2019-02

2019・2・13(水)テオドール・クルレンツィス指揮ムジカ・エテルナ

      サントリーホール  7時

 東京公演としてはこれが最終日だが、今日も満席。コンサートでしばしば見かける音楽好きの人々も、ずらりと顔を揃えている。まさに、もろびとこぞりて、といった感だ。

 プログラムは今日もチャイコフスキー集で、前半が「組曲第3番」、後半が「ロメオとジュリエット」、「フランチェスカ・ダ・リミニ」という演奏順だった。
 が、「組曲第3番」が終ったあとに、今日のプログラムには無いチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」の第3楽章が、コンサートマスター(アイレン・プリッチンという人だそうだ)のソロで挿入され、更にそのアンコールのような形で、プリッチンがソロで弾くイザイの「ソナタ第2番」からの第1楽章が演奏されるという趣向が組まれていた。
 なんともまあ、物凄いエネルギーである。終演は9時半を過ぎた。

 クルレンツィスとムジカ・エテルナ、今日も極度に念入りな、全ての音符に細かく神経を行き届かせた演奏を聴かせてくれた。
 クルレンツイスは━━ある知人も言っていたけれども━━あたかもチェリビダッケのように、ふつうの指揮者ならやらないようなユニークで完璧な音づくりを徹底的に実践し、極度に個性的な演奏を創り上げる人だ。
 これだけの演奏をするためには、リハーサルにもおそらく通常の時間を遥かに超えた大変な量の時間を必要とするだろうし、オーケストラの楽員も一種の宗教的な行動に参加するような精神状態でそれに臨むのではないかとさえ思えるほどだ。

 さて、演奏。チャイコフスキーの「組曲第3番」をナマで聴く機会など、一生に一度、あるかないか。叙情的で綺麗な曲だが、やはり彼の作品の中では、私にはさほど魅力的なものとは思えない。
 しかし今日のクルレンツィスとムジカ・エテルナの演奏にあふれるロシア的な叙情━━曖昧な言い方だが、ロシアに行ってあのロシアの冬の景色に一度でも体験した人なら、あの独特の雰囲気をお解りいただけるはずだ━━の豊かさは、いかばかりだったろう。チャイコフスキーの音楽が、如何にロシアの空気と結びついているか、こういう美しい演奏に接すると、それをしみじみ感じてしまうのである。

 「ヴァイオリン協奏曲」第3楽章が、(コパチンスカヤの飛び入りなどではなく)コンサートマスターのソロでいきなり始まったのは意外だった。しかしこの演奏はもう「トレパック」舞曲のイメージどころか、まるでジプシー・ヴァイオリンである。猛烈なテンポで乱舞するソロとオーケストラの勢いたるや、唖然とさせられるほどだ。実に上手い。この曲のこんな面を浮き彫りにして見せるとは、面白い。それは事実だ。
 だが、これはやはり余興のたぐいというか、何となくキワモノの域に入ってしまったような━━そんな気がしないでもない。少なくとも、この曲を聴いた時にはいつも得られるような「いい曲」という感じが、この狂乱の演奏からは、全く失われてしまっていたことも確かなのである。

 「ロメオとジュリエット」は、予想通り微に入り細に亘り仕上げられた演奏。曲が曲だから、このくらいやってもらった方が面白いという人━━あるいは、もう少し自然にやってもこの曲の美しさは出るはずだと思う人、好みが分かれるだろう。そう言うお前は?と訊かれたら、私としては、後者の方に組みすると答えたいところだ。

 一方、「フランチェスカ・ダ・リミニ」の方は、これこそ曲が曲だから、どうやったとてこんなものだろう、と思う。熱烈なチャイコフスキー愛好家である私と雖も、この曲の物々しい騒々しさには、いつも辟易させられるのだ。
 ただ、今日のクルレンツィスとムジカ・エテルナの精妙かつ猛烈な嵐の場面の演奏は、あのギュスターヴ・ドレが描いたダンテの「神曲」の「地獄篇」第2圏の「パオロとフランチェスカ」にある、無数の亡霊が群れをなして暗黒空間の中を「黒い風」に吹き飛ばされて行く物凄い光景を思い起こさせるに充分なものであったと思う。

 たった2つの演奏会を聴いただけだが、このコンビのチャイコフスキーには、その味の濃厚さゆえに、正直なところ少々食傷気味になった・・・・。

2019・2・10(日)テオドール・クルレンツィス指揮ムジカ・エテルナ

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 モーツァルトの「ダ・ポンテ3部作」オペラのCDにおける、読みの深い鮮烈な解釈の演奏。あるいは、激烈極まるチャイコフスキーの「悲愴交響曲」とマーラーの「第6交響曲《悲劇的》」による、2年連続のレコード・アカデミー賞大賞受賞。━━等々、この数年来、レコードを通じて日本の音楽界を席巻しているのが、このクルレンツィスとムジカ・エテルナだ。
 最近の来日アーティストの中でも、これほど満腔の期待と、それが裏切られはしないかという一抹の不安とを抱きつつ、ナマで聴けるのを待ち望んだ指揮者とオーケストラは、他にない。私とて4、5年前だったら、とっくにヨーロッパを回って聴き歩いて、皆に先んじてあれやこれや言えただろうが、彼らの演奏をナマで聴くのは、今日が初めてだ。

 今日はチャイコフスキー・プログラムで、前半は「ヴァイオリン協奏曲」だった。
 予想通り変幻自在、自由奔放、テンポの面でもデュナミークの面でも、一音たりとも既成の概念に囚われぬ独自のスタイルを以って演奏する。序奏での豊かで瑞々しい表情を聴いた瞬間、これはまさしくホンモノだ、という確信を得られたのが嬉しい。
 しかもソリストのパトリツィア・コパチンスカヤが、先日の大野&都響とのシェーンベルクの協奏曲の時とは打って変わって、これまた凝りに凝った音楽のつくりで、飛び跳ねるように、才気あふれる演奏を繰り広げる。いじり過ぎるという感もないではないが、聴き慣れたチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」がこれほど前衛音楽的な様相を以って立ち現れた演奏は、これまで聴いたことがない。

 なおコパチンスカヤは、ソロ・アンコールでも、ミヨーやリゲティの小品を、クラリネット奏者やコンサートマスターと一緒にデュオで弾いたりしたが、これらも才気煥発といった愉しい演奏であった。

 第2部は、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」だった。
 今回、ナマで聴いた彼らの「悲愴」は、2015年2月に録音されたCD(ソニークラシカルSICC-30426)に聴かれる演奏と比較すると、精妙さには不足し、特に第1楽章再現部などは凄味と濃密さの面でややあっさりしたものになっていて、全体的にはやや粗い演奏という印象ではあったけれども、しかしそれでもそのスリリングな熱量感というか、沸き立つ凶暴さといった要素は、並外れたものがあった。

 とりわけ、チャイコフスキーがスコアに念入りに書き込んだ微細な表情の変化を━━特にそのフォルテ3つとか、ピアノ6つとかいう、極端なデュナミークの対比を、これほど実感を以って再生してくれた演奏は稀ではなかろうか。全曲にわたり展開される異様なほど激しい起伏も、チャイコフスキーのその感情の振幅の激しさをいっそう具体的に表現するための手法であると思われる。
 なおこの曲では、チェロを除く弦楽器群はもちろん、管楽器群をも含めて「座っていなければ演奏できぬ」楽器以外の奏者は全員立ったままで演奏するというステージを見せていたが、演奏の猛烈さはおそらくそこからも生まれるのだろう。

 とにかく、カーテンコールでのクルレンツィスの動きといい、それに呼応する楽員たちのステージ所作といい、一般のクラシックのオーケストラのステージとはかなり違った雰囲気がある。実に面白い指揮者とオーケストラが出現したものである。極度にアクの強い演奏であるため、聴くのは些か疲労するが、それでもやはりいろいろ聴きたくなるコンビだ。
 昨年「春の祭典」を聴いて驚嘆させられたフランソワ=グザヴィエ・ロトとル・シエクルもそうだったが、世界のオーケストラ界にはまだまだ面白い潮流が山とあるようだ。

2019・2・9(土)METライブビューイング「椿姫」 

     東劇  6時30分

 横浜から銀座へ移動。幸いにも、都心の街路にはもう雪はない。
 このヴェルディの「椿姫」は、昨年12月15日のMET上演ライヴ映像。
 マイケル・メイヤーが新演出、昨年秋にMETの新音楽監督に就任したばかりのヤニック・ネゼ=セガンが指揮したプロダクション(但し4日目の公演)である。ヴィオレッタをディアナ・ダムラウ、アルフレードをファン・ディエゴ・フローレス、ジェルモンをクイン・ケルシー、その他の出演。

 マイケル・メイヤーは、先日の「マーニー」に次ぐ演出(2019年1月20日の項参照)で、今シーズンは俄然METでの活躍が多くなっている。以前も「リゴレット」を、ドラマの舞台をラス・ヴェガスに読み替えて演出したことがあり、これは私も現場で観た(2013年2月16日のマチネーの項。同3月12日の映像)が、あれはどちらかというとお遊びに近い舞台だったといえようか。だが、今シーズンの「マーニー」と、この「椿姫」とは、真っ向勝負の演出である。

 ヴィオレッタとアルフレードの関係を、舞台美術(クリスティーン・ジョーンズ担当)も含めて春夏秋冬の移り変わりになぞらえて描き、全幕を通じて舞台中央にベッドを置いてヴィオレッタの病との闘いを暗示する━━というのが彼メイヤーのコンセプトであると聞く。このベッドは時にソファのようにも見えるので、夜会の場面でも特に違和感なく観ることができる。
 演技のニュアンスはかなり細かく、あのゼッフィレッリの映画ほどではないにせよ、演劇としての面白さを充分に堪能させるだろう。

 第2幕で、ヴィオレッタに「身を引く」ことを迫るジェルモンが娘(アルフレードの妹)を連れて来るという手法は、以前ペーター・コンヴィチュニーの「びわ湖ホールアカデミー」でも観たことがある。
 あの時はその「娘」が「冷たい父」に反発し、ヴィオレッタに同情を寄せてしまうという設定だったが、今回のメイヤー版ではそこまではやっていない。その代り、第4幕で病床のヴィオレッタの枕元をその「娘」が通過したり(これは随分惨酷だ)、あとで実際に父について彼女の見舞いに来たりする、という手を使っていたのは、かなり凝った演出である。

 一方、ネゼ=セガン。
 新音楽監督を迎えたMETの観客の反応は、至極いいようだ。通常の場合と異なり、彼が最初に登場した時から大拍手とブラヴォ―の声が沸き上がっていたし、オーケストラも密度の濃い演奏を聴かせていた。
 だが今回のライブビューイングで私が強く印象づけられたのは、休憩時間に挿入された、彼のリハーサルのドキュメントである。ダムラウと一緒に、スコアを隅から隅まで研究、一つ一つの音符の意味や、ピアニッシモの意味などを互いに議論しながら演奏をつくり上げて行く。これだけの綿密な考察があってこそ、あのような表情豊かな、メリハリの強い演奏ができるのであろう。

 演奏家はかくあるべし、と讃えたいと同時に、われわれも演奏をいい加減な気持で聴くべきではない、と自戒させられることしきりである。
 ただ、ネゼ=セガンの指揮、精妙で立派ではあるのだが、あまりに念を入れ過ぎて、テンポも遅くなり、「間」も長くなり、それが第2幕の終結で奔流のような劇的昂揚をやや阻害してしまう結果を生んだのではなかったか?

