2016-08

2016・8・24(水)山田和樹指揮日本フィル&尾上右近
歌舞伎×オーケストラ

     サントリーホール  午後1時

 山田和樹が日本フィルを指揮し、第1部ではレハールの「金と銀」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」および「ラ・ヴァルス」を、第2部でベルリオーズの「ローマの謝肉祭」、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲、レスピーギの「ローマの松」を演奏。コンサートマスターは千葉清加。

 このうち「ラ・ヴァルス」と「ローマの松」で、尾上右近の舞踊(尾上菊之丞振付)が協演する、という趣向である。これは日本フィルとサントリーホールの共催による「とっておき アフタヌーン」なるシリーズの一環だ。

 「歌舞伎×オーケストラ」とはいっても、オケに合わせて舞台上で歌舞伎が上演されるわけではない。これは、「オーケストラの演奏」と「舞踊」の組み合わせである。昨年の9月8日にも、同じ顔触れの協演で「春の祭典」が演奏されている。

 舞踊の形は、原曲の内容を直接的に表わすものではなく、音楽の動きをただイメージ的に歌舞伎の舞踊に置き換えるものだが、今回は、音楽と、舞台上の舞踊の視覚的な効果とが比較的巧く合致していた。ゆえに、昨年のように演奏と舞踊とのギャップを感じさせずに済んだようである。
 移り変わる曲想は、照明の変化や、及び尾上右近のP席からステージ、あるいは平土間にまで立ち位置を変えながら舞踊を繰り広げる多彩な趣向に反映されていた。また、「ラ・ヴァルス」の終結部や「アッピア街道の松」のクライマックスでは、荒事も取り入れた舞踊で迫力が生み出され、音楽に相応しい効果が発揮されていた。

 今日のプログラムは、何か関連性がありそうで無さそうな、実際に聴いてみるとあまり釈然としないような選曲ではあったものの、とにかく山田和樹と日本フィルの演奏は、やはり「ラ・ヴァルス」と「ローマの松」が最も充実していたようである。
 とりわけ後者はすこぶる豊麗で幻想味に富み、「アッピア街道の松」では2階C席中央及びRC席及びLC席の階段のところに配置されたバンダがオケ本体と均衡を保ち、熱狂的な終結部を形づくった。
 足を豪快に踏み鳴らす尾上右近の舞踊もそれなりに迫力はあったが、このフィナーレではどうやら山田と日本フィルの豪壮華麗な演奏が歌舞伎の舞を圧倒してしまったような━━。

2016・8・22(月)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(4)
小澤征爾&ファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

      キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 7時

 前半にファビオ・ルイージがオネゲルの「交響曲第3番《典礼風》」を指揮。
 後半には、予定通り、小澤征爾がベートーヴェンの「交響曲第7番」を指揮した。
 コンサートマスターは、オネゲルが小森谷巧、ベートーヴェンが豊嶋泰嗣。

 いつものように、オケの楽員に交じってステージに登場した小澤さんは、客席から見たかぎりでは元気そう。指揮台に上る動作には些かも不自然さはないし、指揮する姿も、いつもの彼だ。
 指揮台にはもちろん椅子が置かれており、演奏が流れに乗っている時にはそれに腰を下ろして指揮するが、楽章の開始や、ここぞという個所では、さっと立ち上がってオーケストラを制御する。ただ、一つの楽章が終るたびに指揮台を降り、上手側ヴィオラの前に置かれた椅子に腰を下ろして何か飲料を摂るのが、わずか1~2分の休息とはいえ、少し痛々しい。

 しかし、暫時の休息後、指揮台に戻る時には、全身に「さあやろう」という勢いの雰囲気が甦る。「7番」第1楽章の長い提示部をリピートしはじめた時には、むしろ聴いているこちらの方が「何もそこまで・・・・」と、彼の体力の消耗を心配してしまったが、後半2楽章では反復個所なしで進められた。こちらが気をもんでも仕方がないことだが、とりあえずは安心した次第である。

 スケルツォ楽章はほぼ座ったままで指揮したが、しかしそのあとは休憩を取ることなく、すっくと立ち上がるや、全軍を率いて第4楽章に突入した。このあたりの気魄たるや、最近の彼の体調を知る者にとっては、何か凄まじいものを感じさせる。クライマックスのコーダでは、もはや腰を下ろすことなく、オーケストラを昂揚させて行く。そこでの身のこなし、指揮の姿などは、まさに以前の小澤征爾そのままだった。

 小澤とSKOは、この「7番」を、このフェスティバルの第2回━━1993年に演奏したことがある(9月4日)。徳永二男と加藤知子がトップに並んで弾き、工藤重典、ローター・コッホ、カール・ライスター、エヴァレット・ファースらが名を連ねていた当時のSKOとの「7番」は、まさに火のような勢いの、嵐のようなクレッシェンドの迫力を利かせた演奏だったことを記憶している。
 今夜の演奏を、それと比較するのは意味のないことだ。ただ、今夜のそれは、部分的には往年の演奏を彷彿とさせる個所もなくはないものの、やはり緊迫感や集中力、音楽の構築の緊密度などにおいて、かなり違った出来になっていたのは仕方のないことだろう。

 またSKOの方も、敬愛する小澤のもとでの入魂の大熱演だったことは確かだが、そのわりにフルート・ソロが粗っぽかったり、第2楽章最初のヴィオラとチェロによるリズム主題でのアンサンブルの音色が濁ったりと、名手ぞろいの集団にしては腑に落ちぬ個所も時に聞かれたのである。しかし第2楽章の中盤以降をはじめ、各所に温かくヒューマンな感性が聴かれたことは、現在の小澤征爾とSKOの変わらぬ絆をうかがわせるものとして、得難い至福のひと時と言えるものであった。

 客席総立ちの拍手と歓声の中、3回に及ぶオーケストラ全員を含めたカーテンコールでは、小澤さんもあの「休憩」などどこかへ吹き飛んだような雰囲気。Tシャツに着換えてしまっているルイージまでステージへ引っ張り出しての賑やかさだった(とはいえ、かなり疲れたのではないかという気もするのだが・・・・)。

 そのルイージが、前半で指揮したオネゲルの交響曲「典礼風」も、ややドライな音色と激しい力感に富んだシャープな演奏で、SKOのパワーを発揮させる快演だったことを忘れてはならない。

(付)午後には雲も拡がったものの、雨らしい雨は降らず。結局この3日間は台風とは全く無縁の松本だった。午前中はまた快晴だったので、松本美術館で今日から始まっている「グラミー賞特別展」を観に行く。これは2013年に小澤征爾指揮で上演されたラヴェルの「子どもと魔法」が、グラミー賞の「最優秀オペラ録音賞」を受賞したのを記念する展示である。レプリカは小型だが、ラッパ式蓄音機を模した黄金色に輝くたいへん美しいものだ。

 今年のOMFでは、もう一つ、「Gig」(28日)を聴きに行くことにしている。
      ⇒別稿 モーストリー・クラシック11月号

2016・8・21(日)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(3)
ファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ「復活」

       キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)  4時

 「オーケストラコンサート Bプログラム」は、マーラーの「第2交響曲《復活》」。
 ファビオ・ルイージが、昨年のマーラーの「第5交響曲」に続き、今年も登場して指揮。合唱がOMF合唱団と東京オペラシンガーズ、声楽ソロは三宅理恵(ソプラノ)と藤村実穂子(アルト)。コンサートマスターは矢部達哉。

 席が1階前方右端という、「仕事」には全く適さぬ位置だったので、演奏全体の特徴を厳密かつ客観的に判断するには少し無理があるけれども、とりあえずこの位置で聴いた印象では、これは実に鮮烈な演奏であった。
 冒頭、弦のトレモロの中に低弦が割って入る瞬間からして、切り込むような鋭い力が炸裂する。全曲にわたり鋭角的なリズムを基盤にした、冷徹で明晰な音の構築が続く。
 ロマン的で忘我的な熱狂というタイプの演奏ではなく、どこかに醒めた理性を感じさせる演奏であり、そのへんが感動の度合いの分かれ目になるかもしれない。だが、みなぎる強靭な力感はただものではない。

 昨年の「5番」と同様、このサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を指揮する時のルイージは、ふだんとは全く違った峻烈な音楽の容貌(かたち)を見せる。
 彼は本来、そんなにデモーニッシュな演奏をつくる人ではない。例えばMETで「ジークフリート」を聴いた時など、そのレガートな音づくりには不満さえ感じたものだった。だがその彼が、このSKOを指揮すると、全く正反対の、熾烈で尖った音楽を聴かせるのである。こういうルイージは、私の経験の範囲では、SKOと組んだ演奏でしか聴けないように思う。

 一方SKOも━━この30年間私が聴き続けて来た経験では、このオケがこれほどエキサイティングな演奏で応える指揮者は、小澤征爾以外では、彼ルイージあるのみだ(強いて挙げれば、他にハーディングか)。
 つまり、指揮者とオーケストラの双方が、ふだんは出せないような力を出し切る。これは、まさに相性の良さ、と言えるのではないか。

 ともあれ、ルイージはこれで、3年連続の当フェスティバル出演となった。彼に対するオーケストラの反応、および客席のスタンディング・オヴェーションなど、どうやらすべてが上々のように見える。

 SKOの機能的な力量も、また並はずれたものだろう。ただ、以前とは違った状況も気にならないではない。前述のように、聴いた席が楽員の最前列しか見えない位置なので、カーテンコールの時に初めて、ルイージから次々と起立させられて讃えられる管楽器セクションの首席奏者たちが軒並み外国人勢であることを知った。まるでPMFオーケストラみたいだ、と驚いた次第だ。楽員も随分代替わりしたものだとは思うけれども、管に日本人首席奏者はいないのか、と心配にもなって来る。

 声楽陣では、だれよりも藤村実穂子が傑出していた。完璧なドイツ語の発音、揺るがぬ音程とリズム、厳しく求道的な「復活」への歌━━。アルトのパートが毅然として屹立するさまは、彼女ならではの凄さである。
 これに対しソプラノの三宅理恵は、藤村とは対照的に感情過多の歌唱という気もするが、惜しかったのは、ソプラノ合唱の中から柔らかく浮き上がるはずの最初の個所が少々不安定で、合唱とのハーモニーにほんの僅かだが乱れを感じさせたことだった。
 6時40分終演。
       ⇒別稿 モーストリー・クラシック 11月号

2016・8・21(日)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(2)
吹奏楽パレード

 「サイトウ・キネン・フェスティバル」第1回以来の名物となっている、市内外のブラス・バンドを集めてのパレード。

 実は私は、このフェスティバルに25年間連続して通いながら、これを観るのは今回初めてなのである。たまたま泊まった場所が伊勢町交差点にあるリッチモンド・ホテルで、吹奏楽パレードはその伊勢町通りの「Mウィング」前からスタートするため、これ幸いと見物しに行った次第。

 快晴の中、午前9時30分に開始されたパレードには、市内や長野県近郊の小中学校のバンド部から、信州大学吹奏楽団、社会人バンドにいたる計53団体2700余名が参加。全部が通り抜けるには1時間10分かかる。

 各々の団体がそれぞれの曲を演奏しながらの行進だが、一番威勢が良かった松本市消防団ラッパ隊は別として、辰野中学校吹奏楽部や伊那市立東部中学校吹奏楽部のように活気のあるまとまった演奏を繰り広げつつ進んで行くのもあれば、演奏や行進の姿勢に何となく元気のない団体もある。そういうテンションの低い行進と演奏になる原因は、おしなべて選曲と編曲にあると思うのだが如何? これは先生の責任ではなかろうか。

 パレードは、伊勢町通りから本町通りと大名町通りを抜け、松本城公園に入る。
 ここで11時から、参加団体からの抜粋メンバー1600名の合同演奏となる段取りだ。お城の公園で演奏されたのは、「ラデツキー行進曲」と、県歌「信濃の国」。
 ━━その「県歌」は、「長野県人なら誰もが知っているこの曲。第1回の合同演奏から定番となっています・・・・ぜひ一緒に歌いましょう」と、チラシにある。第1連は「信濃の国は十州に 堺連ぬる国にして・・・・」と始まり、「海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき」と結ぶ。随分、難しい言葉を使うものである。
 猛暑で日差しも強烈なので、全部は聴かずに失礼した。

 パレードが去ったあとの街路で、1人の警官(!)に声をかけられた。
 以前は朝比奈隆のファンだったそうで、今でも東京までよく演奏会を聴きに来られるという、熱烈な音楽ファンの方である。「昔はオーケストラのメンバーもパレードに加わったものですが、今はそういう余裕もなくなったらしい・・・・あの頃は、お城での合同演奏で時々小澤さんも指揮してくれて。そうするとバンドの音が見事にガラッと変わってしまったものですよ」と、懐かしそうに話してくれた。
 諸行無常というほど大袈裟でもなかろうが、フェスティバルの雰囲気も、25年も経つと変貌して来る。残念だが、仕方のないことかもしれぬ。

