2019-04

2019・4・22(月)角田鋼亮指揮セントラル愛知交響楽団

     愛知県芸術劇場コンサートホール  6時45分

 角田鋼亮がセントラル愛知響の常任指揮者に就任。その定期第1弾を、とんぼ返りで聴きに行く。
 プログラムが、モシュコフスキの組曲「世界中の国々から」Op.23、加藤昌則の「刻の里標石」(ときのマイルストーン)から第2、第4、第5、第6曲、ラフマニノフの「交響曲第2番」━━という風変わりなものだったことも興味を惹いた。

 就任記念定期に、所謂名曲路線を採ることなく、ユニークな選曲で新機軸を出す。これは、若い指揮者が自分のオーケストラとともに楽壇に打って出るに際し、実に意欲的な姿勢と言うべきである。
 秋以降に彼が定期で振る予定のプログラム編成もかなり尖ったものだが、全国に一つくらい、このような冒険を行なうオケがあってもいいだろう━━たとえそれが最初のうちだけではあっても。ただし定期以外のシリーズでは、今年12月からはハイドンの「ロンドン・セット」を中心にした6回シリーズを行なうことも予告されている。

 最初のモシュコフスキの組曲は、ふだんナマで聴く機会など、ほとんど無い作品だ。ロシア、スペイン、ハンガリーなど欧州各国のスタイルを模して書かれた6曲からなる軽い作品集。セントラル愛知響も、均衡の取れたいい音を出していた。
 このオケ、先頃スワロフスキーの指揮で聴いたばかりだが、小型のオケながら、なかなかいい演奏を聴かせてくれる。

 加藤昌則の作品は、先年、会津の戊辰の役を題材にしたダイナミックな音楽を持つオペラ「白虎」を聴いたことがある。
 この「刻の里標石」も、手法は伝統的ではあるものの管弦楽法はなかなか色彩的で、聴きやすい。第2曲と第6曲にはジョン・ウィリアムズ的な曲想も出て来るが、後者の歌詞「じゃあね」をそのまま歌にすれば「ジュラシック・パーク」のテーマのモティーフと同じ旋律形になるのだから、これはウィットと言えるだろう。
 日本語の他に英語や独語などの歌詞による曲もある。宮本益光━━前出の「白虎」の台本作者が彼だった━━の明晰な発音による闊達な歌唱の良さもあって、聴衆も楽しんだ様子であった。

 ラフマニノフの「第2交響曲」は、角田鋼亮らしく、整然とまとめた演奏で、オーケストラも量感充分の、整ったいい音を出した。
 ただ、容の上では実によくまとまった演奏ではあったが、単にその段階でとどまっていたという感もある。この上に求められるのはこの曲に内在する哀感、陰翳、深い情感といったものが如実に再現されることであろう。
 そうしたものを演奏に溢れさせる指揮の域に達するのはこれからだろうが、なるべく早くそういう指揮者になってもらいたい。全曲大詰の昂揚でも、テンポを殊更に速めることなく、きちんと締め括ったが、このあたりではもう少し芝居気があってもいいだろうと思う。

 だが、幸いに彼は、オケとの相性もどうやら良いらしい。それに聴くところによれば、彼はここ東海地方の某高校の出身だとかで、終演後にもホワイエで「後輩たち」の学生にどっと囲まれていた。「彼はこの地域(名古屋のことだろう)では客を集められるはずですよ」と事情通の知人が語っていたのが印象に残る。

 なおセントラル愛知響の今日の編成は、弦は12-10-8-8-6。しかし、定期公演のプログラム冊子がかなりシンプルなのはいいとしても、オーケストラのメンバー表くらいは掲載して欲しいものだ。それに、開催会場名も表紙に印刷しておいては如何?

 21時48分の「のぞみ」で帰京。

2019・4・19(金)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

     サントリーホール  7時

 欧州ツアーから帰国したばかりのインキネンと日本フィルの定期。
 武満徹の「弦楽のためのレクイエム」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストはジョン・リル)、シベリウスの「交響曲第2番」。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 欧州への演奏旅行を行なうと、演奏も音も良くなって帰って来るのが日本のオーケストラの常だが、日本フィルもその例に漏れぬ。
 「弦楽のためのレクイエム」で弦楽器群が静かに響かせた透明清澄な音色の美しさなど、昔の日本フィルからは想像も出来なかった境地ではなかろうか? 
 インキネンの指揮もいい。概して外国人指揮者がタケミツを振ると、よく言えばメリハリの強い、些か批判的に言えばごつごつした岩のような雰囲気の音楽になるものだが、インキネンも日本フィルとの交流を通じて武満の世界により近づいたのか、明晰で隈取りのはっきりした音の交錯の中にも、いわゆる武満トーンが━━われわれ日本人が本能的に感じ取れるもの、とでもいうか━━生き生きと蘇っているのだった。

 ベートーヴェンも、第1楽章提示部からして、厚みのある毅然とした響きの演奏が印象的だ。インキネンと日本フィルが、これだけどっしりとした、落ち着いてスケールの大きな、かつ緻密な響きを出すという、幅広い個性を持つに至ったのは嬉しい。ジョン・リルは流石に年齢を重ねたなという感だったが、味わいはある。

 これらの音は、シベリウスの「2番」では、非常に鋭角的なものに一変した。非常に遅いテンポで、一つ一つの音を力感一杯に演奏する。豪壮というよりはやや細身で、しかも全身ハリネズミのように武装して身構えたシベリウス。
 そもそもインキネンのシベリウスは、北欧の奥深い霧の中から響いて来るようなシベリウスとは対極的な位置にあることは以前から承知はしていたが、今日の演奏を聴くと、それがますます先鋭化してきたようにも感じられる。こういうアプローチのシベリウスも興味深いが、その鋭い音の構築には些か疲れたのもたしかで━━。

 いずれにせよ、インキネンと日本フィル、今回のツアーを一つのステップにして、さらに新しい境地を開きつつあるようだ。今後どんな音楽を聴かせてくれるのか、大いに楽しみなところである。

2019・4・18(木)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

     サントリーホール  7時

 ウォルトンの「戴冠式行進曲《王冠》」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲ニ長調《戴冠式》」(ソリストは小山実稚恵)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」、アンコールにエルガーの「威風堂々」第1番(抜粋)。小山実稚恵のソロ・アンコールはラフマニノフの「前奏曲ト長調Op.32-5」。コンサートマスターは近藤薫。

 モーツァルトの「戴冠式」(このニックネームはほとんど意味のないものだが)の前に別の作曲家の戴冠式を置いたのは何となく語呂合わせ的だが、最後にバッティストーニが新元号の到来を祝う主旨を日本語で述べて「威風堂々」を演奏したことを併せると、当然そこには慶祝のイメージが籠められていることになるだろう。

 ウォルトンが始まった時には、東京フィルも随分鳴りっぷりがよくなったものだ、と驚いたり感心したり。この開放的で勢いのいい演奏は、いかにも元気なバッティストーニらしい。
 小山実稚恵が「戴冠式」を弾くのを聴いたのは、私は多分初めてではないかという気がする。この曲、モーツァルトの後期のピアノ協奏曲の中では格段に落ちる作品のような気がして、如何に小山さんの演奏であろうと、私はどうも好きになれぬ曲なのだが、第1楽章で弾かれたカデンツァはカール・ライネッケのものだとのことで、これは大変興味深く聴かせていただいた。

 チャイコフスキーの「4番」は、まさに激動の音楽といった感の演奏。遅いテンポの個所と速いテンポの個所との対比が大きい上に、テンポの動きも急激で、チャイコフスキーが「次第に速く」と指定した個所においても、急激にテンポを上げて行くといった指揮である。そのあたり、少々行き過ぎではないかと思われる時もあったけれども、それも若い指揮者の情熱の赴くところ・・・・ということだろう。

 だが、今日の東京フィルの演奏で何より感心したのは、弦楽器群の音の柔らかさだ。最強奏の瞬間にさえもこのソフトな弦の音色を失わぬとは、立派なものである。
 バッティストーニと東京フィル、面白い演奏を聴かせてくれるようになったものだ。

2019・4・16(水)庄司祐美リサイタル

     すみだトリフォニーホール 小ホール  7時

 メゾ・ソプラノの庄司祐美が恒例のリサイタル。シューマンの3つの歌曲を導入として、歌曲集「詩人の恋」を歌い、第2部ではフォーレの歌曲を「夢のあとに」など4曲と、シューベルトの「ズライカⅡ」など6曲を歌うという重量感あるプログラム。解説、訳詞なども全て自分で行なうといういつもの凝りようだ。だが、あいにく私の方の体調が悪くなり、途中で失礼してしまったので、詳細は差し控えたい。

