2021-04

2021・4・20(火)東京・春・音楽祭 若い音楽家による「マクベス」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 ムーティの「マクベス」、こちらは先日の公開アカデミーの受講者たちによる、演奏会形式抜粋上演である。それでも、正味2時間強の演奏時間となった。

 「若い音楽家」というのがどこまでを指すのかはよく分からないけれども、出演は前夜と同じ東京春祭オーケストラと、イタリア・オペラ・アカデミー合唱団。
 指揮者は受講生の4人の指揮者━━シンガポール出身のチヤ・アモス、独系米人のヨハネス・ルーナー、日本の高橋達真と湯川紘惠。
 そしてソロ歌手陣はすべて日本勢で、青山貢(マクベス)、谷原めぐみ(マクベス夫人)、加藤宏隆(バンコー)、芹澤佳通(マクダフ)、城宏憲(マルコム)、北原瑠美(侍女)、畠山茂(医師)という顔ぶれである。

 昨夜のムーティ指揮による超弩級の「マクベス」がまだ頭の中に鳴り響いている時に若手指揮者の「マクベス」を聴くと、どうしても一種のもどかしさを感じてしまうのは仕方がない。それでも、若手たちがよくやったのは確かである。
 細かく言えば、日本人指揮者2人は、正確かつ丁寧にきちんと音楽をつくる。だが惜しいのは、その音楽が、噴き上げるような熱気にどうも乏しいことだ。もし全曲を指揮したら、おそらく淡彩な「マクベス」になってしまうであろうことは否めまい。
 この4人の中では、チヤ・アモスの情熱的な牽引力を感じさせる指揮が光っていた。

 歌手陣ではまず題名役の青山貢が━━この人は既に定評あるヴォータン歌手だし、若い音楽家という範疇には入るまいが━━力と巧味で光り、谷原めぐみも尻上がりに調子を上げて行った。マクダフの芹澤佳通は、今日の方が遥かに余裕を感じさせる歌いぶりだった。

 終演後にはムーティが歌手たち(医師役を除く6人)と指揮者4人に「受講生への終了賞授与」のセレモニーを行なって締めた。終演は9時40分頃。

2021・4・19(月)東京・春・音楽祭 ムーティ指揮「マクベス」

       東京文化会館大ホール  6時30分

 これは掛け値なしに、聴かなきゃソン、という演奏会だったろう。

 リッカルド・ムーティがヴェルディの「マクベス」から引き出した音楽は、実に物凄かった。音楽全体が鋭い。劇的な畳み込みが創り出す起伏感と緊張感は、息をもつかせぬほどだ。イタリア・オペラにおける「魔性」とはこういうのを謂うのかと思わせる演奏である。80歳のムーティがついに到達した音楽の境地とはこれだったのかと、今更ながら感服に堪えぬ思いであった。

 特に今回はオーケストラ━━東京春祭オーケストラ(コンサートマスター長原幸太)が強力で、ムーティの意図をほぼ完璧に生かしていたのではないかと思われる。
 ダンカン王の死体を発見して恐怖に慄くマクダフの場面でのリズムの反復は、かつてのアバドのそれを凌ぐほどの強烈さであり、魔女たちとマクベスの対話の場面でのオーケストラの咆哮の凄まじさは悪魔的でさえある。
 打楽器を激しく叩かせ、オーケストラを怒号させる演奏は、欧州の大歌劇場では珍しくないものの、オケ・ピットの小ぶりな日本の劇場ではこれまで望むべくもなかったものだ。演奏会形式の強みでもあろう。
 もちろん、弱音でのカンタービレの神秘的で美しいニュアンスも、卓越している。

 イタリア・オペラと雖も、オーケストラは単なる歌の伴奏者ではない━━それ自体が雄弁な語り手である。それを実証した演奏だったのだ。

 コーラス(イタリア・オペラ・アカデミー合唱団)も同様だった。特に魔女たちの声を受け持つ女声合唱は、見事な表現力を示していた。

 ソロ歌手陣は、当初の予定から一部変更があって、ルカ・ミケレッティ(マクベス)、アナスタシア・バルトリ(マクベス夫人)、リッカルド・ザネッラート(バンコウ)、芹澤佳通(マクダフ)、城宏憲(マルコム)、北原瑠美(侍女)、畠山茂(医師)という顔ぶれ。
 この中でも、マクベス夫人を歌ったバルトリは、伸びと張りと力のある声で傑出しており、殊更に悪女っぽい表現ではないものの素晴らしい歌唱を聴かせ、今夜のステージをさらった感さえあったほどだ。

 題名役マクベスを歌ったミケレッティも若い人だが、一本気なマクベスといった表現で、前半は比較的おとなしく、幕切れ近くに至り傲然たる表情を増して行ったのは、原作及びオペラにおけるマクベスという人物像を描くためのものだったのかもしれない。
 ただ、━━総じて、外国勢は見事だったが、迎え撃つ日本勢歌手陣は、どうしてもやはり一歩を譲った感があって……それが残念である。

 だがいずれにせよこれは、紛れもなく超弩級の「マクベス」であった。これほどの演奏はもう二度と聴けないかもしれない。
 30分の休憩1回を含み、9時45分終演。21日にも上演がある。有料だがライヴ配信もあるはず。

2021・4・18(日)工藤重典、加藤知子、神尾真由子他

      大手町三井ホール━━配信

 今日は当初の予定では、昨日の「大阪4オケ」に続き、西宮の兵庫県立芸術文化センターで広上淳一指揮京都市交響楽団を聴いているはずだったのだが、前述の通り「県外移動自粛」。
 その時間を利用して、以前KAJIMOTOからインフォメーションのあった、期間限定オンライン配信「三井物産クラシックコンサート2021~明日へつなぐハーモニー~」を視聴してみた。

 これは工藤重典(fl)、加藤知子(vn)、神尾真由子(vn)、中野振一郎(cemb)、大萩康司(g)およびOtemachi One Special Ensembleの演奏による非公開配信用のコンサートだ。演奏されているのは、バッハの「ブランデンブルク協奏曲第5番」(工藤、加藤、中野とアンサンブル)、ピアソラ~鈴木大介編の「ブエノスアイレスの四季」からの「冬」と「春」(工藤、大萩)、ヴィヴァルディの「四季」全曲(神尾、中野、アンサンブル)の3曲。

 いずれも快演で、実に聴き応えがある。フルートとギターによるピアソラを挟んで、前後にバッハとヴィヴァルディの名曲を配したプログラミングもいいし、ソリストたちも強力だ。

 重量感のある「ブランデンブルク協奏曲」から、神尾の情熱的なソロに合奏が呼応する迫力充分の「四季」まで、全部で1時間半ほどの内容である。自宅でコンサートの配信を視聴する時には、余程の内容でない限り、あれこれ注意力を削がれること無きにしも非ずだが、この配信の演奏は愉しめた。最近の配信は画像も綺麗だし、音質も向上しているので、それも気持よく視聴できた所以でもあろう。アンサンブルの若い奏者が楽しそうに演奏している様子が見られるのも嬉しい。
 こういう良質の配信は、大いに歓迎したい。
 ただし今回のは、途中にCM的なコーナーやら、趣旨や意義を延々と説明したりする「民放TV的」なMCやらが入るが……。

 会場の「大手町三井ホール」は、昨年6月に大手町の複合施設「Otemachi One」の3階に設置された由の多目的型、音響及び構造の可変型中型ホールとのこと。私は未だ行ったことはないが、紹介映像で見る限り、なかなか合理的でモダンな会場だと思われる。
 このリンクは無料で、4月30日まで視聴可だから、一度覗いてみては?
    https://classical-concert-for-tomorrow2021.jp/

2021・4・17(土)原田慶太楼の東京響正指揮者就任記念(定期)

      サントリーホール  6時

 若手指揮者の中でもおそらく最も脚光を浴びている存在の原田慶太楼が、4月からこの東京交響楽団の正指揮者に就任。4月定期はその彼の話題で満たされた。
 彼が指揮したのは、フランク・ティケリFrank Ticheli(1958生)の「ブルーシェイズBlue Shades」、バーンスタインの「セレナード(プラトンの「饗宴」による)」(ヴァイオリンのソロは服部百音)、およびショスタコーヴィチの「交響曲第10番」。
 コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 日本の若手指揮者にこれほど大きな、熱烈な拍手が浴びせられたのは、私の体験では、かつての小澤征爾以来ではなかろうかと思う。
 事実、演奏はそれに相応しい熱気と活気に溢れていた。就任演奏会のプログラムにアメリカとロシアの現代作品を並べるということからして指揮者の並々ならぬ意欲と姿勢を誇示するものだったが、そのどれもが体当たり的な情熱を噴き出させた演奏で聴衆を熱狂させたのだから、これは大成功と言ってよい。

 東京響もこの若い指揮者を支持して渾身の演奏を繰り広げ、ショスタコーヴィチの交響曲ではホルンとファゴットをはじめ管のソロも映えた。
 またバーンスタインの「セレナード」では服部百音が好演、ソロ・アンコールではシューベルト~エルンスト編の「魔王」を鮮やかに弾いて原田の晴れ舞台に花を添えた。

