2018-10

2018・10・13(土)大野和士指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 「ジャン・フルネ没後10年」、「ドビュッシー没後100年」の記念演奏会と題して、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」、ドビュッシーの「イベリア」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲が演奏された。コンサートマスターは四方恭子。
 名指揮者フルネが亡くなって、もうそんなに時が流れたのかと、改めて感慨に浸る。都響に寄贈された彼の愛用のスコアがいくつかロビーに展示され、人々の眼を惹いていた。

 大野和士は、リヨン歌劇場の指揮者として実績を上げ、フランス政府の芸術文化勲章、フランス批評家大賞、リヨン市特別メダルなど、さまざまな栄誉を受け、高く評価されたことは周知の通り。そのためだけということではないけれども、彼の指揮するフランス音楽は極めて優れたものだと私は思う。

 事実、今日のプログラムでは、彼の最良のものが発揮されていたように感じられた。「ローマの謝肉祭」は、あまりにきっちりとまとまり過ぎているような印象を受けるものの、バランスの良さと推進力の豊かさという点では見事なものだった。

 だが何より鮮やかだったのは、「イベリア」と、「ダフニスとクロエ」だったであろう。
 前者の、特に「夜の香り」でのミステリアスな世界における物憂げな雰囲気と、「祭の日の朝」での躍動的な明るさ━━それらを整然たる構築の裡に繰り広げて行く演奏。そして「ダフニス」に入ると、一転して木管群が官能的な色合いを湛えて渦巻きはじめるのだが、その解放的な雰囲気の見事さにはハッとさせられるほどだった。熱狂的な終結の頂点に至るまで、音楽の形が全く崩れないのもいかにも大野らしい。
 しかも今日は都響がまた実に鮮やかな演奏を聴かせてくれた。特に木管群は賞賛されていいだろう。

  協奏曲でのソロは、リーズ・ドゥ・ラ・サール。彼女の清澄なピアニズムは、私の好きなタイプの一つだ。ちょっと冷徹な部分がなくもないが、気品のある表現がいい。アンコールで弾いたドビュッシーの「パックの踊り」も澄みきっていた。

 余談だが、都響は終演時に全員で客席に答礼するシステムを取り入れたのかと、先頃の演奏会ではそう思ったが、久しぶりで聴いた今日の演奏会では、何人かがバラバラとお辞儀をして、あとの楽員たちは何となくお辞儀をするのやら、しないのやら、その瞬間に顔を見合わせたりしていて、中途半端な雰囲気に終った。するならする、しないならしない、とはっきりさせた方がいい。われわれ客だって、真剣にあなた方の演奏を讃えて拍手しているのだから。

2018・10・12(金)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      サントリーホール  7時

 首席指揮者インキネンが振ったのは、シューベルトの「交響曲第5番」と、ブルックナーの「交響曲第9番」。共通した要素と、対照的な性格とを併せ有した、佳い組み合わせのプログラミングだ。

 インキネンが日本フィルハーモニー交響楽団と組んだブルックナーの交響曲は、これまで「8番」と「5番」を聴く機会があったわけだが、今日の「9番」での演奏は、「8番」の延長線上にある性格を示したもの、と言っていいだろう。
 沈潜したテンポを採り、オーケストラの巨大かつ緻密な建築を豊かな響きの裡に活かし、ブルックナーの音楽における荘重さを重視した演奏だ。それが決して重苦しいとか、暗いとか、物々しいおどろおどろしさとかいったものに陥らず、清澄で洗練された色合いを失わないところが、インキネンならではの特徴である。
 先頃のブルックナーの「5番」では鋭角的な響きの構築を優先していたことを思い出すと、インキネンは中期と後期の交響曲へのそれぞれのアプローチの違いをこのような角度で考えているのか━━ということが理解出来るような気もする。

 ブルックナーでの演奏は、それはそれで立派だった(第1楽章の初めの方ではちょっとおかしな個所が二つほど聴かれたが)。だが演奏の完成度の点では、今日の演奏会では、やはりシューベルトの方が上だったのではないか。その軽やかで澄みきった美しい瑞々しさは、まさにインキネンが、ほぼ60年ぶりに日本フィルに蘇えらせたもの━━と敢えて言わせてもらおう。
 なお今日はこのシューベルトの演奏の際、1階客席に前シェフのラザレフ将軍が堂々と陣取って聴いていた。そのカリスマも何かの形で影響していたか? コンサートマスターは扇谷泰朋。

2018・10・10(水)「ゲゲゲの先生へ」

     東京芸術劇場プレイハウス  7時

 前川知大のオリジナル脚本と演出。
 題名を見れば一目瞭然、あの水木しげるへのオマージュとして、「自然」と「愛」への憧れが全体のモティーフとなっている戯曲である。強欲な人間どもと、悪戯者だが本来の性格は悪くない妖怪たちとの葛藤を通じ、生きることの幸福とは何かということなどが描かれるのも予想通り。
 主演の佐々木蔵之介が演じるのは「半妖怪」の、「ねずみ男」をモデルにした「根津」という男だ。共演は白石加代子、松雪泰子、手塚とおる他。2時間休憩なしの上演。

 私も子供の頃はかなりの幽霊信者で怖がり屋だったが、それは特に小学校低学年の時に、家にあったたくさんの怪談本を読み漁ったせいもあるだろう。そのせいで、床の間や部屋のどこか一角が、夜な夜な幽霊の出入口になっているのだと想像してみたり、誰もいない真っ暗な奥座敷の方から突然ピアノの激しいグリッサンドが聞こえるのではないか(それは下行音でなくてはならない)とか、いきなり物凄い顔をした女が現われるのではないかとか想像したり、ラジオの怪談ドラマを聞いては怖くて布団をかぶったりと、━━つまり想像力にかけては人後に落ちない子供だったので・・・・。
 「ゲゲゲの鬼太郎」も、テレビのアニメでなく、本で読んだ世代である。本の方が、周囲に静寂が立ち込めているので、余計に怖い。

 ただし今回のこの戯曲は、世相風刺的、喜劇的、かつ妖怪哲学的な内容で、全然「怖く」ない。それはそれでいいとしても、台詞運びとドラマの進行が少々くどいので、些か退屈してしまった。登場キャラに重ねたという「水木ワールド」の性格があまり明確に感じられなかったこともその一因ではなかろうか。
 今月21日まで上演。その後、11月23日までの間に、松本、大阪、豊橋、宮崎、北九州、新潟でも上演予定の由。

2018・10・8(月)札幌文化芸術劇場杮落し公演 ヴェルディ:「アイーダ」

    札幌文化芸術劇場hitaru  2時

 朝8時発のANAで広島から札幌に飛ぶ。

 札幌の新しい大劇場、「札幌文化芸術劇場」がついに完成した。ニックネームを「ヒタル」という由。
 それは市街の中心部、有名な「時計台」のすぐ近くに竣工(今年5月末)した巨大な複合文化施設「さっぽろ創世スクエア」の中にあり、「札幌文化芸術交流センター」および「札幌図書・情報館」とともに「札幌市民交流プラザ」の一角を成す(名称が複雑でややこしい)。地下鉄「大通」駅にも近く、その意味ではアクセスも実に便利である。ただし、劇場のエントランスに着くためには、エスカレーターで延々4階まで上がって行かなくてはならない。劇場の1階席入口は、更にそこから1階上だ(時間ぎりぎりに行くのは避けた方がよさそうだ)。

 劇場内はプロセニアムの幅が20m、高さが14m、舞台も奥行約40m。客席数は2302。4階席まであり、重厚で落ち着いた雰囲気を持つ広大な空間が印象的だ。
 この日は1階席15列下手側で聴いたが、音響が予想以上に良いのに感心。平土間席にもかかわらず音が「散る」ことなく、舞台上の声楽も、ピット内のオーケストラも、バランスよく豊かに響いて来るのが有難かった。これが年月を経て建材も馴染んでくれば、更に良くなるだろうと思う。

 この「アイーダ」は、「グランドオペラ共同制作」と号され、このあと神奈川県民大ホール(20・21日)、兵庫県立芸術文化センター(24日)、大分のiichiko総合文化センター(28日)でも上演されることになっている。
 札幌では、ダブルキャストによる昨日と今日の上演。今日の配役は、木下美穂子(アイーダ)、城宏憲(ラダメス)、サーニャ・アナスタシア(アムネリス)、上江隼人(アモナズロ)、斉木健詞(ランフィス)、清水那由太(エジプト国王)、松井敦子(巫女)、菅野敦(伝令)。

 合唱には二期会合唱団(60名)と札幌文化芸術劇場アイーダ合唱団(16名)、バレエは東京シティ・バレエ団員を含む総勢18名、兵士などの助演が計26名。それにアイーダ・トランペット6名(東京フィル協力)、バンダは陸上自衛隊北部方面音楽隊(上手い!)。
 オーケストラが札幌交響楽団、指揮がアンドレア・バッティストーニ、演出がジュリオ・チャバッティ(原演出マウリツィオ・ディ・マッティア)という顔ぶれ。

 ラダメス役としては、当初西村悟が発表されていて、彼がどんなラダメス将軍を歌うかと期待していたのだが、いつの間にか変更になっていた。だがこの代役、城宏憲が、特に後半では胸のすくような伸びのいい歌唱を聴かせて大成功。彼を聴くのは3月の「ノルマ」のポリオーネ以来だが、新世代の日本のテナーとして楽しみな存在である。
 木下美穂子のアイーダも意志強固な王女としての性格を巧く表現していたし、アナスタシア(王女アムネリス)も後半に調子を出して行った。
 上江のエチオピア王アモナズロと斉木の司祭ランフィスも凄味を発揮して好演だったが、清水那由太のエジプト国王には、もう少し丁寧な歌い方を望みたいところ。

 今回の上演では、合唱団が力も美しさもある好演を聴かせた。テナーのパートは少々粗いところもあったけれども、女声合唱がいい。特に第2幕「凱旋の場」の前半で━━「グローリア」の大合唱が一段落した個所での、「コメ・プリマ」のカンタービレと指定されている個所で女声合唱が聴かせた、透明かつ清澄な音色には、ハッとさせられたほどである。

 そして札幌交響楽団が、瑞々しい弦楽器群を中心に、これまた見事な演奏を聴かせてくれた。
 指揮のバッティストーニは例の如く獅子奮迅の指揮ぶりで、エネルギー全開の演奏をつくり出し、打楽器群を通常以上に強調させて、昂揚個所ではそれこそ劇場全体を震撼させるような大音響を轟かせたが、札響もよくこれについて行ったものである。だがそのようにオーケストラを鳴らしながらも、歌手の声をマスクさせることなく、うまく響かせるように持って行ったところなども、この若い指揮者の力量を認識させるだろう。彼に寄せられた拍手と歓声の大きさからみると、彼の札幌での人気は、極めて高いようである。

