2019-11

2019・11・11(月)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 桂冠指揮者エリアフ・インバルの指揮する今回の一連の演奏会は、全てロシアの作品でプログラムが組まれている。その第1弾たるこのA定期は、チャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》」。都響のコンサートマスターは矢部達哉。

 先日のブロムシュテットと同様、インバルも指揮のエネルギーは相変わらず旺盛だ。インバルの方が9歳も若いのだから当然かもしれないが、それにしても83歳の高齢でこれだけオーケストラを厳しく構築して制御できるのは、やはり見事と言わなければならない。
 もっとも、先頃彼が日本で指揮したベルリン・コンツェルトハウス管と違い、高齢の名演奏家には絶対的な敬意を払う日本のオーケストラであるがゆえに、このようながっしりとした演奏を以って応えることができる、といった見方もあるだろう。

 「1905年」では、インバルは第1楽章冒頭から強いテンションに溢れた指揮で開始した。弦も最弱音というよりは、むしろ強めの「p」で非常に明確に奏される。
 従ってこの楽章は、多くの指揮者が採るような、悲劇の前の神秘的な静寂を描く、という表現でなく、既に一触即発の緊張感が宮殿前広場一帯に立ち込めている━━とでもいった雰囲気になって行くのだ。

 彼の指揮が持つこの勢いが交響曲全体を支配するため、銃撃の悲劇から哀悼の歌へ、未来への闘いへの昂揚━━と進む流れが、一つの緊迫に満ちたバランス感の中に統一される結果を生んだとも言えよう。インバルは極めて切れのいい、シャープなリズムで、曲をたたみ込んで行った。
 ただ、それはいいのだが、このホールのアコースティックの所為もあって、怒号絶叫の個所におけるオーケストラの音色は些か混濁気味になっていた、という印象も拭えまい。

 「フランチェスカ・ダ・リミニ」でも、インバルの指揮はほぼ同じ傾向を示していた。だが、チャイコフスキーの作品の中で、必ずしも優れた作品とは言い難いこの曲の場合には、それがインバルのような真正面から取り組んで厳しく構築するタイプの指揮に応えられるものかどうか、ちょっと難しいところがあろう。

2019・11・10(日)沼尻竜典指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 モーツァルトの「2(3)台のピアノのための協奏曲へ長調K.242《ロドロン》」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第11番《1905年》」が、沼尻竜典の客演指揮で演奏された。コンサートマスターは水谷晃。

 協奏曲を弾いたのは、ユッセン兄弟という不思議な2人。兄のルーカスは26歳、弟のアルトゥールは23歳、一見双子かとも思えるようなよく似た青年同士。ステージでの動きも躍動的で、あまりクラシック系の音楽家のように見えぬところが面白いが、演奏そのものは、特に新しいスタイルを創り出すといった段階には未だ至っていないようだ。

 もう少し、はじけた何かが出て来ればユニークな個性が備わるのではないかと思うが━━ゆえに今日はアンコールで弾いたイゴール・ロマ(ピアニスト)の編曲になる「シンフォニア40」とかいう、モーツァルトの「交響曲第40番」の第1楽章をモティーフにした素っ頓狂なデュオ曲の方が余程面白く、こういうポップな音楽の方に彼らの良さが出て来るのかな、とも思いながら聴いていた。

 後半は、ショスタコーヴィチの交響曲「1905年」。
 とかく流れが曖昧になりかねない第1楽章で、沼尻が極めて明確な形式性を創り出していたのには感心。ただ、東響の金管に不安定な個所が2つばかりあったおかげで、気分的に水をさされたような感も否めなかったし、また終楽章のコール・アングレの歌の部分ももう少ししっとりした哀悼感が出せなかったかとも思う。

 しかし、そういう細かいところは別として、全体としては東響も壮大な響きを出していたのは確かだ。銃撃戦の場面は、あまり凄愴ではなかったものの、音響的な迫力は充分だった。「同志は倒れぬ」の歌も美しい。そして終楽章の大詰では、沼尻も東響も、凄まじいほどの圧倒的な頂点を築いて行った。
 最後の1小節では、全管弦楽を停止させた後にも、2階席のオルガンの横の上手側に配置された鐘(チューブラー・ベル)の余韻を長く長く響かせて曲を結んでいたが、これはスコアの指定にはないものの、極めて秀逸な手法であった。

2019・11・8(金)シフのベートーヴェン協奏曲ツイクルス

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 今年66歳になるアンドラーシュ・シフ、素晴らしい円熟ぶりだ。
 今回は、自ら編成した室内オーケストラ、カペラ・アンドレア・バルカとともに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲のツィクルスを2日連続で開催。その2日目のプログラムは、「第1番ハ長調」と、「第5番変ホ長調《皇帝》」。

 特に緩徐楽章でのシフの演奏の表情の多彩ぶりは、本当に驚くべきものだった。そこではまるでベートーヴェンが寛ぎ、朗らかに笑い、瞑想し、振り返って私たちに微笑みかけるかのよう。
 たとえば「第1番」の第2楽章で、第67小節から音楽が活気づき、少しリズミカルな曲想になる個所だが、そこではシフの演奏は、突然、思ってもみなかったほど解放的になり、愉しげに飛び跳ねるような、陽気な表情に変わって行ったのだ。

 私はそこでほんの一瞬だが、ベートーヴェンの「第3ピアノ協奏曲」の初演の際にその譜めくりを頼まれたザイフリートが書き残している一文を思い出してしまった━━そこには、「ほとんどが空白か、わけの解らぬ象形文字ばかりが記された譜面を見て自分が慌てふためいていた様子を、公演後の夜食の時にベートーヴェンが面白がって皆に話し、腹をかかえて大笑いしていた」という光景が報告されているのである。

 こんなふうに、曲のあちこちにベートーヴェンの顔が見える、というような演奏に出合うことは、滅多にない体験ではなかろうか。

 至福の演奏が終ったあとで、シフとオーケストラは、前日のプログラムに含まれていた「第4ピアノ協奏曲」から、第2楽章と第3楽章を再び演奏した。更にそのあとにもシフは、オーケストラを板付きにしたまま、「ソナタ第24番」を2つの楽章とも全部演奏してくれた。私としては、聴き逃した前日の「4番」を一部ではあったが取り返したようなものだったから、大いに気を良くした次第である。しかもその「4番」の演奏の、何と深みがあって、しかも堂々たる風格を感じさせたこと! 
 協演のカペラ・アンドレア・バルカは小編成ながらも、重厚で剛直で揺るぎなく、大編成のオーケストラをさえ凌ぐ威容を示していた。

 ちなみに前日のアンコールには、「皇帝」の第2楽章と第3楽章、それに「葬送ソナタ」の第3・4楽章が演奏された由。翌日のメイン・プロたる「皇帝」を前日にアンコールで(抜粋ながら)演奏するという想定外の出来事には、皆びっくりしたそうだ。従って、今日は何をやってくれるかなということが、開演前からすでにロビーで話題になっていた。

2019・11・7(木)ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団

      サントリーホール  7時

 ベートーヴェンの「英雄交響曲」、R・シュトラウスの「死と変容」、ワーグナーの「タンホイザー」序曲━━という演奏順によるプログラム。

 昔はこのように大シンフォニーを冒頭に持って来るプログラミングが多かったようだが、近年ではまず稀なものだろう。伝え聞くところによれば、今日のプログラムは、昔アルトゥール・ニキシュがやったものの再現だとか。
 それはそれで面白い趣向だが、聴く側としては━━といっても私だけの問題なのかもしれないが━━最初の「英雄交響曲」があまりに偉大に感じられて、それに精神を集中し過ぎたせいか、不思議なことながら、最後の序曲あたりになると、何となくこちらの気持に疲れが出て来てしまい・・・・。

 しかし、指揮するブロムシュテットのほうは━━1927年生れで、92歳の誕生日を既に過ぎた人だというのに、相変わらず驚異的に元気だ。3曲とも立ったまま、暗譜で明快に指揮し、オーケストラから鋭い力感を引き出し続ける。
 全体にテンポは速めで、緊張度にも些かの緩みがない。「英雄」の第1楽章など、その「アレグロ・コン・ブリオ」という指定が、ただテンポのみを意味しているのではなく、闘争的で強靭な意志力を漲らせた音楽であることをも要求しているのだ━━ということを改めて認識させてくれる、そういう演奏なのだった。
 コンサートマスターは篠崎史紀。

2019・11・6(水)オロスコ=エストラーダ指揮ウィーン・フィル

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストはイェフィム・ブロンフマン)と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。
 ウィーン・フィルのロシア・プログラムなど、日本ではなかなか聴けないだろう。2004年にゲルギエフが指揮した時には、チャイコフスキーの「5番」「悲愴」などが取り上げられたことがあるが━━ましてこのオケの「春の祭典」など、それこそナマでは滅多に・・・・。

 指揮はアンドレス・オロスコ=エストラーダ。コロンビア出身の42歳の若手で、現在フランクフルト放送響の首席指揮者。4年前に同響とともに来日したことがある。来年秋からはウィーン響の首席指揮者に迎えられる予定とか。

 彼とウィーン・フィルの組み合わせにも興味があったが、流石に相手がウィーン・フィルとなると、彼もそうそう思う通りにオケを振り回すわけにも行かぬようである。「春の祭典」ではほぼイン・テンポで演奏していたが、それ以外に方法はなかったのだろう。良く言えば、豊かな重低音を基盤として、滔々たる巨河の如き音楽を構築して行ったということになるか。
 豪壮雄大で激烈な「春の祭典」ではあったが、必ずしも凶暴で刺激的な音楽ではなく、それは20世紀初頭に音楽界を震撼させた作品というよりは、今や古典的名作となったというイメージを私たちに抱かせる類の演奏であったろう。