2019・4・15(月)METライブビューイング 「連隊の娘」

    東劇  7時

 3月2日上演のライヴ映像によるドニゼッティの「連隊の娘」。フランス語による上演。
 指揮はエンリケ・マッツォーラで、指揮する表情を見ていると吹き出したくなるけれども、METのオケから引き出す音楽は見事に引き締まって躍動感も豊かである。ロラン・ペリーの演出もドタバタ調を巧みに交えた鮮やかなもの。METらしく、バランスのよいプロダクションだ。

 出演者が、役者揃いである。
 マリー役のプレティ・イェンデは、素晴らしく芝居上手で、変顔も辞さずの闊達かつ躍動的な演技。これほどスポーティな連隊の娘も滅多に見られないだろう。歌唱も華麗な高音からコミカルなだみ声まで変幻自在、若さいっぱいに歌いまくる。アフリカのズールー族出身だと自分で言い、リハーサルでセリフの中にズールー語を交えてみたら出演者たちから大うけだったので本番でも入れてみた、と陽気に語る。祖国を誇る、という姿勢が素晴らしい。

 恋人役のトニオを歌い演じたのは、メキシコ出身のハヴィエル・カマレナ。所謂イケメン然としたテナーではなく、丸っこくて愛嬌のある顔立ちをした人で、にこやかな顔をした時の竜雷太にそっくり(もっと若いが)。私の知人の女性(!)にも何となく似ているので、何となく愉快になって来る。
 だが、例の「ハイC」は、輝かしく完璧だ。観客を文字通り熱狂させ、「ビス」を実行(アンコールとして要所をもう一度歌う)した。客もスタンディングで素直に沸き返る。こんな光景も、いかにもMETらしい。

 シュルピス役の巨体のマウリツィオ・ムラーロは、声の調子が悪いというアナウンスもあったが、味のある兵士という感で無難にこなしていた。
 その他、ベルケンフィールド侯爵夫人をステファニー・ブライズが演じ、重量感あるコミカルな役者ぶりを見せ、クラッケントルプ公爵夫人役にはベテラン映画女優のキャスリーン・ターナーが特別出演してコミカルかつ怖い迫力を披露。

 かようにこれは、これまで観た「連隊の娘」の中でも、最も面白いものの一つだった。
 案内役に起用されたナディーナ・シエラ(今シーズンのMETではジルダを歌っている)も、随分朗らかに笑う人だが、そのインタヴュ―に答える歌手たちの明るさ、爽やかさも素適だ。本番だけでなく、幕間の趣向さえ明るい今回の「連隊の娘」だったのである。
 上映時間は約3時間。

2019・4・14(日)東京・春・音楽祭最終日
大野和士指揮 シェーンベルクの「グレの歌」

    東京文化会館大ホール  3時

 今年の「グレの歌」3連発の第2弾は、大野和士の指揮。管弦楽は東京都交響楽団。
 声楽陣はクリスティアン・フォイクト(ヴァルデマール)、エレーナ・パンクラトヴァ(トーヴェ)、藤村実穂子(山鳩)、甲斐栄次郎(農夫)、アレクサンドル・クラヴェッツ(道化師クラウス)、フランツ・グルントヘーバー(語り手)、東京オペラシンガーズ。

 山鳩役を歌った藤村実穂子が、群を抜いている。トーヴェの死を知らせるくだりから最後の締めに至るまで、厳しく悲劇的な、壮大な表現で音楽全体を支配していた。聴く者をして襟を正すような思いにさせる、峻烈で凛とした歌唱である。これほど圧倒的な「山鳩」の歌は滅多に聴けないだろう。彼女の凄さを存分に発揮した「グレの歌」であった。

 その他の歌手たちも、概して粒が揃っていたといえよう。
 語り手役のフランツ・グルントヘーバーは杖をついての登場だったが、一つ一つの言葉を噛み締めるようなその語りは劇的で、すこぶる味がある。甲斐栄次郎も、同じように出番こそ短いけれども、非常に立派な農夫という感で、強い印象を残す。
 パンクラヴァのトーヴェも安定した歌唱でよかったが、いっぽう道化師クラウスを歌ったクラヴェッツは、泥酔した男としての演技入りで、それは一つの趣向には違いないが、このステージの中では、些か異質なものだったようだ。

 ヴァルデマール役にフォイクトを起用したのは、あまり適切な選択ではなかったのではないか。びわ湖ホールの「ジークフリート」同様、彼の強靭さのない、リリカルな声は、この役柄に「王」としての力感を失わせる。妻トーヴェを喪った王の悲しみと神への恨みとがこの物語の基幹を成していることを思えば、そしてこの役の歌唱パートが激烈なオーケストレーションに彩られていることを併せて考えれば、温室育ちの王様といった雰囲気では困るのである。他の歌手陣が極めて強力で優秀だったため、いっそうその感を強くする。

 もっとも、今日の大野和士は、このヴァルデマールの歌唱部分のオーケストラをさえも極めて巧く響かせ、徒に声がマスクされぬよう気を配っていたようである。
 それだけでなく大野の指揮は、この長大な曲を、オペラのように劇的に起伏豊かに、しかもそれぞれのキャラクターの存在を際立たせて音楽を構築していた。山鳩の歌の最後の終結感の見事さはその一例であり、他にも農夫や道化師などをも、いずれも音楽的に「格好良く締め括って」各々の歌を終えさせていたのだった。全曲を長いと思わせることなく、各々の場面をメリハリよくつくり上げた大野の手腕は絶賛に値する。

 弦20型の大編成を以って臨んだ東京都交響楽団も見事で、残響の少ないホールゆえに音が乾いて粗さも必要以上に露呈してしまう傾向は仕方ないとしても、劇的な起伏感と緊張感は卓越したものがあった。大野と都響の演奏の歴史の中で、これは記念すべき1ページを作ったものであることは間違いないだろう。
 岩下久美子の字幕は極めて解り易く、音楽の起伏と巧く一致していた。

 それにしても、「グレの歌」という曲で、これだけ客席が満杯になるとは祝着の極みである。音楽祭事務局の某氏も指摘していたように、これが「音楽祭」ゆえの強みかもしれない━━全プログラムの載った総合パンフレットを見て、ふだんは聴かぬような演奏会の存在を知り、では足を運んでみよう、と思うお客も多かったようだ、という彼の見解だった。

2019・4・13(土)ジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管弦楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 東京公演最終日のプログラムは、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」とマーラーの「交響曲第6番イ短調《悲劇的》」。

 協奏曲を弾いたのは、2016年のモントリオール国際コンクールに優勝し、5つの特別賞も総なめにして話題を集めた辻彩奈である。
 若手にも似合わず、ステージ上の姿は堂々として大物のイメージだが、もちろん姿だけでなく、演奏も堂々としてスケールが大きい。何より表情が濃厚で、音楽に鋭い陰翳が備わっているところに、強烈な個性を感じさせるだろう。22歳の若さでこれだけ明快な、しかも筋の通った自己主張を聴かせるとは、実に驚異的な女性ヴァイオリニストだ。

 今日のプログラムについてノットは、「前半(メンデルスゾーン)は喜びへの情熱、後半(マーラー)は絶望への情熱」と語っている(プログラム冊子掲載のインタヴュ―記事)。
 ただ、実際の演奏では、彼の指揮するマーラーの「悲劇的」は、さほど重苦しくはなく、ものものしくもない。どちらかと言えば軽めで、明快な色合いを持った演奏だろう。それゆえ、その絶望は救いようのないものでなく、爽やかで情熱的な若者の苦悩━━とでもいったイメージになるだろうか。全てのパートの隅々まで神経を行き届かせ、巨大で激烈な起伏を以って構築した「悲劇的」である。

 といっても、フィナーレだけは、ノットはこの長大な楽章に形式性を持たせることに少々手を焼いているような気がしないでもない。ひたすら音のエネルギーのみで追い上げるだけでは、この楽章は、やはり騒々しく纏まりを欠くものになりかねないのではないか。その意味では、結局は、マーラーが考えていたような、英雄の闘いとか、運命の打撃とかいったような、標題的な解釈が必要になるのかもしれない。
 今回は、「スケルツォ」が第2楽章に、アンダンテが第3楽章に置かれて演奏された。

 カーテンコールでノットは、オーケストラの中を走り回り、各々のパートの奏者たちを立たせて聴衆の拍手に応えさせていた。最後には、自らも聴衆の熱狂的なソロ・カーテンコールに応えていたが、彼のこの人気は、今後の東京響との活動にも良い影響を与えることだろう。

