2009-11

11・22(日)山形交響楽団第200回定期演奏会
 歴代4人の指揮者が競演

  山形テルサホール

 大阪空港(伊丹)から11時05分のJALで山形空港へ飛ぶ。この便が飛んでいるだけでも有難いと言えるが、山形空港からのリムジンバスはすでに廃止されており、市内へ行くには予約の乗り合いタクシーとやらを利用しなければならぬと知る。都合でタクシーを利用したが、9千円近くかかったのには悲鳴。世の中、便利あれば不便もある、だ。 

 山形交響楽団の200回定期。
 創立名誉指揮者の村川千秋、名誉指揮者の黒岩英臣、現・指揮者の工藤俊幸、現・音楽監督の飯森範親が勢ぞろいし、1曲ずつ指揮したが、おのおの異なった指揮者の個性にオーケストラが実によく反応して、あたかも山響の歴史を一夜にして回顧するかのような趣きを呈した。

 特に印象深かったのは、村川千秋が久しぶりに振ったというシベリウス――その「カレリア組曲」であった。
 思えば、東京在住の私たちが山響の演奏を聴く機会を少しずつ増やすことが出来た頃、彼の振るシベリウスは、山響の「定番」だったと思う。彼が「地方都市オーケストラ・フェスティバル」で最後に指揮した(2001年)シベリウスの「第7交響曲」は、本当に心のこもった素晴らしい演奏だったのを記憶している。1972年に東北地方最初のプロ・オーケストラとして立ち上げ、血の滲むような努力で引っ張って来た(もちろん事務局のスタッフもだが)この山響が、今やこんなにも立派な楽団に成長したのを目のあたりにして、彼の感慨もひとしおだったのではなかろうか。
 この「カレリア組曲」の演奏に聴かれた、不思議なほどに懐かしい温かさは、楽員が村川に捧げる想いをも反映したものであったろう。

 この日のプログラムは、現音楽監督・飯森範親の指揮する明晰かつダイナミックな、新しい時代に入っている山響の姿を如実に示す演奏の、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲で結ばれた。
 

11・21(土)関西二期会 ベートーヴェン:「フィデリオ」

   アルカイックホール (尼崎)

 関西フィルが舞台上の前面に配置されているので、ハテ今回はセミ・ステージ上演だったのかなと一瞬首をひねったが、序曲が終るとオーケストラがピットに沈んで行き、通常のオペラ上演の形に変ったのに納得。
 第2幕途中での「レオノーレ序曲第3番」の演奏の際にもピットが上昇して、オーケストラが主役に躍り出る。このテは、欧州の歌劇場やマリインスキー劇場などでも時たま使われているらしいが、なかなか効果的だ。欲を言えば、演奏しながら上昇・下降が行なわれれば、ドラマの緊迫感が中断しなくて済むのだけれど。

 その関西フィルを指揮した飯守泰次郎は、さすがの練達ぶりだ。
 序曲の冒頭から、音楽が瑞々しく躍動している。惨忍な刑務所長ドン・ピツァロが登場する際の行進曲のリズムの重々しい不気味さや、第2幕冒頭のフロレスタンのアリア後半における「憧れのリズム」の波打つ高揚、それに続くレオノーレとロッコの対話の背景に流れる音楽の暗鬱な響きなど、平凡な指揮者なら無味乾燥に陥りやすいこれらの個所での飯守の音楽づくりは、まさに妙味と言っていい。決して力むことのない演奏ながら、アクセントは強く、ベートーヴェンの音楽特有のメリハリを充分に再現している。これだけ情感の豊かな音楽を聴かせる指揮者は、こんにちでは稀であろう。
 関西フィルも(ホルンの頼りなさを除けば)、この指揮によく応えており、好演であった。

 歌手陣では、フロレスタンを歌った小餅谷哲男が光った。時々走りすぎてオーケストラと合わなくなるのはいただけないが、不屈の囚人といった性格を感じさせる声の表現は魅力だ。
 看守長ロッコを歌った橘茂は、この役にしては声が軽い(その点、22日の木川田澄は適役だろう)が、表現力においては優れたものを聴かせていた。
 レオノーレの小西潤子とドン・ピツァロの花月真は、精一杯という感じだろう。ドン・フェルナンドの菊田隼平は低音が弱く、「正義の大臣」役としては存在感に欠ける。脇役だが、松原友(ヤキーノ)と高嶋優羽(マルツェリーネ)が、それぞれ役に合った良い表現を聴かせていた。

 但し、問題がある。だれもかれも、ドイツ語のセリフ回しがひどく単調であることだ。喜びだろうと怒りだろうと、すべての感情が間延びした同じ調子で喋られ、かつセリフと音楽との「間」ものんびりと空いているので、登場人物の心理の変化の表現やドラマの緊迫感が著しく削がれてしまう。これは指揮者の責任か、演出家の責任か?

 その演出(栗山昌良)に関しては、何をか言わんやだ。いまどき、こんな時代遅れで中途半端な舞台が罷り通るとは、恐れ入った話である。
 登場人物は舞台に出て来て姿勢を整え、客席を向いて直立不動で歌い、「歌い終ると退場」するというパターン。各キャラクターがセリフや音楽の上で演技的に反応し合うことは、最初のヤキーノとマルツェリーネの場を除けば、皆無と言っていい。
 刑務所長が激怒しているという報せを持って慌てて駆け込んできたマルツェリーネが、突然落ち着いた姿勢になって歌い始めるなどということなど、オペラの上演で考えられるだろうか? 地下牢での息詰まる対決の場面など、それぞれ勝手な方を向いたままの人物の表情の無さには腹立たしくなる。
 ヴィーラント・ワーグナー風の象徴的演出を真似るならそれでもいい。だが今回は、そこまで徹底もしていない。それに、なまじ全員がリアルな衣装姿でやるから始末に悪い。フィナーレでも、演技をする大臣、一切無表情で正面中空を見つめたままのレオノーレといった具合に、統一が取れていない。

 ちなみに、フィナーレで演技を停止させ、オラトリオ形式に変えてしまう演出は、ヨーロッパの歌劇場では時々見られる。だがそれが生きるのは、それに先立つ緊迫したドラマトゥルギーとの対比があってこそなのである。

 結局今回は、高い制作費を注ぎ込んで装置と衣装を作っておきながら、実際には演技なしの演奏会形式に等しい手法でやったような結果になった。
 レジー・テアター系演出をやれなどと言っているのではない。だが、もっと生きた人間のドラマを舞台上に創り出せるような――本当のドラマトゥルギーを駆使してオペラの舞台を創れるような演出家は、わが国にはいないのだろうか?

11・20(金)ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮 読売日本交響楽団
チャイコフスキー・プログラム

   東京芸術劇場

 チャイコフスキーの知られざる名曲――交響的バラード「地方長官」、幻想序曲「テンペスト」、組曲第1番、「戴冠式祝典行進曲」。

 「知られざる」とか「埋もれた」とかいうのは、たいていそれなりの理由があるものだが、これだけ手際の良い演奏で聴かせてもらうと、たちまちそれらは「名曲」として復活する。広大な空間的拡がりを感じさせる響きで演奏された「テンペスト」もその一例だ。

 「組曲第1番」は、更に面白い曲に聴けた。
 あまりチャイコフスキーらしからぬ手法と曲想で書かれた第1曲「序奏とフーガ」では、弦の各声部がくっきりと色彩的に隈取りされた音の流れとなって交錯する鮮やかな演奏に舌を巻く。一方、まさにチャイコフスキーそのものの愛らしい「小行進曲」では、木管の軽快なリズム感と音色が絢爛たる効果をあげていた。これが終った瞬間、客席に微かな歎声が流れたのも無理からぬことだろう。
 ロジェストヴェンスキーの巧さと、読売日響の良さに感心させられた一夜であった。

11・18(水)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル
マーラー:「千人の交響曲」

  サントリーホール

 サントリーホールでの「千人」は、以前1階席で聴いて、危うく難聴(?)になりかけたことがある。あれはベルティーニ指揮の時だったか。 
 その他、ミューザ川崎シンフォニホールのオープニングの時にも、ウィーン・ムジークフェラインでのブーレーズ指揮の時でさえもそうだった。それはオーケストラの音ゆえでなく――歌っている方には失礼だが――第1部での合唱団の強大無比な音量、特にソプラノ軍団の高音域の強烈さのためである。
 まあ、こんなことを言うのは、自分がもともとこの曲の第1部を何度聴いても好きになれないためかもしれない。あそこは、マーラーの事大主義が一番好ましくない形で露呈されている、というのが私の主観なのである。

 今日は2階席で聴く。今回も合唱団(栗友会合唱団、武蔵野音楽大学室内合唱団、東京少年少女合唱隊)は強力であることには違いなかったが、アルミンクの好みか、あまり強引でヒステリックな怒号にならずに済んでいた。
 これは新日本フィルの演奏についても同様。アルミンクらしくややクールなアプローチがそのような効果を生んでいると思われる。その意味では、私にとっては気持よく聴けたというわけだが、反面、第2部での神秘性とか陶酔感とかいう点になると、少々物足りなかったことは事実であった。
 しかし、これがアルミンクの特徴なのだ。オーケストラの音色は美しく、きわめて均整の取れた響きを創り出している。彼と新日本フィルとの共同作業は、引続き好調な状態にある。

 声楽ソリストはマヌエラ・ウール(S1)、宮平真希子(S2)、安井陽子(S3)、アレクサンドラ・ペーターザマー(A1)、清水華澄(A2)、ジョン・ヴィラーズ(T)、ユルゲン・リン(Br)、ロベルト・ホルツァー(Bs)。特に日本勢の2人のソプラノが快調だった。コンマスは崔文洙。