 だが、パレードでは、各団体の各々間に、「SEIJI OZAWA MATSUMOTO FESTIVAL」のロゴの入ったフラッグを掲げた旗手たちがそれぞれ3~4人ずつ行進し、沿道に設置されたスピーカーから流れる紹介のアナウンスの中でもその名称が繰り返し出て来る。
 同じロゴのフラッグは、主要道路のすべての電柱にも、はためいている。
 沿道を埋め尽くした見物人の目と耳に入るのは、以前は「サイトウ・キネン」だったが、今では「セイジ・オザワ」の名だ。彼の名は今まで以上に松本の街に浸透することになるだろう。
       ⇒別稿 モーストリー・クラシック11月号

2016・8・20(土)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(1)
ふれあいコンサート1

      ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール) 4時

 朝の東京は土砂降りで閉口したが、幸いにこちら松本は薄晴。ホテルに荷物を置いてから、JR島内駅近くにあるザ・ハーモニーホールまで、傘も使わず無事に着けたのは有難い。
 緑の木立に囲まれ、いかにも高原の音楽会場という美しい風情を備えたこのホールは、私のお気に入りだ。座席数693、満席時の残響2秒とのことで、ここで聴く室内楽の響きは、まさに絶品である。

 今日は、ミケランジェロ弦楽四重奏団(ヴァイオリンがミハエラ・マルティンとダニエル・アウストリッヒ、ヴィオラが今井信子、チェロがフランス・ヘルメルソン)を中心にした室内楽コンサートだ。
 2曲目に彼らだけで演奏されたバルトークの「弦楽四重奏曲第3番」が流石に見事な均衡と凝縮力を発揮し、瑞々しい音を交錯させて、この日のプログラムのうちでも最高の演奏となっていた。

 これに対し1曲目の、ボッケリーニの「弦楽五重奏曲ハ長調G310」では、もう1本のチェロに趙静(チョウ・チン)が加わっての演奏となったが、彼女の日頃のヴィヴィッドで張りのある、瞬発力のあるソロは周知の通りで、あたかも物静かな家族の中へ元気で明るい若い女性客が割り込み、その闊達な語り口に、一家もにこやかに座談に興じる━━といった雰囲気の五重奏曲となった。
 ただそれだけに、厳密なアンサンブルという点では、少々難点があったことは否めないだろう。

 だが、第2部でのブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」では、趙静も完全にミケランジェロ弦楽四重奏団の音色に溶け込み、もう1本のヴィオラとして参加した佐々木亮とともに、緻密なアンサンブルを構築して行った。

 この6人によるブラームスは、しっとりとした音色に富む美しいものだが、前半2楽章など、随分落ち着いたレガートな表情に聞こえて、意外な感に打たれる。よく響くホールの音響が生む距離感のせいでもないだろうと思う。
 こんなに穏健で安息感に浸ったブラームスもありなのかな、と、若干物足りなく感じたものの、後半2楽章では、その落ち着いた音なりに躍動的なエネルギー感も生まれて、室内楽演奏会特有の歓びを客席に与えてくれたのは確かであった。

 なかなか鳴りやまぬ拍手に応えて、ブラームスの第3楽章がもう一度演奏され、コンサートは6時5分頃に終った。
 休憩時間の頃には驟雨もあったようだが、終演時にはもう雨も上がって、しのぎやすい気候になっている。東京とは桁違いの空気である。
       ⇒別稿 モーストリー・クラシック11月号

2016・8・18(木)鼓童&下野竜也指揮新日本フィル

    サントリーホール  6時30分

 「太鼓芸能集団 鼓童」の、「創立35周年記念コンサート」と銘打たれた3回の演奏会の一つ。
 この日は、オーケストラの協演によるプログラムのみで構成されている。演奏されたのは、伊佐治直の「浮島神楽」(世界初演)、猿谷紀郎の「紺碧の彼方」(同)、石井真木の「モノプリズム」(1976年作品)、富田勲の「宇宙の歌」(1994年作品)の4曲だった。

 最も長大な「モノプリズム」を3曲目に置き、序破急とでもいうべき流れで音響的かつ重量感的な頂点を築いておいて、最後に寛いだ曲想の小品「宇宙の歌」を演奏して結ぶところ、なかなか巧い選曲である。
 猿谷紀郎の「紺碧の彼方」は管弦楽パートに極めて多様な色彩が聴かれ、石井真木の「モノプリズム」は前半に管弦楽の発言のみが続く━━という曲想ではあるものの、どの曲においても鼓童の「日本魂」が炸裂する、胸のすくような音の饗宴に彩られた作品であった。

 このような日本太鼓と洋楽器のオケが同一ステージで激突した場合、日本のホールではどうしても太鼓が音量の上で勝ってしまい、オケが霞みがちになるのは致し方ないだろう。
 ただこれが、欧米のホールで演奏した場合には、空気の違いというのか、洋楽器の響きがぐっと大きくなり、太鼓と対等に聞こえるという不思議なケースになるものである━━これは1974年秋に、小澤征爾と新日本フィルが甲州太鼓のチームと組んで欧米演奏旅行(国連デー参加を含む)した際に私が直接体験したことなのだが。

 それにしても、鼓童のメンバーの、鍛え抜かれた肉体から生まれるあの視覚的な美と、音楽的な力の美との調和は、形容しがたいほど素晴らしい。巧くは言えないが、これこそまさに日本の芸術の根源的な力の一つなのだろう。
 オーケストラとの協演は、鼓童の幅広い活動のほんの一部でしかないが、その分野でもこのような無限の可能性を感じさせる音楽を創れるということが、わくわくするような感動を私たちに与えてくれる。

 新日本フィルを制御した下野竜也の指揮も、すこぶる見事だったと思う。彼はプログラムに、鼓童との協演が決まった時には「僕もマラソンしなければならないのか?」と不安になった、というエッセイを載せているが、いかにも彼らしいユーモアである。

 ちょうど40年前に作曲された「モノプリズム」が、今でも生命を失っていないことを改めて認識できたのもうれしい。
 この曲には、私も特別な思い出がある。作品の世界初演は、小澤征爾がタングルウッド音楽祭で行なったが、日本初演はその1976年の12月、東京文化会館における新日本フィルの定期演奏会で、やはり小澤征爾が指揮して行なったのだった。その頃、FM東京では新日本フィルのライヴ番組をレギュラーで編成していたので、当然私たちもその演奏を録音したのだが━━。

 鼓童の前身「鬼太鼓座」の、その太鼓の大音響たるや、当時としては驚天動地の物凄いものに感じられたものだ。家鳴り震動、ホールの天井からゴミがバラバラと落ちて来るほどだから、マイクで太鼓とオーケストラのバランスを取るのは、当時のワンポイント録音システムでは至難の業。
 小澤さんが心配して「ほんとに凄い音がするんだよ、大丈夫?」と事前に私に声をかけてくれたが━━こういう時、いつも小澤さんはこまかく気を使ってくれた━━こちらも「ウーン、やるしかありません」と答えるしかなく、確かに実際の録音は、どう贔屓目に見ても、あまり芳しいものとは言えなかった。

 それでも、とにかく放送はした。困ったのはその直後、NHKが、「尾高賞の審査でみんなが聴きたいと言ってるんで、テープを貸してくれ」と頼んで来たことだった。
 その前年にFM東京が芸術祭大賞を獲った「カトレーン」(武満徹)の録音は自信満々だったから、喜んでNHKにも貸した(で、尾高賞を取った)が、この「モノプリズム」の録音は、大NHKに聴かせるには、少々心許ない。「録音バランスがいいとは言えないし、お聞かせするにはとても」と、一度は丁重に断ったのだが、是非にと言われ、仕方なく貸した。
 結局、「モノプリズム」は、めでたく尾高賞を受賞した。

2016・8・15(月)ザルツブルク音楽祭(終)
R・シュトラウス:「ダナエの愛」

     ザルツブルク祝祭大劇場  7時

 オペラのプログラムに載っている当該作品の上演史「CHRONIK」を見ていると、歴史の流れが感じられ、興味深い。
 この「ダナエの愛」については、1944年8月16日の総練習(戦況悪化のため本番上演は出来なかった)では、クレメンス・クラウス指揮、ルドルフ・ハルトマン演出に加え、ユピテルをハンス・ホッター、ダナエをヴィオリカ・ウルズレアクが歌っていたという記録が見える。そういう時代だったのか、と感慨が起こる。
 なお同祝祭での初演は1952年、同じ指揮者と演出家で行われていた。

 そして、私がこのザルツブルクで見た2002年の上演は、実にこの祝祭での50年ぶりのものだったことも分かる。
 あれはファビオ・ルイージの指揮、ギュンター・クレーマー演出で、たしか株の暴落と大恐慌を題材にした舞台だった記憶がある。ダナエ(デボラ・ヴォイトだった!)がラストシーンで大神ユピテルの誘惑を振り切り、貧しくとも愛のある生活を求めて、雨の中に傘を広げて去って行く光景が実に印象的だった(ただし共同制作のザクセン・ドレスデン州立歌劇場で観た時は、最後の場面は大きく変えられていたが)。

 さて、それに対して今回のアルヴィス・ヘルマニスの新演出は、まるでアラビアン・ナイトかなにかのような衣装による舞台の、一種のお伽話的なプロダクションになった。
 ミダス王の世界は、高価なペルシャ絨毯(?)をはじめ、舞台全体が煌めく黄金色に彩られる。そして彼が黄金を失って質素な生活に陥る世界は、一面の白色の世界(但し明るい)。ダナエがいずれを選ぶか迷う「黄金の豊かな世界」と「貧しいが愛のある世界」の対比がそれである。彼らの衣装もその対比の中に変化する。

 こうして、黄金を捨て、愛のみに生きる決意を固めたダナエは、ユピテルを見向きもせず、一心に絨毯を織る仕事に没頭し、ユピテルはそれを見て寂しく立ち去るという終結になるわけだ。
 いろいろな場面に登場する、黄金色あるいは白色の衣装をまとったダンサーたちの動きが美しい。またユピテルの最初の登場場面には大きな白い象のセットが現われたり、貧しくなったミダスの世界には本物のロバが出て来たり、といった余興も含まれる。

 かような、いわば「娯楽的な」要素を強めた演出は、おそらくR・シュトラウスのマニアたち━━ホフマンスタールやグレゴールのそれも含めて━━からは、甚だ顰蹙を買い、好まれざるものであるかもしれない。
 ただ、舞台はこのようにお伽話的で、コミカルな要素の強いものではあっても、ユピテルやミダス王の演技には一応それなりの心理表現が備わっていて、単なるアラビアン・ナイト的物語だけでは終らせないものがあったことは、見逃してはなるまい。

 主役歌手陣━━ダナエにクラッシミラ・ストヤノーヴァ、大神ユピテルにトマシュ・コニェチュニー、ミダス王にゲルハルト・ジーゲル、メルキュールにノルベルト・エルンスト、といった顔ぶれにも、見応え、聴き応えがあった。何といってもコニェチュニーの、コミカルな味と、やくざのボスのような凄味とを綯い交ぜにした存在感が映えていた。

 だが、これぞさすがと舌を巻かされたのは━━そして誰よりも拍手と歓声を熱烈に浴びたのは━━指揮のウェルザー=メストと、ウィーン・フィルである。
 ウェルザー=メストは、昨年の「フィデリオ」や「ばらの騎士」での指揮の見事さに続き、今年もこの祝祭で瑞々しい音楽を引き出してくれた。
 そしてウィーン・フィル━━何と言ったらいいか、R・シュトラウスの、特に中後期の作品を演奏する時に彼らが聴かせる独特の官能的な香りは、他のいかなるオケも及ばぬ境地のものである。この演奏を聴けただけでも、ザルツブルクまで来た価値があったと思えるほどだ。
 合唱はウィーン国立歌劇場の合唱団を中心とした編成で、今日は声量も凄まじく、アンサンブルも甚だ強力なものであった。

 今日は1階の最前列の席(1-20)。
 目の前のすぐ左手には、ウェルザー=メストが背中から上を見せて指揮している。彼は右手の指揮棒を時に後方にまで振り回すので、一度など指揮棒の先端が私の顔の前をかすめるといった具合で、迂闊にオケ・ピットを覗けるような状態ではない。
 私の席の左側には、オバチャンを含めた3~4人の日本人客が座っており、こんなレアなオペラなのに、プログラムも持たず、字幕も見ずに泰然としていたが━━第3幕が始まった時には、いつの間にかみんな消え失せていた。勿体ない話だ。私の後ろにいたロシア人客4人もいなくなり、私の周辺だけはどういうわけかガランとしてしまった。