2019・4・12(金)東京・春・音楽祭15周年記念ガラ・コンサート

      東京文化会館大ホール  6時30分

 ステージ前方いっぱいに花が飾られての、華やかな雰囲気。

 今日の演奏は、ミーガン・ミラー(S)、エリーザベト・クールマン(Ms)、ペーター・ザイフェルト(T)、ジョン・ルンドグレン(Br)、イェンス=エリック・オースボー(Bs)、フィリップ・オーギャン指揮の読売日本交響楽団。
 演奏されたのは、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」、ハイドンの「天地創造」、R・シュトラウスの「エレクトラ」、ヴェルディの「オテロ」、ワーグナーの「神々の黄昏」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」「パルジファル」「ヴァルキューレ」からの抜粋(順不同)。

 今日は、歌手陣がみんな素晴らしい。
 その中でも、歌唱の表現力の深さと完璧さという点では、「神々の黄昏」の「ヴァルトラウテの物語」と「ヴァルキューレ」の「フリッカの非難」を歌ったクールマンが群を抜いているだろう。いずれも人物の苦悩と憤怒の感情が、激しく、しかも気品を失わずに描き出される。フリッカは彼女の当たり役の一つだが、以前に聴いた時よりも格段に深みと凄味を増していた。もう1曲くらい歌ってもらいたかったところだ。

 バスのオースボーは、「オネーギン」のグレーミン公爵のアリアと、「オランダ人」のダーラントのアリアを歌った。前者での落ち着いた低音の美しさは立派な風格。後者では指揮者のリズム感があまり明確でなかったので何となく座りが悪い感がしたが、先日の全曲上演の時と同様、人間味充分の歌唱。
 一方、バリトンのルンドグレンは、「天地創造」の「天はこの上なく輝き」と、「オテロ」のヤーゴ(第2幕最後の二重唱)も悪くはなかったが、何よりも「パルジファル」第3幕のアムフォルタスの苦悩の歌が傑出していた。

 ザイフェルトは、今日は「いいとこ取り」だ。歌い方は少々荒っぽいものの、「オテロ」でのヤーゴとの二重唱で劇的な歌唱を聴かせ、「ローエングリン」の「遥かな国に」で本領を発揮し、更に大トリの「ヴァルキューレ」第1幕第3場全曲でジークリンデ相手に大見得を切る。人気も抜群だから出番も多いのかな。

 「エレクトラ」の「独りだ!」と「タンホイザー」の「歌の殿堂」および「ヴァルキューレ」のジークリンデを歌ったミラーは、以前に新国立劇場での「タンホイザー」や「死の都」を聴いた時にはかなりアクの強い歌い方をする人だという感があったが、今日の「歌の殿堂」も同様だ。しかしその他の2役では、それが良い方に発揮されていた。

 読響は流石の重量感と鳴りっぷりだったが、問題は指揮のオーギャンである。「オネーギン」の「ポロネーズ」は、出だしこそ勢いは良かったものの、そのあとがいけない。あんな鈍重で間延びしたリズムでは、ポロネーズになり得ない。この人は、チャイコフスキーのバレエ音楽などには、全く共感を持っていないのだろう。「オテロ」第2幕の幕切れでも、主人公の興奮の感情が全く表現されていない。融通の利かぬ頑固な老職人指揮者といった感だ。ただし幸いなことに、第2部冒頭の「マイスタージンガー」前奏曲以降のワーグナーものでは、盛り返していた。

※本文の中に一部大きな書き間違いがあり、失礼しました。修正しました。

2019・4・10(水)「フィレンツェの悲劇」「ジャンニ・スキッキ」

     新国立劇場オペラパレス  7時

 ツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」と、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」のダブルビル。
 珍しい組み合わせだが、新国立劇場の舞台ではこの2作のダブルビルが14年前(2005年)に上演されたことがある。東京二期会の新プロダクション(カロリーネ・グルーバー演出、クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル)である。あれは図抜けて面白かった。   

 今回の演出は粟國淳だったが、しかし彼はグル―バー演出のような、2つの作品を連続したストーリーに仕立てるといったような解釈は採らない━━そういえば彼は、昨年のカレッジオペラハウスでのメノッティの「電話」と「泥棒とオールドミス」のダブルビルでも、特に両作品を関連づけるという手法は採っていなかった。
 それはそれでいいのだが、しかし今回は、極めてトラッドな演出で、━━それは「解り易い」という利点はあるだろうが、大野芸術監督時代に入った今の新国立劇場が新演出を手掛けるのであれば、たとえ写実的な舞台を設定した場合でも、もう少し何か演劇的な新機軸を打ち出した舞台にできなかったものかと思う。

 「フィレンツェの悲劇」の舞台には動きも凄味もなく、3人の登場人物が見せる表情も腑に落ちず、複雑な心理葛藤の描写が全く感じられない。また「ジャンニ・スキッキ」では、舞台は賑やかでコミカルではあるものの、概して常套的で、カルロス・アルバレスの存在感と最後の大見得とが辛うじて舞台にアクセントを与えていた、という印象であった。
 ただ、横田あつみによる舞台美術は、前者では頽廃的な雰囲気を出し、後者では「財産と調度品」をコミカルな形で誇張して、センスに富んだものだったと思う。

 歌手陣は、「フィレンツェの悲劇」ではシモーネをセルゲイ・レイフェルクス、その妻ビアンカを斉藤純子、彼女の不倫相手グイードをヴゼヴォロド・グリヴノフ。
 いっぽう「ジャンニ・スキッキ」では、題名役をカルロス・アルバレス、その娘ラウレッタを砂川涼子、その恋人リヌッチョを村上敏明、そのほか寺谷千枝子、針生美智子、吉原圭子、志村文彦、大塚博章、鹿野由之ら、良い顔ぶれも並んでいた。
 だがこの中で目だったのは、前述のとおり存在感抜群のカルロス・アルバレスと、例の有名なアリア「わたしのお父さん」で澄んだ声を聴かせた砂川涼子であろう。名歌手レイフェルクスも、さすがに年齢を感じさせるようになったのは寂しい。

 音楽上で特筆すべきは、沼尻竜典の指揮と、東京フィルの演奏であった。
 沼尻は「フィレンツェの悲劇」冒頭から緊迫感に富んだ音楽を響かせ、全曲にわたり緊張感を持続させ、特に最後の「殺し場」への盛り上がりでは見事なサスペンス感を音楽にあふれさせた。コルンゴルトやR・シュトラウスの音楽とも共通する濃厚な官能的、劇的なツェムリンスキーの音楽の良さを、はっきりと味わわせてくれたのである。「ジャンニ・スキッキ」でも、オーケストラを雄弁に語らせた。びわ湖ホールのシェフとして実績を挙げている沼尻のオペラ分野での充実は、ますます目覚ましいものがあろう。

 一方、東京フィルも、惜しかったのは「フィレンツェの悲劇」での最初のトランペットがふらついたことだけで、以降は久しぶりに密度の濃い演奏を披露してくれたのが有難かった。25分間の休憩を含め、終演は9時半頃。

 余談だが、新国立劇場の客席の椅子にクッションが用意されるようになっていた。事務局の某氏に訊いたら、「椅子が経年変化で劣化したため、尻が痛くなった、妻も同じことを言っている」と、客からクレームが来たので、止むを得ず(一部を除き)ほぼ全席に用意したのである、と。クッションには、新国立劇場のタグが付いている。製作するのも大変だったろうと思う。盗まれることもあるのではないか、とつまらぬ心配をしたりする。
 私が座ったあたりは、そんなに椅子は傷んでないと思うが、席にもよりけりだろう。椅子でなく、自分の尻の方が経年変化で劣化することだってあり得るだろう。それに、自分と椅子の相性というものも、必ずある。いずれにせよ、こんなことまで実現させるとは、当節のクレーマーは、良かれ悪しかれ、強力なものだ。

2019・4・9(火)ジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管弦楽団

      サントリーホール  7時

 前回スイス・ロマンド管を聴いたのは、首席客演指揮者時代の山田和樹と来日した2014年のことだったか? 
 今回は、2017年1月から音楽&芸術監督を務めるジョナサン・ノットとの来日。日本公演の初日は、第1部にドビュッシーの「遊戯」と「ピアノと管弦楽のための幻想曲」(ソリストはジャン=フレデリック・ヌーブルジェ)、第2部にストラヴィンスキーの「3楽章の交響曲」と、デュカスの「魔法使いの弟子」という、ちょっとユニークなプログラムだ。

 ノットとスイス・ロマンドの組み合わせは、大いに興味の湧くところだったが、両者の相性は、予想以上に良いように感じられる。少なくとも、以前のバンベルク響首席時代と比較すると、今日のノットは、まるで水を得た魚のようである。

