2019-09

2019・9・16(月)ベルリオーズ:「ロメオとジュリエット」バレエ付
大野和士指揮東京都交響楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 東京都と東京都響が主催する「サラダ音楽祭 TOKYO MET SalaD MUSIC FESTIVAL 2019」━━「サラダ」とは「Sing and Listen and Dance」の略「SalaD」なのだそうで、これは東京芸術劇場を中心に池袋エリアや日比谷公園などで開催されるクラシック音楽中心の大イヴェント。

 そのメインコンサートが、この大野和士と東京都交響楽団によるベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」だ。
 協演が新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)、谷口睦美(S)、村上公太(T)、妻屋秀和(Bs)の他、今回は安達悦子振付による東京シティ・バレエ団が加わり、福田建太(ロメオ)、斎藤ジュン(ジュリエット)および10人の踊り手たちが出演した。コンサートマスターは矢部達哉。

 この曲がバレエ入りで演奏されるケースは、滅多にないだろう。そのバレエは、ステージ前面で展開される。
 冒頭の「序」の中で早くもバレエが━━言うまでもなくモンタギュー家とキャピュレット家の争闘を描くものだが━━始まった時には少々違和感を覚えないでもなかったが、しかし全曲ぶっ続けにバレエが絡むわけではなく、音楽にすべてを集中させる仕組は当然考慮されている。

 そして、このバレエの振付は極めて音楽とよく調和していて、「舞踏会の場面」ではもちろん巧く効果を発揮しているし、「愛の場面」でもアダージョのあの美しい主題の昂揚とともにパ・ド・ドゥが高々と決められる瞬間など、なかなか感動的だった。
 何より効果的だったのは「墓地の場面」だろう。ここは昔A・Coquardだったかも辛辣に皮肉を述べていたところで、独りよがりの描写的音楽が何を意味しているのやら、バレエか芝居でも入れなければさっぱり解らないと指摘された個所だが、その点、今日のバレエでは、恋人たちが相手の身体に取り縋って悲嘆に暮れるさまが明確に描かれ、音楽の動きと完璧に合体する光景が見られたのである。

 演奏の方は、大野の指揮だけあって、声楽も管弦楽も密度の濃いものであったが、ただ、大野がオケを抑制したのか、あるいはオーケストラの位置の所為か、ステージを前面まで拡げたことによる音響の変化か、それとも反響板の関係か、よく判らないけれども━━何となく「音が遠い」印象で、ベルリオーズの管弦楽法の量感と力感が今一つ客席まであふれ出してこない、という感がしないでもなかった。私が聴いたのはいつもの2階席前方である。

 字幕が付けられていたのは、良いアイディアだった。「恨みを捨てて、友よ、永遠に友情を誓おう」と歌われる最後のシーン。こういう歌詞を含む音楽は、今日この頃、ひときわ心を打つ。

2019・9・15(日)シャブリエ:オペラ・ブーフ「エトワール」(星占い)

      新国立劇場中劇場  3時

 制作と主催は東京オペラ・プロデュース。この団体は、長年にわたり、こういう珍しいオペラを次から次へと手がけており、その意欲と実行力たるや見上げたものである。今年の公演で取り上げたのは、シャブリエの、多少ブラック・ユーモア的な内容の喜劇オペラ「エトワール」(星占い)。

 字幕付フランス語歌詞による上演だが、セリフ部分は日本語。演出が八木清市。飯坂純指揮の東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団と東京オペラ・プロデュース合唱団。
 配役はダブルキャストで、今日は青柳素晴(国王ウーフ1世)、米谷毅彦(占星術師シロコ)、醍醐園佳(行商の美青年ラズリ)、江口二美(隣国の王女ラウラ)他多数の出演である。
 まことに申し訳ないことながら、第1幕が終ったところで野暮用に呼び出され、そのまま失礼せざるのやむなきに至ってしまった。

2019・9・14(土)岩城宏之メモリアルコンサート2019
ユベール・スダーン指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

         石川県立音楽堂コンサートホール  2時

 文化庁文化芸術振興費補助金関連の調査を兼ね、日帰りで聴きに行く。
 風邪気味で鼻炎と咳に悩まされていた上に、連休初日で北陸新幹線は満席、金沢駅前の観光客軍団の大雑踏、それに金沢の予想外の蒸し暑さ等々、あれこれあって、体力的にも気分的にもヘトヘト。

 演奏会の方は、これは定期公演ではなく、OEKの永久名誉音楽監督・岩城宏之を記念したもの。彼の写真がステージに飾られている。
 最初に第13回「岩城宏之音楽賞」の授賞式が行われ、ピアノの鶴見彩が受賞。これは「北陸に縁を持ち、現在優れた音楽活動を行なっている音楽家を顕彰し支援する」目的を持つ賞の由。今年の審査員には木村かをり(岩城宏之夫人)、池辺晋一郎、ユベール・スダーン(OEKプリンシパル・ゲスト・コンダクター)が名を連ねている。

 続いての本番の演奏は、湯浅譲二の「ピアノ・コンチェルティーノ」(ソリストは木村かをり)、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソリストは鶴見彩)、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」というプログラム。コンサートマスターは町田琴和(客演)。

 「コンチェルティーノ」は、OEKの委嘱作品で、1994年の岩城宏之指揮による初演時にも木村かをりがソロを弾いていたはず。
 この曲は、つい最近(2017年10月30日)にも杉山洋一指揮の都響と児玉桃の演奏で聴いたばかりだが、作品に備わる透明清澄な音色を率直に再現していたという点では、その時の演奏の方に分があったと思われる。
 もっとも、今日は上手側2階のバルコン席という、あまりにオーケストラとピアノの中に耳を突っ込み過ぎた(?)位置で聴いた所為で、少々乾いた演奏という印象を得たのかもしれない。それはベートーヴェンの「4番」の時も同様であった。

 「第5交響曲」では、スダーンは、OEKを鋭角的に響かせていた。あの東京響を、長年にわたり、あれほど厳格な指揮で制御し、独特の響きを構築していた彼が、小編成のOEKを相手にどのような大シンフォニーを響かせるのか、興味津々だったのだが━━。
 しかし、それにはかなりの綿密かつ慎重なリハーサルを必要とするだろう。今日のスダーンは、特に第3楽章などで、かなり弱音を重視した構築を行なっていた。第1ヴァイオリン、オーボエ、クラリネットなどが、このピアニッシモを巧く響かせたり、おっと、と思わせたりする瞬間がリアルに聴き取れるなどというのは善し悪しだが、それもこれも、オケに近い位置で聴いた所為である。

2019・9・13(金)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 ヴィヴァルディの「四季」とホルストの「惑星」というプログラムによる定期。

 前者は弦6・4・4・3・2およびチェンバロ、ソロ・ヴァイオリンに木嶋真優という編成で、136名(オーケストラ年鑑2018)を擁するオケとしては何だか効率の悪い(?)ステージだったが、とにかく木嶋真優のソロが活きのいい快演を聴かせてくれた。
 バッティストーニのだか誰のだか定かでない不気味なハミングが折角の流麗な演奏のカンタービレと音色とをしばしば濁らせていたことを除けば、なかなか良い「四季」だったと言えただろう。

 この日のプログラムのポイントは、小編成と大編成のオーケストラの響きのコントラストにあったようである。
 「惑星」はいかにもバッティストーニらしく、東京フィルを渾身の力で鳴らしての元気いっぱいの指揮だ。オーケストラは些か騒がしく、まとまりはあまり良いとは言えなかったものの、曲が曲だし、賑やかな雰囲気でお客さんを楽しませたのは確かだろう。

 終曲の「海王星」での女声合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)。2階のP席の場外で、客席とのドアを閉じたまま響かせたのは、比較的いい音響効果を生んでいただろう。ただ、最後のフェイド・アウトの部分で、何となく仕切りのドアを閉めたようにスパッと音が遠ざかったのは惜しく、もう少しスーッと綺麗に消え行かなかったものかと思うが━━こんなことがいちいち気になるのは、元FM放送ディレクターの性(さが)ゆえである。

 コンサートマスターは三浦章宏。

2019・9・10(火)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 前半に、プフィッツナーの遺作「チェロ協奏曲イ短調」。
 プフィッツナーの作品というのは、私はどうも昔から苦手で、あの晦渋さには辟易させられるのである。いつだったか、放送でそういう発言をしたら、「お前にはあの深淵な哲学的精神が解る耳が無い」という匿名の手紙をもらったことがある。そうかなあとは思ったが、とにかく私には晦渋に感じられるのだから、だれに何と言われようと、譲る気は無い。

 そのプフィッツナーだが━━今日のチェロ協奏曲も相当渋いが、しかし今日のソリスト、ドイツ出身のアルバン・ゲルハルトの明晰な、芯の強い、確信にあふれた演奏で聴くと、その晦渋なイメージもかなりの程度まで払拭されて、むしろ強靭な性格を滲み出させた作品に感じられるのだから面白いものだ。
 ゲルハルトはアンコールにバッハの「組曲第6番」の「プレリュード」を弾いてくれたが、その強固な響きの裡にあふれるしなやかな表情も、実に見事だった。

 休憩後には、お目当てのハンス・ロットの「交響曲ホ長調」。
 出だしの、「エデンの東」主題曲そっくりのあのテーマが、トランペットのソロを含めて不思議に心細げに響き、そのあともオーケストラ全体が唖然とさせられるほどガサガサした、しかも痩せた音だったので、これはいったいどうしたのかと驚いた。
 だが幸いなことに、第1楽章途中からは次第に容が整えられて行き、マーラーの「巨人」そっくりの第3楽章では既に確固とした明るさが戻り、第4楽章では壮大で念入りな歓呼が繰り広げられ、聴衆を沸き立たせることに成功したのだった。

 トランペットを極端に際立たせることなく、全管弦楽のハーモニーの中に均衡を持たせて響かせていた所為か、のちにマーラーがあれほど臆面もなくパクった(?)特徴はあまり目立たずに感じられたのだが、これはヴァイグレの巧みな解釈だったのかもしれない。
 冒頭の不安定な演奏は、多分、かりに翌日も公演があったとしたら、その時は最初からまとまるだろう━━と思わせる類のものである。
 それにしてもこの曲、トライアングルは本当にお疲れさま、である。
 今日のコンサートマスターは小森谷巧。