 もちろん、重戦車の如き進軍ではあったものの、リズム感は充分で、ティンパニの歯切れのいい響きもいい。「選ばれし乙女への賛美」での煽るようなリズムなどは久しぶりに聴く小気味よさだった。金管群は強烈で、しばしば弦楽器群を覆い尽くしたが、その弦がたまに表面に現れ出た時には、それがウィーン・フィルらしい一種の甘美な艶のようなものを感じさせるのが面白い。

 オーケストラのアンコールはヨゼフ・シュトラウスの「憂いもなく」━━弦楽器奏者たちが大声で「ハ、ハ、ハ」と笑うあれである━━で、今回はティンパニの一撃に合わせて指揮者が聴衆に手拍子を一発ずつやらせるテを使っていた。
 知人によれば、昨夜指揮したティーレマンもこの曲を取り上げたというが、彼はそういうことはしなかったそうな。もっとも、あのティーレマンが笑みを浮かべて客席に手拍子を求めたりしたら、それこそ不気味だろう。

 プログラムの前半は前述の通りラフマニノフ。この「3番」をブロンフマンが弾いたのを12年前にザルツブルク・イースター音楽祭で聴いたことがある(協演はラトルとベルリン・フィル)が、その時の怒涛の演奏に比べ、随分落ち着いた表現になってしまっていたのには驚いた。この人、どういうわけか私は演奏会で聴く機会が多いけれども、正直言って、あまり感動したことはないのである。
 なお彼はアンコールにショパンの「ノクターン 作品27の2」を弾いたが、これは骨太なマッチョが優しい声で語るような、実に不思議なショパンだった。

2019・11・4(月)ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団

      サントリーホール  4時

 日本ツアーの2日目、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」とマーラーの「交響曲第5番」という組み合わせで、全4回の日本公演のうち、このプログラムは今日だけの由。

 音楽監督就任以来8シーズン目に入ったネゼ=セガンは、すでにこのオーケストラと一体化しているようだ。
 今日の、特にマーラーの「5番」では、奇を衒うことのないストレートな指揮の裡に、名門フィラデルフィア管弦楽団を自在に制御する━━というよりもむしろ、指揮者の考える音楽を充分に主張しながらも、オーケストラに伸び伸びと演奏させる、といった境地を実現しているように感じられるのである。

 フィラデルフィア管弦楽団のブリリアントな響きも健在だ。「5番」の第1楽章では、いくつかのソロ楽器の3連音符に少々無頓着な演奏も聞かれたものの、アンサンブルの音の均衡は前回来日の頃よりもずっと安定している。
 ともあれこれは、神経質な葛藤や自己矛盾などの複雑な心理表現といったものを一切排除した、いかにも屈託ない、壮麗無比な音の大洪水といった印象のマーラーであった。だが、豪華な音響的快感という点では、申し分ない演奏だったことは確かである。

 協奏曲を弾いたジョージア(グルジア)出身のリサ・バティアシュヴィリは、洗練された透明感と、率直な叙情と、若々しい躍動とを兼ね備えた演奏で、魅力的な人だ。一方のオーケストラの方は━━この曲になると、途端に昔のオーマンディ時代以来の「フィラデルフィア・サウンドによるチャイコフスキー」が蘇って来るから不思議である。その美音は全く見事なもので、良くも悪くも個性的だ。

2019・11・3(日)田尾下哲演出の「カルメン」

    愛知県芸術劇場 大ホール  2時

 「愛知芸文フェス」の一環、「グランドオペラ共同制作」として愛知県芸術劇場、神奈川県民ホール、札幌文化芸術劇場、東京二期会、名古屋フィル、神奈川フィル、札響が制作に名を連ねたビゼーの「カルメン」。既に10月の横浜での2回の上演を終り、今日が名古屋公演の2日目である(札幌は来年1月になる)。

 今日の指揮は、横浜公演と同じジャン・レイサム=ケーニック。オーケストラは名古屋フィル(コンサートマスターは後藤龍伸)、合唱は二期会合唱団と愛知県芸術劇場合唱団、名古屋少年少女合唱団。
 ダブルキャストの今日は、アグンダ・クラエワ(カルメン)、城宏憲(ドン・ホセ)、与那城敬(エスカミーリョ)、嘉目真木子(ミカエラ)、青木エマ(フラスキータ)、富岡明子(メルセデス)、桝貴志(モラレス)、大塚博章(スニガ)、加藤宏隆(ダンカイロ)、村上公太(レメンダード)という顔ぶれ。

 今回の「カルメン」の最大の特徴は、田尾下哲による、日本のオペラの演出には稀なほどの思い切った読み替え演出にあるだろう。
 読み替えとはいっても、ドイツ各地やロンドンあたりでよくやられているような、「何が何だか解らない」という「謎解きタイプ」の舞台ではない。METでマイケル・メイヤーが「リゴレット」をラスヴェガスでの事件として描き出したような、理解の容易なスタイルによるものだ。
 アルコア版楽譜が使用されていたが、台詞は大幅にカットされ、時には演出に合わせて変更されていた。歌詞は変更なしだが、字幕(田尾下自身による)表示に於いては多少の調整があったようである。

 今回作られたドラマは、ト書き上のスペインの煙草工場、リリアス・パスチャの酒場、山中、闘牛場の前━━という各設定を大幅に変更し、アメリカのショー・ビジネスの世界としている(と、演出家は書いている)。

 第1幕はクラブで、オーディション風景から開始されるという奇抜なアイディア。映画「コーラス・ライン」さながら、舞台上の「five,six,seven,eight!」の声に続いて「前奏曲」が始まり、それに合わせてダンスのオーディションが繰り広げられる冒頭にはニヤリとさせられるが、カルメンやミカエラが、オーディションを受けに来た「ミュージカル女優の卵」だという設定は、辻褄が合うだろう。

 第2幕「ブロードウェイ劇場」では、スターとなったカルメンが歌い踊る「ジプシーの踊り」や、人気の大スター、エスカミーリョが歌う「闘牛士の歌」が、観客を前にしてのショウ・ナンバーとして扱われ、以降は「客が帰ったあとの話」になるという設定には「やられた」という感。
 暗黒街と繋がる悪徳警官スニガを銃で脅して退散させたと思ったら、今度は警官隊が逆襲して来てカルメンたちが追い出されるというのは少々ややこしいが、それが第3幕の、一同が落ちぶれて、寂れたサーカス一座にいるという設定に繋がるようだ。
 そこでもオーディションが行なわれ、ミカエラがホセに会うため応募者に化けて一座に潜入し、見事なアリアで一同を感心させてしまう設定も気が利いているだろう。

 第4幕がいきなりアカデミー賞授賞式の劇場前になるのはあまりピンと来ないけれども、とにかくカルメンはエスカミーリョと共演する大スターとなっているらしい。テレビカメラ・クルーやレポーターを登場させる手法はペーター・コンヴィチュニーがウィーン国立歌劇場で演出した「ドン・カルロス」でもおなじみだが、このあたりの演技が実に細かく出来ていたのには感心した。
 そしてカルメンが殺されたあとに「劇場」から出て来たエスカミーリョが既に他の女性を同伴している様子に女性レポーターが唖然とする光景などがあって、ドラマが終る。

 ありとあらゆる要素を詰め込んだ芝居である。狙いはよく出来ているだろう。ただ、私の印象では、4つの幕の関連性は、必ずしも演出意図通りに理解できるとは言い難い。一種のオムニバス形式のドラマのように見えなくもないのだ。
 だが、メイヤーの「リゴレット」でさえも、第1幕以降はコンセプトが尻つぼみになっていた傾向なしとしなかったくらいだ。この「カルメン」も、未だ札幌上演が残っている。それまでにもう一工夫があれば。

 この演劇的な「カルメン」の舞台にあって、歌手陣も演技の面でも頑張っていた。カルメン役のクラエワは未だ真面目なオペラ歌手という雰囲気が残っていて、多少ぎこちないところも見られたようだ。
 なお、容姿抜群のダンサーがいきなり歌い出したのにはびっくりしたが、これはフラスキータ役の青木エマだった。この人は舞台映えする。

 しかし、最も感心させられたのは、合唱団である。歌唱もいいが、演技が素晴らしく上手く、主役たちの動きに対しても実に細かく反応する演技を見せてくれる。日本のオペラの合唱団は、近年目ざましいものがある。
 特に女声合唱団員は、演技もダンスも見事なものだ。ダンサーが大勢交じっているのかと思ったくらいだが、クレジットされている本職の踊り手は、たった6人だった。それに子供たちの演技も細かくて可愛い。配役表には「助演者」が載っていなかったので、そうするとレポーターもカメラクルーも野次馬も全て合唱団員がやっていたことになるのだろうが、それにしても巧かった。

 あえて不満を申し立てるとすれば、指揮者とオーケストラだ。この演劇調の「カルメン」なら、演奏には、もっと活気に富む、切れのいい、沸き立つような雰囲気が必要である。遺憾ながらケーニックの指揮は、どうも生真面目すぎる。
 また名古屋フィルも、何故か今日は、これまでステージ演奏で聴いていたのとは、まるで別のオケのようだった。響きは薄く、ソロにもまさかと驚かされるような頼りないところが二つ三つあったし。

 しかしともあれ、日本のオペラ上演におけるスタンダード・オペラへの新アプローチとしての試みとしては、これは非常に有意義なものがあったことは疑いない。
 残念だったのは、それほどの力作にもかかわらず観客の数があまりに寂しかったこと。入りは3分の1くらいだったか? 事前のPR活動をもっとやっておいたら、もう少し何とかなったのではないかと思うが━━横浜(神奈川県民ホール)では事前講座や入門用サンプル上演など、「関連企画」をかなり活発に開催していたし、札幌でも若干の開催予定があると聞くが、名古屋公演分に関しては、どうだったのか? 