 特にフランスの作品では、━━そういえば、彼が日本で音楽監督を務めている東京響との演奏で、現代作品における彼の指揮が素晴らしいことは承知しているが、フランスものは、これまでさほど印象に残っていなかった。
 だが今日のドビュッシーの作品での清澄さ、優美な叙情と官能、和声の明晰な美しさなどは、私にはうっとりさせられるような演奏に感じられたのである。管の最強奏には少し硬さが感じられたけれども、全体としては、ドビュッシーの良さを存分に再現してくれていたと言っていいだろう。

 そしてまた、ストラヴィンスキーの「3楽章の交響曲」をこれほど「冷徹」でなく、開放的で明るい躍動感を漲らせた演奏で聴いたのは、私は初めてかもしれない。「春の祭典」を新古典主義スタイルに化けさせるとこういう音楽になるのか、などと感じさせるようなノットの表現であった。

 「魔法使いの弟子」のような「小品」を最後に置くというのは、昔の指揮者のプログラムでは、時々見たことがある。だが小品とはいえども、ドビュッシーやラヴェルや、その後の「フランス6人組」にも大きな影響を与えたと指摘される、音楽史的にも重要な作品だ。聴きごたえがある。
 ノットは、この小品においても獅子奮迅の身振りで、忙しく大暴れしながらオーケストラを制御した。そのわりには、それほど劇的で大がかりな音響にはならなかったが、なかなかに華麗な演奏だった。

 アンコールにリゲティの「ルーマニア協奏曲」の第4楽章を持って来て、猛烈に派手に結んだのも面白い。・・・・が、この曲、以前にもどこかのオケがアンコールで演奏していたな、と思って日記を繰ってみたら、2014年にヤンソンスとバイエルン放送響が、2015年にグスターヴォ・ヒメノとコンセルトヘボウ管がやっていた。だが今日の演奏は、ユーモア感でも充分のものがあったのではないだろうか。コンサートマスターの腕の見せどころである。

 ノットも良かったが、スイス・ロマンド管の演奏にも、張り切った良さがあった。これは、この半世紀の間にナマで聴いたこのオケの演奏の中でも━━その中にはアンセルメが指揮した初来日公演もあったが━━最も爽快で、面白いものだった、と言っていいほどである。

 なお、ヌーブルジェのソロ・アンコールは、多分ドビュッシーかと予想したら、そうではなく、ショパンの「前奏曲」の「第8番」と「第17番」とを組み合わせたものだった。これも好かった。

2019・4・7(日)東京・春・音楽祭 「さまよえるオランダ人」

      東京文化会館大ホール  3時

 「東京春祭ワーグナー・シリーズ」のvol.10。ワーグナーの「さまよえるオランダ人」の演奏会形式上演、今日は2日目。第1幕のみ完結版で演奏され、休憩(30分)が置かれ、第2幕と第3幕は連続版で演奏された。

 おなじみライナー・キュッヒルを客員コンサートマスターに招いたNHK交響楽団を、今回はダーヴィト・アフカムが指揮。
 声楽陣は、ブリン・ターフェル(オランダ人)、リカルダ・メルベート(ゼンタ)、イェンス=エリック・オースボー(ダーラント)、ペーター・ザイフェルト(エリック)、アウラ・ツワロフスカ(マリー)、コスミン・イフリム(舵手)、東京オペラ・シンガーズ、という顔ぶれである。

 スペイン国立管の首席指揮者を務めているアフカムの指揮を聴いたのは多分初めてのような気がするが、なかなか元気のいい演奏をつくる人だ。小気味よい勢いで音楽を進めるけれども、どうやら「矯め」をつくるのが少々苦手のように見える。
 ブリン・ターフェルもやはり老けたなという感で、声を引きずり気味に歌うのが気になったが、どんなに危なくなっても強引に凄まじい馬力で押しまくり、切り抜けてしまうところがさすが大ベテランの貫録というか。
 アイン・アンガーの代役として駆けつけたオースボーも、高音域の音程がやや苦しいものの、低音域はダーラントに相応しい力感だ。

 予想外だったのはゼンタを歌ったメルベート。こんなに音程が不安定な人ではないはずなのだが・・・・。結局、エリック役のザイフェルトがいちばん安定していた。
 それにしてもみんな、見事なほど声量が物凄い。就中ターフェルトとザイフェルトは、オーケストラをも霞ませてしまうような大音声である。

 舞台奥のスクリーンいっぱいに投映されていた今回の映像は中野一幸が担当。びわ湖ホールの「オランダ人」のそれのようには大がかりな動画ではなく、どちらかといえば静止画の範疇に近い動きの映像ではあったものの、音楽と同期して動く部分もあった。
 ラストシーンで、幽霊船が何故か爆発したようになって沈み、天上から海にピンスポ的な光が当たるというのは、それはそれで結構だったが、全体に船も海もジオラマ的な雰囲気になっているのが、オペラの超自然的な内容に対して少々漫画チックになった傾向は否めまい。

2019・4・4(木)東京・春・音楽祭 ムーティ指揮「リゴレット」抜粋

      東京文化会館大ホール  7時

 弦16型編成の「東京春祭特別管弦楽団」(コンサートマスター・長原幸太、各パート首席には林七奈、鈴木康浩、上野由恵、金子亜未、大野雄太他の人々)を指揮するリッカルド・ムーティの音楽の、なんと立派なこと。
 前奏曲からして弦のトレモロが物凄く、第4幕の嵐の場面は、往年の大巨匠トスカニーニのライヴを彷彿とさせる迫力の音楽。久しぶりに「リゴレット」の管弦楽パートの魅力を満喫させてくれた演奏であった。

 こういう卓越した指揮とオーケストラの演奏を聴いていると、どうしてもこれが「リゴレット」の本格的演奏会形式上演であるかのような錯覚をつい起こしてしまうのだが、実はこの演奏会はムーティの「イタリア・オペラ・アカデミーin東京」の成果発表会というべきものだったのだと途中で思い出し、それなら歌手陣のことについてあれこれ言ってもはじまらない、と思い直すのであった。

 従って主役の歌手陣については、ジルダを歌ったヴェネーラ・プロタソヴァの伸びのよい爽やかな美しい声について特筆するにとどめておこう。
 ただし脇役のほうでは、マッダレーナを歌ったダニエラ・ピーニと、ジョヴァンナを歌った向野由美子の、実績ある2人のプロのメゾソプラノが流石に安定していた。

 今回の「抜粋」は、大きな合唱が入る場面をカットしたもの、という意味。つまり実際に演奏された個所は、前奏曲、第1幕第2場の最初からジルダの「慕わしき御名」まで、第2幕はマントヴァ公のアリア、リゴレットの「悪魔め、鬼め」、およびジルダの登場から幕切れまで、第3幕は全曲━━という具合である。

 演奏終了後には、指揮受講生4人(東京国際音楽コンクールで優勝している沖澤のどかを含む)に、ムーティ手ずから「修了証書」を授与する、というセレモニーも行なわれた。「作曲者の考えを尊重してやって行くように」というムーティのはなむけの言葉は、彼らにどのように理解されただろうか。

 なお、このムーティの「アカデミー」は、来年がヴェルディの「マクベス」、再来年が「仮面舞踏会」と発表されて、聴衆の大拍手を浴びた。
 全曲の本格的な演奏とまでは行かぬのが残念だが、まあ、大ムーティ殿のヴェルディなら、日本で振ってくれるだけでも有難い、と思わねばなるまい。

2019・4・3(水)東京・春・音楽祭 「ブラームスの室内楽Ⅵ」

      東京文化会館小ホール  7時

 ヴィオラの川本嘉子を中心としたブラームスの室内楽シリーズ。竹澤恭子(vn)、小川響子(vn)、川本嘉子(va)、向山佳絵子(vc)に、今年は小山実稚恵(pf)を迎えて━━と題され、「ピアノ三重奏曲第1番」、「F.A.Eソナタ」の「スケルツォ」、「ピアノ五重奏曲」というプログラムが演奏された。

 最初の「三重奏曲」では、今回はヴァイオリン、チェロ、ピアノという組み合わせでなく、ヴィオラ、チェロ、ピアノという組み合わせで演奏されたが、まことに残念ながら、これはあまり良い結果を生まなかったと思われる。というのは、ヴィオラの音色および音域がチェロのそれと近すぎて、むしろ著しく混濁した響きになってしまっていたからだ。それゆえ川本嘉子のヴィオラは、次のピアノとの「スケルツォ」で映えることとなった。

 最後の「五重奏曲」では、ステージ上は百花繚乱の光景という趣があったが、肝心のアンサンブルが何となく均衡を欠いており、ブラームスの室内楽特有のしっとりした陰翳と揺るぎない意志が蘇って来ない。竹澤恭子のヴァイオリンは強力だったが、その他の人々の音がどうもまっすぐこちらへ響いて来ないのだ。小山実稚恵のピアノも、思いのほか控えめだったように感じられた。

