2016-12

2016・12・5(月)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

      東京オペラシティ コンサートホール 7時

 ドイツ・カンマーフィル・ブレーメン(ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団)の今回の日本ツアーは8公演で、今夜が最終日。ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは樫本大進)、シューマンの「交響曲第3番《ライン》」

 パーヴォ・ヤルヴィは、やはり大編成のオーケストラよりも、こういうドイツ・カンマーフィルのような中規模の、それも斬新な感覚で沸き立っている「ヒッピー楽団」(4年前のパーヴォの発言、朝日新聞から)を指揮する時の方が、はるかにいい。骨の髄まで彼らしい、大胆不敵な、急進的でラディカルな個性が、存分に発揮できる。

 その最たるものは、今日のプログラムの中では、シューマンの交響曲「ライン」における演奏だ。これは4年前の来日の際にも「シューマン交響曲ツィクルス」の一環として演奏したことがあるけれど、これほどスリリングで面白い《ライン》の演奏は他に例を見ない。
 一つ一つの音符が、あらゆるフレーズが、際立ち毛羽立ち、鋭角的で闘争的な形になる。全曲にわたって予想外のリズム処理が為され、思いがけぬパートが浮き彫りにされる。聴き慣れたこの交響曲が全く違った様相で立ち現れて来る。

 シューマンはオーケストレーションが不器用だ━━などという古来の先入観など何処へやら、むしろ前衛的で斬新極まりない管弦楽法のイメージを以って響きわたるのである。快速テンポで、ほとんどの楽章をアタッカで有機的に接続し、緊迫感を保ち続けて指揮して行くパーヴォの気魄も見事だし、それに応えるオーケストラも巧い。実に荒々しく激しい、しかし痛快極まる「ライン」であった。

 「ハイドンの主題による変奏曲」にしても同様である。冒頭の管楽器による古式ゆかしいコラールが、骨太で強面に響きはじめる瞬間から、今日の演奏が何か並みのものとは違うものになりそうだという、不思議な期待感を持たせてくれる。コンサートに行って、最初からこういう感覚に浸れる時は、幸せである。そして、パーヴォとドイツ・カンマ―の実際の演奏は、その期待通りになるのである。

 ベートーヴェンの協奏曲でも、オーケストラの沸騰するようなエネルギーが、この曲をドラマティックな様相に仕立て上げる。樫本大進のソロは、コンサートマスターのポストにあるヴァイオリニストらしく、整然としたものだが、それでも今日は、精一杯の自由さを志向した演奏だったと言えようか。それがパーヴォとオケの激しい波浪のような演奏と、微妙なバランスを以って対峙する。

 オーケストラのアンコールは、ブラームスの「ハンガリー舞曲」からの「第3番」と「第1番」。これまた、曲をデフォルメ寸前にまで追い込むユニークな演奏である。

2016・12・4(日)京響プレミアム 岸田繁の「交響曲第1番」初演

     ロームシアター京都メインホール  4時

 ロックバンド「くるり」のシンガーソングライター、ギタリストとして人気のある岸田繁が、クラシック音楽の世界に挑んだ力作が2曲。
 最初に演奏時間20分前後の長さの「Quruliの主題による狂詩曲」(岸田繁自身も第4曲で歌唱)、休憩後に、50分以上を要する長大な「交響曲第1番」(初演)。なお後者は三浦秀秋のオーケストレーションとコメントされているが・・・・。

 演奏は広上淳一指揮の京都市交響楽団。
 
 岸田氏に提案したい。自己の立派なテリトリーをあくまで大切にしていただきたい。クラシック音楽におもねる必要などない。おもねていないのであれば、まず何よりも自己の独自の、最も得意とする話法を振りかざして、クラシック音楽に正面から斬り込んで来てもらいたい。

2016・12・3(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 定期公演。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の第1幕前奏曲、デュティユーの「チェロ協奏曲《遥かなる遠い国へ》」(ソリストはヨハネス・モーザー)、シューマンの「交響曲第2番」というプログラム。
 ちょっと渋めだが、いかにも「ノット&東響」らしい意欲的なプログラミングだ。コンサートマスターは水谷晃。

 「トリスタン」と「遥かなる遠い国へ」は、切れ目なしに続けて演奏された。これは、すこぶる秀逸なアイディアである。
 しかもヨハネス・モーザーは、「トリスタン」から演奏に参加し、ソリストの台の上でチェロのパートを一緒に弾く。おかげで、この曲のチェロのパートがいつもよりずっと目立ったのは当然だろう。

 その「トリスタン」も、ノットの指揮は濃厚なものではなく、デュティユーの透明で清澄な世界へ直結したような表現を採っているので、この2曲が続けて演奏される意味も明確になる。またデュティユーの協奏曲の方にも、「トリスタン」の世界からの浄化━━といった趣が加わって来る。
 2つの作品に、それぞれ単独で聴いた時とは全く異なった意味合いが付与される結果を生む━━これこそがまさにプログラミングの妙味といえるものであろう。

 休憩後のシューマンの「第2交響曲」は、先の2曲とは全く異なった色合いの、大胆かつ力動的な演奏となった。
 第1、2、4楽章は、それこそ一刻の休みも無しに動き回る世界だ。これは闊達というよりも、落ち着きのない躁状態と言った方がいいような表現ではないだろうか? かつてシノーポリがこの曲を精神病理学的に解釈し演奏してわれわれを驚かせたことがあったが、今夜のノットの指揮は、それと同じとまでは言わぬまでも、何かそれを連想させるものがある。

 そう思わせる理由は他にも、テンポの速さと、オーケストラの音色にあるだろう。この演奏は、明るく澄んだ音色ではなく、弦楽器全体が終始トレモロで震えているような響きに聞こえ、それが異常な緊張をつくり出しているように感じられたのである。

 このような特殊で見事な音色と楽器のバランスは━━これとは少し異質な、もっと柔らかいものだったけれども━━前音楽監督スダーンも、この東響との演奏でつくり出したことがある。ただ、スダーンの時には、曲の後半でオケが普通の状態に戻ってしまうことがあり、そしてこのノットの場合には、最強奏の際に音色が濁ってしまう傾向がある。今後の課題かもしれない。

 いずれにせよ、ノットが指揮する東響の演奏会には、退屈というものが無い。

2016・12・1(木)アルベルト・ゼッダ米寿記念コンサート

      BUNKAMURAオーチャードホール  7時

 イタリアの名指揮者アルベルト・ゼッダの88歳を記念して、彼がしばしば客演している藤原歌劇団(日本オペラ振興会)が祝いの演奏会を開催。彼の指揮で、ロッシーニのカンタータ「テーティとペレーオの結婚」と、「スターバト・マーテル」が演奏された。

 前者では佐藤美枝子、中井亮一、光岡暁恵、鳥木弥生、角田和弘が、後者では砂川涼子、向野由美子、村上敏明、伊藤貴之がソロを歌った。合唱と管弦楽は、藤原歌劇団合唱部と東京フィルハーモニー交響楽団。

 人間味あふれる温かい情感に富んだ指揮で、日本でも圧倒的な人気を得ている名匠アルベルト・ゼッダ。今夜もこの2曲で、ロッシーニの作品の良さをホールいっぱいにあふれさせた。米寿の高齢でありながら、彼が演奏者から引き出す音楽は、素晴らしく生き生きしていて、若々しい。
 2曲とも指揮台上に立ったままで、エネルギッシュに指揮、袖との往復の歩き方も速い。

 カーテンコールの締め括りには、折江忠道・藤原歌劇団総監督のリードで、マエストロに黄金色の帽子とちゃんちゃんこ?を着させ、全員でイタリア語の「ハッピー・バースデイ」を歌うという趣向もあった。心温まる演奏会である。

2016・11・30(水)「三代目、りちゃあど」

      東京芸術劇場 シアターウェスト  7時

 野田秀樹作、オン・ケンセン演出による、日本・シンガポール・インドネシア共同制作の演劇。3カ国の出演者も登場して、日本語と英語とインドネシア語の台詞により上演され、英語と日本語の字幕がつく。

 三代目のりちゃあど━━とは、もちろん、あのリチャード3世をさす。シェイクスピアの戯曲では稀代の悪王として描かれ、半世紀前にはローレンス・オリヴィエの鬼気迫る演技による映画で、更に広く知られるようになったあの英国王のことだ。

 このドラマでは、そのリチャードを身体に障害を持つ殺人鬼として描いたのはシェイクスピアのでっち上げではないのか━━などという問題を中心として裁判が行われ、りちゃあど(中村壱太郎)、シェイクスピア(茂山童司)、シャイロク(ジャニス・コー)、カイロプラクティック/シンリ―〈真理〉(江本純子)、裁判長/家元など(久世星佳)らが丁々発止の火花を散らす。シェイクスピアの原作にある台詞や設定も、いくつか引用される。
 最後にはシャイロクがある賭けの代償として、シェイクスピアに足の肉1ポンドを(逆さ吊りにして血の気のなくなった足の先を切れば血は出ないという論理で)要求するというオチもつくのだが・・・・。

 こう書くと、何かドタバタの単純劇みたいになるが、実際はすこぶる複雑だ。「歴史的事実」と「戯曲作家」との闘いがパロディで描かれるのも、そこに含まれたテーマの一つだろう。話が目まぐるしく変わる上に、日本語や英語やインドネシア語が弾丸の如き早口で飛び交うセリフ構成で進められるのだから、字幕を見たり見なかったり、時にこちらの集中力が追い付かぬこともある。

 結局、りちゃあどがどう騒いだところで、シェイクスピアが圧倒的に優勢であることは、野田秀樹が「作家」としての立場で書いた芝居であることからも、想像がつくというものだろう。
 戯曲作家という存在の絶対の権力、恐ろしさ、敢えて言えば傲慢さというものを思い知らされたようなドラマではあったが、それでいながらわれわれは、戯曲作家には絶対の信頼と敬意を抱いてしまうのだから、どうしようもない。

 舞台には、前述の3カ国の言葉の他にも、歌舞伎や狂言の台詞回しや演技、宝塚のミュージカル的要素(これは久世星佳の独壇場)、バリ島の人形(?)の影絵などが同時に交錯して、これが不思議な面白さを出す。
 演出家は、現代日本の多様性・複雑性を舞台化したいというコメントをプログラム冊子に載せていた。昨日のトリフォニーホールでの「歌舞伎とシェイクスピア」は、その多様性各々にお互いが敬意を払い過ぎて中途半端に終わる結果を招いたが、今日の演出家オン・ケンセンは、それらを遠慮会釈なく一つの舞台に投げ込み掻き混ぜて、多様性に相応しいコラボをつくり出していたのであった。

