2010-02

2・8(月)旅行休業――また1週間ほど

 今回はベルリン・ドイツオペラでの、フィリップ・シュテルツル新演出「リエンツィ」(ワーグナー)と、ジュネーヴでのオリヴィエ・ピイ新演出・パトリシア・プティボン主演の「ルル」(ベルク)が目当て。その他、ベルリン・ドイツオペラでワーグナーのロマンティック・オペラ3本を久しぶりに――という目算。
 アップは、多分16日頃になるでしょう。

2・6(土)藤原歌劇団公演
プーランク:オペラ「カルメル会修道女の対話」

   東京文化会館大ホール (マチネー)

 大阪より早朝の新幹線で帰京。大阪と東京は快晴だが、途中、京都から名古屋にかけては大変な雪だ。新幹線も20分以上遅延する。午後、東京文化会館へ。

 「カルメル会修道女の対話」は、これはもう、何度観ても聴いても、すこぶる気の滅入るオペラではある。同じフランス革命を背景にしたオペラでも、開放的な「アンドレア・シェニエ」(ジョルダーノ)や、作りものめいた「マリー・ヴィクトワール」(レスピーギ)とは全く異なり、リアルで陰惨で、哀しい物語だ。

 第1幕の終結、高潔なはずのクロワシー修道院長が死に臨んで恐怖に耐えられぬまま悲惨な最期を遂げる(森山京子の迫真の演技と歌唱)場面など、特に凄まじい。
 オペラでの「死の場面」はたいてい虚構として視られることが多いものだが、ここは妙にリアルで息を呑ませるものがある。演出と演技の見事さもあろうが、プーランクがオーケストラをことさらオーバーに鳴らして誇張していないことも、かえってリアルさを高めているだろう。

 今回の演出は松本重孝、美術は荒田良。演技は細密であり、舞台装置は居間も教会の礼拝堂も写実的なつくりだ。
 したがって大詰めの断頭台のシーンも、さっきの「クロワシー修道院長の死」の場面に呼応するようにリアルに演出されるのかと思ったが、違った。
 ここでは、背景高所にギロチンが聳えており、修道女たちはその前に一列に並んで歌い、「象徴的に」一人ずつ倒れて行く。

 最近はこのような演出が多いようだが、しかし思えば1998年、サイトウ・キネン・フェスティバルでフランチェスカ・ザンベロが見せた、修道女たちが祈りを捧げながらギロチンのある壁の中に一人ずつ入って行き、ただちに刃の落下する轟音が響く――というあの演出は、随分スリリングなものだったと思う。
 私はあのスタイルの方がずっと泣けるのだが、いかがなものだろう。

 また今回は、その処刑の間じゅう、断頭台のイメージの両側の壁面にさまざまな処刑と殺戮の映像を投影し、いわば汎時代的な悲劇といったものをアピールする手法が採られていた。涙に浸るより、理性で歴史を視る――といった手法である。
 それは説得性のある一つの解釈であることは事実だ。とはいうものの、私には少々煩わしさの方が強く感じられた――。

 今日(初日)のキャストは、森山京子の他には、出口正子(修道女ブランシュ)、中鉢聡(その兄、騎士フォルス)、佐藤美枝子(修道女コンスタンス)、佐藤ひさら(リドワーヌ修道院長)、鳥木弥生(マザー・マリー)ら。
 演技の表情は比較的おとなしい。ただ、女声陣の歌唱がおしなべて叫ぶような声になってしまうのが少々気になる。フランス語の発音に関しては、昨夜の「火刑台上のジャンヌ・ダルク」同様、私には云々できる力は無いが、ただしみなさん、あまりフランス語っぽく聞こえなかったのでは?

 指揮はアラン・ギンガル、オーケストラは東京フィル。
 後半は多少改善されたとはいえ、前半のスカスカの歌謡曲伴奏オケみたいな音は、とてもクラシックのプロ・オケとは言えまい。特に金管のお粗末さは酷い。
 それでも、晩年のプーランクの音楽に特有の暗い音色と魔性的な表情は再現されていたから、とりあえず拍手は贈ったが――。

2・5(金)沼尻竜典指揮 大阪センチュリー交響楽団
 創立20周年記念演奏会
オネゲル:劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」

    ザ・シンフォニーホール(大阪)

 このところの沼尻竜典の充実ぶりには、目を見張るものがある。
 びわ湖オペラのシリーズをはじめとして、手がける大作の演奏はことごとくヒット続きだ。今回も極めて水準の高い出来となった。

 彼はもともと20世紀もの――それも透徹した性格を持つ作品群に鋭さを発揮する指揮者だ。そこに近年のごとく指揮に豊麗さ、色彩、劇的な感情のうねり、強い感興といったものが備わって来たとなれば、もう怖いものなしであろう。
 特にこの作品のような近代フランスものは、彼の個性に合ったレパートリーと言えるかもしれない。今回も全曲にわたり、激しく昂揚する曲想と、暗く沈潜する曲想とを巧みに交錯させた指揮が見事であった。

 さらに、ジャンヌのナレーションをハイ・テンション一辺倒にせずに――これまで日本で上演されたいくつかのプロダクションでは、おしなべてジャンヌが絶叫調に終始していた――山あり谷ありの起伏を持たせ、各場面の曲想と一体化させていたのも、今回の演奏を成功させた一因であることは間違いない。
 このように随所にジャンヌの感情が抑制される個所があってこそ、最後の火刑場面での最高潮の叫びと音楽とが生きて来るのだ。このあたりの沼尻の楽曲設計には、きわめて優れたものがあった。

 最後に舞台が暗くなって行き、音楽が沈んで行く個所でのフルート・ソロに、もう少し余韻嫋々たる趣きがあれば、もっと「泣ける」と思うのだが、まあこれは感覚の違いだろう。ジャンヌが昇天して以降は、テンポも含めて、ややあっさりした感じの演奏ではあったが――。

 大阪センチュリー響も、暗黒時代のフランスを描く冒頭の重々しい音楽からして、きれいな、しかも明晰な音を響かせていた。
 このオケは沼尻(首席客演指揮者)が指揮している時には常に良い音を出すが、今日も快調。とりわけトランペットを筆頭に、金管群が見事な出来であった。

 ジャンヌ・ダルクを演じたのは、フランスの女優カティア・レフコヴィチ。
 前述の通り「語り」に大きな起伏を持たせた快演で、憂いに沈むジャンヌ、絶望するジャンヌ、誇らしげなジャンヌ、怒りに燃え立つジャンヌなどを美しいフランス語で演じ分け、クライマックスの「解放されるジャンヌ」の高揚にドラマを導いていた。
 これは、昔のレコード(オーマンディ指揮)に聴くヴェラ・ゾリーナの名演には及ばずとも、それを髣髴とさせる、きわめて表情豊かなジャンヌである。私個人の考えでは、これはほぼ理想に近いタイプのジャンヌ表現であろうと思う。

 彼女を受ける修道士ドミニクは、これもフランスの俳優ミシェル・ファヴォリ。この人も巧い。

 脇役は、すべて日本勢。豚(裁判長)などを巧みに演じた高橋淳をはじめ、酒樽かあさん他を達者に演じた田村由貴絵、そのほか竹本節子、望月哲也、片桐直樹、谷村由美子、渡辺玲美らのソリストたち、それに手堅くコロスの役割を受け持ったザ・カレッジ・オペラハウス合唱団など。
 フランス語の発音については私には云々できる力はないが、しかしともかく熱演を讃えておきたい。子供の声を歌った岸和田市少年少女合唱団のソロが上手いのには驚かされた。

 なお、これは演奏会形式だったが、一部セミステージ形式上演の形が採られ、丁寧で効果的な照明演出が施されていた。ジャンヌとドミニクは、オーケストラ背後の客席にセットされたピラミッドのような形をした白い壁の前に位置しており、日本人ソリストたちは天使たちが背後客席の高所に、その他が舞台前方に演奏会スタイルで配置されていた。

1・31(日)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(最終日)
「ユニヴェルス・ド・ショパン」

   オーディトリウム・フォンタナ (19時00分〜20時40分)

