2020-04

2020・4・5(日)番外篇

 残念ながら新しいネタがないので、本ブログ開始以前の日記をアーカイヴとしてアップロードしました。「カテゴリー」からお入り下さい。今回は2006年8月分(バイロイト祝祭、ティーレマン指揮・ドルスト演出の「ニーベルングの指環」新プロダクションプレミエのレポート)です。
 
 なお以前に載せておいた2006年7月分(モンゴル・ウランバートル国立歌劇場、シュトゥットガルト日記)、2007年4月分(ザルツブルク・イースター・フェスティヴァル)、2007年5月分(パリ、ウィーン、ドレスデン日記)など、何かのお役に立つかと思いますので、併せてどうぞ。

2020・3・28(土)広上淳一指揮京響のライヴ・ストリーミング

     京都コンサートホール  2時30分

 新型コロナウィルス感染数が急激に増加し始めた東京では、大ホールにおけるコンサートやオペラはほとんど全部が中止されている。
 私が期待していた今日午後の鈴木優人と東京響の「マタイ受難曲」も延期となっていたが、もっともこれは合唱団の問題が大きかったからだと聞く━━岐阜で発生した「合唱での感染」は、合唱をやっている人たちに非常な衝撃を与えているようだ。4月に大規模な合唱曲をプログラムに組んでいた某オーケストラの定期公演にも変更を生じさせたという情報も入って来たほどである。

 そこで、外出自粛の件もあったことだし、今日は自宅のパソコンの前で京都市交響楽団の非公開演奏によるネットのライヴ・ストリーミングを視聴させてもらうことにする。
 指揮は常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザー(4月からは常任指揮者兼芸術顧問)の広上淳一で、プログラムは、シューベルトの「交響曲第5番」とマーラーの「交響曲第4番」、アンコールはシューベルトの「ロザムンデ」間奏曲。マーラーでのソプラノ・ソロは森谷真理。

 完璧な収録用セッティングではないと思われるバランスのマイクを通して聴く演奏だから、厳密なことは言えないけれども、広上のもとで西日本随一の、いや国内でもベストのグループに入る存在となっている京響の演奏の見事さは、充分に堪能することができたと思う。特にシューベルトの2つの作品における弦の瑞々しい表情が印象に残る。このプログラム、ナマで聴きたかった。

 ただ、これは演奏者の責任では全くないが、音が映像とほんの僅かずれて聞こえて来ることが気になった━━それがインターネット固有の問題なのかどうかは、私には判らない。
 そしてもうひとつ、マーラーの第4楽章で、ソプラノのソロの声を拾うべきブースターマイクが立てられていなかったため、森谷真理の声が直接音で捉えられず、非常に遠く聞こえてしまい、折角のいい演奏が肝心の中継の段階で滅茶滅茶にされてしまう結果を招いたのは、かえすがえすも残念なことであった。
 後者は、収録の基本を心得ていない技術スタッフの、取り返しのつかぬ大失態である。放送局の生中継だったら、ディレクターとエンジニアのクビが飛ぶことは間違いない。

 また、マーラーが終ったあとでいろいろあった舞台上でのゲストのスピーチも、ハンドマイクの音声が中継のラインに接続されていなかったらしく、ただ場内PAの音を拾うだけだったため、ワンワン響いて明確に聞き取りにくい結果を生んだことも、技術上の大失態である。

 それらの点を別とすれば、広上=京響の最新のライヴ演奏を全国に生中継で伝えた企画そのものは素晴らしく、成功を収めたといえよう。
 一方、話は違うが、関西フィルハーモニー管弦楽団も、31日に高関健の指揮でウェーバーの「クラリネット協奏曲第1番」(ソロはカルボナーレ、来日中止)と、ショスタコーヴィチの「第8交響曲」を演奏する定期を組んでいた。これも残念ながら(私も聴きに行くつもりでいた)公演中止となったが、聞くところによると、無観客生中継の案も検討されたらしい。しかし、楽員や事務局から「せっかくタコ8を演奏するなら、やはりお客の目の前でやりたい、機会を改めてやることにしようよ」という声が出て、ストリーミングは見送られたという話である。それぞれの考え方がある。

2020・3・25(水)上原彩子ピアノ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 久しぶりに上原彩子のリサイタルを聴く。モーツァルトとチャイコフスキーを組み合わせたプログラムで、かなり力を入れた取り組みだったであろう。あいにくこういう世の中で、お客の入りは必ずしも多くなかったけれど、演奏も力のこもったものだった。

 プログラムは、第1部がモーツァルトの「キラキラ星変奏曲」に始まり、チャイコフスキーの「主題と変奏Op.19-6」および「四季」からの「ひばりの歌」と「舟歌」、モーツァルトの「ソナタK.332」。第2部がモーツァルトの「ソナタK.282」とチャイコフスキーの「グランド・ソナタ」。

 第1部では、チャイコフスキーの「変奏」のあとで客席の一部から拍手が起こり、第2部でもモーツァルトのあとで拍手が起こったが、彼女の真の狙いは第1部でも第2部でもそれぞれ切れ目なしに演奏するつもりではなかったのかと思うのだが━━拍手の都度立ち上がって答礼していたところからすると、真偽のほどは判らないけれど。

 しかし、「この2人の作曲家の違いを明確にする」(プログラム冊子での彼女のコメント)にせよ、私が感じたような「チャイコフスキーのモーツァルトに対する愛情と畏敬の念が浮き彫りにされる」にせよ、これらは各々切れ目なしに演奏された方が、いっそう効果的になったのではないかと思うのだが━━拍手の雰囲気からすると、お客さんの大多数もそう感じていたのではないだろうか。

 ともあれ、「キラキラ星」からチャイコフスキーに移るところなど、今回のように続けて演奏された場合、まるでいつどこで2人の作曲家が入れ替わったのか判らないくらいの近接性が証明されたようで、大いに面白かった。今更言うまでもないが、チャイコフスキーが「スペードの女王」の夜会の場にモーツァルト風の音楽を取り入れたり、また「モーツァルティアーナ」という曲を作曲したり、如何にこの作曲家を愛していたかは周知のことである。今日のプログラムは、それを改めて証明するに絶好のものだった。

 逆に第2部では、2つの個性の際立った違いが浮き彫りにされて、これはこれで面白い。もし「K.282」から切れ目なしに「グランド・ソナタ」に飛び込んでいたら、凄まじい衝撃を聴き手に与えたかもしれなかった。
 しかも彼女の演奏がこの第2部に入ると「乘って」来たように感じられたし。一般的なイメージなら、モーツァルトの明るさとチャイコフスキーの憂愁との対比━━となるところだろうが、今日の演奏ではモーツァルトの落ち着きに対してチャイコフスキーのそれは愁眉を開いたようなイメージを感じさせて、これまた興味深かった。
 それにしてもこの「K.282」での軽やかだが思索的な表情を滲ませた演奏、「グランド・ソナタ」の豪壮な構築の演奏は見事で、この2曲で彼女の本領が発揮されたと言っていいだろう。

 アンコールではチャイコフスキーの歌曲「なぜ Op.6-5」(彼女自身のピアノ編曲版)、モーツァルトの「トルコ行進曲付きソナタ」の第1楽章(第3楽章ではないところがニクイ)、チャイコフスキーの「悲歌Op.72-14」の3曲。これらも良かった。
 終演は9時半頃になった。

2020・3・21(土)東京・春・音楽祭 鈴木大介のシューベルト

      東京文化会館小ホール  6時

 新宿からクルマで上野へ回る。首都高の環状線内回りは空いていて、制限速度で走っても20分とはかからなかったが、上野駅南側の中央通りから公園口(つまり東京文化会館前)に通じる道路が昨日から通り抜け不可に変更され、公園口前のロータリーでUターンさせられて元の交差点に戻らされるというシステムになり、しかもその旨の明確な表示が何もないため、変更になったことを知らないたくさんのクルマが次々に袋小路に迷い込んで空前の大渋滞、坂下の駐車場に入るまでに実に30分を要した。
 それにしても、変更を知らずに入り込んだクルマこそ気の毒の極みだ。中央通りへ出る交差点の青信号は僅か15秒以下。戻るまでにはまず1時間はかかるだろう。周知徹底を判り易い方法で行なわぬ道路行政の不親切さが招いた弊害である。

 さて、演奏会。正式名称は「シューベルトの室内楽Ⅰ~鈴木大介(ギター)と仲間たち」。彼を中心に豊嶋泰嗣(vn)、上村昇(vc)、梶川真歩(fl)、アリスター・シェルトン・スミス(Br)が集い、シューベルトの作品を演奏した。

 プログラムは、ヴァイオリンとギターによる「ソナチネ ニ長調D384」(鈴木大介編)、チェロとギターによる「アルペジョーネ・ソナタ」(同)、フルートと弦とギターによる「ギター四重奏曲D96」、声楽とギターによる歌曲集、ギターのみによる歌曲集(ヨーゼフ・カスパル・メルツ編)といったように、すこぶる多彩である。

 ギターと他のソロ楽器との音色のバランスが難しい所為なのか、あるいは協演したソリストの一部(誰とは申しませんが)の技術の問題なのか、聴いていて何となく座り心地の悪い演奏もあったけれど、最後の「ギター四重奏曲」などは滅多にナマで聴けない曲だし、しかもフルートが入ったことにより、ステージの雰囲気も演奏もぱっと明るくなった感があって、楽しめた━━ただし曲がチト長く、特に終楽章は変奏の一つ一つに連続性が感じられず、少々だれた感もあったが。
 15分の休憩2回を含め、終演は8時50分になった。

 昨日の旧東京音楽学校奏楽堂での演奏会でもそうだったが、開演前の会場入り口では体表温度検知カメラも設定され、感染予防にいろいろな手が尽くされている。客の方も、聴きに行ったからには、互いに協力し合う義務がある。私もマスク着用、ロビーに置いてあるアルコールで念入りに手洗い。

2020・3・21(土)飯森範親指揮東京交響楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 在京オーケストラの中では唯一、いくつかの自主公演を再開している東京交響楽団。今日のこれは「オペラシティシリーズ」だが、28日のサントリーホールでの定期公演も公開で実施すると予告している(※)。
 ロビーには、こまごまとした感染予防のためのブリーフ。ホール側も事前に会場内を除染、準備怠りない様子。聴衆の入りは目測したところ7割程度か。

 今日のプログラムは、第1部にラヴェルの「ラ・ヴァルス」と、ファジル・サイの新作「11月の夜想曲~チェロと管弦楽のために」の初演(チェロのソロは新倉瞳)。第2部はラヴェルの作品のみで、「道化師の朝の歌」「スペイン狂詩曲」「ボレロ」。

