天下の名指揮者サラステの初客演が、2回(土・日)公演とはいえ、平日マチネーでは、ちょっともったいないような気がしないでもない。

 協奏曲では、レイ・チェンが例のごとく元気のいい、勢いにあふれたソロを聴かせてくれた。今年28歳、勢いに任せた荒っぽい演奏ではあるが、若者ゆえの気魄は気持がいいものだ。
 サラステもまた、オーケストラをかなり勢いよく鳴らす。チャイコフスキーではそれがエネルギッシュな力を生んでいたが、━━新日本フィル、このところ少し荒れ気味ではないか? 例えば冒頭のファンファーレなど、かつての好調時と、どこか違う。
         別稿 音楽の友3月号 Concert Reviews

2017・2・1(水)野田秀樹演出「足跡姫~時代錯誤冬幽霊」

     東京芸術劇場プレイハウス  2時

 野田秀樹作・演出による演劇、「NODA MAP」第21回公演で、「時代錯誤冬幽霊」には「ときあやまってふゆのゆうれい」とルビがふってある。
 1月18日にフタを開け、3月12日まで、昼夜2回公演も少なからずあり、休演日は僅か8日を数えるのみというから凄い。

 出演者は、宮沢りえ(三、四代目出雲阿国)、妻夫木聡(淋しがり屋サルワカ)、古田新太(売れない幽霊小説家)、佐藤隆太(戯〈たわ〉けもの)、鈴木杏(踊子ヤワハダ)、池谷のぶえ(万歳三唱太夫)、中村扇雀(伊達の十役人)、野田秀樹(腑分けもの)といった人々。

 ヒロインの名を見れば、これが1600年代初頭に出現した「女歌舞伎」に関連のある物語だということはすぐ判るが、さりとて歴史を「理有」(りある)に描いたドラマではもちろんない。
 野田秀樹らしい、いつもの「言葉の遊び」が横溢した芝居だ。「売れない幽霊小説家(売れないゆうれいしょうせつか)」が「うれない」━━つまり「う」と「れ」が無いのであれば、「由比正雪か?」と誰何される立場となって、将軍暗殺を狙うテロリストに早変わりするといった具合で━━。

 芝居運びの巧さと、宮沢りえや妻夫木聡ら、出演者全員の早口台詞の明快さと芝居達者に感嘆したひととき。15分の休憩1回を含み、4時40分終演。

2017・1・31(火)カンブルラン指揮読響 メシアン「彼方の閃光」

      サントリーホール  7時

 読響第566回定期。
 オリヴィエ・メシアンの「彼方の閃光」(演奏時間約75分)1曲だけのプログラムで「完売」とは、驚くべき世の中になったものである。

 いくら東京でも、メシアンがそれほど圧倒的な人気をかち得るような時代になったとも思えないし。
 結局、滅多に聴けない珍しい曲への興味と、メシアンへの関心と、それにカンブルラン=読響の評価の高さと、━━それらいろいろな要素が集まって、このような「完売」になったのだろうが、祝着の極みだ。とはいえ、「完売」といっても、空席はあちこちに見られる。多分、定期会員が欠席しているのかもしれない。

 フルートとアルト・フルート、ピッコロとを合わせて計10本、エスクラやバスクラなど合わせてクラリネット総計10本、無数の打楽器群など・・・・といった超大編成の作品を、よくまあ取り上げたものだ。制作費も相当なものだったはずである。秋の「アッシジの聖フランチェスコ」全曲上演とこれと、メシアンの大曲に対するカンブルランと読響の総力を挙げた取り組みだ。
 その前哨戦たる今日の演奏会は、大成功を収めたと言ってよかろう。たった1回の演奏会ではもったいないような、密度の濃い快演であった。

 若い時期の「トゥーランガリラ交響曲」などでの沸き立つような作風と違い、最晩年の作であるこの「彼方の閃光」は、全編にわたって宗教的な色合いが濃く、遅いテンポによる祈りのコラールが連続し、その中に彼が愛した鳥の声が散りばめられて行くといった曲想をもつ。旋律性も強く、しかも静謐な音楽の中に、時に激烈さが交錯する、という特徴もあるだろう。

 今夜のカンブルランと読響(コンサートマスターは長原幸太)の演奏における豊かな色彩感は実に見事なもので、メシアンが最晩年に到達した目映いばかりの彼岸への憧れとは、まさにこういうものだったのか、という思いになる。
 おそらくこのメシアン・シリーズは、カンブルランが読響の常任指揮者として築きつつある最大の功績の一つたりうるかもしれない。

2017・1・29(日)アンサンブル・ノマド

   びわ湖ホール中ホール  2時

 朝10時から11時45分まで、びわ湖ホールの傍の「コラボしが」で「ラインの黄金」入門講座の第2回を一席喋ったあと━━今回の私の講座のお客さんは118名とのことで、まあ本当に熱心な方たちが多いのには感動してしまう━━中ホールでアンサンブル・ノマドの公演があると聞き、これ幸いと聴きに行く。

 音楽監督・指揮の佐藤紀雄以下計11名のメンバーが、声や楽器でさまざまな作品を演奏する。
 プログラムは、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」、ジョン・ケージの「居間の音楽」、武満徹の「海へ」、アレハンドロ・ビニャオの「リズムの手帳」という、すこぶる多彩で意欲的なものだ。
 「動物の謝肉祭」にしても、2台のピアノも入るちゃんとしたアンサンブルの演奏なのだが、これが今回は「ノマド版」となって、オリジナルの組曲の中に、サヴァロの「絶滅動物記」、ヴィヴァルディの「ごしきひわ」、川上統の「コウテイペンギン」といった作品が挿入されるというわけ。面白い趣向である。

 ジョン・ケージの「居間の音楽」では、舞台上で寛いでいた数人の奏者たちがやがて机をたたき、こすりはじめ、さらに家庭にあるような食器やら掃除機やらを使い、声によるリズムや唄をも交えて音の饗宴をつくり出すという具合だ。
 聴衆は必ずしも多いとは言えず、しかもこれら聴き慣れぬ音楽に多少の戸惑いもあるような雰囲気だったが、その聴衆をもアンコールの「11月の衛兵」とかいう曲では、全員を立ち上がらせ、手拍子や足拍子で演奏に引き込んでしまうという、洒落た手腕を見せるアンサンブルなのである。
 この団体は面白い。

 終演は4時頃。京都から5時5分発の「のぞみ」で帰京。

2017・1・28(土)華麗なる浜松市楽器博物館

 前夜、浜松に入る。
 私にとって浜松は、およそ30年前、「FM静岡」開局業務等のためにたった4年間出向していただけの街なのだが、まるで第2の故郷のように感じられてしまう場所だ。