2019・9・9(月)昭和音楽大学公開シンポジウム
「アジアから世界へ~オペラ公演制作におけるグローバリゼーション」

    昭和音楽大学 ユリホール  6時30分

 大野和士と、ソウル市オペラ団団長でオペラ演出家の李京宰(イ・ギョンジェ)に、韓国のオペラ活動の取材も多い朝日新聞編集委員・吉田純子が加わったトークセッション「世界へのオペラ発信」。

 イ・ギョンジェ氏は、現在の韓国のオペラ活動と教育活動を詳細な資料を駆使して説明、今日の欧米のオペラ界で韓国出身の歌手が如何に活躍を拡げているかを納得させるようなレポートを披露。
 かたやマエストロ大野は、かなり幅広い話で、それが昂じると演壇の椅子から立ち上がって舞台前面まで出て来て大きなジェスチュアを交えつつ体験談を喋り出すというおなじみの盛り上がり。

 ━━まあ、こういうシンポジウムにはつきものの、テーマが絞り切れずに各々が喋りっ放しで終るという形になってしまっていたが、要するにアジアから━━あるいは環太平洋地域からのオペラ発信という意義と展望について意見を交わすということが主要演題だったのだろうと思う。

 いずれにせよ、東アジアから優れたオペラ歌手なり、オペラ指揮者が輩出されるようにという話もいい。アジアの物語や題材を使ったアジアのオペラ発信もいい。だがそれらとて、所詮は西洋音楽(オペラ)への日本や韓国のアーティストの積極的な参画、という段階の話ではなかろうか。

 私が今最大の関心事として悩んでいるのは、肝心の音楽の面で、アジアのオペラが世界的になり得るのか、なり得ないのか、ということである。ウェーバーの「魔弾の射手」や、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」が、ドイツとロシアの各々のオペラの語法を確立したように、日本が泰西のスタイルを真似するのではなく、自らの語法によるオペラを確立させるということが━━果たして出来得るのか、どうなのか? そういう議論もしてくれないだろうか?

2019・9・8(日)大野和士指揮東京都交響楽団&アチュカロ

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 シベリウスの「トゥオネラの白鳥」(イングリッシュ・ホルンのソロは南方聡子)、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはホアキン・アチュカロ)、シベリウスの「交響曲第2番」というプログラム。コンサートマスターは山本友重。

 高齢のピアニスト、アチュカロの演奏は、今年1月の山田和樹&読響でラヴェルのコンチェルトを聴いたばかり(☞2019年1月12日)だが、この人のラフマニノフもまた個性的で面白い。
 全体にゆっくりしたテンポで、所謂ヴィルトゥオーゾ的な華やかさを誇示するスタイルとは全く対極の位置にある演奏だ。しかもそれが奇を衒ったような遅いテンポでなく、音を慈しむように心を込め、しかもスケール感豊かに弾かれるのだから、ラフマニノフという作曲家が通常とは全く異なった顔を持って立ち現れることになる。

 もっとも、第3楽章で、彼特有の民族舞曲のような可笑しなリズムが、ゆっくり、どっしり演奏されると、何だか余計に滑稽に聞こえるのも事実で━━しかも大野と都響が正面からそれに取り組み、全曲のエンディングを地響き立てるように遅い足取りで重々しく締め括ったあたり、微苦笑させられたものだ。
 アチュカロはソロ・アンコールにスクリャービンの「左手のための小品op.9-2(ノクターン)」を弾いたが、そのあたたかい音楽の表情には、無類の素晴らしさがあった。

 大野と都響の聴かせどころ、シベリウスの「第2交響曲」は、強固な構築と厳しい表情を備えた豪壮な演奏だ。第2楽章で繰り返されるクレッシェンドとデクレッシェンド、全曲大詰での全管弦楽の轟々たる昂揚など、金管群の鋭い咆哮が見事な緊張感を生んでいた。

2019・9・7(土)セイジ・オザワ松本フェスティバル
ディエゴ・マテウス指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

     キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 3時

 また松本へ。今年のセイジ・オザワ松本フェスティバル最終公演、「オーケストラB」の演奏会。

 今日はディエゴ・マテウスが指揮。シルベストレ・レブエルタス(1899~1940)の「センセマヤ」、モーツァルトの「ハフナー交響曲」、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」、アンコールにチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」。
 コンサートマスターは「ハフナー」のみ田中直子、他の3曲は豊嶋泰嗣が受け持っていた。

 最終日ゆえに小澤征爾総監督がサプライズで登場するのではないか、と誰もが内心期待していたが、残念ながらついに実現せず。
 10日ほど前には某有力筋から「もしかしたら」と知らされて、「ハフナー」あたりが匂うな、とも思い、一転して数日前には同じ筋から「可能性あまりなし」と情報が入りつつも、しかし前日は元気で練習に立ち会っていたという話を聞いて、それならもしや・・・・と、━━そのあとの今日なのである。現場にはテレビカメラも入っていて、地元はもちろん、東京や大阪の新聞社の記者さんたちもぞろぞろと━━と言った具合に、噂は二転三転していた。
 ただ、今日は終演後に打ち上げパーティがあったので、取材陣はそこで忙しく立ち回っていた。小澤さんは現れなかった。

 それはともかく、このベネズエラ出身のディエゴ・マテウスという若手。
 指揮者への好みが非常にうるさい(らしい)このサイトウ・キネン・オーケストラに、ファビオ・ルイージとともにこれだけ客演しているということは、よほど楽員たちから好まれているのか。それども小澤さんから気に入られているのか。
 私もこれまで彼の指揮を2回聴いている(☞2011年8月26日2018年12月5日)が、良くも悪くも、なかなか情熱的な音楽をつくる人である。

 今日の「センセマヤ」は、民族的性格の強い作品だからともかくとして、「ハフナー」は、古典派音楽の端整さよりも━━変な言い方だが、何かこう、ある種の土俗的な荒々しさに塗り替えた演奏というイメージを抱いてしまった。私にはあまり気に入らない演奏だったが、指揮者が自分のカラーをここまで押し出したモーツァルト演奏という点で、甚だ興味深かったのは確かである。

 その彼の強い個性は、「悲愴」で、極めて効果的な方向で発揮された。この曲の憂愁とか陰翳とかいった性格とは縁の遠い性格の演奏ではあるものの、曲の副題「パセティーク」の本来の意味である「感情豊かな」という言葉にはある意味で合致した指揮だったようだ。
 第1楽章の展開部から再現部にかけては激情の嵐だったし、第4楽章第2主題でも感情の盛り上がりが凄い。休止を挟みながら沈潜する個所になると、その緊張感を維持するのに今一つ、という感があるのだが、いったん情熱的な部分に入ると、本領を発揮する人のようである。
 とはいえ、第3楽章後半が、さながら勝ち誇った壮大な行進曲のようになっていたのには、解釈の上で疑問がある。演奏上の効果こそ絶大なものがあったが。

 指揮者への拍手はすこぶる大きかったが、しかしそれ以上に、サイトウ・キネン・オーケストラに対する聴衆の人気は、やはり圧倒的で、不変なものがあった。このオーケストラが良い演奏をしている限り、このフェスティバルもとりあえずは安泰と思われる。
 ただしこのオケは、あくまで小澤征爾という「錦の御旗」が存在するからこそ集まっているのだ、ということも事実なのだが・・・・。

 打ち上げパーティで愉しく過ごし、最終から1列車前の「あずさ」で帰京。今日は日帰り。
     (別稿)信濃毎日新聞
     (別稿)モーストリー・クラシック11月号「オーケストラ新聞」

2019・9・6(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 フランスの作品と日本の作品を組み合わせるプロ。昨年も9月の定期で同様のプログラムが演奏されていた。いい企画だ。

 今日は最初にサン=サーンスの「サムソンとデリラ」からの「バッカナール」、最後にルーセルの「バッカスとアリアーヌ」第1・第2組曲。真ん中に間宮芳生の「ヴァイオリン協奏曲」と大島ミチルの新作の世界初演という、なかなか個性的な選曲である。
 協奏曲のソロは、今シーズンから日本フィルのコンサートマスターに就任した田野倉雅秋。今日のオケのコンマスは千葉清加が務めた。

 間宮のコンチェルトは、1959年に作曲された「日本フィルシリーズ」の第2作。演奏時間も40分近い長大な作品だ。
 初演を聴いたかどうかは定かでなく、もしかしてレコードで聴いただけだったのかもしれないが、とにかく、昔聴いた時のイメージとは全然違う。オーケストラのパートがさらに多彩で、輝きがあって、起伏が大きく、所謂民族色と言った傾向からも離れて、思索的な、凝縮した力が、昔よりもずっと明確に感じられるのである。
 失礼な言い方ながら、昔の日本のオーケストラの音には何となく「ねずみ色」という雰囲気があったので、作品に含まれたこういう多彩な音色も、今ほどはっきりと表出できなかったのかもしれない。

 間宮氏は今年90歳とのことながら、相変わらずお元気である。カーテンコールでは、客席からステージへ上がる階段や、ステージ袖に近い段差の大きな階段などを独りで難なく上がり降りされるという身の軽さで、聴衆を沸かせた。

 一方、大島ミチルの最新作「Beyond the point of no return」は、この「日本フィルシリーズ」の第42作とのこと。演奏時間約10分、冒頭にこそ「魔法使いの弟子」や「武満節」などのエコーがちらりと顔を覗かせるが、そのあとはひたすらエネルギッシュなリズムが主体となって進む、すこぶる明るい作品だ。
 「日本フィルシリーズ」にこういうストレートな傾向の作品が登場して来たというのも、やはり時代の流れというものだろうか。

 これらを挟んだフランスの2つの「ダンス音楽」では、山田和樹は日本フィルを鳴らしに鳴らし、猛烈果敢な力と大音響で押しまくった。
 「バッカナール」は、ああいう曲(?)だからそれでもいいけれども、ルーセルの場合には、いくら何でも最初から最後まで怒鳴らせ過ぎじゃないのかなあ。大音響自体は悪いことではないけれど、叙情的な個所も何も一緒くたにしたエネルギー優先主義では、この曲の起伏も精妙さも失われてしまう。
 ただし、第2組曲の後半、途中のカットなしに演奏してくれたことは、実によかった。

2019・9・6(金)藤原歌劇団 ロッシーニ;「ランスへの旅」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 藤原歌劇団の公演だが、新国立劇場と東京二期会が共催するという形が採られていて、合唱には3団体のメンバーが━━といっても、もともとこれは大合唱団の出るオペラではないから、せいぜい数人ずつだが━━共演している。ソリストにもわずかながら二期会所属の歌手が加わっている。
 演出が松本重孝、舞台美術は荒田良。

