2021-03

2021・2・28(日)大野和士指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 ベートーヴェンやブラームスの交響曲もいいけれど、たまにはこういう曲もナマで聴いてみたいものだ━━という想いが叶えられたような今日のプログラムは、第1部にサン=サーンスの「死の舞踏」とリストの「死の舞踏」、第2部にコダーイの「ガランタ舞曲」とヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」。

 サン=サーンスの「死の舞踏」は、あらえびす流に謂えば「たわいもないもの」だが、今日の大野と都響の演奏は非常に荒々しく、真夜中の墓場での骸骨や亡霊の踊りというよりも「ワルプルギスの夜」的なイメージで描き出され、この作曲家の知られざる一面を窺わせるような音楽になっていたのが面白い。コンサートマスターの四方恭子が怪奇な音色で「死のヴァイオリン」を奏して見事。

 リストの「死の舞踏」も冒頭から劇的で、アンダンテ(スコア指定)よりもアレグロのテンポで開始された演奏はすこぶる前衛的かつ「ぶっ飛んだ」感のリスト像を描き出す。ピアノ・ソロの江口玲もまたこれに応じて、きわめてスリリングな「怒りの日」を構築。これで二つの「死の舞踏」が関連づけられたわけだろう。

 第2部での2曲は、作品の性格に応じて、いずれも正面切ったアプローチで予想通りの好演が聴かれた。大野和士と都響はこのところ快調な進撃が続く。

2021・2・27(土)下野竜也指揮NHK交響楽団

      BUNKAMURAオーチャードホール  3時30分

 真面目な指揮者と真面目なオーケストラ。その二つの個性が良い形で合致した演奏会と言っていいか。
 プログラムも、ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは三浦文彰)及び同「交響曲第4番」という、これまたいかにも真面目なイメージのプログラムだった。コンサートマスターは伊藤亮太郎。

 冒頭の序曲など、まさにシリアスで整然として、実直な感を与える演奏だったが、わずかに最後の和音でティンパニをひときわ強く叩かせ、終結感を強調して引き締めるあたりに下野の演出の巧さが滲み出る。

 次のコンチェルトになると、その謹厳な年長者たちと、その中に突如割り込んできた屈託ない若者との対話といった感で、しかしどちらかが妥協するわけでもなく、それぞれがそれぞれの口調のまま話を交わして、終ってみれば何となくちゃんと一つの世界が成立していた、とでも言えようか。3年ほど前に東京で三浦文彰がフェドセーエフ指揮モスクワ放送響とチャイコフスキーの協奏曲を協演した時(→2017年11月15日)のような「水と油」の世界にならなかったのは幸いだ。やはり、同じ日本人同士だったからか?

 第2部のブラームスの「第4交響曲」での演奏は、私にとっては今日一番の魅力的なものだった。謹厳なりにも、激しい感情の動きを見せつつ盛り上がって行ったのが第1楽章の中盤以降。この第1楽章の終結部や、第3楽章の後半、第4楽章の終結など、下野の煽りと追い上げも凄まじく、そういう演奏になるとN響の上手さと厚みがものを言って、まさに怒涛の如き音楽になる。
 その一方、第2楽章では、弦を中心とした素晴らしい第2主題(第41~49小節および第88~96小節)をはじめ、ヴィオラとチェロがarcoで短い対話を交わす個所(第68~71小節)などでは、深々としていい感じを出しているな、と思わせる演奏も展開されていたのである。
 下野竜也の設計の巧さと、N響の重量感とが好ましく合致した「4番」だったと言えよう。

 アンコールの演奏に取りかかったので、真面目なコンビだからどうせ「ハンガリー舞曲」でもやるんだろうな、と斜めに構えていたら、何とベートーヴェンの「フィデリオ」の中の「兵士の行進」が始まった。この選曲のユーモアに感心。

2021・2・26(金)阪哲朗指揮山形交響楽団

       やまぎん県民ホール  7時

 新日本フィルとのモーツァルトのシンフォニー、びわ湖ホールでの「魔笛」など、最近阪哲朗の指揮を聴いた人たちが、彼の丁寧な仕事ぶりと、音楽の素晴らしさを絶賛している。その両方とも私は聴いていなかったので、ならばと山形まで聴きに行ってみた。
 幸い山形新幹線も復旧しており━━とはいっても間引き運転で、かなり停車駅も多いため、通常よりも30分近く時間が余計にかかる。

 今日のコンサートは「ベートーヴェン生誕250年記念特別公演」で、第1部にニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ヨハン・シュトラウス2世の「アンネン・ポルカ」とワルツ「ウィーン気質」、その間に彼とヨーゼフ・シュトラウス合作の「ピッツィカート・ポルカ」が演奏され、第2部ではベートーヴェンの「英雄交響曲」が演奏された。コンサートマスターは高橋和貴。

 阪哲朗の指揮は、もう20年以上にわたり聴いているが、今日の演奏を聴くと、その本領がいよいよ最良の形で発揮されはじめて来たように思う。
 「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲では、特に序奏の部分をはじめとして、素晴らしいハーモニーの移ろいが繰り返されるが、そこでの阪哲朗の指揮が、何と念入りで美しく、神秘的な雰囲気をよく描き出していること! 

 そしてまた、ウィンナ・ワルツとポルカでの演奏も予想以上の見事さで、特にワルツでの腰をくねらせるような独特の表情と甘い音色は驚くばかり。私は日本のオーケストラが手掛けたウィンナ・ワルツで、これほど艶やかな表情の演奏は聴いたことがない、と言っても決して誇張にはならないだろう。阪が山響をよくここまで仕込んだものだと感心させられるし、また山響もよくここまでやったものだと舌を巻く。
 彼らのいい仕事ぶりを日本の音楽界にもっと知ってもらいたいと願わずにはいられない。今日はCURTAIN CALLによりyou tubeでナマ配信されていたというから、いくらかでも他県の人々にも視てもらえたろうか。

 だがしかし、━━褒めてばかりもいられない。その第1部での演奏にエネルギーを使い果たしたわけでもあるまいが、第2部の「英雄交響曲」では、いくつかの点で息切れを感じさせたところがあったのだ。
 もちろん、阪哲朗のコンセプトと、それに応える山響の演奏の姿勢そのものには確固たる信念が聴き取れたし、音楽づくり全体としても決して悪いものではなかった。ただ、今回は敢えて言わせてもらうが、ホルン群の著しい不調が、折角の熱演の足を引っ張り、演奏の緊張感を失わせる結果を生んでしまったのだ。

 一度や二度のミスなら、人間のやることだからと言って見過すこともできようが、全曲にわたって、のべつ3本ともふらふらしていてはどうしようもない。第3楽章のトリオの個所など、言っちゃなんだが、いまどきプロオーケストラではあり得ないような演奏である。
 何が原因なのだか、私ごときがあれこれ口を出す立場にはないが、もし楽器へのこだわりがあるのなら、それよりも正確で真摯な演奏をして、作曲者及び聴衆への責任を果たすことの方が重要だと思うのだが如何。

 30年近く山響を聴き続けて来た私に言わせてもらいたい。今日の山響の演奏には、今の同楽団のいいところと悪いところとが、両極端の形で顕れていたように思う。山響が踏み出そうとしている新しいステップへの、これは一種の試練と言うべきか。

2021・2・25(木)松本宗利音指揮読売日本交響楽団&辻彩奈

      サントリーホール  7時

 ウェーバーの「オベロン」序曲、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」、ブラームスの「交響曲第2番」が演奏された。コンサートマスターは小森谷巧。

 コロナ禍による入国制限のため外国人指揮者たちの来日中止が多いのは残念だが、その間を縫って若手の日本人指揮者たちが活躍の場を得ているのは大いなる副産物であろう。
 今日、当初予定の外国人指揮者に替わって登場したのはシューリヒト・松本━━いや、松本宗利音という期待の若手日本人で、「まつもとしゅうりひと」と読む由。往年の大指揮者カール・シューリヒトに因み、シューリヒト夫人に命名してもらったとかいう話だ。現在28歳、札幌交響楽団の指揮者のポストに在る。

 彼の指揮を聴くのは、私は今回が初めてだったのだが、その勢いの良さと気魄、演奏にあふれる活気と熱気には、驚き、本当に魅了された。若い情熱をいっぱいにぶつけるといった指揮である。こういう若手演奏家は面白い。

 「オベロン」序曲では、かつてサヴァリッシュも重視したという「足どりも軽いリズム感」が聴かれ、チャイコフスキーの協奏曲第1楽章ではトランペットなど管楽器の最強奏3連音を際立たせるような「演出」も加えられていた(ただし後者はちょっと作為めいた感も与える)。
 この2曲では、盛り上げて追い込んで行った最後のクライマックスの直前で一瞬力の抜けるような、押しの足りぬようなところも感じられたが、最後のブラームスの「2番」では、幸いに、煽り立てるエネルギーが空転するところもなかったようである。

 そしてこの「第2交響曲」では、あの謹厳実直で落ち着きのあるイメージのブラームスが、あたかもその内面に秘めた快活さをいっぺんに噴出したかのような演奏となっていた。こういう解釈も面白い。中間2楽章での叙情感も、もちろん充分である。
 とにかく、この指揮者は注目株だ。現在のところ、若手指揮者の中では原田慶太楼とともに、指折りの存在であろうかと思う。