 それにしても、新日本フィルの定期のプログラムは、相変わらず意欲的だ。今シーズンもアルミンク指揮の「ペレアスとメリザンド」、井上道義指揮の「青ひげ公の城」などが楽しみだが、速報として発表された来シーズン(2010〜11年シーズン)の定期プログラムを見ると、アルミンク指揮でヴェルディの「レクィエム」、ツェムリンスキーの「叙情交響曲」、コンサートオペラとしての「トリスタンとイゾルデ」などがあり、またブリュッヘン指揮では「ミサ・ソレムニス」、首席客演指揮者ハーディングの指揮では「春の祭典」やブルックナーの「8番」やマーラーの「5番」など、重量級のプログラムが並んでいる。命あらば聴いてみたいものである。

11・16(月)アラン・ギルバート指揮北ドイツ放送交響楽団

  ハンブルク・ライスハレ

 ライスハレ(旧ムジークハレ)は、2RANG(3階)まである客席を持つクラシックな雰囲気のホール。1階18−13という席が音響的に良いのか悪いのかは未だ判断しかねるが、やや音が散る傾向にあるかもしれない。溶け合ったアンサンブルを愉しむというわけには行かない。その代わり、オーケストラを近距離で聴くという感じになる。

 今夜は北ドイツ放送響(NDR)を、アラン・ギルバートが客演指揮した。
 彼がドイツのオーケストラをどのように指揮するのか――を知りたくて私も聴きに来たわけだが、プログラムがバッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」とストラヴィンスキーの「ヴァイオリン協奏曲」、ハイドンの交響曲「マリア・テレジア」、ベルクの「3つの管弦楽曲」という比較的ハイブロウで硬質(?)なものばかりなので、アランもいつも以上に抑制した指揮をせざるを得なかったのかもしれない。

 聴衆の側でも、ヴァイオリン協奏曲が2曲続いた前半が終り、休憩後の1曲目を飾る「マリア・テレジア」が――如何にハイドンとしては軽快華麗な曲想とはいえ――小編成で室内楽的に開始されたのでは、解放的な気分にはなれなかったのだろう。
 特に保守的な好みの高齢者にとっては、この日のプログラムはどうだっただろう。ハイドンが終ったあとで、早くも帰り始める高齢の客が何人もいる。そしてベルクが終ったあとでは、みんな席を立つのが早いのなんの。両側のじいさんばあさんたちが拍手もそこそこに席を立とうとざわついているのを見ると、こっちは意地でも、通路を塞いで動かずに拍手を続けていてやろうという気にもなってしまう。
 アランの地味だが誠実な指揮に反応している客は、1階の客の中では、半分ほどか。

 因みに、この日最も盛大な拍手を受けたのは、ストラヴィンスキーを弾いたレオニダス・カヴァコスだった。
 この人を聴いたのは昨年夏のエディンバラ以来だが、本当に彼の音楽は厳しく強烈な放射力を持っている。何気ないジェスチュアで弾くのだが、その一音一音が毅然としていて、聴き手の心にぐいぐいと切り込んで来る、といった演奏なのだ。聴衆が湧いたのも無理はない。
 なお、バッハの協奏曲でもう1本のヴァイオリンを弾いたのは、ほかならぬアランであった。カヴァコスと並んで弾いたのでは誰だろうと分が悪いが、まあ仕方なかろう。

 アランは11月のNDR定期にもう一度客演して、チャイコフスキーの第4交響曲などを指揮することになっている。そちらの方なら、拍手も長く続くだろう。
 今回のハンブルク旅行は、たったこれだけでお終い。明朝発つ。

11・15(日)ハンブルク・オペラ ワーグナー:「ジークフリート」

  ハンブルク州立歌劇場

 とんぼがえりでハンブルクを訪れる。
 まず、州立歌劇場。シモーネ・ヤング指揮、クラウス・グート演出の「ニーベルングの指環」が「ジークフリート」まで達している。
 昨年の「ラインの黄金」(3月19日)、「ワルキューレ」(11月12日)と順に見て来て、グートの演出はさほど面白い部類には入らないけれども、ヤングおばさんの指揮が引き締まって歯切れ良いので、とりあえず今回も、となった次第。

 もともと彼女の指揮には割り切って素っ気無いところがあり、たとえば「ブリュンヒルデの目覚めの場」での弦のトリルの後など、ラレンタンドなしで思い切りよくスパッと切るという演奏なので、官能や情緒を求めても無理だ。が、まあこれも近年のワーグナー演奏の一つのタイプであることは事実だろう。

 昨年と違って今回は、1Rang Recht Balcon (2階席)の最前列で聴いたせいか、オーケストラ(ハンブルク・フィル)の音が裸で生々しく細部まで顕わに聞こえるので、ちょっとした乱れやノリの悪さも気になってしまう。分厚い管弦楽の中で各モティーフが精妙に絡み合い、音楽が虹の色のように変わって行く感のある第3幕になると、彼らの演奏はどうも勝手が悪いようだ。
 それでも中盤以降、オーケストラのバランスは完璧に近いものとなり、ワーグナーの厚みのある響きとスペクタクル効果を充分に再現してフィナーレを盛り上げた。終り良ければ全て好し、ということにしましょう。

 配役の中で、このツィクルスで継続して出ているのは、ファルク・シュトルックマン(ヴォータン)とヴォルフガング・コッホ(アルベリッヒ)。前者は相変わらずの馬力で、迫力はあるのだが、少々吠え過ぎの印象がなくもない。
 ミーメのPeter Galliardは昨年春の「ラインの黄金」でもローゲを歌っていたはずだが、あの時は喉の不調とかで口パク演技で、舞台袖でクリスティアン・フランツがパワフルな歌唱を聴かせていた。
 そのフランツが今回はジークフリート。例のごとく暴れん坊を演じていたが、彼のジークフリートはその体型のせいか、大体いつもこんな調子である。

 ブリュンヒルデを歌ったのは英国人のキャサリン・フォスター。この人、何か我々が棒読みする時のドイツ語の発音みたいになる時があって、これでもいいんだろうか、と思うけれども、その代わり声は非常に綺麗で、張りとパワーもある。
 特に、全曲最後の高いハ音を絶叫にせず、濁らぬ声で、しかも2小節間も(!)朗々と延ばしたのには感心した。最近、ここをこのように歌えたソプラノにはあまりお目にかからないからである。

 その他、ファーフナーをDiogenes Randes、エルダをDeborah Humble、森の小鳥をHa Young Lee。最後の2人はキャリア・プロフィールも載っていない扱いとは如何なる訳か。ファーフナーに少々凄みが不足することを除けば、皆手堅い出来である。

 第1幕は、ジークフリートとミーメが「暮らしている」殺風景な広い部屋。ミーメは一度も鍛冶を行なわず、ただストレスに悩み、貧乏揺すりをし、精神安定剤を服用してばかりいる男だ。
 ジークフリートは部屋にある洗濯物から洗濯機からあらゆる物を叩き壊しては燃やし、洗濯機のモーターを鑢代わりにしたりして、とにかく上手く剣を作り上げる。
 第2幕は、空しくファーフナーを見張るアルベリヒが酒と煙草に浸る日々。クリスティアン・シュミットの舞台美術がちょっと変った面白さを見せて、「森」をテラスの向う側に密生している植物園のごとき樹林に設定、ファーフナーが斃れるとその葉林が割れ、奥に庭園の廃墟が現われる仕掛け。

 興味深いのは、森の小鳥が小型ジークフリートという姿をし、鏡に写ったような動作をしつつ出現することだ。明らかに小鳥は彼の幼年時代――つまり彼の幼児的な夢や憧れを象徴する存在として描かれている。そのあと第3幕で、ブリュンヒルデが心を開いた音楽が始まった時、窓の外に近づいて来た「小鳥」の前で、ジークフリートがゆっくりと窓を閉め、静かにそれと訣別するシーンがあることでも、それは証明される。
 今回のグートの演出で心理的な解釈が光っていた個所は、そのあたりである。

 第3幕第1場、エルダの出現場面は、何と巨大な図書室。彼女は膨大な文献の研究に没頭している。「智の神エルダ」だから、なるほどそれも一つの解釈。
 但しその本には、綴じの緩んでバラバラになった白紙も少なくないらしい。ラストシーンでブリュンヒルデがジークフリート一緒に何冊かの本を破り捨てるのは、おそらくそのエルダから受け継いだ「智」と訣別するという意味であろう(もう少し本というものを大切にしなさいよ)。

 この大詰めの場は、「ワルキューレ」第3幕で見られた汚いタイル製洗面所の痕跡が少し残る、大きな窓のある部屋。何となく壊れた温泉大浴場か、廃墟となったスパを連想してしまった。「ワルキューレ」第3幕のあの部屋は、長い年月の間に、ブリュンヒルデが寝ていた洗面所の一角だけを残して、改造され、そして廃墟と化したのだろう。
 5時開演で、10時終演。

 この新制作プロダクション「ジークフリート」はこの秋6回上演で、今夜が最終日である。オペラ部門インテンダント&音楽総監督シモーネ・ヤングは今シーズン、この作品の他に、新制作の「ルチア」11回と「アンドレア・シェニエ」6回、「期待」など3つの作品を集めた「トリロジー」6回を振り、またレパートリーでは「ホヴァーンシチナ」5回、「アラベッラ」3回、「ラ・ボエーム」2回、「椿姫」2回、「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」各3回、「メリー・ウィドウ」3回、「サロメ」3回、「エレクトラ」2回、「ヴェルディ・ガラ」1回を指揮、またハンブルク・フィルのジルヴェスターも指揮するという大車輪だ。
 だが、オペラ座一国一城の主ともなれば、そのくらいは珍しいことでもなかろう。