 終演は10時20分。この3日間の滞在で同業者としては初めて出逢ったIさんと、シュテルンブロイでソーセージやウィーナー・シュニッツェルを食べながら深夜まで雑談。イケメン嗜好の彼女の見立てでは、今日のミダス王は、ダナエが一目惚れするにふさわしい相手ではない、とのことであった。

(付)翌日のザルツブルク発ルフトハンザLH1595/OS0265、およびフランクフルト発羽田行LH716で帰国したが、折しも東日本は台風が通過中のはず。どのように避けるのかと思っていたら━━普通ならシベリア上空を一路東進、ウラジオストクあたりを通って新潟の方へ南下するルートを採るものだが、今回はモンゴル上空から中国へ、北京、天津、渤海、黄海、ソウル南方を飛んで朝鮮半島を横切り、金沢上空から日本に入るという、意外なルートが選ばれていた。ルフトハンザでもこんなルートを通ることがあるのかと驚いたり、感心したり。
 しかしそのルートの所為でもあるまいが、とにかくのべつ猛烈に揺れること、揺れること。お茶も味噌汁もジャブジャブ躍ってあふれ、こぼれるという騒ぎだ。
 こういう時、日本の航空機だったら、すぐに「機長の指示により客室乗務員も着席いたします」とか、切羽詰まったような声で言い、サービスを止めてしまうところだが、ルフトハンザの客室乗務員は、どんなに機が揺れようと、平然たる態度で食事を出し続け、サービスを止めることはない。そこが凄いところだ。
 そして、これだけ例外的なルートを飛びながら、羽田にはほぼ定刻(17日12時20分)にぴたりと着陸したのだから、飛行機というのは、本気になると偉いものである・・・・。

2016・8・14(日)ザルツブルク音楽祭(4)グノー:「ファウスト」

       ザルツブルク祝祭大劇場  7時30分

 ザルツブルク音楽祭がグノーのオペラ「ファウスト」を上演したことは、これまでにあったのか、なかったのか。プログラムに上演史が載っていなかったところを見ると、初めてなのかもしれない。

 この演出と装置及び衣装を担当したのが、ラインハルト・フォン・デア・タンネン。装置は写実的なものではなく、極めてシンプルな景観ながら、この大劇場の左右に広い舞台をいっぱいに使った大規模なものである。
 冒頭、老齢のファウストが独り悩んでいる場面には、彼が歌いだす最初の言葉でもある「RIEN」(無)という大きな字が、空に浮かんでいる。この文字は最終場面、マルグリートが「死ぬ」場面にも再現する。彼女も真の救済を受けることなく、「無」の中に陥ったか。

 この最終場面で、ファウストがト書き通り、メフィストに操られるような形で舞台から姿を消したあと、彼女の最期を取り囲むのは、メフィストフェレスの精霊とでもいうべき、奇怪な異形をした者たちだ。彼らは、彼女が宝石の歌を歌っている場面でも、すでに彼女が悪魔の手中に落ちていたことを示すように、彼女の周辺で蠢いている。ちょうどあのフリーマン演出の「炎の天使」に登場した白い悪霊のような役割を、彼らは果たしているわけだろう。

 悪霊だけでなく、この舞台に出て来る群衆、兵士などはみんな黄色の服を着け、グロテスクかつ喜劇的な顔をしていて、一種の象徴的な存在として扱われている。兵士たちの凱旋の行進曲の場面で、上から巨大な骸骨が降りて来て行進のような動きをするという「余興」もある。

 ただこのように、装置と衣装には、つまりデザイン方面には目を惹くものがあるのだが━━肝心の演出となると、やや茫漠たる感を抑え切れぬ。登場人物たちは、白い大きな世界の中で夢のように浮遊しているという、そんな雰囲気が最後まで続くのだ。
 それゆえ、人間ドラマが何処にあったかというと、どうもはっきりしない。結局、観終った後には、これといったような感動的な印象が何も残らない・・・・そういった舞台なのだった。

 しかし、配役はいい。ファウストをピオトル・ベチャワ、メフィストフェレスをイルダール・アブドラザコフ、マルグリートをマリア・アグレスタ、ヴァランタンをアレクセイ・マルコフ━━この4人は聴きものと言えた。

 アグレスタだけは、ちょっとマルグリートのイメージとは違うなという感もあったが、多分これは演出のせいで、「舞台上で何をやっていたらいいのか解らない」立場に追い込まれ、それが歌唱にも影響していたのではないかという気もする・・・・つまりこの演出家が、もともと演劇的な演技を歌手に要求していなかったのではないかと思われるのである。

 しかしその点、舞台上で独特の雰囲気を放出できるベチャワとアブドラザコフの2人は、ただ居るだけでサマになっていた。またマルコフは、力強い声で存在感を主張していた。他に、シーベルをタラ・エラウト、ワーグナーをパオロ・ルメッツ、マルテをマリー・アンジェ・トドロヴィチという人たち。

 合唱はウィーン・フィルハーモニア合唱団という団体だったが、これはウィーン国立歌劇場の合唱団とは違うので、演技も少し素人っぽく、人数が多い割には、思いのほか声が来ないし、特に女声がか細く聞こえるのは不思議だ。1階席前方列(2列12)という位置で聴いたせいかもしれないのだが。

 アレホ・ペレスの指揮するウィーン・フィルが、瑞々しく透明で爽やかな演奏をしてくれた。近年売り出し中のこのペレスという人、私はなかなかいい指揮者だと思うのだが、客席の反応は今一つ。
 それにしてもウィーン・フィルは、相変わらずいい音だ! コンマスは今夜もライナー・キュッヒル。彼はマチネーのムーティ指揮のマチネーでも3日間アタマを弾いており、そのあとにこの長大なオペラのコンマスをも・・・・いつもながらエネルギッシュな人である。

 休憩が2回入って、終演は夜11時15分くらいになった。ちょうど時差ボケの余波が出て来る時期だから、こういうのはチト辛い。せめて7時から始めてくれればいいものを。公演日によっては8時開演の時もあるらしい。それにぶつからなくてよかった。
 なお今回、知人に頼んで入手した席は、1階1~3列ばかりという、不思議に前方の席ばかりだったが、昨日も今日も見渡したところ、前の方には日本人客がやたらに大勢いる。この辺りをまとめて流すルートでもあったのか。

(付記)この日、オケ・ピットでは、終演後にキュッヒルが指揮者から讃えられていた。ソロがあったせいかと思ったが、翌15日のムーティとウィーン・フィルの最終公演を聴いた人の話では、カーテンコールでキュッヒルがムーティから特別に起立させられ、讃えられていたとのことだった。キュッヒルも目を潤ませていたそうである。となると、やはりそれが彼のコンマスとしての「公式の最終演奏」だったのだろうか?

2016・8・14(日)ザルツブルク音楽祭(3)
アイヴォー・ボルトン指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

       モーツァルテウム大ホール  11時

 「モーツァルト・マチネー」の一つ。
 このおなじみシリーズでは、モーツァルト以外の作品もプログラムに組まれることがあるけれども、今日は純正モーツァルト・プロである。「交響曲第28番」、「木管のための協奏交響曲旧K.297b」、「交響曲第32番」「交響曲第36番《リンツ》」という、かなり濃い選曲が為されていた。

 典雅な内装のホールでモーツァルトを満喫するのは、それ自体がもう至福のひとときだ。ホールの座席の椅子が木製で硬いことと、会場内の換気が悪くて何となく暑いことさえ意識しなければ、あとはモーツァルト三昧の世界。

 「協奏交響曲」第3楽章では、ソリスト4人がアイ・コンタクトを交わし、ニコニコ笑いながら、時には踊るような身振りをしながら吹いて行く。ボルトンも楽しげに指揮。こういう雰囲気がオケに伝わらぬはずはない。この第3楽章を、こんなにもノリのいい演奏で聴いたのは、ナマでは初めてである。

 ボルトンは、休憩後の2つのシンフォニーでは、いかにも彼らしいパンチの利いたリズム感で、ダイナミックに畳みかけた。
 特に「リンツ」が、熱気があって生き生きしていて、モーツァルトの円熟ぶりを浮き彫りにする演奏だった。ただし、反復指定のある個所はすべてリピートするから、演奏時間も優に30分を超す。
 第4楽章のコーダではどんな指揮者もオケを煽り立て、力感を強調して結ぶもので、それを展開部からもう一度繰り返すというのは、私はどうもあまり好きになれぬ。だがそこはさすがボルトン、2度目の演奏では、最初の演奏の時よりもさらに猛烈に煽り、轟然と盛り上げて行った。これで聴衆は沸き返る。

 1時10分終演。外は快晴で、目も眩むばかりの日差し。だが湿気が少ないので、ネクタイとジャケットをつけていても暑さは感じない。本当に爽やかなザルツブルクである。

2016・8・13(土)ザルツブルク音楽祭(2)
モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

    モーツァルト・ハウス  7時

 スヴェン=エリク・ベヒトルフの演出が使われている、今のザルツブルク音楽祭でのモーツァルトの「ダ・ポンテ3部作」。このうち「コジ・ファン・トゥッテ」と「フィガロの結婚」はすでに観たが、一昨年プレミエされたこのプロダクションはまだ観ていなかったので、今回の旅程に入れた次第。

 大雑把に言えば、ホテルのロビーを舞台にして、マゼットがボーイ、ツェルリーナがウェイトレス、群集は大部分が従業員だか警備員━━といった以外は、主役たちは旅行者、という設定。
 このような「ホテルにおけるドン・ジョヴァンニ」は、以前ベルリンかどこかで、似たようなのを見た記憶がある。いずれにせよ、たいして新味のない発想だ。
 ジョヴァンニは「地獄には落ちることなく」舞台前方で倒れて死ぬが、残された一同が歌っている間に蘇り、不滅の存在であることを示唆して終るという流れ。これも形こそ違え、よく使われるテである。

 要するに他の2作と同様、すこぶる穏健にして保守的な舞台であり、のんびり観られるというプロダクションなのだ。これまでのパトリス・シェローや、ルカ・ロンコーニ(これはそこそこ)や、マルティン・クシェイや、クラウス・グートの演出がなかなか斬新で、論議を巻き起こすものだったのに比べると、今回のは何とも無難なものである。
 天下のザルツブルク音楽祭も、モーツァルト路線では完全に保守回帰というわけか。

 それはそれで、ある向きからは喜ばれるのだろうが、しかしそもそもこのベヒトルフという人の演出は、ウィーン国立歌劇場の「指環」もそうだが、細かく作られてはいるものの、作品について新しい問題を提起するといった斬新な感覚のようなもの━━強い個性といったものを、どうやら全く持ち合わせていないように思われる。
 ただ、他の2作は、上演会場が先年のモーツァルト・ハウスから今年はフェルゼンライトシューレに変わり、演出もだいぶ手直しされたという話も聞くが、もう一度観る気にもなれない。

 結局、残るのはやはり「音楽」だ。
 声楽陣は、ドン・ジョヴァンニがイルデブランド・ダルカンジェロ、レポレッロがルカ・ピサローニ、ドンナ・エルヴィラがライラ・クレーア、ドンナ・アンナがカルメラ・レミージオ、ドン・オッターヴィオがパオロ・ファナーレ、ツェルリーナがヴァレンティーナ・ナフォルニーツァ、マゼットがイウリー・サモイロフ、騎士長がアラン・クーロンブ。合唱がウィーン・フィルハーモニア合唱団。
 騎士長のみ少し重量感不足だったが、他の歌手陣は歌唱、演技とも、みんないい。ダルカンジェロとピサローニのコンビは巧者同士で絶妙だろう。ツェルリーナのナフォルニーツァが初々しく爽やかな魅力を振りまく。

 今回廻って来た席は、1階席2列目のど真ん中。指揮者アラン・アルティノグリュの真後ろだ。この位置からは、ウィーン・フィルがピットの壁の向こう側からたっぷりと豊麗に響いて来るのが聞こえ、しかも細部まで聞き取れる。
 もともと「ドン・ジョヴァンニ」は、モーツァルトのオペラの中でも最もオーケストラが雄弁で精妙で、登場人物の心理の動きを余すところなく描き出している作品なのであり、私たちはただもうその天才的な業に感嘆するしかないのだが、その魅力が、この席の位置だといっそうはっきりと味わえるのである。
 しかもアルティノグリュのテンポが、颯爽として歯切れがいいから、なおさらである。舞台の平凡さも、卓越した音楽により救われる。