 今夜は客の入りも最近の演奏会の中では傑出して好調で、休憩時間のロビーは久しぶりに「密」に近いほどの状態と化し、ホールのレセプショニストたちの気をもませていたようである。

 ところで今日は━━当初の予定では大阪の「大阪4オケ」を聴きに行くはずだったのだが、現今の情勢を鑑みて自粛した次第。痛恨のキャンセルであったことは事実だが、他方、この気鋭の原田慶太楼の指揮する東響の溌溂たる演奏を聴けたことは、これはこれで幸いであった。

2021・4・15(木)荘村清志 ギター協奏曲の夕べ

      サントリーホール  7時

 昨年3月に予定されていながらコロナ禍のため延期されていた荘村清志の演奏会が、やっと開催された。
 大友直人の指揮する東京フィルハーモニー交響楽団が出演し、最初にモーツァルトの「皇帝ティートの慈悲」序曲が演奏されたあとに荘村清志が登場、ロドリーゴの「ある貴紳のための幻想曲」と「アランフェス協奏曲」、cobaの「Tokyo~ギターとオーケストラのための協奏曲」(荘村の委嘱作)を演奏した。

 ロドリーゴの2曲は、ぐっと落ち着いた、風格に溢れた演奏で、スペインの郷愁と情緒というよりは沈潜した美しいモノローグといった雰囲気の世界を感じさせたのが興味深い。
 委嘱作品では、作曲者のcoba(本名は小林靖宏)自らも本職のアコーディオンを引っ提げて登場し協演していたが、彼の出番のパートはごく遠慮がちな範囲にとどまり、専ら主役の荘村に花を持たせた感。オーケストラの編成はかなり大きいので、カデンツァ風の個所以外のところではギターもその渦の中に埋もれる傾向もあったが、全体に躍動的な曲想で、cobaのこのような大規模な作品を初めて聴いた私としては、これも大いに興味深かった次第である。

 なおアンコールとして、同じくcobaの「Happy Pop Songs」の第3曲が、2人のデュオで演奏された。

 今日は彼の演奏にも、ステージ上での彼の挙止にも、荘村さんのあたたかい人柄がいっぱいに拡がっていたという雰囲気であった。私も彼とはほぼ40年にわたる知己だが、話していてあんなに楽しい気分にさせてくれる名演奏家は稀だと言っていい。

2021・4・14(水)METライブビューイング「ヴァルキューレ」

    東劇  5時

 MET本家は休業中とあって、松竹の「METライブビューイング」は、以前の名作をピックアップし、「プレミアム・コレクション」と題して上映している。その一つ、ワーグナーの「ヴァルキューレ」を観に行く。

 これは2011年5月14日に上演された、あのロベール・ルパージュ演出とカール・フィリオンの美術による、とてつもない舞台装置として話題になったMETの新しいプロダクションであった。
 演奏陣は、ジェイムズ・レヴァイン指揮のメトロポリタン・オーケストラ、ブリン・ターフェル(ヴォータン)、デボラ・ヴォイト(ブリュンヒルデ)、ヨナス・カウフマン(ジークムント)、エヴァ=マリア・ヴェストブルック(ジークリンデ)、ハンス=ペーター・ケーニヒ(フンディング)、ステファニー・ブライズ(フリッカ)他。
 なおオープニングの個所で、デボラ・ヴォイトとブリン・ターフェルによる日本の観客向けの挨拶が挿入されていたのは、ちょっとしたサービスというか、ご愛敬というか。

 本編の印象については、以前のビューイング(→2011年6月14日)に観たものと全く同じなので省略するが、更に改めて感じたのは、故レヴァインのオペラ指揮が如何に巧かったかということである。
 とりわけ、いくつかの起伏を繰り返しつつ音楽を頂点に持って行くあたりの呼吸は、やはり見事なものだった。第1幕の幕切れでの愛の昂揚、第2幕終場の悲劇の場面など、息もつかせぬ畳み込みである。彼はやはり、卓越した才能を備えたオペラ指揮者だった。
 彼のそのかけがえのない才能と実績そのものは、METを追われる因となった過去のスキャンダルの件などとは切り離して、高く評価されるべきであろう。

 また今回はCMや上演予告などを含め、10年前の上映映像が━━ただし第2幕幕開きシーンとヴォイトのインタヴューの一部はどうやら差し替えたと思われる━━再使用されていたが、あの頃のMETは華やかだったな、という懐かしい思いがこみ上げる。あのような日々が蘇るのは、いつのことになるだろうか?

2021・4・14(水)東京・春・音楽祭 ムーティのアカデミー

      東京文化会館大ホール━━配信視聴

 「リッカルド・ムーティ イタリア・オペラ・アカデミーin東京vol.2《マクベス》」と題されたシリーズが、10日~16日(13日は休み)の昼間に開催されている。今年は非公開となったものの無料配信されているので、ログインして部分的に視聴する。
 若い指揮者たち数人と、日本のプロ歌手たち、東京春祭オーケストラ、イタリア・オペラ・アカデミー合唱団を対象に、ヴェルディの「マクベス」を教材にして、ムーティが指導を行うというプログラムだ。

 とにかく、エキサイティングである。若い指揮者が振り始めた前奏曲からして、あまりに瑞々しく躍動的な演奏だったのにはまず驚いたが、指揮台の横に大ムーティがでんと座って、時には身振りをしつつ指導しているので、それだけでオーケストラも鼓舞されてしまうのだろう。フィルハーモニア管弦楽団のメンバーが語っていた「われわれは指揮者の棒に頼って演奏するのではなく、指揮者のパーソナリティに反応して演奏するのです」という言葉をふと思い出す。

 自ら歌いながら全員を指導する80歳のムーティの声の力強さも驚きだが、ドラマとしての性格表現をオーケストラの演奏や歌手の歌唱から引き出そうとする彼の「読みの深さ」にも感銘を与えられる。聴いていると、この「マクベス」の音楽がいかに素晴らしいか、改めて教えられているような思いになる。19日~21日の本番ではどんな演奏になっているかが楽しみだ。

 いつまで視聴していても飽きない「ムーティのマクベス」だが、次の予定もあるので途中で切り上げ━━。

2021・4・12(月)東京・春・音楽祭 川口成彦と仲間たち

      東京文化会館小ホール  7時

 2016年のブルージュ国際古楽コンクールで最高位を得たフォルテピアノの川口成彦が主役の一夜。客席はソーシャル・ディスタンス方式の範囲で満席になっていて、彼の人気を物語るだろう。

 彼が今回フォルテピアノで弾いたのは、前半にモーツァルトの「ヨハン・クリスティアン・バッハのソナタによるピアノ協奏曲ト長調K.107」と「ピアノ協奏曲第12番イ長調K.414」、後半にカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの「幻想曲ヘ長調Wq.59-5」と、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番変ロ長調Op.19」、アンコールにハイドンの「チェンバロ協奏曲ⅩⅧ-4」の第2楽章。

 なお協奏曲では、古楽オーケストラ《ラ・ムジカ・コッラーナ》━━丸山韶(vn)廣海史帆(vn)佐々木梨花(va)島根朋史(vc)諸岡典経(violone)━━が協演した。鍵盤楽器は、川口自身のアナウンスによれば、1795年頃のワルターのモデルとのことである。

 川口の演奏を初めて聴いたのはもう8年前になるか、ある教会で中村伸子さんが主宰したコルンゴルト作品集の小さな演奏会(→2013年9月28日)で、あの時は、彼はピアノを弾いていたっけ。その後フォルテピアノのリサイタル(→2017年9月29日)で聴いた時には、その演奏の表現の多彩さに舌を巻いたものだった。
 今回も、特にベートーヴェンのコンチェルトでの表情の自在さ、音色の多彩さに感嘆したが、その他の作品での演奏でも、音楽全体に溢れる一種の爽やかな感性に魅了された。
 実に気持のいい演奏会だった。

2021・4・11(日)東京・春・音楽祭 モーツァルト「レクイエム」

     東京文化会館大ホール  3時

 シュテファン・ショルテスの指揮する東京都交響楽団が、シューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」と、モーツァルトの「レクイエム」を演奏。後者では東京オペラシンガーズ、天羽明惠(S)、金子美香(Ms)、西村悟(T)、大西宇宙(Br)が協演した。コンサートマスターは矢部達哉。

 あまり話題にならなかったが、ショルテスもよく来日できたものだ。
 ハンガリー出身の彼の指揮を、私は2010年6月10日にエッセンでの「ラインの黄金」で初めて聴き、その切れのいいリズム処理と快速テンポに惚れ込んでしまった。その後も同じエッセンでの「トリスタンとイゾルデ」(→2013年5月25日)、あるいは来日しての「サロメ」(→2011年2月22日23日)や、ロッシーニ演奏会(→2011年2月6日)、「ばらの騎士」(→2015年6月2日)などを聴いたが、どれも胸のすくような演奏だった。それゆえ今回も、彼の指揮を楽しみにしていたわけである。