 このバランスは、必ずしも聴いた席の位置(中央やや後方)のせいとも思えぬ。昨夜の場合と同様、いかに腕利きぞろいでも、アンサンブルとしてまとまるには難しいものがあるだろう。今日は客席がぎっしり。

2019・4・2(火)東京・春・音楽祭 「戸田弥生の室内楽」

      東京文化会館小ホール  7時

 ヴァイオリンの戸田弥生を中心に、伊藤亮太郎(vn)、店村眞積(va)、村松龍(va)、横坂源(vc)、上森祥平(vc)という錚々たる顔ぶれによる演奏会。「3世代に拡がるアンサンブル」だと店村さんがトークで笑っていた。そんなに年代が開いているのかなあ、という気もするが。

 今日のプログラムは、ストラヴィンスキーの「弦楽四重奏のためのコンチェルティーノ」に始まり、あとは六重奏で、チャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」とシェーンベルクの「浄夜(浄められた夜)」、アンコールにブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」の第2楽章。

 名手ぞろいではあるが、アンサンブルとしては必ずしもまとまっていないし、「フィレンツェの思い出」の終楽章など、主題の響きにメリハリがもっと欲しいところだ。リハーサルをどのくらいやったのかな?と思う。
 だが、「浄夜」の後半、曲に描かれた男女の愛の感情が高まるあたりからの演奏の昂揚感は、実に素晴らしかった。ブラームスもいい。

2019・4・1(月)東京・春・音楽祭
ハーヴェイ・サックスが語る「トスカニーニとその芸術」

    東京文化会館 大会議室  7時

 今なぜトスカニーニ?という疑問は、この講座がムーティの「アカデミー」の一環としてのものである━━という説明を聞けば納得が行く。
 今日はそのムーティ御大も会場に現われ、いつのまにか聴講席の一番うしろに座っていて、講演を聴きに集まった人々を驚かせた。

 サックスの話は約80分に及んだが、その内容の大半は伝記的なものに終始してしまい、しかもその9割以上は、われわれトスカニーニ・ファンなら既に多くの関連書で読んで知っていることばかりだった。
 パンフレット記載の予告では、「ヴェルディ自身が望んでいたオペラ演奏を実現するためにトスカニーニが果たした役割、ムーティが受け継ぐその指揮法の神髄」ということだったはずだが━━。講演者はおそらく、今日聴きに来るのはトスカニーニの何たるかも知らない連中ばかりだと思いこんでいたのだろう。

2019・3・31(日)飯守泰次郎指揮関西フィル ブルックナー「9番」

      ザ・シンフォニーホール  2時

 関西フィルハーモニー管弦楽団の第299回定期。桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎が、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番《トルコ風》」(ソロはヴェロニカ・エーベルレ)と、ブルックナーの「交響曲第9番」を指揮した。

 エ―ベルレは、つい先日もウルバンスキの指揮する東京響とこの同じ曲を弾いていたが、さすがに協演の相手が違うと、自分の演奏スタイルも少し変えるらしい。東京での演奏は端整、繊細、清澄、といった特徴を強く感じさせていたのに対し、今日は冒頭からして濃厚で妖艶な表情を滲ませるなど、全曲にわたって、やや自由な感興が加えられていたようだ。その気品ある清廉なモーツァルトは、実に美しい。

 さて、ブルックナーの「9番」である。これは、飯守が関西フィルと毎年1曲ずつ進めていたブルックナー交響曲ツィクルスの、その最終篇にあたる。私もそのうち「7番」と「8番」を聴いたが、今日の「9番」も、やはり率直で烈しいブルックナーだ。
 殊更にユニークな解釈を狙うことなく、また、徒に長めのパウゼを採って全体の流れを滞らせたりするなどということもなく、あくまでスコア通りに演奏を構築して巨大な山脈を築き上げる━━といった飯守のブルックナーは、その率直さと真摯さゆえに、感銘を呼ぶ。

 関西フィル(コンサートマスターは岩谷祐之)も入魂の演奏を聴かせてくれた。第1楽章コーダや、第2楽章スケルツォ、第3楽章の最初の爆発での昂揚。同楽章アダージョでの深い拡がり。
 弦楽器群も厚みのある音を響かせた。第3楽章最後のホルン、ワーグナー・テューバ等による告別の長い持続音の個所で響きのスムースさを欠いたのはかえすがえすも惜しかったが、今日のホルン・セクションには客演奏者が多かったらしいので・・・・。

 飯守と関西フィルによるこのブルックナー・ツィクルス、来シーズンに「0番」が追加されるそうである。

2019・3・30(土)上岡敏之指揮新日本フィル マーラー「復活」

     サントリーホール  2時

 音楽監督・上岡敏之によるマーラーは、これまで「4番」「5番」「6番」を、新日本フィルやヴッパータール響を指揮した演奏で聴いたことがあり、それらは部分的に共感できぬところもなくはなかったにせよ、すこぶる面白く感じられたものであった。

 今回の「復活」も、予想通り、実に緻密かつ精妙に練り上げられた演奏となっていた。冒頭の弦による開始も、叩きつけるように入るのではなく、ややフェイドイン的にジワリと入り、それから低弦を激しく衝撃的に出す、というように、凝った手法で行なわれる。全曲いたるところの細部に、このような、いかにも上岡らしい彫琢が施されている。その中には、スコアの指定とも関連して、私たちに新鮮な発見をさせてくれるところも少なくない。

 ただ、それはいいのだが、今日の「復活」を聴いていると、その一つ一つの個所に極度のこだわりを見せたあまりに、この交響曲全体を滔々と押し流すデモーニッシュな力と緊迫感が不足する結果が生じてしまったのではないか、という思いが、だんだん強くなって来るのである。
 随所に聞かれる極度の最弱音の持続(会場内の聴衆全員に聞こえぬような弱音に如何なる意味があろう?)や、第5楽章の合唱個所で採られる長いパウゼなどに感じられる緊迫性の欠如も気になる。

 最後の頂点におけるテンポの変化も、たしかにスコアには指定されているものではあり、マーラーの激しやすい性格が反映されていることは理解できるのだが、それがあまりに誇張され過ぎると、作品の持つ壮大さを失わせるのではないかという気もするのだ。

 P席をうずめた合唱(栗友会合唱団)は広がりと力感を発揮した。が、その一方、声楽ソロ2人(森谷真理、カトリン・ゲーリング)は、なぜかオーケストラとのバランス、つまり響きの溶け合いに異様なアンバランスを感じさせた。コンサートマスターは崔文洙。

2019・3・29(金)伊藤悠貴チェロ・リサイタル

      紀尾井ホール  7時

 伊藤悠貴(29歳)は、私も審査員の一人として関係している「齋藤秀雄メモリアル基金賞」で、つい先頃受賞に輝いた注目の新星である。

 その彼が、ラフマニノフの作品ばかりを集めたユニークで意欲的なリサイタルを行なった。プログラムは、第1部が「2つの小品 作品2」、「幻想的小品集作品3」から「エレジー」「メロディー」「セレナーデ」、「前奏曲作品23の10」、「ロマンス」、「6つの歌曲━━朝、夜のしじま、リラの花、ここは素晴らしい、夢、春の水」、第2部が「チェロとピアノのためのソナタ作品19」というものだった。
 「作品3」のうちの2曲、および「歌曲」の6曲は、伊藤悠貴自身が編曲したものとのこと(プログラム冊子にも自らいい文章で解説を書いているし、多才な人だ)。

 この「ラフマニノフ・プログラム」は、昨年、ロンドンのウィグモア・ホールでも演奏したそうである。この作曲家への彼の強い思い入れを示すものだろう。
 その共感に裏打ちされた演奏は、まさしく伸びやかな表情、瑞々しい情感、明晰な音色、闊達な力に満たされていた。「ソナタ」が、一般の演奏によくあるような暗い陰翳とか物々しさといったものにとらわれず、かくも若々しい気宇にあふれた演奏で再現されたのを聴いたことは、これまでになかった。若さの特権というものだろう。

 協演の藤田真央(20歳)がまたとてつもなく素晴らしい。若手2人の見事な演奏会だった。わが国の音楽界の将来を託するにふさわしい俊英の活躍を慶びたい。

2019・3・28(木)東京・春・音楽祭 ムーティ、「リゴレット」を語る

     東京文化会館大ホール  7時

 巨匠リッカルド・ムーティが、「東京・春・音楽祭」で今年から開始したオペラ・アカデミーの一環、ヴェルディの「リゴレット」についての講演を行なった。この人の話の面白さは、すでにおなじみである。