 今回は前プロダクションと違い、ウィーン版でない「普通の」、フィナーレもちゃんとついた版での上演だったが、10時20分に終ったというのは、テンポも速めだった証拠だろう。
 劇場の外へ出ると、快晴の夜空が美しい。街路の温度計が18℃を表示していた。とにかく、爽やかである。

2016・8・13(土)ザルツブルク音楽祭(1)
リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

     ザルツブルク祝祭大劇場  11時

 昨夜ザルツブルクに入る。空港に着いた時には小雨で寒かったが、今日は幸運にも快晴。日差しは強く眩しいが、非常に爽やかで快い。観光シーズンとあって、どこもかしこも雑踏の極みである。

 ムーティ指揮ウィーン・フィルのマチネーの、3日公演のうちの今日は初日。R・シュトラウスの組曲「町人貴族」と、ブルックナーの「交響曲第2番」というプログラム。

 今回、廻って来た席が1階席の3列目の8番という位置で、あまりにもオケに近すぎるため、音のバランスも何もさっぱり分からないけれども、そこはウィーン・フィル、特にR・シュトラウスの、しかもこういう曲をやるとその香気たるや比類なく、ただ音に浸っているだけで至福の時間に浸ることができる。
 しかもコンサートマスターのライナー・キュッヒルをはじめ、各パートのソロの洒落ていることといったら━━。第1ヴァイオリンの後方パートが弾く短い音型に合わせ、キュッヒルが3回もしゃっくりのような動作をしてみせるあたり、いかにも楽しそう。

 ブルックナーの「2番」は、ムーティらしいストレートなアプローチだが、ここでもウィーン・フィルの量感は素晴らしく、弦の細かい音の動きが結集し、むくむくと巨大に盛り上がって来るあたりでの物凄い力感は、さすがのものがある。
 嵐のように進んで行った第4楽章の終結では、ムーティもウィーン・フィルも、あたかも魔神のような勢いを聴かせた。これだけでも、後方の客席や2階席が沸くには充分だったろう。

 ちなみに今年はブルックナー没後120年とあって、ザルツブルクでのウィーン・フィルは、メータ指揮で「4番」、マリス・ヤンソンス指揮で「6番」を演奏するプログラムを組んでいる。

2016・8・9(火)ワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ

     サントリーホール  7時

 当初予定されていたメンデルスゾーンの「交響曲第4番《イタリア》」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」の間に、レオニダス・カヴァコスをソリストとしたブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」を追加する、という予告がかなり前に発表された時には、こいつは長くなるな、と覚悟したのだが・・・・。

 案の定━━それにまたカヴァコスがソロ・アンコールを弾くものだから━━「8番」が始まったのが8時52分。全曲の演奏終了は9時58分になった。
 だが、タフなゲルギエフとしては、このくらいは何でもないはず。オーケストラの楽員も若くてパワーがあるから、どうということはないのだろう。最後まで熱のこもった演奏を聴かせてくれた。

 今年のPMFのアカデミー生は、昨年に比べるとずっと実力水準が高いようである。
 今日の東京公演も、もうウィーン、ベルリン、アメリカのオーケストラからの教授陣は1人も入っておらず、若いアカデミー生のみの編成で演奏が行われたものだったが、技術の上ではもちろん申し分なく、音の厚さと密度の濃さ、響きの均衡、緊迫度の高さなどでも実に見事な水準を示していた。

 今年はゲルギエフも芸術監督としてかなり綿密に指導したそうだし、しかも本番での彼の強烈な牽引力がものを言って、これだけの演奏ができたのであろう。なおコンサートマスターを務めたのは、スー・ミンキュンという女性で、ハンス・アイスラー音大生とのことだ。

 「イタリア」は、冒頭の木管の軽快な刻みからして、極めて豊麗な音色で繰り広げられた。弦には少し学生オケのような雰囲気も感じられたが、それも最初のうちだけである。
 終演後の楽屋でのゲルギエフの表現によれば「オケがこういうふうにフワーッとして(と腕で大きく弧を描き)いたろう。良いオケだよ」という具合。彼らしい骨太のメンデルスゾーンだが、終楽章の追い込みなどでのエネルギーはそれなりに強力だった。

 しかし、何といっても圧巻だったのは、レオニダス・カヴァコスとの協演によるブラームスである。私は以前からこの人の大ファンなのだが、今日のブラームスの協奏曲も、本当に凄い。峻烈な演奏という表現がぴったり来るヴァイオリニストだろう。
 音に強靭な力があり、音色は非常に陰翳が濃く、瞬時たりとも緊張力に隙がない。これだけ剛直な、しかも翳りの濃いブラームスを聴かせるヴァイオリニストは、なかなかいないだろう。

 この迫力に、ゲルギエフはともかくとしても、若いオーケストラが刺激を受けずにはいられまい。第3楽章はもちろんのことだが、第1楽章でも第361小節以降の弦のトレモロの底力のあるクレッシェンドは、ゲルギエフの煽りもあって、不気味なほどの緊迫感に富んでいた。なお第2楽章でのオーボエは、植原祥子というフランツ・リスト・ワイマール音大生で、素晴らしく上手い。

 カヴァコスは、当然ながら、満席の聴衆の熱狂的な拍手を浴びる。カーテンコールのさなか、ステージ袖からゲルギエフが「弾け、弾け」と煽るようなジェスチュアを見せるので、それではと弾き出したのが、バッハの「無伴奏ソナタ第2番」からの「アンダンテ」。これまた濃い翳りを持った、沈潜した深みを備えた演奏だった。

 ショスタコーヴィチの「第8交響曲」の演奏に関しては、もう予想通り、いや、予想を上回る出来だ。ゲルギエフがこれまでPMFオーケストラを指揮したショスタコーヴィチの交響曲の中では、何年か前の「第11番」に迫る━━あるいはそれと並ぶ演奏水準に達していたのではないか? すでに札幌や千歳、函館で4回演奏して来たあとの東京公演だから、演奏も完成されているといっていいのだろう。

 アカデミー生だけの編成ゆえ、色彩感とか、その変化とかいったものにはやや物足りなかったとはいえ、艶のある低弦の力感、木管と金管の明晰な表情などを含め、演奏は卓越したものだった。全体のイメージは強靭剛直ながら、細かい部分には、弾力的でしなやかな息づきがあふれる。若いアカデミー生のオケからこのような精妙な表情を引き出し、自在に制御するゲルギエフのカリスマ性たるや、まったく見事というほかはない。
 全曲最後の、安息感と空虚感とが綯い交ぜになった終結が、決して暗いものでなく、むしろ明日へ希望をつなぐような優しさとなって消えて行くように感じられたのは、もしかして私だけかもしれないが・・・・。

 この終結でもゲルギエフは、長い間ホール内に感動的な沈黙と静寂を保たせた。そのあとのカーテンコールは結構長く続いたのだが、1回目で早くも客電が上げられてしまったのは、「もう10時だぞ」というブタカンの催促だったのかしらん。

 この東京公演が、今年のPMFの打ち上げとあって、楽屋はごった返す。もっとも、ゲルギエフの楽屋は、いつもこんな調子だ。
 私も一応、ブラヴォーを申し上げるために罷り出たわけだが、彼は私の顔を見るなり「1年ぶりじゃないか。俺は去年、ちゃんとミュンヘンで指揮したのに」と言い出した。実は昨年夏、「12月(11日)にミュンヘンであなたが指揮するのを聴きに行くから」と言っておきながら、当日は演奏の出来がやや腑に落ちなかったのと、ガスタイクホールの楽屋に行く道筋が判り難かったため、訪ねずに帰って来てしまったのである。私ごとき一介の業者が軽く洩らした一言まで覚えているとは、何とまあ、相変わらず記憶力のいい、如才ない人であることか。

 だが思えば、マリインスキー劇場(当時は未だキーロフ劇場)を、25年前に最初の日本人音楽記者として取材してからというもの、10年ほど前まではのべつサンクトペテルブルクに行ったり、ゲルギエフに数え切れないほどインタビューをしたりしていたものだった。そろそろまた、あの白夜祭に行ってみたいな、とは思うのだが・・・・。
      別稿 音楽の友10月号

2016・8・6(土)マスネ:オペラ「ドン・キホーテ」

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 中ホール  2時

 これはびわ湖ホールの「オペラへの招待」シリーズ。
 何年か前に新国立劇場で上演された際には、原曲のフランス語読み「ドン・キショット」が題名として表示されたが、今回は「ドン・キホーテ」という、一般にも判りやすい表記が使用されている。

 出演歌手陣は、びわ湖ホール声楽アンサンブルを核としたダブルキャスト。今日は初日で、林隆史(ドン・キショット)、内山建人(サンチョ・パンサ)、山際きみ佳(ドゥルシネと山賊の頭目の2役)ほかの出演。
 林隆史は━━本当はこの題名役としては、もう少し老騎士らしく声の重い人の方がいいのだが━━しかしよく響くバス・バリトンの声で好演していた。

 ピットでは、園田隆一郎指揮の大阪センチュリー交響楽団がいい演奏を聴かせてくれた。とかくスカスカになりがちなこの曲のオーケストレーションを、緻密に分厚く構築していたのは立派である。第4幕の幕切れ、サンチョが主人を擁護する個所がこれだけ昂揚して演奏されれば、もう御の字だろう。

 今回の演出は菅尾友。ドゥルシネと山賊の頭目を同一の歌手(メゾ・ソプラノ)に歌い演じさせ、ドン・キホーテを嘲笑し拒否する社会と、その純な精神を受け入れる社会のそれぞれ象徴としての意味を持たせた演出上の発想は、興味深い。
 山賊の親分が女性であることの是非は別として、それがドゥルシネ姫の別の姿を象徴的に描くという━━あたかも「タンホイザー」で、エリーザベトとヴェーヌスという2人の女性を同一歌手が演じるのと同じような発想を取り入れたことは、面白い解釈である。

 ただ、それはいいのだが、今回のように巨大な金属製の棚のような物体が暗い舞台上に並び、それを移動させる黒子の裏方までが舞台に登場し、群集が絶えず動き回っているという構図になってしまうと、そういう細かい人物表現が理解しにくくなる。
 つまり、主人公たちの性格が(歌手たちが若いせいもあって)さっぱり際立たないのである。

 サンチョが初めてドラマの前面に躍り出てドン・キホーテを弁護する場面でも、彼が群衆ともみ合ったりするシーンが長すぎ、この主従の偉大さや高貴さが堂々と強調されるシーンとしては、些か散漫なものになってしまったのではないか。また第5幕で、サンチョが主人の「衣装」を抱えて絶えずガサガサと音を立てていたことは、音楽を邪魔するもとになり、少なからず苛々させられた。

 とはいうものの、全体として見れば、この上演は力作といえよう。若い世代の歌手たちの奮闘を称えたい。
 ちなみにこれは、字幕付き原語上演。新国立劇場の上演の際とは異なり、山賊たちも「そこだけ日本語で」喋るなどという珍奇なことはなかった。

 休憩1回(第3幕の後)を含み、4時20分終演。京都5時26分発の新幹線で帰京。

2016・8・5(金)広島交響楽団 「平和の夕べ」コンサート

      広島国際会議場フェニックスホール  6時45分

 恒例の「平和の夕べ」のコンサート。今年の指揮は、スイスのベテラン、マティアス・バーメルト。ブルックナーの「交響曲第9番」をメインに、前半では広島市出身の萩原麻未がシューマンの「ピアノ協奏曲」で協演、というプログラムである。

 このホールに来たのは、アルミンクが広響を指揮してマーラーの「9番」を演奏した時以来、2年ぶりだ。かなり広大な空間を持つが、椅子のつくりがゆったりしているため、客席数は1500程度の由。1階席中央(13列の13)で聴いた範囲では、音は少し散る傾向がなくもないが、音響はなかなか良い。

 協奏曲では、萩原麻未がテンポとデュナーミクにそれぞれ大きな振幅をもたせ、音楽に鋭い対比をつくり出していたのが印象的だった。非常に起伏の大きな、感情の揺れの激しいシューマンである。
 この曲、おっとりと弾かれるのは、私はあまり好きではないので、彼女のこのシューマン像には非常な興味を覚えた次第だ。

 ただし、バーメルトは、彼女の神経過敏ともいえるシューマン像とは対照的に、あくまで落ち着いた柔らかい表情で管弦楽パートを紡いで行く、という指揮を貫いた。跳ねる少女を、静かに愛情をもって見守る老匠━━といった感じか。
 広響(コンサートマスターは佐久間聡一)のしっとりした響きも良く、特に第2楽章は、チェロをはじめ、弦の美しさが映えた。
 アンコールはバッハ~グノーの「アヴェ・マリア」、「祈りをこめて」という彼女自身のアナウンス付きでの演奏であった。

