2019-06

2019・6・15(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 6月定期。シューマンの「マンフレッド」序曲で開始、次に同じくシューマンの「ピアノ協奏曲」を、ソリストに菊池洋子を迎えて演奏。休憩後はチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」で盛り上げる。
 コンサートマスターは客演の郷古廉。

 コンサートでの東京響は、快調だ。
 秋山和慶がしっかりとまとめたアンサンブルを土台にして、スダーンが精緻な音楽を構築して演奏水準を目覚ましく引き上げ、そのあとにジョナサン・ノットが大きな花を開かせた━━ともいうべきこの東京響。
 久しぶりに戻って来たスダーンは、その髙い水準に達したこの楽団を、今や楽々と乗りこなしながら自分の音楽を愉しんでいるようにも見える。

 というのは、スダーンの指揮はこのところ、また新たな変貌の時期に入ったようにも感じられるからだ。2000年代の彼は、寸毫の緩みもない、厳格に引き締まった構築の演奏を創って来たが、今はその音楽にもやや余裕を生じさせ、いっそうのふくらみと、大きさと、深みを感じさせるようになって来たような気がするのである。

 それを最初に感じたのは、まず「マンフレッド」序曲の冒頭、弦楽器群の柔らかい、翳りのある壮大な、悲劇的なニュアンスの素晴らしさだった。また、協奏曲でのオーケストラの演奏にも、以前のスダーンの指揮に比べて、さらに伸びやかな歌が加わって来たような気がする。

 そして「マンフレッド交響曲」の演奏には、やはりスダーンらしい突き詰めた厳しさが現われていたが、それでも中間2楽章では、所謂「チャイコフスキー節」が、なかなか雰囲気豊かに再現されていたのである。これまでスダーンの指揮するチャイコフスキーはあまり聴いたことが無かったのだが、今回は、彼もこういうチャイコフスキーをやるんだ、と、彼の芸域の拡がりに何故か安心したというか━━。
 なおスダーンは今回、第4楽章の締め括りに、第1楽章終結部の最強奏による激烈な結尾を転用する版を使った。楽屋で彼は「自分はこれが一番好きだ」と語っていたが、私もナマ演奏で聴く場合には、この方が面白くて好きである。

 菊池洋子がシューマンのコンチェルトを弾くのも、今夜初めて聴いた。彼女の演奏会ではやはりモーツァルトを聴く機会が多いのだが、10年ほど前にOEKとのラヴェルのコンチェルトを聴いたことがあって、これが実に素晴らしくて感服した記憶があるので、他の作曲家のコンチェルトも聴いてみたいなと以前から思っていたところなのである。
 このシューマン、直截ながら精妙で瑞々しく、すこぶる魅力的だった。

2019・6・15(土)フンパーディンク「ヘンゼルとグレーテル」

      日生劇場  1時30分

 「NISSAY OPERA 2019」として上演された2日公演の初日。これはこの前後に「中・高校生に本物の舞台に触れる機会を」という狙いによる「ニッセイ名作シリーズ2019」としても上演されており、また10月には名古屋と仙台でも上演される由。

 指揮が角田鋼亮、演出と振付が広崎うらん、舞台美術が二村周作。田中信昭による日本語訳詞で歌われるが、日本語の字幕もつく。
 今日の出演は郷家暁子(ヘンゼル)、小林沙羅(グレーテル)、池田真己(父)、藤井麻美(母)、角田和弘(魔女)、宮地江奈(眠りの精、露の精)、C.ヴィレッジシンガーズ、パピーコーラスクラブ、えびな少年少女合唱団、新日本フィルハーモニー交響楽団、多くのダンサーたち。

 家族向けのオペラ上演としては、よく出来ているだろう。
 ダンスパフォーマンスの広瀬うらんが担当した舞台だけあって、ダンスが活用されるだけでなく、ヘンゼルとグレーテルも、父親も母親も、魔女とその手下の怪物どもも、登場人物全員が実によく踊り、飛び跳ねる。演劇的な要素は希薄だが、賑やかさという点で親しみを狙う、という舞台だ。

 ただしラストシーンは、捻ったわりには、客席はシーンとして、???という雰囲気になってしまった。もしあの美しい精のようなダンサーたちの出現が、音楽が鳴っている間に行なわれていれば、もっと盛り上がったのではないかとも思えるのだが如何に? 
 しかし、お菓子から人間の姿に戻った子供たち(合唱)の演技は、めっぽう可愛かった。

 休憩20分間ほどを含めてちょうど2時間で終ってしまったから、テンポもかなり速い。
 速いこと自体は悪くないが、ホルンの響きは荒々しく、オーケストラ全体もリアルに生々しく、総体的に演奏が素っ気ないことに疑問が残る。つまり、舞台がトラディショナルなメルヘン調のものであるにもかかわらず、演奏には、本来このオペラに備わっているはずのロマンティックでミステリアスな「森」の雰囲気が感じられないのである。

2019・6・14(金)鈴木優人指揮関西フィル&小菅優 「欧和饗宴」

      ザ・シンフォニーホール  7時

 関西フィルハーモニー管弦楽団の第302回定期で、「鈴木&小菅が三大巨人に挑む 欧和饗宴 衝撃のニッポンプログラム」と、洒落っ気を交えたキャッチコピーが、プログラム冊子の表紙に麗々しく躍る。

 演奏曲目は、黛敏郎の「シンフォニック・ムード」、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」(ソロは小菅優)、芥川也寸志の「交響曲第1番」。
 東京でも滅多に聴けぬような意欲的なプログラムだったし、鈴木優人が日本の近・現代音楽をどのように指揮するかということにも関心があって、とんぼ返りで聴きに行った次第。コンサートマスターは岩谷祐之。

 鈴木優人は、関西フィルを解放的に高鳴らせる。黛の曲でも、芥川の曲でも、それぞれの作品が持つ力動的な面に重点を置き、それを強調して指揮しているかのようだ。関西フィルの大熱演と相まって、それが聴衆を喜ばせた、ということは確かにあっただろう。
 敢えて注文を付ければ、これに楽曲構成上の起伏、あるいは表情の変化、あるいはテンポの微細な増減などによる力動性の変化━━といったものが導入されれば、更に演奏に深みが出るだろう。
 だが、芥川の「第1交響曲」の第3楽章の、重々しいアダージョのコラールは、重厚さと、激烈な高潮とで、極めて緊迫感の強い演奏が聴かれた。

 しかし一方、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」となると、そういう力任せのダイナミズムでは、解決できない問題があるだろう。今日も小菅優が暗譜で見事な演奏を繰り広げたが、やはり2017年1月14日に大ベテラン・秋山和慶の指揮と協演した時の演奏とは、オーケストラとの「協奏」の面において、だいぶ雰囲気が違った。
 なおこのコンチェルトのあとに矢代秋雄の「夢の舟」という小品が鈴木と小菅のデュオで弾かれたが、この演奏は絶品であった。

 「聴き慣れない日本の近代音楽」ばかりだから、お客さんの入りはどうかと心配していたのだが━━まあ満員とまでは行かなかったけれど、そこそこ席が埋まっており、しかも客席の反応がかなり熱狂的だったのには安堵した。休憩時や終演後には、あちこちから「楽しい」「面白い」「素晴らしい」という声も聞こえていたのである。それは作品群に対してなのか、関西フィルの熱演に対してなのか、小菅優の水際立ったソロに対してなのか、あるいはキュートな指揮者に対してなのかは定かでないが、とにかくすべてに対しての賛辞だと解釈しておこう。

2019・6・13(木)山田和樹指揮読売日本交響楽団 

     サントリーホール  7時

 最初に伊福部昭の「SF交響ファンタジー第1番」、次にグリエールの「コロラトゥーラ・ソプラノのための協奏曲」、後半にカリンニコフの「交響曲第1番」。ソプラノ・ソロはアルビナ・シャギムラトヴァ。コンサートマスターは小森谷巧。

 首席客演指揮者の山田和樹は、しばしば意表を衝くプログラミングを試みるが、定期公演で「ゴジラ」のテーマを轟かせるとは、何ともユニークな選曲だ。
 ゴジラがダメだというわけではないが、伊福部昭の作品ならもっと他に紹介してもらいたいものがたくさんあるのに━━と思っても、マエストロにはそれなりの意図があったのだろうから、これ以上の異は唱えまい。
 カリンニコフの「第1交響曲」も、正直なところ、私にはどうも共感できない作品なのだが、これを高く評価する人もいるし、人気があるのも事実だろう。

 しかしこの2曲の演奏、山田和樹の指揮の「持って行き方」は、図抜けて巧い。また読響も、聴いていて会心の笑みを漏らしたくなるほど上手い。曲はつまらなかったけれども演奏が見事だった、ということで大拍手を贈る。

 結局、総合的に良かったのは、グリエールのコンチェルトだ。華麗なヴォカリーズを歌ったのは、ウズベキスタン出身のシャギムラトヴァで、力の漲る声で高音を素晴らしく伸ばす。アンコールで歌ったアリャビエフの「ナイチンゲール」も、この上なく鮮やかだった。