 最後に、演出。ローマ歌劇場のプロダクションを持って来たというが、これはもう、絵に書いたような(?)伝統的な手法で固められた舞台だ。
 「グランドオペラ」だと最初から謳っているから文句も言えまいが、しかし━━いくら写実的な演出だとはいっても、もう少し演技の点で、ドラマトゥルギーを備えた心理描写を導入できないものか? ラダメスをめぐってのアイーダとアムネリスの微妙な鞘当て、ラダメスの苦悩の心理、アモナズロとアイーダの父と娘の葛藤などといったような、ドラマの重要な転回点においてさえ、棒立ちのまま苦渋の表情を浮かべる程度の演技しか行わないのでは、昔、1950年代に「イタリア・オペラ」がブルーノ・ノフリの演出で持って来た頃の「アイーダ」から、一歩も進化していないではないか。
 写実的な舞台が一概に悪いと言っているのではない。が、かりにその範囲内であっても、オペラをドラマとしてもっと掘り下げるための視点が、今どきの演出ならもっと欲しいのである。

 なお、第2幕の「凱旋の場」は、大軍団を行進させることはせず、あまり多くない数の兵士や僧侶たちと、美しい衣装を着た女性たちの合唱を登場させ、バレエに重点を置いた構築の舞台で進められた。新国立劇場のゼッフィレッリ版のような大規模な舞台など、世界的にも滅多に創れぬ今日この頃、これはまず妥当な手法であろう。
 舞台転換は幕を下ろさず、柱など大道具を移動するさまを観客に見せながら行う個所が多かった。疑問点と言えばひとつ、第4幕の幕切れ、墓に「閉じ込められた」アイーダ及びラダメスと、2人の平安を祈るアムネリスとを同一平面上に配置したのは、意図的なものとはいえ、やや安直な大道具という印象とともに、劇的な効果を欠いたのではないか。

 休憩は第1幕のあとと第2幕のあとに各25分間挿入され、終演は5時半少し過ぎ。カーテンコールは数回繰り返され、客席は沸いていた。
 終演後のロビーはすこぶる混雑。客の「動線」はよろしくなく、劇場から出るにも恐ろしく時間がかかるのは、改善の余地大である。

 ともあれこうして━━多目的劇場とはいえ━━札幌に本格的なオペラを上演することの可能な劇場が、初めて誕生したのだ。この劇場は、北海道にいっそう優れたオペラ文化を確立させる役目を担うべき責任を持っているはずである。果して、今後どのような展開が見られるだろうか?

 明朝8時発JALでの帰京に備え、千歳駅近くの某ホテルに泊まる。当初予約していた新千歳空港の中のホテルが、先日の地震直後に閉鎖され、「どこか別のところにお泊り下さい」と言われて慌ててネットで抑えたのがこの某ホテルだったのだが、安いのだけが取り柄。二度と泊まるところではない。

2018・10・7(日)下野竜也指揮広島交響楽団

      広島文化学園HBGホール  3時

 午前11時52分発の「みずほ」で広島に入る。「みずほ」の車両に乗ったのは今日が初めてだが、普通車の指定席は東海道・山陽新幹線の普通車とは格段の違いで、2-2の配列である上に、椅子の座り心地も良いのには感心した。

 広島駅周辺は赤一色━━というのもオーバーだが、広島カープの最終戦の日とあって、街には一段と熱気があふれているよう。
 広島駅から会場に向かうために乗ったタクシーの運転手氏は、広島の観光の現状についていろいろ面白い話をしてくれたのはいいが、話に夢中になるとスピードを大きくダウンしてしまうのと、信号で止まっている間じゅう猛烈な貧乏ゆすりをやるので、クルマが終始ぐらぐら揺れ続けるのには、些か閉口した。

 広島交響楽団の方は、音楽総監督・下野竜也の指揮による10月定期。
 プログラムは、スメタナの交響詩「ブラニーク」と、カレル・フサ(1921~2016)の「プラハ1968年のための音楽」をそれぞれ最初と最後に置き、中にブルックナー~スクロヴァチェフスキ編の「アダージョ」(弦楽五重奏曲より)と、ドヴォルジャーク~中原達彦編の「わが母の教え給いし歌」を挟むという、かなり渋い選曲。コンサートマスターは佐久間聡一。

 このうち、スメタナとフサの作品は、フス教徒の賛歌「汝、神の戦士たち」を引用した愛国の念にあふれた歌ともいうべき音楽であることは周知の通り。そこに「愛」を絡ませるというコンセプトで、いかにも下野竜也らしい、凝ったプログラミングである。下野は広島でも相変わらず凄い企画をやっている━━ということは、東京にも知られて然るべきである。

 こんな渋いプログラムで、お客さんの反応はいかがなものなりやと思ったが、いざ始まってみると、俗受けするはずの派手な「ブラニーク」よりも、地味なブルックナーの方が拍手も大きかった。広島のお客さんも、相当したたかだ。
 実際、1階席中央で聴いていると、「ブラニーク」では低音域が全然響いて来ないので、音楽の重心が高くなり、シンバルをはじめ高音域の音ばかりが突き刺さるように飛んで来る印象となってしまい、少々耳が疲れたということはある。管の一部にも不安定なところがあったし、それらが興を殺いだということも否めまい。

 しかし、それに対してブルックナーの弦楽合奏版では、弦が極めて瑞々しく響き、不思議なことにこの曲では低弦の音も明確に、バランスよくあふれ出て来たのだった。

 「プラハ1968年のための音楽」では、下野と広響は渾身の熱演。
 ワルシャワ条約軍のチェコスロヴァキア侵犯と、それによる「プラハの春」の民主化運動の壊滅という状況を憤るこの凄まじい音楽の迫力を、余すところなく描き出した演奏であった。ショスタコーヴィチの交響曲「1905年」に似た手法が感じられなくもない作品だが・・・・。
 ともあれ意欲的なプログラム、意欲的な演奏で、これは聴きに来た甲斐があったというものである。下野と広響も、快調の様子。

 下野はプレトークも行なった。今日は深刻な内容のプログラムであるためか、いつもと違ったボソボソとした喋りで少々聞き辛かったものの、選曲の主旨と作品の内容を解り易く説明したのはいいことだろう。
 フサの作品の演奏が終ったところで、「《怒り》で終った曲のまま皆さんにお帰り願うのは忍び難いので、ドヴォルジャークの愛に満ちた曲をもう一度」という趣旨のスピーチを行い、それをアンコール演奏とした。
 終演後にも彼は、事務局員、何人かの楽員たちとともにロビーの出口付近で客に挨拶しながら、その最後の1人が帰るまで見送り続けていた。
 4時50分頃終演。

 私の方は、明日の札幌行きに備え、広島空港に隣接する「エアポートホテル」に宿泊。広島市内からはおそろしく遠い。

2018・10・6(土)モーツァルト:「魔笛」沼尻竜典指揮、佐藤美晴演出

      びわ湖ホール  3時

 序曲のさなかに物語の誕生を演技で描く「3人の童子」が象徴する人物は、モーツァルトと、シカネーダーと、・・・・もう一人は誰か? 

 ともあれ、冒頭のこの場面といい、あるいは幕開き直後の、受験勉強を強いられ発狂寸前になっている少年タミーノを救うべく、スプレーを噴射して周囲の大人たちをゴキブリか蚊の如く退治してしまう3人の侍女たちの場面といい、今年2018年6月17日に日生劇場で上演された時の舞台より、はるかに流れがよくなっているのに感心した。あれ以降、日生劇場で公演を重ね、甲府と大分でも公演してきた成果だと思われる。
 今回のびわ湖ホール公演は、この劇場のシリーズ「沼尻竜典オペラセレクション」の一環として行われたものだ。

 配役も合唱団も、前回(6月17日)に観た時と全く同じ。
 オーケストラだけが日本センチュリー交響楽団に変わっているが、この演奏は、なかなか活気があって、爽やかだ。ピットの中は見えないけれど、楽団事務局の話によれば、コンサートマスターに同団首席客演コンマスの荒井英治が、トップサイドには神奈川フィルの第1コンマス崎谷直人が座っていた由。

 オーケストラの響きの良さには、びわ湖ホールの音響の良さも好影響を及ぼしていただろう。沼尻芸術監督の指揮も冴えていて、今日はいつも以上に、モーツァルトの音楽の素晴らしさを堪能できた。そしてまた、モーツァルトがこの最後のオペラで、オペラのあらゆる様式を合体させた━━と謂われる所以が、その音楽の美しさとともに、より強く実感できたのである。

 歌手陣では、タミーノ役の山本康寛の成長が目立つ。パミーナ役の砂川涼子の伸びやかな歌いぶりも冴えていて、実に快い。
 パパゲーノ役の青山貴のコミカルな歌と演技もさらに見事で、前回にも書いたことだが、とてもこれがあの威厳たっぷりのヴォータンを歌う人と同じ歌手とは信じられないほどである。
 夜の女王役の角田裕子は前回同様に美しく劇的な声だが、今日はなぜかあの超高音の前後の音程がちょっと「決まらない」感。だが、娘を連れ去られた母の悲しさと怒りとの表情を使い分ける顔の演技の巧さは、すこぶる見事だ。

 前回気になったセリフの弛緩したテンポは、モノスタトスのモノローグの場面を除けば、少し早くなっているようで、全体としては聴きやすくなった。かなり「今ふう」のセリフが多いが、これはこの演出には合うだろう。
 その佐藤美晴の演出には活気があり、演技の細かい表現の点では、新国立劇場のケントリッジの演出などより、はるかに深く読み込まれていると言っていいほどだ。新解釈によるストーリーの上での整合性には、いくつか理解しにくいところや、納得できないところもあり、ザラストロの世界の変化の過程が唐突に過ぎるのではないかという疑問もあるが、全体としては面白い発想であると評価したい。

 終場面で、ザラストロと夜の女王が和解するくだりは、日生劇場での上演の時よりも、解り易くなっていた。頽廃したザラストロの世界で苦悩する者たちに憐みの感情を抱いて手を差しのべるタミーノの姿は、これはまさにパルジファルとも共通する解釈だ━━とは、今日舞台を観ている時に感じたことである。

 6時10分頃終演。明日の広島行きに備え、JRで新大阪に出て、駅前の「ホテル新大阪」なるところに投宿。

2018・10・5(金)ブルガリア(ソフィア)国立歌劇場「カルメン」

       東京文化会館大ホール  6時30分

 ギリシャ悲劇のスタイルを応用したビゼーのオペラ「カルメン」というのは、初めて観た。 
 演出のプラーメン・カルターロフが「カルメンは、古代ギリシャ悲劇の傑作に登場する女性キャラクターとよく似た運命を持っている」と語っている(プログラム冊子掲載)のを知って、なるほどそこから持って来たか、と思い当たった次第である。
 もちろん、厳密なギリシャ悲劇の形を採っているわけではなく、それをイメージに取り入れた舞台、というわけだが。

 白い仮面をかぶった黒衣の合唱団が舞台後方の階段に半円形に位置し、兵士や女工や群衆の合唱を受け持ち、かつ登場人物たちの動きに対し、身振りで深い関心や怒りや同情を示す。
 そして3人の運命の女神━━ここでは男性が演じる軍神のような姿━━は、「神々の黄昏」のノルンよろしく、運命を織り成す「綱」を携え、ホセとカルメンの感情の動きに応じて演技するほか、2人の主たる活動の場である手前の大きな回転舞台を、時には「運命の車輪」として回す役目をも担う。