 ブルックナーの「9番」は、目覚ましい力演である。
 第1楽章は比較的淡々とした演奏だったが、速めのテンポで演奏された第2楽章では、スケルツォ部分にデモーニッシュな勢いがあふれる。この部分、ブルックナーの交響曲のスケルツォの中で群を抜いて悪魔的な雰囲気を湛えていると思うが、それがライヴで視覚的な要素が加わると、更にスリリングになる。

 何年か前、ザルツブルクでハイティンクがウィーン・フィルを指揮した際、キュッヒル以下のヴァイオリン奏者たちが憑かれたような、狂乱的な身振りで弾いていた光景には鳥肌立つような思いをしたものだ。日本のオケではさすがにそこまでの光景は無いけれども、唯一、第1ヴァイオリンの第3プルトの外側にいた男性奏者が熱狂的な身振りで弾いていたのが目立った。

 第3楽章のアダージョは、今日の演奏における圧巻であったろう。広響の重厚な音は、まさに荘重なマエストーゾそのもの。特に弦の澄んだ音色は素晴らしい。
 全曲最後の13小節間の祈りも、感動的なものだった。エンディングのホルンやワーグナー・テューバ、トロンボーン等による金管は難しい個所だが、今夜は(ちょっと粗っぽいものの)決まった。最後の消え行くようなピッツィカートで大きな咳をした御仁がいたのは残念だったが━━。

 全曲が終り、バーメルトが手を下ろし、楽員も楽器を下ろしたが、そのあともなお、バーメルトは長い祈りを捧げるように、1分以上も身動きしない。場内が長い静寂に包まれていたことは、このコンサートの趣旨から言っても妥当なことだったろう。待ちかねた僅かな人たちから少し拍手が起こったが、それもすぐに止んだ。騒々しいブラヴォーの声などが起こらなかったのは、この演奏会が「平和への祈り」であることをみんなが意識していたからだろう。

 そのあとに、バッハの「G線上のアリア」が演奏された。これも祈りの一環か。
 ブルックナーの「9番」の第3楽章のあとにアンコールを━━この場合には主旨は違うのかもしれないが、とにかく何であろうと別の曲を━━演奏するというのは、ブルックナー・フリークの立場からするとあまり良い趣味とは思えないけれども、演奏そのものは非常に美しかった。

 終演は9時少し前。広島駅市内のビジネス・ホテルはどこも満杯、空き無しとあって、翌日の予定を考慮し、新幹線で岡山まで移動し、駅前のANA CROWN PLAZAに宿泊。
    ⇒モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2016・8・4(木)飯森範親指揮東京交響楽団

      サントリーホール  7時

 ソ連時代の作曲家ガヴリイル・ニコラエヴィチ・ポポーフ(1904~72)の「交響曲第1番作品7」が日本初演されるとあって、所謂「好き者」たちが詰めかけていたようである。ホワイエには若い人たちの姿も多かった。

 このポポーフという人、フランシス・マースの「ロシア音楽史」では全く無視されているが、ファーイによる詳細なショスタコーヴィチの伝記には、かなりしばしば名前が出て来る。といっても、その多くはショスタコーヴィチの交響曲「4番」や「9番」「10番」、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、「ヴァイオリン協奏曲第1番」などを絶賛していた、とかいう話ばかりで、辛うじて最後の方に、彼自身の「交響曲第3番」が「ジダーノフ批判」の頃に、形式主義的で反国民的だ、と非難されたという記事が出て来る程度だ。

 一方、「ニューグローヴ世界音楽大辞典」には、「ボロディンやグラズノフの叙事詩的伝統を継承した交響曲を・・・・」という記述があるけれども、後年の作品はともかく、今日の「1番」(1928~34年作曲)には、そういう傾向は未だ皆無である。
 むしろモソロフ(1900~73)の作品「鉄工場」(1927年)の影響下にある作風だろう。ポポーフの日記には、この曲について「労働者」「戦闘者」などといった言葉も出て来るそうだから、いずれにせよソ連の当時の風潮に乗ったものなのだろう。
 それにまたこの「1番」は、「鉄と鋼の交響曲」として有名なプロコフィエフの「2番」(1925年初演)と共通したところもある。あの頃には、こうした作風がある方面でブームになっていたのかな、とも思う。

 飯森範親と東京響(コンサートマスター グレブ・ニキティン)の大熱演は立派だった。こういう珍しい曲を定期のプログラムに載せた両者の姿勢も偉とする(また、聴いたことがないからと言って敬遠せずに、興味を持って詰めかけた聴衆も立派ではないか?)。
 ただ、作品の構築を自分の中で明快にイメージするには、私は少々暑さで疲労していたのかもしれない。刺激的な大音響がこれでもかと続く曲想には些か辟易させられた、というのが本音だ。

 しかし、ちょっと神秘的な第2楽章前半には、意外なほどの美しさを感じたし、特にスクリャービンの「法悦の詩」の終結を思わせる━━それよりは打楽器群の炸裂がけたたましく加わっているが━━昂揚と陶酔感を備えたエンディングには、非常に強烈な印象を受けたのはたしかである。

 コンサートの前半には、オリガ・シェップスというロシアの若い女性をソリストにしたラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」が演奏された。

2016・7・29(金)上岡敏之指揮九州交響楽団

     アクロス福岡シンフォニーホール  7時

 上岡敏之が九響に客演するのは,、今回が初めてとのこと。
 この日のプログラムは、バッハ~ウェーベルンの「6声のリチェルカーレ」(「音楽の捧げもの」より)、モーツァルトの「協奏交響曲変ホ長調 旧K.297b」、ブラームスの「交響曲第1番」、アンコールに同「ハンガリー舞曲第1番」。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 九響は、上岡独特の陰翳の濃い音色と響きとを完璧に具現し、その流動的なテンポにも完全に応えていた。
 初手合わせでありながら、上岡がかくも九響を完全に彼流の手法で制御していたことは、彼の卓越した手腕を証明するものだろう。一方、九響が━━上岡の「どこが1(拍目)だか2だか判らない、猛烈に回し続ける」指揮の中で━━彼の音楽の個性的なイメージを見事に把握し、昂揚感のある演奏を創ったことは、楽団の演奏水準の高さを物語るものだろう。
 弦楽器群には、上岡が要求する羽毛のような、しかも厚みのある、良き時代のドイツのオケによくあるような音色が反映されていた。

 冒頭の「リチェルカーレ」は、おそろしく陰々滅々たる演奏に感じられたが、これは私が朝、東京で中村紘子さんの訃報に接し、かなり気が滅入っていたせいもあったかもしれない。
 「協奏交響曲」でも、オケは柔らかく控えめで、ソリストたち━━佐藤太一(ob)、タラス・デムチシン(cl)、岡本秀樹(hn)、埜口浩之(fg)、みんな良かった━━の闊達でリズミカルな演奏を、背後で流れるように支える、といった感。

 ブラームスの「第1交響曲」は、いわゆる孤高の英雄的な風格とか、重厚壮大とかいったイメージの演奏ではなく、しっとりした翳りをもった、凝縮したモノローグ風の世界━━とでもいうか。これまた、いかにも上岡らしい。
 第4楽章のあの有名な幅広い第1主題にしても、そこにつきものの「解放感」がほとんどない。やっとたどり着いた安息の世界、という感を全く与えない演奏なのである。
 そもそも上岡の音楽の本質は、そういう優しさのようなものを拒否し、常に緊張を絶やさぬ音の中に身を置く、というタイプのものなのかもしれない。
 コーダでは、最後のコラールの歓呼の個所だけを極度に遅いテンポで響かせただけで、あとはテンポを速めて激しく終結したが、そこにも開放的な歓呼といった雰囲気はほとんどなく、どこかに翳のようなものが漂い続ける演奏なのであった。

 なお、全体の構築は、いかにも上岡らしく、細部にまで綿密に配慮されたつくりである。第1楽章主部はかなり速いアレグロだが、第150小節前後と第420小節前後のような個所だけは極度にテンポを落して神秘的な、怪奇な雰囲気を形づくる、といった具合だ。
 少し神経質ではあるが、非常に面白い「ブラ1」の演奏だった。

2016・7・26(火)佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ
ブリテン:「夏の夜の夢」

     兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール  2時

 2005年に「ヘンゼルとグレーテル」で幕開けして以来、名作レパートリーで満席状態を続けて来たこの所謂「佐渡オペラ」が、今回初めてブリテンの作品上演に踏み切った。それも、有名な「ピーター・グライムズ」でなく、「夏の夜の夢」━━。

 しかし、ちょっと渋いオペラなのに、今日も補助席まで並ぶほどの超満員である。6回公演(毎回午後2時開演)全部がこの調子なのだそうだ。客は、圧倒的に女性客が多い。リピーターが80%以上の由。

 演出および装置と衣装のデザインは、英国の老練アントニー・マクドナルドが担当した。穏健なスタイルで、メルヘン的な、少しミュージカルのような寛いだ雰囲気も取り入れた舞台だが、比較的まとまりは良く、安心して観ていられるといったタイプのプロダクションである。
 ただ、宿命的ともいえるバランス上の問題がないわけではなく━━。

 今回の舞台では、「人間グループ」は来日歌手組が受け持ち、英語で歌う。
 一方、「妖精グループ」は日本人出演者が受け持ち、日本語で歌う。
 人間は「現実世界」なので英語、妖精は「違う世界」なので日本語になる、ということなのだそうな。
 日本で上演するならむしろ逆のイメージじゃないかと思うけれども、演出が英国人なので、そうなったのだそうである。ただし、妖精の王妃ティターニアが人間世界に降り、ロバに変身させられた男ボトムに恋する場面では、彼女も英語歌唱になるという具合である。

 それはまあ、どちらでも構わないけれども、しかし、もともと英国のオペラゆえに、来日歌手陣が原語で歌う部分と、邦人歌手が日本語訳歌詞で歌う部分とが、同一舞台に並列された場合、どうしてもギャップが感じられてしまうのは、致し方あるまい。
 来日歌手たちは、何気ない動作さえ、そのままサマになって、洒落た感じを出しているのに対し、日本人グループの方は、日本語歌詞を曲に当てはめて歌っている関係もあり、どうしてもつくりものめいた歌唱と芝居に・・・・という雰囲気が露呈してしまうのである。
 これはもう、どうしようもないのかもしれぬ(これが日本のオペラだったら、その立場は文句なく逆転するはずなのだが・・・・)。

 その来日組━━クレア・プレスランド(ハーミア)とピーター・カーク(ライサンダー)およびイーファ・ミスケリー(ヘレナ)とチャールズ・ライス(ディミ―トリアス)の恋人2組は、まさに闊達で、躍動感たっぷりの歌唱と演技だったし、また、アラン・ユーイング(ボトム)ら6人の職人たちの自然な発声と芝居も、良い雰囲気を生みだしていた。
 なおプレスランドは過日舞台で足を怪我したとかで、傘(ビニール傘?!)を杖代わりにして歩いたり、車椅子に乗ったりして舞台をこなしていた。その敢闘ぶりを讃えたい。

 一方、妖精グループを受け持った日本人歌手陣の方は━━藤木大地(妖精の王オーベロン)は、もう少し王様らしい威厳と存在感と神秘性が欲しいところ。
 森谷真理(王妃ティターニア)は、英語で歌う個所の方が音楽に乗れていたという印象で、第2幕では魅力を発揮していた。
 塩谷南(パック)は、飛んだり跳ねたりの大活躍ながら、セリフ回しはいかにも学生芝居っぽく、これがラストシーンを少し弱いものにしてしまったのは残念だが、大熱演に免じて・・・・ということにしよう。その他、第3幕では森雅史(シーシアス)と清水華澄(ヒポリタ)も登場した。

 邦訳歌詞が音楽に乗りにくいことから来るハンデはあったものの、邦人組もよくやっていたことに疑いはない。
 とりわけ、小妖精たちを歌い演じた「ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団」は、歌も芝居もめっぽう上手い。その可愛らしさは、前述の国籍の問題云々を超えて、第2幕のハイライトとさえ感じられたほどである。今日の殊勲賞は、この児童合唱団に贈呈したい。

 佐渡の指揮する兵庫芸術文化センター管弦楽団(ゲスト・コンサートマスター ベルンハルト・バルトーク)は、作品の性格もあって控えめな演奏だったが、美しく拡がりのある、重心の豊かな音で、この幻想的な物語を紡いで行った。

 それにしても、冒頭の話に戻るが、「阪神間」(大阪と神戸の間)には、どうしてこんなに女性のオペラ・ファンが多いのか、驚くべきことである。アンケート結果によると、「佐渡オペラ」だから観に来る、毎年観に来るのが習慣になっている━━などの回答が多いとのこと。