 ただそのわりに今日は、シューベルトの「4番」はあまり歯切れのいい演奏ではなく、しかも活気のある演奏というほどでもなく、ショルテスの芸風も最近は変わってしまったのかと訝しんだほどだ。
 だが幸いなことに「レクイエム」の方はあまり重くならず、といって過度にテンポも速くならず、適度な明晰さを保った、程々に割り切った演奏になっていたと言えようか。

 もっとも、敢えて言わせてもらえば、やはり今日の2曲のような陰翳の濃い作品は、あまりショルテスに向いていなかったのではないか、という気もするのだが。この次の機会には、もっと劇的な曲を指揮してもらう方がいいかもしれない━━。

2021・4・10(土)「名曲全集」沼尻竜典指揮東京交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 ミューザ川崎シンフォニーホールと東京響による「名曲全集」第166回。
 沼尻竜典の客演指揮で、ベルリーニの「ノルマ」序曲、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは牛田智大)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」というプログラム。コンサートマスターは水谷晃。

 お客さんの入りがいいようである。
 主催者に訊いたら、「そりゃあもう、牛田さんですからね」とのこと。そういうものなのかなあ、と思いつつ2階席から見ると、なるほど1階席の最前列が若い女性たちでぎっしりと埋まっていた。まあ、いつの世にもアイドル人気というのはあるものだ。

 余計なことはともかく、その牛田智大の演奏、浜松のコンクール以前から私も注目していた若手だが、今日のショパンのコンチェルトでも持ち前の清澄で瑞々しい音色と表情を存分に発揮、しかもその膨らみのある豊かな中低音の響きも美しく、さらにスケール感の大きさを増したという印象である。まだ21歳、どこまで伸びるか楽しみの尽きないピアニストだ。

 沼尻竜典がチャイコフスキーの交響曲を指揮するのを聴いたのは、もしかしたら今回が最初だったか? 
 予想通り、直線的なチャイコフスキーで、哀愁感とか陰翳とかいった要素を意図的に排除したような音楽になっていたのがいかにも彼らしい。両端楽章では、チャイコフスキー特有の「フォルテ3つ」の指定を忠実に、目一杯に生かした演奏も聴かれた。特に終楽章コーダでのそれは聴衆を沸かすに充分だったが、どこからかあの禁断のブラヴォーの懐かしい響きも聞こえたような気がしたのは、こちらの空耳か。

 「ノルマ」の序曲(Sinfonia)では、終わり近くに現れる、あのハープを加えた木管と弦対話の美しい個所を、流れるようなテンポで演奏していたのが気に入った。

2021・4・9(金)東京・春・音楽祭:ムーティの「マクベス」解説

      東京文化会館大ホール  7時

 巨匠リッカルド・ムーティが予定通り来日した。半ば諦めかけていただけに、喜びもひとしおである。これで彼の指揮するヴェルディの「マクベス」全曲(演奏会形式上演)を楽しむことができるというものだ。

 今日はその一連の「イタリア・オペラ・アカデミーin東京vol.2」の一環として、彼が自ら「マクベス」の作品解説と、アカデミーのレッスンを公開で行なった。
 前半の40分ほどをヴェルディと「マクベス」についての解説に充てたが、これは前回(→2019年3月28日)と同じように、ムーティの持論たる「誤った伝統なるものを排し、ヴェルディの本来の意図を楽譜に基づき忠実に再現すること」を基本としての話。そしてそのあと95分ほどは、青山貴、谷原めぐみ、芹澤佳通、城宏憲ら、「若い音楽家による《マクベス》」(4月20日)の出演者たちを対象とした公開レッスンである。

 レッスンでは、ムーティは、演劇的な表現としての歌唱に重点を置いた指導で歌手たちを絞り上げる。自らピアノを弾き、朗々たる声で歌う。
 これはわれわれ聴衆にとっても、このオペラ━━特に音楽と登場人物の性格分析について理解を深めることのできる、貴重な時間であった。とにかく、ムーティの尽きせぬユーモアとジョークにあふれる話が、やたら面白いのである。休憩なしに2時間15分。もうじき80歳になるのに、見事なエネルギーだ。

2021・4・8(木)新国立劇場「夜鳴きうぐいす」「イオランタ」3日目

       新国立劇場オペラパレス  7時

 ストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」と、チャイコフスキーの「イオランタ」のダブルビル上演。いずれも新演出で、大野和士芸術監督と新国立劇場が力を入れたプログラムであったと思う。
 当初予定の多くの外国勢キャストが来日できていたら、さぞや個性の際立った上演となったことだろう。とはいえ、代役に立った日本勢も、慣れないロシア語歌詞を何とか克服して、それなりの成果を上げていたことは確かだと思われる。
 
 演奏は、高関健指揮の東京フィルハーモニー交響楽団と新国立劇場合唱団。
 主な歌手陣は、「夜鳴きうぐいす」が三宅理恵(鶯)、伊藤達人(漁師)、針生美智子(料理人)、吉川健一(中国皇帝)、ヴィタリ・ユシュマノフ(侍従)、山下牧子(死神)他。
 「イオランタ」が妻屋秀和(ルネ王)、大隅千佳子(イオランタ)、井上大聞(ロベルト公爵)、内山信吾(ヴォデモン伯爵)、ヴィタリ・ユシュマノフ(エブン=ハキア)、山下牧子(マルタ)、村上公太(アルメリック)、大塚博章(ベルトラン)他。

 私の考えでは、澄んだ声で鶯を歌った三宅理恵、豊かな声でイオランタを歌った大隅千佳子、滋味豊かに死神と乳母マルタとを歌った山下牧子ら、女声陣が気を吐いていたように感じられた。
 男声陣ももちろん頑張っていたけれども、ただし━━男声主役の中には、誰とは言わないけれども、高音が全然出ないのみならず声の不安定なテノール歌手もいて、いやしくも日本の国立歌劇場たるもの、いくら代役でも一定の水準以上の歌手を厳選して貰わなければ日本のオペラ界の発展のためになるまいとまで思わされたのも事実であった。

 指揮の高関健も代役ではあったものの、こちらはオーケストラを巧くまとめていて、「イオランタ」でのチャイコフスキー晩年の色彩感やカンタービレを率直に表出していたと思う。

 今回のプロダクションでは、ヤニス・コッコスの演出・舞台美術・衣装が注目されていた。特に舞台美術にはメルヘン的で色彩的な面白さがあり、皇帝の天蓋の上にのしかかる巨大な死神の不気味な姿など、派手な見せ場を備えていたようだ。ただ、ドラマとしての演技の面ではかなりあっさりしたもので、リアルな設定のはずの「イオランタ」においては、とりわけラストシーンの平凡さには失望させられた。

2021・4・7(水)東京文化会館バースデーコンサート

      東京文化会館大ホール  7時

 60年前の1961年4月、東京文化会館が開館し、その7日に関係者や報道陣を招いての落成記念式典が行われ、ウィルヘルム・シュヒター指揮のNHK交響楽団がベートーヴェンの「エグモント」序曲とバッハの「管弦楽組曲第3番」を演奏した。そして同日夜には一般都民向けの落成披露演奏会が行われ、金子登指揮東京藝術大学音楽部管弦楽部がドヴォルジャークの「新世界交響曲」などを演奏した。

 私はもちろん当時は小童で、そんな所へ入れるような身分ではなかったから、現場にいたわけではない。ただしその1か月後、初来日のバーンスタインとニューヨーク・フィルの「春の祭典」他のコンサートを、一番安い500円のチケット(5階席2列目)を買って聴きに行ったことはあったが━━。

 その東京文化会館が、今日めでたく還暦を迎えたというわけだ。建物の内部も外部も、もちろんホールそのものの雰囲気も光景も、あの頃と比べても鮮度を全く失っていないのは立派なことである。
 今日は私もしばしホワイエや客席を眺めつつ、当時初めてこのホールに足を踏み入れた時の感動を思い出していた。それまでのメインの音楽会場だった日比谷公会堂に対し、この東京文化会館大ホールが如何に宏大で美しい、夢のような世界に感じられたか。それは実に、筆舌に尽くし難いものがあったのである。

 今日はそのバースデーコンサートというわけで、佐渡裕の指揮する東京都交響楽団と、メゾソプラノの藤村実穂子が出演、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲と、「ヴェーゼンドンクの5つの歌」、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」を演奏した。なおアンコールとして、バーンスタインの「ディヴェルティメント」からの「ワルツ」と、ストラヴィンスキーの「グリーティング・プレリュード」が付け加えられた。
 コンサートマスターは四方恭子。

 「マイスタージンガー」前奏曲は、こういう祝典的な場には、まさに打ってつけの曲だ。佐渡は彼らしく都響をフルに鳴らし、大見得切った演奏に仕立て上げた。
 「ヴェーゼンドンク歌曲集」では藤村実穂子の深々とした歌唱が流石の境地を感じさせたが、指揮者とオーケストラとがあんなあっさりした演奏でなく、もっと深みのある音楽でサポートしていれば、いっそうこの曲に相応しい官能的な世界が創り出されていたろうに、と思う。