2019・6・12(水)多田淳之介演出「ゴドーを待ちながら」初日

      KAAT神奈川芸術劇場〈大スタジオ〉 7時

 スタジオの中央に土俵のような円形舞台があり、それを取り囲むように4段ほどの客席(自由席)が設置されている。キャストは大高洋夫(ウラジミール)、小宮孝泰(エストラゴン)、猪股俊明(ポゾー)、永井秀樹(ラッキー)、木村風太(少年)。

 これは周知の通り、サミュエル・ベケットのおなじみの戯曲だ。最後まで来ないゴドーなる人物をひたすら待ちながら、ムキになって他愛のないことをやっているうちに、いつの間にか2日間が過ぎて行くという、ストーリーの展開の無い「不条理劇」である。今回は岡室美奈子による新訳が使われており、小気味よいテンポの台詞で進められる。

 もともと、何のためにゴドーを待っているのかもはっきりしないわけだが、そうしているうちにいつの間にか人生が過ぎ去って行くというのは空しい話だ━━しかし逆に考えれば、彼が来ても来なくても、それなりに生きて行くことはできる、ということにもなるのだが。
 なおこの上演では、配役が異なる「昭和・平成バージョン」と「令和バージョン」の2種があり、今日はその前者だった。両者にどういう違いがあるのか、ないのか、観てみたい気もする。23日まで上演。

 話は飛ぶが、1970年代に「三百人劇場」だったかで、これをパロった芝居を観たことがある。公演したのは、「劇団欅」だったか「劇団昴」だったか? 
 「後藤」という人物が来そうでいてなかなか来ず、最後についに現われたと思ったら、そいつはヒトラーと同じ顔をしていたというオチがつく。滅茶苦茶な芝居だったが、実に面白かった。もちろんこれは、ラーメンズの「後藤を待ちながら」とは全く違う内容のものである。

2019・6・12(水)Suntory Hall Chamber Music Garden
堤剛と小山実稚恵 

     サントリーホール ブルーローズ  1時

 「親密な至極のデュオ」と題された1時間強の演奏会で、チェロの堤剛とピアノの小山実稚恵がメンデルスゾーンの2曲の「チェロとピアノのためのソナタ」を弾いた。
 「心温まる音楽会」とは、こういうものを謂うのだろう。特に「第2番ニ長調」は、曲の美しさもあって、文字通り至高の演奏となった。アンコールの「無言歌作品109」も絶品。

2019・6・9(日)新国立劇場 プッチーニ「蝶々夫人」

     新国立劇場オペラパレス  2時

 2005年にプレミエされた栗山民也演出によるプロダクションで、今回が7回目の上演になる。正面奥に米国国旗がはためいているあの舞台装置は、2カ月前に逝去された島次郎氏のものだ。客の入りなどから見ても、今なお人気が高いようである。

 今回の指揮はレナード・レンツェッティ、管弦楽は東京フィル。歌手陣は佐藤康子(蝶々夫人)、スティーヴン・コステロ(ピンカートン)、山下牧子(スズキ)、須藤慎吾(シャープレス)、晴雅彦(ゴロー)、島村武男(ボンゾ)、千葉裕一(神官)、星野淳(ヤマドリ)、佐藤路子(ケート)他。

 急用のため第1幕が終ったところで失礼せざるを得なかったが、レンツェッティの指揮が何ともゆるいのに落胆。ヴァイグレやデュトワの指揮した「サロメ」の鮮烈な演奏に浸った直後だけにいっそう気になってしまうのかもしれないが。

2019・6・8(土)デュトワ指揮大阪フィル 「サロメ」演奏会形式上演

       フェスティバルホール  3時

 同じ時間帯に東京と大阪でR・シュトラウスの「サロメ」が上演されるとは、面白い世の中になったものである。
 こちら大阪の「サロメ」は、「第57回大阪国際フェスティバル」の一環だ。

 そういえば先日、東京の「サロメ」の項で、1962年のグルリット指揮による舞台日本初演(クリステル・ゴルツ主演)に感動したことを書いたが、思えばあれも当時の大阪国際フェスティバルの公演だった(私の観たのは4月29日の東京公演だが)。そして奇しくも、今回の「サロメ」も、それに劣らぬほどの強烈な印象を残してくれたのである。

 演奏は、シャルル・デュトワ指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団。歌手陣は、リカルダ・メルベート(サロメ)、福井敬(ヘロデ)、加納悦子(ヘロディアス)、友清崇(ヨカナーン)、望月哲也(ナラボート)、中島郁子(小姓)ほか。

 デュトワは、先月の定期でのベルリオーズとラヴェルで素晴らしい演奏を聴かせてからというもの、大阪フィルとはどうやら相性が良くなってしまったようである━━もっともそれは、あくまで演奏を聴いただけの印象にすぎないけれども。とにかく、大阪フィルがあんなにカラフルかつブリリアントな音色で沸騰していた演奏を、私はそれまで一度も聴いたことが無かった。

 そして今日の「サロメ」では、それを更に凌駕する多彩な演奏が繰り広げられたのである。デュトワはオーケストラを力の限り轟かせ、ステージ前面に並んだ歌手たちの声を打ち消すこともしばしばあったが、しかし対する歌手陣もまた好調で、そのオーケストラの嵐に拮抗し、あるいはその間を縫って己が存在を主張して行く、という具合だったのだ。

 後半、「7つのヴェールの踊り」でのデュトワと大阪フィルの演奏は、すこぶる華麗で壮烈だったが、真の聴きどころはその後に訪れる。
 まず福井敬が実に激烈きわまる歌唱で、ヘロデが取り乱すさまを凄まじく描き出す。多くの場合、このヘロデはスケルツァンドに歌われ、そのため愚かな王というイメージが先行して、この場面を幕切れのサロメの長い歌の前に置かれた一種の「序」のようなものにしてしまうことが多いのだが、今日の福井敬によるヘロデはそれとは対極の表現で、まさに権力者そのものとして君臨していたのだった。そのためこの場面は、驚くほどドラマティックなものとして生まれ変わっていたのである。

 そして、ヨカナーンの首が届けられるくだりで━━首が斬り落とされる描写の音は少しあっけなかったけれど━━オーケストラが凄愴な咆哮を聴かせると、それまでやや抑制気味に歌っていたメルベートが、ついにパワーを全開した。ここからあとは、もう彼女の独り舞台である。歓喜と法悦にあふれるサロメの長いモノローグを、ここぞとばかり熱唱する。

 しかもここではデュトワが、オーケストラを、もう煽ること、煽ること! R・シュトラウスの音楽の物凄さを、これでもかとばかりに際立たせる。演奏しているのがピットの中のオケでなく、ステージ上に配置された大編成の管弦楽であるがゆえに、その多彩な音色と劇的な力の拡がりは、まさに猛然たるものになる。

 かように、シュトラウスの管弦楽法の精緻さ、多彩さ、持って行き方の巧さなどが、なにものにも煩わされずに味わえるのは、演奏会形式上演であればこそであろう。
 これは、音楽的な感銘度では随一、と言ってもいいほどの「サロメ」の演奏であった。ただ1回の上演ではもったいないくらいだ。
 藤野明子による字幕も、文体が解り易く読みやすい。

 それにしてもデュトワの力量は、実に見事であった。東京の音楽界にも早く復活してもらいたいものだ。そして今度は、他のいろいろなオーケストラを指揮してもらいたいものである。
     (別稿)モーストリー・クラシック9月号 公演Reviews

2019・6・7(金)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 銀座の東劇での「METライブビューイング」が終ったのは6時前だったが、梅雨入りの雨のために道路も渋滞中で、赤坂のサントリーホールに着いたのは、6時半を過ぎた頃だった。

 こちらは日本フィルの第711回定期公演の初日。「日本・フィンランド外交関係樹立100周年記念公演」と題されており、これは創立指揮者の渡邉暁雄、現首席指揮者のインキネンなど、フィンランドに縁のある指揮者を戴く日本フィルにとっては、とりわけ意味深いタイトルでもあろう。
 プログラムも、湯浅譲二の「シベリウス讃―ミッドナイト・サン」、サロネンの「ヴァイオリン協奏曲」、シベリウスの組曲「レンミンカイネン」という、記念公演に合致した内容である。コンサートマスターは客員の白井圭。

 湯浅譲二の作品は、1991年にヘルシンキで初演されたもの。シベリウスへのオマージュとして考えるなら、「タピオラ」への親近感を持ったイメージの音楽とも言えるだろう。7分程度の曲で、厚い層の響きを清澄で爽やかな音色が満たす。「カルメル会修道女の対話」を観て滅入っていた気分を一掃してくれるような美しい曲だった。

 サロネンの協奏曲では、諏訪内晶子が緊迫感に富む素晴らしい演奏を聴かせてくれた。絶え間なく激しく、常動曲の如く動くヴァイオリンのソロが際立ち、2度ほど挿入される深淵を彷徨うかのような沈潜した部分と、強い対照をなす。