 だがその他、「上演されるオペラのストーリーがいいから」という要素もあるのだそうだ。つまり一般の女性ファンには、温かい内容の物語が好まれる、というのである。たしかに、殺伐たるストーリーは嫌がられるというのは、私も知っていた。
 ちなみに、これまで取り上げたオペラのうち、「トスカ」や「カルメン」には、殺人場面もある。だがそれらは名作の強みゆえ、ということなのだろう。ブリテンの作品を取り上げたがっていた佐渡芸術監督が、まず「夏の夜の夢」を先に選んだのは、物語がハッピーエンドで美しいから、という理由もあったという話も聞いた。

 終演は5時半近く。ホールからどっとはき出された群衆で、隣接する阪急電鉄の西宮北口駅の改札口は大混雑。運よく、すぐ来た特急に乗れたので、そのまま大阪へ戻り、新大阪6時半の「のぞみ」で帰京。

2016・7・25(月)フェスタサマーミューザKAWASAKI
上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 秋の音楽監督就任を前に、上岡敏之が、「スペイン・ラプソディー」と題したプログラムを指揮した。
 これまでの彼の日本での活動からすると、彼でもこういう軽い曲を振ることがあるのか、とつい思ってしまうが、指揮者たるもの、当然ながら何でも手がけるわけだから、不思議はないわけで。

 前半には、シャブリエの狂詩曲「スペイン」、ビゼーの「アルルの女」第1組曲、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」が演奏されたが、これはまあ、「並み」の演奏。

 しかし休憩後のラヴェルの「スペイン狂詩曲」では、いかにも上岡らしい、念入りに神経を行き届かせた演奏が出現した。
 冒頭では、やっと聞こえるかどうかというぎりぎりの最弱音の弦が、息づまるほどの緊張感を生み出す。これで、この曲全体にも精妙な音の絡み合いがつくり出され、オーケストラも引き締まって行く。やはりこの人は、解放的な演奏よりも、こういうぎりぎり細部まで追い込んで緊張を高めて行くシリアスな音楽づくりの方に、強みを発揮するようである。今日の演奏の中では、この「スペイン狂詩曲」がいちばん充実していた。

 最後のラヴェルの「ボレロ」も、前半は最弱音を駆使したリズムで進められたため、全体に神経質で渋めのボレロになったが、管の一部にこの最弱音を保ち切れぬ傾向があったのが惜しい。
 アンコールは「アルルの女」からの「ファランドール」。賑やかではあったが、どこかピリピリして解放感のない音楽になっていたのがこの指揮者らしくて面白い。
 新日本フィルの今日のコンサートマスターは崔文洙。

2016・7・23(土)クリスティアン・アルミンク指揮群馬交響楽団

      群馬音楽センター  6時45分

 東京芸術劇場での演奏会終演後、池袋から上野へ出て、上越新幹線で高崎へ向かう。

 久しぶり、アルミンク。今日は群響定期に客演して、ブルックナーの「交響曲第8番」を振る。これ1曲だが、今回もこれで充分。「ハース版」を久しぶりに聴く。こちらの方が「ノーヴァク版」よりずっといい。

 群響も、ホールのアコースティックによる不利を克服して、好演した。本調子が出て来たと感じられたのは、しかし第1楽章も終りに近くなってからである。弦(コンサートマスターは伊藤文乃)は第3楽章の主題で透明な音色となり、特に第4楽章ではハッとするほどクリスタルな美しさとなった。
 金管は、トラを含めたホルン・セクション(ワーグナーテューバとアシスタントを含め総計9人)が、非常に強力なところを示した。応援隊の力を借りたとはいえ、先日のショスタコーヴィチの「10番」での問題を払拭したのは結構なことである。

 だがその一方、トランペット3本にはもっと強靭な力が欲しい。第2楽章の第49~52小節(ここはフォルテ3つ、しかもアクセントが付けられている個所だ)や、第4楽章第11~14小節と第25~28小節、および同楽章コーダの【Xx】以降などは、トランペットは全管弦楽をリードする重要な役割を果たす個所なのである。それゆえ、もっと高らかに抜きん出て響かなくてはならないはずなのだ。

 アルミンクは、特に第3楽章でかなり遅いテンポを採った。また彼のアプローチは、エネルギーで押すよりは、沈潜する指向のブルックナーと見受けた。
 壮大に咆哮するブルックナーではないが、もともとこのホールのアコースティックでは、それは望むべくもなかろう。アルミンクも意図的に抑制していたのかもしれない。もしよく響くホールでこの演奏を聴いたら、さぞ瑞々しく透明な響きの、しっとりしたブルックナーになっただろうと惜しまれる。
 つまりアルミンクの本来の狙いが━━テンポの設定や、第3楽章での沈潜した叙情美の演奏を聴く限り━━若い頃のカラヤンのそれにも似た、祈りを捧げるような、神秘的で清澄なブルックナー像をつくり上げることにあったのでは、と思われるからだ。

 プログラムは1曲なので、8時15分を回った頃には終演となった。いつものように終演後のホワイエでは、楽員が聴衆の質問に答える集いが行なわれる。帰らずに集まった聴衆は100人以上。わが国のオーケストラの中でも、群響ほど熱心で温かい定期会員を擁している楽団は、他に例を見ないという気がする。
 すでに高崎駅の近くに新ホールの建設が始まっているという話を聞いた。音響の完璧な会場でお客さんが群響の演奏を愉しめる日が1日も早く訪れることを願ってやまない。

 21時07分高崎発の「MAXたにがわ414」で帰京。この「たにがわ」は、停車駅が多く、東京駅まで61分もかかり、しかも高崎駅では14分もあとから来る「はくたか576」に、東京駅ではわずか4分後に迫られる、という列車なのだが、「はくたか」より空いているし、パソコンを開いて仕事をするにはこの方が都合がいい。それに、高崎駅での21時を挟む前後計30分の範囲における上り新幹線の選択肢は、この2便しかない。
 ついでながら、まだ21時前だというのに、改札口近辺の駅弁の店は全てシャッターを下ろしてしまっているとは、なんとも商売気のない所だ。
  別稿 音楽の友9月号 Concert Reviews

2016・7・23(土)アレクサンダー・リープライヒ指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 ドイツはリーゲンスブルク生れの指揮者。
 前回聴いた時には、その猛速テンポに感嘆し、飛ばし屋リープライヒと称号を奉ったのだが、今日の演奏会では、48歳とは思えぬような老成した身振りでゆっくりと登場、この足取りからは、あの韋駄天のテンポが生まれるとはとても思えない雰囲気。

 果せるかな、最初の曲、メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」は、予想外に遅いテンポで、しかも重厚な響きで演奏された。まあ、作品の性格からいって、当然だろう。
 リープライヒは、2曲目のショパンの「ピアノ協奏曲第2番」もどっしりした風格で構築、若いソリストの牛田智大を支えた。この牛田の音色が、実に透明で清澄、美しい。生き生きした表情の音楽も魅力である。未だ几帳面に過ぎる演奏のところも少なくないけれども、これからまっすぐに伸びて行ってもらいたいと願う。

 最後のベートーヴェンの「第5交響曲」に至って、やっとリープライヒは、飛ばし屋の本領(?)を発揮。
 第1楽章は一気呵成に押し、第2楽章も快調なテンポで進めて行ったが、その一方、第3楽章トリオで意表を衝いたアクセントを効かせ、リズムの揺れをつくり出したり、第4楽章では第1主題を最初の提示と反復とでニュアンスを変えたり、その他、頻繁に漸強と漸弱を施したりして、さまざまな趣向を凝らした。第4楽章コーダのプレストは、まさに飛ばし屋と呼ばれるにふさわしいテンポだろう。

 聴いていると、実に面白い。先年、紀尾井シンフォニエッタ東京に客演したベートーヴェンの「7番」でも、速いテンポで飛ばしながら細部ではかなり細かい趣向を凝らしていたものだが、今回の読響との「5番」では、オケの反応力の良さもあって、その手腕が明確に示された。
 ただ、細部へはいろいろ手を加えていても、あくまで楽曲全体の型は崩していないのは確かである。これが、彼の良さなのであろう。

 このリープライヒの疾風の指揮に、読響(コンサートマスターは日下紗矢子)は、特に弦がうまくついて行った。管は、失礼ながら多少ドタバタしていたが、しかしそれは「5番」前半だけのこと。明日の演奏では、おそらく曲の最初からまとまるだろう。
 それにしてもこのリープライヒ、なかなかユニークな指揮者である。現在、ポーランド放送響のシェフである由。

2016・7・22(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィル 「蝶々夫人」

      サントリーホール  7時

 定期公演におけるオペラの演奏会形式上演(字幕付)。
 ヴィットリア・イェオ(蝶々夫人)、ヴィンチェンツォ・コスタンツォ(ピンカートン)、甲斐栄次郎(領事シャープレス)、山下牧子(スズキ)、糸賀修平(ゴロー)、志村文彦(ボンゾ)、ヤマドリ(小林由樹)、細岡雅哉(神官)、谷原めぐみ(ケイト)、新国立劇場合唱団が協演。コンサートマスターは荒井英治。

 最近、オペラは演奏会形式上演で聴くのが一番いい━━という心境にだんだんなりつつあることもあって、今夜も大いに愉しめた。もちろん、舞台上演とて「良い」演出なら問題ないのだが、変な舞台に遭遇して気を散らされるより、演奏会形式の方が音楽そのものにじっくりと浸ることができ、音楽そのものの力に感動することができる。
 東京フィルにしても、新国立劇場のピットで演奏する時より、今夜のようにステージで演奏する時の方が、まるで別の団体のように充実した演奏を聴かせてくれるし・・・・。

 チョン・ミョンフン、先年の「トリスタンとイゾルデ」の時と同様、相変わらずテンポが速い。素っ気ないほどの勢いでたたみ込んで行く。そのため、劇的な推進力においては並々ならぬものがある一方、詩趣を失いがちになるという欠点が出る。モティーフの一つ一つにこめられた意味を考えたり、その美しさを愛でたりするという指揮でないことに、私などは少々反発を抑えきれないのだが、まあそれも作品によりけり、ということにしておきましょう。
 だが彼の指揮する管弦楽パートは━━舞台前方に位置した歌手たちの声をしばしばマスクするほどの音量だったとはいえ━━プッチーニの精微で色彩的なオーケストラの語り口をこの上なく雄弁に、かつ劇的に再現し、ドラマをリードする役割を果たしていて、好ましいものであった。

 歌手陣はある程度の演技も交えて歌い、特に蝶々さんは衣装を幕ごとに変えるという凝りよう。このイェオというソウル出身のソプラノは、多分これが初めて聴く機会だと思うが、大柄な体躯と力のある声、表現の細やかさなど、なかなか良いものを持っている。
 ピンカートンのコスタンツォも熱演していたが、これからという人だろう。日本勢の甲斐栄次郎と山下牧子が渋い味で好演していた。
 終演は9時35分頃。

2016・7・22(金)小山由美メゾ・ソプラノ・リサイタル

    Hakuju Hall  2時

 「ワンダフルONEアワー」と題されたこのシリーズ、第22回である。1時間のプログラムで昼夜2回公演。
 客席はぎっしりで、しかも女性客が圧倒的に多い。

 小山由美が歌ったプログラムは、チレアの「アドリアーナ・ルクヴルール」からの「苦い喜び、甘い責め苦」、ビゼーの「カルメン」からの「ハバネラ」と「セギディリア」、サン=サーンスの「サムソンとデリラ」から「春の訪れ」と「君がみ声にわが心開く」、リムスキー=コルサコフの「不死身のカシチェイ」から「夜が来た」。
 作品ごとに衣装を変えて登場するという、1時間のコンサートにしては、甚だ凝った趣向である。

 そしてピアノで協演した佐藤正浩がプッチーニの「マノン・レスコー」からの「インテルメッツォ」と、プーランクの「即興曲第15番」を弾き、併せてトークをやり、ドン・ホセのパートも歌うという大サービス。1時間はあっという間に過ぎる。

 このホールはよく響くので、オペラの歌声にはどう見ても小さいという感だが、歌い手のナマの人間味に触れることができるというのは、なにものにも替えがたい強みである。
 今回のプログラムのテーマは、「悪女」だったらしいが、小山さんの「悪女」は、その本性を全く相手に感じさせずに、色気で迫る・・・・という表現だ(だからなおさら怖いかもしれぬ)。どれも見事で、愉しめたが、特に「不死身のカシチェイ」のアリアでの凄味のあるパワーには引き込まれた。