11・12(木)トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団(続)

   東京オペラシティコンサートホール

 今回の来日公演最終日は、チャイコフスキー・プログラム。

 所用のため、2曲目の「ヴァイオリン協奏曲」のフィナーレをやっている頃、やっとホールに到着。ロビーで待っていたら、信じられないような速いテンポで演奏が盛り上がっているのが聞こえてきた。
 ソロは、諏訪内晶子だ。一昨日のブラームスの協奏曲では、実に堂々たる風格の、毅然とした意志の強さを示すような演奏を聴かせていたのに感心させられたものだが、この数年、彼女の音楽が著しく充実して来ていることは紛れもない事実である。今日のチャイコフスキーの協奏曲をホールの中で聴いた何人かの知人も、彼女が以前の優等生的な演奏から完全に脱皮しているという感想を口にしていた。
 それにしても、あんな凄いテンポで弾くというのは驚異的である。オケもよくやるものだ。

 プログラムの後半は、チャイコフスキーの「第5交響曲」。
 2日前にサントリーホールで聴いた時の印象とはやや異なり、今夜の演奏は、音色の彫琢よりもエネルギーを優先したワイルドなアプローチという感がある。
 もちろんこれは、作品の性格にもよるだろう。第1楽章と第2楽章では、フレーズの一つ一つに表情の精妙さがあり、デュナーミクの変化にも細かい神経を行き届かせてさすがと思わせたが、しかし第4楽章は、ただもう凄まじい勢いの、エネルギッシュな、スリリングな演奏となった。まあ、この楽章では、ロシア人指揮者はしばしばこういう突進型の演奏をするものだ。とにかく、煽ること、煽ること。
 それでも音楽が崩れないところが、いかにもこのコンビらしい。稀にティンパニなど、アララというところもあったが、笑って聞き流せばよろしかろう。

 ただ、アンコールでの――2曲目のエルガーの「愛の挨拶」はいいとしても、その他の曲――チャイコフスキーの「トレパック」、ビゼーの「カルメン」前奏曲、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲第1番」はあまりに威勢のよすぎる演奏で、「ご愛嬌」でなければ、これはちと「やり過ぎ」だ。オーケストラはそれなりに巧いことは事実だが。
 ドヴォルジャークなど最初のうち、あまりに金管と大太鼓が強すぎて、たしかにこの曲のはずなのに主題のフシが全然聞こえて来ない――という、一風変わったバランスになっていたのに驚いた。「やり過ぎ」でなければ、シャレか? しかしこういうノリが、若い指揮者の面白いところではある。

11・11(水)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

  サントリーホール

 近年目立って増えて来たのは、オーケストラ・コンサートにおいて、ゲスト・ソリストが延々とアンコールを――もしくは長い曲のアンコールをやることだ。
 1曲ならまだしも、2曲も(昨年、3曲やったソリストがいた)やるのはいかがなものか。いくらその演奏が素晴らしいものであっても、その日の主役はオーケストラなのであり、彼(又は彼女)のソロ・リサイタルではないのだから、ほどほどにするべきであろう。
 今日のヨーヨー・マもその例だ。彼のアンコール・パートが占めた時間は、拍手も含め、実に22分に及んだ。その一方、オーケストラのプログラムにおいては、当初発表されていた「ローエングリン」第1幕への前奏曲の演奏がカットされた。本末転倒とはこのことである。

 まあ、それはそれとしましょう。
 ところで、このわずか10日の間に東京で演奏会を行なった外国のオーケストラは、何と6団体。フランス3、アメリカ1、ドイツ2、という比率で、大変な来日ラッシュだ。そのいずれもが大変すばらしい演奏を聴かせてくれたのだから、これまた稀有なことに違いない。
 その中でも今日のヤンソンスとバイエルン放送響は、まさに王者の風格というか、熟成された音楽家の味というか、さすがの底力を示した。このコンビもまた、今や最良の時期に入っていると言って言い過ぎではない。

 プログラムの最初は、ヨーヨー・マがソリストとなったドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」。マの演奏は、昔より柔らかくなり、温かいぬくもりの表情をさらに増した。
 ヤンソンスとバイエルン放送響の方も、しなやかな、しかも引き締まった響きが美しい。第3楽章で、ソロの合間に戻って来るオーケストラの総奏主題があまりにスケールが大きく立派なので、この時代の協奏曲もやはりリトルネロの形式の精神をどこかで受け継いでいるのだな、なんていうことをふと考えてしまう。
 そして、そのあとにマのソロ・アンコール。バッハが2曲続く。前述の問題を別として、その演奏の極上に美しかったことは、紛れもない事実なのである。

 プログラム後半はワーグナーで、「タンホイザー」序曲、「神々の黄昏」から「ジークフリートのラインへの旅」と「ジークフリートの葬送行進曲」、最後に「ワルキューレの騎行」。
 CDで聴くよりもさらに響きが豊麗である。一種丸みのある独特の中音域の音色が、演奏全体に不思議な柔らかさと温かさを与えている。魔性や翳りのないワーグナーではあるが、これがヤンソンスの個性だとも言えよう。
 だが、プログラムの前半でヨーヨー・マに贈られたような熱狂的な拍手が、オーケストラにとってのメイン・プロである後半の曲目ではほとんど出て来ないのは意外だった。ヤンソンスとオーケストラには気の毒な気がする。ワーグナー・ファンは来ていなかったのだろうか? 

 アンコールに「伝ハイドン=ホフシュテッターのセレナード」と、「ローエングリン」第3幕への前奏曲(!)。こういう曲目の時には拍手が盛んになる。9時25分終演。

11・10(火)トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団

   サントリーホール

 かつては、ゲルギエフ率いるマリインスキー・オペラで副指揮者として名を連ねていたトゥガン・ソヒエフ。今では世界に活躍するライジング・スター指揮者の一人になった。
 若手指揮者の中でも屈指の逸材――と私が決め込み、入れ込んでいるソヒエフ。
 今回は、音楽監督を勤めるトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を率いての来日である。

 常々感じていることだが、このソヒエフは、音色にこだわり、それを磨き上げることの出来る指揮者として、この世代ではずば抜けた才能を持った人であろうと思う。
 今日のプログラム――ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロ・諏訪内晶子)、ムソルグスキー〜ラヴェルの「展覧会の絵」、アンコールで演奏したチャイコフスキーの「胡桃割人形」の「パ・ド・ドゥ」、ビゼーの「カルメン」の「第3幕への間奏曲」と「前奏曲」といった曲にも、その手腕が見事に発揮されていた。

 ソヒエフは、とりわけテンポを誇張して動かしたり、デュナーミクを作為的に強調するという人ではない。むしろ、比較的ストレートに音楽をつくるタイプに属する指揮者だ。にもかかわらず、その音楽の細部は彫琢されていて、ニュアンスも極めて精緻に表現されている。若手の中で、彼のようにドラマティックに音楽を構成しつつ、作品全体のバランスに神経を行き届かせるといった指揮者は、決して多くはないのである。

 オーケストラも、すこぶる優秀だ。響きのバランスの良さ、強奏個所においても濁ることのない透明感、弦楽器の艶と金管の輝かしさ、強大な音量など、驚くべき域に達している(以前プラッソンと来日した時は、こんなに綺麗な音ではなかった)。これらの点では、この秋の(今日までに聴いた分の)来日オーケストラの中では、随一の存在ではないかという気がする。

11・9(月)大野和士指揮フランス国立リヨン歌劇場管弦楽団

東京オペラシティコンサートホール

 ショーソンの「交響曲変ロ長調」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、サン=サーンスの「交響曲第3番」、アンコールにフォーレの「パヴァーヌ」と、見事にフランスもので固めた一夜――のはずが、最後のアンコール曲にブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」とは・・・・。

 ショーソンの交響曲をナマで聴くのは何年ぶりだろうか。いい曲だ。この第3楽章冒頭部分が、昔ニュース映画(映画館で上演される世界のニュースのこと)の竜巻などの災害場面で必ず使われていたことを記憶している人は、もう少ないだろう。
 もともと激しい曲想が多い作品だが、大野の指揮もそれに輪をかけてアジタートだ。彼は本質的にラディカルな音楽性を持った指揮者ではないかというのが私の独断的意見なのだが、この曲の演奏など、その最たるものではなかろうか。

 サン=サーンスの「3番」にしても同様、第1楽章での嵐のような進行、フィナーレ最後でのテンポの猛烈な加速など、これほど激した演奏に出会うことはめずらしい。
 ほとんどプレスティシモのテンポで演奏された「スケルツォ」にあたる部分では、私は思わずベルリオーズの「ロメオとジュリエット」の「マブ女王のスケルツォ」を連想してしまったのだが、なるほどこの個所は、演奏によってはこういう妖精のような性格を備えることが出来るのだ、と啓示を受けたような思いである。

 だからといって、大野の指揮が常に疾風の勢いばかりだったというわけではない。「牧神の午後への前奏曲」におけるふくよかで夢幻的な世界など、彼の叙情面での良さが余すところなく発揮された演奏であった。
 ニュアンスも非常に細かい。「パヴァーヌ」で、フルートの主題に応答する木管群のフレーズを極度にふくらませて演奏させるあたり、大野の劇的センスも実に面白いな、と感心させられる。

 リヨン歌劇場のオーケストラは、叙情性とエネルギーとを交錯させた熱演を披露した。音色は必ずしも常に美しいというほどではなく、勢いが優先してしまうきらいがなくはない。だが、金管群の輝かしさは、さすがフランスのオーケストラというべきか。それはサン=サーンスの交響曲の、特にフィナーレにおけるファンファーレで、胸のすくような効果を発揮していた。