 一方、チャイコフスキーを弾いた辻彩奈も、今回は代役としての登場だったが、「若いシューリヒト」とともにヤング・パワーを全身で噴出させた今日の演奏も、私にはこの上なく魅力的に思えた。ベテランの指揮者と協演した時の演奏からは感じられない、体当たり的な熱狂が感じられたからである。
 この曲のソロ・パートが、これほど雄弁で熱気満載なものだとは、これまで思ってもみなかった。終始明るさを保ったまま躍動するソロには、それがチャイコフスキーの音楽に相応しいかどうかは別として、胸のすくような痛快さがある。勢い余って━━というところも二、三か所ばかり無くはなかったものの、とにかくそういう爆発的な演奏も、若さの特権というべきだろう。

 読響も、よくこの若手たちを盛り上げた。ただ、弦楽器群は良かったが、管楽器群の一部に粗さが目立って、ウェーバーとブラームスのある個所ではそれが度を越して興を削がれた。定期の時の読響とは些か違った雰囲気が・・・・無かったとは言えまい。

2021・2・24(水)石崎真弥奈指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 日本演奏連盟主催「都民芸術フェスティバル」参加公演。ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは徳永二男)とブラームスの「交響曲第4番」が演奏された。コンサートマスターは西江辰郎。

 徳永二男さんのヴァイオリンを私が初めて聴いたのは、ちょうど50年前の3月のことだった。当時、彼は24歳。東京交響楽団のコンサートマスターを務める傍らソリストとして活動、「希望の星」と呼ばれて大変な注目を集めていた。
 その演奏を放送しようと、彼と東京響とのハチャトゥリヤンの「ヴァイオリン協奏曲」を日比谷公会堂で生収録したのだが、あいにく録音用のアンプが故障して音が歪んでしまい、酷い目に遭ったことを覚えている(それと同じことは、その6年後に普門館でカラヤンとベルリン・フィルの「第9」を収録した時にも起こった)。ただし彼は、それとは別にこの曲をビクターでスタジオ録音していた。そのレコードは、私も大切に保存している。
 その徳永二男が70代半ばになった今でも堂々とベートーヴェンのコンチェルトを弾いているのは嬉しい。独特の芯の強い音も以前と少しも変わらない。アンコールでのバッハの「第3パルティータ」の「ガヴォットとロンド」も同様。

 今日の指揮者、石崎真弥奈は、2017年のニーノ・ロータ国際指揮者コンクールでニーノ・ロータ賞を受賞(優勝)した女性だが、私は不勉強にして、聴いたのはこれが最初になる。
 コンチェルトではなかなか安定したサポートを聴かせてくれたように思ったが、一方ブラームスの、しかも濃い陰翳の不可欠な「第4交響曲」となると、オーケストラから表情の変化を引き出せるに至るのは、やはりこれから、といったところではないか。
 第1楽章第1主題での各音符の音の膨らませ方などには神経を行き届かせていたようだし、他の個所でのデュナーミクの対比などにもそれなりの設計が感じられたが、如何せん、演奏全体に単調な印象を免れない。選んだ作品が挑戦的に過ぎたかもしれない。

2021・2・20(土)大野和士指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  6時

 当初はマーラーの「第2交響曲《復活》」が、新国立劇場合唱団と中村恵理(S)および藤村実穂子(A)を迎えて演奏されるはずだったが、大合唱を伴う曲は感染対策上、演奏会場では具合が悪いということで、プログラムは大幅に変更された。

 だが新しいプログラムとして、同じマーラーの交響曲から、中村恵理のソロが参加する「第4交響曲」が取り上げられ、また藤村実穂子と新国立劇場合唱団が歌うブラームスの「アルト・ラプソディ」が選ばれたのは、最初予定されていた人々の顔が殆どすべて立てられた(?)というべきか。企画担当者の選曲センスは見事だ。ただし女声合唱だけは外されてしまったことにはなるが━━。

 冒頭には武満徹の「夢の時」(1981年作曲)が演奏されたが、その大編成の管弦楽による音色の、何と多彩で美しいこと。私がこれまで数多く聴いた武満作品の演奏の中でも、屈指の官能美だ。大野和士の最近の指揮の円熟味を示す快演である。

 「アルト・ラプソディ」での男声合唱は、P席に配置された24人。この合唱が参加する第3部のハーモニーはうっとりするほどの美しさだが、今日は合唱の音色がやや硬かったのと、しかもあの名歌手、藤村実穂子ほどの人が、譜面を時々見ながら歌う━━それも身体の前でなく横に置いて譜面を確認、しかも頁をめくるために横を向きながら歌う瞬間も━━などという、いつもの彼女からは信じられないような光景もあって、陶酔的な雰囲気に少しく不足した感があったのは惜しかった。
 それにしても、ブラームスのこのあたりの素晴らしい曲は、日本のオーケストラの演奏会で、もっと演奏されてもいいと思うのだが(「運命の歌」なども同様である)。

 マーラーの「4番」では、大野が弦16型編成の都響をきわめて柔らかい音で豊麗に鳴らし、この交響曲に備わる叙情美を最大限に引き出したことが印象に残る。細部の明晰さよりは壮麗に溶け合ったロマンティシズムをという狙いだったのだろう。第4楽章では中村恵理が愛らしくソロを歌ったが、先ほどの藤村実穂子と同様、今回は声楽との合わせリハーサルはどのくらいやったのかな、と思わせられるところが演奏に感じられたのは事実だ。
 今日のコンサートマスターは矢部達哉。

2021・2・20(土)「オルガンと朗読で聴く『幻想交響曲』」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 企画の面白さに惹かれて聴きに行ってみた。同ホールアドバイザーの松居直美の企画による「言葉は音楽、音楽は言葉」シリーズの第3輯で、オルガンの演奏が大木麻里、打楽器を森山拓哉、脚本が島崇、演出が島崇と児玉絵梨奈、語りが山科圭太。
 こういう企画に今でも興味を惹かれるのは、昔、音楽番組のディレクターをやっていた所為かもしれない。

 冒頭に、「幻想交響曲」作曲に至るまでのベルリオーズの生涯のストーリー、ハリエット・スミスソンとの出会いなどについて、物語的朗読と解説調の中間のようなスタイルの、ゆっくりした口調のナレーションが30分。この構成は、いわゆる「頭(アタマ、番組冒頭を指す隠語)が重い」というやつで、あまり推奨できる手法ではない。以降は楽章の合間ごとに1~2分の語りが入ったはずである。

 それらはまあ別としても、肝心かなめの音楽には些か問題がある。たとえオルガン編曲であっても、今日のテーマに基づけば、標題音楽としての表現は演奏に堅持されなければならない。主人公の感情の起伏に応じ、テンポなどももっと変化しなくてはいけないし、また例えば第2楽章「舞踏会」でも、恋人の姿がワルツに乗って人々の集団の中から現れ、また集団の中へ消えて行くさまが上手く演奏されなければならない。━━どうも今日の演奏、少なくとも最初の二つの楽章においては、そういった標題性にほとんど注意が払われず、専ら譜面だけに頼って奏されていたような気がしてならなかったのである。

2021・2・18(木)東京二期会「タンホイザー」2日目

        東京文化会館大ホール  2時

 2日目になると、オーケストラも一層安定して来る。たとえば第2幕のエンディングの音の構築ひとつとっても、厳然として見事なものがあった。ただ、昨日は昨日で一種の緊張感というか、熱気のようなものもあったのだが、今日は全体に落ち着きすぎていたか? 

 しかしいずれにせよ、ワーグナー上演で、この読響が起用されたのは正解であった。編成は縮小されていたにせよ、オーケストラの均衡や響きの安定という点で、その演奏に誠実さが感じられる。
 どの楽団とは言いませんが、新国立劇場のピットに入るオーケストラも、せめていくらかでもこれに近い水準の演奏をしてくれれば、日本のオペラ上演の水準ももっと上がるだろうに、と思う。

 さて、ダブルキャストの今日の歌手陣は、芹澤佳通(タンホイザー)、竹多倫子(エリーザベト)、池田香織(ヴェーヌス)、清水勇磨(ヴォルフラム)、長谷川顯(領主ヘルマン)、高野二郎(ヴァルター)、近藤圭(ビーテロルフ)、高柳圭(ハインリヒ)、金子慧一(ラインマル)、牧野元美(牧童)他の顔ぶれ。

 配役が異なると、同じ演出でもステージの雰囲気がかなり違って来るというのは当然の成り行きである。今回もその例に漏れなかったが、しかしそれ以上に━━ヴェーヌス役の池田香織を除けば、昨日の組より今日の組は、歌唱も演技も何となく地味で、観客に訴えかけて来るものが少々希薄に感じられた印象は否めまい。
 つまり、オーケストラともども、昨日に比べ、やや「熱気の足りない」上演だったようにも感じられたのだ。お客さんの拍手も、それほど熱狂的ではなかったような気も━━。

