2018-02

2018・2・21(水)東京二期会 ワーグナー:「ローエングリン」初日

       東京文化会館大ホール  6時

 日本の演出家による「読み込んで、捻った」舞台は、久しぶりである。

 演出は深作健太、舞台装置が松井るみ、照明が喜多村貴。準・メルクルが東京都響と二期会合唱団を指揮。
 Aキャストの今日は、福井敬(ローエングリン)、林正子(エルザ)、大沼徹(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、中村真紀(オルトルート)、小鉄和広(ハインリヒ国王)、友清崇(布告官)他。それに黙役で円山敦史(青年時代のローエングリン)、黒尾怜央(ゴットフリート)が出る。

 いわゆる読み替え演出というものは、何の予備知識もなしにオペラを観に行って、ただ舞台を眺めて演奏を聴いて、歌劇場から一歩出た途端にすべて忘れ去ってしまうような娯楽的嗜好の紳士淑女のためのものではない。今回の深作健太の演出も然りだ。

 つまりこれは、ワーグナーの活動を資金的に援助したバイエルン王ルートヴィヒ2世が、巨匠の作品を愛するあまり、贅を尽したノイシュヴァンシュタイン城に幻想的な洞窟を作り、自らタンホイザーやローエングリンなどに扮して空想に耽っていたことや、精神科医グッデン博士とともに近くの湖で謎の水死を遂げたことなどの歴史的事実を予め承知していないと、理解し難いかもしれない舞台なのだ。
 舞台には、ルートヴィヒ2世の小さい肖像画、あるいはノイシュヴァンシュタイン城のミニチュア模型などがあるが、それらと雖も、その歴史的事実を心得ていなければ、何だか意味の解らぬ存在になるだろう。だが、いったん承知してしまえば、なかなか面白い。

 今回の演出では、「ローエングリン」のスコアを見ながら(つまり音楽を聴きながら)感動し、登場人物の動きを観ながら感動し、ウロチョロとそこらを歩き回っていた冴えない胡麻塩頭の初老男が、いつの間にか自らローエングリンと同化してしまい、それを演じる側に回ってしまう。
 これにはしかし、微苦笑を抑えきれない。考えてみると、その老人を、かりにルートヴィヒ2世でなく、一般の音楽ファンに置き換えても話が成立するだろうと思われるし、「今日のこのローエングリンはあなた自身かもしれませんよ」というメッセージにもなり得るからである(但し私はまだ、そのような空想に耽ったことはない)。

 いずれにせよ、今日の似非(?)ローエングリンは、時に姿を現す本物の(?)凛々しい美形の騎士ローエングリンに温かく、あるいは皮肉気に見守られつつ、物語の主人公を演じて行く。
 その化けの皮(?)が剥がれるのは、第3幕でエルザから氏素性を問い詰められ、敗北した時だ。ここで、悪役のはずのフリードリヒ・フォン・テルラムントが、王の主治医グッデン博士の「正体」(?)を現し、ローエングリンを拘禁する。

 このあたりから幕切れまでの一連の場面を観ていると、あのジャン・デ・カールの著「狂王ルートヴィヒ」に描かれているいくつかの場面━━グッデン博士が看護人たちに命じて「慇懃に」ルートヴィヒ2世を捕縛する場面や、湖から引き揚げられた「ワイシャツ姿の」の王(今日のローエングリンも最後はワイシャツ姿だった)、湖畔で発見されたグッデン博士の「山高帽と傘」(テルラムントはまさにその二つを有していた)などのくだりを思い出してしまう。

 もうひとつ、今回の演出で、多分重要なのは、エルザの弟たるゴットフリート少年の存在なのではなかろうか。
 冒頭、前奏曲のさなかから、中央に彼が座して物思いに耽り、後方のデジタル時計が23時59分45秒から逆行を始めるので、瞬時に「これは回想?」というイメージが頭をよぎる。また「青年時代のローエングリン」という配役表の文字の意味もすぐに判る、という具合だ━━もっとも、実際の舞台の進行は、若干こちらの予想とは違っていたけれども。
 このゴットフリートは、ほぼ全篇にわたり、舞台のどこかに出ずっぱりで、場面を見守る。ラストシーンで彼が舞台中央に屹立し、一同が膝まづくところで、再び現れた時計は0時00分00秒から先へ動き出す━━。

 日曜日には改めてBキャストの上演を観る予定なので、もう一度よく観察してみよう。
 今日の歌手陣もよくやっていたが、最も大きな拍手と多くのブラヴォ―を浴びたのは、指揮の準・メルクルだった。驚異的に速いテンポで押す。第3幕第3場の、ハインリヒ王と兵士たちのくだりなど、声楽アンサンブルが追いつかない個所もあり、いくらなんでも速すぎるという感がなくもなかったが、どちらかといえば私は、遅いテンポより、速いテンポの方が好きである。
 東京都響が好演。合唱団は第1幕の祈りの歌の個所や第2幕の幕切れなど、ゆっくりしたテンポのところでは壮大だったが、第2幕中盤の群衆の速いテンポの個所では、いかにも音が薄かった。

 演奏には、慣習的なカットがある。25分の休憩2回を含み、終演は10時20分頃。
       →別稿 音楽の友4月号 演奏会評

2018・2・20(火)山田和樹指揮東京混声合唱団「音楽で描く世界地図」

      東京オペラシティ コンサートホール  1時30分

 これはなかなか愉しいコンサートだった。
 東京混声合唱団を山田和樹(音楽監督兼理事長!)が指揮、ピアノの萩原麻未が協演して、第1部ではいくつかの国の国歌(オーストラリア、インドネシア、ロシア、イタリア、アメリカ、アルゼンチン、コモロ連合国)とその国に関連した有名な曲1曲ずつを歌い、第2部では日本の歌中心のプログラムを歌う━━という演奏会である。

 これは、現在山田と東混が展開している「アンセム(愛唱歌)プロジェクト」の一環である由。
 ステージでシリアスに歌ったり、客席に降りて歌いながら踊ったり、いろいろ趣向を凝らしながら楽しく進行させるという合唱コンサートなのだが、とにかく合唱の上手いこと。これだけ見事に歌えれば、たとえどんなに羽目を外そうとも、かえってそれがいい余興になるというものである。

 原曲がアフリカン・ポップスだという「ライオン」━━これが私の世代などには懐かしいトーケンズの「ライオンは寝ている」になるのだった━━での編曲の巧さと、踊りながら歌う東混の巧さ。
 あるいは、三善晃が編曲した「虹の彼方に」のハーモニーの美しさと、それを残響の多いこのホールで豊かに響かせ効果を上げた山田和樹の巧みな指揮及び東混の演奏水準の髙さ。
 そして、そのヤマカズのMCの明るい親しみやすさ・・・・等々、どれをとってもぴったり決まった演奏会だった。

 但し、ほんの僅かながらちょっと「弱かった」ような印象を受けたのは、ヴェルディの「ナブッコ」からの「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」での合唱で、これに関する限りは、やはり歌劇場の大合唱団の豊麗さに一歩を譲らなくてはなるまい。

 ホワイエでは、マエストロ・ヤマカズと東混が山形に行った時に食べて気に入ったという、佐藤屋の「たまゆら」という菓子が売られており、開演前にはほとんど誰も注意を払わなかったのが、本番のステージで彼が「このお菓子は美味しい」とPRしたら、休憩時間には長蛇の列ができ、ついに完売になってしまった。まこと、有名人のPRの影響力は凄まじい。彼はまた第2部で、それをネタにして会場を笑わせ、盛り上げた。客席の雰囲気が更に明るくなったのは言うまでもない。

 ともあれこれは、シリアスなかたちの中にエンターテインメント性を織り込んだ演奏会として、第一級のものである。

2018・2・19(月)METライブビューイング プッチーニ「トスカ」

      東劇  6時30分

 去る1月27日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴ映像で、デイヴィッド・マクヴィカーによる新演出。
 四半世紀の間上演されていた、あの豪華なフランコ・ゼッフィレッリ演出版のあとを受け、確か2009年頃に制作されたリュック・ボンディの演出はあまりに地味で演劇的に活気のない舞台だったのに落胆したものだが、今回新制作されたマクヴィカーのは、さすがに見栄えがする。

 映像で見たところでは、まあ適度に豪華な舞台といった印象だが、特筆されるべきは、登場人物たちの細密な演技である。かつてのゼッフィレッリの演出にも劣らぬ表情の細かさで、伏線はすべて生かされ、必要な表現もすべて生かされている(といって、マリア・カラスの舞台映像と比較するのは意味がないだろう)。

 トスカはソニア・ヨンチェヴァ、第1幕では「やきもち焼きの女」をうんざりさせられるほど念入りに表現したが、第2幕と第3幕ではもう少し悲劇性が欲しいところ。カヴァラドッシはヴィットリオ・グリゴーロ、スカルピアは当初予定のブリン・ターフェルに替わりジェリコ・ルチッチ、堂守はパトリック・カルフィツィ、その他。
 指揮は当初予定のジェイムズ・レヴァインからエマニュエル・ヴィヨームに替わっていたが、演奏は何となく微温的だ。