 これは、4年前に日生劇場で上演されたものの再演だ。私も観ている(☞2015年7月4日)ので詳細は省くが、もちろん指揮者も歌手たちも、その時に観たのとは、大半が違う。 
 今回はダブルキャストで計4回の公演が行われているが、これだけの歌手が動員できたということは、最近の藤原歌劇団の強力さを示すものだろう。

 ただ、言っては何だが、中には音程の不確かな人もいて、大勢のソリスト全てに拍手を贈れるというものでもないのである。
 それに今日はBキャストで、もちろん、光岡暁恵(コリンナ)をはじめ、スター的存在の歌手もいるけれども・・・・配役表を見ると、やはりAキャストの方に有名な人たちが多いわけで・・・・。だからどうということではない。失礼。

 イタリア・オペラ、特にロッシーニを得意とする園田隆一郎が東京フィルを指揮して、実にいい演奏を聴かせてくれた。

2019・9・5(木)熊川哲也&バッティストーニの「カルミナ・ブラーナ」

      Bunkamuraオーチャードホール  7時

 熊川哲也の台本・振付・演出と、アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルの演奏による、オルフの「カルミナ・ブラーナ」。

 こうして聴いて、観てみると、オルフの「カルミナ・ブラーナ」は、まさにダンス音楽そのものだ。いや、今回の熊川哲也のプロダクションでは「バレエ」という言葉が使われているから、「バレエ音楽」そのものだと言い直そう。
 今回は一つのストーリーが付けられ、それは女神フォルトゥーナ(中村洋子)と悪魔との間に生れた魔性の青年アドルフ(岡野海斗)との物語だとのこと。そのプロットは、観ていて必ずしも解り易くはないけれども、音楽の動きと見事に合致しているところが気持がいい。すこぶるスリリングで、面白い舞台だった。

 合唱(新国立劇場合唱団、NHK東京児童合唱団)は舞台上に位置し、時に移動し、時には歌いながら踊りに参加する。位置によっては、あまり客席に響いて来ない個所もあったが、とにかくご苦労様でした! 
 声楽ソリスト(今井実希、藤木大地、与那城敬)もその都度、舞台袖に登場して歌う。

 バッティストーニは、バレエに合わせにくかったのか、流れに多少ぎくしゃくしたものを感じさせる個所もあったものの、まずは勢いのいい熱演であった。
 もちろん、字幕は使われていない。

2019・9・4(水)西脇義訓指揮デア・リング東京オーケストラ

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 最近話題になっている、ユニークな楽器配置でユニークな響きを出すオーケストラ、「デア・リング」の生演奏を初めて聴く。これは公演としては第2回にあたるものだそうだ。

 このオケの主宰者であり、指揮者である西脇義訓さんとの付き合いはもう40年以上、彼がフィリップス・レコードのスタッフだった時からだ。温かい、穏やかな感じの人柄が、今でも私たちを惹きつける。
 彼の企画力は当時から抜群で、特に後年には奇抜なアイディアにも長け、「きんさん・ぎんさんのクラシック」(メイン曲がレハールの「金と銀」)というCDとか、「小澤幹雄のやわらかクラシック」(小澤征爾の録音集)というCDなども制作したこともある(後者は私が構成選曲をやらせてもらったものだが)。
 その彼が、バイロイト祝祭劇場の特殊なオーケストラ配置をヒントにして「デア・リング」なるオケを創設したと聞いた時には、ついに豪いことをやり出した、と舌を巻いたものだ。

 今日の演奏会のプログラムは、シューベルトの「未完成交響曲」と、ブルックナーの「第7交響曲」だった。
 「未完成」での楽器配置は、ステージ前面に、各々円形になった弦楽五重奏のグループを4つ並べ、その各々中央に木管の1番奏者たちを配置、而してそれらのグループの背後に2番奏者たち及び金管群を各々分散して配置する、という具合である。

 つまり、各セクションの奏者たち、あるいは1番・2番奏者は、舞台上にバラバラに━━といってももちろん西脇の考えに基づく一定の法則はあるのだろうが━━配置されるため、たとえばフルートやオーボエは舞台のあちこちから聞こえて来る、という仕組になるわけだ。
 プレイヤーの中には、配置の関係で、指揮者に背を向けた姿勢のまま演奏する、という奏者もいる。

 一方ブルックナーでは、ステージ最前列にチェロが1列に並び、2列目と3列目には、下手側に第2ヴァイオリン群、上手側に第1ヴァイオリン群が位置する。そしてその奥に他の楽器群が、各セクションが分解されて配置されるというわけである。全員が正面を向いて並ぶ。半円形になって指揮者を見る、という形ではない。

 こういう配置のオーケストラから響き出す音が、いつも聴き慣れたサウンドとは全く異なって来るのは、いうまでもない。
 今日は1曲目を2階最前列、2曲目を1階席後方で聴いたが、その範囲で単刀直入に言えば━━楽器の定位が明確でない録音を聴いた印象に似ている、ということだろうか。昔、フルトヴェングラーのモノーラル録音を電気的に疑似ステレオ化して話題を呼んだ、あの「ブライトクランク方式」の音を思い出させるのである。
 音の量感はたっぷりと保たれ、オーケストラ全体は混然としながらも一体となり、マッスの力感として響いて来る。内声部の動きは、ナマ演奏であるだけに、楽器によってはブライトクランクよりもずっと明確に聴きとれる。

 一方━━これはブライトクランクとは別個の話だが━━同種の楽器が各所に分散しているために、各パートごとの調和は生まれず、それらの対比も明確にはならない。つまり、スコアそのものが分解されてしまっているのである。ブルックナーの音楽に備わる壮大な量感は保たれているが、彼の音楽に特有な清澄な音色は失われ、時には混濁した巨大な音塊というイメージに陥ることさえある。

 断っておくが、私はこれらを、単に伝統的なオーケストラ・サウンドとは違うから不可ない、などという非難の意味で言っているのではない。その伝統的なオーケストラ配置を分解した手法は、一部の現代音楽では当然のように行われているものだが、その手法を古典派やロマン派の音楽にも適用したかのような前代未聞の試みに接して、今は未だ考え込むだけの段階にとどまっている、というのが正直なところなのである。

 これまでにも、楽器配置を大胆に変更し、新鮮な響きを生み出させることに成功した指揮者の例として、ストコフスキーがいる。だが「響き」は、音楽の重要な要素ではあるものの、あくまでも要素の一つに過ぎない。
 西脇さんがこの試みによって、作曲者の意図から、あるいは作品の性格から何を再創造しようとしているのかは、私には未だよく解らないのだ。だが、いずれにせよその発想の豊かさに、いたく感心させられたことは事実なのである。

2019・9・1(日)パーヴォ・ヤルヴィ&N響 「フィデリオ」

     Bunkamura オーチャードホール  2時

 パーヴォ・ヤルヴィがNHK交響楽団を指揮して、ベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」を演奏会形式で上演した。これは聴きものとして、早くから話題を呼んでいたプログラムである。

 協演は、新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)、アドリエンヌ・ピエチョンカ(レオノーレ)、ミヒャル・シャーデ(夫フロレスタン)、フランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ(牢番ロッコ)、ヴォルフガング・コッホ(刑務所長ドン・ピツァロ)、モイツァ・エルトマン(マルツェリーネ)、大西宇宙(大臣ドン・フェルナンド)、鈴木准(ジャキーノ)といった豪華な顔ぶれ。
 セリフも部分的に取り入れられている。歌手たちはステージ前面に位置し、暗譜で歌い、ドラマの内容を聴衆に理解させるための必要最小限の演技を加えていた。

 顔ぶれもよかったが、聴いてみて、やはり第一に感じたのは━━先日のデュトワと大フィルによる「サロメ」と同様━━演奏会形式オペラの良さ、ということだ。
 舞台に気を取られることなく精神を音楽に集中できる━━とはよく言われることだが、私はそれ以上に、オペラにおけるオーケストラの音楽を存分に堪能できることに魅力を感じるのである。欧米の大歌劇場ならともかく、日本では、ピットの中に入ったオーケストラは貧弱な音になってしまうことが多いのだが(もちろん例外はある)、ステージに乗れば、とにかくフル編成で、オケのパートの緻密さや壮大さを充分に発揮できるからだ。

 今日の「フィデリオ」でも、P・ヤルヴィとN響の強力な、響きのいい演奏のおかげで、ベートーヴェンのオーケストラ・パートの素晴らしさを、余すところなく味わえたのである。たとえば、特に暗い曲想の個所が、ウェーバーやベルリオーズやワーグナーにどれほど大きな影響を与えたか━━つまりこの作品が紛れもなくドイツ・ロマン派オペラの先駆ともなっていることを、改めて強く認識させてくれたのだ。

 パーヴォは、基本的には速いテンポで押し、序曲をはじめいくつかの個所では、さすがのN響も追いつかないくらいの疾風怒濤の演奏をつくった。緊迫感も充分で、とりわけ第1幕後半、ドン・ピツァロが登場して以降の部分は見事なほど劇的な高まりを示していた。
 ただし、第2幕の「大臣到着」の場での、遠方からトランペットが2回響く間の四重唱の個所だけは、パーヴォは劇的な緊迫感よりも、音楽の叙情味の中に没頭してしまったようだった・・・・。

 また今回は「レオノーレ序曲第3番」が、第2幕の前に挿入されていたが、これはドラマの流れの上で、まあ、あってもなくてもいいように感じられた。ただし、演奏はすこぶる立派なものだったが。

 歌手陣。タイトル・ロールのピエチョンカは、後半は声に疲れが出たか、やや硬質な声になったようだが、第1幕のアリアは怒りと正義感とに燃えた圧倒的な歌唱だった━━ここではN響のホルン群が強靭な演奏で彼女の歌を盛り上げた。
 エルトマンの声も美しく、マルツェリーネ役にしては色気があり過ぎるような気配もあったけれども、三重唱などでは清涼な雰囲気を漂わせていた。