 それ以外の登場人物に関しては━━衣装は、比較的リアルなものだ。
 だが演技の面では、写実主義的な部分と象徴的な部分とが交錯するので、劇的な緊迫感などは、さほど生じていない。隊長スニガの演技があまりに静止的なので、ここにドラマの集約点でも秘められているのかとも思ったが、そうでもなかった。

 ちょっと捻ったところと言えば、ふつうなら「ハバネラ」の場面でカルメンがホセに興味を示して誘惑するのだが、この演出ではむしろ最初からホセが一方的にカルメンを追いかけ始める、という点などだろう。たしかに彼はミカエラに対し、さほど深い愛情を示してはいなかったようだが━━。
 また回転舞台の一角には「ハバネラ」以降、一輪のバラが床に差されたままとなっていて、これがドラマの中心モティーフとなっているようである。カルメンはそのバラをホセに投げないし、ホセも「花の歌」を歌う際にバラを小道具に使ったりはしない。
 そのバラが初めて移動するのはラストシーンである。刺されたカルメンは倒れず、そのバラを高く掲げて見つめたまま、回転舞台中央に立ち尽くす。そして暗転、幕切れ。象徴的な光景で、これはすこぶる印象的だ。

 キャストは、カルメンがナディア・クラステヴァ、ドン・ホセがコスタディン・アンドレエフ、エスカミッロがヴェセリン・ミハイロフ、ミカエラがツヴェタナ・バンダロフスカ、その他の人々。
 歌唱はみんな、まず無難な出来を聴かせていたものの、人によっては少し大雑把なところがある━━特にドン・ホセ役のテナーは、「竜騎兵」や「花の歌」を、もう少し丁寧に歌ってもらいたいものである。他にも、第2幕の五重唱をはじめ、練習なしでやったのではないかと思うようなケースもしばしばあり、コロスとしての合唱団のアンサンブルも、よろしいとは言い難い。
 なお、この合唱とソリストを含め、概して声楽があまり客席に響いて来なかったのは、彼らのホームグラウンドの劇場と、この文化会館のキャパシティと舞台構造の違いに慣れなかったためか? 特に第1幕ではそれが気になった。

 指揮は、原田慶太楼が受け持った。最近、一部で注目を集め始めた指揮者だけに、ここで彼の指揮を聴けたのは幸いであった。ビゼーのオーケストラ・パートの多彩さを、これだけ随所で浮き彫りにしてくれた演奏は、私は滅多に聴いたことはない。その意味では、ちょっと面白い個性の指揮者であると言えよう。
 ただ、彼の持つ音楽のスタイルが、この「カルメン」の音楽に合っているのかどうかは、一概には判断し難い。概して、沸き立つ熱気に乏しいきらいがあるのだ。もっともそれが、この少し冷たい舞台の「カルメン」には合っていたかもしれないのだが。

 プログラム冊子掲載の原田慶太楼へのインタヴューによれば、彼はこの上演のためにギローのレシタティーフを削除し、自らセリフを書いたとのこと。
 音楽にも多少のカットや異同がある━━もっとも「カルメン」の楽譜の場合には、どれがオリジナルだとかいう議論は至難を極めるが━━たとえば第4幕前の間奏曲には「物売りの合唱」の音楽をオーケストラだけの演奏で使用し、「アラゴネーズ」の方は幕が開いてからのバレエとして使用していた。

 第2幕冒頭の「ジプシーの踊り」は、最弱音と極度に遅いテンポで始められたが、これは昔マゼールもやった手法で、「煙草と麻薬の巣窟の如き物憂げで頽廃的な雰囲気を感じさせる」と評されたものだ。ただしマゼールの場合には、クライマックスへの加速とクレッシェンドに、見事な仕掛けがあったのだが、今回の原田の構築では、それがなかなか盛り上げられず、最後のオーケストラの個所だけが突然爆発的になるという手法だったため、熱気が不足し、劇場的効果を発揮できなかった憾みがあるだろう。

 全曲最後のオーケストラの最強奏による後奏の上にホセの「カルメン!」という一言を乗せたのは、以前にも誰だったかがやった手法だが、今回は原田の指示だろうか? これは劇的効果を強調するよりもむしろ、ここの音楽が持つ崇高な悲劇性を失わせる結果となり、私は全く賛成できない。

 というわけで、いろいろ良し悪しはある。しかし、このユニークな「カルメン」、ちょっと面白かった。東欧の歌劇場も面白いプロダクションをつくるものだ、と認識を新たにした次第である。

2018・10・4(木)フォーレ四重奏団演奏会

      横浜みなとみらいホール 小ホール  7時

 メンバーはエリカ・ゲルトゼッツァー(vn)、サーシャ・フレンブリング(va)、コンスタンティン・ハイドリヒ(vc)、ディルク・モメルツ(pf)。
 一昨年の来日公演で「展覧会の絵」を演奏したのが評判になったはずだが、私は聴き洩らした。今日もアンコールで「卵の殻をつけた雛の踊り」と「キエフの大門」を演奏してくれたが、やはりナマで聴くと一種の破壊的な凄さが感じられて面白い。聴いておくべきだったと思う。

 ところで今日は、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲」の「第1番ト短調」と「第2番変ホ長調」を核に、UKやアメリカのPopsongsを編曲したのを組み合わせたプログラム。
 それも両者を第1部と第2部とに分けるのでなく、第1部をモーツァルト━━Pops、第2部をPops━━モーツァルト━━Popsという具合に構成しているのだから洒落ている。このPopsongsの数々━━つまり「Here Comes The Flood」とか「Charlie Freak」とかいった曲なのだが、編曲(編曲者は知らない)の出来には多少ムラがあるものの、さほど悪くはない。最後の「Wonderful Place」のように、聴衆に口笛で参加させる演奏もあったりして、原曲を知っている人には面白く聴けるだろう。

 ただし、原曲を知らない━━例えば私のような者からすると、それらを純粋にモーツァルトの音楽と同列に置いて聴くわけだから、そこに些かの感覚的なギャップが生じてしまうのは致し方あるまい。
 結論としては━━この団体の演奏するモーツァルトの並外れた素晴らしさだけが印象に残ったということ。

2018・10・3(水)新国立劇場 新シーズン開幕「魔笛」初日

     新国立劇場オペラパレス  6時30分

 大野和士芸術監督時代の幕開きの上演作品は、モーツァルトの「魔笛」。
 ウィリアム・ケントリッジの演出と美術が最大の売りものだった。既に欧州の他の歌劇場でも上演されたプロダクションの由だが、それは一向構わない。

 演奏は、ローランド・ベーア指揮東京フィルハーモニー交響楽団と新国立合唱団、スティーヴ・ダヴィスリム(タミーノ)、林正子(パミーナ)、アンドレ・シュエン(パパゲーノ)、安井陽子(夜の女王)、サヴァ・ヴェミッチ(ザラストロ)、升島唯博(モノスタトス)、九嶋香奈枝(パパゲーナ)、成田眞(弁者他)、増田のり子・小泉詠子・山下牧子(3人の侍女)他。

 今回はドラマトゥルグについてはクレジットがないところを見ると、演出もケントリッジ独自のものなのだろう。
 だがこの舞台、彼得意のドローイング・アニメを多用した「装置」を除けば、ドラマのコンセプト、読み込みと解釈、登場人物の演技などを含めた演出そのものには、さほど新味は感じられない。ごく常套的なスタイルに属するものにとどまっている。

 またその肝心のドローイングにしても、ステージにさまざまな図柄(?)が投映され、ズームが繰り返され、というだけでは・・・・まあ、ある程度の幻想味は出るだろうけれども、どうひいき目に見ても趣向に乏しく、敢えて言えば凡庸に属すると言わねばならぬ。
 私がこれまでに観たケントリッジの舞台━━METの「鼻」(2010年3月18日2013年10月8日)、ザルツブルク音楽祭での「ヴォツェック」(2017年8月8日)、METライブビューイングで観た「ルル」(2016年1月18日)に比べても、今回の「魔笛」の舞台は、何ともウィットや変化に欠けたものだった。

 指揮者ベーアは手堅く音楽をまとめ、東京フィルも序曲の途中から演奏が引き締まって行った。歌手陣も概ね手堅い歌唱を示し、特に安井陽子は夜の女王の至難のアリアを2曲とも見事に歌い上げた。

2018・10・1(月)ブラッドベリ原作 白井晃演出「華氏451度」

     KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉  2時

 いきなり焚書の光景に始まる「華氏451度」。
 恐怖的な思想管理体制が敷かれた近未来の時代、本の所持は一切禁止され、人々はテレビやラジオ(携帯電話やスマホも)から流れる情報にのみ頼らなければならない。ゆえに人々はわずかその数日間の出来事や情報のみに支配されて生き、書物によって知るべき過去の「知性」に接する機会を妨げられ、知的な判断力を失っている━━というドラマだ。
 「華氏451度」というのは、紙が発火する温度のことである由。上演台本は長塚圭史。

 米国の作家レイ・ブラッドベリ(1920~2012)がこの原作のSF小説を書いたのは、1953年のことだという。当時のアメリカはマッカーシズム(赤狩り)の嵐が吹き荒れ、共産主義への恐怖感が拡がっていた時代でもあった。

 もっとも今日、この寓話に秘められた予言は、原作者が予想しなかったかもしれない形で現実化しているだろう。
 物語に登場する大学教授が言う━━「実のところ、ファイアマン(ここでは焚書を任務とする特殊部隊を指す)なんてほとんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に(本を)読むのをやめてしまったのだ」(プログラム冊子掲載、白井晃のエッセイから)。

 自らその特殊部隊の一員だった主人公の青年が、その社会に疑問を抱き、僅かな数の人々ともに再生を目指すというラストシーンに、心ある観客は仄かな希望を感じるのみ、ということにでもなろうか。
 出演は、吉沢悠、吹越満、美波、草村礼子、堀部圭亮、粟野史浩、土井ケイト。上演時間は2時間弱で、休憩なし。10月14日まで上演。

2018・9・30(日)奇策!びわ湖ホールの「千人の交響曲」繰上公演

 本来なら今日はびわ湖ホールの開館20周年企画、沼尻竜典指揮京都市交響楽団によるマーラーの「千人の交響曲」を取材に行く予定だったが、台風のため交通機関が途絶しそうなという見通しが昨日のうちに判明したので、涙を呑んで諦めた。

 ━━いずれにせよ本日の公演は中止となったのだが、これに際し沼尻竜典芸術監督とびわ湖ホールが採った奇策は、昨日(29日)午後に予定されていたゲネプロを、すでに仕上がり充分の段階という判断から「緊急特別公演」として有料演奏会に切り替え、企画(と制作費と)を無駄にしなかったという「妙手」だった。

 昨日、急遽ホールに足を運んだ佐藤千晴さん(元朝日新聞記者)のFBを読むと、30日のチケットを持っていた人は「本来の席」へ、当日券を買った人は開演5分前に「空いている席」へ、という方法が採られ、必ずしも満席にはならなかったものの結構な入りになっていた、とのことである。終演後の大津駅とのシャトルバスもちゃんと動くよう手配されていて、さすがはびわ湖ホール、と。(注、来られなかった人には払い戻し━━これはホールhpによる)
 演奏も、素晴らしかったそうだ。他の二、三の知人たちもそう言っていた(火事場の何とかということか?)。「やっただけのことはあった」とのこと。
 なお、この29日の繰上げ上演の件は私も連絡を受けていたものの、さりとてラトルとロンドン響の演奏会は聴きたし━━とあって、初めからこれも諦めていた次第である。