 余談だが、追い詰められたリチャード3世が叫ぶ有名な台詞「A horse! A horse! My kingdom for a horse!(馬をもて! 馬をもて! 馬を持って来た者にはわしの王国をやるぞ!)」が、昔の名画「スタア誕生」(ジュディ・ガーランド、ジェイムズ・メイスン主演)の「英和対訳シナリオシリーズ」(国際出版社刊)で、「馬だ、傾国の名馬だ」という、とんでもない誤訳がされていたのを思い出す。こんなことを覚えているのは、そのあとに観たオリヴィエ監督・主演の映画「リチャード3世」に、あまりに強烈な印象を与えられたせいもあるだろう。

2016・11・30(水)ロイヤル・オペラ・シネマ ベルリーニ「ノルマ」

     TOHOシネマズ六本木ヒルズ  午前10時

 朝っぱらから映画を観るというのは、学生時代以来絶えてなかったことだが、東宝東和の試写会にはスケジュールが合わず行き損ねたので、一般上映を観に行く。

 松竹が大々的に展開している「METライブビューイング」だけでなく、東宝東和も英国ロイヤル・オペラの上演ライヴ映像を各地の系列館に配給してくれるようになったのは大変ありがたいことだが、ただこちらの方は、上映スケジュールがおそろしく解り難い。
 PRがあまり行われていないし、東宝東和のサイトで調べても、2日くらい前にならないと、何時から上映するのか、チケットはいくらか、ということが判明しないのである(その上映時間も、日によりまちまちのようだ)。内容についての資料も、現場では全然見当たらないのも困る。

 しかし、内容は良質だ。
 このベルリーニのオペラ「ノルマ」は、去る9月26日上演のライヴである由。ソーニャ・ヨンチェーヴァ(ノルマ)、ジョセフ・カレヤ(ポリオーネ)、ソニア・グラッシ(アダルジーザ)、ブリンドレイ・シェラット(オロヴェーゾ)らが歌い、アントニオ・パッパーノが指揮している。
 ヨンチェーヴァの演技が素晴らしく、特に終幕でポリオーネと対決するシーンでは、鬼気迫るものがあった。また、彼女とグラッシの「和解の二重唱」も、演技を続けながらの歌の中にハーモニーがぴったり合って、絶妙な出来。

 演出は、アレクス・オレである。現代風の舞台設定で、ドルイド教徒の集団がキリスト教徒の軍団に読み替えられているように見える。ラストシーンで、ポリオーネと一緒に火刑台に向かうはずのノルマが━━ネタバレになっては申し訳ないので、ここには書かないが━━突然アレになるのは、ちょっと小細工が過ぎるという印象だが。

 上映時間は3時間半。最初の10分は他の映画の予告編だ。本篇の演奏が開始されるのは10時30分近くになってから。「METライブ」は比較的すぐに上演に入るが、こちらはアタマにインタヴューや解説がかなり長く入る。本篇に入るまでに待ちくたびれてしまう、という感が無くもない。

2016・11・29(火)尾上菊之助の「歌舞伎とシェイクスピアの音楽」

      すみだトリフォニーホール  7時

 「歌舞伎とシェイクスピアの音楽」と題され、プロコフィエフのバレエ曲「ロメオとジュリエット」が演奏されるというので、二つの芸術の面白いコラボが何か試みられるのではないか、と期待していたのだが、何のことはない、第1部は尾上菊之助が演じ舞う歌舞伎のハイライト、第2部は角田鋼亮指揮する新日本フィルが「ロメジュリ」抜粋を演奏して菊之助がちょっとしたナレーションを入れる━━という程度のものにとどまった。期待外れである。

 とはいえ第1部での尾上菊之助の舞台は、歌舞伎には素人の私にとっては面白い。
 河竹黙阿弥の「白浪五人男」からの「浜松屋の場」での「弁天小僧菊之助の台詞」なんかは私でも知っているが━━「知らざあ言って聞かせやしょう」に始まって「弁天小僧菊之助たあ、おれのことだぁ」までを、大見得を交えて演じてもらえば、「これですよね」とニヤリとせざるを得ない。
 大向う(このホールには無いが)から盛んに掛け声も飛んで、なかなかいいものであった。今日の客席はさすがに、歌舞伎ファンのほうが多いと見える。

 第1部はこのあと、「京鹿子娘道成寺」からの「鞠歌」と「恋の手習」が、三味線や唄とともに、菊之助により舞われた。なおこのパートでは、長谷部浩(演劇評論家)の解説が入ったが、些か教養講座的な雰囲気にもなった。

 期待外れたぁ、第2部のことだ。プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」からの何曲かが演奏され、その間に尾上菊之助が、坪内逍遙の訳による台詞を中心としたナレーションを入れたのだが、それは最初に1回、中に4回のみ。結局、主体はオーケストラの演奏で、それに菊之助が少し朗読を添えたという程度なのである。

 「歌舞伎と・・・・」と銘打つなら、たとえば、菊之助がプロコフィエフの音楽に合わせて演技をするなり舞うなり、舞台としての合体ができなかったのか? それに、どうせ彼が喋るなら、坪内逍遙の訳を朗読するより、彼のテリトリーである歌舞伎調の台詞ででもやってもらった方が面白かったのではないか。
 どうも今回は、歌舞伎側がクラシック音楽側に遠慮したような気がする。こういう場合、クラシック音楽を尊重するあまり、「ここはやはりちゃんと音楽を聴かせましょう」ということになると、たいてい「普通の演奏会」になってしまい、特別企画としては流れが悪くなり、結局中途半端なものに終ってしまうものなのである。

2016・11・28(月)大野和士指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 これは定期Cシリーズ(失礼、Aシリーズでした)。
 ベルクの「アルテンベルク歌曲集」、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」、マーラーの「交響曲第4番」。意欲的なプログラムである。ソプラノは天羽明惠、ピアノはピエール=ロラン・エマール。コンサートマスターは矢部達哉。

 このところ連日連夜、よく響く音響のホールで、米・独・仏の大オーケストラの壮大な演奏に浸っていたあとに、われらの日本のオーケストラを、この残響の少ない、音が裸で聞こえるホールで聴くと、些か戸惑いを感じる。曰く、細身のサウンド、室内楽的な精緻さを持った几帳面なアンサンブル、指揮者に従順な演奏スタイル、おとなしさ、淡彩な音色━━という言葉が、どうしても実感を以って浮かび上がって来てしまうのだ。

 これがよくも悪くも、日本のオーケストラの個性なのだな、と考えながら聴く。
 また先年、欧米の音楽評論家を招聘して行われたシンポジウムで、日本側パネラーを務めた時に力説したようなこと━━この日本のオケの個性を世界の楽壇において強い発言権を持たせるにはどうしたらいいか、などとも考えながら聴く。

 もちろん、大野のマーラーにも、他の外国人指揮者とは異なる独自の立派な主張が備わっているし、都響の演奏もまた、極めてまとまりの良いものだ。特に後半の2つの楽章での演奏は、充実していた。この演奏を、もっと豊潤な響きのあるホールで聴いたなら、おそらく全く異なった印象になるだろう。
 なお、声楽ソロの天羽明惠は、マーラーの第4楽章で好演を聴かせてくれた。ピアノのピエール=ロラン・エマールは豪壮で鮮やかなラヴェル。そしてソロ・アンコールで弾いたブーレーズの「ノタシオン」の1曲が極め付きの快演。

2016・11・27(日)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

       サントリーホール  2時

 マーラーの「交響曲第9番」1曲というプログラム。満席のホール。

 この曲でも、マリス・ヤンソンスの指揮は、温かさに満ちている。第1楽章も、陰翳は濃いが、決して深い憂鬱に陥らず、絶望的な気分をもたらす演奏にならない。どこかに優しい希望と慰めの情感を湛えているような演奏なのだ。
 第3楽章なども、演奏の形としては充分に荒々しいものだが、そこにマーラー特有のヒステリックな騒がしさとか、形容し難い躁状態━━他の多くの指揮者はそれらを強調して表現する━━のようなものが感じられるかというと、そうでもない。

 それゆえ、第3楽章を聴き終って、過去と決別するかのような別世界の第4楽章に入った時に、その2つの楽章の対比をかみしめようとすれば、ちょっと戸惑いを感じるものがある。
 少なくともこのヤンソンスとバイエルン放送響の演奏では、第4楽章の弦の幅広い主題が、前楽章までの世界との違いを衝撃的に感じさせるという効果は生まなかったのだ。

 だがそれはヤンソンスの失敗ということでは決してないはずで、おそらく彼は当初から、この交響曲を死への道程とは解釈せず、憂鬱―苦悩―未来―希望といったような解釈を考えていたのではないか。だからこそ、第4楽章のあの圧倒的な量感の弦を、それほど濃厚かつ強烈に響かせず、そこでもむしろ温かみのある優しさを以って主題をつらぬいて行ったのではないかと思われる。
 いわゆる激烈な感情にあふれたこの曲の演奏を聴き慣れていた私としては、今回の演奏には正直なところ、ちょっと戸惑ったのは事実だ。だがそれを理解し、いったんそれに心身を投じてしまうと、ヤンソンスのヒューマニズムは、この上なく魅力的なものになる。

 第4楽章の中盤以降は、まさにその表れだ。
 どの小節においても演奏に均整美を失わないヤンソンスとバイエルン放送響は、スコアの最後の40小節ほどを、見事な構築性と形式感を以って演奏して行った。最後の第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる最弱音を、これほどはっきりとした和声感を意識して聴くことができた演奏は、初めて体験するものだった。

 それゆえに、すべては安息に包まれて「完結した」という印象がいっそう強くなる。しかもその終結の、何と柔らかく、美しく、快いこと。そう、どんなに幸せだろう、こういう音楽のように、こういう演奏のように生を終えることができたなら━━。

 最後の音が消えたあとも、満席のホール内には物音一つ、息づかい一つ聞こえず、静寂が保たれていた。やがてヤンソンスが僅かに身体を動かし、弦楽器奏者が高くあげたままの弓を静かに下ろし終ると、会場全体から微かな吐息が漏れ、それから拍手がおもむろに巻き起こり、急激に熱狂的に高潮し、ブラヴォーの歓声が交じって行った。作品と演奏に対する聴衆のこの集中力は、近来稀なほど素晴らしいものだった。