 休憩2回を含め、終演は5時15分。

2019・11・2(土)ボレイコ指揮ワルシャワ国立フィルハーモニック

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 日本・ポーランド国交樹立100周年記念行事の一環として、ワルシャワ国立フィルハーモニックが、芸術監督アンドレイ・ボレイコとともに来日して演奏━━というのが建前らしく、プログラム冊子の表紙やクレジットもオケが主役になっている。

 ところが実際の演奏会では、オーケストラの曲目はスタニスワフ・モニューシコ(1819~72)の歌劇「パリア」序曲という小品1曲だけしかなく、メインは人気のラファウ・ブレハッチ(2005年ショパン国際コンクール優勝)をソリストとしたショパンの「ピアノ協奏曲第2番」と「同第1番」(演奏順)というプログラムになっていて、しかもアンコールは彼の弾くショパンの「マズルカ 作品24の1」のみだった。これではどう見ても主役はブレハッチで、ワルシャワ国立フィルは単に「伴奏者として来日」のイメージと化してしまったようなものだ。

 ワルシャワ国立フィルだけでは地味過ぎて客が来ないと見て、客寄せにブレハッチを加えたというわけなのだろうが、結局オーケストラの方は「庇を貸して母屋を盗られる」の類で、今回も気の毒な役回りになってしまっていた。
 今回もというのは、日本ではこのワルシャワ国立フィルは、概してショパン・コンクール入賞者の演奏会の伴奏として来るオケだ━━というイメージで見られる傾向があるからである。

 従ってここでは、せめてこのワルシャワ国立フィルに、さすがポーランドの楽団らしく、たとえば「協奏曲第2番」の第3楽章においてもマズルカ風のリズムを明確にメリハリ豊かに響かせ、スコアの指定「アレグロ・ヴィヴァーチェ」に相応しい活力をあふれさせて、そのあたりが日本のオケが演奏するのとは天と地ほどの差があって面白い━━とでも賛辞を述べておこうか。

 もちろん、ブレハッチのソロも清楚で率直な良さを出していたことは言うまでもなく、特に彼がアンコールで弾いたマズルカの豊かな詩的な美しさは言葉に尽くし難いものがあった。

2019・11・1(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

     サントリーホール  7時

 「ラザレフが刻むロシアの魂」シリーズの一環で、今月定期はグラズノフの「交響曲第6番」と、ストラヴィンスキーの「火の鳥」全曲。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 グラズノフという作曲家は、私には以前からどうも相性が悪い。「四季」の「秋」の冒頭部分だけは、子供の頃にニュース映画だかニュース番組だかのテーマ音楽でよく聴いたから、何となくノスタルジー的な親しみがあるのだが、その他の曲については、仕事上の付き合いにのみ限られているのが正直なところだ。しかし、世の中にはやはりグラズノフを愛する人も多いようで、今日の爆演のあとでもブラヴォーの声が少なからず飛んでいた。

 後半は「火の鳥」。
 このオリジナル版には、リムスキー=コルサコフにも師事したことがあるストラヴィンスキーの「ロシア色」が色濃く如実に刻まれていて、格別の面白さがある。4管編成の大管弦楽だが、今日のラザレフは予想外に音量を抑制して、グラズノフの交響曲よりもむしろ控えめな表現を採っていたのが意外であった。しかし、日本フィルから多様な色彩に富む響きを引き出す点では、ラザレフの手腕は、相変わらず鮮やかだ。

 今回はステージに近い2階席下手側と上手側とオルガン下にトランペットを配置し、「夜明け」の個所でそれらを3方から呼応させるという手法が採られていたが、短い音型だし、華麗なフォルティッシモでもないので、折角の趣向もさほど効果が上がらなかったのではないか。またラザレフは、冒頭から驚くほど速いテンポで発進、「戯れる王女たち」の部分では軽やかな推進力で飛ばすなど魅力的な表情も見せつつ、演奏時間も40分ほどに納めてしまった。

 ただ、演奏全体の密度の濃さから言えば、今日はグラズノフの交響曲の方に分があったようにも感じられたのだが━━。

2019・10・31(木)ブラック・ダイク・バンド

     東京芸術劇場コンサートホール 7時

 「東京芸術劇場presentsブラスウィーク2019」の一環、英国の超弩級ブラス・アンサンブルたるブラック・ダイク・バンドの演奏会。
 2016年の来日が26年ぶり、というわりには、その後2017年、そして今年、という具合に、来日頻度が俄然繁くなった。

 今回もニコラス・チャイルズ(音楽監督・首席指揮者)の指揮で、ピーター・グレイアム他の作品を豊麗かつ華麗に演奏。
 個々の奏者の技量が優れているのはもちろんだが、それ以上にハーモニーの完全無欠なバランスに舌を巻く。特に弱音における中低音の柔らかく膨らみのある、深々としたハーモニーは、得も言われぬ美しさだ。原曲・編曲も含めて、オーケストレーションの巧みさも特筆すべきだろう。

 そういった意味でも、ボルトンが編曲したロドリーゴの「アランフェス協奏曲」第2楽章など、よくぞこれだけ深みのあるハーモニーをつくり出したものだと、感に堪えない。
 ただし今日の会場は、速いテンポの華やかな曲と、ソリストの華麗な妙技とに、ブラヴォーと熱烈な拍手が集中していたような印象であった。

2019・10・28(月)セミョン・ビシュコフ指揮チェコ・フィル「わが祖国」

      サントリーホール  7時

 昨秋、音楽監督・首席指揮者に就任したばかりのセミョン・ビシュコフが指揮。
 11日間に8公演、スメタナとチャイコフスキーの作品を核に、ドヴォルジャークは1曲(新世界交響曲)1回のみ。今日はスメタナの連作交響詩「わが祖国」だ。チェロは上手側だが、コントラバスはステージ奥に並び、ハープ2台は上手側と下手側に分けて配置されるというステージである。

 今回の「わが祖国」は、全6曲、休憩なしの演奏。
 随分前にこのような6曲ぶっ続けの演奏を聴いてヘトヘトになったことがあり、その話をラドミル・エリシュカにしたら、「そりゃそうでしょう、お察ししますよ」と笑われた思い出がある。だが今日は、さすがチェコ・フィルの醸し出す魔力のおかげというべきか、全く疲れを感じなかったのは事実であった。

 ただし、ビシュコフ指揮のその演奏だが━━これはもう、私などがこの半世紀以上レコードで、あるいはナマで聴き続けて来たチェコ・フィルとは、良くも悪くも、ガラリと違う。
 弦楽器群の音色にだけは昔ながらの美しさと温かさを留めてはいるものの、その他の面では、かつての素朴で瑞々しい陰翳も失われ、恐ろしく華美になった。あのしなやかな叙情は何処へ行ったのだろう? 

 もちろんこれは、あくまでも新・首席指揮者ビシュコフとの演奏における特徴であることを頭に入れておく必要があるだろう。だがそれにしても、今日のチェコ・フィルの音は、何とも鋭くて甲高い。オーディオ的に言えば「ハイ上がり」の、つまり「高音域が強調され過ぎた」音響なのである。ピッコロが異様に突出して響きわたるのにも辟易させられた。 
 ━━ということでこれは、正直なところ私の好みにはあまり合わぬ演奏の「わが祖国」だったと言わざるを得ぬ。

 ビシュコフのテンポは、ここではかなり遅い方だろう。演奏時間も通常より延びて、80分程度になっていたはずだ。「ヴィシェフラド」や、「ターボル」冒頭での遅いテンポの個所も、緊迫感を保てるぎりぎりの線まで強調されていた。そして「ブラニーク」大詰の昂揚の部分でも、ビシュコフは熱狂的にテンポを速めるということはせず、不動のテンポで、しかも音楽に仁王のような力感を漲らせつつ曲を閉じて行った。

 奇しくも今日、10月28日は、チェコスロヴァキア独立記念日にあたる。客席1階の一角には、チェコ大使館関係の人々だとか聞いたが、一団の人々がカーテンコールの際に起立して小さな国旗を振っていた。
 「わが祖国」━━これほどその記念日に相応しい音楽はあるまい。こういう音楽を持った国民は幸せだ。

2019・10・26(土)「放蕩息子」と「ジャミレ」

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 「東京芸術劇場コンサートオペラ」の第7回で、佐藤正浩指揮ザ・オペラ・バンドと国立音楽大学合唱団が出演。
 前半にドビュッシーのカンタータ「放蕩息子」が浜田理恵、ヴィタリ・ユシュマノフ、宮里直樹の歌で演奏され、後半にはビゼーのオペラ「ジャミレ」が、鳥木弥生、樋口達哉、岡昭宏の歌により演奏会形式で取り上げられた。

 「ジャミレ」とは、また珍しい作品を紹介してくれたものである。私もビゼーのオペラの中で、有名な「カルメン」と「真珠採り」の他には「美しきパースの女」と「イワン雷帝」を聴いたことがあるが、この「ジャミレ」は初めて聴く作品だった。彼の完成されたオペラとしては「カルメン」に先立つもので、もちろんこれが日本初演だろう。

 ジャミレというのは、ヒロインの女奴隷のことである。物語の内容からしてドラマティックな激しさなどといった要素はなく、むしろ色彩的で流麗な音楽が基調になっている。こうして彼のオペラを複数聴き比べてみると、「カルメン」という作品が、いろいろな意味で、如何に彼のオペラの中で特異性を放っているものであるかが分かるというものだ。