 「新世界交響曲」の演奏は、力感はあったものの、詩情に乏しい。

2021・4・6(火)カーチュン・ウォン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 シンガポール出身の注目の若手指揮者カーチュン・ウォン(ウォン・カーチュン?)、近年、日本のオーケストラをたびたび指揮して好評を得ている人だが、私はどういうわけかこれまでタイミングが合わず、聞き逃してばかりいた。今回、漸くその本領に接することができた次第である。

 彼が今日指揮したのは、細川俊夫の「瞑想~3月11日の津波の犠牲者に捧げる」、デュティユーの「ヴァイオリン協奏曲《夢の樹》」(ソリストは諏訪内晶子)、マーラーの「葬礼」と「交響曲第10番」の「アダージョ」というプログラム。
 コンサートマスターは小森谷巧。

 これは4月定期で、本来はシルヴァン・カンブルランが振るはずだったのを、彼の来日が果たせなかったため、カーチュン・ウォンが代役で登場したわけである。前半2曲は当初の予定通りのもの、後半の2曲がウォンの選曲によるものだった。

 それにしてもこの4曲、どれもこれも、物凄い濃密さである。
 細川の「瞑想」は、彼の作品としては━━そのテーマに相応しく━━鋭角的で厳しい。長いパウゼを挟んで叩きつけられる大太鼓の轟音は、もしこの日、マーラーの「第10交響曲」が補作版で全曲演奏されていたら、その第4楽章の遠いエコーだったように感じられたかもしれない。
 そしてデュティユーのコンチェルトは、その本来の輝かしさやユーモアを含んだ曲想に対し、諏訪内晶子のシリアスで透徹したソロにより、むしろ突き詰めたような緊迫した演奏となっていた。

 その重量感溢れる前半の2曲に加え、後半はさらにマーラー2曲である。アタッカで切れ目なしに、「対の2曲」という形で演奏されたことは、当を得ていたと言えるだろう。ただ、弦の編成があまり大きくなかった所為もあってか、「アダージョ」の方は澄んだ細身の、室内楽的な音色を感じさせた。
 ウォンのマーラーをこれまで他に聴いたことがないのだが、もしや彼の狙いは、マーラーの持つ後期ロマン派の濃厚な世界の部分を引きはがし、その内側にある鋭角的で清澄な様相を浮き彫りにすることにあるのだろうか。そういう意図があったのなら、この「アダージョ」の演奏は、納得の行くものであった。

 だがしかし、━━「葬礼」の方は、そういうアプローチでは、必ずしもうまく行くとは思えない。マーラーがのちにこれを「復活」第1楽章に転用する際に手を加えた版と違い、良くも悪くも雑多な興奮、怒号、哀愁、悲劇性といったものを感じさせるこの旧版の「葬礼」の方は、そうなると、何か欠点ばかりが目立ってしまうように感じられてしまうのである━━これはあくまでも私の感想だが。

2021・4・3(土)東京・春・音楽祭 ブラームスの室内楽Ⅷ

      東京文化会館小ホール  7時

 加藤知子と矢部達哉(vn)、川本嘉子と横溝耕一(va)、向山佳絵子(vc)が演奏するブラームスで、「弦楽五重奏曲第1番」と「クラリネット五重奏曲」(ヴィオラ版)の2曲からなるプログラム。

 名手たちが集まった「合奏」だから、かりに弦楽四重奏のパートだけ聴いても、長年組んだ常設の四重奏団によるそれとは違って、完璧な緊密性を望むのは無理だろう。だが演奏のさなかに時々「ミューズの神が舞い降りて」(誰かのセリフだ)、美しく溶け合った陶酔的な世界が出現することがある。休憩後に演奏された「クラリネット五重奏曲ヴィオラ版」では、第1楽章の後半や第2楽章のある個所にそういう瞬間が聴かれた。

 ただ、前半の「弦楽五重奏曲第1番」の演奏には少々腑に落ちぬところが多く、第1ヴァイオリン(加藤知子)がもう少し強く自己を主張してもよかったのではないか、と感じられるフシがあった。旋律線が浮き出さず、しかも5人の各パートが混然とし過ぎて、この曲の精緻な声部の交錯が判然とせず、全く別の曲のように聞こえるところが多かったのである。
 第2部での「クラリネット五重奏曲ヴィオラ版」では、そういう問題はすべて解決されていたが。

 客席は市松模様だったが、その範囲内ではよく埋まっていただろう。さすが人気の奏者たちによる演奏会だけある。

2021・3・31(水)東京・春・音楽祭「子どものためのパルジファル」

  三井住友銀行東館ライジング・スクエア1階アース・ガーデン 6時30分

 正確には「東京春祭for Kids 子どものためのワーグナー《パルジファル》(バイロイト音楽祭提携公演)」という名称。

 今年の音楽祭の目玉公演の一つ「パルジファル」本公演は、新型コロナ対策によるメイン・アーティスト来日不可のため惜しくも中止になったが、付随して開催される「子どものための」は予定通り5回開催されている。今日は第3日。このあとは4月3日と4日に公演が行われる。場所は大手町の三井住友銀行東館ロビーの特設会場。

 「パルジファル」は、もともと子供が観るようなオペラではない(見ちゃダメ、の類かもしれない)。
 しかも演出が過激を売り物のバイロイトの総帥カタリーナ・ワーグナー女史(今回はオンライン演出)となれば、ますます危ないものになりそうに思われるが、そこはそれ、子供向けとあって実に愛らしい舞台。
 愚かで純粋無垢な若者パルジファルは、魔人クリングゾルをやっつけて聖槍を取り戻し、めでたく聖杯の国の王様となり、永く国を治めましたとさ、というストーリーをシンプルに解り易く描き出した。

 上演時間を休憩なしの70分ほどにまとめ、音楽を要領よく抜粋し、ドイツ語歌詞で歌いつつ、要所に日本語のセリフを入れて物語を繋ぐ。登場人物は原作通りの役柄で、仮設ステージで衣装を着けての演技。第2幕の「魔法の花園」の場面はマンガチックなお菓子の世界とし、デーモン閣下ばりの扮装をしたクリングゾルが暴れ回るという設定に仕上げた。クンドリの役割は著しく薄められているが、子供のための物語仕立てだから、作品の哲学的な意味合いは切り落とされても致し方なかろう。
 オーケストラ(東京春祭オーケストラ)は、指揮の石坂宏とともにステージのずっと上手側に位置し、小編成ながら強大な音で音楽を響き渡らせる。

 観客は、前面に家族連れが床にクッションを敷いて並び、その後ろの壁際の椅子に評論関係と取材陣という具合で、ソーシャル・ディスタンス配置のため全体数は必ずしも多くはなく、オーケストラとキャストを合わせた人数とどちらが━━という状態ではあったが、それでも演技と演奏が真摯に繰り広げられていたことは讃えられてよい。
 子どもの目から見てどうだったかは定かでないが、大人の目から見ても、総じてよくまとまった面白いプロダクションだった、と言ってよいだろう。以前の「さまよえるオランダ人」などよりは、比較にならぬほど丁寧に仕上げられている。いっとき楽しめた上演であった。こういう「抜粋上演」は、形式はどうあれ、オペラ普及のためにも、もっと見直されてもいいだろうと思う。

 歌手陣は━━片寄純也(パルジファル)、斉木健詞(グルネマンツ)、大沼徹(アムフォルタス)、友清崇(クリングゾル)、田崎尚美(クンドリ)、河野鉄平(ティトゥレル)、横山和美・金持亜実・首藤玲奈・江口順子(魔法の乙女たち)という顔ぶれで、みんないい。他に助演者たち。
 なお編曲はマルコ・ズドラレク、オリジナル演出はトリスタン・ブラウン(2015年バイロイト)の由。

2021・3・30(火)東京・春・音楽祭 菊池洋子の「ゴルトベルク変奏曲」

      東京国立博物館 平成館ラウンジ  7時

 東京・上野を中心に開催されている恒例の「東京・春・音楽祭」。その一環としての「東博のバッハ」シリーズ、vol.53は、菊池洋子がピアノで演奏するバッハの「ゴルトベルク変奏曲」だった。
 東京国立博物館の建物の一つ「平成館」の、広いロビーのような場所にピアノを据え、それを半円形に囲むような形に数十の椅子を並べて、少人数の親しみやすい雰囲気の中にバッハを聴く、というコンサートである。

 菊池洋子さんの演奏は、モーツァルトをはじめとしてこれまでにもたびたび聴いてはいるが、彼女のバッハを聴くのは今回が初めてかもしれない。
 今日の「ゴルトベルク変奏曲」は、速めのテンポによる、目覚ましい推進力と気魄とを備えた演奏だ。例のカイザーリンク伯爵の「眠れぬ夜のために」の伝説が必ずしもあてにならぬと見なされる当今、こういう演奏解釈も面白い。