 オペラ界の悪しき慣わしのために、ヴェルディが書いた楽譜を無視した歌い方や演奏がいかに多いか━━例えば拍手やブラボーを当て込み、結びの音をスコア指定より高く上げたり、最弱音の指定を最強音で歌ってみせたりするがごとき━━を、自ら身振り手振りを交えながらユーモラスに歌ったりして指摘しつつ、それを是正することの必要性について力説する、というのが、今日の主要テーマだった。

 それは決して狭量な原典主義や教条主義に基づくものではない。「リゴレット」の場合には、主人公の身体の特徴から姿勢が「俯き加減」になるため、ヴェルディは意図的に「高い音」を書かなかった(そうかなあ?)、従ってジルダとの「復讐の二重唱」の最後の音や、「あの呪い!」の叫びの最後の音を「上げて」歌うのは間違ったことである━━と、ムーティは説明する。
 こういう話は、今初めて聞くものではなく、すでにムーティの実際の指揮によるいろいろなヴェルディ作品で、私たちにはおなじみのものである。だがとにかく、大ムーティさまの話なのだから、説得性がある。

 歌唱はアカデミー生たち5人。ピアノはムーティ自身。1階席(のみ解放された)を埋めつくした聴衆には、通訳の声が聞こえる無線機が配布されていた。
 本番の演奏は、4月4日に行われる。

2019・3・27(水)メルカダンテ:「フランチェスカ・ダ・リミニ」

     昭和音楽大学 テアトロ・ジーリオ・ショウワ  2時

 「フランチェスカ・ダ・リミニ」といっても、作曲者はチャイコフスキーでも、ザンドナーイでも、ラフマニノフでもない。サヴェーリオ・メルカダンテ(1795~1870)のオペラだ。実に珍しい作品を取り上げたものである。
 これは1831年に書き上げられながら結局上演されずオクラとなり、やっと2016年になってマルティーナ・フランカで初演され日の目を見たという曰く付きの作品だそうな。
 文化庁と日本オペラ振興会主催、昭和音楽大学協力による「第1回ベルカントオペラ・フェスティバル、イン・ジャパン」と題された催事で、シンポジウムやコンサートの他に、この作品が「オペラ」としてレパートリーに加えられた。藤原歌劇団とヴァッレ・ディトリア(マルティーナ・フランカ)音楽祭の提携公演で、これが日本初演とのことである。

 音楽は、作曲された時代からして、ドニゼッティ、ベルリーニ、ロッシーニのスタイルに近い。美しい歌やオーケストラの旋律が随所に散りばめられる。またストーリーは、ダンテの「神曲」の中でフランチェスカとパオロとによって語られる哀しい物語と同一だが、不気味さは全くなく、イタリア・オペラによくあるタイプの「悲恋のオペラ」として仕立てられたものだ。
 上演時間は休憩1回を含め3時間半と、結構長い。演奏時間が長いだけでなく、「歌」が優先された構成のためにドラマとしての進行が極端に遅いので、それがいっそう曲を長く感じさせる。

 今回は、ファビオ・チェレーザによる「セミ・ステージ上演」と銘打たれていたが、たしかに舞台装置こそないものの、衣装も演技も舞台空間も本格的なものだったため、これで充分とさえ感じられたほどである。
 特に舞台の背景にギュスターヴ・ドレの絵が入れ替わり立ち代わり大きく投映されていたのは効果的で、ダンテの「神曲」に挿絵された「パオロとフランチェスカ」だけでなく、ポーの「大鴉」まで出て来たのには驚かされたし、また「神曲」の「天国のダンテとベアトリーチェ」では、光の天使たちの環が緩やかに回転する動画になっているという芸の細かさも見られた。これらドレの絵画は、今回の舞台上の演技とはイメージ的にあまりマッチしてはいなかったものの、視覚的には愉しめるものであった。

 歌手陣。フランチェスカを歌ったレオノール・ボニッジャ(Bonilla、スペイン生れ)は、2016年にこのオペラが世界初演された際、ファビオ・ルイージの指揮の下で歌った人だとのこと。歌にも舞台姿にも輝かしい華を感じさせ、プリマの素質充分の人のようだ。
 これに対し、パオロ青年を歌った(アンナ・ペンニージ、Ms)は、歌唱は極めて良いが、舞台上の雰囲気では、・・・・少々分が悪い。

 ランチョット(史実及びダンテの「神曲」では「ジェンチョット」)役のアレッサンドロ・ルチアーノは、悪役然とした風格は出しているものの、声量が乏しく、声質もリリカル系であるため、本来の仇役としての凄みのあるイメージにならず、むしろ妻に裏切られた善良で真面目で気の毒な領主のように見えてしまったのが今回の上演における唯一の難点であった━━もっとも、それが演出の狙いだったとすれば、話は別だが。

 一方、フランチェスカの父親グイード役の小野寺光は、声は重量感たっぷりながら、演出の所為で何ともだらしのない父親に見えたのは気の毒。他にイザウラを楠野麻衣、グエルフィオを有本康人。藤原歌劇団合唱部と東京フィルハーモニー交響楽団、ダンサーは五十嵐耕司ほか5人。指揮のセスト・クワトリーニが柔らかいカンタービレを効かせて、好い雰囲気を出していた。

 馴染みの全くないオペラなのに、会場は満席に近い。藤原オペラのパワーか。

2019・3・26(火)ウラディーミル・ユロフスキ指揮ベルリン放送交響楽団

      サントリーホール  7時

 「ユロフスキ」と「ユロフスキ―」のどちらが表記として適切なのか判らないけれど、招聘元ジャパン・アーツは「ユロフスキ―」でやっているようである。スペルは「Jurowsky」ではなく「Jurowski」なのだが・・・・。

 今日のプログラムは、前半が20日と同じモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲と「ピアノ協奏曲第21番」。
 オーケストラも、さすがに滞日6回目の公演となればアンサンブルにも落ち着きが出て来て、先日のようなガサガサした演奏ではなくなった。コンチェルトのソリスト、レイフ・オヴェ・アンスネスは、今日はソロ・アンコールにモンポウの「《街外れ》第1番」という美しい曲を弾いてくれた。

 プログラム後半は、マーラー編曲のベートーヴェンの「第7交響曲」なる珍しい曲。編曲といっても、作品の構造自体を変更しているわけではなく、あくまで管弦楽法を改訂するにとどまっているものだ。
 ただ、マーラー版のスコアが手許になく、またどこまでが指揮者の表現なのかどうかが定かでない━━という保留要素はあるものの、オリジナルと比較してかなり濃厚な、少々えげつないまでの手が加えられているのは確かなようである。

 聴いて気がついた範囲で、いくつかの点を挙げれば、例えば全曲にわたり、過剰なほど執拗に施された細かいクレッシェンドとデクレッシェンドであろう。これがもし指揮者の独断で入れたのでなければ、マーラーの改訂における最大の特徴であろうと思われる。
 また、再現部直前の弦と管のバランスにはかなりの変更があったようだし、コーダにおけるバスのオスティナートも異常なほど誇張されて響かせられていた。第3楽章トリオにおけるティンパニの奏法、第4楽章のリズム主題の響かせ方にも、原曲とはだいぶ違いがある。
 第4楽章コーダでは、全管弦楽のバランスを含め、マーラーはもうここぞとばかり手を替え品を替え、オリジナルの視点から見れば畸形と感じられるほどに響きを変えてしまっている。よくぞここまでやったものだ、と呆気にとられずにはいられない。いかにも「鼻につく」手法ではある。だがしかし、こういう版を聴かせてもらったことに対しては、礼を言おう。
 アンコールは、またマーラー編曲によるバッハの「アリア」。

2019・3・26(火)新国立劇場 マスネ「ウェルテル」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 2016年4月にプレミエされたニコラ・ジョエル演出のプロダクションで、落ち着いた良い舞台だ。
 今回の上演の指揮はポール・ダニエル。声楽陣はウェルテルをサイミール・ピルグ、シャルロットを藤村実穂子、アルベールを黒田博、ソフィーを幸田浩子、大法官を伊藤貴之、シュミットを糸賀修平、ジョアンを駒田敏章、ブリューマンを寺田宗永、ケッチェンを肥沼諒子、新国立劇場合唱団、児童合唱が多摩ファミリーシンガーズ。管弦楽が東京交響楽団。

 演出に関してはプレミエ時(2016年4月6日の項)と基本的には同じ印象ゆえに詳細は省く。第3幕におけるアルベールとシャルロット夫妻の諍いの描写が前回よりは少し明快になったような気もするけれど━━定かではない。
 アルベールには黒田博が、ふだんの彼とは別人のようなメイクで、穏やかで落ち着いた役柄として演じていた。