 歌手陣は、近年絶好調の樋口達哉が今日も小気味よいパワーで気を吐き、若い岡昭宏も楽しみな快演を聴かせてくれた。鳥木弥生は先日の新国立劇場の「エフゲニー・オネーギン」でのオリガの時と同様、濃いヴィブラートが気になるのだが、このヒロイン役を一癖ある女性として表現していた。

 前半の「放蕩息子」も好演だったが、浜田理恵の母親リア役が見事な貫録で突出して目立っていた、という感。フランスものでは定評ある人だが、今なお健在なのは嬉しい。

 佐藤正浩の指揮は、ドビュッシーでは清楚な透明感を表出し、ビゼーでは甘美な世界を描いて、今回も見事な出来だった。

2019・10・25(金)青葉区オペラを楽しむ会 講演

     藤が丘地区センター  3時30分

 私も「オペラ講座」の講演を早稲田大学の成人向け講座をはじめ、年中あちこちでやっているが、コンサートではないのでこの日記には特に取り上げないで来ていた。だが今日の講演会については、すこぶる感銘を受けたので、例外的に記しておきたい。

 感銘を受けたのはもちろん自分自身の講演についてではなく、この「楽しむ会」の会員の皆さんに対してである。
 周知のごとく、今日はこの田園都市線の沿線地区も朝から豪雨、とりわけ午後3時前後には猛烈な強風を伴っての土砂降りで、私も藤が丘駅から会場までの200mほどの距離を歩いて靴の中までぐしょ濡れになるほど。これではお客さんもとても集まるまい、幹事スタッフ以外にはせいぜい5~6人が見えればいいところだろう、と予想していたのだが、いざ開始時刻になってみると、何と40人くらいの会員さんたちが席に座っていたのである。

 髙いチケット代を払ってのオペラ公演でもなく、大アーティストの演奏会でもないのに、こんな大暴風雨を衝いて私の講座を聴きに来て下さるとは、驚くほかはなかった。感動するとともに、オペラに関心のある方たちが━━潜在的にという意味も含めて━━今いかに多いかということを垣間見たような気がしたのであった。

 ちなみにこの会は、会員数150人を数えるのだそうで、オペラ講座を毎月━━つまり年に12回、それも各2回制で━━何人かの講師により開催している。恐るべし、である。何とも心強いことではありませんか。

2019・10・24(木)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団

      サントリーホール  7時

 5シーズン連続の客演━━となると、もはや首席客演指揮者と呼ばれてもいいほどだろう。ただしN響にはそのような名称のポストは無い。いずれにせよ、N響との相性のすこぶる良いソヒエフだ。

 今月のB定期は、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」から「鬼火のメヌエット」と「ラコッツィ行進曲」、ビゼーの「交響曲第1番」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」から「ロメオひとり~キャピュレット家の舞踏会」「愛の場面」「マブ女王のスケルツォ」という曲順。
 コンサートマスターは篠崎史紀。

 「鬼火のメヌエット」冒頭での木管のアンサンブルの絶妙さにはさすがN響と舌を巻いたが、今夜の演奏の中で最も印象的だったのは、「愛の場面」の後半、「愛の主題」が最後にもう一度昂揚しつつ姿を現すくだりだ。
 幅広く歌う弦楽器群と、それらを彩る木管群の豊麗さもさることながら、その中で内声部のホルン群のシンコペーションが音楽全体を波打つように揺らして行くその効果の見事さには、はっとさせられたほどである。

 それはもちろんベルリオーズの管弦楽法の巧みさゆえではあるけれど、ソヒエフの卓越した音感覚あればこそ、初めてこのような響きがオーケストラから引き出されたと言えるだろう。

2019・10・21(月)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 東京フィルハーモニー交響楽団を、特別客演指揮者ミハイル・プレトニョフが指揮。ビゼーの「交響曲第1番」と、リストの「ファウスト交響曲」をプログラムに乗せた。
 協演は新国立劇場合唱団とイルカー・アルカユーリック(テノール)。コンサートマスターは依田真宣。

 「折角の逸話もあまり長くかかるので聴手が一人減り二人減って、残るは藝術に忠実なる東風君と、長い事にかつて辟易した事のない迷亭先生のみとなる」とは「吾輩は猫である」の、寒月君が「ヷイオリン」の話をする場面の一節だが、「ファウスト交響曲」を聴いている時、何故かそのくだりが頭に浮かんでしまった。
 もちろん、今日の満席に近いサントリーホールでは、誰も途中で帰ったわけではない。だが、━━魅力的な個所はいくつもあるにもかかわらず、やはり長い曲だ、としみじみ感じたのが今日の「ファウスト交響曲」である。

 他の指揮者は大体70分前後で収めるのに、プレトニョフは非常にゆっくりしたテンポを採り、じっくりと間を取って指揮したので、今日の演奏時間は80分になった。それでも、マーラーの「3番」や「6番」などに比べれば、ずっと短い、たかだか(?)80分だ。それがこんなに長く感じられたのは、その演奏の所為もあるだろうが、それよりもむしろ、やはり作曲者の責任━━曲の構造によるところが大きいのではなかろうか。ただし、こういう曲には、得てして、熱烈なファンが付いているものだ。

 演奏は、悪くなかった。いや、見事だった、と言ってもいい。
 最近のプレトニョフならではの、重く深味のある情感、輝きと陰翳がゆっくりと交替しつつ進むような演奏の構築が、この曲のスケールの大きさを感じさせてくれたのも確かである。アンサンブルを過剰に締めつけず、ある程度自由な膨らみのあるサウンドでオーケストラを響かせて行く、その呼吸も巧い。

 ファウストの主題の一つ、トランペットを中心にした「英雄的な性格」も常に輝かしく響いていたし━━これは私も最初にこの曲を聞いた時から好きだった━━、「グレートヒェン」の楽章も弦が美しかった。
 全曲の終結部で、曲の「きっかけ」にピタリと合わせて入場して来た合唱団も、荘厳な歌唱の表情で演奏を引き締めていた。
 この10年来、この曲をナマで聴いたのは、下野竜也指揮読響(2011年1月22日)、小泉和裕指揮東京都響(同6月20日)、ユベール・スダーン指揮東京響(2012年7月21日)に続く4度目になるが、それらとはまた全く個性の違う「ファウスト交響曲」に出合うことができて、大いに興味深かった次第である。

 プログラム前半に演奏されたビゼーの交響曲の方は、・・・・こういう軽妙洒脱な作品の場合、日本のオーケストラの場合、緩やかなアンサンブルはむしろ逆効果では? もしかしたら練習時間の大半をリストのそれに充ててしまっていたのではないか、とも。

2019・10・19(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      サントリーホール  2時

 日本フィルハーモニー交響楽団が、首席指揮者ピエタリ・インキネンとともに、ベートーヴェン・ツィクルスを開始。ただしプログラムはドヴォルジャークのオペラ「アルミダ」序曲、「ピアノ協奏曲第4番」(ソロはアレクセイ・ヴォロディン)、「英雄交響曲」という選曲になっていた。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 ドヴォルジャークのこの曲を加えたのは、インキネンがプラハ響の首席指揮者を兼任し、この作曲家を取り上げることにも力を入れているからだそうな。通常のツィクルスとは異なり、ベートーヴェンだけでやって行くという形ではないらしい。
 ━━この序曲を聴いたのは、私は実は初めてだ。トランペットにヤナーチェクの先駆のような使い方が聞かれるなどという、興味深い部分もあったものの、言っちゃ何だが、必ずしも印象に残る作品というものでもない。

 「英雄交響曲」は弦14型編成による演奏だが、コントラバスは7本を揃えており、低弦を充分に鳴らして、重厚な響きをつくり出していた。贅肉のない、明晰ですっきりしたスタイルながら、骨太で豊かな音をも備えたベートーヴェンである。インキネンが、スタンダードな編成規模を持つ日本フィルとの共同作業に際し、殊更にピリオド楽器的なアプローチを採らず、もちろん豊満壮大主義のサウンドなどを求めず、このように中庸を得た解釈を採ったのは、賢明な選択と思われる。

 第1楽章は、声部の交錯、均衡、音の緊迫感などの面などを総合して、ほぼ完璧に近い出来といってもよかったであろう。ただ、なぜか第2楽章と第3楽章では緊張感も、音の濃密さもやや希薄になったような感がないでもなかったのだが━━第4楽章途中からは盛り返して、若々しい勢いを以って全曲を結んで行った。
 1番フルートと1番オーボエも快調だったし、また3本のホルンは、明確で鋭角的な、ややピリオド楽器的な吹き方で、第2楽章【D】のあとの6小節以降の有名な個所(ここは3本で吹いていた)や、第3楽章のトリオ、第4楽章ポーコ・アンダンテのクライマックス【F】などで気を吐いていた。

 たっぷりした音でありながら、各パートが明晰さを保っていたこと━━特にチェロ・セクションはいい━━は嬉しい。
 ただ一つ、こうした音づくりの中で、いつもとは違う奏者が叩いていたティンパニだけには、大きな疑問が残る。今回は、太いドスンという音の、敢えて言えば旧式なスタイルの叩き方で、特に強く叩かれた時のEs音は、オーケストラ全体の音色を鈍らせ、濁らせた。これは、少なくともインキネンがふだん構築する清澄な音色とは全く異質なものである。万が一、これがインキネンの指示だったのなら、彼には些か疑問を呈さなければならないが・・・・。

 協奏曲を弾いたヴォロディンの演奏は透明な美しさがあり、インキネンのベートーヴェンとはイメージが合う。アンコールでのシューマンの「献呈」の音の綺麗さには驚嘆させられた。