 歌手では、ヴィオレッタ役のディアナ・ダムラウがやはり輝いている。アルフレードのファン・ディエゴ・フローレスは・・・・まあ、何と言ったらいいか、今回は可もなく不可もなし、といった感だろう。ジェルモンのクイン・ケルシーは音程が少々悪い。

2019・2・9(土)川瀬賢太郎指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

       横浜みなとみらいホール 大ホール  2時

 朝の「はやぶさ」で帰京。普通なら、東北新幹線で北へ向かって行くうちに窓外は雪景色に包まれて行く━━というところなのに、今日は逆だ。雪のない仙台をあとに、新幹線が南の東京に近づくにつれ、外は次第に銀世界に変わって行く、という、何だかわけの解らぬ体験をする仕儀と相成った。

 昼過ぎ、横浜に向かう。神奈川フィルの定期演奏会である。第1部では、藤村実穂子をソリストに迎えてのマーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」が、第2部ではハンス・ロットの「交響曲第1番ホ長調」が演奏された。マーラーとロットの作品を並べるとは、すこぶる意味のある、しかも意欲的なプログラミングといえよう。コンサートマスターは崎谷直人。

 藤村実穂子の歌唱は、以前より少し声質が軽くなったのかな、という印象もあったが、相変わらず深い味を湛えて素晴らしい。特に後半、「真夜中に」と「われはこの世に忘れられ」(今日はこの順番で演奏された)における情感の豊かさは、彼女の円熟を物語るだろう。
 そして川瀬賢太郎と神奈川フィルが彩る背景のオーケストラの音色の豊麗さも、印象に残る。川瀬が常任指揮者になって以降、神奈川フィルの音には、こういう「豊かさ」が加わって来たようである。

 ハンス・ロットの交響曲は、変な曲だが、面白い。川瀬の入魂の指揮のもと、神奈川フィルは大熱演を繰り広げた。特に終楽章は渾身の昂揚で、あのブラームスに似て非なる野暮ったい旋律の主題が盛り上がって行くあたりも、なかなかの熱狂の演奏であった。これで金管群が安定し、大切な個所でそれらのソロが美しい調和を生み出せるようになれば、と思う。第4楽章で長時間叩き続けたトライアングル奏者は、お疲れさまでした。

 なおこの日は、夜の渋谷でもパーヴォ・ヤルヴィとN響が同じハンス・ロットの「第1交響曲」を演奏するという巡り合わせになっていた。終演後、そちらに回るという知人も少なくなかったようだ。そんなに演奏の機会の多くない曲が、同日にかち合うというのも不思議な話である。

2019・2・8(金)飯守泰次郎指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

      日立システムズホール仙台・コンサートホール  7時

 午後、「はやぶさ」で仙台に入る。さすがに凛冽たる寒さである。仙台駅から地下鉄・南北線でわずか10分、旭ヶ丘駅で降りればホールは目の前。「日立システムズホール仙台」とは、以前は「仙台市青年文化センター」と呼ばれていた会場である。

 これは仙台フィルの第325回定期演奏会の、2日公演のうちの初日。
 昨年4月から常任指揮者に迎えられている飯守泰次郎が指揮している。
 独墺系レパートリーを十八番とする飯守は、以前の客演時代も含め、自らの指揮する定期演奏会のプログラムの大半をベートーヴェン、ワーグナー、ブラームス、モーツァルトなどの作品でまとめているが、ごく稀に「新世界交響曲」や、細川俊夫の「開花Ⅱ」といった作品をも交えている。
 この日は後半にシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」を置き、前半には珍しくもショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲第1番」を演奏する、という面白いプログラムを指揮していた。
 コンサートマスターは神谷未穂。

 協奏曲でソリストを務めた堤剛が、ショスタコーヴィチのこの協奏曲を、柔らかくまろやかな音色で、叙情的な性格に重点を置くかのように演奏していたのが興味深い。不気味な不安感の表出こそなかったとはいえ、リズミカルな要素も、長いカデンツァにおける緊迫感も失われてはいない。飯守と仙台フィルも、それに呼応して穏やかなサポートをつくり出していた。

 それにしても、最近の堤剛の演奏は、特に楽器の鳴りが昔よりも良くなったのではないかという気がする。この協奏曲でもそうだったが、アンコールで弾いたバッハの「無伴奏チェロ組曲第3番」からの「ブーレ」での、聴き手を包み込むような大きな温かいチェロの響きは、ハッとさせられたほど美しかった。

 「ザ・グレイト」では、飯守はスコアに指定されているリピートをすべて遵守していたが、テンポを速めに設定していたために、演奏時間が長くなるというほどでもなく、気分的にも長さを感じさせるということもない。鋭いメリハリをつくり、随所の音符に細かいクレッシェンドやアクセントを付加して表情の豊かさをつくり出していたのも彼らしい。仙台フィルもこの指揮に細かく反応していた。

 第1楽章の前半ではオーケストラも未だ生硬だったが、同楽章展開部あたりからはアンサンブルもまとまりを示すようになり、楽章が進むに従って演奏の密度も高まった。特に第4楽章では飯守の巧みな煽りに応えて、見事なクライマックスを築き上げて行った。翌日の2日目は、おそらく冒頭から飛ばせるだろう。
 ━━ヴェロからフランス系の洒落たセンスを叩き込まれた仙台フィルが、今度は独墺系レパートリー嗜好の飯守の下でどのような個性をつくるようになるかを見守りたいところだ。
    →(別稿)モーストリー・クラシック4月号 オーケストラ新聞

2019・2・6(水)新国立劇場「タンホイザー」(4日目)

      新国立劇場オペラパレス  5時30分

 ハンス=ペーター・レーマン演出、オラフ・ツォンベック美術・衣装によるワーグナーの「タンホイザー」。2007年プレミエ、2013年再演に次ぐこれが3度目の上演になる。

 今回の演奏はアッシャー・フィッシュ指揮東京交響楽団、題名役をトルステン・ケール(ケルル)、エリーザベトをリエネ・キンチャ、ヴェーヌスをアレクサンドラ・ペーターザマー、ヴォルフラムをローマン・トレケル、領主ヘルマンを妻屋秀和、ヴァルターを鈴木准、ハインリヒを与儀巧、ビーテロルフを萩原潤、ラインマルを大塚博章、牧童を吉原圭子・・・・という顔ぶれである。合唱はもちろん新国立劇場合唱団。

 所謂パリ版を使用(但し第2幕にはドレスデン版からの「ヴァルターの歌」を復活挿入)しているのは結構だが、第2幕最後の魅力的なアンサンブルの大半をカットするという「暴挙」を敢えてしているこのプロダクションは、正直なところプレミエ時からあまり好きではなかった。そのあたりのことは、2007年10月8日2013年1月23日それぞれの項ですでにズケズケと書いたので、繰り返すのは避ける。
 プレミエの時、百数十小節にも及ぶ大規模なカットは断じて納得できぬ、と東京新聞の批評欄に書いたら、新国立劇場の広報から「カットした小節数の計算が違う」とかいうクレーム(?)が新聞の方に来たことを、これを書いていたら思い出した。

 今回、改めて上演をじっくりと観てみると、演技はなかなか微細に表現されていることは認識できたが、全体に「燃えない」舞台であることには変わりはないようである。
 また、歌合戦の場でのヴァルトブルク宮廷の群衆のメイクが━━多分宮廷人たちの異常さを強調するためだということは理解できるのだが━━何だか顔を異様に大きく見せ、小人の集団のような恰好にしてしまっているところも、プレミエ時と同様、やはり気になった。

 タンホイザー役のトルステン・ケルルは、3日目までの公演では調子が悪かったと聞くが、今日の出来ならまずどうということはないだろう。だが、第1幕最後で声が一瞬ひっくり返った所からすると、やはり本調子ではなかったものと思える。
 ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハを歌い演じたローマン・トレケルも、以前ベルリンあたりでよく聴いた頃の爽やかで颯爽たる声はさすがに失われて来たのかな、という感もするが、今回のヴォルフラムを非常に屈折した性格の男として描き出していた演技を見ると、それを多少、歌い方にも反映させていたのかもしれない━━。

 三澤洋史が率いる新国立劇場合唱団は、いつもながら素晴らしい。
 その一方、オーケストラの音がいつもながら痩せており、ワーグナーの音楽の壮麗な厚みにも、壮大なスケール感にも乏しいのには、本当に落胆させられる。もっとも今回の指揮者アッシャー・フィッシュが、終始イン・テンポで、ドラマとしての音楽の変化も昂揚も充分に描き出せていなかったのがまず最大の問題だったであろう。

2019・2・5(火)橋爪功主演「父」

     東京芸術劇場 シアターイースト  7時

 フロリアン・ゼレール作、ラディスラス・ショラー演出による「父」という演劇。出演は橋爪功、若村麻由美、壮一帆、大田緑ロランス、吉見一豊、今井朋彦。

 認知症は、今や洋の東西を問わぬ大問題だろう。観るのは耐えられないほどだが、避けては通れないこと━━それがこのドラマの描く内容である。

 認知症が進行しているにもかかわらず、自らはそれを認めようとしない父アンドレ。
 それに心を痛めながら、さまざまな方法を講じようとする娘アンヌ。親切に介護しようと懸命に試みる女性たち。アンドレの行動に苛立ち、面と向かって暴言を吐き、果ては彼に暴力まで振るう男たち。どれも現実にあり得る━━いや、人によっては現実にどれかは体験しているであろう行動だけに、たとえ舞台上の出来事であるにせよ、その光景は痛々しさの極みである。

 更に恐ろしいのは、認知症に罹りはじめた主人公を周囲から客観的に見るだけでなく、その当人の側から周囲を見た様子が描かれていることだ。
 自分は正常だと思い込んでいる当人からすれば、周囲の光景や、周囲の人々の態度は、全く理解の行かぬものであり、怪奇なことが次から次への身の周りで起こっていると思えるのではないか? それゆえ当人は、何が真実か、誰が誰かも判らぬことになる。
 そして観客は、それぞれの年代あるいは体験から、当人か周辺かのどちらの側に立って芝居を観るか、選択せざるを得なくなるのだ。