2016・7・21(木)アントニオ・メンデス指揮スペイン国立管弦楽団

      サントリーホール  7時

 1942年創立のスペイン国立管弦楽団(65年創立のスペイン放送響とは別団体)、現在の首席指揮者はダヴィット・アッカムだそうだが、今回の来日公演の指揮者は、パルマ生れ、32歳のアントニオ・メンデス。客演だが、なかなかイキのいい指揮者である。

 プログラムは、最初の案から変更になり、ファリャの「スペインの庭の夜」、ラヴェルの「ボレロ」、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」、ファリャの「三角帽子」第1&第2組曲━━という選曲と配列になった。

 これらの中ではやはり何といっても、スペインの作曲家のものが堂に入った演奏だ。
 音色といい、リズムといい、湧き立つ躍動感といい、物憂げな表情の中に見え隠れする艶やかさといい、惚れ惚れするような素晴らしさである。「スペインの庭の夜」の最初の官能的な色彩感からして、これこそまさにスペインのオーケストラだな━━という独特の雰囲気をいっぱいに撒き散らす。見事なものだ。
 「フランスの作曲家」の「ボレロ」も、やや大味なアンサンブルとバランスの演奏とはいえ、もちろん悪くはない。ただ、真正スペインものの演奏には、異論を認めぬほどの民族的な底力があふれている、ということである。

 プログラムは、もともと時間いっぱいの量だった上に、楽器の配置換えなど舞台転換の時間もかかったし、しかも2人のソリストがそれぞれ2曲もソロ・アンコールを弾いたものだから、恐ろしく長くなった。
 つまり、「スペインの庭の夜」でソロを弾いたピアノのジュディット・ハウレギが、アルベニスの「アラゴン」と、モンポウの「庭の乙女たち」を弾き、「アランフェス」を弾いたギターのパブロ・ヴィレガスが、タレガの「グラン・ホタ」と「アルハンブラの思い出」を弾いたのである。
 オーケストラ・コンサートでソリストが2曲もアンコールを弾くことには、私はもともと大反対なのだが、今回のように、演奏があまりに鮮やかで、しかもいい雰囲気を漂わせていると、文句も言えなくなる。

 最後の曲目「三角帽子」に入った時にはすでに9時を回っていたけれども、冒頭からティンパニとトランペットが華やかに響きはじめるその勢いの良さに、時間のことはたちまち忘れてしまう。
 これが終ったのが9時35分。しかもそのあと、メンデスとオーケストラは、チャピの「前奏曲」、ビゼーの「カルメン」前奏曲、ヒメネスの「ルイス・アロンソの結婚」の「間奏曲」━━と、何と3曲もアンコールを演奏したのだった。終演は何と、9時50分を過ぎた。

 お客さんも、よもやこんな時間になるとは思わなかったろうが、もうこうなったら・・・・というノリだったのではないか。「カルメン」では、客席から自然に手拍子が沸き上がり、メンデスもこれを煽り立てる。
 オーケストラがやっと舞台から引き上げはじめた時刻は、10時直前だった。
 招聘元マネージメントは、ホール使用料の時間超過料金に頭を悩ませたのでは?

2016・7・18(月)東京二期会 モーツァルト「フィガロの結婚」

      東京文化会館大ホール  2時

 13日にゲネプロを観たキャストとは別の組による2日目の本番公演。
 歌手陣は、アルマヴィーヴァ伯爵に与那城敬、伯爵夫人に増田のり子、フィガロに萩原潤、スザンナに高橋維、ケルビーノに青木エマ、バルトロに長谷川顯、マルチェリーナに石井藍、バジリオに高田正人、アントニオに畠山茂、バルバリーナに全詠玉、ドン・クルツィオに升島唯博━━といった人たちである。
 演出は宮本亜門、舞台装置はニール・パテル。サッシャ・ゲッツェル指揮の東京フィルが演奏。

 与那城敬の伯爵役は5年前にも観たが あの時の皮肉な薄笑いを浮かべただけの演技よりも今回の方が表現も格段に細かくなり、眼つきにもいやらしさのようなもの(?)が加わって、伯爵としての個性が明確に出るようになった。フィガロ役の萩原潤は闊達であり、ケルビーノの青木エマは上背のある容姿を生かして活躍。

 別キャスト組よりこちらの方が世代も若いので、勢いはいいはず、とある関係者が語っていたが、たしかにそうかもしれない。ただ、演技の点では、やはりベテラン組の方に一日の長があるだろう。若い組の方には、概して演技にまだ少しムリがある。その「わざとらしさ」が解消され、自然な性格表現ができるようになれば、と思う。

 サッシャ・ゲッツェルは、東京フィルを指揮して、極めてソフトな音楽を響かせた。テンポ運びも好い。
 ただ、もう少しオケを鳴らし、モーツァルトのオーケストラ・パートの雄弁な劇的要素を浮き彫りにしてもいいのではないかとも思う。伯爵の怒りがシリアスな形で爆発する第3幕のアリアなどでは、オーケストラが本来持っている劇的な要素をもっと強調してもいいのではないか、と。

 とはいえ、今回の宮本亜門演出のプロダクションでは、登場人物の内面の複雑な心理の襞を浮き彫りにするのが狙いではなく、単に生き生きとコミカルに躍動させることに重点が置かれているようだから、このように「平和で楽しく、美しい」音楽の側面だけを前面に出す━━という演奏でいいのかもしれない。
 言いかえれば、貴族と平民の激突を描くといったシリアスなタイプの「フィガロの結婚」ではなく、一日の明るい騒動を描くブッフォ的な「フィガロの結婚」を求めた演出であるなら、演奏もそれに合わせたものでよい・・・・ということになるわけだろう。

 これは、前述のアリアや、第2幕で激怒した伯爵が「貴様はこの館を去らねばならぬ」と夫人を恫喝する場面で、封建領主の怒りの凄さをオーケストラから引き出していたカール・ベームのような指揮とは対極的な性格にある、という意味なのだが、さりとて、どちらがいいとか悪いとかを言っているわけではない。

2016・7・17(日)ナガノ・チェンバー・オーケストラ第2回定期演奏会

      長野市芸術館メインホール  3時

 長野県長野市に落成した「長野市芸術館」。市役所の隣にあるのだが、初めて訪れた者には、どこから入るべきか、すこぶる判り難い。街路からはセブン・イレブンばかりが目立つので、まさかその横の狭い通路が入口だとは、ちょっと気がつかない。

 このホールは、先頃「2階席の見切れ」の問題で話題になったが、私も朝日新聞のその記事ではコメントを出した手前、どのように改造されたのかと興味があったので、念のため、開演前にその席に座ってみた。舞台手前の部分だけ見えないということはあるものの、改造の結果は一応、まずまずと思われる。ただ、子供や、小柄な人には、ちょっと苦しいかもしれない。

 ホールは新しい。内部は白い木目調で統一され、非常にシンプルな雰囲気だ。客席数は1292、椅子もゆったりしている。残響も適度にあり、1階席やや前方で聴いたが、音響は良いのではないかと思われる。

 さて今日は、ホールの開館記念行事、「アートメントNAGANO2016」第4日。このホールを本拠とするナガノ・チェンバー・オーケストラの第2回定期演奏会だ。ちなみに、「第1回」は前日に行われたばかり。指揮は、長野市芸術館の芸術監督・久石譲である。

 この新設のオーケストラは、長野県在住の演奏家を結集した楽団というわけでない。N響、東京フィル、東京都響、東京響、新日本フィル、九響、関西フィル、読響、シュトゥットガルト放送響などから腕利きのメンバーを集め、フリーランスや音大准教授も加えた室内管弦楽団規模のオーケストラだ。コンサートマスターは東京フィルの近藤薫。メンバーの中には長野県出身の奏者も何人かいる由。とにかく、みんな小気味よいほど上手い。
 この楽団を、単なるフェスティバル・オーケストラとして将来も続けるのか、それとも、この名手たちのオケを基として、将来における長野独自のプロ・オケ誕生を見据えているのかどうか━━。

 今日のプログラムは、久石譲の「シンフォニア」、ウラジーミル・マルティノフの「カム・イン!」、ベートーヴェンの「交響曲第2番」というもの。これは「ベートーヴェン・シンフォニー・ツィクルス」としても組まれているシリーズの由で、昨日は「第1番」が演奏されたはずである。

 久石譲の作品(リコンポーズを含む)は、このオケの定期公演の、少なくとも第7回までの中に、5曲も取り上げられている。また開館記念演奏会の中でも、他にいくつか演奏される。さながら「久石譲作品展」だ。
 プロデューサーのカラーを前面に押し出す試みそのものは私も支持するけれど、しかし芸術監督が、その自作を屡々主催公演のプログラムに入れて行くことが果たして妥当なのかどうか、私には判断しかねるが━━。
 しかしとにかく、今日の「シンフォニア」は、彼のミニマル・ミュージック志向を強く出した作風で、第2楽章「フーガ」では木管のエコー効果のような魔術的なサウンドも聴かれたし、特に第3曲「ディヴェルティメント」ではベートーヴェンの「第9」冒頭のパロディも登場し━━それがブルックナーの第3番などの交響曲と共通性があることが図らずも明らかにされたのが面白い━━聴衆を楽しませただろうと思う。

 マルティノフの「カム・イン!」は、近藤薫のヴァイオリン・ソロをフィーチャーした「弦とウッドブロックとチェレスタのための音楽」とでもいう作品。叙情的なカンタービレの作風で、大変綺麗ではあるが、同じ曲想と形式とを30分近く延々繰り返して行くので、えらく長く感じる。もうわかったから、そろそろ終ってくれないかな━━という気にさせられたのは事実である。

 ベートーヴェンの「2番」は、久石の指揮が、実にユニークだ。まるでリズム・ボックスに乗っているようなイン・テンポの演奏、少し騒々しいけれども強いパンチのアタック、陰翳を排除した攻撃的な音色と響きのアプローチ・・・・。
 だが久石譲のふだんのフィールドから、これが彼の感じるベートーヴェンの「アレグロ・コン・ブリオ」であり、「アレグロ・モルト」なのだな、と理解してみる。あとでプログラムを読み返してみたら、「私のベートーヴェンはロックととらえてもらっていいぐらいに激しくなるはず」という彼のコメントが載っていた。なるほど、それが彼の個性だろうし、もし彼が取ってつけたように、伝統的な演奏スタイルを真似たら、かえっておかしなことになるだろう。聴き手の好みは別として、彼は彼のスタイルを貫き通すことが最も自然なのだ。

 東京・長野間は、「かがやき」で85分前後。近い。

2016・7・16(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
ブルックナー「交響曲第8番」

    サントリーホール  6時

 ブルックナーの「交響曲第8番ハ短調」。今夜のプログラムはこれ1曲だが、充分だ。使用楽譜はノーヴァク版第2稿。コンサートマスターは、客演の林悠介。

 東響の「ブル8」を聴くのは、6年前のスダーンの指揮以来のことになるか。あの時は、同曲のレコーディング直後とあって、オーケストラも冒頭から自信満々の雰囲気で、完璧な構築で演奏が始まったのが印象に強く残っている。もっとも、ああいう凄い第1楽章の演奏は、滅多にあるわけではない。

 今回のノットだが、第1楽章は、ちょっと手探り的な雰囲気を感じさせないわけではなかった。あるいは、ノリが今一つだった、というか。
 だが、第2楽章後半あたりからは、音楽に目覚ましい勢いが生じて来て、第3楽章と第4楽章は、非常に緊密度の高い音楽となった。特に第4楽章コーダの演奏は極めて立派なもので、最後の大頂点でいっぺんに奏される各主題が明確な形を保ったまま交錯していたことも、ブルックナーの意図を忠実に再現したものと言えるだろう。

 ノットの指揮は、スダーンのように突き詰めた隙のない構築志向とは異なり、もう少し開放感のあるものだ。が、壮麗な大伽藍を思わせる風格というより、内側に凝縮させた音楽づくりという点では、ある程度共通したものがあるだろう。
 演奏のイメージも、いわゆる巨大な連峰とか、山の奥深くにある静謐な湖とか言ったような自然の威容を思わせるものではなく、むしろ即物的な、音の大建築の趣を感じさせる。東響のふだんの演奏スタイルからいえば、こういうサウンド志向の方が、体質に合うだろうと思う。
 ノットの安定したテンポと、作為のない音楽づくりも好ましい。ことさら芝居がかったテンポの加速は行わず、第4楽章の【X】においても、コーダにおいても、彼はテンポを僅かに速めるのみである。そして、緊迫感が途切れることはただの一度もなかった。