2019・10・17(木)クリスチャン・ツィメルマンのブラームス

       サントリーホール  7時

 今回は彼のソロ・リサイタルではなく、ブラームスの室内楽━━ピアノ四重奏曲。
 前半に「第3番ハ短調」、後半に「第2番イ長調」というプログラムで、ヴァイオリンのマリシャ・ノヴァク(ポーランド祝祭管弦楽団コンサートマスター)、ヴィオラのカタジナ・ブドニク、チェロの岡本侑也が協演した。

 悪い方の話は先に・・・・今日は1階席17列真ん中あたりで聴いていたのだが、アンサンブルとしての響きのバランスがどうも腑に落ちないところがある。
 2階席で聴いていた知人は、ふわりとまとまったアンサンブルに感じられた、と言っていたけれども、私がいた1階席からは、ツィメルマンの気品に満ちて落ち着いた、透明な美しい音色のピアノがやや遠くに押しやられた感があり、代わりにヴァイオリンとヴィオラが強い自己主張と情熱(良く言えば、だが)に燃えて勢いよく鳴りわたる(鳴り過ぎる)というように聞こえてならなかったのである。

 そうなると、チェロがもっと強く出てもいいのではないかと思えるのだが、岡本のほうはかなり控えめに弾く。しかし、いったん彼が美しい、品のいいチェロで前面に出て来た時には、そのほうがむしろツィメルマンのそれと近いようにさえ感じられたのだった。

 それはそれとして、「3番」が始まった瞬間、まさにブラームスだな、と至福の境地に誘い込まれる。「ピストルを頭に向けた人」(ブラームス自身が手紙に書いたという)などというイメージを連想する心境にはとてもならないけれど、その渋さは独特の魅力だ。とりわけ、今日の演奏における最弱音は幽遠な、深沈たる秘めやかな世界そのもの。
 それをじっくり受け止めるには、このサントリーホールの空間はあまりに大きすぎる気がしないでもないが。

 プログラム後半の「2番」では、落ち着きの中にも闊達さを覗かせるブラームスの姿が現われ、気持の上での寛ぎを恵んでくれた。

2019・10・15(火)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 先週の見事な「バビ・ヤール」に続く今日の定期では、テミルカーノフは、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」と、チャイコフスキーの「第5交響曲」を指揮した。コンサートマスターは日下紗矢子。

 シベリウスの協奏曲のソリストはエマニュエル・チェクナヴォリアンという1995年ウィーン生まれの若手。あのアルメニアの指揮者ロリス・チェクナヴォリアン(ヤン?)の子息の由である。
 ロリスはダイナミックな、情熱的な音楽をつくる指揮者だという記憶があるのだが、このエマニュエルは父と違い、正反対に、極めて柔らかくあたたかい音色と表情で、ゆったりとした思索的なシベリウスをつくる。

 だが、━━もしかしたらこの極度に遅いテンポは、テミルカーノフのテンポではなかったろうか。24歳の若者が、こんなに沈潜したシベリウスをつくるわけはあるまい。テミルカーノフは、以前に読響で何人かのソリストと協演した際にも、いくらソリストが走り出そうとしても許さず意に介さず、悠々と流れる大河の如き不動のテンポで押し切ってしまう癖があったからだ。

 いずれにせよエマニュエルはよくそのテンポを守り切って、深味のある堂々たる演奏を聴かせてくれた。そして読響は翳りのある見事な音色で、頗る豪壮雄大にそのオーケストラ・パートを響かせた。特に第2楽章(アダージョ・ディ・モルト)での深々とした情感にあふれる演奏は、絶品、圧巻だったと申し上げよう。

 後半はチャイコフスキーの「5番」。第1楽章序奏でスコアの指定「アンダンテ」を遥かに下回るアダージョのテンポによる沈潜の演奏をつくったテミルカーノフは、第4楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェに至るや、ロシアの指揮者がよく採る猛速テンポよりは少し遅いテンポで、しかし熱狂的にオーケストラを終結へ駆り立てた。
 国内オケでも一、二を争う読響の馬力は、相変わらず物凄かった。弦の豊かな響きも強い印象を残す。

2019・10・14(月)クリスティ指揮レザール・フロリサン「メサイア」

       東京オペラシティ コンサートホール  3時

 台風19号の災害に遭われた方たちに、心からお見舞いを申し上げる。

 この台風により交通が途絶したため、12日(土)のホリガーと名古屋フィルの演奏会には行けなかった━━演奏会も中止になっていた。前日の公演は行なわれたというが、その日は某所でのオペラ講座講演のため最初から行ける予定はなかった。ホリガーの「国内4オケ4部作」を、札響、大フィル、シティ・フィルと聴いて来たのに、最後の一つが聴けなかったことは痛恨の極みである。13日(日)の川崎でのマチネー、「ノットと東京響」は、公演は行なわれたが、こちらが些か体調不良で行く能わず。

 ・・・・台風は12日の夜9時に東京に、という予報だったが、恐ろしく時間が正確で、拙宅のある世田谷では8時45分から突如、正真正銘の猛烈な風が荒れ狂い始めた。それはともかくとしても、気圧の変化の所為なのだろうか、そのあたりから突然、飛行機に乗った時に起こるような、耳が詰まるような、あるいはスポンと抜けるような症状が起こり、その上、頭が重くなったような感じに陥ったのには驚いた。いくら低気圧の襲来でも、こんなことが起こるのだろうか? お医者さんが居られたら、お教え願いたいところだ。

 その所為で何となくフラフラし、思わしくなかった体調がいっぺんに回復してしまったのが、実はこのウィリアム・クリスティ指揮のレザール・フロリサンが演奏するヘンデルの「メサイア」を聴いているさなかだったのである。
 第2部の「ハレルヤ・コーラス」の終結近く、音楽がみるみる昂揚して行き、「Halleluyah!」が繰り返されるくだりで、クリスティが大きなアッチェルランドをかけて行った時、その熱狂性に改めて舌を巻いたが、そのあたりから、あれほど思わしくなかった気分がいつの間にか吹き飛んでいたのに気づいたのだった。音楽療法を地で行ったようなものだろう。

 彼らの演奏による「メサイア」は以前にも日本公演できいたことがあり、それは実にあたたかい演奏だったという記憶がある。今回も同様だが、スケールの大きさという点では今回の方が勝っていたのではなかろうか。
 ヒロ・クロサキをリーダーとするオーケストラの楽員の数およそ30名、合唱は24名という小編成でありながら、彼らが響かせる演奏の力感と質感は、70人の大オーケストラと合唱に匹敵するだろう。

 また、「ラッパが鳴り響く」を経て、二重唱、合唱、ソプラノのアリアから最後の大合唱へと音楽が激しく力を増し、濃密さを加え、ついに陶酔的な高揚の「アーメン」に達するあたり、ヘンデルの音楽のつくりが見事なのは事実であるにしても、それが精神的なドラマの完結といったものを意識させ、キリスト教徒でない者にさえ法悦の極致ともいうべき圧倒的な感銘を与えるまでに高められていたのは、やはりクリスティの卓越した指揮のみがなし得た偉業ゆえではなかったろうか。

 ソプラノはキャスリーン・ワトソン、エマニュエル・デ・ネグリ、アルトがティム・ミート、テノールがジェイムズ・ウェイ、バスがパドライク・ローワン。

2019・10・10(木)野田秀樹演出「Q」 松たか子、竹中直人他

      東京芸術劇場プレイハウス  6時30分

 「Q」とは何だかよく分からないのだが、ロックのクイーンの演奏を効果音楽として使っていることに関係があるのかも。
 そういうことをあまり詳しく説明しないのが演劇の世界であるらしい。(それに比べると翻ってクラシック音楽の世界は、善し悪しは別として、何とまあ、由来だとか経緯だとか、内容に関する事細かな説明・解説がなければ済まぬジャンルであることか。もっとも、そのおかげで私たちごとき業者も恩恵を蒙っているわけだけれど━━)。

 それはともかく、このお芝居、ちょっと長いが(15分の休憩1回を含み10時頃終演)面白い。
 話の基は「ロミオとジュリエット」だが、これを日本の源氏と平家の対立時代に持ち込み、ついでにシベリヤ抑留のイメージも盛り込んでいるのが特徴。
 平清盛(竹中直人)の息子が瑯壬生=ろうみお(上川隆也)、源頼朝(橋本さとし)の妹が愁里愛=じゅりえ(松たか子)、自由な瑯壬生と愁里愛がそれぞれ志尊淳と広瀬すず━━といった具合で、もちろん野田秀樹自身も狂言回し的な「源の乳母」として大暴れする。

 野田秀樹得意の言葉の遊び、語呂合わせ、駄洒落なども随所に散りばめられ、テンポの速いコミカルな舞台が展開するという芝居である。
 もっとも結末は悲劇的で、赦免された仲間を乗せた舟が遠ざかるのを瑯壬生(上川隆也)が、鬼界が島の俊寛そっくり、「おーい」と悲しげに叫びつつ見送るシーン(これは冒頭でも出る)も印象的だ。ここでは、シベリヤの野に寂しく果てるロミオ、ということか。
 平清盛と平の凡太郎の2役を演じる竹中直人の怪人ぶりは,、流石のもの。

 このあと、大阪と北九州でも興行の予定で、ほぼ2カ月にわたる公演の由。

2019・10・9(水)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 昨年11月のサンクトペテルブルク・フィル日本公演の際には健康を損ねて来日できなかったテミルカーノフだが、今回は元気で顔を見せてくれたのは何よりだった。

 今回は、昨年2月以来の読響客演である。その最初の演奏会は、ハイドンの「交響曲第94番《驚愕⦆》と、ショスタコーヴィチの「交響曲第13番《バビ・ヤール》」というプログラム。後者での協演はバスのピョートル・ミグノフと新国立劇場合唱団(指揮・冨平恭平)。コンサートマスターは日下紗矢子。

