2009-11

11・5(木)マルク・ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊

  東京オペラシティコンサートホール

 「ルーヴルの音楽家たち」という名のオーケストラ。今回がなんと初来日。ルーヴル宮に直接関係があるわけではなく、ミンコフスキの両親の家がルーヴル宮の前にあったため、そういう名にしたのだとか。

 曲順が変更になり、前半にラモーの「もう一つのサンフォニー・イマジネール(空想のシンフォニー)」が演奏された。ラモーの作品からミンコフスキが選んで配列した40分ほどの組曲風の作品である。この豪華で洗練されたセンスの演奏は、フランスのピリオド楽器オーケストラの真骨頂だろう。細部のアンサンブルがどうという難癖は無益。その沸き立つような音楽づくりは、見事というほかない。

 更に素晴らしかったのは、後半に演奏されたモーツァルトの「ポストホルン・セレナード」。「行進曲K.335−1(320a−1)」を先導として全7楽章、瑞々しい躍動にあふれる。こういうモーツァルトはいい。第1楽章終結部における、たたみ込み、追い上げて行く呼吸の巧さ。ワクワクさせられるほど小気味よい演奏だ。
 ポストホルンの楽章では、トランペット奏者がポストホルンを吹きながら自転車で舞台中を走り回り、郵便を配達するという洒落っ気を披露し、われわれを愉しませてくれた。

 アンコールは、最初にラモーの「優雅なインドの国々」から、ドラムの音も豪快な「トルコの踊り」(と発表されていたが、いわゆる「タンブーラン」だろう)。
 2曲目に、モーツァルトの「ハフナー・セレナード」からの「ロンド」。
 最後にグルックのバレエ・パントマイム「ドン・ジュアン」から「怒りの舞い」(とミンコフスキはアナウンスしたが、つまり同バレエのフィナーレの音楽にあたる曲。「オルフェオとエウリディーチェ」の「復讐の女神の踊り」に転用されている)。
 どれも颯爽たる演奏だ。「ロンド」をこれほど痛快な快速テンポでこなした演奏はそう多くないだろう。また「ドン・ジュアン」のフィナーレをこれほど凄愴な迫力で演奏したものは、1959年ザルツブルクでのカラヤン(グラモフォンPOCG−1703〜4)以来ではないかという気がする。

 たまった疲れも吹き飛ぶような、胸のすくようなコンサートであった。
 なお、あとで朝日新聞のY記者から聞いたところによれば、ロビーには「自転車提供 日本郵便金沢支社」というクレジットが掲示されていたとのこと。なるほど、やることが徹底している。

11・4(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響楽団
(来日公演最終日)

  サントリーホール

 一頃はこのコンビ、果たして相性がいいと言えるのだろうか、と疑われる時期もあったが、今夜の演奏を聴くと、そんな心配も無益に終ったようだ。

 プログラム後半におかれた、目当てのラフマニノフの「第2交響曲」。
 この曲特有の、そこはかとない哀愁と甘美な暗さは消え、明るい陽光をあびて輝く叙情の織物――という感の演奏になっていて、あまり私の好みのタイプではないものの、まあそれはそれで善いだろう。
 パーヴォはオーケストラの響きを内声部の動きがはっきり解るように音を組み立てる人ではなく、しばしばサウンドを(意図的に?)団子状態の硬い音塊にさせてしまう。それが気になるところだ。それでも、全曲最後のクライマックスでオーケストラ全体が大きく息づく個所――ラフマニノフはこういう「もって行き方」が本当に巧い――では、その豊麗な音響に、一種の名状しがたい法悦感を味わったことは事実である。
 一方、アンコールの「悲しきワルツ」では、パーヴォは、その気になれば精妙な音色をオーケストラから易々と引き出せる指揮者であることを如実に証明してみせる。

 その他のプログラムは、アメリカの作品である。バーンスタインの「ディヴェルティメント」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、最後のアンコール曲だったバーンスタインの「キャンディード」序曲、いずれもスピーディに快走するリズムの躍動が好ましく、いかにもアメリカのオーケストラらしい。
 ただ、これがパーヴォとの相性というのか。何か生真面目で、解放感に今ひとつ欠ける表情なのが、物足りない。

 クリスチャン・ツィメルマンがどんな「ラプソディ・イン・ブルー」を弾くのかというのも興味津々だったが、最初の方などショパンを聴いているようで、ニヤリとさせられた。彼のガーシュウィンは一風変わったもので、そういう点の面白さはあるのだが、ただあまり気勢の上らないガーシュウィンであることはたしかだ。

11・3(火)大野和士指揮 フランス国立リヨン歌劇場管弦楽団
マスネ 「ウェルテル」(演奏会形式)

  オーチャードホール (マチネー)

 一昨年12月、ブリュッセルのモネ劇場での上演で彼の指揮する「ウェルテル」を聴いた時には、かなり鋭角的で壮絶な、ウェルテルの破滅に向かって音楽が滔々と流れて行くような演奏に感じられたものであった。
 が、今日は、もう少し叙情的で柔らかい音楽になっていた。これはもちろん、オーケストラの違いにもよるし、しかも今回はよく響くコンサートホールでの演奏であったせいもあろう。

 しかし、非常に劇的で、起伏の大きな演奏であることには変わりない。いわゆる甘美なマスネではなく、悲劇の音楽の作曲家としても見事な手腕を示すマスネ――という作曲家像を浮彫りにするような演奏であった。
 こういう点一つとっても、大野和士のオペラにおける感性というのは、卓越したものだと思う。オペラ指揮者としての大野がたゆみなく前進を続けていることは、どこから見ても疑いない。彼のような優れたオペラ指揮者を擁していることを、われわれ日本人は誇りに思うべきである。

 歌手陣は、ウェルテルにジェイムズ・ヴァレンティ、シャルロットにケイト・オールドリッチ、アルベールにリオネル・ロート、ソフィーにアンヌ=カトリーヌ・ジレ、大法官にアラン・ヴェルヌ、シュミットにバンジャマン・ベルネーム、ヨハンにナビル・スリマン。「ノエル」の児童合唱は東京少年少女合唱隊。いずれも手堅いしっかりした歌唱で、聴き応えは完璧であった。
 欲を言えば、ラストシーンでの児童合唱による舞台裏からの「ノエル」がもう少し明確に聞こえれば、最後の悲劇性がもっと浮彫りにされたのではなかろうか。

 演奏会形式で、歌手はオーケストラの前で歌うが、必要最小限の演技が加えられているので、ドラマの進行は充分に解る。音楽そのものの魅力を隅から隅まで聴こうとするのであれば、あざとい演出などの無い、このような演奏スタイルが一番いい。

11・2(月)リッカルド・シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

    サントリーホール

 メンデルスゾーンの第5交響曲「宗教改革」と、ブルックナーの第4交響曲「ロマンティック」。

 「宗教改革」が、圧倒的に素晴らしい。
 演奏された版も「初稿版」と銘打たれており、現行版とは随所に相違がある。あちこちに聴き慣れない音楽が入っており、特に第4楽章コーダなど、全く別の曲と言ってもいいくらいに違う。こういうところが、何ともワクワクするくらい面白い。

 先日のホグウッド指揮N響の「フィンガルの洞窟」といい、今日の「宗教改革」といい、今まで聴いたことのなかったあれこれの版に接することが出来るのは実にありがたいことだ。が、初稿版やら改訂稿やら新改訂稿やらがいっぺんに現われて来るというのはややこしく、まごつかされる。もっともメンデルスゾーンの場合は、これまであまり研究が進んでいなかったこともあって、それも仕方がないのだろうが。

 しかし今日の演奏は、そのような版の面白さももちろんだったが、演奏自体が実に鮮やかだったことを特筆しておかなくてはならない。
 シャイーの指揮の瑞々しさと晴朗さ、ゲヴァントハウス管弦楽団の堅固ながら弾力的な響きなどが相まって、緊迫感のある構成が創り出される。かくも躍動的で迫力に富んだ「宗教改革」は、これまで聴いたことがなかった。これ1曲聴けただけでも、大満足である。
 後半には「ロマンティック」が演奏された。こちらは、決して悪いというわけではないのだけれども・・・・。

 作品の性格からして今日のゲヴァントハウス管弦楽団は、先日の「巨人」の日のそれよりも、陰翳があって落ち着いた音色を紡ぎ出していた。モダンな感覚を取り入れたドイツ古都のオーケストラ、といった雰囲気だが、しかしやっと聞こえるくらいの極端なピアニシモというのは、やはり昔のドイツの管弦楽団なら出さなかった音だろう。
 ちなみにブルックナーは対向配置で、弦は16−16−14−12−10という編成。