2016・11・26(土)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 結局今週は、米・東独・仏・墺・南独の大小のオーケストラを連続して聴き比べるという僥倖に恵まれたわけで━━。
 さてこのおなじみのコンビの、今回の日本公演は全5回。今日は3日目である。ハイドンの「交響曲第100番《軍隊》」と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」というプログラム。

 ゆったりと開始されたハイドンの交響曲での、完璧な均衡を備えた、落ち着きのあるふくよかなオーケストラの響きを何に喩えよう。スケールの大きな、しかも密度の濃い演奏だ。マリスらしく誠実で丁寧な指揮が快い。
 第2楽章でのトランペットのファンファーレは、ステージ上の奏者でなく、下手の袖の内側でバンダが吹くという方法が採られた。

 またこの第2楽章で打物陣を務めた奏者たちが、この楽章が終ると皆退場してしまったので、第4楽章の打楽器パートはまたバンダ扱いかと思っていたら、何と下手側客席のドアから、巨大なシェレンバウム(トルコ軍楽隊が使う「鳴り響く房」の大杖クレスントをドイツ風に改造した飾りもの)を振りかざした奏者を先頭に、3人の奏者がそれぞれ大太鼓とシンバルとトライアングルを叩きながら行進して来て、客席最前方を練り歩く、という愉しい趣向が披露されたのである。

 休憩後の「アルプス交響曲」は、はからずも今週はティーレマン=シュターツカペレ・ドレスデンとの競合となった。
 私にとってはこの曲、部分的に好きな主題はあるが、全体としてはそう熱狂的に聞き惚れるほどの作品ではない。ただ、そのスペクタクルな音楽ゆえに、そして作品の甚だまとまりの無い構造ゆえに、指揮者とオーケストラの力量を窺うにはちょうどいい作品ではある。

 そこで今回の2人の名指揮者、ドイツの名門オケ2団体の競演だが━━各々素晴らしい特徴があったが、こちらヤンソンスとバイエルン放送響は、緻密で隙の無い響きの魅力があるだろう。マリスはここでも、堅固に、生真面目に陰翳の濃い音楽を組み立てるが、しかし音楽はのびやかで自然体のスケール感を誇る。
 もう一つ、シュターツカペレ・ドレスデンもそうだったが、いかに大音響で咆哮しようと、音に少しの濁りも生じないところが素晴らしい。

 そして、あれほど「嵐」に荒れ狂った管弦楽が次第に落ち着きを取り戻し、「日没」から「夜」にかけて重々しく沈んで行く個所を通じての色合いの変化と、全管弦楽の均整の取れた響きの美しさは、さすが世界屈指のオーケストラに相応しい演奏、と言えるものだった。マリス・ヤンソンスも、かく見事な制御を示す。いよいよ円熟の名人芸の域に到達しているようである。
   音楽の友新年号 Concert Reviews

2016・11・26(土)カメラータ・ザルツブルク

     神奈川県立音楽堂  3時

 名門カメラータ・ザルツブルク。今回はオーボエの名手ハンスイェルク・シェレンベルガーの指揮で来日。
 神奈川県立音楽堂主催によるこの日の演奏会はモーツァルト集で、「ディヴェルティメント第11番ニ長調K251」、「クラリネット協奏曲」(ソロはアレッサンドロ・カルボナーレ)、「交響曲第40番」という、魅力的な名曲プログラムだった。

 「ディヴェルティメント」では、シェレンベルガーは、半円形に拡がるオケのその中央に座ったままオーボエを吹いていたが、音量の点で、あまりソリストとしての存在感を誇示しなかったようにも思われる。
 次の「クラリネット協奏曲」では、彼は指揮者としての場所に位置し、カルボナーレが繰り広げる見事な技術と音楽性に満ちたソロとの対話を美しく交わした。オーケストラの演奏もしっとりして、これが今日の白眉だったであろう。

 「40番」は、弦6・5・4・3・2の編成、クラリネットなしの版で演奏されたが、これはシェレンベルガーの好みでもあるのか、管の音量が非常に大きい。そのため一風変わった音色となり、しかもかなりごつごつした音楽になった。フレーズの変わり目、主題の移行の個所などでは、彼は随分、テンポの変化に凝った指揮をする。
 こういった特徴のためか、安穏と聴く「40番」の演奏とは言えなかったけれども、しかしこれは、いつ聴いても、本当にいい曲だ。戸外に雪でも降っていれば、さらにこの曲の雰囲気と合うだろう。が、今日は好天である。

 この曲の演奏が終ったのが、5時近く。とりあえずここで失礼して、紅葉坂を急ぎ下り、JR桜木町駅までは10分ほど。次のミューザ川崎での6時の開演に間に合わせるべく、京浜東北線に飛び乗る。川崎までは16分で行けるのだが、最近の電車は当てにならないので、ぎりぎりに出ると危ない。現に東海道線はダイヤ混乱、大幅に遅れていた。

2016・11・25(金)ダニエル・ハーディング指揮パリ管弦楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 この日はジョシュア・ベルがソロを弾くメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」と、マーラーの「交響曲第5番」。昨日が「3大B」なら、今日は「2大M」か。まさかそんなシャレでプログラミングされたわけではなかろうが。

 メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」の演奏が、ダントツに面白い。
 ハーディングは、前日のブラームス以上にメリハリの強いリズム感と激しいダイナミズムでオーケストラ・パートを構築、普通なら優美華麗に演奏されるこの曲を、著しく攻撃的な表情に変えてつくり上げた。
 しかもジョシュア・ベルがそれに輪をかけ、あたかもオーケストラとの決闘のような勢いで演奏するのだから、ますますスリリングなメンコンになる。第2楽章にも、甘美なロマンティシズムとは異質な緊張感が漂う。
 第3楽章も、疾風のごときモルト・ヴィヴァーチェを強調した演奏だ。ただし、その終り部分で、激しい動きを保ちながらも音楽がいっとき形だけの空虚な状態になるのが感じられたのだが━━このあたりは、ハーディングの若さが露呈したもの、といっていいかもしれない。

 なおジョシュア・ベルは、第1楽章のカデンツァを、メンデルスゾーンのスコアに従わず、自作のそれに置き換えて演奏していた。
 それは激しく暗い曲想のもので、かなり自由にやっていると見せながら、実はよく聴くと、それはメンデルスゾーンの原曲の原型に基本的に従いつつ、それを変奏というか、デフォルメというか、変形させて進めて行っているということが判る。その暗黒の白昼夢のような世界に次第に明るさが戻って来て、音が原曲のアルペッジョに復帰した瞬間、オーケストラがすかさず入って来た時には、巧い、やった!と拍手を贈りたくなるような気持になった。
 こういう手法は愉しいし、また定番のこの曲に優れた感覚で新しい血を導入した演奏というのも面白い。

 休憩後には、マーラーの「5番」。これも激烈で大スペクタクルの演奏である。第1楽章でフレーズが全合奏で下行して行く個所など、音が地響き立てて沈んで行くという形容が合いそうなパワフルな演奏であった。
 第2楽章と第3楽章は、間断なく沸騰し続ける情熱、と言った感か。ここでのトランペットは輝かしく力があり、第3楽章のホルンももちろん壮快極まる。
 第4楽章(アダージェット)の弦は柔らかく美しい パリ管の弦の素晴らしさであろう。

 というわけで━━そこまでのハーディングとパリ管の演奏は本当に見事だったのだが、肝心の「決め」たるフィナーレには、ちょっと惜しい点があったように思う。というのは、沸騰する音楽の渦巻きが一段落する瞬間に、演奏の緊張感が途切れ、音楽の動きが空虚に近い状態になる瞬間があったのだ・・・・。
 最後のクライマックスなど、あれほどの輝かしさで進んで来たこの大交響曲の締め括りの演奏としては、ちょっと物足りない。つまり、最後の一押しがちょっと弱い、ということなのである。これも、ハーディングの若さと、パリ管との呼吸が完全に合うのは未だこれから、ということを示したものではなかろうか。

 とはいうものの、この2日間、パリ管弦楽団の久しぶりのブリリアントな魅力を堪能できたのは嬉しかった。
 ハーディングも、相変わらずの人気である。聴衆は、5年前の東日本大震災の日の夜、彼が敢然と踏み止まり、新日本フィルを指揮してこの同じマーラーの「5番」を演奏、早速チャリティコンサート開催を提唱したり(これは実現できなかったが)、その後も演奏会のたびに募金箱をかかえてロビーに立ったりしていた彼の好意を忘れていないのである。
     モーストリー・クラシック2月号 公演Reviews

2016・11・24(木)ダニエル・ハーディング指揮パリ管弦楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 新・音楽監督ダニエル・ハーディングとともに来日したパリ管弦楽団、この日はブリテンの「ピーター・グライムズ」からの「4つの海の間奏曲」、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはジョシュア・ベル)、ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」抜粋。奇しくも英・独・仏の「3大B」というプロか。

 パリ管弦楽団━━久しぶりにこのオーケストラらしい、輝かしく伸びやかな演奏が日本で聴けたと言ってもいいのではないか。
 初来日時(1970年)のプレートルとボードの指揮の時を別として、その後はバレンボイムの指揮の時にも、もちろんビシュコフの時にも、エッシェンバッハの時にも、そしてパーヴォ・ヤルヴィの時にさえも、こういうブリリアントな音は聴けなかった。
 今後、ハーディングとパリ管がどのようにやって行くのかは判らないけれども、少なくともこの演奏会を聴いた限りでは、両者の相性はなかなか良いように感じられる。

 冒頭から、ブリテンのこの「間奏曲」集が実に輝かしい音色で始まったのに心を打たれる。これぞパリ管、というイメージだろう。
 ただしこの「ピーター・グライムズ」は、正直なところ、ハーディングがこのオペラを指揮したらどうなるか、という期待はあまり持てない演奏ではあったが・・・・。ごつごつしたつくりの鋭角的な表情が印象に残る、ちょっと意外な解釈ではあった。

 ブラームスの協奏曲も、ハーディングらしく、かなり勢いのいい、攻撃的な演奏をつくっていたのが面白い。ジョシュア・ベルがこれに呼応して、特別なカデンツァ━━自作の由━━を演奏するなど激烈なソロを展開。彼も身体は細身だが、昔に比べると音が太くなり、豪快さを増したようである。