 男声陣の方も、ゼーリッヒとコッホは力と滋味にあふれた役者ぶりで、第1幕後半の二重唱を不穏な雰囲気で飾った。シャーデは、獄中のフロレスタンの弱々しさを表現しようとしたのか、変に癖のある歌い方でスタートしたが、やがていつもの伸びのある声を取り戻して行った。
 注目の若手・大西宇宙も安定した歌いぶりだったものの、この大臣役は出番が少ないこともあって、彼の真価を味わうには役不足だったか。鈴木准も同様、このジャキーノという役を歌う歌手は、いつも損な目に遭う。

 なお今回は、いわゆる演出はなかったが、外国人歌手たちはみんな、ドラマの内容をはっきりと解るような身振りを入れてくれた。
 これは、彼らがみんな自分たちで考えてやったのだということである。さすが、歴戦のオペラ歌手たちだ。ちょうど10年前(2009年9月3日)に飯守泰次郎が「ヴァルキューレ」第3幕を演奏会形式で指揮した時、ヴォータンを歌ったラルフ・ルーカスが独自の判断で演技を入れ始めたため、その他の歌手たちがそれに刺激されて、各々が自分で演技を考えて行った(飯守氏談)という例を思い出した。
 その点、今日はジャキーノだけが所在無げで蚊帳の外だったが、これはまあ、役柄の所為もあって仕方がないか。大臣も泰然と構える役なので、これも仕方がない。

 ステージ奥にずらり並んだ新国立劇場合唱団が、兵士や囚人、群衆役で力強い歌唱を聴かせてくれたことにも触れておきたい。

2019・8・30(金)第36回 日本管打楽器コンクール
特別大賞演奏会及び表彰式

     文京シビックホール 大ホール  6時

 日本音楽教育文化振興会主催のコンクール(☞8月24日の項)。
 今日は、今年実施された4部門各々における優勝者計4人が演奏し、その中から、特別審査委員(5名)と各部門審査委員長(4名)の合同審査により「特別大賞」(1名)が選ばれるという仕組。

 山下一史指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団のサポートにより、クラリネット部門第1位の佐藤拓馬がモーツァルトの「協奏曲イ長調」を、ファゴット部門第1位の大内秀介がジャン・フランセの「バス―ンと11の弦楽器のための協奏曲」を、トランペット部門の三村梨紗がアンリ・トマジの「協奏曲」を、テューバ部門の若林毅がジョン・ウィリアムズの「テューバと管弦楽のための協奏曲」を各々演奏した。

 私も特別審査委員の一人として1票を投じたが、実のところは全員が優秀なので、たった1人を選定するには大いに悩んだのが正直なところである。
 結局、「特別大賞」と「聴衆賞」はトランペットの三村梨紗が、「東京シティ・フィル賞」はファゴットの大内秀介が受賞、となった。賞の授与は、尾高忠明運営委員長。

 三村梨紗は、先日のトランペット部門本選で聴いた時と同じように、胸のすくような輝かしい音色で、闊達にトマジのコンチェルトを吹いていた。今日は大ホールということもあって、思い切りよく朗々と音を響かせることもできたのだろう。聴衆へのアピール度においても、極めて優れていたと思われる。
 なお彼女は昨年の「東京音楽コンクール」の金管部門でも優勝しているので、国内コンクールの連続制覇ということになる。

 もう一つ、今回のコンクールには、GVIDO(グイド)MUSICが協賛社として名を連ねていたが、同社からその製品、見開き2面電子楽譜━━これは重さ660g、4000曲分の楽譜が保存でき、価格は16万円あたりだとか━━が、今回の本選入賞者と入選者に無料贈呈される、という、大サプライズがあった。聴衆からは悲鳴とも歓声ともつかぬような、羨望の声が上がっていた。

2019・8・29(木)G・ベンジャミン「リトゥン・オン・スキン」

       サントリーホール  7時

 恒例の「サントリーホール サマーフェスティバル」、今年のプロデューサーは大野和士で、23日から31日までの開催。その一環として、英国の作曲家ジョージ・ベンジャミン(1960年生)が2012年7月にエクサン・プロヴァンス音楽祭で初演したオペラ「リトゥン・オン・スキン」が取り上げられた。
 2回公演の今日は2日目。奥舞台を設置したセミ・ステージ形式上演だ。

 大野和士が東京都交響楽団を指揮。歌手はアンドルー・シュレーダー(プロテクター)、スザンヌ・エルマーク(妻アニエス)、藤木大地(少年、第1の天使)、小林由佳(マリア、第2の天使)、村上公太(ヨハネ、第3の天使)。ダンスは遠藤康行と高瀬譜希子(天使)。

 「スキン」とは、羊皮紙の由。「少年」(写本彩飾師)が書き記した文字と絵に籠められた秘密━━少年とアニエスの秘密の関係、怒れる夫プロテクターの少年殺害と妻アニエスへの惨忍な復讐。それらが幻想的な構成の裡に美しく描かれて行く。
 ジョージ・ベンジャミンの音楽が、いかにも現代英国の作曲家らしく紳士的な雰囲気に満ちていて、またいかにも彼がメシアンの直弟子であることを想起させるような色彩感覚をも備えているので、耳当りもよく、90分の上演時間はあっという間に過ぎてしまう。

 歌手陣も優れた出来だし、大野の手際の良さも特筆すべきものだろう。
 だが、それら演奏の見事さもさることながら、今日最も印象に残ったのは━━そして終演後の話題になったのは、針生康が担当した舞台総合美術のうちの「映像」だった。真っ白な奥舞台の上に設置された、高さ約5メートル、幅20メートル以上もあろうかと思われる巨大なスクリーンに映し出される動画は、驚異的に鮮明で、しかもストーリー性を持ち、演奏との合致も完璧である。その存在の雄弁さ。
 終演後のロビーでは、もしあの映像が無かったら、今日のセミ・ステージ形式上演はどういう印象になったかな、ということまで話題になったほどだった。

2019・8・26(月)第17回 東京音楽コンクール 声楽部門本選

      東京文化会館大ホール  6時

 こちらは東京都歴史文化財団東京文化会館等が主宰するコンクール。今年は木管・ピアノ・声楽の部門に於いて開催された。応募総数は402名の由。

 すでに木管部門は22日に、ピアノ部門は24日に本選を終っている。今夜が締め括りというわけである。
 1階席のほぼ8割5分が聴衆で埋め尽くされるという賑やかさの裡に、現田茂夫指揮東京交響楽団のサポートにより、声楽部門応募者72名から第2次予選までを通過した5人の出場者が登場、オペラのアリアなどを各々3~4曲(各計20分ほど)歌い上げた。

 8時50分から壇上で行なわれた審査結果発表によれば、第1位該当者なし、第2位と聴衆賞が工藤和真(テノール)、第3位が井出壮志朗(バリトン)。以下「入選」が、小川栞奈(ソプラノ)、前川健生(テノール)および竹下裕美(ソプラノ)。

 事実、工藤和真は声質こそ少し地味ながら表現力には傑出したものがあり、井出壮志朗も歌唱のニュアンスにおいて優れたものを出していたと思われる。
 それにしても、1位なしは残念。大島幾雄・審査委員長や小林研一郎・総合審査委員長の審査結果報告や講評は、今年は総体的に「本選に出す前にもっと絞り込んだ方がいいのではないか」のレベルだった、という、恐ろしく辛口のものだったが、なるほど歴戦の歌手たちによる審査委員陣から見れば、そういう厳しい見方になるのだろう。

 とはいえ、私などは、出場者5人ともになかなかスジのいい若者が揃っていたと思いたくなるのであって、小川栞奈は声が明るく美しいし、前川健生も若さに任せた勢いが微笑ましく、「ばらの騎士」のテノールの歌など結構いい雰囲気を出していたという気がする。また竹下裕美も「エフゲニー・オネーギン」の「手紙の場」などという「難しい」ものを取り上げ、あそこまで一所懸命歌った意欲を誉めてあげたいところであった。

 それにまた講評の中で、「オーケストラと溶け合わない」歌い方がかなり強く批評されていたけれども、私としては、むしろ指揮者とオケの方が、いくら何でももう少し歌に「合わせて」演奏してやれないものかね、という印象が、最初から最後まで抜け切れなかった、と言いたいところだ。今夜のオケの演奏は、いかにも機械的で、そこにはどう聴いても、若者たちの歌を盛り上げてやろうとする「温かさ」が感じられなかったのである━━。

2019・8・25(日)セイジ・オザワ松本フェスティバル
ふれあいコンサートⅡ(室内楽)

      ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール) 4時

 3回の演奏会が組まれている室内楽演奏会「ふれあいコンサート」の今日は第2回、ベートーヴェン・プログラム。

 前半は「《ドン・ジョヴァンニ》の《お手をどうぞ》の主題による変奏曲」と、「オーボエ三重奏曲op.87」で、演奏はオーボエがフィリップ・トゥーンドル(シュトゥットガルトSWR響ソロ奏者)とマテュー・ペティジョン(モンテカルロ・フィル・ソロ首席)、イングリッシュ・ホルンがマックス・ヴェルナー(ベルリン・ドイツ響ソロ奏者)。アンコールはユーモラスな編曲の「エリーゼのために」。

 後半は「七重奏曲変ホ長調」。ヴァイオリンをジュリアン・ズルマン(トゥール管コンマス)、ヴィオラを叶澤尚子(名古屋フィル首席)、チェロを上村昇(アルティ四重奏団)、コントラバスを渡邉玲雄(愛知県立芸大教授)、クラリネットをリカルド・モラレス(フィラデルフィア管首席)、ファゴットをマーク・ゴールドバーグ(アメリカン・バレエ・シアター管他)、ホルンをニール・ディーラント(トロント響首席)。
 (以上、肩書はフェスティバル公式プログラム冊子に由る)。

 オーボエのトリオの、水際立った鮮やかさは改めて言うまでもない。
 だがそれ以上に今日の演奏で魅惑されたのは「七重奏曲」の面々だ。ズルマンの小気味よく切れのいいソロと、ディーラントの豪快なホルンとが特に目立ったが、さらにクラリネットとファゴットの柔らかい響きに日本勢の弦の中音域のアンサンブルがしっとりした音色で調和し、実に美しい演奏となった。
 速めのテンポで進みながらも、音楽は落ち着いた豊かな拡がりを感じさせる。特にmoll(短調)のハーモニーのふくよかな陰翳には、うっとりさせられるほどであった。このホールの音響の良さは格別なので、特に弦の響きには魅了させられる。久しぶりにこの「七重奏曲」の魅力を味わった思いだ。

