2017-06

2017・6・22(木)飯森範親指揮山形交響楽団 東京公演

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 山響恒例の、おなじみ「さくらんぼコンサート」、ほぼ満席に近い盛況。
 今日は、音楽監督・飯森範親の指揮で、サリエリの歌劇「ファルスタッフ」序曲、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」(ソロは横山幸雄)、モーツァルトの「交響曲第40番」。アンコールはモーツァルトの「交響曲第31番《パリ》」終楽章。コンサートマスターは高橋和貴。

 先日オクタヴィア・レコードから出た飯森&山響のモーツァルト交響曲全集CDが予想を上回る見事な出来だったので(13枚組の大部とあって、未だ半分しか聴けていないのだが)、ナマ演奏では如何と期待していたのが、この「40番」。
 これも、予想をはるかに超える充実の演奏だった。アタックとアクセントが強く、鋭角的な構築で、この曲のもつ厳しい表情を浮き彫りにする。

 全集CDに入っている「40番」と違い、今回使用した楽譜は、クラリネットを加えた版である。だが、響きはまろやかになるどころか、むしろ良い意味での鋭さを増していたようだ━━山形テルサでの録音による「40番」はエコー成分が豊かであり、また弦楽器群が大編成並みに分厚く前面に出たバランスで響いているので、どちらかというと温厚な、落ち着いたクラシカルな演奏に感じられるのである。

 それに比べ、今夜聴いたナマの演奏では、管楽器群がより明晰に響き、特にナチュラル・ホルンの鋭いアタックが、アンサンブル全体を威嚇し支配するかのような強い存在感を示しているので、演奏全体が鋭角的になっていたのだ。私としてはこちらの方が先鋭的に感じられて、好みに合う。特に前半2楽章は隙のない、優れた演奏であった。

 反復個所をすべて忠実に履行しているので、演奏時間も長くなる。それかあらぬか、第3楽章以降ではその緊迫度がやや薄れたような気がしないでもなかった。特に第4楽章では全体に少しテンションが落ちたようにも感じられたが、こちらの気の所為かもしれない。

 その前に演奏された「皇帝」も、ホルンの独特の音色が目立ち、リズムも明晰なので、オーケストラ・パートもかなり角張って聞こえる。内声部の響きもはっきりしているため、普通の演奏では聞こえないような各パートの交錯が楽しめる。ただこうなると、横山幸雄の力感に富んだオーソドックスなソロとは、必ずしも調和していたとは言い難いような気もするのだが・・・・。

 ところで、サリエリの小品は・・・・。珍しいものを聴かせてもらった、と感謝はするが、作品そのものは、言っちゃ何だが、見事なほどつまらなかった。
 コンサートは、クラリネットを使った「パリ交響曲」の第3楽章が華やかに演奏されて閉じられた。

 プレトークでは、西濱秀樹専務理事・事務局長が飯森範親とともにステージに登場。締め括りに協賛社の名前を「提供クレジット」として口頭で発表するのは、彼の関西フィル事務局長だった時代からの慣行である。

 ホワイエには、CDの即売コーナーだけでなく、例のごとく山形県の物産がずらりと並んで、お米、さくらんぼ、佃煮、豆、菓子など、壮観を極める。その横には「手荷物預かり所」というデスクがあって、お客さんたちが買った土産物の袋を客席内に持ち込まぬためにという、細かい気配りも。
 今年も例年のように抽選で佐藤錦のさくらんぼを贈呈するというシステムになっており、プログラムの最後の方の頁に、モーツァルトの切手のようなシールが張ってあれば当選という形だ。私も入口の「もぎり」のところでプログラムを貰い、知人と話しながら開いて見たら、それが貼ってあったのに仰天。しかしこれは、公明正大に(?)受け取ったもので、あくまで偶然の結果だから、遠慮なく頂戴することにした。ついでに終演後、山形の特産品をいくつか買い込む。山形駅の売店でもなかなか見当たらぬような珍しいものがある。

2017・6・21(水)大野和士指揮東京都交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 平日マチネーの定期は、東京でもどうやら定着したらしい。結構な客の入りだ。音楽監督・大野和士の指揮となれば尚更だろう。大雨・強風の悪天候の中でも、これだけ集まって来る。その熱心さには心を打たれる。
 今日のプログラムは、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」(ソリストはロジェ・ムラロ)、ベートーヴェンの「田園交響曲」。コンサートマスターは四方恭子。

 作品の持つ標題性のみならず、曲想の点から言っても、これは一貫性のあるプログラミングで、いかにも大野と都響らしい企画である。演奏も引き締まって、近年の都響の快調ぶりを示していた。
 もっとも、管のソロには2つ3つの危ないところもあったが━━人間のやることだから間違いはつきものだし、普段は私もこんなことには触れぬクチなのだが、何しろ今日のは、オヤこんなこともあるのかと呆気にとられるような事例だったので、つい、━━しかし都響の演奏は、全体としては極めて鮮やかで、胸のすくような出来であった。そして、その奏者も、そのあとは見事なソロを繰り広げてくれたのである。

 「牧神の午後━━」は、官能的とか夢幻的とかいった柔らかい雰囲気とは違い、もっと輪郭の明晰な表情に満ちたものだが、ドビュッシーの音楽はそんなことで揺らぐような世界ではない。
 「フランスの山人━━」は最初のイングリッシュ・ホルンの歌があまりに豊麗で朗々としていて見事なのにハッとさせられ、これで演奏の印象が決まる。ピアノはオーケストラの中央に配置され、コンチェルト・スタイルでなく、オケの楽器の一つとしての位置づけだった。ロジェ・ムラロの清澄な演奏をリサイタルに先立って聴けたのは嬉しかったが、オケは、最強奏になると、音色が粗っぽくなる。

 だが後半の「田園」になると、演奏は、実に緻密になる。この曲だけ念入りに練習したのかと思わせるような━━。本当に、驚くほど楽々と演奏されて行く、という感じである。
 このように割り切った活気のある演奏は、気持がいい。といって、勢いに任せて細部が疎かになることは決してない。それどころか、和声的にも旋律的にも、そしてデュナミークの対比の点でも、この上なく丁寧に組み立てられた「田園交響曲」というべきだろう。
 第1楽章展開部で、主題の音型が転調を重ねながらいつ果てるともなく反復されて行く個所など、大野と都響がスピーディに、かつ正確に表情を変えて行くその鮮やかさには魅了される。

 第2楽章でも、その転調の美しさにはうっとりさせられたが、━━最も美しい最弱音に陶酔しているさなかに、固い物が床に落ちる音や、2階席前方のすぐ傍から無遠慮な大きな咳が轟くとギクリとさせられてしまい、感興が削がれること夥しい。
 が、そんなことは措いて、この「田園」は、明晰で率直で、精妙さと剛直さがうまく合体した快演だったと申し上げてよいだろう。音量的にも感興的にも、全曲のクライマックスが第5楽章に置かれて効果を上げていた。
      音楽の友8月号 Concert Reviews

2017・6・19(月)読響アンサンブル・シリーズ

     よみうり大手町ホール  7時30分

 「日下紗矢子リーダーによる室内合奏団」と題し、ショスターヴィチ~バルシャイ編の「室内交響曲」(弦楽四重奏曲第3番」による)と、シューベルト~マーラー編の「死と乙女」という、重量感に富むプログラムが組まれた。

 日下紗矢子はもちろんベルリン・コンツェルトハウス管の第1コンマスであり、また兼任する読響の方は過去4年間ほどコンマスだったが、今年4月からは特別客演コンマスの肩書となっている。
 今回の弦楽アンサンブルには、瀧村依里(ヴァイオリン)や鈴木康浩(ヴィオラ)らも加わり、「室内交響曲」での管楽パートには蠣崎耕三(オーボエ)らも顔を揃えていた。

 演奏も重量級で、聴き応え充分である。どこかのアンサンブルのように、腕は確かで合奏力も完璧ながら音楽がメカニックで温かみが感じられない、などというのとは全く違い、演奏に聴き手の心を揺り動かす一種の魔性のようなものが漂っている。

 「死と乙女」など、これまで私はこの弦楽合奏版の演奏に一度も感動したことがなく、聴くたびにオリジナルの弦楽四重奏曲版の良さを懐かしく思うということの繰り返しだったのだが、今回の「日下紗矢子リーダーによる室内合奏団」の演奏に限っては、冒頭の一撃からして、そのデモーニッシュな力に愕然とさせられ、音楽に巻き込まれて行ったほどだった。
 プレトークで日下さんが話していたけれども、今回の演奏には、オリジナルの弦楽四重奏曲の楽譜にあるニュアンスをも多く取り入れていた由。

2017・6・16(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      東京文化会館大ホール  7時

 陽気な鬼将軍ラザレフは、首席指揮者を退いた現在では、桂冠指揮者兼芸術顧問の肩書を贈られている。
 相変わらず賑やかで慌しいステージでの挙止の親しみやすさもさることながら、彼が振ると日本フィルのアドレナリンもひときわ上昇するようで、その演奏は常に熱っぽくなるから、聴いていても楽しい。しかも、トレーナーとしても優れた手腕を持つラザレフである。彼の存在は、日本フィルにとって、今なお貴重だ。

 今日の定期は、「ラザレフが刻むロシアの魂」シリーズの一環。前半には、グラズノフのバレエ音楽「お嬢様女中」が演奏された。
 これはまた、珍しい曲をやってくれたものである。ナマで聴くのは、私も今回が初めてである。1898年に作曲された50分近い長さの作品で、まあ正直言ってさほど━━翌年作曲された「四季」ほどには出来のいい曲とも思えないけれども、ラザレフが日本フィル(コンサートマスター扇谷泰朋)から引き出した表情豊かな、躍動的な演奏は、実に多彩で、面白かった。
 こういうレパートリーを取り上げ、紹介した指揮者とオケの意欲的な姿勢は、見上げたものである。

 第2部はプロコフィエフで、「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは若林顕)と「スキタイ組曲《アラとローリー》」が演奏された。この二つも、日本の演奏会で取り上げられる機会は、意外に少ないものだろう。
 いずれも作曲者の20歳代前半、野心的で熱烈で、奔放な精神にあふれた曲想だから、ナマで聴くとすこぶる痛快である。だが、それにしても、この2曲における演奏は、良くも悪くも、かなり荒っぽいものだった。

 コンチェルトは、アシュケナージの入れたCDなどを聴くと、もう少し流れるような美しさもある曲なのだが、今日はピアノとオーケストラの猛然たる決闘の如き凄まじさを感じさせた。
 「スキタイ組曲」のほうは、もともと凶暴極まる作風であることは、ゲルギエフのCDで先刻承知だ。が、これも演奏はかなり粗っぽいところがある。なりふり構わず、遮二無二怒号咆哮しつつ突進する、という具合で━━。

 ともあれ、明日の演奏では、もう少しバランスも良くなるだろう。いつも初日の演奏が、熱意が先行してアンサンブルも粗っぽくなるのは、日本フィルのお家芸(?)だ。しかしその中でも、叙情的な個所での弱音の個所などでは、ハッとさせられるほど美しいものがあったことは確かである。

2017・6・14(水)井上道義指揮大阪フィルのマチネ・シンフォニー

      ザ・シンフォニーホール  2時

 これは文化庁関連・芸術文化振興基金の助成事後調査の仕事。コンサートを聴いて、演奏内容はどうだったか、企画の意図は達成されていたか、助成金申請の内容にふさわしいものだったか、予算に合致した内容だったか、客の入りはどのくらいだったか、などについて報告書を書く仕事だ。毎月聴く多くのコンサートの中で、平均4~6公演については、この仕事を兼ねている。

 今日は、「平日午後の名曲セレクション マチネ・シンフォニー」と題されるシリーズの第17回。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはハオチェン・チャン)と、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 マチネーの名曲だからと言って演奏に手を抜くことをしないのは、立派なものだ。「シェエラザード」では各楽器のソロも安定して、リムスキー=コルサコフの華麗なオーケストレーションを見事に再現していたし、とりわけチェロ・セクション(トップは近藤浩志)の音色の美しさは傑出していた。
 井上道義が多分狙っていたであろう「アラビアン・ナイトの艶麗な世界」が完璧に表出されるところまでは行かなかったかもしれないが、この「シェエラザード」がやはり良く出来た作品であり、リムスキー=コルサコフの「もって行き方」はやはり巧妙である、ということをはっきりと感じさせる井上の指揮と大フィルの演奏であったことは疑いない。