 トルコ出身のファジル・サイ(ファズール・サイというのが正しいのだとかトルコの人から聞いた)のこの新作は、新倉瞳の委嘱によるものという。
 彼女の明晰で切れの良い、表情豊かなソロで初めて聴いたこの「11月の夜想曲」が、非常に感情の動きの激しい、何か心の奥底に秘めた焦燥感のようなものを噴出させ、訴える音楽のように感じられてしまったのは、たまたま聴く側が疫病蔓延による不穏な世相に神経を苛立たされているがゆえだろうか。もう一度じっくり聴き返してみたいところである。

 ラヴェル3曲は、飯森範親の解釈によるものだろうが、打楽器の強打がいつにも増して物凄く、恰も溜まった鬱憤を一度に吐き出すかのような演奏になった。ラヴェルの作品にしてはあまりに荒々しいが、この御時世、一種「痛快」かもしれない。「ボレロ」の最後は、コロナなど吹き飛ばせといった勢いの全管弦楽のフォルティッシモ、そしてひときわ高いトランペットの歓呼。
 客席は、マスクをしているとブラヴォーも叫びにくいらしく、拍手のみ。

※24日午後、延期(8月13日 於ミューザ川崎)と発表された。

2020・3・20(金)東京・春・音楽祭 ベートーヴェンのピアノ三重奏曲Ⅱ

       旧東京音楽学校奏楽堂  6時

 昨日の続き、第2回。「第2番」「第4番《街の歌》」「第6番」および「カカドゥ変奏曲」がプログラムに組まれた。

 昨日と同様、良かったことに変わりはないが、欲を言えば、ピアノが極度に几帳面で、アンサンブルを「合わせる」ことのみに徹しているのが不満を残す。ベートーヴェンの作品の場合は、ピアノがもっとスケールも大きく、闊達に音楽全体を仕切って行く役割を果たしてくれないと、面白味が出ない。
 例えば今日の「2番」や「カカドゥ変奏曲」でも、特に緩徐個所でピアノが主導権を握る時に、その演奏に表情が不足して単調になり、音楽に「色」が感じられなくなってしまうのである。
 ただ、プログラムの最後の曲の演奏が見事に盛り上がるというのは、昨日と同様だ。今日の「第6番」も、特に終盤での猛烈な追い込みが功を奏して、聴き応え充分の裡に締め括られていた。

 昨日よりもかなり客が入っている。
 そういえば、昨日も、先頃のシフの時にもそうだったが、不思議なほど客席から咳が全く聞こえなかった。演奏中はもちろん、楽章間でも同様である。うっかり咳をすると周囲から疑われるからという警戒心ゆえだろう。
 ふだん、あの楽章間で堰を切ったようにゴホンゴホンと始まる咳も、そのつもりになればしないでも済むものなのだ、ということが図らずも証明されたようである。ただその代わり、場内ピリピリと押し黙って、静かすぎて少々堅苦しい雰囲気にはなっているが。

2020・3・19(木)東京・春・音楽祭 ベートーヴェンのピアノ三重奏曲Ⅰ

      旧東京音楽学校奏楽堂  6時30分

 「新型コロナ」のため、「東京・春・音楽祭」でも大看板のムーティ指揮「マクベス」、ヤノフスキ指揮「トリスタンとイゾルデ」をはじめ、「ミサ・ソレムニス」「プッチーニ3部作」、その他外来アーティスト絡みの公演の大部分、そして博物館・美術館で開催する予定だった演奏会の大半も公演中止に追い込まれるという大きな打撃を蒙っているが、それでも国内アーティストたちは頑張っていくつか演奏会を続けている。
 主催者も会場も、感染予防のための事前除菌作業など、考えられる限りの必要な手段を講じた上での開催決断だ。

 公式プログラム冊子だけは、例年と同じように分厚く立派に作られている。それを手に取ると一種の寂しさに襲われてしまうが、それでもとにかく実施できた演奏会があるのを有難いと思わなくてはなるまい。こういう時だからこそアーティストたちも、それぞれの一生をかけた仕事を果たすべく演奏に臨むだろう。それゆえ、私たちも真剣にそれを受容すべきであろうと思う。

 今日開催されたのは、Trio Accord━━白井圭(vn)、門脇大樹(vc)、津田裕也(pf)による「ベートーヴェン ピアノ三重奏曲全曲演奏会」の第1回。
 「変ホ長調WoO.38」、「第1番変ホ長調」、「アレグレット変ロ長調WoO.39」、「第5番ニ長調《幽霊》」の4曲が演奏された。
 出だしこそわずかに演奏に硬さが感じられたが、進むにしたがって密度を増し、特に最後の「第5番」などは稀に聴くほど緊迫感のある見事な演奏に高められて行った。白井圭のリーダーシップの良さも印象に残る。ベートーヴェンの「ピアノ三重奏曲」がこれほど心に染み入って来た演奏会も久しぶりのような気がする。

2020・3・14(土)3つのライヴ・ストリーミング

 「東京・春・音楽祭」でも3月の多くの演奏会を中止したが、今日の午後の二つの演奏会は、非公開で行ない、それをネット配信すると発表していた。
 一つは3時からの旧東京音楽学校奏楽堂における林美智子・与儀巧・河原忠之による「にほんの歌を集めて」、もう一つは6時からの東京文化会館小ホールにおける「The Ninth Wave-Ode to Nature 耳で聴き、目で視る『ベートーヴェン』」という演奏会である。

 いずれも興味深く視せていただいた━━いや、歌曲演奏会の方は支障なく視聴できたものの、「ベートーヴェン」の方は受信状態が悪かったのか、あるいは他の原因によるトラブルだったのか、音声がしばしば途切れるわ、無音になるわ、そのうち映像まで消えるわ、全く駄目で、2台のパソコンで比較受信しつつ1時間ほど頑張ってみたが、ついに諦めた。
 この「ベートーヴェン」は彼の音楽を基に安田芙充央が作曲し、ノイズ・アートやパフォーマンスや映像などを組合せた、部分的に聴いてさえすこぶる面白い演奏会だったのに、残念至極だった。

 そう言えば、私が異状なく受信できていたリサイタルの方でも、「前半で音が切れて聴けなかったという人がいらっしゃるそうなので、前半のみもう一度ストリーミングいたします」とかいうことを演奏後に林さんが言っていたところからすると、やはり各々のネット環境の問題なのか。キカイに弱い私には原因は全く分からない。ネットによる中継は新時代のメディアの華だと思ったのだが、未だもう少し時間が必要なのだろうか。

 夜8時からのKAJIMOTOのオーガナイズによる「アンドラーシュ・シフ」の方は、YouTubeを使っているためなのか、全く支障もなく、いい音と映像で入って来た。塩川悠子さんをゲストに(といっても通訳だけにとどまったが)シフが語り、ピアノを弾く。彼の温かい雰囲気の人柄が番組全体に満ち溢れ、バッハやバルトークやブラームスやベートーヴェン(4大B!)の作品の演奏のヒューマンな滋味が私たちを魅了した。もう少したくさん弾いて欲しかったな、とも思う。

 ネットでのストリーミング、俄然増えて来たようだ。大阪フィルも、19日に定期の非公開演奏を配信すると予告している。

2020・3・12(木)アンドラーシュ・シフ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 どの団体のサイトにも公演中止、中止の字が並ぶ。日本だけではない、スカラ座も4月初頭までの全公演が中止、METも今月いっぱい中止、パリ・オペラ座も4月半ばまでの公演が中止━━そのような惨憺たる状況の中、KAJIMOTOが敢えて予定通り実施したアンドラーシュ・シフのピアノ・リサイタルは、ナマのコンサートがいかに生命感に溢れて尊いものであるかを、われわれに改めて教えてくれるものとなった。

 思えば第2次大戦後、それも1950年代の半ば頃まで、良いクラシックのコンサートやオペラに飢えていた人々が会場に詰め掛け、立ち見まで出るほどだったことを私も少しだが記憶している。今日の状況はそれとは全く異なるにしても、とにかくナマの演奏会の「有難味」を今一度認識させられるきっかけとなったことは事実かもしれない。

 この公演も、主催者側は漫然と開催したのではなく、専門家の力を借り、このホールの空調換気の能力を確認し、ホール内のすべての場所を除菌するなど、万全の処置をした上で客入れした由。開演前に場内スピーカーを通して梶本社長が挨拶すると、客席から拍手が湧いた。続いてステージに置かれたスクリーンを通してシフもスピーチ、これも拍手を浴びた。

 もっとも、制約も少なからずあり、例えば「接触」を避けるためにプログラム冊子は配布せず、チケットもぎりも行なわず、カフェ・バーは営業せず(つまり水も飲めない)、ロビーでの客同士の歓談も「なるべく御遠慮下さい」、もちろん手の消毒とマスクの推奨━━等々、というわけだが、シフの演奏を聴きに来た人々には、そのくらいは大して気にならぬことだろう。

 今日のシフのリサイタルのプログラムは、メンデルスゾーンの「スコットランド・ソナタ」、ベートーヴェンの「ソナタ《テレーゼ》」、ブラームスの「8つの小品」と「7つの幻想曲」、バッハの「イギリス組曲第6番」というものだったが、しかしそのあとにアンコールをやることやること、バッハの「イタリア協奏曲」、ベートーヴェンの「葬送ソナタ」第1楽章、メンデルスゾーンの「甘き思い出」と「紡ぎ歌」、ブラームスの「インテルメッツォ」op.118-2、シューベルトの「ハンガリー風のメロディ」と続き、終演はついに9時40分頃になった。

 メンデルスゾーンの温かさ、ベートーヴェンの豪快なユーモア、ブラームスの滋味・・・・さしあたりこんな常套的な形容句しか出て来ないのをお許し願いたいが、とにかくそれらの多彩な性格を備えた音楽が、最後に厳しく巨大な、しかもしなやかなバッハの組曲に流れ込んで行くといった感の演奏の見事さには、心を打たれずにはいられなかった。このバッハこそは、今夜の圧巻、白眉だったろうと思う。
 ただその代わり、たくさんの━━古くはワイセンベルク、近年ではキーシンの如きか━━アンコールには些か疲労を感じてしまったのだが、しかし満員に近いお客さんたちは熱狂していた。

2020・3・8(日)びわ湖ホール「神々の黄昏」ライブストリーム 第2日
東京交響楽団 Live from Muza!