 休憩を含めた上映時間は約3時間。

2018・2・18(日)新国立劇場 細川俊夫:「松風」

      新国立劇場オペラパレス  3時

 日本初演の3日目(最終日)。
 作品名のクレジットが「細川俊夫/サシャ・ヴァルツ 松風」となっているところがミソ。音楽こそ細川俊夫によるものだが、舞台芸術という面から見ると、サシャ・ヴァルツは単なる「演出と振付」担当という枠を超えた、共同作者という存在にまでなるのだろう。オペラと舞踊とが一体となった新しい作品形式を━━というのは細川が目指したところだし、ヴァルツのほうは「コレオグラフィック・オペラ」という形式を確立した人でもある。それゆえ、このような表現になるのだと思われる。

 舞台演技の大半を占める重要なダンスは、これも「サシャ・ヴァルツ&ゲスツ」が受け持ち、舞台美術はピア・マイヤー・シュリーヴァーと塩田千春、ドラマトゥルグはイルカ・ザイフェルト。
 歌手陣は、「松風」をイルゼ・エーレンス、「村雨」をシャルロッテ・ヘッレカント、「旅の僧」をグリゴリー・シュカルパ、「須磨の浦人」を萩原潤。ピットで歌うヴォーカル・アンサンブルを新国立劇場合唱団。デヴィド・ロバート・コールマンが東京交響楽団を指揮していた。

 それにしてもこれは、実に素晴らしい「音楽と舞台」だ。細川俊夫の音楽、音色、響きを、そのまま視覚化したような舞台である。
 ダンスは激しく、精巧複雑を極めるが、それも登場人物の心理を見事に具現化しているように思う。特に日本的な要素はないけれども、そのイメージは底流にあるように感じられる。姉妹役の2人の歌手は、歌唱と同等にダンスをこなさなくてはならないという至難の役柄だが、これがまた見事で、舌を巻いた。

 ストーリーの概要は━━須磨の浦を訪れた「旅の僧」が、「松風」「村雨」という女の名と詩が記された札のついた1本の松に目を留め、土地の浦人に謂れを訊く。やがてその名の潮汲み女の姉妹が現われ・・・・となり、最後は「僧が目を覚ますと、いつのまにか姉妹も姿を消しており、あとには松を渡る風の音が残るのみだった・・・・」という、いかにも日本的な余韻を残す幕切れになる。能の「隅田川」にも似た幕切れだが、私はこういう余韻にたまらなく惹かれる。

 細川俊夫の音楽も、私は以前から好きだった。「海」に関連した作品を集中的に聴いた時にも、その音楽全体のつくりとともに、「自然」の中に溶暗して行くような終結には特に惹かれたものである。
 この「松風」も、最後に「風鈴」の音だけが微かに残って消えて行くところなど、いかにも彼らしい余韻と余情にあふれたエンディングだ。ドラマには、海岸に砕ける大波の音や風の音、水の音など、効果音も使われているが、細川俊夫の音楽そのものにはそうした現実音は含まれていないものの、しかしそのイメージは常に音楽の中に織り込まれているように感じられる。

 「松風」は今回が日本初演ということになるが、実はもう7年も前、2011年5月にベルギーのモネ劇場で初演されていたものだった。細川俊夫のオペラは、すでに完成されているものは6作(「リアの物語」「斑女」「松風」「大鴉」「海、静かな海」「二人静」)、作曲中のものが1作ある(プログラム冊子による)が、そのいずれもが外国の音楽祭や歌劇場や団体から委嘱されたもので、日本からの委嘱作品は一つも無い、ということだ。このあたり、何かおかしい、という気はしないだろうか?

 だが実は私も、これらの中では、過去には「斑女」と「大鴉」しか聴いていない。今回が、三つ目だ。
 その他の作品、「リアの物語」は3年前の1月、広島で上演されたのを観に行く予定だったのを、風邪をこじらせて名古屋から引き返さざるを得なかった。そして「海、静かな海」に至っては、これも2年前の2月、ハンブルク州立歌劇場での初演を観に行こうとチケットまで買っておきながら、やはりある事情のため土壇場で行けなくなったという経緯がある。いずれも痛恨の極みというほかはない。

 今回、新国立劇場がこの「松風」を上演したというのは、実に意義深いものであり、歓迎されるべきものであった。これは、今シーズンの新国立劇場のラインナップの中でも最も意欲的な、しかも調和の取れた完全な作品といえるかもしれない。

2018・2・17(土)日本オペラ協会 團伊玖磨:「夕鶴」

     新宿文化センター 大ホール  2時

 定番の出しもの。主催と制作は日本オペラ振興会。

 園田隆一郎が東京フィルを指揮して、実にまとまりのいい演奏を聴かせてくれた。オーケストラのバランスも響きも上々、全体に仄かな暗い音色で悲劇的なイメージを描き出し、各モティーフを明確に浮き彫りにする。殊更に劇的な激しい起伏を施さない控えめなつくりではあったが、この時代の團伊玖磨独特の抒情性は充分再現されていたと思う。こういう演奏で聴くと、このオペラは、やはりいい。

 歌手陣は、明日とのダブルキャストで、今日は佐藤美枝子(つう)、中井亮一(与ひょう)、柴山昌宣(運ず)、泉良平(惣ど)に、こどもの城児童合唱団、という顔ぶれ。

 演出は岩田達宗、舞台美術は島次郎。この書き割り的な舞台装置には、ちょっと寂しい感もあるが━━近年は鍋も釜も囲炉裏もないシンプルな抽象的な舞台(市川右近演出)や、「雪の幻想」的な舞台(新国立劇場の栗山民也演出)など、所謂「日本の農村風景」から離れた斬新な舞台も現われて来ている時代だし━━まあしかし、岩田達宗らしく温かい演出は随所に観られた。

 特に後半、運ずの与ひょうに対する同情と労わりを前面に強く押し出していたのが印象的だったし、惣どが織り上がった「布」を与ひょうから強奪するなどの手荒い演出がなかったのにもほっとした。幕切れ近く、つうと遊ぼうと集まって来た子供たちが、つうの代わりに奥から惣どがぬっと現われたのを見て、ぎょっとしてたじろぐという演出は、細かいことだが、なかなかよかった。

 所謂「涙もの」の人気定番だけあって、客の入りは上々だが、大半が女性客、そして圧倒的に高齢者という客席である。それはそれで結構ではあるものの、家族連れを除けば若い世代の客がほとんど見当たらないのには暗然とする。
       ☞別稿 音楽の友4月号 演奏会評

2018・2・16(金)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 これは定期。第1部にチャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」と、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソリストはニコライ・ルガンスキ―)、第2部にラヴェルの「クープランの墓」とレスピーギの「ローマの松」。
 かように、ロシアものとラテン系作品とを組み合わせたちょっと風変わりなプログラミング。コンサートマスターは長原幸太。

 しかし、このラテン系の2曲の演奏が結構面白かった。
 「クープランの墓」など、テミルカーノフも読響も思い切り優雅にやっているつもりなのだろうけれど、聴いた印象ではやはり何か骨太で、どっしりしていて、いかつい雰囲気が感じられるラヴェルだったのには微苦笑させられ、これはこれで愉しめたのだった。

 そして、「ローマの松」の方はすこぶるスペクタクルで、「アッピア街道の松」冒頭などのようなミステリアスな個所には重厚なものものしさがある。ラテン系の指揮者が振った時のような開放的な明るさの代わりに、全体に不思議な陰翳が漂うという、そのような「ローマの松」だったのである。なおバンダはP席最後方の両側に配置されていた。

 前半は、ロシアものだから、もちろん予想通りの世界。「パガニーニの主題による狂詩曲」では、ルガンスキーも楽々と弾いていた。
 その昔、NHKの「希望音楽会」というラジオ番組(まだFMも無かった時代)のテーマ曲にこの第18変奏が使われ、「あれ、なんて曲だ?」と大変なセンセーションを巻き起こしたことを記憶している人も、もうだんだん少なくなっているだろう。あまりいい曲なので、「全曲を聴いてみたい」という「希望」が殺到したため、ついに同番組で全曲が演奏されたのだが、「あそこ(第18変奏)はいい曲なんだけど、あそこへ行くまでが長くてつまんないんだよねえ」という人も少なくなかった。今聴けば、全然そんなことはなく、最初から面白い曲だと思えるのだが・・・・やはりそれは、その時代の「耳」というものだったのだろうか?