 プログラム後半の長大な組曲「レンミンカイネン」(昔、レミンカイネンと言っていたわれわれの世代の者には、どうも抵抗感がある・・・・)は、シベリウスの作品の中でも、私の好きなものの一つだ。
 今日の演奏では、「トゥオネラの白鳥」は3曲目に置かれ、そこではイングリッシュ・ホルンの佐竹真登が深々としたソロを吹き、密やかな弦との対話を繰り広げて、息を呑まされるほどの神秘的な演奏を聴かせてくれた。
 前半2曲では━━シベリウス特有の陰影は見事ながら━━演奏全体の密度は少し粗かった日本フィルが、この「トゥオネラの白鳥」の見事な演奏をきっかけに、俄然引き締まって行ったのは面白い。

 最後の「レンミンカイネンの帰郷」は、テンポが抑制されていたために熱狂的な頂点という感はなかったものの、がっちりとした強固な音楽のつくりが印象的だった。2日目にはおそらく最初から「決まって」行くだろう。

2019・6・7(金)METライブビューイング
プーランク「カルメル会修道女の対話」

     東劇  2時30分

 メトロポリタン・オペラ、去る5月11日上演のライヴ映像。ジョン・デクスターの演出、ヤニック・ネゼ=セガンの指揮。
 歌手陣は、イザベル・レナード(ブランシェ)、カリタ・マッティラ(修道院長)、エイドリアン・ピエチョンカ(新・修道院長)、カレン・カーギル(マリー修道女長)、エリン・モーリー(コンスタンス)、ジャン=フランソワ・ラボワント(ド・ラ・フォルス侯爵)他。

 これは1977年プレミエの、MET定番のプロダクションだ。十字架を模ったデザインの舞台装置(デイヴィッド・レッパ)が特徴の一つである。
 大詰めのクライマックス、修道女たちの殉教のシーンでは、群集が並ぶ中を彼女らが一人ずつ順に舞台奥に向かって行き、兵士たちの彼方に姿を消すと、その都度ギロチンの刃が落下する轟音が不気味に響きわたる、という造りになっている。涙を催させるには充分の幕切れであろう。

 歌手陣の中では、前修道院長を歌い演じたカリタ・マッティラが、別人のように物凄い老け役のメイクで、特に死の場面では凄愴な演技で観客の息を呑ませる。
 一方、私の御贔屓(?)のイザベル・レナードは、今回は比較的おとなしい表現の役回り。先日の「マーニー」での魅力には、些か及ばない。

 何といっても素晴らしいのは、ネゼ=セガンの指揮と、METのオーケストラだ。プーランクの音楽の不気味さ、ドラマティックかつ壮大な緊迫感をこれほど見事に描き出した演奏は、そう多くはないと思われる。
 休憩10分を含み、上映時間は3時間17分。案内役は久しぶりにルネ・フレミングが務めていた。

2019・6・6(木)東京二期会 R・シュトラウス「サロメ」2日目

      東京文化会館大ホール  2時

 別キャスト。主役陣は、田崎尚美(サロメ)、萩原潤(ヨカナーン)、片寄純也(ヘロデ)、清水華澄(ヘロディアス)、西岡慎介(ナラボート)、成田伊美(小姓)。

 今日聴いた席は、1階席後方だったが、昨日よりも声はよく聞こえる。オーケストラを圧して、というほどには行かないけれども、それでも昨日より明晰に響いて来る。これはしかし、席の位置ゆえではなかろう。昨日は、一体何だったんだろうと思う。

 田崎尚美は好演だったが、サロメ役としては少々真面目に過ぎたのではないかという気がしないでもない。
 片寄純也はヘロデ王の好色ぶりを巧く表現していたが、それ以上にヘロディアス役の清水華澄が猛妻、怪妻ぶりを発揮し、存在感を出していた。ナラボート役の西岡慎介の力強い声も印象に残る。

 ヴァイグレと読響の演奏も、昨日に劣らず聴き応えがあった。全曲幕切れ近く、サロメが法悦に酔いしれる場面でのミステリアスな、不気味な演奏も見事だ。
 また、R・シュトラウス得意の、音が最強奏に膨らんだ瞬間にふっと力を抜いて弱音になるという個所━━それは特に、ヨカナーンが井戸から出て来て語る部分で多用されるのだが━━での演奏がいい。この部分に関しては、昔、1962年にマンフレッド・グルリットが東京フィルを指揮して日本初演した際の巧みな強弱の変化による演奏が忘れられないのだが、それ以降、なかなかそのような演奏を聴けたことが無く、不思議に思っていたところへ、久しぶりにこのヴァイグレと読響の演奏でそれに巡り合ったというわけである。
 今回の「サロメ」での大収穫のひとつが、これだった。

2019・6・5(水)東京二期会 R・シュトラウス「サロメ」初日

     東京文化会館大ホール  6時30分

 東京二期会は、つい先頃━━といってももう8年も前になるのだが━━ペーター・コンヴィチュニーの、かなり素っ頓狂(?)な演出により、この「サロメ」を上演したことがある。
 今度は一転して、ハンブルク州立劇場のウィリー・デッカ―演出のプロダクションを持って来た。大きな階段上の舞台装置(ヴォルフガング・グスマン)もハンブルクのものだが、これは借りたのではなく、日本の劇場に合わせて改造する際のあれこれのややこしい問題を避けるため、まるまる買い取ってしまったものだそうだ。

 配役は、ダブルキャストによる4回公演の、今日は初日で、森谷真理(サロメ)、大沼徹(預言者ヨカナーン)、今尾滋(ヘロデ王)、池田香織(王妃ヘロディアス)、大槻孝志(衛兵隊長ナラボート)、杉山由紀(小姓)、そのほかの出演。

 今回の上演では、セバスティアン・ヴァイグレが読売日本交響楽団を指揮するのが呼び物の一つだったが、これは素晴らしい出来だった。
 ヴァイグレについては━━実は私は、これまで彼のウィーンやバイロイトでの彼のオペラの指揮をいくつか聴いた結果として、あまり良い印象を持っていなかったのだが、しかし今日のように、オーケストラを過剰に鳴らさずに歌手の声を巧く聴かせ、しかもR・シュトラウスの多彩な官能性に満ちた音楽を美しく雄弁に響かせることができるのなら、これはもう彼の成長を認めるに吝かではない。

 また、読響も流石の演奏であった。今の日本で、オペラのピットに入ってたっぷりした音を響かせることのできるオーケストラの第一は読響ではないかと私は思っているのだが、今日も実にいい音を出してくれたのである。

 いま、「過剰に鳴らさずに歌手の声を聴かせ」と書いた。実は今日、1階席12列で聴いていたのだが、どうしてしまったのかと思うくらい、歌手たちの声が前に出て来なかったのである。特に前半がそうだった。歌い方の所為だったのか、それとも、天井が抜けている舞台装置の所為だったのか? 
 だが、舞台前面で歌った時にさえも、声がまっすぐに客席へ響かず、何か散り気味になってしまっていたのだ。聴き慣れている優秀な歌手たちであり、いつもはこんな程度の声量ではないはずなのに━━。
 池田香織などは持ち前のパワーのある声で君臨していたが、それでもやはり、いつもの彼女とはちょっと違う印象になってしまっていたのだ。

 そうした条件付きではあるものの、しかしやはり、題名役の森谷真理の声は美しく伸びがあった。サロメを怪物的な女として表現するのではなく、清純さの裡に魔性を漂わせた女として描き出すことにも成功していたのではないかと思う。この人には、一種の「華」が感じられるし、歌唱の面でも聴くたびに進歩が感じられ、新しい役柄表現の開拓に成功を収めているようである。
 それにしても、あの大きな階段を走って上がったり下りたりしながら歌い続けるのは、大変だろう。よく息が上がらないものだと、私はハラハラしながら感心して眺めていた。「オペラ歌手はアスリートですよ」と岩田達宗さんが言っていたのを思い出す。

 デッカ―の演出については、演技が実に精緻で、それらが音楽の動きとぴったり合っているのに感心した。音楽の高まりと、ドラマの緊張の高まりとが、見事に合致しているのである。再演とはいえ、演出家ご当人が現場に来ていると、舞台も引き締まるものだ(ご本人もカーテンコールに出ていた)。

 「7つのヴェールの踊り」は、この演出では、サロメとヘロデ王との愛の駆け引きのような設定に変えられていた。
 またラストシーンでは、兵士たちに殺される前にサロメが自刃する、という設定になっていた。サロメの最期の場面については、これまでにもト書きとは異なるさまざまな手法が採られているから、自殺という形ももちろんあり得るだろう。
 ただ、デッカ―が述べている「ヨカナーンに拒否された時点でサロメは人生の目標を失い、底なしの穴に転落する・・・・ヘロデが『あの女を殺せ!』と命じようが命じまいが、彼女は終りなのだ」(プログラム冊子から自由に引用)という演出コンセプトは、この舞台からだけでは、必ずしも読み取れないのではないか。

 というわけで、歌手陣の声の聞こえ方の問題(実に惜しい)を除けば、極めて良い「サロメ」だった。字幕(岩下久美子)も明解。8時15分頃終演。

2019・6・4(火)ヴィオラスペース2019 Vol.28 

     紀尾井ホール  7時

 今井信子の提唱で1992年に始まったヴィオラを基調とする音楽祭「ヴィオラスペース」も第28回を数えるに至っている。立派なものである。今年は5月29日・30日大阪、31日仙台、6月1日・2日・4日・5日東京で、マスタークラスや公開演奏会が開催されるというスケジュールだ。なお2013年からは、プログラム・ディレクターをアントワン・タメスティが務めている。