10・31(土)パトリシア・プティボン・オペラ・アリア・コンサート

   東京オペラシティコンサートホール

 2008年4月12日以来、半年ぶりに来日コンサートを聴く。あの時はピアノとの協演だったが、今回はオーケストラ付き。前半にモーツァルト2曲、ハイドン2曲。後半にバーバー、ニコラ・バクリ、レナード・バーンスタイン、ハロルド・アーレン、コール・ポーターのアリアや歌曲。

 前回と同じく、とにかく巧い。美声、悪声、嬌声、奇声、あらゆる声を多彩に使い分ける。あくまでも知的な歌い方だが、ハイドンの「薬剤師」からの「ヴォルピーノのアリア」や、バーンスタインの「キャンディード」からの「着飾って、きらびやかに」などでは、しゃれたユーモアやコケットな雰囲気も聴かせる。舞台姿には華があるし、最初は堅苦しかった聴衆を最後には沸かせてしまうような、ショウ的な感覚にも事欠かない。
 モーツァルトのアリアから「虹の彼方」まで、1本きちんと筋の通った歌唱を聴かせるところなど、実に立派なものであった。

 ピアノとの協演(11月2日)の時には、何か前回と同じようにいろいろな趣向が凝らされるらしいが、今日はほとんどギャグのようなものはない。もっとも、いくら指揮者(デイヴィッド・レヴィ)が一緒にギャグっても、オーケストラ(東京フィル)の楽員たちが全く無反応で、終始クソ真面目な顔で弾いているので、あれじゃあ舞台の雰囲気は盛り上がりようがない。

 そういえば、今日の指揮者のレヴィ。聴いたのは初めてだが、予想外にオーケストラに巧い鳴り方をさせる人だ。アリア・コンサートで、歌の間に挟まれるオーケストラだけの演奏は、多くの場合はつまらないものになりがちだが、今日はモーツァルトの「交響曲第22番」といい、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」といい、なかなか聴かせる演奏であった。
 オーケストラは前述の通り東京フィルで、見事な音を出す個所もあったが、雑なところも少なからずあり、ヘンな音も時々出した。プロなのだから、その日の演奏全部をプロらしく演奏してもらわなければならぬ。ただ、他のオーケストラで拝見するようなお顔もあったので、名前は東京フィルでも、もしかしたら混成部隊だったのかしらん?

10・29(木)三舩優子ピアノ・リサイタル

     東京文化会館小ホール

 早くもデビュー20周年の由。私が彼女の演奏を聴き始めたのは、90年代に行なわれたカザルスホールでの連続リサイタルからだった。
 今夜は満員の聴衆を集めてのリサイタル。FM横浜の番組やNHK−BS2の番組のレギュラーを勤めた美女だけあって、いろいろなジャンルの人たちが聴きに来ていたようである。

 この人の演奏は、極めて骨太で強靭で、豪壮だ。今日の選曲は、彼女の特徴を余すところなく生かすものだろう。プログラムは、CDを出したばかりのバーバーの作品から「バラード」と「遠足」、リストの「巡礼の年」第2年補遺3曲(「ゴンドラを漕ぐ女」「カンツォーネ」「タランテラ」)、ブラームスの「ソナタ第3番」。
 最初の「バラード」には、ちょっとリストの作風を思わせる個所もある。そして、ブラームスのソナタは細かいテンポの動きを示しつつ、きわめて豪快な勢いを備えた演奏であった。それゆえ今日のリサイタルは、あたかも中央におかれたリストの作品を全体のイメージ・テーマとして、あるいは中心モティーフとして選曲され、演奏されたもののようにさえ感じられたのである。

10・28(水)アンドレ・プレヴィン指揮NHK交響楽団のモーツァルト

    サントリーホール

 以前、プレヴィンにインタビューした時のこと。
 「私のモーツァルトの手本は、ブルーノ・ワルターなんですよ」と、彼が言った。
 ああ、なるほど、とこちらも思わず頷いてしまったが、彼はそれを見て「ね、わかるでしょう?」とニッコリ笑った。
 それから20年近くの時が流れた。80歳になったプレヴィンのモーツァルトは、その頃に比べ、更に、いや、はるかに穏やかになった。

 今日はB定期の初日。交響曲第38番「プラハ」に始まり、第39番、第40番というプログラムである。私はどうも「ジュピター」は――どんな演奏スタイルであろうとあまり好きではないので、今回の選曲は、この上なく嬉しい。

 プレヴィンは、3曲ともすべて中庸を得たテンポで指揮した。「39番」の序奏も、昔はこれが普通だった「アダージョ 4分の4拍子」のテンポで演奏してくれた。これも何となく、懐かしいような気分にさせてくれる。
 温かく美しく、ふっくらとした響きの、柔らかい口調でそっと話しかけて来るような演奏だ。春風駘蕩というほどではないにしても、何かそれに近い。アンサンブルは時々ぐらつく時もあったが、そんなことは些事に過ぎない。
 最近のシャープなタイプのモーツァルトに慣れた感覚の中で、たまにこういうモーツァルトを聴くのも快いものである。

 知人たちの大多数が、演奏をクソミソに言っていた。N響の演奏はだらしがない、やる気がない、と。まあ、それは私も必ずしも否定はしない。が、プレヴィンの音楽の雰囲気は決して悪くない。時流とは別に、あれはあれで一つの芸風だろう。

10・27(火)リッカルド・シャイー指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

     サントリーホール

 ドイツの老舗オーケストラ、ゲヴァントハウス管弦楽団――フランツ・コンヴィチュニーが指揮していた時代はレコードでのみ知るだけだが、70年代以降はマズアとの来日公演も含めて、ナマでは何度も聴いて来た。
 今回は、4年前からカペルマイスター(事実上の音楽監督)を勤めているシャイーとの来日だが、予想していたとはいえ、オーケストラの音色の見事な変貌ぶりには、感慨もひとしお。

 プログラムはモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」と、マーラーの「巨人」。
 すべての音が明るくブリリアントで、爽快である。かつてこのオーケストラが持っていた重厚さ、深い陰翳、骨太で頑健なピアニッシモ、質実な表情などはきれいさっぱり拭い去られ、その響きは根底からラテン的な晴朗さに変身していた。
 もっとも、ここまで鮮やかに完璧に変貌してしまうと、好みはともかくとして、別の面白さが湧いて来るというもの。
 モーツァルトはこの上なく美しく、マーラーは痛快なほどに輝かしい。全管弦楽の上を越えて飛んで来る壮烈で開放的なトランペットの音色など、ドイツのオーケストラのそれであるとは信じられないくらいだ。

 もちろん、プログラムによっては、また異なった趣きが生れることだろう。ブルックナーの「ロマンティック」や、メンデルスゾーンの初期稿(!)による「宗教改革」では、どんな演奏が聴けるか、興味をかき立てられる。

 なお、今日の協奏曲でのソロはアラベラ・美歩・シュタインバッハーだった。彼女の演奏も明るく気品があって、颯爽として、シャイーとオーケストラとに呼吸がぴったり合っている。ソロ・アンコールはクライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ・カプリース」だったが、これがまた明朗闊達で、彼女の魅力が満開。

10・24(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
プロコフィエフ「交響曲第3番」他

   サントリーホール (マチネー)

 プロコフィエフ交響曲ツィクルスとしての「第3交響曲」を含む定期。他にチャイコフスキーの「ハムレット」と、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」(ソロは田村響)。

 このツィクルスについて、昨年ラザレフが雑誌のインタビューで、昨年暮れのゲルギエフ&ロンドン響のそれに対抗意識を燃やし、「絶対オレたちの方がいいぞ」と話していた記憶がある。
 それを読んだ時には、オーケストラの比較の上で、「その意気や善し」と思った程度だったが、ラザレフ将軍指揮下の日本フィルの最近の復調ぶりや、今日の「第3交響曲」の――特に両端楽章での演奏を聴くと、やはりあれは単なる大言壮語ではなかった、という気がする。認識を改めなければならぬ。

 オペラ「炎の天使」から採ったモティーフで構成された、この一種凶暴で野性的な「第3交響曲」を、ラザレフと日本フィルは、実に豪壮強大なエネルギーを以て、威嚇的に演奏した。
 全篇これ咆哮の連続だが、それは作品の性格ゆえで、仕方がない。にもかかわらず第4楽章の最初の怒号の個所などでは、オーケストラの響きの均整は守られていた。第3楽章――オペラでは例の「扉を3回叩け」の個所で、悪霊たちが跳梁する場面の音楽だが――では、私はRC席に座っていたので、あの弦楽器の音が左右に閃光のように飛び交う面白い音響効果を充分に体験することはできなかったが、もちろんうまく行っていたことだろう。