 協奏曲では、井上がすべてをリードしていたという感。どっしりとしたテンポ感で、シンフォニックに押し通す。そのため、ハオチェン・チャンのピアノが、最初は妙に端整で几帳面な雰囲気にとどまり、優等生的なコンチェルトもしくはピアノのオブリガート付きシンフォニーといった感の演奏だったが、第1楽章も展開部あたりからは、やっと闊達なヴィルトゥオーゾ的性格を発揮し始めた。

 井上と大フィルも、いくつかの個所では極度にアジタートにもなり、ソリストも猛然と燃え上がる。それでもやはり全体としては、ハオチェン・チャンは、忠実に、礼儀正しく指揮者に合わせていたような━━という印象は残るだろう。
 この曲で、このくらいオーケストラが大きく聳えまくって(?)いた演奏は初めて聴いたような気がするのだが・・・・。

 チャンは、アンコールでモーツァルトの「ソナタ第10番」の第2楽章を弾いたが、これはなかなか情感のこもった演奏であった。なお、最後に演奏されたオーケストラ側のアンコールの曲は、グリーグの「ペール・ギュント」からの「朝」。これもいい演奏だった。今日の大フィルは、弦をはじめ、音色がいい。

2017・6・13(火)METライブビューイング「ばらの騎士」

     東劇  6時

 5時半少し前に会場に着いたが、折しも昼の部の上映が終り、お客さんがゾロゾロ出て来るところ。このオペラで、こんなに大勢お客が入っていたのか、とびっくりする。初期の頃とは比較にならぬ盛況ぶりだ。すっかり人気も定着したのだろう。慶賀の至りである。

 このR・シュトラウスの「ばらの騎士」は、5月13日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴだ。METライブビューイングとしては、これが今シーズン最後のプログラムになる。掉尾を飾るにふさわしい上演内容と言っていいだろう。

 ロバート・カーセンの新演出と、ポール・スタインバーグの装置が洒落ていて、美しい。20世紀初頭のハプスブルク時代末期のウィーンという設定で、舞台装置も壁の色から床の色まですべてが濃厚な色彩にあふれているが、しかしそこはカーセンらしく、どこかにすっきりした雰囲気が舞台全体を貫いている。
 演技が微細で隙が無いのはもちろんだが、第3幕のエンディングには工夫が凝らされ、オリジナルのト書きとはかなり異なった光景が出現する。ロングの映像であり、しかも今日はかなり後ろの方の席で観ていたので、細部はよく判らなかったけれど、とにかく意表を衝いた幕切れの光景だったのは確かだ。

 元帥夫人を歌い演じたルネ・フレミングと、オクタヴィアンを歌い演じたエリーナ・ガランチャは、ともに今回のプロダクションが、この役をやる最後であるとのこと。
 圧倒的な人気はルネ・フレミングで、METの女王とか称されるにふさわしく、カーテンコールでは歓声は飛ぶわ、ビラは降るわで、凄い熱狂だ。確かに彼女は、独特の雰囲気と魅力を備えてはいる。

 しかし、歌手としての圧倒的な存在感は、やはりエリーナ・ガランチャのものである。出番が多いということからだけではない。歌唱の安定感と演技の巧みさが傑出している。オクタヴィアンというのは、女性歌手がズボン役を演じ、それが更に「女に化ける」という演技をやる複雑な役柄だが、そのどれもが実に微細で巧いのである。彼女のオクタヴィアンが観られなくなるとは、残念なことである。

 オックス男爵はギュンター・グロイスベック。無神経で無遠慮ながら決して下品ではない、という設定は、R・シュトラウスが求めたこの役柄の表現にぴったり合っているだろう。他に、ゾフィーをエリン・モーリー、ファーニナルをマーカス・ブリュック。この日の案内役と「テノール歌手」をマシュー・ポレンザーニが兼任、本人もそれをネタに司会し、他の歌手からも盛んに持ち上げられていた。

 指揮はセバスティアン・ヴァイグレ。この人、これまでナマで聴いたオペラでは、創る音楽がどうも殺風景なのが気になっていたのだが、この「ばらの騎士」は、録音で聴く範囲では安定していて、劇的な追い込みの部分ではなかなか優れたものがあった。10時25分終映。

 今シーズンのMETライブビューイングは、これで打ち止め。来シーズンのプログラムはすでに発表されているが、全10作品の中に、モーツァルトの「魔笛」以外、所謂ドイツ・オペラが一つも入っていないとは何たること。

2017・6.12(月)深井順子プロデュース「愛死に」

      東京芸術劇場 シアターイースト  7時

 作・演出・音楽が糸井幸之介。出演は深井順子ら計14人。
 深夜の池袋、とある劇場に12人の亡霊が現われ、愛とセックスを題材に、踊り、語り、歌う。ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」第2楽章が、イメージ的モティーフとして循環主題的に流れる。

 賑やかさとブラックユーモア性とが併せ備わった、よく出来た発想の芝居だとは思うが、反面、出演者たちがいわゆる咽喉声でセリフや歌を絶叫しまくるのは、正直言って聞き苦しい。特に狂言回し的な「劇場に闖入した若者」役の2人の不必要な金切声のうるささには耳を覆いたくなり、途中で帰ろうかと何度思ったことか。

 しかしこの芝居は、最後の最後まで観ないと━━つまり、騒々しかった亡霊たちが静かに棺桶の中に戻って行き、「劇場内に誰もいなくなった」場面まで観ないと、タイトルの意味を真に受容体験することはできない。
 そしてそこまで観てしまえば、人生を早送りで体験したかのような、何とも形容し難い寂寥感に打ちひしがれるとともに、芝居を観終った満足感に浸ることもできるというわけなのである。
 8時50分終演。

2017・6・11(日)愛知祝祭管弦楽団「ヴァルキューレ」

      愛知県芸術劇場 コンサートホール  3時

 アマチュア・オーケストラの愛知祝祭管弦楽団(団長・佐藤悦雄)が挑む、昨年9月11日の「ラインの黄金」に続く「指環ツィクルス」第2回。
 昨年同様セミ・ステージ形式上演で、ハープ6台を加えたフル編成の本格的な演奏である。コンサートマスターは高橋広(副団長)。

 音楽監督・三澤洋史が、今年も彼らプレイヤーたちを見事に巧くまとめた。音楽的には、素っ気ないほどイン・テンポで畳み込む指揮だが、ワーグナーのオペラに必要な緊迫感や情感は充分に備わっている。特に第2幕後半における劇的感覚には優れたものがあった。

 東京ではかつて「あらかわバイロイト」の例があったにしても、アマ・オケが「指環」全曲上演を試みること自体、大変な偉業に違いない。だがアマ・オケ特有の熱気で、「火事場のナントカ」というのか、いざ本番となると体当たり的な快演を聴かせるのが立派だ。請負仕事でオペラをやるプロのオケなどよりも、遥かに勢いのある演奏を聴かせてくれる。
 第1幕冒頭の嵐の音楽から、重厚な弦の響きが凄い勢いで噴き出して来て、これはいける、という雰囲気に聴衆を巻き込んでしまうのである。

 もちろん、勢いに乗って力任せになり過ぎるところ(第3幕)もあるし、もう少し練習すれば何とかなるだろうになあ、と思わせるところも、ないでもない。
 「ラインの黄金」とは比較にならぬほど精緻複雑なオーケストレーションをもつ「ヴァルキューレ」の音楽であれば、オケ全体のバランスやアンサンブル、管のソロなどには、いろいろ問題も目立って来る。特に第3幕では、金管の重要なモティーフが全く浮き出て来ない個所も少なからずあった。

 一例をあげれば、ヴォータンに一喝されてヴァルキューレたちが逃走して行く場面でホルンやトランペットなどが吹く、ばらばらになって遠ざかって行くはずの「ヴァルキューレの動機」がほとんど明確に聞こえなかった、という類だ。
 また、気負いのせいか、モティーフやフレーズが前のめりになって、何分の1拍か先に出てしまう━━ように聞こえる━━個所が数多くあり、したがってリズム感が曖昧になるということも多かった。

 こういう点、アマ・オケといえど、おカネを取って聴かせるからには、演奏には責任があるだろう。
 ━━とはいえ、心情的には、前述のように演奏の熱気が並大抵のものではないため、微笑ましく聴いてしまうのは事実だが。

 全体の中では、第2幕が最も優れた演奏だった。特に後半の「死の告知」がこれだけ美しく、しかも心の籠った演奏に感じられた例は、私の聴いた範囲では、決して多くない。たとえ他の個所の演奏にあれこれ問題があったとしても、この「死の告知」の場面ひとつで、今回の公演を「成功」と断言したくなる。

 今回の歌手陣は次の通り━━ジークムントを片寄純也、ジークムントを清水華澄、フンディングを長谷川顯、ヴォータンを青山貴、ブリュンヒルデを基村昌代、フリッカを相可佐代子。そしてヴァルキューレたちを大須賀園枝、西畑佳澄、上井雅子、船越亜弥、森季子、山際きみ佳、三輪陽子、加藤愛。以上のうち7人が、昨年の「ラインの黄金」に続いての登場である。

 清水華澄の豊麗な声と豊かな情感は、第1幕後半をリードして圧巻であった。片寄純也は前述の「死の告知」の場面での歌唱が際立ち、特に「ヴァルハルへは行かぬ!」と宣言するあたりの迫真力にはずば抜けていた。
 青山貴のヴォータンは、もう今では当たり役である。

 ブリュンヒルデの基村昌代は名古屋二期会会員としてキャリアのある人だが、私はもしかしたら今回初めて聴いたかもしれない。
 第2幕冒頭の「ホー・ヨー・ト・ホー」を聴いた時には、綺麗な声だなと思ったものの、ブリュンヒルデとしてはちょっと声が軽すぎるかな、と思わないでもなかった。だがどうして、第2幕中盤以降は立派なもので、「ヴォータンの愛娘にして初々しい年頃の勇敢なヴァルキューレ」としてのブリュンヒルデを完璧に歌ってくれたのであった。東京の舞台でも聴きたい人である。

 フンディングの長谷川顯は重厚な声で、昨年のファーゾルト役と同様に凄味のある歌唱。第2幕最後にヴォータンの罵声を浴びた挙句、フリッカの前に大音響を立てて倒れ死ぬ演技は、この場面の劇的効果を一層高めたものとして、休憩時のホワイエでも話題となっていた。
 相可佐代子は、昨年も同じように感じたのだが、強いヴィブラートが違和感を覚えさせるし、声がまっすぐに飛んで来ないのが気になる。そしてヴァルキューレたちはオルガンの下の高所で歌っていたが、しかし、あのオーケストラの気負った猛烈な咆哮の中では、聞こえろというほうが無理だろう。

 演出は、昨年に続き佐藤美晴である。オーケストラの後方に小型の舞台を設置し、さらにオルガン前の席をも活用した舞台構成だ。
 ただ、先頃の日本フィルのセミ・ステージ形式上演「ラインの黄金」でも、簡にして要を得た演技空間を鮮やかにまとめた彼女の本領は、今回はなぜか、残念ながらほとんど発揮されていなかった。ジークムントがとねりこの樹から霊剣ノートゥングを引き抜くはずの劇的な場面も、後ろに置いてあった小道具を取り上げるといった演技で、これでは「山場」にならない。僅かに加えられていた照明演出も、操作は概ねスムースではなかった。練習(か打合せか)の時間が不足だったとみえる。

 だが、第2幕の幕切れに、フリッカ1人を最後まで舞台に残したのは、この悲劇的な幕全体がフリッカの影に覆われているというドラマトゥルグを明確に象徴したものとして、良いアイディアだと思う。第3幕でヴァルキューレたちがヴォータンに一喝されて逃散する場面で、単に演奏会形式的にオルガン横のドアから退場するというのではなく、暗いバルコニー席の中をあたふたと逃げて行く━━というユーモアは秀逸であった。