 私の最大の目当ては、ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」だ。
 この日は、「ロメオひとり~キャピュレット家の饗宴」「愛の場面」「マブ女王のスケルツォ」「キャピュレット家の墓地でのロメオ~ジュリエットの目覚め」という、原曲に沿った順序で演奏されたが、これはシンフォニーの楽章構成にも共通する順序だろう。ただ、楽器によるレチタティーヴォのような曲想ばかりが続く墓地の場面の音楽は、最後の「楽章」を構成するには少しアンバランスな感もないではないが━━。
 しかしこのベルリオーズの作品こそ、まさにパリ管ならではの輝き、壮大さ、闊達さ、自由さが生きた演奏だったのではなかろうか。「愛の場面」での豊麗さなど、フランスのオケでなければ出せぬ味である。
     モーストリー・クラシック2月号 公演Reviews

2016・11・24(木)東京二期会「ナクソス島のアリアドネ」

   日生劇場  2時

 カロリーネ・グルーバー演出、シモーネ・ヤング指揮によるR・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」。
 今回は全4日公演のダブルキャストで、今日はその2日目。田崎尚美(プリマドンナ/アリアドネ)、清野友香莉(ツェルビネッタ)、菅野敦(テノール歌手/バッカス)、杉山由紀(作曲家)、執事長(多田羅迪夫)、山下浩司(音楽教師)、近藤圭(ハルレキン)、吉田連(スカラムッチョ)、その他多数の歌手陣。東京交響楽団がピットに入った。

 カロリーネ・グルーバーの日本での演出はこれが4度目になるはずだが、時にえらく難解なものもあった。
 東京二期会の「フィレンツェの悲劇」と「ジャンニ・スキッキ」の2本立や、びわ湖ホールでの「サロメ」などは非常に解り易いものだったが、東京二期会での「ドン・ジョヴァンニ」には、正直なところ手を焼いた記憶がある。

 今回の「ナクソス島のアリアドネ」はどうかというと、比較的ストレートな手法のようにも見えるものの、肝心な個所ではかなりひねった設定が使われている。ライプツィヒ歌劇場のプロダクションを持って来たとのことで、同歌劇場の記録映像と見比べたところでは、基本的に大きな違いはない。ただ、大詰近くの舞台構成が、若干シンプルになったか、というところだろう。

 第1部(プロローグ)の舞台は、駐車場に接続する地下のロビーのような場所。第2部(「オペラ」)は、富豪の大邸宅の広間か、食堂とでもいう場所。
 この「オペラ」の部分では、アリアドネらシリアスなオペラ歌手はテーブル側にいて、一方ツェルビネッタら喜劇役者グループは少し離れたバーのカウンターにたむろしている━━という演出で、ドラマの構図は解り易い。

 アリアドネの歌を聴いていた来客たちが、喜劇役者たちの賑やかな歌や踊りがけばけばしい照明とともに始まると、辟易したり、逃げ出したり、しかしやがて彼女らのショウに惹き込まれ、愉しんでしまうという演出にも苦笑させられる。
 そもそもこの作品には、「客はオペラでは居眠りしていても、拍手の時には目を覚ますもんだ」とか、ツェルビネッタに「オペラで退屈した客をあたしたちが苦心して笑わせるのよ」などという台詞を喋らせるなど、ホフマンスタールとR・シュトラウス得意の、クラシック音楽側の自虐ネタも織り込まれているのだから、これらの設定は、その辺を巧くつかんでいるといえるだろう。

 ラストシーンでは、愛の二重唱が終りに近づくに従い、広間にいる人物たちが一人、また一人と、まるでエクスタシーに陥ったかのように、倒れて眠って行く。アリアドネだけでなく、第1部では反目しあっていたはずのツェルビネッタと作曲家も抱き合ったまま倒れて眠りに落ち、果てはバッカスさえも眠ってしまう。
 皆が眠りに落ちたあとで、小さなキューピットが現われ、「次はあなたがた」とでも言うかのように、客席に向かって矢をつがえ(手許が狂ったらどうなるかとヒヤリとしたが)、その瞬間に音楽が終り、暗転する、という洒落た幕切れであった。

 このラストシーン、私は大いに気に入ったのだが━━もし解釈が全く違っていたのならどうしようもないけれど。
 シェイクスピアの「夏の夜の夢」のように、最後には愛が勝利するのだ、というのがグル―バーのコメントだったが、それにしてはちょっと解り難い。

 歌手陣は歌唱、演技ともに多少の凸凹はあったものの、まずは精一杯の出来であったろうかと思われる。シモーネ・ヤングの指揮は、室内管弦楽団級の編成の東京交響楽団を率いて、予想を上回る好演を示した。特に大詰の二重唱では、終りに近づくにしたがって音楽は目覚ましい高まりを示して行った。

 かように力作ではあったが、客の入りが甚だ芳しくなかったのは、この演目が直前にウィーン国立歌劇場の来日公演でも取り上げられていたことが影響していたのだろうか、あるいはこの日の季節外れ?の雪の所為か。出演者たちには気の毒であった。
 とにかく、雪は止んだが、戸外は猛烈に寒い。地下鉄有楽町線で、次の会場、池袋に向かう。

2016・11・23(水)ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン

     サントリーホール  5時

 昨日に続く「オーケストラ・プログラム」の第2日。ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」(ソロはキット・アームストロング)、チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」、リストの交響詩「レ・プレリュード」という、ちょっとヘンなプログラムだ。

 しかし、さすがはクリスティアン・ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデン、演奏はずば抜けている。
 ドイツのオーケストラが生真面目に、几帳面に演奏する「ロメオとジュリエット」も、なかなかいいものだ。ティーレマンの指揮も、曲が後半に入ると次第に濃厚さを増して行く。ティンパニの連打のあとに長い「間」を採ってからおもむろに開始したモデラート・アッサイの終結部では、ティンパニのリズムとコントラバスのピッツィカートをずしりと響かせ、物々しい悲劇性を強調して行った。

 リストの「前奏曲=レ・プレリュード」は、ナマで聴ける機会は滅多にない。いつだったか、ある演奏会で久しぶりに曲を聴いて、何故こんな曲に昔はあれほど夢中になったのだろうと首をひねったほどだが、今日のような演奏でこの曲を聴くと、やっぱり悪くない曲だ、と思えてしまうのだから、ティーレマンの指揮も大したものである。
 「田園の静けさ」での甘美なロマンティシズム、終曲のエンディングでのこれまた物々しい矯めなど、巧みな演出も加えられた、堂々たる演奏だった。

 前半はベートーヴェンだったが、今日は最初に「フィデリオ」序曲が新たに追加され、さらりとした演奏ではあったものの、よい幕開きの役目を果たした。

 「皇帝」では、昨日と同様、若手のキット・アームストロングが熱演を繰り広げたが。壮麗雄大な円熟の曲想にあふれるこの「5番」では、やはり「2番」とは些か勝手が違うと見える。しかし、その音色と表情の初々しさは、昨日に変わらぬ。
 ソロ・アンコールでのバッハの「おお愛する魂よ、汝を飾れ BWV654」も━━オケの前でのアンコールとしてはちょっと長かったが━━爽やかだった。

 それにしても、「皇帝」でのティーレマンの煽りの見事なこと。第3楽章中ほどの盛り上げと追い込みなど、息をつかせぬほどだ。若手アームストロングの躍動も、結局はティーレマンの傘の下で行われたのである。
 オーケストラのアンコールは、ワーグナーの「ローエングリン」第3幕への前奏曲。壮大な小絵巻。

2016・11・23(水)マリオ・ブルネロ&キャサリン・ストット

      紀尾井ホール  2時

 チェロのマリオ・ブルネロと、ピアノのキャサリン・ストットのデュオ・リサイタルを聴く。
 前半はシューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」とマーラー~デレヴィアンコ編の「亡き子をしのぶ歌」、後半にイザイの「無伴奏チェロ・ソナタ」、ペルトの「フラトレス」、ストラヴィンスキーの「イタリア組曲」というプログラム。

 ブルネロの演奏を聴くのは、もう何度目かになるけれど、なんとも不思議な名手ではある。音色は美しいし、テクニックも充分あるのに、何故か高音が甚だ不安定なのだ。その代り、中低域のたっぷりした響きの風格、スケールの大きさ、音楽の豊かさたるや、比類ない高みに達していると来ている。
 まあ、そんな特徴も影響してか、今日の第1部はあまり良い出来とは言い難かった。期待したマーラーの「亡き子をしのぶ歌」のチェロ版も、意外に面白くない。ストットの演奏も、思いのほか、控えめにとどまっていたようである。

 ところが休憩後、ブルネロの演奏は一変する。無伴奏のイザイのソナタにおける音楽の雄大さは衝撃的なほどで、これはまさに彼の本領発揮であろう。

 次のアルヴォ・ペルトの「フラトレス」でも、ブルネロはこの上なく豊かで深い音楽を聴かせてくれた。
 特にこの曲では、途中からストットのピアノが加わるのだが、その最初の一撃で彼女が聴かせた激烈な音楽は、私たちをぎょっとさせたほど、魔性的な性格を帯びていたのである! 
 そしてそのあと、彼女のピアノが祈りの鐘のような音型を繰り返しつつ、チェロとともにゆっくりと進んで行くのを聴きながら、私は何か深い深い世界の中に引き込まれて行くような、陶酔的な安息の快感を味わった・・・・。

 最後の「イタリア組曲」が、2人の闊達な演奏とともに終ったのが4時10分。そのあとアンコールが3曲ほど演奏されたそうだが、私はその前に失礼し、タクシーに飛び乗ってサントリーホールに向かう。

2016・11・22(火)ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン

       サントリーホール  7時

 「ザルツブルク・イースター音楽祭in JAPAN」の続き。クリスティアン・ティーレマン指揮するシュターツカペレ・ドレスデンによる「オーケストラ・プログラム」の第1回。
 ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」がプログラムに組まれた。