 弦の編成を大きくし、かつ明晰なリズム感を以って演奏した「驚愕」もちろん良かったけれど、やはり圧巻は「バビ・ヤール」だ。
 テミルカーノフの指揮は昔と違い、あまり音楽の表情を過多にせず、むしろ率直に音楽を構築して行く手法だが、この曲にあふれる暗黒的な物凄さを充分すぎるほどに表出していたと思う。読響も陰翳に富んだ厚みのある音を響かせ、特に低弦群の不気味な表情は印象的だった。

 たった一つ、第2楽章(ユーモア)での極度に速いテンポが、剛直なリズムや音楽の細部を曖昧にしてしまい、ちょっと雑な印象を生んでしまっていたことを除けば、テミルカーノフと読響がこれまで演奏して来たショスタコーヴィチの「第7番」や「第10番」に勝るとも劣らぬ快演だったと言ってよかろう。
 ソリストのピョートル・リグノフ(サンクトペテルブルク音楽院卒、ボリショイ劇場などで活躍)は、あまり重くない、暗くない声だが、力のある声だった。新国立劇場合唱団も強靭な歌を聞かせてくれていた。日本語字幕(一柳富美子訳)がついていたのも有難い。

 ショスタコーヴィチが詩人エフトシェンコの詩により、ロシアのユダヤ人問題に関して公然と国家体制に牙を剝いた交響曲━━それを原典版による見事な演奏で聴けたことは嬉しい。

2019・10・7(月)マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 最初にシューマンの「交響曲第4番ニ短調」を1841年の初稿版で。第2部ではチャイコフスキーの「悲愴交響曲」を演奏。
 選曲もさることながら、指揮がミンコフスキとあらば、どんな演奏になるかと興味を呼ぶ。コンサートマスターは矢部達哉。

 初稿版の「4番」は予想通り、所謂ロマン派的な色合いを一切取り去った分析的(?)な演奏という印象だ。この残響の少ないホールではそれがいっそう強調され、まさに裸形のシューマンといった感になる。こうした演奏で聴くと、やはり改訂版の「4番」はうまく出来ているなあ、という感がますます強くなってしまう。

 「悲愴」も、所謂「チャイコフスキー節」も、「慟哭的な悲愴美」も、ほとんど感じられない演奏である。もっともその辺は、聴き手の好みと感じ方にも依って変わるかもしれない。いずれにせよ、チャイコフスキーの交響曲をこのような形で見直すことは、ある意味では面白い。ただ、作品自体がそのようなアプローチを受け入れるかどうかは、また別の問題だろう。

 ミンコフスキその人は、大変な人気だ。

2019・10・6(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団 「グレの歌」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 ミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年を記念しての「グレの歌」。

 今年3月のカンブルランと読響、4月の大野と都響のそれが各1回の公演だったのに対し、このノットと東京響が2回公演だったのは、主宰がミューザ川崎だったからこそであろう。2日目の今日は満席とは行かなかったが、それでも一応見劣りしない程度の客を集めていたことは、当節大したものだという気がする。

 今日の声楽陣は、トルステン・ケール(ヴァルデマール)、ドロテア・レッシュマン(トーヴェ)、オッカ・フォン・デア・ダムラウ(山鳩)、アルベルト・ドーメン(農夫)、ノルベルト・エルンスト(道化師クラウス)、トーマス・アレン(語り手)、東響コーラス(指揮・冨平恭平)。コンサートマスターは水谷晃。

 歌手陣についていえば、今回もすこぶる豪華な顔ぶれが揃っていたと思う。
 特にヴァルデマール役のトルステン・ケールは、読響公演でのロバート・ディーン・スミスや都響公演でのクリスティアン・フォイクトに比べ、ヘルデン・テノールとしての性格がいっそう強力なので、役に相応しい。ただし声が聞こえにくいのは、これは彼の所為ではなく、作曲者のオーケストレーション━━管弦楽編成の音色と大音量━━に問題があるからで、歌手には何とも気の毒というほかはない。

 女声歌手2人は文句なしの表現力であり、レッシュマンの巧さ、デア・ダムラウのパワーは、いずれも見事なものであった。農夫役にドーメンとは随分贅沢なものだったが、彼も些かトシを取ったな、という感はあるだろう。
 しかし同じ「齢を取ったな」でも、トーマス・アレンの貫録と巧味は流石で、歌は歌わないのに最後を独りで決めてしまった、という雰囲気である。

 ステージいっぱいに、ぎっしりと詰まったオーケストラは壮観だ。ノットの緻密で切れのいい制御のもと、編成の拡大された東京響は波打ち、轟々と鳴り響く。弱音の個所はロマン派的な豊麗さにも富み、声部も微細に交錯して美しいが、最強奏の個所ではやや硬質になり、怒号という感じになってしまうのは些か惜しい。
 ノットのこの作品へのアプローチの軸足は、後期ロマン派には近いものの、むしろ20世紀初頭のマーラーやR・シュトラウスの立ち位置から見たロマン派━━といったものに置かれているように思われる。

 演奏が終ったあと、オーケストラが引き上げてからも、ノットと歌手たちは鳴りやまぬ拍手に呼び出され、それは2回も繰り返された。

2019・10・5(土)スダーン指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

      東京オペラシティ コンサートホール  6時

 今年の「アジア オーケストラ ウィーク」は、香港シンフォニエッタとジャカルタ・シティ・フィルハーモニック、それにこのオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の参加により開かれている。

 今日はその初日で、主役のOEKが池辺晋一郎の「この風の彼方へ」とベートーヴェンの「第7交響曲」を演奏、それら2曲の間に香港シンフォニエッタとの合同演奏でチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」を━━というプログラムだった。
 指揮はいずれもOEKのプリンシパル・ゲスト・コンダクターのユベール・スダーン。コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。

 池辺の作品は、昨年のOEK委嘱作品で、岩城宏之を偲ぶ記念演奏会で初演されたものの由だが、私は今回初めて聴いた。「風の彼方にある未来を問う」といったようなコンセプトを折り込んだ曲とのこと。ダイナミックな起伏に富みながらも、曲想には常にまろやかな力と美しさを感じさせる。2年前の交響曲「次の時代のために」と同じように、未来に殊更な悲劇性を強調して見せることなく、あくまで肯定的に視るというのが彼の信条なのだろう。
 今回の作品では、清澄さと透明さがいっそう増し、しかも洗練された民族色といったものさえも感じられたのだが、これは私だけの印象だろうか?

 「ロメオとジュリエット」では、二つのオーケスラの楽団員がまるで一つの団体のメンバーのように調和していた。スダーンの手腕だろう。
 ベートーヴェンの「7番」は、先日の「5番」と同様かそれ以上に鋭い力を持ったアクセントの強い演奏で、全ての反復を遵守した古典的な構築と、小編成のオケの特徴を生かした明晰な音色とリズム性が特徴の快演だ。この曲で、異様なほどに強奏されたホルンやティンパニが、しばしば弦楽器群を圧して聞こえ、旋律線まで異なった響きになっていたのは、2階正面の席で聴いた所為なのか、それとも・・・・?

 アンコールは、ベートーヴェンの「トルコ行進曲」。ナマで聴く機会は滅多にないので、面白い。

2019・10・3(木)東京二期会 宮本亜門演出「蝶々夫人」初日

       東京文化会館大ホール  6時30分

 ザクセン州立歌劇場、デンマーク王立歌劇場、サンフランシスコ歌劇場との共同制作による、宮本亜門演出の新プロダクション、プッチーニの「蝶々夫人」。

 アンドレア・バッティストーニが東京フィルを指揮、初日はダブルキャストのA組で、森谷真理(蝶々夫人)、藤井麻美(スズキ)、樋口達哉(ピンカートン)、黒田博(シャープレス)、萩原潤(ゴロー)、成田伊美(ケート)、小林由樹(ヤマドリ)、志村文彦(ボンゾ)、香月健(役人)、牧田哲也(蝶々夫人の子、青年時代)他。二期会合唱団。

 舞台(装置はボリス・クドルチカ)には座敷や障子などの所謂日本家屋的なものはほとんど無く、ただバンガロー風の小さな部屋が一つあるだけで、これが精妙に移動する黒と白のカーテンとともに動き、場面を構成し、区切りをつける。
 以前の「魔笛」と違い、プロジェクション・マッピングのような手法の使用はごく限られている。

 衣装(高田賢三)とメイクは(米国人役を除き)徹底的に「日本的」なもので、ヤマドリ公爵に至っては帝国海軍の軍装(中将か少将か、とにかく偉い人の服装だろう)だ。第2幕以降の蝶々さんが、髪型といいメイクといい服装といい、何だか猛烈に21世紀の日本人女性的、というのは少々意外だったが。

 しかし今回の演出の最大のポイントは、蝶々さんの自決から30年後、ピンカートンとケートに引き取られてアメリカに渡っていた遺児の青年(32歳位)が、病床のピンカートンから渡された手紙から、実の母に関する詳しい話を初めて知り、あの長崎の時代に「Back to・・・・」する━━もしくは想像上の世界にタイム・スリップする、という設定にあるだろう。

 このモティーフは各幕冒頭に繰り返され、ピンカートンと蝶々さんの物語もほぼ通常通り進んで行くが、蝶々さんの遺児たる「青年」も常にその舞台にいて、母への同情と愛、そしてのちに後悔の念に苛まれ続けて生涯を終ろうとする父への同情などの交錯に悩む、という設定になっている。
 劇中でゴローが「この子はアメリカへ行っても幸せにはならない」と歌ったのを聞いた時に、現実にアメリカで差別を受け続けた「青年」が示す苦悩の表情、また実母が絶望に沈んだ時に、同情のあまり髪を掻き毟って悲しみにくれる「青年」の表情などを、黙役の牧田哲也が実に巧く演じていた。