 「フランチェスカ・ダ・リミニ」は、最近のテミルカーノフの、あまり芝居気のない坦々とした表現がやや物足りないといえば物足りなく━━というより、これは畢竟、作品自体の性格による限界だろう。この曲はやはり、指揮者のある程度の演出の助力なしでは、その力を発揮できないという曲なのではないかと思う。

2018・2・14(水)こんにゃく座公演「天国と地獄」

    俳優座劇場(六本木)  2時

 オペラシアターこんにゃく座(代表&音楽監督・萩京子)の公演。
 こんにゃく座の公演を観に行ったのは随分久しぶりのことになるが、いかにも手作り公演といった温かい雰囲気を感じさせるところは、昔に変わらない。ホワイエに立ち並ぶスタッフからしてそうだ。これがこんにゃく座の良さ、というものだろう。

 「天国と地獄」とは、もちろんオッフェンバックの喜歌劇のこと。今月8日にフタをあけ、18日まで連日上演される。
 ストーリーと音楽は基本的にオリジナルに沿っているが、そこはこんにゃく座ならではの制作、台詞は日本語訳のかなり自由に再編されたものが使われ、音楽も小編成の「楽士」(ピアノ、ヴァイオリン・クラリネット・ファゴット各1、打楽器)たちによる演奏、となっている。
 編曲は萩京子と寺嶋陸也、台詞・訳詞・演出は加藤直、舞台美術は杉山至。歌手陣は大石哲史(ジュピター)、沢井栄次(オルフェ)、高野うるお(プルート)他。その他の人たちは、大半がダブルキャストだ。

 歌唱は、音程の定まらぬ人や、声量の不足する人、歌よりも絶叫になってしまう人━━なども若干いたけれども、所謂ミュージカルの専門と称する某有名団体の上演などとは格の違う水準にある人が多い。
 一方、演技という面ではちょっと野暮ったいところがなくもないが、まあそれは良くも悪くも、今の日本のオペラ歌手さんたちの平均的傾向かもしれない。

 いずれにせよ、自然な笑いを呼ぶためには、舞台にもう少しスムースな流れが欲しいところである。前半、第1幕第2場の天国の場面などは比較的しっくり行っていたものの、後半の、特に第2幕の「地獄の場」後半などでは、クライマックスへの流れに中だるみが生じるところもあった。最後の一押しという場面でも、どちらかといえばドタバタ騒ぎが優先されて、ドラマとしての盛り上げに不足していたのは惜しかった。

2018・2・11(日)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 土曜マチネーシリーズ。
 チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」とラフマニノフの「交響曲第2番」。テミルカーノフは、4年前の1月にサンクトペテルブルク・フィルを率いて来日した際にも、この2曲を併せたプログラムを組んでいた。

 協奏曲での今日のソリストは、ニコライ・ルガンスキ―。余裕をもった演奏ぶりだ。瑞々しい音色も相変わらず。ことさらなヴィルトゥオーゾぶりを誇示することなく、しかし闊達に、少し自由な感興をも交えて弾く。このソロが、どっしりと力感豊かに音を響かせる剛毅なオーケストラと微妙に拮抗しつつ進んで行く・・・・という具合だったのだが、豪華さや華麗さは充分だったため、結構愉しめた演奏になった。

 一方のラフマニノフの「第2交響曲」は、骨太で豪壮で、色彩感にも不足はなかったものの、響きに強弱の幅があまり無い━━つまりフォルティッシモとピアニッシモとの対比があまり際立っていなかったことが、一種平板な演奏という印象を生んでいたような気もするのだが如何? 2階席正面最前列で聴いた限りでは、オーケストラのテクスチュアも、必ずしも明晰に響いていなかったように思う。
 もっとも、日記を繰ってみると、4年前のサンクトペテルブルク・フィルとの演奏の時にも同じような印象を得ていたようである。とすれば、これらはテミルカーノフの意図的なアプローチなのかもしれない。また、今回も4年前と同様、「短縮版」が使われていたので、演奏時間も46分程度になっていた。

 テミルカーノフ、今回はあまり体調がよろしくないとかいう話(咳が出るとか?)。終演後に楽屋を訪ねてご本人に具合を訊いたら、「そうなんだよ、参っちゃったよ」と胸を押さえて顔を顰めていた。「お前は大丈夫なのか」と訊くので、こちらもそうはっきり言えるほどの状態ではないけれど、一応「元気、元気」と答えておく。今回の読響との、22日までの演奏会が無事に済むよう祈る。

2018・2・10(土)準・メルクル指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  2時

 今シーズンのインフルエンザは、「すでにA型をやった者でも、また改めてB型をやることができる」とかいう変なシステムなんだそうだが、私は暮の「A」が治って以降もずっと風邪気味だったとはいえ、幸い未だ「B」には至っていない。それでも、酷い咳が随分長引いた。そのため自粛して、かなり多くの演奏会を諦めざるを得なかったが、どうやら九分通り回復したと思われたので、久しぶりに準・メルクルが都響を振る名曲マチネーを聴きに行った次第。

 今日はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」(ソリストはエドガー・モロー)、シューマンの「第3交響曲《ライン》」というプログラムである。コンサートマスターは四方恭子。

 準・メルクルの指揮、相変わらず率直で颯爽として、この人らしく爽やかだ。見方によっては、あっさりした演奏━━という印象もなくはない。だが、テンポ運びが良く、例えば「フィンガルの洞窟」の嵐の場面や終結の個所、あるいは「ライン」の終楽章コーダなどでのたたみこみや追い上げの呼吸など実に鮮やかなので、それなりの愉しい充足感は得られるというものである。

 一方、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲を弾いたエドガー・モローはパリ生まれの24歳、これまた爽やかで、いわゆる民族主義音楽的な色合いの代わりに、洒落た味を漂わせるといったソロだ。それゆえ、美感だけが目立つ演奏になったきらいもあるが。

 定期ではなく、「プロムナード・コンサート」だったせいか、オーケストラにも多少寛いだ甘いところがあったが、まあ人間の集団だから、致し方ない(以前インバルが振っていた頃には、たとえ定期でなくても隙のない、厳しい演奏を聴かせたものだが・・・・)。

2018・2・6(火)札幌交響楽団東京公演

     サントリーホール  7時

 恒例の東京公演は、今シーズンで首席指揮者としての契約を終えるマックス・ポンマーの指揮で行なわれた。コンサートマスターは大平まゆみ。

 今回はベートーヴェンの交響曲を二つ━━「田園」に「運命」という、いかにも古都ライプツィヒ生れの老練指揮者らしいプログラムが組まれたが、事実、今日の演奏にも、今世紀に入ってからはほとんど聴けなくなったような懐かしいスタイルが滲み出ていた。

 それは、古色蒼然などという言葉で片づけられるようなものでは決してない。かつての東独の佳き指揮者たち━━オトマール・スウィトナー、ハインツ・レークナーなどといった名指揮者たちの流れを今に受け継ぐ、落ち着きのある滋味にあふれた演奏なのである。
 誇張も、華やかさも、殊更な威勢の良さも全く無いのだが、その飾り気のない語り口の中に、ハッとさせられるような微細な、自然なニュアンスの変化が聴かれる。大きな起伏と強靭なアクセントが、揺るぎのない芯の強さを感じさせる。

 その最良の例が、「第5番《運命》」だったであろう。第2楽章にこめられた温かい情感もさることながら、特に第4楽章の展開部における頂点では、音楽が並外れて立派に、しかも温かく聳え立っていた。決して力任せでなく、しなやかでありながらも壮大な、かつ感情のこもったこのような《運命》の展開部の演奏は、絶えて久しく聴いたことがなかったほどである。

 これだけのヒューマンな演奏を実現させただけでも、マックス・ポンマーと札響の3シーズンの活動は意義あるものだったと言っても、敢えて誇張にはならないだろう。
 アンコールには、バッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」が演奏された。バッハゆかりの地、ライプツィヒ出身のポンマーが贈ってくれた別れの歌である。

2018・2・3(土)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      ティアラこうとう大ホール  2時

 「ティアラこうとう」は、1200席程度の中ホールである。シティ・フィルは、メインの東京オペラシティコンサートホールでの年9回の定期の他に、このティアラこうとうで年4回の定期を開催しているのだが、ホールの規模は小さいけれども、お客さんの雰囲気は、むしろこちらの方が温かいような気がする。

 今日はこのホールでの第52回定期。桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎の指揮で、モーツァトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」というプログラムだった。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 「ドン・ジョヴァンニ」序曲での演奏は、序奏からして重々しい悲劇的性格を感じさせ、主部に入ってもその陰影に富んだ色調が続いて行く。このあたりは飯守ならではの味だろう。シティ・フィルも完璧に応えている。

 「悲愴」は、最初は坦々と進んで行くように感じられたが、第1楽章の展開部の終りあたりからは、音楽が俄然、剛直で激烈な色合いを帯びて来た。
 再現部の第277小節(【Q】)以降になると、あのシティ・フィルが━━などという言い方は今やもう通用しない時代になっているほど、この楽団の演奏水準は上がって来ている━━魔性的な咆哮と慟哭を、怒涛のように繰り返す。ここは飯守が常に「狂気のようになる」くだりだそうだが、近年の演奏━━例えば今日の演奏などでは、その激情もバランスのいい構築になって来ているし、シティ・フィルの音色にも混濁がないので、感銘もいっそう深くなるだろう。
 この激しい慟哭のあとの抒情的な第2主題、あるいは第2楽章も深い情感にあふれており、特に第4楽章は極めて高い格調に満たされていた。

 ベートーヴェンの協奏曲では、未だ20代後半ながら赫々たるキャリアを積んでいる青木尚佳がソリストに招かれていた。
 私は不勉強にして彼女の演奏を聴いたのはこれが初めてなのだが、実はよく解らない━━というのは、このベートーヴェンでの演奏が、あまりにメリハリに乏しく平板で、しかも生き生きした表情が感じられぬものであり、主題が常に同じ表情で繰り返されるのにも唖然とさせられたのである。何かの理由で、無理して抑えて弾いていたのか? 
 だがその一方で、短いカデンツァの個所では、人が変わったように自発的な、勢いのいい音楽をつくり出していたのだ。短いソロの、ほんの2、3秒の間に彼女が聴かせたカデンツァには、ハッとして腰を浮かせたくなったほどの、素晴らしい輝きの高揚が感じられたのである。こちらの方が彼女の本領じゃないのか?