 題名役の芹澤佳通は、歌い方があまりドイツオペラのヘルデン・テナー的ではないような気もするが、これは今後の精進を待つとしたい。だが、演技にはタンホイザーという人格の複雑さをもっと出すように工夫していただきたいものだ。そうでないと、単なる「声のいい人形」になってしまうだろう。昨日の片寄純也はその点、歌い方には八方破れのものもあるが、ステージ上の雰囲気においては、やはりベテランだったな、と思う。

 一方、エリーザベト役の竹多倫子は、登場歌たる「歌の殿堂」の冒頭でちょっとイタリアオペラ的な身振りを示し、ヒヤリとさせられたが、そのあとはあまり無意味に手を拡げたりしない姿勢に安定したので一安心。声の伸びもいいし、今後の活躍が期待できよう。第2幕で一同を制止する際の演技などは、まだこれからというところか。

 ヴェーヌス役の池田香織は、この演出の範囲ではまず異論のない出来と思われるが、いつもほどの闊達さが感じられず、ちょっと窮屈そうな演技になっていたようにも感じられた。だが、歌唱がしっかりしているので、やはり今日のステージでは最も安定していた人と言えよう。

 清水勇磨のヴォルフラムには、この役が重要なゆえに、些か異議を申し立てたい。この役にはそもそも、エリーザベトへの思慕を抱きながらそれを押し殺し、彼女を親友タンホイザーに譲るという高貴な諦念と苦悩とが織り込まれているはずなのだが━━昨日の大沼徹はそれを巧みに表現していた━━今日のヴォルフラムではその苦悩が全く描かれておらず、特に第2幕の最初の場面など、ただエリーザベトからフラれて怒っているだけの、がさつな男にしか見えなかったのである。これは解釈の全くの誤りである。
 第3幕でタンホイザーを詰問する場面でも、彼を見ずに客席の方(指揮者の方か?)を見ながら歌っていたのも、ワーグナーのオペラのスタイルに反するだろう。こういう脇役の動きが、ステージの緩みの大きな要因となるのだから。

 その他、ヴァルトブルクの騎士たちも、一癖ありそうなツワモノが揃っていた昨日に比べ、今日は何か、不思議におとなしかった。
 ただし脇役でも、牧童役の牧野元美は、出番は少ないけれども、いい演技を見せていた。ヴェーヌスベルクに登場する6人のダンサーたちと、その他一部の助演者たちも、見事にそれぞれの役割を果たしていた。

 なおラストシーン、昨日は音楽に気を取られていてあまりはっきり見なかったのだが、最後にタンホイザーが「救済される」シーンでケージの中を上がって行くと、上から身を逆さまにしたエリーザベトが下がって来るという、少々グロテスクで不気味な光景があった。その前に彼女が縊死している光景を背景に見せていたことと併せ、やはり今の欧州の演出家たちのやりそうなことではある。もっとも、ドイツあたりで行われている演出には、実際はもっと遥かにえげつなく、グロテスクなものが多くて、辟易させられるのだけれど。

2021・2・17(水)東京二期会「タンホイザー」初日

      東京文化会館大ホール  5時

 ワーグナーのオペラが無事に上演できたのは、コロナ禍の当節、そして世界のオペラ界の現状に照らしてみても、むしろ奇蹟に近いことかもしれない。

 今回の「タンホイザー」は、フランス国立ラン歌劇場のプロダクションで、演出はキース・ウォーナー、装置はボリス・クドルチカ。セバスティアン・ヴァイグレが読売日本交響楽団を指揮。
 声楽陣はダブルキャストで、今日の初日は片寄純也(タンホイザー)、田崎尚美(エリーザベト)、板波利加(ヴェーヌス)、大沼徹(ヴォルフラム)、狩野賢一(領主ヘルマン)、大川信之(ヴァルター)、友清崇(ビーテロルフ)、菅野敦(ハインリヒ)、河野鉄平(ラインマル)、吉田桃子(牧童)ほか。二期会合唱団。

 第1幕はバッカナールを含むヴェーヌスベルクの場面および牧童の場面を拡大した完全パリ版、第2幕はドレスデン版の「ヴァルターの歌」を復活させ、かつパリ版の幕切れを使用した折衷版。そして第3幕のエンディングもパリ版━━この全曲最後の個所を壮麗なパリ版にした演奏は、めったにナマでは聴けないので嬉しかった。
 また、第2幕大詰めの素晴らしい大アンサンブルでは、幾分かはカットがあったものの、重要な個所は生かされていたので、まあいいだろう(新国立劇場のカットの仕方は無茶苦茶で、断じて許せない)。

 キース・ウォーナーの演出は予想外にストレートだが、細部は綿密だ。
 歌合戦の場ではエリーザベトが客席の方を向いて座っているので、彼女がヴォルフラムのプラトニックな愛の解釈に退屈し、タンホイザーの情熱的な恋愛観に賛意を表するあたりの表情の変化も、判りやすく描かれる。

 第2幕の歌合戦の場にもヴェーヌスが登場し、ギャラリーから盛んにタンホイザーへ秋波を送っているのは少し説明過剰だが、タンホイザーの歌のあとにはオーケストラにヴェーヌスベルクの音楽の断片が閃くのだから、応用解釈としては正しいだろう。
 ただ、この場や、ヴェーヌスベルクに時たま現れる幼い少年は、ワーグナーもしくはタンホイザーのメタファー(隠喩)だということなのだが、あまり効果的とも思えない。この少年に、歌合戦のため入場して来る女性たちが賛美を表するというのだから、ここだけひねくってあるのは確かだろう。

 最終場でエリーザベトの棺に取り縋るのはタンホイザーでなくヴォルフラム━━という設定をはじめ、彼のエリーザベトに対する思慕の念は第2幕最初からかなり詳細に描かれ、ドラマに変化を添えている(この三角関係を極限にまで浮き彫りにしたのは、ドレスデンでのコンヴィチュニー演出だった)。それゆえ、第2幕最初のタンホイザーとエリーザベトの二重唱の間に挟まれるヴォルフラムの短い絶望のモノローグをカットせずに歌わせたのは当を得ているだろう(これをカットする指揮者や演出家が実に多いのだが、気が知れない)。

 歌手陣。片寄は馬力も充分ながら、特に第1幕での歌い方が荒っぽいのが気にかかる。第2幕以降は復調したようだが、いずれにせよ、かなりワイルドなタンホイザーと言えよう(ただ、こういうタンホイザー像を創る歌手は多い)。
 田崎尚美は第2幕で男声合唱の上に朗々と抜きん出るソロを聴かせ、また第3幕での「エリーザベトの祈り」で本領を発揮した。一方、ヴェーヌス役の板波利加も健闘したが、もう少し官能の女神という雰囲気が欲しかったところだ。
 そして大沼徹が、エリーザベトへの秘かな愛に苦悩する誠実なヴォルフラム像を、巧みに歌い演じた。歌手陣の中で、彼がカーテンコールで最も大きな拍手を浴びたのも当然と言えよう。 

 だが、今日のカーテンコールで最も大きな拍手を受けたのは、セバスティアン・ヴァイグレである。やや遅めのテンポで、落ち着いて安定した、叙情味に重点を置いた「タンホイザー」を描き出した。これまでいくつか聴いたウィーンやバイロイトでの彼の指揮からは想像もできなかったほどの出来栄えだ。
 これに応えた読響も流石の実力で、均衡豊かな密度の濃い音楽を奏で、第2幕前半での弦の響きのしなやかな柔らかさなどは傑出していた。今回は、昨暮からずっと協演を続け、互いに気心の知れた仲となったこの両者が組んだことが、音楽的にも成功を収めた要因であろう。そしてもちろんこれが、公演全体の成功に大きな寄与をもたらした一因となったのである。

2021・2・16(火)諏訪内晶子の「室内楽プロジェクト」第2日

       紀尾井ホール  7時

 諏訪内晶子が芸術監督を務める「国際音楽祭NIPPON2020」と題されたものの一環。本来なら昨年3月に演奏するはずだったプログラムの一部を、他の新しいプログラムと併せて組んだとのこと。
 コロナ禍による入国制限のため、予定されていた外国人演奏家は参加できず、「国際」とはいうものの邦人演奏家のみの出演ということにはなったが、集まった顔ぶれが名手ぞろいとあって、聴き手側としては充分に楽しめた。
 出演したのは、諏訪内晶子と米元響子(vn)、鈴木康浩(va)、辻本玲(vc)、阪田知樹(pf)というメンバーである。

 プログラムは、
 諏訪内のソロで、スティーヴ・ライヒの「ヴァイオリン・フェイズ」(1967年作)
 諏訪内と辻本と阪田の演奏で、川上統の新作、組曲「甲殻」から「ウミサソリ」「ミジンコ」「ガザミ」「オトヒメエビ」)2005~2019年)
 米元と辻本と阪田で、ダルバヴィの「ピアノ三重奏曲」(2008年)
 前記5人で、オーンスタインの「ピアノ五重奏曲」(1927年)。以上4作品。

 「ヴァイオリン・フェイズ」は、諏訪内が予め録音した演奏をステージ上の2つのスピーカーから再生、それに彼女が生演奏で協演するという仕組み。音のずれの面白さを出す曲で、そう珍しくはない手法の作品だが、スピーカーの音量がどう見ても大きすぎて腑に落ちず、結局同じ音型のみが延々10分も反復されるという単調な印象しか残らなかったのは残念。もう少しバランスと音色に配慮すれば、もっと多彩なポリフォニーが生まれたのではないか? 