 1曲目の「ハムレット」も、荒々しく豪快な演奏だった。1番オーボエの女性奏者は力強く太い音色で、卓越していた。ラザレフがわざわざ前方へ連れ出して指揮台に乗せてカーテンコールに応えさせたのも当然であったろう。
 協奏曲では清澄な音色が繰り広げられ、この指揮者とオーケストラはいつも吼えるばかりではないということを、如実に証明した。ソロの田村もよく弾き、特に第3楽章などでは快い足取りを感じさせたが、やはりモーツァルトは難しい――。これからであろう。

 ラザレフのアンコールは、プロコフィエフの「シンデレラ」からの「ワルツ~コーダ」。あたかもショスタコーヴィチの音楽と見まがうような、皮肉にあふれる演奏であった。

10・22(木)ウィーン音楽祭in OSAKA 2009 第6日
ウィーン楽友協会合唱団 「天地創造」

   いずみホール (大阪)

 昼の新幹線で、博多から再び大阪に戻る。

 ウィーン楽友協会合唱団の来日は30年ぶり――つまり1979年にカラヤン&ベルリン・フィルと来て、普門館でヴェルディの「レクィエム」他を歌って以来だ。もうそんなに年月が経ってしまったのかと思う。
 今回は大阪のみの公演で、今夜のハイドンの「天地創造」と、24日の大植英次指揮大阪フィルとの協演による「ドイツ・レクィエム」との二つを歌うだけ。

 ウィーン楽友協会合唱団(Wiener Singverein)は、今回は70人を超す大編成での登場。
 さすがにその音楽性の素晴しさは、喩えようもない。アンサンブルの精度とか、音色の透明さとかいう点ではもっと上に来る合唱団もあるかもしれないが、ヒューマンな温かさや音楽の馥郁とした香り、無造作なほどの自然な歌唱の裡にあふれる色彩感やドラマティックな迫力、毅然として気品のある風格、といったものに関しては、この合唱団に比肩すべき存在は稀ではなかろうかとさえ思われる。
 とにかく、彼らが歌い出すと、音楽そのものが、まったく別のものに変わってしまうのだ。演奏に突然生気が満ちあふれ、輝きはじめるのである。曲の歌詞に喩えれば、あたかも「神が『光あれ』と仰せになると、そこに光が満ち溢れた」という感か。

 指揮はヨハネス・プリンツ。いかにも合唱指揮者らしい指揮だ。合唱が入る部分になると、オーケストラ(関西フィル)も含めて、途端に見違えるように活気のある音楽になる。ところが、そうでない個所で、オーケストラを強引に引っ張って劇的な盛り上げを創って行くというのは、どうもあまり得意ではないようである。「天地の混沌」時代を描く序奏部分など、第1音からして、これで今日の演奏は成り立つのかと心配になるほど、混沌として自信無げで、生気もなかった。

 が、これは指揮者の制御力の問題だけでなく、オーケストラ自体にまず責任があるだろう。関西フィルハーモニー管弦楽団は、もっと「自ら音楽する」という姿勢を持たなくてはならない。
 日本人の声楽ソリスト3人にしても同様である。幸田浩子だけは清涼な声で気を吐いたが(美しい声だが、それでもこの合唱団の上に飛翔するにはもう少し強い個性と「色合い」が欲しくなる)、男声歌手2人のほうは低音域の声がほとんど聞こえぬ上に、ソット・ヴォーチェやテンポの遅い個所では音程の不安定さがあって、聴き手としては苛々のし通しであった。これだけの演奏会なのだから、歌手の選定には、もっと「峻烈な」配慮が欲しいものである。

 そういうこともあって、今夜の「天地創造」の演奏は、残念ながら「天」と「地」の開きが大きすぎた。「天(=作品及びウィーン楽友協会合唱団)」は、たしかに「神の栄光を語った」のだが・・・・。

10・21(水)ラドミル・エリシュカ指揮九州交響楽団 「わが祖国」

    アクロス福岡シンフォニーホール

 いずみホールの「ウィーン音楽祭」の次の演奏会は、明日である。その合間に一日、大阪から足を延ばして、新幹線で約2時間半、博多に向かう。
 こちら福岡は、九州交響楽団。老巨匠ラドミル・エリシュカ(78歳)に率いられ、連作交響詩「わが祖国」を演奏。まさに入魂の大熱演だ。野武士のような(?)粗さもあるオーケストラだが、これだけ情熱的な演奏をしてくれれば、何の不満があろう。

 エリシュカの「わが祖国」は、(こういう表現はあまり好きではないのだが)もはや神技と言ってもいいのかもしれない。「これは本当に凄い」と腰を浮かせたくなるところが、いくつもあった。それはテンポの動かし方にせよ、デュナーミクのつくり方にせよ、彼の指揮には作為めいたものが一切無く、いかにも自然で、しかも温かい情感と並外れた意志力を感じさせるからにほかならない。

 たとえば第3曲「シャールカ」の終り近く、アマゾネスの大軍が騎士軍陣営に雪崩れ込んで大殺戮を展開する場面――地が揺らぐような勢いでテンポが加速されて行く瞬間の緊迫感。チェコの指揮者たちは皆ここが巧いものだが、その中でも今日のエリシュカは、ことのほか見事であった。
 他にもまだある。第4曲「ボヘミアの森と草原より」の後半、沸き立つ感情を抑えがたくテンポが次第に速められて行き、弦楽器群だけが残って一つの走句を反復し続ける個所までの、極めて自然な、しかも情熱に満ちた昂揚。
 第5曲「ターボル」での、絶え間なく押しに押す力。

 「ブラニーク」最後でのトランペットとティンパニの応酬個所は、そのかみのターリヒ=チェコ・フィルがLPで鮮やかな決まりを聴かせてからあと、ちゃんと正確なリズムで演奏してくれる指揮者とオケにはなかなかお目にかかれなかったのだが、今夜のエリシュカ=九響のそれは実にぴたりと合っていて、完璧に近いエンディングとなっていた。

 これだけ見事にオーケストラを燃え立たせ沸騰させ、また聴き手の心を揺り動かすとは、全く、エリシュカは何という人なのだろう。彼が日本に知られるようになってから、まだほんの2年そこそこしか経っていないのだ。
 彼は今年、先日のN響、来週の札響とあわせ、計三つのオーケストラと「わが祖国」を日本で演奏することになる。私はスケジュールの関係で、今夜の九響との演奏しか聴けない状態なのだが、それでも、たった1回でもこのような体験をさせてもらったことを感謝しなければなるまい。

10・20(火)ウィーン音楽祭 in Osaka 2009 第5日
 中嶋彰子/「月に憑かれたピエロ」

    いずみホール (大阪)

 中嶋彰子(ソプラノ)とニルス・ムース(ピアノ)で、貴志康一の歌曲3曲と、メンデルスゾーンの「未発表曲」を含む歌曲3曲。次にいずみシンフォニエッタ大阪の演奏でシェーンベルクの「浄夜」。最後に同アンサンブルとムースの指揮との協演で、中嶋がシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を歌う。
 東京でも聴けないような意欲的なプログラムだ。6割程度の入りだったが、熱心なお客さんだった。

 冒頭に歌われた貴志康一の「さくらさくら」「赤いかんざし」「かもめ」の3曲に、強烈な衝撃を受ける。
  これほど劇的で痛切な「さくらさくら」は聴いたことがない。もはやこれは魂の慟哭の歌だ。ラメント(哀歌)だ。ピアノも単なる歌曲伴奏ではなく、感情の揺れを雄弁に語る。ペダルで長く引き延ばされる暗く激しいフォルティシモの和音が聴き手をぎょっとさせる。続く「赤いかんざし」にも、あたかも「月に憑かれたピエロ」と共通するような、世紀末的な、奇怪な雰囲気が顔を覗かせる。

 夭折の天才音楽家と言われる貴志康一は、80年近くも前に日本歌曲をここまで展開させていたのか、とただもう驚くばかりだ。西欧的な性格を持たせた――という傾向があるのは否定し得ないけれど、むしろ日本の歌曲を素材にした音楽作品の一つの成功例という意味で、実に素晴しいものがある。
 中嶋彰子もオペラのような歌いぶりで、3曲をまるでバラードか何かのように、ドラマティックに表現した。私はもともと日本の歌がオペラのような発声で歌われるのはあまり好きではないのだが、今夜だけはその説得力にかぶとを脱いだ。もちろん、作品の性格に因る。聴いたのがかりにこの3曲だけだったとしても、わざわざ大阪まで駆けつけた甲斐があったと思う。