 「自分は正常」なのにもかかわらず、娘の言うことが屡々変わる(ように思える)ため理解できなくなり、誰が娘の夫かも判らなくなり、その夫(かどうか判らぬ男)に暴言を浴びせられ殴られて泣き、━━それらの状況と闘うことに疲れ果て力尽き、ついには自信を失い絶望し、優しく差し延べられる看護師の女性の手に縋る主人公アンドレを、橋爪功が凄まじい迫真力を以って演じている。あまりに巧すぎて、観ていて怖くなる。気の滅入るドラマだ。

 これは2012年にパリで初演され、2014年以降毎年各国で上演されて来たドラマで、日本では今回が初演の由。シアターイーストでは24日まで上演され、3月には西宮、上田、高知市、名古屋、松本でも上演される。

2019・2・2(土)細川千尋 MOZART×JAZZ

      紀尾井ホール  2時

 クラシック曲のジャズ・アレンジで評判の高い細川千尋の演奏を初めて聴く。面白い。
 第1部はラフマニノフ編曲のバッハ(「ガヴォット」)で開始されたが、やはり聴きものは、細川千尋自身のアレンジによる曲の数々だ。第1部終り近くに置かれた「パガニーニの主題による“ジャズ”変奏曲」での熱狂的な躍動など、実に鮮やかなものだった。

 第2部では、ベースの鳥越啓介と、ドラムス・パーカッションの石川智が協演に加わり、彼女自身の作「パッション」と「エスポワール」に続き、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」と「モーツァルトの主題によるきらきら星“ジャズ”変奏曲」などを演奏した。曲のタイトルの「ジャズ」にはどれも「“」が付いているところに、彼女のある意図とこだわりとがあるのかもしれない。

 これはあくまで今日の演奏を聴いただけでの印象なのだが、私は彼女がやはり“クラシック”に基盤を置いていて、「変奏曲」はもちろん、そう呼んでいない「アヴェ・ヴェルム・コルプス」においてさえ、古典音楽の様式を基にした変奏を繰り広げ、それをジャズの音楽スタイルで彩って行く━━といった手法を用いていたように感じられたのである。
 こうしたスタンスが、彼女の活動において、この先どのように展開して行くのか、ジャズには門外漢である私にはしかと判らないけれども、それがさらなる高みに向かって飛翔して行くのであれば、ジャズからクラシックに入って来た人の演奏とは異なるスタイルが確立されることになって、素晴らしいことになるのではないかと思う。
 それに、今日協演していた石川智のパーカッションには、所謂「現代音楽」にも共通する精緻な、囁くような、微かな風の音にも似た響きさえもが聴かれたのだった。

2019・1・31(木)サイトウ・キネン・オーケストラ ブラス・アンサンブル

     紀尾井ホール  7時

 名手ぞろいのサイトウ・キネン・オーケストラのメンバーによるアンサンブル。
 2年前(2017年1月18日)にもこの同じ紀尾井ホールで演奏会を行なったが、メンバーはその時と全く同じだ。

 トランペットがガボール・タルコヴィ(ベルリン・フィル)、カール・ゾードル(グラーツ・フィル)、高橋敦(都響)、服部孝也(新日本フィル)。ホルンがラデク・バボラーク(元ベルリン・フィル他)、阿部麿(フリー)、勝俣泰(N響)。トロンボーンはワルター・フォーグルマイヤー(ウィーン響)と呉信一(元大阪フィル)。バス・トロンボーンがヨハン・シュトレッカー(ウィーン・フィル)、テューバがピーター・リンク(仙台フィル)。打楽器が竹島悟史(N響)。

 プログラムは、第1部がデュカスの「ぺリ」からの「ファンファーレ」、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」からの「シャコンヌ」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」から4曲。
 第2部は、ヴェルナー・ビルヒナーの「ファイアーウォーター・ミュージック」からの「私は省みなかった」、ミュールバッヒャーの「ミニマル・ミュージック11&1」、「ビートルズ・メモリーズ」、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」より5曲。

 何しろみんな上手いし、それぞれが自分の存在を明確にしながら闊達にアンサンブルをつくるので、ステージはもちろん、満席の聴衆も含めてホール全体が明るい雰囲気になる。
 とはいえ、あくまでお行儀のいい、格調高い演奏なので、会場も真面目な空気ではあったが、クラシック系から離れた曲想も混じる第2部になると、流石に華やかになって来る。アンサンブルの演奏も尻上がりに活気を加え、「ウェストサイド・ストーリー」の最後の曲「アメリカ」などは締め括りに相応しいスウィングな盛り上がりを示した。

 そして、アンコールとして演奏された、アラン・メンケンの「ホール・ニューワールド」やジョー・ザビヌルの「バードランド」となると、これはもうブリリアント極まるサウンドだ。アメリカのバンドが演奏するのとは違ってシンフォニックなイメージになってしまうのは致し方ないけれど、それでも鮮やかなエンターテインメントである。立派なものだ。
 プログラム全体を通じて打楽器の竹島悟史が前回同様、ひとりステージ後方のいろいろな楽器の間を忙しく駆け回りながら演奏していた。お疲れさまでした(※お名前の表記に間違いがありました。失礼致しました!)。

 ちなみに本拠の「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」の今年は、小澤征爾と内田光子の協演、チャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」(ファビオ・ルイージ指揮、ロバート・カーセン演出のMETプロダクション)の上演などが予定されている由。日程は未発表。
   (別稿)モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2019・1・30(水)バーメルト指揮札幌交響楽団の東京公演

      サントリーホール  7時

 首席指揮者マティアス・バーメルトとのコンビではこれが初めての東京公演。
 プログラムは、モーツァルトの「セレナータ・ノットゥルナ」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソリストは岡田奏)、ブラームスの「交響曲第2番」。コンサートマスターは田島高宏。

 エリシュカ、ポンマー、そしてこのバーメルト━━この10年ほど、札響のシェフまたはそれに準じる顔ぶれには、こういった高齢の指揮者たちが目立つ。だが、いずれも世に謂う「アナログ的な」━━あたたかい情感にあふれた、味わい深い円熟の演奏を聴かせる指揮者たちだから、それはそれで一つの方針だろうし、また国内に一つくらい、そのようなカラーを売り物にするオーケストラがあっても悪くはなかろう。

 ブラームスの「2番」は、実直そのものの演奏だったが、第4楽章コーダでの昂揚感は、さすがベテラン指揮者ならではの、「持って行き方の巧さ」というべきものであった。
 一方、プログラムの冒頭に置かれた「セレナータ・ノットゥルナ」は、少し重いながらも透明な美しさを備えた演奏であり、またアンコールで演奏されたモーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」の第3楽章も、落ち着きと軽快さとを併せ持つ演奏だった━━つまりこれらモーツァルトの作品では、このオーケストラの弦楽器群の良さが浮き彫りにされていた、ということになるだろう。

 協奏曲では、バーメルトと札響がベートーヴェンの重厚で強固な構築性を堅持した、まっすぐな演奏を貫いていたのに対し、ソリストの岡田奏は些か神経質な、オーケストラに構わず自己の世界に没頭耽溺してしまうような感のある演奏を繰り広げていた。それゆえ、コンチェルトとしてはややアンバランスなものとなっていたようである。
 彼女のこういう演奏は、ソロ・リサイタルでは生きるだろうし、またレパートリーによっても良い結果を生むこともあろう。が、こういうベートーヴェンのコンチェルトで、重々しい情感豊かな音楽をつくる指揮者と協演した場合には、いわば水と油のようになる印象を免れぬ。

2019・1・29(火)紀尾井ホール室内管メンバーによる室内楽

      紀尾井ホール  7時

 「THAT’S KCO ENTERTAINMENT ハッピー☆MOKU5アワー」とも題されているコンサート。「MOKU5」とは「木管五重奏」の意の由。
 演奏は難波薫(Fl、日本フィル)、池田昭子(Hob、N響)、勝山大舗(Cl、都響)、岩佐雅美(Fg、読響)、日橋辰朗(Hr、読響)。紀尾井ホール室内管弦楽団は各オケやフリーの奏者を集めた団体なので、各管楽器奏者の本籍のオケは以上のようになる。今日はこれに鈴木慎崇(pf)が加わっていた。

 プログラムは、第1部がJ・シュトラウスの「こうもり」序曲、ロッシーニの「木管四重奏曲第1番」、モーツァルトの「魔笛」からのアリアなど3曲、ビゼーの「カルメン」組曲。第2部ではルーセルの「ディヴェルティスマン作品6」、ミヨーの「ルネ王の暖炉」、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」。

 みんな腕前は達者だから、演奏もまとまっていたし、インティメートな雰囲気のコンサートではあった。
 とはいうもののその音楽は、どれもこれもすこぶる生真面目で、アンサンブルを整えることにのみ重点を置き過ぎているような気がする。まとまってはいるが地味で単調で、色合いに不足しているのである。
 そこがいかにも日本的と言えるのかもしれないが━━フランスなど外国の奏者たちのように、オレがオレがという調子で名技を競い合いつつアンサンブルをつくり上げて行くといった演奏に倣って欲しいとまでは言わないけれども、もっと各奏者が自分の個性なり楽器の個性なりを色彩感豊かに打ち出して、愉しく躍動し合う、という演奏にならないだろうか。
 特に「マ・メール・ロワ」などではそれが痛感された。第2部で最も瑞々しかった演奏は、ルーセルの「ディヴェルティスマン」ではなかったかと思う。

2019・1・26(土)オペラ×ダンス 「ドン・ジョヴァンニ」

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 早稲田大学オープンカレッジのオペラ講座(今日は「復讐と殺人の美学」という物騒なテーマ)を12時10分に終講。午後1時には東京芸術劇場に入る。
 早すぎたので、1階でお握りを2個買い、建物の外で行き交う人々や車を眺めながら立ち食い。この「吾ん田」という店のお握りは、種類も多彩で、ヒューマンな温かみがあり、味も壮麗で魅力的だが、単に球形に纏めただけという感のある柔らかい構築なので、片手のみによる立食形式には必ずしも適していない。

 お握り評論はともかく、今日は「東京芸術劇場シアターオペラVol,12」の、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」(セミステージ形式上演)の初日だ。
 総監督と指揮を井上道義、オケは読売日本交響楽団、演出と振付を森山開次、照明を櫛田晃代。歌手陣はヴィタリ・コシュマノフ(ドン・ジョヴァンニ)、三戸大久(レポレッロ)、高橋絵里(ドンナ・アンナ)、デニス・ビシュニャ(騎士長)、鷲尾麻衣(ドンナ・エルヴィーラ)、金山京介(ドン・オッターヴィオ)、近藤圭(マゼット)、小林沙羅(ツェルリーナ)、東響コーラス━━という顔ぶれ。