2018・1・29(月)METライブビューイング アデス:「皆殺しの天使」

      東劇  6時30分

 トーマス・アデス作曲、トム・ケアンズ演出による現代オペラ「皆殺しの天使」。
 2年前にザルツブルクで初演され、その後ロンドンでも上演されたユニークなオペラ。METでは昨年10月26日にプレミエされ、11月21日までの間に計8回上演されている。今回上映されたのは、11月18日に行われた7回目の上演のライヴ映像である。

 これは、1962年に公開されたルイス・ブニュエル監督による名画「皆殺しの天使」を基にしている。映画に於けると同様、不条理・非現実性を満載したストーリーで━━、

 ある夜、オペラのあと、ある豪邸の夜会に招かれた「貴族階級」の紳士淑女たちが、何故かその大広間からどうしても出られなくなる。出る気はあるのだが、何故かその行動に移ることができない。狭い空間に閉じ込められた形の紳士淑女たちは、次第に日頃の気取った態度を失って行き、罵声や暴力など醜い人間性を露呈して行く。死者も出る。
 何日かが過ぎるらしいが、ひとりが「あの夜のある時点」を思い出し、皆がその時点に記憶を戻して、行動を「リセット」する。そうすると、不思議にもドアが全開され、全員が解放されて行く━━という、全く非現実的な物語だ。

 いわばサスペンス・オペラのような物語だが、もし几帳面に歌詞の内容を追い、真面目にテレビドラマ的なスリルを追ってしまったら、多分苛々させられるだろう。何しろ会話そのものが、ヒステリックな感情に左右され、応酬の論点が次々にすり替わって行くからである。しかし、この中に籠められた象徴的なもの、寓話的なものは、実に多彩で、意味深くて、深淵で、かつ、あれやこれや思い当たるフシが多くて面白い。

 この物語を彩るのが、トム・ケアンズの緊迫感豊かな演出と、芝居巧者を揃えた歌手陣とが繰り広げる舞台、それにトーマス・アデスが自ら指揮して引き出す彼の瑞々しい躍動感に富んだ音楽なのだが、これがまた、実に素晴らしい。

 歌手陣にはオードリー・ルーナ(レティシア)、アリス・クート(レオノーラ)、サリー・マシューズ(シルヴィア)、ジョゼフ・カイザー(エドムンド)、ロドニー・ジルフリー(アルベルト)、ジョン・トムリンソン(カルロス・コンデ博士)ら大勢が出演しているが、揃いも揃って俳優並みの芝居巧者だ。現代オペラの舞台は、こういう人たちが揃ってこそ成立するというものである。

 そして何よりトーマス・アデスの音楽が、すこぶる鮮やかなのだ。彼らしい明晰な音色としなやかで緻密な表情にあふれた管弦楽法が非常に雄弁で、劇的な表現力に優れている。特に今回はオンド・マルトノが「サスペンスものの常套手段として」(と、METは言う)活用され、不安な気分をそそる(今さら、という気もするが・・・・)という仕組だ。
 休憩1回を含み、上映時間は2時間40分ほど。

(追記)昨年暮れから渋谷のイメージフォーラムで、その映画「皆殺しの天使」が36年ぶりに公開されていたのは、タイアップだったのか? ネットでその関連サイトを眺めていたら、その映画を観たある方が、ストーリーに関してこういう主旨のコメントを投稿なさっていた━━「つまらない飲み会に参加して、帰ろうという気を何度か起したのだが、そのきっかけを失い、結局終電に乗り遅れた夜のことを思い出した・・・・」(原文をかなり書き換えさせていただいた)。しかし、何とも巧い喩えではないか。

2018・1・27(土)園田隆一郎指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

      横浜みなとみらいホール  2時

 オペラでは引っ張りだこの存在である園田隆一郎の指揮を、コンサート・プログラムで聴いたことは、私はこれまでなかったかもしれない。
 この日は前半にベルリオーズの序曲とリスとのピアノ協奏曲を、後半にロッシーニとヴェルディの序曲やバレエ音楽を指揮するというので、いい機会だと思い、早稲田大学オープンカレッジでのオペラ講座を終えてすぐに横浜へ駆けつける。

 ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」と、リストの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは福間洸太朗)での園田の指揮は、極度に几帳面というか、生真面目に過ぎるというか、どうもなにか面白味に欠けてしまう。協奏曲は福間の瑞々しいソロが目立っていたので、何ということも無かったのだが、華やかな「ローマの謝肉祭」となると、あの沸き立つような音楽の熱気が全く再現されていないので、これはどうなることかと不安になったほどだ。

 だが第2部に入り、ロッシーニの「どろぼうかささぎ」序曲、「アルミーダ」と「ウィリアム・テル」からのバレエ曲、「セミラーミデ」序曲、そしてヴェルディの「アッティラ」前奏曲と「マクベス」からのバレエ音楽になると、園田はやはりオペラを得意とする人だけあって、水を得た魚のような指揮になる。それは端整で几帳面で、生真面目な指揮には変わりないのだが、神奈川フィルの演奏に、実に妙なる雰囲気があふれ出して来て、作品の良さを充分に味わわせてくれたのであった。
 コンサートマスターは石田泰尚。
    別稿 音楽の友3月号 演奏会評

2018・1・25(木)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 モーツァルトの「交響曲《ジュピター》」とベルリオーズの「幻想交響曲」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターは近藤薫。

 「ジュピター」が始まった時、何と柔らかい音か、と驚かされる。演奏の表情も何かしらおっとりとしていて、春風駘蕩といった趣きなのだ。所謂「ジュピター」というニックネームから連想される威容とか、スケール感とか、風格とかいった先入観念にこだわることがなく、穏やかでおとなしい。第2楽章など、夢幻的でさえあり、瞑想的でさえある。
 だがもともと「ジュピター」などという名前には、モーツァルト自身は関わりないものだから、このハ長調の交響曲をこのようなアプローチで演奏したって、別に問題はないはずだろう。それでも第1楽章や第4楽章の終結など、ここぞという個所になると、ぐいと力感を強めて締め括るあたり、チョンも「持って行き方」を充分心得ている。

 それにしても彼は、オペラを指揮する時には速めのイン・テンポで、素っ気ないほどの勢いで押し通す人なのに、シンフォニーの演奏になると、逆に遅めのテンポを採って端然たる音楽をつくる。以前よりもそれが目立って来たのではないか。
 後半に演奏された「幻想交響曲」でも、いわゆる標題音楽的な、ドラマティックな表現は影を潜めているように感じられた。ベルリオーズを古典派音楽的に解釈する、という手法か。東京フィルも極めて緻密な演奏を聴かせ、「幻想」の後半2楽章では剛直な力感も漲らせていた。

2018・1・20(土)大野和士指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 早稲田大学オープンカレッジのオペラ入門講座第2回(「フィガロの結婚」の巻)を終って池袋へ回る。概して土曜日は聴きたい演奏会が多いという傾向があるので、スケジュールのやりくりにも嬉しい苦労をすることになる。
 今日は大野和士が指揮するメシアン・プログラム。私としては、彼のメシアンを聴くのは、もしかしたらこれが最初だったか?