 20分の休憩2回を含み、8時終演。
 来年の「ジークフリート」は9月2日の由。この愛知県芸術劇場が工事のため休館期間に入るので、御園座という会場を使うとのこと。オーケストラの演奏会場ではないのがちょっと気になるけれども、引続き頑張っていただきたい。

2017・6・9(金)N響 MUSIC TOMORROW 2017

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ローレンス・レネスが指揮するNHK交響楽団が演奏した今回のプログラムは、岸野末利加の「オーケストラのための《シェイズ・オブ・オーカーShades of ochre》」(N響委嘱作品、日本初演)、マーク・アントニー・ターネジの「ピアノ協奏曲」(日本初演)、一柳慧の「交響曲第10番さまざまなー思い出の中に―岩城宏之の追憶に」(今年の尾高賞受賞作品)、池辺晋一郎の「シンフォニーⅩ(=第10番)《次の時代のために》」(同)という力作ぞろい。協奏曲でのソロは反田恭平。

 岸野末利加(きしの まりか)は、かつてIRCAM研究員を務めたこともある女性で、今年完成されたこの「シェイズ・オブ・オーカー」は、大きな流れの中に鋭く短い起伏が連続する強靭な力を持った曲だ。
 あたかも火星かどこかの地表に、尖った石があちこちに転がっている、といった光景を連想させるような荒々しさ。だが、これが実にカラフルな多彩さを感じさせ、すこぶる魅力的なのである。プログラムに載っている彼女自身のメモを読んで、オーカー(オークル)は南仏などにある赤土、黄土であることを教えられ、なるほどと思った次第。「オークルの陰翳」とは、言い得て妙である。そして「時間のカンバスに顔料を飛び散らせ、塗り付け、垂らす・・・・」という彼女の文章の中の表現も、まさにそれにぴったり合ったイメージの曲だなと感心した。

 実は今夜演奏された4曲の中で、私にはこれが一番面白かったのだが・・・・。
 ただ、これは演奏のせいだったかもしれないが、楽曲の構成において、そういう音景の連続が、次第に少し単調に感じられて来るきらいも、なくもなかった。もしくは、楽曲の構成上の問題かもしれない。

 英国の作曲家ターネジは、今夜の演奏会ではゲスト作曲家とでもいう存在か。
 荒々しく力動的な両端楽章には、時たまガーシュウィンの亡霊が出没するといった感もある。ほとんど出ずっぱりのピアノ・ソロはエネルギッシュだ。その中にあって、ヘンツェへの追悼曲でもある第2楽章は、叙情的で美しい。

 一柳慧の新作では、「打楽器奏者でもあった岩城宏之さんのイメージも組み込まれている」との表現(ブックレット掲載の自身の解説)どおり、ティンパニをはじめとする打楽器が活躍するのが、何となく微笑ましい。
 曲自体からは、故・岩城さんの顔や雰囲気は私にはあまり浮かんで来ないけれども、厳めしい序奏(フランクの「交響変奏曲」の冒頭を思い出させた)と、極めて闊達な主部との対比が際立っており、その主部におけるちょっとスケルツァンドな雰囲気の曲想が、敢えて言えば岩城氏の・・・・。
 なおこれは昨年作曲されたものとのこと。1933年生れの一柳氏が今なお失わない音楽のエネルギーは、まったくたいしたものである。

 池辺晋一郎の新作交響曲は、今日の各作品の中で、最大の音量で轟いた。明るさを失わぬ分厚い響層の音楽は、彼ならではのものである。
 終結近く、壮烈なクレッシェンドで最強奏に達したあとに鳴り渡る鐘の音が、彼の言う「次の時代のため」の響きなのだろう。それにしても、現代に在って、こういうヒューマニズムを、衒わず、躊躇わず、率直に語る彼のような作曲家の存在は、むしろ貴重ではあるまいか。
 これは仙台フィルからの委嘱作品で、武満徹作品の演奏会(昨年1月19日)で一緒に演奏されたものの由。武満徹へのオマージュを兼ねているとのことである。

 ローレンス・レネスという人は初めてナマで聴いたが、なかなかいい指揮者だ。オランダ出身で、今年47歳という。

2017・6・3(土)山田和樹&日本フィル マーラー・ツィクルス第8回

     Bunkamuraオーチャードホール  5時

 「第8番《千人の交響曲》」。
 協演は栗友会合唱団、武蔵野合唱団、東京少年少女合唱隊、声楽ソリストは林正子、田崎尚美、小林沙羅、清水華澄、高橋華子、西村悟、小森輝彦、妻屋秀和。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 「8番」は、以前にも書いたけれども、私にはマーラーの交響曲の中では最も苦手な作品なのである。それは、第1部の絶え間ない絶叫調の楽想のせいなのだが。
 この声楽パートとオーケストラの大音響を、耳を聾する音の連続でなく、豊麗な音色と起伏感で構築して行くことができた演奏には、なかなか出くわさない。もちろん、ホールと、その聴く席の位置にもよるだろうが━━。先日の京都コンサートホールでの広上淳一と京都市響の演奏は、その点では実に均整が取れていたという気がする。特に声楽とオーケストラのバランスの点で、それは極めて優れたものだった。

 今日の演奏では、初日ということもあってか、合唱もソリストたちもかなり勢い込んで歌っていたような感がある。特に合唱は最初のうち強声が硬質で、少々たじろがされた。
 だが、第2部になれば、曲想も大きく変わり、絶叫一辺倒ではなく、起伏も豊かになる。したがって、演奏の細部も見えて来る。そしてこの第2部の、特に中盤以降、浄化されたような世界をオーケストラが柔らかく描き出すあたりからの演奏は、はっとさせられるほど美しかった。山田和樹と日本フィルの最も良い面が、ここで鮮やかに発揮されたと言っていいだろう。

 大詰は、上手側と下手側の前方バルコニー席に配置された金管バンダを加えての大歓呼である。山田も指揮棒を客席にすっ飛ばしての熱演であり━━飛ばしたところは見ていなかったが、拾ったお客さんがカーテンコールの際にマエストロへ返していた光景を見て、それと気がついた━━かたや日本フィルのほうも、総力を挙げての演奏だった。ここはもう、全員がなりふり構わず熱狂の演奏をしていた、といっていいかもしれない。

 このラストシーンにおける今日の演奏が、しかし、前述の広上と京響、あるいは先年のミューザ川崎でノットと東京響がつくり出したような完璧な音のバランスによる陶酔的なハーモニーという域には達していなかったのは事実だ。が、これは、ホールの構造的制約から来るバンダの位置などのせいで、仕方がない。

 総じて山田和樹の指揮するこの「千人の交響曲」の演奏は、宏大無辺な世界への祈りとか呼びかけといったものよりは、健康な若者の青春の讃歌ともいうべきイメージを感じさせる。それは30年前の、小澤征爾と新日本フィルの演奏に、ある面で共通するところがあるだろう。

 ソリスト歌手陣がみんな快調で、特に若い世代が活躍していたことは嬉しい。第2部では、女声陣はみんな音楽に没入し、陶酔感を以って歌っていたように見えた。もっとも、沸き立ち轟く大音響の中に埋没しないようにと必死で歌っているような雰囲気もないとはいえなかったが・・・・。
 一方、これまでは福井敬で聴き慣れたテノールのパートを、西村悟が若々しい声で歌っていたのも、新世代の抬頭を見るようで頼もしいことであった。

 今シリーズで、マーラーの作品に先立って演奏されている武満徹の作品は、今日は「スター・アイル」(星・島)。
 この「星」と、「宇宙が鳴り響くような」(作曲者の表現)の「8番」とを関連させたアイディアも面白いが、それよりも前述の健康な青年の讃歌ともいうべき山田のマーラーと、武満がこの曲に籠めた「巣立ち行く若者の希望」に寄せたイメージとの共通性も興味深いだろう。
    別稿 モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

2017・6・1(木)新国立劇場「ジークフリート」初日

      新国立劇場オペラパレス  4時

 新国立劇場の「指環」の第3作。指揮は芸術監督・飯守泰次郎。シュテファン・グールド(ジークフリート)、グリア・グリムズレイ(さすらい人)、リカルダ・メルベート(ブリュンヒルデ)他の歌手陣で上演。

 ゲッツ・フリードリヒのこの「指環」での演出は、ゴットフリート・ピルツの舞台美術を含め、どうも作品ごとにムラがあるのではないか。「ラインの黄金」での舞台の凡庸さは「ヴァルキューレ」で何とか払拭され、名誉挽回かと思われた(もっとも、かなり手直ししたらしい)が、この「ジークフリート」ではまた、あやふやな水準に戻ってしまった感がある。

 第1幕は未整理ながらも、宝剣ノートゥングの再生に関しては、ミーメの下手糞な機械操作による鋳造作業より、自然児ジークフリートの手造り作業の方が遥かに上━━ということを多分主張したいのだろうと推察されたが、舞台の緊密度がどうも低すぎる。ただこれは、2回目の上演以降には、ある程度解決される可能性はあるだろうと思う。
 だが、第2幕となると・・・・「大蛇」は何とも玩具じみているし、歌手1人とダンサー1人の計4羽集団になった「小鳥」たちの格好は、趣味の違いは別としても、どう見てもあまりサマにならぬスタイルである。これでは、拍手も少々おざなりにならざるを得ない。

 第3幕後半(岩山の上)は、「ヴァルキューレ」第3幕の舞台に近くなる。中央の「台」と、両側の壁の他には、猥雑物のない光景だ。むしろこの方が、まとまりを感じさせたのではないか。
 ともあれ、この第3作まで観たところでは━━フリードリヒの演出としては、ベルリン・ドイツオペラで制作された所謂「トンネル・リング」に比べると、水準にはどうやら大きな差がある。制作費の関係もあってこのような程度のプロダクションを持って来なければならなかった芸術監督の苦衷も察したいとは思うけれども━━。

 今回ピットに入ったオーケストラは、東京交響楽団である。別に悪い意味で言っているわけではないけれども、このオケは、本質的にワーグナーにはあまり向いていないのではないかという気がする。 以前ここで演奏した「さまよえるオランダ人」もそうだったが、これまで成功した例があるとは言い難い。
 今日も、第1幕では慎重に構え過ぎたか、重量感とスケール感に乏しく、最強音も硬く、弱音も瑞々しさに不足するきらいがあった。

 ただ、第2幕の「森のささやき」などでは美しい雰囲気を醸し出していたし、第3幕ではオーケストラ全体に、量感も力感も出て来ていたようにも思われた。第3幕のワーグナーのオーケストレーションは、第2幕までのそれとは大きく違うから、その所為もあるとは思うが、、いずれにせよ第3幕ではオケの鳴りがかなりよくなったことは、たしかだろう。ブリュンヒルデの心が和らいだ時からの「純潔の動機」の個所なども、弦には豊かなふくらみが戻って来ていた。
 それゆえ、もしかしたら2日目以降の上演では、全体に持ち直すかもしれない。
 とはいえ、第2幕の「ジークフリートの角笛」のホルンは・・・・やはり不可ない。溜息が出てしまう。

 飯守泰次郎の指揮は、今日の演奏だけ聴くと、第1幕では抑制し、第3幕に雄大な頂点を持って来る意図というところだろうが、その他の点に関しては、オーケストラの出来から言ってその意図が完全に達成されていたとも言い難いだろう。

 主役歌手陣は、程度の差こそあれ、いずれも佳い味を聴かせてくれた。
 シュテファン・グールド(ジークフリート)は、第1・2幕での放埓な少年と、第3幕で「怖れを知った」あとの若者とを極めて明確に演じ分けた。ほとんど出ずっぱりのこの超人的な役柄を疲れも見せず、最後の強靭な愛の二重唱までを強靭に歌い上げたのは流石というほかはない。
 リカルダ・メルベート(ブリュンヒルデ)は、出番こそ短いものの、目覚めた乙女に相応しい明るい声で、途中の髙いH音と、最後の髙いC音とを輝かしく響かせた━━特に後者では、朗々と長く延ばして聴かせどころをつくった。ブリュンヒルデ自身にも、ジークフリートにも、新しい世界が開けるだろう━━そうした期待をはっきりと示す歌唱だった。