 演奏会のプログラムに、所謂名曲よりも、現代音楽や秘曲(?)が多く取り上げられているところも意欲的だ。
 今日のプログラムもなかなかユニークで、テーマは「イタリアへ」と題され、漆黒の闇の中でのシャリーノの「夜の果て」の演奏に始まり、ニーノ・ロータの「ゴッドファーザー」、ベリオの「ナチュラーレ」、ヴィヴァルディの「春」、パガニーニの「大ヴィオラと管弦楽のためのソナタ」、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」からの第1・2楽章━━と続いて行く。

 演奏者にはヴィオラにタメスティ、セジュン・キム、ガース・ノックス、ルオシャ・ファン、佐々木亮、今井信子ら、錚々たる顔ぶれが揃っているが、ヴィオラ以外の楽器の人たちも大勢登場していることはいうまでもない。桐朋学園オーケストラの若手たちもステージを華やかにしていた。
 作品としては、ヴィオラとパーカッションと歌(スピーカー再生)とで演奏されたベリオの「ナチュラーレ」が、とりわけ面白かった。パガニーニの「ソナタ」は、何ともつまらぬ曲に聞こえてしまったが、これは演奏の所為だろう。ただ、このソナタで、ルシャ・ファンが弾いた大型のヴィオラの音の豊かさには魅了させられる。

 なお、御大・今井信子は、「イタリアのハロルド」の第2楽章でオーケストラの背後からゆっくりと姿を現してソロを弾き、それからやおら前面に出て来て弾く━━といった演出で、大トリを飾っていた。

2019・6・4(火)ロイヤル・オペラハウス・シネマ 「ファウスト」

      日本シネアーツ社試写室  1時

 ロイヤル・オペラハウス(ROH)4月30日上演、グノーの「ファウスト」ライヴ映像。これは、2004年に制作されたデイヴィッド・マクヴィカー演出による、RHO定番のプロダクション。

 今回はダン・エッティンガーが指揮しており、休憩時間中のインタヴュ―では自信満々、という雰囲気だったが、そのわりには並みの出来といった音楽づくりだろう。
 歌手陣はマイケル・ファビアーノ(ファウスト)、アーヴィン・シュロット(メフィストフェレス)、イリーナ・リング(マルグリート)、ステファン・デグー(ヴァランティン)、マルタ・フォンタナレス=シモンズ(ジーベル)。
 この中では、やはりシュロットが、歌唱面と演技面で抜きん出た表現力を示す。女装を含めたさまざまな衣装の早変わりで悪魔の性格の多彩さを描き出すあたりも、見事な役者ぶりであった。

 マクヴィカーの演出は、映像で観る限り、すこぶる豪華で微細なつくりだが、人物の動きなどに少々鈍いところが感じられるのは、再演のため、彼の本来の意図が徹底されていないからではなかろうかと思われる。だが教会の場面での、マルグリートを威嚇し苛むメフィストフェレスと悪霊たちの動きは、なかなか不気味なものだった。

 ラストシーンで、メフィストフェレスが神の威光を笑いつつ地底に姿を消して行くくだりは、ゲーテの原作における終場面をパロディ化したものアイディアかもしれない。またこの場面では、ファウストが再びオペラ冒頭場面のような老人に戻り、上手側に倒れているマルグリート━━それは夢か現か━━を空しく追い求める、という洒落た構図が創られていた。

 一般の上演ではカットされるバレエ場面の「ワルプルギスの場」━━所謂「ファウストのバレエ音楽」である━━も上演されるので、演奏時間も正味3時間4分、休憩21分およびインタヴュ―も含めて上映時間は3時間51分と長くなる。しかしこのバレエ場面に、今回のようにマルグリートの哀しい運命を詳細かつ巧妙に描くストーリーが振付されているとなれば、これはドラマの一要素として極めて重要な意味を持つにいたる、ということがよく理解できるのだ。
 6月14日~20日にTOHOシネマズ系で公開の由。

2019・6・2(日)Suntory Hall Chamber Music Garden(第9回)
クス・クァルテット ベートーヴェン・サイクル初日

     サントリーホール ブルーローズ  1時

 恒例の、人気の「サントリーホールの室内楽のフェスティバル」。
目玉の一つは、毎年いろいろな弦楽四重奏団を招聘して行う、このベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲連続演奏ツィクルスだ。

 今年は、ベルリン出身の女性奏者ヤーナ・クスをリーダーとするクス・クァルテットが登場した。今日はその初日で、第1番から第6番まで━━つまり「作品18」の全6曲を演奏するという日だった。演奏は3,2,1,5,4,6番という順で、2曲ごとに15~20分の休憩が取られる。

 とにかく、若々しくて、勢いがいい。最初の「第3番」の出だしは妙に不安定な演奏で心配させられたが、次第にバランスを取り戻して行った。休憩後の「第1番」は最も集中力に富んだ演奏だったのではないか。「第4番」に入った瞬間の、それまでの明るさから一転させた気魄のハ短調のエネルギー感なども印象に残る。

 ただ、6曲それぞれの本来の性格の描き分けなどは、この弦楽四重奏団としては、まだこれからのことであろう。たとえ若き日の作品とはいえ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は、実に難物である。
 それに、これは私個人の問題だが、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲をこういう形で、━━つまり一つの演奏会で6曲をいっぺんに聴くなどということは、やはり避けておいた方がよかったような気がする。

2019・5・31(金)川瀬賢太郎指揮東京シティ・フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 近年快調の若手、川瀬賢太郎が、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団に客演、得意のショスタコーヴィチ・プロを指揮。
 交響詩「十月革命」、「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは田村響)、「交響曲第9番」という意欲的な選曲である。コンサートマスターは「特別客演コンマス」の荒井英治。

 川瀬は最近、ショスタコーヴィチを得意としているから、さぞかし良いだろうとは思っていたが、その予想よりもさらに良かった。
 何より、リズムの切れがいい。この作曲家独特のアイロニーや、才気煥発の曲想の面白さなどが、いっぱいに噴出して来る。ひた押しに押すエネルギー性なども、例えば協奏曲の第1楽章などでは見事なものであった。

 それは実にまっすぐな演奏であって、ひたむきに真正面から音楽にぶつかって行くという姿勢が感じられて好ましい。ショスタコーヴィチの場合、作品によってそれが成功する場合と、裏目に出る場合に分かれるだろうが、今日のような曲目の、特に前半の2曲などは、明らかに成功を収めたものに当たるだろう。

 前半の2曲を2階席正面で聴いたあと、試みに後半は「業務上の理由で」席を1階の後方下手側に移して聴いてみたが、こちらでは残響も増え、音の響きが増す半面、低音域が少し重くなり、それに従って演奏もやや重いイメージに変わって、そのアイロニー感もやや薄れて来るという印象になった。

 もちろんこれは、客の入りの多寡によっても変わって来るので、一概にどうこうということは言えないし、また川瀬とシティ・フィルも、この「9番」を、第1部とは異なるアプローチで演奏していたのかもしれない。
 CDで聴く演奏が再生装置のグレードにより大きく影響されるのと同じように、ナマで聴く演奏も、ホールのアコースティックや、聴く席の位置によって左右される。そこが難しいところだ。

 だがいずれにせよ、指揮者としての川瀬賢太郎の実力が際立って上昇線を示していることは間違いないところだろう。
 シティ・フィルも躍動的な好演だった。このオーケストラがこれだけ一所懸命に演奏していることを、もっと多くの人たちに知ってもらいたいと思うのだが━━。

 オーケストラのアンコールとして、川瀬とシティ・フィルは、芥川也寸志の「弦楽のための三章(トリプティーク)」の第2楽章を演奏した。アルメニア風というか、ハチャトゥリアン風の曲想も出て来るといったように、彼の当時の好みを反映した曲だ。これがなかなか美しかったし、アンコールにこのような作品を取り上げるという姿勢も好ましく感じられる。
 一方、コンチェルトでの田村響のソロもストレートな力に満ちていたが、そのショスタコーヴィチのあとのソロ・アンコールにショパンの「夜想曲第20番」を取り上げたのは、どうみてもアンバランスで、腑に落ちぬ。

2019・5・30(木)ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

      サントリーホール  7時

 今日はブルックナーの「交響曲第5番変ロ長調」。本拠地ライプツィヒでも、つい2週間ほど前の定期で3回演奏しているから、所謂「完成された演奏」であることは間違いないだろうと思う。

 名門ゲヴァントハウス間の演奏は流石に上手いし、アンドリス・ネルソンスのオーケストラ制御もまず万全のように感じられるのだが、━━そのわりに常よりは長い曲だと感じてしまったのは、こちらの体調の所為か、それともブルックナーが初期から中期にかけての交響曲で多用した、あの「総休止」の扱いに、ネルソンスが未だ歴代の「ブルックナー指揮者」のような巧みさを発揮できていなかった所為か。

 それでも、流石だと思った個所がいくつもある。例えば第3楽章トリオでの、木管群が織り成す綾の妙味。特に第62~64小節のクラリネットなど、瞬時の動きだったけれど、まろやかの極みだった。そして、第4楽章での、厚みある美しい弦楽器群によるフーガの処理もそう。