 2年前か3年前までだったら、無理しても現場へ取材に行っただろう。だが今回は、せめてストリーミングを全部観て、演奏者たちとスタッフの熱意と努力にありったけの讃辞を贈ることで埋め合わせをするのが精いっぱいというところだ。

 今日はダブルキャストの第2日。エリン・ケイヴス(ジークフリート)、池田香織(ブリュンヒルデ)、高田智宏(グンター)、斉木健詞(ハーゲン)、森谷真理(グートルーネ)、大山大輔(アルベリヒ)、中島郁子(ワルトラウテ)、砂川涼子・向野由美子・松浦麗(ラインの乙女)、八木寿子・斉藤純子・田崎尚美(ノルン)という顔ぶれ。

 池田香織が何といっても素晴らしい。強靭でスケール感の豊かな声と表現力は、以前のイゾルデ役に匹敵するだろう。
 ケイヴスは、声と雰囲気はあるのだが、昨日のフランツ同様、たとえば第2幕後半での「はしゃぐジークフリート」を表す細かく跳躍する音符をあまり正確に歌わずに勢いよく飛ばして行くといった、ややいい加減なところがある。

 これに比べると池田香織をはじめ、大多数の日本人歌手たちはやはり正確そのもの、きちんと楽譜通りに歌う。この演奏が端整な感を与えていたとすれば、それは日本人歌手たちのこのような歌唱スタイルのせいもあるのではなかろうか。
 高田智宏も斉木健詞も、正確で立派な異父兄弟といった歌いぶりだし、大山大輔も魔人アルベリヒというよりは一本気な父親という雰囲気の歌唱。

 森谷真理は進境目覚ましいが、ワーグナーものの場合には歌い方を少しものものしくするのか、しかし第2幕最初でジークフリートにブリュンヒルデとの出来事について心配そうに念押しするあたりの歌唱表現は巧かったし、第3幕で兄がハーゲンに殺される場面と、死せるジークフリートが腕を高々と上げてハーゲンを拒否するさまに動転する場面の演技などは、心理的表現にも富み、劇的迫力も充分であった。
 砂川・向野・松浦の「ラインの乙女たち」も、ジークフリートを揶揄う時と、真面目に警告する時との表情の違いを見事に歌い分けていた。

 沼尻と京響も、昨日よりは呼吸が合い、余裕も出て来たのだろう、例えば第2幕後半でブリュンヒルデが戸惑いと苦悩の感情に揺れるあたりのテンポの変化など、昨日より細かいニュアンスに満ちていたように感じられたのだが。

 とにかく、びわ湖ホールは、あらゆる危機的状況を克服し、みんな見事に「神々の黄昏」を仕上げた。日本人演奏家とスタッフによる「指環」4部作の舞台上演は、これまでに東京二期会が1回、新国立劇場が2回完成させたに過ぎなかったのだから、これは何処から見ても偉業である。

 今日の視聴者数の表示は、最大で12,215だったか? 幕切れでライン河があふれて来るあたりから何故か数字が急激に上昇し、「救済の動機」が流れはじめて未だ曲が終らぬうちからまた急激に十数件ばかり減少して行ったのは、もしや舞台関係スタッフのアクセスだったか?

 なお、午後2時からは別のストリームで、大友直人が指揮する東京交響楽団の演奏が、ミューザ川崎シンフォニーホールから生中継されていた。これも「無観客」演奏会である。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロは黒沼香恋)、サンサーンスの「交響曲第3番」というプログラムだ。
 とりあえず仕事として、別のパソコンを使って視聴したが、こちらも素晴らしい熱演であった。このストリーミングでは視聴者からの膨大なコメントが出る(消すこともできる)が、びわ湖ホールと掛け持ちで・・・・という、私と同じ穴のムジナも少なからずいるのが判って可笑しかった。

 なおこちらの視聴者数(らしきもの)は、ただ増加して行くだけで減ることはなかったので、「延べ人数」ということなのか。最後には5万強と表示されていた数字はやはり驚異的なもので、ネットでの無料配信がいかに強力なものであるかが、如実に証明されているだろう。コメントには感動の言葉から「今度必ず聴きに行く」というものまで出ていた。これはクラシック・ファンを増やすための有効な手段である。

2020・3・7(土)びわ湖ホール「神々の黄昏」ライブストリーミング

 新型コロナウィルスの所為で「神々の黄昏」の公演中止を余儀なくされたびわ湖ホールは、予想通りこれを無観客の非公開上演に切り替え、you tubeで生中継配信する作戦に出た。午後1時から6時半過ぎまで、途中に30分ずつの休憩を取りながら上演するという、公開上演と同一の形を採っている。

 私もいくつかの事前講座を担当した関係もあって、この非公開上演を観に行くつもりでいたのだが、自分のトシを考えて、とりあえずは自粛してしまった次第だ。
 だが、パソコンを見ながら、こういう世の中の状況にもかかわらず、いまあそこでは指揮者が、オケが、歌手たちが、多くのスタッフが、みんな一所懸命に「神々の黄昏」を上演しているんだな、と思うと、胸の熱くなるのを抑えきれぬ。

 誰も観ていない、聴いていないのだったら、やる方も張り合いがないだろうが、ストリームが始まる前には約1500人が「待機中」、開始された時にはほぼ9700人が「視聴中」で、 やがてそれが1万人を超え、全曲にわたり11,600人あたりをキープしていたとなれば━━この視聴者数が途中で増えても減っても刻々と表示されるのは何となく面白いが━━しかも「ブリュンヒルデの自己犠牲」の後半あたりから数字は急激に増え、最高11,950前後に達して行ったのである。
 たとえ公開で上演したとしても観客は2日間で3600人止まりであることを思えば、それよりは多くのワグネリアンたちの目に触れたことになり、手応えも上々ということになるだろう。

 このストリーム、概して音響のバランスもよく、しかもあの暗い舞台が予想外に細部まで鮮明に写されていたのには感心した。
 固定カメラなのと、字幕がない━━これらは予め予告されていた━━のは残念だが、こういう点を改善して行けば、インターネットを使ってのこの手法は、新しいメディア展開の代表的な存在になるであろうことは疑いない。これからは平時においても、もっと活用されるべきだろう。
 何しろ今日では、放送局は頼みにならぬ。それにネットは、全国で視聴できるという強みがある。

 なお今回、原稿書きなどの都合もあって、2台のパソコンを交互に使っていたのだが、ラインで受信していたパソコンに比べ、Wifiで受信していたパソコンの方は、映像も音も20秒ばかり遅れて来る、という不思議な現象に面食らった。キカイに素人の私にはさっぱり解らないことが多い。

 演奏は、沼尻竜典指揮の京都市交響楽団。びわ湖ホール声楽アンサンブル、新国立劇場合唱団。
 歌手陣はクリスティアン・フランツ(ジークフリート)、ステファニー・ミュター(ブリュンヒルデ)、石野繁生(グンター)、妻屋秀和(ハーゲン)、志村文彦(アルベリヒ)、安藤赴美子(グートルーネ)、谷口睦美(ヴァルトラウテ)、𠮷川日奈子・杉山由紀・小林紗季子(ラインの乙女)、竹本節子・金子美香・高橋絵里(ノルン)。
 フランツがどうも本調子ではなかったらしいのを除けば、本当にみんな見事だった。とりわけミュターの馬力は素晴らしく、安藤赴美子も清純な歌唱を聴かせた。京響の頑張りと好演は特筆すべきものだろう。
 就中これらをまとめて来た沼尻竜典の情熱と力量は、絶賛に値する。

 ミヒャエル・ハンぺの演出と、それに基づくヘニング・フォン・ギールケの舞台美術が、所謂旧いスタイルのものであることは、今更どうのこうの言っても仕方がない。
 「こういう演出をする人はもう他にいないから、今のうちにみんなに観てもらおう」との沼尻総監督の明確な意図で採用されたのだから、それはそれで悦んで受容することにしよう。なお「ジークフリートの葬送行進曲」で、葬列と、それから離れて折れた槍を手にさすらい行く失意のヴォータンの姿とをシルエットの映像で見せたアイディアは感動的であった━━特に終りの方の遠景となった場面が。

 映像も、以前の「さまよえるオランダ人」でも証明されたように、すこぶる精妙で、特に第3幕でのライン河と3人の乙女たちや、ヴォータンの使いの2羽の鴉の描き方など、悪くない。もっとも大詰のカタストローフの場面の映像は、やはりナマで観ないと、その真価は解らないだろうと思う。

 カーテンコールをも型通り行なって見せたのは、ストリームミングが手応えあったことへの満足感の表れか。少しおいて京響のメンバーも登場し、このへんから舞台の雰囲気は少し賑やかになった。最後は幕の向こう側で、お疲れ様の歓声と大拍手。よくやってくれた。

2020・2・28(金)METライブビューイング「ヴォツェック」

     東劇  6時30分

 新型コロナ・ウィルスの所為で、29日に聴きに行こうと思っていたアルミンク指揮群響のマーラーの「復活」も、1日の神奈川県立音楽堂の「シッラ」も中止。そのあとも、ワシントン・ナショナル響をはじめ、国内各オーケストラの演奏会が軒並み中止。その上、この春これだけはと期待していたびわ湖ホールの「神々の黄昏」も、東京・春・音楽祭のムーティ指揮の「マクベス」も・・・・。
 われわれも落胆の極みだが、何年もかけて懸命に準備して来たであろう主催者たちの苦衷は、察するに余りある。

 そんな中、東劇でのオペラのライブビューイングは予定通りやっているということなので、観に行く。
 これは今年1月11日のMET上演のライヴ映像で、ウィリアム・ケントリッジの演出、ヤニック・ネゼ=セガンの指揮による注目のプロダクションだ。歌手陣はペーター・マッテイ(ヴォツェック)、エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー(マリー)、クリストファー・ヴェントリス(鼓手長)、ゲルハルト・ジーゲル(大尉)、クリスチャン・ヴァン・ホーン(医者)他という顔ぶれ。

 このプロダクションに関しては、共同制作だったザルツブルク音楽祭での上演(☞2017年8月8日)の際に書いたので、委細は省略する。
 ここでの本当の主役はヴォツェックよりも、ドローイング・アニメの巨匠ケントリッジの━━それも「演出」というより舞台の景観なのではないか、と私には思われるのだが、「共同演出」としてLuc de Wit、舞台美術としてザビーネ・テウニッセンが名を連ねているので、どこまでが実際にケントリッジの手が及んだ部分なのかは判然としない。

 だがとにかく、このケントリッジの舞台は、どれが装置で、どれが映像なのか区別がつかぬほど混然としていて、それが刻々と変化するあたりのつくりの巧さは格別である。そしてこの混然たる舞台が、荒廃した世相や人物たちの精神を見事に象徴し、貧しい者たちを惨酷なまでに無造作に呑み込んで行く様子を描く。マリーの子供が異形の人形で描かれるところなど、あまりに無情過ぎるという感を抑えきれないが。