 グリア・グリムズレイ(さすらい人)は、今日はちょっと声が粗く、特に第3幕第1場では━━いくらヴォータンが焦りの心境にあったにしても━━音程さえ判別できぬほどの荒々しい歌い方をする必要もないと思われたが、如何なものか。
 アンドレアス・コンラッド(ミーメ)は、狡猾な、というよりは必死で知恵を絞るいじらしい小者といった巧い歌唱と演技。
 トーマス・ガゼリ(アルベリヒ)は、ヴォータンに切り落とされた右手首に鈎をつけた凄愴な姿で駆けずり回っていたが、彼の歌唱にもうほんの少し凄味があれば、さすらい人やミーメと対峙して相手の行動の矛盾を論理的に突く迫力がいっそう明確に出たろうと思われる。

 クリスティアン・ヒューブナー(大蛇ファーフナー)は、巨人時代のヘルメットをかぶったまま現われたのがご愛敬だが、このような演出はどこかで見たことがある。クリスタ・マイヤー(エルダ)は短い出番ながら存在感充分で、第3幕前半を立派に引き締めた。
 なお、「小鳥」は、鵜木絵里、吉原圭子、安井陽子、九嶋香奈枝が順に歌っていたが、大木にぶら下がったような無理な姿勢のせいか、みんな妙にヴィブラートが強すぎ、「可愛い小鳥」のイメージとは程遠く、おしつけがましくなってしまったようである。

 ━━以上が初日の模様である。45分の休憩時間2回を含め、終演は9時40分頃。
 長丁場なので、休憩時間には、ホワイエに並んだ売店が賑わっていた。特に第2幕のあとではカレーライスだかハヤシライスだかが大人気で長蛇の列。漸く行列が消えたので、せめてそのカウンターで売っているソーセージ・セットだけでも・・・・と行ってみたら、残ったソーセージはたった3本、ザワークラウトがちょうど前の人の分で全部なくなってしまい、仕方なく諦める。

※追記 字幕は三宅幸夫さんのもの。安定した、主語も起承転結も明確な文体で、安心して視ていることができた。なお、次作「神々の黄昏」でのオーケストラは、同劇場サイトによれば読響で、飯守さんとは東京二期会の「パルジファル」の協演で成功しているから期待できよう(新国のプログラムでは東京フィルとなっていたので驚いたが、どうやら間違いだったらしい)。

2017・5・28(日)オッフェンバック:オペラ「ラインの妖精」

     新国立劇場中劇場  3時

 「ラインの黄金」のあとは、今度は「ラインの妖精」と来た。━━こちらは「天国と地獄」の作曲者ジャック・オッフェンバックが1864年に初演したシリアスなオペラで、埋もれたオペラを蘇演することで有名な「東京オペラ・プロデュース」が、第100回定期公演として取り上げたもの。今回が日本初演の由。
 ダブルキャスト2回公演で、今日は2日目である。オリジナルのドイツ語上演で、日本語字幕(増田恵子)付。

 とにかく、珍しいオペラをやってくれたものだ。その意欲的な姿勢は高く評価されてしかるべきである。
 ストーリーは、ライン河に住む妖精たちが、侵入して来た敵軍から母娘たちを護るというような主旨だが、その敵軍の将が娘の実父だったり、娘の恋人が記憶を喪失して敵軍に加わっていたり、あれこれ入り組んだエピソードが織り込まれている。

 演奏時間は正味3時間15分ほどか。
 台本が著しく冗長で、話の進み方がおそろしく遅くて、しかもくどいのが欠点だが、音楽は結構美しく、特にのちの作品「ホフマン物語」で有名になった「舟唄」の旋律が、ここで「妖精の動機」として先取り活用されているのは魅力だ。このフシ、管弦楽編成を替えると、見事なミステリアスな雰囲気を生むのがいい。

 出演者は、松尾祐美菜(娘アルムガート)、前坂美希(母ヘドヴィヒ)、上原正敏(娘の恋人フランツ)、米谷毅彦(敵将コンラート)、佐藤泰弘(狩人ゴットフリート)ほか。この男声3人は堂々たる歌唱の出来だった。
 指揮は飯坂純、手堅くまとめている。オーケストラは東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団で、ホルン以外は良かった。

 演出は、全て客席を向いて歌わせるという旧弊な手法で、演技にも論理的な描写が全く感じられない。いまどきこんな演出をしていては、目の肥えたオペラファンにはソッポを向かれてしまうだろう。物語が冗長過ぎると感じられたのは、この面白味のない演出もその理由の一つであった。

 なお今回は、各幕ごとに、客席内に「香り」を漂わせるという趣向が行なわれていた。私は嗅覚には今なお極度に敏感のほうだが、ただこれは、言われてみなければそれと判らず、初めのうちは隣の女性の香水の香りかと錯覚したくらいで、━━しかし、なかなか好い香りだった。何の香りかまでは、知らない。

2017・5・27(土)新日本フィルの生オケ・シネマ「街の灯」

      すみだトリフォニーホール  5時

 チャーリー・チャップリン没後40周年記念と題して、1931年公開のサイレント映画「街の灯」を、デジタル・リマスター版により、幅10メートル以上の大スクリーンで上映。その手前のいつものステージに新日本フィルが位置して、映画に合わせて86分間、演奏を繰り広げる。

 演奏される音楽は、主題曲として有名な「ラ・ヴィオレテラ」こそホセ・パディラの作品だが、その他はすべてチャップリンの作曲によるもの。それらをアーサー・ジョンストンが編曲し、スコア復元(2004年)と今回の指揮をティモシー・ブロックが担当する、という仕組だ。

 所謂笑わせ、かつ泣かせるというチャップリン独特の手法だが、やはりこれは噂にたがわぬ凄い映画である。底流を形づくるヒューマニズムは、まさに圧倒的だ。
 ラストシーンで━━眼の治療に成功して今は花店を経営しているかつての貧しい盲目の花売り娘(ヴァージニア・チェリル)を、彼女を秘かに援助した「落ちぶれた」主人公(チャップリン)が万感こめて見つめる表情の温かさ、哀しさ、複雑さ・・・・。サイレント映画時代のチャップリンがいかに並外れた天才的な監督であり俳優であったか、この感動的なシーン一つ観ただけでも解るというものだろう。

 エンド・マークが出て、消えた瞬間、オーケストラがまだ後奏を続けている間にも、早くも客席から怒涛のような拍手とブラヴォ―が巻き起こったのは、無理もないことであった。
 だが、ブロックと新日本フィルも、映像と完璧に合致した、素晴らしい演奏をしてくれていた。
 いい企画である。

2017・5・27(土)インキネン指揮日本フィル「ラインの黄金」2日目

      東京文化会館大ホール  2時

 夕方5時からトリフォニーホールで上映・演奏されるチャップリンの映画「街の灯」に行くため、途中で失礼しなくてはならないので、今日はバックステージで聴く。
 客席に居ながら途中で出ては演奏者に失礼だし、だいいち、「あいつトイレが我慢できなかったんだろう」などとカンぐられ、馬鹿にされるのも癪だから。

 バックステージで、時にはスタッフや出演者たちとお喋りしながら聴いていると、30~40年前の放送の現場時代に戻ったような気がして、結構楽しいものだ。
 ただ、終演後なら話は別だが、本番中にバックステージへ行った場合には、やはり現場出身者の性というのか、精神状態は一瞬にして演奏者側、制作者側、スタッフ側に同化してしまう。それゆえ、いわゆる「批評行為」は、一切不可能になる。
 舞台裏や袖、控室などを行き来し、スタッフと話をしたりしつつ、第4場に入ったところまで聴く。

 昨日体調不良で出演できなかったローゲ役のウィル・ハルトマンは、今日は元気で出演した。それでも西村悟さんは楽屋や袖に詰めて、いつ何時たりとも代役が務められるようにスタンバイしていた。
 舞台裏上手側でニーベルハイムの鍛冶の音をたたく奏者たちが、冒頭からずっと座ったままで出番を待っていたのには驚いたり、感心したり。彼らがいざいっせいに叩きはじめると、さすがに物凄い轟音である。凄いだろうとは思っていたが、更に凄い。当初は10メートルほど離れて聴いていたものの、たちまち遠くへ逃げなくてはならなかった。

 序奏の間、上手側袖で出番を待つラインの乙女役の林正子さん、平井香織さん、清水華澄さんが、水で咽喉を湿したり、ストレッチをしたりしながら準備を整え、いよいよ舞台に出る直前に手を繋ぎ合って「本日もよろしくお願いします」と声をかわす光景━━あるいは、「出」をいったん終えて引き上げて来たリリ・パーシキヴィ(フリッカ)に「ブラ―ヴァ」とそっと拍手を贈れば、首をすくめながら嬉しそうに笑って頷き、楽屋へ引き上げて行く光景など。それらにすっかり感動してしまうのが、私にこの齢まで残っている現場感覚というものである。

 オーケストラは、昨日の初日より今日の方が、やはりノリがよかったようだった。

2017・5・26(金)インキネン指揮日本フィル「ラインの黄金」初日

      東京文化会館大ホール  7時

 日本フィルハーモニー交響楽団と、首席指揮者ピエタリ・インキネンによるドイツ・ロマンは音楽シリーズの一つの頂点、ワーグナーの「ラインの黄金」の上演。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 演奏会形式ではあるが、シンプルな照明演出と、ステージ前面での必要最小限の演技も施される。演出は佐藤美晴、照明は望月太介だが、比較的間際になってからの演出依頼で、しかも通し練習が事実上出来なかった状態の舞台にしては、よく仕上げたものだと思う。

 インキネンのワーグナーは、日本フィルとの演奏では既に「ワルキューレ」第1幕や、「ジークフリート」と「神々の黄昏」の各抜粋などで聴いていたが、今回はその「ワルキューレ」での好調さを取り戻したような指揮である。
 彼のワーグナーは、いくつかのダイナミックな頂点の個所を効果的に盛り上げつつ、全曲を衒いなく率直に指揮して行くタイプのものであり、そのストレートな指揮が、この少し散漫な音楽構成の「ラインの黄金」ではむしろ良い結果を生んでいたと思われる。

 日本フィルも、今日は初日とあって、金管には時々綻びがあったが、人間のやることだから仕方がないとはいえ、一流オーケストラたるものはそういう細かいところをも手落ちなくやっていただきたいという気がする。
 冒頭の8番ホルンの最初の音がpでなくmfになり過ぎていたり、幕切れの壮大な和音の中でトロンボーン群のバランスが悪かったりしたのも気になったし、第4場での宝を積み上げる前の個所の「巨人の動機」のティンパニ(Dover版スコア251頁のフォルテの個所)が落ちてしまったのにはギョッとさせられた。
 しかしまあ、そういった細かい個所を除けば、日本フィルは慣れぬワーグナーものでよくぞこれだけ好演を聴かせてくれた、と言えるだろう。

 今回の出演歌手は以下の通り━━ユッカ・ラシライネン(ヴォータン)、リリ・パーシキヴィ(フリッカ)、安藤赴美子(フライア)、畠山茂(ドンナ―)、片寄純也(フロー)、池田香織(エルダ)、西村悟(ローゲ)、山下浩司(ファーフナー)、斉木健詞(ファーゾルト)、ワーウィック・ファイフェ(アルベリヒ)、与儀巧(ミーメ)、林正子(ヴォークリンデ)、平井香織(ヴェルグンデ)、清水華澄(フロスヒルデ)。
 このうち、西村悟はウィル・ハルトマンの、与儀巧は高橋淳の、それぞれ代役出演である。

 それぞれ、見事な歌唱と好い演技だったが、とりわけファイフェの明快で強烈な「若々しい精力的なアルベリヒ」の表現と、びわ湖ホールの「ラインの黄金」で絶賛された西村悟の「相手をバカにしまくっているローゲ」の表現がひときわ映えた。
 巨人役2人も荒々しい馬力が充分であり、ラインの乙女役3人も魅力的かつ華麗に歌い動き、ミーメも哀れっぽさを巧く出し、エルダは貫録、フライアはまさに清純、全員が当たり役という感である。
 ラシライネンは、さすがに巧者ではあるものの、この作品のヴォータンとしては声も少し老け役に過ぎ、また演技もほとんどやらずに泰然としているように見えたが・・・・。