 だが今日のプログラムの中で、いわゆる現代音楽っぽいのはこれのみであって、他はすこぶる耳当たりのいい作品ばかり。ただしどれもエネルギッシュで動きの激しい、ヴォルテージの高い作品ぞろい。演奏も熱っぽいことこの上ない。

 川上統の「甲殻」は、角張った響きのユーモアが面白い。プログラム冊子には、前記それぞれの動物のイラストが掲載されていた。
 一方ダルバヴィの三重奏曲は、2008年の作品でありながら、途中にびっくりするような綺麗な音の流れが飛び出して来るなど、変化に富んだ楽しさがある。ピアノと弦が音をずらせつつ鋭く応酬する開始部分を曲の後半で再現させるというのも、やはりヨーロッパの音楽家だな、と微苦笑させられる。

 そして、今日の曲目の中では一番作曲年代が古いオーンスタインの五重奏曲は、終楽章にちょっとオリエント的な節回しも取り入れた、猛烈な運動が延々と繰り返される作品。些か疲労させられるが、ライヒのそれと違い、ナマ音の良さで救われる。

 それにしても、諏訪内晶子のプログラミング、なかなか意欲的だ。

2021・2・13(土)尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

     フェスティバルホール  3時

 モーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番ハ短調」とブルックナーの「交響曲第9番ニ短調」を組み合わせたプログラム。15日に予定されていた東京公演が流れたので、大阪での定期演奏会(2日目)を聴きに行く。

 「9番」は最近流行りの(?)コールス校訂版での演奏だが、補訂完成版の第4楽章のほうは、賢明にも省かれていた。そもそも、永遠なるものを感じさせるこの第3楽章のあとに、なにが必要だというのだろう。

 弦16型編成で轟くブルックナーのシンフォニーはさすがに壮大無類である。しかも尾高と大フィルが全力を挙げた演奏により、第1楽章の終結部や第2楽章のスケルツォの頂点、第3楽章の昂揚個所などでは、怒涛の如き魔性の世界が形づくられていた。物凄い曲だこれは、と感じさせるナマ演奏は決して多くはないが、今日はその数少ない幸せな60分だったと言って過言ではない。

 ホルンとワーグナーテューバも快調であった。たった1ヵ所、第1楽章コーダに入る少し前(509小節)のトランペットの音の大きさには少々納得の行かぬものを感じたが━━ついでにもうひとつ、第3楽章の終結近くのフルートにはオヤと思わされた所があるのだが、これは私の聴き違いかもしれない。

 この透徹した、恐怖の白夜ともいうべき雰囲気の、ブルックナーがどこか異次元の世界に踏み込んでしまった感さえある「9番」に先立ち、これも白々とした静謐な「ハ短調コンチェルト」を置いた選曲は秀逸であった。この曲での大阪フィルの弦(コンサートマスターは崔文洙)のしっとりした響きも見事だったが、当初予定のアンヌ・ケフェレックに替わり登場した北村朋幹のソロもまた美しい静謐さにあふれ、両者相まってモーツァルトの「叙情の凄味」を描き出した。
 そして何より、この2曲における対称的なもの、あるいは相似形的なものという特徴を巧みに関連づけ、プログラミングの妙を示した尾高の指揮を讃えたい。

2021・2・12(金)熊倉優指揮NHK交響楽団&イザベル・ファウスト

東京芸術劇場 コンサートホール  6時

 県立音楽堂での演奏が終了したあと、カーテンコールの途中(4時10分)で失礼し、首都高で池袋へ向かったものの、渋滞に次ぐ渋滞で、東京芸術劇場の駐車場に飛び込んだのは開演の僅か10分前という状態、肝を冷やした。

 N響はこの春までのシーズンにおける定期演奏会をすべて中止しているが、それに代わる特別演奏会をほぼ定期と同じ回数で開催しており、2月は尾高忠明・熊倉優・下野竜也が各1プログラムずつ指揮するという形になっている。
 今日の演奏会の指揮を受け持つ熊倉優は29歳、音楽監督パーヴォ・ヤルヴィのアシスタントを務めて、このところN響を指揮する機会も多いようだ。ただし私は、彼がこのような大きな演奏会を指揮するのを聴くのは初めてになる。

 プログラムはスメタナの「売られた花嫁」からの「3つの舞曲」で開始され(珍しい選曲だ)、イザベル・ファウストを迎えたシマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」が続き、最後はドヴォルジャークの「第6交響曲」という興味深いもの。

 今日聴いた熊倉の指揮は、直截で、エネルギッシュで、体当たり的で、熱狂的だったが、若い指揮者としては、この勢いは好ましいだろう。「道化師の踊り」の最後でオーケストラをひときわ大きく高鳴らせたり、「6番」の終楽章では最後の頂点にかけて煽りに煽ったりと、若者が勢いに任せて暴れているような雰囲気もあって、いい意味で微苦笑させられる。

 N響もこの青年をすこぶる大切に育てているようで、カーテンコールでもコンサートマスターの篠崎史紀が一度ならず彼を指揮台に上がらせて拍手を享けさせる光景も見られ、これも微笑ましい。ただその一方、今日の演奏の成功は、ずば抜けて上手いN響ゆえのものという感もなくもないのだが━━それはこれから彼がいろいろなオーケストラを指揮する過程で解決される問題だろう。

 コンチェルトを弾いたイザベル・ファウストは、何よりこの時期に彼女が来日できていたということからまず感謝しなければなるまい。この人が弾くと、あらゆる曲が魅力あふれるものになる。変な言い方になるが、このくらい凛として透徹したシマノフスキ像をつくれる人は、そう多くはいないだろう。

2021・2・12(金)東京混声合唱団「合唱でオペラ」

    神奈川県立音楽堂  2時

 神奈川県立音楽堂が主催し、東混が出演する「音楽堂アフタヌーン・コンサート」の一環。
 今回は第1部にヴェルディのオペラ「ナブッコ」を、曲中の合唱曲にナレーションを加えてストーリーを描き出すといった試みで演奏(約45分)し、第2部では舘亜里沙の脚本・演出と首藤健太郎の作曲によるミニ・オペラ「県立音楽堂ミステリー~マエストロ失踪事件」(約65分)を上演した。指揮はキハラ良尚、ピアノは鈴木慎崇。

 オペラのストーリーを合唱曲とナレーションで繋ぐというテは、われわれラジオ放送屋が音楽番組で昔よくやったものだが、もともと作品中に合唱曲の多いこの「ナブッコ」の場合には、それはうまく行くだろう。ただしそれをナマのステージでやるというのは珍しい試みだが、今回は成功していた。
 東京混声合唱団がオペラを歌うのは、私は不勉強にしてこれまであまり聴いたことはなかったけれど、「行け我が想いよ、黄金の翼に乗って」の最後の最弱音などは定石通りに決めた好演だったと言っていいだろう。

 マスクをして歌う合唱団を舞台手前の客席から指揮していたキハラ良尚は、東京混声合唱団の常任指揮者でもあり、私も以前から注目していた人で、今日もいい指揮を聴かせてくれた。オペラ特有の劇的な起伏感が織り込まれていれば、さらに面白い演奏になったことと思う。

 第2部での新作オペラは、ストーリーとしては腑に落ちないものの、音楽堂での本番を前に行方不明になった指揮者を━━ちょうどよくか悪くか━━その場にいない音楽監督・山田和樹が背景のスクリーンへの映像出演で演じるという趣向や、「県立音楽堂の警備員」が「当館は何十年間無事故」を自慢する楽屋オチ、有名な「愛の賛歌」のメロディを借りたナンバー、音楽の力を賛美するミュージカル的なフィナーレなどが折り込まれていて、まあ肩の凝らないマチネーといったところだろう。ただし、台本・楽譜を見ながらの演技・歌唱は、オペラとしてはやはりサマにならない。

 終ったあと、「愛の賛歌」のメロディが妙に頭の中に残ってしまった。

2021・2・11(木)川瀬賢太郎指揮東京都交響楽団&金川真弓

     サントリーホール  2時

 ベートーヴェン・プロで、「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」、「ヴァイオリン協奏曲」、「交響曲第8番」という一風変わったプログラム。
 当初予定の指揮者とソリストはサッシャ・ゲッツェルとネマニャ・ラドロヴィチだったが、それぞれ川瀬賢太郎と金川真弓に替わった。コンサートマスターは四方恭子。

 「戦争交響曲」では、LA席とRA席の各後方に配置されたバンダがマーチとファンファーレを演奏し、同じくスピーカーからSEによる銃撃音が轟くという形を加えての演奏。LA側の英軍の方が砲の規模で勝り、両軍の勝ち負けもはっきりさせる、という趣向もちゃんと織り込んでいる。言っちゃ何だが、何しろ曲が曲だし、このくらいの細工をしていただかないと、とてもまともに聴いてはいられないシロモノだろう。
 それにしても、ゲッツェルのプログラムを引き継いだとはいえ、川瀬賢太郎はどういうわけかこの「戦争交響曲」に縁があるようで。