 これは一種のガラ・コンサート。
 ポーランドの民族楽器グループ「ゼスポール・ポルスキ」の華やかなポロネーズの演奏で開始され、以下はヤツェク・カスプシク(ヤーツェク・カスプシェク)指揮するシンフォニア・ヴァルソヴィアをバックにしてのソリストたちの演奏となる。

 まず、エル=バシャが「クラコヴィアーク」で味のある演奏を聴かせ、ジュジアーノが「ドン・ジョヴァンニ」(モーツァルト)の「お手をどうぞ」による変奏曲を淡々と弾く。
 次いで、昼間にも歌ったペレチャツコがロッシーニの「ブルスキーノ氏」の「私に花婿を下さい」と、ベルリーニの「夢遊病の女」からの「ああ、信じられない」を華麗に歌う。
 次にヤン・ルヴィオノワ(チェロ)とアダム・ラローム(ピアノ)がショパンの「チェロ・ソナタ」からの「アダージョ」を清楚に演奏。 
 そしてベレゾフスキーが登場、ショパンの「ワルツ」作品64の2と「革命のエチュード」を弾いたが、これは何とも唖然とするような雑な演奏。ワルツは、まるで初見で楽譜を見ながら弾くような雰囲気だ。オレのショパンは他のピアニストと違い、レガートで流麗なのだぞ、という姿勢だけは感じられたが。

 最後にオーケストラがロッシーニの「セヴィリャの理髪師」序曲を演奏した。この著名な指揮者とオーケストラは、イタリア・オペラにはまるで慣れていないようで、スカスカの音でのんびりしたテンポの、おかしなロッシーニを演奏する。それでも、満席の会場は常に沸きに沸く。序曲のコーダのみ演奏したアンコールのあとでは、スタンディング・オヴェーションになった。

 同時間帯には別のホールで、メルニコフやラーンキ、ヴォロディンら、それぞれのコンサートが行なわれていたが、聴くのはこのコンサートで完了。
 ホールで行なわれたものだけでも5日間総計241にものぼるというコンサートの、私が3日間で聴けたのはたったその数パーセントにも及ぶまい。だがとにかく、ショパンの多種多様な「顔」を覗き見られただけでも有益で面白い「熱狂の日」音楽祭であった。翌日の帰国の飛行機の中では、きっとショパンのいろいろな曲が、頭の中でガンガン鳴り響いていることだろう。
 
 ちなみに日本での「ラ・フォル・ジュルネ」は、ゴールデン・ウィークに東京のほか、金沢、新潟、びわ湖ホールで開催される。
 なお噂によれば、来年のテーマはマーラー、リスト、ブラームスだとか。

1・31(日)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(最終日)
ルイス・フェルナンド・ペレスのリサイタル

   サル・クヴィアトコフスキ (16時15分〜17時20分)

 ここはたった80人ほどしか入れない小さな部屋。ルイス・フェルナンド・ペレスをもう一度聴きたくて押し入る。
 彼は2時間ほど前に他のもう少し大きな会場で演奏したばかりだが、それとはまた違うプログラムでのコンサートである。
 曲はショパンの「ノクターン」から「作品9の2」と「作品32の2」と「作品48の1」および「バラード」第1番、そのあとにリストの「オーベルマンの谷」と「ハンガリー狂詩曲」第6番。

 こんな小さなサロンにおいてさえ、ペレスは些かも手加減せず、大ホールにおけるのと同じように豪壮激烈に演奏するのだが、音楽の色彩感が豊かであるために、騒々しくうるさいといった印象は全くない。
 清楚な小山実稚恵を聴いた直後に、しかも同じ作品をペレスの演奏で聴くと、ショパンの音楽が持つ全く異なった側面を突き付けられ、慄然とさせられる。われわれ聴き手は、僅か1時間前のショパンの顔とは別人のようなショパンの顔を、そこに視る。
 これは実にスリリングで魅惑的な体験だが、自分の好みから抜け出せぬ聴き手にとっては目の回るような困惑を体験するということになるのかもしれない。

 この部屋は、外部の雑音が頻々と混入して来る上に、途中入場や退席をかなり自由に認めるシステムのため、演奏中にもかかわらずドアを開閉する音などが非常にうるさくなる。ペレスもたまらず、途中で係員に注意を促していたが、当然だろう。
 このあたり、ナントの主催者は極めて大雑把である。聴衆の中にも無神経な連中が無数にいる。そこが日本と違うところだ。しかし、演奏に対する反応は、日本と違って常に熱狂的なのである。

1・31(日)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(最終日)
小山実稚惠リサイタル

   サル・ヴォイチェホフスキ (15時15分〜14時10分)

 200席ほどの広間で、客席は立錐の余地もなし。ただし、音響効果は必ずしも良いとは言えない。
 小山実稚恵はこの音楽祭では何回かの公演を行なっている。このリサイタルでは、「ノクターン」作品9の2(2曲)、「ワルツ」からは「第19番」、「作品34」(2曲)、「作品64」(3曲)および「作品69」(2曲)、それに「バラード」第1番、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」。

 並み居るアクの強いピアニストたちの中で彼女の演奏を聴くと、いかにも清楚で自然なショパンに聞こえる。そこではあざとい誇張も怒号もなく、ショパンの持つ音楽の瑞々しさ、ハーモニーのふくよかさ、転調の豊かさなどが、何の衒いもなく率直に、しかも端正な情熱を以て再現されているといった感なのである。
 日本で聴くと彼女の演奏はかなりパンチの聴いたスタイルに感じられるけれども、こちらで聴くと、それとは些か趣を異にするだろう。「日本人演奏家のショパン」などというものを安易に定義することは危険だが、少なくともナントのこの場所で他のピアニストたちと短時間のうちに聴き比べた場合、音楽のスタイルの違いが驚くほど明確に示されるのが解る。だが、それでいいのだと思う。

 同じ時間に他のホールでは小菅優も演奏していた。それも聴きたかったのだが、あいにく体は一つ。

1・31(日)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(最終日)
「ショパンとオペラ」

   オーディトリウム・フォンタナ (12時30分〜13時30分)

 ソプラノの Olga Peretyatko――ロシア人だから「オルガ」でなく「オリガ」だが、ファミリー・ネームの方は――まさか「ペレトヤットコ」とは読むまいから、とりあえず「ペレティアトコ」としておく。
 彼女はマリインスキー劇場の合唱団員の出身だそうで、まだ若い人だが各国で活躍の場を拡げている模様。ふだんのレパートリーはイタリアものが多いらしい。最高音の安定度や、細かい仕上げなどは未だしの感があるものの、声の筋は良く、輝かしさ、明るさ、存在感などは注目に値する。ロシアものを歌ったらどんな風になるか興味が沸く。

 彼女が歌ったのは、ドニゼッティの「ルチア」、ロッシーニの「オテロ」、ベルリーニの「夢遊病の女」からのアリアで、その間にオーケストラがロッシーニの「どろぼうかささぎ」およびヴェルディの「運命の力」からのそれぞれ序曲を演奏した。

 ドミトリー・リスが指揮するウラル・フィルは今回の音楽祭では大活躍なようだが、弦はいいものの、管はどうもいけない。それでも、さっき聞いたフランスの地方オケよりは遥かにマシだ。
 会場は満席。2階バルコンで立ち見を強いられた。

(追記)東京ラ・フォル・ジュルネの表記は「オルガ・ペレチャツコ」の由。

1・31(日)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(最終日)
レジス・パスキエとポワトゥ=シャラント・オーケストラ

   サル・グルジマーラ (10時30分〜11時30分)

 ついに最終日。
 レジス・パスキエ(ヴァイオリン)と、ジャン=フランソワ・ヴェルディエールが指揮するポワトゥ=シャラント・オーケストラの演奏会。
 プログラムはベルリオーズの「リア王」と、パガニーニの「ヴァイオリン協奏曲第1番」だったが、この指揮者とオーケストラの何とまあ、お粗末なこと、演奏の拙劣さが作品をぶち壊すという例が本当にあり得るのだということを実体験した感だ。
 何でまたこんなのが音楽祭に出て来るのだろうと事情通の記者氏に聞いたら、地方からカネを引き出すための方策として、時にそういうことがあるのだと。