 毎年のことながら、このフェスティバルにおけるいろいろなシリーズの中で、決して当たりはずれの無い演奏会がこの「ふれあいコンサート」である━━といっても言い過ぎではあるまい。

 この「ハーモニーホール」の音響の良さが抜群であることは確かだが、欠点は、会場へのアクセスが極端に悪いことだろう。松本からはJR大糸線でたった2駅、島内駅から徒歩数分の距離だが、この電車が1時間に1本か2本しかない。しかもシャトルバスもない。帰りのタクシーなど期待する方が間違いというほどの過疎状態。結局、最も確実なのは自家用車、ということになるのである。
 ただその分、静かな林の中にある雰囲気の良さは、格別ではあるが。
   (別稿 信濃毎日新聞)
   ☞(別稿)モーストリー・クラシック11月号「オーケストラ新聞」

2019・8・24(土)日本管打楽器コンクール・トランペット部門本選

     TCMホール  1時

 松本から早朝6:50発の「あずさ」で一度帰京し、午後の「2019年第36回日本管打楽器コンクール」(日本音楽教育文化振興会主催)の「トランペット部門」本選に顔を出す。

 今年の同コンクールは、クラリネット、ファゴット、トランペット、テューバの4部門でコンクールが行なわれている。
 私自身は、特別審査委員として名を連ねてはいるものの、この本選までの審査権限はなく、30日の「特別大賞演奏会及び表彰式」での審査が求められているだけなのだが、そうは言っても、本選の審査経過をある程度承知しておかなければならない。

 その本選はいずれも今日午後1時から各々異なる会場━━国立音大、尚美、東京音大、昭和音大━━で開催されるというシステムなので、とりあえずはこのトランペット部門に赴いた次第。
 今日の本選出場者は、平山あかり、浦井宏文、福永亜美、三村梨紗、河原史弥の6人。課題曲のアンリ・トマジの「トランペット協奏曲」をピアノ伴奏で演奏した。誰が優勝したかは、審査終了次第、ホールに掲示されるとアナウンスされていた。

 因みにこのTCMホールは、東京音大の中目黒・代官山キャンパスの一隅に新しく出来たホールで、客席数およそ420、左右非対称の天井と壁は、濃茶の落ち着いた重厚な色彩で固められた造りである。アクセスの点でも、東横線の中目黒の駅から歩いて5~10分程度だし、小規模なリサイタルにはうってつけだろう。

2019・8・23(金)セイジ・オザワ松本フェスティバル
ファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

     キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 7時

 22日の「エフゲニー・オネーギン」(2日目)で題名役を歌ったバキルチは、体調不良のため、初日公演に続いて24日の3回目の上演をも降板するということが今日発表された(代役は初日と同じアンダー・キャストの大西宇宙)。
 クヴィエチェンの代わりにわざわざ来ながら、1回しか歌えなかったとはなさけない、という人もいるが、フェスティバル事務局に話を聞くと、彼は声楽ソリストの中では誰よりも早く(8月1日)日本に来て、一所懸命練習し、一所懸命準備するなど、彼なりに努力していたのだそうだ。それを聞くと、ちょっと可哀想にもなる。
 体調不良とあらば、人間だから致し方ない。次の機会には、元気で来てもらおう。

 さて今日は、ルイージが指揮するサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)の「オーケストラコンサートA」だ。シュミットの「交響曲第4番」と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」が演奏された。コンサートマスターは前者が矢部達哉、後者が豊嶋泰嗣。

 ルイージは予想通り、昨日の「オネーギン」とは打って変わった情熱的な指揮。劇的な起伏に富んだ演奏をSKOから引き出した。
 シュミットの交響曲では緻密で澄んだ音色の弦を中心にスケール感豊かな音楽を構築して、この渋い作品の美しさを浮き彫りにしてくれた。
 一方「巨人」では、テンポを巧みに調整して曲想に更なる変化を与え(第2楽章)、また劇的な頂点に向けて驀進する緊迫感といったもの〈第4楽章〉をもつくり出していた━━こういうドラマティックな表現のせめて半分でも昨夜の公演で出してくれていたら、あんなあっさり味の「オネーギン」にはならなかっただろうに。

 また、この「巨人」の演奏では、スコアの指定を上回るほどのメリハリの強さも印象的だった。特に第2楽章での低弦のリズムのアクセントの強烈さ、第3楽章で木管群から引き出した閃光のような鋭いリズム感も素晴らしい。なお第3楽章冒頭のコントラバスはトゥッティで弾かれていたが、これはソロで演奏されるより、よほど安定していて聴きやすい。
 ともあれルイージは、これまでのSKOとの演奏でも証明されているように、マーラーの交響曲ではとりわけ激烈なアプローチを行なう人である。

 「巨人」のあと、客席は総立ちの熱狂。SKOも相変わらず上手い。本気になった時のこのオーケストラは、並外れた力を発揮する。ルイージも、このフェスティバルでは既に結構な人気を集める存在のようだ。たとえ小澤征爾の指揮でなくても、SKOが良い指揮者のもとでこういう卓越した演奏を続けている限り、SOMも聴衆の支持を集めることができよう。
 ただしこのオケは、指揮者によって演奏に極端なムラを生じさせるのが欠陥で、そこにこのフェスティバルに及ぼしかねない危険性がある。

 9時20分頃終演。250円の切符を買って松本駅行きの直行シャトルバスに乗る。これは大型の観光バス仕様で、結構速い。
    ☞(別稿)信濃毎日新聞
    ☞(別稿)モーストリー・クラシック11月号「オーケストラ新聞」

2019・8・22(木)セイジ・オザワ松本フェスティバル
チャイコフスキー:「エフゲニー・オネーギン」

    まつもと市民芸術館・主ホール  3時

 メイン行事に相応しい規模のオペラ上演としては、2015年の「ベアトリスとベネディクト」以来、実に4年ぶりのものになる。思えば、往にし日々には、小澤征爾が毎年のように意欲的なレパートリーのオペラを繰り出し、われわれも胸を躍らせて松本に参集したものだった。あの時代のフェスティバルの沸き立つ熱気は、凄いものがあったが・・・・。

 この音楽祭でチャイコフスキーのオペラが取り上げられるのは、2007年の小澤征爾の指揮による「スペードの女王」以来である。もちろんこの「エフゲニー・オネーギン」の方も彼は日本で指揮したことがあったが、それはこの音楽祭でではなく、2008年の「東京のオペラの森」においてだった。

 さて、今回の上演の指揮は、ファビオ・ルイージ。
 徹底して抒情的な表現に重点を置いた演奏であった。この作品がもともと「オペラ」でなく「抒情劇」と題されていたことを思えば、ルイージは、まさに作曲者の意図に忠実だったことになる。とはいえ、やはりそれだけでは、作品の弱味をカバーできなくなるだろう。

 その意味で、今日のルイージの指揮は、劇的な迫力を些か欠いた。
 例えば、第2幕でのオネーギンとレンスキーの口論が激して緊張が高まって行く場面、全曲大詰めでの縋るオネーギンと拒否するタチヤーナの息詰まる場面などがそうだ。このような、ドラマティックな追い込みと昂揚が必要な個所では、ルイージの指揮はあまりにサラリとしていて、緊迫度の欠如が感じられ、ドラマティックな起伏の少なさに不満を残したのである。
 ゲルギエフが指揮したMET上演(DVDでも出ている)の演奏が、主人公たちの感情の高まりを見事に描いて迫力を生んでいたのに比べると、その違いはあまりにも大きい。

 ロバート・カーセンの演出は、そのMET上演のプロダクションと基本的に同じものだが、今回はピーター・マクリントックが再演演出を行なったもので、主役陣の演技の細やかさにおいては、あまり徹底されていないようなところも見られる。むしろ、合唱団の方が細かく演技していたようだ━━第2幕、トリケの気障で長たらしい歌にうんざりする男たち、といったように。
 なお今回は、全曲最後でオネーギンが椅子に沈み込み、タチヤーナにあてた手紙を読み返す様子が挿入され、ドラマの幕開きの「オネーギンの回想」場面に戻るという演出になっていた。これはMETの上演には無かった設定だ。だが、今回の手法の方が、ドラマのコンセプトに一貫したものを感じさせるだろう。

 声楽陣は、オネーギンをレヴァント・バキルチ、タチヤーナをアンナ・ネチャエーヴァ、レンスキーをパオロ・ファナーレ、オリガをリンゼイ・アンマン、グレーミン公爵をアレクサンドル・ヴィノグラドフ、ラーリナ夫人をドリス・ランブレヒト、乳母フィリーピエヴナをラリッサ・ジャジコワ(ディアドコーヴァ)、トリケをキース・ジェイムソン、隊長とザレツキーをデイヴィッド・ソアー。合唱が東京オペラシンガーズ━━といった面々。

 この中で、マリウシュ・クヴィエチェンの代役として急遽来日したオネーギン役のバキルチは、まあ、可もなく不可もなし、というところか。演技と歌唱に、もう少し皮肉めいたニヒルな表情が現れていないと、オネーギンという複雑な青年を本質的に描くのは難しいだろう。
 タチヤーナ役のネチャエーヴァは、歌唱、演技ともに手堅い出来。一方、声の豊かさと滋味から言えば、グレーミン公爵役のヴィノグラドフが傑出していたし、またディアドコーヴァが乳母役で出演していたのにも懐かしさを感じさせた。

 だが総じて、今回の顔ぶれは、地味という印象を免れず、中心にだれか1人でも核となる歌手がいれば、もう少し舞台も盛り上がっただろうが━━その点、クヴィエチェンの来日中止は、やはり痛かった。

 ダンサーは東京シティ・バレエ団のメンバー。
 ピットに入っていたのは、矢部達哉をコンサートマスターとするサイトウ・キネン・オーケストラ。演奏の立派さは昔ながらのものだ。小澤征爾が昔のように指揮してくれることが望めなくなった現在、このSKOこそが、フェスティバルの「かなめ」である。

 休憩は1回で、6時15分終演。
     ☞(別稿) 信濃毎日新聞
     ☞(別稿) モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

2019・8・18(日)愛知祝祭管弦楽団「神々の黄昏」

     愛知県芸術劇場 コンサートホール  2時30分

 アマチュア・オーケストラ「愛知祝祭管弦楽団」(団長 佐藤悦雄)が3年前から手掛けて来たワーグナーの4部作「ニーベルングの指環」全曲セミ・ステージ形式上演ツィクルスが、ついに今年の「神々の黄昏」で完成をみた。