 ともあれ指揮者の本領は、当然ながら最後の「第8番」で発揮される。あるフレーズでホルンを強調させるなど、楽器のバランスにも趣向を凝らしてオーケストラ全体の音色を変化に富ませるあたり、随分細かく神経を行き届かせているな、と感心しながら演奏を聴いていた。ただ、都響の音が、何か濁っているのが気にかかる。

 「ヴァイオリン協奏曲」でのソリスト、金川真弓は、先日のヴァイグレ=読響とのブルッフのコンチェルトがあまりに壮麗だったので、今日のベートーヴェンも楽しみにしていた。
 実際の演奏は、小節やそのリズム感を明確に演奏して行くという所謂古典派音楽的なアプローチというよりもむしろ、リズムを揺らせたり、ずらせたりしながら、波打つように音楽を構築して行く演奏のように思えたが、それがベートーヴェンをロマン派的に描き出しているように感じられて、私には実に新鮮に聞こえた。そういう点では、第2楽章などは絶品であったろう。

 第1楽章のカデンツァには例のベートーヴェン自身によるティンパニ入りのピアノ版からの編曲版が使われていて、こういう音楽での自由な飛翔感も、彼女の個性に合っていたように思う。第2楽章最後にも短いカデンツァが挿入されていたが、これもなかなかいい。この個所でソロが即興したのちパッと第3楽章の主題に飛び込むテは、私は大いに気に入っている。以前にも、たとえばヒラリー・ハーンがここでおおわざを聴かせたことがあった。

2021・2・9(火)新国立劇場「フィガロの結婚」2日目

      新国立劇場オペラパレス  4時30分

 白い箱型の舞台で演じられる、アンドレアス・ホモキ演出、フランク・フィリップ・シュレスマン舞台美術によるおなじみのプロダクション。2003年10月にプレミエされて以来、2005年、2007年、2010年、2013年、2017年と上演されて来た。

 今回の指揮は沼尻竜典、キャストは以下の通り━━ヴィート・プリアンテ(アルマヴィーヴァ伯爵)、大隅智加子(伯爵夫人)、ダリオ・ソラーリ(フィガロ)、臼木あい(スザンナ)、脇園彩(ケルビーノ)、妻屋秀和(バルトロ)、竹本節子(マルチェリーナ)、青地英幸(バジリオ)、吉原圭子(バルバリーナ)、糸賀修平(ドン・クルツィオ)、大久保光哉(アントーニオ)。東京交響楽団と新国立劇場合唱団。演奏者は当初の予定から一部変更になっている。

 このプロダクション、プレミエの際に観た時は、本当に魅了されたものだ。私が観たのは10月12日のマチネーだったが、当時はまだこのブログを開設していなかった。その時の日記をここに引用すると━━

 ノヴォラツスキー芸術監督体制の第1弾、注目の公演は大成功。新国立劇場オリジナル制作プロダクションで、かつてこれほど指揮(ウルフ・シルマー)、歌手陣、演出(アンドレアス・ホモキ)、装置、照明、オーケストラ(東フィル)のバランスの整ったものはなかった。スザンナを歌った中島彰子、マルチェリーナの小山由美も外国勢に劣らずすばらしい。どこか外国の、たとえばザルツブルク祝祭小劇場で観ているような錯覚まで起こさせる上演である。それにしても、開場以来6年、この作品が取り上げられるのはこれが初めてというのは、いかにレパートリーが偏っていたかの証拠だろう。

 ━━雑な書き方ながら、とにかくあの時はそう感じたものだ。それ以降に観た日記はこのブログの2005年4月9日2010年10月13日2013年10月29日2017年4月20日の項にある。

 何か再演ごとにだんだん感銘が薄れて来ている様子が窺えるのは、必ずしも私の勝手な好みや主観によるものではないように思われる。演出に鮮度が感じられなくなってきたのは、それが旧いからでなく、再演を重ねるごとに、ドラマとしての演技が緩んで来たからではなかろうか? このホモキ演出のように、微細な演技が綿密に組み合わされた舞台は、再演演出家と出演者たちがよほど理解しあって稽古を重ねないと、その小さな破綻でさえ目立ってしまうだろう。
 今回は、残念ながら、それがいっそう気になった。

 そのほかにも例えばオーケストラの音が明晰さに不足する━━モーツァルトの小編成のオケなら、ピットはもっと欧米の歌劇場のように高くするべきだろう━━とか、ある歌手が「出」を間違えるとか、歌手たちの演技が何となくチグハグで演出のコンセプトに溶け込んでいないとか、いろいろあるけれども、それより何より、全体として、不思議に冷めた雰囲気が、舞台に、併せて演奏にも漂っていたのである。
 一所懸命やっていた人たちには申し訳ない言い方になるが、こんなに燃えない、白々とした感の「フィガロの結婚」に接したのは初めてだ。せめてオーケストラの演奏に活気があれば、まだよかったのだが━━。

 コロナ禍が私たちに強いたソーシャル・ディスタンスが生んだ人間関係のよそよそしさは、この作品のようなヒューマンなオペラの上演においては、普通以上に非情なほどに顕れて来るのかもしれない。

2021・2・4(木)沼尻竜典指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 「都民芸術フェスティバル」参加公演。今日は読響(コンサートマスター長原幸太)の出演で、このところ多忙を極める活躍を展開中の沼尻竜典が客演指揮。

 第1部にワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲と、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは小山実稚恵)、第2部にメンデルスゾーンの「イタリア交響曲」というプログラム。
 曲目表を見た時には、あまりピンと来ないプログラムのように感じられたのだが、実際に聴いてみると、なかなか好い。たとえばワーグナーとチャイコフスキーのアクの強い音楽のあとに、軽快に響き出したメンデルスゾーンの音楽の、何と爽やかなこと。

 実際、この「イタリア交響曲」の、特に第1楽章をこんなに気持よく聴いたことがこれまでにあったかどうか。
 だが今日の沼尻竜典と読響の演奏の面白さは、それだけにとどまらない。軽快闊達な曲想をつらぬいている強い推進性は、終楽章に至り、ますますその激しさを強める。

 以前、この曲をテンシュテットの指揮で聴いた時、終楽章の演奏の陰影の濃さに、なるほどこの楽章はタイトルのイ長調ではなく、イ短調で書かれていたのだ、ということを改めて強く認識させられたものだったが、今日の演奏もある意味でそれに似て、これはイタリアの陽気なサルタレロ(舞曲)どころか、何か巨大なエネルギーが荒れ狂っている世界なのだという印象を与えられた。メンデルスゾーン得意の「スケルツォ」が、最も激しいデモーニッシュな姿で立ち現れたのがこの楽章だと言えるのではないか。

 沼尻は全曲を見事なバランス感でまとめ、読響も沸き立つ演奏でそれに応じ、この「軽快な」交響曲を演奏会全体の頂点とすることに成功していた。

 チャイコフスキーの協奏曲を弾いた小山実稚恵は、まさに完璧な練達のピアニストという風格を漲らせた演奏を聴かせたが、それがいつもよりさらに気魄にあふれたものになっていたのには、少々驚いた。終楽章の頂点での追い込みなど、その音量といい、豪壮さといい、ホロヴィッツもかくやの物凄さだ。そしてステージを揺るがせて弾き終ると、途端にこれもいつも通り、はにかむような笑顔と挙止に戻る人なのであった。

2021・2・2(火)原田慶太楼指揮東京交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 「2021都民芸術フェスティバル参加公演 オーケストラ・シリーズ」の2日目。
 原田慶太楼と東京交響楽団が、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」、ベートーヴェンの「英雄交響曲」を演奏した。協奏曲でのソロは前橋汀子、コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 勢いよくステージに出て来た原田慶太楼は、指揮台に飛び上がった瞬間、答礼を省略して、拍手を背に、いきなり「ルスランとリュドミラ」の序曲を振り始める。彼は以前にもこのテで「詩人と農夫」を指揮し始めたことがあった。今回は曲が曲だけに、響きも演奏も粗削りだが、ティンパニの強打が音楽全体を煽っていることもあって、すこぶる痛快な印象を与える。若い指揮者ならではのステージで、微笑ましい。

 協奏曲では、前橋汀子が年齢を感じさせぬ力強いソロを聴かせた。彼女の演奏を聴くのは久しぶりだが、相変わらず元気なのはうれしい。思えば昔、まだ私がFM放送の現場にいた頃、彼女はすでに人気の美女奏者だった。私が収録放送したステージで、彼女がすらりとした身体を弓のように反らしつつフランクのソナタの第3楽章を情熱的に弾いていたあの迫力ある光景は、今も私の目に焼きついている。
 そして、今なおその演奏に強靭なパワーを持続させているというのは、本当に大したものと言わなければならぬ。今日聴いた彼女のソロは極めてごつごつしたスタイルで、すこぶるユニークな演奏ではあったが、原田もこの「日本のイダ・ヘンデル」ともいうべき、頑固そのものの演奏を押し通す大先輩を、ひたすら巧く盛り立てていたようである。