 1曲目はしかし、大野と都響の演奏ではなく、ヤン・ミヒールスのピアノ・ソロだった。照明を暗くして演奏されたのは、トリスタン・ミュライユの小品「告別の鐘と微笑み~オリヴィエ・メシアンへの追憶に」という曲。
 プログラム冊子に引用されている作曲者自らのメモ「飾り気のない小さな作品」(飯田有訳)という表現が、良い意味でぴったり来る曲だろう。メシアンの初期のピアノ作品から素材が採られている由。曲想も演奏も清冽で透明な,何とも快い美しさに満たされた短い時間であった。
 そして、拍手とカーテンコールのあと、ピアノの位置はそのままに楽員たちがステージに入って来て、今日のメイン・プロであるメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」に移る。

 演奏は、いわゆるどぎつい色彩感とか、威圧的な物々しさとかいったものとは一線を画した、均衡と調和に重点が置かれた柔軟で温かいスタイルだった。
 このような「過激でない」タイプの「トゥーランガリラ交響曲」の表現は、わが国のオーケストラに多く聴かれる特徴だろう(所謂国民性の為せる業でもあろうが)。
 とりわけ今回の大野と都響の演奏には、リズムも含めて響きの柔らかい、音色の美しさという特徴が印象づけられる。先日のR・シュトラウスやツェムリンスキーの作品の時と同じように、殊更な力み返った音を出さず、すべての楽器がバランスよく溶け合って響く。その意味では、極めて自然体の「トゥーランガリラ」だったと言うべきか。静寂な官能的法悦感にも、全く不足はない。

 しかも━━特に最後の2つの楽章においては、頂点への追い込みの個所で、クレッシェンドとアッチェルランドも聴かれる(そのように感じられる)。それはすこぶる緊迫感に富んだものであり、少々乱暴な言い方をすれば、メシアンの音楽に良い意味でのロマン的な手法を加味した演奏とでも喩えたらいいだろうか。そのあたりの大野の指揮と、それに応える都響の両者の呼吸は、これまた実に巧いのである。

 ただ、率直に言えば、全体にそれら美音の均衡が重視されるあまり、熱狂にせよ陶酔にせよ、各楽章の間に際立った対比といったものが薄れ、長い全曲がやや単調で単一的なものに感じられなくもなかったのだが━━。

 夕方の新幹線で京都に向かう。翌日は、びわ湖ホールにおける「ワルキューレ入門講座」第2回だ。
    モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

2018・1・18(木)角田鋼亮指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

     フェスティバルホール〈大阪〉 7時

 角田鋼亮は、大阪フィルとセントラル愛知響の指揮者を務めており、また今年4月からは仙台フィルの指揮者にもなる、という注目の若手である。大阪フィルの定期公演には、今回が初めての登場という。
 今日のプログラムは、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは竹澤恭子)と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」だった。コンサートマスターは首席客演の崔文洙。

 このホール、私は未だ10回ほどしか聴いていないのだが、どうやら場所によってかなり響きが異なるようで、少なくとも1階席よりは上階席の方が、音が溶け合って聞こえる癖があるらしい。それにより演奏に対する印象・評価が違って来る傾向なきにしもあらずとなると、これは少々厄介な問題だろう。
 私は今回も、上手側高所の壁から突き出しているバルコニー席で聴いた。ここも慣れると、結構バランスのいい音で聴ける。したがって以下は、この「上階席」で聴いた印象である。

 さてその角田鋼亮の指揮だが、コルンゴルトでは予想外に濃厚な響きを大フィルから引き出し、この曲の重要な特徴であるロマンティックで官能的な法悦感を再現させていたのには感心した。竹澤恭子の濃厚な表情に富んだソロもそれらとよく均衡していたと思われる。特に第1楽章など、オーケストラには確実にあの独特の「コルンゴルト・トーン」が聴かれ、また第2楽章でも、見事に耽美的な演奏が聴かれていたのである。

 「巨人」は、入魂の大熱演で、大阪フィルもよくこの若手指揮者を盛り上げ、柔軟な演奏を聴かせていたように思う。第1楽章のコーダ、第4楽章のコーダとも、かなりのアッチェルランドをかけての追い込みは、すこぶる勢いに満ちていた。
 また、協奏曲の緩徐楽章でもそうだったが、「巨人」でも、緩やかな流れを持つ個所に良さが目立つ。とりわけ光っていたのは第3楽章で、コントラバスの1番が素晴らしく上手く、またオーボエ、クラリネット、ファゴットなどのソロが巧かったこともあり、情感がこもっていて、しかも自然な流れがあった。

 ただ一つ、終結ではテンポを速めて一気呵成に押し切った━━それはそれでいいのだが━━せいで、全曲大詰めのオクターヴ下行の2つの4分音符が明確に分離して響かなかった・・・・つまり最後の4分音符のD音がほとんど聞こえなかったことには、やはり疑問が残る。最後までイン・テンポで突っ走った場合、スコア通りに演奏すると、確かにそういうことが生じやすいのだけれども・・・・。

 概してこの人の指揮は━━今日の演奏で聴く限りだが━━音楽そのものがなだらかで自然な流れを示している個所では、彼のカンタービレや、たっぷりした音の響かせ方などが生きて来るようである。しかしその一方、さまざまなモティーフが入り乱れる個所や、あるいは何かを仕掛けてやろうと念を入れるような個所━━たとえば第4楽章で、次の昂揚に移るべく音楽が蠢きはじめる個所など━━になると、その設計に未だ少し流れの悪さを感じさせ、緊張感が希薄になることがある。
 まあしかし、この辺は、経験が解決するであろう問題だ。若い勢いで音楽を熱狂的に昂揚させるあたりは好ましいし、大フィルが若い指揮者を盛り立てようという意気も感じられて、清々しい雰囲気の残った定期であった。
 なお、竹澤恭子が弾いたソロ・アンコール曲は、ヴォーン・ウィリアムズの「あげひばり」。ソロによる演奏だが、これは素晴らしかった。

2018・1・13(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  6時

 ブリテンの「ピーター・グライムズ」からの「4つの海の間奏曲」、イェルク・ヴィトマンの「クラリネット協奏曲《エコー・フラグメンテ》」、ブルックナーの「第6交響曲」というプログラム。クラリネットのソロは作曲者ヴィトマン自身。コンサートマスターはゲストの崎谷直人。

 冒頭のブリテンは、恐ろしく物々しく、威圧的な「間奏曲」となった。これほど攻撃的な、激烈な「ピーター・グライムズ」の演奏は、あまり聴いたことがない。ブリテンを現代音楽の闘士として蘇らせたようなこの解釈は、興味深いことは事実だけれども、しかし、聴いていて些か疲れる。

 これは、とにかく荒っぽい演奏ではあったが、後半に演奏されたブルックナーの「6番」も、馬力は充分ながら、何かしら殺風景な演奏だった。第1楽章の最初の頃で、ホルンの1番が吹く挿入句がえらく素っ気なく、機械的なものに聞こえたことも、その第一の要因である。また弦の音色が、いつもの読響のしっとりした色合いとは全く異なり、甚だ荒っぽいものになっていたことも影響しているだろう。
 カンブルランのブルックナーは、これまで「3番」にしろ「4番」にしろ「7番」にしろ、どちらかと言えば透明感を備えた、洗練された表現だったのに━━「3番」だけはかなりダイナミックだったか━━今回は、曲想のせいであるにしても、人が変わったような演奏になっていた。

 だが、ヴィトマンがみずから見事なソロを吹いた協奏曲は、別の意味で面白い。
 カンブルランとヴィトマンは親交があるのか、10年前にも、彼が新日本フィルに客演した際、ヴィトマンの「アルモニカ」という洒落た作品を演奏したことがある。
 今回のこの協奏曲「エコー=フラグメンテ」もカンブルランが2006年に初演したとのこと。

 オーケストラは、下手側に配置されたモダン(443Hz)グループと、上手側に配置されたバロック(430Hz)グループとに分かれ、中央やや上手よりに立つソロ・クラリネットは、音楽的な意味で「二つのオーケストラの間を自由に行き来する」(柴辻純子さんの解説による)という曲だ。2群のオケの各ピッチの違いが、それぞれのチューニングの際に明確に示されていたのは便利なことだった。
 もっとも、この2群のオケが同時に鳴り響いて特殊な音響をつくり出すという瞬間はあまり多くない。そして、聴いている側では、このピッチの違いはむしろ音程の違いのようなイメージで受け取られたのではないか。

 ヴィトマンは、特殊な奏法をも交えて超絶技巧的なクラリネットのソロを繰り広げ、めっぽうクラリネットの上手い作曲家だねえ━━とばかり、客席を沸かせた。彼はもともと、指揮者、奏者、作曲家として活躍する才人である。

2018・1・13(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       すみだトリフォニーホール  2時

 10時40分から12時10分まで、毎年1月土曜日恒例の早稲田大学オープン・カレッジのオペラ講座(今日が今年の第1回、テーマは「ローエングリン」)を喋った後、すみだトリフォニーホールへクルマを飛ばす。ホール近くの回転寿司で3皿ばかりつまんでからコンサートを聴く、というスケジュールには手頃だ。

 今日の上岡&新日本フィルの演奏会は、定期公演だが、プログラムは、ヨハン・シュトラウス一家のワルツやポルカなど10曲を並べ、その前後にラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」と「ラ・ヴァルス」をそれぞれ置く、という、一風変わった構成を採った。
 しかもこの「ワルツ、ポルカ&行進曲」集には、「狩のポルカ」や「加速度円舞曲」などといった作品は含むものの、大半は日本ではあまり演奏されない曲目━━「踊るミューズ」「東方のおとぎ話」「《パーズマーン》からのチャルダーシュ」「ロシアの行進曲風幻想曲」「女性賛美」「北海の絵」などといったもの━━で固めている。これまたユニークな企画で、面白い。コンサートマスターは崔文洙。