 今回は、ステージ中央に浅いオケ・ピットが設置され、演技空間は舞台前方および後方の階段を含めた特設舞台に設定されていた。この配置で演奏したオーケストラは、音がまとまってバランス良く響き、かなりの音量で鳴りわたっても歌手の声をマスクすることはない。
 また、舞台装置にも工夫を凝らしたのだろうか、これまでのこのホールでのオペラ上演におけるような、歌手の声がワンワン響き過ぎるという不具合(本来ここはコンサートホールなのだから、普通の場合はそれが長所になるわけだが)も消えていた。少なくとも、私が聴いた2階席正面最前列からは、そういう印象を得た。この巧みな吸音処理をついに実現させたことには、敬意を表したい。

 さて、本作の大きな特徴の一つは、森山開次によるダンスの挿入だった。ダンスは、近年の欧州のオペラ演出でも少なからず見られる手法である。そして、今回の舞台でも、音楽の視覚化という面において、これが大いに効果を発揮していたことは疑いの無い事実であろう。
 ドン・ジョヴァンニが闊達に己の信条を歌う「シャンパンのアリア」で、舞台が瞬時に明るく輝き、ダンサーたちが一斉に乱舞する手法は成功していたし、モーツァルトの音楽の明快なリズム感がいかにダンスとよく合うかをも実証していた。また第1幕フィナーレの中で、オッターヴィオ、アンナ、エルヴィラが重苦しい復讐の三重唱を繰り広げる時、背景で当のドン・ジョヴァンニが女性たち(ダンサー)にかしづかれている、といった「対比の光景」も面白いアイディアだった。

 ただ、それらのダンスは、もっと徹底的にドン・ジョヴァンニら登場人物の心理を視覚的に表現するのかと思っていたのだが、必ずしもそうでもないらしかった。実際にはあったのかもしれないが、私にはあまり明確には感じられなかったのである。
 「地獄落ち」のような超自然的な場面では、さらに強烈な、全曲のクライマックスに相応しいスペクタクルなダンスが展開されるのかと期待したが━━たしかにそこでは、悪鬼に扮したダンサーたちがジョヴァンニを赤いベルトで絡み、劫火に包む様子が描かれてはいたが、それはさほど目新しい趣向でもなかっただろう。
 とはいえ今回のダンスが、あのベルリンとスカラで上演された「指環」での、悪名高いギイ・カシアスの演出ほどにはしつこくなかったのは有難い。

 その一方、登場人物の演技という面では、演劇的要素には乏しく、さりとて様式的なものでもなく、やや中途半端なところもあった。ダンスの専門家が手がけた演出の、これが限界ともいうべきものだろうか。
 だがその中で、全曲の幕切れのシーンで「悪事の果てはかくの如し」とばかり、女性3人が男3人に引導を渡すかのような行動に出るというアイディアは、興味深かった。

 もう一つの特徴は、日本語上演である。敢えて日本語上演にしたのは井上道義の意向のようだが、相変わらず大半の歌手は、歌詞が聴き取れない。明確に聞こえたのはツェルリーナの小林沙羅、次いでマゼットの近藤圭くらいか。
 他の2人の女声歌手に至っては、字幕を見ない限り、歌詞が全く理解できぬ歌唱だったのである。これでは、わざわざ日本語歌詞にした意味は無いに等しいだろう。

 昔は日本語上演も多かったし、私たちもさほど違和感なく聴いていたものだが、字幕付き原語上演に親しむようになった現代では、やはり違和感がある。
 それは、歌詞と音楽とはもともと一体になったものであり、洋楽に日本語を無理に当てはめると、音楽そのものの流れがどうしても不自然になってしまうからだ。

 たとえば外国人2人の日本語歌唱(それ自体は上手い日本語だったが)に聞かれたように、日本語特有のなだらかな発音が、音楽そのものをもメリハリのないものにしてしまっていた。それはドン・ジョヴァンニの性格をも、奔放な自由主義者とか、破天荒な反逆児とかいったものでなく、何かヌメッとした、単なる女たらしのような存在に変えてしまったという結果を招いたのではないか? コシュマノフの意外な音程の悪さ(「セレナーデ」の個所など、唖然とさせられるほどだったが)も、このなだらかなリズムに慣れなかったせいだったのではないか?
 むしろ、いちばん日本語を明確に歌っていた小林沙羅の方がはるかにメリハリのある音楽をつくっていたように思えたのである。

 井上と読響の演奏は極めて確信的で、序曲冒頭のニ短調のドラマティックな第一撃からして緊迫感にあふれていた。モーツァルトの音楽の精緻なニュアンスへの配慮とともに、その力と量感、明朗さや魔性的な性格なども併せ再現した、シンフォニックな快演だったといえよう。
 第1幕の終り近く、「3つの階級」の者たちによる3種の舞曲が同時に響く有名な個所では、オケ・ピットの中でそれぞれが際立つように演奏されていたのも印象的だった。アンサンブルなどの細部にはオヤと思わせる個所もないではなかったが、そんなものは2回目の上演の際には解決されているだろう。
 ともあれ今回の演奏は、声楽とのバランスを含め、以前のプロダクション「フィガロの結婚」の時の演奏を、格段に上回る出来だったと言っていい。

 ただし全曲大詰め、「地獄落ち」のあと、人々が出て来るアレグロ・アッサイの部分を全部カットし、いきなり最後のプレストに飛んだのは、いかがなものだろうか? 
 確かにあのアンサンブルの個所は、「家に帰って食事しよう」だの、「新しい主人を探そう」だのという歌詞に見られるように、妙に日常的な要素が突然加わって来るという点で、ドラマの上で違和感がなくはない。
 その一方、このオペラの所謂「ウィーン上演版」は、地獄落ちの場面で終ることになっているが、そうするとザルツブルクのクラウス・グート演出のように、何となくちょん切れの印象にもなってしまうのも事実だろう。となれば、今日の上演でのやり方は、いわばプラハ版とウィーン版との折衷版とでもいうことになるか? 
 まあ、私としては、これについては「何だかなあ」という気持を抱いたままでいるほかはないようである。

 5時半頃終演。明日のびわこホール「ジークフリート」入門講座第2回講演に備えるため、直ちに品川駅へ向かい、6時27分の新幹線に乗り、夜9時頃には琵琶湖ホテルに入る。こちらは雪が降り続いていて、凄まじく冷える。明日の聴講の申込人数は160人とのこと。熱心なお客さんが本当に多い。

2019・1・24(木)ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮新日本フィル

      サントリーホール  7時

 モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」序曲、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはクシシュトフ・ヤブウォンスキ)、チャイコフスキーの「交響曲第1番《冬の日の幻想》」。

 最初の序曲、新日本フィルが綺麗な音を出している。中型の編成ながら、たっぷりと厚みのある響きで、澄んだ美しさが好ましい。

 続くショパンのコンチェルトでは、ヤブウォンスキが━━先日のリサイタルの時よりはかなり強いアクセントを持つ演奏だったが━━やはりオーソドックスなスタイルで、安定した穏健なソロを聴かせてくれた。この人の演奏、決して悪くはないのだが、もう少し刺激的な(?)要素が欲しい気もする。ソロ・アンコールでの「革命のエチュード」にも同様のことが言えようか。

 「冬の日の幻想」は━━非常に主観的な問題になるけれども、冬のロシアの思い出は私には強烈で、それはモスクワとサンクトペテルブルクだけのほんの2都市だけの思い出に過ぎぬとはいえ、チャイコフスキーのこの曲を聴くと、常にあの冬のロシアの光景がまざまざと脳裏に蘇って来るのである。だが、今日のこのトルトゥリエと新日本フィルの演奏を聴くと、どうもそういうイメージが全く浮かんで来ないのだ・・・・。

 だからこの演奏は悪いと言っているのではない。演奏には、それぞれ「お国柄」というものもあるだろう。

 ただ、第1楽章だけは思いのほか平板な演奏で、緊迫感を欠いた流れのため、かなりの不満を残した。幸いに第2楽章以降は、音楽のエネルギーも持ち直したようであり、特に第4楽章のコーダは、盛り上げという点では見事なものだった。

 今日のコンサートマスターは西江辰郎。

2019・1・22(火)尾高忠明指揮大阪フィル東京公演

    サントリーホール  7時

 武満徹の「トゥイル・バイ・トワイライト」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソロは神尾真由子)、エルガーの「交響曲第1番」というプログラムを引っ提げての東京公演。

 音楽監督・尾高の指揮による大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏は、すでにフェスティバルホールでも3回ほど聴いてはいるが、ここサントリーホールで聴くのは初めてになる。それゆえ━━最近とみに緻密なアンサンブルとなり、落ち着きのある安定した音になって来たこのオケが、こちらではどんな音を響かせるかも、私には大いに興味のあるところだった。

 まず何よりも最初の「トゥイル・バイ・トワイライト」の演奏が、実に素晴らしかった。寄せては返す波のように黄昏の輝きを繰り返しつつ次第に溶暗へ向かって行く音楽の流れが、かくもふくよかで多彩な音色の響きに満たされて再現されたこういう演奏は、めったに聴いたことがない。
 昔は「野武士」的なイメージのあった大阪フィルが、今はこのような繊細な演奏を聴かせてくれる。今夜のプログラムが、かりにこれ1曲だったとしても、満足感を以ってホールをあとにしただろう。

 ところが、2階センター席最前列に座っていた私の背後周辺は何とも静かなのである。振り返ってみると、僅かの人たちを除いて、ほとんど誰も拍手をしていない。黙って身動きもせず座っているだけなのだ。拍手をしているように見えても、実はおざなりに音を立てずに手を軽く動かしているだけである(これでは演奏者に称賛の音が聞こえないではないか)。
 はるか昔、未だ気の荒かった(?)時代の尾高さんが、時に聴衆が積極的な反応を示さなかった場合、「あなた方、どういうつもりで演奏会に来ているんですか、映画でも観に来たつもりでいるんですか、って言いたくなることがありますよね」と憤慨していたのが今でも記憶に強く残っているのだが、私の方はこのトシになっても未だに憤慨してしまうという妙な血気が残っているらしい。それでも、他のブロックからは盛んな拍手は聞こえていたが・・・・。

 ブルッフのコンチェルトでは、神尾真由子が官能的なほど表情の濃い旋律の歌わせ方で盛り上げてくれたため、アンコールの「カプリース24番」(パガニーニ)を含め、こちらは2階席からも相応の拍手が起こった。そして、尾高のスペシャルたるエルガーの「第1交響曲」でもその入魂の熱演と、熱心なファンのブラヴォーの歓声に釣られたか、これもある程度の反応が生れていた。

 それにしてもこのエルガーの交響曲は、まさに全身全霊をこめて音楽に没入する尾高の気魄といったものが如実に伝わって来るような快演だった。オーケストラの演奏にも、冷たく機械的な雰囲気など、全く無い。コンサートマスターは崔文洙。
 大阪フィル、好調なようである。5月定期にはデュトワを迎えるなど、企画にも面白い姿勢が窺われる。