 その4年の間に仕事を共にしたFMの同僚たち━━主として浜松在住の人々十数人の定期的会合に出席して旧交を温め、懐かしい浜松の空気に浸ってから一夜明けた今日、有名な浜松市楽器博物館を訪れる。
 ここは22年前に開館した世界的にも著名な施設だが、私は不勉強にして、今回が何と初の入館見学、というありさまである。

 だがこの博物館は、まさに聞きしに勝る見事なものだ。特に1階の日本を含むアジアの、その数およそ530点の展示楽器群は、まばゆいほどの美しさであり、興味深い。これは、たしかに一見に値する。部分的だが、演奏の音をヘッドフォンで聴くこともできる。
 西洋楽器だけが音楽のすべてではない━━ということを、身を以って体感できる場所といえるだろう。

 折も折だから、話題の「直虎」ゆかりの龍潭寺にも行ってみたかったが、近辺の道路を含め猛烈な混雑とのことで、諦めた。
 浜松は「直虎」に沸いている。たとえば駅の売店へ行くと、煎餅とかパイとか飴とかに「直虎」の名を付したものが、山のように並んでいる。「凛として直虎 バウムクーヘン」なんてのは、秀逸の類だろう。
 自笑亭の駅弁にも、大河ドラマで浜松ゆかりの「徳川家康」をやっていた年には「家康弁当」というのがあった(現在は「家康くん弁当」だそう)が、今年は「出世法師直虎ちゃん弁当」というのがあるらしい(今日は見当たらなかった)。
 感心ついでに、所謂名産ならずとも、いっそ日本全国に「家康」とか「直虎」とか、「信玄」とか「政宗」とかを主人公にした「ご当地オペラ」が妍を競うようになれば面白かろうに━━などと考えたりする。
 午後、大津に移動。

2017・1・26(木)井上道義指揮新日本フィル 武満プロ

      サントリーホール  7時

 定期公演での「全・武満徹プログラム」というのは、これまで数えるほどしかなかったはずである。よくやってくれた、という感だ。
 今回は、いかにも井上道義らしいスタイルのプログラム構成で、彼みずからがトークを入れ、演奏者やゲストへのインタヴュ―なども交えつつ演奏して行くという形の演奏会だった。彼のトークは時々八方破れになることもあるのだが、今日は要を得て解り易かったし、また曲の多さに比して、予定時間もさほどオーバーせずに終ったのには感心させられた。

 今日の定期で取り上げられた作品は以下の通り。
 最初に、作曲者を音楽活動に引き込んだ縁のシャンソン「聞かせてよ愛の言葉を」を、SPレコードと手巻式蓄音機で再生して聴かせ、それから演奏に入る。曲は順に、
 オーケストラと大竹しのぶの歌で「死んだ男の残したものは」、
 木村かをりのピアノで、「二つのレント」の一部と、その改作版「リタニ」、
 そしてオーケストラで、「弦楽のためのレクイエム」「グリーン」「カトレーン」「鳥は星形の庭に降りる」という大曲が演奏され、最後に「これはアンコールのような形でお聴きいただきたい」との井上のコメント付きで「ホゼー・トレス」からの「訓練と休息の音楽」および「他人の顔」からの「ワルツ」が演奏された。

 かように、一味も二味も違うプログラムである。なお、「カトレーン」でのソリストは木村かをり〈ピアノ〉、崔文洙(ヴァイオリン)、富岡廉太郎(チェロ)、重松希巳江(クラリネット)、大萩康司(ギター、特別出演)。コンサートマスターは崔文洙。

 井上道義の指揮する武満作品は━━これは予想した通りだが━━どちらかと言えば闊達で開放的な表現である。
 所謂日本的な静謐さとか、沈潜した叙情といった要素をあえて意識的に排除したような演奏であり、それよりも作品に秘められた「生」への力を見出し、それを強調している演奏のように感じられる。ご本人の意図はどうか知らないけれども、少なくとも私にはそう感じられるのである。
 しかしこれは、武満作品への多様な解釈が生まれる一つのきっかけとして肯定できる手法だろう。あの「弦楽のためのレクイエム」さえ、極めて芯の強い、毅然とした佇まいを感じさせる演奏になる。

 ただ、それ自体は結構なのだが、新日本フィルの演奏が少し粗っぽく、勢いに任せたようなものになっていたことだけは、甚だ気になるところだ。「弦楽のためのレクイエム」にしても、曲想のやや明るい「グリーン」にしても同様である。もう少し丁寧に、共感と愛情をこめて演奏できなかったものか?

 就中「カトレーン」に至っては問題が多い。━━この曲は、私がFM東京勤務時代に担当していた番組「TDKオリジナルコンサート」の200回記念委嘱作品として、公開録音での初演と、ラジオ部門芸術祭大賞獲得に至るまでの作業に一役買わせていただいた立場からも、とりわけうるさい注文を出したくなるのだが・・・・まあそれは別としても、この曲の演奏には極度の緻密さ、精妙さという要素が絶対不可欠であることは主張しておきたい。

 「カトレーン」は、第一に「オーケストラと四重奏のための作品」なのであって、「オーケストラと4つのソロ楽器のための作品」ではないことを念頭に置かねばならない。初演した時の「タッシ」は、メシアンの「世の終りのための四重奏曲」を演奏するために集まり、がっちりと組んだ「四重奏団」だったから、その「四重奏」と「大管弦楽」との対比は、明確に表されていた。
 その意味で、今日のソリストたちは、技術的にはともかく、いかんせんそのあたりに大きな問題があったのではないか。

 また今回、この曲の題名「QUATRAIN=四行詩」たるゆえんの「4小節」単位の構成にさほど重点が置かれず、ただ連続して流れ行く音楽として構築された(ように聞こえた)ことも、やはりこの曲を何かまとまりのない作品というイメージに陥らせる結果を招いていた感を否めない。しかも、テンポも素っ気ないほど速すぎた。

 ステージ上で彼も語っていたが、確かに、この「カトレーン」は、演奏者にとっても、聴き手にとっても、非常に難解な作品であることは確かだろう。初演で指揮した小澤征爾以外、だれの指揮で聴いてもさっぱりまとまりのない曲に感じられてしまう。これら多くの要素があるために、残念ながら演奏の機会が少なくなっているのも事実なのである・・・・。

 その点、今日の演奏の中では「鳥は星形の庭に降りる」が、最もオーケストラの密度が濃く、瑞々しい叙情の裡にも緊迫感があった見事な演奏だったことを特筆しておきたい。だがそれは、武満の作風そのものの反映でもあるだろう。