 幕切れ近く、舞台裏で歌う3人のラインの乙女たちのアンサンブルが、ある個所で乱れ、オケと合わなくなったのにはヒヤリとしたが、あとで聞いてみると、副指揮者がいないので、テレビの画面だけでインキネンの指揮を見ながら歌っていたとのこと。これではちょっと苦しかったろう。
 だがこれらはすべて、先に触れたオケの問題点と同様、明日の公演では解決されるだろうと思われる。

 日本フィルが総力を挙げた今回の「ラインの黄金」。余勢を駈って「指環」ツィクルスをと期待したいところだが、恐ろしくカネのかかる企画だから、経営難の自主運営オーケストラとしては、容易いことではあるまい。事務局としては、インキネンが「やろう」と言い出しはしないかと、内心冷や冷やしている由。
 だが、今日の演奏会では、演奏の途中で出て行ってしまう客が、なぜか何人もいた(と言っても数人だが、これは多い方である)。定期公演なので、ワーグナー嫌いの会員もいるのかもしれない。もったいない話だ。
 9時40分終演。

2017・5・25(木)ホリガーの音楽「スカルダネッリ・ツィクルス」

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 2時間半、切れ目なし。
 78歳の誕生日を迎えたばかりのハインツ・ホリガーが、この長大な自作を、自ら指揮し、指揮台上で「語り」を入れつつ、日本初演を行なった。

 これは1975年から91年にかけて作曲したもので、無伴奏混声合唱を中心とした「四季」(計12曲、必ずしも順番に演奏されるものではない)と、器楽を中心とした「スカルダネッリのための練習曲集」、およびフルート・ソロのための「ティル」という3つのグループからなる曲集を組み合わせた大曲である。「スカルダネッリ」とは、ドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンがこの詩集で使用した架空の署名とのこと。
 演奏は、ラトヴィア放送合唱団と、アンサンブル・ノマド、フルートのフェリックス・レングリ。

 長大な現代音楽だが、それは驚異的に神秘的で、精緻で、多彩で、美しく、しかも強靭な意志を感じさせて、スリリングだ。アンサンブル・ノマドの精妙緻密な演奏もさることながら、ラトヴィア放送合唱団の倍音唱法を含む声の技術を尽くした微細な音色の見事さが、聴き手に息を呑ませる。
 2時間半は、長すぎるどころか、期待感と、陶酔と、驚愕のうちに、瞬く間に過ぎ去ってしまった。時間を制圧した演奏の素晴らしさというべきだろう。

 なお、ラトヴィア放送合唱団は、2014年8月30日のルツェルン音楽祭における、この今日演奏されたものと同じ「改訂稿」初演の際に、すでに一度ホリガーと協演して歌っていたそうである。

2017・5・24(水)ロイヤル・オペラ・ハウス・ライヴ「蝶々夫人」

      東宝東和試写室  6時

 3月30日に上演されたプッチーニの「蝶々夫人」のライヴ映像。
 東宝東和の配給で、一般公開は26日(金)からの由。上映される都市も、以前よりもかなり増えて来たようである。ただ、松竹の「METライブビューイング」に比べて広報の情報量が少ないので、上映期間や上映内容を知るには、当面は主として東宝東和の公式サイトを頼りにするしかないようだ。

 演出は、パトリス・コーリエとモーシュ・レイゼルのコンビ。
 概して写実的でシンプルなスタイルだが、軽薄で無責任な性格が強調されたピンカートンと、良識のある米国領事シャープレスとの対比を巧く描き出している演技構築はなかなかいい。自決した蝶々さんが最後に子供の方へにじり寄って行く際の身体の動きに、蝶々のイメージを与えたのは━━美しいと言えば言えぬことはないが、少々わざとらしく、やり過ぎの感も否めないようで・・・・しかしこれは好みの問題だろう。
 Christian Fenouillatによる舞台装置がシンプルながら「日本的なイメージによる洋間」という感を与え、極めて美しい。

 指揮はアントニオ・パッパーノ。テンポもデュナミークも起伏が大きく、沈潜した個所では極度にテンポを落し過ぎるのが気になるけれども、劇的な構築には事欠かない。
 題名役のエルモネラ・ヤホは歌唱も素晴らしく、素顔も美人だが、今回のメークは歌舞伎のそれのようで、遠目に見ればそれなりに効果があるのかもしれないが、アップになると大変不気味なのが問題だ(考えてみると、METのライブビューイングでは、こういうメークの女声歌手は一人も見たことはなく、アップに堪えるそれなりの配慮がなされているのだろう)。

 スズキ役のエリザベス・デショングも好演、シャープレス役のスコット・ヘンドリックス、ゴロー役のカルロ・ボッシは手堅い出来というところだが、ピンカートン役のマルセロ・プエンテは高音域に無理があったようで、カーテンコールにも微かにブーイングが交じっていたようだ(METだったら、お客さんは甘いから、この程度ではブーなど出さないだろう)。

 上映時間は、休憩は別として3時間弱。インタビューもあり、解説もある。
 なお解説者が、プッチーニが日本の旋律を多数引用した話をした後で、「アメリカの曲も使っていますね━━《Stars and Stripes》とか」(字幕にも「星条旗よ永遠なれ」と出た)と言ったのは明らかに間違い。使われているのはそのスーザの行進曲ではなく、アメリカ合衆国国歌「The Star-Spangled Banner」(「星条旗」、1780年作曲の「天国のアナクレオンへ」が原曲)のほうでしょう。
 これはしばしば間違えられる。解説者も「Stars and Stripes Forever」という正式題名のうち最後の「Forever」を口ごもって言わなかったのは、自分でも途中で「あれ?」と思ったのかもしれない(そんな顔をしていた)。

 もっともプッチーニがこの曲を引用した時━━「蝶々夫人」の作曲は1901~03年である━━「星条旗」はまだ正式にアメリカ合衆国国歌ではなかったのだから皮肉である。ピンカートンとシャープレスが乾杯しつつ「アメリカよ永遠に」と歌う場面でオーケストラにそのフシが高らかに鳴りわたれば、それはどう見ても「アメリカ国歌」に思えるからだ。はからずもプッチーニは、この曲がのち(1931年)に合衆国国歌となることを予言したような結果となったが・・・・。

 「天国のアナクレオンへ」は、当時はまだ米国国歌でなく、英国や米国で流行り歌となっていた「酔っぱらいの歌」に過ぎなかったのに、なぜここに引用されたのか? となると、プッチーニはこれを単にその「アメリカの酒の歌」という意味で利用したのだろうか?
 このあたり、詳しい方のご教示を待ちたい。

2017・5・23(火)ロウヴァリ指揮タンペレ・フィルハーモニー管弦楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 フィンランド共和国独立100年記念行事の一環とか。
 ヘルシンキの北東160キロ、内陸にある街タンペレを本拠とするオーケストラで、かつてハンヌ・リントゥが率いていたが、2013年からこのサントゥ=マティアス・ロウヴァリが首席指揮者を引き継いでいる。
 ちなみにタンペレは、例のムーミン谷博物館がある都市だが、今年夏には新しいムーミンの博物館が開館するのだそうで、今日もホワイエにトーヴェ・ヤンソンの画などがいくつか展示されていた。

 今日はもちろん、シベリウスの作品集だ。「エン・サガ」、「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは堀米ゆず子)、「交響曲第5番」というプログラムで、アンコールには「フィンランディア」と「悲しきワルツ」。

 このオーケストラは、なかなか好い。東京文化会館大ホールのデッドな音響をものともせず、豊かな音をいっぱいに響かせた。
 ロウヴァリは例のごとく踊るような、ユニークな身振りによる指揮で、大胆奔放にオーケストラを煽り立てる。「エン・サガ」など、随分荒っぽく激しい演奏で、神秘的な古譚の世界という曲想からは遠い。
 ロウヴァリ、やはりこういう調子で押しまくるつもりなのかなと、些か辟易したが、次の「ヴァイオリン協奏曲」になると、打って変わって整然たる均衡をオケから引き出し、堀米の落ち着いたソロを支えたのには驚いた。このロウヴァリという若手は、なかなかのクセモノである。

 「第5交響曲」では、ロウヴァリは、パンチの効いた、強烈なメリハリを持った演奏を創り出した。荒っぽいデュナミークや、やや誇張したテンポを駆使して強引に煽る個所も多いが、しかしそれらの細部を極めて緻密に構築しているところは、端倪すべからざる力量である。第1楽章後半など、弾むように快調なテンポとリズムで一気に進めるその流れが実にいい。第2楽章のような叙情色の強い部分でも、その快いリズム感が生きる。

 「フィンランディア」も、テンポや起伏にかなり誇張のある演奏だったが、金管と打楽器の戦闘的なリズムにも、あるいはあの「フィンランディア賛歌」としても有名な主題にも、独特の感動的な情感があふれていた演奏だったのには、ちょっと胸が熱くなった。これはもう、同国人としての共感が生む演奏だろう。壮大に構築された終結部の演奏にも、他の国のオケでは出せないような不思議な感情の発露がある。こういう演奏で聴く「フィンランディア」は、いやシベリウスの作品は、素晴らしい。

 このオケ、聴けて良かった。最良の意味でのローカル的な味を、今なお持ち続けているオーケストラである。この見事な民族的個性、地方的特色を、今後も大切に持ち続けて行ってもらいたいと思う。
 客の入りがあまりよくなかったのは残念だったが、それでも熱心な人たちが集まっていたようである。最後は熱狂に包まれた。

2017・5・23(火)METライブビューイング「エフゲニー・オネーギン」

     東劇  2時

 4月22日に上演されたライヴ映像、デボラ・ワーナー演出によるチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」。

 2013年秋のプレミエ・シーズンに現地METでナマで観た時(ゲルギエフが指揮するので飛んで行ったのだが)には、演出が徹底していなかったようで、何ともつまらない舞台だった(2013年10月9日、11月2日の項)。だが、さすがに今回は練り上げたらしく、隙のない、雰囲気も豊かな舞台に作ってある。

 タチヤーナは、4年前の舞台と同じアンナ・ネトレプコ。見事な出来だ。顔の表情などの微細な演技力はさすがのもの。
 特に第3幕、グレーミン公爵夫人として上流社会の花形になったタチヤーナの、夜会の席上で動揺を押し隠してオネーギンと相対する場面での突っ張った「傲慢そうな」態度といい、そのあとで彼と2人だけで対決した時の困惑と苦悩の表情といい、精妙な演技の対比が素晴らしく、オペラ女優としての貫録は充分である。もちろん歌唱も、聴かせどころの「手紙の場」をはじめ、魅力的だ。

 オネーギン役は、当初予定されていたフヴォロストフスキーが病のため降板したため、ペーター・マッテイが登場した。この人のオネーギンは、ザルツブルクでも見たことがある(2007年8月19日)が、ちょっと凄味のある悪役ヅラで体も大きいから、ニヒルなインテリ青年というより、見るからに強そうなオネーギン、という感である。

 その他、レンスキー役のアレクセイ・ドルゴフが好演。オリガはエレーナ・マクシモワだが、この役はどうやっても目立たぬ損な役回りである。
 脇役として、母親役にエレーナ・ザレンバ、乳母役にラリッサ・ジャジコーワというベテランが出ていたのには驚いた。ザレンバもついにこのオペラのお母さん役をやるようになったか。しかし相変わらず気品があって美しい。なおグレーミン公爵はステファン・コツァンとなっていたが、とても彼とは信じられぬような迫力のない声。

 今回は、ロビン・ティチアーティが指揮をとっていた。予想通りすっきりした表情の音楽づくりだが、チャイコフスキーの白夜的な叙情の美しさは、よく表れていただろう。

 上映時間3時間41分。幕間の「リンカーンセンター移転50周年記念ドキュメンタリー」で、MET名物のユニークな形をしたシャンデリアが生まれた裏のエピソードが紹介されていたが、これは面白かった。
 昼間の上映だと、さすがに女性客が多い。

2017・5・22(月)ラトヴィア放送合唱団

    すみだトリフォニーホール  7時

 狂乱の舞踏の祭典(?)のあとの、一服の清涼剤のごとき清澄なハーモニー。カスパルス・プトニンシュが指揮するラトヴィア放送合唱団。今回が初来日だったとは少々意外だが、素晴らしい。