 パスキエは味と色気のある音色で、ある程度は聴かせる。
 しかし、こういうコンサートを朝一番に聴くと、溜まっていた疲労がどっと噴出して来る。

1・30(土)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第4日)
リーズ・ドゥ・ラ・サールのリサイタル

   サル・フランショーム (21時30分〜22時20分)

 予定では21時開演だったが、前のコンサートが延びたため、こちらの開演も遅くなった。その間を縫って会場内のレストランに飛び込み、サラダ中心の夕食を手っ取り早く済ませる。

 ショパンの「4つのバラード」と「ソナタ第2番 葬送」を弾いたリーズ・ドゥ・ラ・サールは、楚々とした美女だ。
 音も実に綺麗だが、フォルテをあまりに叩きつけ過ぎる上に、その音色が単調なので、聴いているうちに飽きが来る。「バラード」など、こんなに怒号されてはたまらない。ただ、「葬送行進曲」での、冷たい白色の光の中で直線的に伸びる明快な音のパワーは、聴き手に一瞬息を呑ませるものがあったのは事実だ。
 音楽のスケールは充分に大きいので、年齢と経験によって表情の精妙さや色合いの変化が加わればたいへん魅力的なピアニストになるだろう。

 このあともこのホールではアレクサンドル・メルニコフとアレクサンドル・ルンディンのデュオがあり、また他のホールでも「ワルシャワ、ウィーン、パリのショパン」大規模なコンサートや、デジェ・ラーンキとエディト・クルコンのデュオによるリストの「ファウスト交響曲」ピアノ版といった魅力的なプログラムが深夜まで続いていた。私のトシでは、そうそう体力が保たぬ。

1・30(土)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第4日)
ショパンのピアノ作品全集第10回 1838〜1839年

   サル・フランショーム (19時00分〜20時40分)

 この回は児玉桃が活躍、「作品41」の「3つのマズルカ」と、「即興曲」の「作品36」と「スケルツォ第3番」を弾く。
 そして「作品37のノクターン」2曲を、ケフェレックとヌーブルジェが1曲ずつ弾き、エル・バシャが「3つの新練習曲」を、バル=シャイが「ソナタ第2番」を弾くというプログラムだ。
 450席のホールだが、珍しくやや前の方に席が取れる。

 児玉の演奏はやはり正確で端正で、些かの誇張もなく歌う。ピアノは同じくスタインウェイだが、今日の音は瑞々しいふくらみがあり、低音も豊かに聞こえた。これは聴く位置の関係もあろうが、彼女の演奏は本来、こういうものであるはずである。あとの4人のピアニストも、昨日よりは遥かに音の厚みを感じさせた。
 こうなると、ホールの後ろの方で聴いた初日のピアニストたちについての印象は、大部分を補正しなければなるまい。だから軽々しく演奏の特徴を断定するものではない――という好例である。

 ヌーブルジェも今日は叙情的な「ノクターン」を弾く。「作品37の2」の中間部のバルカローレ的なところは、実は私にとっては子供の頃の思い出がこもった個所なのだが、滅多にナマで聴く機会が無い。ヌーブルジェは美しく弾いてくれた。
 ソナタを弾いたバル=シャイも、かなり重みのある響きで悲愴感を出していた。

1・30(土)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第4日)
ショパンのピアノ作品全集第9回 1837〜1838年

   サル・グルジマーラ (17時00分〜18時05分)

 アブデル・ラーマン・エル=バシャが「ベルリーニのアリアによる変奏曲」と「ワルツ作品34の1」を、児玉桃が「作品34」の残りの2曲を弾き、最後にフィリップ・ジュジアーノが「バラード第2番」と「24の前奏曲」全曲を弾いた。

 ペレスのあとに聴くと、3人の演奏は、かなり端正に聞こえる。
 特に児玉桃は――これが日本人らしさというべきか、こちらの国で聴くと、いかにも真面目で控えめだ。「日本人的な演奏」とはどういうことなのか――欧米で日本人の演奏家を聴くときにいつもぶつかる問題がこれだ。
 ジュジアーノが弾く「前奏曲集」はすっきりして、白色の光に照らされたショパンという感。色彩の変化といったものは感じられず、ただダイナミズムとメロディとが飛び跳ねつつ進行して行くという演奏だろう――といったら実も蓋もないが、音楽そのものは単調というほどではないのに、妙に先が見えてしまって飽きてしまうという演奏なのである。

1・30(土)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第4日)
ルイス・フェルナンド・ペレスのリサイタル

   サル・ヴィアルド (14時00分〜15時05分)

 ルネ・マルタン(総合プロデューサー)イチオシの若手ピアニストというルイス・フェルナンド・ペレスのリサイタルを、サル・ヴィアルドで聴く。容貌は遠くで見るとオトナっぽい。しかしこれは――流石に大物だ。強烈な自己主張がある。

 300人の小さなホールなのに、大ホールと同じフォルティシモを轟かせるのはどうかと思うが、しかし音には濁りが少なく、明るさと清澄さが保たれているのがいい(ピアノはスタインウェイだ)。表現もすこぶる多彩だ。
 「バラード第1番」が持って回ったテンポで始まった時には、もしかしたらポゴレリッチ系かとギョッとしたが、幸いにそうではなかった。しかし、遅いテンポの部分を、音を一つ一つ踏みしめるように演奏するタイプであることは確かである。

 「ワルツ 作品70の3」のあとに続いた「ノクターン」の「作品27」と「作品48」各2曲ずつの演奏は見事なもので、特に「作品27の2」での暗い圧迫感、深淵に誘い込むかのような暗鬱さは物凄く、昨日のルイサダよりも強烈だろう。「作品48の1」の中間部は、私が好きな毅然たる行進曲調の曲想だが、ここがこれほど轟き、牙を剥くような激しさで演奏されたのは聴いたことがなかった。

 照明を暗くして弾かれたこの曲までが、演奏の内容から言えば傑作に属するだろう。そのあとは何故か照明を明るくしてしまい、あたかもアンコールのごとき趣になったが、プログラムには当初から予定されていたものである――「ワルツ変ホ短調 遺作」、そして「スケルツォ第3番」。演奏もかなり解放的になった。

 手拍子に乗ったペレスがアンコールを弾こうとした途端、係員のおばさんが駆け寄って「ホールの時間切れ」を宣言。ブーイングが起こったが、それに対し、おばさんが「おお怖い!」という表情でおどけながら逃げ出してみせたため、場内は大爆笑に包まれ、和気藹々のうちにコンサートは終った。

 マルタンも認めていたことらしいが、ショパンの場合には作品の総演奏時間がそれほど多くないので、「ラ・フォル・ジュルネ」でプログラムを組む時には、かなり苦労もあるようである。
 しかも演奏される曲は、やはりある程度限られる。いきおい、同じ曲がいろいろなピアニストにより何度か演奏されることになる。他の作曲家の作品も交えて組まれるのは致し方ないことだろう。
 しかしそれゆえ、時間をおかずに、いろいろなピアニストにより好きな曲を聴き比べられる、という面白味がある。それがこの「ラ・フォル・ジュルネ」のいいところでもあろう。

1・29(金)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第3日)
ベレゾフスキーのショパン「ピアノ協奏曲第1番」

   オーディトリウム・フォンタナ (21時00分〜21時45分)

 同じホールで、ボリス・ベレゾフスキーがショパンの第1協奏曲を弾く。協演はドミトリー・リス指揮のウラル・フィルハーモニー管弦楽団。
 素っ気無いほどに勢いよく弾くが、粗っぽい感を与えないのが彼の持ち味であろう。このオーケストラも、昔聴いた時よりもだいぶ上手くなったようだ。

 時差ボケの治らないこちらの体力も、この頃には尽きた。「ショパンの葬式」と題されるコルボ指揮のモーツァルトの「レクィエム」など、深夜に及ぶ面白そうなコンサートも未だたくさんあったのだが、諦めてホテルに戻る。

1・29(金)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第3日)
ジョス・ファン・インマゼール指揮アニマ・エテルナ「幻想交響曲」