 そして、藤村実穂子のシャルロットが素晴らしい。イメージからすると合致しないのではないか、と思われるようなキャラの組み合わせではあったが、さすが藤村さん、見事なものであった。前回のエレーナ・マクシモア演じるシャルロットが控えめで受け身な女性のイメージだったのに対し、藤村実穂子のシャルロットは、おとなで、分別があり、それが感情を抑えきれなくなるという矛盾をはらんだ女性として描き出されるのである。
 ともあれ、彼女が歌い始めると、舞台上のすべてのものが、彼女一人に集中してしまうほどだ。かつてはバイロイトのヴァルトラウテ役で劇場の空気をビリビリと震わせたほどの彼女の声も、最近はかなり柔らかくなって来たような気がする。

 ポール・ダニエルの指揮も、詩的な雰囲気を備えて、なかなか良い。東京響も悪くなかったが、ヴァイオリン群の音に厚みさえ出ていれば、とそれがいつも惜しまれる。

2019・3・25(月)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

      サントリーホール  7時

 かつては、この東京響の首席客演指揮者を務めた時期もあった若手ウルバンスキ。かなり個性のはっきりした表現を聴かせて人気を集めた指揮者だ。今でもそれを忘れられぬ人が多いようである。
 この人、個性が明確といっても、殊更に奇を衒うようなタイプではなく、また何を指揮しても独特の癖を出すという人でもない。古典派やロマン派、あるいは現代音楽のレパートリーにおいて、いろいろなスタイルを採りながら意外なやり方で作品から新しいイメージを引き出す、という指揮者のように感じられるのだが━━。

 その一例が、この日の第2部で演奏されたショスタコーヴィチの「第4交響曲」だ。
 たいていの指揮者は、この作品に投影されている破滅的な戦慄感を浮き彫りにした表現を採るものだが、今回のウルバンスキと東京響ほど、その恐怖感のようなものを綺麗さっぱり拭い去ってしまい、むしろ明るいエネルギー性をのみ優先して構築した感のある演奏を聴かせた例を、私は他に知らない。

 あの弦楽器群の狂気じみた疾走も、全曲終結近くのティンパニの乱打を含む狂乱怒号も、今日の演奏では、全く「怖くない」のだ。単なる流麗なクライマックスとして、あっさりと通過してしまうのである。その恐るべき喧騒が次第に遠ざかり、白々とした虚脱感に入って行くはずの最終部分でも、ウルバンスキは、ただ美しく音色を変化させて行くのみである。
 しかし、それらのすべてが、ただ無機的な演奏に堕しているのかというと、決してそんなことはないのだ。それは、東京交響楽団(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)の、均衡豊かな演奏によるところが大きいだろう。その華麗なる威力あるアンサンブルは、見事なものであった。

 いずれにせよ、こういうショスタコーヴィチの「4番」像もあり得るのか、と少々驚いた次第だが、私の好みから言えば、興味深いとはいえ、あまり賛意を表しかねる、というのが本音である。

 なおプログラムの第1部では、美女ヴェロニカ・エーベルレがモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番《トルコ風》」を弾いた。繊細で美しく、しかし第3楽章などでは艶と凄味のある低音を垣間見せる。ソロ・アンコールではプロコフィエフの「ソナタ作品115」の第2楽章を披露した。

2019・3・24(日)小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト「カルメン」

     東京文化会館大ホール  3時

 恒例の「小澤征爾音楽塾」の公演で、今年は2017年の「カルメン」の再演である。
 指揮はクリスティアン・アルミンク。当初の予定では小澤征爾も「前奏曲」などいくつかの部分を指揮するということになっていたが、気管支炎とかのため、やはりキャンセルされた。

 配役は、カルメンをサンドラ・ピクス・エディ、ドン・ホセをチャド・シェルトン、ミカエラをケイトリン・リンチ、エスカミーリョをエドワード・パークス、フラスキータをカトリーナ・ガルカ、メルセデスをアレクサンドラ・ロドリック、スニガをジェフリー・ベルアン、モラレスをアンドリー・ロヴァト、ダンカイロを近藤圭、レメンダードを大槻孝志。小澤征爾音楽塾オーケストラ、小澤征爾音楽塾合唱団、京都市少年合唱団。

 主役陣には、2年前にも来日して歌った歌手たちも少なくないが、今回はカルメンの声のピッチが下がり気味だったり、ホセが妙に癖のある歌い方をしていたり、気になるところもいくつかあった。デイヴィッド・ニースの演出は例の如しだが、オーケストラが達者だったことは特筆しておいてもいいであろう。

 実は私の方も今日は風邪気味のため、甚だ体調芳しからず、朝の「オランダ人」を観ていた頃から具合が悪かったくらいなので、残念ながら第2幕が終ったところで主催者に挨拶し、チケットを返却して失礼させてもらった。
 あとで事務局の関さんから聞いたのだが、最後のカーテンコールでは小澤さんも登場したとのこと。その模様を事務局から送信されて来た動画で見ると、あれなら前奏曲か間奏曲のどれか1,2曲ぐらいは指揮できたのでは、と思わせる雰囲気であった。

2019・3・24(日)東京・春・音楽祭
「子どものための《さまよえるオランダ人》」

  三井住友銀行東館ライジング・スクエア1階アース・ガーデン 午前11時

 「バイロイト音楽祭提携公演」として「東京・春・音楽祭」に加えられているこのプロダクションは、バイロイトの総帥カタリーナ・ワーグナーが自ら手掛けたもの。
 今回の会場は何と大手町の銀行のロビーで、そこにシンプルな舞台、幽霊船に代わる黒いボート、階段状の簡易客席などが特設され、カタリーナ自らの演出のもと、照明なども付して上演されたのだった。

 出演は、友清崇(オランダ人)、斉木健詞(ダーラント)、田崎尚美(ゼンタ)、金子美香(マリー)、高橋淳(エリック)、菅野敦(舵手)ら、歌唱水準の高い顔ぶれ。合唱こそ無かった(幽霊船の水夫の合唱の一部のみ録音で再生されていた)が、協演はピアノではなく、ダニエル・ガイスが指揮する「東京春祭特別オーケストラ」が生演奏で受け持つという豪華なもの。
 2時間20分の全曲の中から抜粋して1時間ほどの長さにまとめ(編曲はマルコ・ズドラレク)、ドイツ語の歌唱と日本語の台詞とで繋いで行くという構成になっていた。

 演出は、子ども向けということのせいか、カタリーナの舞台にしては意外に「まっとうな」ものだ。演奏が極めてしっかりしていたので、「さまよえるオランダ人」のハイライト紹介という意味で捉えれば、これはすこぶる面白い企画であろう。
 ただし、ドイツ語の歌詞には字幕がなく、また現場での解説もないので、子どもたちには、果たして「ゼンタの自己犠牲」とか「救済」とかの内容が明確に理解できたかどうか? といっても観客の大半は大人たちだったが・・・・。

 最後は「ボートの中の」オランダ人に、ゼンタが「岸辺」だか何だか判然としない台の上から手を差し延べるところで暗転するのだが、しかし、この幕切れあたりの進行と芝居が、言っちゃ何だが、甚だ拙い・・・・。

2019・3・23(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 カンブルランの常任指揮者時代を締め括る一連の演奏会の、これが最終のコンサート。ただし2回公演の、今日は初日。
 ベルリオーズの「ベアトリスとベネディクト」序曲と「幻想交響曲」の間に、ピエール=ロラン・エマールをソリストにしたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番ハ短調」というプログラム。

 コンチェルトは、毅然として揺るぎのない風格を湛え、古典の名作としての威容を示す演奏となった。瑞々しくも整然たるアプローチを続けていたエマールが、最後の最後に至って下行音型を猛烈なフォルティシモで轟かせて大見得を切ったのが何とも愉快だった。

 「ベアトリスとベネディクト」序曲は、ベルリオーズの数ある序曲の中では最もポピュラーではない曲だが、管弦楽法は晩年の円熟を示して精緻な色合いに富んでいるだろう。だが、カンブルランが率いる好調の読響の演奏は、彼の初期の「幻想交響曲」における管弦楽法をも、後期のそれと同等の色彩感を漲らせて響かせる。
 もっとも演奏そのものは、意外なほどに古典的な端整さを保ち、豪壮な音響ではあるものの決して狂乱には陥らない。そういえば、彼のベルリオーズは━━20年ほど前、ジェラール・モルティエが采配を振るっていた時代のザルツブルク音楽祭で彼が指揮した「ファウストの劫罰」や「トロイ人たち」などでも、品が良すぎるほど節度を保った演奏だったことを思い出した。