 この貴志康一の世界から、そのまま当初の予定通り、ストレートにシェーンベルクの世界に突入できたら好かったのにと思うが、そのあとにムースの解説入りで特別にメンデルスゾーンの歌曲が3つ追加して歌われ、ちょっと気分を削がれた感。
 ただし、そのうちの2曲「子守唄」と「嘲り」は、ムースが入手した「未発表歌曲集楽譜」に収められているもので、いずれも日本初演の由。ムースとしては是非とも紹介したかったのであろう。あとの一つは有名な「歌の翼に」。もちろん、中嶋の歌唱ともども、すべて美しいものであった。

 そしてやっと、シェーンベルクに入る。オリジナルの弦楽六重奏による「浄夜」の演奏は決して悪いものではなかったが、ヴィオラとチェロがしっかりしているのに比べ、ヴァイオリンが少々ひ弱な感があったのが、楽曲全体の見通しを不明確にしていた原因ではなかろうか。
 それゆえ今回の演奏は、標題的にいえば、主人公の男と女は何度も逡巡し口ごもり、最後はあまり浄化されずに、心からの愛情も感じずに、わだかまりを抱いたまま、月に照らされた冬枯れの木立の中を足取りも重く去って行く――といった感じになってしまった。まあ、もともとオリジナルの詩そのものが奇怪なストーリーなのだから、いまどきの解釈としてはこれでもいいのかなと思わないでもないが、演奏水準としてはやはり疑問が湧くだろう。

 最後は「月に憑かれたピエロ」。これはもう、ピアノを含めたアンサンブルの演奏についても、異論を唱えるべき何物もない。中嶋彰子の歌唱も見事の一語に尽きる。滅多に聴けない曲だからという意味ではなく、これだけの演奏を聴けたことは満足であった。それにしても初演以来今年で97年、今なおこの曲は凄さを失っていない。

10・19(月)ジョナサン・ノット指揮バンベルク交響楽団

   サントリーホール

 久しぶりのバンベルク響。先立つ東京公演を聴いた人の何人かがあまり肯定的な感想を口にしていなかったので、それほど期待せずに聴きに出かけたのだが、どうしてこれが、なかなか良い演奏であった。

 プログラムは全ブラームス。
 最初の「悲劇的序曲」からしてすこぶる渋く陰翳の濃い、重厚で深沈たる演奏だ。ノットは最近の若手指揮者がよくやるように、テンポの遅い個所では自ら陶酔するかのように沈潜にのめり込んでしまうので、部分的には少々間延びした演奏になる傾向もあるが、管弦楽全体の響きとしては、良き時代のドイツの地方オーケストラの雰囲気を今なお多分に残しているもの、と言ってよかろう。

 休憩後の「第2交響曲」の方は、第1楽章は何か定まらぬ感のあるバランスの演奏だったが、第2楽章に入ると演奏はガラリ変わり、ドイツのオーケストラならではのしっとりとした美しさが湧き出て来る。
 第4楽章はまさに白熱の快演だ。楽員の全員が、お互いの音を聴きあって演奏している、という雰囲気を如実に感じさせる演奏なのである。
 これは、決して機能的ではないけれど、それより大切なものをまだ持っているオーケストラだ。堅実で、やや素朴で、真摯な音楽を感じさせる、昔ながらのバンベルク響であった。

 とはいえ、指揮者ジョナサン・ノットも、ただ良き伝統の前に膝まづいていたわけではない。第3楽章中間部でブラームスが設定した弾むようなリズムを、ことさら愛らしく軽快に強調する手法は、おそらくノットの感性であろう。全曲の最後の和音を常に全力で演奏させるというのも、なかなか芝居気があって、微笑ましくもある。
 だが、彼が作品の性格に応じてオーケストラを制御できる力量の持主であることを証明する一例は、2曲目に演奏された「ヴァイオリン協奏曲」であった。

 ここではクリスティアン・テツラフの、極度に起伏と振幅の大きい、鮮烈なほどに感情の激しいソロに対抗して、ノットはオーケストラを猛然と煽る。第3楽章など、ケネディを相手にしたテンシュテットか、あるいはハイフェッツと応戦するフリッツ・ライナーかといった猛烈な気迫で、スリリングの極みになっていた。ここではブラームスの満々たる情熱が蘇る。テンポは目覚しく速く、オーケストラの音色も明るく、前述の2曲とは対照的な性格を示していた。

 ジョナサン・ノットとバンベルク響は、一見地味な存在だけれど、その力量はあなどれないものがある。ただこのコンビの演奏は、日によって、あるいは作品の性格によって、かなりムラを生じるタイプのものではなかろうか。
 欲を言えば、せめてアンコールででもいいから、――「ハンガリー舞曲」を2曲もやるのではなく――ノット得意の現代音楽を一つくらい、聴かせてもらいたかった。

 それにしても見事だったのは、クリスティアン・テツラフのソロ。楽器の良さもあるのだろうが、音色はこの上なく美しく、しかも毅然として強い。揺るぎなく正確でありながら、変幻自在の呼吸を併せ持った演奏である。
 ソロ・アンコールでバッハを演奏したが、「ブラームスの文法を理解する前提はバッハに在る」(プログラム掲載文より)と指摘するテツラフの考えからすれば筋が通る。――ただしオーケストラ・コンサートでのソロ・アンコール2曲というのはちと多すぎるだろう。闊達で素晴らしかったのは事実だが。

10・18(日)小菅優ピアノ・リサイタル 

   サントリーホール (7時)

 ヨーロッパでも活躍する、旬の若手女性ピアニスト、小菅優。期待のリサイタル。
 リスト編曲によるワーグナーの「タンホイザー」序曲で始まった。演奏会のプログラムとしてはやや意表を衝いたアイディアだろう。
 原曲は素晴らしいものであり、リストの編曲も念の入ったものであることは言うまでもないが、ピアノ曲としては結局まとまりのない作品になっているのは確かである。結局ここでは、小菅優が卓越した美しい音色ですべてを救っていた。

 私が最も気に入ったのは、2曲目におかれたシューマンの「交響的練習曲」だ。「遺作」からいくつかを加えた演奏ということも面白かったが(ただしその細目は、もう一度聴き直してみないと自信がない)彼女の音楽の音色を含めた瑞々しさは、たとえようもない。

 最後はブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」で、これも美しい。ただし、極度にテンポを落して沈潜にのめりこむ二つのアンダンテ楽章は、時に緊張感を失う傾向があるように感じられたのだが、どうだろう。特に第2楽章で、複合3部形式のそれぞれの部分における主題の性格の対比が明確でなくなっていたのには、私としては些か疑問が残る。

10・18(日)アレクサンドル・ラザレフ指揮
日本フィルハーモニー交響楽団

    東京芸術劇場 (マチネー)

 最初にハチャトゥリアンの「スパルタクス」から「アダージョ」など3曲。ラザレフらしくダイナミックに鳴らすこと、鳴らすこと。
 しかし日本フィルも、今年の初め頃――ラザレフが着任した頃とは既に大違いで、大音響で演奏した場合でも音色に濁りがほとんどなくなっている。弦も濃い艶のある音色で歌い、管も良いバランスで躍動的なリズムを追う。

 第2部で演奏されたチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」も同様だ。第2楽章の妖精の音楽がこれほど幻想的に軽やかに、かつ色彩的な変化を以て演奏されるのを聴いたのは、あえて言えば、昔のロジェストヴェンスキーとモスクワ放送響によるレコード以来のことである。
 第4楽章大詰め、阿鼻叫喚の場面が過ぎ、曲が悲劇的に結ばれるあたりの管楽器の終結和音も、絶品であった。

 日本フィルがここまで復調して来たのは、実にうれしいことだ。対照的な性格を持つ2人の指揮者――ラザレフとインキネンの力でオーケストラが良い個性を備えるようになれば、めでたい話である。ただし、それが常時のものとして長続きしなければ何にもならないのだが――。

 「スパルタクス」に続いて演奏されたグリエールの「コロラトゥーラ協奏曲」は、ソプラノのヴォカリーズとオーケストラのための2楽章からなる作品で、一頃ヒットしたグレツキの「悲歌」の先輩格に当たる作品だが、こちらは全篇15分ほどにわたりソプラノ・ソロが活躍する。叙情的な曲想とはいえ、歌うのは結構大変だろう。幸田浩子が美しい歌唱を聴かせてくれた。
 そのあとにラフマニノフの「ヴォカリーズ」――これはアンコールでなく最初からプログラムに組まれていたもの――も歌われた。ただ、この傾向の曲を2つ続けて聴くというのは、ちょっと新鮮味が薄れる。