 最後の2曲はしばしば演奏会でも取り上げられる曲で、今や耳慣れたものとなった。
 また「死んだ男の残したものは」(山下康介編曲)を歌った大竹しのぶは、たった1曲の出演ではもったいないほどの存在感。こういうタイプの歌唱のプログラムを、最初のシャンソンの蓄音機再生に続けて置いた選曲センスは秀逸である。
 そして、その「武満の愛した3拍子」(トークでの井上の指摘)に応じ、プログラムの最後に「ワルツ」を置いた選曲構成も秀逸といえよう。
 井上の才気が全編にあふれた、貴重な演奏会であった。
     音楽の友3月号 Concert Reviews

2017・1・25(水)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 デュカスの「ラ・ペリ」、ドビュッシーの「夜想曲」(合唱は新国立劇場合唱団)、ショーソンの「交響曲変ロ長調」。
 カンブルランが読響のシェフである間に是非ともやってもらいたいと思っていた、奮い付きたくなるようなプログラムだ。コンサートマスターは長原幸太。

 舞踊詩「ラ・ペリ」は、冒頭のファンファーレだけはしばしば聴く機会があるが、その全曲(約20分弱)をコンサートで聴ける機会は、そう多くあるわけではない。
 この冒頭が半世紀前の時代、NHKが第1放送と第2放送を使って放送していた「立体音楽堂」という番組のテーマに使われていたことを覚えている人も、もう少ないだろう。2台のラジオを各々の波長に合わせ、左右に並べて立体(ステレオ)放送として聴く方法である。「一つの電波で二つの放送が聴けるFMマルチ・ステレオ」が未だ普及していなかった時代、あの「立体放送」がどんなにエキサイティングな音の世界だったか━━。
 そんな古い話はともかく、この日、読響の金管セクションが華やかに演奏したそのファンファーレは、すこぶる力感に富んだものだった。

 「夜想曲」では、読響のサウンドは一変し、弦にも柔かさが加わる。もう少し夢幻的な雰囲気が加われば文句ないのだが、当節の演奏はこういうものだろう。
 女声合唱は下手側のやや前方に位置していたので、その声が如何にも「合唱団」というイメージでリアルに響くのが、私の好みとはちょっと違う。

 この日の圧巻は、何といってもショーソンの交響曲だった。良い曲なのに、日本では滅多に演奏会で取り上げられないのが不思議である。
 ━━この曲の第3楽章の冒頭も、1950年代頃には、アメリカのニュース映画の中で、竜巻の災害の場面でよく使われていたものだった。これがまた、実によくそのシーンに合うのである。ちなみに、火災、地震、暴動などの場面で使われる音楽は、判で押したように、マーラーの「巨人」第4楽章の冒頭だった。当時は、そういう「ニュース映画」のBGMや、あるいはラジオの番組のテーマ音楽などの大半はクラシック音楽だったから、私たちはたとえ作曲家の名を知らなくても、そのようにしてショーソンやマーラーの音楽に触れる機会があったのである。

 さて、カンブルランはこの交響曲を、比較的暗い音色をあふれさせつつ、重厚な響きと、濃い陰翳を以って繰り広げて行った。私が昔愛聴したミュンシュ指揮ボストン響の演奏に比べると、別の曲のように音色が暗い。特に第1楽章主部は終始イン・テンポで進められるので、いっそう重厚な印象が強くなるだろう。
 だが、その陰翳が存分に威力を発揮したのは第2楽章であった。カンブルランと読響による数々の名演の中でも、この第2楽章での演奏は指折りの名演だったのではないか。瑞々しい豊潤さの一方、くぐもった翳りに覆われた、濃い霧の中から湧き上がって来るような音楽。しかも気品のある佇まい。この楽章が閉じられた時には、これは見事な演奏だったな、と心底から感動させられたのである。

 第2楽章の演奏があまりに素晴らしかったために、私の印象の中では第3楽章の影はちょっと薄くなってしまったが、その例の冒頭主題を、カンブルランと読響はやや抑制気味に響かせ、ミュンシュのように劇的効果を追うことなく、前楽章の暗い雰囲気を更に引き継いだような感じで演奏して行った。終結近く、雲間から光が差して来るように音楽が明るさを増して行くあたりでは、もう少し明快な音の色彩の変化が欲しいところではあったが、それは本番を2~3回繰り返すうちに実現する類のものであろう。
 とにかく、見事な演奏だったことは疑いない。
    音楽の友3月号 Concert Reviews

2017・1・24(火)ロイヤル・オペラハウス・シネマシーズン
「ホフマン物語」

    東宝東和試写室 3時30分

 英国版ライブ・ビューイングともいうべき「ロイヤル・オペラハウス・シネマシーズン」。  
 先日は六本木ヒルズの「TOHOシネマズ」で「ノルマ」を観た(昨年11月30日の項)が、今回は東宝東和の試写会で、オッフェンバックの「ホフマン物語」を観る。

 これは昨年11月15日の上演ライヴで、故ジョン・シュレシンジャーによる1980年演出版を、ダニエル・ドゥーナーが再演演出したもの。極めてオーソドックスなスタイルの舞台だが、人物の動きはかなり微細なので、ドラマとしての不備は感じられない。
 指揮はエヴェリーノ・ピドで、誇張のない安定した音楽づくりだ。

 主役歌手陣も粒が揃っている。
 ホフマン役のヴィットリオ・グリゴーロは、いわゆる「悩める詩人」というガラでないのは一昨年のMET出演(バートレット・シェア演出)の時と同様だが、真摯な青年という雰囲気を感じさせる点では、今回のほうが良かったのではないか。
 ニクラウス/ミューズ役のケート・リンジーはもう当たり役というほかなく、ホフマンを心底から気遣う温かい親友としての性格は、これもMETのシェア演出の時よりずっとストレートに表わされていた。

 「4人の悪役」は、これも前出MET同様、トーマス・ハンプソンで、容姿の雰囲気からいって、これもいい味を出していたと言えよう。
 「ホフマンが愛した3人の女性」の中では、オランピアを歌ったソフィア・フォミーナが出色の出来で、歌唱もいいが、自動機械人形としての演技が秀逸だ。あとのクリスティーヌ・ライス(ジュリエッタ)と、ソニヤ・ヨンチェーヴァ(アントニーナ)は、もちろん実力充分のいい歌手だが、今回の演出では、なぜかそれほど目立った存在になっていない。
 なお、クレスペル役として、エリック・ハルフヴァーソンが出ていた。

 上映時間は、2回の短い休憩を入れ、4時間5分ほど。旧いプロダクションなので、楽譜にも旧慣用版に近いものが使われており、エピローグ(酒場の場面)は短い。
 ロイヤル・オペラでの休憩時間はMETと同じ30分ずつなので、この時間を利用してホストの女性(名は聞き逃した)がインタビューしたり、練習風景やドキュメントを織り込んだり、次の幕の予告を紹介したりと、さまざまな趣向を凝らしている。それはそれで面白いのだが、作り方は少々凝り過ぎだ。次の幕が始まったのかと思ったら実は予告だったり、ドキュメントだったりと、些か紛らわしいところが無いでもない。