   オーディトリウム・フォンタナ (19時00分〜20時10分)

 さっきのホールではそのあとにミシェル・ベロフがモーツァルト、リスト、モシュレス、フンメルなどを弾くリサイタルがあり、これも聴きたいのは山々だったが、インマゼールとアニマ・エテルナへの期待もやみがたく、足を転じて1900席の大ホールに。
 この音楽祭では、ショパンに関連のある作曲家の作品も多数取り上げられている。その一つがこれだ。ベルリオーズの「幻想交響曲」。超満員で、結局立ち見になった。

 立ち見はいいけれども、演奏は全く何と形容したらいいものか。ピリオド楽器で「幻想交響曲」をやるのだから、あまりアテにはならないだろうと思っていたが、予想より更に悪く、もう少しちゃんと正確に演奏してもらいたいなと思うことしきり。
 こういう演奏で聴くと、ベルリオーズのこの作品が甚だバラバラな印象になる(整えられたレコードの音とはそこが違う)。当時の楽器で演奏するということだけを目標にして、アンサンブルやソロのパートの正確さを蔑ろにして何になるだろう。
 技術的な問題だけではない。この異様に遅いテンポの、しかもイン・テンポのインマゼールの解釈にも納得が行かない。ここでは、ベルリオーズの激情はすべて無視されている。ベルリオーズの音楽には古典的な端正さも重視されており、インマゼールはおそらくそこに立脚点を置いているのだと思われるが、あまりそれに偏るのも問題だろう。

 第4楽章(断頭台への行進)が終った瞬間に、まるで演奏終了時のような盛大な拍手が起こってしばらく続き、そこで帰りかける客が何人か出現したのには仰天。


1・29(金)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第3日)
ジャン=マルク・ルイサダのリサイタル

   サル・グルジマーラ (17時00分〜18時10分)

 17時15分からの「作品全集年代記第5回」を聴くつもりでいたが、タイムテーブルをめくっていたら、17時から他のホールでジャン=マルク・ルイサダが「ノクターン選集」を弾くというのを発見。たまには個人リサイタルを聴くのもよかろうと聴きに行く。  
 座れたのは最後部の記者席で、アコースティックの関係でピアノは遠く聞こえたけれども、ルイサダのピアノの雄弁さは、やはりずば抜けていた。

 プログラムは「作品9」の3曲、「作品27」の2曲、それに「作品62の1」と作品48の1」。
 ついさっき、ケフェレックやヌーブルジェやエル=バシャが弾いた作品9の「ノクターン」とは、何という違いであろう。和声が――殊更に強調されているわけでもないのに――はっきりと浮き彫りにされ、したがって曲がとめどなく転調して行く模様が明確に聴かれ、しかもそれが鮮やかな色合いを以て変化して行くのである。演奏が始まった途端に「ああ、こういうショパンもまだあった!」という想いがこみ上げてきて、体全体が温まるような感動が沸き起こって来る。
 さっきの演奏と比べると、ここではショパンの作品そのものが、完全に変貌してしまったかのようだ。
 ヌーブルジェが如何にいいセンスを持っていようと、ルイサダのこの感情の豊かさに比べれば、まだまだ子供のようなものである。

 こういう、作品の描き出し方の違いを、ほんの数時間の差の中で聞き比べる事が出来るのが「ラ・フォル・ジュルネ」のいいところであろう。
 ルイサダは、そのあとにアンコールとして、ショパンの「スケルツォ第1番」と、シューマンの「楽しき農夫」を弾く。客は沸いた。

1・29(金)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第3日)
アコーデオン・グループ 「モーション・トリオ」

   グラン・ホール (随時)

 シテ・デ・コングレの中央ホワイエは、無料のコンサート会場になっており、そこではポーランドの民族舞踊や民族楽器のアンサンブルによる演奏が盛んに行なわれている。
 アコーディオンのバンド「モーション・トリオ」は、ショパンのピアノ曲を編曲して演奏していた。この編曲がなかなか巧い。なるほどショパンはこういう音楽にも化けるのか、と妙に感心させられる。

1・29(金)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第3日)
ショパンのピアノ作品全集第4回 1830〜1832年

   サル・フランショーム (14時〜15時)

 こちらサル・フランショームは、450席の会場。
 最初に「ノクターン」の「作品9」の3曲をアンヌ・ケフェレック、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ、アブデル・ラーマン・エル=バシャが1曲ずつ弾き、そのあとにヌーブルジェが「スケルツォ第1番」と「エチュード 作品10」の全曲を弾いた。

 ホールのアコースティックのせいか、それとも席の位置のせいだろうか、ヌーブルジェの演奏は、先日東京で聴いた時よりも、さらに鋭角的で張り詰めたものに聞こえる。ショパンの和声的なふくらみや情感は切り捨てられ、極度に神経質で青白い緊迫感に支配されている、といったらいいか。よく言えば火の出るような、切り込むような演奏であり、悪く言えば叙情も余情もない、割り切った演奏であった。
 こういうショパンを弾く若手ピアニストは最近とみに多く、それを支持する聴衆も多いだろう。それは一刀両断的な痛快さと明解さに満ちてはいるが、こちらの神経が少し疲れ気味の時に聞くと、はなはだ落ち着かない気分に追い立てられる。

 不思議にこの回の演奏では、ケフェレックでさえ、同様の傾向に近づいているように聞こえる。エル=バシャなど、3人のうちでは最も落ち着いた演奏を聞かせている人ではあるものの、それでも最近のスタイルに合わせているような傾向さえ感じられたのであった。

1・29(金)ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」(第3日)
ショパンのピアノ作品全集第3回 1828〜1830年

   サル・グルジマーラ (10時45分〜11時50分)

 前夜遅くロワール河畔の街ナントに入る。空気は冷たいが、雪は全くなく、朝の雨も上って日中は快晴、爽やかそのものだ。
 今年の第16回「ラ・フォル・ジュルネ」のテーマは「ショパン」。

 会場は「シテ・デ・コングレ」(ナント市国際会議場)というフォーラム式の建物で、一つの建物の中にいろいろな大きさのコンサートホールまたは広間――本来は会議場だろう――が集まっているところは、東京の「ラ・フォル・ジュルネ」会場である有楽町の「国際フォーラム」と同様だ。
 建物は日本よりも小ぶりだが、会場の数はむしろ多いだろう。大ホール(1900席)からサロン(80席)までさまざまだが、各ホールには今回のショパンのテーマに合わせ、彼にゆかりのある友人たちの名前が付されているのが洒落ている。
 今回各ホールで行なわれるコンサートは総計241回とのこと。とにかく、その中から好みに合いそうなのを選んで聴いて回る。

 ショパンの年代別作品のプログラムで構成されている「アンテグラル」は面白い。
 今日は子供の団体鑑賞が入っていて、かなり騒々しい。このホールは800席で、ピアノ・リサイタルの大きさとしては手頃だが、会議場的なアコースティックだから、ピアノには些か苦しかろう。
 出演者は、アンヌ・ケフェレック、アブデル・ラーマン・エル・バシャ、児玉桃、イッド・バル=シャイ、ケフェレック(再)、最後にフィリップ・ジュジアーノという順番で、ショパンの1828〜1830年の作品を、それぞれ1〜5曲ずつ弾く。

 プログラムには、「作品6」の4つのマズルカ、「作品7」の5つのマズルカを中心に、他数曲のマズルカが並び、その他ポロネーズ(1曲)、ノクターン(1曲)、ワルツ(3曲)という具合。児玉桃は「作品69の2」のワルツを弾いた。

 それぞれのピアニストの個性の違いを聴き比べるという点でも面白いが、どちらかといえば概して端正な弾き方をするピアニストが続き、また作品の配列も――それなりに考えられた流れではあるけれども――山あり谷ありという構成ではないので、一つのコンサートの中で山場を作るというわけには行かないのが、多少平板な印象を与えるだろう。ただ、選曲の狙いとしては興味深いのは事実である。
 ピアノは何故かあまりふくらみのない、キンキンした音がする。会場の音響のせいもあるだろうが、ピアニストたちの弾き方も多少関係しているのではなかろうか。といって、エル・バシャやケフェレックや児玉がああいう音を出すというのはちょっと信じられないことだが・・・・。