 演奏の内容は、いろいろな意味で予想通り、いや、予想を上回った、と言っていいかもしれない。
 所謂「上岡ぶし」は、当然ラヴェルの2作の方で発揮された。敢えて言えば、「高雅で感傷的なワルツ」における6つの部分をそれぞれ切り離し、別々の曲のような形で演奏するやり方は、この作品全体の美しい流れを完全に損なう結果となるので、大いに異論のあるところではあったが・・・・。

 だが、今日の演奏の中で、最も驚かされ、舌を巻いたのは、アンコールとして演奏された「こうもり」序曲である。これは、凝ったテンポと、変幻自在のニュアンスを備えた、如何にも上岡敏之らしい音楽の構築だったが、見事だったのは、その精緻なニュアンスを完璧にこなした新日本フィルの柔軟な演奏であった。このコンビの共同作業も、とにかくついにここまでに達したのか、という嬉しい感慨━━。

 終って、赤坂のサントリーホールへ移動。今日は、このコースを採る人も結構いたようだ。

2018・1・10(水)大野和士指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  7時

 1月の都響の定期は、いずれも音楽監督・大野和士の指揮だ。それぞれドイツとフランスの20世紀作品を並べ、いかにもこのコンビらしい、意欲的なプログラムを組んでいる。
 今日はその最初のもので、前半にR・シュトラウスの組曲「町人貴族」(9曲)と、後半にツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」。コンサートマスターは矢部達哉。

 小編成の管弦楽をユニークな形に配置しての「町人貴族」での演奏は、羽毛のような柔らかさをも感じさせて、美しい。管楽器群のソロも佳く、日本のオーケストラとして可能な限り詩的な香気を追求した演奏だったと言ってよかろう。

 一方、「人魚姫」は、つい3ヶ月ほど前にも上岡敏之と新日本フィルによる演奏で聴いたばかりであり、その前年には寺岡清高と大阪響の演奏で聴く機会もあった。こういう作品の場合、指揮者とオーケストラは腕に縒りをかけて取り組むので、聴き応えのある「人魚姫」になることが多い。
 今日の大野と都響も同様、新しく出版された改訂版を使用し、気魄に富んだ豊麗かつ濃密で、適度な官能性も漂わせた「人魚姫」を聴かせてくれたのであった。欲を言えば、この作品の精緻に交錯する各声部の動きに、今一つの明晰さがあれば、という気もしたが━━。

2018・1・9(火)福井敬×アントネッロ スペシャル・リサイタル

       Hakuju Hall  2時

 テノールの福井敬が、今回は古楽アンサンブルのアントネッロ(濱田芳通、石川かおり、西山まりえ)と組んで、イタリア・バロックの歌曲を中心とした演奏会を開いた。

 プログラムは、ルイジ・ロッシ、フレスコバルディ、メールラ、カッチーニ、カレスターニ、カステッロ、モンテヴェルディ、ガストルディ・・・・などといった作曲家の作品である。
 すでにCDがリリースされているとはいえ、ナマではまず滅多に聴けないような雰囲気の演奏といえるかもしれない。

 もちろん、アントネッロにとっては、この種のレパートリーは、もう自家薬籠中のもののはず。相変わらず見事な演奏であったことは言うまでもない。
 だが、ドラマティック・テノールを売り物にする福井敬が、これらの作品を、あの独特の強靭で張りのある、しかも豊麗な声で歌うとなると━━音楽が全く異なった性格を帯びて来るのが面白い。それは、こういった歌曲でよく聞かれる優男(ヤサオトコ)的な歌い方とは正反対のものであり、骨太で豪快だ。
 まあ、曲によっては、牛刀を以って鶏を裂く、といった感もなくはなかったけれど━━非常に新鮮であった。

 これは75分構成のプログラム。昼夜2回の公演だった。

2018・1・8(月)東京音楽コンクール優勝者コンサート

      東京文化会館大ホール  3時

 昨年8月に行なわれた「第15回 東京音楽コンクール」の優勝者4人が登場する演奏会を聴く。あの大ホールの2300の客席がぎっしり埋まり、補助席まで並ぶという、凄まじい盛況だ。

 出演したのは、木管部門第1位をわけ合ったクラリネット奏者の2人━━ヘルバシオ・タラゴナ・ヴァリ(ウルグアイ出身)とアレッサンドロ・ベヴェラリ(イタリア出身、東京フィル首席)、ヴァイオリンの荒井里桜、ピアノのノ・ヒソン(韓国出身)。協演が円光寺雅彦指揮の新日本フィル。

 プログラムは全てコンチェルトだったが、今日はどういうわけか、指揮者とオーケストラの演奏に活気も熱気も躍動も感じられないので、ソリスト4人の演奏までが何かおとなしく地味に聞こえてしまった・・・・と思ったのは私だけだろうか。
 幕開きにヘルバシオ・タラゴナ・ヴァリが吹いたウェーバーの「クラリネット協奏曲第2番」など、オケの提示部があんなに鈍重なリズムで開始されなかったら、もっと闊達に全体が演奏されて行っただろうし、最後にノ・ヒソンが弾いたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」にしても同じである。
 アレッサンドロ・ベヴェラリが吹いたコープランドのジャズの雰囲気に満ちた「クラリネット協奏曲」も、オケがもっとスイングしていたら、本人の熱演もさらに生きたのではないか。

 1999年生れの芸大1年生という荒井里桜はメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」を弾いたが、いかにもきっちりと正確に端整に、しかも美しい音で全曲を歌い上げた。それはオーケストラのおとなしさを過度に露呈させずに済ませたようだが、若いのだから、あまり優等生的な礼儀正しい演奏に留まって欲しくないなとも思う・・・・。
 朝岡聡の要を得てリズム感のある、しかもあまり出しゃばらぬ司会とインタヴューは好ましかった。5時半過ぎ終演。

 なおこのおなじみの東京文化会館大ホール、年明け早々とあってか、いつもの開演のチャイムが、飛び上がるほどの大音響に設定されていたのには辟易させられた。

2018・1・7(日)びわ湖ホール「ワルキューレ入門講座」

      こらぼしが21  2時30分

 コンサートではないけれども、それに関連した仕事始めということで━━。

 びわ湖ホールのプロデュースオペラ、新制作によるワーグナーの「ニーベルングの指環」(3月)が、今年は2年目、「ワルキューレ」に入る。
 このホールでは毎年、上演に先立って関連講座を盛んに開催し、観客への便宜を図っているという念の入れようだ。つまり2月には3回の高度な専門講座を3人の「ワーグナー研究の第一人者である講師を迎えて」(第一人者が3人?!)開催、それに先立って番外の(!)私が、12月~1月に計2回の「入門講座」を受け持つという仕組みである。

 ちなみに、2月の「ワーグナー・ゼミナール上級編」を担当なさるのは、今年は藤野一夫さん、伊東史明さん、岡田安樹浩さんという顔ぶれ。若手のホープ岡田安樹浩さんは、昨年まで常連だった三宅幸夫さんの逝去に伴い、参加されることになる。まず万全の講師陣であろう。
 そのうえ今年は、昨日の午前中に「プレトーク・マチネ」として、沼尻竜典氏、岡田暁生氏、藤野一夫氏が、ナマ演奏を含めて話すという催しが、びわ湖ホールの中ホールで開かれたとのこと。

 上演に先立ってこれほど事前講座を大がかりに開催する劇場は、わが国では他に例を見ないかもしれない。そういうことも関係してか、今年は3月3日と4日の2回の上演とも既に完売の由。今朝10時からのわずかな数の追加発売も、あっという間に売り切れた、と事務局スタッフが語っていた。

 さて、今日の私の講座への参加者は、3階の大会議室をほぼ満杯にして、およそ130人だった由。何年か前にコルンゴルトの「死の都」入門講座をやった際にも、大雪の日にもかかわらず100人近くの受講者が来られたのに肝をつぶしたことがある。こちらの地域の方々の熱心さには、驚かされる。
 私のオペラ講座は映像を50カットくらい使用するので、事前の準備にはおそろしく手間がかかるのだが、今日のように、たくさんの方に熱心に聴いていただけると、風邪の残滓も吹き飛んでしまう。

 お見舞いのコメント、メールなどを頂戴し、本当にありがとうございました。おかげさまで何とか復調できたようです。皆様も風邪にはお気をつけください。

2017・12・26(火)痛恨! 大野和士指揮の「第9」を聴き逃すこと

 
 その大野和士と東京都響の「第9」を聴き逃したのは、痛恨の一事。

 インフルエンザなど、私はこの数十年来、罹った覚えがないのに、なぜか今年はやられてしまった。24日(日)夜に発熱、25日朝には39度に達したのだが、しかし、すぐに病院に行ったのがよかった。医者がくれた解熱剤だか抗ウィルス剤だかを服用したら、10分も経たぬうちに熱が下がってしまった。最近のクスリは実に凄いものである。
 というわけで、もうとっくに平熱なのだが、咳が未だ止まらないし、だいいちインフルとあっては、演奏会場に顔を出すなど、もってのほか。かくして今日聴きに行く予定だった大野=都響の「第9」は、電話で欠席連絡をして諦めた次第である。噂に聞くと、昨日も一昨日も、素晴らしい演奏だったそうだ。惜しいことをした。