 だがこのシリーズは、オペラだけでなくバレエ(来月以降には「くるみ割り人形」「ウルフ・ワークス」「眠りの森の美女」など)も含んでおり、その意味で「METライブ」と異なる個性を発揮することができるだろう。オペラでも、このあと「トロヴァトーレ」やカウフマン主演の「オテロ」なども予定されているようだ。
 昨年11月の時にも書いたことだが、上映予定が早めに発表され、また上演の詳しい日本語資料(配役、解説など)が配布されるようなシステムが早く実現されることを希望したいもの。

2017・1・23(月)キット・アームストロング・ピアノ・リサイタル

      浜離宮朝日ホール  7時

 今年24歳という青年キット・アームストロングのリサイタルを聴く。
 ウィリアム・バードの「パーセニア」から「プレリュード」など3曲、同じくバード編の「ネヴェル夫人の曲集」から「ファンシー」、モーツァルトの「幻想曲とフーガ K394」と「ソナタ第17番 K576」、リストの「ソナタ ロ短調」と「エステ荘の噴水」━━と、プログラムからしてユニークだ。

 何とも面白い、興味をそそられる若手ピアニストだ。音色への異様なほどの鋭敏な感性を持ったピアニスト━━と言ったらいいのだろうか。
 昨秋に東京でティーレマンと協演したベートーヴェンの協奏曲と同様、今夜のバードとモーツァルトの作品では、端整な構築の裡に、極度に美しく澄んだ音を響かせた。このホールのベーゼンドルファーのピアノが、実に清澄な、綺麗な音で鳴ったのである。

 ところがこれが、後半のリストでは一変する。音楽の昂揚に応じての激烈なアッチェルランドを駆使、その加速して行くテンポの凄まじさにはぎょっとさせられるが、その奔放なテンポの変化の中で、音の色彩も目まぐるしく変わって行くのが面白い。高音域の煌めきの個所など、あたかもオーケストラのフルートとピッコロが高音で絶叫するかのような音色に聞こえる。
 この千変万化の音色の設定は、まるでオーケストラをイメージして行われているかのようにさえ感じられるのだが、彼が実際にどう考えているのかは、私は知らない。

 リストの作品では、あふれる感興を制御しきれぬといった演奏に感じられるところがなくもなかったが、若いのだからそれもいいだろう。こういう演奏には、かなりの即興的要素も含まれているだろう。他の日には、また違った表現で演奏をやるタイプの演奏家かもしれない。CDとステージとでは演奏スタイルが全く異なるというタイプかもしれない。

 とにかく、大変な「尖った」音楽をやる若者が現われたものだ。24歳でこういう音楽をつくってしまうピアニストは、得てして中年以降には違った方向へ走ってしまう危険性もなくはない・・・・などと取り越し苦労をしてしまうのだが、とにかく、まっすぐに伸びて行って欲しいもの。

2017・1・22(日)METライブビューイング 「遥かなる愛」

    東劇  6時30分

 現代作曲家カイヤ・サーリアホのオペラ「遥かなる愛」。
 メトロポリタン・オペラでの、昨年12月10日上演のライヴ映像。

 ロベール・ルパージュによる新演出、マイケル・カリーの舞台美術、スザンナ・マルッキの指揮。
 トリポリの女性伯爵クレマンスをスザンナ・フィリップス、彼女に憧れる吟遊詩人ジョフレ・リュデルをエリック・オーウェンズ、2人を仲介する巡礼の旅人をタマラ・マムフォードという配役。

 2000年の8月15日、ザルツブルクのフェルゼンライトシューレで観たこのオペラの世界初演は、ピーター・セラーズの演出とゲオルギー・ツィーピンの美術によるもので、あの横長の舞台一杯になみなみと水が湛えられ、その「海」を吟遊詩人と巡礼とが船で渡って行くという光景だった。
 が、今回のルパージュ/カリーの舞台は、さすがハイテク時代の演出とあって、一面の「光の海」である。

 それは舞台奥からオーケストラ・ピットの上までの空間に、横に張られた無数のライン(専門用語で何というのか知らないが、要するにクリスマス・ツリーのような電線?綱?紐?)が、精妙に変化する照明によってさまざまに光り輝くという仕掛けなのだが、その多彩な光の海の何とまばゆいこと、美しいこと。
 サーリアホのあの夢幻的な音楽とともに舞台全体がきらきらと輝くさまは、見事としか言いようがない。映像で観てもこれだから、METの現場でナマで観たらいかに綺麗だったか、と思う。

 合唱団はその「海」の中から、遠く近く、首か半身を出没させながら歌を聴かせる。これも幻想的だ。
 歌手陣も悪くはないが、吟遊詩人役のオーウェンズだけは、見かけからして、この役のイメージとは、ちょっと雰囲気が違う。しかし、何といってもスザンナ・マルッキの指揮が素晴らしい。METのオーケストラが実に美しくカラフルにサーリアホの音楽を響かせていた。

 休憩1回を挟んで、終映は9時20分頃。いい音楽だが、少し長く感じてしまうのは、幕のエンディングの場面が所謂「延々と続き、なかなか終らない」スタイルで書かれているからだろう。だがこれも、ナマで観れば、さらなる陶酔の極みだったかもしれない。

2017・1・22(日)佐渡裕指揮東京フィル ブルックナー9番

      BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 武満徹の「セレモニアル」(笙のソロは宮田まゆみ)とブルックナーの「第9交響曲」(ノーヴァク版、第3楽章まで)を組み合わせたプログラム。
 2曲の間に休憩は無しだったが、「セレモニアル」が終ったあとにはカーテンコールがあり、若干のステージ転換もあったので、2つの作品を有機的に連続させたというような形ではない(その形で演奏されてもよかったのではないか、という気持は抑えきれない)。コンサートマスターは三浦章宏。

 「セレモニアル」は、1992年、第1回サイトウ・キネン・フェスティバルにおける小澤征爾指揮のコンサートで初演された時以来、何度か聴く機会があったが、ソリストは常に宮田まゆみだった。今回も秘めやかな美しさを湛えた演奏。佐渡裕指揮する東京フィルも静謐な音を滲ませて好演した。

 ただ、非常に残念なことに、武満徹の作品は、どんなに見事に演奏されても━━彼のファンが集まった演奏会ででもない限り、拍手は戸惑ったような、あるいはお座なりのような程度にしか起こらないという傾向が、いまだに多く見られるのだ・・・・。まあ、これは、時が解決することになるだろうけれども。