 ネゼ=セガンの指揮が素晴らしい。実のところ、彼がドイツの近代オペラを手がけてこれほどの演奏を聴かせてくれるとは予想していなかった。
 それは所謂表現主義的な鋭角的で激烈な音楽づくりではなく、むしろ叙情性を主としたものといっていいかもしれない。例えば、全体が刺激的な演奏ではないので、幕切れ近くヴォツェックが命を絶った後に現われるあの間奏曲が、「ニ短調という調性が突然現われて衝撃を与える」ほどでもなく聞こえる━━のである。このあたりが、もはや「調性」だの「無調」だのが議論された時代から遠く隔たった世代の指揮者の特徴なのかもしれない。

 歌手では、ペーター・マッテイが熱演だ。特に後半では、破滅に向かうヴォツェックに哀れを誘われてしまうほどの表現力を見せてくれる。
 上映時間は2時間弱。なお上映の最後に、「さまよえるオランダ人」で乳母マリーを歌う藤村実穂子が日本のファンに送るメッセージの映像が挿入されていた。

2020・2・23(日)チョン・ミョンフン指揮東京フィル「カルメン」

     Bunkamuraオーチャードホール  3時

 チョン・ミョンフンと東京フィルのオペラ演奏会形式上演の一環。
 マリーナ・コンパラート(カルメン)、キム・アルフレード(ドン・ホセ)、チェ・ビョンヒョク(エスカミーリョ)、アンドレア・キャロル(ミカエラ)、上江隼人(ダンカイロ)、清水徹太郎(レメンダード)、伊藤晴(フラスキータ)、山下牧子(メルセデス)、青山貴(モラレス)、伊藤貴之(スニガ)の出演。合唱が新国立劇場合唱団と杉並児童合唱団。

 主役4人が伊・韓で、わが日本人は脇役ばかりというのは少々不甲斐ないが、世界のオペラ界における実績という面からみれば、日本人歌手は韓国人歌手群に圧倒的に水をあけられているのは、残念ながら争えぬ事実である。但し今日の歌手陣は、脇役すべてに至るまで、全員が力強く、素晴らしい出来だった。
 欲を言えば、エスカミーリョ役の歌手にもう少し安定感が欲しいということだろうか。強く印象に残ったのは、ホセ役のキム・アルフレードの強靭な声と、ミカエラ役のアンドレア・キャロルの愛らしい表現力。

 チョン・ミョンフンの指揮は、例の如くスピーディで切れがよく、強い推進力にあふれたものだ。全曲を緩みなく引き締め、厳格なバランス感を生み出すところも、近年の彼のオペラにおける指揮に共通している。その意味では、極めて立派な演奏だったと言っていいだろう。
 ただその一方、第1幕から第4幕まで、すべて緊張度の高い演奏で固められているため、オペラ全体に「山場感」というのか、「クライマックス感」というのか、それが些かぼやけたような印象を与えたことは否めまい。

 また、全曲が強いエネルギー性を以って、一気呵成の速めのテンポで演奏されて行くので、音楽作品としては充実感を生んだかもしれないが、登場人物の感情の襞が充分に描かれなかったという恨みを残すだろう━━これは、以前に彼が東京フィルを指揮した「トリスタンとイゾルデ」(☞2013年11月23日の項)でも私が強く感じたことなのである。今回の主人公たちもまた、疾風のようにこの世を生き、走り抜けて行ったというわけか・・・・。

 東京フィルの演奏は、ピットでの演奏とは比較にならぬほど豊かな音だった。コンサートマスターは三浦章宏。

 蛇足だろうけれども、私にとっては大問題なので、最後に一言。
 今回の上演では「アルコア版」楽譜が使用されるという情報を受けていたので、依頼された東京フィルのWebの事前解説には、ギロー版とアルコア版との楽譜の違い、前者のレチタティーヴォと後者のセリフにおける人物像(特にドン・ホセ)の描き方の違いなどについて、その面白さと期待などを書いた。
 ところが実際は、セリフはほとんどカットされ、しかもあろうことかドン・ホセとエスカミーリョが決闘するシーンの音楽も、極度に短縮されたギロー版で演奏されてしまっていたのである。セリフをまともに入れれば長大なものになるので、大半はカットされるだろうとは思っていたが、まさかほとんどナンバーのみの連続の形になるとは。それにまた「折衷版」の演奏になるとは・・・・。
 東京フィルのWebの記事をお読みいただいた方には、とりあえず私からお詫び申し上げたい。

2020・2・22(土)全国共同制作オペラ「ラ・トラヴィアータ」

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 ヴェルディの「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」を白河文化交流館コミネス大ホール(2月9日)、金沢歌劇座(2月16日)、およびここ東京芸術劇場で上演するという企画。

 合唱団は地区それぞれで異なるが、オーケストラは金沢と白河がオーケストラ・アンサンブル金沢、東京が読売日本交響楽団━━という分担だった。指揮はヘンリク・シェーファー、演出と振付が矢内原美邦。
 歌手陣はエカテリーナ・バカノヴァ(ヴィオレッタ)、宮里直樹(アルフレード・ジェルモン)、三浦克次(ジョルジョ・ジェルモン)、三戸大久(ドゥフォール男爵)、古橋郷平(ガストーネ)、高橋洋介(ドゥビニー)、森山京子(アンニーナ)、醍醐園佳(フローラ)他。

 注目すべきは、矢内原美邦のきわめて個性的な、ユニークな試みの演出である。
 スマホとコスプレの時代の「トラヴィアータ」とでも言ったらいいか。連絡はスマホで取り合い、パーティでの関心事にはすべてスマホを向け━━2012年にミュンヘンでプレミエされたクリーゲンブルク演出の「神々の黄昏」でもこのテが使われていた━━、ヴィオレッタは処分財産リストをタブレットでジェルモンに見せるといった具合で、これにはニヤリとさせられる。

 衣装も極彩色でアクの強いものばかり。ダンスには多分主人公たちの心の動きを象徴するような性格が付されているのだろう。・・・・といったように、日本での「トラヴィアータ」の舞台としては、かなり思い切った大胆な試みを注入した舞台となっていた。

 群衆の騒々しいはしゃぎぶりや、しつこい疾走の反復(特に「プロヴァンスの海と陸」の場面━━これにはうんざりさせられた)など、いろいろ「うざい」ところはあったものの、とにかく「オペラ演出家」なら躊躇うであろう手法が大胆に臆面もなく(?)投入されていたことは、アウトジャンルの演出家を起用した意義は充分にあったと言えよう。
 「オリジナルを尊重する」とか、「手を加えず、あるがままに」などと、自己のアイディア不足をすり替えて尤もらしく理由づけて何にもしない演出家よりも、たとえ賛否両論起ころうとも独自のコンセプトを遠慮なく押し出して来る演出家の方がはるかに立派である。

 それに今回、第3幕をヴィオレッタの葬儀場面にし━━と解釈したが━━ジェルモン親子ら参列客とヴィオレッタとの幻想的対話として設定したことは、面白いアイディアであった。参列客たちが手に持っていたものは私の席からはよく判別できなかったが、スマホでもなく、十字架でもなく・・・・関係者に尋ねたら、「砂時計」だったそうな。ウィリー・デッカ―の演出の逆手を行った、ということか。
 最後にヴィオレッタが起き上がり、永遠の生を主張するのは、これはよく見られる手法だが。

 歌手陣の声は、ホールの特性のゆえもあって、(1人を除いて)猛烈によく響く。
 バカノヴァという人はロシア生まれで、非常に強靭な声を持ち、必ずしも洗練されているとは言えぬものの明快な歌唱で、意志の強いヴィオレッタを表現していた。三浦、宮里の父子コンビも強力な歌唱だ。
 合唱も含めてちょっと怒鳴り過ぎ、という印象もなくはなかったし、オーケストラもえらく怒号していたが、「ひ弱」で物静かな演奏よりはマシだろう。それにしてもこのシェーファーという人は、随分きっちりと振る人だ。

 字幕は、上段に英語、下段に日本語という方法。今回の日本語字幕は解りやすい。
 一言申し上げたいのは、プログラム冊子ですね。あの字のフォントの小ささと言ったらまァ、よほど目のいい人が作ったんでしょうな。無料配布では文句も言い難いけれど。

2020・2・20(木)アンネ=ゾフィー・ムター 協奏曲の夕べ

     サントリーホール  7時

 「サントリーホール スペシャルステージ2020 アンネ=ゾフィー・ムター~ベートーヴェン生誕250年記念~」と題された4回の演奏会、その初日。
 クリスティアン・マチェレル指揮の新日本フィルを「したがえた」ムターは、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」と「三重協奏曲」を弾き、その間にソロ・アンコールとしてバッハの「無伴奏パルティータ第2番」からの「サラバンド」を弾いた。

 濃厚艶麗なムター節が炸裂したニ長調の協奏曲は、満員の聴衆を文字通り熱狂させたが、演奏にはやや放縦なところもあり━━いや、それでは言い過ぎかもしれないから、自由な感興、とでも訂正しておこうか━━私は少々呆気にとられながら聴いていた次第だ。
 もっと言えば、彼女が指揮者の尻を叩くような演奏に聞こえてしまったのだが、これは私がこの指揮者のベートーヴェンに少々苛々していたから、そんな風に聞こえてしまったのかもしれない。

 何しろこの指揮者は━━多分今日だけのことだろうが━━オケの音量を抑え、内声部の木管の動きを抑制し、ヴァイオリン群などの高音域をくぐもった音にしてしまっていたので、冒頭の「コリオラン」序曲など、えらくひ弱なものに聞こえたのである。
 ニ長調協奏曲でも、管弦楽パートは力感のない、自己主張のない、単なる「伴奏」に堕したような響きになっていた。ただその代わり、ムターのヴァイオリンのソロを管弦楽パートの上に見事に浮き上がらせ、あの濃厚な音色を余すところなく発揮させる役目は果たしていただろうと思われる。

 しかし面白いことに、指揮者のこのオケの鳴らし方が実に効果的だったのが、「三重協奏曲ハ長調」だ。
 徹底的に高音域を抑制して中低音を分厚く響かせたサポートが、ヴァイオリン(ムター)、ピアノ(ランバート・オルキス)、チェロ(ダニエル・ミュラー=ショット)のソリを見事にクローズアップして、「オーケストラのオブリガート付きトリオ」とでもいう形をつくるのに成功していたのである。ナマ演奏で、これほどピアノがオケに消されずに響かせられた「三重協奏曲」の演奏も珍しいのではないか。

 その意味では、このマチェラルという人は、伴奏指揮者としては稀有な才能の持主であろうと思われる━━嫌味に聞こえたら御容赦ありたい。彼の指揮に慣れた新日本フィルも、「コリオラン」の時とは打って変わって、「三重協奏曲」では見事なほどの個性的な音色を響かせた。さすが上岡敏之に鍛えられたオーケストラのことだけはある。