 この秋は、この他にも、9月に小泉和裕と九響、10月に小泉と名古屋フィル&中部フィル、井上道義と読響(東京芸術劇場)など、どういうわけか「千人の交響曲」がかち合う様相を呈しているが、結局、どれも聴けないで終ることになる。まあ、私としては正直なところ、この「千人」は、マーラーの交響曲の中では事大主義的で、唯一あまり好きではない曲だから、それほど落胆はしていない、のだが・・・・。

2018・9・29(土)サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団

     サントリーホール  2時

 日本ワーグナー協会の例会━━毎年恒例の「バイロイト祝祭報告」と時間がかち合い、土壇場まで迷っていたものの、結局「今のラトルとロンドン響」を更に見極めておきたいという欲求が先に立ってしまい、結局こちらを選ぶ。

 今日は今次日本公演の最終日。プログラムは、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」、シマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはジャニーヌ・ヤンセン)、シベリウスの「交響曲第5番」。
 これもまた、ラトルの本領を窺うには絶好のものではなかったか。

 ベルリン・フィル時代のラトルも、それはそれなりに実績もあったし、見事な演奏を何度も聴かせてもらったことは事実だ。が、いま彼の故国のオーケストラ━━このロンドン響との演奏を聴くと、ベルリン・フィルとの演奏の時には感じられなかった解放感と言ったらいいか、自由で愉し気な生気とでもいった雰囲気が感じられるのである。
 これに関して、プログラム冊子に掲載されている城所孝吉さんの「サイモン・ラトル、ベルリンでの16年━━そしてロンドンへ」というエッセイが実に興味深い。これまでベルリンやザルツブルク、エクサン・プロヴァンスなどで聴いて来たラトルとベルリン・フィルの演奏が、立派で風格に富むものではあったけれども、それは恰も巨岩のような、もしくは巨大戦艦のような厳めしさが目立ち、どこか自由さが感じられない、つまり━━敢えて言えば━━水と油のような組み合わせという印象が私には付いて回っていたのだが、その漠然たる思いを、裏面から明確に解き明かしてくれたような文章なのだ。

 さてそのロンドン響とのコンビだが、今日の演奏を聴くと、「マ・メール・ロワ」での、この曲にしては壮大なつくりではあるものの、豊麗で瑞々しく、しなやかで、あたたかみを帯びた表情、かつ終曲の「妖精の園」で最後の頂点へ昂揚して行く個所での自然さ、解放感のある息づきなど、いずれもラトル本来の闊達な感性が蘇っているような印象を受ける。

 あるいはシベリウスの「5番」での、テンポやや遅めに取り、時に大音響を轟かせながらゆっくりと大団円に近づいて行く演奏構築にも、ベルリン・フィルとの演奏とはまた異なった自由な寛ぎのようなものが感じられるのだが━━。
 ただ、この「5番」の最後の個所では、先日の「シンフォニエッタ」の終結部分と同様、今ひとつ強力な一押しが欲しいと思わないでもなかった。このあたりは両者の呼吸が今後さらに合って来れば解決できるだろう。

 シマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」を、2日続けて聴く機会があったのは珍しい。ジャニーヌ・ヤンセンのソロの瑞々しさと併せ、これまた息づきの大きな演奏が繰り広げられた。大編成のオーケストラもかなりダイナミックに自己を主張したが、その発言がヤンセンの美しいソロを打ち消すことがほとんどなかったのは、さすがというべきであった。
 そして指揮者とソリストは、何度かのカーテンコールに応えたあと、ステージ後方のピアノの傍へ一緒に歩いて行き、ラトルが両手をメガフォンのようにして「ラヴェル!」と叫び、ともに演奏したのが「ハバネラ形式の小品」。これがまた実に色気のある演奏であり、ラトルの重々しい物憂げなピアノもなかなか雰囲気にあふれていたのである。

 シベリウスを堪能させてくれたあとのオーケストラのアンコールは、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲Op.72-7」で、これはちょっとそれまでの流れに沿わぬ選曲だった。

2018・9.28(金)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」、シマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは諏訪内晶子)、ゲオルク・フリードリヒ・ハースの「静物」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」という、ちょっと渋いが意欲的なプログラム。コンサートマスターは長原幸太。
 こういうプログラムでも客の入りがいいというのは、読響への人気か、来春に常任指揮者のポストを去るカンブルランを惜しむファンの心情ゆえか。

 「広島━━」は、ナマの演奏会では久しぶりに聴く。明晰極まる弦の響きで、殊更気負いのない表情だが、シャープさを失わぬ演奏がいい。この題名が後から付加されたものであることを承知していてもなお、「ヒロシマ」という名の音楽に特別な感慨と、安らぐことのない感情を呼び起こされてしまうのは、日本人としては当然のことであろう。

 シマノフスキの協奏曲では、オーケストラの音響的なスケール感と風格が際立ち、読響もいい音を出すものだと感心させられる。諏訪内晶子がこれに一歩も退かずに鮮やかな美音で対抗、その瑞々しさとスケールの大きな演奏はさすがだったが、ただオーケストラの咆哮にあまりに過剰なところがあり、しばしばソロを覆ってしまうことが多かったのが彼女には気の毒だった。
 なお彼女はアンコールにイザイの「無伴奏ソナタ第2番」の第1楽章を弾いたが、これが実に艶やかな演奏で、聴衆の拍手もこちらの方が大きかったほどである。

 ゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953~)の「静物(Natures Mortes)」は、面白い。
 題名に似合わず「動的」な音楽で、規則正しいリズム━━喩えて言うならSL(蒸気機関車)が驀進して行くようなイメージのリズムが執拗に反復され、しかもそれが弦、木管、金管、打楽器などがそれぞれ形づくる分厚い層の響きで、音の高さも変えつつ交互に、一つの層が猛烈にクレッシェンドしディミニュエンドするその陰から入れ替わりに次の層が現われては弱まり━━といった動きが繰り返されるさまは、すこぶる凄まじい。
 まあ、敢えて言えばその延々たる反復が次第にくどく感じられて来たのは事実だったが、しかし一種のスペクタクルな雰囲気があって、愉しめたものであった。最後はこのリズムが切れ切れになって終って行く。「静物」とは、随分皮肉な題名である。

 この不気味な蠕動が、次の「ラ・ヴァルス」冒頭の、蠢く低音からクレッシェンドして行く導入部との間に、何かしら共通したものを感じさせたのは、プログラミングの妙というべきものではなかったろうか。
 カンブルランと読響が響かせた今日の「ラ・ヴァルス」は、猛烈に巨大で激烈で豪壮なものだった。フランスの指揮者カンブルランは、これまでにもラヴェルの作品をいくつか読響と聴かせてくれたことがあったが、今日のラヴェルは、それらの洒落たイメージとは全く異なっていた。つまりそれは、今日の恐るべきプログラムの総仕上げとして位置づけられた「ラ・ヴァルス」だったのである。やはりカンブルランという指揮者、ただものではない。

2018・9・27(木)ジャン=マルク・ルイサダ ピアノ・リサイタル

      ヤマハホール  7時

 当初はアリス=紗良・オットのリサイタルを聴く予定だったが、主催者にメールで欠席を連絡し、こちらのリサイタルを聴きに行くことにした。
 プログラムは、第1部がショパンの「マズルカ集」から「作品6」「作品7」「作品17」「作品24」の総計17曲および「幻想曲」、後半がシューベルトの「ソナタ第21番変ロ長調」という、すこぶる魅力的なものだ。

 所謂バリバリと弾かれるタイプの演奏ではなく、このようにふくよかでありながら芯の強い音を持った、あたたかみのある情感を湛えたショパンやシューベルトは、やはり快い。とはいってもルイサダ、どれも切れ味が良い。

2018・9・25(火)サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団

     サントリーホール  7時

 東京2日目の今日は、前半に女性作曲家ヘレン・グライム(1981年生)の「織り成された空間 Woven Space」という大編成の作品、後半にマーラーの「交響曲第9番」というプログラム。

 グライムの「織り成された空間」は、現代造形美術家ローラ・エレン・ベーコンの作品にイメージを得た題名である由。
 このベーコンの作品の写真はネットでも見ることが出来るが、「柳の細い枝を編んで作った長い《壁》を曲がりくねらせ・・・・庭園内の古木の隙間にはめ込む」(プログラム冊子掲載資料、西久美子訳)という表現そのまま。見た感じを手近なものに喩えれば、大きなタタミイワシか大盛のざる蕎麦みたいなもの(?)を連想させる。

 そのイメージと、このグライムの音楽がどう関連するかは。聴き手の感性にもよるだろう。大編成のオーケストラを緻密かつ華麗に紡ぎ上げ、打楽器や金管による鋭いアクセントを随所に導入して色彩的な刺激感をつくり出すという手法の中で、全曲の核となっている長い第2楽章(中間楽章)の、特に後半における多彩な音色の変化は確かに印象深いものだった。
 ただ、この手法が第3楽章に至ると少々単調に感じられて来るというのも、正直なところではあるが━━。
 20分程度の作品だが、些か疲労感を覚えたことを告白しておかなければならない。

 後半のマーラーの「第9交響曲」は、今回のツアーのプログラムの目玉商品的存在と言っていいものだが、ちょっと期待が大きすぎたかなという印象と、ラトルも未だ若々しくて血気旺盛、達観の境地までには未だかなり時間があるという印象が交錯した演奏であった。
 因みに彼は、2011年11月22日にベルリン・フィルとサントリーホールでこの「9番」を演奏している。だがその時の日記を読み返してみると、今日の演奏に対する印象とほとんど同じ━━何から何までというわけではないが、まずそれにほぼ近いほど━━であることに驚いた。異なる点は、オーケストラの響きということだけかもしれない。
 いずれにせよラトルは、やはり今も若々しい、ということになる。

2018・9・24(月)サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団 東京初日

    サントリーホール  6時

 ロンドン交響楽団とサイモン・ラトルとの今回の日本ツアーは、今週土曜日まで計6回の公演。
 今日はその東京初日で(日本ツアー初日は前日の大阪だった)、プログラムは、バーンスタインの「交響曲第2番《不安の時代》」、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲集作品72」(8曲)、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。

 ラトルは、やはり英国のオーケストラを指揮すると、ぴったり決まる。
 ベルリン・フィルとのラトルも、それはそれでいいところはあったけれども、いまロンドン響との今日のような演奏を聴くと、音楽全体に、いかにも伸び伸びとした解放感が溢れかえっているように思えるのだ。彼がこのオケの音楽監督に就任したのは昨年9月のことだが、今日のプログラムでの演奏を聴くと、両者の呼吸も、既に完璧に合致しているように感じられる。