 「ピアノ協奏曲第2番」のソリストを務めたのは、キット・アームストロング。健康上の理由とかで来日が中止となったイェフィム・ブロンフマンの代役として、ティーレマン自身が抜擢したのだという。
 まだ24歳という若さだが、初々しいフレッシュな息吹を感じさせる有望株とお見受けした。やや細身で澄んだ音色を躍動させ、ぴんと張りつめた表情も随所に聞かせ、この作品の瑞々しさを充分に再現していたといえよう。
 音色や個性からいえば、シュターツカペレ・ドレスデンの重厚な音楽とは必ずしもマッチしないかもしれないが、この老舗のオケを相手に、爽やかに挑んだ若者の気魄は清々しい。ソロ・アンコールで弾いたバッハの「パルティータ第1番」の「メヌエット」も、若々しくて良い.。

 一方、ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンの演奏も、陰翳と多彩さが交錯する流石の快演で、特に第2楽章など、これほどオーケストラが変化に富んだ表情を聴かせた演奏は、滅多に聴けないものではなかったろうか。このコンチェルトがこれだけシンフォニックに━━ピアノ付きのシンフォニーのごときイメージで再現されたのも興味深く、ティーレマンのしたたかさを窺わせるものだったと言えるかもしれない。

 休憩後の「アルプス交響曲」は、これはもう、彼らの独壇場である。この曲を初演したのが他ならぬこのシュターツカペレ・ドレスデンだったということも、理屈では説明できない縁となってオケの音色に浸みついているのだろう。下手なオケが演奏すると何処かスカスカな音になることも多いこの描写音楽が、これほど緻密で厚みのある見事なポリフォニーとなって再現された例を、私はそう多くは知らない。

 ティーレマンは、予想外にストレートに、標題性をこれ見よがしに誇張せず、デュナミークの変化に重点をおく程度の劇的な強調を以って、シンフォニックにこの曲を構築して行った。
 だがそれでも、頂上での歓喜の場面、嵐の兆候が起こる個所、嵐のクライマックスなどで彼がオーケストラから引き出したドラマティックな昂揚は、凄まじいものがある。そして、日没の場面から夜にかけての終結個所で、オーケストラがその音色を明るさから次第に暗いものに変化させて行く移行の見事さも、卓越したものだった。

2016・11・21(月)ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団

      サントリーホール  7時

 サンフランシスコ交響楽団と、その音楽監督マイケル・ティルソン・トーマスが4年ぶりに来日。
 今回はブライト・シェンの「紅楼夢 序曲」、ショスタコーヴィチの「ピアノ協奏曲第1番」、マーラーの第1交響曲「巨人」というプログラムを持って来た。協奏曲でのピアノはユジャ・ワン、トランペットは楽団首席奏者マーク・イノウエ。

 開放的に鳴り渡る金管、艶と厚みに富んだ豊麗な弦━━まさにアメリカのオーケストラの良さである。
 ただ今日は、特に「巨人」で、これまでの彼らの来日公演には感じられなかったような、ラフな演奏も聞かれた。1968年のヨーゼフ・クリップス、75年の小澤征爾との来日を含むこのオケの来日公演で、こんなにアンサンブルの粗い演奏は聞いたことがない。特に管の一部に雑なソロが聞かれたり、バス―ン奏者が本番中に無遠慮な大きな咳をしたり、演奏者としてはあまり好ましからざるステージだったのは、前々日までの韓国や中国でのツアーで、オケの気が緩んでいたのだろうか?

 とはいえ、この「巨人」では━━そういう瑕疵を越えて、彼らの演奏にあふれるスケールの大きな力感は、怒涛の如く押し寄せて来た。全曲最後の頂点での豪壮さは見事で、青年マーラーがこの曲で力の限り迸らせた情熱は、充分に伝わって来ていたのである。客席は沸き返り、ティルソン・トーマスも最後には1人でステージに呼び出されていた。

 第1部でのブライト・シェンの「紅楼夢 序曲」は同響の委嘱作品で、これが日本初演とのこと。いわゆる「オリエンタル・エキゾチシズム」的な曲想の中にバルトークの「中国の不思議な役人」のパロディが織り込まれたような小品である。シェンの作品の中ではあまりシリアスなものとは言えぬようだが、今回のアジア・ツアーの土産に委嘱されたものなのだろうか。(追記 解説によれば、演奏会用序曲なる由)

 ショスタコーヴィチの協奏曲では、ユジャ・ワンが例の如く闊達な演奏を聴かせ、オーケストラの中に位置したトランペットのマーク・イノウエが「出過ぎずに」ソロを協演。これは、ユジャ・ワンを全面的に「立てた」演奏とでもいうか。
 ユジャ・ワンのトレードマークのような「すばやいお辞儀」は、4年前の11月の来日の際にはティルソン・トーマスが真似をしてみせたが、今回は彼だけでなくオケの楽員が全員いっせいに、彼女に合わせてピョコンと一礼するというシャレを披露、ホール内は爆笑に包まれた。こういうところも、アメリカのオーケストラならではである。

 ソロ・アンコールでは、彼女とマーク・イノウエが「Tea for Two」を軽快に演奏、さらに彼女は1人で「白鳥の湖」の「4羽の白鳥の踊り」を一風変わった編曲版で弾いた。彼女の演奏には、聴き手の気持を沸き立たせるものがある。

2016・11・20(日)ティーレマン指揮 
ワーグナー:「ラインの黄金」

      サントリーホール  4時

 サントリーホール主催「ザルツブルク・イースター音楽祭in JAPAN」の目玉的存在の演奏会。
 クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデンの演奏でワーグナーの全曲ものが聴けるとなれば、これはもう、上演形態の如何を問わず、逃せぬ大イベントである。

 今回の歌手は以下の通り━━ミヒャエル・フォレ(ヴォータン)、藤村実穂子(フリッカ)、クルト・シュトライト(ローゲ)、アルベルト・ドーメン(アルベリヒ)、ステファン・ミリング(ファーゾルト)、アイン・アンガー(ファーフナー)、クリスタ・マイヤー(エルダ)、ゲルハルト・ジーゲル(ミーメ)、アレハンドロ・マルコ=ブールメスター(ドンナー)、タンセル・アクゼイベク(フロー)、レギーネ・ハングラー(フライア)、クリスティアーネ・コール(ヴォークリンデ)、サブリナー・ケーゲル(ヴェルグンデ)、ジモーネ・シュレーダー(フロスヒルデ)。
 ラインの乙女たちの中に多少のばらつきはあったとしても、これだけ手堅い顔ぶれが揃ったことは見事な布陣といってよかろう。

 だが、やはり圧倒的な聴きものは、ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンの、確固たる伝統に裏打ちされた現代の明晰なワーグナー演奏であった。そして、特にその弦楽セクションの、陰翳と色彩とを併せ持った力感豊かな響きは、「ラインの黄金」という作品の中の、とかく等閑にされがちなシンフォニックな要素を鮮やかに浮き彫りにしてくれたのである。

 この見事な音楽上の成果に比べると、今回の舞台構成は、何とも薄手なものに堕していた、と言われても仕方あるまい。演出、衣装・照明はデニー・クリエフとクレジットされていたが、甚だセンスが悪い。
 ステージの奥からP席にかけて巨大な櫓を組み上げ、その上を歌手のスペースとしたのはいいとしても、奥に屏風のようなものを立てて山々のような絵図柄を描き、上手側と下手側には囲いを巡らせたのは、何だか掘建て小屋じみた光景だったし、二―ベルハイムの場でアルベリヒやミーメやヴォータンたちが無理な隅っこから出入りし、変な大蛇のようなものを囲いの中から上げ下げして見せたり、庭園の置物のようなカエルを出したりしたのは、どうみても学芸会じみた手法であった。

 サントリーホールの「ホール・オペラ」といえば、昔は結構巧い造りの舞台装置を出していたものだが、今回は、言っちゃ何だが、最もお粗末なレベルにあったとされても致し方なかろう。あれならいっそ、ストレートな演奏会形式でやってもらい、字幕ももっと見やすい位置で、観客の全員が愉しめるようにセットしてもらった方が、制作コストとしてもよほど得策だったのでは? 
 とにかく今日は、「音楽」が全てであった。

 書き忘れたが、終場面でフローが虹の橋を架ける時に、かなり立派な剣を携えていた。のちにヴォータンが息子ジークムントに与える、ヴェルズングの英雄の象徴ともなる霊剣ノートゥングの、あるいはこれがその前身なのか? あまり演出らしい演出でもなかったので、問題にするほどのことでもなかろうが、ワグネリアンとしては、こんなことも気になるのである。

2016・11・19(土)大野和士指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  7時

 定期演奏会Bシリーズ。フォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」とシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」を対比させ、その間にデュティユーの「ヴァイオリン協奏曲《夢の樹》」(ソリストは庄司紗矢香)を挟むという興味深いプログラミング。コンサートマスターは四方恭子。

 管弦楽による2つの「ペレアスとメリザンド」の聴き比べは、面白い。ただ、今日の大野&都響のフォーレの「ペレアス」の方は、充分に誠実で丁寧で優しい演奏ではあったが、いわゆる馥郁たる美しさとは少しく異質な、生真面目に整い過ぎたものだったかもしれない。

 一方、シェーンベルクの交響詩は、原作のどこをどう押せばこんなに猛々しく濃厚な音楽が出て来るのかと微苦笑させられるような作品だが、その重苦しく厚ぼったい強面の曲想なるがゆえに、ここでは大野と都響の良さもストレートに発揮されていたのではなかろうか。折々現われる叙情的な個所では、その演奏も豊かで柔らかい優しさを感じさせた。
 これは、先年のカンブルランと読響の洗練された色彩的な演奏、スダーンと東響の厳しい構築の演奏などに勝るとも劣らぬ快演だったことは確かだろう。とにかく、この2曲における都響の演奏のクオリティの高さは特筆すべきものだったと思われる。大野と都響の演奏の上での協同作業も軌道に乗ったようだ。

 デュティユーの「夢の樹」は、ナマではこれまで2回ほど聴いたことがあるが、やはりディスクで聴くよりもナマの音色の方が彼のオーケストラの音色の多彩さをより深く味わえる。
 8年ほど前に、パスカル・ヴェロが仙台フィルを指揮し、オリヴィエ・シャルリエがソロを弾いた時には、第3楽章のあのチューニングを真似する個所で、シャルリエが大芝居をして見せたのが面白かったけれども、今日の庄司紗矢香はそういう世俗的?なことはあまりやらない(日本人がそれをオーバーにやると、どうもわざとらしくなって、座りが悪くなるのだ)。しかし、彼女の演奏の生気に富んだ瑞々しさは、シャルリエとは全く違って、この曲の澄んだ叙情的な要素を見事に浮き彫りにしていたのだった。