 ブルックナーの「9番」は、驚くほど「太い」演奏だ。東京フィルが、重く、巨大に、轟然と鳴りわたる。佐渡はこの曲を兵庫芸術文化センター管弦楽団の9月定期でも指揮しているから、このところ「入れ込んでいる」交響曲なのであろう。この作品を、これほど地響きするように轟かせた演奏を、私はこれまで聴いたことがない。
 いかにも佐渡らしい演奏だな、と微苦笑させられるが、ブルックナーの交響曲における超弩級の巨大性やエネルギー性を浮き彫りにしようというのが彼の狙いであるならば、それらは余すところなく達成されていた、と見るべきであろう。

2017・1・21(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル ブルックナー8番

     サントリーホール  2時

 昨秋の「ジークフリート」と「神々の黄昏」の抜粋、そしてこのブルックナーの「8番」、あとに続くブラームス交響曲ツィクルス(4月)、そして「ラインの黄金」セミ・ステージ上演(5月)と、首席指揮者就任以降のインキネンのプログラミングには、日本フィルがこれまであまり手がけなかったような、独墺系ロマン派の大曲が並びはじめているのが興味深い。

 昨秋のワーグナーの時には速いテンポで押しまくったインキネンは、今回のブルックナーではかなりの遅いテンポで、重厚かつ綿密に音楽を構築した。作曲家や作品によりこのようにアプローチを大きく変えるのもインキネンの主義らしいが、その基準点(のようなもの)をどこに置いているのか、まだよくつかめないところがある。
 いずれにせよ、独墺系指揮者たちとはかなり異なったスタイルによるインキネンのロマン派ものだ。大いに期待をもって聴いて行きたいものである。

 今日の「8番」(ノーヴァク版)の演奏時間は、楽章間の1分足らずの休みも含め、89分程度だった(昨日の演奏では、もう少し長かったそうである)。だが、弛緩した演奏の個所など、ただの1小節とて無い。
 遅いテンポが印象づけられたのはもちろん第3楽章においてだが、イン・テンポでゆったりと進めつつも、粘った感を与えずに頂点へ盛り上げて行くインキネンと、それに応えた日本フィルの意欲的な演奏には、なかなかのものがあった。特に第3楽章終結における「彼岸的で永遠なるもの」への憧憬の個所での演奏は、見事といっていい。

 インキネンが日本フィルから引き出した音色は、清澄とは言えぬまでも、かなりの程度まで透明さを保っていただろう。
 そして、アンサンブルも均衡を重視し、ある楽器群を突出させるということは避けているようだ。演奏が攻撃的でも刺激的でもなく、明快さをもちながらも柔らかさを感じさせたのは、そのためかもしれない。

 特に彼は、トランペットやティンパニを戦闘的に響かせるということは、あまりやらない。トランペットはむしろ抑制気味で、それゆえ第2楽章のスケルツォ主題のあくなき反復個所(第49~52小節)や、第4楽章でのファンファーレ(第11~16小節あるいは687~696小節など)で、トランペットだけに託されたモティーフが強く前面に出て来ないことには、どうしても疑問を抑え切れなくなる。全曲最後の大頂点(第697小節以降)で複数の主題動機が一度に鳴り響く個所で、トランペットの受け持つ動機が他の動機と同等に主張されないところも、同様である。

 ティンパニのほうは、第4楽章冒頭では本来の力強さで活躍、また例のスペクタクルな【N】の個所では、かつてのミュンヘン・フィルの剛腕奏者ペーター・ザードロにちょっと似た雰囲気で叩きまくるさまが面白かった(このティンパニ奏者は以前から目立っているが、プログラムの楽員表には名前が出ていない)。

 ともあれ、日本フィルが新境地を開きつつあるという点でも、このブルックナーは興味深いものがあった。秋には、「5番」をやるそうである。今日のコンサートマスターは扇谷泰朋。

2017・1・19(木)西山まりえのミュジストワール「音楽歴史紀行」

      JTアートホール  7時

 「アントネッロ」のメンバーであり、ヒストリカル・ハープとチェンバロの名奏者(カスタネットも名人級)でもある西山まりえが、自らナビゲーターとなって解説しながら17世紀の名曲を演奏して行くというコンサート。

 阿部早稀子(ソプラノ)、朝吹園子(バロック・ヴァイオリン)、懸田貴嗣(バロック・チェロ)が協演して、古代ギリシャ神話に縁のある作品を中心に演奏する。
 ペーリ、フレスコバルディ、カヴァッリ、カッツァーティ、ウッチェリーニ、モンテヴェルディ、ピッキ、カステッロ、カッチーニといった作曲家の美しい声楽曲や室内楽曲が次から次へと登場、私たちを快い世界へ誘ってくれるというわけである。

 東京・虎ノ門にあるこのホールは、座席数も250前後だから、こういう趣旨の演奏会には絶好だ。インティメートな雰囲気が、作品と演奏をいっそう素晴らしく感じさせる。第2部のプログラムの核に、今年が生誕450年に当る大作曲家モンテヴェルディの作品を3つほど置き、解説にもアントネッロ他の演奏会の予告をさり気なく入れるという作戦も巧い。この西山まりえさんという奏者は、本当に「八面六臂」の人である。

2017・1・18(水)サイトウ・キネン・オーケストラ・ブラス・アンサンブル

      紀尾井ホール  7時

 小澤征爾監督下にある団体として、昨日の演奏会の続きのような錯覚をつい抱いてしまうが、昨日は水戸、今日は松本。

 サイトウ・キネン・オーケストラ・ブラス・アンサンブルという名称だが━━トランペットは、ガボール・タルコヴィ(ベルリン・フィル)、カール・ゾードル(グラーツ・フィル)、高橋敦(都響)、服部孝也(新日本フィル)。ホルンがラデク・バボラーク(元ベルリン・フィル他)、阿部麿(フリー)、勝俣泰(N響)。トロンボーンはワルター・フォーグルマイヤー(ウィーン響)と呉信一(元大阪フィル)。バス・トロンボーンがヨハン・シュトレッカー(ウィーン・フィル)、テューバがピーター・リンク(仙台フィル)。
 この11人の男たちに、打楽器の竹島悟史(N響)が加わったのが今回のアンサンブルだ。まさに錚々たる名手たちの集団である。

 とにかく、その巧いこと。どの曲一つとっても鮮やかな演奏なので、痛快そのものだ。音量のパワーも凄いから、もっと大きなホールでやってもらいたかったが・・・・。
 第1部がいわゆるクラシックのレパートリーで、ヘンデルの「王宮の花火の音楽」の序曲に始まり、プレトリウスの「テレプシコーレ舞曲集」抜粋、バッハ(シュテルツェル)の「御身がともにいるならば」、モーツァルトの「ホルン協奏曲第3番」第3楽章、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲(最初と最後を繋げたもの)、ミロシュ・ボクの「3つのイントラーダ」と続くプログラム。