1・26(火)METライブ・ビューイング
オッフェンバック オペラ「ホフマン物語」

   東劇(東銀座)

 昨年12月19日上演の映像配信。バートレット・シェールによる新演出。ジェイムズ・レヴァインが指揮している。

 案内役を担当するデボラ・ヴォイトのインタビュー(要を得ていたが、かなり時間に追われている雰囲気も)によって引き出されたシェールはじめスタッフの話によれば、この演出や舞台装置は、カフカとフェリーニ(81/2)の影響を受けていて、主人公ホフマンは常に「疎外された人物」として描き出されているという。
 なるほど、オッフェンバックがユダヤ系だったこととの関連を考えれば辻褄の合う発想ではある。が、肝心のホフマンを歌ったジョゼフ・カレーヤの演技が単純未熟なので、口で説明されない限りコンセプトは解るまい。

 第1幕の「オランピア」と第3幕の「ジュリエッタ」は、いずれも享楽的な場面。ひしめく群衆と舞台装置の豪華さがMETの観客を喜ばせているようだ。が、カメラに収められた映像で観ると雑然とした印象になってしまい――カメラワークが平凡なせいもあるのだが――その絢爛ぶりを堪能できるまでには至らない。
 むしろ、シンプルな舞台の第2幕「アントニア」の方が、映像で見た場合には栄える。しかもこの場では、アントニアを歌うアンナ・ネトレプコ(ステラ役を兼ねる)の安定した歌唱と迫真の演技が際立っている。ここは、全曲中随一の見どころ・聴きどころだろう。

 リンドルフ、コッペリウス、ミラクル、ダッペルトゥットの4悪役は、スキン・ヘッドで黒衣装のアラン・ヘルドが歌ったが、それほど凄味はない。
 人形オランピアを歌い演じたキャスリーン・キムは大熱演で、声楽的にもしっかりしている。何故か冴えなかったのがジュリエッタ役のエカテリーナ・グバノヴァで、音楽的にも演技的にも埋没してしまった感であった。

 ニクラウス(ミューズ役を兼ねる)を全篇出ずっぱりにして、あたかも男性版クンドリのように善悪両面の役柄を持たせたのは面白い発想だが、友人ホフマンの愛の行動をのべつジロジロ見ながら歩き回っている光景は、だんだん鼻についてくる。歌い演じているケイト・リンジー(メゾ・ソプラノ)は、なかなか手堅い。ヴォイトは「マレーネ・ディートリヒのような衣装」と評していたが、私には「チャーリーとチョコレート工場」のジョニー・デップが居るように見えてならなかった。

 総じてこのシェールの演出、中庸を得てはいるが、人物の心理表現に関しては、やや大雑把なところがあろう。アップの多い映像で観ていると、それが気になって来る。
 またこの版ではラストシーンで、ホフマンの夢が醒めたという設定に基づき大合唱のアンサンブルが繰り広げられるが、3人の恋人や4悪役も整然と並んで詩の芸術を讃えて歌う光景は、音楽の雰囲気も含め、何か昔のアメリカのミュージカル――たとえば「回転木馬」のラストシーン――のよう。もう少し何か工夫がないのかと思わせられる。ただしこのテは、2003年のザルツブルク音楽祭での上演を演出したデイヴィッド・マクヴィカーも使っていたものだ。

 指揮のレヴァイン。健康回復はめでたい。だが、音楽の緊迫度がめっきり衰えたような感じなのが気になる――。

1・23(土)上原彩子ピアノ・リサイタル

   サントリーホール (マチネー)

 「週刊新潮」ガイド欄で、「バッハの平均律クラヴィア曲集を皮切りにベートーヴェン、リスト、現代ものまで縦横に弾く」と紹介されていた上原彩子のリサイタル。

 プログラムの選曲からして、そのバッハの「平均律クラヴィア曲集」第1巻からの第1、7、8番に始まり、タネーエフの「プレリュードとフーガ 嬰ト短調」、ベートーヴェンの「ソナタ第30番」、リストの「バッハの《クルチフィクス》による変奏曲」、西村朗の「薄明光」、リストの「ラ・カンパネラ」と「ペトラルカのソネット第47番」「同第104番」および「ハンガリー狂詩曲第2番」と続き、アンコールにはショパンの「別れの曲」およびカプースチンの「8つの演奏会用エチュード」からの「プレリュード」――と、なるほどこれは「縦横」そのものだ。

 バッハが開始された瞬間、そのまろやかで豊麗で温かい分散和音の響かせ方に、上原彩子の音楽上の主張が一瞬にして示されたように思われる。ベートーヴェンのソナタからなぜ叙情的な「第30番」が選ばれていたのか、その答えもここで予告されていたかのようだ。
 バッハのあとにタネーエフの作品を置くという意表を衝く選曲も――単に「プレリュードとフーガ」という性格から来る共通性ということ以上に――第1部の3曲をヒューマンな情感で満たす演奏スタイルで統一しようという狙いの中で着想されたのではなかろうか? 
 ただこれは、こちらが彼女の演奏を聴きながら勝手に作り上げた理屈であって、彼女自身にはまた別の考え方があったかもしれない。

 第2部のリストに入ると、音色は一変して、鮮烈かつ豪壮強靭なものになる。
 圧巻は「変奏曲」であった。特にコラール風の終結に向かって音楽がみるみる聳え立って行くコーダでの緊迫感は凄まじく、息を呑まされたほどである。

 「ラ・カンパネラ」あたりでは何か演奏が抑制されたようになって、音楽の流れを明るく転換させるという雰囲気にならず、聴き手の緊張を別の意味で途切れさせる向きもないではなかったが、それでも基本的に彼女の強い集中力は卓越したものがある。リサイタル全体に濃密さが感じられたのは、そのためもあろう。

 それにしても、ヤマハのピアノからかくも豊麗で晴れやかな、あるいは透明ですっきりした、時には原色的なほど鮮やかな音色を引き出す彼女のピアニズムには、驚嘆させられる。あのチャイコフスキー国際コンクール優勝後の何年間か、彼女がヤマハの広告塔として使われている模様がありありと感じられ、われわれは眉を顰めたものだが、今では音楽家としての彼女の方がヤマハのピアノを完全に征服、支配してしまっているようだ。

 上原彩子の成熟は紛れもない。今後の活躍が楽しみである。

1・22(金)マリン・オルソップ指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール

 アメリカの女性指揮者、ボルティモア響音楽監督のマリン・オルソップが客演。バーバーの交響曲第1番ホ短調と、マーラーの交響曲第1番「巨人」を指揮した。
 最近の女性指揮者に多いタイプの、きびきびした指揮ぶりだ。カーテンコールでコンサートマスター(藤原浜雄)と握手したり答礼したりする動作も実にすばやく、目まぐるしい。

 その雰囲気が、指揮にも表われているだろう。「巨人」第4楽章大詰めでの追い込みなど、あたかも天馬空を行くがごとき軽快なテンポである。オーケストラから引き出す響きも全体に明るく、透明な音色をも随所に聴かせ、爽やかさをあふれさせている。
 かようにおどろおどろしくない「巨人」も、また一つの解釈として面白い。
 今日は読売日響の立ち上がりが2曲とも悪く、特にトランペットやホルンがフラフラしていて、いずれも曲の前半ではどうなることかという雰囲気もあったのだが、幸いに「巨人」ではオーケストラ全体が復調するにつれ、この指揮者らしい勢いの良い音楽が噴出するようになった。

 ただし、バーバーの交響曲の方では、ゆっくりしたテンポの底流に沸騰するはずの力感が今ひとつ伝わって来ないもどかしさが終始ついてまわった。読売日響がこの曲に慣れていないせいだったのかどうかは判らない。
 とはいうものの、わが国では滅多に演奏されることのないこのような佳品が定期公演で紹介されたことは、大いに意義深いだろう。

1・19(火)METライブ・ビューイング
プッチーニ「トゥーランドット」

  東劇(東銀座)