 告別の「幻想交響曲」にしては些か端然とした終結ではあったものの、カンブルランの本領を堪能するには充分の演奏だったであろう。

※この日はかように真面目に演奏会が終ったものの、翌日(最終日)はカーテンコールで「天国と地獄」序曲を演奏し、カンブルランをはじめ皆が賑やかに踊ったそうですね。そういう解放的なお別れもいいかもしれない。
 かつて若杉弘が都響の音楽監督のポストから去る時、数人の聴衆が客席に「WAKASUGI、COME BACK!」と書いた横断幕をぶら下げ、皆をジンとさせた、という話を聞いたことがある。そのような、聴衆の自発的な感激の行動もいいかと思うが━━。

2019・3・22(金)グスターボ・ドゥダメル指揮ロサンゼルス・フィル

     サントリーホール 7時

 今回のアジア・ツアーは、ソウルで3回、東京で3回というスケジュールの由。ツアー・プログラムには、ここにもマーラーの「巨人」が入っている。ただし今日聴いたのは、同じマーラーでも「交響曲第9番」の方。

 このコンビ、前回の来日でマーラーの「第6番《悲劇的》」を演奏していた(2015年3月28日の項)が、今日の「9番」の演奏における印象も、その時とほぼ同じといってよい。壮麗で濃厚で、しかも輝きのある響きと音色は、現在のドゥダメルとロス・フィルの身上であろう。
 マーラーの「第9」に輝きなどがあっていいのか━━という考え方ももちろんあるが、この場合の輝きとは、華美とか華麗とかいう意味とは全く異なるもので、全曲にわたり青年の若々しい人生肯定的な息吹が根底に流れていることを感じさせる、という意味である。

 中間2楽章の演奏にあふれる荒々しさは、ヒステリックな精神の苛立ちではなく、まっすぐで闊達なエネルギー感だ。そして両端楽章での演奏にも、人生の終りに近づいた者の諦念などではなく、なお「生」への希望を滲ませた安息感━━とでもいったものが感じ取れるのである。今日の第4楽章の終結部の演奏などには、「無」への旅立ちではなく、彼方の「生」を感じさせる「光」への旅の始まり━━が聴き取れるのではなかろうか? 
 どうも勝手な、観念的な独りよがりを言っているみたいで申し訳ないのだが、マーラーの「第9」に、こうしたイメージをもたらしてくれるドゥダメルの若さは羨ましいものだとつくづく感じてしまった、というのが正直なところなのである。

 ロス・フィルの音も、エサ=ペッカ・サロネンが音楽監督だった時代に比べ、随分変貌したものだと思う。それはむしろ、50年前に気鋭のズービン・メータが音楽監督を務めていた時代の音を思い起こさせる(1969年に来日した時がそうだった)が、それよりは少し荒っぽいかもしれない。だが演奏の水準は相変わらず高いものがある。この楽団を楽々と制御するドゥダメルは、未だ38歳の指揮者だ。

2019・3・21(木)プレトニョフ指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 第1部がチャイコフスキーの「スラヴ行進曲」と「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはユーチン・ツェン)、第2部がハチャトゥリアンの「スパルタクス」からの「アダージョ」と「交響曲第3番《交響詩曲》」。名曲と珍曲(?)とを巧く組み合わせたプログラムである。

 聴き慣れた「スラヴ行進曲」も、ミハイル・プレトニョフの手にかかると、最初の主題などは打ち沈んだ哀愁を帯びたものになり、この曲が決して単なる騒々しい機会音楽などではないことを再認識させてくれる。「協奏曲」では、台湾出身の、日の出の勢いにある若手ユーチン・ツェンが登場、均整のとれた真摯で生真面目なソロを披露した。

 後半のハチャトゥリアン2曲における物々しい豪壮な色彩感は、まさにロシアの指揮者ならではのおおわざだろう。
 「スパルタクス」の「アダージョ」で、オーケストラのトゥッティの高鳴りの上にひと際高くトランペットのソロを、それも甘く官能的な色合いを以って浮き出させるあたり、プレトニョフもなかなかの芝居巧者ではなかろうか。

 そして今日の極め付きは━━ステージ後方最上段にずらりと並んだ15本(!)のトランペットのバンダが一斉に咆哮し、オルガンの轟音が渦巻く「交響詩曲」である。
 これは耳を聾する騒々しい珍曲ではあったが、当時のソビエト革命30周年記念のための祝典音楽としては、それなりの意味を持っていたことだろう。あのヤナーチェクの金管群のファンファーレが活躍する「シンフォニエッタ」と同様の祝典性を感じさせるが、しかしこちらの「交響詩曲」の方は、もっと力任せで、威圧的である。
 とはいえこのトランペット群が吹き鳴らすさまざまなモティーフは、ある時にはジョン・バリーの映画音楽に似ていたり、「ロッキーのテーマ」のようだったり、「古畑任三郎」の中の「犯罪のモティーフ」を連想させたりする、結構楽しいものであった。演奏時間は30分近く、終りそうでいてなかなか終わらない、意外に長い曲だった。

 アンコールには「仮面舞踏会」からの「ワルツ」が演奏され、ここでやっと私たちに馴染みのハチャトゥリアンが再び姿を現してくれた。
 コンサートマスターは依田真宣。

2019・3・20(水)ウラディーミル・ユロフスキ指揮ベルリン放送交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 都民劇場の公演。
 肘の故障で来日が危ぶまれたレイフ・オヴェ・アンスネスだったが、このオケとの公演には予定通り参加してくれた。ただし、当初予定されていた長大なブラームスの「協奏曲第1番」は、モーツァルトの「協奏曲第21番ハ長調」に変更になった。

 アンスネスのモーツァルトは大変いい曲目ではあるのだが、オーケストラが少々ガサツな演奏だったため、どうも音楽の座りが悪い。それゆえアンスネスの本領はやはり、ソロ・アンコールで弾いたショパンの「夜想曲作品15の1」の方で、余すところなく示されたといえよう。主部から中間部に移る個所での劇的な変化、再び主部に戻るあたりの流れの良さ、そして全曲にあふれる瑞々しい情感━━5分足らずの小品に籠められたアンスネスの深味は見事なものであった。

 ユロフスキとベルリン放送響(旧東独の放送響)は、その協奏曲の前に置かれたモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲からして何ともガサガサした演奏で、それは練習不足なのか、オケの水準が落ちたのか、手抜きなのか、あるいは旅の疲れか? 

 プログラムの第2部はマーラーの交響曲「巨人」。外来オケは何故どれもこれも、こう「巨人」ばかりやるのか、と呆れるが、今回は第2楽章に「花の章」を復活させた演奏をすることで、僅かながらも差別化を狙ったようである。オーケストラにはフルートが「数え間違い」をするなど、散漫な雰囲気もなくはなかったが、ユロフスキは、とにかくここでは抑制したテンポの裡に念入りな構築を聴かせた。
 アンコールはバッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」のマーラー編曲版で、このあたりは選曲に工夫が見られる。

2019・3・19(火)カンブルラン指揮読売日響「果てなき音楽の旅」

     紀尾井ホール  7時

 常任指揮者カンブルランのお別れ演奏会シリーズの第3弾は、読響のメンバーと組んだ現代音楽のアンサンブル・コンサートだった。
 第1部ではエドガー・ヴァレーズの「オクタンドル」に始まり、メシアンの「7つの俳諧」が続き、第2部ではイタリアのジャチント・シェルシ(1905~88)の「4つの小品」、フランスのジェラール・グリゼー(1946~98)の「〈音響空間〉からのパルシエル」━━というプログラムである。「7つの俳諧」でのピアノは、ピエール=ロラン・エマール。

 こういう作品群をまとめて聴くという機会は決して多くないので、実に嬉しいことだった。「7つの俳諧」をエマールのソロ入りで聴けたことをはじめ、CDで聴くだけではその音響の空間的拡がりや和声的な音の衝突といった本領が判り難いシェルシやグリゼーの作品をナマで聴けたということも喜びである。
 特にシェルシの「4つの小品」では、4曲各々に、ある一定の音程のみが微妙に揺れつつ各楽器の音色やアクセントの違いにより不思議な音の厚みを以って増殖して行く━━第1曲の冒頭など、まるでブルックナーの亡霊でも現われて来たような錯覚に陥ってしまう面白さもある。

 そしてグリゼーの作品では、豊かな倍音が生み出す多彩な音色が耳を惹きつけるが、終結近くでは、奏者たちが譜面をガサガサと音を立ててめくったり、楽器をいじったりする物音たちがホワイト・ノイズ的効果を生み出して行く。その「雑音」のざわめきの中に照明が絞られて行き、最後は打楽器奏者独りにスポットが当てられ、彼がシンバルを両手に振りかざして最後の一撃を?と思わせた瞬間にステージは暗転して沈黙、場内には期待を裏切られた(?)聴衆の笑い声だけが残る━━という洒落た幕切れであった。

 なお、プログラム冊子に掲載された沼野雄司さんの解説は、「現代音楽の解説」ではありながら極めて解り易く、有益なものだった。

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