 プレトリウスの舞曲など、あの伝説的なフィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルのような、常時編成の団体のような溶け合った響きは求むべくもないが、各国の名奏者たちが集い、腕を競い合いつつアンサンブルをつくって楽しむというさまが、演奏に開放的なスリルを感じさせて素晴らしい。モーツァルトの協奏曲で、バボラークの颯爽たるソロを聴けたのも嬉しかった。

 第2部は、ポップス系のプログラムだ。ジョン・ウィリアムズの作品集、グレン・ミラーでおなじみの「イン・ザ・ムード」と「ムーンライト・セレナーデ」、それから「ロンドンデリーの歌」といった傾向のもの。更にアンコールとして、エルガーの「威風堂々第1番」、クリス・ヘイゼルの「三匹の猫」からの「ミスター・ジャムス」、ジョン・ウィリアムズの「レイダース・マーチ」の3曲が闊達に演奏された。
 こういうのを手がけても、彼らの演奏は実に鮮やかなものである。

 フォーグルマイヤーも巧かったが、それ以上に、高橋・服部のトランペット日本勢が「平気な顔で」燦然たる高音を吹きまくるのには感心させられたし、竹島悟史がクラシックからジャージーなスタイルまで、あらゆるパーカッションを見事にこなして八面六臂の大活躍を繰り広げたのにも舌を巻かされた。

 客席には小澤さんも座っていて、1曲終るごとにブラヴォーを叫んで、立ち上がって拍手を贈る。彼が客席に入って来ると、ホール全体から万雷の拍手が起こる。皇族並みの光景だ。彼が如何に愛されているかという証だろう。
 私も席が彼の真後ろだったのを幸い、首を伸ばして、昨日のミューザ川崎でのことを囁くと、「ああ、聴きに来てくれてたの? あのオーケストラ、いいでしょう!」と、忽ちいつものようにオケを誉めあげていた。ほんとに元気そうに見えましたよ、と言うと、「でもやっぱり、くたびれちゃった」と苦笑していたが、やはり今は「1曲だけ指揮」が精一杯なのだろうか?
 しかし今夜も小澤さんは、カーテンコールではメンバーから一度ならずステージに引っ張り上げられたりして、舞台と客席との間を元気に歩き回っていた。祝着である。
     モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2017・1・17(火)小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団 川崎公演

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 水戸で2回の定期公演を行なったあと、川崎に進出しての公演。
 モーツァルトの「協奏交響曲変ホ長調K364(320d)」と、ベートーヴェンの「交響曲第1番」。

 1時間そこそこのプログラムで、しかも総監督・小澤征爾が振るのは交響曲のみである。
 それでも、指揮台上に小澤さんが元気に顔を見せてくれれば、何かしら、ほっとする。この半世紀以上にわたって国内や外国で聴いて来た彼の指揮━━それらの数々の思い出が甦り、たとえ1曲だけでも、今なおこうして聴けるということに嬉しさを感じてしまうのである。これがファン気質(?)というものか。

 交響曲での弦編成は、7・6・5・4・2。コンサートマスターは豊嶋泰嗣が務めた。
 小澤征爾は、昨夏のセイジ・オザワ松本フェスティバルにおけると同様、椅子に腰を下ろして指揮、曲の要所では立ち上がってオーケストラを鼓舞する。楽章の合間には別の椅子に移って30秒~1分程度の休息を摂るが、第4楽章では大半を立ったままで振り続けた。
 ともあれ、彼が指揮台に上った瞬間に、オケの楽員たちの雰囲気が忽ち一変し、気合のこもった異様な熱気のようなものがステージいっぱいに立ち込めるのだから、これがカリスマ性というものであろう。

 その演奏には、かつての小澤が得意とした、弾むように躍動する力感はもう薄れてはいるものの、年齢よりははるかに若々しい勢いがまだあふれている。
 そして、彼自身の指揮の動作こそ昔よりは抑制されて来ているが、その強烈な精神力に触発された楽員たちが自発的に創り出す音楽の燃焼力は、今も不変であるどころか、時には昔よりむしろ旺盛になって来ているのではないか。病から回復したあとの小澤征爾の音楽が一種の凄愴さを帯びるようになっているのも、そのためだろう。

 名手たちが結集したオーケストラは、相変わらず上手い。
 カーテンコールは4回。小澤さんは、楽員たちと一緒に、休みなしに出たり入ったり。これだけ見れば、もう本当に健康回復という気もするのだが・・・・。

 1曲目の「協奏交響曲」では、竹澤恭子(ヴァイオリン)と川本嘉子(ヴィオラ)がソリストとなり、リーダーは渡辺實和子が務めた。
 全身を大きく躍動させ、動き回ってオーケストラに呼びかけ、誘い、共に昂揚して行くかのように弾く竹澤恭子。これに対し、定位置にどっしりと構え、落ち着いた雰囲気で弾きつづける川本嘉子。この2人の対比が面白く、それは同時に、この作品におけるヴァイオリンとヴィオラのソロの各々の性格を具現していたようにさえ感じられたのである。

 第2楽章最後のカデンツァの個所では、2人のソリストがじっくりと親密な対話を繰り広げた。こういう演奏は、指揮者がいない時のほうが、自由に出来るかもしれない。いかにも腕利きの楽員同士が愉しみつつ、自発的に演奏しているという感だ。そのためか演奏時間も延び、30分を超す長さとなったが、何しろオケが巧いから、快いひとときとなった。
 ホールは満席の盛況。
      モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2017・1・14(土)秋山和慶指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 1月定期。メシアンの「忘れられた捧げもの」、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」、フローラン・シュミットの「サロメの悲劇」━━という、非常に意欲的なプログラムが組まれている。
 ジョナサン・ノットの音楽監督就任以来、東京響の定期での曲目編成には、こういう近・現代ものが極度に増えたような印象がある。かつてはアルブレヒト常任時代の読響、次いでアルミンク音楽監督時代の新日本フィルがこういった大胆路線で気を吐いていたものだが、今やそれは東京響に引き継がれたという感だ。
 今日のピアノ・ソロは小菅優、コンサートマスターは水谷晃。

 何を措いても、秋山和慶(桂冠指揮者)の指揮の巧いこと! 
 複雑で多彩な大管弦楽のパートを、見事に均整を保って微塵の隙もなく構築、明晰なサウンドを響かせる。正確過ぎて几帳面で面白味に不足する、という人もいるが━━私も彼のロマン派音楽においては同感な部分もあるが、このような近・現代のレパートリーに関しては、彼の指揮の鮮やかさに脱帽するほかはない。