11・9(月)METライブビューイング
 09〜10シーズン第1弾「トスカ」

   新宿ピカデリー 10時

 10月10日に上演されたプッチーニの「トスカ」が、今シーズンのライブビューイングの第1弾となった。

 25年の長きにわたりMETの定番だったフランコ・ゼッフィレッリの豪華絢爛たる舞台に換わって、新プロダクションとして登場したのは、リュック・ボンディの演出。
 予想通り、やや渋くなった。
 渋いのは構わないし、ストレートな演出であることも一向構わないけれど、特に何かこの作品について新しい視点を提供するといった舞台ではない。安泰で、常識の範囲を出ない、過去の路線をなぞるような演出であるのが「やっぱりね」という感だ。

 ただしその中では、「歌に生き、愛に生き」のさなかから、トスカが意識的にか無意識的にか、何度もナイフを手にするというところが、一般の演出と少しく変わっている。トスカはかなり激しい性格として描かれ、ラストシーンでは階段の上からスポレッタや看守(この演出では警備隊長)を招き寄せておいて蹴倒す。彼女が回廊から身を躍らせ、体が空に浮くかと見せた瞬間に暗転するという仕掛けが、いかにもMETらしい。

 トスカにカリタ・マッティラ、カヴァラドッシにマルセロ・アルバレス、堂守にポール・プリシュカ。
 警視総監スカルピアは、当初予定のユハ・ウーシタロに代わり、グルジア出身のジョージ・ギャグニッザ。なかなかの悪役ぶりを見せていた。指揮も当初予定のレヴァインが体調不良とかで、ジョセフ・コラネリへ変更になっていた。
 案内役はスーザン・グラハム。インタビューもCMも上手い。いつもながらこの幕間のインタビューは、すこぶる手際がいい。背景に写っている時計の時刻が少々腑に落ちなかったが。

(追記)
 この時計の時刻が午後4時少し前だったことについて、「この日の開演は午後1時だったのだから、腑に落ちないことはないはず」というコメントを頂戴した。
 私が腑に落ちないと書いたのは、それゆえである。それが、これから第3幕に入るとアナウンスしているグラハムの背景に映っている時計だったからである。午後1時から始まったのなら、4時には、すでに第3幕も終わりに近づいている頃のはずではありませんか?
 考えられるのは、その日の進行が遅れたか、コントロール・ルームの時計だけ別の時刻にあわせているのか、それともこの場面だけビデオ用にあとで差し替えたか、である。
 まあ、所詮どうでもいいことだから、私は「少々」とだけ書いたのだが、放送局で長年仕事をしていた者としては――また他ならぬこのMETの土曜日マチネーのラジオ中継番組(録音)の放送を「ミュージックバード」で数年間放送していた当の担当者としては、職業柄、ついこういうヘンなところに目が行ってしまうのであります。

11・8(日)ザ・カレッジ・オペラハウス「火刑台上のジャンヌ・ダルク」

   ザ・カレッジ・オペラハウス  (マチネー)

 大阪音大ザ・カレッジ・オペラハウスの20世紀オペラシリーズには、毎年のように優れた上演が並ぶが、今年のオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」もなかなかの力作であった。

 まず何より、首席指揮者チャン・ユンスンとザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団がいい。引き締まって密度の濃い演奏だ。劇中にいくつかある高揚点への追い込みもすこぶる緊迫感に満ちていて、全曲を意外に短く感じさせるほどであった。

 演出は岩田達宗、舞台美術は増田寿子。
 今回は、中央に十字架を置いてジャンヌを板付きにするといったセミステージ・スタイルではない。ジャンヌは中央の「火刑台」にとどまらず、しばしば舞台最前方にまで場所を移す。登場人物の動きを多くし、よりオペラとしての効果を狙っている。合唱団の動きがいいので、舞台としてもまとまりが感じられる。

 セリフ役のジャンヌと僧ドミニクは、常に日本語(ほんの1ヶ所あるジャンヌの歌も日本語)。その他の人々は歌唱・セリフを含めすべてフランス語という設定だ。これは、聴く側にとっても少々煩わしいところがなくもないが、まあ仕方がないだろう。ジャンヌ(石橋栄実)とドミニク(川下登)のセリフは極めて明晰で、特に石橋の演技の良さも特筆すべきものがあった。

 ただ惜しむらくは、石橋のセリフの発声が、日本のオペラ歌手がセリフを喋る時には必ずこうなる――歌うような、頭の天辺から声を出すあの流儀に陥っていることで、これは性格表現の微細さを完全に失わせる。このドラマでは、ジャンヌは歌手よりも俳優であるべきなのである。
 もう一つは、彼女のセリフが最初から最後までハイ・テンションのままであるため、性格表現が非常に単純になってしまい、苦悩の心理状態が一面的にしか描き出せなくなってしまうことだ。第9場「ジャンヌの剣」など、音楽が闇の中の回想にふさわしく暗鬱に沈潜している個所では、セリフも音楽に合わせてもっと起伏を持たせた方がいいのではなかろうか。そうしないと、クライマックスたる最終場面の火刑での感情高揚が生きて来ないのである。

 もっとも、この作品の舞台上演では、ジャンヌ役の人はたいてい張り切ってしまうらしい。これまで私が観たいくつかの上演でも、終始ハイ・テンションになってしまう点では大同小異であった。
 その昔、オーマンディ指揮のレコードで演じていたヴェラ・ゾリーナのような、起伏縦横、明暗自在といったセリフ回しでジャンヌの揺れ動く心理を微細に描き出せる人は、もう出て来ないのであろうか。

 その他歌手陣は、第8場に出て来る坊さんだけがおそろしくいい加減な歌い方をしたことを除けば、みんな健闘していた。

 日本ではそれほど繁く上演される機会のない曲なのに、なぜか重なる時には重なるらしく、来年2月には沼尻竜典が大阪センチュリー響の定期でこれを取り上げる。それも聴いてみたい。この曲は、昔から私の好きな曲である。

11・7(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団
 シューマンとブラームス

   サントリーホール

 スダーン&東響、充実の演奏会。このコンビは、特にここ2、3年、最高の水準にある。

 マーラー編曲版によるシューマンの交響曲シリーズ。今日の第3回は「交響曲第2番」。
 冒頭からして、オリジナルと異なった響きがする。全曲、よくまあこれだけオーケストレーションに手を加えたものだと感心したり、呆れたり。その手法は実に巧妙だ。
 しかし、聴いていると、何か落ち着かない。初めからマーラーの作品だと思って聴いていればいいのかもしれないが、やはりこちらの頭の中には、シューマンのオリジナルがある。結局、以前にも感じたことだが、所詮マーラーは、やらなくてもいいような、余計なことをやってくれたのではないかな――という思いが最後まで抜けきれないのである。

 だがひるがえって言えばこれは、スダーンと東響の演奏が、それだけ迫真力があったことを証明するものだろう。閃くフォルティシモ、細かく精妙なクレッシェンドとデクレッシェンドなど、いつものようにスコアの細部にまで綿密に気を配った演奏は、見事というほかはない。
 第1楽章や第4楽章のコーダにおける熱狂的な昂揚感――これこそシューマンというよりむしろマーラーのものだろう――は、スダーンがこれまで聴かせたことがなかったほど、壮絶なものであった。

 この「2番」に、精神病者の症候を感じ取り、それを演奏に再現したのが、故ジュゼッペ・シノーポリだった。彼の指揮による第2楽章――特にそのコーダの部分における痙攣的なテンポの加速は、まさにそれを反映したものだったのだろう。
 スダーンが、それを意識して指揮したとは思えない。が、今夜演奏された第2楽章のコーダは、何かそれに共通するものを持った、激しい演奏だった。スダーンもまた、無意識的にシューマンの病む精神を読み解いたのだろうか。
 そしてマーラーのオーケストレーションが、その狂気性をより強めているような気もする。

 プログラムの前半におかれた、ブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」――これがまた今日は、襟を正したくなるほどの立派な演奏だった。ゲルハルト・オピッツのヒューマンな温かさにあふれた、しかも揺るぎのない風格に満ちたソロは、まさに良きドイツ魂ここにあり、という演奏といえよう。
 そしてさらに、スダーンが東響から引き出す緻密でしっとりとした、しかも強固な構築性を備えた音楽の素晴らしさは、比類ない。

 アンコールは、コンマスの高木和弘がソロを弾くシューマンの「トロイメライ」。編曲はテオ・モーゼズという人だとか。何となくマントヴァーニ的雰囲気のトロイメライ。

 このところ、疲れも吹き飛ぶ素敵なコンサートが続く。

11・7(土)NISSAY OPERA 「ヘンゼルとグレーテル」

  日生劇場 (マチネー)

 今年の日生劇場の「NISSAY OPERA」(NISSEIではない)は、フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」。演出がクリスティアン・シューラー、指揮が下野竜也。字幕付の日本語上演。

 「青少年のための日生劇場オペラ教室」というシリーズの一環のためもあるのだろうが、演出はきわめてオーソドックスで、イェンス・キリアンの簡素だが丁寧に作ってある舞台装置ともども――ただしその大道具を扱う演技の手順はあまりいいとは言えないが――可愛らしく、ほのぼのとした舞台になっている。
 ここにはスーパーの菓子売り場などは出て来ないし、魔女もグロテスクな大女などではないし、解放される子供たちも甘味を摂り過ぎた異常肥満体などではない。そういう読み替えのない、いわば原点回帰とでもいうべき演出だ。