2019・1・21(月)クシシュトフ・ヤブウォンスキ ピアノ・リサイタル

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 日本・ポーランド国交樹立百年を記念する「ポーランド芸術祭2019 in Japan」のオープニングコンサートとして行なわれたのが、このヤブウォンスキのリサイタル。曲目は全ショパン・プログラム。当初発表のものと多少変更にはなってはいたが、所謂メインストリームの名曲ばかりによるものだ。

 ヤブウォンスキの演奏は、とにかく柔らかい。近年は、ポーランドの若手にしても、とかく攻撃的なショパンを弾く人が多いようだが、彼のそれには、全体にまろやかな響きがある。もちろん最強奏では充分な力感を発揮するが、それでも決して「ぶっ叩く」ような演奏はしない。それだけに心安んじて聴けるショパンということにもなろうが、ただ時には、それが物足りなく感じられることがないではない。

 たとえば、第2部で演奏された「スケルツォ第2番」では、いかにも音に丸みがあって、刺激的にならぬ温かい情感も聴かれ、澄んだ叙情味が顔を覗かせる個所では、一瞬ドビュッシーを連想させるような表情も現われるほどだ。しかし、低音の強いアクセントが、突き上げるように追い上げつつ和声構築を変えて行くような個所でも、ヤブウォンスキは全体を丸い響きにしたまま、流れるように移調を続けて行く、とでもいったような演奏を聴かせるのである。このあたりが、少々メリハリを欠くようにも感じられて、物足りない思いにさせられる、というわけだ。

 そんなわけで、第1部での「革命」や「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」などでも、それなりの壮大なスケール感は充分ではあったものの、何か一つ刺激に乏しい感を拭えなかった、という印象がある。もっともこれはあくまで、私個人の好みの話である。

2019・1・20(日)METライブビューイング「マーニー」

   東劇  6時30分

 ウィンストン・グレアムの小説を基に、ニコラス・ライトが台本を、ニコ・ミューリーが音楽を書いた新作オペラ。マイケル・メイヤーが演出、ロバート・スパーノが指揮。
 美女の泥棒マーニーにイザベル・レナード、社長マーク・ラトランドにクリストファー・マルトマン、その弟テリー・ラトランドにイェスティン・デイヴィーズ、2人の母親ラトランド夫人にジャニス・ケリー、マーニーの性悪な母親にデニース・グレイヴス、他。

 この「マーニー」のストーリーは、かつてヒッチコック監督がショーン・コネリーらの主演で映画化しているが、すこぶる面白い。金庫破りの常習犯マーニーを主人公に、今回のオペラ版では、その盗癖の心理分析なども織り交ぜられている。ラストシーンは何となく日本のテレビの刑事ドラマのようなパターンになっているが、まあ救いはあるだろう。

 なにしろ、イザベル・レナードがグレース・ケリーさながらの上品な美貌と来ているし、相手役のマルトマンもカツラをつけてショーン・コネリーもかくやの紳士ぶりだし、オペラの舞台というよりは昔の佳き時代のハリウッド映画を観ているような雰囲気を感じさせる(従ってMETの巨大な舞台で観るよりも映像の方が面白さは倍加しているだろう)。
 15回だかに及ぶというマーニーの衣装替え(衣装はアリアンヌ・フィリップス、大変な人気らしい)も鮮やかで、またこれが見事な着こなし。マーニーの分身たる4人の女性も美女ぞろいであり、彼女に付きまとう男たちもカッコよく、「現実と非現実とが交錯する」メイヤーの演出もセンスがいい。

 ただその一方、肝心のニコ・ミューリーの音楽がどうだったかと言われると少々困るのだが・・・・。ミニマル・ミュージックの影響をも受けつつ、色彩的な楽器編成で登場人物たちの性格を描き分けようという狙いもあったとか。それは充分理解できるとはいえ、━━終ってみれば些か印象が薄いという感は拭い切れない。

 字幕は極めて読み易く、要を得ている。これは昨年11月10日上演のライヴ映像。共同制作のイングリッシュ・ナショナルオペラでは、既に2017年11月に初演されている由。休憩1回を含み、上映時間は2時間50分。

2019・1・20(日)飯守泰次郎指揮新交響楽団「トリスタンとイゾルデ」

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 アマチュアオーケストラの新交響楽団が、飯守泰次郎を客演指揮に迎えて取り組んだワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」。
 この日は、第1幕への前奏曲、第2幕全曲、第3幕の第3場(マルケ王たちが到着する個所から「愛の死」まで)が演奏されるというプログラムだった。

 アマオケと雖も半世紀以上の歴史と、数々の名演の実績のある新交響楽団、そのレパートリーも非常に広いが、久しぶりに聴いたこのオーケストラのワーグナーものの演奏は、実に立派なものであった。飯守泰次郎の円熟の手腕による制御のもと、極めて情感の豊かな、あたたかみのある演奏を繰り広げてくれた。殊更に絶叫しない語り口が、低音に基盤を置いた厚みのある響きの中で、ヒューマンな「トリスタン」を聴かせてくれたのである。

 第2幕終結近く、イゾルデが「トリスタンの行く国に私もついて行きます」と歌う暗い美しさに満ちた個所で、ホルンが惜しくも音を外した。ここは「ブランゲーネの警告」の個所とともに私が全曲中でいちばん好きなところなのに、と落胆したのだが、実はその時になって初めて、「そう言えばこれはアマオケで、吹いているのはアマチュアの人だったのだ」ということを思い出したのであった。つまりそのくらい、このオケ全体の演奏は見事だったのである。

 ━━批判しているのか、褒めているのか解らないような書き方になってしまったが、もちろん褒めているのであり、そのホルンのミスなど、全曲の演奏の中ではわずかな瑕疵でしかない。事実、全曲の掉尾を飾る「愛の死」における演奏などは、そのやわらかさと情感の豊かさにおいて、いかなるプロオケをも凌ぐほどの、素晴らしいものだったのである。━━こういう演奏は、もちろん飯守泰次郎の指揮でこそ、可能となったはずだ。

 歌手陣はオーケストラの後方、舞台奥に位置し、「警告」シーンのブランゲーネのみはオルガン横の高所で歌った。1階席中央後方で聴いた範囲では、その舞台奥の配置が適切であったかどうかは一概に断じ難い。
 イゾルデの池田香織、トリスタンの二塚直紀、ブランゲーネの金子美香、クルヴェナルの友清崇が充実した歌唱を聴かせてくれた。

 池田香織のイゾルデはもはや定番というべきもの。二塚直紀のトリスタンは以前に飯守指揮関西フィルの演奏会(2016年7月15日)で聴いて以来だが、力と美しさを備えた声だ。
 ただ、マルケ王を歌った佐藤泰弘には、もっと正確な音程と、丁寧で細かいニュアンスをこめた歌唱表現を望みたい。今日のような歌唱では、野卑で投げやりなマルケになってしまう。
 その他、メーロトに今尾滋、牧童に宮之原良平、舵手に小林由樹が出演。それぞれ出番はわずかだったが手堅く責任を果たしてくれていた。

2019・1・18(金)山田和樹指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 今月、山田和樹が読響を指揮した3つ目の演奏会。
 今日は、首席客演指揮者たる彼の定期への初めての登場になるとか。演奏されたのは、諸井三郎の「交響的断章」、藤倉大の「ピアノ協奏曲第3番《インパルス》」の日本初演(ソロは小菅優)、ワーグナーの「パルジファル」第1幕前奏曲、スクリャービンの「交響曲第4番《法悦の詩》」という、これまた意欲的なプログラムであった。

 このプログラミングの巧さには感心した。つまり、1928年に作曲された諸井三郎の「交響的断章」では、ドイツ・ロマン派的な色彩を根底に置きつつ、冒頭にはスクリャービンの作品を思わせるトランペットなどの響きと、祈りの歌にも似たコラールが聴かれ、これらがワーグナーとスクリャービンの作品を予告し、また「パルジファル」の神秘的な音楽が次の「法悦の詩」の神秘主義の音楽を引き出す、といった設計が感じられるのである。
 そして前半では、藤倉大の新作と、日本のクラシック音楽作品の古典たる諸井三郎の作品が対になる━━。
 まあ、それらが意図されたものだったかどうかは別として、実に巧く並べられているな、と舌を巻いた次第なのである。

 山田和樹のワーグナーを聴いたのは、もしかしたらこれが初めてかもしれぬ。興味津々だったが、実に面白い━━というのは、彼がこの荘重な「パルジファル」の前奏曲を、いかにも彼らしく、開放的で明るい音楽に仕立てていたからである。これほど太陽の光をいっぱいに浴びたような「パルジファル」の音楽も稀だろう。音量も実に大きい。もしこれが全曲上演の前奏曲として演奏されていたとしたら、このあとの静寂な「舞台神聖祝典劇」をどう展開したらいいのかと思えるくらい、ダイナミックなつくりになっていて、微苦笑をも誘われたのだった。

 一方、流石に堂に入った演奏で圧巻だったのは、最後のスクリャービンの「法悦の詩」だったのではないか。作曲者が重視した色彩感を前面に押し出し、熱狂と法悦の昂揚へ息の長いクレッシェンドで華麗に盛り上げて行くその呼吸は、見事というほかはなかった。トランペット群も、この日の大活躍に加えて、更にその総仕上げを飾ったような形である。

 話題を集めていた藤倉大の新作の「インパルス」に関しては、そのオーケストラの色彩の美しさと、小菅優が演奏したピアノの眩いばかりの技巧の鮮やかさに舌を巻いたが、音楽の詳細について感想を述べるのは、もう一度細部を詳しく聴き直してからにしたい。
 彼の作品は、考えてみるとこれまでかなりたくさん聴いているのは事実だが、それらは概して小品ばかりであり、昨年の話題のオペラ「ソラリス」は、残念ながら都合で聞き逃している。ともあれ、いつだったか、現代作品ばかりを集めて演奏されたコンサートに関する日記の中で、「今日演奏された作品の中では、やはり藤倉大の作品が一歩も二歩も先んじているだろう」と書いたことがあったが、彼についてのそういう思いは、今も変わっていない。

 山田和樹の指揮、読響の演奏、その両者もやはり傑出したものである。

2019・1・17(木)モンテヴェルディ:「ポッペアの戴冠」HP

      いずみホール  5時

 19日午後の本番上演も、18日午後のGPも残念ながら観られないので、せめて今日のHP(Haupt Probe)だけでもと思い、とんぼ返りで観に行く。帰りの新幹線に乗る時間のために、残念ながら第2幕までしか観られなかったのだが、これはなかなかの力作であった。