 今や、大変な人気を集めるノット。ソロ・カーテンコールでの拍手は熱烈そのもの、ブラヴォーも盛んだった。
      音楽の友9月号 Concert Reviews

 ブラヴォーが盛んだったのはめでたいことだが、昨夜の大阪に続いて、今夜もまた・・・・。やれやれである。
 しかしこの2回とも、いずれも「指揮者の手が下りてから」だったのだから、さしあたりは文句を言うわけにも行くまい。残るは、デリカシーの問題である。
 それにしても、「拍手は指揮者の手が完全に下りてから」だの、「ホールに残る響きも音楽の一つ」だの、まるで子供に教えるような注意アナウンスを入れなければいけないとは情けない世の中だが、今度はそれを「遵守したタイミング」で、不相応なわめき声を発する御仁が出て来るとは━━。「浜の真砂は尽きるとも・・・・」だ。

 とはいえ、最近のように「注意書き」があまりに多くなると、逆にこう思うこともある。
 最弱奏で終結した場合は別だが、音楽が昂揚に昂揚を重ねて、最強奏で一気に終った場合には、聴き手もそのテンポに乗って感動の表現を爆発させることの方が、むしろ自然な衝動なのではなかろうか━━と。
 残響まで受け止めることはもちろん大切だが、その「手を下すまで」の沈黙が、時と場合によっては、長すぎる「演出」もしくは「強制」のように感じられてしまうケースも、あながち皆無とは言えないこのごろなのである。

2016・7・15(金)飯守泰次郎指揮関西フィル「トリスタンとイゾルデ」第3幕

      ザ・シンフォニーホール  7時

 関西フィルハーモニー管弦楽団が、その桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎とともに、ほぼ毎年1回の割で進めているオペラ演奏会形式上演シリーズ。今年は第14回で、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」第3幕だ。

 ちなみにこのシリーズ、ワーグナーの各幕ずつの演奏会形式上演がこのところ連続しており、「ヴァルキューレ」第1幕(09年)、「トリスタンとイゾルデ」第2幕(10年)、「ジークフリート」第1幕(11年)、「ヴァルキューレ」第3幕(12年)、「ジークフリート」第3幕(14年)と来て、この「トリスタン」第3幕が、6作目になる。

 配役は、二塚直紀(トリスタン)、畑田弘美(イゾルデ)、片桐直樹(マルケ王)、福原寿美枝(ブランゲーネ)、萩原寛明(クルヴェナール)、松原友(メーロト)、谷浩一郎(牧童)、黒田まさき(舵手)という顔ぶれ。
 コンサートマスターは岩谷祐之。

 二塚直紀のトリスタンは初めて聴いたが、素晴らしい。以前、「ジークフリート」第1幕の時にミーメを絶妙な表現力で歌っていたのを聴いて感心したことがあるが、今回のトリスタンも声は充分、この役柄の懊悩、苦悩、憧憬を歌い切って見事だった。

 一方、出番は少ないけれども、福原寿美枝のブランゲーネもいつも通り貫録たっぷり。以前、彼女のブランゲーネを「怖い家庭教師か女監」みたいだと書いたことがあるけれど、今回も同様、厳格な侍女役を表現していた。つい先日もメイシアターでの「修道女アンジェリカ」の公爵夫人役に接し、その怖さに震え上がった(?)ばかりだが、その存在感は強烈である。

 イゾルデの畑田弘美は、大阪での「飯守のワーグナー」でもう何度も聴いた人だ。声の質が柔らかいので、ワーグナーものではどうかなと思ったこともあるが、このヒューマンな雰囲気が飯守の好む所以なのかもしれない。
 ただ、出来得れば、「拍」をもう少し正確に歌ってほしいところで、━━というのは、特にこの「トリスタン」では、旋律的要素よりも和声的な動きが重要で、声楽パートと管弦楽パートとの関連においてもそれが徹底されていることは周知の通り、したがって両者のリズムがずれると、両者の和声の妙味が失われてしまうのではないか。

 関西フィルは、これまでのワーグナーでいつも感じられたアンサンブルの不備が、今回は解消されていた。この作品に相応しい音が聴かれたのは嬉しい。
 ただし、オルガンの下に配置されていた「牧笛」役のイングリッシュホルンは━━東京のオケから参加したゲスト奏者で、巧いのは事実だが━━その演奏の解釈には大いに疑問がある。この「笛」は、本来、素朴で哀切な慟哭の歌のはずであって、スコアに書かれているクレッシェンドやアッチェルランドにしても、今回のように協奏曲のカデンツァの如く華やかに表情たっぷり吹かれてしまうと、トリスタンの悲痛な世界もどこかへ吹っ飛んでしまうだろう。

 なおこの笛は、イゾルデの船が見えて来た個所では、ホルツ・トランペットに替えられて吹かれ、一定の効果は上げていた。
 この部分は、いろいろな上演のたびに、あれこれ趣向が凝らされる。どんな楽器が使われても結構なのだが、とにかく劇的な瞬間なのだから、音が外れさえしなければ━━。いっそ、イングリッシュホルンでそのまま「完璧に」吹いてもらった方がどれほどいいか、といつも思うほどである(今日のイングリッシュホルン奏者の腕と、その立ち位置からすれば、それだけで充分効果を出せたのでは?)。

 飯守の指揮は、今回も独特の味を発揮した。「前奏曲」は悲痛で重厚なテンポで開始されたが、トリスタンの感情が昂る個所、イゾルデの船が近づいて来る個所での緊迫感は素晴らしく、特に「愛の死」の個所でのうねるような昂揚感は、関西フィルの好演もあって感動的なものになった。先日の「大阪4大オーケストラ」の時の演奏とは比較にならぬ密度の高い演奏であった。

 「トリスタン和音」が解決し、消え去るように終ったあとの感動的な静寂を破った狂気じみた下品な声のブラヴォーの主は、全く人間性を疑われるべき、音楽テロリストと称してもいいほどの輩だが、不快な体験の記憶は早く消し去り、演奏の素晴らしさだけを心に残すことにしよう。
  ☞別稿 モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2016・7・14(木)コルネリウス・マイスター指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 来年4月には読響の首席客演指揮者に就任することになっているコルネリウス・マイスターが、ハイドンの交響曲第6番「朝」と、マーラーの交響曲第6番「悲劇的」を指揮した。

 ドイツはハノーファー生れ、まだ36歳という若さだが、欧州ではウィーン放送響の首席指揮者を務め、また近々シュトゥットガルト州立劇場の音楽総監督になることが決まっているなど、活躍の場を拡げている人である。
 ウィーン放送響との日本での演奏はあまり面白くはなかったけれども、読響への客演指揮での「アルプス交響曲」(14年9月)はまとまりもよかったし、オケとの相性も良いように感じられたことは確かである。

 ただ彼はやはり、根が真面目で、几帳面なタイプの指揮者なのかもしれない。
 マーラーの「悲劇的」のような作品を指揮した時には、所謂「狂気」には陥らないタイプだ。作品のダイナミズムをきちんとまとめ、大編成の管弦楽をバランスよく構築することに重点を置く。
 それゆえ、この交響曲のエクセントリックなスリルを求める聴き手には些か物足りなく、むしろ大音響のくどさを感じてしまうだろう。しかし、この曲から狂気じみた興奮を取り去って、作品を古典的な形式性という点から見つめ直そうとする場合には、それは極めて興味深い解釈かもしれない。

 そういうこともあって、今日のプログラムの中では、ハイドンの交響曲の方が、彼の端整な均衡の指向が生きていた。澄んだ音色と、率直な佇まいが成功している。彼マイスターの良さは、どちらかといえばウィーン古典派の作品とか、過度にロマン的な作品でないものの方に出るのではないか?
 まあ、今後、協演の機会が増え、両者の呼吸が合えばまた、別の面白さが出て来るだろうと思う。

 読響(コンサートマスターは小森谷巧)は、マーラーではいつものように馬力充分の威力的豪演。一方、ハイドンでは、各パートのソロが映えた。ファゴットも、フルートも・・・・。
 チェロのトップの女性のソロがめっぽう鮮やかだと思ったら、なんと遠藤真理だった由。もしや彼女も「読響の向山佳絵子」となるのか?

2016・7・13(水)東京二期会 モーツァルト「フィガロの結婚」GP

     東京文化会館大ホール  5時

 この組が出演する15日と17日の本番はスケジュールの関係で観られないので、GP(ゲネプロ)を観に行く。
 フィガロに黒田博、スザンナに嘉目真木子、アルマヴィーヴァ伯爵に小森輝彦、伯爵夫人に大村博美、ケルビーノに小林由佳、ドン・バルトロに妻屋秀和、マルチェリーナに押見朋子、ドン・バジリオに高橋淳・・・・と、ツワモノたちが揃った配役だ。見逃すのは惜しい。

 これは宮本亜門演出のプロダクション。2002年のプレミエ以来、これが4度目の上演になる。
 今回は指揮がサッシャ・ゲッツェルなので、前回の指揮者とは違ってテンポもリズムも明快に歯切れよく進み、宮本亜門の軽快な演出のテンポとよく合う。このプロダクションもやっと活気を取り戻した、という感だ。
 歌手陣も生き生きとしているし、とにかく演技が細部まで精妙で、みんな巧い。

 温かい人間性を感じさせる黒田博のフィガロはもちろんのこと、前回よりも格段の成長を示した嘉目真木子のスザンナは━━困ったような表情の時に綾瀬はるかそっくりの顔になるのが面白い━━華麗な大輪の花といった歌唱と演技だ。すてきな歌手になった。

 だが何といっても傑作なのは、伯爵役の小森輝彦だ。常に口を半開きにして、眼も常に座ったままの表情で、ちょっと偏執狂な薄気味悪さと、それでいて憎めぬような愛敬とを備えた演技力が素晴らしい。第2幕フィナーレでせっかく夫人ロジーナと仲直りしてよろしくやりかけたところへ騒々しく飛び込んで来たフィガロを「邪魔しやがってこの馬鹿野郎」とばかり横目で睨みつける愉快な演技も、さすがのものがある。

 ロジーナ役の大村博美を含め、この第2幕フィナーレでの主役4人の細かい演技の面白さは、オペラグラスで眺めていると、時の経つのを忘れるほどだ。が、多分、大多数の人は字幕を見ていて、その演技の細やかさ、演出の妙味には気がつかぬかもしれぬ。それではいかにも惜しいのだが・・・・。
 16日と18日は、別の組(伯爵は与那城敬、フィガロは萩原潤、他)が出る。18日の本番を観よう。

2016・7・12(火)田部京子ピアノ・リサイタル

     浜離宮朝日ホール  1時30分

 「浜離宮アフタヌーンコンサート」と題するシリーズの第11回。
 平日午後の演奏会の評判がすこぶるよろしいことは近年の傾向だが、今日もお客さんがよく入っている。もちろん、こういう時間帯にコンサートを聴きに来られる世代のお客ばかりだが、それは即ちその世代にクラシックのコンサートを聴きたい人たちが如何に多いか、を示す証であろう。この世代にとっては、夜の9時過ぎまでかかる演奏会を聴きに行くと、帰りが非常に辛くなるのである。

 それはともかく、今日は田部京子のリサイタル。
 「ドイツの思い出を訪ねて」という副題を付し、四半世紀前のドイツ留学時代の写真を映写して当時の思い出を語るコーナーを挿入しつつ、ドイツの作品を演奏した。
 メンデルスゾーンの「夏の名残のばら」による幻想曲と、「無言歌集」から「甘き思い出」など3曲、ベートーヴェンのソナタ「テンペスト」、シューマンの「交響的練習曲」(遺作付)およびアンコールとして「トロイメライ」という、全体で1時間半と少しの長さの演奏会になっていた。

 彼女のリサイタルを聴きに来たのは、久しぶりである。今日の演奏を聴いた範囲で言えば、昔とはずいぶん変わったものだと思う。
 清澄で気品のある音色は昔のままだが、音楽の表情が極度に端整で、シリアスなものになった。澄み切った感覚の裡にも、情緒を一切排し、むしろ楽曲の構築を優先させることに重点を置いた演奏に感じられてしまったのである。

 昨年彼女が出したベートーヴェンの最後の3つのソナタのCD(トリトンOVCT―00120)は素晴らしい出来で、私も雑誌「ステレオサウンド」で推薦盤に取り上げたほどだ。だが、あそこでの堂々たる風格にあふれた表現に比べると、今日の「テンペスト」は、些か趣を異にして、何か、良くも悪くもプロフェッサーの演奏、というように聞こえてしまったのだが━━それはピアノの所為か、こちらの聴いた位置(1階席後方)の所為か?

 だが、彼女の話の方は、相変わらず温かい。投映された写真の中には「壁」解体以前の東ベルリンの光景なども交じっており、興味深いものがあった。彼女は「壁」崩壊の夜、西ベルリンのツォーに居たのだそうである。

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