 しかしその一方で私は、この曲の最大の特徴ともいうべきコラール的な要素が意図的に抑制されていたことには、些かひっかかる。第1楽章からそうだったが、とりわけ第4楽章コーダの昂揚部分にかけては、その傾向がますます気になって来る。それはネルソンスが、このオケの強力な弦楽器群の響きに重点を置いて、金管群をさほど咆哮させずに構築しているためもあるだろう。
 そして最後のコーダでは、あの金管群の高貴で壮大なコラールはほとんど前面に姿を現わさぬまま、テンポを次第に上げつつ、狂瀾怒濤のクライマックスへ駆け上がって行く━━という感なのだ。

 こういう、宗教的な昂揚感と法悦感とは無縁なブルックナー解釈もあって不思議はない、とは思うものの、しかし私のように、金管群のコラールと、低音部に反復される8度の跳躍のリズムとが豪壮雄大に堂々と気品高く対比され、沸騰する弦楽器群がただ和声的効果としてのみ作用してそれらを包む━━といったタイプの演奏に未だあこがれを持っている聴き手としては、このコーダにおけるネルソンスの激烈なカオスのような構築には、やや辟易させられた、というのが正直なところなのである。

 だがそれにしても、最後のティンパニの揺るぎないトレモロには感じ入った。彼らのブルックナーの交響曲のCD(グラモフォン)でも、ティンパニの強靭ぶりは際立っているけれども、この「5番」の最後の5小節で、その本領を聴かされた思いであった。

2019・5・28(火)ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

      サントリーホール  7時

 余波を警戒し自重、日曜・月曜の演奏会は欠席連絡をして蟄居していたが、そうばかりもしていられないので、今日は痛み止めの薬を服用しつつ、午後からの東京芸術劇場外部評価委員会に出席、次いでサントリーホールに回る。未だ時々嫌な重苦しい脇腹の疼きに襲われるけれど、演奏を聴いているうちにいつの間にか治ってしまったようである。

 そこでライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団━━。
 2018年2月に第21代カペルマイスターに就任したのがアンドリス・ネルソンスだが、彼とのコンビではこれが最初の来日だ。

 最初に演奏されたのが、バイバ・スクリデとの協演による、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」。5月18日に本拠地で1度演奏しているし、昨晩の公演(東京文化会館)でも演奏済みだから、今日は絶好調の協演というわけだろう。
 スクリデの清澄な音色と、ゲヴァントハウス管の重厚で陰翳の濃い響きとの対比が、絶妙な世界を創る。ショスタコーヴィチのこの曲がこれほど綺麗に聞こえたことはかつてなかったほどだ。
 彼女が弾いたアンコール曲は、ウェストホフの「鐘の模倣」だったが、これがまた美しい。太陽の光が波の上にきらめき、珠玉のような泡(=鐘の音)が現われては消える、といったイメージを想像させた。

 後半には、チャイコフスキーの「交響曲第5番」が演奏された。ドイツの老舗オーケストラも今やこんなに表情豊かにチャイコフスキーの交響曲を演奏する時代になったのか、と変なことに感心した次第だが、━━あまり所謂チャイコフスキーっぽくない雰囲気の演奏だったとはいえ、ひとつのシンフォニーとしての演奏という面では、極めて立派なものだったことは疑いない。

 ネルソンスは、細部にまで神経を行き届かせた指揮をする。この曲は、5月半ばにライプツィヒで3回演奏していたようだから、演奏が完璧に仕上がっているのも当然だろう。内声部の管を丁寧に浮き出せるのも、この曲におけるネルソンスの手法だ。
 が、何といってもこのオケ、弦の厚みと瑞々しさが圧倒的である。第3楽章の中間部では、その弦の細やかな動きがきらきら光る音の粒をつくり出す。それが煌めいて躍動するさまは、「マンフレッド交響曲」の妖精の場面を連想させるほどである。一方、第4楽章のコーダは、スコア指定の「モルト・マエストーゾ」でなく、歓喜の行進のような趣になった。

 アンコールとしてネルソンス、おそろしく長いスピーチ(英語)のあとに指揮したのは、メンデルスゾーンの序曲「ルイ・ブラス」。弦の素晴らしさが、ここでも全開する。流石にゲヴァントハウス管、ゆかりのメンデルスゾーンの作品を演奏すると見事である。あたかも、メンデルスゾーンはおれたちの音楽家なのだ、どうだ━━と言わんばかりの、愛情と共感の溢れる、壮大な演奏であった。

2019・5・24(金)飯森範親指揮日本センチュリー響「ハイドン・マラソン」

    いずみホール  7時

 西宮での演奏会は5時少し前に終ったので、阪急とJRを乗り継ぎ、環状線の大阪城公園駅の近くにある「いずみホール」へ、日本センチュリー交響楽団の「いずみ定期演奏会」を聴きに行く。
 ハイドンの交響曲連続演奏シリーズ「ハイドン・マラソン」の一環で、今日は「第23番」「第20番」「第85番《王妃》」、および挿入プログラムとしてのジョリヴェの「リノスの歌」が演奏された。コンサートマスターは荒井英治。

 この10年来、とりわけ日本のオーケストラの成長が楽しみになり、各地のオケを聴き歩いている。それに、東京では聴けないようなユニークなプログラミングや、東京のオケとの演奏より面白い音楽を聴かせてくれる指揮者にも出会えることがある。いろいろ勉強になるのである。
 自分ではそれを「音楽巡礼」と謙虚に(?)称しているのだが、井上道義からは「旅がらす」と野次られ、芸術文化振興基金のI氏からは、何と「寅さん」「一番星桃次郎」などと、━━(巧いことを言うものですなあ)。

 その音楽の股旅が、しかし今回は、旅先で不慮のリタイアを演じることとなってしまった。
 この「ハイドン・マラソン」、これまでエクストンのCDで何枚か接して、なかなかいいと思い、初めてナマを聴きに来た次第だったが、1曲目の「第23番」を聴いている最中に、持病の尿管結石の発作に襲われ始め・・・・。2曲目はこっそり席を移し、ホール最後部席に座って聴いていたのだが、ついに休憩時間に、蹌踉として会場を抜け出し、ホテルに逃げ帰る羽目に陥った。

 そのあとの救急車のことだの、大阪回生病院で痛み止めの処置をしてもらったことなどは特にここで記す必要もないことだが、とにかくこの体調では、折角の飯森と日本センチュリー響の「23番」にも、正確なコメントを述べられる状態ではなかったことをお許し願いたい。
 ただ、後ろの席で少し姿勢を楽にして聴いた、永江真由子(同楽団首席フルート奏者)が3人の弦とともに演奏したジョリヴェの「リノスの歌」の清涼かつ透明な美しさには、痛みを和らげる美味しい冷たい水を与えられたような気持になったことを、礼とともに報告しておきたい。

 これで結局、土曜日に予定していた名古屋での名古屋フィル定期を聴く計画は残念ながら放棄して、早朝一番の新幹線で帰京せざるを得なくなった。この名古屋フィル定期は、シンガポール出身の注目の若手、カーチュン・ウォンがシベリウスとバルトークを指揮する、実に興味深い演奏会だったのだが、本当に惜しいことをした。

2019・5・24(金)井上道義指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団

     兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  3時

 前日から引き続き関西に滞在、阪急電車の西宮北口駅の南口に直結したこのホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団(所謂PAC)の5月定期を聴く。3回公演(すべてマチネー)の、今日は初日だ。

 この日の最大の売りものは、メキシコの人気作曲家アルトゥーロ・マルケス(1950年生)の新作「トランペットとオーケストラのための《秋のコンチェルト》」が、名手パーチョ・フローレスの協演で初演されることにあったろう。
 これはPACとメキシコ国立響、米国アリゾナ州のツーソン響、スペインのオビエド・フィルハルモニアの共同委嘱作で、演奏時間20分ほどの豪壮華麗なラテン・アメリカ系作風のトランペット協奏曲だ。

 フローレスは4種の楽器を使用し、鮮やかに吹きまくった。それは確かに見事なものだったが、YouTubeに出ているものほどには豪壮な、胸のすくような演奏には感じられなかったのは、もしかして初日の演奏ゆえだったのかもしれない。おそらく2日目、3日目の演奏ではもっと自由闊達に吹いたのではなかろうか。

 一方PACの演奏も、これに先立ち1曲目に取り上げられたマルケスの有名な「ダンソン第2番」を含めて、何となくぎこちない、生真面目な━━要するにラテン・アメリカ音楽的な解放感があまり吹き出ていないようなものだったようだ。
 ただ、改めて言うまでもないが、このオーケストラはプロの固定メンバーによる団体ではなく、所謂「アカデミー・オーケストラ」だから、それを承知で聴く要があろう。とはいえ「ゲスト・トップ・プレイヤー」と「スペシャル・プレイヤー」には、国内外のオケの首席奏者クラスの人たちが招かれており、たとえば今日のコンサートマスターには田野倉雅秋、ヴィオラには読響の柳瀬省太、トランペットには東京響の佐藤友紀・・・・といった人たちの名も見えていたのである。