 このプロダクションは、昨年2月に急逝した礒山雅氏を中心にいずみホールで進められて来た「古楽最前線!躍動するバロック 中世・ルネサンスを経ての開花━━初期バロックまで」というシリーズの第5弾、モンテヴェルディのオペラ「ポッペアの戴冠」のセミステージ形式上演である。
 このホール得意の手法で、ステージ中央に渡邊順生指揮のオーケストラを配置、オルガン下の高所のスペースと、その手前に特別に設置したステージ等を演技空間に使い、必要最小限の演技を展開するといったやり方だ。今回の演出は高岸未朝。

 歌手陣はすこぶる多彩である。顔ぶれには、石橋栄実(運命の女神他)、鈴木美登里(美徳の女神)、守谷由香(愛の女神)、望月哲也(ローマ皇帝ネローネ)、加納悦子(追放される皇妃オッターヴィア)、阿部雅子(強引に皇妃に納まる女ポッペア)、藤木大地(ポッペアに想いを寄せる騎士長オットーネ)、山口清子(オットーネに想いを寄せるドゥルジッラ)、斉木健詞(ネローネを諫めたため自決に追いやられる哲学者セネカ)、岩森美里(ポッペアの乳母アルナルタ)、櫻田亮(オッターヴィアの乳母ヌトリーチェ)ほか多数が並ぶ。

 リハーサルの段階であれこれ云々するのはルール違反なので、詳細は控えるが、とにかく歌唱を含めた演奏は極めて充実しており、モンテヴェルディの円熟期のオペラがいかに劇的で、雄弁な表現力を持つかが充分に表されている(もしくは表されつつある)と言っていいであろう。
 第1幕の幕切れ近く、皇帝ネローネと哲学者セネカの激しい応酬では、斉木健詞の強靭なバスの威力もあって、息詰まるほどの迫真感を生み出していたし、またそのセネカを排除すべくポッペアが偽りの話を並べ、ネローネを煽る場面のオーケストラも、単純な手法ながら不気味な緊迫感を生み出していた。19日の本番までには更に練り上げられることだろう。

 字幕は正確で、実に懇切丁寧だが、極度に内容が詳しいため、読むだけで手いっぱい━━という感がなくもない。

 それにしても、ネローネ(ネロ)もネローネだが、ポッペアという女は━━言語道断にけしからぬ女だ。

2019・1・15(火)大野和士指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 大野&都響、この日はA定期。ブゾーニの「喜劇序曲」、マーラーの「少年の魔法の角笛」 から5曲(ソリストはイアン・ボストリッジ)、プロコフィエフの「交響曲第6番」。コンサートマスターは矢部達哉。

 先日の定期と同様に一癖あるプログラムで、大野と都響の企画担当者たちの自信と意欲が窺われる。━━ただ、ブゾーニのこの小品は、かなり調子のいい(?)軽快なものだが、音楽としては、聴く機会を与えてもらったことだけは有難いと思えるような作品だ。

 プロコフィエフの「第6交響曲」も、シリアスさとユーモアと、それに粗暴さも加わった「おかしな」曲だ。大野と都響の演奏は真摯なものだったが、しかしこの曲はやはり、相応以上の多彩な音色の変化や、派手な演出を加味した演奏でないと、この長さ(40分以上)を持ち堪えるのは難しいのではないか。
 かつてラザレフが日本フィルを指揮して大見得切った演奏を披露した時には、聴衆も沸いたものだ。それに比べると今日のは、些か生真面目に過ぎようか。いや、真面目が悪いと言っているのではない。もしかしたらこの演奏は、残響の豊かなサントリーホールで聴いたら、もう少し異なる印象を得たかもしれない。

 マーラーの歌曲集では、「ラインの伝説」「魚に説教するパドヴァの聖アントニオ」「死んだ鼓手」「少年鼓手」「美しいトランペットの鳴るところ」が歌われた。ボストリッジは綺麗な声で歌ってくれるし、それはそれでいいのだが、しかし「死んだ鼓手」のような曲では、マーラーが音楽に籠めた絶望、希望、憧れ、悲痛さといった感情の微細な変化を、さらに明確に歌い分けて欲しい気もする。ボストリッジの歌唱は、その辺がどうも淡彩になる傾向がある。
 ただ今回聴いた席が2階正面1列目で、ここは視覚的には理想的ながら、音が少々「遠い」。ボストリッジは叙情味の濃いテナーだし、本来はニュアンスの細かい歌い方をする人だから、この席の位置から歌唱がどうだとかを断定するには危険だろうと思われる。
 大野のオーケストラ制御は流石に巧い。「死んだ鼓手」におけるような大編成の管弦楽パートは、指揮者が巧く鳴らさないと、声をマスクしてしまうことが多いのだが、オペラ座で経験を積んだ大野は、そのあたりを実に見事に構築してくれていた。

2019・1・12(土)ロレンツォ・ヴィオッティ指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 池袋での読響の演奏を聴き終って、赤坂のサントリーホールへ向かう。こちらは正月早々の「レクイエム」だが━━これは東響の定期演奏会。故マルチェロ・ヴィオッティの子息で、まだ20代後半のロレンツォ・ヴィオッティが客演指揮。森谷真理、清水華澄、福井敬、ジョン・ハオ、東響コーラスが協演。コンサートマスターは水谷晃。

 ロレンツォ・ヴィオッティ、すでに欧州の歌劇場では実績を重ねている気鋭の指揮者だが、すこぶる凝った表現を採る人だ。総休止を極度に長く取り、デュナミークの対比を劇的に強調し、弱音で沈潜する個所ではテンポを大きく落して苦悩の感情を━━叩きつけるように激しく囁く発声なども含めて━━強調する、といったように、かなり表情の濃い演奏をつくり出す。

 それらはまあ、調理法の一つともいうべきものだが、それによる肝心の料理の味はどうだったかということになると、私にはどうも、いつものような「美味しさ」が感じられなかったのである。細部をあまりに念入りに強調する作りにしてしまうと、かえって作品全体における自然な流れや、壮大な構築のバランスを失わせることが多いものだ。策に溺る、ということか。聴き慣れたこの曲が、今日は異様に長く感じられてしまった。
 「怒りの日」のような個所で、合唱(凄まじい大人数だった)と管弦楽が全力で咆哮する時にも、音楽全体の響きが混濁してカオス(混沌)状態になってしまった感もある。これはもちろん、指揮者の責任だ。
 毒気に当てられたせいか、作曲者名を書くのを忘れ、コメントでご指摘を頂戴した。これはヴェルディの「レクイエム」である。

2019・1・12(土)山田和樹指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 恒例の早稲田大学オープンカレッジのオペラ入門講座━━今回のシリーズは「オペラのクライマックスにおける手法」で、第1回の今日は「愛」というテーマ━━での講演を終って池袋に駆けつける。
 この日の読響は「土曜マチネーシリーズ」だ。首席客演指揮者・山田和樹の指揮により、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」と「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロはホアキン・アチュカロ)、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」というプログラムが演奏された。コンサートマスターは小森谷巧。

 カラフルな性格を備えた作品を手がけては天下一品の山田和樹だし、今日の3曲でもそういう個性は多かれ少なかれ発揮されてはいたが━━。「高雅で感傷的なワルツ」での演奏は意外に地味で生真面目で、もう少し輝きと多彩な音色が欲しいところ。もっともこの曲には、もともと一筋縄では行かないという性格もあるだろう。

 続くコンチェルトでは、86歳の巨匠アチュカロの、何とも温かいヒューマンな味に富むソロがすべて。アンコールで弾いたスクリャービンの「ノクターン」とともに、こういう人間味あふれる演奏を聴かせてくれるピアニストは、今や稀有の存在である。

 「シェラザード」では、読響の音響的威力が効果を発揮したが、小森谷のヴァイオリン・ソロは、正確ではあるものの、千一夜の物語をシャリアール王に語るシェエラザード姫の口調としては、もっと色気というか、艶めかしさが必要なのではないか?

 アンコールは、アザラシヴィリの「ノクターン」という曲。私は初めて聴いたのだが、まるで20世紀中盤以前のミュージカルか何かのナンバーのように、極度に甘美なメロディに溢れた曲であった

2019・1・10(木)大野和士指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 これは定期演奏会Bシリーズ。
 シェーンベルクの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはパトリツィア・コパチンスカヤ)と、ブルックナーの「交響曲第6番」。最近の日本のオケでよく試みられるようになった、意欲的なプログラムの一例と言えるだろう。コンサートマスターは山本友重。

 ブルックナーの「6番」では、大野と都響の最近の好調ぶりを如実に示す、揺るぎのない造型力にあふれた快演が聴けた。第1楽章で、主題のモティーフが2小節ごと、あるいは4小節ごとに1組になって移行して行く整然たる構築なども、実に明快に再現されていた。

 一方、前半のシェーンベルクの協奏曲では、ソリストのコパチンスカヤの演奏が凄い。これだけ強靭な集中性を示した演奏は、滅多に聴けるものではないだろう。
 作風において調性への回帰が見られると言っても所詮シェーンベルクはシェーンベルクなのだが、今日の彼女の演奏では、曲全体に、よい意味での瑞々しい旋律性を感じさせていたところも驚きだ(もちろん、「甘く」してしまったという意味ではない)。
 こういうプログラムの場合、ふつうなら熱狂的な拍手はブルックナーの方に起こるものだが、今日はそれよりもこのシェーンベルクでの、コパチンスカヤの演奏の方に爆発的なブラヴォーと拍手が集中するという、珍しいケースが見られた。
  →(別稿) モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2019・1・8(火)山田和樹指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 山田和樹がこの2週の間に首席客演指揮者として読響を振る3つの演奏会、その最初のものがこれ。
 今回は、サン=サーンスの長く壮大な「交響曲第3番」(オルガンは室住素子)を冒頭に置き、第2部はラロの「チェロ協奏曲」(ソロはニコラ・アルトシュテット)で洒落た味を出し、最後を豪壮華麗なレスピーギの「ローマの祭」で締めるというプログラミング。コンサートマスターは長原幸太。

 「3番」では、綿密な造りの前半2楽章と、豪壮な後半2楽章の対比という、山田和樹の巧みな設計に基づいた指揮が効果を発揮した。もっとも、演奏会の前半でこのようなクライマックスが築かれてしまうと、こちらのペースがやや乱れてしまう向きがなくもないけれど。