 結局これで、今年はおしまい。新年は1月の多分第2週から。良いお年を。

2017・12・21(木)「オペラ夏の祭典2019-20」 発表記者会見

       ホテルオークラ東京  1時30分

 面白そうなプロジェクトが発表された。発案者は大野和士。

 2020年のオリンピックとパラリンピック開催に合わせ、新国立劇場(大野和士が次期オペラ部門芸術監督)と東京文化会館が共同制作し、大野自身の指揮で、2019年7月~8月にプッチーニの「トゥーランドット」を、2020年6月にワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を両ホールで上演するという企画である。
 そもそも「国」と「都」とが共同で文化事業を行なうというケースは今回が初めての由。これも興味深い。

 その上、「トゥーランドット」は、びわ湖ホールと札幌文化芸術劇場が上演に参加、新国立劇場合唱団と藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブル、バルセロナ交響楽団(大野和士が音楽監督)が出演。
 一方「マイスタージンガー」は、東京文化会館と新国立劇場の他に兵庫県立芸術文化センターも7月に上演に参加することが予定され、新国立劇場合唱団と二期会合唱団、東京都交響楽団(大野が音楽監督)が出演する、ということが発表されている。

 歌手陣は、国際的に音楽祭の盛んな夏の時期にもかかわらず、イレーネ・テオリン(トゥーランドット)、サイモン・オニール(カラフ)、トーマス・ヨハネス・マイヤー(ザックス)、アドリアン・エレート(ベックメッサー)らが来日するということだし、日本勢も中村恵理、砂川涼子、妻屋秀和、青山貴、林正子らが登場するとのことだから、いいプロダクションになりそうだ。

 ともあれ、中心は、「国」と「都」の双方の文化組織に重要なポストを持つに至った、大野和士である。彼がシェフを務める新国立劇場、東京都交響楽団、バルセロナ交響楽団をすべてプロジェクトに参加させるということからみても、いよいよ「あの大野和士」が新しいことをいろいろやり始めた、という雰囲気が伝わって来る。
 私は、20年以上も前のことだが、新しく出来る東京国立歌劇場(名称は新国立劇場となったが)を芸術面で担うべき中心的人物として、「まず海外の歌劇場で実践を積んだ若杉弘、そしておそらく20年ほど未来に大野和士」の名を挙げ、それを「グランドオペラ」だったか「音楽の友」だったかに書いた記憶がある。若杉氏は志半ばで世を去ってしまったが、今、大野氏が日本のオペラ界に果たすべき役割は限りないものがある。彼の活動を、期待を込めて見守りたいと思う。

 ただ、━━今日の記者会見で、壇上に並んだ東京都や新国立劇場など、上演関係団体の代表たちの表情と挨拶は、何だかおそろしく堅苦しくしかつめらしいもので(びわ湖ホールの山中隆館長だけは少し柔らかかったが)、フリートークで闊達に話す大野和士と極端な対照を見せていた。
 過去の例から私が気になるのは、意気に燃える音楽家と、こうした表情に象徴される団体の堅苦しい組織・姿勢とのギャップである。これからの現実の活動面において、これらがうまく調和して行くよう、心から願うのみである。

2017・12・19(火)小林沙羅ソプラノ・リサイタル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 人気のソプラノ、小林沙羅のリサイタル。協演が鈴木優人(ピアノ)と川久保賜紀(ヴァイオリン)。
 これは、「東京オペラシティ リサイタル シリーズ」の「B→C(バッハからコンテンポラリーへ)」の第197回にあたるものだ。

 さすがにこのシリーズに相応しく、プログラムには、バッハの「カンタータ第36番」からの1曲をはじめとして、モーツァルト、ベートーヴェン、マルクス、プフィッツナー、ライター、シェーンベルク、さらに山田耕筰、池辺晋一郎、藤倉大、中村裕美といった日本の作曲家たちまで、実に幅広い作曲家の作品が含まれている。
 彼女が委嘱した曲もあり、また自ら作詞した曲もある。特に藤倉大作曲の「きいて」と「夜明けのパッサカリア」は彼女の委嘱作品で、今回が初演という。
 また、アンコール曲の最後に歌った歌曲「えがおの花」も、彼女自身の作詞・作曲によるものの由。

 その上、プログラム冊子に掲載されている外国の歌曲の訳もすべて彼女自身による。多才なひとである。衣装も凝りに凝って、あれこれ変えてやってみた、とエンディングのトークで語っていたけれども、私は情けないことに女性の衣装に関しては全くのオンチなので、「はあ、そうでしたね」と思った程度で、申し訳ない。

 正味90分、沙羅さんは、美しく清純な、輝きのある声で歌い通した。
 とりわけ冒頭で、無伴奏で歌った前述の「きいて」という短い歌では、「聴いて/聴いて・・・・」とさまざまなタイプの声を駆使して繰り返す歌唱が、まるで複雑なディレイのエコーをかけたような効果を出していて、よくあんな面白い歌い方ができるものだと舌を巻かされたものである。
 かような明晰極まる日本語の発音が、山田耕筰の音程の跳躍の激しい旋律線を持った作品でも保たれていたなら、さらによかったろう、とは思ったが・・・・。しかし、とにかく気持のいいコンサートだった。

2017・12・16(土)いずみホール・オペラ ドニゼッティ:「愛の妙薬」

      いずみホール(大阪) 2時

 今日は、日帰りで大阪。

 いずみホール得意のセミ・ステージ形式上演オペラ。これまで多数の上演を重ねて来ているが、2011年から河原忠之のプロデュースと指揮で進められて来たシリーズは、この「愛の妙薬」を以って一つの区切りとするとのこと。
 今回は、その河原忠之が指揮するザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団と同合唱団、石橋栄美(アディーナ)、中井亮一(ネモリーノ)、黒田博(ベルコーレ)、久保田真澄(ドゥルカマーラ)、田邊織恵(ジャンネッタ)の出演。演出が粟國淳。

 オーケストラは最初のうちリズムが重く、活気にも少々乏しい傾向があったが、場を追うに従い、ノリもよくなり、第2幕では見違えるほどの明るさを出した。全体として、ドニゼッティの音楽の愉しさを堪能させたことは確かである。

 粟國の演出は、ストーリーを現代のオフィスに置き換えていたが、オルガン下のスペースを巧みに活用し、狭さを全く感じさせない演技空間としてつくり上げたのは、さすがというほかはない。
 大道具などもあまり無いにもかかわらず、オペラハウスで要領の悪い演出を見るよりも遥かにまとまりのいい、凝縮した、陽気で温かいステージが創られていた。これは、彼がこのホールの特性を完璧に手中に収めていたことの証しであろう(演出助手は唐谷裕子)。照明プラン(原中治美)もなかなかいい。

 そして、歌手陣はみんな、歌も演技も上手いこと。
 石橋はこのアディーナ役は初めてというのは意外だったが、いつもの伸びと力のある声で熱演していた。発声にいっそうの緻密さが加わればさらに素晴らしくなるだろう。第1幕でのパンツ・ルックは、実に生き生きして魅力的だった。

 また、中井はこの気の弱いネモリーノを歌い演じて完璧であり、黒田も押しの強い軍曹ベルコーレを「横柄でなく、少しお人好し気味に」歌い演じて見事。久保田もドゥルカマーラを「いかにも信用されそうな風格のインチキ薬売り」らしく堂々と歌い演じた。田邊のジャンネッタ役は大収穫で、ふつうの演出ではさっぱり目立たぬこの役が、今回ほど生き生きした「オフィスの女性」に見えたことはない。
 その他にも見事だったのはザ・カレッジ・オペラハウスの合唱団、特にその女性団員たち(6人)だ。少人数だけに、特に第1幕のオフィスの場面では、その闊達な演技と歌唱が鮮やかに印象づけられた。

 字幕の制作と操作は藤野明子。この文章は明るく、しかも読みやすく、秀逸。物語の内容と舞台の雰囲気にぴったり合った訳文とは、こういうものを謂うのである。

 「いずみホール・オペラ」のこのシリーズは、次の3年ほどはバロック・オペラに取り組むそうである。

2017・12・14(木)田中信昭指揮東京混声合唱団定期演奏会

      東京文化会館小ホール  7時

 朝8時半のANA052で帰京。今回はホテルを札幌駅北口のすぐ前に取っていたため、空港行きの「エアポート」に乗るのは楽だったが、それでも昨日のオペラでの9時間ほぼ立ち通し(現場が好きだからとイキがったのがいけない)と、2日続けての早起きとは、このトシでは意外に負担が大きかったことがやっと判明。
 昼間はあれこれの仕事で昼寝もできず、結局そのまま、文化庁・芸術文化振興基金助成事後調査の仕事として、東京混声合唱団の演奏会を聴きに行く。