 マルケスでの演奏が意外におとなしかったので、井上とPACの演奏はむしろ第2部でのコープランドの2作━━「ロデオ」からの「土曜の夜のワルツ」と「ホー・ダウン」および「ビリー・ザ・キッド」組曲の方に聴き応えがあった。
 まあ、これらの演奏にもまだちょっと硬さがあったといえば言えぬこともないが、流石コープランド、音楽の貫録という点では独特のものがあり、それに救われた感もあるだろう。 
 井上道義の指揮の身振りの視覚的な面白さも加わって、これは愉しめた。コープランドのこういった作品は、日本では滅多にナマでは聴けないので━━どうも昔から日本のお堅い愛好家たちの間には、この種の曲に対する偏見のようなものがあるのでないかと思うが━━いい機会でもあった。

 アンコール曲はルロイ・アンダーソンの「プリンク・プランク・プルンク」(プリンク・プレンク・プランク)。

2019・5・23(木)シャルル・デュトワ指揮大阪フィル

     フェスティバルホール(大阪) 7時

 久しぶりシャルル・デュトワ。今年10月には83歳になるはずで、歩く姿には少しばかり年齢を感じさせるものがあるものの、いざ指揮台に上れば、身のこなしと指揮の姿は以前と変わらない。
 この人の指揮する音楽には豪華さ、華麗さというイメージがあるが、特に今日のようなフランス・プロ━━ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」と「幻想交響曲」、その間にラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲(合唱付きの版)を挟むというプログラムにおいては、彼の本領が十二分に発揮されるというものだ。

 公演初日のせいか、最初の序曲「ローマの謝肉祭」では、大阪フィルの演奏にもやや生硬なものが感じられたものの、「ダフニスとクロエ」ではその硬さも薄紙をはがすように溶けて行った。管のソロも良く、後半ではデュトワらしい鮮やかな押しの強さも存分に発揮されて、壮大な音の絵巻が繰り広げられた。大阪フィルハーモニー合唱団(200人近い大編成)も好演である。

 「幻想交響曲」も豪華で、スケールの大きな演奏ではあったが、しかしデュトワはこの曲の標題音楽性にはさほど捉われず、狂気の世界に陥ることなく、あくまでフォルムを崩さずに、むしろ古典派の交響曲とロマン派交響曲との微妙な均整を求めて構築していたようにも感じられる。全曲の終結部での豪壮なサウンドは目覚ましかったが、音楽そのものは決して狂乱状態になることはなかったのである。
 ただ、これはもしかしたら初日ゆえの演奏の特徴であって、2日目の演奏ではまた違った、もっと自由な、開放的な解釈と演奏になるのかもしれないが。

 いずれにせよ、この「幻想」といい、その前の「ダフニス」といい、大フィルからかくもブリリアントな音色を引き出したデュトワの力量と感性は相変わらず見事、と称して言い過ぎではないだろう。
 プライヴェートな面であれこれあったのは承知しているけれども、彼はやはり、かけがえのない指揮者だ。今後とも活躍してもらいたい。「慎重な東京」よりも、「自由な関西」で、いち早くメジャー・オケの定期に登場したシャルル・デュトワ。3階席の僅かな個所を除いてほぼ満席の状態になったこの巨大なフェスティバルホールで、彼は盛大な拍手とブラヴォーを浴びたのだった。

 今日のコンサートマスターは崔文洙。
       →(別稿)モーストリー・クラシック8月号

2019・5・22(水)第18回東京国際音楽コンクール〈指揮〉
入賞デビューコンサート

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 1967年以来の歴史を持つわが国唯一の大規模な指揮者コンクール。当初は「民音コンクール」という名で、1988年から現在の名称になったが、運営と主催は引き続き「民音」により行われている。
 今日は、昨秋開催された第18回東京国際音楽コンクールの指揮部門で上位入賞した3人━━沖澤のどか〈第1位〉、横山奏(第2位)、熊倉優(第3位)が登場、東京都交響楽団を指揮した。

 演奏前にこのコンクールの審査委員長を1987年(第11回)から務めている外山雄三氏がスピーチ、「いいと思ったら、スタンディング・オヴェーションでも何でも、盛大に拍手をしてやってほしいが、気に入らなかったら、靴音高く出て行っていいとまでは言わぬまでも、無理して(儀礼的な)拍手を送らなくてもいい。それが若い演奏家にとって何よりの勉強になるのだから」と、彼らしい言葉を述べた。

 振り方がどうだとかいう話は、指揮者や専門家にお任せして、私は昨夜の浜松国際ピアノコンクール入賞者の披露演奏会の時と同じく、一人の聴衆として、その演奏に感じたことだけを正直に書く。昨秋のコンクール本選の際の演奏は聴いていないので、あくまで今夜の演奏を聴いた範囲でのことだ。

 最初にチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」を指揮した熊倉優は、極めて丁寧に、念入りに作品を構築して行く。冒頭のアンダンテの個所だけでなく、「愛の主題」の部分をも、徹底して遅いテンポで進める。
 それはそれでいいとしても、その遅いテンポに緊張力が伴っているかどうかは別の問題だろう。この日の指揮では、そこにやや誇張めいたものを感じさせ、結果として全曲のバランスを崩し、聴き手に作品の流れを見失わせかねない危険性をはらんでいたように思う。
 何より、そのテンポから激しい曲想に変わる寸前の矯めの個所(例えば第272小節のヴィオラの全音符)までその緊張が持続できず、それまでの仕上げを瓦解させてしまったのでは何にもなるまい。今後の課題であろう。

 次いで、コダーイの「ハンガリー民謡《孔雀は飛んだ》による変奏曲」を指揮した横山奏(男性である)。強靭な音で野性的な力感を漲らせ、音色も多彩で、持って行き方にも工夫が感じ取れるところがいい。ここではオーケストラも、引き締まった響きを聴かせた。欲を言えば、この山あり谷ありの起伏を持った、終わりそうでいて終らないようなこの曲の構成の問題点をカバーするための一策として、もう少し形式感を巧く導入してくれるようになれば、と思う。

 そして最後に、沖澤のどかが、メンデルスゾーンの「交響曲第3番《スコットランド》」を指揮した。このコンクールで優勝した最初の女性指揮者である。良いとは聞いていたが、予想以上に素晴らしい指揮をするのに感心した。
 全曲冒頭、主題が奏され始めた瞬間、都響の管から引き出された音が絶妙の美しさ(アインザッツは悪かったけれど)を持っていたのには、ハッとさせられたものである。弦からも輝きのある音を引き出し、強いアクセントで豊かなメリハリを持たせ、演奏全体に毅然、凛然とした表情を漲らせていた。若手の割にはそれほど大きくない身振りの指揮でありながら、オーケストラの演奏をかくも躍動させ、燃え上がらせる力量は大したものである。

 終楽章での推進力も、なかなか見事であった。欲を言えば、それが見事だっただけに、全曲冒頭主題が変形して再現される大詰の歓呼の個所に「今一押し」が欲しかったところだが、それはこれからのことであろう。最後の最強奏の和音が終る前からすでに拍手が沸き起こり、演奏が終った時にはホール全体が大拍手とブラヴォーに包まれたのであった。

 ともあれ、今日の演奏を聴いた範囲では、コンクール本選の順位付けには全面的に納得したというところである。だが、本舞台はこれからだ。昨夜と同じく、今日の3人に対しても、「輝かしい未来があらんことを」と祈らずにはいられない。
      →(別稿)モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews 

2019・5・21(火)第10回浜松国際ピアノコンクール入賞者披露演奏会

      紀尾井ホール  6時45分

 朝からの強風豪雨も、幸いにも夕方には上がって、東京公演は満席の盛況。昨年11月のコンクール入賞者6人の中、第2位の牛田智大を除く5人が出場した━━第6位の安並貴史、第5位の務川慧悟、第4位の今田篤、第3位のイ・ヒョク(韓国)、優勝者のジャン・チャクムル(トルコ)である。

 まず安並貴史がバルトークの「野外にて」と、ドホナーニの「4つの狂詩曲」から「第1番」を弾く。バルトークでは、コンクールの時に比して気魄にあふれた演奏を噴出させ、一方、後者では落ち着いた演奏で彼らしい特徴を聴かせた。
 次に務川慧悟がドビュッシーの「前奏曲集第2集」からの2曲とショパンの「バラード第4番」を弾いたが、このドビュッシーが、あたかも本選の時のプロコフィエフの「第3協奏曲」での烈しい演奏を再現した如く、特に「花火」など猛烈なヴィルトゥオーゾ的なアプローチになっていたのには度肝を抜かれた。これぞ若さの勢いというべきか、微笑ましい。

 今田篤も同様、コンクールの時よりも自由な瑞々しさを湛えた表情でショパンの「葬送ソナタ」を弾いた。誇張なしの自然体で弾かれたこのショパンは、しっかりした均衡を備えた演奏である。

 休憩後にまず登場したのは、イ・ヒョク。ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカらの3章」を弾いた。よく言えば体当たり的な熱演というべきかもしれないが、しかし最初から最後までフォルティシモの一本調子で、高音をキンキンした音色で叩き続けるその「勢いのよさ」には少々辟易させられたのが正直なところだ。まあ、第3次予選の際に聴かせていた輝かしさが見事に復活していたのはいいことだろうし、自己主張の強烈な演奏という点で、今後が期待されるだろう。