 後半の「英雄交響曲」では、原田慶太楼の個性が遺憾なく発揮された。特にティンパニの豪打を含めた、鋭いアクセントとスフォルツァンドを駆使した強烈なデュナーミクをこれほど躊躇なく構築する指揮者は、日本人の演奏家としては異色の存在であろう。だがベートーヴェンの「コン・ブリオ」の音楽は、こういうスタイルの演奏でこそ生きて来る。それに今日の演奏では、各声部が実に明晰に鳴っていて、ベートーヴェンの斬新なオーケストレーションの魅力を十全に感じさせてくれたのである。

 そのデュナーミクの強調も、第1楽章最後(671小節以降)や第2楽章のマジョーレの中(76小節)でのフォルティシモのように、スコアに忠実に行われていたのも印象的だった。
 もっとも、その一方、スケルツォの中での聴き手を飛び上がらせるようなティンパニの猛烈果敢なクレッシェンドとか、第1楽章最後の頂点で第1主題の旋律全部を(旧版のように)管で高らかに吹かせるとか、昔ジョージ・セルがやったように第2楽章と第3楽章をアタッカで演奏するとか、現代の若手指揮者としては珍しい手法をも使っているのは事実だが、しかし私は、それらをすべて大いに楽しませてもらったのである。

 とにかく、この指揮者は面白い。東京響はいい人を正指揮者にしたものだ。

2021・1・30(土)広上淳一指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  2時

 朝のうちに大阪から帰京し、午後は広上淳一と新日本フィルのコンビを、久しぶりに聴きに行く。
 スメタナの「売られた花嫁」序曲、パガニーニの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは吉村妃鞠)、ドヴォルジャークの「交響曲第8番」が演奏された。コンサートマスターは西江辰郎。

 序曲での演奏が、広上の指揮とは思えぬほど響きが硬く粗く、すべての楽器が団子状態になってしまって、強奏個所では内声部の動きさえ定かでなくなるような状態だったのには唖然とさせられた。オーケストラ・ビルダーとしても近年実績のある広上でさえ手の付けられないほど新日本フィルはこんなに荒れてしまっているのか、と、いたたまれぬような思いになったのは事実である。

 だが幸いなことに、コンチェルトを過ぎた後、「第8交響曲」の第1楽章後半あたりから弦がふくよかな音で鳴り出し、管とのバランスを回復したのをきっかけに、みるみる音が変わりはじめた。
 第2楽章からは、まるで別のオーケストラになったかと思われるほどに音色が瑞々しくなり、音楽全体があたたかみを取り戻して行ったのである。第4楽章は立派な演奏で結ばれた。

 こうなると、さっきの序曲や協奏曲での演奏は何だったのか、いやそれより、この演奏会の前までの新日本フィルはどういう活動をしていたのか、と問いたくもなるのだが、私がどうのこうの言ったところで何にもならない。とにかく、さすがは広上、と思い、新日本フィルもやる気になりさえすればまだ大丈夫だ、とも思い、━━終り良ければ総て良し、とばかり、盛大な拍手を送った次第である。

 なお、パガニーニの協奏曲を演奏した吉村妃鞠(ひまり)は、2011年生れの何と9歳の愛くるしい少女だが、すでにグリュミオー国際コンクールをはじめ内外のコンクールを総なめにし、あちこちのオーケストラとの協演のキャリアを積んだ驚くべき才能の持主である。その少女が、パガニーニの超絶技巧のコンチェルトを縦横無尽に弾く。もちろん、その音楽は熟練したおとなのそれとは違うけれども、この勢いでの大成を期待しよう。

2021・1・29(金)エリアフ・インバル指揮大阪フィル

       フェスティバルホール  7時

 エリアフ・インバルと大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴くのは、これが3度目になる。前回は2017年7月28日のマーラー「6番」、前々回は2016年9月28日のマーラー「5番」他であった。

 回を重ねるごとに、演奏が素晴らしくなる。今回のプログラム━━プロコフィエフの「古典交響曲」とショスタコーヴィチの「交響曲第10番」での演奏は、私がこれまで聴いた大阪フィルの演奏の中でも、屈指の水準のものだったと言ってもいいように思う。

 「古典交響曲」は弦12型、「10番」は弦16型の大編成による演奏。いずれもインバル特有の揺るぎなく引き締まった構築性、力のあるリズム(ティンパニの切れが実に良い)に支えられた豊かな律動感、豪壮雄大なスケール感などに満ちた、緊迫度の高い音楽にあふれていた。音楽監督・尾高忠明によって整備された最近の大阪フィルが、優れた客演指揮者のもとで聴かせる見事な演奏の一例とも言えるだろう。

 「古典交響曲」は、やや遅めのテンポで、急がず騒がず、堂々たる風格を保ちつつ構築されていた。プロコフィエフのユーモアもアイロニーも、若き日の彼の見栄のようなものもすべて気にせず呑み込んで、大規模なシンフォニーに仕上げた━━という感を与える演奏である。ティンパニの鋭い打ち込みが生み出す迫力も目覚ましく、全曲の最後が「叩きつける和音」の反復であるということを見事に浮き彫りにした演奏でもあった。

 更に見事だったのは、ショスタコーヴィチの「第10交響曲」での演奏だ。長い第1楽章でも緊迫感を失わせることはない。第2楽章では破壊的な激しさで突き進むにもかかわらず、オーケストラには完璧なほどの均衡を保たせる。第3楽章ではホルン・ソロが安定して際立ち、重要な「エルミーラの主題」の意味を明確にしていたし、終楽章では作曲者自身のモノグラム(D-Es-C-H)で音楽を一転させる個所へのアッチェルランドの巧妙さも強い印象を残した。全曲大詰におけるモノグラムでの大暴れも、ティンパニの歯切れよさでいっそう映えたという感がある。

 インバルの指揮は、かように卓越したものだった。これは、この「10番」が、ショスタコーヴィチの15の交響曲の中で「4番」「8番」に次ぐ傑作であることを証明する演奏でもあったのである。
 それにしても、大阪フィルの最近のパワーは刮目すべきものがある。もはや昔のような「野武士」ではない、わが国オーケストラ界のリーダーシップを執る楽団の一つになった、と言ってもいいだろう。
 コンサートマスターは崔文洙。

2021・1・23(土)飯守泰次郎指揮関西フィル ワーグナー特別演奏会

       ザ・シンフォニーホール  4時

 第1部に「タンホイザー」からの「序曲」と「歌の殿堂」と「夕星の歌」、および「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」を置き、第2部に「ヴァルキューレ」からの「ヴァルキューレの騎行」と「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」、および「神々の黄昏」から「ジークフリートの葬送行進曲」と「ブリュンヒルデの自己犠牲」を置いたプログラム。
 ソプラノの池田香織と、バリトンのミヒャエル・クプファー=ラデツキーが協演した。

 これは「第58回大阪国際フェスティバル2020」と「関西フィル創立50周年記念」の演奏会で、昨年5月30日にフェスティバルホールで開催されるはずだった企画である。プログラムも当初の予定では「《ニーベルングの指環》抜粋」だったのだが、延期開催に際し、歌手陣ともども、大きく変更されたものだ。

 だが、今日の演奏は、特筆すべき出来だったと私は思う。一時は来日不可能とされたクプファー=ラデツキーが━━この人、私はあまりよく記憶していなかったのだが、先年の新国立劇場での「フィデリオ」で悪役ドン・ピツァロを歌った人だった━━安定した手堅いヴォータンを聴かせてくれた。そして絶好調の池田香織が歌うイゾルデとブリュンヒルデが、これまた温かいヒューマンな性格を湛えた表現で、実に素晴らしい。

 そして絶賛すべきは、飯守泰次郎の情感豊かな指揮表現と、関西フィルハーモニー管弦楽団の大熱演だ。
 「タンホイザー」序曲の大詰めの昂揚感からして、今日の演奏はリキが入っているなと思わせたが、第2部に入ってからはそれがますます目覚ましく、4曲ともに濃密な演奏を繰り広げた。特に「ジークフリートの葬送行進曲」は、(ほんの1ヵ所だけを除けば)私が国内で聴いた演奏の中でも一、二を争う演奏だったと言ってもいいほどである。頂点での最強奏個所での気魄など、凄まじいものがあった。
 ただ、お客さんの拍手は不思議なことに、歌手の出る曲の方に集中している。この「葬送行進曲」のあとなどでは、戸惑いがちな短い拍手しか起こらなかったのは残念である。

 以前だったら東京からもワーグナー愛好家たちがたくさん押し掛けたろうが、こういう時世ゆえ、それも成らなかったようだ。だがとにかく、この企画が、規模を縮小したとはいえ、高い水準の演奏で実現できたのを慶ぶべきであろう。

 終演後、明日のびわ湖ホールで担当する「ローエングリン」入門講座第3回(ライトモティーフ解説)に備え、タクシーで新大阪へ向かい、JR新快速で大津へ直行。琵琶湖ホテルに投宿。

2021・1・22(金)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

       サントリーホール  7時

 ラヴェルの「ダフニスとクロエ」の第1組曲と第2組曲、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲━━この3つを休憩なしで演奏し、「外出自粛目途時刻」なる8時までに終らせようというプログラムの1月定期。「火の鳥」の前にステージ・セット替えのため数分間の待ち時間を要したけれども、とにかく8時少し過ぎに終演とはなった。