 ただ、この「青年」の役柄については、もう少し何とか━━どこをどうしたら、というのは私にも分からないのだが━━巧い使い方もあるんじゃないのか、という気がしないでもないのだが。かといって、あまり過剰にウロチョロされても邪魔だし・・・・。
 その辺の解決法は、私が常日頃から尊敬し信頼し、演出の手法を支持している宮本亜門さんに、さらに一考していただくことにしよう。
 ただ、私の好みからすれば、ラストシーン、息を引き取ったピンカートンが蝶々さんと再会するという最後の幻想光景は、些か甘すぎるのではないかと思うが・・・・。

 いずれにせよ、見慣れたドラマに新しい視点を導入する手法の一例として、この「蝶々夫人」は、たいへん面白いものであると思う。これまで、ピンカートンは許せん━━と息巻いていた観客にも、何かしら寛容の気持を生ましむる演出だったかもしれない。

 今日のAキャストでは、題名役の森谷真理が、清楚な素晴らしい歌唱を聴かせていた。樋口達哉の張り切った横柄な米国海軍士官、重厚で人間味と貫録にあふれた黒田博のシャープレス領事も、演技・歌唱ともに魅力充分。藤井麻美のスズキは、ちょっと控えめな歌唱と演技だったが、人間的なあたたかさはよく出していた。

 熱血漢指揮者バッティストーニは、この作品ではむしろ抑制した美しさを狙っていたような印象を受ける。
 東京フィルは、新国立劇場の「オネーギン」との二手に分かれてのピット入りだったが━━本当にこういうやり方でいいのだろうか、と疑問に感じないではいられない━━仲のいいバッティストーニと組んだこちらのメンバーの方が演奏もサマになっていたような印象である。

2019・10・2(水)ハインツ・ホリガーと東京シティ・フィル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ホリガー、今日は東京シティ・フィルを「吹き振り」だ。ただしこの演奏会は、シティ・フィルの定期ではない。ホリガーを招聘しているヒラサ・オフィスの主催による特別演奏会である。

 プログラムは、最初にヴェレシュの「トレノス」、次がリストの作品をホリガーが編曲した「2つのリスト作品のトランスクリプション」━━これは札響定期で指揮したのと同じ曲で、「暗い雲」と「凶星」(Unstern!札響の時は「不運」という訳が使われていた)。
 次に郷古廉をソリストにバルトークの「ヴァイオリン協奏曲第1番」、そしてホリガー(オーボエ)とマリー=リーゼ・シュフバッハのイングリッシュホルンとのデュオで、細川俊夫の新作「結びーハインツ・ホリガーの80歳の誕生日を祝して」の世界初演が行なわれた。
 休憩後は、ホリガーのオーボエ吹き振りでマルティヌーの「オーボエ協奏曲」、最後にラヴェルの「スペイン狂詩曲」と続く。シティ・フィルのコンサートマスターは荒井英治。

 ホリガーの卓越した色彩的な音色感覚は、今夜の演奏でも健在だ。民族色も滲ませた「トレノス」と、続く「リスト・トランスクリプション」での暗鬱な沈潜、慟哭的な美しさ。バルトークでの郷古のソロも素晴らしい。

 ホリガーは、それらの指揮とともに、オーボエの面でも今夜はパワー全開である。細川俊夫の新作と、マルティヌーの協奏曲とで聴かせたホリガーのオーボエ・ソロは、驚異的な肉体的な力と、精神的な集中力と、ヒューマンなあたたかさに満ちた音楽性とで、ただもう舌を巻くしかない━━。

 さて、それまでホリガーの指揮によく応えて来たシティ・フィルではあったが、「スペイン狂詩曲のような曲を、彼のような━━つまり厳しい制御の一方、巧妙とは必ずしも言い難いバトン・テクニックの━━指揮者の下で演奏するのは、そう簡単ではなかったのではないか。大阪フィルの「ラ・ヴァルス」と同じく、色彩感は豊富だったが、何となく肩肘張ったようなラヴェルになっていた。

2019・10・1(火)新国立劇場「エフゲニー・オネーギン」

       新国立劇場オペラパレス  6時30分

 新国立劇場のシーズン開幕。この劇場としては珍しい、ロシア・オペラのレパートリーでの幕開きである。今日はその初日。なお劇場側では「エウゲニ・オネーギン」と表記している。

 指揮がアンドリー・ユルケヴィチ、演出がドミトリー・ベルトマン、舞台美術がイーゴリ・ネジニー。
 歌手陣は、ワシリー・ラデューク(オネーギン)、エフゲニア・ムラーヴェワ(タチヤーナ)、鳥木弥生(その妹オリガ)、パーヴェル・コルガーティン(詩人レンスキー)、アレクセイ・ティホミーロフ(グレーミン公爵)、森山京子(姉妹の母ラーリナ)、竹本節子(乳母フィリッピエヴナ)、成田博之(介添人ザレツキー)、升島唯博(フランス人トリケ)他、新国立劇場合唱団(指揮・三澤洋史)。オケは東京フィルハーモニー交響楽団。

 今回の演出の最大のポイントは、演出家ベルトマンの「Production Note」によれば、あの伝説的なロシアの演出家スタニスラフスキーによる「1922年のプロダクション」を基本にした舞台、ということにあるようだ。
 そういえば、今回のネジニーによる舞台装置も、手許のジーン・ベネデティ著「スタニスラフスキー伝」(高山図南雄・高橋英子訳、1997年品支社刊)の320頁に見られる「2対の柱がある」という記述と共通している。

 また今回は第1幕前半の、農民たちがラーリン家に集う場面の合唱が根こそぎカットされていたが━━これは私には大いに不満であった━━これも前掲書の321頁に、
 「第1幕の農夫の場面で、うたったりおどったりするところが容赦なく切りつめられた・・・・そのままだとかえって演技を停滞させる月並みな芝居になりそうな気がしたからだ。人間のドラマに集中したいと思ったからだ」という記述があるので、この音楽カットも、スタニスラフスキーの発案だったことが判る。(━━とはいえ、これを今日そのまま踏襲することは、いかにも時代遅れの所業であり、私は断じて同意できない)。

 その前後の場面における母と乳母、タチヤーナとオリガの人物の巧みな配置関係なども、同書321頁で述べられていることと符合しており、こちらの方は、スタニスラフスキーが声楽的なバランスに綿密なアイディアを持っていたことの証明になるだろう。

 その他、演出面で、どこまでがスタニスラフスキーの指示だったのか、どこからが今回のベルトマンのアイディアだったのかは定かではないが、私がとりわけ興味深かったのは、オネーギンとレンスキーの決闘の場面だ。
 ここでは、ト書きや通常の演出とは大きく異なって、皮肉屋でニヒリストで「ロシアのインテリゲンチャ」だったオネーギンが、決闘などという行動に馬鹿々々しさを感じ、自嘲の空虚な高笑いととともに、そっぽを向いたままピストルをあらぬ方に向けて発射する。ところがこの弾丸が、不審そうにオネーギンに近づいたレンスキーに偶然命中してしまい、オネーギンは呆然とする━━という設定になっているのだ。

 これがもしスタニスラフスキーの演出だったのなら、当時としては画期的な読み替えだったというべきだろう。だがもし、ベルトマンの発想だったら、先年ボリショイ劇場で制作されたチェルニャコフ演出の━━同劇場来日公演でも上演されたが━━前場のパーティでのオネーギンらを含む出席者全員がレンスキーの激怒を泥酔による冗談だと思い込んで爆笑し、その中でオネーギンが笑いとともに投げ出した銃が暴発してレンスキーを・・・・という、あの演出設定にも劣らぬくらいの、面白いアイディアだと思うのだが。

 他にも、第1幕最後の「オネーギンとタチヤーナの場面」で、もともと夢想家のタチヤーナが、オネーギンの言葉を半分聞いただけでうっとりと勝手な空想に走ってしまい、オネーギンを呆れさせるくだりとか、パーティや舞踏会の客たちがオネーギンから見た「くだらない有象無象の連中」として戯画的に描かれていたり、オリガがどうしようもないバカ女(プーシキンの原作と少し共通させたのかも)として扱われていたりと、興味深い場面もいくつかあった。

 「手紙の場」で、タチヤーナの感情が激する瞬間に上手側の窓のカーテンが風でひときわ大きく揺れて膨らむあたり、芸が細かいなと思わせる。ただし些事だが、そのあと下手側の窓からも同時に風が吹き込んで来てカーテンが内側に膨らむなんてのは、そんな風の流れはあり得まい。その際に送風機の轟音が漏れて来たのも雰囲気ぶち壊しであった。

 歌手陣。題名役のラデュークはマジメ風のオネーギンだが、歌唱は手堅い。
 タチヤーナのムラーヴェワも「手紙の場」で優れた歌唱を聴かせた。彼女、容姿も演技も清楚で好ましく、社交界で公爵夫人となった時よりも、むしろ前半の田舎娘時代の方が魅力的だ。
 レンスキーのコルガーティンは歌唱・演技とともに神経質な特色を出している。鳥木弥生は「アタマの悪そうなオリガ」だったために少し損な役回りだったが、ヴィブラートの極端な強さは、特にこの若い娘役としては、あまり感心したものではない。