 ラロのこの「チェロ協奏曲」をナマで聴いたのは、何十年ぶりかになる。第1楽章のあの物々しいモティーフを聴くと、何だか懐かしい気持に引き込まれる。第2楽章でチェロがフルートの「珠を転ばす」ような音型と交流する個所も、録音で聴くよりナマで聴いた方が、両者の楽器の距離感により面白い効果が味わえるのではなかろうか。
 アルトシュテットは、昨年ハイドン・フィルハーモニーと来日した時の指揮とソロで聴いたばかりだが、今回は何かマイペースで弾いているような闊達な雰囲気で、ややあっさりした演奏ではあったものの、愉しめた。
 演奏と同じようにきびきびしたステージでの身のこなしで、カーテンコールで出て来るたびに、トップサイドの奏者の頭越しに手を差し延べてコンマスの長原に握手を求めるという動作が、慌ただしくて、何となく可笑しい。
 アンコールでは、その長原との掛け合いで、ピッチカートで応答し合うシベリウスの「水滴」という不思議な小品を演奏してくれた。2人で顔を見合わせて何故かワハハと笑ったくだりも演奏の一部と考えれば、実にユーモアたっぷりのステージであった。

 「ローマの祭」は、山田和樹の念入りな演奏設計と構築の巧さ、オケを煽り立てる呼吸の見事さに加え、読響の上手さ(客演のホルン・ソロは別としてだが)と豊富な大音量と、その色合いの多彩さが印象的だった。4つの祭のそれぞれの特徴を際立たせた演奏は、幕切れは何となく勢い余った感もあったが、とにかく胸のすくような趣があったのである。
 バンダのトランペットは2階客席センター通路の下手側で咆哮していた。そして、アンコールの「ウィリアム・テル」の序曲からの「スイス軍隊の行進」でも、最初のトランペットをそのバンダに吹かせるという演出が面白い━━ティンパニとの絡みはズレズレの響きに聞こえたが、これは両者の距離ゆえで、仕方がない。
 それにしても山田和樹という人は、現時点では、やはりこういったラテン系のレパートリーに強みを発揮しているように思われる。

2019・1・7(月)ピエタリ・インキネン指揮プラハ交響楽団

      サントリーホール  7時

 このチェコの名門オケは、少なくともこの10年の間に、イルジー・コウト(2008年1月13日の項参照)、ズデニェク・マカル(2010年1月14日の項)、ピエタリ・インキネン(2016年1月18日の項)、ペトル・アルトリヒテル(2017年3月16日の項)ら、いろいろな指揮者と来日して、その都度異なる表情を聴かせてくれている。
 そのうち、2015年からこのプラハ響首席指揮者を務めているインキネンは、わが国では日本フィルの首席指揮者としておなじみだが、その他にも2017年秋からザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルの首席指揮者にもなっている。

 今日は、第1部では樫本大進をソリストにブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」が、第2部ではチャイコフスキーの「第5交響曲」が演奏された。
 ただし前半のアンコールで、樫本とインキネンがヴァイオリンのデュオを披露、バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」の第2楽章をオケの数人のメンバーと一緒に演奏した上、チャイコフスキーのあとにもドヴォルジャークの「スラヴ舞曲」の「第10番」と「第8番」を演奏したので、終演は9時半近くになった。

 インキネンとプラハ響、あまり重くなく、引き締まった音で真摯に作品と取り組む演奏である。しっとりとして瑞々しい、端整な表情は、このコンビでの前回の来日の際に聴いたのと同じ特徴だ。
 ブラームスの協奏曲では樫本大進も伸びやかなカンタービレを効かせたが、彼もやはりベルリン・フィルのコンサートマスターらしく端整な傾向のソロなので、明るいが生真面目なブラームス像の再現とでもいう演奏になっていただろう。第2楽章のオーボエ・ソロ(女性奏者)は素朴な趣ながら、なかなか美しかった。

 一方、チャイコフスキーの交響曲でも、フォルティッシモは力感豊かながら決して威嚇的にならず、どこかに温かい雰囲気を感じさせる。
 チェコのオケと北欧人インキネンの若々しい気魄とがどう調和して、どのような良さが生れるか、という点にも注目したが、チェコのオーケストラ特有の素朴な落ち着いた味や、郷土的な色彩感といったものは、この演奏からはほとんど失われていた。とすれば、その代りに何が生れているかが最大の問題なのだが、厳しい見方かもしれないけれども、この演奏を聴いた範囲では、その辺はどうも未だよく判然としない。
 一方のインキネンにしても、むしろ指揮者に従順な日本のオーケストラ━━この場合は日本フィルだが━━の方に、彼の特質をストレートに反映させ得ているのではないかという気もする。

 ホルンの首席はちょっと変わった楽器の持ち方をし、「第5交響曲」第2楽章のソロをいとも楽々とダイナミックに吹き上げ、ティンパニ奏者はすこぶる芝居気のある身振りで、じわりと楽器を叩く。2人とも、演奏し終るとリズムに合わせ首を大きく振るなどして音楽に乗り、気合充分の様子を見せていた。

2019・1・6(日)大植英次指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 大植英次が客演指揮したこの正月の演奏会は、日本フィルの「第226回サンデーコンサート」。プログラムは、外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」、竹澤恭子をソリストにメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」、ブラームスの「交響曲第1番」と。コンサートマスターは客演の田野倉雅秋。

 外山雄三の「ラプソディ」は、作曲されてから間もなく50年になろうという曲だが、相変わらず演奏頻度が高い。
 大植は、ソーラン節の個所をゆっくりしたテンポで演奏したり、拍子木の最後の音符と「八木節」との間に大きな掛け声を入れたり、以前からいろいろ指揮に趣向を凝らしている。とはいえ、演奏会の冒頭でのこの大騒ぎは、聴衆にしてみれば少々ノリにくかったような雰囲気が感じられた。

 竹澤恭子が弾くメンデルスゾーンの協奏曲では、所謂流麗さとか甘美とかいった趣きとは対極的な、例えばスラーの位置を判然と区別して弾いて行くようなアプローチで、音楽にある種の造型的な鋭さと厳しさを付加して行く演奏が印象的だ。こういうスタイルは、以前にも誰だったか女性奏者の演奏でも聴いたことがあるけれども、この作曲家の中の反ロマン的な要素を浮き彫りにするという点では、すこぶる興味深い手法に違いない。
 正直なところ、聴いていて少々落ち着かぬ気分にさせられる演奏ではあるが、聴き慣れた曲が新鮮な刺激を満載して響いて来る、という楽しさはある。

 ブラームス。第1楽章序奏の第80小節からのオーボエなどを大きくリタルダンドして引き延ばすなどといった「大植節」があちこちに現われ、それは私には、曲全体の大河のような壮大な流れを阻害するように感じられて、些か辟易させられるところがなくもなかったが、曲の中盤から後半にかけてはそれも気にならなくなった。特に終楽章の頂点では、日本フィルのどっしりした緻密な響きが見事な結果を生んでいたと思う。

 竹澤恭子が弾いたソロ・アンコールは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」からの「ガヴォット」だった。
 一方、オーケストラのアンコールは、また「ラプソディ」の、幕切れの景気のいい「八木節」の部分。大植の合図を受け、今度は1階席の客が何と全員総立ちになり、手拍子でノリまくった。よくこれだけノッたものだ。おなじみの民謡で、年輩のお客さんが多かったためもあるのだろうか? 打楽器奏者たちが法被に着換えて威勢よく楽器を叩いていたのが、何となく日本フィルらしい。
 なお昨年の暮近く、日本フィルがやはり大植英次の指揮で韓国に演奏旅行した際、これをやってやはりお客が総立ちでノリまくったという話を聞いたが、当節の国際情勢の中で、興味深いことではある。

2018・12・30(日)尾高忠明指揮大阪フィル「第9」

     フェスティバルホール  5時

 昼の山陽新幹線で大阪に入る。
 ベートーヴェンの「第9」を、大阪フィルのナマ演奏で聴くのは、1990年の朝比奈隆指揮、2015年の井上道義指揮の演奏に次いで、これが3度目になる。

 今回の「第9」は、現・音楽監督の尾高忠明の指揮で、今年5月に開始されたベートーヴェン交響曲ツィクルスの最終回にあたるものだ。
 その5月の第1回(1番と2番他)と、7月の第3回(5番と6番)とは私も聴いているが、何よりも尾高忠明の━━大阪フィルに緻密なアンサンブルを復活させ、外連のない正面切ったベートーヴェンを最良の状態で蘇らせた彼の指揮に好印象を得ていたので、その締め括りとなる「第9」をも聴いてみよう、と思ったわけである。
 今回の協演は、安藤赴美子(S)、加納悦子(A)、福井敬(T)、与那城敬(Br)、大阪フィルハーモニー合唱団。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 期待にたがわずこの「第9」の最終公演では、隙なく構築されたアンサンブルと、柔軟でしっとりした息づきとを併せ備えた、堂々たる演奏を聴くことができた。大阪フィルがこれほど濃密でスケールの大きな、風格豊かな音楽を響かせるのを聴いたのは、私にとっては久しぶりのことである。
 こうした演奏によって、「第9」は、ここではまさに真摯な気品を備えた音楽となっていたのだった。第4楽章最後のプレスティッシモは一段と昂揚感にあふれた演奏で、聴衆を湧かせるには充分なものと言えただろう。尾高と大阪フィルの呼吸は、以前にも増していっそう一体化して来たようである。
 声楽陣もよく、ソリストたちはもちろん手堅いが、自然な共感を率直に歌い上げるかのような合唱団の姿勢もまた、好感を呼ぶ。

 こういう重量感のある、しかもストレートな「第9」は、この曲を初めて聴いた頃に浸った率直な感動を、私に思い起こさせてくれる。私にとって、年末の「第9」をナマで聴く機会はもうあまりないだろうが、そう言った意味でも、この尾高と大フィルの「第9」は、心温まる演奏に感じられたのである。

 「第9」が終ると、指揮者と声楽ソリストたち、および楽員たちは退場する。そして、暗くなったステージで、福島章恭(大阪フィルハーモニー合唱団指揮者)の指揮により、ペンライトをかざした合唱団が歌い始めるのは「蛍の光」だ。大フィル恒例の行事である。
 舞台は薄明に転じ、床からドライアイスのスモークが湧き出し、舞台の前面のオケ・ピットの部分が下がって行き、あたりには幻想的な雰囲気が満ちる。3年前と違い、合唱団員が歌いながら退場するという手法は、今回は採られない。やがて、歌が終りに近づくとともにペンライトも一つずつ消えて行き、いつしか場内は漆黒の闇となった━━。

2018・12・29(土)準・メルクル指揮広島交響楽団

      広島文化学園HBGホール  3時

 関が原界隈の大雪のため、東海道新幹線のダイヤも少々乱れていたが、それでも十数分の遅れにとどまったのは幸い。広島市内は快晴であった。

 今回の準・メルクル指揮の定期は、本来は7月定期として組まれていた演奏会だが、あの豪雨災害のため、とりあえず延期ということになっていたものだ。
 この年末に振替公演を行なったことについて準・メルクルは、プログラム冊子に「私の祖父が生まれたこの美しい街・・・・皆さんへの私のサポートを」と、コメントを寄せている。
 プログラムは、7月定期のものと同一で、細川俊夫の「瞑想━━3月11日の津波の犠牲者に捧げる」、メシアンの「輝ける墓」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」(1910年全曲版)。