 このような華麗な管弦楽法の作品を続けざまに演奏するのはオーケストラにとっても楽ではなかったろうが、バッティストーニの獅子奮迅の指揮と、東京フィルの久しぶりの熱演は、このコンビらしい沸騰する音楽をつくり上げ、客席を沸かせた。「第1組曲」においてのみ、金管の一部に物足りないところも残したものの、これだけの色彩感にあふれた演奏を聴けたのは、この時節、有難いことではある。

 プログラミングとしても、ほぼ同時代の作品━━「ダフニス」は1910~1912年の作曲、「火の鳥」は原典版が1910年の作曲ながら管弦楽編成改訂組曲版は1919年の編━━を並べた選曲センスがいい。
 ただ、私の好みから言えば、こう並べられると、ストラヴィンスキーの新古典主義作風への転換を反映した組曲版のオーケストレーションは、ラヴェルの華麗無比のそれに対して、些か味気ないものに感じられてしまうのだが。

 それにしてもこの1,2週間ほど、ヴァイグレを迎えた読響、インバルを迎えた都響、そしてこのバッティストーニと東京フィル、といったように、外国人指揮者のシェフ(もしくはそれに近い指揮者)が戻って来たオケが、解放的なパワーを湧き立たせたメリハリの強い、しかも引き締まった演奏を復活させているのを聴くと、先日触れたような理由から、ある種の安心材料が生まれて来るのは確かである。
 コンサートマスターは近藤薫。

2021・1・21(木)アレクサンドル・メルニコフ・リサイタル

      トッパンホール  7時

 1973年モスクワ生れのアレクサンドル・メルニコフが、1台のチェンバロ、2台のフォルテピアノ、1台のモダン・ピアノを弾き分けるという面白い企画のリサイタル。
 それほど広くないステージに4つの楽器がずらりと並んだ光景は壮観で、開演前にそれを撮影するファンも少なからず見られた。

 メルニコフは、それら4台の楽器を下手側から、
 最初に「ジャーマンタイプチェンバロ ミートケモデル」(以下プログラム冊子記載の表記に従う)でJ・S・バッハの「半音階的幻想曲とフーガ ニ短調BWV903」を演奏、
 続いて「ウィーン式フォルテピアノ ワルターモデル」でC・P・E・バッハの「幻想曲嬰ヘ短調Wq67」およびモーツァルトの「幻想曲ハ短調K.475」を弾き、
 次に「ウィーン式フォルテピアノ ヨハン・ゲオルク・グレーバー(オリジナル)」によりシューベルトの「さすらい人幻想曲ハ長調D760」を、
 そして四番目にモダン・ピアノのスタインウェイでスクリャービンの「幻想曲ロ短調Op.28」およびシュニトケの「即興とフーガ」━━という順に弾く。

 ちなみに事前の予告では、「さすらい人」のあと、休憩を挟んで同じ楽器でメンデルスゾーンの「スコットランド・ソナタ」が演奏されることになっていたが、都の「夜8時以降の外出自粛」要請を受け、公演時間短縮のため、休憩もろともカットされた。この曲が聴けなかったのは残念だったが、もし当初の予定通りに演奏されていたら、終演は9時半近くになっていたかもしれない。

 ともあれこれは、彼の演奏がどうのこうのということより、4つの楽器の音色の違いと、その響きによりそれぞれ異なった様相で立ち現れる作品の綾の面白さを堪能させられたということで、実に刺激的な演奏会ではあった。
 最後のモダン・ピアノのための作品としてスクリャービンとシュニトケを選んだところも、如何にもメルニコフらしい。そのスタインウェイでの、恐るべき威嚇的な音量と表現力で、聴き手を戦慄に追い込んで幕━━とするのも劇的な手法だったと思うが、それでは後味が悪いと見たかメルニコフ、アンコールにワルター・モデルでモーツァルトの「幻想曲ニ短調」を未完の形で弾き、お開きとした。

2021・1・19(火)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 ヴァイグレが指揮する1月の3つ目(計4回目)の演奏会。R・シュトラウスの交響詩「マクベス」、カール・アマデウス・ハルトマン(1905~63)の「葬送協奏曲」、ヒンデミットの交響曲「画家マティス」が演奏された。

 国内オケの定期としては稀有なほど渋い、馴染みのない曲を並べたプログラムだったが、それでも結構な客の入りだったのは、このところのヴァイグレと読響の右肩上がりの演奏水準が固定客に好感を持たれている所為か。そして事実、聴きに来たお客さんは、コロナ禍と寒風を衝いてわざわざ聴きに来た甲斐があったと、大多数が感じたのではないだろうか。今日の演奏は、どれも素晴らしかった。

 「マクベス」は、この作品の演奏にしては思いがけぬほどの色彩的な変化に富んでいた。下手をすれば雑多な構成になりかねないこの標題音楽が、目覚ましく劇的な様相を備えて再現されていたのである。

 さらに、ナチスから「頽廃音楽」の烙印を押された作曲家ハルトマンが、1939年(第2次世界大戦勃発の年)に作曲したヴァイオリン・ソロと弦楽合奏のための「葬送協奏曲」では━━ヴァイオリンの成田達輝が、鋭利で強い表情のソロを聴かせてくれた。成田の現代ものはこのところ評判がいいようだが、今日の演奏を聴くと、なるほどと納得させられるだろう。

 そして今日の極め付きは、ヒンデミットの「画家マティス」である。この演奏でヴァイグレが読響から引き出した見事な構築は卓越したもので、主題の明確な性格づけといい、全曲の構築の鮮やかさといい、私がこれまで聴いて来たどの演奏よりも刺激的なものだった。
 それは往年のドイツの名指揮者たちが手がけたものとは全く異なった、明快で割り切った演奏で、いかにもヴァイグレらしいやり方だったが、それがこの晦渋な性格を備えた作品を快く聴けた一因だったかもしれない。

 いずれにせよ、この「画家マティス」の演奏での読響の弦も管も完璧な出来で、とりわけ金管楽器のコラールはまるでオルガンのように美しく壮大に、均衡豊かに澄み切って響いていたのが感動的だった━━先日のような粗っぽい音は、もはや全く影を潜めていたのである。

 おそらくこの「画家マティス」の演奏は、ヴァイグレの指揮で読響が生み出した最高の演奏の一つに数えられることになるのではないか。
 コンサートマスターは長原幸太。

2021・1・19(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 「都響スペシャル」としての演奏会。インバルがベートーヴェンの「交響曲第6番《田園》」と、「交響曲第7番」を指揮した。
 名曲のプログラムだし、もう少し客が入ってもいいマチネー・コンサートだと思われたが、やはりコロナ禍の中で「名曲嗜好」の人たちには二の足を踏まれたのか。

 だが都響は、この厳しい指揮者インバルのもとで、先週の演奏会よりも間違いなく演奏水準を向上させていた。音色は少し荒く、洗練彫琢されたものとは距離があるけれど、分厚くて重みがあり、がっしりと引き締まって、強靭な意志力を備えた演奏だったのである。
 ずしりと手応えを感じさせてくれるベートーヴェンの交響曲の演奏を久しぶりに聴いたような気がして、こういう「濃い」ベートーヴェン演奏ならいいな、という満足感に浸る。

 なおインバルは、「田園」では第1楽章提示部を反復していたが、「7番」ではそれは行わなかった。コンサートマスターは矢部達哉。

2021・1・17(日)「ローエングリン」講座第2回

     びわ湖ホール  2時30分

 音楽会ではないけれども、熱心なお客さんの姿に感動したということで、これを書く。

 びわ湖ホールの例年3月の「沼尻竜典指揮のワーグナー上演」に関連してこの数年私が担当している入門講座(各2回)。昨年の「神々の黄昏」や一昨年の「ジークフリート」の時には地元や京都、あるいは大阪あたりから150人近くの受講者が参加して下さって、その研究意欲の旺盛さに驚き、嬉しくなったものだった。

 今年は「ローエングリン」に関する3回シリーズで、新型コロナ感染防止対策のため席が100人以下に制限されたものの、それでも反応は上々。
 とはいえ、今日の第2回は、先月19日の第1回に比べると、休みの人がやや多かったかもしれない。滋賀県は両隣の京都府と岐阜県に比べ、感染者数が少ないので、雰囲気もあまりピリピリしていないのが羨ましい。

 なお、今年のびわ湖ホールの「ローエングリン」は、沼尻竜典の指揮で3月6日と7日にダブルの日本人キャストにより、セミ・ステージ形式で上演される━━昨年の「神々の黄昏」まで例年行われていた大規模な舞台上演は、コロナ禍のため見送らざるを得なかった由。だが、視覚に惑わされずにこの「ローエングリン」の素晴らしい音楽に没頭できるとあれば、それもいいだろう。
 因みに、来年のワーグナーは「パルジファル」だそうである。