 プログラムがまたいい。フィリップ・グラスの「コヤニスカッツィ」からの「ヴェセルズ」、アルヴォ・ペルトの「スンマ」、それにラフマニノフの「徹夜祷(晩禱)」。
 このうち「ヴェセルズ」では若林かをり(フルート)、大石将紀(ソプラノサクソフォン)、田中卓也(テナーサクソフォン)が協演した。

 1曲目の所謂フィリップ・グラス・サウンドは、何だか久しぶりに聴く感がする。昔はこういうのが流行ったなあ、という気持になってしまったのだが、その理由は、自分でもよく解らない。
 ペルトの「スンマ」での緊迫感も良かったが、やはり私にとっての今夜の頂点は、ラフマニノフの「徹夜禱」をナマで聴けたことである。それはサンクトペテルブルクの合唱団で聴くような━━大地の底から湧き出て来るような、魔性的な凄味のあるハーモニーとは違い、むしろ清澄で透明で浄化されたような世界なのだが、その深みのある音楽には抗し難い魅力がある。

 このラトヴィア放送合唱団は、25日に「ハインツ・ホリガーの音楽」なる演奏会で、また聴ける。これも楽しみである。

2017・5・21(日)バッティストーニ指揮東京フィル 「春の祭典」

     Bunkamuraオーチャードホール  3時

 夏日の午後、渋谷の道玄坂下から東急へ向かう道は、夏祭りの真っ最中。道路は踊りの軍団で埋まり、横断も出来ぬほど。そしてオーチャードホールでの東京フィルの5月定期も、バレエ/ダンスの大特集である。

 プログラムは、ヴェルディのオペラ「オテロ」のバレエ音楽、ザンドナーイのオペラ「ジュリエッタとロメオ」のバレエ音楽、後半がストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」、おまけにアンコールは、外山雄三の「ラプソディ」からの「八木節」であった。

 熱血の首席指揮者アンドレア・バッティストーニのリードのもと、東京フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター三浦章宏)が、文字通り「空前の大音響」による演奏で応じた。
 巨大なオーチャードホールが家鳴り震動するといった感で、耳を聾するその大音響は、しかし、シカゴ交響楽団のような根っからの豊麗なサウンドとは少し違い、作為的な怒号絶叫の要素が強いものだったと言えぬことはない。
 それでも、金管群にはブリリアントな音色があふれていたし、一種の痛快無類な演奏ではあったことは確かである。

 「オテロ」のバレエ音楽は、実際のオペラ上演では先ず演奏されることのないものだが、趣旨としては、今秋の全曲上演の予告編の意味もあっただろう。バッティストーニは、かなり派手に、ダイナミックに演奏を開始した。
 だが、これは未だ序の口。次のザンドナーイの作品では、オケを鳴らすのなんの。ただでさえ賑やかな音楽が、いやが上にも騒々しい音楽となって沸騰した。これでは次の「春の祭典」が霞んでしまうのではないかと危惧したほどだったが、案に相違して、それもまた更に猛烈かつ壮烈な激演となって行ったのである。

 しかし、この「春の祭典」は、ただ大きな音でまくし立てただけの演奏だったというわけではない。バッティストーニは、作品の細部に神経を行き届かせ、楽譜の其処此処に新機軸を施していたのである。それは、実に面白いものだった。

 たとえば冒頭、並みの長さの数倍もあろうかというくらい引き延ばされたフェルマータの、かつ豊富なヴィブラートをかけられた明るい音色のファゴット・ソロ。この瞬間からして、今日はいろんな新しいことをやってくれそうだ、という期待が拡がるわけである。
 その他、たとえば練習番号【25】のホルンのソロが入るのに先立ち、第2ヴァイオリンがいきなり8分音符を強調したり、練習番号【181】からの最後の法悦の踊りに入る瞬間のトロンボーンに物凄いグリッサンドを吹かせたり、・・・・それらはしかし、いずれもスコアに書いてあるものの中から一部分を浮き彫りにして強調した演奏なのであって、所謂改ざんなどでは毛頭ないのだから、バッティストーニのセンスも冴えていると言ってもいいだろう。

 それにしても、これほど開放的な大音響で日本のオーケストラを鳴らした外国人指揮者は、私の体験の範囲では、1950年代半ばにN響に客演したローゼンストック以来ではなかろうか。
 ただ、バッティストーニの場合、同じ鳴らすにしても「四六時中鳴らしまくる」ので、起伏がやや単調になり、真のクライマックスが何処にあるのかが曖昧になるという傾向も無しとは言えないだろう。それは、コンサート全体のプログラムにおいてどこに頂点を作るかという問題でも然り、「春の祭典」の頂点の個所はどこかという問題についてもしかり。そのあたりを構わず、勢いに任せて押し切ってしまうのは、未だ若い彼の熱血のゆえだろう。

 「春の祭典」のあとに、これまた賑やかなアンコールのダンスを演奏するというのも、ちょっと変わっている。いやもう、若いエネルギーというのは凄い。しかし、東京フィルのエネルギーも並みではなかった。
 この数日間、バケモノのような音楽ばかりを聴いて来た後に、今日はまさにとどめを刺された感である。
  別稿 音楽の友7月号 Concert Reviews

2017・5・20(土)ノット指揮東京響 ブルックナー「5番」原典版

      ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 前夜に濃厚なシャルク改訂版で聴いたブルックナーの「交響曲第5番変ロ長調」を、今日は本来の清楚な原典版で聴く。毒消しになったか?

 ジョナサン・ノットと東京交響楽団のブルックナーは、これまでにも「3番」と「7番」「8番」を聴いた。いずれも細部まで緻密に練り上げたアプローチで、壮大な音の大伽藍というよりは、均整の豊かな現代の建築、といったものを連想させる演奏だった。今回の「5番」も、ほぼ同様の路線上にあるだろう。

 ただ、前回の「8番」では、概してイン・テンポで押し切った堂々たる演奏だったのに対し、今回は第4楽章最後の頂点で、予想外のアッチェルランドがかけられていた。ここで加速を施す解釈というのはむしろ珍しいだろうが、これには全く共感できない。
 そういう慌ただしい終結にしてしまうと、そこの音楽が備えている壮麗なコラールと、その内側で揺れ動くリズムおよび低音部の8度の跳躍との壮大な調和による大建築の威容を、完全に損なってしまうからである。

 だがそうした点を除けば、「ノットのブルックナー」は、概して几帳面で正確、真摯な力に満ちて爽やかだ。要所でのクレッシェンドの迫力も、ここぞという個所での全管弦楽の力感に富んだ昂揚も、なかなかいい。水谷晃をコンサートマスターとする弦楽器群も強力で、各主題を清澄に描き出していた。
 なお、これはあまり言いたくないのだが、東京響のホルン・セクションに、最近どうも以前ほどの冴えと安定度とが感じられないのは、どうしたことか?

 第1部では、小曽根真をソリストに迎え、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第6番変ロ長調」が演奏されていた。小曽根のピアノの独特の透明な音色と、軽やかな表情とが映え、またノットと東京響の演奏も引き締まって集中力に富んでいた。
 せっかく彼が弾くからには、せめてカデンツァで、もっとジャズの手法を取り入れて奔放にやって欲しかったのだが、指揮者の考えとの兼ね合いもあるから、そう自由にやるわけにも行かないのかもしれない。

 私は今でも、かつて彼が宮崎国際音楽祭でモーツァルトの「ジュノム」協奏曲を弾いた時のことを思い出す。アンコールでジャズをやり始め、それがいつの間にか「ジュノム」の第3楽章に近づいて行くと、聴いていたオーケストラのメンバーが三々五々アドリブで加わって来て、最後は全合奏で鮮やかに終ったため、聴衆は湧きに沸いた(指揮者のデュトワは、その時にはもちろん楽屋に戻っていたままだった)。あのような光景がまた繰り返されないものかと、彼がコンチェルトを弾く時にはいつも心待ちにしているのだが・・・・。
 なお、今日の小曽根のアンコールは、レクォーナの「スペイン組曲《アンダルシア》」の「ヒタネリアス(ジプシーの歌)」。これも軽やかで美しい。

 東京響のこの定期は、今日と明日の2回公演だが、同じく今日と明日は、高関健と京都市響がこのブルックナーの「5番」を定期で取り上げている。これもまた偶然の「かち合い」の一例だ。
 また明日は、西宮の兵庫県立芸術文化センターで、井上道義と大阪フィルもブルックナーの「9番」を演奏する。ブルックナーも結構モテている。

2017・5・19(金)ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団
ブルックナー「5番」シャルク版 

         東京芸術劇場コンサートホール  7時

 ブルックナーの「交響曲第5番」の、シャルク改訂版が演奏された。
 この曲のこの版を、メジャー・オーケストラが世界的名匠の指揮で演奏するという例は、もしかしたらわが国ではこれが最初かもしれない。ブルックナー愛好家にとっては、まるで歴史的大イヴェントのような注目度の高さ。ファンが挙って聴きに集まった、と言ってもいいような雰囲気が感じられた。

 とはいえ、このフランツ・シャルクが改訂した版━━これを、ブルックナーの原典版のスコアを拡げて比較しつつディスクで聴くと、よくもまあこれだけ遠慮会釈もなく書き換えたものだ、と腹が立ってたまらなくなる。

 何しろ、全曲を通じて、楽器編成は変える、各声部は書き加えたり削ったりして変更する、第4楽章では再現部などを大幅に(20%近く)カットする、そのコーダではリズムや主題の形まで変え、金管バンダやシンバルやトライアングルまで追加する━━といった具合である。
 師ブルックナーの音楽を世の中に理解させるために、善かれと思って行なったことだ、と伝えられているけれど、シャルクがこの編曲を行なった時期には、すでにブルックナー自身のスコアによる「4番」「7番」「8番」が世に知られ、大成功を収めていたはずである。それゆえシャルク自身にも、師のスコアを前にして、「俺だったらこうする」とか、「この方が面白くなる」とかいう勝手な意識がなかったとは言えないだろう。
 いずれにせよ、結果としては、所詮シャルク自身が師の音楽の本質を全く理解していなかった━━ということの証明だけが残るのである。

 ただ、それはそれとして、演奏の点だけから言うなら、このブルックナーらしからぬダイナミックでカラフルな形状を呈しているシンフォニーを、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが如何に魅力的に、見事に指揮したかは、全く驚くべきものがある。
 これはもう、豪演と呼ばれるにふさわしい出来だろう。

 かなり遅いテンポによる演奏で、全曲合計は80分近い長さとなったが(前述の通り大幅カットが行われているにもかかわらず、である)、ロジェストヴェンスキーの演奏構築の設計が実に巧いので、流れが弛緩することは全くない。「持って行き方」が、唖然とするほど巧いのである。まさに名匠の腕の冴えだ。
 音楽が轟々と煽られ盛り上がった全曲の終り近く、ステージ最後方にずらり並んだ金管の別動隊が立ち上がり、次いでシンバルとトライアングルの奏者も立ち上がる瞬間が、まるでオペラがクライマックスに達したかのような光景なので、思わずクスリと笑ってしまう。

 読響(コンサートマスターは長原幸太)の壮麗さと強靭さも、また並々ならぬものであった。金管群がどれほど咆哮しても、それに一歩も退かぬパワーを示す弦楽器群も見事である。
 これまで数え切れぬほど聴いて来たロジェストヴェンスキーと読響の演奏の中でも、今日のこの演奏は屈指の存在と言っていいのではないか。

 そして、われながら些か腰砕けの気もするが、今回のような立派なナマ演奏で聴いてみると、このシャルク改訂版━━いや編曲版に対する反感が、ほんの僅かではあるものの薄らぐことも認めなくてはなるまい。とにかくこれは、素晴らしく面白かった━━という演奏会だったのである。

 名誉指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーは、この5月4日に86歳の誕生日を迎えたばかり。第1楽章以外は椅子に腰掛けて指揮していたが、音楽づくりに関しては、まさに千両役者の趣だ。
 終演後、熱狂的な拍手に応えてソロ・カーテンコールに現われる瞬間、袖でちょっとよろめいて、壁で体を支えていたため(※)ステージ中央までは出て来なかったが、もしそういうことさえなければ、2,3回は呼び出されていたことだろう。
 今回は故スクロヴァチェフスキの代役としての来日だった。高齢だが、また来てくれるだろうか?