 コンサートの最後におかれたアンコールは、これまたいかにもラザレフらしいユーモアにあふれた演奏で、曲はチャイコフスキーの「4羽の白鳥の踊り」――というよりは「おかしな白鳥の踊り」と言った方がいいようなもの。低弦のピチカートを突如大音響で轟かせるなど楽器のバランスを大きく変えた面白い演奏で、ラザレフが白鳥を真似た格好で指揮、聴衆を笑わせ、愉しませた。


10・16(金)バイロイト祝祭ヴァイオリン・クァルテット

   浜離宮朝日ホール

 9月12日の日記に書いた、真峰紀一郎さんらバイロイト音楽祭のオーケストラで長年活躍するヴァイオリニスト4人によるクァルテットの「来日本番」。
 これは、ベルリン・ドイツ響、シュターツカペレ・ドレスデン、アウグスブルク音大(教授)、ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団にそれぞれ所属する奏者たちで2005年夏に結成されたクァルテット。

 ヴァイオリンばかり4本といっても、ヴァイオリンの音域すべてを活用した声部で演奏されるがゆえに、たとえば真峰さんが奏するパートは、しばしばヴィオラに近い音色を聴かせるといったように、その響きはきわめて多彩だ。しかも彼らの音色は、柔らかく美しく、温かいぬくもりに満ちて、この上なく快い。

 テレマンやヴィヴァルディの「4つのヴァイオリンのための協奏曲」をヴァイオリン4本だけのために編曲した作品など、あたかも当初からそのために作られたような感じがして、全く違和感なく聴くことができる。

 今夜は、このクァルテットが委嘱した2つの作品がプログラムに入っていた。一つはフォルカー・キルヒナーの「エッコ・ヴェネツィアーノ」で、「トリスタンとイゾルデ」第3幕前奏曲のモティーフを取り入れた陰翳に富む曲。またラディスラフ・クプコヴィッチの「ローエングリュン・ヴァリエーション」は、「ローエングリン」のいくつかの旋律をパラフレーズした少し明るい曲。――といったように、この2曲は、バイロイト=ワーグナーに因む性格を備えた、なかなか興味深い作品であった。

 シャルル・ダンクラの「4つのヴァイオリンのための8つのヴァリエーション」は、「キラキラ星」の主題による華麗極まる変奏曲だ。イグナツ・ラッヒナーの「4つのヴァイオリンのためのクァルテット」はまさに軽快そのものであり、グラジナ・ヴァシェーヴィッツの同名曲は、シリアスな雰囲気を併せ持っている。そしてもう1曲、「魔笛」からの編曲による小品集もプログラムに加えられていた。

 いわば同質にして、かつ異なる音色の面白さ――が、このヴァイオリンの四重奏の魅力であろう。録音ではどう聞こえるかわからないけれども、音の良いコンサートホールで聴くと、その魅力をはっきりと感じることができる。
 思いがけずこのような珍しい演奏に出会えるというのが、コンサート通いの醍醐味なのだ。

10・12(月)東京室内歌劇場公演
プーランク:「声」&マスネ:「マノンの肖像」

  新国立劇場小劇場

 アレルギー性の咳が止まらないため、前半のプーランクの「声」を観ただけで失礼せざるを得なかった。
 松本美和子が歌い、佐藤正浩が指揮、加藤直が演出。ほぼ正方形の舞台が作られ、その脇、上手側には小編成のアンサンブル(東京室内歌劇場管弦楽団)が配置され、下手側には観客の椅子も置かれるという具合。この規模で音楽的にも演劇的にもしっかりしたものが創られると、充実感が生れる。今回は字幕付フランス語上演。

 「声」は、主人公の女性が独り延々と恋人相手に電話で深刻な話を喋り続ける、というモノ・オペラだが、これまで観た上演では、だいたい「彼女」が苛立ってヒステリックになる表現が多かった。
 しかし今回の上演では、松本美和子は「激しいエゴ的な性格の女性」を排し、控え目ながらもひたむきな愛を抱くといった女性像を描き出していたのである。これは、いかにも日本人に適合した演出解釈とも言えよう。それに、彼女の容姿や雰囲気ともよく合っている。

 そしてまたこの曲では、ソプラノ歌手が己の至芸を誇示せんとばかりに熱演すればするほど、本当に彼女一人の「モノ・オペラ」になってしまい、電話の彼方にいる「相手」の存在が感じられなくなってしまうものだ。
 だが、今日は間違いなく、電話の相手が「どこか」にいた。これが、ベテラン・松本美和子の巧さというものだろう。

10・11(日)マティアス・ゲルネ&ピエール=ロラン・エマール

   東京オペラシティコンサートホール (マチネー)

 ベルクの「4つの歌曲」に始まって、シューマンの「女の愛と生涯」および「リーダークライス」と続く。アンコールは同じくシューマンの「ミルテの花」から2曲。
 マティアス・ゲルネは、私の贔屓の歌手の一人だ。ヴォツェックやパパゲーノなどを歌うと実に素晴らしいし、一昨年9月に東京で歌った「シューベルト3大歌曲集」のドラマティックな起伏に富む解釈と歌唱も大いに気に入っている。

 しかし、今日のシューマンの歌曲となると、ゲルネのその劇的で物々しいスタイルが――強烈で立派であることも含めてだが――やや裏目に出てしまうのではないか。シューベルトとシューマンの歌曲の性格の違いを、あれこれ考えながら興味深く聴かせてもらった次第。
 それゆえ最も印象的だったのは、冒頭におかれたベルクの歌曲だった。穏やかながら突き詰めたような感情の吐露があって、これが今日のハイライト――ゲルネには申し訳ないけれども――であったような気がする。

 これに対して、ピエール=ロラン・エマールのピアノは、どの曲においても美しい。ベルクから切れ目なしにシューマンに移った瞬間、音楽の色合いが滑るように変わって行くあたり、今日のプログラム構成の醍醐味は此処にあったかと思わせる。
 「やわらかく、ひそやかに」――というのは「リーダークライス」第5曲の「月夜」に付された発想記号だが、エマールのピアノは、すべてこのことばのイメージに集約されていたのではないかとさえ感じられたのであった。

10・9(金)アラン・ギルバート指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

  サントリーホール

 すごく厚みがあって、明るくて、豊麗な、大編成の弦楽器群の音色。久しぶりに聴く、これがまさにニューヨーク・フィルの音だ。音楽監督がマゼールだった時も、マズアの時も、あるいはメータの時も、ブーレーズの時代でさえも、もちろんバーンスタインの時にも――その前の時代はナマで聴いたことがないから知らない――この音色は不変だった。

 その意味では、昔から「暴れ馬」とか何とか言われながらも、ニューヨーク・フィルは何十年にも渡って自らの個性を失わない、世界でも稀有なオーケストラということになる。それに、金管も木管も、音色のいいこと。

 その巨大オケに新しく音楽監督として就任したばかりの、日系アメリカ人のアラン・ギルバート。
 几帳面で丁寧で、整然とした音楽づくりだ。1曲目のブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロがフランク・ペーター・ツィンマーマン。これがまた良い!)では、作品の性格からして、そうであっても不思議はない。
 だがアランは、後半のベルリオーズの「幻想交響曲」でもそのスタイルで最後まで押し切った。「夢と情熱」も「舞踏会」も「野の風景」も、全く標題的な性格にこだわらない、ケレン味を排した演奏だ。「断頭台への行進」もグロテスクではなくなるし、「悪魔の祝日の夜の夢」での魔女も妖怪も、何か端然とした佇まいに見える。
 だが、それで演奏がつまらないのかというと、決してそうではない。むしろこの調和の取れた美しい響きは、すこぶる快い。「幻想交響曲」の解釈としては必ずしも当を得ていないだろうが、たとえばこの曲から「ロマン派」というベールを取り除いたらこんな音楽になる――などと考えながら聴いていると、これはこれで意外に面白い。

 あの豪壮雄大な音響をつくるマゼールのあとに、ニューヨーク・フィルがこのような指揮者を新しい音楽監督に選んだというのは、すこぶる興味深い。

10・8(木)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
ベートーヴェン:「ミサ・ソレムニス」

   東京オペラシティコンサートホール

 「ミサ・ソレムニス」は、いつも感じることだが、すこぶる不思議な曲だ。「サンクトゥス」の頌歌の中でヴァイオリンのソロを延々と奏させたり、「アニュス・デイ」の祈りの中には、戦いの音楽を二度も挿入したり。
 前者は、あたかも一つの魂が美しく逍遥しつつ、聖なる世界に参加するかのよう。一方後者では、「憐れみ給え」と祈りながらも不屈の闘争心を燃え上がらせるという、ベートーヴェンの面目が躍如。