 METの定番、フランコ・ゼッフィレッリ演出による絢爛豪華なプロダクションの映像配信。
 1987年の上演ライヴがDVDで出ているが、あれと基本的には同じ舞台だ。すでに四半世紀にも及ぶ長命な歴史を持つプロダクションだが、いまだに人気が衰えないようである。たしかに、これだけ手間とカネのかかった壮麗な舞台装置は、もう2度と出て来ないだろう。そういった意味でも、これは保存する価値が充分であることは事実だ。

 ただ、ゼッフィレッリの威光がまだ健在だった頃に記録されたDVDの映像と比較すると、今回(昨年11月7日上演のライヴ)の舞台は、登場人物たちの細かい演技の部分で、やはり隙間を感じさせる。これは、年月の経ったプロダクションを上演する際に、必ず付きまとう問題である。その時の舞台監督なり、演出補佐なりの感性と力量に由って左右されるだろう。

 今回の配役は、トゥーランドットをマリア・グレギーナ、カラフをマルチェロ・ジョルダーニ、リューをマリーナ・ポブラフスカヤ、ティムールをサミュエル・レイミーという布陣。
 グレギーナは再び丸々とした顔付きになり、声も一頃のドラマティックな迫力が薄れ、発音もかなり甘くなって来たようだが、流石にここぞという時には決める。時々ニタリと笑って見せるのは「冷酷な姫の不気味な冷笑」のつもりなのだろうが、彼女の場合にはそれがニコッ、と見えてしまい、さっぱりサマにならないのが困る。
 一方、ジョルダーニの方は、演技は全くの大根。DVDにおけるドミンゴのあの劇的な表情と比べると、天と地ほどの差だ。
 総じて今回の舞台が平板で単調に感じられたのは、他の2人も含め、主役たちの演技が甘いからであろう。むしろピン、パン、ポンら、3人の役人の方がずっと生き生きしていたくらいである。

 指揮は、最近日の出の勢いにあるアンドリス・ネルソンス。彼の音楽の良さが、この上演のハイライトであろう。
 テンポを抑制気味に、叙情面を強く打ち出した指揮で、派手さはないけれども音楽の美しさを充分に再現していた。先日ベルリン州立歌劇場で聴いた演奏(あの時はベリオ追補版だったが)と共通した印象ではあったが、今回はMETのオーケストラの良さもあるのだろう――この音楽にこれほど官能的な要素があったのかと改めて驚かされるほど、ニュアンスの細かい指揮を聴かせてくれていた。

 このMETビューイングのシリーズ、今春は「ホフマン物語」「ばらの騎士」「カルメン」「シモン・ボッカネグラ」「ハムレット」「アルミーダ」と続く。札幌から福岡まで各都市で、各1週間ずつ(1日1回)の上映だ。観ておいて損はないと思う。   
    http://www.shochiku.co.jp/met/  
 今週土曜日からの「ホフマン物語」(新演出)を楽しみにしているところだ。いつもこの上映を観ると、現地に行きたい気が澎湃として起こって来る。デセイの「ハムレット」、ゲルギエフの「鼻」、ムーティの「アッティラ」などが集中する3月には行きたいと思っているのだが――。
 

1・15(金)矢崎彦太郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
「フランス音楽の彩と翳」第16回

   東京オペラシティコンサートホール

 マスネの組曲「アルザスの風景」、ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」、最後にマニャールの第4交響曲。
 日本のオーケストラの定期の中では極めて珍しいプログラムだ。これを聞き逃すというテはない。

 矢崎&シティ・フィルの「フランス音楽の彩と翳」は、これが第16回。
 私も全部聴いているわけではないが、ふだんあまり演奏されない作品も数多く取り上げられており、すこぶる意欲的なシリーズである。
 レパートリーも演奏内容も上質なので、一度このシリーズを聴いた人はみんな絶賛するのだが、惜しむらくは、人気が一般的になっていない。シティ・フィルのPRがそれほど積極的でないし、矢崎彦太郎の存在も地味であるというせいもあろう。

 プログラム前半の2曲――これはすこぶる豪壮な演奏であったが、「アルザスの風景」は、フランス人が夢見る田園アルザスというより、ドイツ占領下のエルザスといった趣きであり(確かにこの曲が書かれた時代はそうだった)、「フランス山人の歌による交響曲」も、セヴェンヌの牧歌というよりむしろ、霧のアルプス連峰という感じ。
 つまり、オーケストラが非常に重く、しかも細部の明晰さを欠いた飽和的な響きに聞こえたのである。

 ただこれは、こちらが聴いた平土間後方下手寄りという席の位置も影響していたかもしれない。
 矢崎彦太郎ともあろう人が、こんな重いフランス音楽をやるはずもあるまい――と、演奏の特質を誤解することのないよう、休憩後は3階中央の席に移動して検証してみることにした。これは、仕事上、行なったことである。

 予想通り、こちらで聴くと、響きは極めてクリアーになり、内声部の動きさえも明晰に聞こえてくる。マニャールのこの交響曲は、いわゆる洒脱とか透明さとかいった特徴からは遠い音色だが、それでも彼の特徴たる精緻な作品構築の手法は、誤りなく再現されていた。演奏の緊迫度も充分であり、まず今日の演奏の中でも白眉といえる存在――と賞賛しておきたい。
 最初の2曲も、この場所で聴けば、もっと印象が違ったかもしれず、惜しいことをした。

 ダンディの交響曲でのピアノ・ソロは、相沢吏江子。久しぶりに聴いた。スケールの大きさを増した演奏と感じられたが、概してこの曲では、咆哮するオーケストラに音が消される傾向にあるため、その本領はしかとは解らないのが残念。
 
 ちなみにアルベリック・マニャール(1865〜1914)は、マスネとダンディに学んだ作曲家で、第1次大戦勃発の年、自宅敷地内に侵入して来たドイツ軍を相手に単独で銃撃戦を行ない、壮烈な戦死を遂げた人として知られている。なんとも勇敢な音楽家だ。

1・14(木)ズデニェク・マーカル指揮プラハ交響楽団

  サントリーホール

 「マーカル指揮――」のポスターが出ているロビーで、レコード売り場のスタッフが「マーツァルのCDをお買い上げの方にはサイン会を――」と叫んでいる。どっちの表記も正解らしいから、それぞれ譲らないようだ。
 指揮者ご当人は「マ(−)カルと(英語読みで)呼んでくれ」と言っていたのを私も直接聞いている。「のだめカンタービレ」のビエラ先生役での表記も、TVでは「マカル」となっていたはず。もっとも、パーティではチェコ大使館の人が「ミスター・マチャル」と呼んでいたっけ。

 それはともかく、プラハ響と、首席指揮者イルジー・コウトの代役として来日したマーカルとが今日演奏したのは、「未完成交響曲」、ショパンのピアノ協奏曲第1番(ソロは仲道郁代)、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」の3曲だった。

 ショパンの協奏曲を除く2曲は、今回の日本ツァーの中では、今日だけのプログラムである。
 「未完成」は、あまり念入りに練習したとも思えない演奏ではあったものの、冒頭の低弦の渋いが艶やかな光を放つような音色にハッとさせられたのをはじめ、全曲に流れる温かい情味のようなものに、不思議な懐かしさを抱かせられる。

 「シンフォニエッタ」は、多分彼らにとっては、体の中に染み込んでいる作品であろう。この演奏にあふれていた郷愁的な雰囲気は独特のもので、ヤナーチェクの音楽がこれほど柔らかく温かく演奏されるのを聴いたことは、めったにない。特に中間の3つの楽章では、作曲者の晩年の滋味といったものが浮彫りにされていたように思われる。
 P席のオルガンの下にずらり並んだ11人の金管ファンファーレは日本勢だが、これはなかなか強力で、2階正面の席からは、オーケストラを霞ませるほどの勢いに聞こえるほどだった。したがって終楽章の大詰めなど、ファンファーレを受けて沸き立つオーケストラ本体の響きにもっと陶酔的な凄味も欲しいなと感じたのも事実である。
 だが総じて、ただの賑やかで騒々しい作品に堕することなく、しっとりした美しさに重点を置いた演奏になっていたのは、マーカルとこのオーケストラの一つの見識であろう。