※違う見方もいただきました。コメントを御読み下さい。そちらの方が正解かも。

2017・5・18(木)サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 主催は東京オペラシティ文化財団。ストラヴィンスキーの「葬送の歌」(日本初演)と、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」を組み合わせた、注目のプログラム。
 ホールは満席、心底から熱心な聴衆が集まっていたことは、演奏への集中力の雰囲気とカーテンコールの拍手とで推測できる。

 「葬送の歌」は、ストラヴィンスキーが恩師リムスキー=コルサコフ追悼のために書いた3管編成の大管弦楽のための作品で、初演後1世紀ものあいだ楽譜が行方不明になっていたが、一昨年春にサンクトペテルブルグ音楽院の図書館でパート譜が発見され、昨年12月にゲルギエフ指揮により初演されたという曰く付きのもの。
 「火の鳥」そっくりの冒頭部分などは、明らかに初期の彼の作風を示している。10分ちょっとの長さの作品だが、興味深い作品が聴けたものである。

 「第6交響曲《悲劇的》は、スケルツォを第2楽章に置いた版で演奏された。
 この超大編成の交響曲は、このオペラシティのコンサートホールには、些か度を越しているかもしれない。編成はスコア指定通りではあるものの、しばしば訪れる頂点では、アシスタント1人を加えたホルンは9本、同じくアシスタントを加えたトランペットは7本、それが他のすべての楽器群とともにいっせいに咆哮・怒号し、しかもある個所ではシンバルも4対に増やして轟くのだから、もう耳を聾する大音響となる。
 「濃密に過ぎる」と皮肉ったR・シュトラウスの言葉が今更のように思い出されるだろう。第4楽章など、どうみてもマーラーはやはり狂気の作曲家だ・・・・という印象まで生まれて来る。

 とまあ、今まで何十回となく聴いていたこの「悲劇的」が、これほど凶暴なものに聞こえたのは、二十数年前にシノーポリが指揮した演奏を聴いて以来(あれもフィルハーモニア管弦楽団だった!)のことだ。それはこのホールの音響の中で聴いた所為だけでなく、やはりサロネンのつくる音楽の強靭なエネルギー性と、オーケストラの巧さ、特に金管楽器群の強靭さによるところが多いだろう。

 といってもサロネンは、もちろんただ傍若無人にオケを鳴らしまくっていたわけではない。第1楽章では、他の多くの指揮者のように「アレグロ・エネルジーコ」のみを強調することなく、むしろ「マ・ノン・トロッポ」の指定を重視し、どっしりと構えたテンポで、この行進曲調の楽章を見事に制御して行った。
 また、第3楽章頂点のこの上なく美しい個所(練習番号59の部分)で、オーケストラに、詠嘆調になることなく、非常な緊迫感を保ったまま濃厚に歌わせて行ったあたりも、実に巧いものだという感がする。

 それにしてもまあ、先日の山田和樹指揮の「7番」の終楽章の「躁」に続いて、この「6番」の・・・・。すっかりマーラーの毒にあてられた感だが、そのくせ、お前はマーラーの交響曲の中で今どれが好きかと訊かれれば、第一に「7番」、次に「6番」と答えるだろう。

 「6番」が終ったあと、サロネンの左腕の動きに応え、ホールの中は物音ひとつせず、フライング拍手も起こらず、長く静寂が支配し、やおらあって轟然と拍手が巻き起こった。サロネンはオケが引き上げた後も、2回も単独でステージに呼び返されていた。

2017・5・17(水)ナタリー・シュトゥッツマンのシューベルト

    トッパンホール  7時

 ナタリー・シュトゥッツマンが、シューベルトの歌曲を歌う。今回のシリーズは、19日の「水車屋の美しい娘」(トッパンホールは、そういう標記を使用している)との2篇だ。
 今日は「第1夜 室内楽伴奏とともに」と題され、ピアノのインゲル・ゼーデルグレンの他に、ヴァイオリンの四方恭子と瀧村依里、ヴィオラの鈴木学、チェロの大友肇が協演者として名を連ねる。

 プログラムには、「シルヴィアに」「あこがれ」「セレナード」「ガニュメデス」「漁師の娘」「音楽に寄す」「愛の使い」「さすらい人」「死と乙女」「ミューズの子」(各作品番号省略)など、シューベルトの珠玉の歌曲18曲が含まれ、その間に「ピアノ三重奏曲第1番」の第3楽章と、「弦楽四重奏曲《ロザムンデ》」の第2楽章も演奏された。アンコールには「ます」と「野ばら」も、という具合だった。

 今回は、それらの歌曲に、イングヴァル・カルコフという人による「室内楽伴奏編曲」が使われるというのが話題だった。
 ただし、歌曲の全部が室内楽伴奏で歌われたわけではなく、原曲通りにピアノとの協演版で歌われたものもいくつかあった。室内楽編成版の中にも、ピアノと弦楽四重奏、あるいは弦楽四重奏のみとの協演で歌われたものもあった。

 とにかく、面白い試みであったことは事実である。ただしかし、━━シュトゥッツマンの柔らかい、やや翳りを帯びたコントラルトの声は、弦楽器の音が入ると、その音色にマスクされてしまい、19列上手側で聴いていた私には、少々聴き取りにくかったのは事実である。これは、かりにソプラノやバリトンが歌った場合でも、多分同じような結果を招いたのではないか? やはりシューベルトは、ピアノと一緒に響かせるように歌曲を作曲しているのであって、弦楽器と一緒に歌うようには作曲していないのである。

 それに、これらの編曲は、どうもあまり優れているとも思えなかった。今回の編曲で、ある程度個性的な響きを生み出していたのは、「さすらい人 D489」くらいなものではなかろうか? そこでは弦の音色が不気味に、ロマン派的な色彩を出していた。

 というわけで、非常に興味深いプログラムであり、この意欲的な企画自体には称賛を贈りたいものの、私は、シューベルトの歌曲は、やはりピアノとの協演のほうが好きだ。シューベルトの「声とピアノによる歌曲」は、やはりそれ自体が既に完璧なバランスを備えた、非の打ちどころない完成品なのである。

2017・5・16(火)マーティン・ブラビンズ指揮東京都交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 英国の指揮者マーティン・ブラビンズが客演指揮する今月の都響定期公演は、いずれも英国の作品によるプログラムで固めている。
 今日は、ジョージ・バターワースの「青柳の堤」、マイケル・ティペットの「ピアノ協奏曲」(日本初演、ソロはスティーヴン・オズボーン)、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの「ロンドン交響曲」。
 コンサートマスターは山本友重。

 実に格好いい選曲だ。メイン・プロに置いた「ロンドン交響曲」に対し、その作曲をヴォーン・ウィリアムズに勧めた当人バターワースの小品を冒頭に配して対と為し、その2曲の間に現代作曲家ティペットのピアノ協奏曲を挟む、という凝ったプログラミング。

 第1次大戦で戦死したバターワースの「青柳の堤」は、実に美しい。作曲者を知らずに聴いたら、ヴォーン・ウィリアムズの作品か?と思ってしまうかもしれない。等松春夫さんのプログラム解説によれば、バターワースはイングランド民謡のイディオムを作曲に活かすことに熱心だったとのことで、曲を聴くとなるほど確かに、と思わせる性格を持っている。こういう曲で「英国プログラム」の幕を揚げるところなど、なかなか洒落ているだろう。
 ただ、次のティペットのコンチェルトは━━オズボーンの魅力的な演奏ではあるものの━━申し訳ないことに私がこの作曲家を些か苦手としているので、聴かせてもらったことには感謝するけれど、気分的には甚だ荷が重かった。すみません。

 ヴォーン・ウィリアムズのほうは、彼の交響曲をどこかツィクルスでやってくれるオケはないものか、と以前このブログに書いたこともある。それを読んだあるオーケストラの事務局からは、「どれだけチケットが売れると思うんだ」と冷笑されたが━━今月のブラビンズ&都響には、「ロンドン交響曲」と「南極交響曲」の二つも入っているとは珍しい。

 今日の「第2交響曲《ロンドン交響曲》」の演奏は、「1920年版(改訂第2版━━通算4番目の稿といわれる)」を使用のこと。好きだと言っても私はこの楽譜については不勉強で、そこまで詳細にこの曲の版を聴き比べたことがないため、現行版(通算6番目の稿)とどのくらい差異があるのかは熟知していない。だがとにかく、彼の交響曲の中でも一風変わった、面白い曲であることは事実だ。

 特に第1楽章など、あの有名なビッグ・ベンの鐘のフシをはじめ、物売りの声、俗謡、民謡などが入り混じって街の騒音のような様相を呈し、かのマーラーの「第3交響曲」第1楽章の「ポリフォニー状態」(マーラーの表現による)を凌ぐ賑やかさを響かせる。まあ、もしこれを東京に喩えれば、さしずめ「東京音頭」に「銀座カンカン娘」に、築地の魚のせり声に「都の西北」に・・・・といった具合だろう。ただ、作曲者自身も言っているように、これが描写音楽ではないことだけは確かである。
 その他、叙情的な楽章も含め、いい演奏だった。
 21日の第7番「南極交響曲」が、都合で聴けないのが残念だ。

※たまたま今月は、藤岡幸夫と関西フィルが明日(17日)の定期で「5番」を取り上げている。こういう企画は、不思議にかち合うものである。

2017・5・15(月)サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

       東京文化会館大ホール  7時

 フィルハーモニア管弦楽団と、その首席指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーのエサ=ペッカ・サロネンのコンビ。何かこのところ、2年ごとに来日しているようである。
 今回の来日では、14日から21日まで、東京・横浜の他に西宮、熊本、名古屋を含む計7公演。今日は2日目、都民劇場主催の演奏会。

 プログラムは、R・シュトラウスの「ドン・ファン」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはチョ・ソンジン)及び「交響曲第7番」。アンコールでは、チョ・ソンジンはシューベルトの「ソナタ第13番」からの「アンダンテ」を弾き、オーケストラはシベリウスの「メリザンドの死」を演奏した。終演は9時半を回った。

 オーケストラの演奏のヴォルテージの高さたるや、凄まじい。「ドン・ファン」で表出されたのは、まさに闊達で傍若無人な主人公・・・・。曲の冒頭からして、唖然とさせられるような、疾風怒濤の勢いである。ただ、飛ばしているとはいえ、決して無頓着に突進しているのではない。演奏の細部に、かなり念入りで凝った設計を施しているのがサロネンの真骨頂だろう。

 「7番」にしても同様で、これもリズム的要素を重視したスピーディな演奏であり、スポーツ的な快感があふれる━━と書いてハタと気がついたのだが、サロネンの「7番」は、実はこれまでナマで2度聴いている。いずれも4年前、一つはフィルハーモニアとの来日公演で(あの時にもやっていたのだ!)と、もう一つは同年にエクサン・プロヴァンス音楽祭でパリ管を振ってのことだった。で、その際にも「スポーツ的な快感」と、同じようなことを書いていたところからすると、やはり今回と同様、「元気がいいのが取り柄」という程度の印象だったらしい。

 第1楽章の提示部の終りのパウゼと、第4楽章冒頭のパウゼを、いずれもスコアに書かれているより長く取っていることを面白く感じたことは、前回にも書いた(後者は、昔トスカニーニもやっていた)。
 ただし、第1楽章の再現部直前(【I】の4小節前から)で、あのリズムの中の8分音符と付点8分音符とを、サロネンが実にはっきりとスコアの指定通りに区別していることは、今回聴いていて初めて気がついた。その展開部のクライマックス(【H】から)で、トランペットとティンパニに猛烈なクレッシェンドを繰り返させていることも、彼の細かい設計の一例と言おうか━━まあこれは、必ずしも珍しい手法ではない。ただ、今日のは、並外れた強さだった。

 これに対し、真ん中に置かれた協奏曲では、サロネンは、整然とした構築で、落ち着いた風格の演奏をつくる。プログラム構成と関連させた、練達の手法だろう。第3楽章などは作品の性格に応じた堂々たるつくりで、若いピアニストを支えていた。
 チョ・ソンジンの演奏は、例のごとくまっすぐで、ひたすらベートーヴェンの英雄的な精神に近づこうとするかのような、真摯なアプローチである。その若々しい、しかも求道的な演奏を、少しも堅苦しくならず、瑞々しさを以って聴かせるところが、この東洋の若者の、ただものではない才能の所以だろう。彼がアンコールで弾いたシューベルトも、実に瑞々しい。