 ロンドン響も巧い━━それは技術的にという意味だけではなく、音楽の息づき、生き生きした表情、しなやかな躍動感、没入的な集中性と熱狂性、柔らかく厚みのある弦の音色、豊麗に溶け合う木管の音色といったものを、確実に演奏に漲らせているからだ。
 こういう特徴は、2013年春と2015年秋にハイティンクの指揮で来日した時にもある程度まで聴かれたけれども、今回のように徹底して見事な効果を上げていた演奏は、私は初めて聴くように思う。

 たとえば、「不安の時代」における弦の幅広いうねり、「スラヴ舞曲集」における木管群のしなやかな歌、「シンフォニエッタ」における金管と木管の音の渦━━鮮やかだ。
 強いて言えば「シンフォニエッタ」の幕切れ、オルガン下に並んだ金管群のファンファーレが一段落したあとの舞台上のオーケストラに、今ひとつ緊張に富む沸騰感が欲しかったところだが・・・・まあ贅沢は言うまい。
 いずれにせよ、ラトルにとっても、そしてロンドン響にとっても、この新しいパートナーは、互いに最良の(と言ってもいいだろう)組み合わせのように思われる。

 なお、「不安の時代」でピアノ・ソロを弾いたのは、おなじみクリスティアン・ツィメルマンだった。ラトルが最近入れた素晴らしいCD(グラモフォンUCCG-1810、ただしオケはベルリン・フィルだが)と同じソリストが来てくれるとは、何とも豪華なステージだ。
 彼の透徹した音色の、しかし毅然として鋭いピアノ・ソロが、オーケストラに対して明確な対比を創る。それは、いわば戦争の重圧の裡にたった一筋ながら流れ続ける平和への願望と、夜明けとともに訪れる白々とした虚無感━━もしくは秘めた希望のようなものを感じさせ、強烈な印象を残したのだった。

2018・9・23(日)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 久しぶりに堪能したスダーン節。
 これは、東京交響楽団(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)からも久しぶりに聴く音だ。

 前半の2曲、ハイドンの「交響曲第100番《軍隊》」とモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第4番」(ソリストは堀米ゆず子)とにおける、がっしりと引き締まった、揺るぎのない造型を備えた音楽は、いかにもスダーンらしい、厳しい強面の表情を感じさせた。が、それが最高度に発揮されたのは、やはり第2部でのベートーヴェンの「田園交響曲」においてである。

 「田園」の楽譜は、伝統的なブライトコップフ版を使用しているようだが、そうした版の問題などは意識させぬようなユニークな音づくりで、隅から隅まで一音たりともゆるがせにしない演奏は息づまるほどだ。そこでは、スダーンと東京響がかつてあのシューベルトの交響曲ツィクルスで創り出したような、独特の楽器のバランスが再現されていた。
 和声的な響きを重視した一種のくぐもった音色の構築の中に、各声部が要所で明晰に浮き出し、きらりと光っては消えて行く精緻さ。しかもそれらが決して、強制されたような無理な造りを感じさせない。それどころか、大きなリタルダンド個所や矯めの個所においてさえ、楽々と息づいているように聞こえたのである。

 こうした凝った音響的構築は、スダーンと東京響の蜜月時代でさえ、必ずしも常に実現できていたわけではなく、また実現できていた時でも曲の後半までは保てない━━などということもあったほどだが、それが今日は、第1楽章の冒頭の主題モティーフから、全曲最後の一音まで、完璧に保たれていたのだ。これはやはり、スダーン以降の東京響が備えるに至った高い能力を示すものであろう(いつもこうとは限らないのが残念だが)。

 こういう演奏で聴くこの曲は、もはや所謂「田園交響曲」ではない。故・朝比奈氏が喝破したように、「そもそも《田園》なんて名前がいけない。そんなのんびりしたイメージの曲じゃない」という指摘そのまま、恐るべき交響曲なのである。今日のスダーンと東京響の演奏は、まさにそれだった。

2018・9・22(土)ひろしまオペラルネッサンス「イドメネオ」

      JMSアステールプラザ大ホール  2時

 広島日帰りで、「ひろしまオペラルネッサンス」の公演、モーツァルトの「イドメネオ」(2回公演)の初日を観に行く。
 新幹線で品川から片道3時間50分。オペラの上演は3時間半ほどだから、往復の電車に乗っている時間の方が長い。

 「イドメネオ」は、これが広島では初めての上演だという。
 下野竜也の指揮する広島交響楽団がピットに入り、演出は岩田達宗、美術デザインは増田寿子。
 ダブルキャストの今日は、矢野勇志(クレタの王イドメネオ)、八木寿子(王子イダマンテ)、小林良子(トロイアの王女イリア)、小玉友里香(ギリシャの王女エレットラ)、孫勇太(イドメネオ王の側近アルバーチェ)、安藤省二(海神ネプチューン)、下岡輝永(大司祭)。ひろしまオペラルネッサンス合唱団。

 岩田達宗の演出の意図は、戦争というものの悲惨さや、その後遺症に苦しむ人々の存在、それらを愛の力によって克服すること━━などを描くことにあったと思われる。彼らしく細かに作られた舞台ではあったものの、しかし人物の動きの点では、イドメネオとアルバーチェ以外の演技に様式的なスタイルが感じられたため、ドラマトゥルギーが明確に伝わって来たとは必ずしも言い難いようだ。折々イリアやエレットラが突然飛び出して来るという必然性も、少々解り難い。

 だが第3幕では場面転換に工夫が凝らされていたし、エレットラの怒りのアリアを終幕の劇的な頂点とした構成も印象に残る手法だった。またラストシーンでは、新王イダマンテの登場を慶ぶ群衆と、寂しく去り行くイドメネオ及びそれを痛ましげに追うアルバーチェの姿とを対比させたのも感動的だったであろう。

 歌手陣では、女声3人が、未だ線が細いところもあり、未完成な部分も多いとはいえ、それぞれ健闘していた。小林良子は清楚な声でいくつかのアリアを美しく歌い、八木寿子は安定した声と表現力で第3幕での死の決意を毅然と力強く歌い上げた。
 小玉友里香は最初の2つの幕ではエレットラを美しく歌ったが、最後の聴かせどころの激しいアリアでは、もっとドラマティックな要素が欲しいところで━━特に終結近くのクライマックス個所は「可憐に過ぎ」た。だが、演技との組み合わせからすると、もしや当初から「哀愁のエレットラ」を求めていたのか? 

 ついでに申し上げておくと、エレットラとイリアの衣装がほぼ同じなので、遠目には少々区別がつきにくかったことは事実である。
 また、「海の怪物」は、照明によって暗示されただけで、実物はついに出て来なかった。それもいいかもしれない。昔、故・実相寺昭雄監督の演出(小澤征爾指揮)で、ウルトラマンに出て来るような変な怪獣が突然現れ、客席を爆笑させたのが今でも記憶に残っているので━━。

 下野竜也と広島交響楽団が、清楚で、しかも力のこもった、引き締まったモーツァルトを聴かせてくれた。彼と広響の相性は良いように感じられる。10月定期を聴きに行ってみよう。

2018・9・21(金)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 ブルックナー・ファンも忙しいことだ。
 「交響曲第4番《ロマンティック》」に、近年は「コーストヴェット校訂版」なるものが加わって来た。これはベンヤミン・コーストヴェットの手によるもので、既に14年も前、2004年に出版されているスコアなのだが━━。
 「版」といってもこれは、ハース版、ノーヴァク版(2種)に続くブルックナーの原典楽譜に関する第四のアプローチ・・・・というわけではない。それどころか、あの1888年の「悪名高い」シャルク兄弟とレ―ヴェらによる所謂「改訂版」(改竄版)に基づく校訂版なのである。

 ブルックナー本人による改訂でなく、彼のサインも公式コメントもないこの所謂「改訂版」は、当然ながら、ブルックナーだったら到底書きそうもない音の構築になっている。たとえばブルックナーの清澄で高貴な音色が跡形もなく失われ、厚ぼったい濁った鼠色の響きに変わっているのだ。それゆえこれは、ハース版の登場以後、ブルックナー研究者や愛好者の間では異端視される存在になっていた。「第3稿」などと称するのはおこがましい、というわけである。
 そんな楽譜を「校訂」したところで、何ほどの意味があろうかと思われるのだが━━ましてやそれが出版されたがゆえに「その存在意義が高まった」などと言うのは、そもそも思考の順序が逆ではないかという気がするのである。

 ともあれここでは、決定稿の原典版(つまり「ハース校訂版」もしくはノーヴァク校訂の「1878/80年版」のことだが)に比して、全曲いたるところに、唖然とするほどの変更が加えられている。
 ぱっと聞いて目立つところでは、たとえば━━
 第1楽章の最後から2番目の強奏和音が削除され、
 第3楽章ではスケルツォ第1部の最後がディミニュエンドで終り、ダ・カーポしたあとの部分では第1部の後半が大幅に削除され、その第2部の最後が今度はティンパニが大暴れする最強奏に書き換えられ、
 また第4楽章では、随所に大幅なカットが施されている━━といった具合である。

 こういう版をメジャーオーケストラが取り上げるのは比較的珍しいが━━もちろんすでに前例はある━━考えてみると読響は、昨年もロジェストヴェンスキーの客演の際に「改訂版の5番」を取り上げて話題を撒いたばかりだ。あの演奏が、並外れた豪演で、素晴らしかったことは私も認める。従って、それと同様、割り切って聴けば、それはそれで興味深いものであり、演奏が良ければそれなりに堪能出来るのは事実である。
 今回も読響の演奏レベルは極めて高く、弦の厚みも見事で、何より今日はホルン群が見事だった。

 なおプログラムの第1部はモーツァルトで、「後宮よりの逃走」序曲と、ピオトル・アンデルシェフスキをソリストに「ピアノ協奏曲第24番」が演奏された。
 好みにもよるが、このコンチェルトがこの日の白眉であった、ということもできようか。アンデルシェフスキの透徹した美しい叙情と、カンブルラン&読響の重厚壮大で陰影に富んだ風格が、魅惑的な演奏を生み出していたのである。彼のアンコールはベートーヴェンの「バガテル作品126の1」。

 コンサートマスターは小森谷巧。

2018・9・18(火)ジョス・ファン・インマゼール・リサイタル
日本モーツァルト協会第601回例会

   東京文化会館小ホール  6時45分

 東京文化会館のエントランスにに入った途端、小ホールの開場を待つ人々(全自由席)の長蛇の列に肝を潰したが、ホールは収容人員約650だから、座れることは確実。

 それにしてもこの協会のパワーは大したものである。年に10回の月例コンサート(ナマの演奏会である!)を開催しているなどという愛好家協会は、稀であろう。資料によれば創設は1955年、発足時の会長は堀内敬三、副会長は属啓成、会員数は38名。第1回例会は山葉ホール(!)でのレコードコンサート(!)だったそうである。

 で、今日はジョス・ファン・インマゼールによるモーツァルト演奏会。
 曲目は、第1部が「幻想曲ハ短調K475」「グルックの《メッカの巡礼》の主題による変奏曲」「アダージョ ロ短調K540」「ソナタ ハ短調K457」。第2部が「幻想曲ハ短調K396」「ロンド イ短調K511」「メヌエット ニ長調K355」「ソナタ イ長調K331」。
 楽器はヴァルター1800年頃のモデルによる2002年マクナルティ製作のフォルテピアノ。

 とにかく、「アレグロ」が極度に少ないプログラムである。それに、インマゼールの演奏は、たとえば20年前に録音したディスクにおけるそれなどとは、もはや別人のように違う。テンポも遅く、音色も暗く、沈潜の極みに達している。
 いくつかあるアレグロ楽章でも、彼はテンポをかなり抑制して演奏(「K457」の両端楽章にしても同様だ)しているし、しかもすべてにわたり、音量も抑制している。そのためもあって、第1部などでは、聴き手はすさまじい緊張を強いられ、それから解放されることがないままなのだ。

 第2部においても同様だが、しかしインマゼールは、それらを有機的な一つの流れとして構築したいと思っていることがまざまざと感じられるのである━━今日は1曲終るごとに拍手が入り、彼もそれに応えてゆっくりと立ち上がって答礼し、すぐ椅子に座るという動作を繰り返していたが、本来は彼も切れ目なしに演奏したいと思っていたのではなかろうか?