 ベートーヴェンはこの作品の中で何を考えていたのか――などと考えながらこの音楽に浸っていると、演奏が少しくらい不備なところがあったとしても、作品の壮大な気宇に引き込まれて、ただもう畏敬の念に打ちのめされてしまう。

 飯守の指揮は、実に情感が豊かだ。これだけ人間味あふれるベートーヴェンは、今日ではそうあちこちで聴ける演奏ではない。今回の演奏では、「アニュス・デイ」に織り込まれた不屈不当の意志に重点を置き、あくまで毅然としたベートーヴェンの姿を描き出すようにして音楽を終結させる――という解釈に感じられたのだが、どうか。

 東京シティ・フィルは、「アニュス・デイ」の中で1ヶ所だけオヤと思わせられるところがあったものの、またヴァイオリン・ソロにはあまり共感できなかったものの、全体としてはよくまとまっていた。東京シティ・フィル・コーアも些か粗いが、健闘した。
 4人の声楽ソリストのそれぞれは見事――大村博美(S)、池田香織(A)、福井敬(T)小鉄和広(B)。4人の声が溶け合っていたとは言えないけれども。

10・4(日)びわ湖ホール公演 沼尻竜典オペラセレクション
ベルク:「ルル」

  滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール (マチネー)

 恒例の、秋のびわ湖ホール・オペラ。
 若杉弘芸術監督時代のヴェルディ9作品(V9)から毎年通い続けて、今年は12年目。所謂「地方オペラ」の既成概念を遥かに越えた上演水準の高さが評判を呼んで、関西のみならず東京からも毎年ファンやジャーナリストたちがどっと押しかける盛況である。

 今年は、ベルクの「ルル」の「ツェルハ補訂3幕版」が取り上げられた。
 指揮が沼尻竜典、演出が佐藤信。6年前の日生劇場上演(3幕版日本初演)もこの2人のコンビで行なわれたが、今回は舞台装置も佐藤信が担当していた。

 舞台は、あたかもスタジオのように照明バーを露出させ吹き抜けにしてしまった天井、奥までガラ空きにした両袖――というつくり。上にも左右にも、反響版の役割をする壁などは一切無い。これは、歌手にとっては負担ではなかったかと思われる。
 少なくとも1階席後方で聴いている限りでは、声の響きは散ってしまい、定位も曖昧になって、客席へまっすぐ聞こえて来ないのである。また舞台の端近くで歌われた時には、袖の空間に声が反響してエコーがついたような音になっていた。
 声ばかりではない。オーケストラでさえもその舞台に影響されて音が散るのか、すこぶる散漫になって、掴み所が無い。唯一幕が降りている時の演奏(間奏曲の部分)のみが、ピットの音響らしいまともさを感じさせるという状態だったのである。

 歌手陣の中でも、ルルの飯田みち代をはじめ、アルヴァの高橋淳、シェーン博士の高橋祐樹ら、みんな声が何となくぼやけてしまっていて、聞き取りにくい。もっともその中で、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢を歌った小山由美だけはさすがに一日の長を示し、声を巧く響かせるのに成功していたようだ。
 第3幕になってやっとみんなの声が聞こえ始めたという印象だが、これは補訂者ツェルハのオーケストレーションがベルクのそれに比べて薄いということなのかもしれない。

 いずれにせよ、歌手たちを責めるのは酷である。
 かように音楽をぼかしてしまったという点で、今回の舞台装置には大いに疑問が残る。また、演出という面から見ても、この演劇性の強いオペラに不可欠な精妙微細な演技が、ほとんど実現できていないように思える。何より、ルルという女性がいったい何を求めて生きているのかが解りやすく描かれないままに終始してしまったのが問題だろう。

 沼尻は、もともとこのような近代・現代の作品を得意としていた人だし、しかも近年は変貌と進境が目覚しいこともあり、6年前の上演の時より更にこの作品への切り込みも深まっているように感じられる。とはいえ前述のアコースティックのせいで、その演奏の効果は、残念ながら今日はほとんど生きて来なかった。

 このホールで彼が指揮したオペラは、「こびと」「ばらの騎士」「サロメ」「トゥーランドット」など、大ヒットが続いていただけに、今回はちょっと惜しい。
 来年は、「トリスタンとイゾルデ」とのこと。

10・3(土)新国立劇場公演 ヴェルディ:「オテロ」 公演5日目

    新国立劇場

 やはり、初日(9月20日)よりも格段にまとまりが良い。

 リッカルド・フリッツァも、今日の指揮を聴くと、過去にこの劇場で聴かせた「マクベス」や「アイーダ」とは比較にならぬくらいの緻密な、かつ起伏の大きな音楽づくりになっているのがわかる。彼の進境も一因だろう。
 弦の弱音個所で緊張感が途切れる傾向がなくもないが、これはオケ・ピットが深すぎて、弱音が物理的にも弱くなり、客席まで響いて来ないからではないかという気もするのだけれど、いかがなものか。

 しかし東京フィルは、初日に比べると、ずっと演奏に勢いがあった。新国立劇場合唱団も同様、冒頭の嵐の場面など、初日は何か散漫で迫力を欠いたけれども、今日は違った。また、NHK東京児童合唱団が加わった第2幕での少人数の合唱は、前回にも増して、旋律的にも和声的に美しい――今回の合唱のハイライトはむしろここにあったようにさえ感じられるほどである。

 シュテファン・グールドは、もう少し演技に微細な表情が欲しいが、しかし今日はデズデーモナの死を悔やみ嘆くラストシーンで見事な歌唱を聴かせていた。非常に情感のこもった歌いぶりであり、道を誤った男の慟哭が痛切に伝わって来る。今日のこの場面一つで、彼のオテロは成功と評価されて然るべきであろう。
 ガッロの悪役ぶりも、初日よりは今日の方が冴えていた。

 今回は2階上手側のバルコン席で観る。舞台の上手部分は見切りになるが、しかし舞台装置の細かい趣向がよく見える。
 第2幕以降、イアーゴの悪魔的な謀りごとが進行する時には、その奸計の象徴たる「運河」の水面に「霧」が拡がる。オテロの心に不安と疑いが強く増して行く瞬間には、その水が音を立てるほどに激しく波立って来る。奸計に取り込まれた時、オテロとデズデーモナもまたその水の中に陥ることになる。

 マリオ・マルトーネの今回の演出は、概して良く出来ている。彼がもう少し日本に長く滞在して演技を指導していれば、もう少し細密な演技が舞台上に展開したかもしれない。
 ただし、助演者としておなじみの原純は、今回も松明を掲げて走り回ったり、酒を注いで回ったり、泥酔したりと、相変わらず精妙な演技を見せていた。第1幕で退場する群集の最後の1人として、チラリとオテロ夫妻の方を振り返ったりするあたり、芸が細かい。脇役がこのようにしっかりした演技を見せると、舞台が面白くなるものだ。

 グルジア出身の素晴らしいソプラノ、タマール・イヴェーリがデズデーモナを歌ったせいか、グルジア出身の関取が3人ほど来ていた。黒海と、あとだれかだろう。普通のシートには無理なので、1階最後方の通路に特別な椅子を並べて腰掛けていたとか。 
 

10・2(金)アジア オーケストラ ウィーク2009初日
タイ・フィルハーモニック管弦楽団

  東京オペラシティコンサートホール

 2002年から毎年続いている「アジア オーケストラ ウィーク」。文化交流のためにも、相互理解のためにも、非常に意義ある催しだ。
 今年の参加オーケストラは他に中国の武漢管弦楽団と、韓国のインチョン(仁川)・フィルハーモニック管弦楽団の計3団体。
 今日のお客さんの入りはまず上々というところか。

 タイ・フィルハーモニックは2004年設立の新しいオーケストラとのこと。15カ国から集まった75名の楽団員を擁している。
 冒頭にプラディープ・スパノロンの指揮で「ロイヤル・アンセム」(国王を讃える頌歌ともいうべく、国歌に次いで重要な公式の曲だそうである)と、タイ古謡「歩む馬」という曲。
 次いで首席指揮者兼芸術顧問グドゥニ・エミルソンの指揮に代わり、サン=サーンスの「チェロ協奏曲第1番」。
 ここまで聴いただけでも、重量感のあるスケールの大きな響き、しっとりと美しく厚みのある弦の音色など、なかなかに優秀な腕前を備えたオーケストラだということが判る。

 「歩む馬」ではパロン・ユエンヨンがラナート(大型の木琴)を華麗に奏した。チェロのソロの若い女性タパリン・チャロンソックは、今日はやや緊張していたのか。
 所用のため、後半のチャイコフスキーの「第4交響曲」が聴けなかったのは痛恨の極みだ。