 最後に登場したのが優勝者のジャン・チャクムルで、バッハの「イギリス組曲第6番」と、メンデルスゾーンの「スコットランド・ソナタ」を弾いた。バッハに対するアプローチが、厳格な構築というよりむしろ自由闊達な躍動という面に置かれていることに、若者らしい感性だなと、何となく嬉しくなってしまう。先頃のコンクールの際の演奏でも示されたとおり、この人の音楽の多彩さは、出場者の中でもずば抜けた存在だ。

 最後には5人そろってステージに現われ、手を繋いでそれを高く上げながら答礼するという微笑ましい光景が繰り広げられた。この若者たちに、輝かしい未来があらんことを。

2019・5・19(日)新国立劇場 モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 2008年12月にプレミエされたグリシャ・アサガロフ演出によるプロダクションで、今回は4度目の上演になる。2008年12月13日2012年4月19日2014年10月22日の日記にそれぞれ書いているので、詳細の重複は避ける。

 ルイジ・ペーレゴの舞台装置は落ち着きのある美しいもので、これは傑作の部類に入るだろう。ただ、アサガロフの演出は、単なる小奇麗なものというに止まり、良くも悪くも、それほど目立つ特徴はない。それだけにどの場面がどうのという強い印象は残っていないのだが、今回も再演演出担当の手を経ている所為か、何だか更に平凡で締まりのない舞台になっていた感がある。

 音楽面では━━。
 今回はカーステン・ヤヌシュケというドイツの若手指揮者が振った。真面目に、丁寧に、バランスのいい指揮をする。東京フィルから爽やかな音を引き出し、モーツァルトの美しい音色を損なわずに再現していたということだけでも一つの功績といえるかもしれぬ。
 歌手陣は、ニコラ・ウリヴィエーリ(ドン・ジョヴァンニ)、ジョヴァンニ・フルラネット(レポレッロ)、妻屋秀和(騎士長)、ファン・フランシスコ・ガテル(ドン・オッターヴィオ)、マリゴーナ・ケルナジ(ドンナ・アンナ)、脇園彩(ドンナ・エルヴィーラ)、九嶋香奈枝(ツェルリーナ)、久保和範(マゼット)、新国立劇場合唱団。

 脇園彩は、昨年のちょうど今頃、大阪のフェスティバルホールで上演された「ラ・チェネレントラ」の題名役に迎えられながら、体調が悪くて本調子でなく、私たちを残念がらせたことがあった。だが今日は、ドンナ・エルヴィーラ役でふくよかな、しかも風格のある歌唱の本領を聴かせてくれたのは嬉しい。

 一方、題名役のウリヴィエーリは安定した歌唱ながら、今ひとつ主人公としての迫力が感じられなかったのは、彼の責任というよりは、明確なコンセプトを欠いた再演演出の所為ではなかろうかと思う。
 しかし、役者だったのは、オッターヴィオを歌うガテルだ。ソット・ヴォーチェの見事さもさることながら、最後のアリアでは次第に異様な、不気味な目つきに変わり、独りよがりの英雄的陶酔に浸る表情に物凄さを増す。このオッターヴィオという男はやはりどこかヤバイ奴だ、ドンナ・アンナがもっともらしい理由をつけて結婚を先延ばしにしたのも、もしやそれに気がついたからではないのか、という解釈を浮き彫りにしてくれたのであった。

 5時20分頃終演。さすがモーツァルト、流石ドン・ジョヴァンニ、客席は盛況である。

2019・5・18(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 ベートーヴェンの「交響曲第7番」をメインに置き、第1部にブーレーズ(1925~2016)の「メモリアル」と、ヤン・ロバン(1974~)の「クォーク」という作品を組み合わせた選曲。
 前半が現代音楽だけというプログラムであっても、客席はほぼ満員に近い。ノットと東響の人気を物語るものだろう。

 ブーレーズの「メモリアル」は、フルート・ソロ(相澤政宏)と8人の奏者のための作品で、短いけれども神経質な曲だ。ノットと東響は昨年12月の演奏会でも冒頭にフルート・ソロによるヴァレーズの作品(「密度21.5」)を取り上げていたことがあるが、こういうテが好きなのかしら? 
 次のロバンの「クォーク」は、チェロ(エリック=マリア・クテュリエ)と大管弦楽のための作品で、ソロ楽器もオーケストラも刺激的かつノイジーな音で30分近い時間を押しまくる。後半、さながらマーラーの「交響曲第10番」終楽章でのそれの如く、間を置いて叩きつけられる強大な打撃は、聴き手に強い衝撃を与える。

 一方、ベートーヴェンの「第7交響曲」では、アンサンブルも音色も━━特に木管の一部が━━「クォーク」の余波かと思われるくらい少々粗っぽかったものの、ノットと東京響の強靭なアクセントを伴った猛烈な推進力は、この曲の「リズムの饗宴」と呼ばれる特徴を浮き彫りにして、すこぶるエキサイティングな演奏を創り上げていた。
 第1楽章第300小節のオーボエのフェルマータのあとに付された短いカデンツァも━━この手法は久しぶりに聴いたが━━あとで聴衆の大きな拍手を呼ぶ基となったかもしれない。
 なおこのオーボエのあと、木管が主題のモティーフを順に受け渡して行く個所で、付点2分音符の弦のパートを普通よりも明晰に響かせ、リズムから一瞬解放された哀愁感ある世界を引き出したノットの解釈は印象的であった(ここの木管の一部が粗かったのが惜しい)。

 ノットはソロ・カーテンコール。人気はますます高い。コンサートマスターは客演の小林壱成。

※会場名訂正。失礼しました。

2019・5・17(金)ラザレフ指揮日本フィルのマスカーニ

      サントリーホール  7時

 ラザレフは、現在は日本フィルの桂冠指揮者兼芸術顧問。
 首席指揮者時代には、ファンから待望されながらついに一度もオペラの全曲を指揮しなかったラザレフだが、演奏会形式上演ながらやっと取り上げてくれた作品が、ロシア・オペラではなく、何とイタリアのヴェリズモもの━━マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」であるとは意外だった。

 メトネルの「ピアノ協奏曲第2番」を提案したのは、日本フィル側だそうだが、それを聞いたラザレフが、「では後半に《カヴァレリア》をやろう。この二つはぴったり合う」と言い出してオケ側を面食らわせたのだとか。
 こういう作品同士を組み合わせるのはどこから見ても珍しく、何が「ぴったり」なのかは解らないが、とにかく2曲ともいい曲であり、演奏も見事だったので、それぞれの作品なりに楽しむことができた次第である。

 第1部で演奏されたのが、メトネルの「ピアノ協奏曲第2番」。曲が不思議に翳りのある美しさを持っているし、ラフマニノフを柔らかくしたような雰囲気を感じさせるし、ソリストのエフゲニー・スドビン(Sudbin)の音も澄んでいて綺麗だし、ラザレフと日本フィルの演奏もいつもながらの━━というわけで、40分近い長い曲ながら、快さに浸らせてくれた。
 スドビンというピアニストの演奏をナマで聴いたのは、私は実はこれが初めてなのだが、瑞々しい感覚の演奏で、好ましい。

 一方の「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、ラザレフらしくダイナミックな力感に富みながらも、何か少々土臭い、南国シチリアを舞台にしたドラマにしては太陽の光の雰囲気の無い音楽という印象で━━いや、これは決して悪いと言っているのではない━━かつてボリショイ劇場で威勢を振るったラザレフの、猛烈なエネルギーに満ちたオペラ指揮を、久しぶりに堪能した思いである。

 声楽陣は、ニコライ・イェロヒン(トゥリッドゥ)、清水華澄(サントゥッツァ)、上江隼人(アルフィオ)、富岡明子(ローラ)、石井藍(ルチア)、日本フィルハーモニー協会合唱団という顔ぶれ。

 主役の青年トゥリッドゥを歌ったイェロヒンはロシアのテナーで、今回はラザレフに招かれて来たのだそうである。やや暗い音色の壮烈な声を持った、素晴らしく馬力のある人だ。
 サントゥッツァ役の清水華澄は、ちょっと物々しいヴィブラートが時に目立つけれども、2人の男とのそれぞれの二重唱で聴かせた可憐な表現は見事だった。ジークリンデ、マルチェリーナ、アムネリス、イェジババ、先頃の怪演「うつろ姫」、それにこの悩めるシチリアの女性役など━━清水華澄の幅広い表現力には舌を巻く。絶好調の歌手とは彼女のことだろう。
 その他の声楽陣も、みんないい。

 なお、全曲幕切れでの、「トゥリッドゥが殺された!」という舞台裏からの悲鳴は、オペラ歌手には怖くて出せぬような荒々しい不気味な声の絶叫で響いて来たが、これは配役表にも載っていない「謎の外人女性」によるもの。ラザレフが「この声は日本人ではだめ。シチリア訛りのある女性が必要だ」といきなり言い出したので、とにかく日本国内在住のイタリア人女性を見つけて、特別出演してもらったのだという話である。カーテンコールには出て来て、ラザレフから丁重な感謝を受けていた。