 最後の「K331」の第1楽章で、おそらくは初めて、やや明るい雰囲気が導入されたあとに、アレグレットながらイ長調の闊達な「トルコ行進曲」で気分を一気に解放へ━━と思いきや、まるでそんな期待を嘲笑うかのように、激しい音のぶつかり合いが凄まじい効果を醸し出す恐るべき「ALLA TURCA」となった。これはもう、魔性の世界というか、悪魔の笑いともいうか、皮肉なパロディとでもいうか、ともかく異様な個性を持った「トルコ行進曲」の演奏だ。
 普通なら、ピアノフォルテを弾くピアニストは、ハーモニーを美しく端整にまとめるといった演奏をするところだが、インマゼールはフォルテピアノ独特の音響を生かし、敢えて不協和音を強調し、荒々しい響きをつくり出すのである。もっとも、ここで初めて、昔のあの「怒涛のインマゼール」が鮮やかに蘇っていたとも言えようが━━。この強烈な演奏に、聴衆の拍手が爆発した。

 アンコールは、クレメンティの「ソナタ嬰ヘ短調Op.25-5」の第1楽章だったことを、協会のSさんが教えてくれた。

2018・9・17(月)「浜松国際ピアノコンクールの覇者たち」 2日目

      アクトシティ浜松 大ホール  2時

 昨日の続き。今日はアレクセイ・ゴルラッチがベートーヴェンの「皇帝」を、イリヤ・ラシュコフスキーがブラームスの「第1番」を、最後にアレクサンダー・ガヴリリュクがラフマニノフの「第2番」を弾いた。

 ゴルラッチの「皇帝」は如何なるものなりやと期待していたのだが、残念ながら何となくノリが悪いというか、面白くない。きちんと弾いてはいるのだが、演奏に何故か生気が感じられないのである。
 山下一史の指揮する東京響も、それに付き合ってか、甚だまとまりを欠いた。昨日同様、どうもみんな立ち上がりがよろしくない。
 ゴルラッチは今30歳だから、未だ伸びしろは充分とは言えるが、スケール感の大小は別として、もっと若いなりの気魄といったものがあってもいいだろう。スコアにはピアノのパートが記されていない全曲の最後の二つの和音に、ゴルラッチが「僕も一緒に」とばかり即興の打撃を加え、指揮者の方を向いてニコッとした振舞いに、若者らしい茶目っ気を見た。

 オーケストラは、「皇帝」での不安定さを引きずったのか、次のブラームスの「1番」の長い提示部の演奏はあまり冴えず、登場したイリヤ・ラシュコフスキーも出だしはやや平凡だったが、彼が次第に調子を上げて行くのに並行して、オーケストラも急激に活気を取り戻す。
 展開部あたりからは、両者とも気魄のぶつかり合いとなった。昨日の「2番」とは違い、こちらはブラームスが若い日の情熱を思い切りぶつけた作品だから、演奏に相応の均衡が取れている限り、荒々しさも長所となる。第1楽章展開部の終りから再現部にかけてあたりのソロ・ピアノとオーケストラ(特にティンパニ)との応酬などにはすこぶる劇的なものがあったし、その後も大きな起伏が繰り返されて、全曲最後は曲想に相応しい豪壮な終結となった。これは快演。

 最後にラフマニノフの「2番」を弾いたアレクサンダー・ガヴリリュクは、まさに真打登場といった雰囲気。34歳とは思えぬ風貌が貫録充分なものを感じさせる所為もあるだろうが、何よりも演奏そのものにあふれる闊達さ、豪快さ、持って行き方の巧みさが見事なのだ。聴かせどころの直前でちょっとした矯めをつくってからパッと入る呼吸の巧さも決まっているし、クレッシェンドやアクセントを細かく設定して音楽に多彩な変化を持たせるあたりも鮮やか。
 これに呼応してオーケストラも轟きわたった。本来よく鳴り過ぎる傾向に出来ているオーケストラ・パートにはもう少し抑えてもらった方が有難かったのだが、ともあれ、これも快演だったといえよう。

 コンクールの本番は、11月である。

 5時前に終演となったので、5時21分の「こだま」で帰京。30年以上前、FM静岡の仕事で週に2,3回往復していた頃に比べ、最近の「こだま」は、「のぞみ」と「ひかり」の後塵を遥かに拝し、えらく時間がかかるようになったのに驚く。「こだま」の50分後に浜松を発った「ひかり」が、品川にはその「こだま」のわずか20分後に着いてしまう、という有様なのだから。

2018・9・16(日)「浜松国際ピアノコンクールの覇者たち」 初日

      アクトシティ浜松 大ホール  2時

 「第10回浜松国際ピアノコンクール開催記念ガラ・コンサート 覇者たちによるコンチェルトの饗宴」と題された、2日間にわたる協奏曲の演奏会。サポートは、山下一史指揮の東京交響楽団(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)。

 出演ピアニストは次の通り。
 第3回(1997年)第1位 アレッシオ・バックス
 第4回(2000年)第1位 アレクサンダー・ガヴリリュク
 第5回(2003年)最高位 アレクサンダー・コブリン
 第6回(2006年)第1位 アレクセイ・ゴルラッチ
 第8回(2012年)第1位 イリヤ・ラシュコフスキー
 第9回(2015年)第1位 アレクサンダー・ガジェヴ

 つまり今回は、「第5回」にコブリンと最高位(1位なしの2位)を分け合ったラファウ・ブレハッチと、「第7回」で優勝したチョ・ソンジンを除き、第3回から第9回までの優勝者たち又は最高位入賞者の中から、計6人が集まったことになる。今日・初日は、コブリン、ガジェヴ、バックスが出演した。

 コンクールでのコンチェルトというと、チャイコフスキーとかラフマニノフとかプロコフィエフとか、所謂名人芸なるものを誇示してガンガン弾きまくるタイプの協奏曲ばかりやられるので、聴いているといつも食傷気味になるものだ。その点、この2日間のプログラムには、ブラームスの二つの協奏曲や、珍しくベートーヴェンの「皇帝」が含まれていたので、多少は安心して聴きに来たというわけだが━━。

 だが今日の1曲目、ブラームスの「2番」を引っ提げて登場したアレクサンダー・コブリンは、それをまるでラフマニノフかチャイコフスキーのコンチェルトでも弾くかのように、奔放なほどダイナミックに、荒々しく、飛び跳ねるように、叩きつけるように弾いたのには呆気にとられた。こんなにガンガン鳴るブラームスの「2番」は聴いたことがない。
 第2楽章など、熱狂的というよりは躁状態と言った方がいいような演奏で、山下と東京響もそれに合わせて大暴れ、ティンパニも怒号するので、言っちゃ何だが、騒々しいことこの上ない。
 いくらこの楽章の指定が「アレグロ・アパッショナート」でも、ブラームスの「情熱的」は、チャイコフスキーの「情熱的」とは、おのずから全く異なる性質のものであるはずだろう。━━とはいえコブリンが「おれが感じるブラームス」として、憚ることなく独自のイメージをブラームスのこの曲から引き出して見せるという行為は、いわば若さの特権でもある。それゆえ、私たちは苦笑しつつ聴くほかはない。

 このコブリンのブラームスがあまりに物凄かったため、次に登場したアレクサンダー・ガジェヴがラフマニノフの「協奏曲第3番」を弾き始めた時には、その端整な、きっちりとした音楽の構築が、いっそう強く印象づけられることになった。いわば楷書体のラフマニノフというか、どこから見ても整った演奏で、これまたすこぶる意外な感に打たれる。
 だがそれは、融通の利かぬ演奏だったという意味ではない。第1楽章での長いソロにおける劇的な起伏や、各所における猛烈な加速と昂揚などの個所における彼の演奏は、渾身のエネルギーにあふれている。ただそんな個所でさえ、音楽の骨格は決して崩れることがなく、常に強固な構築性を失わないということなのである。そして、それがまた実に新鮮なものに聞こえたのだ。
 山下と東京響が、先ほどとは違い、冒頭から端整な演奏を響かせて、このガジェヴの演奏にぴたりと合せていたのには感心した。

 そして最後に、アレッシオ・バックスが登場して、チャイコフスキーの「協奏曲第1番」を弾いた。これまた極めてバランスのいい、あらゆる意味で均衡のとれた演奏だった。推進性も強靭さも充分であり、かつ、引き締まった構築性にも事欠かない。このような、力強いけれども決して無暗矢鱈にバリバリ弾きまくらない演奏なら、この曲にも少なからぬ魅力が見出されるというものである。

 アクトシティ内のホテルオークラ浜松に泊。

2018・9・15(土)高関健指揮東京シティ・フィル 「スペインの時」

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が、常任指揮者・高関健とともに、ラヴェルのオペラ「スペインの時」演奏会形式上演に取り組んだ。
 先年の「ファウストの劫罰」などに続く力作上演で、熱演・快演ではあったのだが、惜しむらくは客の入りが・・・・満足できる状態に達していなかったのは気の毒。

 たしかに今日は、同時間帯に上岡敏之と新日本フィル、カンブルランと読響、などという強豪クラスのオケの演奏会が競合していたのは事実である。だがシティ・フィルだって、ただ地道にやっているだけでなく、ふだんのPRの方法を工夫すれば、もう少し何とかなると思うのだが・・・・。

 それは措くとして、今日のラヴェルのオペラ「スペインの時」は、なかなかの聴き応えある演奏だった。
 協演の歌手陣は━━半田美和子(時計屋の美人妻、浮気っぽいコンセプシオン)、村上公太(実直な時計屋の主人トルケマダ)、樋口達哉(コンセプシオンの浮気相手、草食系男子の詩人ゴンザルヴェ)、枡貴志(剛力のロバ曳きラミーロ)、北川辰彦(コンセプシオンに言い寄る好色な銀行家ドン・イニーゴ・ゴメス)。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 高関健の指揮は、極めて劇的で、起伏の大きな表現である。描写性に富む個所━━例えば「突進して来る牛の角をポケットの時計が防いだ」と語られる場面などでは、オーケストラを芝居気たっぷりに大音響で咆哮させ、まるで怪獣が目の前で倒れたようなイメージを見事につくり出す。このオペラのオーケストラ・パートが、かくも雄弁な、表現力豊かなものであることは、舞台上演オペラとして観ている時には、とかく聴き逃しがちになるものだが、今回はその音楽の魅力を、余すところなく伝えてくれた指揮だったと言えるだろう。
 シティ・フィルも、すこぶる表情豊かに演奏してくれた。