 とはいえ、この舞台が平凡な構図だったと言っているのではない。冒頭場面でテーブルや椅子、冷蔵庫を巨大に作って、ヘンゼル(田村由貴絵)とグレーテル(臼木あい)を子供に見せたり、あるいはお菓子の家の場面で幕を巧く揺らせたりして、観客に視覚的錯覚を起こさせるような仕掛けは――それら自体は独創的なものではないが――観客を愉しませるだろう。

 歌手陣は他に渡辺敦子(ゲルトルート)、青戸知(ペーター)、諸井サチヨ(露の精)、虎谷亜希子(眠りの精)、蔵野蘭子(魔女)。なお、魔女の分身のような操り人形を演じていた黙役の山中美奈は、八代亜紀みたいな白塗りメイクだが、演技が実に愛らしくて色気があって、魅力的だった。

 下野竜也指揮の読売日響は、整然たる演奏。欲を言えばもっとメルヘン的なふくよかさが欲しいところだが、この劇場のピットの音響特性では、なまじフワフワした音で演奏すると、バラバラな響きになってしまう可能性もあろう。
 天使たちのパントマイム場面での音楽の昂揚や、お菓子の家が爆発した瞬間の金管の咆哮など、なかなか良かった。

11・6(金)マルク・ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊のハイドン

  東京オペラシティコンサートホール

 昨夜のラモーとモーツァルトがあまりに良かったので、今日のハイドンの交響曲も聴きに行く。今夜のプログラムは第101番「時計」、第103番「太鼓連打」、第104番「ロンドン」の3曲。
 良い指揮者とピリオド楽器オーケストラが演奏するモーツァルトやハイドンは、本当にふるいつきたくなるような魅力がある。プレヴィン・スタイルのモーツァルトも、もちろんたまに聴くといいけれども、やはりピリオド・スタイルの方が――かりにモダン楽器のオケであっても、ピリオド系の指揮者による演奏の方が、私の好みだ。
 
 私の主観では、たとえばこの3曲中の最高傑作と思われる「太鼓連打」におけるハイドンの才気、猛烈なエネルギー、斬新なアイディアなどは、落ち着いた柔らかい響きを持つモダン楽器オケよりも、シャープな響きを出すピリオド楽器オケの方がはるかに生々しく再現できると思われるからである。
 なお今回の「太鼓連打」第1楽章のティンパニのカデンツァは行進曲調のリズムで始まり、次第にアドリブ的なものに変わって行く形を採っていた。

 アンコールは、昨夜の2倍。最初にハイドンの「驚愕」から第2楽章。フォルティシモの一撃の代わりに楽員全員が「ワッ」と叫ぶという趣向も入る。何とも秀逸。
 2曲目がハイドンの「チェンバロ協奏曲ニ長調」の第3楽章。
 次にラモーの「優雅なインドの国々」の「ペルーのインカ人」から、「太陽への祈りのためのプレリュード」、4曲目に同じく「優雅なインドの国々」の「アメリカの未開人」から「未開人のエール(平和のパイプの踊り)」。
 さらに、昨夜と同じグルックの「ドン・ジュアン」からのフィナーレ。
 最後に、これも昨夜と同じモーツァルトの「ハフナー・セレナード」からの「ロンド」。
 ――という具合に、今夜も実に愉しいコンサートであった。終演は9時40分。

 帰宅してから、――滅多にやらないことだが――パリ・オペラ座の上演ライヴ「優雅なインドの国々」のDVD(オーパス・アルテ)から、「未開人のエール」の場面を見直してみる。あのリズムと旋律に乗ってインディアンが踊り、その少女に扮したパトリシア・プティボンが愛らしく歌い踊る。ラモーの「オペラ・バレ」の音楽の、何と魅力的なことだろう。もっとも最終のカーテンコールでは、インディアン=未開人という設定への抗議なのか、ブーイングも飛んでいたが。

11・5(木)マルク・ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊

  東京オペラシティコンサートホール

 「ルーヴルの音楽家たち」という名のオーケストラ。今回がなんと初来日。ルーヴル宮に直接関係があるわけではなく、ミンコフスキの両親の家がルーヴル宮の前にあったため、そういう名にしたのだとか。

 曲順が変更になり、前半にラモーの「もう一つのサンフォニー・イマジネール(空想のシンフォニー)」が演奏された。ラモーの作品からミンコフスキが選んで配列した40分ほどの組曲風の作品である。この豪華で洗練されたセンスの演奏は、フランスのピリオド楽器オーケストラの真骨頂だろう。細部のアンサンブルがどうという難癖は無益。その沸き立つような音楽づくりは、見事というほかない。

 更に素晴らしかったのは、後半に演奏されたモーツァルトの「ポストホルン・セレナード」。「行進曲K.335−1(320a−1)」を先導として全7楽章、瑞々しい躍動にあふれる。こういうモーツァルトはいい。第1楽章終結部における、たたみ込み、追い上げて行く呼吸の巧さ。ワクワクさせられるほど小気味よい演奏だ。
 ポストホルンの楽章では、トランペット奏者がポストホルンを吹きながら自転車で舞台中を走り回り、郵便を配達するという洒落っ気を披露し、われわれを愉しませてくれた。

 アンコールは、最初にラモーの「優雅なインドの国々」から、ドラムの音も豪快な「トルコの踊り」(と発表されていたが、いわゆる「タンブーラン」だろう)。
 2曲目に、モーツァルトの「ハフナー・セレナード」からの「ロンド」。
 最後にグルックのバレエ・パントマイム「ドン・ジュアン」から「怒りの舞い」(とミンコフスキはアナウンスしたが、つまり同バレエのフィナーレの音楽にあたる曲。「オルフェオとエウリディーチェ」の「復讐の女神の踊り」に転用されている)。
 どれも颯爽たる演奏だ。「ロンド」をこれほど痛快な快速テンポでこなした演奏はそう多くないだろう。また「ドン・ジュアン」のフィナーレをこれほど凄愴な迫力で演奏したものは、1959年ザルツブルクでのカラヤン(グラモフォンPOCG−1703〜4)以来ではないかという気がする。

 たまった疲れも吹き飛ぶような、胸のすくようなコンサートであった。
 なお、あとで朝日新聞のY記者から聞いたところによれば、ロビーには「自転車提供 日本郵便金沢支社」というクレジットが掲示されていたとのこと。なるほど、やることが徹底している。

11・4(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響楽団
(来日公演最終日)

  サントリーホール

 一頃はこのコンビ、果たして相性がいいと言えるのだろうか、と疑われる時期もあったが、今夜の演奏を聴くと、そんな心配も無益に終ったようだ。

 プログラム後半におかれた、目当てのラフマニノフの「第2交響曲」。
 この曲特有の、そこはかとない哀愁と甘美な暗さは消え、明るい陽光をあびて輝く叙情の織物――という感の演奏になっていて、あまり私の好みのタイプではないものの、まあそれはそれで善いだろう。
 パーヴォはオーケストラの響きを内声部の動きがはっきり解るように音を組み立てる人ではなく、しばしばサウンドを(意図的に?)団子状態の硬い音塊にさせてしまう。それが気になるところだ。それでも、全曲最後のクライマックスでオーケストラ全体が大きく息づく個所――ラフマニノフはこういう「もって行き方」が本当に巧い――では、その豊麗な音響に、一種の名状しがたい法悦感を味わったことは事実である。
 一方、アンコールの「悲しきワルツ」では、パーヴォは、その気になれば精妙な音色をオーケストラから易々と引き出せる指揮者であることを如実に証明してみせる。

 その他のプログラムは、アメリカの作品である。バーンスタインの「ディヴェルティメント」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、最後のアンコール曲だったバーンスタインの「キャンディード」序曲、いずれもスピーディに快走するリズムの躍動が好ましく、いかにもアメリカのオーケストラらしい。
 ただ、これがパーヴォとの相性というのか。何か生真面目で、解放感に今ひとつ欠ける表情なのが、物足りない。

 クリスチャン・ツィメルマンがどんな「ラプソディ・イン・ブルー」を弾くのかというのも興味津々だったが、最初の方などショパンを聴いているようで、ニヤリとさせられた。彼のガーシュウィンは一風変わったもので、そういう点の面白さはあるのだが、ただあまり気勢の上らないガーシュウィンであることはたしかだ。

11・3(火)大野和士指揮 フランス国立リヨン歌劇場管弦楽団
マスネ 「ウェルテル」(演奏会形式)

  オーチャードホール (マチネー)

 一昨年12月、ブリュッセルのモネ劇場での上演で彼の指揮する「ウェルテル」を聴いた時には、かなり鋭角的で壮絶な、ウェルテルの破滅に向かって音楽が滔々と流れて行くような演奏に感じられたものであった。
 が、今日は、もう少し叙情的で柔らかい音楽になっていた。これはもちろん、オーケストラの違いにもよるし、しかも今回はよく響くコンサートホールでの演奏であったせいもあろう。

 しかし、非常に劇的で、起伏の大きな演奏であることには変わりない。いわゆる甘美なマスネではなく、悲劇の音楽の作曲家としても見事な手腕を示すマスネ――という作曲家像を浮彫りにするような演奏であった。
 こういう点一つとっても、大野和士のオペラにおける感性というのは、卓越したものだと思う。オペラ指揮者としての大野がたゆみなく前進を続けていることは、どこから見ても疑いない。彼のような優れたオペラ指揮者を擁していることを、われわれ日本人は誇りに思うべきである。