 指揮は三澤洋史(同団音楽監督)、コンサートマスターは高橋広(副団長)。
 声楽陣は、大久保亮(ジークフリート)、基村昌代(ブリュンヒルデ)、初鹿野剛(グンター)、成田眞(ハーゲン)、大須賀園枝(グートルーネ)、三輪陽子(ヴァルトラウテ)、大森いちえい(アルベリヒ)、本田美香・船越亜弥・加藤愛(ノルン及びラインの乙女)、愛知祝祭合唱団(合唱指揮・神田豊壽)。
 スタッフは佐藤美晴(演出構成)、礒田有香(舞台監督)、渡辺瑞帆(美術)、吉田真(字幕制作)、その他の人たち。

 なによりも第一に、リーダーの佐藤悦雄団長以下、このオーケストラが一丸となって大プロジェクトに取り組んだ、その意欲と演奏とを讃えたい。これは、紛れもない「偉業」である。
 アマオケが「指環」ツィクルスに挑んだ例はこれが初めてではないが、オーケストラの演奏水準の高さや音楽の濃密さから言えば、この愛知祝祭管のそれは、絶賛に値する。今日はホルン・セクションなどにあれこれ不備があったといっても、その大半は「もし公演に2日目があれば、その時はうまく行くだろう」と思われる類のものに過ぎなかったのである。他の管楽器群も弦楽器群も立派な出来だった。

 特に弦の柔らかい響きは特筆すべきもので、美しい空間的な拡がりを生み出していた。
 ただ一方、その美しさゆえに、部分的には物足りないところもあったことは事実だ。たとえば第2幕後半、ハーゲンとブリュンヒルデとグンターの3人の間にどす黒い陰謀がめぐらされる場面では、そこの音楽に本来備わっているはずの、世界を揺り動かすような悪魔的な性格が充分に表出されていなかった、ということもある。
 第1幕の「ハーゲンの見張り」や、第2幕冒頭の「アルベリヒ父子の場」などのように、テンポの遅い個所では不気味さも充分出ていたのはたしかだが、テンポの速い個所においては、「魔性」を表出する前に、演奏の「勢い」だけが先行してしまった、ということだろうか。

 とはいっても、この楽団は、とにかく、アマオケなのである。ホルンのソロを吹きまくっていた奏者でさえ、プロではなく、スジャータの社員さんなのである。そうした人たちが、これだけの見事な「神々の黄昏」を演奏したのだ。全曲冒頭の重厚な演奏ひとつとってみても、それが下手なプロオケ顔負けの素晴らしさだったことを思えば、これ以上、あれこれ言うことはなかろう。
 三澤洋史の、やや速めのテンポによる、無駄な誇張の一切無い制御により鼓舞されたこのオーケストラは、この大曲の本来の美しさを浮き彫りにして余すところなかったのである。

 一方、ソロ歌手陣はアマチュアでなく、れっきとしたプロ集団だ。
 アルベリヒを歌った大森いちえいは、出番は少ないものの、前作同様に凄みのある歌唱を聴かせてくれた。
 嬉しい驚きはハーゲン役の成田眞で、彼の歌唱はこれまでにもいくつかの脇役で聴いて来たが、今回はまさに彼の本領発揮だろう。底力のある声も魅力である。ドイツ語歌詞に更なるメリハリと鋭い表現力が加われば、個性的なワーグナー・バスとして君臨できること確実だ。

 同様に初鹿野剛も声が素晴らしく、今日は気の弱い領主役のグンター役とあって少々控えめな表現だったが、次はもっと「前へ出る役」で聴いてみたいものだ。
 大久保亮は健闘していたが、この人の声はもともと、ジークフリートのようなヘルデン・テナーのものとは違うのではないか?

 ブリュンヒルデの基村昌代は、最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」に自らの全てをぶつけた、といった感があった。「ヴァルキューレ」から歌って来た彼女の、同役の締め括りというにふさわしい歌唱だったのは間違いない。
 ただ、第2幕までは歌のパワーをセーブしていた感もあって━━特にその第2幕では、ただ旋律的に美しく歌うだけでなく、ドイツ語の歌詞にもっと強靭なメリハリと、言葉の意味を生かした強い表情が欲しいところだった。

 合唱団はオルガン下の席に位置していたが、演技も交えてなかなかの熱演であった。今日は、演技らしい演技をしていたのはその合唱団だけ、という舞台だったのだが・・・・。

 その演出構成は、私が日頃から注目している佐藤美晴。気鋭の若手である。昨年までは小道具も使ったりして、かなりいろいろ仕掛けのあるステージを繰り広げていたのに、今年は不思議なほどシンプルなスタイルの、「限りなく演奏会形式に近いセミ・ステージ形式」という感になっていた。
 そうなるとむしろ、いろいろ加えられる照明が諸刃の剣のようになって来る。今回の舞台は、作品の性格が悲劇であるのにもかかわらず、あまりに煌びやかな光のステージと化してしまっていたのではなかろうか? 全曲大詰の場、ヴァルハル炎上の場面で、きらきら輝く「光の束」が上方から下がって来た時には、なにか別のオペラでも観ているような錯覚に陥ったほどだ。
 彼女が「ワーグナーの夜と霧」の概念を打破し、「神々の黄昏」の物語に別の意味を付与させようとしたのならそれはそれで一つの考え方だろう。しかし、プログラム冊子掲載のコメントを読む限り、必ずしもそういう見解とは解釈できないのだが━━。

 30分の休憩2回を挟み、終演は8時15分頃。
 来年は、9月5日と6日に、「指環」4部作を2回に分けて抜粋演奏するそうである。

2019・8・15(水)ダ・ヴィンチ音楽祭in川口 「オルフェオ物語」

     川口総合文化センター・リリア 音楽ホール  6時30分

 レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年に因む、彼をテーマにした音楽祭(芸術監督・濱田芳通)の一環。これは8月14日から17日まで、リリアで開催されている。

 そのうちのメイン・プログラムともいうべき、このオペラ「オルフェオ物語」は、濱田芳通が代表を務める古楽アンサンブル「アントネッロ」が放った力作だ。
 拡大された編成のアントネッロを、濱田自身がコルネットやドゥセーヌ、クルムホルンなどを吹き分けながら指揮し、中村敬一が演出して、ほぼセミ・ステージに近い形式で上演。オルフェオを坂下忠弘、エウリディーチェとメルクーリオを阿部雅子、ダ・ヴィンチを黒田大介、プルートを弥勒忠史、その他多数の歌手たちが歌い演じていた。

 これは、ダ・ヴィンチが作曲したオペラというわけではない。現存するアンジェロ・ポリツィアーノの台本と、上演に際しダ・ヴィンチが書いた大道具に関するメモが残存すること、そしてダ・ヴィンチの弟子が主役オルフェオを演じた事実━━などから、多分ダ・ヴィンチが上演に関わったであろうことを想定し、この台本に基づき、濱田芳通が当時の多くの作曲家の作品から音楽を借り、編纂構成して当て嵌めた「オペラ」というわけ。
 したがって、ダ・ヴィンチはいわばダシのようなもので、音楽面では徹頭徹尾、濱田芳通が主役的存在である。彼の「作曲に近い編曲」の手腕が発揮された作品、と言っていいだろう。

 ストーリーは、は誰もが知っている有名な「オルフェオとエウリディーチェ」だが、これまでのオペラに多い所謂ハッピーエンド版でも、妻を冥界に奪い返されたオルフェオの悲嘆で結ばれる形とも違って、そのあとに、二度と女性を愛さなくなったオルフェオが「狂乱する女たち」(ここではバッカスの巫女たち)に八つ裂きにされるという、オルフェウス伝説にあるエピソードまで取り入れている。これは興味深い。
 但し、物語の中でダ・ヴィンチ自身が狂言回し役で登場し、オルフェオとホモ関係になるエピソードも織り込まれているけれども、その部分の台本が誰の手によるものかについては、プログラム冊子には載っていない。

 この時代の古楽に関しては、私は不勉強にして全く詳しくないのだが、バッカスの巫女たちが馬鹿騒ぎする最終場面を除いては、編纂された音楽がどれもぴたりと嵌って快い。
 歌の部分は引用元の音楽に対して「替え歌」となるわけだろうが、よくもこれだけ巧く当て嵌めたものだと、ただもう感服するほかはない。シンフォニア的な器楽部分に関しても同様である。
 なお前述の、バッカスの巫女たちの馬鹿騒ぎの場の音楽が「結んで開いて」そっくりのフシだったのには笑った。その前後の音楽には、全然「古楽」のような雰囲気はないのだが、濱田の解説には、ちゃんと出典が明示されている。

 演奏に関しては、全て見事の一語に尽きる。アントネッロの演奏も、主役歌手陣も同様だ。冥界の王プルート役の弥勒忠史の、クラウス・キンスキーのドラキュラみたいなメイクの風貌から響き出すカウンターテナーも傑作だった。

 とはいっても、違和感を覚えた点も、無くはないのだが。
 たとえば、ダ・ヴィンチ━━こちらのメイクは、「のだめカンタービレ」に登場する怪人ミルヒ・ホルスタイン教授役の竹中直人そっくり━━の日本語の芝居部分は長いし、少々しつこい。
 オルフェオとダ・ヴィンチの「おっさんずラブ」場面も、それはそれでアリとしても、もう少し綺麗で、洗練された舞台にならなかったものだろうか。彼らが舞台前面で延々と絡み合っているシーンなど、むしろグロテスクなイメージさえ生んでいた。また、巫女たちの歌唱(発声)と演技も、まるで当節の安もののショウの如し。
 かように、気品のあるスタイルで進めて来た神話の世界を、最後に「今ふう」のくだけた世界に戻すという発想は、新国立劇場の杮落しで上演された團伊玖磨の「建・TAKERU」の、あの大ブーイングを浴びたラストシーンの演出を思い出させる。こういう手法は、概して巧く行ったためしがないのである。

 20分の休憩1回を含み、終演は9時20分頃。

2019・8・11(日)ダン・エッティンガー指揮東京フィル
フェスタサマーミューザKAWASAKI

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 東京フィル桂冠指揮者のダン・エッティンガーが、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、モーツァルトの「フルート協奏曲第1番」(ソリストは高木綾子)、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」を指揮。高木綾子のソロ・アンコールはドビュッシーの「シランクス」。コンサートマスターは三浦章宏。完売、ほぼ満席。