 協奏曲は、これも柔らかい音楽だった。仲道郁代のソロも同様、特に第2楽章での詩的な表情に満ちた演奏は出色のものであろう。久しぶりに彼女のショパンの協奏曲をナマで聴いたが、この温かい――というよりは「暖かい」の字を使った方がぴったりの演奏は、極めて快いものであった。

1・13(水)札幌室内歌劇場東京公演 オルフ:歌劇「月を盗んだ話」

   新国立劇場小劇場

 これは新国立劇場の「地域招聘公演」の一つとして行なわれたもの。
 2005年に新国立劇場運営財団が開始した「全国各地の優れた舞台作品を招聘して上演」するシリーズの一環である。

 といっても、新国立劇場がすべての制作費を持つわけではなく、「各地の舞台創造団体との共催」だから、招かれる方も、それ相応の費用を分担しなければならない。今回は13日から、なんと連続4日間もの東京公演だ。札幌側も随分気張ったものである。「札幌のチカラ」とでも言うべきか。

 しかし、昨年9月27日に札幌で観た時よりも、上演の出来は格段に良くなっていた。照明も美しくなり、舞台の流れも円滑になったし、演技の表現もかなり改善された。セリフまわしは相変わらず大時代的だが、それでも「わざとらしさ」はかなり減少した。
 カール・オルフ独特のリズミカルな音楽に日本語訳詞を乗せて歌うのは至難の業だったと思うが、前回同様、4人の村人や亡者たちのアンサンブルの歌詞発音の明晰さには感心させられる(これは絶賛されていい)。
 また、5人の奏者用に編曲された器楽アンサンブルの演奏も、今回はいっそうリズム感も明解になった。それゆえ、オルフの音楽の特徴は、ある程度までは伝えられていたであろう。

 とはいうものの、地方のオペラが良くやっている――という褒め言葉のみに受け取られかねない賛辞を並べただけでは、札幌室内歌劇場に対してむしろ失礼になるだろう。それゆえ今回も、同歌劇場のみなさんに敬意を表して、正直な意見を若干述べさせていただく。
 最大の疑問は、オペラの後半――墓場の亡者たちの狂乱からペトルス(聖ペテロ)の登場、亡者たちへの彼の説教、彼の手で「月」が空に戻されて全てが平穏に治められるまでの流れが、前回同様、緊迫感に乏しく、劇的な昂揚を欠くことにある。

 これは、ペテルス役の歌手の発音が明晰さに不足することと、彼の歌唱および小編成の器楽アンサンブルが、遅いテンポを保ち切れないことにも原因があるだろう。全体に間延びした印象を拭いきれないのだ。大編成と小編成では、テンポの設定も変わっていいのではないか? セリフから音楽に移る瞬間の「間」を今ひとつ短くしただけでも随分印象が変わると思うのだが――。
 そしてまた、ペテルスが星を地上に投げつける光景が舞台上に具体的に描かれないと、亡者がパニックを起こす理由が理解されにくいだろう。
 要は、結果として、この物語の真の寓意が観客にどれだけ解り易く描かれていたかということである。

 芸術監督と編曲・訳詞は岩河智子、演出は中津邦仁、指揮は柳澤寿雄、美術は三宅景子。今回の東京公演では、照明を奥畑康夫、舞台監督を八木清市が担当している。
 

1・10(日)下野竜也指揮 読売日本交響楽団

   横浜みなとみらいホール (マチネー)

 ロッシーニの「結婚手形」序曲もそうだが、スッペの「ウィーンの朝・昼・晩」「怪盗団」「美しきガラテア」「スペードの女王」といった序曲をまとめてコンサートで聴く機会など、ふだんはまず無いと言ってよかろう。
 意欲的な若手指揮者の下野竜也は、珍しい作品を掘り出しては聴衆に紹介するという良い仕事を常日頃から進めているが、スッペの序曲集とはちょっとした穴場的なレパートリーである。面白いところに目をつけたものだ。

 読売日響はこういう傾向の曲には慣れていないらしいから、才気煥発・軽妙洒脱という雰囲気を出すのは無理なようである。しかし、演奏は立派でちゃんとしているし、特にスッペは適当に賑やかで元気がいい。したがって、かなり楽しめた。ロッシーニでのホルンはお見事。

 この他にプログラムに含まれていたのは、ドヴォルジャークの「ヴァイオリン協奏曲」。ロシア系の若手女性奏者リザ・フェルシュトマンの演奏は瑞々しく、音色も爽やかだ(写真とはだいぶ雰囲気の違う人だが・・・・)。惜しむらくは、オーケストラが重く暗い。特に第1楽章では「下野のドヴォルジャーク」にふさわしい活気に不足した感もある。

 後半のスッペ4曲が終ってから、下野が彼らしくユーモアあふれる新年の挨拶を行ない、聴衆を寛がせる。「今年も読売日響をよろしくお願いいたします」と拍手を浴びたあと、「お願いばかりじゃ申し訳ないので、もう1曲」と聴衆を爆笑させ、アンコールとして演奏したのは「軽騎兵」序曲。ただし演奏は、本プロでの4曲ほどには盛り上がらなかった。読響メンバーがスッペに飽きたのかしらん?

1・8(金)大友直人指揮東京交響楽団定期

  サントリーホール

 英国の作曲家グラハム・フィトキン(1963〜)のピアノ協奏曲「RUSE」の日本初演。「委嘱新作」となっているので、東響の委嘱かと思ったのだが、詳細は記されていない。ソリストは、キャサリン・ストット。

 これはソロ・ピアノ及び弦5部とティンパニ2人のための20分ほどの作品。ティンパニとピアノがそれぞれ奏するリズミカルな短いモティーフが基盤となって展開されて行く。
 作曲者のコメントを読むと「不安定の中の不意の変化」が強調されているが、それは概してソロ・ピアノのパートのみに聴かれる特色だろう。弦楽器群にあってはむしろ叙情的な流れが優勢になっているため、全体としては美しい作品という印象が残る。

 その他の曲目は、シューマンの「序曲、スケルツォとフィナーレ」およびベートーヴェンの第7交響曲。いずれも平穏で穏当な演奏。「7番」ではオーボエが強力。

1・3(日)NHKニューイヤーオペラコンサート

  NHKホール

 今年はオペラの歴史を俯瞰。パーセルからR・シュトラウスまでのオペラのアリアや重唱を、寺田農の物々しいナレーションでつなぎながら聴かせて行くという構成。

 登場した歌手たちは17人。昨年とはかなり顔ぶれが違う。
 大型新人として期待されながらも思ったほど進歩していない歌手もいるし、これではとても世界には通用しないと思われる歌手もいる。その反面、さすがベテランと感心させられる名手もいる。
 だれとは言わぬが、PAを使っていた人もいたらしい――1階中央で聴いていると、声の位置が突然変わって来るのが判る。

 歌唱の面で私の印象に残った人たちを挙げれば次の通りだ――「魔弾の射手」のカスパールを歌った松位浩、「ローエングリン」のオルトルートを歌った小山由美、「オテロ」でタイトルロールを歌った福井敬とヤーゴを歌った堀内康雄、「トスカ」のカヴァラドッシを歌った佐野成宏。

 その中でも1人をと言われれば、やはり堀内康雄を挙げるだろう。
 彼を凌ぐ存在があったとすれば、「イゾルデの愛の死」を歌うはずだった藤村実穂子だろうが、出演中止になってしまった。口惜しがったのは私だけではないはずである。

 演奏は沼尻竜典指揮の東京フィル。前半では比較的綺麗な音を出していたが、後半の「ローエングリン」では木管と高弦にPAを使ったのか、突然異様なバランスになった。舞台後方の合唱にかけられていた電気的エコーについても同様、音響調整をやるならやるで、NHKともなればもう少し巧くやってもらいたいものである。