 それにしても、この「三重協奏曲」での3人のソリストたちの演奏は圧巻だった。ミュラー=ショットの切り込むような闊達さ、オルキスの滋味豊かで温かい表情。そして何よりムターの存在感が圧倒的で、指揮者・オケも含めた全員をリードして音楽を展開して行くといった演奏だ。第1楽章の展開部の終りにかけ、みるみるテンポを速めて盛り上げて行くあたりの彼女のリーダーシップには、息を呑ませるほどの迫力が感じられたのである。
 今夜の白眉は、間違いなく、この「三重協奏曲」だった。

2020・2・21(金)METライブビューイング「アクナーテン」

     東劇  6時30分

 フィリップ・グラスのオペラ「アクナーテン」、昨年11月23日のMET上演ライヴ映像。
 作品自体は1983年のもので、1984年にシュトゥットガルト州立劇場で初演されていた。ただし今回のフェリム・マクダーモット演出によるプロダクションは、イングリッシュ・ナショナル・オペラとロサンゼルス・オペラのために制作されたもの (originally created by)と、METのSEASON BOOKには記載されている。

 題名の「アクナーテン」とは、紀元前14世紀の古代エジプト第18王朝のファラオであるアクナーテン(=太陽神アテンの魂 アメンホテップ4世の別名)を指す由。彼はそれまでの多神教を廃し、一神教を推進した王だとのこと(国内パンフレット掲載の前島秀国氏の解説に由る)。
 この上演では、そのアクナーテンをアンソニー・ロス・コスタンゾ(CT)、その妻ネフェルティティをジャナイ・ブリッジス(Ms)、太后ティイをディーセラ・ラルスドッティル(S)、アメンホテップ3世(亡霊)をザッカリー・ジェイムズ(Bs)他が歌い演じ、女性指揮者カレン・カメンセックが指揮した。
 この演奏の見事さ、歌手陣の素晴らしさは驚異的である。

 フィリップ・グラスの音楽には、私も一頃は猛烈に凝ったものだが、しかし最近は、その熱も少々冷めつつある、というのが正直なところだ。
 一方、舞台の方は目を奪う壮麗さで、トム・パイの美術&プロジェクション・デザインと、ケヴィン・ポラードの衣装デザインが凄い。ただし人物の演技は、演技というよりは象徴的な動作の連続で、すこぶる重厚な迫力を感じさせる。とはいうものの、それらとて正味2時間20分の長さを保たせるのは、そう簡単なことではない。

 しかし、例えば第3幕終結に近い「反乱の場」と「アクナーテンの没落の場」におけるように、次第に量感を増して行くミニマル・ミュージック特有の押しの強さや、ゆっくりだが不気味な迫力を示す人物の動きなどにより主人公の壮絶な悲劇が描かれるあたりはやはり物凄い。そういうところは、まさにフィリップ・グラスのオペラの本領と言えるだろう。

 なお、幕切れのエピローグの場面で、時代を現代の歴史博物館にスリップさせるという洒落た手法が採られているのが面白い。
 全編で繰り返されるジャグリングは、派手な見ものだが、これはまあ、ミニマル・ミュージックの音のイメージを視覚化したもの━━程度の意味しか、私には感じ取れなかった。
 終映は10時頃。

2020・2・19(水)東京二期会 ヴェルディ:「椿姫」

     東京文化会館大ホール  6時30分

 原田諒の演出、松井るみの装置による新制作。ジャコモ・サグリパンティGiacomo Sagripanti)指揮東京都交響楽団の演奏。
 ダブルキャストの今日は初日で、大村博美(ヴィオレッタ)、城宏憲(アルフレード・ジェルモン)、今井俊輔(ジョルジョ・ジェルモン)、加賀ひとみ(フローラ)、増田弥生(アンニーナ)他。

 今回の演出家は宝塚出身の由。私は「宝塚」はほとんど観たことがないので、この人の舞台については詳しくは知らない。とはいえ、社会派ミュージカルの演出も手がけて読売演劇大賞なども取っている人というから、この「椿姫」のドラマにも、既存のオペラ演出にはなかったような何か新しいアプローチを見せてくれるのかと期待していたのだが、残念ながら期待は裏切られた。

 舞台構図だけに重きを置いたような演出で、演劇的な手法が全く見られないのである。第2部(第2幕第2部以降)では天井に巨大な鏡が設定され、人物の動きを異なった角度から視させるという趣向も採られていたが、これも単なる視覚的効果以上の意味は感じられず、単なる添え物の域にとどまったようである。

 人物は基本的に佇立したままで、歌は概して客席を向いて歌い、感情や心理の交錯などがほとんど描かれていない。ヴィオレッタはアルフレードの父親が突然現れてもとりわけ衝撃を受ける様子はなく、ジェルモンも彼女が財産を手放すために作った書類を見ても特に驚く風もない。まるで、60年前の日本のオペラを見ているような気がした。
 ただ美しい視覚効果を持つ舞台に類型的な身振りばかりする人間たちがあふれるのでは、今日のオペラ演出に問われている様々な問題の解決には役立つまい。

 今回の演出家は「演出ノート」で、「華麗な音楽の中に描かれている人間の愛や情や罪や赦しなどすべてのものをストレートに伝えたい」とし、それゆえ目新しさを狙った奇を衒うものにするのでなく「クラシカルな正調の様式美の中で・・・・濃密な人間ドラマを展開させたい」(冊子より自由に引用)と述べているけれども、今作のような手法では、真の「人間ドラマ」が表現できるとはとても思えない。
 それに、揚げ足を取るつもりはないが、音楽にすべてが描かれているというのなら、単に演奏会形式で上演すれば済むことである。

 今日のオペラ演出家は、手垢に汚れた既存のスタイルを打破するために腐心し、だれもがあれこれ実験を重ね、努力しているだろう。そこへアウトジャンルから演出家を招くのは、既存のオペラ演出家にはないような、画期的な新風を期待するがゆえのことのはずだ。それがわざわざ時計の針を戻してしまうのでは、何にもならない。ドイツオペラではあれほど実験的なスタイルにアプローチしている東京二期会が、どのようなコンセプトを以って今作のような演出を選んだのか、訝らざるを得ないのである。

 歌の方だが、大半のソロ歌手たちの声が客席に延びて来ないのは、舞台構築の所為もあったのか? ヴィオレッタがジェルモンとの場面で下手側を向いて歌った時に、急に声が舞台裏に反響したような音になったところからすると、上手側と下手側に反響板となるセットが無かったのか。

 城宏憲は2年前の「ノルマ」のポリオーネなどで伸びのいい声を聴かせていたので、アルフレードにはぴったりかと思っていたのだが、なぜか前半では声があまり聞こえて来ない。第2幕第1場のシェーナで声が擦れたところをみると、今日は本調子ではなかったようだ。大村博美はいつものように柔らかい雰囲気で味を出していたが、ヴィオレッタの切羽詰まった状況を歌い上げるには少し温かすぎたかもしれない。

 主役3人の中では、やはり今井俊輔が声を朗々と響かせ、粗野で無神経な父親という性格を表していた。カーテンコールでの拍手が他の歌手に向けられたそれと比較して圧倒的に大きかったのは、やはりオペラはこのくらいの声が欲しいよ、という観客の本音の表れだったのではないか。
 指揮者は歌手たちの声量に対応したのか、概してオーケストラの音量を抑えてしまい、そのため今回の「椿姫」は、何とも「静かな椿姫」になった。

 字幕は、文章が些か不自然だった。誰が誰にどういうニュアンスを籠めて言っているのかがあまり正確に表現されていない文体である。字幕は演出の一要素だ。工夫を願いたい。

2020・2・15(土)細川俊夫:オペラ「松風」

     JMSアステールプラザ中ホール(能舞台) 2時

 細川俊夫の3番目のオペラ「松風」は、原作・観阿弥、改作・世阿弥、台本がハンナ・デュブゲンによるもので、2010年の作品である。2011年にモネ劇場で世界初演され、その7年後にやっと新国立劇場で日本初演(☞2018年2月18日)が行われている。

 それらはいずれもサシャ・ヴァルツが演出した抽象的で幻想的なダンスが中心の舞台だったが、今回は能舞台で演出されたことにより、作品が日本に「里帰り」したとも言えるだろう。
 演出は岩田達宗。松風を半田美和子、村雨を藤井美雪、旅の僧を初鹿野剛、須磨の浦人を山岸玲音が歌った。そして、川瀬賢太郎指揮の広島交響楽団が舞台の下手側に位置、寺沢希指揮のひろしまオペラルネッサンス合唱団が2階席に位置していた。

 松林を揺るがす風の音というのは、私も子供の時によく体験したものである。それは普通の風の時でも深みのある広大な感じを与えたが、いざ強風や嵐の時ともなれば、これはもう、恐怖感を呼び起こすくらいに物凄い音だった。

 その松の風が、そのまま女性の名前になった。となれば、そこに一種の超自然的なイメージが生まれて来るのも当然だろう。それはしかし、どろどろしたオカルト的なものではなく、どこかに「もののあはれ」を感じさせる美しさも含んでいるのだ。今回の能舞台による岩田達宗の演出は、そのあたりを実によく表していたような気がする。

 主役の姉妹、松風と村雨を歌い演じた半田美和子と藤井美雪の歌唱と演技は、「班女」の広島初演(☞2012年1月22日)の際にも驚嘆させられたものである。
 今回は演出の能のスタイルにこだわった所為か、あの時のような演劇的な凄味は感じられなかったが、松風が中納言・在原行平の狩衣を身に纏って錯乱に陥る場面では、能の「狂女物」としての様式に沿った「舞」の迫力は充分に味わえたように思う。
 特にその場面では、細川の音楽が極度に劇的に激しく盛り上がるため、聴き手はいっそう感覚を揺さぶられることになる。

 ラストシーンの「曙」で、夜が明けて旅の僧が我に返ると、塩屋も姉妹の姿も既に消え、ただ松を吹き抜ける風の音が残るのみであった━━という場面は、いかにも日本的な余韻を感じさせ、私は大好きだ(「隅田川」の幕切れにも「ただ茫々たる荒野が広がるだけだった」という設定がある)。
 ただし、そういう光景と状況は、このような能舞台だと、すべて観客の想像力に任せるしかなくなる。それだから良いのだ、という人もいるだろうし、そこがちょっと物足りない、という人もいるだろう。

 川瀬賢太郎の指揮と、広島響の演奏が、今回も見事だった。透明で、しかも鮮烈である。両者とも、細川俊夫の作品の演奏には慣れているし、この中劇場の能舞台での演奏にも要領を心得ているのだと思う。事実、楽屋で会ったマエストロ川瀬は、それを明言していた。
 客席で聴いていると、その響きはドライでリアルな感になり、幻想味は多少弱まるが、川瀬のオケの鳴らし方の巧さがそれをカバーしているだろう。