 歌手陣は、ウェルテルにジェイムズ・ヴァレンティ、シャルロットにケイト・オールドリッチ、アルベールにリオネル・ロート、ソフィーにアンヌ=カトリーヌ・ジレ、大法官にアラン・ヴェルヌ、シュミットにバンジャマン・ベルネーム、ヨハンにナビル・スリマン。「ノエル」の児童合唱は東京少年少女合唱隊。いずれも手堅いしっかりした歌唱で、聴き応えは完璧であった。
 欲を言えば、ラストシーンでの児童合唱による舞台裏からの「ノエル」がもう少し明確に聞こえれば、最後の悲劇性がもっと浮彫りにされたのではなかろうか。

 演奏会形式で、歌手はオーケストラの前で歌うが、必要最小限の演技が加えられているので、ドラマの進行は充分に解る。音楽そのものの魅力を隅から隅まで聴こうとするのであれば、あざとい演出などの無い、このような演奏スタイルが一番いい。

11・2(月)リッカルド・シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

    サントリーホール

 メンデルスゾーンの第5交響曲「宗教改革」と、ブルックナーの第4交響曲「ロマンティック」。

 「宗教改革」が、圧倒的に素晴らしい。
 演奏された版も「初稿版」と銘打たれており、現行版とは随所に相違がある。あちこちに聴き慣れない音楽が入っており、特に第4楽章コーダなど、全く別の曲と言ってもいいくらいに違う。こういうところが、何ともワクワクするくらい面白い。

 先日のホグウッド指揮N響の「フィンガルの洞窟」といい、今日の「宗教改革」といい、今まで聴いたことのなかったあれこれの版に接することが出来るのは実にありがたいことだ。が、初稿版やら改訂稿やら新改訂稿やらがいっぺんに現われて来るというのはややこしく、まごつかされる。もっともメンデルスゾーンの場合は、これまであまり研究が進んでいなかったこともあって、それも仕方がないのだろうが。

 しかし今日の演奏は、そのような版の面白さももちろんだったが、演奏自体が実に鮮やかだったことを特筆しておかなくてはならない。
 シャイーの指揮の瑞々しさと晴朗さ、ゲヴァントハウス管弦楽団の堅固ながら弾力的な響きなどが相まって、緊迫感のある構成が創り出される。かくも躍動的で迫力に富んだ「宗教改革」は、これまで聴いたことがなかった。これ1曲聴けただけでも、大満足である。
 後半には「ロマンティック」が演奏された。こちらは、決して悪いというわけではないのだけれども・・・・。

 作品の性格からして今日のゲヴァントハウス管弦楽団は、先日の「巨人」の日のそれよりも、陰翳があって落ち着いた音色を紡ぎ出していた。モダンな感覚を取り入れたドイツ古都のオーケストラ、といった雰囲気だが、しかしやっと聞こえるくらいの極端なピアニシモというのは、やはり昔のドイツの管弦楽団なら出さなかった音だろう。
 ちなみにブルックナーは対向配置で、弦は16−16−14−12−10という編成。

10・31(土)パトリシア・プティボン・オペラ・アリア・コンサート

   東京オペラシティコンサートホール

 2008年4月12日以来、半年ぶりに来日コンサートを聴く。あの時はピアノとの協演だったが、今回はオーケストラ付き。前半にモーツァルト2曲、ハイドン2曲。後半にバーバー、ニコラ・バクリ、レナード・バーンスタイン、ハロルド・アーレン、コール・ポーターのアリアや歌曲。

 前回と同じく、とにかく巧い。美声、悪声、嬌声、奇声、あらゆる声を多彩に使い分ける。あくまでも知的な歌い方だが、ハイドンの「薬剤師」からの「ヴォルピーノのアリア」や、バーンスタインの「キャンディード」からの「着飾って、きらびやかに」などでは、しゃれたユーモアやコケットな雰囲気も聴かせる。舞台姿には華があるし、最初は堅苦しかった聴衆を最後には沸かせてしまうような、ショウ的な感覚にも事欠かない。
 モーツァルトのアリアから「虹の彼方」まで、1本きちんと筋の通った歌唱を聴かせるところなど、実に立派なものであった。

 ピアノとの協演(11月2日)の時には、何か前回と同じようにいろいろな趣向が凝らされるらしいが、今日はほとんどギャグのようなものはない。もっとも、いくら指揮者(デイヴィッド・レヴィ)が一緒にギャグっても、オーケストラ(東京フィル)の楽員たちが全く無反応で、終始クソ真面目な顔で弾いているので、あれじゃあ舞台の雰囲気は盛り上がりようがない。

 そういえば、今日の指揮者のレヴィ。聴いたのは初めてだが、予想外にオーケストラに巧い鳴り方をさせる人だ。アリア・コンサートで、歌の間に挟まれるオーケストラだけの演奏は、多くの場合はつまらないものになりがちだが、今日はモーツァルトの「交響曲第22番」といい、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」といい、なかなか聴かせる演奏であった。
 オーケストラは前述の通り東京フィルで、見事な音を出す個所もあったが、雑なところも少なからずあり、ヘンな音も時々出した。プロなのだから、その日の演奏全部をプロらしく演奏してもらわなければならぬ。ただ、他のオーケストラで拝見するようなお顔もあったので、名前は東京フィルでも、もしかしたら混成部隊だったのかしらん?

10・29(木)三舩優子ピアノ・リサイタル

     東京文化会館小ホール

 早くもデビュー20周年の由。私が彼女の演奏を聴き始めたのは、90年代に行なわれたカザルスホールでの連続リサイタルからだった。
 今夜は満員の聴衆を集めてのリサイタル。FM横浜の番組やNHK−BS2の番組のレギュラーを勤めた美女だけあって、いろいろなジャンルの人たちが聴きに来ていたようである。

 この人の演奏は、極めて骨太で強靭で、豪壮だ。今日の選曲は、彼女の特徴を余すところなく生かすものだろう。プログラムは、CDを出したばかりのバーバーの作品から「バラード」と「遠足」、リストの「巡礼の年」第2年補遺3曲(「ゴンドラを漕ぐ女」「カンツォーネ」「タランテラ」)、ブラームスの「ソナタ第3番」。
 最初の「バラード」には、ちょっとリストの作風を思わせる個所もある。そして、ブラームスのソナタは細かいテンポの動きを示しつつ、きわめて豪快な勢いを備えた演奏であった。それゆえ今日のリサイタルは、あたかも中央におかれたリストの作品を全体のイメージ・テーマとして、あるいは中心モティーフとして選曲され、演奏されたもののようにさえ感じられたのである。

10・28(水)アンドレ・プレヴィン指揮NHK交響楽団のモーツァルト

    サントリーホール

 以前、プレヴィンにインタビューした時のこと。
 「私のモーツァルトの手本は、ブルーノ・ワルターなんですよ」と、彼が言った。
 ああ、なるほど、とこちらも思わず頷いてしまったが、彼はそれを見て「ね、わかるでしょう?」とニッコリ笑った。
 それから20年近くの時が流れた。80歳になったプレヴィンのモーツァルトは、その頃に比べ、更に、いや、はるかに穏やかになった。

 今日はB定期の初日。交響曲第38番「プラハ」に始まり、第39番、第40番というプログラムである。私はどうも「ジュピター」は――どんな演奏スタイルであろうとあまり好きではないので、今回の選曲は、この上なく嬉しい。

 プレヴィンは、3曲ともすべて中庸を得たテンポで指揮した。「39番」の序奏も、昔はこれが普通だった「アダージョ 4分の4拍子」のテンポで演奏してくれた。これも何となく、懐かしいような気分にさせてくれる。
 温かく美しく、ふっくらとした響きの、柔らかい口調でそっと話しかけて来るような演奏だ。春風駘蕩というほどではないにしても、何かそれに近い。アンサンブルは時々ぐらつく時もあったが、そんなことは些事に過ぎない。
 最近のシャープなタイプのモーツァルトに慣れた感覚の中で、たまにこういうモーツァルトを聴くのも快いものである。

 知人たちの大多数が、演奏をクソミソに言っていた。N響の演奏はだらしがない、やる気がない、と。まあ、それは私も必ずしも否定はしない。が、プレヴィンの音楽の雰囲気は決して悪くない。時流とは別に、あれはあれで一つの芸風だろう。

10・27(火)リッカルド・シャイー指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

     サントリーホール

 ドイツの老舗オーケストラ、ゲヴァントハウス管弦楽団――フランツ・コンヴィチュニーが指揮していた時代はレコードでのみ知るだけだが、70年代以降はマズアとの来日公演も含めて、ナマでは何度も聴いて来た。
 今回は、4年前からカペルマイスター(事実上の音楽監督)を勤めているシャイーとの来日だが、予想していたとはいえ、オーケストラの音色の見事な変貌ぶりには、感慨もひとしお。

 プログラムはモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」と、マーラーの「巨人」。
 すべての音が明るくブリリアントで、爽快である。かつてこのオーケストラが持っていた重厚さ、深い陰翳、骨太で頑健なピアニッシモ、質実な表情などはきれいさっぱり拭い去られ、その響きは根底からラテン的な晴朗さに変身していた。
 もっとも、ここまで鮮やかに完璧に変貌してしまうと、好みはともかくとして、別の面白さが湧いて来るというもの。
 モーツァルトはこの上なく美しく、マーラーは痛快なほどに輝かしい。全管弦楽の上を越えて飛んで来る壮烈で開放的なトランペットの音色など、ドイツのオーケストラのそれであるとは信じられないくらいだ。

 もちろん、プログラムによっては、また異なった趣きが生れることだろう。ブルックナーの「ロマンティック」や、メンデルスゾーンの初期稿(!)による「宗教改革」では、どんな演奏が聴けるか、興味をかき立てられる。

 なお、今日の協奏曲でのソロはアラベラ・美歩・シュタインバッハーだった。彼女の演奏も明るく気品があって、颯爽として、シャイーとオーケストラとに呼吸がぴったり合っている。ソロ・アンコールはクライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ・カプリース」だったが、これがまた明朗闊達で、彼女の魅力が満開。