 歌手陣5人も好演。半田美和子はもともと芝居の上手い人だが(細川俊夫の「斑女」広島初演での花子役の鬼気迫る演技は忘れられない)今日も適度の身振りを交えて、時計屋の女房をチャーミングに歌い演じた。テノールの声質を派手に駆使した樋口達哉の脳天気な詩人役もいい。

 フランス語歌唱の字幕付き。字幕(制作者のクレジット無し)は簡潔で解り易い言葉遣いだったが、視覚を伴わぬ演奏会形式上演の場合は、場面をいっそう解り易くするために、多少言葉を補う必要があるだろう。
 例えばコンセプシオンが時間稼ぎのため、ラミーロに別の時計をも運ばせようとする場面、舞台上演なら「その」と指さして「時計を私の部屋へ」となるからすぐ判るだろうが、視覚がない場合は前後の文章の関係からすると判り難い。せめて「こっちの別の時計もやはり私の部屋へ」くらいにすべきと思われる。
 演奏会形式オペラ上演はこれからも増えるだろうが、字幕構成には「解り易さ」をモットーに、より親切な配慮を望みたいところである。

 なお、休憩前には、モーツァルトの「交響曲第39番」も演奏されていた。これは大編成による豪壮な演奏。

2018・9・14(金)上岡敏之指揮新日本フィルのR・シュトラウス

      すみだトリフォニーホール  7時

 新日本フィルハーモニー交響楽団のシーズン開幕定期は、音楽監督・上岡敏之の指揮。
 R・シュトラウス・プロで、「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「死と変容」の3大人気曲(?)の間に、首席の古部賢一がソロを吹く「オーボエ協奏曲」を挟み、更に彼のアンコールとして「カプリッチョ」からの「六重奏」を入れるというサービス満点の演奏会。コンサートマスターは崔文洙。

 上岡のR・シュトラウスものは定評がある。
 一昨年9月の音楽監督就任第1弾定期が「ツァラトゥストラはかく語りき」と「英雄の生涯」で、演奏も極めて良かったことを記憶している。その時の「英雄の生涯」の冒頭を、あまり劇的に過ぎることなく、柔らかく開始したのも強く印象に残っているが、今日の「ドン・ファン」の冒頭も、やはりそういう始め方だった。これが上岡のスタイルの一つというものだろう。

 ただ、この「ドン・ファン」の演奏は━━オケの音色やバランスのまとまりという点では、今ひとつだった。しかし、新日本フィルのもう1人の首席オーボエ奏者である金子亜未によるあの長いソロは見事だったし、終結近く、主人公が破滅するあたりの管の和音の響きは、暗黒の悲劇的な情景といったものをイメージさせ、印象深いものがあった。

 オーボエ協奏曲では、ほとんど全曲休みなしの吹き続けという感もあるソロ・パートを、古部賢一が美しく官能的に展開した。そのソロと対話するオーケストラの管や弦の精妙な音の動きが、もう少し明晰に浮かび上がっていてくれれば・・・・という気もしたのだが、これはおそらく、2日目の演奏では解決できる問題だろう。
 アンコールでの「六重奏」にしても同様、取り上げてくれたことは有難いが、この曲の夢幻的な醍醐味を再現するためには、もっと緊密に溶け合うアンサンブルを求めたい。これは、協演奏者(当該パートの首席)たちの位置との問題もあるだろう。

 休憩後の「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と「死と変容」は、上岡と新日本フィルの2年にわたる共同作業の成果を感じさせる演奏だった。
 「ティル」ではオーケストラ全体が━━やや重いきらいもあるが━━躍動していて、ホルン群も完璧(ただし主力は客演奏者だったそうだが)で、演奏も映えた。大詰の「昔々あったとさ」のくだりでオーケストラに聴かれた情感は、その描写に相応しい演奏だった。

 そして「死と変容」は、今夜の演奏の中でも最良の出来だったと思う。この曲で最も重要な金管楽器群のハーモニーが、全曲にわたり確実に展開されていたからだ。そのハーモニーが、あたかも幽明の境をさまようかのように揺れ、暗い神秘的な雰囲気を醸し出す。「死と変容」にふさわしい演奏だったといえよう。
 上岡の指揮も、このR・シュトラウスでは、かなり自然体に近い。

2018・9・9(日)飯森範親指揮東京響 ストラヴィンスキーの3大バレエ

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 ストラヴィンスキーの「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「春の祭典」の3曲を一つのコンサートで演奏。
 「火の鳥」はもちろん組曲版だが(長い全曲版だったら大変だ)、それにしてもこの3曲を一緒にというのは、そうたびたび演奏されるプログラムではない。

 日本では、1953年秋にジャン・マルティノンが日比谷公会堂でN響を指揮して演奏したのが「3曲一緒」のハシリだと謂われるが、当時の楽団の状況の中で、よくまあそんなことが出来たものだと驚く。私は当時、その「春の祭典」の一部を自宅のラジオで偶然聞き、曲の悪魔的な雰囲気にぞっとするような恐怖感を覚えた記憶があるのだが、もちろん未だ何も解らない頃だから、本当はどんな演奏だったのか知るすべもない。
 とにかく、それから65年の間にもこのプログラムを演奏した指揮者は何人かいるはずだが、私はどれもナマで聴いたことはない。

 さて、今日の演奏。
 「火の鳥」組曲は、「1945年版」が使用された。「1919年版」と違い、曲数も多いので比較的長い。曲の最後に最強奏でだめ押しされる主題のモティーフが一つ一つ音を切った形で演奏されるように改訂されているのが気に入らぬ、という人は結構多いようだが、実は、私もその一人なのである。

 一方「ペトルーシュカ」では、1947年版が使用されたが、これはオリジナル版の最後の「ペトルーシュカとムーア人の争いと死」をカットして突然最強奏の和音で閉じる、という形に改訂された版だ。なにしろ、いきなり終わるなよ、と言いたくなるようなエンディングなので、私はこれを聞くとどうも拍子抜けしてしまうのである。大方の人たちもそう感じるのではないかしら?
 ストラヴィンスキーはこの版で、原典版と同じ暗いピッツィカートで終る楽譜をも残しているので、たいていの指揮者が━━たとえ1947年版を使用した時でさえ━━そちらを採用するのもむべなるかな、と言えよう。ただし今日はその「いきなり版」が使われたわけだが・・・・。

 だからといって、演奏そのものに異論があったというわけではない。飯森と東京響(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)は、いずれも力感たっぷりの演奏を聴かせてくれた。
 「火の鳥」では少し表情も硬い感があったが、「ペトルーシュカ」ではオーケストラが力強く躍動した。ピアノ・ソロを受けもった高橋優介(2012年の東京音楽コンクール優勝)も好演である。

 そして最後の「春の祭典」では、飯森も東京響も、これはまさに自家薬籠中の物という感で、いっそう豪壮雄大な演奏を披露してくれた。
 強いて言えば、飯森のゲネラル・パウゼは少々長過ぎるのではないかとか、「祖先の儀式」におけるアルト・フルートをもう少し強く吹かせないと音楽が薄められるな、などという気もしたのだが、彼が「大地の踊り」の内声部で何度も繰り返されるクレッシェンドを強調し、不気味な効果を上げた発想には舌を巻いたので、これで充分と満足。
 終演は4時15分頃。

2018・9・8(土)トン・コープマン指揮 バッハ:「ミサ曲ロ短調」

     すみだトリフォニーホール  5時

 アムステルダム・バロック管弦楽団と合唱団を指揮しての演奏。声楽ソリストは、マルタ・ボッシュ(S)、マルテン・エンゲルチェズ(CT)、ティルマン・メルテンス(T)、クラウス・メルテンス(Br)。

 最初にコープマンがオルガンでバッハの「小フーガ ト短調」を弾き、そのあとオーケストラと合唱団が入場して「ロ短調ミサ」を演奏するという段取り。休憩は1回、「サンクトゥス」の前に置かれた。なおコープマンは、「ミサ」演奏前にマイクを手にし、台風と地震の犠牲者を悼んで━━とスピーチした。

 この「ハー・モル・メッセ」は、バッハの数ある声楽曲の中でも私の一番好きな曲だから、少しくらい演奏がどうこうしたからと言って、感動が揺らぐというものではない。この曲を聴いていると、さまざまな想いが蘇って来るし、新たにいろいろなことに想いを馳せる、などという付随的な感慨さえ起こって来るほどなのである。

 だがしかし、それでも今夜の演奏には、ほんの僅かだが、彼ららしくない、何か散漫な雰囲気が感じられたのはどういうわけか? 
 オーケストラもコーラスも、もちろん並みの演奏とは違って奥深いものを感じさせるのは事実だが、たとえば集中性などの点で、本来はこんなものではないはずなのに━━という印象は、どうしても拭えなかったのだ。

 聞くところによると、コープマンは先に来て新日本フィルとの演奏会を指揮した(6日)ものの、あとから来たオーケストラと合唱団は、7日の大阪公演に備えて関西空港に降りる予定だったのが、あの台風による空港浸水のため不可能となり、結局成田空港経由で大阪に向かったとか。その大阪(ザ・シンフォニーホール)での公演は予定通り行ない、すぐに今日の東京公演だったわけだから、もしやお疲れだったのでは?

 明日の札幌公演は中止になったとのこと(Kitaraは異状はなかったものの、余震を警戒して10日まで休館の由)。久しぶりの日本公演がこのような結果になり、アムステルダム・バロックには気の毒だったが、今日の演奏後に満員の客席から贈られた熱烈な拍手は、彼らの気持を和ませるのに役立っただろうか?