 なお、2階席に配置された合唱は、会場内にうまくエコーとなって響く時と、いかにも生々しく聞こえて夢幻的な味に不足する時とがある。が、これは聴く位置にもよるだろう。もうひとつ、スピーカーから流れる風の音、海の音などは、もう少し綺麗な響きにならないものか、という感も。

 オペラの上演そのものは、3時20分過ぎには終った。明日も公演があるので、今日は終演後の打ち上げなどは無い。アフタートークも4時には終わったので、楽屋に行っておめでとうを言い、少し雑談してから失礼する。
 5時6分広島駅始発の「のぞみ」で帰京。9時少し過ぎには自宅に着く。

2020・2・13(木)山田和樹指揮読響&ポゴレリッチ

   サントリーホール  7時

 首席客演指揮者の山田和樹が、グリーグの「二つの悲しき旋律」、シューマンの「ピアノ協奏曲イ短調」、ドヴォルジャークの「交響曲第7番」を指揮。シューマンの協奏曲では、あのイーヴォ・ポゴレリッチがゲスト・ソリストとして登場した。

 ポゴレリッチが弾くコンチェルトは、ナマではショパンの「2番」を、デュトワ指揮フィラデルフィア管とのショパンの「2番」(☞2010年4月28日)と、ゲオルギー・チチナゼ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィア(☞2010年5月3日)、ラフマニノフの「2番」をカエターニ指揮読響(☞2016年12月13日)とのそれぞれ協演で聴いたことがある。
 いずれも「物凄い」演奏だったが━━今回のシューマンも、「ロマン派の詩人」などというこの作曲家のイメージを根こそぎ吹っ飛ばしたような解釈の演奏で、衝撃を受けたり、感嘆させられたり、甚だスリリングな体験をさせてもらった。

 何しろこれは、ふだん物静かな人(シューマン)が突然声を荒げて叫んだり怒号したり、凶暴で攻撃的な性格を見せるような演奏なのである。凄まじいアクセントとフォルティッシモが随所に爆発し、こちらはそのたびごとにぎょっとさせられる。しかもそれが凄愴で、孤高の悲愴感といったものを生み出しているところに、ポゴレリッチの独特の境地があるだろう。

 第1楽章の指定「アフェットゥオーゾ(優しく)」も、第2楽章の「グラツィオーゾ(優雅に)」も、ここでは無視され、前者はアジタート(激烈に)、後者はスケルツァンド(諧謔的に)とでもいった演奏になっているところも面白いというか、唖然とさせられるというか。
 同じ楽譜を使いながらもこれだけ異なった音楽になることがつくづく興味深く、スコアというものがいかに「あてにならぬ」ものであるかを痛感させられることになる。

 だが私はここで、かつてポゴレリッチの演奏について書いた言葉をもう一度繰り返したい━━この大胆不敵で、作曲者をも畏れぬ感性は、激しく攻撃されて然るべきだが、しかし、それと同じ数の称賛を受けても然るべきだと思う、と。
 ただ、もうひとつ穿った見方をするなら、ポゴレリッチはこの曲に、シューマンがその晩年に陥る精神的な危機を先取りした解釈を施したのではないか、とも言えるかもしれないのだ。

 そのポゴレリッチの音楽に、山田和樹が、実に巧く合わせる! テンポだけではなく、例えば第1楽章の第134小節以降の全合奏を、ほとんど怒号同然の攻撃的な最強奏(スコア指定はフォルテ1つのみ)にして、ポゴレリッチのソロに呼応する。
 それでいて、カエターニやチチナゼのようにポゴレリッチに「かしづく」のではなく、デュトワのように皮肉めいた闘いを仕掛けるのでもなく、随所に山田の持味たる微細なニュアンスを散りばめる指揮を聴かせる、という巧妙さなのだ。これに応えた読響(コンサートマスターは長原幸太)も見事だったというほかはない。

 冒頭のグリーグの小品でも、山田和樹のエスプレッシーヴォの精妙さは群を抜いていた。明確なアクセントで入りながら、次の瞬間にはふっと力を抜いて最弱音にするというニュアンスの豊かさ。読響の弦もそのあたりが実に巧い。アンコールで演奏したアザラシヴィリの「無言歌」なる弦楽合奏の小品でも、その特徴が表れていた。

 そしてなお、ドヴォルジャークの「第7交響曲」でのアクセントの強靭さとメリハリの豊かさは、彼が海外で良いオケを指揮していることを思わせる。第3楽章では、それらの良さすべてが集約されていたように感じられたのだった。

2020・2・9(日)トレヴァー・ピノック指揮紀尾井ホール室内管弦楽団

       紀尾井ホール  2時

 西にいずみホールの「いずみシンフォニエッタ大阪」あれば、東に紀尾井ホールの「紀尾井シンフォニエッタ東京」━━いや現在の名称は「紀尾井ホール室内管弦楽団」あり。

 その「紀尾井ホール開館25周年記念演奏会」に、トレヴァー・ピノックが客演指揮者として登場し、モーツァルトの「交響曲第40番」「アヴェ・ヴェルム・コルプス」「レクイエム」(ジュスマイヤー補筆版)という魅力的なプログラムを演奏した。
 コンサートマスターは玉井菜採。

 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を第2部で、「レクイエム」へ続ける形で演奏するのかな、と思っていたら、案に相違して、それを休憩前に、「40番」のあとに演奏する、ということがプログラム冊子に掲載されていた。
 事実、最初にオーケストラと一緒に合唱団(特別編成の紀尾井ホール合唱団)も入って来て、奥にずらりと並んだので、そうするとこの声楽曲を「40番」のあとにアタッカで演奏する気なのか、それもいいな、とおそらく聴衆の誰もが思いこんでいたのではなかろうか。

 「40番」が終っても、しばらく拍手は起こらなかった。ところが、何となく様子が違う、という雰囲気が出て来て、誰かが拍手を始め、次いでみんなが拍手を始める。するとピノックは振り向いてにこやかに答礼し、おもむろに袖へ引っ込んでしまったのである。これでは何にもならない。
 あとで小耳に挟んだところによると、「40番」が終れば必ずみんな拍手をしてしまうだろうから、ここで一度引っ込み、それから改めて「アヴェ・ヴェルム・・・・」を演奏する、と最初からピノックが決めていたのだとか。そりゃあしかし、お客をナメルモンジャアリマセンヨ(?)。

 そんなことがあったものの、しかし演奏自体は素晴らしかった。
 まず最初の「交響曲第40番ト短調」。冒頭から演奏に緊迫感が漲り、聴き慣れた主題が突き詰めたような美しさで始まったのである。聴いた席がステージに近い8列目だったため、弦が非常に近く、木管が彼方に引っ込んで聞こえるというバランスだったので、内声部の絡みがあまりよく味わえなかったのだけが残念だったが、この曲の良さに改めて浸れたのは幸いであった。

 2つの祈りの曲でも、彼の指揮は鮮やかだ。特に「レクイエム」の「Dies irae」(怒りの日)での切込みの凄まじさなどはまさにピノックならではのもので、モーツァルトが死の直前に書いたこの作品のデモーニッシュな側面を、余すところなく浮き彫りにしてくれる。オーケストラが、巧い。
 声楽ソリスト(望月万里亜、青木洋也、中嶋克彦、山本悠尋)は合唱団の中に分散して位置し、合唱の中のソリストともいうべき形で歌っていたが、祈りとしてのこの曲の性格を重視するなら、これは実に適正な方法だろうと思う。

 終演は4時過ぎ。ホールの正面口を出ると、ホテルニューオータニの西側高台の端に並ぶ高い木立から差し込む木漏れ日が、この上なく美しい。「ト短調交響曲」の第1楽章にぴったりの寂しい光景である。残雪でもあれば、なおさら美しかったろう。

2020・2・8(土)飯森範親指揮いずみシンフォニエッタ大阪

       いずみホール  4時

 大阪のいずみホールの専属オーケストラ「いずみシンフォニエッタ大阪」(2000年創設、音楽監督・西村朗、常任指揮者・飯森範親)の第43回定期演奏会を日帰りで聴きに行く。

 今日のプログラムは、中村滋延の「善と悪の果てしなき闘い 第一章」の世界初演と、川島素晴編曲になるマーラーの交響曲「大地の歌」。後者での声楽ソロは望月哲也(テノール)と大西宇宙(バリトン)。
 コンサートマスターは、前者が小栗まち絵、後者が高木和弘。

 1曲目は物々しいタイトルだが、その題名を目にしただけで、大体どういう形式の作品か、すぐ想像はつくだろう。
 ところが作曲者はプレトークで、「善」と「悪」とは絶対的なものではなく、ある時は善が悪になり、他の時には悪が善になる━━まるで現代の世界におけるように━━のであって、しかもその闘いはどちらが勝つというものではない、と説明していた。

 そうなると、二つの主題が対立するがごとき単純な形式ではなく、もっと聴き手を惑わせる複雑な音楽と化す、ということになるだろう。なるほどそう言えば━━と感心して聴いていたわけだが、しかし現代音楽作品の初演をただ1回聴いただけであれこれ判断するのは早計なこと。出来得ればもう一度聴いてみたいものである。

 川島素晴が管弦楽のパートを小編成のオーケストラ版に編曲した「大地の歌」は、これはもう、絶賛に値するだろう。シェーンベルク編曲版よりよほどいいじゃないか、と終演後にはその話で盛り上がったほどである。
 つまり、濃厚で押しつけがましいような響きではなく、透明さを持った叙情的な音色が主流を占めており、したがって作品の性格も酒に溺れる頽廃的で厭世的な世界に偏るのではなく、より澄んだ詠嘆的な美の世界に近づいたもののように感じられたのだった━━日本的な「美」の「大地の歌」というか。もちろんこれは私の主観によるものだが。

 響きから言えば、テノールのソロがよく聞こえるようにオーケストラ・パートがつくられていたし、「テノール殺し」の悪名からこの曲を解放していたと言って間違いない。
 飯森範親の音の響かせ方も見事だったこと、そして「いずみシンフォニエッタ大阪」がまた実に上手く、いい音を出してくれたことが、この演奏を成功に導いたのも事実であったろう。

 望月哲也が一頃の不調を脱して伸びのいい歌唱を聴かせてくれたのは嬉しかった。大西宇宙の朗々たる声の歌唱も良かったが、それがゆえに、第6楽章など、多少健康的なニュアンスになったかな、という印象も否めまい。

 今日は字幕がついた。ただしこの字幕、字が小さいので、客席の最後列からは些か判読しかねることが多い。第5楽章は大阪弁で訳されていたのが話題になったが、まあそうかな、という感。
 全体にかなり砕けた訳文で、第1楽章の「生は暗く、死も暗い」も、今日は確か「人生は真っ暗、死んだところで・・・・」とか、なんかそんな訳文だったのではないかしら。こういうのは、関西のノリというのかな。