 30の変奏が、その流れの中で何度か起伏を繰り返し、そのたびごとに音量と力を増して行くような構築。第29変奏における嵐のような(ちょっとリスト的なほどの)昂揚は、第30変奏の「クォドリペット」に入ってもなおその勢いを持続してやまず、最後の「アリア・ダ・カーポ」に入るや初めて音楽が落ち着きを見せ、過ぎ去ったドラマを回想するようにエピローグを語りつつ消えて行く━━という具合。
 音量の面でも強靭な、骨太のバッハに感じられたのは、会場と、ピアノと、われわれの聴く位置との関係の所為かもしれない。

 8時20分頃終演。上野公園は見事なほど満開の夜桜に彩られて美しいが、花見客はほぼ皆無で、所々でスケボーの若者たちが騒いでいる以外は、むしろ寂しい雰囲気だ。こうなると上野公園は実に宏大に感じられる。

2021・3・28(日)高関健指揮富士山静岡交響楽団

      静岡市清水文化会館マリナート  2時

 厳密にいえば「富士山」の入った楽団名は4月からのものなのだが、オーケストラはすでにこの名称で今日の印刷物を作成している。ただし英語名はMt.Fuji Philharmonic Orchestraだそうで、そこにShizuokaの文字は無い。

 とにかく、昨年11月に浜松フィルハーモニー管弦楽団と「合体」(事実上の吸収?)し、4月の楽団名変更と同時に高関健氏を初代首席指揮者に迎えるという体制で、この楽団も今や意気天を衝く勢いである。新シーズン(4月~2022年2月)における定期公演は8回(うち3回は浜松公演も加わる)、特別演奏会は7回(1回は浜松公演も)というから、活動も本格的だ。
 コンサートマスターは藤原浜雄。メンバーは当面フリー中心との話だが、追々体制も強化されて行くことだろう。

 今日はその高関健の指揮で、清水銀行の提供による「名曲コンサート」である。プログラムは、モーツァルトの「パリ交響曲」、テレマンの「トランペット協奏曲ニ長調」(ソリストは守岡未央)、ベートーヴェンの「第7交響曲」。

 高関は一昨日シティ・フィルの定期を指揮したばかりだし、こちら静岡響とは練習時間も充分でなかったはずだが、オーケストラの演奏に溢れる壮烈な勢いがそれを補っていた。 「パリ交響曲」での演奏など、昂揚感においてはこちらの方が勝っていたかとさえ思われる。
 そしてなお高関は、「パリ交響曲」の第2楽章の美しい「第2稿」をアンコールとして最後に演奏するというサービスを、ここ清水では披露していた(これはシティ・フィル定期でもやってもらいたかったアイディアだが、あのショスタコーヴィチの「8番」で燃焼したあとでは、さすがに無理だったのであろう)。

 次のテレマンの「トランペット協奏曲」では、この楽団のメンバーでもある守岡未央が手堅い、しかし鮮やかなソロを聴かせて聴衆を沸かせた。アンコールとして吹いた「メサイア」の一節もなかなかいい。━━ただ、余計なことで失礼ながら、演奏が上手いから敢えて言うのだが、衣装はもう少し「クラシックの演奏会」っぽい(?)雰囲気のものにした方がよろしいのでは?

 ベートーヴェンの「7番」は、仁王の如く逞しい、力感たっぷりの熱演だ。第1楽章の結尾など、これほど力のこもった終結を日本のオーケストラから聴いたのは初めてかもしれない。全ての反復を忠実に行い、速いテンポと骨太な響きで轟然と押す。その熱気はいい。ただし細部の仕上げは必ずしも丁寧とは言えなかったが、これはマエストロにとっては二の次の問題だったのかもしれない。
 ひとつ難点を言えば、第4楽章で━━1階18列ほぼ中央の席で聴いた限りでだが━━12型編成の弦楽器群が、強大な音を響かせる管楽器群に打ち消され、旋律的な要素を失わせた個所が多かったことは、些か疑問を抱かせられた所以である。

 前述の「パリ交響曲」第2楽章によるアンコールを含め、3時50分頃終演。
 危惧された「春の嵐」は幸いに来ず、小雨がぱらつきながらも天気が「もった」ことは祝着だ。このホールは、屋根付きの回廊が清水駅まで繋がっているので、余程の嵐がすぐ傍の駿河湾から吹き付けたりしない限り、傘をさして歩く必要はない。普段ならすぐ目の前に本物の富士山の堂々たる姿を拝めるところなのだが、今日は厚い雲に覆われて何も見えなかったのが残念。

2021・3・27(土)井上道義指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 新日本フィルの演奏会の2時間後、東京交響楽団の定期では、井上道義の客演指揮により、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第6番」が演奏されたが、これまたすこぶるエキサイティングな演奏であった。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 ピアノ協奏曲のソリストには、当初予定されていたネルソン・ゲルナーの来日中止を受け、北村朋幹が登場。「4番」冒頭のソロを「テンペスト」ばりのアルペッジョで開始するという凝った手法で開始(これ、誰だったかが昔やっていた手だが)、カデンツァも含めて極めて個性的な、挑戦的な演奏を披露してくれたのが面白い。
 彼は、わが国の若手ピアニストの中でもユニークな個性の持主だ。外国人奏者が来日できなかったためにこういう日本の若手に活躍の場が与えられたことはかえって幸いだったであろう。綺麗な澄んだ音色が印象的だが、アンコールで弾いたシューマンの「春の歌」も、実に澄み切った表情だった。

 後半は、井上が得意とするショスタコーヴィチ。この「第6交響曲」も、甚だ強烈な演奏だ。昨夜の高関とシティ・フィルによる「8番」といい、今日のこれといい、2夜続けてこんなダイナミックなショスタコの交響曲を聴けるとは、東京の音楽界も凄いものだと言わねばなるまい。
 抑制された曲想の裡に緊迫感が充分に保たれていた第1楽章、慌ただしい動きの中で弦楽器群が美しい音を垣間見せた第2楽章。そして第3楽章は、細部も定かならざるほどのティンパニの大暴れの強奏の裡に、熱狂と狂乱とで幕を閉じた。

 井上道義の指揮も実に鮮やかだったが、オーケストラも好調だったため、演奏が目覚ましい盛り上がりを示したのも当然であろう。しかし━━考えてみれば、井上も確か今年で75歳になるはずでは? あの躍るような指揮の暴れっぷりたるや、驚くべき体力ではある。
 客の入りがいい。

2021・3・27(土)鈴木秀美指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  2時

 ベートーヴェン・プロで、「三重協奏曲」と「交響曲第5番《運命》」。
 協奏曲のソリストは、楽団ソロ・コンマスの崔文洙(vn)、同首席チェロの長谷川彰子(vc)、文洙の兄の崔仁洙(pf)。コンサートマスターは西江辰郎。

 「三重協奏曲」は、ソリストたちの伸びやかなソリで、彼らのアンコールの「街の歌」第2楽章とともに寛いで聴けた。
 だが、何といっても今日の白眉は「第5交響曲」だろう。極度に鋭角的なアクセントと強烈なデュナーミクを備え、ハリネズミのように全身の毛を逆立てた「第5」。

 スコアの全ての音符にいたるまで微細に神経を行き届かせた鈴木秀美の演奏構築は見事なものだったが、ただその速いテンポの中でそれを完全にこなすのは、オーケストラにとっては至難の業だったであろう。とはいえ、こういうタイプの演奏の場合、かのガーディナーにせよブリュッヘンにせよ、オーケストラを完全に鳴らし切るところまではやれなかったのだから、仕方のないところなのかもしれない。
 いずれにせよ、日本のオーケストラがピリオド奏法で演奏した「5番」の中で、これは飛びぬけて鋭い「5番」だったことは、間違いない。

 第3楽章295小節以降のホルンの「運命のモティーフ」があれほどはっきりと聞こえたのも、ナチュラルホルンが使用されていたためだろう。なおこのナチュラルホルン、第4楽章コーダの、あの跳躍音程の個所を除けば、見事な演奏だった。
 その第4楽章も強大で立派な風格を備えて響いていたし、全曲にわたり厳しく統一された構築の、緊迫感の豊かな、極めてエキサイティングな「運命」であった。
 最近の鈴木秀美の指揮は凄い━━という口コミは的を射ている。今日の演奏では、彼の本領を垣間見たような思いにさせられた。また新日本フィルの挑戦的な姿勢も好い印象を残した。

 そして更に特筆すべきは、今回の「5番」は、あのギュルケが校訂して話題になった第3楽章の反復を復活させた稀有な例だったことである。

 アンコールは、ベートーヴェンの「12のメヌエット集」からの「第11番」だったが、しかしこれは━━この曲の性格からして、いくら何でも激し過ぎたのではないか?