2018・9・7(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 新国立劇場から、サントリーホールに向かう。今回は移動時間は充分だ。

 日本フィルの秋のシーズンの開幕定期で、正指揮者の山田和樹の指揮。
 プログラムの組み方が、実に巧い。昨年の秋の定期第1弾もやはり山田和樹指揮によるフランス音楽と、それに関連する日本人作品の組み合わせだったが、今回も同様である。

 最初に、プーランクの「シンフォニエッタ」。次に三善晃の「ピアノ協奏曲」が萩原麻未のソロで演奏され、休憩後にはストコフスキー編曲によるデュカの「魔法使いの弟子」、最後にデュティユーの「交響曲第2番《ル・ドゥーブル》」が演奏された。
 因みに三善晃はパリ音楽院に学んだことがあり、デュティユーにも私淑した作曲家で、この「ピアノ協奏曲」はパリから帰国して間もない頃の、若々しい気魄にあふれた作品である。このような関連性を持たせたプログラミングは、すこぶる見事だ。

 山田和樹のオーケストラ制御も、ますます巧さを増したようだ。今日はダイナミックな作品ばかりなので、そういう音楽が得意な日本フィルもここぞとばかり猛烈な勢いで鳴りわたったが、その一方、「ピアノ協奏曲」の中間部(アンダンテ・カンタービレ)のような弱音の叙情個所においても、透明な美しさを余すところなく発揮させるという幅の広さを聴かせていたのである。

 デュティユーの「ル・ドゥーブル」も、一昨年秋にカンブルランと読響の演奏を聴いた時に感じたのと同様、この曲はCDよりもナマで聴いた方が圧倒的に素晴らしい━━指揮者のすぐ前に配置されているソロ・グループと、背後に拡がる大オーケストラとの対比が、空間的な拡がりをもって聴き取れるからだ。
 そして、今日のヤマカズ&日本フィルの演奏は、極めて若々しく活気があって、より「面白く」聴けたのであった。
 なお、協奏曲でソロを弾いた萩原麻未も、怒号するオーケストラを相手に一歩も退かぬ快演を聴かせて、素晴らしかった。

 財政的にも苦しいはずの自主運営オーケストラが、よくこれだけ意欲的なプログラムを定期に組むものだ。見上げたものである。

2018・9・7(金)東京二期会
プッチーニ:3部作「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 ダブルキャストによる4日連続上演、今日は2日目で、Bキャストとしての初日。

 東京二期会としては23年ぶりの「プッチーニ3部作」だが、今回はダミアーノ・ミキエレットによる演出だ。デンマーク王立歌劇場とアン・デア・ウィーン劇場で上演されたプロダクションではあるものの、この東京上演に際してかなり手直しされた由。
 いずれにせよ、日本人歌手陣がその中で生き生きと動き、ただ一つの類型的な身振りに陥ることなく演劇的な演技を繰り広げていたこと、そして特に「外套」と「ジャンニ・スキッキ」では舞台上の人物構図が明確に決まっていたことなどから、日本版としての上演意義は充分に確立されていたと言ってよい。

 ミキエレットの演出には、この3部作にそれぞれ関連性を持たせるための新機軸の手法がいくつかある。
 例えば、「外套」と「修道女アンジェリカ」は切れ目なしに上演され、前者の幕切れで不倫相手の死体を見て恐怖に絶叫したジョルジェッタ役の歌手(文屋小百合)が、そのまま同じ位置に立ったまま、後者の舞台におけるアンジェリカ役に変わり、自らの子を奪われ、全ての希望を失って自殺する悲劇的な母親の立場となる。

 また前者で、妻ジョルジェッタの不倫相手を殺害した「暗い」船長ミケーレ(今井俊輔)が、「ジャンニ・スキッキ」では陽気で狡猾な、しかしどこかに暗い影を持つ題名役となって登場、しかも皮肉めいたセリフを残して去るラストシーンでは、いつのまにかあの外套を着たミケーレの姿に変わっているというオチがつく━━という具合である。
 これらは、いわば人間性の裏と表、あるいは運命の巡り合わせとでもいったものを、3部作という場で描き分けていた、とも言えるだろう。
 (ただ、その他にも2種の役柄をダブって歌い演じた歌手も多いけれども、そのすべてがこのような意味づけを与えられているわけではない)

 舞台装置でも同様な手法が使われた。「外套」では運搬船の港の場面に相応しく舞台上には巨大なコンテナが並び、積み重ねられていたが、「修道女アンジェリカ」ではこれが姿を大きく変えて修道院の中の光景となる。そして最後の「ジャンニ・スキッキ」では豪華な居間の光景となるのだが、幕切れではそれが折りたたまれて、再び「外套」冒頭にも似たコンテナの形に戻るという凝った趣向である。
 かように、3部作としての統一感は、巧妙に構成されていたのだった。パオロ・ファンティンの舞台装置、アレッサンドロ・カルレッティの照明、それらの関係スタッフ、いずれも見事であった。

 演出の細部の点では、「修道女アンジェリカ」に面白い解釈が見られた。
 ここでは、アンジェリカの子供は実際には生きているという設定に変えられ━━それは公爵夫人が修道院に連れて来ているので、観客にもそれと解るのだが━━冷酷な修道院長らが子供を母親に会わせるのを妨げたかのように見える。公爵夫人は、アンジェリカとの口論の末に激して「お前の子供は死んだ」と告げたものの、幕切れでは良心の呵責とアンジェリカへの同情に耐えかね、彼女の子供を連れて来るが、その時にはアンジェリカはもう自殺したあとだった・・・・という設定である。

 ミキエレットの解釈は、冷酷なのは、公爵夫人よりもむしろ「修道院」なのである、ということなのだろう。ここでの公爵夫人(与田朝子)があまり冷酷に見えないのは彼女の風貌と意図的なものかもしれないが、己が所業のためアンジェリカを死に追いやったことを知ったラストシーンの演技がもう一つ明確であったら、と思う。
 なお、アンジェリカが絶望の末、さまざまな痛ましい幻想に陥る模様もつぶさに描かれる。ミキエレットのこの演出には、「3部作」の各作品で、それぞれの「明暗の幻想」が悉く打ち砕かれる━━というコンセプトも備わっているのではないか。

 今回登場した歌手陣は実に多くにわたるので、そのすべての皆さんについて触れることは不可能だが、前出の3人の他には、「外套」でのルイージ役には芹澤佳通、「ジャンニ・スキッキ」で「私のお父さん」を歌うラウレッタ役には船橋千尋、といった人々も出演していた。主演女優賞(?)を勝手に差し上げるとすれば、やはり文屋小百合さんだろうか。アンジェリカの後半の演技と歌は、見事なものがあった。

 そして、ベルトラン・ド・ビリーの指揮が、思いがけぬほど美しく、「雰囲気」があったのにはちょっと驚いた。オーケストラをあまり鳴らさず、むしろ押し殺したような緊張感で進めるので、時に爆発する悲劇的な最強奏がいっそう凄味を感じさせる。
 彼のオペラの指揮はこれまで各所でかなり聴いて来たつもりだが、今回ほど音楽の表情が豊かだった演奏は初めて聴いたような気がする。東京フィルがこのピットで、これだけ「雰囲気豊か」な演奏を聴かせたことは、稀ではないか?

 なお今回は、二期会合唱団と新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部が合同して歌ったということが大々的に謳われていた。びわ湖ホールが「さまよえるオランダ人」でやったことのお株を取ったか。ただし、あれほど人数は多くない。
 休憩は「修道女アンジェリカ」のあとに1回のみで、5時10分頃終演。
 これは、東京二期会の近年の傑作プロダクションと言って間違いはない。

2018・9・6(木)「わ」の会コンサートvol.5

      調布市文化会館たづくり くすのきホール  7時

 ワーグナーの「ワ」と、指環の「環(わ)」に、「和」━━で「わ」の会と名乗る声楽グループ。彼らが主宰する簡易型(?)ワーグナー上演シリーズの第5回。

 今回は「Erwachen」(覚醒)と題しての演奏会だったが、あいにく「ジークフリート」の「ブリュンヒルデの目覚めの場」の二重唱を歌うはずだったジークフリート役の片寄純也が体調不良で降板したため曲目が変更され、「神々の黄昏」からの「ブリュンヒルデの自己犠牲」が演奏された。そこだけは「覚醒」から「黄昏」になってしまったわけだが、まあ致し方ない。

 結局、プログラムは、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第3幕前半から「ザックス、ヴァルター、ベックメッサーの場面」、休憩後に「ジークフリート」から「さすらい人(ヴォータン)とエルダの場」、そして前述の「神々の黄昏」からの━━ということになった。
 出演は大塚博章(ザックス)、二塚直紀(ヴァルター)、大沼徹(ベックメッサー)、友清崇(さすらい人)、金子美香(エルダ)、池田香織(ブリュンヒルデ)、木下志津子(ピアノ)、城谷正博(指揮)、吉田真(字幕&プレトーク)。

 歌手陣の中で、金子美香は、今年のバイロイト祝祭に「ヴァルキューレ」のグリムゲルデ役でデビューしたことで注目されていた。彼女の歌は、私は2009年に「ウリッセの帰還」での妻ペネロペ役で初めて聴き、いいと思っていたのだが、それ以降は「指環」のラインの乙女たちとか3人のノルンやヴァルキューレ、「魔笛」の3人の侍女、「ルサルカ」の森の精たちといった役柄でしか聴いていなかった。今回は智の女神エルダ役で、その深々とした力に満ちたメゾ・ソプラノの歌唱をじっくりと聴けたのは幸いだった。

 池田香織の「ブリュンヒルデの自己犠牲」は5年ぶりに聴く。今日はちょっと力み過ぎだったような気もするが、しかし劇的緊迫感は充分。来年3月のびわ湖ホールでの「ジークフリート」がいよいよ楽しみになる。
 ピアノの木下志津子の鮮やかさはいつに変わらず、ワーグナーのオーケストラの雰囲気をそのままピアノで再現してくれる。「ジークフリート」から「神々の黄昏」へは切れ目なしに繋げ、しかも「自己犠牲」の歌が終ったあとの幕切れ(あの大変な個所を!)まで、約50分間連続して演奏したのだから、見事なものである。

2018・9・3(月)サカリ・オラモ指揮ロイヤル・ストックホルム・フィル

     サントリーホール  7時

 今年春に、自ら首席指揮者を務めるBBC交響楽団を率いてやって来たサカリ・オラモが、今度は、同じく首席指揮者を務めるもうひとつのオーケストラ、ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団と来日した。こちらは日本=スウェーデンの外交関係樹立150周年を記念してのイヴェントの一環とのこと。

 今日のプログラムは、「運命」と「巨人」の組み合わせというパワフルなもの。2曲ともかなり「豪壮」な演奏だった。
 ただ、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」の方は、大編成のオーケストラでノン・ヴィブラート奏法に近いスタイルにより演奏されたのはともかく、第1楽章などではもう少し一つ一つの音を明晰に響かせてもらいたいという感も拭えない。全曲にわたる鋭角的な響きが、この交響曲を、些かヒステリックなものにしてしまったようにも思われる。

 その点、たっぷりした音で、巨大な絵巻物を繰り広げるような演奏となったマーラーの「交響曲第1番《巨人》」の方が、私にはずっと楽しめた。起伏が大きいだけでなく、最弱音が豊かな拡がりを備えてひときわ美しい。しかも、音が少しも混濁せず、明晰さを保っているところがいい。
 とりわけホルン群がパワフルで、例えば第1楽章後半での3連音符による咆哮といい、第2楽章でのゲシュトップトのフォルティッシモの個所といい、あるいは全曲大詰の頂点での歓呼━━。それらがオケの最強奏を突き抜けて響いて来るさまは、なかなかに壮烈だった。

 この演奏では強弱の対比が鋭かったのも印象に残るが、それは普通の演奏に聴かれるようなフレーズごとの変化の個所よりも、弱音の上に突然閃くクラリネットなど木管のモティーフの扱いの個所に多く聴かれた。一種の表現主義的な演奏ともいうべきか。オラモの感性を窺わせて興味深い。

 というわけで、サカリ・オラモとストックホルム・フィル、今回はかなり個性的な演奏を聴かせてくれて面白かったが、プログラムは相変わらず客寄せを狙った名曲路線だ。
 招聘元も、その中にスウェーデンの作曲家の作品をせめて一つくらいは交ぜるくらいの度量を示せないものかと思う。今日は辛うじてアンコールに、それもアルヴェーンの「羊飼いの踊り」という軽快な小品が演奏されただけだった。

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