2020・2・7(金)マティアス・バーメルト指揮札幌交響楽団

     サントリーホール  7時

 札幌交響楽団の定例の東京演奏会。昨年(☞2019年1月30日)と同様、2018年から首席指揮者のポストに在るマティアス・バーメルトが振った。
 今年のプログラムは、シューベルト~ウェーベルン編の「ドイツ舞曲D820」、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」(バリトン・ソロはディートリヒ・ヘンシェル)、ベートーヴェンの「交響曲第7番」。アンコールはモーツァルトの「カッサシオンK63」の「アンダンテ」。
 コンサートマスターは田島高宏。

 最初のシューベルトでの、弦楽器群の柔らかい、温かい響きが、形容しがたい安堵感を呼び起こす。アンコールのモーツァルトの曲でも同様だ。一種レトロな━━という表現は誤解を呼ぶかもしれないが、今日ではこういう色合いの演奏はむしろ希少で、貴重な個性と言えるだろう。

 言葉のついでに、「第7交響曲」も、敢えて「懐メロ的なベートーヴェン」と称させていただこうか。
 これは、悪い意味で言っているのではない。現代の刺激的な、何か新解釈をやるのかと構えながら聴く「7番」でなく、昔この曲を聴いていた頃の懐かしい思い出が蘇って来るような演奏の「7番」だったのである。

 昔好きだった詩を読み返した時に感じるような・・・・何か上手い表現が見つからないのだが、要するにこういう、昔よく聴いたような、心温まる懐かしさが湧き出て来るような「7番」も、それなりに安心して聴けるし、愉しかった、と言いたいのである。こういう個性を今の時代に頑固に押し通すバーメルトもそれなりに立派だし、それを真摯に表現する札響の姿勢も興味深い。

 マーラーを歌ったヘンシェルは、期待していたのだが、今日は調子が悪かったのか? 昨夜東京でリサイタルをやったばかりだったから、疲れでも残っていたのだろうか。「亡き子をしのぶ歌」の第1曲など、彼らしくもない不安定さがあって、どうしたのかと心配してしまったほどだ。

2020・2・2(日)フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  2時

 ロトの都響客演は2016年(→4月7日4月12日)に次いでこれが2度目。
 その前2015年(☞6月24日7月1日)にhは読響へも客演していた.。

 それらでの演奏はいずれも、彼自身のオケである「レ・シエクル」との帯同来日(☞2018年6月12日)での演奏に比べると、衝撃を与えるような出来とは言えないものだったが、客演指揮だからそれは致し方ない。
 しかし、今回の演奏では、都響も彼の指揮に馴れて来たのか、目覚ましいほどブリリアントな音色で応えるようになった。

 前半にラモーの「優雅なインドの国々」からの組曲と、ルベル(1666~1747)のバレエ音楽「四大元素」が演奏された。
 テナードラムやタンブランなど打楽器を活躍させ、愉快なリズムを強調する。前者があの「未開人の踊り」で終結したあとの拍手は大きく長く、ロトは2回もステージに呼び戻された。また後者の、18世紀前半に書かれた作品とは信じられぬような現代的な不協和音があふれた音楽にも、客席は湧いた。

 バロック・オペラの好きな人もたくさん聴きに来ていたのだろう。これまでそれに馴染みのなかったお客さんにも、その面白さを知ってもらえたなら、小さな劇場で偶にしか取り上げられないほど低調なわが国のバロック・オペラ上演状況にも、好ましい刺激を与えるかもしれない。

 後半はラヴェルの「ダフニスとクロエ」。実は、第2組曲だけだ、という某情報を鵜呑みにしていたので、開演前のホールに入った時に、大きく空けられた正面のP席を見て、おや今日はコーラス入りの全曲版だったか、と初めて気がつくほどのボケぶりだったのである。しかし、久しぶりで全曲版をナマで聴けたのは嬉しかった━━冒頭、ほとんど聞こえないような弱音からクレッシェンドし、合唱が加わって煌めくような最強音に爆発した瞬間、都響がこんなに輝かしい音を出したのを初めて聴いた、と思った。

 ロトという人、濃厚な表情の音楽をつくる指揮者で、レパートリーにも向き不向きがあると思うが、やはりもっと来日客演して、フランス音楽の粋を聴かせて欲しいと願う。
 終演後の楽員たちが引き揚げた後のソロ・カーテンコールも熱狂的で、この時にもロトは2度もステージに呼び戻されたほどだった。
 合唱は栗友会合唱団。コンサートマスターは矢部達哉。

2020・2・1(土)藤原歌劇団公演 ヴェルディ:「リゴレット」

     東京文化会館大ホール  2時

 日本オペラ振興会の制作・主催による藤原歌劇団の公演「リゴレット」。
 柴田真郁が日本フィルハーモニー交響楽団を指揮し、松本重孝が演出。

 ダブルキャストの初日たる今日は、須藤慎吾(リゴレット)、佐藤美枝子(ジルダ)、笛田博昭(マントヴァ公爵)、伊藤貴之(スパラフチーレ)、鳥木弥生(マッダレーナ)、泉良平(モンテローネ伯爵)、河野めぐみ(ジョヴァンナ)、月野進(マルッロ)他の出演。

 松本重孝の演出はこの人らしく穏健なもので、特に新しい発見を提供するというタイプのものでない。
 感心させられたのは、柴田真郁の指揮。引き締まっていて、オーケストラを切れ味よく鳴らして緊迫度を高め、ドラマを音楽的に巧く「持って行く」術にも長じている。彼の指揮をこれからもっといろいろ聴いてみたいという気になる。

 日本フィルも先年の「カルメン」以来のピット入りだが、ふだんオペラをあまり手掛けていないだけに、逆に熱意に燃えているのか、思いがけぬ好演を繰り広げてくれたのも喜ばしい。
 ステージではちゃんとした演奏をしてもピットに入ると途端に演奏が貧弱になるというオーケストラもあるだけに━━どこのどれとは申しませんが━━たまにはこういう熱意のあるオーケストラを起用してみるのも、オペラ上演の活性化に役立つように思われる。

 歌手陣の中では、題名役を歌い演じた須藤慎吾の充実がひときわ抜きんでていた。彼の歌はこれまでにもオペラでいくつか聴いていたが、今度ほどスケール感が豊かで、安定して力強い凄味を表出した歌唱は、私としては初めて聴いた気がする。特に「悪魔め、鬼め」における悲劇の道化としての凄味と迫力、そしてそれ以降の終幕にかけての緊迫度の高い歌唱は、見事な存在感であった。

 一方、マントヴァ公爵役の笛田博昭にも期待をかけていたのだが、調子があまりよくなかったか、それともこの役に合わないのか━━多分後者ではないかと思うのだが━━歌い方が恐ろしく乱暴で強引なのが、何とも気になった。こんな歌い方ではいけない。
 そういえば昔、ドラマティックな歌い方では史上屈指の存在でありながら、叙情的な弱音はおよそ苦手だった伝説的大歌手マリオ・デル・モナコは、このマントヴァ公爵役にはほとんど手を出さなかったという話をふと思い出したが・・・・。

2020・1・31(金)プラシド・ドミンゴとサイオア・エルナンデス

     サントリーホール  7時

 プラシド・ドミンゴがサイオア・エルナンデスとともに来日、ユージン・コーン指揮の東京フィルハーモニー交響楽団と協演し、盛り沢山な内容のコンサートを行なった。

 ドミンゴがソロで歌ったのは、トマの「ハムレット」、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」、ヴェルディの「マクベス」、レハールの「微笑みの国」と「メリー・ウィドウ」、コンスエロ・ベラスケスの「べサメ・ムーチョ」、ソロサーバルの「港の酒場女」など。

 エルナンデスがソロで歌ったのは、同じく「アンドレア・シェニエ」「マクベス」「メリー・ウィドウ」、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」などの中からの曲。

 そして2人の歌(二重唱を含む)としてはヴェルディの「ナブッコ」「イル・トロヴァトーレ」「マクベス」、レハールの「メリー・ウィドウ」、カルロス・ガルデルの「想いの届く日」、岡野貞一の「故郷(ふるさと)」。

 この他オーケストラだけの曲も、「ラコッツィ行進曲」「一日だけの王様」序曲、「シチリア島の夕べの祈り」序曲、「マクベス」のバレエ曲の一部、「トリッチ・トラッチ・ポルカ」などが挿入されていた。

 つい先頃79歳の誕生日を迎えたドミンゴ。声域はバリトンになったが、声質そのものは、やはりテノールのそれである。美しく力強く、清らかで澄んだ声はホールによく通り、未だ年齢を感じさせない。それとともに素晴らしいのは、今なお衰えぬ劇的な歌唱の表現力と、演技と動作に滲み出るあたたかい人間性である。
 やはりこの人は、不世出の名歌手であり、余人を以ってかえ難い存在なのだ。われわれは彼を大切にしなくてはならぬ。

 最後に二重唱で歌った「故郷」は、9年前の大震災の直後に彼がいち早く駆けつけてチャリティコンサート(→2011年4月13日の項)を開いてくれた時にアンコールで歌い、傷ついたふるさとへの悲しみを共有する聴衆を涙ぐませた歌曲でもあった━━。

 サイオア・エルナンデスというソプラノも、なかなかいい。コーンが指揮する東京フィルも今日は好演。

2020・1・29(水)サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団(終)

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 サロネンの自作「ジェミニ」と、マーラーの「交響曲第9番」というプログラム。

 当初は「ポルックス」(2018年初演)を演奏すると予告されていたのが、新作「カストール」(2019年初演)を加えた「ジェミニ」として演奏されることに変更された。これでギリシャ神話の「カストールとポルックス」の物語との辻褄が合い、併せて「ジェミニ」(双子)としての形が整ったことになる。
 2曲は「ポルックス」「カストール」の順に、ほとんど切れ目なしに、全部で30分ほどにも及ぶ長大な作品として日本初演された。

 2曲とも大編成の、極めて手の混んだ精緻な管弦楽法による、かなり輝かしい響きを持った作品である。いくつかの個所でシベリウスの遠いエコーのようなものが見え隠れするあたりは、さすがフィンランド人のサロネンならではの作風だろう。彼の作品の中では、随分取り付きやすい感じがしたのは、それだけ曲が俗っぽい、ということになるのか? 
 私はしかし、大いに愉しんだ。隣にプログラム冊子の原稿を書いたほかならぬご本人の岡部真一郎さんが座っていて、それほど熱心に拍手をしていないので、「だめですかね?」と訊いたのだが、「いや、まあ」と言葉少なに答えたのみだったのには拍子抜け。