 エッティンガーと東京フィルのコンサートを、ナマで聴くのは久しぶりである。彼もだいぶ貫録がついて来たようだ。オケから引き出す音楽にも、スケール感を増した。とりわけ「悲愴」には、エッティンガーの良さが現われていた。
 彼の指揮するチャイコフスキーの交響曲は、10年近く前に「4番」と「5番」を聴いたことがあるが、それらと同様に、今回の「悲愴」もテンポの動きが大きく、デュナミークの構築も劇的だ。弦もたっぷり鳴らすが、それ以上に管楽器群の動きを目立たせる。

 第1楽章提示部の舞曲調のくだり(モデラート・モッソ)の最後で、クラリネットのソロをまるでジャズのアドリブでもあるかのように極度に目立たせたのには驚いた━━そこでは奏者も実に派手な身振りを見せて、カーテンコールでもひときわ拍手を浴びていた(お客さんもよく見ているものである)。
 また第3楽章での1回目のクレッシェンド(第53小節から)では、各管楽器による主題のモティーフの受け渡しを際立たせ、小気味よいシャープな演奏をつくっていた。

 全曲を通じ、特にホルン群には随所で最強音を際立たせ、トロンボーンにも異様なほど豪快に咆哮させたが、このように金管群の内声部を前面に押し出した演奏は、これまで聴いたことのないほどのものである。晩年のチャイコフスキーの精妙な管弦楽法を浮き彫りにした演奏で、実に面白い。
 ただその代り、弦楽器群の多彩な動きの魅力が犠牲にされたきらいもあっただろう。また、トロンボーンは、ややリアルに過ぎる傾向もなくはなかった。━━といってもこれらは、2CB席ほぼ中央で聴いた印象だから、他の席ではまた異なるバランスが生じていたかもしれない。

 エッティンガーの細かい個所での巧さは枚挙に暇がない。
 たとえば第1楽章第153小節以降のティンパニの最弱音のトレモロの最後を、全てポンとアクセントをつけて結んでいたところなど、凝り過ぎの感じもしたが、スコアを見なおしてみると、それらのトレモロの最後はいずれも8分音符となっているのであって、エッティンガーはまさにスコア通りに、しかもそれを明確に再現させていたのだということが判るのである(これはティンパニをはっきりと叩かせていたから聴きとれたと言える)。

 その他、第1楽章終結部、ロ長調で弦のピッツィカートが下行して行く個所で、髙いロ音に少し強いアクセントを付し、漸弱で下がって行くといった丁寧なつくり、第2楽章中間部で漸強・漸弱の細かい指定を活用して音楽全体を揺れるように構築していたこと、あるいは第4楽章でファゴットが下行して行くその最後で弦に与えた表情豊かな響きなど、━━久しぶりに新鮮な「悲愴交響曲」に巡り合い、この曲の良さを再認識させてもらったように思う。

2019・8・6(火)藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル&ソッリマ
フェスタサマーミューザKAWASAKI

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 今日の登場は、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。指揮は、この4月から同楽団の首席客演指揮者となった藤岡幸夫である。シベリウスの「レンミンカイネンの帰郷」で開始したあと、ジョヴァンニ・ソッリマをソリストに迎えたドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」を演奏した。

 このソッリマの演奏が、とにかく凄い。全身で音楽に没頭するような大きな身振り、時には指揮の身振りまで交えるステージ姿は━━「チェロ界のジミ・ヘンドリックス」と呼ばれるそうだが━━私にはむしろ、そのかみのロストロポーヴィチを思い出させる。
 演奏そのものは、ロストロポーヴィチのそれよりも開放的で明朗で、湧き上る情熱のままに弾いて行くといったタイプ。ドヴォルジャークらしい哀愁や郷愁などからは少し離れるが、その代り、この作曲家がふだん見せない激情や興奮を隠すことなくさらけ出す━━と言ったイメージを連想させる演奏にも喩えられようか。

 第3楽章でソロ・ヴァイオリンと応酬する個所では、コンサートマスターの青木高志(ゲスト)との丁々発止の対決が聴かれた。
 ここも昔N響の演奏会で、コンマスの海野義雄が身を乗り出して挑戦的に弾きまくるのを、「かかって来い」と言わんばかりの身振りで応戦したロストロポーヴィチを彷彿とさせるソロが繰り広げられた。青木の身振りは、海野とは違って端然としていたものの、演奏自体にはそうした気魄の火花が飛び交っていたように思われたのである。藤岡も、ここぞという山場を、がっしりと決めていた。

 ソッリマのソロ・アンコールは、「お知らせボード」によれば、自作の「ナチュラル・ソングブック」の第4・第6、とのこと。これまた超絶技巧で、足を踏み鳴らし、会場の手拍子まで誘うという陽気な作品。ソッリマは、楽器を高々と頭上にあげて拍手に応える。会場は沸いた。

 第2部で、藤岡とシティ・フィルが演奏した大曲は、芥川也寸志の「交響曲第1番」だった。1955年に上田仁指揮東京響により初演された由。
 第4楽章にはプロコフィエフの「第5交響曲」などの影響も聴かれるが、芥川得意のオスティナート手法よりは、むしろ息の長い強烈な咆哮が目立つ。そのあたりは、ショスタコーヴィチの影響とも言えるかもしれない。
 極めて緻密で分厚く、濃密な音づくりで、これでは当時のか細い薄っぺらな響きしか出せぬ日本のオーケストラの演奏では真価が伝わらなかったろう。

 当時の日本の作品の多くに言えることだが、その真の価値は、今日の向上した日本のオーケストラでこそ発揮されるだろう。その意味でも、私たちは、日本の古典作品をもう一度見直してみるべきだ。藤岡幸夫が今後ライフワークとして手がけたいと宣言している、日本の先人作曲家の作品を掘り起こす活動は、大いに意義のあることだと思う。

2019・8・4(日)フェスタサマーミューザ川崎 高関健指揮仙台フィル

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 ミューザ川崎を中心に開催されている真夏恒例の「フェスタサマーミューザKAWASAKI」,今年は7月27日に開幕、8月12日に閉幕する。

 出演のオーケストラは、例年は東京と神奈川のプロ・オケに、川崎市の昭和音大と洗足学園音大の各オケなどだったが、今年はゲストとして仙台フィルハーモニー管弦楽団が加わった。
 なおラインナップには、一昨日のゲルギエフとPMFオーケストラも入っているが、これはあくまで別格的存在という。同フェスタとしては、今後は毎年、地方都市オーケストラをも━━おそらく1団体ずつだが━━ゲストに招いて行こうという腹づもりのようだ。

 仙台フィルは、同団レジデント・コンダクターの高関健の指揮で登場した。プログラムは、ストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは郷古廉)および「交響曲第4番」。
 オーケストラは弦編成12-10-8-6-6の規模で、コントラバスを正面奥に並べた高関の好きな配置。ゲストコンサートマスターは三上亮。

 「サーカス・ポルカ」は、しかし何故か少々ユーモア感に乏しい演奏で、オーケストラの響き全体に仙台フィルらしい精密なトーンが不足し、ただ雑然とした音楽といった印象しか残らない。この巨大なホールのアコースティックに慣れないのか、練習不足なのか、それともサマーコンサートゆえに「寛いだ」のか? アンサンブルにはうるさい高関健の指揮にしては、予想外であった。

 そして実はその傾向は、メインのチャイコフスキーの「4番」の演奏にも聴かれたのである。確かに、部分的には、内声部の動きに面白い響きが生れていたり、いくつかの個所にふだんとは異なる音色やバランスのようなものが聞こえたり(これは彼に詳細を訊ねてみたいところだ)、楽曲全体の構築に高関健らしい「持って行き方の巧さ」が感じられたり、という良さがあったことは事実である。
 問題は、それにもかかわらず、音楽に、それぞれの音の間に、もしくは各パートの間に、何というか一種の不思議な「隙間」のようなものが感じられてならなかった、ということなのだ。

 だが、演奏の面白さ、というものはあった。特に「ヴァイオリン協奏曲」。
 これは、郷古廉の確信に満ちた、骨太で強靭な、しかも切れ味のいいソロによるところも多かっただろう。ハイフェッツやオイストラフが演奏したこの曲と同じく、甘美さよりも、むしろ堂々とした力と風格と押しの強さ━━それらはチャイコフスキーの音楽に本来は備わっている特徴なのだ━━が浮き彫りにされ、聴き慣れたこの協奏曲から新鮮なスリル感も引き出されていたのである。
 さらに郷古廉は、ソロ・アンコールにイザイの「無伴奏ソナタ第5番」の第1楽章を弾いたが、これも稀に聴くような強靭な力にあふれた演奏だった。

 オーケストラが最後にアンコールとして演奏したチャイコフスキーの「悲愴交響曲」の第3楽章には、笑った。
 シンバル2対を炸裂させるなど、威勢のいい演奏だったが、それだけではない。楽譜にうるさい高関ならまさかやるまいと思われた方法━━「序」の部分のあと、第1部を見事にカットして第2部のクレッシェンドに飛び、そのまま最後のクライマックスへ、というのを、本当にやってしまったのである。
 満員御礼の客席は、暑さを吹き飛ばすようなこの曲に沸き返った。「フェスタサマー」はこれでいいのかもしれない。
 ロビーに張り出してあった「アンコール曲のお知らせ」に、「第3楽章」ではなく、几帳面にも「第3楽章より」と書かれていたのには敬意。

2019・8・2(金)ワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ川崎公演

       ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 昨夜と同一のプログラムによる、今年のPMF最終公演。

 あらゆる点で、この3回の公演の仕上げを示すに相応しい、最高の演奏だったと言えよう。
 特にショスタコーヴィチの「第4交響曲」の演奏では、前日に感じた不満のほとんどが解消されていた。トロンボーンやファゴットをはじめ、各パートのソロは昨日とは比較にならぬほど確信に満ちて力強く、音楽に強靭なアクセントを与えていたし、最強奏の際のアンサンブルにも一層の明晰さが生れていた。演奏の表情も、昨日よりはずっと濃かったのではないか? 