 だが、疲れたなどと泣き言を言っているわけには行かない。「東混」の創立者にして元常任指揮者、元音楽監督、現桂冠指揮者の田中信昭さんは、確か来月1日で90歳になるはずなのに、びっくりするほど元気だ。エネルギッシュに新作を次々に指揮するだけでなく、カーテンコールでも壮者を凌ぐ素早い動作で飛び回る。その元気さには、ただもう、驚嘆するのみである。
 今日、彼が指揮したのは、プーランクの「クリスマスのための四つのモテット」、高橋悠治の「鳥籠」(2011年)と「林光に」(2012年)、篠田昌伸の「言語ジャック」(2017年)。

 「言語ジャック」は、たとえば1曲目では、「新幹線の車内案内」の言葉/歌詞と、それをもじった同じ量の歌詞とを組み合わせ、同時に響かせるなどして、言葉による音のコラージュ(?)を展開した、7曲からなる合唱作品。ここではピアノ(中嶋香)も加わる。
 すこぶる凝った面白い曲想だが、ただしこの微細なサウンドが7曲続くと、耳と感覚に少々負担を生じさせなくもないが・・・・。
 会場はほぼ満員。

2017・12・13(水)オペラファクトリー北海道 旗揚げ公演

     円山カンタービレ(札幌)  3時、5時、7時

 羽田発9時のANA055便で札幌へ向かう。
 氷点下何度だとか、吹雪だとか、市内の道路はスケートリンク状態だとか、さんざん脅かされ、期待して(?)向かったのだが、いざ着いてみれば、新千歳も快晴、札幌市内も晴、道路もそれほど凍ってはおらず。昼頃の市内はマイナス2度とかで、凛冽たる寒さだが、空気は気持がいい。

 会場の「円山カンタービレ」は、札幌市内の南1条西19丁目にあるクラシック音楽のバー。20数名の客席だが、ミニ・リサイタルもしばしば開催しているという。
 今日はここで「カルメン」の抜粋が演奏された。出演は、大平まゆみ(札響コンサートマスター)、荒木均(同チェロ)、伊藤千尋(ピアノ)、岡崎正治(ドン・ホセ、北海道二期会)、中原聡章(エスカミッロ)、松田久美(カルメン、札幌室内歌劇場)、亀谷泰子(ミカエラ、LCアルモニカ)。

 岡崎さんと中原さんが、短い繋ぎのセリフを入れるなどして総計40分の長さのミニ・オペラに構成。オケ・パートの三重奏への編曲と日本語訳詞は岡崎さんが担当している。
 岡崎さんは、2015年1月に北海道二期会公演のセミステージ形式上演「アイーダ」で堂々たるラダメスを歌っていたのを聴いたことがあるが、こういうことまでやるとは、大変な多芸多才だ。もっとも、荒木さんにしても行政書士と居合道の人だというから、音楽家は凄いものである。

 とにかく全員が入魂の大熱演。歌手のフル・ヴォイスで、小さなバーも家鳴り震動、壁に懸けてあるグラスがチリチリと鳴る勢い(誇張ではなく、リハーサルの時には本当にそうだったと、店のマスターの浜谷洋さんが言っていた)で、3回公演とも満席のお客さんたちを喜ばせていた。

 たとえ室内楽編曲による抄演であっても、オペラに馴染みのない人にその楽しさを知ってもらうという意味でも、これは有意義な試みである。しかし、この「オペラファクトリー北海道」の立ち上げの目的は、それだけではない。来年秋に杮落しとなる札幌文化芸術劇場(愛称hitaru)が、北海道のオペラ団体やグループの活発な活動の場となることをアピールする目的も含まれているという。

 私のように外部から見ていても、たしかにこの新しく建てられる劇場が負うべき、北海道の音楽文化に於ける責任は、極めて大きなものがあると思える。道外から演奏者を招聘してオペラを上演するのも結構だが、それとは別に、地元のオペラを積極的に支援し、育成する使命を負う必要があるだろう。いっぽう地元のオペラ団体も━━「ひろしまオペラルネッサンス」のように━━各団体が結集して優れたオペラ上演を実現すべく、協力すべきではなかろうか。
 いずれにせよ、地元のオペラが育たなければ、北海道オペラ界は、単に植民地に留まってしまう。

 ━━そういう将来の目的を掲げ、既存のオペラ団体の枠を超えて歌手が協演した今回の「カルメン」。小さな一歩だが、応援したいものである。

2017・12・12(火)コルネリウス・マイスター指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 読響の首席客演指揮者に今秋就任したばかりのコルネリウス・マイスターの指揮で、マーラーの「交響曲第3番」。
 協演は藤村実穂子(Ms)、新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年合唱団、フレーベル少年合唱団。合唱指揮は三澤洋史、コンサートマスターは長原幸太。

 カンブルランが常任指揮者を務める読響に首席客演指揮者として登場したマイスターは、シュトゥットガルト州立歌劇場では、カンブルランのあとを襲って来年から音楽総監督に就任する。不思議な縁である。
 1980年ハノーファー生れというからまだ若い。読響とじっくり呼吸のあった演奏ができるまでには、未だもう少し時間が必要かもしれない。

 マイスターの指揮は、どちらかといえば軽量の、すっきりした音による健康的なマーラー、といったタイプか。特に第6楽章での弦楽合奏の歌など、マーラーの清澄な叙情という趣を出して、美しかった。

 しかし、より見事だったのは、やはり藤村実穂子の歌唱だ。今日は立ち位置が指揮者の真正面の至近距離(つまり指揮者の譜面台のすぐ奥)という、一風変わった場所だったが、いったん彼女が歌い始めるや、指揮者とオケの存在をすら忘れさせるほどの強烈な力を放射するのだから凄い。

 今日の読響は、アインザッツが━━というよりも、いわゆる「出」が合わないことが時々あったのは、珍しいことだ。最後のクライマックスへ盛り上がるその最初の聴かせどころであるトランペットとトロンボーンの「出」の4分音符がずれる、などというのは、どう見ても締まらないケース。
 他にもヒヤリとさせられたところがあったのだが、それは措くとして、もしこういうのが指揮者の棒の所為だったのなら、藤村さんが妙に指揮者の目の前に近づいた位置で歌っていたということも、それに関係があるのか、ないのか。
 まあ、とにかく、今後のマイスターと読響の共同作業を見守ることにしよう。

2017・12・10(日)ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団

      サントリーホール  6時 (後半のみ)

 川崎の「ドン・ジョヴァンニ」の演奏が終ったのが6時少し過ぎ。
 いつもなら最後まで拍手を続けるところだが、今日はカーテンコール1回分だけで失礼して、6時18分の東海道線に飛び乗って新橋まで行き、タクシーで赤坂溜池へ駆けつけ、6時50分にサントリーホールに着く。

 ワレリー・ゲルギエフ得意の超重量コンサート「ラフマニノフ特集」の「夜の部」は、「ピアノ協奏曲」の第3&第4番と「交響的舞曲」なので、どうせ7時に着いても「4番」のさなかだろうし、最後の「交響的舞曲」だけでも聴ければいいと思っていた。
 ところがホールの前まで行くと、どっと人が出て来る。たった今「3番」が終り、休憩時間になったところだという。最初にセレモニーがあったそうで、ゲルギエフのスピーチなどがあり、時間が押していたのだそうだ。

 おかげで、デニス・マツーエフがソロを弾く「4番」も、まるまる聴くことができた。
 「ピアノをぶっ壊しそうな」いつもの彼の勢いは、曲想の関係もあってあまり発揮されていなかったが、それでもゲルギエフの巧みな、色彩的なサポートのせいもあって、この曲をこんなに面白く聴いたのは初めてだと言ってもいいくらいの演奏が聴けた。

 アンコールにはラフマニノフの「音の絵」の「作品39の2」が演奏されたが、ゲルギエフがステージ下手の高い山台の傍に立ったままじっと耳を傾けていたのは、いつもの通り。ただ、この時のゲルギエフの姿が、何かやはり年とったな・・・・という感じに見えたのが、ちょっと気になったけれども。
 まあ今日は、午後にマチネーが一つあり、そこではラフマニノフの第1番と第2番のピアノ協奏曲および長大な「第2交響曲」を指揮していたはずだから、鉄人ゲルギエフと雖も疲れていたのかもしれない━━終演後に楽屋を訪ねた時には、いつになく消耗しているように見えたし。

 プログラムの最後は、「交響的舞曲」。決して威圧的にはならないけれど、豪壮で豪華な雰囲気をもった演奏である。パレフのデザインとも共通するような、ロシアの色彩感に満たされた演奏がゲルギエフらしい。第1楽章での、最強奏のあとに潮が引いて行くようなデクレッシェンドを聴かせる個所は私の好きなところだが、マリインスキー劇場管もこういうくだりを実に楽々と演奏しているのだった。
 アンコールは何と、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」からの「スケルツォ」。

 例の如く、ゲルギエフの演奏会の所要時間は長い。このあと、サイン会が行われるとかで、その行列はホールの袖の入口からメイン・ロビーまで、ぎっしりと続いていた。終りは何時になったやら。

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