2016・11・19(土)イザベル・カラヤンの一人芝居
「ショスタコーヴィチを見舞う死の乙女」

    サントリーホール ブルーローズ  5時

 サントリーホール主催の「ザルツブルク・イースター音楽祭in JAPAN」の一環として上演されたユニークなプログラム。
 「不安についてのコラージュ」という副題があり、ショスタコーヴィチを襲う「死の乙女」つまり「恐怖」を、1人の女優(イザベル・カラヤン)による台詞と演技、および音楽(ドレスデン弦楽四重奏団)の演奏とを組み合わせ、クラウス・オルトナーの演出で、80分以上にわたる物語として構成したものだ。

 物語とは言っても、使われるテキストは、フレーブニコフ、ハルムス、マヤコフスキーらソ連時代の悲劇の詩人たちによる作品や、ショスタコーヴィチの「ソビエト作曲家同盟における演説」などからコラージュしたもので、具体的なストーリー性はもっていない(これらは、解説によると、女優イザベル・カラヤン自身と、演出家・俳優のクラウス・オルトナーが共同で構築したものとのことだ)。

 だがそれらがイザベルの強烈な、憑かれたような演技と朗読で繰り広げられ、それにドレスデン弦楽四重奏団とヤッシャ・ネムツォフ(ピアノ)が演奏するショスタコーヴィチの「弦楽四重奏曲第8番」や「ピアノ五重奏曲」や「ピアノ三重奏曲第2番」などの断片が織り込まれて行くと、何とも壮烈で鬼気迫るモノ・ドラマとして立ち現れることになる。
 たとえば「黄金時代」のポルカの、暗い陽気さのアイロニーにあふれた音楽が、ドラマの終結を何と怖ろしく彩っていたことか。

 イザベル・カラヤンは、見れば見るほど御父上を彷彿とさせる顔立ちだが、以前(2012年)にサイトウ・キネン・フェスティバルで「火刑台上のジャンヌ・ダルク」(山田和樹指揮)に出演した時とは比較にならぬほどの凄味と、声の明晰さと、女優らしい演技と表情をもって、素晴らしい舞台を見せてくれた。これは多分、彼女の本領発揮の舞台であろう。

 ちなみにこのプロダクションは、ゴーリッシュ(ドイツ)でのショスタコーヴィチ音楽祭「国際ショスタコーヴィチの日inゴーリッシュ」(2010年創設)とザルツブルク音楽祭とで、2014年に上演され、今回が3度目の上演になるようである。非常に良い企画だった。今後も折に触れ、このような試みを続けて行っていただきたいものである。

 6時25分頃終演。そのまま同じホワイエで、今度は大ホールでの7時からの都響定期を聴く準備。客が両方聴けるように、終演時間と開演時間を巧くずらせてくれたのは本当に有難い。

2016・11・18(金)ウルフ・シルマーが語る
「ライプツィヒとワーグナー」

     あうるすぽっと  7時

 ライプツィヒ歌劇場の芸術総監督・指揮者のウルフ・シルマーが、日本ワーグナー協会の例会で「ライプツィヒとワーグナー」について語った。

 もちろん、彼が芸術総監督を務めるライプツィ歌劇場のPRをも兼ねてはいたのだが、ワーグナーとその出身地ライプツィヒの関係が意外に疎遠であったことについてなど、興味深い話もなかなか多かった。
 その「疎遠」なるものの要因は、1834年にワーグナーが最初の力作オペラ「妖精」をライプツィヒ歌劇場に持ち込んだところ無碍に断られたことに端を発し、20世紀半ば以降のウルブリヒト東独政権の方針がワーグナーの思想と相容れなかったことなどにも至るという。

 特に、ライプツィヒ歌劇場で1970年代前半にヨアヒム・ヘルツが演出した「ニーベルングの指環」が、あの画期的なパトリス・シェロー(現地でその舞台を観ていたという)のバイロイト演出に多大な影響を与えたほどの個性的な舞台であったという話は、ショッキングなものであった。
 だがその上演は、ウルブリヒト政権から批判を浴びたこともあって、国営テレビの映像はおろか、何一つ記録が残っていないのだそうである。

 ヨアヒム・ヘルツの演出といえば、ワーグナーの作品としては「さまよえるオランダ人」の映画版映像が残っているが、それは当時としては、実にユニークな解釈のものであったはずだ。
 その伝説的な名演出家による幻の「指環」━━想像を膨らませてくれたシルマーの講演。 
 蔵原順子さんの通訳が明晰そのものだったので、実に解り易かった。

2016・11・17(金)新国立劇場 プッチーニ:「ラ・ボエーム」

      新国立劇場オペラパレス  7時

 粟国淳演出のプロダクションで、2003年のプレミエ以来、これで5度目の上演になる。  
 自分の日記を見ると、2004年の上演を観たことになっているが、その割に舞台の記憶がはっきりしていない。今回観て、こういうものだったかと記憶を辿りつつ、結構まとまりのいい舞台だなとも思う。

 舞台美術がパスクワーレ・グロッシ、舞台監督が大仁田雅彦。
 幾分かは手直しされているのかもしれないが、カルチェ・ラタンの場面(第2幕)ではカフェなどの建物を移動させて群衆の動きとの対比を強調したり、アンフェール門(第3幕)では雪景色を美しく創ったりと、なかなか凝った舞台が構築されている。
 特にその第3幕では、ゼッフィレッリの演出と同様、恋人たちの別れの歌が最高潮に達した時に、いっとき降りやんでいた雪が再びしんしんと降り始める、といったような趣向が為されているあたり、なかなかいい。
 登場人物たちの演技が脇役に至るまでかなり細かくつくられているということは、12年前の日記にも書いている。

 唯一、今回気になったのは、第2幕の特に後半、人々の湧き立つ雰囲気が流れよく進まず、瞬時だが途切れ気味になる傾向があったこと。音楽の流れにも、僅かだがそういう感があった。
 新国立劇場の舞台では、どんなに盛り上がるはずの場面においても、どこか冷めた、燃え上がらぬ雰囲気が抜け切れぬ━━という、開館以来の伝統?が、ここでも作用しているようである。全く不思議な現象だ。

 今回の配役は、ロドルフォをジャンルカ・テッラノーヴァ、ミミをアウレリア・フローリアン、マルチェッロをファビオ・マリア・カピタヌッチ、ショナールを森口賢二、コッリーネを松位浩、ムゼッタを石橋栄美、ベノアを鹿野由之、アルチンドロを晴雅彦、パルピニョールを寺田宗永。新国立劇場合唱団とTOKYO FM少年合唱団、東京フィルハーモニー交響楽団、指揮がパオロ・アリヴァベーニ、という布陣である。

 歌手陣が実力派ぞろいというべきか、いずれも安定して手堅い出来を示していたのがいい。ただし、熱唱は大いに結構なのだが、みんな揃いも揃って怒鳴り過ぎというか、特に第2幕など、オレがオレがという勢いで大声を出していた感は免れぬようだ。石橋栄美も、客席で聴いていた私の同業者たちが「随分声量のある人ですね」と驚いていたほどで━━彼女は大阪で何度か聴いた時には、そんなに巨大な声の持主ではなかったような印象なのだが・・・・。
 その中で、ただ一人、ごく普通に歌っていたフローリアン(ミミ)だけが少し引っ込み気味に聞こえたのだが、まあこれは病身で薄命の女性という役柄の一つの表現だったのかもしれない。

 今回、私が感心したのは、指揮のアリヴァベーニという人だ。初めて聴いたが、ピットの中のオーケストラを空間的な拡がりのある音で響かせることの巧い人である。前述の第2幕での問題を別とすれば、プッチーニの音楽の独特の雰囲気をよく出してくれていた。こういう良い演奏をしてくれた東京フィルも、久しぶりに聴く。

 今回の字幕は文体も自然で、若者たちの会話らしい陽気さもあり、読みやすい。
 休憩は2回入ったので、終演は9時55分頃になった。

2016・11・16(水)プーランク:オペラ「人間の声」

       横浜みなとみらいホール 小ホール  7時

 「横浜音祭り2016」の一環、横浜みなとみらいホールの「小ホール・オペラシリーズⅡ」として上演されたプーランクのオペラ「人間の声」。
 ジャン・コクトー台本による、1人の女性が恋人と電話でやり取りする、例のモノ・オペラである。
 「女の電話の長話」を45分間も聴くオペラ━━といってはミもフタもないが、女性のさまざまな心理を表現して、たった独りで長時間を保たせるという、実は大変な難役だ。

 今回は、盛田麻央が歌うマチネー公演と、佐藤美枝子が歌うソワレ公演との二部制という珍しい形態が採られていた。
 私が聴いたのは夜の佐藤美枝子の方だが、見事な快演だった。フランス人の歌手が歌う時のような、どぎついヒステリー状態のような表現ではないけれども、可憐さ、いじらしさといったようなものはよく表現された歌唱で、それは日本人歌手がこのオペラを演じ歌う場合の一つのスタイルとして発言権を持つだろう。

 ピアノが服部容子、演出が中村敬一。衣装と簡略な舞台装置、照明も用意され、フランス語歌唱で、背景に字幕(盛田麻央)が映し出される。
 プログラムはこれ1曲だけだったので、8時には終演。

2016・11・15(火)平井秀明:オペラ「白狐」東京初演

      豊洲シビックセンターホール  7時

 東京メトロ豊洲駅前にある豊洲シビックセンターの5階にあるホール。300人収容の小奇麗なホールで、ガラス張りのホワイエにはもちろん、これもガラス張りの舞台背景にも高層ビルや高速道路など「大都会」の灯がいっぱいに拡がるという珍しい構造だ。
 シェードを閉じれば外景も遮断されるのだろうが、今日は全開されていた。なかなか良い雰囲気ではある。しかしあいにく、この都会の光景は、物語の内容とはマッチしないようだ。

 このオペラは、岡倉天心の原作に基づき、平井秀明が翻訳・台本化・作曲したもの。極めて耳当りのいい音楽である。3幕構成で、今回は衣装付きのセミ・ステージ形式上演。
 合唱(平井秀明オペラ合唱団、妙高白狐倶楽部合唱団)は黒服で奥に整列、舞台下手にピアノ、舞台手前にヴァイオリン、フルート、オーボエ、クラリネット各1の編成によるアンサンブルが配置され、その手前で平井秀明自身が指揮した。