 細川俊夫の「瞑想」は、東日本大震災に関連して書かれた数曲のうちの最初のもので、2012年に作曲され、韓国の音楽祭で初演された曲である。
 弔鐘のような響きに始まり、暗く悲劇的な、しかし鋭い衝撃的な音型が断続しながら進んで行くと、やがてフルートによる日本の笛を模した慟哭の歌が入って来る。哀悼と苦悩の音楽が大きな起伏を成しつつ続くうちに、いつか風の音のような美しく浄化された響き(これは細川の作品によく聴かれるものだ)となり、それは次第に夢幻の彼方に消えて行く━━。

 演奏時間は、プログラム冊子には14分と記載されていたが、今日の演奏では11~12分ほどだったであろう。彼の管弦楽作品の中ではかなり鋭角的な響きを持つ曲に感じられたが、それは準・メルクルの隈取りのはっきりした音楽づくりによるところも大きかったかもしれぬ。
 ともあれ、東日本大震災の犠牲者を追悼するために書かれたこの曲が、広島上演の際に、はからずも広島の豪雨災害にぶつかってしまったということから、広島出身の作曲家たる細川にとってのみならず、広島の多くの人々にとっても、この曲に別の意味合いを付加して感じないわけには行かなくなったのではないか。広響もこの曲をメリハリ豊かな演奏で再現してくれた。

 なお広響は、2019年5月からの「ディスカバリー・シリーズ」で、下野竜也(音楽総監督)の指揮により、ベートーヴェンと細川俊夫の作品を組み合わせたツィクルスを開始することになっている。外国では著名でありながら日本国内では妙に演奏・上演の機会の少ない細川俊夫の作品がこれだけ集中して演奏されるのは、喜ばしいことだろう。

 その他の曲━━メシアンの「輝ける墓」は、彼の初期の作品だけに、所謂メシアン節は未だ殆ど姿を現わしていない曲だが、準・メルクルと広響は極めて歯切れのいい演奏で、この曲を明晰に聴かせてくれた。音の潤いには少々乏しいきらいがあったけれども、これは私の聴いた位置が1階席中央だったせいもあろうか。上階席で聴けば、あるいはもっと豊潤に聞こえたかもしれない。

 第2部の「火の鳥」も同様、メルクルと広響の均整美と色彩感が1階席で聴いてもこれだけはっきりと伝わって来たのだから、2階席ではもっと量感豊かに味わえたのではないかという気がするのだが、どうだったろうか? 
 メルクルと広響は、充実した演奏で、特にフィナーレでは全管弦楽の見事な均衡の響きのうちに、感動的な昂揚を聴かせてくれた。コンサートマスターは佐久間聡一。

 私のすぐうしろに座っていた高齢の御仁は、今日は1曲目からあくびの連続。それも露骨に声を出してのものなので、不愉快なことこの上ない。休憩に入った際に睨みつけてやったが、全く効き目はなかったようだ。後半の「火の鳥」でも同様、せめて曲が盛り上がればあくびも止むだろう━━とは思ったが、何せこの曲、いつか池辺晉一郎さんが「なかなか話の本題に入らない人」にそっくりの好例として挙げた曲(巧いことを言う!)だから、どこまで行ってもだらだらと(?)、盛り上がるかと思えばまた退いてしまうという曲の進行なので・・・・。だがあくびもそのうち聞こえなくなったところからすると、有難いことに、魔王カッシェイ同様に眠ってくれたか。

 5時前に終演。タクシーが捉まえ難いので、広島駅までバスを利用したが、エトランジェの哀しさでこのバスの代金の払い方を知らず、降り口でアタフタしていたら、このブログを有難くも読んでくださっているという地元在住の某氏がうしろからサッと手を伸ばし、私の分をも併せて払って下さったとは、何とも恐縮の極みであった。せめてこの場で改めて御礼を申し上げたい。
 駅直結の「ホテルグランヴィア広島」に投宿。
   別稿 モーストリー・クラシック3月号  オーケストラ新聞

2018・12・27(木)ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン
キース・ウォーナー演出 ワーグナー「ヴァルキューレ」

       東宝東和試写室  1時

 これは10月28日、ロイヤル・オペラ・ハウスでのライヴ上演映像。キース・ウォーナーの演出、アントニオ・パッパーノ指揮ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団。
 主な配役と演奏は、スチュアート・スケルトン(ジークムント)、エミリー・マギー(ジークリンデ)、アイン・アンガー(フンディング)、ジョン・ランドグレン(ヴォータン)、サラ・コノリー(フリッカ)、ニーナ・ステンメ(ブリュンヒルデ)。

 キース・ウォーナー演出によるワーグナーの「指環」は、かつて新国立劇場で上演されたことがあり、日本のワグネリアンの間では今なお語り草になっている舞台だったが、現在ロイヤル・オペラで上演されている「指環」は、それと全く異なった演出によるものである。私はこのロンドンの舞台をナマで観ていないのだが、少なくともこの「ヴァルキューレ」を映像で観る限り、新国版よりもストレートな解釈に依っているような印象を受ける。

 もちろん、細かい点では通常の演出とはいささか異なった光景が見られる。
 たとえば第1幕では、意外やフンディングの方が客人に友好的な雰囲気で、握手を求めたりするのに対し、むしろジークムントの方が非友好的で、フンディングが気分を害してしまう、という演出が気に入った。アイン・アンガーが阿部寛ばりの風貌なので、あまり悪役に見えないから猶更である。
 そのあと、「剣の動機」が反復されるうちにジークリンデがジークムントにノートゥングが刺さっているトネリコの樹を目で示すという場面では、通常の演出と異なり、眠り薬のため意識朦朧とし始めたフンディングが蝋燭を灯して一種の儀式めいた仕草を行なうという光景に変えられていた。

 また第2幕最後では、ヴォータンみずから槍でジークムントを背後から突いてとどめを刺し、そのあとフンディングをも自ら槍で刺し殺し、最後には(ブリュンヒルデの後をすぐ追わずに)絶望してくずおれるという演技などが見られる。
 しかしまあ、これらの程度のものは、特に新機軸というほどでもあるまい。
 一方、第3幕のヴァルキューレたちは武装していない姿で、馬のしゃれこうべのようなものを掲げて暴れ回る。またこの幕では、ヴォータンの苦悩と「弱さ」が詳細に描かれていた。

 総じて演技は、カメラでアップされるに相応しい非常に微細なつくりで、演劇的な表情が楽しめる舞台である。
 「魔の炎の場面」では、ヴォータンが炎の玉を掌に載せて手品のようなことをやっているわりには炎がなかなか拡がらないという進行で、逆にやきもきさせられる状態だったが、オーケストラが「ジークフリートの動機」を壮大に奏し始めるくだりになって、突然舞台上手や上方に炎の線が炸裂するという演出になっていた。

 なお舞台美術は、ステファノス・ラザリディス。「新国リング」のデヴィッド・フィールディングのものに比べ、もう少しリアルながら、最初の2つの幕では何だか判らないものが舞台中にごたごた転がっているという造りである。

 パッパーノとオーケストラの演奏は、録音が少しドライながら、特に第3幕の演奏が驚異的に素晴らしく、前半の緊迫した激烈な劇的迫力、後半の、特に「ヴォータンの告別」のくだりでのカンタービレの見事さはさすがパッパーノというべきだろう。この幕では、音楽の美しさが余すところなく再現されていて、「ヴァルキューレ」の尽きせぬ魅力を改めて認識させてくれたのだった。

 上映時間は約5時間(生中継の際はもっと長かったのではないかと思われる)。休憩は2回だが、解説やゲストとの対談など、いろいろな趣向が入るので、それぞれ19分と10分になっている。この休憩時間の短さに加え、試写室は映画館と違って「飲食禁止」だからヘビーだ。が、第3幕の演奏の良さがワーグナーの音楽の圧倒的な量感を堪能させてくれたおかげで、それまでの疲れもすっかり吹き飛んでしまった次第である。いや、これは第2幕までの演奏がつまらなかったなどという意味ではない。
 字幕は率直な文章なので、要を得て解り易い。

 この「ヴァルキューレ」は、1月11日から17日まで日比谷、日本橋、横浜、流山、名古屋、大阪、西宮などのTOHOシネマズで上演される由。宣伝を頼まれたわけではないが、一聴一見の価値がある。
 中継案内役の女性が毎回ハイ・テンションで、しかもビンビン響く声で喋るのだけは、ちょっと好みが分かれるかもしれぬ(私はこれが毎回辟易気味なのである)。

2018・12・23(日)バッハ・コレギウム・ジャパン「メサイア」

      サントリーホール  3時

 鈴木雅明指揮のバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)が演奏するヘンデルの「メサイア」は、以前にもこのサントリーホールや軽井沢の大賀ホールで聴いたことがある。

 今回はソプラノに森谷真理、アルトに藤村実穂子が参加するということもあって、聴きに行ってみる。この2人、歌唱の様式がBCJのそれとはかなり違うような気もするけれども、まあ、それはそれ。
 しかし藤村実穂子の深々としたアルトの声が、たとえば第20番の「彼は蔑まれ、人々に見捨てられ・・・・」のアリアなどでは恐ろしいほど悲劇的な情感を生み出し、果てしない深淵に聴き手を引き込んで行くところなど、聴き慣れた「メサイア」とは全く趣が異なっていて、すこぶる興味深かった。これはもう、カウンターテナーの声では出せぬ凄味というものであろう。
 その他のソロ歌手陣は、テノールがザッカリー・ワイルダー、バスがベンジャミン・べヴァン。

 管弦楽と合唱は、若松夏美をコンサートマスターとするおなじみのメンバーが顔を揃えたオーケストラ、それに18人編成による合唱。チェンバロに鈴木優人も加わっている。
 その演奏は極めて緻密で、見事だ。流れるように柔らかく、温かい息づきと起伏感を備えており、快い。前出のアリアのあと、「彼」のもたらした平安の喜びが歌われる第21番から23番にかけての部分で、合唱とオーケストラが緊迫したテンポでたたみ込み、盛り上がって行くあたりは素晴らしい。鈴木雅明の指揮は、実に鮮やかであった。

 アンコールには「きよしこの夜」が、最近発売されたCD(BIS-KKC4148、「BCJのクリスマス」)にも入っている鈴木優人の編曲版で演奏されていた。
 20分の休憩を含み、終演は5時55分頃。会場は満席。

 これはサントリーホール主催の演奏会だが、ホテルオークラとのタイアップによるクリスマス特別ディナー(7時よりオークラのアスコットホール)付セットという企画もあった由。席数限定のディナー付S席は24,000円(一般のS席は9,000円)だそうで、どのくらいの申し込みがあったかまでは聞かなかったが、参加した人たちにとっては、きっと幸せなクリスマスだったろう。

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