 そしてサロネンとフィルハーモニア管がアンコールとして演奏したシベリウスの「メリザンドの死」も、これまた深々とした美しさで素晴らしかった。いや、今夜の演奏の中では、少なくとも私には、最もうっとりさせられるものだった(これまでの来日公演のような、毎度決まりきった「悲しきワルツ」でなかったのは有難い)。

2017・5・14(日)山田和樹指揮日本フィル マーラー・ツィクルス第7回

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 山田和樹と日本フィルハーモニー交響楽団がやっている「マーラー・ツィクルス」も着々と進み、ついに第3期の「昇華」という段階に入った。
 今回は、第7交響曲「夜の歌」である。組み合わせている武満徹の作品は、今日は「夢の時」だ。

 このシリーズ、最初の頃は緊張が過ぎて━━ということもあったのだろうが、気負いが先行してしまい、あまりまとまりの無い演奏になったこともあった。
 だが今日の「7番」では、オーケストラの状態が、これまでの中でおそらくいちばん良かったのではないか、という気がする。

 これは、山田和樹と日本フィルの呼吸がいっそう合って来たこと、日本フィルの演奏水準がより上がって来たこと、このオーチャードホールの音響的な特徴━━「音の癖」に、日本フィルが慣れて来たこと、などの要素も関係しているだろう。
 特に今日は、江口有香を久しぶりにコンサートマスターに迎えた弦楽器群の音色がことのほか美しく、ふくよかな拡がりと厚みにあふれて演奏をリードしていたことに加え、トランペットやホルン、テノールホルンをはじめとする金管のソロ、木管やティンパニのソロなどがどれも快調そのもので、胸のすくような、鮮やかな演奏を繰り広げていたのである。

 山田和樹は、今日のプレトークで「この曲を《夜の歌》と呼ぶことには疑問がある」と話していた。したがって最初の4つの楽章も、どちらかといえば屈託ない表情の演奏になっていた。もっとも、彼のマーラーには、もともと全体にそうした楽観的な色合いがあるようで、前回の第6番「悲劇的」などでも、悲劇性とかいうよりも、強靭なエネルギー性を重視した演奏になっていたように思う。
 今回も、前半4つの楽章が持つ「夜の怪奇な雰囲気」は薄められ、むしろスケルツァンドな、夕べのセレナードといったような感の演奏になっていた。

 そういう解釈には、個人的には異論がないわけでもないが、彼の(少なくとも現在の)マーラー観がそうなのであれば、それはそれで尊重すべきであろう。それに、その観点の方が、前半の4つの楽章と、最後の「躁状態」ともいうべき第5楽章とが、しばしば問題になっているような大きなギャップを感じさせずに結びつく、という長所(?)も出て来るというわけだ。

 それにしてもこの日の第5楽章は、まさにその「マーラーの躁状態」の極みを出した演奏ではなかったか。山田和樹は、ひたすら猛速テンポで押しに推し、狂乱の坩堝のまま最後まで押し切った。この休みない怒号狂乱には、本当にマーラーという人はおかしな作曲家だ、と、途中で苦笑し、頭がぐらぐらして辟易してしまう。だが、その勢いで最後まで乗り切った山田和樹と、それに臆することなくついて行った日本フィルのエネルギーには、ただもう感嘆するほかはない。

 しかも、そこでのオーケストラのアンサンブルは、以前のような乱れを生じさせなかった。ホールの響きがいいために、音に明晰さが失われることは多々あったけれども、それは決して混濁した音にはなっていなかったのである。
 私は、基本的には、ホールの響きに応じた音づくりがあってもいいとは思う。だが、それは指揮者のコンセプトによるし、こちら側の聴く席の位置にも音の響き方が違うから、一概にどうこう言うわけには行くまい。ともかくいずれにしても、いい演奏であったことは疑いのない事実なのである。

 プログラム前半の、武満徹の「夢の時」(1981年)は、大編成の管弦楽による、かなり強い響きを持つ作品だ。
 この場合の「夢」は、決して「甘い静かな夢」ではなく、むしろ劇的な変化に富んだ、「明るさ」と「翳り」が交錯する世界ともいえる。今日はアクセントの強い、部分的に激しさをも含む演奏だった。

 私たちの世代、あるいは、もう少し年上の世代の指揮者たちによる武満の作品は、むしろレガートで抒情的な、静謐な表現が採られることが多かったのだが、山田和樹のような若い世代の指揮者は、外国人指揮者が演奏するような、メリハリの強いタケミツのイメージを考えるのかもしれない。このシリーズで彼が指揮したタケミツは、概してそういう特徴があった。面白いものである。
          →別稿 モーストリークラシック8月号

2017・5・13(土)児玉宏指揮神奈川フィル ブルックナー8番初稿版

      横浜みなとみらいホール  2時

 児玉宏と神奈川フィルは、何年か前にブルックナーの「4番」を演奏したことがあるはずだが、私は聴けなかった。したがって今回初めてこのコンビの演奏を聴いたわけだが、指揮者との相性も良いのだろう、今日の神奈川フィル(コンサートマスター石田泰尚)は、実に見事な演奏を聴かせてくれた。ブルックナーの「交響曲第8番」の、1887年初稿版(ノーヴァク版第1稿)の演奏である。

 第1楽章では未だ少し硬さを感じさせたものの、楽章を追うごとにその演奏は密度を高めて行った。特に第4楽章では、豊麗な音色で沸き立つ弦楽器群を中心に、全管弦楽が総力を挙げ、瑞々しくしなやかで、風格に富んだ音楽をつくり出した。
 それは剛直さとか、重厚壮大といった特徴とは全く違う、むしろ柔らかい、人間的な息づかいを感じさせるスタイルの演奏なのだが、その特徴がブルックナーの未だ整理されていない素朴な楽想の構築と、不思議なほど合っていたような印象を受けたのである。

 いずれにせよこれは、神奈川フィルが持つ多様な特質の一つが浮き彫りにされた好演と讃えられてよかろう。
 かりにこの本番がもう1日あれば、次の演奏では、第1楽章にはもう少し柔軟さが甦り、第2楽章のスケルツォ部分にももっと緻密さが生まれるだろう。今日はホルンやトランペットに若干の不安定さも聞かれたが、それらも解決されるだろう。たった1回ではもったいない演奏だった。

 児玉宏の指揮は、ある種の自由さを備えているけれども、確信に満ちて力強い。
 彼は、この「第1稿」がもつ一種の「乱雑さ」━━と言って悪ければ「未整理の構築」の全てを魅力的なものと見做す、という観点から演奏をつくり上げる。
 こういう指揮者の手にかかると、第1楽章最後に付与された第1主題の最強奏による終結も、ブルックナーが常套手段としていた第1楽章終結のスタイル━━「8番」の改訂版を除く彼のすべての交響曲の第1楽章は、必ず第1主題の強奏で終る━━の顕れなのだ、ということが納得できるのである。

 そしてまた、第2楽章のトリオや第3楽章後半での、現行版とは別もののような楽想も、抵抗感なく、自然に面白く聴き取れる。
 しかも、この初稿版の第3楽章の第225小節~234小節の個所や、第4楽章の【O】(223小節~242小節)の個所を聴けば、それらがどんなに魅力的なものであり、ハース版でそれが復活されている(ノーヴァク版には無い)ことが、如何に素晴らしいアイディアだったか、ということまで感じてしまうだろう。

 児玉宏という人は、大阪響の音楽監督・首席指揮者時代(2008~2016)の活動が、ブルックナー・ツィクルスなどにより文化庁芸術祭大賞、大阪市民表彰、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞するほど高く評価されている。そのわりに、首都圏では意外なほど「知る人ぞ知る」的な存在に止まっているのが残念である。
 いっそ神奈川フィルの首席客演指揮者にでもなってブルックナー・ツィクルスでもやってもらったらどうかという気もする。そして、東京のオーケストラも、もっと彼を積極的に招聘し、ワーグナーの編曲ものや、彼が標榜する「手づくりの」ドイツ・オペラ指揮をやってもらう機会をつくるべきではなかろうか。
     →別稿 音楽の友7月号 Concert Reviews

2017・5・12(金)小澤征爾、アルゲリッチ&水戸室内管弦楽団

     水戸芸術館コンサートホールATM  7時

 水戸室内管弦楽団第99回定期演奏会。弦楽器だけの演奏でグリーグの組曲「ホルベアの時代より」、次に管楽器だけの演奏でグノーの「小交響曲」。
 休憩後に小澤征爾の指揮とマルタ・アルゲリッチのソロでベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」。アンコールはアルゲリッチのソロでシューマンの「献呈」。

 「ホルベアの時代より」は、豊嶋泰嗣がリーダーを務めた。おなじみの腕利きの奏者たちが揃った編成で、非常に芯の強い、毛一本の隙も無く固められた演奏が繰り広げられる。実に鮮やかで、上手い。1960年代に桐朋学園オーケストラが久山恵子の指揮でレコードを出し、その鉄壁のごときアンサンブルでみんなを驚かせたり、反発させたりしたことがあったが、今日のこの演奏も、結局あの流れを引き継いでいるのだな、という感を与える。

 管楽器によるグノーの「小交響曲」も同様で、フルートの工藤重典、オーボエのアーメル・デスコット、ホルンのジュリア・ハイラントなど、名手たちがずらり並んで繰り出す音は、舌を巻くほどに達者なのである。
 前半の2曲は、このように、技術的には完璧な演奏に終始した。

 さて、みんなが待ちかねていた小澤征爾が登場して指揮するのは、今日も1曲のみだ。マルタ・アルゲリッチをソリストに迎えた、ベートーヴェンの「1番」である。
 コンチェルト1曲だけ?・・・・と最初は思っても、いざ聴いてみると、それには千鈞の重みがあり、この日のコンサートのすべてといってもいいほどの存在感があったことはいうまでもない。
 結局この曲とこの演奏が、その前の2曲とその演奏を、完全に前座的な存在へ追いやってしまった。

 小澤征爾はいつものように座って指揮するが、音楽の力感が高まる個所━━ここぞという昂揚の瞬間になると、立ち上がってオーケストラを制御する。
 その立ち上がる時が、今日は非常に多かった。叙情的な第2楽章(ラルゴ)においてさえしばしばある。凄まじい熱気があふれていたこの「1番」の演奏であれば、それはごく自然なものに感じられたのだ。

 アルゲリッチのソロも、切り込むように鋭く激しい。一昨年の広響との協演の際とは別人のような、壮烈な気魄に富んだ演奏である。第1楽章の再現部に突入する直前のフォルティシモの下行フレーズなど、こちらがその前の最弱音の個所から如何に予想していようと、ぎくりとさせられてしまうくらい、衝撃的な激しさであった。一つのフレーズが嵐のように過ぎ去ろうとするのを待たずして、次のフレーズが嵐のような勢いで追いすがって来る、といった、息つく暇もないほど激しく畳み込まれる演奏なのである。

 瞑想的なはずの第2楽章にさえ緊迫感が漲っており、第3楽章と来たらもう、スコアの「アレグロ・スケルツァンド」などというレベルでなく、「モルト・アレグロ・アパッショナート」とでも言った方がいいほど、疾風怒濤である。小澤とオーケストラ(コンサートマスターは渡辺實和子)もこれに呼応して、まさに火の出るような演奏になった。
 それらが決して、形だけの上滑りするものにならず、もちろん機能的にもならず、あくまで若きベートーヴェンの気魄と結びついて感じられたところに、この演奏の見事さがあったろう。これほど劇的な「1番」は、滅多に聴けないものである。

 総立ちとなっていた聴衆に応え、アンコールとして、アルゲリッチがシューマンの「献呈」を弾いた。小澤も、すぐ傍に座って聴いていた。この演奏の温かい、緻密でありながら伸びやかな、しかも一種の艶に富んだ素晴らしさたるや、筆舌に尽くし難いものがあった。
   別稿 産経新聞、モーストリークラシック8月号 公演Reviews

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