 10年以上前のチャイコフスキーの「第5交響曲」での演奏のような変幻自在の神業的なエスプレッシーヴォは望むべくもないが━━作品の性格からして異質なのだから当然ではあるが━━ゲルギエフのオーケストラ・アカデミーのプロジェクトとしては、今年も一定以上の成果を収めることができた、と評していいだろうと思う。

 なお、デョーミンのソロ・アンコールは、今日はドビュッシーの「シランクス」に変わっていた。今後の活躍を祈りたい。
     ☞(別稿)北海道新聞

2019・8・1(木)ワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ東京公演

     サントリーホール  7時

 朝9時のJAL502便で帰京。札幌も異常に暑かったが、東京の湿気の強さに比べれば未だマシだった。札幌滞在中に何故か再発した腰痛の影響もあって、すこぶる意気消沈。
 9年前の坐骨神経痛に悩んだ時もそうだったが、腰痛の身には、サントリーホール2階客席の段差の大きさは、結構こたえるものなのである。今日は第2部のみ、上皇夫妻が2階RB席に臨席されていたが、あの階段の段差はお辛いのではないかと、毎度のことながら、はらはらさせられるのだ。

 今日の東京公演、プログラムはもちろん昨夜と同一。「牧神の午後への前奏曲」は、演奏時間も11分ほどに達していたようだから、やはり相当テンポが遅い方だろう。音楽全体を抑制し、静謐な神秘性の表出に重点を置いているようなゲルギエフの指揮だ。悪くはないが、ちょっと凝り過ぎではないか、という感もなくはない。

 それとは逆に、ゲルギエフの指揮も含めて、昨夜の札幌での演奏とは別もののように伸び伸びとした、闊達な躍動にあふれた演奏になったのが、イベールの「フルート協奏曲」である。マトヴェイ・デョーミンの爽やかな音色のソロが、いっそう映える。
 チャイコフスキー国際コンクールの総帥(組織委員会委員長)となったゲルギエフが新設した部門で第1回の優勝者となったデョーミンとあれば、ゲルギエフが見出したようなもの。その若々しく溌剌とした奏者をカーテンコールで引き立てるゲルギエフの嬉しそうな顔も、ひときわ印象的だった。
 デョーミンのソロ・アンコールは、昨夜と同じ「サラバンド」。他に手持ちはないのかな?

 第2部、ショスタコーヴィチの「第4交響曲」では、昨夜は各パートのトップに座っていた名手ぞろいの「先生たち」の大半が、もういない。残っているのは、ティンパニのデイヴィッド・ハーバートとパーカッションのシンシア・イェ(いずれもシカゴ響)と、ハープの安楽真理子(METオーケストラ)のみである。従って、オーケストラの人数も、少し減っている。
 ゲルギエフも今日は「長い指揮棒」を使って、ほぼアカデミー生のみの若い集団を率いて行く。

 演奏には、首席たちがリードしてつくり出していた昨夜のような色彩感は失われていた━━それも淡彩に過ぎるほどの音色になっていたのが少々残念だ━━とはいえ、その一方、アカデミー生たちには「自分たちで頑張る」という意識が漲っていたのか、音楽のエネルギーは充分なものがあった。若手を鼓舞するゲルギエフの気力は、定評のあるところである。
 第1楽章の練習番号【63】の個所、弦楽器群が目まぐるしく嵐のように狂乱する個所では、昨夜のデイヴィッド・チャンがリードしていた時のような緊迫感と凝縮力は失われていたが、しかし今日コンサートマスターを務めていた村上祥子(NDRエルプフィル・アカデミー)も、実によく責任を果たしていたように思う。

 ただ、前夜に物足りなさを感じた終結部分は、今日の演奏でもやはり同じだった━━若いオケだからか、それともゲルギエフの指揮が昔より淡彩になったのか(それは事実かもしれぬ)、あるいは、その個所での悲劇的な情感は、歴史を背負ったロシア人のオケ以外には共感し難いものだからなのか?
    ☞(別稿) 北海道新聞

2019・7・31〈水〉ワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ

     札幌コンサートホールkitara 大ホール  7時

 7月4日の開幕以来、ほぼ連日、アカデミーの他に室内楽やオーケストラの演奏会が開催されて来た今年の札幌PMF━━その中で、PMFオーケストラもたくさんの演奏会を行なって来た。特にエッシェンバッハが指揮したマーラーの「千人の交響曲」(20、21日)は、絶賛されたと聞く。

 そして今日の最終公演が、たった1回だが芸術監督ゲルギエフの指揮で、という仕組である。プログラムは前出の通り、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、イベールの「フルート協奏曲」(ソロはマトヴェイ・デョーミン)、ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」。

 「牧神」は、GPの際には人々の動きがゴタゴタしていたので気がつかなかったが、この本番では特に開始直後、強い低弦の響きと、間を大きく取ったテンポの遅さが目立ち、音楽全体がシンフォニックな、重厚なイメージになっていたのが印象に残った。
 いっぽう協奏曲では、ゲルギエフとオーケストラはデョーミンとの合わせに神経を使っていたのかな、という感で、リハーサルでの伸び伸びとした演奏とは少々趣きが違った。

 それにしてもこのデョーミンという大柄な青年、実に美しい音を響かせる人である。アンコールではバッハの「パルティータBWV1013」からの「サラバンド」を吹いたが、これも流麗な音色で、ゆっくりしたテンポで創り出すカンタービレはなかなかの美しさだった。
 コンチェルトの方は、多分明日以降の東京・川崎公演でもっと良くなるだろうという気がする。なおこの第1部における2曲では、ゲルギエフも「爪楊枝よりはずっと長い指揮棒」を使ってオケを合わせていた。

 休憩後の「4番」では、コンサートマスターのデイヴィッド・チャン以下、各パートのトップに「PMFアメリカ」の先生たちがずらりと顔を揃え、この難曲をリードする。ゲルギエフもいつものように指揮棒を使わず、「合わせ」よりも、音楽に豊かな表情を持たせることを重視するように、細かい手の動きでオーケストラを導いていた。
 全合奏の音色は必ずしも美しいとは言えなかったが、ステージ狭しと並んだ大編成のオーケストラの量感と力感はさすがに凄まじい。

 ただ、ゲルギエフの指揮としては予想外に、昔のマリインスキー劇場管との演奏に比較して、やや抑制したような表現にとどまっていた、という印象を得たのだが・・・・。
 それに、終曲近く現われるティンパニの連打を交えたクライマックスの個所でも、あるいはそのあとの空虚感と絶望感が漂うエンディングの個所でも、以前のゲルギエフの指揮に比べ、身の毛のよだつような恐怖感と言ったものが、やや薄らいでいたという印象を受けたのである。やはり練習不足の所為か? 明日以降の演奏では、どんな感じになるだろうか。

 これで、札幌滞在を終る。オーケストラも明朝、東京へ移動する。明日のkitaraは、きっと「強者どもが夢のあと」という雰囲気になるのだろう━━。
 因みに来年は、ゲルギエフが「ドン・ジョヴァンニ」を指揮する。PMFとしては、オペラを舞台上演として手掛けるのは初めてになるようだ(演奏会形式上演は過去にもいくつかあった)。
      ☞(別稿) 北海道新聞

2019・7・31(水)ゲルギエフとPMFオーケストラ GP

      札幌コンサートホールkitara 大ホール  正午~4時

 芸術監督ゲルギエフのリハーサルを聴く。
 バイロイトでの指揮との「掛け持ち」だから、良し悪しは別として、相変わらず超人的なエネルギーである。昨夜は、ショスタコーヴィチの「第4交響曲」を通して演奏したという話であった。
 今日は本番前のゲネプロというから、まあそこそこ「通し」でやるのかと思っていたら、いやどうして、この交響曲を、アクセントの一つ一つから、ダイナミックスから、エスプレッシーヴォに至るまで、3時間以上にわたり、猛烈に細かく練習して行ったのである。

 指揮者に絶対服従の素直で優秀なアカデミー生のオケのこと、たとえ練習時間が少なくとも、これだけ濃密なリハーサルを重ねれば、充分に仕上がることだろう。もちろんそれは、事前にクリスチャン・ナップの念入りな下振りがあったればこそ、である。
 ゲルギエフは、練習予定時間の最後の30分で、ドビュッシーとイベールを、詳細な指示を交えながらも、これらはほぼ「通し」でリハーサルして行った。

 私はといえば、PMFから依頼されたゲルギエフへのインタヴューが、今日か、それとも明後日の川崎での本番前か、という流動的な状態で待機していたわけだが、「予定の立てにくい予定」に振り回されることの珍しくないゲルギエフへの対応に経験を積んだPMFとジャパン・アーツは、私にリハーサルの間の20分の休憩時間の間に楽屋へ行き、インタヴューと言わずに挨拶と雑談をし、そのまま勢いでいろいろ質問をしちまえ、と、ふつうの指揮者だったら怒り出すような方法を提案して来る。

 有難いことに私も、ゲルギエフとは1992年のサンクトペテルブルクでの初取材以来、2008年のエディンバラに至るまで、雑誌等のために、十数回のインタヴュ―を重ねて来たお馴染みの間柄である。ゲルギエフもさすがに対応を心得ていて、当たり前のような顔をしながら「ドアを閉めて」とスタッフに指示し、そのまま機嫌よく予定の10~15分間を喋りまくってくれた。そして疲れも見せずに、またステージへ戻って行ったのだった。
 予定の立てにくいことをやる人に対しては、予定外の行動も通用するのだという一例か。

※どすと様 いつも歯に衣着せぬコメントをありがとうございます。しかし今回は、「否定的」と断定なさる前に、その指揮者のリハーサルの方法、いくつかの本番での演奏の違い、あるいは過去の演奏の例など、広範囲にわたって詳細に検証なさって見れば、また異なる印象も得られて、音楽の愉しみもいっそう増加すると思いますよ。今後ともよろしく。

2019・7・30(火)PMFオーケストラ・リハーサル

       札幌コンサートホールkitara 大ホール  3時

 クリスチャン・ナップが指揮する「公開」リハーサルを、一部だが聴く。
 ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」が、一般客の入っていないキタラ・ホールに、うっとりするほど美しい音で響いていた。もうこれで本番に持って行っても大丈夫とさえ思われるような演奏だ。

 イベールの「フルート協奏曲」では、今日はソリストのマトヴェイ・デョーミンも参加して、リハーサルが行われた。
 このナップという指揮者、聴いたのは今年のPMFが初めてで、それもリハーサルだけなのだが、なかなか手堅い人のようだ。

 このあとは、4時半頃には札幌に入る(だろう)と言われているワレリー・ゲルギエフが、夜7時から10時まで振るとのこと。私の方は北海道新聞との打ち合わせのために、先に失礼した。

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