 プログラム冊子には、欄外に「注」として、「休憩はない」と書かれていたものの、ここで休憩が入ることになった。岡部さんが「なんだ、休憩を入れるのか」と、何となく責任を感じたように呟いたが、この濃密な30分の大曲のあとに、本当に続けてマーラーの「9番」をやられたら、終りまで気力も体力も保たなかっただろう。

 そのマーラーの「第9交響曲」━━予想通り、感情の動きの極端に激しい演奏だ。と言っても、例えばバーンスタインのそれの如く、テンポもデュナミークも激烈に揺れ動く、といったタイプの演奏ではない。ただデュナミークの幅のみが極度に大きい演奏、ということになるだろうか。
 従って堅固な構築の「9番」という感が強くなり、両端楽章においても特に彼岸的とか、諦観とかのイメージは感じられない。むしろ若い活力が未だ残るマーラー、といった印象になるのである。

 それはそれで、悪いものではない。ただ私はあのマリス・ヤンソンスが最後の日本公演で指揮した「9番」の、あまりにも温かい別れを告げるような終結が不思議なほど脳中にこびりついているので、どうしても比較してしまうだけの話だ。

 フィルハーモニア管弦楽団が、今日も素晴らしかった。弦、管、打楽器とも、完璧ともいえるほどの演奏だった。とりわけ第4楽章では、弦楽器群の豊かな厚みのある音が全てを決める。第49小節以降、特に第56~57小節での弦の大波のような量感は見事だった。

2020・1・28(火)サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団(2)

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 シベリウスの「大洋の女神」、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは庄司紗矢香)、ストラヴィンスキーの「火の鳥」(1910年版全曲)。

 サロネンのもと、フィルハーモニア管弦楽団はベストの演奏水準にあると思われる。「大洋の女神」における果てしなく持続する大波のような起伏など、サロネンの祖国の作品という強みもあるだろうが、優秀なオーケストラでなければ表現できない凄絶感に満たされていた。

 「火の鳥」においても同様だ。いつだったか池辺晋一郎さんが評していた「いつまでたっても本題に入らない人の話のような曲」━━実に的を射た巧い表現だ━━という特徴をカバーするような演奏とは言い難かったものの、後半での劇的な昂揚部分では、オーケストラの卓越した力量がものを言っていたのである。

 ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」は、これはもう、庄司紗矢香の独壇場。ステージに並んでいるサロネンとオーケストラの存在をさえ霞ませるような、いや、忘れさせてしまうような、圧倒的な力を持った演奏だった。

2020・1・26(日)グランドオペラ共同制作「カルメン」

     札幌文化芸術劇場hitaru  2時

 午前9時羽田発のANA55便で札幌に入る。
 すでに横浜と名古屋で上演された田尾下哲演出によるプロダクション、「カルメン」の札幌上演。詳細は昨年の名古屋公演(☞2019年11月3日)の項で触れ、絶賛のコメントを捧げている(横浜公演は観ていない)。

 今日の歌手陣は、アグンダ・クラエワ(カルメン)、城宏憲(ドン・ホセ)、与那城敬(エスカミーリョ)、青木エマ(フラスキータ)をはじめ、名古屋公演と同一の顔ぶれだったが、今日の札幌公演の方が、概してみんな声の伸びがいい。
 二期会合唱団の、特に女声団員たちが歌とダンスを見事にこなすさまも、名古屋公演の時より更に練り上げられていたようである。

 また、ここ札幌のピットでは、エリアス・グランディが札幌交響楽団を指揮したが、これが実にいい演奏だったのだ。グランディという人はPMFにもアカデミー生として参加したことがあるそうで、従って今回は札幌への恩返しともいうべく、PMFの「札幌への還元」を実現したともいえよう。
 そして札響のオケ・ピットに入っての演奏の確実さ、緻密さ、音の良さは、嬉しい驚きでもあった。このオケ・ピットでの演奏の良さという点だけから言ったら、札響は、東京の読響、西の京響と並ぶ存在と敢えて称しても過ぎることはあるまい。

 もう一つ、合唱には「札幌文化芸術劇場カルメン合唱団」と「HBC少年少女合唱団」が参加したが、後者の歌いながら踊る可愛さは絶品であった。

 演出の面では、基本的には名古屋公演と共通ゆえ、詳しくは触れないが、いくつか変更されたり、手直しされたりした個所もある。変更された最大のものは、「アカデミー賞授賞式の劇場の外」と読み替え設定されている最終幕のラストシーンだ。

 名古屋では、カルメンが殺されたあと、劇場内から颯爽と現れたエスカミーリョが既に別の女性に鞍替えしているのを見た女性テレビ・レポーターが唖然とするというオチで終る演出だったのが、今回は、フラスキータが新しいスターとして誕生する、という設定に変わっていたらしい。
 ━━らしい、というのは、その場面で舞台奥から強烈な照明が当てられたため、1階客席からは眩しくて、フラスキータが何をやっていたのかがほとんど判らず、ホセが取り押さえられている光景だけが辛うじて確認できたに過ぎなかったのである。
 私はこんな言葉は滅多に使わないのだが、ここ(照明)だけは明らかに演出の改悪であり、失敗だったと言わざるを得ない。

 所謂通常の「カルメン」演出と違い、思い切った読み替え演出だから、横浜や名古屋の時と同様、お客さんの反応を心配していた。だが劇場関係スタッフから聞いた話によれば━━もちろん「なんだあれは」という否定的な反応もあったとはいえ━━「ミュージカルみたいで面白い」などという反応もあったそうで、つまり肯定的な意見も予想外に多く寄せられた由。
 そしてまた前日の公演(ダブルキャスト)の口コミが好評だった所為か、今日の当日売りが予想以上に伸びたとのことである。事実、1階前方通路から見渡した限りでは、2300という客席が何とほぼぎっしりと埋まっていたのだった。その点、ガラガラ状態に近かった名古屋公演とは大きな差があったと思われる。

 その他、プログラム冊子に「今回の《カルメン》のあらすじ」として田尾下哲自身の解説が載っていたこと、またそれが拡大されてロビーの2カ所に張り出されていたことなど劇場側の配慮もあって、観客の「戸惑い」も減少した、といっていいかもしれない。
 別の面から見れば、札幌のお客さんの大半はこれまでナマのオペラを完全な形で観る機会が少なかったためもあり、余計な先入意識に捉われることなく、むしろピュアな感覚でこの舞台を享受することができた、とも言えるのではないか。

 5時20分頃終演。札幌は雪が少ない。今日は昼頃少し散らついたが、夕方からは快晴となっていた。

2020・1・25(土)飯森範親指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 横浜から首都高速を飛ばして都心へ戻り、正指揮者・飯森範親が指揮する東京交響楽団の定期演奏会を聴く。

 第1部ではすさまじく意欲的なプログラムが組まれていた━━最初はヘルムート・ラッヘンマン(1935~)の「マルシュ・ファタール」という名の、大編成のオーケストラによる小品。
 これはまあ、ストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」を、大がかりに、物々しく騒々しくした曲と思えばいいだろうか。終り近くでは指揮者がステージを離れて客席に座ってしまうのだが、オーケストラは同じ個所を堂々巡りするばかりとあって、再び指揮台に上って締め括るという余興(?)も織り込まれる。

 続いてゲオルク・ビュヒナーの戯曲を基にした作品が2曲━━ゴットフリート・フォン・アイネム(1918~96)の「ダントンの死」組曲と、ヴォルフガング・リーム(1952~)の「道、リュシール」という作品が続けて演奏されたが、この選曲は面白い。もっとも、後者が初演された時にも前者が一緒にプログラミングされていたという話だ(プログラム冊子掲載解説による)。

 「ダントンの死」はもはや古典的存在だが、滅多に演奏会では聴けないので、これは貴重な体験であった。冊子には日本初演と書いてあったが━━1950年代のN響の「フィルハーモニー」誌で何か見たような気もするのだが、あれは定期のプログラムの解説だったろうか、それとも単なる記事だったろうか? 

 いずれにせよしかし、音楽の面白さから言えば、圧倒的にリームの方だろう。ここではソプラノの角田祐子が協演し、フランス革命時に処刑された女性リュシールの、最後に「国王万歳!」と絶叫するまでの長大な狂気のモノローグを素晴らしい表現力で歌ってくれた。字幕があれば有難かったのだが━━。

 このスリリングな第1部に比べると、第2部で演奏されたR・シュトラウスの「家庭交響曲」が、何となく弛緩した雰囲気で聞こえてしまうのはやむを得まい。いや、そんなことを言ったら、入魂の熱演を行なった飯森範親と、それに応えた東響に失礼になろう。後半における、シュトラウスのオーケストラの秘術を尽した部分での演奏は、実に壮大で、立派だった。

2020・1・25(土)ボーダーレス室内オペラ「サイレンス」

      神奈川県立音楽堂  2時

 「サイレンス」というオペラ━━実に感動的な舞台作品を観せてもらったという感。

 作曲は映画音楽系のアレクサンドラ・デスプラ。
 原作は川端康成の「無言」で、これをデスプラと、演出のソルレイとが台本化し、演奏時間90分ほどの作品に仕上げた。昨年2月にルクセンブルクで世界初演され、次いで3月にパリ初演されている。今回が日本初演である。
 演奏は10人編成の「アンサンブル・ルシリン」で、指揮はデスプラ自身が執った。出演歌手はジュディス・ファー(S)、ロマン・ボックラー(Br)、ローラン・ストッカー(語り)。

 器楽アンサンブルは舞台の真ん中ほどの位置に横一列に並び、演技は舞台前面で行なわれる。
 逗子か葉山の近郊に住む、既に物言わぬ状態にある小説家の家という設定。彼が背をこちらに向けてソファに座り、その沈黙を破らんものと、訪れた男が努力を重ねるものの、ついにその沈黙の圧倒的な力の前に敗北を認めざるを得なくなるという物語だ。これに、タクシーの中に現われる無言の女の幽霊の話が絡む。

 音楽には日本音楽の手法が少し取り入れられているが、基本的には西洋音楽のスタイルを保ち、それがむしろ透明な美しさを生み出している。
 だが、本音を言えば私としては、音楽そのものの力にというよりは、題材と、台詞と、その音楽の「音」の中に満ち溢れる「沈黙」あるいは「静寂」の物凄さに打ちのめされた、と言った方がいいかもしれぬ。

 上演は3時30分頃に終る。不思議な余韻を感じて、何かホールを去りがたい思いだったが(こんなことは初めてである)次の予定もあるので失礼した。その後には作曲者を含めたトークが行われたはずである。

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

お知らせ

●2007年7月以前のArchivesを順次、アップロード中です。併せてご覧下さい。
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2006年8月
2006年7月

Category

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」