 ソリストは菊池美奈(白狐コルハ、葛の葉)、猪村浩之(保名)、豊島雄一(悪右衛門)、村元彩夏(乙女、狐の妖精、巡礼の女)、大塚康祐(狩人、巡礼の男)、東由希子(ダンス=白狐)で、いずれも好演。但し、日本語歌唱の半分近くは、ピアノの音にマスクされ、歌詞が聴き取れなかったが。

2016・11・14(月)ワシリー・シナイスキー指揮新日本フィル

     サントリーホール  7時

 モスクワ・フィルやボリショイ劇場のシェフを歴任したワシリー・シナイスキーという指揮者には、失礼ながらこれまで私はあまり関心を持っていなかったのだが(20年以上前にモスクワで演奏会を二つばかり聴いた印象があまり良くなかったせいもある)、しかし今回新日本フィルを指揮したロシアの二つの交響曲の演奏は、たいへん気に入った。
 プログラムは、ショスタコーヴィチの「第9交響曲」と、チャイコフスキーの「第5交響曲」。

 アンサンブルは少し大らかだが、音の響かせ方は豊麗で大きく、リズムを際立たせるよりもむしろ滔々たる流れの力で音楽全体を押して行くような指揮━━とでも言ったらいいか。
 ショスタコーヴィチの「9番」では、この曲の演奏でしばしば浮き彫りにされる軽妙洒脱なアイロニー感よりも、むしろ重戦車が驀進するとでもいったような、力感に富んだ演奏となっていたのが面白い。

 一方チャイコフスキーの「5番」は、演奏時間がわずか40分(!)という快速テンポでありながら瑞々しさを失わず、しかも豊かなテンポ・ルバートを駆使、デュナミークにも大きな対比をもたせ、要所では金管を豪壮に咆哮させる。
 そういえば昔は、ロシアのベテラン指揮者たちはよくこういう演奏をしていた。とにかく不思議な懐かしさを覚えさせる、純正ロシア調(?)の雰囲気を感じさせたシナイスキーの指揮であった。第2楽章でのホルンのソロにヴィブラートがかけられていたのも、この世代のロシア人指揮者たちの好みだったはずである。

 彼の指揮に、新日本フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスターは豊嶋泰嗣)は、鮮やかに、柔軟に応えていた。このオーケストラは以前から、こういう一種のレトロタイプ(?)の指揮者が来ると、結構巧く合わせる習性があるようだ。

2016・11・13(日)モーツァルト:「後宮からの逃走」

     日生劇場  2時

 「NISSAY OPERA 2016」として上演されたもの。
 田尾下哲の演出、川瀬賢太郎指揮読売日本交響楽団の演奏に、配役(ダブルキャストのA組)はコンスタンツェを森谷真理、ベルモンテを鈴木准、ペドリッロを大槻孝志、ブロンデを鈴木玲奈、オスミンを志村文彦、太守セリムを宍戸開。合唱にはC・ヴィレッジシンガーズ(合唱指揮は御大・田中信昭!)。
 歌唱はドイツ語、台詞は日本語という上演形態。

 田尾下哲の演出は、基本的にはオリジナルに従っているが、非常に動きの激しいもので、長い歌の間にも絶えず舞台上で目まぐるしく何かが行なわれているという、ドイツの歌劇場などでは日常茶飯事のように行われているタイプのものである。
 例えば、脱出の機会を窺いつつアリアを歌うベルモンテは、トルコ兵士の巡察を逃れるため、間奏のたびごとに物陰に身を隠す。また、コンスタンツェのアリア「どんな拷問も」は、太守セリムとのレイプ寸前の激しいもみ合いの中で歌われる。

 私としては、いわゆる「アリアを客席に向いて両手を拡げて歌う」などというやり方は大嫌いなので、今回のようなやり方の方が好い。日本人歌手はこう言う手法に慣れないので嫌がるという話を聞いたことがあるが、最近はだいぶ変わって来たようだ。
 特に、あれだけ滅茶苦茶な姿勢で暴れ回りながらも全く歌唱にブレが感じられなかった森谷真理の体当り的熱演は高く評価されていいだろう。

 歌手陣。その森谷真理は、このところ活躍目覚ましいソプラノだが、どんな姿勢をとってもまっすぐ声が出るところなど、日本人歌手としては珍しい存在だろう。歌唱に冷たさと硬さが感じられることも多いので、温かい人間的な表情が加わるのを待ちたい。
 安定していたのは鈴木准。彼もこのところモーツァルトなどで活躍目覚ましい。大槻孝志も好演だ。

 志村文彦は芝居達者で馬力もあり、オスミンにはぴったりだが、オスミンの売りものの肝心な低音域が響かないのだけは惜しい。
 鈴木玲奈はチャーミングな舞台姿でブロンデ役には適しているが、聴かせどころのアリア(第8番)での高音のコロラトゥーラは全く未だしの段階だ。早いところ基礎を固めて欲しいところである。しかし拍手と歓声の大きさから、凄い人気があると見える。

 演劇畑から来た宍戸開のセリム太守役は、恰幅のよさで映えた。声もよく響いていたので安心した次第である━━なぜこんなことを言うかというと、ちょうど50年前の今頃、所も同じこの日生劇場でベルリン・ドイツオペラが「後宮からの逃走」を上演した際(あれは印象的だった!)、セリム役として当時の大名優クルト・ユルゲンスが特別に来日したのだが、声の質が歌手たちと全く異なり(当たり前だが)ちっとも響いて来ずにがっかりさせられたことがあり、以来「役者によるセリム」にはトラウマになってしまっていたからである。

 なお、今回の日本語台本は田尾下哲の補完によるもので、オリジナルにはないストーリーの伏線や背景の事情などが加えられていた。それは「無くても解るが、あればさらによく解る」という性質のものだろう。
 ついでながら、セリムがベルモンテの父親の「暴虐」のほかに、母親のホクロのことを語るくだりでは、台詞は何処か抜けていなかったのだろうか? あれでいいのだとすると、「序曲」のさなかに演じられていた「花嫁略奪」の伏線が、非常に解り難くなるのだが・・・・。
 また今回の日本語の台詞、歌手たちの一部に例の「歌うような発声」が聞かれたのが残念。これでは、せっかくのリアルな芝居がぶち壊されてしまう。

 さて、注目の川瀬賢太郎の指揮。小編成の読響を歯切れよく鋭く響かせて、いいところを聴かせてくれた。とはいえ、ちょっと力み返った演奏という印象が無くもない。
 また何故か、歌手とのテンポがずれてしまうことがやたら多かった。歌手が走り過ぎるケースで、特に「バッカス万歳」の個所など━━彼のテンポも遅すぎたのは事実だが━━どうなることかと思わせられるほどだったのである。このあたりは、やはり指揮者の統率力が問われるところだ。これからいっそう出番が多くなる人である。今後に期待をかけよう。
 終演は5時20分頃。
     音楽の友新年号 Concert Review

2016・11・12(土)ターネジ:「Hibiki」世界初演

     サントリーホール  6時

 サントリーホール開館30周年記念行事の一環。
 前半に、30年前の落成記念委嘱作品、芥川也寸志の「オルガンとオーケストラのための響」が演奏され、後半にこの30周年記念委嘱作品であるマーク=アンソニー・ターネジの「Hibiki」が演奏された。
 大野和士指揮東京都交響楽団に、前者ではオルガンの鈴木優人が、後者では東京少年少女合唱隊とミヒャエラ・カウネ(ソプラノ)および藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)が協演。

 芥川作品は、私は30年前の初演の際には聴いていなかったので、今回が初めての体験だったが、オルガンのパートもオーケストラのパートも、随分荒々しく攻撃的な曲想にあふれているものだと驚く。当時のプログラム冊子に彼が「いささか“祝祭”的な意味から遠くなってしまった」と書いている(今回のブックレットに再録)のは、それを指しているのだろうか。

 発音上ではそれと同じタイトルを持つ今回のターネジの新作も、「祝祭」というよりは、現代の世界の苦悩を織り込んだ要素の多い作品である。演奏時間約46分、全7曲からなる構成のうち、第1曲「Iwate」と第5曲「Suntory Dance」にこそ(少しは)明るいイメージも込められているけれども、そのような曲想はこの2曲だけ。

 第2曲「Miyagi」には地震と津波による激動のイメージが織り込まれているし、第3曲「Hashitte Iru」にいたっては、宗左近が東京大空襲の際に逃げる途中で母の手を放してしまったことの苦悩を詠んだ「炎える母」の一節が引用され歌われるという、身の毛のよだつような内容をもっている。
 第4曲「Kira Kira Hikaru」では「きらきら星」の和訳歌詞が児童合唱により歌われるが、その曲の最後にオーケストラがあたかも希望を持つように上昇した瞬間、それが突然、無情なほどにスパッと断ち切られるくだりなど、ターネジはまるで、夢や救いなどこの世にあり得ない、と突き放しているようにさえ感じられる。

 第6曲「On the Water’s Surface」は、近松門左衛門の「曽根崎心中」の「道行」、つまり何と心中の「あはれ」である。そして最後の第7曲の題名は「Fukushima」で、合唱と2人のソリストがこの単語を繰り返し歌って行くという内容になる。━━ああ、日本について何か書くとなると、結局やはり話を「フクシマ」へ持って来るのかよ、という、やりきれない思いが、曲を聴いているあいだじゅう、胸の中で渦を巻く。

 煎じ詰めれば、この曲の核となっているのは、日本の苦悩のイメージである。プログラム冊子に掲載されているターネジ自身の解説には、「開館30周年を記念する作品を書いて欲しいと・・・・東日本大震災から5年に当る年でもあるとのこと・・・・お祝いと追憶を兼ねた作品を書くのは至難・・・・」とある。結果としては追憶の方に重点が置かれたようだが、祝祭の記念委嘱作だからといって陽気な曲でなくてはならぬという謂れはないのだし、いつか再演されることがあっても、その時には記念委嘱の但し書などはどこかへ消えてしまっているであろうから、これでもいいのかもしれない。
 ただし微苦笑させられるのは、「サントリー」という言葉が、ついに現代音楽の題名(第5曲)にまでなった、ということ。