2021・3・26(金)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      サントリーホール  7時

 常任指揮者・高関健の指揮による3月定期。
 当初はヴェルディの「レクイエム」がプログラムに組まれていたが、飛沫感染予防のため、大合唱の出る作品の演奏が避けられてしまった。
 だが、この代替プログラムもいい━━モーツァルトの「交響曲第31番ニ長調《パリ》」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」である。高関の真摯で手堅いアプローチと、シティ・フィルの熱演により、見事な演奏となった。

 「パリ」は、オリジナルのアンダンテ楽章を使用し、編成を比較的大きくしての、祝典的な性格を打ち出した演奏。この曲はやはりこういうスタイルで豪華に演奏された方が面白い。

 そして休憩後の、ショスタコーヴィチの「8番」は、まさに渾身の快演であった。オーケストラは弦14型編成だが、絶叫と咆哮の音量は物凄い。この曲に籠められた絶望的な感情とでもいったものを抑制することなく、狂乱的に爆発させた演奏とでもいうか。特に全管弦楽が疾走する第3楽章での演奏は凄絶で、前楽章からアンサンブルのバランスを整え始めていたシティ・フィルが、ここでは見事な力を発揮して行った。

 第5楽章の結尾は予想外に淡々としていて、所謂悲劇的な、白々とした空虚感を滲ませた演奏にはならず、何かしら未来への希望を漂わせたような終り方になっていたのは、高関の解釈だったのか。
 終結近く、チェロのソロが出る直前に首席チェロの弦が切れ、楽器を変えるために僅かな休止が取られたことが演奏の雰囲気を変えてしまったような感もあるが━━しかし、この第5楽章へアタッカで入った瞬間、演奏に表現されていた一種の光明感が印象的だったから、やはり今日は「悲劇と絶望感からの解放」が幕切れのコンセプトだったのかもしれない。
 この辺はマエストロに訊いてみないと判らないけれども、私はただ自分が聴いた印象だけを正直に書いておく。とにかく、いい演奏だった。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 シティ・フィルは、来シーズン(6月から)の定期演奏会を、また東京オペラシティコンサートホールに戻す。高関健と、桂冠名誉指揮者の飯守泰次郎、首席客演指揮者の藤岡幸夫、ほかに下野竜也らも登場する。
 その前に、5月には飯守泰次郎の傘寿記念として「ニーベルングの指環」ハイライト演奏会が外国の名歌手たちを招聘して予定されていて、何とか予定通りの陣容で開催されるといいが━━。

2021・3・25(木)小曽根真60TH BIRTHDAY SOLO

     サントリーホール  7時

 ホールの正面入り口近辺は、私などが入っていいのかと思うような雰囲気。客席は圧倒的に女性客ばかり。もちろん、男性客もチラホラとは居るけれども。それに、サントリーホールがこれほど満席近い状態になっているのを私が見たのは、昨秋のウィーン・フィル以来だ。

 主催がヒラサ・オフィスおよびJ-WAVEとなっている。ふだんクラシックの室内楽やリサイタルの主催を中心に活動している平佐素雄さんの事務所が、こういう方面のコンサートをも主催し、しかも満員にしている、ということを、私は不勉強にして、今まで全く知らなかった。

 配布されたパンフレットの表紙には「CLASSIC×JAZZ」と記載されており、CLASSICを見事にJAZZ化させたものも含まれている。私はその方面のテリトリーには疎いので、専ら彼の美しい、千変万化で変幻自在のピアノに快く耳を澄ませるのみ。
 9時過ぎ終演、客席は総立ちのオヴェーション。

2021・3・20(土)大井剛史指揮群馬交響楽団

    高崎芸術劇場大劇場  6時45分

 ロビーの窓際の高い椅子に掛けて開演を待っていると、何故か椅子が急にグラリグラリと揺れ始めた。貧乏ゆすりは私の昔からの悪癖だが、やってはいないはずだし・・・・と周囲を見回すと、皆がきょろきょろしながら顔を見合わせたりしている。これが6時10分頃のこと。高崎ではその程度で済んだわけだが・・・・。

 群響の第566回定期演奏会は、大井剛史の客演指揮で、マーラー編によるシューマンの「マンフレッド」序曲と、マーラー自身の「交響曲第6番《悲劇的》」。コンサートマスターは前者が群響の伊藤文乃、後者が客演の福田俊一郎。

 大井剛史がこういう大きなシンフォニーを指揮するのを一度聴いてみたい、と以前から思っていた(彼が滅多に振らないからだ)。しかも今回はマーラー版の「マンフレッド」などという珍曲がプログラムに入っているし、それにこの新しい大きなホールで大編成の群響の音を聴いてみたい━━などという興味に駆られ、サントリーホールでの都響公演が終ってすぐにこちらへ駆けつけた次第である。
 そして、来た甲斐は充分にあった。

 シューマンの「マンフレッド」序曲のマーラー版というのは初めて聴いた。楽曲の構築はそのままに、楽器編成と各パートに少し変更を加えたシロモノだ。度肝を抜かれたのは、曲の冒頭にシンバルの一撃が入るという、途方もない改変である。シンバルはそれ一度だけだが、これがその後の曲中で本当に必然性を証明したかどうか、かりにそれを探し出しても、所詮はこじつけの範囲に留まる程度のものだろう。マーラーは、指揮者としては古今独歩の名匠だったかもしれないが、相変わらず余計なことをするお人である。シューマンにはシューマンの、独自の魅力的な芸風があるのであり、他人が口を挟む筋合いはない。

 他人の作品でなく、自作でやりたい放題やるのなら、大いに結構だ。休憩後はそのマーラー自身の長大な「第6交響曲」。何度聴いても物凄い曲である。今回は第2楽章に「アンダンテ・モデラート」の楽章を置き、第3楽章にスケルツォを持って来る配列が採られた。第4楽章のハンマーは2回。

 大井剛史の指揮は、何の外連もない、率直で真摯なものだ。マーラーが総譜に書き込んだ事細かなテンポや表情の変化の指示などをさほど強調しないので(少なくともそのように聞こえる)、所謂神経質なマーラー像にはならないが、作品自体が図抜けて雄弁な性格を持っているので、そうした指揮もいい方に生きて来る。少なくともこの演奏は、前半の「マンフレッド」よりは遥かに成功していただろう。
 そういう意味では、彼の指揮は作品によって向き不向きが生じるだろうが、いずれにせよ真正面から作品に取り組んでいる姿勢はいい。

 大井は、基本的に速めのテンポで、ひたすら押しに押す。この曲のエネルジーコな性格を充分に発揮させた演奏である。特にリズム感がいいので、聴いていると快いほどである。
 ただ、欲を言えば、勢いに乗ってオーケストラを咆哮させるのも結構だが、長大な音楽の構築の中に、大きな起伏感がもっと欲しい。第4楽章など、這い上がっては打ちのめされる「英雄」の、その昂揚感と絶望感、狂乱と沈潜━━といったような対比が更に浮き彫りにされて欲しかった。だが、その第4楽章の何個所かで、彼がオーケストラから引き出していた、温かく柔らかい響きには、はっとさせられた。
 シンフォニーでの彼の指揮は誠実で、造りも丁寧だし、作曲家や作品にもよるだろうけれども、基本的には結構いいのではないかと思われる。他のレパートリーも、いろいろ聴いてみたいところだ。

 群響は、この新しい、空間的にもたっぷりと余裕のあるホールを得て、大編成のシンフォニーをも楽々と響かせる余裕を感じさせるようになった。今日は第1ヴァイオリンにもう少し人数が欲しいところだったが、コントラバスが強力で、重心もしっかりしているので、響きの安定感という点では問題なかったと思われる。1階17列18番の席で聴いた限り、全体は極めてバランスの良い音に聞こえた。

 あの旧い音楽センターだったら、今回のような豪壮雄大な音響は望むべくもなかったろう。群響はいいホールを得た。今後はレパートリーもいっそう多彩になって行くだろうし、群響自体の「音」も変わって行くだろう。ホールも竣工からまだ日も浅く、音も少し硬めだが、これから鳴らし込むにつれて音はだんだん温かくなり、数年経てば更にいい味が出て来るはずである。

 8時45分終演。9時台半ばに来た北陸新幹線に飛び乗って帰京。東北新幹線が運転見合わせになっていたことを知ったのはその時になってからだった。

2021・3・20(土)鈴木優人指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  2時

 つい先日、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した鈴木優人━━今やまさに破竹の進撃といった感だが、今回は都響に客演。指揮したのは、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲にプーランクの「ピアノ協奏曲」(ソリストは阪田知樹)、ラヴェル編曲によるムソルグスキーの「展覧会の絵」という、統一の取れたプログラムだった。

 彼のフランス近代ものを聴くのは、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」(→2015年11月1日)と「峡谷から星たちへ」(→2020年10月6日)に次いで、多分これが3度目だ。
 こちらが勝手に予想していたよりは端整なアプローチで、「マ・メール・ロワ」など、もう少し優美で官能的な色彩感があってもいいように感じられたのだが、こういう「のめり込まない」ラヴェル解釈が彼の持ち味なのかもしれない。ただ、今回は彼と都響との相性がある種の作用を生んでいたのかもしれないし、早計な判断は慎もう。

 だが、「展覧会の絵」のように明らかな標題性を持ち、それもかなりこれ見よがしの色彩感を満載した音楽の場合には、やはりそれに相応しい、劇的な描写をも折り込んだ演奏でないと、この曲の面白さは味わい難いのではないか。
 冒頭のソロ・トランペットがいつになく演歌調の音色で━━まるで園まりの「夢は夜ひらく」のイントロのような━━演奏を開始した時には、これは何か途方もない試みをやる気かなとびっくりしたが、それも忽ちシリアスなスタイルに納まってしまった。
 都響(コンサートマスターは山本友重)が弦16型編成で轟かせた音響が久しぶりの威力を感じさせたのは確かだったが。