 コンサートマスターは田野倉雅秋(9月から日本フィルのコンマスに就任予定)。

2019・5・15(水)ロナルド・ブラウティハム・リサイタル

      トッパンホール 7時

 オランダの名フォルテピアノ奏者ロナルド・ブラウティハムが、トッパンホールに2年ぶり、3度目の登場。
 今回はハイドンとベートーヴェンを組み合わせ、前半にハイドンの「ソナタ第49番変ホ長調」とベートーヴェンの「第3番ハ長調」、後半にハイドンの「第52番変ホ長調」とベートーヴェンの「第21番ハ長調《ワルトシュタイン》」を演奏してくれた。

 このプログラム、実に巧みな構成だ。演奏者の発案か、それとも企画の巧さで定評のあるトッパンホールのプロデューサーのアイディアかは知らないけれども、先頃CDで話題になった「ブラウティハムのワルトシュタイン」を入れたこともその一つ。

 だがそれ以上に秀逸なのは、これらの作品の調性の上での関連性に加え、それぞれの作品の曲想に顕れているこの2人の大作曲家の性格を巧みに対照づけ、あるいは共通点を浮き彫りにしていた点であろう。
 ハイドンは、思いのほかベートーヴェンの近くにいた。そしてベートーヴェンも、そこからさらに師を超えて、広大無辺の世界に飛翔していった━━。

 それらが、ブラウティハムの明晰かつ強靭な集中力で有機的に組み上げられたフォルテピアノの演奏により、鮮やかに描き出される。まさに至福のコンサートであり、ハイドンとベートーヴェンの壮大さと美しさとを、心行くまで味わわせてくれたリサイタルだった。
 アンコールは、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」からの第2楽章。

2019・5・14(火)ヴァイグレの読響常任指揮者就任披露定期

     サントリーホール  7時

 1961年ベルリン生まれのセバスティアン・ヴァイグレがこの4月、読響の常任指揮者に就任。
 ハンス=ヴェルナー・ヘンツェの「7つのボレロ」(1998年)と、ブルックナーの「第9交響曲」というプログラムでスタートを切った。

 1曲目を現代作曲家の作品でぶちかましてみせるあたり、保守的な名曲路線には安住せぬぞ、と言わんばかりの意欲的な姿勢が窺われて好ましい。ただしそうはいっても━━この5月に彼が読響との演奏会で指揮する3種のプログラムの中には、現代曲はやはりこれ1曲しかなく、専ら18世紀末~19世紀の独墺の名曲ばかり、という状況ではあるのだが・・・・。

 そのヘンツェの「7つのボレロ」は、演奏時間20分強、大編成の管弦楽のための色彩的な組曲風の作品で、どの曲においてもリズミカルな躍動感が目立って面白い。中には、あのラヴェルの「ボレロ」のリズムが低く忍び寄って来るという個所もあり、微苦笑を呼ぶ。

 一方、ブルックナーの「9番」は、読響の持てる威力を十二分に発揮させた、豪壮雄大な演奏となった。最強奏で咆哮する時の音色には、あまり美しいとは言い難いところもあるが、第1楽章第2主題での弦のアンサンブルの瑞々しさや、第3楽章終結での4本のホルンの伸びやかな清々しさなど、ハッとさせられるような美しい個所も少なくなかった。全体にブルックナーの音楽に備わる筋肉質的な力感という面を浮き出させた演奏、とも言えようか。

 聴衆の反応もまずは上々。コンサートマスターは長原幸太。

2019・5・13(月)METライブビューイング 「ヴァルキューレ」

     東劇  5時

 3月30日のメトロポリタン・オペラ上演のライヴ映像。ロベール・ルパージュの演出、カール・フィリオンの舞台美術による、2011年にプレミエされたあのユニークな舞台装置によるプロダクションである。

 今回はフィリップ・ジョルダンの指揮で、歌手陣は、グリア・グリムスリー(ヴォータン)、クリスティーン・ガーキー(ブリュンヒルデ)、ステュアート・スケルトン(ジークムント)、エヴァ=マリア・ウェストブロック(ジークリンデ)、ギュンター・グロイスベック(フンディング)、ジェイミー・バートン(フリッカ)、他━━と粒が揃っている。

 特に注目されたのは、ブリュンヒルデを初めて歌ったというガーキーだ。
 ドラマティックな女戦士というよりは、茶目っ気もある陽気な女性騎士といった雰囲気で、歌唱にも屈託の無さが感じられるだろう。これが「神々の黄昏」で、「怒れるブリュンヒルデ」として世界を救済する女傑となった時にどのような歌唱と演技を繰り広げるのか、ちょっと興味が湧く。
 METでは特に近年、意図的か偶然か、ヴァルキューレたちを猛女でなく、愛らしい女性騎士として描く傾向があるようだから、この方が人気も出るのかもしれない。

 フィリップ・ジョルダンの指揮が、なかなか良い。物々しい重厚なワーグナーでなく、むしろサラリとした表情で押して行くタイプだが、極めて流れがいい。それでいながら「ヴォータンの告別」の頂点での壮大な昂揚感など、聴き手の感情を揺り動かす卓越した力感を示す指揮である。
 来年からウィーン国立歌劇場の音楽監督になる人だが、楽しみな存在だ。

 ロベール・ルパージュの演出は、父と娘の愛情を強く描くなどの特徴はあるものの、概してトラディショナルなスタイルで、それほど新しいものはない。むしろ例の━━並べればスノコみたいになる巨大な板が縦横無尽に動く、あの見事な舞台装置にすべてを託したような演出である。
 この大がかりな装置は、古エッダの発祥地アイスランドの噴火や地震などの地殻変動から発想されたものだということが、インタヴュ―の中で説明されていた。面白いアイディアだと思う。

 なお今回の音響は、録音が少しこもり気味で、特にヴォーカルのパートの響きの抜けの悪さが気になった。METのライヴでは、時々中継の音質にムラがある。
 案内役には、久しぶりにデボラ・ヴォイトが登場していた。プレミエの時にブリュンヒルデを歌っていた彼女である。以前のような元気の良さ、闊達さが何だか薄れたような雰囲気なのがちょっと気になるけれども、やはり巧い。ロイヤル・オペラ・ライヴの女性案内役と違い、無用に張り切って大声を出すこともないから、感じもいい。。

 上映時間は、休憩2回を含み、4時間51分。客席は結構な入りである。ワーグナーものの映像にこれだけ客が入るとは、まことに祝着である。

2019・5・12(日)飯森範親指揮東京交響楽団のロシアン・プロ

     カルッツかわさき  2時

 ミューザ川崎シンフォニーホールが改装工事中のため、東京響は川崎での演奏会をここ「カルッツ川崎」に、一時的に移している。

 これは川崎駅東口からバスで5分、徒歩なら20分くらいの場所にある「スポーツ・文化総合センター」のホールだ。座席数は2000ほど。
 クラシック音楽専用のホールではないが、2階席前方で聴く範囲では、音響は悪くないという印象を受けた。ただし2階と3階の多くの席は、椅子に腰を下ろすと、ステージが前の席の客の頭に隠れて中央が見えないという変な特徴がある。このホールの設計者は、席には客が座るものであり、その客は舞台を見るものである、という基本的なことも考えなかったのだろうか?

 それはともかく、今日は正指揮者・飯森範親の指揮で、第1部にボロディンの「イーゴリ公」から「ポロヴェッツの娘たちの踊り」と「ポロヴェッツ人の踊り」、ムソルグスキーの「禿山の一夜」(オペラ「ソローチンツィの市」の一場面)、チャイコフスキーの「1812年」。第2部にワシリー・カリンニコフの「交響曲第1番」というプログラムが演奏された。

 第1部の3曲では、東響コーラスおよび川崎市立坂戸小学校合唱団が協演。またボロディンとムソルグスキーの作品ではバリトンのヴィタリ・ユシュマノフのソロも加わるという大がかりな編成だった。コンサートマスターは水谷晃。
 東響コーラスはステージ奥のみでなく、両側袖にも配置された(ただこの袖の合唱は、ステージの指揮者の方を向いて歌われたせいもあって、2階席で聴いていた私にはあまり聞こえなかった)。

 東京響の演奏の方は、第1部では賑やかさと勢いが優先されていたようだが、何しろ曲が曲だけに、これは致し方ない。
 だが、「禿山の一夜」を、一般に演奏されるリムスキー=コルサコフの「まとまり過ぎた」編曲版ではなく、またムソルグスキーの雑然たる野性的な魅力に富んだオリジナルの管弦楽曲版でもなく、彼がのちにバリトン・ソロ(魔王チェルノボーグ)と合唱(悪魔たち)を入れて新たに書いたオペラ用の版で聴けたのは、まことに稀有な有難い体験であった。もしかしたら、これは日本初演か?

 一方、第2部でのカリンニコフの「第1交響曲」では、シリアスで瑞々しい、しっとりとした演奏で、指揮者・飯森が愛してやまないこの曲に相応しい快演が展開された。主題の展開の手法に関しては少々まだるっこしいものが感じられるこの曲だが、熱狂的なファンも多いようである。

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