10・24(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
プロコフィエフ「交響曲第3番」他

   サントリーホール (マチネー)

 プロコフィエフ交響曲ツィクルスとしての「第3交響曲」を含む定期。他にチャイコフスキーの「ハムレット」と、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」(ソロは田村響)。

 このツィクルスについて、昨年ラザレフが雑誌のインタビューで、昨年暮れのゲルギエフ&ロンドン響のそれに対抗意識を燃やし、「絶対オレたちの方がいいぞ」と話していた記憶がある。
 それを読んだ時には、オーケストラの比較の上で、「その意気や善し」と思った程度だったが、ラザレフ将軍指揮下の日本フィルの最近の復調ぶりや、今日の「第3交響曲」の――特に両端楽章での演奏を聴くと、やはりあれは単なる大言壮語ではなかった、という気がする。認識を改めなければならぬ。

 オペラ「炎の天使」から採ったモティーフで構成された、この一種凶暴で野性的な「第3交響曲」を、ラザレフと日本フィルは、実に豪壮強大なエネルギーを以て、威嚇的に演奏した。
 全篇これ咆哮の連続だが、それは作品の性格ゆえで、仕方がない。にもかかわらず第4楽章の最初の怒号の個所などでは、オーケストラの響きの均整は守られていた。第3楽章――オペラでは例の「扉を3回叩け」の個所で、悪霊たちが跳梁する場面の音楽だが――では、私はRC席に座っていたので、あの弦楽器の音が左右に閃光のように飛び交う面白い音響効果を充分に体験することはできなかったが、もちろんうまく行っていたことだろう。

 1曲目の「ハムレット」も、荒々しく豪快な演奏だった。1番オーボエの女性奏者は力強く太い音色で、卓越していた。ラザレフがわざわざ前方へ連れ出して指揮台に乗せてカーテンコールに応えさせたのも当然であったろう。
 協奏曲では清澄な音色が繰り広げられ、この指揮者とオーケストラはいつも吼えるばかりではないということを、如実に証明した。ソロの田村もよく弾き、特に第3楽章などでは快い足取りを感じさせたが、やはりモーツァルトは難しい――。これからであろう。

 ラザレフのアンコールは、プロコフィエフの「シンデレラ」からの「ワルツ~コーダ」。あたかもショスタコーヴィチの音楽と見まがうような、皮肉にあふれる演奏であった。

10・22(木)ウィーン音楽祭in OSAKA 2009 第6日
ウィーン楽友協会合唱団 「天地創造」

   いずみホール (大阪)

 昼の新幹線で、博多から再び大阪に戻る。

 ウィーン楽友協会合唱団の来日は30年ぶり――つまり1979年にカラヤン&ベルリン・フィルと来て、普門館でヴェルディの「レクィエム」他を歌って以来だ。もうそんなに年月が経ってしまったのかと思う。
 今回は大阪のみの公演で、今夜のハイドンの「天地創造」と、24日の大植英次指揮大阪フィルとの協演による「ドイツ・レクィエム」との二つを歌うだけ。

 ウィーン楽友協会合唱団(Wiener Singverein)は、今回は70人を超す大編成での登場。
 さすがにその音楽性の素晴しさは、喩えようもない。アンサンブルの精度とか、音色の透明さとかいう点ではもっと上に来る合唱団もあるかもしれないが、ヒューマンな温かさや音楽の馥郁とした香り、無造作なほどの自然な歌唱の裡にあふれる色彩感やドラマティックな迫力、毅然として気品のある風格、といったものに関しては、この合唱団に比肩すべき存在は稀ではなかろうかとさえ思われる。
 とにかく、彼らが歌い出すと、音楽そのものが、まったく別のものに変わってしまうのだ。演奏に突然生気が満ちあふれ、輝きはじめるのである。曲の歌詞に喩えれば、あたかも「神が『光あれ』と仰せになると、そこに光が満ち溢れた」という感か。

 指揮はヨハネス・プリンツ。いかにも合唱指揮者らしい指揮だ。合唱が入る部分になると、オーケストラ(関西フィル)も含めて、途端に見違えるように活気のある音楽になる。ところが、そうでない個所で、オーケストラを強引に引っ張って劇的な盛り上げを創って行くというのは、どうもあまり得意ではないようである。「天地の混沌」時代を描く序奏部分など、第1音からして、これで今日の演奏は成り立つのかと心配になるほど、混沌として自信無げで、生気もなかった。

 が、これは指揮者の制御力の問題だけでなく、オーケストラ自体にまず責任があるだろう。関西フィルハーモニー管弦楽団は、もっと「自ら音楽する」という姿勢を持たなくてはならない。
 日本人の声楽ソリスト3人にしても同様である。幸田浩子だけは清涼な声で気を吐いたが(美しい声だが、それでもこの合唱団の上に飛翔するにはもう少し強い個性と「色合い」が欲しくなる)、男声歌手2人のほうは低音域の声がほとんど聞こえぬ上に、ソット・ヴォーチェやテンポの遅い個所では音程の不安定さがあって、聴き手としては苛々のし通しであった。これだけの演奏会なのだから、歌手の選定には、もっと「峻烈な」配慮が欲しいものである。

 そういうこともあって、今夜の「天地創造」の演奏は、残念ながら「天」と「地」の開きが大きすぎた。「天(=作品及びウィーン楽友協会合唱団)」は、たしかに「神の栄光を語った」のだが・・・・。

10・21(水)ラドミル・エリシュカ指揮九州交響楽団 「わが祖国」

    アクロス福岡シンフォニーホール

 いずみホールの「ウィーン音楽祭」の次の演奏会は、明日である。その合間に一日、大阪から足を延ばして、新幹線で約2時間半、博多に向かう。
 こちら福岡は、九州交響楽団。老巨匠ラドミル・エリシュカ(78歳)に率いられ、連作交響詩「わが祖国」を演奏。まさに入魂の大熱演だ。野武士のような(?)粗さもあるオーケストラだが、これだけ情熱的な演奏をしてくれれば、何の不満があろう。

 エリシュカの「わが祖国」は、(こういう表現はあまり好きではないのだが)もはや神技と言ってもいいのかもしれない。「これは本当に凄い」と腰を浮かせたくなるところが、いくつもあった。それはテンポの動かし方にせよ、デュナーミクのつくり方にせよ、彼の指揮には作為めいたものが一切無く、いかにも自然で、しかも温かい情感と並外れた意志力を感じさせるからにほかならない。

 たとえば第3曲「シャールカ」の終り近く、アマゾネスの大軍が騎士軍陣営に雪崩れ込んで大殺戮を展開する場面――地が揺らぐような勢いでテンポが加速されて行く瞬間の緊迫感。チェコの指揮者たちは皆ここが巧いものだが、その中でも今日のエリシュカは、ことのほか見事であった。
 他にもまだある。第4曲「ボヘミアの森と草原より」の後半、沸き立つ感情を抑えがたくテンポが次第に速められて行き、弦楽器群だけが残って一つの走句を反復し続ける個所までの、極めて自然な、しかも情熱に満ちた昂揚。
 第5曲「ターボル」での、絶え間なく押しに押す力。

 「ブラニーク」最後でのトランペットとティンパニの応酬個所は、そのかみのターリヒ=チェコ・フィルがLPで鮮やかな決まりを聴かせてからあと、ちゃんと正確なリズムで演奏してくれる指揮者とオケにはなかなかお目にかかれなかったのだが、今夜のエリシュカ=九響のそれは実にぴたりと合っていて、完璧に近いエンディングとなっていた。

 これだけ見事にオーケストラを燃え立たせ沸騰させ、また聴き手の心を揺り動かすとは、全く、エリシュカは何という人なのだろう。彼が日本に知られるようになってから、まだほんの2年そこそこしか経っていないのだ。
 彼は今年、先日のN響、来週の札響とあわせ、計三つのオーケストラと「わが祖国」を日本で演奏することになる。私はスケジュールの関係で、今夜の九響との演奏しか聴けない状態なのだが、それでも、たった1回でもこのような体験をさせてもらったことを感謝しなければなるまい。

10・20(火)ウィーン音楽祭 in Osaka 2009 第5日
 中嶋彰子/「月に憑かれたピエロ」

    いずみホール (大阪)

 中嶋彰子(ソプラノ)とニルス・ムース(ピアノ)で、貴志康一の歌曲3曲と、メンデルスゾーンの「未発表曲」を含む歌曲3曲。次にいずみシンフォニエッタ大阪の演奏でシェーンベルクの「浄夜」。最後に同アンサンブルとムースの指揮との協演で、中嶋がシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を歌う。
 東京でも聴けないような意欲的なプログラムだ。6割程度の入りだったが、熱心なお客さんだった。

 冒頭に歌われた貴志康一の「さくらさくら」「赤いかんざし」「かもめ」の3曲に、強烈な衝撃を受ける。
  これほど劇的で痛切な「さくらさくら」は聴いたことがない。もはやこれは魂の慟哭の歌だ。ラメント(哀歌)だ。ピアノも単なる歌曲伴奏ではなく、感情の揺れを雄弁に語る。ペダルで長く引き延ばされる暗く激しいフォルティシモの和音が聴き手をぎょっとさせる。続く「赤いかんざし」にも、あたかも「月に憑かれたピエロ」と共通するような、世紀末的な、奇怪な雰囲気が顔を覗かせる。