12・23(水)ウィーン第4日 ヴェルディ:「運命の力」

   ウィーン国立歌劇場

 デイヴィッド・パウントニー演出のプロダクションだが、既にルーティン公演化している様子。
 舞台全体に一種のタガの緩んだ雰囲気を感じさせる。

 その上、この19日にハウス・デビューを行ったという2人の主役歌手――ドン・カルロ役のマルコ・ディ・フェリーチェおよびドン・アルヴァーロ役のフランチェスコ・ホンが、いずれも声は大変いいのだけれども、演技は「棒立ち・手拡げ」で、視覚的にもドラマとしての緊迫感がないのだ。
 特に後者、韓国のソウル生まれでイタリアに学んだというホンは、終始――重傷を負ってベッドに伏している時だろうと、決闘している時だろうと――客席を向いて両手を拡げるか片手を差し延べて歌うという有様である。こういうのを見ていると、イライラを通り越して腹が立って来る。
 どこでオペラを学んだのか、今回誰も彼に演技を教えなかったのか。

 これならいっそ、たとえ視覚的に煩わしくても、人間が生きているムジークテアター系の演出の方がどれだけマシか、とさえ思ってしまう。

 終幕では、カルロが舞台上で妹レオノーラを射殺し、息絶える。兄の死体に覆いかぶさって息を引き取る彼女を、グァルディアーノ神父とともに悼んでいたアルヴァーロは、やがて独り背景にとぼとぼと歩み去る。彼があたかも自殺へ向かうかのような演出だが、これは初版のイメージを折り込んだものだろう。もっとも、ホンの演技がなっていないから、寂寥感など全く出ないが。

 指揮はパウロ・カリニャーニ。序曲(シンフォニア)から音符やフレーズの細部に精妙なアクセントを施し、オーケストラのバランスを巧みに制御しつつ、なかなか神経の行き届いた指揮を聴かせていた。
 この人のオーケストラ・コンサートはこれまでにも何度か聴いているが、オペラを聴いたのは今回が最初だったような気がする。演奏にも起伏があって、かなり聴き応えがあった。

 しかし、オーケストラそのものの演奏水準はあまり芳しくない。このところ何シーズンか、たった数個ずつの公演ではあるが聴いて来た印象に過ぎないけれども、ウィーン国立歌劇場管弦楽団のレベルは、かなり低下しているのではなかろうか?

 主役2人は、演技こそお粗末だが、しかし声は若々しく素晴しく、特にホンの良く伸びる高音域は痛快なほどである。まともに演技を勉強すれば、屈指のテノールになれるだろう。アリアの後の拍手は、彼に対してのものが一番長かった。
 レオノーラはニーナ・ステンメ。細かいニュアンスに富んだ歌唱で、私は結構気に入ったのだが、何故か拍手があまり来ない。

 もっとも、これらの歌手のいずれも、グァルディアーノ神父役のフェルッチョ・フルラネットの歌唱――ヴェルディのオーケストラにぴたりと乗り、ぴたりとはまる、完全無欠といってもいいほどの歌唱の前には、やはりまだまだ異質の感を免れないだろう。
 歌手では他に、メリトーネ神父を歌ったソリン・コリバンも良かった。
 プレツィオシルラを歌ったナディア・クラステーヴァは、西部劇のカラミティ・ジェーンばりの、ピストルを腰に帯びたいでたち。短パンとブーツにスラリとした足がカッコよかったが、肝心の歌はそれほど上手くない。「戦争讃歌」を歌う場面では、自ら左腕を負傷した姿で無理して歌ってみせるという演出が施されていたが、今どきとしてはまあ手頃な解釈だろう。

 カーテンコールでの拍手とブラヴォーは、ホンへのそれが随一。しかしたった一人、私の後ろでブーを飛ばしていたのがいた。演技に対してなのか、それとも人種的偏見なのかは判らない。

 7時開演で、第2幕の後に休憩1回、10時終演。
 かなり暖かくなった。市内の雪もほぼ消えたようである。

12・22(火)ウィーン第3日 サイモン・ラトル指揮「トリスタンとイゾルデ」

     ウィーン国立歌劇場

 サイモン・ラトルが指揮するワーグナーは、これまでにもエクサン=プロヴァンス&ザルツブルクでの「指環」と、ここウィーンでの「パルジファル」を聴いて来たが、今回の「トリスタン」での指揮は、それらと些か趣を異にする印象であった。
 もともと彼のワーグナーは、所謂「うねる」音楽ではないけれども、ここではそれに輪をかけて、非常に直線的な、極度にメリハリのついた演奏になっていた。

 端的な例は、「ブランゲーネの警告」の音楽であろう。和声が夢幻的に移ろいながら滑るように転調して行くのではなく、2小節ごとに、はい次、はい次、とけじめをつけながら進んで行くといった感じなのである(こういう「トリスタン」は、昔ベルリン・ドイツオペラの日生劇場公演で、若きマゼールが指揮したのを聴いて以来の体験だ)。

 彼がベルリン・フィルと演奏した「指環」では、巨巌のような剛直さの中にも極めて微細精妙なニュアンスを織り込んでいたものだが、この「トリスタン」では、むしろ細部にこだわらず、エネルギッシュに押し流して行くスタイルを採っていた。
 しかもラトルは、オーケストラを、際限なく轟々と鳴らす。歌手の声が聞こえようと聞こえまいと、オーケストラをしてすべてのドラマを語らせる、といった調子なのである。
 このようにオーケストラに主導権を持たせることは、ドイツの歌劇場では珍しくないが、それにしてもこれは極端だ。少なくとも1階平土間12列あたりで聴く限り、最強奏の際には、歌手の声は全滅である。

 とはいうものの、たとえ物理的に声が聞こえなくても、すべて聞こえているような錯覚に陥るのが、この作品、この演奏の不思議なところなのである。――演奏の仕方が巧いのか、それともわれわれがこの作品を既に熟知している所為なのだろうか?

 演奏に、官能的な色合いが皆無だったというわけではない。
 第3幕での、トリスタンがイゾルデの到着をひたすら待ち望むくだりの最後の部分、「Ach,Isolde,Isolde!」の個所や、大詰め「愛の死」で音が溶解して行くところなどでのオーケストラには、ハッとさせるような豊麗な音楽があふれていた。叙情的な部分での音楽の美しさは、あくまで失われていなかったのである。

 歌手陣は、トリスタンがロバート・ティーン・スミス、イゾルデがヴィオレータ・ウルマナ、マルケ王がフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ、クルヴェナールがボー・スコウフス、ブランゲーネがイヴォンヌ・ナエフという錚々たる顔ぶれ。何を不服を言う必要があろう、と思えるほどの歌唱であった。

 演出はギュンター・クレーマーで、この劇場の既に定番となっているプロダクションである。第1幕でブランゲーネが「愛の媚薬」を用意するくだり、飲み物を2つ用意していたが、彼女が差し出したのと別のグラスから2人が飲んでしまうという設定は、ちょっと捻ったアイディアに見えるものの、あまり理屈に合わないように思えるのだが如何だろうか。

 第2幕冒頭での「松明の火」が、イゾルデが持参していた昔の許婚、故モロルトの人型をした甲冑の胴体部分から燃え上がっているのは、筋書きとしては象徴的だが、見た印象としては私には非常に不快だった。まるでモロルトの死体が燃えているように見えるのである。

 第3幕では、トリスタンの苦悩を見かねた忠実なクルヴェナールは、牧童に偽りの角笛を吹かせ(たと思わせ)て、イゾルデが到着するかのように主人に錯覚させる。が、その後は現実と幻想の綯交ぜの世界で、このあたり、もう少し巧くやってもいいのではないかと思うが、そこがクレーマー、舞台づくりはあくまで渋く、ことさら明解さを避けたような手法だ。
 「愛の死」のあと、イゾルデが片手でトリスタンの眼を、もう一方の手で自らの眼を覆ったまま立ちつくす幕切れは、いろいろな解釈を連想させて印象的であった。

 なお今回は、第2幕の2重唱の前半に大幅なカットがなされていた。天下のウィーン国立歌劇場で、昔ならともかく、今でもこんなことが行なわれているとは情けない。ここの慣習か? しかし2003年にティーレマンがここで振ったライヴのCDでは、カットは施されていなかった。ラトルの発想か? それとも劇場の慣習に妥協したか?

 5時半開演で、10時15分終演。今日あたりから晴天になって、気温も大分上がってきた。舗装道路といえど雪解けで、泥濘状態である。

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