 音楽の方は、ターネジのことだから、特に過激なことはやっていない。ごく穏健で、耳当りの好い音だ。このような精緻な大曲をたった一度聴いただけで云々するのは、私ごときが烏滸がましい限りでもあるから、これ以上は言うのを避ける。ただ、そのわりに曲の構築が実に明晰に聴き取れたのは、大野和士と都響の優れた演奏によるところが大きいだろう。
 しかも、アンコールとしてその「サントリー・ダンス」がもう一度演奏された時には、そこでの音楽構築はいっそう明解なものに聞こえ、また都響の演奏も卓越した美しいものになっていたのである。

 声楽も見事。合唱団も美しく歌ったが、ソロにこの2人の女声歌手を迎えたのも、成功の一因であったろう。特に藤村の深々としたアルトの声は、曲に濃い陰翳を与えていたのだった。

2016・11・11(金)広上淳一指揮広島交響楽団

      広島文化学園HBGホール  6時45分

 広上淳一が広島交響楽団に久しぶりの客演。
 前半に伊福部昭の「ラウダ・コンチェルタータ」、後半にワーグナー3曲━━「ローエングリン」第1幕前奏曲、「タンホイザー」の「序曲とバッカナール」、「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」。個性的なプログラミングだ。広響のコンサートマスターは佐久間聡一。

 伊福部昭の「ラウダ・コンチェルタータ」は、さすがに見事な演奏だった。
 彼の作品をいくつか録音で残している広上は、意外にもこの曲を指揮するのは今回が初めてだったとのことだが、「持って行き方」の巧さは相変わらずで、最後の頂点ではライヴならではの熱狂的な昂揚に導いて行った。

 今回はソリストに、パリ国際マリンバ・コンクール優勝(2006年)をはじめ内外に活躍著しい気鋭の塚越慎子を迎えていたが、オーケストラのリズミカルでエネルギッシュな力感のオスティナートの上に彼女が繰り広げるダイナミックで輝かしいソロは、この曲を単調さから解放し、いっそう躍動的にしていた。その快い演奏に聴衆が沸いたのも当然であろう。
 彼女はソロ・アンコールで、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」をささやくような弱音で弾いたが、これも良かった。

 伊福部のあとにワーグナー・・・・というプログラム構成も面白いが、そのワーグナー3曲の選び方もちょっと風変わりで、全て最弱音で終る作品が並べられていた。
 しかもその演奏スタイルがまたユニークで━━広上のワーグナーというのはこれまであまり聞いた記憶がないのだが、とにかく今日の演奏は、例えればアンチ・ワグネリズムとでもいうか・・・・。

 「ローエングリン」第1幕前奏曲では、伊福部作品の冒頭でも聴かれた広響の弦の清涼な澄んだ音色が響き始めたが、素っ気ないほどに直線的で矯めのない構築で、聖杯世界の神秘性も法悦感も、すべて削ぎ落とされている。
 「タンホイザー」序曲冒頭でのトロンボーンの「巡礼の合唱」を彩るヴァイオリンの16分音符の下行音の、何と正確で割り切ったリズムか。また、「ヴェヌスブルクの世界」の場面での弦の刻みや金管が、あまりにも明晰な生々しさで演奏されたのにも、肝をつぶした。
 これは、いわゆる「ワーグナーの夜と霧」といった「魔性的なもの」を根こそぎ排除した演奏だろう。

 だがこれを悪いと言っているのではない。最近はこういうワーグナー演奏をする指揮者も欧州にも多いのだ。ただ、独墺系のオーケストラの場合にはもう少し分厚い巨大感が出るが、日本のオケの場合にはそれが内側に凝縮した響きになりやすい、という違いがあるだろう。そういう趨勢のこんにち、この演奏をワーグナー的でないといって非難するつもりは毛頭ない。

 しかし、たった一つ、こればかりは━━「バッカナール」の終り近く、遠くから響くはずのシレーヌの歌声(エリザベト音楽大学の女声合唱)をステージ下手側の花道に配置したのは、その歌声がオーケストラよりも客席に近い場所で響くことになり、ここの音楽が本来持つ茫漠たる夢幻性が全く失われる結果になるので、全く賛意を表しかねる。
 ましてや、「ヴェヌスブルクの音楽」が頂点に達した瞬間に合唱団員がぞろぞろと入場し、指揮者も客席の中に出て来るというやり方に至っては、何をかいわんや、である。

 これはもうアンチ・ワグネリズムも極まれりといったところだが、ところがその広上と広響の演奏が、最後の「トリスタンとイゾルデ」に入ると、みるみる変わって行ったのだ。
 特に「愛の死」では━━矯めを排したイン・テンポは変わらないとしても━━緻密なオーケストレーションが織りなす音に、一種の官能的な感覚が生まれて来て、まさに「トリスタン」の世界そのものと化したのだった。広上と広響の演奏が、ダイナミックな素っ気なさや荒々しさから離れて、真に精妙で緻密なものになったのは、この「愛の死」においてだったのである。

 これは、この「トリスタン」の音楽が持つ不思議な魔力にもよるのだろう。
 譬えて言うなら、ワーグナーの「毒」など飲まぬと誓った指揮者が、最後には結局その毒に呑まれてしまうといったような流れだろうか。「トリスタン」の音楽の魔性、恐るべし、である。
 広響はこの日、終始、張りのある演奏を繰り広げていたが、この「トリスタン」での、特に「愛の死」における演奏は、卓越して見事なものであった。終り良ければ、すべて善し。
 アンコールは景気のいい「ローエングリン」第3幕前奏曲。広上は、これを原曲通りに「結婚行進曲」の4小節目まで演奏し、その最後の音を引き延ばして終るという、ワグネリアンをニヤリとさせるやり方で締め括った。

 なお、カーテンコールの際に、楽員たちが客席に向ける顔の表情が明るく、笑顔が多いことも、広響の良さだろう。これは、会場の雰囲気を明るくするのに役立っている。
 ついでに言うと、場内アナウンスを担当していた女性は内海雅子さんというフリーの人だとのことだが、これほどマニュアル的な口調でなく温かい、あたかもDJのように柔らかく語りかけるようなアナウンスをする人を、これまでこういった会場で聞いたことがない。日本の他のホールでも、こういう語り口調の場内アナウンスがもっと広く行われれば、客席の雰囲気も随分違って来るだろう。
    →モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

 以下は付録である。
 アンコールの前にマエストロ広上が聴衆に向かってスピーチを行い、広響の演奏水準の素晴らしさを讃えるとともに、カープの優勝をも祝していた。広響については私も異存はなく、また今年は日本シリーズで「滅多に優勝できない」カープを勝たせてやりたかったと思った人間のひとりなので、ここでお付き合いして、余興にカープについての、古い、古い話を━━。

 昭和25年、2リーグ分裂時に結成されたこのチームの名称が最初は「広島カープス」と発表されていたことを、私もはっきり覚えている。しばらく日が経ってから、「カープ」は単複同形だと誰かが指摘したので、現在のように変更(?)されたのだった。こんな出来事は、いかにも戦後間もない時期ならではのものだろう。

 もう一つ、これは当時人気のあった野球専門月刊誌「野球界」に出ていた感動的な話である。著者はたしか大和球士氏ではなかったかと思う。
 春に大阪でプロ野球の特別大会が開催されることになったが、財政難に喘ぐカープでは、選手を大阪まで送るだけの汽車賃さえなかった。そこで選手たちは、大阪まで歩いて行こうという決意を固めた。
 ところがこのことが新聞に出ると、市民からあっという間に寄付が集まった(昔も今も、広島市民の情熱は変わらぬようである)。

 いよいよ大阪への出発の当日、広島駅は選手を見送る市民たちで埋め尽くされた。当時の中心的選手・白石勝巳(のち監督)は、見知らぬ老女から車窓越しに、「白石さん、あたしは野球のこと、何にも解らないけど、とにかく行けて良かったなあ。これを持って行きなさい」(オリジナルはもちろん広島弁)と、新聞紙の包みを手渡されたという。
 「おばあちゃん、何だか知らんが、もらっとくな、ありがとう」とそのまま受け取った白石は、そのまま慌ただしさに紛れていた。だが発車後、しばらくしてその新聞紙の包みのことを思い出し、何気なく開けてみた。すると中には、竹の皮に包まれて三つ、大きな握り飯が入っていた。白石は泣いた。
 ━━昭和20年代半ばの話である。広島ならではの、温かい話だ。

2016・11・10(木)デイヴィッド・ジンマン指揮NHK交響楽団

     サントリーホール  7時

 B定期。モーツァルトの「クラリネット協奏曲」(ソリストはマルティン・フレスト)と、グレツキの「交響曲第3番《悲歌のシンフォニー》」(ソプラノ・ソロはヨアンナ・コショウスカ)が演奏された。コンサートマスターは篠崎史紀。

 「クラリネット協奏曲」は、ジンマンとN響の極度の流麗かつ淡彩な演奏のためか、フレストの方も、いつものダイナミックな流動性を発揮するには至らなかったような気がしないでもない。
 ただその代わり、彼がソロ・アンコールとして、オケのチェロの通奏低音的な助けを借りつつ、吹奏に自らの声を組み合わせて演奏した「ネイチャー・ボーイ」という小品が、いかにもフレストの面目躍如で、たいへん面白かった。
 この曲、エデン・アベスという人の作曲で、ナット・キング・コールの歌がオリジナルだということも、私はあとでネットで調べて初めて知ったような次第だが、これがこの日の演奏の中でいちばん刺激的だったような気がする。

 グレツキの「悲歌のシンフォニー」は、20年以上前に日本でも爆発的な人気のあった曲だ。放送でももてはやされ、ナマでも演奏され、猫も杓子もヘンリク・ミコワイ・グレツキ・・・・という調子だったので、私など、それほどの曲でもなかろうに━━などと天邪鬼ぶりを発揮して、あまり聞かなくなってしまったほどである。

 とにかく、超遅テンポのホーリー・ミニマリズムの癒し系音楽とやらであれほど人気を得ながら、その後トンと聴かれなくなってしまったこの曲だが━━今回は、1993年のこの曲の大ヒットに寄与した当の指揮者ジンマン氏の客演とあって、なんとN響がわざわざ定期で取り上げることになったか。
 久しぶりでじっくりと聴かせていただいたが、やはり、何故あれほどヒットしたのか首をひねらされるような曲ではある。しかし、中で歌われる詞は、蜂起で犠牲になった我が子を悲しむという極度に悲痛な内容だ。歌唱のコショウスカが好演。

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