10・2(金)朗読とピアノ「風をあつめて」第6章

   ムジカーザ (東京・代々木上原) マチネー

 松浦このみの朗読と、西村由紀江の作曲およびピアノで構成される詩と音楽の会。
 開始以来もう10年になるというから立派なものである。私もこれまで、2回ほど聴きに行ったことがある。

 松浦このみは静岡エフエム放送のアナウンサー出身だが、今ではNHK−FMやエフエム東京などへの出演でおなじみだ。紀尾井ホールの「開演ご案内」のアナウンスでいつも聞こえるあの落ち着いた声のご当人――といえば、クラシック音楽分野の人たちも、ははァと思い当たるだろう。朗読の語り口には、聴き手を引き込む力がある。

 今回は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、小川洋子の「ガイド」、ほしばゆみこの「きみのこと 好きだよ」の3作が朗読された。
 やや凄みのある内容を持つ「蜘蛛の糸」以外の2作には、西村由紀江の美しいピアノが交じる。温かい内容の物語と、それを穏やかに彩る音楽とがぴったり合って織り成される時の快さは、筆舌に尽くしがたい。今更改めて言うまでもないことだが、言葉と音楽とは、かくもすばらしく調和するものなのだ――。

9・30(水)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮 読売日本交響楽団
ショスタコーヴィチ:交響曲「1905年」

   サントリーホール

 弦10型で演奏されたモーツァルトの「ジュピター」も毅然として鋭い表情に満ちていたけれど、ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」の壮絶さ、激烈さは、更に圧倒的であった。
 スクロヴァチェフスキ、4日後には86歳。この高齢にしてかくも強い精神力は、どこから生れるのだろう。

 「ペテルブルクの王宮前」(第1楽章)で、スクロヴァチェフスキは、トランペットやホルンのモティーフを、スコア指定のpではなく、むしろ強い音ではっきりと響かせる。冬の夜明けの神秘的な雰囲気こそ薄れるが、この剛直な音づくりによって悲劇の光景を骨太な筆さばきで描き出すことが、彼の狙いなのだろう。
 「永遠の追憶」(第3楽章)における「同志は仆れぬ」の主題なども、悲痛というよりはむしろ「不屈の歌」といったイメージの演奏である。

 読売日響も、今日こそは存分に燃焼していたのではなかろうか。
 これまでにも私たちは、デプリーストと東京都響、ラザレフと日本フィルをはじめ、いくつかの日本のオーケストラによるこの曲の優れた演奏に接して来たが、今回のような演奏を聴くと、オーケストラ自体の威力という点では、やはりこの読売日響は一頭地を抜く存在という感がある。

 たとえば、第4楽章でのチェロとコントラバスのリズムの切れの見事さと、壮烈な緊張感。そして、コーダの昂揚個所では、オーケストラは阿鼻叫喚になるどころか、逆に驚異的なほど調和のとれた響きになって行く。
 しかもその直前の長いイングリッシュ・ホルンのソロは絶品で――かなり骨太な音色であるけれども――断続する各フレーズが決して断片的なイメージになることなく、大きく弧を描くような繋がりを感じさせつつ高く高く上って行き、安らぎと浄化を感じさせたのであった。

 秋のシーズンはまだ始まったばかりだが、この演奏は疑いなく、今シーズンのハイライトとなることだろう。

9・28(月)河村尚子ピアノ・リサイタル

   紀尾井ホール

 大型新人ピアニストのソロ・リサイタル。

 前回(3月24日)にこのホールで聴いたリサイタルは特定会員向けのものだったが、それから僅か半年しかたっていないにもかかわらず、演奏には早くも驚異的なほど深みと多彩さが増している。
 ハイドン、シューマン、メンデルスゾーン、ショパンの作品――と並べたメイン・プロに、アンコールもドビュッシー、シューマン、モーツァルト、ショパン、シューベルトといったようにすこぶる多様な作曲家が選ばれており、それらの作曲家の個性の違いを明確に浮彫りにした見事さにも感服させられた。

 しかもたとえば、同じショパンの作品でも、「華麗なる変奏曲」では左手と右手の声部をそれぞれ鮮やかに浮き立たせて対話のように語らせたかと思えば、「幻想ポロネーズ」では流れるような和声の豊潤さを印象づけ、一方「練習曲作品10−8」では、和声の響きにユニークなバランスを導入して新鮮さを生み出す、といった具合に、それぞれ独創性を発揮させる術にも事欠かない。
 そして、それらを一つの流れに統一しているのは、揺るぎない楽曲構築力、綿密に組み立てられた厚みある和音、重厚で骨太な響きを生む低音の力強さなど、彼女の音楽が持つ独特の個性であるといってもいいのだろう。

 これだけ主張の明確な、思い切りのいい、壮大な演奏をする若手女性ピアニストを聴くと、胸のすくような思いになる。すばらしい人が出て来たものだ。

9・27(日)札幌室内歌劇場 オルフ:オペラ「月」

    札幌サンプラザコンサートホール (マチネー)

 前日のANA最終便(22時15分着)で新千歳空港に入り、ホテルコムズ(旧三井アーバン)に投宿。このホテルは空港建物の一角にあり、窓からは滑走路が見えるし、部屋も結構広い。最終便で着いた時や、翌朝一番で発つ時は至極便利だ。
 今回は、芸術文化振興基金助成金交付関連の調査を兼ねる。

 札幌室内歌劇場(1990年設立)の第38回公演。オルフのオペラ「Der Mond(月)」が、「月を盗んだ話」という題名により、日本語訳で上演される。
 プレトークは芸術監督の岩河智子が行なったが、明快で解りやすい解説であった。プログラムには記載されていないが、別の資料によると、編曲は彼女によるものの由。楽器編成もヴァイオリン、チェロ、フルート(ピッコロ持ち替え)、ピアノ、キーボード(電子楽器)各1となり、曲の形にも手が加えられているが、このような珍しいオペラを手っ取り早く愉しむための手段としては悪くはない試みであろう。
 指揮は柳澤寿男、演出は中津邦仁。

 いかにも手づくりといったプロダクションで、微笑ましさもあり、スタッフや出演者のひたむきさ、涙ぐましいまでの努力が伝わって来る。装置(三宅景子)は、写真で見る前回(2005年)の舞台よりも簡略化されたようでもあるが、ワイヤーで吊り下げられた銀色に発光する巨大な円球(月)を効果的に使用、それなりの面白さが作られていた。器楽アンサンブルの演奏水準も確実であった。

 だが、地方オペラが良くやっており、その努力を高く評価したい――などという玉虫色のお世辞を並べるのは、一所懸命オペラに取り組んでいる人たちに対して、むしろ著しく礼を失することになるだろう。
 それゆえ、私はやはり率直に書いておきたい。
 
 第一の問題は、やはり「劇としての演技」が全く不在の演出にある。
 常に客席を向いて手を拡げて歌い、喋り、あるいは客席に向かって一列に並んで歌い踊り(安物のミュージカルみたいだ)、そうでなければ所在無げに佇むといった所作は、いまどきのオペラの舞台が採るスタイルではない。地方オペラ運動が相も変らずこの段階からスタートしているようでは、先行き時間がかかって仕様があるまい。
 演出家は、前時代的な既成概念に囚われず、もっと現代の感覚を取り入れて欲しいものである。DVDも山ほどあるし、ペーター・コンヴィチュニーの優れた演技指導も日本で行なわれている。参考にできる素材は、いくらでもあるのに。

 第二は、歌詞の発音とセリフの発声に関してだ。
 特に「語り手」役の歌手は、「歌」の発声を優先するのではなく、――それもこの日のような、旧いタイプの日本のソプラノ歌手のような大時代的な発声でなく、歌詞がよく聞き取れるような歌い方をしなくてはならない。またペテロ(今回の表記はペトルス)役の歌手も、特に舞台奥での歌は、何を歌っているのか全く理解できなかった。
 皮肉にも、最も歌詞が明快に聞こえたのは、地下の亡者たちなどの、合唱のアンサンブルであった(これは評価されて然るべきである)。
 そしてセリフの発声も、声を張り上げ、絶叫するという、素人劇みたいなことをやるべきではない。もともと声はいい人たちなのだから、もっと自然に発声できるはずだろう。

 第三には、柳澤寿男の指揮である。極めて丁寧な音楽づくりで、器楽アンサンブルと声楽のバランスも良く、真摯に作品に取り組んでいることは解る。だがオペラとしては、もう少しドラマティックな音楽的演出の流れが欲しいのだ。特に終結へ向けての、亡者たちの乱痴気騒ぎの場のあとの安息の大団円では、音楽に緊迫感が失われ、妙に延々と長くてくどい、という印象を抑え切れなかった。
 これは、もしかしたらテンポの設定にもよるのではなかろうか? パウゼの長さや、セリフのあと音楽に移る「間」の設定が、どうもあまり舞台演劇的(?)でないのである。つまり、クライマックスへの追い込みが造られず、悠々としすぎているような気がするのだが、いかがなものか。

 このプロダクションは、来年1月に新国立劇場の小劇場で「地域招聘公演」として上演されるそうである。儀礼的な拍手だけで済まされるようなことになって欲しくない。どこまで改善できるだろうか?