 プーランクの協奏曲では、阪田知樹がちょっと洒落た音色と表情でソロを弾き始めたのはよかったが、あまり洒落た表情でない指揮とオーケストラの音に消され気味になり、この曲のウィットが充分に感じられない結果となったのは惜しい。阪田がアンコールで弾いたプーランクの「トッカータ」の方が自由な感興があって、面白かった。

 終演後、高崎行きの新幹線に乗るために、東京駅へ向かう。

2021・3・17(水)太田弦指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 「2021都民芸術フェスティバル」のオーケストラシリーズ最終日。大阪響正指揮者・太田弦(27歳)の客演指揮で、シューマンの「ピアノ協奏曲」(ソリストは伊藤恵)及びリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。コンサートマスターは木野雅之。

 コンチェルトでは、シューマンを得意中の得意とする伊藤恵が伸縮自在の演奏を披露。特に第1楽章では、あたかも音楽に言葉が付いているかのように、何かを独白的に語り続けるようなテンポとエスプレッシーヴォでソロを繰り広げた。若い太田弦もよくこれに付けて行ったと思われる。
 ただ、オーケストラがいかにも不愛想で野暮ったく、例えば各フレーズの終りを投げ遣りのような形で結ぶといった演奏をするのには、何とも耐え難い思いをした。リハーサル不足の感も覆い難いが、インキネンやラザレフが引き締めないとすぐこういう荒っぽい演奏に戻ってしまうのが日本フィルの悪い癖だ。

 だが、「シェエラザード」の方は、こちらは重点的にリハーサルを行ったのだろう。
 太田弦の指揮はかなり凝った、細かく神経を行き届かせたもので、冒頭のように総休止を長く採り過ぎて緊張感を薄めさせたのを除けば、全体に流れも良く、この作曲家特有の主題の執拗な繰り返しにおいても単調に陥らず、多彩な変化を持たせつつ演奏を盛り上げるという手腕を示していた。

 そして日本フィルも、例えば第2楽章でのファゴットのソロや、トランペットトロンボーンの掛け合いの個所、第3楽章でのチェロなど、すこぶる表情豊かに応じていた。本気になればこのような演奏も軽々とやってのけるオーケストラなのだということ。第4楽章での大暴れ的な咆哮はこの楽団のお家芸だ。それは如何にも洗練とは程遠いものだが、良くも悪くもこれが日本フィルのカラーと謂うべきだろう。

 若い太田弦の指揮を聴いたのは、私はこれが4度目になる。初めて大阪響との「第9」を聴いた時にはあまりに几帳面で生真面目過ぎるのに些か失望した(→2019年12月27日)が、新日本フィルとの「ザ・グレイト」(→2020年7月18日)では打って変わった勢いのいい、若者らしい気魄に富んだ指揮に驚かされたものだ(※)。
 そのあとの山響客演(→2020年10月10日)は曲目が特殊だったので別として、今回の「シェエラザード」を聴くと、彼もやはりヴィヴィッドな音楽性を備えた指揮者なのだということが判ったような気がして、楽しくなった。これでオーケストラの音色やアンサンブルを充分に制御できるようになればと思われるが、それは今後を待つことにしよう。

(※)これはエクストンからCDで出た(OVCL-00742)が、その特徴がはっきりと聴き取れる。

2021・3・14(日)小泉和裕指揮名古屋フィルの東京公演

       サントリーホール  2時

 緊急事態宣言下の東京に、名古屋フィルハーモニー交響楽団が、新型コロナに屈せずとばかり乗り込んで来た。音楽監督・小泉和裕の指揮で、ブラームスの交響曲「第4番」と「第1番」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターは首席客演コンマスの荒井英治。

 小泉和裕の指揮を初めて聴いてから、もう46年になる。
 カラヤン国際指揮者コンクールに優勝したのち、凱旋して新日本フィルの音楽監督になったのが1975年、その1月23日に彼が定期デビューし意気天を衝く指揮を披露、それを録音しFMで放送した日のあれこれを、つい昨日のことのように覚えている。
 1976年にザルツブルク音楽祭にデビューし、当時ウィーン・フィルを指揮した最年少(27歳)指揮者として話題を集めた頃から彼の指揮の特徴が確立されはじめたように思うのだが、どうか。

 余談だが、彼がそのウィーン・フィルを振った前夜には、小澤征爾さんがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮して大成功を収めており、小泉さんが終演後にホイリゲで「よりにもよって小澤さんの翌日に僕が振るなんて、どうしても比較されてしまうじゃないの」とぼやきまくっていて、それに対し私が何だか奇妙な激励をしたことも、鮮明な記憶となっている。

 そのマエストロ小泉の指揮。今日のブラームスの、特に「第1番」の第1楽章などは、彼のその芸風がベストな形で顕れた一例ではなかったか。低音に重心が置かれた音響構築、密度の高い厚みのある響き、霧のような陰翳を伴った音、「ソステヌート」というスコアの指定に従って音符の長さを充分に保った演奏など、所謂伝統的なブラームスのスタイルを打ち出した指揮には、ある種の説得力がある。全く衒いのない、ストレートで率直なブラームスだ。こういう指揮は、彼は実にうまい。
 手練手管の解釈を織り込んだブラームス演奏も少なくない当節、このような飾り気のないブラームスを、自信満々守り抜いている指揮者の存在は貴重である。

 名古屋フィルも、この重厚壮大なブラームスを見事に再現した。このオケも、初めて聴いてから49年になるか。1972年の4月だったか、時の常任指揮者・福村芳一に率いられての初の東京公演をやはりFMで放送したが、あの時もブラームス(第2交響曲)だったような。しかし今はもう、演奏のスケール感が全然違う。

2021・3・13(土)山田和樹指揮読売日本交響楽団&清水和音

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 「土曜マチネーシリーズ」で、コープランドの「エル・サロン・メヒコ」、ガーシュウィンの「へ調のピアノ協奏曲」(ソロは清水和音)、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ第9番」、レスピーギの交響詩「ローマの松」。コンサートマスターは長原幸太。

 去る9日の演奏会と同様、賑やかな曲が多く、山田和樹も読響を存分に鳴らしたが、今日はオーケストラの響きもまとまっていて、壮麗感があふれていた。打楽器が必要以上に自己を主張しすぎることもなくて聴きやすかったが、これはあるいはホールの空間の巨大さが好ましく作用していた故かもしれない。
 「ローマの松」のクライマックスでの壮大な音響など、この会場だったからこそ生きたと思われる。この「アッピア街道の松」におけるバンダは、客席ではなくステージ上に分散して配置されていたが、それは聴衆にとっても実に有難いことであった。

 一方、今日のプログラム中、唯一の弦楽合奏のみによる作品として、起承転結の役割を効果的に担っていた「ブラジル風バッハ」は、それでもかなり強靭な音で演奏されたが、ここでは読響の弦がブリリアントな表情をつくり出していた。

 前半の2曲のアメリカ作品━━「エル・サロン・メヒコ」の色彩感もいい。また小耳に挟んだところでは、清水和音は今回がこの「へ調のピアノ協奏曲」への最初の挑戦だった由。シリアスなスタイルだったが、それはそれでひとつの考え方であろう。

2021・3・12(金)辻彩奈ヴァイオリン・リサイタル

     紀尾井ホール  7時

 阪田知樹のピアノとの協演で、前半にモーツァルトの「ソナタ変ホ長調K.380」とベートーヴェンの「ソナタ第7番ハ短調作品30の2」。後半は最初に権代敦彦の「Post Festum~ソロ・ヴァイオリンのための 作品172」がソロで演奏され、その後再び阪田とのデュオによるフランクの「ソナタ」で結ばれた。
 アンコールはサティの「偽善者のコラール」とパラディスの「シチリアーノ」。

 阪田知樹のピアノが━━もちろんフタを開いた状態で━━すこぶる宏大な音量で響き渡るので、少なくとも2階正面で聴いている範囲では時にヴァイオリンがマスクされてしまう傾向もあったが、デュオとしての音楽の多彩さという点では、充分なものがある。
 とりわけフランクのソナタは圧巻で、今日は流麗さがひときわ目立っていた彼女の主張の明確なソロと、その背景に大海の如く拡がる阪田の雄弁なピアノとが、絶妙な世界をつくり上げていた。力まず、熱演型に陥らず、しかも流れるように伸びやかに歌い上げる辻彩奈のソロは、この若さ(1997年生れ)とは思えないほどの落ち着きを感じさせる。