 そういえば、今回脇役で共演した日本の歌手たちは、慣れないロシア語を明確に発音しようと努力した結果なのか、男声も女声もおしなべてヴィブラートが強すぎたような印象がある。言葉をはっきりと発音させるというのは、スタニスラフスキーの方針であったという(前掲書319頁)から、それ自体は結構だと思うのだが、歌い方のほうは、何か力み返っていたように感じられなくもなかった。
 トリケを歌い演じた升島唯博の怪演(?)は、なかなかのものだった。

 ウクライナ出身の指揮者ユルケヴィチは、私は初めて聴いたように思うが、東京フィルを比較的骨太な音で鳴らして、メリハリのある演奏を試みていたようである。最終場面での劇的な緊迫感などに関しても、松本でのファビオ・ルイージなどの指揮と比べると、はるかにロシア・オペラのカラーに相応しい押しの強さを感じさせる。ただ、「ポロネーズ」などでは、やはりオケのひ弱さと薄手の音が、指揮の足を引っ張ったのではないか。一方、「手紙の場」での叙情的なオーケストラの流れは好ましい。

 休憩は1回のみ。それも第2幕第1場の後(「水車小屋での決闘の場面」の前)に置かれていた。9時35分頃終演。

2019・9・30(月)佐藤俊介とオランダ・バッハ協会管弦楽団

       浜離宮朝日ホール  7時

 名門オランダ・バッハ協会管弦楽団の第6代音楽監督に就任したばかりの佐藤俊介。
 2010年に第17回バッハ国際コンクールで第2位となり、その後コンチェルト・ケルン及びオランダ・バッハ協会管弦楽団のコンサートマスターを務めていたが、後者の前任音楽監督ヨス・ファン・フェルトホーヴェンから後継者として指名され、昨秋就任した由。偉業である。

 今回は彼を含めて11人の編成での来日だが、そのリーダーとして、息を呑ませるほどの見事な「弾き振り」だ。そのバロック・ヴァイオリンは切れ味鋭く、凄まじいリズム性をもつ演奏でアンサンブルをリードし、音楽を燃え立たせる。

 プログラムは、最初にバッハの「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」の第1楽章、ドレスデンの音楽家ピゼンデルの「ダンスの性格の模倣」、ヴィヴァルディの「フルート協奏曲《海の嵐》」、バッハの「管弦楽組曲第1番」、同「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ハ短調」、ザクセン=ワイマール公ヨハン・エルンストの「ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品1の4」、そして1曲目に演奏した「協奏曲」の今度はチェンバロ協奏曲版で第2・第3楽章という洒落た組み合わせで構成されていた。アンコールはバッハの「管弦楽組曲第2番」の「バディネリ」と、同「第3番」の「アリア」。
 すべてが生き生きとした、鮮やかな演奏だった。

2019・9・29(日)ひろしまオペラルネッサンス モーツァルト:「魔笛」

      JMSアステールプラザ大ホール  2時

 前夜のうちに広島に入る。

 川瀬賢太郎が広島交響楽団を指揮、岩田達宗が演出する新プロダクションということで、期待して行ったのだが、些かアテが外れた。

 序曲の後半から大蛇登場の幕開きにかけて、魔物どもの延々たる威嚇怒号絶叫がオーケストラを完全に打ち消してしまっていたが、音楽をまるきり聞こえなくしてしまうようなこんなやり方は、オペラの演出にはあり得ない。岩田さんともあろう人が、何ということをしてくれるんだ、と、ここからすでに激しい反発を覚えてしまう。

 また今回は、字幕付ドイツ語歌詞上演、日本語セリフという形式が採られていたが、このセリフ部分が著しく長い間を取って進められるのでドラマが間延びしてしまい、また女声歌手たちが一様に、頭の先から声を出すような、あの裏声にも似た甲高い声で台詞を喋り続けることなど、私にはどうにも堪えられない。

 パパゲーノに観客を巻き込んで広島カープの歌を歌わせたり、彼と老婆(パパゲーナ)のやり取りの部分を恐ろしく長く拡大して笑いを狙ったりする手法などを観ると、「ひろしまオペラルネッサンス」の性格も昔とはもう変わってしまったのか、と思う。ファミリー向けオペラを狙う路線と割り切れば、それはそれでいいのだろうけれども。

 ただ、岩田の演出としては、夜の女王やモノスタトスに人間味ある苦悩を表現させたり、タミーノに試練への疑問の念を一時的に抱かせたり、パミーナが「女性の復権」の信念を持つに至ったことを明確に描いたりしたあたりに、その片鱗が観られただろう。
 ラストシーンで、没落した夜の女王を美しく変身させ、ザラストロとの微妙な関係と、この老指導者が秘かに抱いていた永遠の女性像といったものを暗示する個所にも、岩田らしい新解釈が見出せる。

 本当は、岩田達宗のこういう演出がもっと観られるかと思って楽しみにして行ったのだが━━。
 川瀬賢太郎と広響が清楚な演奏をしていたのは救いだった。
 出演は、安東省二(ザラストロ)、端山梨奈(夜の女王)、川野貴之(タミーノ)、小林良子(パミーナ)、砂場拓也(パパゲーノ)他。

 20分の休憩を挟み、終演が5時35分になったのだから、いかにセリフの間合いが長かったかが判るだろう。

2019・9・28(土)ハインツ・ホリガー指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

      フェスティバルホール〈大阪〉 3時

 指揮者&オーボエ奏者ハインツ・ホリガー、80歳記念(?)の日本縦断ツアー。4オーケストラをそれぞれ異なったプログラムで振り分けるエネルギッシュな活動。
 これは先週の札響に続く第2弾で、しかも今日は(オーボエこそ吹かなかったものの)ピアノを弾いてくれたのである。

 プログラムは、相変わらず凝ったものだ。第1部は、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」と「ラ・ヴァルス」の間に、自作の「エリス~3つの夜想曲」を挟む。そして第2部はシューベルトの「未完成交響曲」の前に晩年の作品「アンダンテ」を置き、2曲を切れ目なしに演奏するという構成。

 「マ・メール・ロワ」組曲の冒頭から、木管群の演奏に気品のある官能性が備わって、何とも気持のいい音楽が伝わって来る。あたたかいラヴェルだな、と陶然とさせられてしまうのである。抑制された演奏だが、完璧なバランスで構築された音色が素晴らしい。

 次がホリガーの自作。1961年に作曲したという、演奏時間数分の「エリス~3つの夜想曲」を、オリジナルのピアノ・ソロ版と、2年後に自ら管弦楽に編曲した版とを続けて演奏して見せるという凝りようだ。
 まずホリガーが、ステージ下手に置かれたピアノで、自ら弾く。いかにも「60年代の現代音楽」だと思わせる作風ながら、その演奏があまりにも鮮やかで強烈なので、彼の気魄に呑まれてしまう。正直なところ、彼がこの齢でこんなピアノを弾くとは、予想していなかった。凄い人である。
 オーケストラは並んだまま黙って聴いているが、ホリガーのピアノに合わせてコンサートマスターと1番フルート奏者がそっと自分のパート譜をめくり、イメージをつかもうとしている姿が印象的だった。

 そしてホリガーは弾き終ると、小走りに(元気だ!)指揮台に向かい、飛び乗り、今度はオーケストラを指揮して、同じ曲の管弦楽編曲版を指揮しはじめる。この編曲がまた多彩で壮麗で精緻なこと、「現代音楽」の作曲家としても当時注目されていたホリガーの真骨頂が、いま改めて私たちの前に蘇って来る。

 そして第1部の最後は、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。かなり厳しく制御された演奏で、バランスこそよかったものの、こちらはさすがの大阪フィルも些か自由さに欠け、音楽としては面白味に不足したというのが正直なところだろうか。だがそれでも音色のつくりの巧さは印象的で、自作の管弦楽編成の音色の多彩さとともに、ホリガーの卓越した音色感覚を改めて私たちに印象づける結果となった。

 第2部の最初に演奏されたのは、シューベルト~モーゼル編の「アンダンテ ロ短調D936A」。他界する年に書かれ、未完に終った所謂「交響曲第10番」の第2楽章に当たる曲だ。ニューボールドの編曲版よりも室内楽的な響きが濃い。
 その音楽は、まるで遠い遠い、未だ見ぬブルックナーの世界を予告しているかのような神秘的な曲想で、シューベルトは死の直前に一体どこへ向かおうとしていたのか、何かしら慄然とさせられる彼岸性に満ちたものだ。

 これが暗く消えて行ったと思う間に「未完成交響曲」(同じロ短調)が低いチェロとコントラバスの弱音で入って来るその効果は抜群のものがある。
 この「未完成」も、抑制され、厳しく律せられた感のある演奏であった。ただ、他の多くの指揮者のそれと同様に、第1楽章のアレグロと第2楽章のアンダンテに事実上のテンポの差異が感じられないのはいつも疑問に思うのだが・・・・。
 ともあれホリガーの指揮は、この3つの楽章を通じ、「暗」から「明」への浄化を模索するという解釈のように思われたのだが、如何だろうか。
 そしてまた、「未完成」の第2楽章の終結が、ブルックナーの「未完成」たる「9番」の第3楽章終結を奇しくも予告しているという縁を、今日もまた痛感させられることになった。この2つの曲のエンディングは、本当に感動的である。

 大阪フィルの演奏には、指揮者により厳しく制御されている様子が明確に聴き取れる。ホリガーはたった1回の客演で、このオーケストラを完全に掌握してしまったように思える。
 それにしても大阪フィルは、ホリガーの要求によく応えたものだ。音楽監督・尾高忠明により目覚ましくアンサンブルが整備されて来ている現在の大阪フィルであるからこそ、今回のような演奏が可能になったのではなかろうか。
 コンサートマスターは、この9月から正式にソロ・コンマスとなっている崔文洙。

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