 21時30分発のANA最終便で帰京。

9・24(木)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮 読売日本交響楽団

   サントリーホール (名曲シリーズ)

 今シーズンを最後に常任指揮者のポストから去るスクロヴァチェフスキの演奏会。今月は3プログラム、4回の演奏会が組まれた。残るは30日の定期。

 前半はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
 オーケストラにあふれる柔らかい安息と叙情がすばらしく、この作品の演奏における一つの典型と言ってもいいほどである。ただしその端整さと、アンドレ・ワッツの極めて自由な(自由すぎる?)感興にあふれたソロとは、些か不思議なギャップを感じさせる。
 それにしてもワッツ、札幌での「皇帝」の時には、こんなにリズムを崩すような演奏はしていなかったが・・・・。

 後半には、スクロバ氏定番のブルックナー。「9番」である。読売日響は痛快なほど鳴り渡った。
 それはいいのだが、なぜか音色が非常に汚い。弦も粗いし、木管は不揃いだし、金管は耳を覆いたくなるほど荒々しい。全曲最後のホルンとワーグナー・テューバ、トロンボーンなどによる終結和音のバランスの悪さは、そのダメ押しとなった。協奏曲に比べると、君子豹変である。
 もともと近年のスクロヴァチェフスキは、細部のバランスやアンサンブルについて気にする人ではない。そして彼のブルックナーは、荘重というよりはむしろ常に壮絶である。それは重々承知の上だ。しかし、それにしてもこれは――。

 昨年、私がインタビューしたロンドン響のある楽員は、「われわれは指揮者のバトン・テクニックに従って演奏するのではなく、指揮者のパーソナリティに反応して演奏するのです」と語っていた。味わうべき言葉だと思う。
 ロンドン響に限らず、世界の一流といわれるオーケストラの人たちは、概してそういう考えを口にしているのである。
 今夜の読売日響も、音楽の骨格の上では、紛れもなくスクロヴァチェフスキのそれを既に具現しているのだ。それならいっそ、音色、アンサンブル、和声上のバランスなどは、指揮者に頼らなくても、みずからの規範に従って創り出してもいいのではなかろうか。

 アルブレヒト時代の読売日響には、そういう自律的な力が備わっていた。だが、彼が去って数年、危惧されたことがそろそろ頭を擡げて来たのではないか? 昔のような、「荒馬のような読響」に戻る傾向なきにしもあらずといった様相が、ここ1年来というもの、演奏には感じられるのだ。
 今の状態だと、来年3月のブルックナーの「8番」は、少々心配になるが・・・・。。

 弁護のために付け加えるが、演奏における音楽のエネルギー自体は、壮烈なものがあった。第2楽章での、冒頭の神秘的な音楽が忽ち轟くリズムの大進軍と化すところなど、ブルックナーの悪魔的な側面を抉り出したような演奏である。第3楽章は「生からの別れ」(ブルックナー)や浄化の世界どころか、ほとんど苦悩の絶叫に近い(音色の問題とは別の次元の話としてだが)。スクロヴァチェフスキのブルックナー解釈はいつもながら人間的で、そこに彼の魅力があるだろう。

9・23(水)クリスティアン・アルミンク指揮
 新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール(マチネー)

 サントリーホール定期。後半にシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」を置き、前半にシュニトケの「モーツァルト・ア・ラ・ハイドン」とシマノフスキの交響曲第4番「協奏交響曲」を演奏するという、この指揮者とオケならではの個性的な、意欲的な曲目編成だ。

 シュニトケは8分ほどの小品で、13人の弦楽器奏者が舞台に点在し、最初は真暗闇の中で演奏を開始、最後は指揮者の気がつかぬうちに退場してしまう、という趣向だが、演奏は確実である。アルミンクも、最後に舞台に誰もいないことに気がつき慌てる様子がサマになっていて、なかなかいい雰囲気。

 「協奏交響曲」でのソリストは、クン=ウー・パイク(白 建宇)。いつもながらの誠実な演奏により、強靭かつ生真面目なシマノフスキ像をつくり出したが、これは少々好みの分かれるところだろう。
 「ザ・グレイト」は意外に正面切った演奏で、均整を保ちながらも多少ロマン的な味を感じさせる。美音を求め、新日本フィルを上品な潤いのある美しさでまとめたのは、やはりウィーン子アルミンクの、シューベルトに対する愛情の表われか?

9・20(日)新国立劇場シーズン開幕公演 ヴェルディ「オテロ」初日

   新国立劇場

 マリオ・マルトーネの演出は、なかなか興味深い。
 水をなみなみと湛えた掘割のような舞台装置は明らかにヴェネツィアの運河を連想させるが、事実、彼の演出ノートを読むと、台本の舞台となっているキプロス島にはこだわらず、イアーゴの心の暗部を象徴する蜘蛛の巣=張りめぐらされた運河=ヴェネツィア=イアーゴの街という発想のもとに、ヴェネツィアに舞台を設定したと判る。

 「運河」の水の色は、イアーゴが奸計を練ったり、オテロの心が濁ったりするのに応じて、さまざまに変わる。第2幕冒頭の「クレード」では、イアーゴは水の中から緑色のヘドロをすくって壁に十字架を描き、それを無造作に水で流し消し去る。そしてオテロは、このイアーゴの悪事の象徴ともいうべき「運河」の中に倒れて息絶える――という具合に、辻褄は合っている。

 第2幕で、さまざまなグループ(声部)のコーラスを舞台の下手や上手に分けて配置し、一種の音響的な面白さを作り出しているところなどは、面白いアイディアだろう。
 ただし、オテロの心に浮かんだ嫉妬の邪念を、安易に舞台上に具現化するのは――デズデーモナに蓮っ葉な行動をさせたり、彼女とカッシオの不倫の現場を見せたりするといったものだが(最近こういうテが流行だが)――どうもそこだけ取って付けたみたいで、ほとんど意味を成さないように感じられるのだけれど、いかがなものか。
 マルゲリータ・バッリの舞台美術、川口雅弘の照明は、よく出来ているだろう。

 オテロのシュテファン(スティーヴン)・グールドは、ドミンゴのような情熱的な演技ではないけれども、体躯が立派なので見栄えがするのは事実だ。ヴェルディのオペラらしい言葉とリズムの歯切れのよさに少々不足するのは彼のキャリアから来る問題だろうが、そのうち改善されるだろう。
 イアーゴはルチオ・ガッロが歌った。以前新国立劇場に出演した時の「西部の娘」の保安官ジャック・ランスを思い出させるようなメイクで、声はそれほど好調ではなかったようだが、しかし結構な悪役ぶりだった。
 デズデーモナを歌ったのは、グルジア出身のタマール・イヴェーリ。私は多分、この人を聴くのは初めてのような気がする。なかなか可憐で清純だし、声も美しく、第4幕での「アヴェ・マリア」など実に情感がこもっていて好ましかった。

 指揮は、リッカルド・フリッツァ。新国立劇場には「マクベス」「アイーダ」に次ぎ3度目の登場。東京フィルを良くリードして、とりわけ美しい弱音を見事につくる。劇的な盛り上げにも過不足はない。
 東京フィルは、ティンパニを加えた最強音が爆発する個所などでは引き締まった音を出したが、しかし第4幕でオテロが寝室に入って来るくだりのコントラバス群のフレーズは何とも下手糞で、この場の不気味な緊張感を台無しにした。こういういい加減な演奏をすることがあるのが、東京フィルの悪い癖だ。このオケに「東京国立歌劇場」を任せておくわけには行かないという非難を蒙るゆえんである。

 なお、新国立劇場合唱団は、ふだんに比べ今日は何故か音が薄い。第1幕冒頭の嵐の場面では、迫力を欠く。メンバーが変ったのか? もっとも、聴く席によって印象が異なるという人もいたので、判断は避けることにしよう。

 細かいところは措くとして、ともあれ今年のシーズン開幕公演、成功と見た。
 

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