 無伴奏で演奏された権代敦彦の「Post Festum」は、作曲者自身のProgram Noteによれば(「祭の後」という意味だとかで、小品3つからなり、元来はそれぞれアンコールとしても演奏できる仕組みの由。例えばシベリウスやチャイコフスキー、ブラームスなどの協奏曲を弾いた後にこの何曲目を━━といったジョーク交じりの解説がついているのも面白い。
 今日はその3曲がまとめて演奏されたが、多様な奏法を駆使して多彩な音の変化を繰り広げるさまが実にスリリングな緊迫感を生み出していて、面白かった。辻彩奈が委嘱した曲だっただけに、すべて暗譜で演奏していたのは流石である。

2021・3・11(木)新国立劇場「ヴァルキューレ」初日

       新国立劇場オペラパレス  4時30分

 ゲッツ・フリードリヒ演出、飯守泰次郎の指揮で制作された新国立劇場の2つめの「ニーベルングの指環」(ヘルシンキ国立歌劇場のプロダクション)からの単独上演。この「ヴァルキューレ」は2016年10月2日にプレミエされたものだ。

 今回の再演でも飯守泰次郎の指揮が予定されていたが、病み上がりのため長時間の指揮が不可能となり降板、またアイン・アンガー、イレーネ・テオリン、エギルス・シリンスら外人勢主役陣もコロナ禍による入国制限のため来日不可となった。
 とはいえ、指揮には新国立劇場オペラ部門芸術監督・大野和士が直々に出馬し(最終回/5日目のみは城谷正博が指揮)、ヴォータン役にはミヒャエル・クプファー=ラデツキーを迎え、ブリュンヒルデには池田香織、ジークリンデには小林厚子を起用して、しかもフリッカ役の藤村実穂子は予定通り━━という布陣で切り抜けられたことは幸いである。

 唯一、ジークムントのみは代役がなかなか決まらず、10日ほど前になって、第1幕が村上敏明、第2幕が秋谷直之という変則的な分担で歌われることになった。これが今回の歌手陣の唯一の問題点だったが、馬力のある福井敬がびわ湖ホールでローエングリンを歌ったばかりだし、日本にはヘルデン・テナーあるいはテノール・ドラマティコが少ないという現状を物語るものとして、当面は仕方がないのかもしれぬ。

 大野和士が指揮するワーグナーを聴く機会はめったにない。全曲上演では新国立劇場での「トリスタン」(→2010年12月25日、東京フィル)、抜粋では「ヴァルキューレ」第1幕を含む名曲もの(→2013年6月27日、九州響)などがその希少な例で、それだけに貴重な機会だったわけだ。
 だが今回の東京交響楽団を指揮した「ヴァルキューレ」は、それらいずれの演奏ともスタイルが異なっていて、驚いた。ティンパニをはじめ、総じて叩きつけるようなフォルティッシモが目立ち、この作品に特有な壮大感と叙情性の融合よりも、むしろデュナーミクの対比の構築に重点を置いたような演奏に思えたのである。

 それを筋肉質の演奏というには、オーケストラの響きがあまりに乾いていて、しかも重量感の皆無な薄い音に過ぎた。「ヴァルキューレの騎行」など、何かオーケストラがやけっぱちに喚いているようで、どうにも騒々しい。最強奏の中で、重要なライト・モティーフが埋もれてしまった例もいくつか聴かれた。
 せめて膨らみと詩情と潤いがあれば、もう少し「ヴァルキューレ」の音楽の美しさを味わえたろうに、と思う。ただ、最大の長所は、全曲にわたって弛緩したところが一つもなかったことだろう。

 歌手陣でいえば、長身で見栄えのするクプファー=ラデツキーは、ヴォータンとしては細身で神経質な神というイメージだが、最善を尽くしていたのだろうし、悪くない。
 藤村実穂子は、短い出番ながら滋味ある歌唱で、かつてバイロイトの常連だったころに比べ声は少し軽くなったかもしれないが、正論を貫く女神フリッカとしての貫禄を充分に発揮してくれた。彼女の存在が、今回の再演の舞台を引き締めていたことは誰しもが認めるところであろう。

 ブリュンヒルデを歌い演じた池田香織は今回も絶好調で、ヴォータンの「愛する娘」としての性格を見事に表現した。今やわが国の貴重なワグネリアン・ソプラノとしての存在になっていることは間違いない。
 ジークリンデの小林厚子は幕を追うに従って調子を上げ、第3幕での悲劇の母としての女性を熱唱した。
 フンディングの長谷川顯は、こういう役はもともと巧い。ただし衣装と演技の所為もあってか、何となく農夫然として見えるのは、この役柄とは些か解釈を異にするのではないか。

 問題のジークムントだが、村上敏明はかなりプロンプター(彼の時だけその声がやたら大きく聞こえた)に助けられていたようだが、肝心の「ヴェルゼ!」で声がぐらついたことを除けば、よく切り抜けたと思う。この一連の公演を通じて、新しいものをつかんで欲しいものである。秋谷直之も同様、最初はイタリア・オペラ的な声と身振りが気になったが、声には張りがあるから、頑張ってもらいたい。

 ヴァルキューレたちは佐藤路子、増田のり子、増田弥生、中島郁子、平井香織、小泉詠子、金子美香、田村由貴枝という顔ぶれだが、こちらはちょっと━━オーケストラの咆哮に煽られたか、かなり慌ただしい(もともとそういう役柄だったとしてもだ)歌と動きのままで終ってしまった印象もある。

 舞台は、前回観た時にはあまり印象に残らなかったのだが、今回の再演をじっくり観てみると、結構よく出来ているではないか、という感がする。第2幕決闘の場面で舞台装置が一回転する趣向、「魔の炎」の中途半端な拡がり方、前回はどうだったっけか? 

 それよりも今回は、演技が結構細かく設定されているな、ということに気がついた。ジークムントが斃れた後にヴォータンが歩み寄って彼を抱き、悲嘆にくれるという演出は、私は気に入っている。ブリュンヒルデの処罰について、ヴァルキューレたちが父ヴォータンに異議を申し立てようとする身振りを盛んに示していた解釈も面白い。
 ただし衣装のうち、第1幕のジークリンデがドイツ料理店のおばさんのよう、ブリュンヒルデの服装が空手の試合着のようで、あまり神話ドラマ的な趣味とは思えなかったことは、前回に同じ。

 休憩時間は40分と35分で、終演は9時50分頃。総計5時間20分の長丁場の上にスナック・カウンターも閉じられているので、「水と非常食」は各自携帯していた方が無難だろう。最初の休憩時間には(チャイコフスキーのバイロイト訪問記での表現を借りれば)「観客は大波のように」劇場外へと流れ出て、コンビニなどそれぞれの場所へ何がしかの調達に向かっていた。当節、こういう長いオペラを観る時には、こちらも装備が必要だ。

2021・3・9(火)山田和樹指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 リストの交響詩「前奏曲」、R・シュトラウスの交響詩「死と変容」、ニールセンの「交響曲第4番《不滅》」というプログラム。コンサートマスターは小森谷巧。

 先週の定期と違い、こちらは「名曲シリーズ」だが、選曲が面白い。
 つまり、ラ・マルティーヌの「人生は死によりその厳粛な第一音を奏でられる未知への前奏曲にあらずして何ぞ」という詩に基づく「前奏曲」のあとに、大正時代には「死と成仏」とまで訳されたことのある「死と変容」(「死と浄化」)が続き、そして「不滅」で終るという━━何か三題話みたいなこの配列。
 ヤマカズさんのアイディアか、事務局のアイディアなのか、詳しいことは知らないけれども、読響のプログラムには時々こうした洒落っ気がみられる。

 オーケストラをフルに鳴らした山田和樹の指揮は、この上なくエネルギッシュで、コロナ禍による沈滞ムードを吹き飛ばすような勢いだ。もちろんその一方、「前奏曲」や「死と変容」での緩徐個所におけるように、美しく歌い上げる叙情性も発揮されている。そのあたりの山田和樹の音楽構築は優れたものだ。

 敢えて難を言えば、3曲とも、最強奏の個所でのオーケストラの音は、もう少し綺麗にならないだろうか? 
 それにまた、打楽器群が鳴り過ぎだ。「前奏曲」の後半の打楽器群の騒々しい打撃音は、オーケストラとはかなり乖離した存在になっていた。「不滅」でステージ上手と下手に位置したティンパニも、いくら聴かせどころとはいえ、ただ怒号すればいいというものでもなかろう。それらは存在感を主張しつつも、あくまで「オーケストラの中から湧き上がって来る」ものでなければなるまい。それにこのニールセンの音楽は、各声部が明晰に交錯し、あるいは重なり合って響いて来ないと、その北欧的な、白夜的な雰囲気はよく伝わらないだろう。

 だが、この「不滅」がティンパニ群の大暴れで終結した時には、ホール内は久しぶりに素晴らしい拍手に包まれた。ブラヴォーの発声が飛沫感染防止のため禁止されていなければ、さぞや賑やかなことになっていたろう。
 ヤマカズ氏のカーテンコール時の動きはもともと陽気だが、今日は最後にいきなり指揮台に飛び上がり、「不滅」に引っ掛けて、かの長嶋茂雄選手の引退スピーチにおける有名なセリフを「わが読売日本交響楽団」に置き換えた挨拶を一言。場内を大爆笑させてお開きとした。明るい。

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