 今日の演奏会でも、メシアンの作品は、あまりメシアンらしくない端整な佇まいを備えて演奏された。また、「パルジファル」とドビュッシーと、それに「惑星」の先取り?とが入り混じったようなフローラン・シュミットの「サロメの悲劇」は、たしかに端整さが勝ちすぎた演奏という印象はあったけれど、立派な構築であることに変わりはなかった。

 だが、今日のハイライトは何といっても、この2人の作曲家の作品を前後に置いて関連させた、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」ではなかったろうか。小菅優のソロは闊達で素晴らしく、秋山と東京響の演奏も瑞々しく多彩で豊麗で、しかも純な清澄さにあふれていた。

 この曲、公開初演は1967年11月29日の東京文化会館、森正指揮のN響、中村紘子のソロによるもので、私はうろ覚えながら、どうもそれを現場で聴いたような記憶があるのだが━━当時のことだから、あまりピンとはこなかった。
 そもそも、あの頃聴いた日本のオーケストラ曲の多くは、おしなべて音が薄く、小奇麗ではあるが端整過ぎて冷たい、という印象だったのだ。当時録音されたレコードで聴いてもほぼ同じ感がするだろう。

 だがそれが不思議にも、今日のオケによるナマ演奏で改めて聴いてみると、驚くほど豊潤で多彩で、雄弁な音楽となって甦って来る。これは必ずしも私だけの感想ではないだろう。演奏スタイルの変遷か、オーケストラや指揮者のスタイルが変わったのか、などということまで考えてしまう。

 この矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」も同様である。特にそのミステリアスな第2楽章が、恐ろしい緊迫感にあふれ、作曲者の言う通り、悪夢の中をさまようような不気味さで聴き手をぞっとさせることは、昔聞いた印象以上のものだ。この第2楽章ひとつ取ってみても、この曲が日本の作曲史における大エポックなのではなかったか、という気までして来る。
 先日の柴田南雄の作品集と同様、日本の先人作曲家たちの作品を見直すことは、私たちに大きな宝をもたらすことになりそうである。

2017・1・12(木)オーケストラ・アンサンブル金沢 東京公演

     紀尾井ホール  7時

 「ニューイヤーコンサート2017in東京」と題された演奏会で、金沢(8日)、富山(9日)、大阪(11日)と回って今夜が最終日。相変わらずフットワークの軽い足長オーケストラだ。
 今回の指揮は音楽監督の井上道義ではなく、バロック・ヴァイオリンの大家エンリコ・オノフリ。足の長い痩躯を躍動させ、ヴァイオリンに付けた長い房(?)を首に巻きつけたおなじみのスタイルでエネルギッシュに弾き振りする。

 前半にヴィヴァルディの「祝されたセーナ」の「シンフォニア」と「ヴァイオリン協奏曲 作品3の3」、ヘンデルの「時と真理の勝利」からの「神により選ばれた天の使者」および「王宮の花火の音楽」。後半はヴァイオリンを持たず指揮専門で、モーツァルトの「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」および「ハフナー交響曲」というプログラムだった。
 ソプラノ・ソロは森麻季、チェンバロが桒形亜樹子、コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。

 まことに「音楽の新年」らしい爽やかで、品が良くて、快いプログラムだ。特に前半のような曲目を、オーケストラ演奏会で聴ける機会は滅多にない。
 バロック音楽の清澄爽快な響きをそのまま、室内合奏団のようなスタイルでなく、いわゆる「管弦楽団」的なシンフォニックかつスケールの大きな演奏スタイルで聴かせることができるオケは、この「オーケストラ・アンサンブル金沢」を以って国内第一と言うことができるだろう。

 聴き慣れた「調和の幻想」が颯爽と、しかも厚みのある音で始まった時には、何と胸のすくような、気持のいい演奏かと、惚れ惚れしたくらいであった。そして「王宮の花火の音楽」では、金管とティンパニがおそろしく豪快に鳴り渡り、まさにこの作品に相応しい祝典的な雰囲気を醸し出す。エンリコ・オノフリのダイナミズムというか、良い意味でのハッタリというか、こういう解放的で突き抜けた「王宮の花火」は、聴いていて実に痛快なものがある。

 また後半では、チェンバロを加えた「ハフナー交響曲」の演奏もすこぶる表情が大きく、叩きつけるティンパニの鋭さも印象的だが、大仰なリタルダンドの多用(第3楽章)など、自らが愉しみまくっているようなオノフリの指揮が微笑ましい。それは些か荒っぽいタッチではあったけれども、こじんまりしたクソ真面目な演奏よりも、勢い全開のこのようなステージのほうが、なんぼ面白いかと思う。

2017・1・10(火)日下紗矢子、C・ハーゲン&河村尚子

      トッパンホール  7時

 「トッパンホール ニューイヤーコンサート 2017」と銘打たれた演奏会で、プログラムはベートーヴェンの「チェロ・ソナタ第2番」、コダーイの「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」、シューベルトの「ピアノ三重奏曲第2番」。
 いずれ劣らぬ実力者揃い。3人の個性がはっきりと感じられて、実に聴き応えのある演奏会となった。

 ベートーヴェンのソナタでは、河村尚子のピアノが見事な活気を見せてクレメンス・ハーゲンのチェロとわたり合い、コダーイの二重奏曲では日下紗矢子のヴァイオリンがハーゲンと丁々発止の応酬を繰り広げる。
 いずれにおいても、ベテランのハーゲンがむしろ押され気味といった感。日本の2人の女性のパワーを大いに楽しませてもらった。以上が第1部。

 第2部の三重奏曲では多分ハーゲンの逆襲が聴かれるのでは、と予想していたら、案の定。落ちついた風格を全身に漂わせ、アンサンブルをしっかりと支えたのは、さすが千軍万馬の弦楽四重奏曲のメンバーの貫録だ。

 そして日下紗矢子がこれまた見事にぴたりとアンサンブルを合わせたのも、さすがベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団と読響のコンサートマスターだけのことはある。コダーイの時と同様、もうすこし自己主張をみせてもいいのではないかと思ったほどだが、このあたりが、ソロとアンサンブルでスタイルを使い分けるという彼女の方針なのだろう。
 この2人に対し、河村尚子は、やはり「ソリスト」だ。━━生き生きしたピアノではあるものの、第1楽章と第2楽章では、「三重奏曲」のアンサンブルとはどこか違うようなものを感じさせていた。

 ところが第3楽章の中間あたりから、ものの見事に3人のアンサンブルがぴたりと決まって来たのである。第4楽章後半など、これぞトリオの醍醐味、という演奏だったであろう。
 とはいえこれは、途中から呼吸が合って来たということではなく、むしろ作品の構造が大きく作用しているのだろうと思われる。シューベルトは、最初の二つの楽章ではピアノを比較的自由に歌わせていたが、第3楽章以降では、3つの楽器がしっとりと合うような手法を多用しているとも言えるのだから。