 夭折の天才音楽家と言われる貴志康一は、80年近くも前に日本歌曲をここまで展開させていたのか、とただもう驚くばかりだ。西欧的な性格を持たせた――という傾向があるのは否定し得ないけれど、むしろ日本の歌曲を素材にした音楽作品の一つの成功例という意味で、実に素晴しいものがある。
 中嶋彰子もオペラのような歌いぶりで、3曲をまるでバラードか何かのように、ドラマティックに表現した。私はもともと日本の歌がオペラのような発声で歌われるのはあまり好きではないのだが、今夜だけはその説得力にかぶとを脱いだ。もちろん、作品の性格に因る。聴いたのがかりにこの3曲だけだったとしても、わざわざ大阪まで駆けつけた甲斐があったと思う。

 この貴志康一の世界から、そのまま当初の予定通り、ストレートにシェーンベルクの世界に突入できたら好かったのにと思うが、そのあとにムースの解説入りで特別にメンデルスゾーンの歌曲が3つ追加して歌われ、ちょっと気分を削がれた感。
 ただし、そのうちの2曲「子守唄」と「嘲り」は、ムースが入手した「未発表歌曲集楽譜」に収められているもので、いずれも日本初演の由。ムースとしては是非とも紹介したかったのであろう。あとの一つは有名な「歌の翼に」。もちろん、中嶋の歌唱ともども、すべて美しいものであった。

 そしてやっと、シェーンベルクに入る。オリジナルの弦楽六重奏による「浄夜」の演奏は決して悪いものではなかったが、ヴィオラとチェロがしっかりしているのに比べ、ヴァイオリンが少々ひ弱な感があったのが、楽曲全体の見通しを不明確にしていた原因ではなかろうか。
 それゆえ今回の演奏は、標題的にいえば、主人公の男と女は何度も逡巡し口ごもり、最後はあまり浄化されずに、心からの愛情も感じずに、わだかまりを抱いたまま、月に照らされた冬枯れの木立の中を足取りも重く去って行く――といった感じになってしまった。まあ、もともとオリジナルの詩そのものが奇怪なストーリーなのだから、いまどきの解釈としてはこれでもいいのかなと思わないでもないが、演奏水準としてはやはり疑問が湧くだろう。

 最後は「月に憑かれたピエロ」。これはもう、ピアノを含めたアンサンブルの演奏についても、異論を唱えるべき何物もない。中嶋彰子の歌唱も見事の一語に尽きる。滅多に聴けない曲だからという意味ではなく、これだけの演奏を聴けたことは満足であった。それにしても初演以来今年で97年、今なおこの曲は凄さを失っていない。

10・19(月)ジョナサン・ノット指揮バンベルク交響楽団

   サントリーホール

 久しぶりのバンベルク響。先立つ東京公演を聴いた人の何人かがあまり肯定的な感想を口にしていなかったので、それほど期待せずに聴きに出かけたのだが、どうしてこれが、なかなか良い演奏であった。

 プログラムは全ブラームス。
 最初の「悲劇的序曲」からしてすこぶる渋く陰翳の濃い、重厚で深沈たる演奏だ。ノットは最近の若手指揮者がよくやるように、テンポの遅い個所では自ら陶酔するかのように沈潜にのめり込んでしまうので、部分的には少々間延びした演奏になる傾向もあるが、管弦楽全体の響きとしては、良き時代のドイツの地方オーケストラの雰囲気を今なお多分に残しているもの、と言ってよかろう。

 休憩後の「第2交響曲」の方は、第1楽章は何か定まらぬ感のあるバランスの演奏だったが、第2楽章に入ると演奏はガラリ変わり、ドイツのオーケストラならではのしっとりとした美しさが湧き出て来る。
 第4楽章はまさに白熱の快演だ。楽員の全員が、お互いの音を聴きあって演奏している、という雰囲気を如実に感じさせる演奏なのである。
 これは、決して機能的ではないけれど、それより大切なものをまだ持っているオーケストラだ。堅実で、やや素朴で、真摯な音楽を感じさせる、昔ながらのバンベルク響であった。

 とはいえ、指揮者ジョナサン・ノットも、ただ良き伝統の前に膝まづいていたわけではない。第3楽章中間部でブラームスが設定した弾むようなリズムを、ことさら愛らしく軽快に強調する手法は、おそらくノットの感性であろう。全曲の最後の和音を常に全力で演奏させるというのも、なかなか芝居気があって、微笑ましくもある。
 だが、彼が作品の性格に応じてオーケストラを制御できる力量の持主であることを証明する一例は、2曲目に演奏された「ヴァイオリン協奏曲」であった。

 ここではクリスティアン・テツラフの、極度に起伏と振幅の大きい、鮮烈なほどに感情の激しいソロに対抗して、ノットはオーケストラを猛然と煽る。第3楽章など、ケネディを相手にしたテンシュテットか、あるいはハイフェッツと応戦するフリッツ・ライナーかといった猛烈な気迫で、スリリングの極みになっていた。ここではブラームスの満々たる情熱が蘇る。テンポは目覚しく速く、オーケストラの音色も明るく、前述の2曲とは対照的な性格を示していた。

 ジョナサン・ノットとバンベルク響は、一見地味な存在だけれど、その力量はあなどれないものがある。ただこのコンビの演奏は、日によって、あるいは作品の性格によって、かなりムラを生じるタイプのものではなかろうか。
 欲を言えば、せめてアンコールででもいいから、――「ハンガリー舞曲」を2曲もやるのではなく――ノット得意の現代音楽を一つくらい、聴かせてもらいたかった。

 それにしても見事だったのは、クリスティアン・テツラフのソロ。楽器の良さもあるのだろうが、音色はこの上なく美しく、しかも毅然として強い。揺るぎなく正確でありながら、変幻自在の呼吸を併せ持った演奏である。
 ソロ・アンコールでバッハを演奏したが、「ブラームスの文法を理解する前提はバッハに在る」(プログラム掲載文より)と指摘するテツラフの考えからすれば筋が通る。――ただしオーケストラ・コンサートでのソロ・アンコール2曲というのはちと多すぎるだろう。闊達で素晴らしかったのは事実だが。

10・18(日)小菅優ピアノ・リサイタル 

   サントリーホール (7時)

 ヨーロッパでも活躍する、旬の若手女性ピアニスト、小菅優。期待のリサイタル。
 リスト編曲によるワーグナーの「タンホイザー」序曲で始まった。演奏会のプログラムとしてはやや意表を衝いたアイディアだろう。
 原曲は素晴らしいものであり、リストの編曲も念の入ったものであることは言うまでもないが、ピアノ曲としては結局まとまりのない作品になっているのは確かである。結局ここでは、小菅優が卓越した美しい音色ですべてを救っていた。

 私が最も気に入ったのは、2曲目におかれたシューマンの「交響的練習曲」だ。「遺作」からいくつかを加えた演奏ということも面白かったが(ただしその細目は、もう一度聴き直してみないと自信がない)彼女の音楽の音色を含めた瑞々しさは、たとえようもない。

 最後はブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」で、これも美しい。ただし、極度にテンポを落して沈潜にのめりこむ二つのアンダンテ楽章は、時に緊張感を失う傾向があるように感じられたのだが、どうだろう。特に第2楽章で、複合3部形式のそれぞれの部分における主題の性格の対比が明確でなくなっていたのには、私としては些か疑問が残る。

10・18(日)アレクサンドル・ラザレフ指揮
日本フィルハーモニー交響楽団

    東京芸術劇場 (マチネー)

 最初にハチャトゥリアンの「スパルタクス」から「アダージョ」など3曲。ラザレフらしくダイナミックに鳴らすこと、鳴らすこと。
 しかし日本フィルも、今年の初め頃――ラザレフが着任した頃とは既に大違いで、大音響で演奏した場合でも音色に濁りがほとんどなくなっている。弦も濃い艶のある音色で歌い、管も良いバランスで躍動的なリズムを追う。

 第2部で演奏されたチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」も同様だ。第2楽章の妖精の音楽がこれほど幻想的に軽やかに、かつ色彩的な変化を以て演奏されるのを聴いたのは、あえて言えば、昔のロジェストヴェンスキーとモスクワ放送響によるレコード以来のことである。
 第4楽章大詰め、阿鼻叫喚の場面が過ぎ、曲が悲劇的に結ばれるあたりの管楽器の終結和音も、絶品であった。

 日本フィルがここまで復調して来たのは、実にうれしいことだ。対照的な性格を持つ2人の指揮者――ラザレフとインキネンの力でオーケストラが良い個性を備えるようになれば、めでたい話である。ただし、それが常時のものとして長続きしなければ何にもならないのだが――。

 「スパルタクス」に続いて演奏されたグリエールの「コロラトゥーラ協奏曲」は、ソプラノのヴォカリーズとオーケストラのための2楽章からなる作品で、一頃ヒットしたグレツキの「悲歌」の先輩格に当たる作品だが、こちらは全篇15分ほどにわたりソプラノ・ソロが活躍する。叙情的な曲想とはいえ、歌うのは結構大変だろう。幸田浩子が美しい歌唱を聴かせてくれた。
 そのあとにラフマニノフの「ヴォカリーズ」――これはアンコールでなく最初からプログラムに組まれていたもの――も歌われた。ただ、この傾向の曲を2つ続けて聴くというのは、ちょっと新鮮味が薄れる。

 コンサートの最後におかれたアンコールは、これまたいかにもラザレフらしいユーモアにあふれた演奏で、曲はチャイコフスキーの「4羽の白鳥の踊り」――というよりは「おかしな白鳥の踊り」と言った方がいいようなもの。低弦のピチカートを突如大音響で轟かせるなど楽器のバランスを大きく変えた面白い演奏で、ラザレフが白鳥を真似た格好で指揮、聴衆を笑わせ、愉しませた。


«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

来訪者

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」