2021・1・14(木)セバスティン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 第1部に登場した人気沸騰の若手ピアニスト、藤田真央はラフマニノフの「第3協奏曲」を弾いたが、これがまた実にいい演奏だった。
 清廉な音色のピアノが美しく、骨太という感でもないのに俊敏な力を備えている。そして、特に力を入れて叩いているわけでもないのに、そのソロは、分厚いオーケストラの強奏を突き抜けて響いて来る(オケに埋没してしまうピアニストも少なくないのだ)。ラフマニノフ特有の陰翳には不足するとはいえ、躍動感にも推進性にも充分なものがある。こういう瑞々しい、清新な、透明なラフマニノフ像も、魅力だろう。

 ヴァイグレと読響も、この華麗なコンチェルトを柔軟に紡ぎ上げ、ソリストを巧みに盛り立てた。このヴァイグレという人、これまであまり意識していなかったが、コンチェルトのサポートが意外に上手いのかもしれない━━先日のブルッフと言い、今日のラフマニノフと言い。

 後半はチャイコフスキーの「第4交響曲」。こちらはしかし、ダイナミックではあったものの、些か殺風景な演奏だ。
 こういう乾いた演奏は、ヴァイグレの癖でもある。バイロイトやウィーンでいくつか聴いた彼のオペラの指揮は、大体このような、味も素っ気もない演奏が多かった。先日の「新世界」とは作品の性格が違うせいもあるが、この「4番」では彼の癖も露呈したようである。たとえば第2楽章の中間部など、何かエネルギッシュで、あれでは作曲者が述べている「疲れた人間が真夜中に物思いに耽る」というイメージとは程遠いだろう。

 なお、「新世界」でもそうだったが、今日もオーボエ奏者の演奏がどうも腑に落ちない。ファゴットもかなり癖のある吹き方をするな、と思ったのだが・・・・。
 読響、今日は弦14型編成。コンサートマスターは長原幸太。

2021・1・13(水)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 都響桂冠指揮者エリアフ・インバルが久しぶりに戻って来て、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」およびブルックナーの「第3交響曲」(初稿版)でスケールの大きな演奏を聴かせた。
 よくぞ来てくれた、と客席はこれも久しぶりに聞く大音量の拍手。飛沫感染防止のためにブラヴォーの声が禁止されていなかったなら、さぞやいっそう沸いた雰囲気になっただろう。

 都響は、これも久しぶりの弦16型の大編成。インバルが求める強靭なデュナミークに富む音楽をリアルに響かせ、ブルックナーでは全管弦楽を挙げて轟いた。インバルの指揮が生み出す引き締まった構築と、豪快で劇的なクレッシェンドは、やはり見事なものだった。
 が、惜しむらくは、やはりオーケストラの音が硬くて、鋭くて、粗くて、美しくないのである。かつてのインバルと都響の演奏に聴かれていたあの管と弦の絶妙なバランス、声部の交錯における完璧さが、今日はほとんど聴かれなかったのだ。「トリスタン」も些か硬質な演奏にとどまった。

 思えば10年前、東日本大震災直後に1ヶ月ほどの演奏活動の空白期間があった後、インバルが戻って来て指揮した時には、都響はふくよかな音色を直ちに復活させていたものだったが━━。それに比べると、(先日も触れたことだが)このたびのオーケストラの状態は、些か重症と言わざるを得ないのか?

 来週のベートーヴェン・プロの時には、もう少し改善されているだろう。だが、インバルのこの指揮を聴くと、月末の大阪フィルとのショスタコーヴィチがいっそう聴きたくなるのは確かだ。

2021・1・10(日)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 これは「マチネー・シリーズ」の2日目。R・シュトラウスの「ドン・ファン」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは金川真弓)、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」という、いかにも新年の演奏会らしいプログラムだ。コンサートマスターは客員の伝田正秀。

 昨年12月の定期および「第9」に続き1月も登場のヴァイグレ、今日の演奏を聴くと、読響との呼吸もかなり合って来たのではないかという気がする。「新世界」などでは、演奏にかなり細かいニュアンスの変化が感じ取れるようになって来た。最強奏での音の粗さも、金管の一部(トロンボーンあたりでしょうか)を除き、格段に改善されて来たように思えるのは嬉しい。

 特に感心させられたのはブルッフのコンチェルトで、ドイツ・ロマン派の作品ならではのたっぷりした響きが再現され、大波のような起伏がテンポの緩急を伴って続いて行く。これに協演する若い金川真弓の明確な主張を持ったソロも素晴らしく、特に第3楽章ではヴァイグレの大きなクレッシェンドやテンポの矯めに呼応して大見得を切るように弾き切るあたり、お見事、と思わず会心の笑みを漏らしてしまったほどであった。

2021・1・9(土)日本フィルハーモニー交響楽団横浜定期演奏会

        神奈川県民ホール  5時

 横浜みなとみらいホールが改修工事により長期間休館に入ったため、日本フィルの横浜定期も会場をこの県民ホールに移して開催されはじめている。

 今日は第1部がピアソラの「ブエノスアイレスの四季」(デシャトニコフ編、ソロ・ヴァイオリンと弦楽合奏版)で、指揮者なし、神尾真由子の弾き振りで演奏された。
 これはまさに彼女の強烈な色彩感覚に満ちた荒々しいほど情熱的なソロが全てといった演奏。日本フィルも菊地知也(チェロ)を先頭によく呼応したけれども、それでも神尾の世界とは些かの落差を感じさせてしまうほどであった。

 第2部は指揮者入りのベートーヴェンの「第7交響曲」で、永峰大輔が客演した。細部に拘泥することなく、ひたすら強いアタックでダイナミックな構築を狙う意図の指揮なのかとも思われるが、弦楽器群はともかく、管楽器とティンパニの音量の抑えが効かないようで、全合奏になると甚だバランスがよろしくない。これは1階22列中央やや右寄りで聴いてのこと。

 今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。

2021・1・6(水)東京二期会 サン=サーンス「サムソンとデリラ」

       Bunkamuraオーチャードホール  7時

 松の内に「サムソンとデリラ」とは何か物凄いが、これは昨年上演されるはずだった「二期会コンチェルタンテ・シリーズ」の一環で、新型コロナ禍のため延期になっていたものだ。

 セミ・ステージ形式上演で、オーケストラはステージの上に通常の形で並び、ソロ歌手陣は舞台前面で必要程度の演技を行ないながら歌い、合唱団(人数は多くないが音量は充分)はオーケストラ後方の高い位置に並ぶ。
 この合唱団は照明により色彩明暗が変化する紗幕に包まれており、それが背景全体を覆いつつ変化する装飾的な映像と相まって、神秘的なイメージを生む。つまりコーラスは影のような存在として響いて来るというわけで、この手法は成功していると思われる。

 それに加え、マキシム・パスカルの指揮する東京フィルハーモニー交響楽団の演奏が抑制気味の、抒情的要素の勝ったものだったので、この作品がオペラというよりむしろ劇的オラトリオといった性格で再現されているように感じさせる。
 しかし、そうではあっても、それは悪い解釈ではなかろう。第1幕前半など、もともとその性格が強い音楽だ。暗黒の中から湧き上がって来る民衆の苦悩の声と重苦しいオーケストラの響きは、のちのオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」の先駆のようにさえ思われる。この合唱は二期会合唱団。舞台構成は飯塚励生。

 配役はダブルキャストで、2日目の今日は、福井敬(サムソン)、池田香織(デリラ)、小森輝彦(大司祭)、ジョン・ハオ(アビメレク)、妻屋秀和(老ヘブライ人)、伊藤潤(ペリシテ人の使者)、市川浩平&高崎翔平(ペリシテ人)━━という強力な顔ぶれだ。

 オケがあまり大きな音を出さない上に、ソロ歌手全員は舞台手前で歌うので、だれの声もビンビンと響き渡る。
 とりわけ強靱無比の声で際立つのはサムソン役の福井敬である。彼のサムソンはかなり前、大阪で大植英次の指揮する演奏会形式上演でも聴いたことがあり、その頃よりは少し声が太くなっているようにも思えるが、パワーは相変わらず充分である。ただ、些か力一辺倒の表現のように感じられないでもなく、部分的に細かいニュアンスが伴う歌い方でもいいと思うのだが━━。

 かたやデリラ役の池田香織の歌唱も、もはや完璧の域に達しているだろう。あのイゾルデ(2016年9月17日の項)で大ブレイクして以来の彼女は、本当に何を歌っても天馬空を行くが如きの快調ぶりだ。今回の彼女のデリラは、豊満で官能的なデリラというよりは知的で優しいデリラという雰囲気だったが、ただ、もう少し━━特に後半━━悪女的な歌唱表現も欲しいところではあった。内心ではサムソンを最後まで愛していたことを表す狙いがあったとも思えないので。

 2回の休憩を含み、終演は9時45分となった。正月なのだから、開演をもう30分繰り上げてもよかっただろう。都内の新型コロナ感染者数激増に対して緊急事態宣言も明日には実施されるという状況の中、この終演時刻は如何にも遅く感じられるようになったのは事実である。
 それでも、こんな状況にあっても、客席はほぼ5割~6割程度は埋まっているというのだから、熱心なお客さんがいるものだ。頼もしいといえば頼もしい。

 だが、ロビーで遇った某楽団の事務局スタッフは、(緊急事態になると)また前の(入場制限の)ようなことになってしまう、と暗い顔をしていた。

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