 いずれにしても、今夜は良い「ニューイヤーコンサート」であった。9時10分終演。

2017・1・9(月)佐々木典子&大澤一彰デュオ・リサイタル

     東京文化会館小ホール  2時

 佐々木典子(ソプラノ)と大澤一彰(テノール)の華やかなコンサート。
 ヴェルディ、プッチーニ、ベルリーニ、グノー、ワーグナー、コルンゴルト、レハールなどのオペラのアリアから二重唱、滝廉太郎、武満徹ら日本の歌曲にいたるまで、実に大量多彩なプログラミングで構成されていた。ピアノは仲田淳也。

 所用のため演奏会の前半しか聴けなかったけれど、ふくよかで温かいヒューマンな佐々木典子と、高音域を小気味よく爽やかに響かせる大澤一彰の明るい歌唱が映えて、ぎっしりと満席のホールはオペラ歌手のコンサートらしく盛り上がりをみせていた。

2017・1・7(土)飯森範親指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      横浜みなとみらいホール  6時

 サントリーホールでの演奏会が4時に終ったので、クルマで横浜へ向かう。ガラガラの首都高だから、のんびり定速で走っても、Door to doorで1時間もかからない。
 こちらは日本フィルの横浜定期演奏会のシーズン最終日で、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは神尾真由子)と、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」が演奏された。コンサートマスターは木野雅之。

 神尾真由子のヴァイオリンは、音色といい、表情といい、いつものように濃厚そのものだ。ただしそこには、妖艶とか艶麗とか甘美さとかいったものとは正反対の、もっと攻撃的で激しい、凄愴な陰翳を感じさせるものがある。そういうブラームスを聴くと、初めは少々まごつかざるを得ないが、しかしこれが全曲の終りに近づくまでには、一種の魔性の糸に絡め獲られたような気持になって来るのだから不思議である。
 が、我に返って考えれば、彼女のこういった演奏は、アンコールで弾いたパガニーニの「カプリース」での方にいっそうの良さが発揮されていたと見るのが妥当かもしれない。

 「新世界交響曲」では、飯森範親が、これもかなり念の入った、思い入れの強い指揮を聴かせてくれた。
 第4楽章の再現部に入ったあと、(Poco)meno mossoから大きくテンポを落したのはスコアの指定通りだが、そのあとのTempoⅠの個所に入ってもまだテンポを回復させなかった(ように聞こえた)のは、彼のことだから何か根拠があってやっていたのかもしれないが、私の正直な印象で言えば、このあたりから終結部に入るまでの間では、演奏にやや誇張めいたものが感じられ、その結果、音楽にもやや弛緩が感じられてしまったのだが。

 日本フィルは、今日は、ありていに言えば、まず並みの演奏、という出来であろう。

 終演後、ホワイエで「シーズン・ファイナル・パーティ」が開催された。無料でドリンクがふるまわれる。これは事務局及び楽員と横浜の聴衆との交流を狙いとするもので、シーズンの最終定期のあとに毎年やっている企画だそうである。こういうところが、昔から聴衆との結びつきを重要視している日本フィルの偉いところだ。
 私も1杯のソフト・ドリンクにでもあずかろうかとカウンターへ足を運んだのだが━━お婆さん連中の割り込み、押しのけ、突き飛ばし、ビールのコップをひとにぶつけながら邪魔そうにこちらを睨みつけて通り過ぎる荒々しい行動に怖れをなし、諦めて早々に退散した。あとで聞けば、オーボエ・クァルテットの演奏などの出しものもあったそうである。

 巷では若者たちの礼儀知らずが指摘されていますが、クラシックの会場では若者たちは常に礼儀正しく、むしろ高齢者たちのほうに、横柄で乱暴なのが多いのです。威張る、すぐキレる。
 特にロビーなどでガンと人にぶつかりながら知らん顔をして通り抜けて行く男の高齢者の多いことは、驚くほどですな。私も高齢者のはしくれ(?)ゆえ、気がつかぬうちにやっているかもしれない。自戒しましょう。

2017・1・7(土)吉野直子ハープ・リサイタル

     サントリーホール ブルーローズ  2時

 ハープのリサイタルは、私の好みからすると、新年の最初に聴く演奏会としてはこれ以上のものはない、と言ってもいいほどである。しかも演奏者は吉野直子。

 プログラムは、ブリテンの「組曲 作品83」、クシェネクの「ソナタ 作品150」、ヒンデミットの「ソナタ」、サルツェードの「古代様式の主題による変奏曲」と「シンティレーション」と「バラード 作品28」━━という選曲で、前半3曲のコワモテの雰囲気が、後半のサルツェードで一転解放されるといった具合。
 いかにも「濃い」プログラムではあったが、それを堅苦しい雰囲気に陥ることから救っていたものは、ほかならぬ彼女の、真摯でかつ温かい、ヒューマンな感覚に満ちた演奏であったろう。

 ただし今回は超満席の小ホールとあって、インティメートな空気はあったものの、残響は殆どなく、そのためハープの音色に玲瓏さは薄められ、リアルな存在感が強められた。それがいいという人もいるだろうが、私の好みからすると、もう少し空間的な拡がりをもった会場で聴きたかったところであり・・・・。

2016・12・26(月)ヤクブ・フルシャ指揮東京都響「第9」

     サントリーホール  7時

 12月の都響は首席客演指揮者フルシャの世界。「第9」は3回指揮して、今日はその最終公演。協演は森谷真理、富岡明子、福井敬、甲斐栄次郎、二期会合唱団。コンサートマスターは矢部達哉。

 予想通り、引き締まって瑞々しく、贅肉も誇張も皆無でストレートなフルシャの指揮だ。といって、昨日のタリのような坦々たる音楽づくりとは違い、デュナミークの対比もさらに大きな、豊かな起伏を備えた構築である。
 聴き手がベートーヴェンを古典派の作曲家として捉え、一切の猥雑物を排除してその純粋な精神とのみ対決しよう、というのであれば、この演奏は充分それに応えることのできる存在であろう。呼吸の合った指揮者とオケの演奏は、アンサンブルも個々のソロも、響きのバランスも上々であった。

 プログラムは、この「第9」1曲のみ。気分の上でも集中できるし、早く終るからいい━━などというのはわれわれ仕事で聴きに行く業界人の台詞だが、お金を払って、特に家族連れで「年末の行事」として聴きに行く人々の中には、何かプラス1曲、という好みもあるかもしれない。
 だが今日もほぼ満席、それも入門者というよりは、このフルシャと都響のとにかく「第9」を聴きに来た、というコアなお客さんがかなりの数を占めていたのでは━━とはこちらの勝手な推測だが、演奏終了後の拍手やブラヴォ―の声の質からすると、それも当らずとも遠からず、ではなかろうか。

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